クセイ掌編集

目 次

―― 山下和美の「天才」
 
―― 蒼きハートのロックンロール
   
―― 無知であってはならない
    
―― 国民は守られない
      
―― これはホラーではなく
       
―― 真の敵を見さだめる勇気
        ―― 「見たくない現実」との対決

 

 

 

★  山下和美の「天才」

 ひさしぶりにマンガ専門店に足を踏み入れたところ、山下和美の新刊『不思議な少年』第2巻(講談社)をみつけた。山下和美の代表作『天才柳沢教授の生活』の主人公 柳沢良則は、私が「もう一人の心の師」と仰ぐ人物で、当然のことながら、その生みの親 山下和美の著作は、私にとってはすべて必読書なのである。ところが、日頃マンガに縁遠い生活をしているため、『不思議な少年』については、この第2巻を目にするまで、その存在を全く知らなかった。
  その日、その書店では同書の第1巻を手に入れられなかったのだが、どうやらこの連作中編シリーズは「時空を旅する不思議な少年が、その行く先々で出会う、様々な人生模様を描いたもの」のようであり、第2巻から読んでも差し支えはなさそうだったので、さっそく一読したところ、……やはり、これは『天才柳沢教授の生活』に通 ずるところのある、たいへん素晴らしい作品集だった。そして本日、他のマンガ専門店2軒目にして『不思議な少年』第1巻を入手。また、これも刊行を知らなかった『山下和美【短編集】』(講談社)も併せて入手することができた。

 『天才柳沢教授の生活』に代表される山下作品の魅力とは何か。おそらくそれは、「あらゆる人生にたいする肯定の意志」であろう。
  『不思議な少年』第2巻の巻末には、『天才柳沢教授の生活』の次のような広告が載っている。 自宅の縁側で妻に散髪をしてもらっている柳沢教授。いつも冷静な堅物の教授に対し、おちょこちょいだが大らかな温かさをもつ彼の妻。その奥さんが危なっかしい手つきで、教授の髪をハサミで摘んでいるという絵柄に『人生も散髪も 最も大切なことは 人を信 じることなのです。』という教授の言葉が添えられているのである(笑)。

 私は「大衆は嫌いだ」と明言して憚らないような人間で、決して「あらゆる人生」に対して「肯定的」だなどとは口が裂けても言えない立場である。いや、むしろハッキリと、かなりの部分について「否定的」だと言うべきだと思う。では、なぜそんな私が、ある意味では「甘い」人生観人間観に貫かれた山下作品に惹かれるのだろうか。たぶんそれは、人生や人間というものを、意識的に「肯定」したり「否定」したりする人間というのは、本質的には「人間が好き(で、それへの執着を捨て切れない)」という点で、たいへん近い存在、表裏一体の存在だからなのであろう。だから『不思議な少年』の主人公である、不死の少年は、出会う人間たちに、いつも少し皮肉っぽく「人間というのは……」と語りかけます。たとえば『不思議な少年』第6話「タマラとドミトリ」(第2巻所収)では、少女タマラが語る『私たちララ族の諺にあるの。人は暗闇の中では光を求め、光の中では暗闇をさがし回ると。だから私は、ここを出ていきたいのよ』という言葉が紹介され、その十年後のタマラに少年は冷然とこう言い放つ……『君は光の中にいるときに、暗闇しかさがさない人間だからね』。この何とも辛辣な批評は、しかし、じつは彼女が自身では気づかない「幸福の光」に包まれているという事実の指摘なのでもあろう。つまりここで語られているのは「あらゆる人生には、肯定的な要素がある」ということである。自身が気がつかないだけで、傍目にはそれが明らかだといった場合もあろうし、逆に傍目には不幸極まりないと映る人生でも、当人はそこに幸せを見い出しているといった場合もあろう。また、さらに言うと、自他共に認める不幸な人生の中にも、きっと気づかれていない喜びの芽が潜んでいるはずだ、それを信じよう……というのが、山下和美の人生哲学であり『最も大切なことは 人を信じること』という信念の意味なのであろう。

 そう思って山下作品を読み返してみると、一般 的に言うところの「報われない人生」の意味を描いた『不思議な少年』だけではなく、積極的な人生讃歌である『天才柳沢教授の生活』でさえ、そこで扱われる人生の多くは、敗者、外れ者、拗ね者、嫌われ者のそれであったりするのがわかる。つまり、山下は決して「人は誰でも成功者としての幸福をつかめる」というようなことを言っているのではないのだ。「どんな人生であれ、そこには必ず幸せ(生の肯定性)の芽が潜んでいる。だから、すべての人間についてそれを信じていこう。それを信じることによってのみ、その可能性は開けるのだから」……山下の人生哲学とは、このようなものなのではないだろうか。

 そして「絶望」や「失望」を語りながら、それでも批判することを止めようとしない私のような人間は、いつも少し皮肉っぽく「人間というのは……」と言いながらも人間の生から目を離すことの出来ない、かの『不思議な少年』と、きっと同類なのであろう(笑)。

 傑作揃いの『不思議な少年』既刊2巻(全7話)の中から、あえて私のお薦めを紹介しておくと、第1話「万作と猶治郎」、第3話「狐目の寅吉」(以上第1巻所収)、第4話「鉄雄」、第5話「ソクラテス」。また、未読の『山下和美【短編集】』からは、雑誌掲載時に感銘を受け、今も切り抜きを所蔵している「ROCKS」を、強くお薦めしたいと思う。


執筆・2002年7月24日
改稿・2002年7月25日

初出・BBS「アレクセイの花園 」(2002年7月24日)

 


 

 

★  蒼きハートのロックンロール ―― ザ・ブルーハーツ

 

   『イメージ』

                 作詞・作曲 真島昌利
                 歌と演奏 THE BLUE HEARTS


    お金があるときゃ そりゃあ酒でもおごってやるよ
    お金が無けりゃあ イヤな事でもやらなきゃならねぇ
    くだらねえ仕事でも仕事は仕事
    働く場所があるだけラッキーだろう

    どっかの坊ずが 親のスネをかじりながら
    どっかの坊ずが 原発はいらねぇってよ
    どうやらそれが新しいハヤリなんだな
    明日はいったい何がハヤるんだろう

    イメージ イメージ イメージが大切だ
    中身が無くてもイメージがあればいいよ

    針が棒になり 隣の芝生今日も青い
    ミエをはらなけりゃ 何だかちょっとカッコ悪いな
    カッコ良く生きていくのはどんな気がする
    カッコ良く人の頭を踏みつけながら

    金属バットが 真夜中にうなりをあげる
    治療法もない 新しい痛みがはしる
    クダらねぇインチキばかりがあふれてやがる
    ボタンを押してやるから吹っ飛んじまえ


 言うまでもなくこの曲は、ザ・ブルーハーツの自己批判の歌である。

 『青空』で「生まれた所や皮膚や目の色で、いったいこの僕の何がわかるのだろう」と歌い、『ブルーハーツより愛をこめて』では「見捨てられた裏通 りから世界中にむけて、大切なメッセージが届くのを、君たちは見るだろう。鉄砲も兵隊も、政治家さえもいらないよ。君たちが望むのは、自由だけでいいよ」と歌いながら、『終らない歌』の歌詞カードには「キチガイ」という言葉ひとつまともに表記することさえ出来ない、無力な流行歌手でしかない彼らの、それは自虐的でもあれば、アリバイ工作ともとれなくはない、ひとつの「本音」である。

 しかし、たとえそれが事実だとしても、それでも彼らはこう歌う。


   『泣かないで恋人よ』

                 作詞・作曲 真島昌利
                 歌と演奏 THE BLUE HEARTS


    遅すぎる事なんて 本当は
    一つもありはしないのだ
    何するにせよ 思った時が
    きっとふさわしい時

    チッポケなウソをついた夜には
    自分がとてもチッポケな奴
    ドデカイ ウソをつきとおすなら
    それは本当になる

    泣かないで 恋人よ
    何もかも うまくいく
    泣かないで 恋人よ
    どうにかなるようになる

    あきらめきれぬ事があるなら
    あきらめきれぬとあきらめる
    あきらめきれぬ事があるなら
    それはきっといい事だ

    泣かないで 恋人よ
    何もかも うまくいく
    泣かないで 恋人よ
    どうにかなるようになる


 「人間ってやつは、絶望的だ」「失望したよ、他人にも俺自身にも」……しかし、それでも『あきらめきれぬ 事があるなら、あきらめきれぬとあきらめる』しかない。そこから立ち上がって「希望はある」と自他に言い聞かすしかない。それはもしかすると「ウソ」かも知れない。だが、そこからしか「現実」は始まらないのだろう。
 ホランド(碧川 蘭)がBBS「アレクセイの花園 に『矢吹 駆や『神聖喜劇』の主人公 東堂太郎に惹かれるのは、「薄っぺらな理想」からではなく、「現実への深い失望」からの再出発が、そこに描かれているからではないかと思いました。(2002年7月23日付け)と紹介していたように、東堂太郎や矢吹 駆(笠井 潔『バイバイ、エンジェル』ほか)も、そこから「生き始めた」んだろう。音楽のことは詳しくはないが、「ロッカースピリット」とはそういうものなのではないだろうか。


執筆・2002年7月24日
改稿・2002年7月25日

初出・BBS「アレクセイの花園 (2002年7月24日)

 

 


 

 

★  無知であってはならない  ―― 加藤尚武『戦争倫理学』



 倫理学者 加藤尚武の『戦争倫理学』を読んで、これまでぼんやりと疑問に思っていたことのいくつかが、はっきりした。そのいくつかの疑問とは、

) ピカソの『ゲルニカ』は、第二次大戦下での「ゲルニカ村の惨劇」を描いた「反戦画」として有名な作品だが、この「ゲルニカ村の惨劇」は、どのような点で「特筆すべき」虐殺事件だったのか?  ……それが今までは判然としなかった。つまり、大戦中には多数の虐殺が行なわれたわけで、その中でも、なぜ「ゲルニカ村の惨劇」なのか、ということなのである。もちろん、ゲルニカ村がピカソの故郷だったということはあるのだろうが、ただそれだけなのか? それ以上に特筆すべき意味がなかったのか?

) 「空爆」は、なぜ国際法に反する「戦争犯罪行為」なのか?  「空爆」は、最近の「アフガン空爆」や「イラク戦争」に限らず、先の大戦時においてもいくらでも行なわれたことだというのは、「長崎・広島への原爆投下」や「東京大空襲」などを体験している日本人なら、誰でも知っていることであろう。つまり「空爆」は先の大戦においてもありふれた「戦法」として、連合軍が何度も採用したものなのだが、それが「戦争犯罪」として裁かれることはなかった。なのに、その「空爆」が、どうして今では『国際法に反する「戦争犯罪行為」』なのであろうか?

) アメリカ軍は「アフガン空爆」でも「イラク戦争」でも、その「空爆」による「民間人犠牲者の発生」については、「誤爆」ということを繰り返し主張してきた。しかし、「誤り(過失)」も繰り返されれば「誤り(過失)」だとは言えない。すでにその「誤り」は「あらかじめ織り込み済み」のもの、つまり「空爆」は「民間人犠牲者の発生」することを「承知の上」でなされた、確信犯的な行為だとしか評価しえないのである。つまり、そこには「未必の故意」が認められ、いくら「ピンポイント攻撃」を謳ってみても、もはや「空爆」は「民間人虐殺」の故意犯行(戦争犯罪)であることは否定しえないのだ。……なのに、なぜ臆面 もなく「誤爆」を主張し続けるのだろうか?

 

 (1)について説明すると、「ゲルニカ村の惨劇」は、まだ「空爆」という「戦法」が一般 的ではなかった時期に行なわれた、最初の「無差別爆撃」、つまり「民間人をも巻き込み空爆事件」だったからである。
 戦争の歴史を繙けば、もともと戦争とは「騎士」や「傭兵」といった専門的戦闘員の間で行なわれるものであり、民間人は巻き込まないというのが、大前提であったのだ。だから、「空爆」も初期にはその攻撃目標が、敵方の「政治軍事関連施設、兵器兵員」に限定されていた。ところが、「ゲルニカ村の惨劇」では、種々の要因が重なった結果 の「誤爆」により、非「政治・軍事関連施設」たる一般村落にたいする爆撃行為となってしまい、民間人犠牲者を多数出すにいたって国際世論の厳しい指弾をうけたという、そんな「歴史的な事件」だったのである(しかし、周知のとおり、この「戦争のモラル(倫理)」は、戦争の拡大によって、なし崩し的に無効化されていく)。

 

 (2)について。正確に言うと、「空爆」そのものは「国際法違反」でも「戦争犯罪行為」でもない。問題は「民間人を巻き込むか否か」なのである。したがって「長崎・広島への原爆投下」「東京大空襲」「ベトナムでの北爆」「アフガン空爆」「イラク戦争での空爆」は、民間人の居住する「村落」「市街地」をも標的にしたという点で、明らかに「国際法違反」であり「戦争犯罪行為」なのである。

 しかし、それらが「国際法違反」であり「戦争犯罪行為」として裁かれなかったのは、

) 「空爆」を行なったのが、「戦勝国」であり、世界一強い国「アメリカ」であったから、であり、
) それなりに「言い訳(正当化)」がなされたから、である。

 (B)の「言い訳(正当化)」についてご説明すると、例えば「長崎・広島への原爆投下」「東京大空襲」「ベトナムでの北爆」などは「早期に戦争を集結させて、戦死者の増大を防ぐため」というものであった(もちろん、ここで問題とされている戦死者とは、正義の殉教者たる「アメリカ兵」のことである)。
 また「アフガン空爆」「イラク戦争での空爆」など、近年のものについては、「ピンポイント攻撃」などの技術革新により「たとえ市街地を爆撃しても、基本的には民間人を巻き込まないで済む」という「建て前」があり、「民間人犠牲者の発生」はあくまでも「偶発的なもの」であり「故意によらない誤り(過失)」だというものだったのである。

 

 (3)について。したがって、アメリカが自己の「空爆」による「民間人犠牲者の発生」について、臆面 もなく「誤爆」を主張するのは、「故意」が立証されない限り、『「国際法違反」であり「戦争犯罪行為」』として訴追できないからなのである。
 もちろん私が先に指摘したとおり、常識的に言えば『「誤り(過失)」も繰り返されれば「誤り(過失)」だとは言えない。すでにその「誤り」は「あらかじめ織り込み済み」のもの、つまり「空爆」は「民間人犠牲者の発生」することを「承知の上」でなされた、確信犯的な行為だとしか評価しえないのである。つまり、そこには「未必の故意」が認められ、いくら「ピンポイント攻撃」を謳ってみても、もはや「空爆」は「民間人虐殺」の故意犯行(戦争犯罪)であることは否定しえないのだ。』が、国際法上の問題として裁く場合、個々の事例を「誤爆(過失)」ということで積み重ねていけば、「全体としての故意」を実証的に立証することは極めて困難だと言わざるを得ない。つまり、明確な「第三者証言」や「物的証拠」が無いかぎり、当事者の「自供」無しには(状況証拠だけでは)、犯人として「一国」の行動を、公に訴追し断罪することは極めて困難なのである。 すなわち、アメリカの狙っているのは、アメリカが現在おこなっている空爆は「法的には無罪(有罪にはできない)」……これなのだ。

 このような「構図」がハッキリ見えてきたのは、最初に紹介した加藤尚武の『戦争倫理学』のおかげである。著者加藤は「まえがき」に下のごとく記しているが、私もまったく同感である。

『 戦争について意見を持ち、討論をし、合意を作り出す上で、どうしても知っておく必要のある基本的な論点(argment)を、しっかり集約して示しておきたいと思う。
 「戦争はきらいだ、自分はどんな力の行使にも反対だ」という人に対しては、「目の前であなたの友人が外国の工作員によって、誘拐されようとしているとき、あなたは実力で救い出してはならないと考えますか」と問いかけなくてはならない。「自分は戦争をやりたいと思う。略奪も強姦も虐殺もあらゆる暴力が承認された状態が戦争であって、戦時の人権侵害を禁止すべきではない。それは人間の根源的な暴力性の解放の祝祭である」とうそぶく人がいたら、「あらゆる犯罪を許容することと、どこが違うのか」と問いかけなくてはならない。そういう一見無駄 で、ばかばかしくて、白々しいような応答の訓練をし、準備しておかなくてはならない。
 どんな問題でも、特に戦争については、そういうまやかしの議論が横行している。  たとえば、「日本軍が南京で三〇万人の中国人を殺害したはずがないから、南京事件はでっちあげだ」とか、「東京裁判では戦争が終ってから一方的に裁く側でつくった法律をもとにして裁いたから、日本は無罪だ」とか、こういう問題について論争すると、どうしても感情的になってしまうが、冷静な論争の方法と習慣を作っておかないと、まやかしの議論に引きずられてしまう。
 一見簡単な問題でも本格的な議論をするには、とても長い時間が必要になる。そこで人類の歴史のなかから、戦争について考える上で必要な論点を、すべて示したつもりであるから、この本で討論の訓練をして欲しいと思う。(以下略)

 

 

執筆・2003年4月14日
改稿・2003年9月3日

初出・BBS「アレクセイの花園 (2003年4月14日)

 


 

★  国民は守られない  ―― 「武力攻撃事態対処法」

 

 昨年(2003年)成立した「有事関連三法案」の中核をなす「武力攻撃事態対処法」(正式名称:武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律)の〈第一章〉総則のなかで、この法律の「目的」を記したその第1条は、次のようなものである。

『この法律は、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ)への対処について、基本理念、国、地方公共団体の義務、国民の協力その他の基本となる事項を定めることにより、武力攻撃事態等への対処のための態勢を整備し、併せて武力攻撃事態等への対処に関して必要となる法制の整備に関する事項を定め、もって我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的とする。』

 問題は、最後の『もって我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的とする。』という部分の「順番」である。つまり、この順番は思いつきのデタラメではなく、重要と考えられる順位 がここで示されていると理解すべきなのだ。

 『この法律』つまり「武力攻撃事態対処法」が、何を重視し「何を守ろう」としたものなのか、それがここには示されている。
つまり、まず大切なのは「我が国の平和」、その次が「我が国の独立」、次いで「国の安全」の確保、そして最後が「国民の安全」の確保だ、ということなのなのだ。

 まず「我が国の平和」が大切なのはわかる。国が「平和」であれば、その「独立」が脅かされているということなどありえないし、「国の安全」や「国民の安全」 の確保ができていない状態である、などということもありえない。「国の独立」や「国の安全」「国民の安全」が確保されている状態をして、初めて「国が平和」な状態と呼ぶのだから、これは自明なことなのだ。だから問題となるのは、その後である。

 「国の平和」の次に重要視されているのは「国の独立」である。つまり「国の独立」は、「国の安全」「国民の安全」に優先するという「国家意思」が、ここに示されている。「国の独立」を守るためならば、「国民の安全」はもとよりその「命」をも犠牲に供する。すなわち「兵隊」に行ってもらう、ということなのだ。たとえ国民の半分が死ぬ ことになっても、「国の独立」だけは守り通さなければならない。「国家主権の確保」「国体の護持」が第一であり、「国民」の安全・平和とは、その上(その後)に築かれるものである、ということなのだ。つまり、ここには「国民の安全」を守るために「国の独立」を放棄する、というような発想は存在しない。すなわち「国民」を守るために「降伏」して、「国家主権」を放棄(し、「国体」を危うく)することなどありえない。まず「国」ありきなのだ、ということがここに示されているのである。

 つまり、この法律は「国民を守るために、国が何をなすのかを定めた法律」ではなく、「国を守るために、国家機関や国民のなすべきことを定めた法律」なのだ。だから、「有事法制」によって、我々が守られるのだと思ったら、それは大きな間違いなのである。この法律では、「国」は、我々を守る「制度」なのではなく、我々を「国民」として規定する「上位 概念」なのだ。だから「国」あっての「国民」だというわけなのである。

 したがって、「国」の中枢部、例えば有事に総指揮官となる「総理大臣の安全」については「国」は全力を傾けるけれども、「国の独立」に直接影響しない「国民(個々)の安全」については、それ相応のことしかしない。あくまでも「国」の行動は「国」というレベルでなされ、それ以下の存在は「国の独立」に資するものでしかないのである。すなわち「国民の安全」の確保とは、「国の独立」が磐石に保証された場合にのみ、その余力を傾ける対象でしかない、ということ。それまでは「国民」の方が「国の独立」を守るために、命を賭しての『協力』が要求される、ということなのである。

 

執筆・2004年2月12日
改稿・2004年3月10日

初出・BBS「アレクセイの花園 (2004年2月12日)

 

 

参考資料

※ 2004年3月4日、BBS「アレクセイの花園 への、ホランド(碧川 蘭)の書き込みより抜粋

  こないだご紹介しました『イラク派兵を問う』(天木直人・池田香代子・野中広務・田島泰彦 / 岩波ブックレット No.616)の中から、とても印象的なお話をひとつご紹介しておきます。

 これは、前に園主さまが『「有事関連三法案」の中核をなす「武力攻撃事態対処法」』を論じて、『「国の独立」は、「国の安全」「国民の安全」に優先するという「国家意思」が、ここに示されております。』と剔抉したみせた「国(=政府)の真意」が、とてもよく顕われているエピソードだと思います。

『 作家の司馬遼太郎先生が昔に書かれた随筆の中にこういうことが書かれてあった。戦時中、満州におって、戦車隊の少尉で、船に乗せられ、「これは南方に連れて行かれるなぁ」と思っていたら新潟に着いた。そして、赴任地は栃木県であった。ここで何をするのかと思っていたら、「米軍が上陸したら恐らく東京周辺から五百万の難民が北上してくるだろう。その時にお前たちは戦車隊でその米軍の進行を防ぐんだ」といわれた。自分は「それでは五百万の北上してくる難民に対してわれわれは、それとぶつかった時に戦車隊はどうするんですか」といったら、指揮官は、ぐっと一息いきを飲んで、「目をつぶって踏み殺して行くんだ」と。私(司馬先生)は難民たちの上に体をかぶせて、そしてひとりでも助けたいという気持ちになったという。司馬遼太郎先生の本を私は忘れることができませんけれども、有事というものはそういうものを考えることだと思う。』(野中の発言より・P42〜43)

 

 


 

 

★  これはホラーではなく  ―― 遠藤徹『姉飼』

 

 「第10回 日本ホラー大賞受賞」の表題短篇「姉飼」は、『脂祭り』という奇習の生きる、ひと昔まえの僻村で、祭りの夜に見せ物にされる、『』という異形の生き物をめぐる物語である。

『蚊吸豚による、村の繁栄を祝う脂祭りの夜。まだ小学生だった僕は、縁日ではじめて「姉」を見る。姉たちは皆、からだを串刺しにされ、伸び放題の髪と爪を振り回しながら、凶暴にうめき叫んでいた。その姿に魅了された僕は、同じクラスの美少女・芳美から、隣の家で姉を買ったらしいという話を聞かされる――。』(帯裏の紹介文)

 人間の女そっくりの外見でありながら、およそ知性のかけらもない獰猛凶暴な獣。身体の真ん中を串刺しにされ、そこから血を流しながらも数カ月のわたって生き続ける生命力。そして、最後まで由来が語られることのない、『姉』というその意味ありげな名称。……そんな異形の生き物が、かつて実在した「見せ物小屋の蛇女」のごとく当たり前に存在する、日本のどこかにある、懐かしくも忌わしい民俗共同体。そんななかで「姉」に魅入られた少年は、やがて都会に出て金をため、「姉」を飼い、そして、その身を滅ぼしていく。

 ストーリー的にはこれといった新しさはなく、目を惹くのはひたすら、選考委員の指摘した『加虐過剰』(荒俣宏)性や『不気味さ』『嫌な感じ』(林真理子)を臆面 もなく突きつける異様な設定とその描写である。しかし、では、そうした側面においてこの作品が、選考委員高橋克彦の言う『いままでとは別 の次元から送られてきた作品。この作品に漂う奇妙さはただものではない!』というほどのものかと言うと、私にはそれほどのものだとは思えなかった。
 たしかに、この作品を読んで嫌悪感をおぼえる者も少なくはなかろうが、救いのない嫌な小説というだけならば、そうしたものとして話題を呼んだジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』などの例を引くまでもなく、加虐過剰で無気味で嫌な感じをあたえる「キてる」小説というのは、けっこうあるものなのだ。しかし、では、この小説がぜんぜんどおってことのない作品なのかと言うと、またそうとばかりも言えない独特の魅力……ありそうで案外見あたらないという魅力が、この作品にはたしかに感じられるのである。では、それは何かと言うと、じつはこれも意外に――懐かしくも忌わしい「エログロ」の「倒錯的エロティシズム」の世界なのである。

 この本の装画は、「気味の悪いダッチワイフ」という感じの『姉』らしき「人物」が描かれた、たいへん悪趣味なものである。しかし、作品の「いかがわしい」臭いをよく捉えているという点では、この装画は評価に値しよう。
 この「姉飼」という作品を評価する上で、多く見られるであろう勘違いとは、この作品を「ホラー(恐怖小説)」として評価しようとする、ということなのではなかろうか。――曰く「怖くない」「新味に欠ける」「オチが弱い」。しかし、作者がこの作品で描きたかったのは、「恐怖」そのものではなく、「恐怖に彩 られたエロティシズム」つまり「倒錯的なエロティシズムとしてのマゾヒズム」の世界なのではないか。だから譬えて言えば、作者は単に「気味の悪い人間」を描きたかったのではなく、「気味の悪いダッチワイフ」を描きたかったのだろうし、言い換えれば、作者が描きたかったのは「(個人的に)もっともエロティックな存在」だったということなのだと思われる。だから、そうした「個人的な性的妄想」を具現化した小説に、「ホラーとしては」と言っても、それはお門違いというものなのだ。

 「陽光の降りそそぐ西海岸の、抜けるような蒼弓の下、白く照りはえる砂浜で、金髪碧眼のグラマーガールとのラブゲーム」みたいな世界の対極にあり、それでいて同じように「自分なりの最高にエロティックなシュチエーション」を描いたのが「姉飼」の世界だ、と言えば理解してもらえるだろうか。作者はひたすら「古く」「暗く」「濃く」「臭く」「不自由」な世界における「やましい恋」を描き、その恋ゆえの「破滅」を描く。なぜ、このような「否定的要素」ばかりに彩 られた「恋」を描くかと言えば、それは作者にとってそれこそが「魅惑的」だったからに他ならない。例えば『脂祭り』における「強烈な異臭を放つ脂」への執着などは、明らかに「汚物崇拝者」のそれなのである。

 だから、この作者にとってはきっと、その対極にある「陽光の降りそそぐ西海岸の、抜けるような蒼弓の下、白く照りはえる砂浜で、金髪碧眼のグラマーガールとのラブゲーム」的な世界というのは、ほとんど「ギャグ」の世界であり、大笑いすることはできたとしても、少しもエロティックではありえないのであろう。つまり、「薄暗い日本家屋の中で、荒縄で緊縛されている、半裸の着物美女」と、『プレイボーイ』誌のグラビアを飾る「プレイメイトのヌード写 真」のどちらに「惹かれるか」「エロティシズムを感じるか」ということが、「姉飼」の世界を理解するうえでは重要なのであって、「薄暗い日本家屋の中で、荒縄で緊縛されている、半裸の着物美女」というシュチエーションは「怖くない」「新味に欠ける」「オチが弱い」などと言ってもみても、この場合あまり意味がない、ということなのである。

 そうした観点から、他の収録作「キューブ・ガールズ」「ジャングル・ジム」「妹の島」を見ていくと、それぞれに描かれている世界は違っていても、そこに描かれているのは「裏切り」による「崩壊」「失墜」という感情であり、前半の工夫はその結末を盛り上げるためのバリエーションでしかないことがわかる。作者は、作中人物と同化し、最後には「ああ、私はなんて可哀想な(異形の)存在なんだ!」と切なさにその身を捩らせ、滂沱たる涙を流しつつ、同時にエクスタシー(性的恍惚)を感じているのである。

 つまり、遠藤徹の小説は、基本的には「ホラー」ではない。これは現代的な趣向をこらした「私的エロティシズム文学」であって、決して「エンターティンメント」としての「ホラー」ではないのである。だから、どこかで自己満足的であり、興味のないところでは投げやりですらあるのであろう。と言うのも、エロティシズム文学というものは、たいがいシュチエーションがすべてであって、そこで行なわれること自体に特に新味があるわけではないし、驚くようなオチがあるわけでもない。もともと「性行為」そのものには大したバリエーションはなく、その一方、「性的妄想」はひたすら「永続」だけを期待するものなのだから、もとより「きれいにオチる」ことなど、そこでは望まれはしないのである。だからこそ、どうしても形式上のオチが必要だとなれば、「一応」のそれを「取ってつけてしまう」ことにもなりがちなのだ。

 「姉飼」という作品は、恐怖と嫌悪とエロティシズムが接近し、性的妄想の細分化がすすんだ現代社会における、一種すなおに私的な「エロティシズム文学」なのであって、「ホラー」という便宜上のレッテルを鵜呑みにして評価すべき作品ではない。この「私的な作品」を、「読者との共感」を大前提とする「エンターティンメントとしてのホラー」と同一視すべき作品ではない、というのが私の結論である。

 

 

執筆・2004年1月21日
改稿・2004年3月10日

初出・BBS「アレクセイの花園 (2004年1月21日)

 

 


 

 

★  真の敵を見さだめる勇気 ―― 荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』

 

 本書『声に出して読めないネット掲示板』(中公新書ラクレ)の裏表紙には、次のような内容紹介がある。

誹謗中傷罵詈雑言。殺伐とした国・日本の殺伐とした巨大匿名掲示板。インターネットによせられた膨大な声をT女子供文化評論家Uの著者が読み解く。あなたは「ネット向き人間」か否か?

 この内容紹介を一見したところでは、本書は「2ちゃんねる」をその代表とする日本のネット匿名掲示板の批判的検証本のように思える。だが、じつのところ、本書の射程は、もっと深くもっと遠い。

 最初に「2ちゃんねる」への書き込みを分析し、それが「日本の現状を正直に映す鏡」だとした上で、しかしそんな『殺伐』とした掲示板においても「例外的な事件」として注目された「折り鶴オフ」の言説を読み解くことにより、急激に右旋回して「戦争国家」へと傾いていく日本の将来に、わずかに残された「希望」を読み取ろうとしたのが、本書の「真の姿」なのだ。つまり、本書における「ネット匿名掲示板」の分析というのは、それ自体が目的なのではなく、昨今の日本の危険な傾きを支持してしまっている若者たちの心理を分析する素材として、右寄りの言説が主流をなす「ネット匿名掲示板」が俎上にあげられたということなのだ。

 荷宮は、「2ちゃんねる」で主流をなす、「差別的」で「攻撃的」「冷笑的」な言説を発する者について、

つまり、真っ当な神経の人間ならば「見るに耐えない」と感じるような差別 的な書き込みをする人間とは、おそらくは、「在日ではなく、女ではなく、低学歴でもないものの、しかし低所得の人間」なのではないか

と鋭い着眼力をみせる。……そうなのだ。彼らは「在日」や「女」や「低学歴」を嘲笑しても、「低所得者」をバカにすることは、ほとんどない。つまり、「ネット匿名掲示板」とは、「小数の金持ちと大多数の低所得者」という政治政策による二極分化の進むなかで生み出されてきた多数の「希望のもてない(在日ではなく、女ではなく、低学歴でもない)低所得者」たち、今言うところの『負け組』の「不満のはけ口」なのではないかと、荷宮は分析して見せるのである。

 本来ならば上に向かって戦いを挑まなければならないはずの「弱者(低位者)」である彼らが、自分たちよりもさらに「弱者(低位 者)」である人たちを「差別」することにより癒されようとする。これは武士階級によって搾取されていた人口的ボリュームゾーンをなす農民が、武士階級によって「建て前として与えられた階級区分」である「士農工商」や、さらにその下に政治的に設けられた「穢多・非人」という「被差別 」階級制度を、喜んで受け入れ、進んで差別し(共食いさせられ)たことと、相似的であると言えよう。

 荷宮は、前著『若者はなぜ怒らなくなったのか 団塊と団塊ジュニアの溝(中公新書ラクレ)のなかで、「決ってしまったことは仕方がない」とあっさり諦めてしまい、理不尽にたいして怒ろうとはしない「現代の若者」像を描き出し、彼らにたいして不満を表明していた。しかし、今回の『声に出して読めないネット掲示板』では、そんな「現代の若者」たちも、決して本質的に恬淡としているわけではなく、自分のなかの「虐げられている者=弱者(低位 者)」としての「不満の鬱積」に充分自覚的ではないために、さらに弱者(低位者)を差別 するという無自覚な行動に出てしまっている、ということを明らかにしているのである。

 しかし、それがすべてではない、ということも、荷宮は「折り紙オフ」事件を分析することで、みごとに証明してみせたと評価できよう。「左翼」的な「偽善的」「建前的」「きれいごと的」言説(「大人」的偽善)に対し、過剰なまでの拒絶反応をしめす「2ちゃんねる」の主流派的言説。彼らの「差別 」発言や「右」的発言は、そうした「反・偽善」としての「(ナイーブな)本音主義」から出ている部分も、たしかにあったのだ。
 しかし、そうした中にあって『しない善よりする偽善』を合言葉に、心無い若者によって燃やされた広島平和記念公園の折鶴を「我々で補完しようではないか」として始められた「折り紙オフ」。彼らは「ちゃねらー」らしからぬ 自身の行動に、戸惑いと不安を感じつつも、なんとか所期の目的を達成し、その過程で多くのことを学んでいった。これまでは己の純粋性だけに自衛的に固執し、それを依拠して他者の「不完全性」を非難することで満足しようとしていた彼らが、批判されるかも知れない(事実、批判もあった)立場に身をおいて行動した。・・・その姿を紹介した本書第2章は、若者の成長する姿を描き出して、感動的なものですらあった。

 荷宮は、「あとがき」を次のように締めくくっている。

『 果たして、このまま日本は「殺伐としたダメな国」になる道を突き進んでいってしまうのだろうか。いや、決してそうではないはずだ。

 「最後まで希望を捨てちゃいかん……あきらめたらそこで試合終了だよ」
                      (井上雄彦『スラムダンク』集英社)

 この台詞に「ピン」とくる世代、子どもの頃にこの台詞に接した世代が、「このままじゃいけない」ということに気付いたならば、きっと日本は、「殺伐としたダメな国」になる道から引き返すことができるに違いないのである。

 そのためにも、まずは大人は頑張らなければならない。このまま若者たちを戦場に送りだし、将来、彼らを送りだした「今の大人」である我々ではなく、否応なく戦場に狩り出された若者たち自身に「侵略してゴメンなさい」と謝罪させなければならないような国にしてはならない。『子供に謝罪させるな』……これも「2ちゃんねる」に登場した言葉なのである。

 

 

執筆・2004年1月19日
改稿・2004年4月25日

初出・BBS「アレクセイの花園 (2004年1月10日)

 

  


 

 

★  「見たくない現実」との対決 ―― 斎藤貴男『機会不平等』

 

 斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)は、十年に一冊の名著である。その証拠に、経済アナリストの森永卓郎は、同著の文庫解説を以下のように書き起している。

 斎藤貴男というジャーナリストが私は好きだ。権力に屈することなく、常に一般 市民の視点で、権力者のやろうとしていることを暴き続けているからである。
 ジャーナリストとしては当然のことだろうと思われるかもしれない。しかし、それは容易なことではないのだ。誘惑はいくつも潜んでいる。政府の審議会への登用、インサイダー情報、高額のギャラをもらえる講演会、安定した仕事の発注……。
 フリーランスで仕事をしていると、ついついそうしたものに目がくらんで、体制側の手先になってしまう。そうした例を私は飽きるほどみてきた。
 ところが、斎藤貴男は屈しない。きっとバカなのだと思う。彼くらいの才能があれば、金儲けをしようと思えば、いまごろ立派な御用評論家となって、社会的地位 と豊かな暮らしを手に入れていたはずだからだ。
 本を書くのに際しても、斎藤貴男のバカさ加減は現れている。もっと手を抜いて、「構造改革が必要だ」などと中味のないことを書いておけば、ずっと効率的にカネを稼げる。ところが、斎藤貴男は、常に膨大な資料を読みあさり、キーマンへのインタビューを敢行し、そして自分自身の頭で必死に考えるという手法を頑に守り続けている。作家業としてみれば、こんなに非効率的なことはないだろう。
 彼自身が明らかにしているように、屑鉄屋の息子に生まれ、身を以て差別を体験してきたからこそ、彼のその信念があるのかもしれない。しかし、そうした環境に生まれたからこそ、権力にすり寄ってしまう人の方が多いことも、事実なのだ。
 生き方がバカ正直で、へたくそな斎藤貴男。誤解をおそれずに言えば、私は彼を愛している。こんな素敵なジャーナリストは日本の宝だと思う。

  この一文を読んで、私は不覚の涙をこぼしてしまったことを、告白しておこう。

 『ところが、斎藤貴男は屈しない。きっとバカなのだと思う。』――「絶賛」の言葉が大安売りされる日本の出版業界において、このように真情のこもった本物の絶賛を、生涯の内に一度でもうけることのできる物書きが、いったいどれだけいるだろう。たぶん、千人に一人もいないのではないか。こんな、共感と賛嘆と友情のこもった言葉を捧げられたならば、その者はそれだけで、どんな勲章よりもたしかな「生きた証」を、残しえたことになるのではないだろうか。

 私も、かなうことなら、こんな言葉を捧げられるような人間になりたい。そのためにも私は、斎藤貴男と同じ『バカ』の戦列に連なろうと、あらためて誓ったのである。

 

 ともあれ、解説者森永卓郎は、先の文章に続けて、こう書いている。

 数多い斎藤貴男の著作のなかで、ベストは何かと問われたら、私はやはりこの『機会不平等』を挙げたい。私がこの10年間に読んできた無数の本のなかでも、ベスト3には確実に入るだろう。

 本書はそのような、まぎれもない名著なのだ。

 

 

 アメリカの戦争、ネオコン、グリーバリズム、新自由主義経済……こうした問題の根幹にあるのが、昨今、勃興している「新しい優性学」としての「社会ダーウィニズム」である。「社会ダーウィニズム」とは、簡単に言うと、――現在、社会的に有力な立場にある者(成功者)は、社会的淘汰のなかで、自らの優秀性を実際に証明した存在である。したがって、「勝ち組」とは、単に勝利を得ているグループを指すだけではなく、人間の質として根本的に優れた存在であることをも意味し、「劣った存在」としての「負け組」を自由にする当然の権利を有する存在なのだ。これを国家に適用すれば、世界一の経済力と軍事力をもつアメリカは、自国の国益のために、他国を自由にする権利を有する、特別 な選良国家だということになる。――と、おおむねこのような考え方を指すものだ。
 ダーウィンの進化論の「適者生存」の法則を、思いきり単純化して、人間社会をとらえる考え方であり、いささか幼稚な印象は否めないものの、実際に権力を握っている支配者階級にとっては、なんとも魅力的で都合のよい世界観だと言えよう。

 もちろん、このような手前みそな考え方が、露骨に語られる機会はそう多くはないのだが、前記の『アメリカの戦争、ネオコン、グリーバリズム、新自由主義経済』の周辺を洗っていくと、そうした露骨な思想が露骨なままに語られている現実に度々ぶちあたって、愕然としたり呆然とさせられたりすることも、決して珍しくはないのである。特にアメリカのネオコン(ネオ・コンサーバティブ=新保守主義)の思想家たちが語る言葉などは、その際たるものだと言えよう。
 しかし、こうした悪魔の思想にかぶれている人たちは、なにもアメリカ一国にとどまるわけではない。じつは、われわれの国の支配階級である富裕者層・大企業トップなどが、こうした思想に毒されており、いま現在、政府はその意思にそって「グローバリゼーションの競争原理を生き抜くために、国益を優先して痛みを分かち合う」という建て前の下、『ビンボーと弱者を固定化する新階級社会』をつくるための各種制度改革を進めているのである。

 本書『機会不平等』は、そうした日本の隠された実態を掘り起こして紹介した、衝撃的な告発の書なのでである。

 第一章『「ゆとり教育」と「階層化社会」』では、「ゆとり教育」の名の下に、これまで誰にも平等に与えられていた「教育をうける権利(機会の平等)」を「優れた者にはより優れた教育を、劣った者には他の道を」と差別 化の推進が謀られている現実が語られている。

 第二章『派遣OLはなぜセクハラを我慢するのか』では、「改正労働者派遣事業法」によってさらに拡大した「企業に都合のよい、使い捨て労働力としての派遣労働者」の現実を扱っている。

 第三章『労組はあなたを守ってくれない』では、リストラが横行し、労働者の権利が蔑ろにされだした現状に比例して、いかに現在の労働組合が無力化しているかを紹介している。

 第四章『市場化される老人と子供』では、「十兆円市場としての高齢者介護」という認識のもと、企業が老人問題をいかに非人間的に商売化しようとしているかの現状が語られ、その一方、商品にならないとされた「学童保育」を取り巻く状況の悪化も紹介されている。

 第五章『不平等を正当化する人々』では、上記4章で語られた問題の背後に伏在する「分相応の合理的差別 社会」を目指す「社会ダーウィニズム」を、理論的に支えた竹中平蔵(現・経済財政政策担当相)など日本の経済学者たちの、その主張と生い立ちが紹介される。

 終章『優性学の復権と機会不平等』で語られるのは、自らを「優等民族」と規定し、ユダヤ人を「世界に徒なす劣等民族」と決めつけることで、ホロコーストを敢行したナチスドイツが、その理論的根拠としたがため、戦後は「悪魔の疑似科学」として廃棄されたはずの「優性学」が、どのような形を採ることで、今ごろ復活してきたのか。また、その復活普及(「自己責任」「結果 主義」等)によって我が国で拡大しつつある「機会の不平等」の先にあるもの何なのか、という問題である。

 ごく簡単に内容の紹介をしたが、本書で語られていることは、「気が重くなる」だけでは済まされない、なんとも「重苦しい現実」だと言えよう。
 この大雑把な内容紹介を読んだ人のなかには「また、極端に悲観的な現状論が語られた本なんじゃないか」と思った人も、きっといるだろう。しかし、本書が優れているのは、そうした「見たくない現実」(『極端に悲観的な現状論』とでも思っておかないと救われない現実)を、主義主張によって批評的に批判するのではなく、「事実」をして語らしめて、有無を言わせないまでに、その「存在事実」を実証している点なのである。そしてそれこそが、類書の遠く及ばない、本書の強味である、「決定的な(不平等=差別 の)実例」であり「(不平等を助長する側の)文献資料」であり「(不平等を助長する側)当事者の証言」なのだ。

 しかしまた、本書がそうした「稀有に優れたレポート」であることをすら超えて「稀有な書物」となりえているのは、そうしたレポートを書いた著者の「高潔で不屈な精神」が、全編をおおって輝いているからなのだ。だから「重苦しい現実の報告」も、単に重苦しいままでは終らない。「重苦しい現実」と対峙しながらも決して怯むことなく、人間としての優しさと強さの側に立って戦いぬ こうとする著者の気高い精神が、全編を貫いているからこそ、そこに示された「現実」に対し、読者も「私だって負けるものか」と励まされるのである。

 つまり、本書は二重の意味で「啓蒙書」なのだと言えよう。ひとつは、政府によって「多くの国民の目に伏せられている現実」を明らかにするという意味での「啓蒙」であり、二つ目は、著者の自覚には関係なく、人々に人間精神の崇高な強さを示すことで、目をそらしていた現実を「直視する勇気を与える」という意味での「啓蒙」だ。

 だから、本書を読み終えて感じるのは、最低な現状への絶望などではなく、むしろ「人間も捨てたものではない」という思いである。どうしようもない奴らが日本を動かそうとしている。それは事実だ。しかし、それに筆一本で抵抗しようとしているドン・キホーテが、ここに実在している。ドン・キホーテは勝てないかもしれない。けれども、彼がここにこうして実在する以上、きっと第二第三のドン・キホーテは現れるだろう。我々はその「現実」を本書に見、「損得勝敗ではなく、是非善悪のために、その生涯を賭する」人間の尊厳とその実在を信じることができるのである。

 『機会不平等』の著者斎藤貴男もまた、おのれの才覚だけで、たったひとりで、巨大な暴力に抵抗する「東堂太郎の眷属」なのであろう。(※ 東堂太郎は、大西巨人『神聖喜劇』の主人公)

 

   果たして「勝てば官軍」か。
   果たして「政治論争」の決着・勝敗は、
   「もと正邪」にかかわるのか、
   それとも「もと強弱」にかかわるのか。

   私は、私の「運命の賭け」を、
   「もと正邪」の側に賭けよう。

                (大西巨人「運命の賭け」より)

 

執筆・2004年8月16日
改稿・2004年8月19日

初出・BBS「アレクセイの花園 (2004年8月16日)

 

 




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