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◆ お伽話の崩壊 ◆
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―― 砕かれた平等社会の夢想
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アレクセイ(田中幸一)
本書は2001年に出版されて大きな話題となったアメリカのホワイトカラー(※ 非現業部門の従業員、事務業務に従事する者)の過酷な働き方を描いた衝撃のレポートである。著者は、さまざまな大企業のなかで仕事に押し潰されている多数の男女に四年にわたりインタビューをしてきた。そして、M&A(※ 企業買収と合併)とレイオフ(※ 大量解雇)が連動した株価至上主義の猛烈経営が、いかにアメリカのホワイトカラーをスウェットショップ(搾取工場)状態に追いやってきたかをリアルに描き出した。ここに語られているのは、IBM、AT&T、シティバンク、インテルなど、誰もが知っているアメリカの大企業の、日本ではよく知られていない近年の変貌の有様であり、そのオフィスで働く人々の悲痛なうめきと怒りである。
(「訳者あとがき」より。※印註は引用者による)
監訳者 森岡孝二が上のように紹介する『窒息するオフィス 仕事に脅迫されるアメリカ人』(ジル・A・フレイザ−、岩波書店)は、アメリカのホワイトカラーの労働現状を伝えるに止まらず、日本の労働の「現状と未来」を考える上でも、決して無視できない重要な一書である。
元来、私という人間は、読書(文学および人文科学一般
)や芸術といったものに耽溺する浮世離れした書斎派趣味人であり、アニメやフィギュアを愛好するオタクであり、およそ政治や経済とは無縁に生きてきた人間である。しかし、あの「9.11」によって、「政治」の世界が、私が興味を持つところの「人文科学の世界」に深く関連する「人間の世界」であったことを痛感させられ、否応なく興味を持たされることになった。しかし、事ここにいたっても、まだ私は「経済」の方へは、とんと興味が持てずにいた。典型的な文系人間である私は、数字や数式が苦手で、給料明細書はいつも支給額を確認するだけ。そんな私だから、数字と縁のふかい「経済」は長らく敬遠の対象であったし、「経済」とほとんど同義語とも思える「企業社会」の問題も、なんとなく無縁なものと考えてきたのである。
ところが、長びく不況のせいか、わりあい恵まれていた私の労働環境にも、好ましからざる影のさしてきたのが、このところ感じられるようになった。「経済」問題が、他人事、テレビの中の出来事、ではなくなってきたのである。そして、そうした伏線があり、たまたま読んだ新聞書評がきっかけとなって、それまでは決して手に取ることのなかったジャンルに属する本書を、私は手に取ることになったのである。
かつての日本人は「仕事中毒(ワーカホリック 【workaholic】)」者の代名詞として世界に知られる存在であった。しかし、日本人自身は「そんな勤勉な国民性だからこそ、奇跡的な戦後復興と高度経済成長を実現したんだ」と、多少屈折の気味はあるにせよ、そうした(『プロジェクトX』的に美化された)自己像を、おおむね肯定的にとらえてきた。しかし、その一方で、日本人が、欧米の人間らしい仕事ぶり(生活ぶり)に憧れを抱いてきたというのも、まぎれもない事実である。つまり、かつて高度経済成長を支えた日本人の多くは、「家庭」や「自己」を犠牲にすることによって「会社」や「国」の繁栄に尽くした、とも言え、そうした自己犠牲的・「社畜」的側面
には、必ずしも納得していたわけではなかったのである。
「欧米では、バカンスとして、一ヶ月近くのまとまった休暇が与えられるらしい」「勤務時間は、きっちり5時まで。アフターファイブは、保証された個人の時間の代名詞であり、残業なんてしないらしい」「週休二日で、週末の家族サービスは当然。接待ゴルフで休暇返上なんてこともないらしい」というようなことが羨望をにじませて、しばしば日本人ホワイトカラーの口の端にのぼった。また、だからこそ、高度成長以降、日本では労働環境の是正がなされ、「より人間らしい労働環境」づくりが目指されたのである。
ところが、1980年代初頭、それまで世界経済を独占してきた欧米に、東洋の島国「日本」が経済的攻勢をかけた結果 、世界は大きく動きはじめた。――日本の二度目の世界攻勢は「経済力と技術力」においてであった。あの「ジャパン・アズ・ナンバー1」という言葉が流行した時代である。
当時、アメリカは「自動車」を中心に日本から攻め込まれ、防戦一方となった。当時のアメリカ大企業の多くは、長年の繁栄とそれにともなう穏健保守的な家族主義的経営があだとなり、会社組織が肥大化して、小回りのきかない、危機に際して対応のままならない「鈍重な巨象」となっていたのである。その結果 、アメリカの経済は大きく傾き、醸し出された危機感から反省的におこってきたのが、「家族主義的経営の放棄」であり「過酷な実績主義への転換」であり、「無駄 (余剰人員)の切り捨て」たるレイオフ、そして企業力をつけるためのM&Aであった。
このような流れのなかで、いったい何が起こったのか。それは、時代逆行的な労働条件の悪化に止まらず、パソコンや携帯電話などの普及にともなう、それでなくとも削られゆく「私」の時間への「仕事」の侵入という事態であった。会社が要求するのは、「7/24」(週7日24時間労働)という、「社畜」的隷属となってきたのである。
本書の帯には、こう刷られている。
「もちろん、休みはとりますよ。昼休みという休みをね……」
「会社にソフトボールチームはありません。
あれば生産性が0.56%下がってしまうから……」!?
仕事がどこまでも追いかけてくる――
こんな働き方は まともじゃない
それまでの「家族主義的経営」時代においては、アメリカのホワイトカラーは、ブルーカラーと同じ被雇用者の身分にありながら、より会社の側に近く「管理職」的な気分があって、会社に対する帰属忠誠意識もおおむね強かった。したがって、おのずと彼らは、ブルーカラーのような切実な「労働運動」へのかかわりを持つことも無かったのである。しかしそれは、ホワイトカラーが労働運動と「まったく無縁だった」ということを意味してはいない。ブルーカラーによる労働運動の恩恵を、自らは一滴の血も流さずに、間接的な形で易々と受け(保障され)ていたからこそ、ホワイトカラーは労働運動に無縁たりえたのである。つまり、ブルーカラーたちが経営者側から勝ち取った各種の権利は、ブルーカラーたちだけの権利には止まらなかった。経営者側としては、ホワイトカラーたちまで敵に回したくはないから、ブルーカラーたちが中心となって勝ち取った諸権利を、「被雇用労働者に対し、平等に保障する権利」として、あたかも自分たちが施し授けるもののごとく、ホワイトカラーたちにも自動的に保証して、彼らを懐柔したのである。
そんなわけで、ホワイトカラーにしてみれば、そうした権利の保証は「当然のことだ」としか感じられず、特にありがた味も感じられなければ、ブルーカラーの権利闘争への感謝の気持ちも希薄だった。「彼らが保障されるのなら、我々も保障されないと筋がとおらない」――たしかにそのとおりではあるのだが、この時、彼らには、手にしたその「権利」が、「(他人により)戦い取られた」ものではなく、ただ「(当然の権利として)自然に与えられたもの」だとしか感じられていなかったのである。
したがって、ホワイトカラーのそうした認識の甘さが、1980年代以降、彼ら自身を直撃した際、彼らは為すすべ(抵抗も団結)もなく、切り捨てられたり非人間的な労働へと一方的に駆りやられるという状況を、黙って甘受せざるをえなかったのである。
一九九〇年代に経営の理論家として教祖的な地位 を手に入れたグローヴは、『パラノイヤだけが生き残る』のなかでこのように書いている。「品質の教祖W・エドワーズ・デミングは、企業のなかの恐怖を根絶することを主張している。私はこの格言の無邪気さに悩まされてきた。経営のもっとも重要な役割は、人びとが市場に勝つことに熱心に打ち込むような環境をつくることである。恐怖はそのような熱心さをつくりだし維持するのに大きな役割を果 たす。競争の恐怖、破産の恐怖、間違いを犯す恐怖、失業の恐怖は、強力な刺激要因となりうる。われわれはどのようにして従業員のあいだに失業の恐怖を植え付けるのか。それは自分たち自身がそれを感じることによってのみ可能になるのである。」(P176)
グローヴのこの言葉における、「企業」を「国家」、「従業員」を「国民」、「市場」を「国家間競争」に置き換えれば、ブッシュ政権が煽った「テロの恐怖」の出所も、おのずと理解できよう。
ともあれ、このようにして、大きな犠牲を払いながらも、アメリカの経済は何とか持ち直したかのように見えた。しかし、持ち直したのは「大企業」であり「国」であって、「労働者個々(個人)」ではなかった。レイオフやM&Aなどの「非常時的断行」によって労働者に多大な犠牲が強いられ、その結果
として企業実績が回復向上しても、いや、そのことによって回復向上したからこそ、その「成功した経営手法」が改められることは絶えてなかった。会社がいくら儲けても、その収益が社員に還元されることはなく、あいかわらず社員は過酷な労働を強いられ、徹底的に搾り取られ、捨てられていく。経済が上向きになっても、失業者は減らないので、「イヤなら辞めたまえ」と会社から脅迫された場合、会社と事をかまえるには、どこまでも「個人」でしかなかったホワイトカラーは、完全に無力だったのだ。
一方、このようにして定着した、手段を選ばない「株価至上主義の猛烈経営」は、アメリカ有数の巨大企業エンロンの粉飾決済とその破綻に象徴されるように、アメリカの経済界を決定的に不健全なものにしてしまった。本書に描かれたように、アメリカ国内では、企業に対する労働者の『悲痛なうめきと怒り』が渦巻き、その一方、企業は「設けるためなら何をしてもいい」という考えに染まりきって、経営の健全化など思いもよらないという状態である。おのずと社会的な貧富の差は開いてゆき、「ごく一部の金持ちと、大多数の貧乏人」という二極分化が、なおいっそう進んでいる。――そしてそうした過程で展開されたのが、海外への収奪攻勢としての、アメリカ主導による「グローバル経済」であり、そしてさらにその先に必然的に現われてきたのが、「9.11」であり、アフガン戦争であり、イラク戦争だったのだ。
つまり、「すべてはつながっていた」ということなのである。
例えば、先日の「イラクでの日本人人質事件」被害者に対する、日本国内での常軌を逸したバッシング(海外からは奇異の目で見られた)は、日本経済の傾いた現状や、日本の右傾化と、決して無縁ではない。つまり「貧すれば鈍する」で、よほどしっかりした考えをもった人間でないかぎり、貧しくなれば、頭の回転も鈍り、心も荒んできて、ろくなことをしないようになる、ということなのでごある(「負け組」の憤懣のはけ口としての弱者バッシング)。無論、この諺の有効性に国籍は関係ない。問題はあくまでも「個々の人間性」なのである。
「人間」というものを考える場合、残念ながら「経済」生活という要因は、決して無視できない。貧しくとも美しく生きられる人間ばかりなら、この世は天国であり、たぶん国家などというものも必要なくなるのであろう。だが、残念ながら人間は、そのようには造られていないのである。
私は、ながらく「文学」と関わるなかで、私の興味の本体は、そこに描かれた「人間(の深淵)」にあることに気づいたのだが、近年、その「人間」がもっとも剥き出しになる場所こそが、危機的な状況をむかえた「経済」であり「政治」の世界だったのかも知れない。だからこそ私は、おのずとそうした世界にも、目をむけざるをえなくなったのであろう。
ともあれ、本書に描かれたのは、2001年の「9.11」前夜のアメリカである。ひるがえって、今の日本を考えるに、日本は前例のない長期の経済的低迷を続けており、「痛みを分かちあう」構造改革でこの不況を乗り越えようと訴えて首相に就任した小泉純一郎の下、戦争国家への道を突き進んでいる。
いまだに内閣支持率は高いそうだが、はたしてこれで、多くの国民がその「痛み=犠牲」に報われる日が来るのであろうか? アメリカ国民の二の舞い(「ごく一部の金持ちと、大多数の貧乏人」という二極分化)にならないという保証が、いったいどこにあると言うのであろう。
私には、日本がアメリカを十年遅れで後追いしているように思えてならない。日本の経済が行き詰まった時、日本の政治家たちの考えたこととは何か。何に成功のモデルを求めたか。――それを考える時、すくなくとも「大多数の庶民にとっての日本の行く末は、暗澹たるものである」としか私には思えないのである。
弱者や貧乏人が何もしないでいても、金持ちや権力者がその「善意」でもって、救済の手を差しのべてくれる――などという「虫の良いお話(お伽話=導眠のための楽しいフィクション)」を信じている人たちが、どういう末路をたどるのか。本書は、そのことをハッキリと伝えている。
執筆・2004年5月11日
改稿・2004年5月15日初出・BBS「アレクセイの花園 」(2004年5月11日 )
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