根源的アポリアについて
本格ミステリ作家の思考と倫理の限界


アレクセイ(田中幸一)

 

 例年に少し遅れて、今年の関ミス連(※ 調査の結果 、略称「関ミス連」の略さない名称は、時代によって変化しており、確定した「正式名称」は存在しない模様。現在は「関西ミステリー連合」が有力だが、かつては違っていた)の冬の大会は、1月の後半に行われた。

 今回は、綾辻行人・法月綸太郎・我孫子武丸・麻耶雄嵩の豪華4大ゲストによる座談が行われた。話題は概ね「僕らがデビューした頃と今との状況の違い」みたいな感じだったが、特段注目に値する発言は無かったと言ってよい内容であった。

 それでも唯一おもしろく思えたのは、マンガ『金田一少年の事件簿』をめぐる評価の対立で、座談参加者の誰もが、このマンガの果 たした役割(本格ミステリの魅力を、広く世間に普及せしめたという実績)を高く評価しながら、「それでも『占星術殺人事件』や『Xの悲劇』のトリックをパクった(無断盗用した)のは許せない」と綾辻が明言したのに対して、法月が「しかし本格ミステリが今後も広く読み継がれていくためには、これまでの常識であったような、トリックの発案者(原典)占有主義みたいなものだけではダメなのではないか」という(主旨の)視点を打ち出した点である。綾辻は、法月のこの意見に対し「評論家らしいマクロな立場からの見解で、主旨としてはわからないこともないが、やはり創作現場の人間として納得することはできない」というような煮え切らない反論(?)を返すに止まった。

 ……ここに描き出したのは、あくまでも「私(アレクセイ・田中幸一)の理解の範囲で、両者の意見・立場を整理したもの」であり、それを大前提として理解してもらった上で、両者の意見について、自分の意見を述べさせてもらうと『意見としてはどちらも間違いではない。ただし私は綾辻の意見の方が「現実」的であり「健全」であると思う。しかし、そこにもまた、不徹底な思考ゆえの曖昧さが、後味悪く残ってしまっている』ということになるのである。

 喩え話で説明しょう。つまり法月の議論というのは「アレクサンダ−大王は偉大だった。彼の存在なくして今の西欧文明文化の豊かな発展は無かった」とかいったようなものと同じなのである。私は西欧の歴史には疎いから、これはあくまでも「喩え」に過ぎないのだが、要するに法月の意見というのは体の良い「結果 論」のみたいなものであり、「現在」を肯定するならば、自ずと、そこにいたる歴史の中で大きな役割を果 たした「勝者」は「(いろいろ非道なことやっていたとしても)大筋で肯定しなくてはならなくなる」ということに過ぎないのだ。つまりアレクサンダーに家族を殺された者に言わせれば「人を殺しまくって、なんの文明文化への功労か!? そんなものが無くたって文化は、今とは少し違った形ではあっても、それなりに成熟しそれなりに発展しただろう。今の良いところだけをとらえて、これが最善だった、あれは必要悪だったとするような考え方は、今の自分の置かれている立場、すなわち今現在を特権化することを暗黙の前提とした、体のいい結果 論に過ぎない」ということになり、これはこれで「論理的には正論」なのである。しかしながら一方で、それでもこうした意見は、所詮「仮定の話」に過ぎないということにもなろう。なぜなら「アレクサンダ−の功績」は、事実として残っているから、それ自体を否定することはできないという「強味」が、そこには厳然とあるからなのだ。

 ……つまり「現実問題として、今の本格ミステリの活況自体は肯定せざるをえない」という前提に立つならば、綾辻は、法月の意見を「是是非非」では否定しきれなくなってしまう。だから、もし綾辻が「盗用は許せない」という実感とその直感的倫理に従って意見をたてるとするならば「パクってまで本格ミステリを流行らそうとは思わない」「『金田一少年の事件簿』のようなものの功績を、その罪悪に目を瞑ってまで肯定しなければならない、そこまでしなければ本格ミステリの未来は覚束ないというのなら、そんな未来など、こちらから願い下げだ」とまで言わなければ、論理は首尾一貫しないのである。

 ところが、綾辻にも法月にも、当然、そこまでの「倫理」は無い。ひとまず「このまま(本格ミステリの活況)の方が良いに決まっている」という点で、両者の利害は一致しているから、綾辻は「明確な反感」を感じながら、大筋では法月の「現実論」に妥協しなければならなくなるのである。
 ここが……忌憚なく言わせてもらえば……『今の本格ミステリ作家の思考と倫理の限界』だということなのである。

 これが、いかに重大な問題かということを、まずはハッキリと確認しておく必要があろう。……この問題をひとことで表現するならば、これは「言論の自立」の問題ということになる。これは「ミステリ村」の中に止まるような、そんな小さな問題では無いのである。

 『今の本格ミステリの活況自体は肯定せざるをえない』という前提に立てば、「トリックの盗用」すら、明確に批判できなくなってしまうというのは、言い換えれば「大事の中の小事である。我慢せよ」というのと同じことなのだ。さらにこれを言い換えると「小異を捨てて、大同につけ」という「大政翼賛」的思想にも結びついていくのである。つまり法月の議論は(本人は無自覚なのだろうが)、基本的には「戦時において、一個人の人権が制限されるのは当然である。無論、差別 も人殺しも盗みも、その目的のためには正当化されうる」という思想そのものなのだ。だから、そうした思想に「盗難被害者」への共感から「盗みは盗みだ。それを認めることはできない」と言わないではいられなかった綾辻の「実感」は正しい(つまり法月のような「観念的倒錯」には捕われていない)。けれども、その綾辻も所詮は神国「本格ミステリ帝国」の住人であるから、他国と戦争になれば「殺して分捕る」のはしかたがないと考えてしまう。そうなると「盗みが悪だ」というような裏打ちの無い「幼い倫理観」は、たちまち腰砕けにならざるをえなかった、というのが二人の議論の骨格なのである。


 綾辻が座談会の最後で、最近設立された「本格ミステリ作家クラブ」に言及して『まあ、いろいろと(非観的なことも)言ってきましたが、それでも「本格ミステリ」の名の下に百数十人の人間が集まったのですから、まだまだ本格ミステリは大丈夫でしょうね』というようなことを言っていたが、……これが典型的な「思考停止」者の言であることは、もはや論を待つ必要もあるまい。今までいろいろ考えてきた真面 目な問題が、ただ「数」の権威だけで否定され、「杞憂」として葬り去られてしまう。これは「論理」や「筋」ではなく、「勢力」(という暴力)で人を問答無用に黙らせようとする人間が「歴史的に」よく使ってきた、お馴染みの手管なのである。つまりこれは……「何を寝言を言ってるんだ。みんな、お前が変だと言っているぞ。この非国民め!」という「非論理の論理」なのだ。

 実際「本格ミステリ」が現在のエンターティンメント界で締めている位 地は、「政治的」には決してバカにはならない。そうした観点から見ていくと「本格ミステリ作家クラブ」に「およそ・らしからぬ 人」が多数含まれている事実、つまり単純に「本格ミステリの名の下に集った」とは信じ難い人が多数含まれている事実も、おのずと合点がいこうというものであろう。つまり、ここにも「長いものには巻かれておいた方が、何かとお得」という「大政翼賛」的・「大同団結」的・「野合与党」的欺瞞が、否定し難く露呈しているのである。

 だから、その集団は当然のことながら「批評精神」不在の「仲良しクラブ」となる。「本格ミステリ作家クラブ」には批評家を名乗る人も多数含まれているけれども、この人たちに健全な自己批評が可能だとは、私は到底信じられない。聞くところによると、何でも「本格ミステリ作家クラブ」は「年間最優秀の本格ミステリ作品に与えられる賞の設立」がその大目的だそうだが、これほど露骨な「文学賞・権威主義」は、批評家の発想がかかわるものだとは、私には到底考えられないことだ。だから、逆に『新人作家の登竜門(採用試験)としての公募新人賞以外の文学賞は、基本的に認めない』とする立場の島田荘司が「本格ミステリ作家クラブ」に入らなかったというのは、現今のミステリ界では「例外的に」、まことに筋の通 った話だと、高く評価できるのである(それ故、島田にだけは転んで欲しくないものだ。年をとって勲章を欲しがること程、みっともないことはないのだから……)。

 人望が厚く、誰よりも本格ミステリを愛しているという点で、まさに適任と言ってよい有栖川有栖が初代会長に就任したことで、その「政治臭」が隠蔽されてしまいがちではあるが、こうした動きが、笠井 潔による「本格ミステリの地位向上・覇権運動(闘争)」の延長線上に位置するものであることは、この10年、ミステリ界とつき合ってきた者、すべての目には、もはや明らかであろう。それが冗談(「笠井(党)書記長」等)にも語りにくいところにこそ、現今の日本のミステリ界の「全体主義的不健全さ」を見て取ることが、「批評的に」は可能なのである。

 以前、法月綸太郎が『虚無への供物』を評して「ラストの犯人指摘は、一億総懺悔と同じ」などという寝言を公言したことがあったが(竹本健治『ウロボロスの基礎論』講談社ノベルス 参照)、そういう妄想を抱くのは、じつは意志薄弱な法月自身が、「笠井 潔」に巻かれ・「本格ミステリの活況」に巻かれ・すぐに「状況」に巻かれ巻かれて、「(本格ミステリ国への)愛国心」を説いたり・忠誠心を声高に表明したり・一転「総懺悔」を提唱したりするタイプの人間だからなのだ(法月のエッセイに「老いぼれる前に、くたばりたい」とかいうタイトルのものが、ごく初期にあった)。自分にそうした精神的脆弱さを見、それを否定したいと半ば無意識に考えているからこそ、それを妄想的に他人の上に投影し、これを大袈裟に否定して、自分のアリバイとしなければ気が済まなかった、というのが「事の真相」だったのである。

 ともあれ、私は「本格ミステリ作家」を含むエンターティンメント作家(評論家等も無論含む)などには、もう随分以前から何も期待してはいない。彼らには、小説を書き、評論めいたものを書いて、娯楽をもとめる大衆を慰撫する程度の「小才」は確かにある。しかし、彼らには「思想」や「倫理」と呼べるようなものは、端から無いのだ(あるつもりではあったろうが)。いや、「無い」ことはないのかも知れないが、いずれにしろそれは、移り気で無責任な「凡庸な大衆」並のものでしか無かった、ということなのである。

 私が初めてミステリについて書いた論文は、「『偉大なる夢』への儚き抵抗」というタイトルの、「乱歩が もの書きとして、戦時状況に敗れていく姿を、作品分析を通して、批判的に論証したもの」である。……つまり、ミステリ界のことを「第一」などとは毛頭考えない私が、ここで言いたいことは、ただひとつ。綾辻・法月を含む、今のほとんどの「もの書き」は、ほぼ例外なく「体制に順応」して、「捨て石」になるしかない「凡庸な我々」を、「その時」は必ず「売る」だろう、ということである。第2次大戦下の日本における「知識人の醜行」は、決して過去の話でも、「特殊」状況下の・「特別 」に卑劣で精神脆弱な人たちの「繰り返される怖れは無い」話ではない、ということなのである。これは私や貴方、そしてプロの作家や評論家を名乗る貴方がたに、今も切実な問題であり、自らに深く鋭く問い続けなければならない「生きた難問」なのだ。

 何か異論があれば、プロ・アマ問わず、遠慮なく意見を聞かせて欲しい。一緒に考えようではないか。


 だが……君にその勇気があるか?


2001年1月27日


(※ この文章は、当サイトの掲示板「アレクセイの花園」に、私が本年1月14日と同18日の2回にわたって書いた文章を、ひとつにまとめて、手を加えたものです)



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