★ ★ ★  アメリカの双児  ★ ★ ★
ボウリング・フォー・コロンバインツイン・ピークス

『ボウリング・フォー・コロンバイン』  マイケル・ムーア 『ツイン・ピークス』 デイヴィッド・リンチ アメリカ イラク戦争 ブッシュ アカデミー賞 カンヌ国際映画祭55周年記念特別 賞 マリリン・マンソン

 

アレクセイ(田中幸一) 

 

 「カンヌ国際映画祭55周年記念特別 賞」に続き「アカデミー賞 長編ドキュメンタリー映画部門」を受賞した、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』。同監督は、イラク戦争」の開戦に配慮して「地味な授賞式」を行なうとしたアカデミー賞主催者側の意向の下に開催された、同賞授賞式の受賞者スピーチの席で「不正な選挙で選ばれた、にせもの大統領ジョージ・ブッシュによる、正義なきイラク戦争に反対する」と大統領批判・イラク戦争反対を公然とぶちあげた。彼のスピーチは、場所柄を弁えない行為として、会場からのブーイングを招きはしたが、ムーアはそれを意に介する様子もなく、存分に言いたいことを言ってから降壇したという。

 この傍若無人な監督が撮ったドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』とは、いったいいかなる映画なのか。私といっしょにこの映画を観に行った友人のホランドくんは、この映画について翌日、当サイト(『LIBRA アレクセイの星座』)の掲示板「アレクセイの花園」」)に、次のような感想を記している。

 内容的には、予備知識以上に新しいものはなくて、要するに、1999年4月20日にアメリカ・コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で発生した、学生2名による銃乱射殺人事件をきっかけに、マイケル・ムーアが「銃社会問題」を追求し、そこからさらにアメリカ社会の根っこにある「恐怖」の心理を暴き出していく、というものでした。
 つまり、この映画の結論だけを先に言ってしまえば、銃が社会に広く普及しているという点ではカナダも同じなのに、「なぜアメリカでだけ」銃器犯罪が多発するのかと言えば、それはアメリカは歴史的に「恐怖」に支配された社会だからだ、ということなんです。つまり「他者=外部」は、常に「私=内部」を侵犯する「脅威」として「恐怖」されるものと感じられている、と言うんですね。だから、わかりやすく言えば「びびり虫=臆病者」が「過剰反応して攻撃的になる」というパターンだということです。これはアメリカの「銃器犯罪」の問題に限らず、「何でもかんでも」の「訴訟社会」の問題、「やつらが我々の仕事と安全を奪っていく」という「人種差別 」問題、それから「ならず者国家は危険であり、先制攻撃が必要だ」の「外交」問題にも、じつに見事に当て嵌まる「アメリカ」論なんです。

 で、ここからはボクの意見なんですが、・・・つまり、アメリカは「強い」から「暴力的」なのではなく、「弱い」からこそ強迫的に「強く」なろうとし、その「強さ」を誇示し続けなければならない(そうでないと「不安」でならない)という「存在」なんじゃないでしょうか? だから「適当なところ」で満足する、つまり「足るを知る」ってことが出来ないということなんじゃないでしょうか? 自分では歯止めが効かない「戦争依存症」なんじゃないのかなあー・・・って思って、救われない気分になったのでした。

(ホランド『「恐怖」の研究』・4月 7日 投稿分より )

 「恐怖」に蹂躙されたアメリカ社会。このことは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』に登場した、アメリカのハード・ロック歌手 マリリン・マンソンが、ムーアの「なぜアメリカは銃を捨てられないのか?」という問いにたいする答として語った『……洪水、エイズ、殺人……メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。そしてこのキャンペーンは、人々を怖がらせることによって消費へと向かわせようとする発想に基づいている。その恐怖心が人を銃に向かわせるんだ』とも、合い通 じている。

 マリリン・マンソンについて、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のパンフレットから、紹介しておこう。

コロンバイン高校銃乱射事件の犯人が心酔していたハード・ロック歌手。年齢不詳。マリリン・マンソンという名前はハリウッドの伝説的スター、マリリン・モンローと連続殺人犯、チャールズ・マンソンに由来している。1992年にバンド結成。シアトリカルなステージと凝ったアートワークでカルト的人気を集め、98年の『メカニカル・アニマル』では全米1位 のミリオンセラーを記録。このアルバムによりその人気は絶頂となるが、一方で、反キリスト教的な悪魔崇拝や自殺や薬物の使用、暴力などをうたった歌詞が若者を扇動しているとして、社会から敵視される存在となる。熱狂的ファンの中には、彼を真似て黒いトレンチコートをまとい、顔を白塗りにし、爪を黒く塗る者も。米会議はマンソンの音楽を「危険思想」を広める音楽として取り上げ、規制も検討するほどの深刻な社会問題になった。コロンバイン事件の犯人も「トレンチコートマフィア」を自称していたため、この事件がマリリン・マンソンのせいにされ、激しい非難を受けた彼はツアー中止にまで追い込まれた。(以下略)

 その彼、マリリン・マンソンが、「コロンバイン事件」に関する彼への非難について、こう答えている。

オレがアメリカをダメにしてる? 冗談、ダメなアメリカがオレを生んだんだ

 その通りだろう。一人の歌手の「芸風」がアメリカを病ませしめたのではない。「恐怖」に病んだアメリカ社会が、その「恐怖」の日常性によって、逆にそれを「偏愛」してしまう歌手と、その「偏愛」に共感してしまう多くの若者を生んだのである。これは決して、その逆ではないのだ。

 

 この映画のパンフレットを読んでいて、もうひとつ「腑に落ちた」点があった。
 それは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』と『ツイン・ピークス』(デイヴィッド・リンチ監督)が「とても似ている」ということに関してである。

 「ユーモア」をその武器とする「陽気」なマイケル・ムーアに対して、「神経症的な」デイヴィッド・リンチ。この対称的な両者の「共通 点」とは、いったい何なのか? ……それは、マリリン・マンソンと同様に、「目に見えぬ 恐怖に支配されたアメリカ社会」に「嫌悪しつつ魅惑され」「魅惑されながら嫌悪している」という、アンビバレンツな心理である。

 私は、「銃社会批判の映画である」ということ以外は、ほとんど何の予備知識なく、この映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観たのだが、そこに描かれた「銃乱射事件」の舞台であるアメリカの「郊外」の町リトルトンが、「ツイン・ピークスの町に似ている」とすぐに直観した。そして、その切っ掛けは、この映画の登場人物の一人、事件の舞台となったコロンバイン高校の卒業生で、ブラックな味わいのテレビアニメ『サウスパーク』の原作者マット・ストーンの、次のような証言であった。

コロンバインはすごく嘘っぽい学校で、リトルトンはうんざりするくらい平和で変化のない町だ。あの頃、たとえば、試験で失敗したら、そのまま一生負け犬でいなければならないという恐怖に支配されていた。(事件の犯人である)エリックとデュラン(中略)は感じていたと思う。今の自分が永遠につづく……でもそれは間違いで、やがて出口が見つかるという事実に彼らが気づいてさえいれば……

 表面 的には『うんざりするくらい平和で変化のない町』、表面 的には「優等生」ぞろいの学生たち。しかし、その裏側で「息がつまりそうな不安と恐怖」が彼らの中に蟠っていた。
 ……12人の生徒と1人の教師の命を奪ったコロンバイン高校銃乱射事件の町リトルトンは、そんな「ツイン・ピークス」そっくりな町だったのである。

 帰宅後にパンフレットを読んで、初めて『ボウリング・フォー・コロンバイン』が、カンヌ国際映画祭で「カンヌ国際映画祭55周年記念特別 賞」を受賞した経緯を知った。

2002年カンヌ国際映画祭を最も賑わした作品、それが『ボウリング・フォー・コロンバイン』。ドキュメンタリーとしては46年ぶりのコンペ出品作となった本作は、前例のない20分にも及ぶスタンディングオベーションを巻き起こし、上映館に人々が押しかけ大騒動になるという事態にまで発展。審査委員長のデイヴィッド・リンチは、この映画に惚れ込み、急遽「カンヌ国際映画祭55周年記念特別 賞」をつくって、限りない賞讃と敬意を贈った。

 つまり、デイヴィッド・リンチは『ボウリング・フォー・コロンバイン』に、ノンフィクションとしての『ツイン・ピークス』を見たのではないだろうか。
 ……暗く暗くどこまでも暗く、希望の光は「書割り」に差し込むライトの光、作り物の希望。人々は見えない「恐怖」に怯え、不安の闇の中に生きている。

「他者=外部」は、常に「私=内部」を侵犯する「脅威」として「恐怖」されるものと感じられている

 つまり、「私」はいつ、その「恐怖」に侵され、乗っ取られるかも知れない。……そんな不安を描いたのが『ツイン・ピークス』の、あの救いのないラスト・シーンではなかっただろうか。その意味では、マイケル・ムーアとデイヴィッド・リンチは、見掛けがいかに違っていようと、共に「アメリカ(白人社会)の申し子」「アメリカ(白人社会)の鬼っ子」であることに変わりはないのである。

 しかし、その一方で、上に引用したホランドくんの言葉は、「オウム真理教」を論じた社会学者 大澤真幸の議論を想起させるものがある(『虚構時代の果てに オウムと世界最終戦争』/ちくま新書)
 
(記憶違いがなければ)大澤は、「毒ガス(=目に見えず、いつのまにか私を侵犯する悪意の象徴)攻撃」を受けていると真剣に訴えていた「オウム真理教」教祖や幹部たちの「被害妄想的な恐怖」を語りながら、彼らの脆弱なメンタリティーを指摘していた。そんな彼らによる『世界最終戦争(ハルマゲドン)』計画は、なんと「コロンバイン高校銃乱射事件」や「アフガン空爆」「イラク戦争」に似て「過剰防衛」的であったことだろう。つまり、もはや「アメリカ(白人社会)の不安」は、決して他人事で済まされない段階にいたっているのである。

 『ボウリング・フォー・コロンバイン』では、過剰に「他者」を恐れ、過剰に「戸締まり」をし「武装」する「郊外」居住のアメリカ白人と比較して、戸締まりなどしない隣国カナダの人々(白人)の生活を、対比的に紹介していた。ここで紹介されているカナダの人たちは、ムーアの「泥棒が怖くないんですか?」という質問に対し「怖くないことはないけど、そこまでしなくてもいいでしょう。入られる時は入られるんだし、心配してても切りがないですよ」などと答えている。
(※ マイケル・ムーアは、そんな(健康な)カナダ人たちを、一方では『サウスパーク』で、ダサくて緊張感のない田舎者として、否定的に描いているらしい)

 「心配しても切りがない」にもかかわらず「心配」するという心理。……それが「不安(恐怖)」というものなのだろう。
 このように理屈では度し難いものであるからこそ、「不安
(恐怖)」は「他者」を怪物化し、人を「過剰な攻撃」に駆り立てるのではないか。そして、こうした「不安(恐怖)」は、もはやアメリカ一国に止まるものではない。アフガンやイラクの悲劇にも明らかなとおり、『ツイン・ピークス』に描かれた「闇の力」は、もはや全世界、我々の周囲にまで、確かな影響を及ぼしはじめている。アメリカの爆弾が、今日も世界のどこかで、人々を「ボウリングのピン」のように、なぎ倒しているのである。それが私たちの、偽らざる「日常」なのだ。

 

 

執筆: 2003年4月10日
改訂: 2003年4月21日

初出: BBS「アレクセイの花園(2003年4月10日)

 


 

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