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◆ 夢に安住できなかった男 ◆
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―― エドモンド・ハミルトン論
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碧川 蘭(ホランド)
河出書房新社の「奇想コレクション」叢書の一冊として、エドモンド・ハミルトンの短編集『フェッセンデンの宇宙』が刊行されました。
エドモンド・ハミルトンと言えば、『キャプテン・フューチャ−』シリーズの作家として知られおり、そのため一般
に「宇宙冒険活劇」の作家だという印象が強く、ボクも何となくそう思っていました。でも、今回刊行されたアンソロジー短編集『フェッセンデンの宇宙』の表題短篇は、あんまりSFを読んでいないボクでもそのタイトルだけは何度も聞き及んでいるという、古典的な名作中の名作です。――フェッセンデン博士によって研究室のなかにつくられた完璧な「小宇宙」。サイズが小さいだけで、その宇宙のなかには「ボクたちの宇宙」とおなじだけの内容がつまっていると言うんですから、当然これは「メタ宇宙論」的な先駆的作品でもあり、多くの後進の作家の想像力を刺激しただけではなく、しばしば「小宇宙」の代名詞として「フェッセンデンの宇宙」が言及されるようになったんですよね。
翻訳者で、このオリジナル・アンソロジーを編んだ中村融さんは、ハミルトンについて「単なる活劇作家ではなく、独創的なアイデアの案出に優れた作家だった。しかし、個々のアイデアを惜し気もなく使い捨てにしてしまったので、後続の作家がそれを生かして評判を取るといったことが再々あって、そうした意味では世評的にはたいへん損をした作家だった」という主旨のことを書かれています。
日本(のSFファンの間)では、短篇にも優れたものの多い作家だと評価されてきたんですが、英米のSF界では『キャプテン・フューチャ−』シリーズなどの成功があだになって、二流の通
俗SF作家と評価され、ながらく黙殺の憂き目をみて、正当な全体的評価をうけてこなかったようです。でも、このアンソロジーを読めば、ハミルトンが決して単純な「冒険活劇作家」ではなく、独特の屈折を持ちながらも、その「あこがれ」に根ざした叙情性のある、すぐれたSFの書き手だったということが大変よくわかります。
では、エドモンド・ハミルトンの「あこがれ」とは、どのようなものなのでしょうか。それは「天駆ける夢」つまり「解放された自由への思い」だと思います。これは逆に言えば、ハミルトンは「縛られてある自己」を強く意識していた作家だということでもあり、だからこそ『キャプテン・フューチャ−』シリーズような宇宙冒険活劇を成功させたんだ、とも言えるのだと思います。
「縛られてある自己」 と、それに発する「解放された自由への思い」という対は、ハミルトンの作品に「メタ(自己言及)」的な、独特の「二重性」を与えています。つまり「冒険活劇の世界」とそれを夢見ている「平凡で退屈な現実の世界」という「二重性」が、しばしば作品の中にまで持ち込まれるんです。その代表的な作品が、掉尾に収められた、本集でいちばん長い作品「夢見る者の世界」です。
この作品では、「オリエント・ファンタジーの世界」の主人公、つまり何時の時代とも何処の国とも知れないけれど、戦乱の「中世東方とおぼしき場所でのヒーローと美女の冒険物語」の主人公と、現代(といっても、本作執筆当時)のアメリカの気弱で平凡なサラリーマンが、数奇な運命の糸でつながれます。前者のヒーローは子供の頃からずっと、夢の中では後者のサラリーマンの人生を歩んできており、逆に後者は夢の中ではずっと前者の人生を歩んできました。そしてそのどちらの夢も、時間軸に沿って矛盾なく進行する一個の人生であり、普通 の「夢」とはぜんぜん違い、一貫性と整合性をもっていました。でも、当初はどちらも、それが「変な夢」であり、自分の人生こそが「本物」であることは、つゆ疑わずに生きてきました。ところが、前者主人公の父が族長をつとめる国が、他国によって攻撃され存亡の危機にさらされだすと、後者は気が気ではなくなり仕事も手につかなくなって、とうとう精神科医の診察をうけることになります。そして・・・。
この物語は「二つの世界」がつながった結果、その結節点であった主人公に「死」が訪れます。この結末が意味しているのは、「フィクションの世界」とは元来、一種の「独立した小宇宙」であるべきであり、それが作家や読者の住む「現実の世界」と連絡する時、すでにそこには「古典的」に安定した「幸福で特権的な作中世界」は喪失している、ということなんだと思います。
つまり、娯楽小説というものは元来、それがSFであれミステリであれ恋愛小説であれ、その世界が作中で完結しており、読者は本を開いている間だけ、その世界を楽しめるようなものでなくてはなりませんでした。しかし、現代の「自意識」は、そういう世界をも相対化せずにはおきません。中井英夫の『虚無への供物』の、ある登場人物が「いきなり作中人物がふり返り、読者を指差して、貴方が犯人だと告発するような、そんな探偵小説はイヤだな」と言ったように、現代の小説は、それまでは絶対に保障されていた「フィクション」における「読者の安全な位
置」というものまで相対化し、「これは作りごとではあっても、他人事ではありません。これは貴方自身の物語でもあるんですよ」と、読者にとってはおおむね好ましくない形で、読者の特権性(高みの見物席)を奪ってしまったんです。
で、単純な「冒険活劇作家」と見られているエドモンド・ハミルトンには、意外にもこうした「メタ」指向がハッキリと見られ、彼が単純な「娯楽作家」ではないという事実を証拠だてています。
たとえば、表題作の「フェッセンデンの宇宙」は、自分の造り出した宇宙で好き放題の実験をくり返す、狂気の科学者の姿を描いて、「科学」というもののあり方に疑義を呈した作品だとも言えますが、少し視点をかえれば、そうしたフェセンデン博士の姿は「世界を造り、破壊する」作家の姿(そして、そうした娯楽を求める読者の姿)そのものでもあるんですよね(ちなみに、エドモンド・ハミルトンのあだ名は「世界救済者」あるいは「世界破壊者」でした)。
また、本集所収の「追放者」は、仲の良いSF作家が集まった席での、あるSF作家の「お話」という形式をとった「メタ・フィクション」です。
本集で特に注目すべきは、有翼人の運命を描いた「翼を持つ男」でしょう。・・・こう書くと、翼を持った男が世間から迫害される話なんじゃないかって、想像した人も多いでしょうけど、これがぜんぜん違うんです。
羽をもって生まれてきた主人公のために、彼の生誕に立ち会った博士は、孤児である彼を引取り、世間から隔離して育てることにします。やがて主人公は、博士と下男下女の四人だけで暮す孤島の空を自由に飛びまわる少年に成長しますが、博士から「島から出てはいけない」と言われていることに、不満を感じるようにもなります。というのも、島へ訪れる鳥たちは、季節の変化にともなって自由に渡りをくりかえしていたからです。だから少年も、外の世界と自由にあこがれをもったのです。そして、その夢は、博士の急死によって突然実現します。彼は島を出て、あちこちを自由に飛びまわった結果
、地面に貼りついてうごめく下界(人間界)の様子には失望し、やがて空を住処とする野生の人になっていきます。
ところが、野鳥とまちがわれて発砲をうけ負傷した彼は、そのことがきっかけで一人の娘を熱愛するようになります。しかし、その娘は平凡な常識人だったので、彼を愛してはいるが、翼が生えている人とは結婚できない、と言います。それで主人公は悩んだ末「空の世界」を捨てる決心をし、外科手術を受けて翼を切り落とします。以降、彼は、良き夫・良き社会人となり、子供まで授かるのですが、――ときどき、空を渡り行く鳥たちをぼんやりと眺めている自分、それに言葉にならないうずきを感じている自分、の存在に気がつきます。そんなある日、彼は背中に痛みを感じ調べてみると、翼が再生しようとしていることがわかりました。彼は一瞬、驚きとともに喜びの感情を持ちますが、もとより今さら妻子を捨てるつもりはなく、また新しい翼は前のにくらべるとずいぶん貧弱でいじけていて、とても飛行の用を満たさないものと思えたので、彼は当面
、周囲に新しい翼のことを隠すことにしました。
そんなある夜、渡りの鳥をたちの声を聞き、彼は「一度だけ、この最後の翼を切り落とす前に飛びたい」と飛翔します。そして、ふたたび空を自由にかけめぐった彼には、もう「地上の生活」は「夢の中の生活」のように思え、彼はそのまま鳥たちとともに「空の世界」へ還っていったのでした。
妻子を置き去りにするなんて・・・ひどい話だと言えば、まさにそのとおりなんですが(笑)、ここには「あちら側の(自由な)世界」と「こちら側の(縛られた)世界」に関するハミルトンの気持ちが、かなりハッキリ表れていると思います。
たぶん彼は「こちら側の世界」にも、それなりに愛着を感じ、それなりに誠実に生きた人なんでしょう。でも「あちら側の世界」への止み難い希求が、つねに彼のなかには渦巻いていた。だからこそ彼は、稀代の物語作家にもなった。・・・でも、彼はたぶん「異世界をつくる者」ではなく「異世界に住む者」でありたかったんでしょうね。できれば「翼を持つ男」のように「あちら側の世界」へ飛び込みたかった人なんでしょう。
中村融さんの解説には、ハミルトンがネイティブ・アメリカンの血を引いているという、とても興味深い事実が報告されています。だからと言ってボクは、ハミルトンの「あこがれ」が、そうした「血」に由来するものだとは思いません。でも、ハミルトン自身は、きっとそれを強く意識したことでしょうね。本来ならば、アメリカの大地を自由に駆け巡っていた人々の子孫であるという意識が、ネイティブ・アメリカンの羽飾りをして「翼を持つ男」の物語を発想させたのだと言っても、あながち無理な想像だとは言えないでしょう。
本来、自然の中で自然とともに生きた者の子孫であるはずの自分が、今はその征服者にとりこまれた文明人の一人として、荒唐無稽なお話を綴っているという皮肉な運命の現実。そうした自己理解が、いやでもハミルトンをして「自己言及(メタ)」的にせざるをえなかったのでしょう。
でも、ハミルトンのこうした視点。つまり「縛られた者の視点」は、彼の作品に「正義を振りかざす、楽天的なアメリカ人」とは明らかに違った、独特の屈折・陰翳を与えています。それをよく示すのが、本集所収の「向こうはどんなところだい?」です。
この作品では、人類が原子力発電に必要なウラニウムを求めて、他の惑星への進出をすすめている「未来」が描かれています。その時代においては、国連によって組織され、危険な宇宙開発に乗り出していく男たち(宇宙軍兵士)は、みんなの英雄的存在です。でも、表には出されないけれど、宇宙開発の現場は、人を使い捨てにする非人間的に過酷な場所でした。語り手は、そうした宇宙開発の現場からどうにか生還できた男で、この物語は、そんな彼が殉職した同僚たちの家族に「嘘でかためたきれいごとの報告」をして回るという構成をとっています。「だって、本当のことなど、残酷すぎて話せないだろう」ということだし、政府も「事実を語ることを禁じていた」と言うわけです。
たしかに手をつくした。まだ思いだせる、ブレックがジムのそばについているあいだ、ウォルターとぼくが寒い夜に病院までとぼとぼ歩き、衛生兵をつかまえようとしたが、つかまえられなかったことを。
忘れられないのは、ふたりで引き返すときに、ウォルターが燃える空をを見あげ、地球という大きな緑の星にこぶしをふりあげた姿だ。
「あそこにいる連中は、今夜ダンスをしたり、ショーを見たり、ぬくぬくとあたたかい部屋にすわって笑ったりするだろう! あいつらに安い電力用のウラニウムをくれてやるために、どうして立派な男たちがここで死ななくちゃならないんだ?」
「だいじょうぶだ」と疲れた声でぼく。「ジムは死なない。治ったやつも大勢いる」
あそこで最上の医療措置だって? とんだお笑いぐさだ。ぼくらにできたのは、顔を洗ってやり、衛生兵の置いていった錠剤を呑ませ、ジムが死ぬ まで日毎に弱っていくのを見まもることだけだった。
この作品は、1952年に発表されていますから、ベトナム戦争もイラク戦争も関係はありません。でも、そこにはもう、「アメリカの戦争」の本質が語られています。つまり、この物語における「火星」が「収奪される土地」としての「イラク」であり、この物語の「地球」が「アメリカ」であっても、なんら不都合はありません。周知のとおり、戦争の現場へ狩り出されるのは、アメリカ人のなかでも「貧しい層」の人たちで、おのずとそれは、アングロサクソン以外の白人、有色人のしめる割り合いがとても高いということになります。例えば、アメリカで黒人にしめるのより、はるかに高いパーセンテージを、アメリカ軍では黒人がしめていますし、同様に他の有色民族やその血をひく者たちのパーセンテージも、必然的に高い。だから、ネイティブ・アメリカンの血をひくエドモンド・ハミルトンも、そのあたりの事情にはきっと敏感だったんでしょうね。
で、少し前に「フェッセンデンの宇宙」について、この作品は『自分の造り出した宇宙で好き放題の実験をくり返す、狂気の科学者の姿を描いて、「科学」というもののあり方に疑義を呈した作品だとも言えますが、少し視点をかえれば、そうしたフェセンデン博士の姿は「世界を造り、破壊する」作家の姿(そして、そうした娯楽を求める読者の姿)そのものでもある』という指摘を行ないましたが、これは「向こうはどんなところだい?」でも、同様の指摘が可能です。
つまり、作中、ウォルターによって『あそこにいる連中は、今夜ダンスをしたり、ショーを見たり、ぬ
くぬくとあたたかい部屋にすわって笑ったりするだろう!』と告発された「あそこにいる連中」に、語り手の「ぼく」同様、現実の悲惨さを押し隠して「きれいごとの、荒唐無稽な、勧善懲悪物語」を作り与えているのが、ほかならぬ
「虐げられた者」の一人である彼、エドモンド・ハミルトンであり、そして彼自身もまた「あそこにいる連中」の一人でもあるという、苦々しい事実です。
こうした「苦々しい現実」にたいする「無力感」という屈折を強く抱え込んでいる作家だからこそ、彼の想像力は「荒唐無稽」なまでに大きく羽搏くことを欲し、事実そのとおりに羽搏きました。それが『キャプテン・フューチャ−』シリーズような宇宙冒険活劇として結実したんです。
でも、彼はそれだけに安住することができなかった。つねにその安住を自分に許さない「もう一人の自分」がいた。だから、彼は手をかえ品をかえて、自己言及をくりかえし、自分が逃避したいと願う「あちら側の世界」をも、相対化せずにはいられなかったのでしょう。そうした意味で、エドモンド・ハミルトンは決して単なる「荒唐無稽な物語作家」ではありません。むしろ「荒唐無稽な物語作家」に安住することができなかった、それを自身に許すことができなかった、優れて自覚的な「現代の物語作家」だったのだと思います。
執筆・2004年5月6日
改稿・2004年5月8日
初出・BBS「アレクセイの花園 」(2004年5月6日)