選択の表  
『黒祠の島』と『十二国記』

 

 

碧川 蘭(ホランド)  

 

 約3ヶ月前、ボクは楽古堂主人・大内史夫「赤気の歌1― 小野不由美『黒祠の島』ノートを読みました。その時は、大内がそこで解説した『黒祠の島』のテーマに、それほど感じるところはなかったのですが、今回『黒祠の島』を読んで、一転、ボクはそこにものすごく切実なものを感じてしまいました。小説本編を読んだから「そのテーマが血肉を得て切実に迫ってきた」というようなことではなく、それは「自分の体験」に直に触れてくるものとして痛切なものであらざるを得なかったのです。

 『黒祠の島』は、大内が先の論文で『推理小説的な筋立てを、表面 的には取っている。しかし、その膜は薄い。動機、アリバイ、凶器、トリックともにそれほどの工夫がされているとも思えない。この点からの点数は低いだろう。』と指摘しているとおり、本格ミステリ(パズラー)としては「弱い」作品だと思います。ラストのどんでん返しを支えるメイントリックは、決して目新しいものではないし、第一それは「犯人」や「犯行方法」などの意外性に、直接関係してくるものではありません。ですから、種明かしをされた読者は「なるほど」と納得はしても「あっ!」と驚くということはなく、その意味で、このメイントリックはカタルシスに乏しいものなっているのです。もっとも、作者自身、(単なるパズラーとして)ただ読者の裏をかいて驚かせるために、この作品を書いたのではなさそうで、作者の筆はもっぱら「非日常の論理」が支配する「異常な世界」の構築に傾けられています。

 推理小説(ミステリ)の世界には「狂人の論理」という言葉があります。・・・例えばここに、「事件に一貫した論理(謎の解答)」が見つからず、そのため犯人を特定することができない連続殺人事件があったとします。この場合、一種の「論理パズル」たらんとする本格ミステリでは「結局、無差別 (無意味・非論理)殺人だった」では済まされません。ですが、その一方で、動機(謎の解答)が「常識的論理」に収まる「意外性の低いもの」では「パズル」としての価値がありません。つまり本格ミステリに求められる動機というのは「論理的だけれど、意外なもの」といった、一種の自己矛盾を含んだ「論理」なのです。そして、そこで登場したのが「狂人の論理」というものなのです。一見「論理的」だけど、根本のところで「狂っている」というのが「狂人の論理」。例えば、つまらない例で言うと「大切な人だからこそ自分の手で殺す」とか「ここで事件が終わっては、バランスが悪いから、あと数人殺して形を整える」とかそういう「論理」です。この手の作品は、探偵が登場人物たちの行動を観察していく中で、ある人物に特有の行動の歪みを発見し、それが事件の一貫した「論理」と相似を為していることに気づいて、その人物を犯人として告発するというパタ一ンが基本となります。当然、この種の作品で重要なのは、ユニークで前例の無い「狂人の論理」を発明できるかどうかと、伏線としての「犯人の異常性」をいかにさりげなく描写 して見せるかにかかっていると言えるでしょう。でも、このパターンもたくさん書かれれば、当然、しだいにアイデアが極端に走るようになり、ややもすると「何でもあり」のリアリティーに欠けた(悪い意味でのマンガ的な)作品になってしまいがちで、そのために「狂人の論理」の「異常性」が、かえって際立たなくなるといったインフレ傾向が出てきます。そこで「狂人の論理」にリアリティーを与え、その「異常性」を担保してやる方法として工夫されたのが「異常な世界」の構築なのです。

 「異常な世界」における本格ミステリの代表作と言えば、やはり山口雅也の『生ける屍の死』(創元文庫)をおいて、右に出る作品はないでしょう。この作品は「死者がゾンビ(生ける屍)として甦る世界」における「殺人事件」を扱っています。当然、この世界では「生者」と「死者(ゾンビ)」が入り乱れて事件が進行してゆきます。読者は予めこの「世界設定(歪みの基本法則)」を作者から示されていますから、そのあたりの混乱については充分に意識して、物語を読み進めていきます。けれども「世界設定(基本法則)」の異常さを知らされてはいても、造物主(作家)自身ならぬ 読者には、その世界独自の「個々の論理」まで完全に把握しきれるものではありません。山口雅也のこの傑作も、この間隙を突いて、見事に読者を欺きおおした作品だったのです。つまりここに描かれるのは「異常な世界での、正常な論理」としての「異常な論理」であり、従来の単純な「狂人の論理」よりは「世界の異常(の法則)性」が示されている分「フェア」な作品となっているのです。

 さて、ここでやっと『黒祠の島』の話になります。「黒祠」とは、明治時代の国家神道という政策の流れの中で、その統制に服さなかった神社を指す言葉なんですが、かつて「夜叉島」と呼ばれていたこの作品の舞台となる小さな島は、今も「カンチ」と呼ばれる「鬼」を祀っています。カンチは、もともと相手構わず人間を襲う悪鬼なのですが、行者によって調伏され「悪いことをした人間にしか襲わない」という誓いを立てた鬼です。そして、この島の住人はそういう伝説・信仰が今も生きる島で生まれ育っていますから、たとえば何か良くない(不吉な)ことがあれば「カンチ」の仕業ではないかと「半ば無意識」に考えるようになっています。誰か実際に手を下した人間がいなければ絶対に不可能な殺人死体を前にしても、島の人たちは「カンチがやった」と考えて、実行犯である「人間」については「思考停止」してしまうというのが、この夜叉島という「世界の異常性」なのです。

 犯人はこの「世界の異常性」を意識的に利用して、自分の犯行を「カンチ」のせいにし、人間の手による「殺人事件」を「無かったこと」にしようとします。しかし、このことは、島の「外部」から来た主人公には、わりあい早い段階で見抜かれてしまいますし、またこのことからもわかるように、そういう「犯人の論理」自体は決して「狂人の論理」ではなく、むしろ「平凡」なものであり「意外性には乏しい」ものなのです。そして、むしろ「狂人の論理」に捕らわれているのは、「犯人」ではなく、「島民」の方なのです。単なる「殺人事件」を「鬼による裁き」と意味付けしてしまう「島民の常識」の方なのです。

 つまり作者 小野不由美は、多くの筆を費やして夜叉島という「世界の異常性」を描き出すわけなのですが、それは「犯人」や「犯行」の異常性・意外性を際立たせるためのものではなく、もっぱら夜叉島という「世界の異常性」と、見掛けに反したその「内的必然性」を強調するためのものとなっています。そのため、この作品は「ミステリ」としては「意外性」に乏しく「カタルシス」にも乏しいものにならざるをえなかったのです。

 では作者はそこまでして、いったい何を描きたかったのか? 無論それは『夜叉島という「世界の異常性」と、その「内的必然性」』なのですが、これを描くことは、いったいどういう点で価値があるのでしょう? ・・・それは『夜叉島という「世界の異常性」』は、決して「夜叉島に止まるものではない(一定の普遍性を有する)」という点にあるのです。

 『黒祠の島』が刊行された直後、あるミステリマニアが「ミステリとしてはわりあい印象は薄いのですが、さすがは小野不由美で、旧弊な信仰にとらわれて島民の描写 がすばらしく、その恐ろしさにドキドキしながら読みました」という主旨の感想を書いているのを目にしました。たぶんこれは『黒祠の島』読者の、あるいは小野不由美ファンの、ごく一般 的な、正直な感想だと思います。しかし、大内が、

式部は、島民の行動のパターンを次のように分析する。 「そもそも死体が発見された時から、島の中には、事件を隠蔽しようという意識がありはしなかったか。それも、あれだけ凄惨な死体を前にしても揺らがないだけの強い総意だ。」(166ページ) 異常である。しかし、この異常性には、どこかで見覚えはないか。 エイリアン(余所者、異邦人、外人等々)に対して、けして心を開かず、臭いものには蓋をして、知らぬ 存ぜぬを決め込む、旧弊で偏屈な村人たち。どこかで見たことはないか。会ったことのある人々ではないか。そう、これは、自分自身も含めて日本人の自画像である。
ぼくたち日本人は、友邦の「凄惨な死体」を目にしても、「事件を隠蔽しようという意識」を「揺らがないだけの強い総意」を持っている。いや、歴史の話などではない。現代も、今、ここで「いじめ」という「事件を隠蔽しようとする意識」を、教室という単位 で「揺らがないだけの強い総意」を保持している。
つまり、『黒祠の島』という「異邦の土地と異人の物語」も、『十二国記』と同じく「もうひとつの日本と日本人の物語」である。それは、背中から異様な戦慄を伴って迫ってきた、あの恐怖感の正体である。ぼくたちは、近親憎悪の感情を小野に掻き立てられていたのだ。

と指摘しているように、『夜叉島という「世界の異常性」』をただそこに終止するものとして「他人事」のように読んだとしたら、作者がミステリとしての面 白さを犠牲にしてまで「描いたもの」の価値を正しく評価したとは言えないと思います。大内は、そのことについて、

『黒祠の島』では、『十二国記』の読者の中心であった、若い女性層に作者の顔は向いていない。一般 的な推理小説の読者だろうか。だとしたら、計算違いがあるように思う。京極夏彦を体験してきた読者の要求は複雑である。ジグソーパズルの比喩を使えば、もう少しピースの数の多い物語を求めるだろう。

とさりげなく指摘していますが、ボクが特に問題としたいのは、まさにこの『『黒祠の島』では、『十二国記』の読者の中心であった、若い女性層に作者の顔は向いていない。』という部分なのです。

 作者 小野不由美の顔が『『十二国記』の読者の中心であった、若い女性層』に『向いていない』とは、どういう意味なのでしょうか? これは身も蓋もない言い方をすれば、このテーマは『『十二国記』の読者の中心であった、若い女性層』には「理解できないだろう・担い切れないだろう」と作者が思っていたということではないでしょうか? 

 『黒祠の島』は、ラストで一抹の光が差し込むものの、決して「完全な解決」は与えられず、事件自体「闇に葬られる」であろうことが暗示された、基本的には「暗い」「否定的」な作品です。一方、同じ作者の『十二国記』は、読者に『若い女性層』を想定したジュブナイル小説として書きはじめられた作品であったこともあり、人間や社会の暗部が描かれるにしても、主人公たちは常にそれらと戦い、最終的には一定の勝利を収めるという、基本的には「明るい」「肯定的」な作品なのです。

 『若い女性層』には『十二国記』が圧倒的な人気を誇る一方で、もっとも顧みられないのが、どうやら『黒祠の島』であったようです。『黒祠の島』の主人公 式部剛がその行方を追う、失踪した友人であるノンフィクション作家 葛木志保は、作中で『加害者を特異な人間として排除することをせず、全ての人間と均質な、理解可能で共感可能な人間として扱う。かと言って決して罪を庇うこともない。加害者の罪はあくまでも加害者の過ちであると捉え、軽はずみに加害者の近親者、あるいは社会にその元凶をもとめることもしなかった。』という凛とした倫理観の持ち主であり、すでに殺されたであろう友人のために、自らの危険を顧みず真相を探ろうとする式部自体も、決して『十二国記』のヒーローやヒロインに見劣りする人物ではありません。しかし、如何せん彼らは「現実」の前に無力でした。なぜなら、彼らには「天」の加護はなかった。だから彼らには傍目に見栄えのする「栄光」は与えられず、それゆえに「読者の賞賛」を得ることもまた適わなかったのです。

 こうして見てくると、結局『十二国記』の主人公たちに対する『若い女性層』の共感とは何だったのか、と問わざるをえません。作者が『十二国記』に込めた思いはどうあれ、多くの読者がそこから引き出したものは、結局「スーパーマンに対する憧れ」以上のものではなかったのではないでしょうか? ただ、その「スーパーマン」が、見るからに「スーパーマン」なのではなく、自分たちと「同じような」悩みや弱さを与えられていたから、その点で「逃避的同一化」がしやすかったということなのではないでしょうか? 『十二国記』ファンの多くは『……強くなりたい……(『月の影 影の海』(下)より)という景王陽子の言葉に、きっと共感したことでしょう。けれども、この言葉を自分のこととして呟いた人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか?

 こうした点に、ボクはいつも「エンターティンメントの限界」を感じます。作者が、そこにどんな願いを込めようと、それがエンターティンメントである限り、読者はそれを駄 菓子のように汚く食い散らして事足れりとしてしまうのです。いいえ、たとえ、そこで語られた作者の願いを理解したとしても、それは「理解」という「知的満足」に止まって「作者の期待」に届くようなことは「絶えて、ありはしない」と言っても過言ではないのではないでしょうか? ですから、たとえ大内史夫がその評論で小野不由美が作品に込めたメッセージを読み解き、それを読者に伝えたとしても、読者の大半は「なるほど」と言って満足するか、「面 白かったんだから、他人の解説なんて興味ない」といって済ませてしまうかの、どちらかなのではないでしょうか? じっさい、大内の言うボクたち「日本人」の『エイリアン(余所者、異邦人、外人等々)に対して、けして心を開かず、臭いものには蓋をして、知らぬ 存ぜぬを決め込む、旧弊で偏屈な村人』という自画像は、あまりにも醜く、『近親憎悪』的嫌悪は避けがたいものですから、「その事実と向き合おう。その事実を乗り越えて、強くなろう」とした景王陽子のような読者が、いったいどれだけいるのでしょう?

 『十二国記』の主人公たちは小野不由美ファンの「理想的自我」を、『黒祠の島』の村人たちの姿は小野不由美ファンの「現実的自我」を描いたものなのではないかと、ボクは思います。つまり『十二国記』と『黒祠の島』は「裏」の関係にあるのではないかと思うのです。そして景王陽子が、自分の「弱さ」「汚さ」「我がままさ」を直視してはじめて「強く」「美しく」なれたように、『十二国記』のファンもただ、その主人公たちに「憧れ」「励まされ」ているだけでは、彼女のように「強く」も「美しく」なれないのだと思います。

 「差別」の問題に格別の興味を持つらしいアレクセイ・田中幸一が、先日、ある場所にこんなことを書いていました。

ナチスが台頭し、それまで隣人だったユダヤ人を迫害し始めた時、これに対しての一般 ドイツ人の反応は大まかに2つに分かれました。一方は「それまでの良識にしたがって、ユダヤ人への迫害を過ったことと考え、ナチスに反抗はできないまでも、ユダヤ人を助けようした人」たちと、もう一方は「ナチスの暴力に怖れを為し、それが如何ともし難いものと感じた瞬間、ナチスの行為への倫理的判断は凍結してしまい。ひとまず自分の身を守るには誰を悪者にすれば良いのかと、半分無意識に考えてしまった人」たちです。
もちろん問題となるのは後者です。こういう人たちが自分の身を守るために、どういう理屈をひねり出したか? それは「ユダヤ人が金に汚いからいけないんだ。卑しい彼らが迫害されるのは当然のことだ。それに関係のない我々が巻き込まれるのは迷惑千万。さあさ、ゲシュタポが来ないうちに出てっておくれ!」……そう本気で考えながら、彼らは助けを求めるユダヤ人の前でバタンとドアを閉ざしたり、時には彼らの隠れ場所をゲシュタポに密告したりしたのです。そして「それの、どこがいけないんだ!」と本気で言ったんですね。
この時、彼らの目に映っているのは「迷惑を持ち込むユダヤ人」だけで、「ユダヤ人を故なく迫害するナチス」の姿は無意識的に視野から、そして思考から排除されています。「ナチス」の行動をまともに思考してしまえば、自分の「保身」を、誰よりも自分に対して正当化できなくなってしまう。だから彼らは「問題の本体」から目を逸らし、スケープゴートを見つけることに専念したというわけです。

 大内史夫は、 夜叉島の問題を「もうひとつの日本と日本人の物語」と捕らえました。しかし、田中の示してみせた「事例」は、『黒祠の島』の描き出したものが「日本」という枠をすら越え出て「人類の普遍的問題」であるという事実を示しているように、ボクは思います。

 はたして、人間はこの枠を越え出られるのでしょうか? いいえ、ここで問題を「人間は」と一般 化してしまっては、ボクたちはまた同じ罠に捕らわれてしまうでしょう。だから、ボクは「あなた」に問いたいと思います。あなたは「夜叉島の村人」という自画像を直視し、そのうえで景王陽子のように「強く」なれますか。それとも『エイリアン(余所者、異邦人、外人等々)に対して、けして心を開かず、臭いものには蓋をして、知らぬ 存ぜぬを決め込む、旧弊で偏屈な村人』として、醜くとも「自分一個の安穏」を守りますか。そうした安穏のなかで『十二国記』に感動しながら、作品を食い散らす生活を享受し続けますか?

 ・・・ボクの問い方は、意地悪で、厳しすぎるかも知れません。ならば、心からの祈りを込めて、もうすこし穏やかな助言で、この論考を締めくくっておこうと思います。

「あのなあ、陽子。どっちを選んでいいかわからないときは、自分がやるべきほうを選んでおくんだ。そういうときはどっちを選んでも必ずあとで後悔する。同じ後悔するなら、少しでも軽いほうがいいだろ」
「うん」
「やるべきことを選んでおけば、やるべきことを放棄しなかったぶんだけ、後悔が軽くてすむ」

(『月の影 影の海』(下)より)

 

 

  2001年10月24日


関連論文「赤気の歌1― 小野不由美『黒祠の島』ノート(楽古堂主人・大内史夫)

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