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◆ 踊る希望の化身 ◆
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――映画『リトル・ダンサー』
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碧川 蘭(ホランド)
この映画は、1984年の、ストライキに揺れるイングランド北部の炭坑町を舞台にしています。主人公ビリーは母親を亡くしており、祖母、父親、兄との4人暮し。当時、イギリスは不況の真只中で、炭坑会社は経営が切迫して、炭坑労働者たちへの賃金支払いが滞っています。そこで労働者たちは、激しいストで賃金の支払いを要求しています。ビリーの父親も兄も、そういうスト派の労働者です。つまり、周りは生活を守るために、目を吊り上げて必死の闘いの最中。そんな中でビリーはダンスの魅力に目覚め、彼の才能を見抜いたバレエの先生の後押しもあって、ロイヤルバレエスクールを目指します。
当然、田舎の炭鉱夫のことですから父親も兄も、男の子がバレエをしたいなどというと「オカマのすることだ」と話も聞いてくれません。もちろん、彼らがビリーの話に耳を貸そうともしない背景には、生活が脅かされ、しかも先行きに期待できない「絶望的な状況」があってのことです。つまり「こんな時に何がバレエだ!」というわけですね。でも、ビリーのダンスへの想いは、そんな状況なんかには関係なく、どんどん膨らんでいきます。そして、ある時、父親は生き生きと踊るビリーの姿を見て、考えを改め「夢をかなえてやりたい。ダンサーにしてやりたい」と考えるようになります。しかし、そのためには先立つものが必要でした。そこでビリーの父親は、スト派を抜けて職場に戻ります。当然、仲間からは裏切り者呼ばわりされ、これまでストに加わらず裏切り者呼ばわりされていた人たちからは「今ごろ、どの面
下げて戻ってきたんだ」と皮肉られバカにされます。無口で頑固で男っぽいビリーの父親としては、とても辛い立場でした。職場に復帰した父親の姿をみつけて、組合のリーダー的存在であったビリーの兄は、びっくりして父親に「何を考えているんだ!」と詰め寄ります。父親はとうとう堪え切れなくなり、息子(兄)を抱き締め、泣きながらこう言います。
「俺たちの先行きは絶望的だ。このまま闘っていてもどうにもならないだろう。だが俺たちだけなら、それでも構わない。だけど、ビリーの夢だけはどうしてもかなえてやりたい。そのためなら人に何と言われたってかまわない。すまん。俺を許してくれ」
・・・実際、当時のイギリスの不況は決定的なもので、ストを続ければ賃金カットどころか炭坑会社自体が倒産しかねない状況でした。だから当時のイギリス首相、「鉄の女」と呼ばれたサッチャーは、警察を導入して力づくでスト潰しを断行したのでした。
こうしたことの是非を、今は問う必要はないでしょう。ただこういう絶望的な状況の中でも、子供は夢を持ち、成長しようとするのだということなんです。そして大人たちは、そういう子供たちに「夢」を託すのです。
「夢を託す」こと・・・これはどう考えれば良いのでしょうか? ある時、ビリーは先生の厳しさに堪えかねて、憎まれ口を言います。
「自分が果たせなかった夢を、僕に押し付けるのはやめてよ。やるのは僕なんだ。できないことは出来ない!」
・・・この言葉は、たぶん先生の心を傷つけたことでしょう。なぜなら、そうした部分はたしかにあっただろうからです。でも、人間が生きていく上で、人に夢を託すというのは、そんなにいけないことなのでしょうか?
僕はそんな風には思いません。自ら精一杯生きて、それでも果たせなかった「夢」を、他人にあるいは子供に託すことができるから、人間は絶望することなく前向きに(未来に「希望」を繋いで)生きていく事ができるのではないでしょうか?
元気に楽しげに、地を蹴って軽やかに踊り狂うビリーの姿は、彼に「夢」を託した多くの大人たちの「希望」そのものなのだと、僕はそう思いました。
2001年3月16日