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目 次
☆―― タランティーノのマゾヒズム (Q.タランティーノ監督『キル・ビル』)
☆―― 「将棋の子」らに、光あれ!
(大崎善夫著『聖の青春』)
☆ ―― ボクたちの認識している現実世界
(中島らも著『ガダラの豚』)
☆
―― よつばとボクら (あずまきよひこ『よつばと!』)
☆
―― ウルトラマンは新生したか? (小中和哉監督『ULTRAMAN』)
★★★ タランティーノのマゾヒズム
『キル・ビル』(クエンティン・タランティーノ監督)を観てきました。しか〜し! タイトルをよく見ると、右下の方に小さく「Vol.1」とあるではないですか! 予告編やポスターに、そんなこと書いてあったかあー?!!! ・・・と思うんですけど、確認はしていません(^-^;)。隅っこに、ちょこっとくらいは書いてあったのかも知れませんね(註1)。で、やっぱり、完結はしておらず「Vol.2」に続く、になってました。
でも、面白かったですよ(^-^)。ちょうど、こないだ観た『スパイダー・パニック』と同じで、監督が好きなものを好きなように好きなところだけ撮ったような映画。だから、ストーリーにはリアリティーなんて欠片も無いんだけど、ディティールで楽しめるっていう感じかな。
キャストには「ゲスト出演」として千葉真一さんが大きな文字で『SONNY CHIBA』って出てましたし、たしかに美味しい役をやってましたね。役柄は、武士の心に通 じた伝説の刀匠『ハットリハンゾウ』(仮の姿は、寿司屋のおやじ)。しかも、千葉さんの弟子みたいな感じで横に控えている坊主頭の男性は、きっと『服部半蔵 陰の軍団』で参謀役をやってたジャパン・アクション・クラブの俳優さんですよね。ボクは、以前再放送でちらっと見ただけだからお名前とかは存じ上げないんですけど、たしか「宇宙刑事もの」の主演もなさった方(註2)じゃなかったかな? ・・・ま、とにかくそういう小憎らしいこだわりのある作品なんですよね。
それと、映画の後半は、ユサ・サーマン演じる女主人公がハットリハンゾウに造ってもらった刀で、怨敵を殺すために、敵の子分たちを斬って斬って斬りまくるんですが、このシーン、とにかく手が飛ぶ、足が飛ぶ、首が舞うという血まみれアクションで、たぶんこのせいで「15禁」になっちゃったんでしょうね。でも、そのなかでも特に面
白かった、と言うと語弊があるけど、・・・興味深かったのは、ジュリー・ドレフィスさんが演じていた悪の幹部に対する、主人公の仕打ち。
この映画に登場する女性は、どちらかと言うと、みんな暴力的な個性派で、およそ女らしさが希薄なんですが、それに対しジュリー・ドレフィスさんだけは、唯一の知性派で、アクションは一切ありません。その見るからに女らしい雰囲気をふりまく整った美形の彼女が、主人公に、いきなり片腕を肩からバッサリ切り落とされて、血の海の中で悶え苦しむんですが、でも、それでいて、きれいな顔だけは決して血で汚れたりしないんですよね。しかも、なかなか死なないと思ったら、後で彼女の口から悪の親玉
の情報を取るために、あえて生かしておかれたということだったんです。で、女主人公は、彼女に情報を吐かせるために、もう片方の腕も一刀のもとに切り落とした上で、悪の親玉
への自分のメッセージを託して、彼女を生かして還すんですね。つまり、きれいなジュリー・ドレフィスさんは肩から両腕が切り落とされた姿で、生きて解放されてしまうというわけです。
このあたりが、いかにも「嗜虐的」な妖しい雰囲気を漂わせていて、ボクにはとても印象的だったんですが、ここからボクは「タランティー監督って、マゾっ気のある人なんだろうな」という印象をうけました。つまり、監督は、ちょっと暴力的なまでに「強い女」に惹かれる(=暴力的に扱われることを望む)傾向があると思うんですよ。だから、ジュリー・ドレフィスさんの演じた役(=例外的な「女性らしい女性」)っていうのは、監督自身のナルシシズムとマゾヒズムを投影した、身代わり的な願望充足キャラクターだったんじゃないかって思ったんです。
あっ、そう言えば、映画の中でジュリー・ドレフィスさんは携帯電話ばかりかけてました(註3)けど、昔、タランティーノ監督が日本のテレビに登場して、憧れの千葉真一さんと共演した時も、携帯電話のCMだったと思います(「しゃべりタランティーノ」)。つまり、ジュリー・ドレフィスさんの役柄は、タランティーノ監督ご本人の投影であるという目印が、この「携帯電話」だったのではないでしょうか?
いずれにしろ、オチで評価が変るようなタイプの映画だとは思わないんですが、でも続きはぜひ観てみたいものですね。心配はいらないとは思うんですが、下手にまとめようなんてしないで、この好き勝手のボルテージを下げることなく、同じようなノリで続編を作ってもらいたいものです(註4)。
註1: ポスターを確認したところ、やっぱり・・・。
註2: 大葉健二。『宇宙刑事ギャバン』で主演。『影の軍団「』『影の軍団・幕末編』で服部半蔵(千葉真一)の配下「がま八」を演じる。
註3: 弁護士役と判明。
註4: 『キル・ビル』は完成した作品が長くなりすぎたため、公開にあたってニ分割したそうです。
執筆・2003年10月29日
改稿・2003年11月21日
初出・BBS「アレクセイの花園 」(2003年10月29日)
★★★ 「将棋の子」らに、光あれ!
大崎さんは、夭折の天才棋士
村山聖の生涯を描いたノンフィクション『聖の青春』(現・講談社文庫)でデビューし、このデビュー作で新潮学芸賞と将棋ペンクラブ賞を受賞して注目された気鋭の作家です。『聖の青春』に続き、将棋の天才少年たちが全国から集う「奨励会」に入会しながら、きびしい淘汰競争の果
てに夢やぶれて奨励会を去っていった若者たちのその後を描いた第二作『将棋の子
』(講談社文庫)が、講談社ノンフィクション賞を受賞。さらに、第3作にして初の本格的な小説(フィクション)である『パイロットフィッシュ』(角川書店)が吉川英治文学新人賞をし、大崎さんはその作家的地位
を確立しました。
大崎さんは1957年札幌市に生れ。大学を卒業後、日本将棋連盟に入り、『将棋マガジン』の編集者を経て『将棋世界』の編集長を10年勤め、『聖の青春』の刊行後、連盟を退職して、現在は専業作家です。
『聖の青春』が刊行されたのは、たしかマンガ『ヒカルの碁』(原作:ほったゆみ 漫画:小畑健)の人気爆発によって囲碁が注目され始めた時期だったと思います。将棋は、羽生善治など多くのスター棋士を生み出したことから、囲碁にくらべると遥かにメジャーだったんですが、それでもまだ「大人の世界」という印象が強かったと思います。それが『ヒカルの碁』の大ヒットにより、若年層に囲碁ブームが巻き起こり、それに伴って「囲碁将棋なんてオヤジくさい趣味」というイメージが薄れたように思います。
ボク個人としては、この時期は竹本健治さんの囲碁マンガ『入神』(南雲堂)の思い出と重なる時期です。このマンガには、村山聖をモデルにした桃井雅美(通
称、桃井くん)という天才少年棋士が脇役で登場するんですが、これは囲碁や将棋を愛する竹本さんが、身なりにまったく構わず、あだ名が「肉丸くん」という、特異な風貌と個性を合わせ持つ若き天才棋士への好感から作り上げた「神に愛された天才」キャラクターで、『入神』以前の推理小説『妖夢の舌』(光文社文庫)にも、完全に主人公を喰った個性的キャラクターとして登場しています。でも『聖の青春』にも描かれているとおり、村山聖は幼い頃に患って以来の腎臓ネフローゼのために、将来を嘱望されながら29歳の若さで亡くなります。
『入神』の著者あとがきには「この作品を村山聖くんに捧げます」という主旨のことが書かれていましたが、その後、竹本さん関連のネットサイトに、村山ファンの若い女性から「村山聖をモデルにしたと言いながら、絵的には三枚目だし性格的にも傲岸不遜な桃井というキャラクターは、村山聖を冒涜するものではないのか」という主旨の批判の投稿がありました。この時ばかりは、いつもはおとぼけの竹本さんも、真摯に自分なりの「村山聖という天才」への思い(好意のかたち)を語っておられたと記憶します。
同人誌は別にして、小説家竹本健治 初のマンガ作品となった『入神』は、竹本さんがつきあいのある作家・友人たちに、部分的にアシスタントをしてもらいながら制作を進めるという特異な(竹本さんに言わせると『お祭り的』な)システムを採ったことと、本業の小説との併行作業であったため、一冊完結の長編を完成させるのに足掛け4年を費やしてしまいました。執筆開始当時には連載の始まっていなかった『ヒカルの碁』が、『入神』刊行時にはすっかり囲碁ブームを巻き起こしていて、まるで便乗出版のようなかたちになってしまったのが、「囲碁マンガの先駆者」になるはずだった竹本さんとしては痛し痒しだったそうです。で、うちの園主さま(アレクセイ・田中幸一)も、『入神』のお手伝いをしたメンバーの一人だったんです。その関係で、ボクも当時、いろんな楽屋話を聞かせてもらってました。もともとは興味のなかった囲碁や将棋の世界をあつかった『聖の青春』や『将棋の子』を読むことになったのも、その当時、園主さま経由で、棋士たちへの竹本さんの、竹本さんらしからぬ
「熱い思い」を耳にしていたからだったんです。
さて、大崎さんの第2作『将棋の子』ですが、これは夭折した天才棋士の伝記として反響の大きかった『聖の青春』に比べると、やや話題性で劣りはしたものの、内容的には優るとも劣らぬ
とても素晴らしい作品です。と言うか、ボク的には「こっち」の方が好きかな。『聖の青春』は、病弱でいつまで生きられるか保障のかぎりではないという少年が、将棋に生きる意味と目的を見い出し、しゃにむに頑張って将棋界の頂点に手の届くところまで行きながら、その直前で病いに倒れたその壮絶な生涯を、師との温かな交流などを背景にして描いた作品でした。村山の命を賭けての将棋人生は、たしかに凄まじいものだし、健康でさえあれば開けたであろう頂点への道を思うと、その無念は思い半ばに過ぎるものがあります。でも、空前絶後の7冠を達成した天才棋士羽生善治をも脅かし、その存在と力量
を認めさせた村山は、少なくとも将棋の世界では、天に愛された成功者の一人だったとも言えると思います。
それに比べると『将棋の子』に描かれる青年たちは、村山とは正反対に、十代前半から二十代前半のすべてを賭けた「将棋への夢」を断ち切られながら、なおも生き長らえなければならないという「過酷な運命」に立ち向かいます。この作品では、奨励会を去った何人かの若者の姿が描かれますが、中心的に描かれるのは、著者の大崎さんと因縁浅からぬ
関係にあった成田英二です。
札幌にある「北海道将棋会館」で、小学校低学年でありながら、大人たちをころころと負かして向うところ敵のいない色白で華奢な天才少年の存在を、同じく小学生だった大崎さんは偶然知ることになります。これが後の成田英二。まもなく将棋から離れた大崎少年とは違い、成田は北海道で天才の名を欲しいままにし、早くから奨励会入りを勧められながらも、虚弱な体質ゆえに母に溺愛されて育った彼には、親元を離れてまで将棋をする気はなく、結局、実家を火災で失うまで、奨励会入りの決断を遅らせてしまいます。大崎さんが大学時代に再び将棋にのめり込み、その伝手で将棋連盟に入った後、偶然、奨励会員となった成田と再会するのですが、その時、成田は大崎さんのことなど、全然憶えていませんでした。でも、同郷のよしみから、やがて大崎さんを兄のように慕うようになります。成田はいつもニコニコしていて、あまり自分を主張しない甘えん坊タイプだったようですが、こと将棋にかけては大崎さんの助言も頑として受けつけない頑固さを示しました。成田は序盤に弱く、圧倒的に不利な形勢を異様なまでの終盤力で逆転して勝つというタイプで、この型に自信を持っていました。だから彼は、定石を学ぶというようなことは一切しません。「他人と同じ将棋をしても意味がない。だから、こっち(僕)はそんな勉強なんかせずに、強い人と手合いを重ねるだけです」というようなことを言う、古いタイプの棋士でした。しかし、成田の後には、やがてこういう古い考え方を完全に葬り去ることになる、革命的な新世代の集団が迫っていました。それが羽生善治を筆頭とする「昭和57年組」です。
『水戸の天才少年、略して「水戸天」と呼ばれた(中略)先崎(学、後の八段)が2級に昇級したころには、まだ入会すらしていなかった天才集団が、次々とかけ抜けて行く。
昭和58年7月に6連勝で2級に昇級した天才軍団の旗頭、12歳の羽生善治は8月には踊り場にたたずむ先崎をあざ笑うかのように、再び6連勝で1級昇級。続く昭和59年1月には初段入段を果 たしている。昭和57年といっても、羽生たちの入会月は12月、つまり羽生は6級から初段までをわずか1年1ヶ月という驚異的なスピードでかけ抜けたことになる。その間の成績55勝22敗、勝率7割1分4厘というハイ・アベレージであった。
羽生が6級で入会し、初段に上がるまでの間、先崎はずっと2級のままであった。羽生と同期入会の中曽根敦也6級は、羽生が初段に上がったときも6級のままである。天才、羽生善治の驀進ぶりが窺えようというものだ。
昭和57年組の恐ろしさは、羽生一人が独走していたのではないということにある。昭和59年7月の時点で、先頭を走る羽生初段を追う1級陣に佐藤康光、小倉久史、木下浩一が名を連ね、先崎2級に森内俊之、郷田真隆、秋山太郎らがすでに追いついてきている。
あの天才少年の名をほしいままにしていた先崎学ですら、4人に追い越され3人に並びかけられるという非常事態に陥っていたのである。
羽生は55勝22敗で6級から初段をかけ抜けた。ということは、奨励会対羽生は22勝55敗、誰かがその55敗を引きうけていることになる。しかも、それは羽生だけに限らず、羽生とそれほど遜色のない勝率でここまで勝ちあがってきた57年組全員に対していえることなのである。つまり、57年組の嵐が吹き荒れる間、奨励会は沈没船や難破船の山となっていたはずなのだ。』
成田英二もその嵐に巻き込まれます。しかも、その時期、彼は、父を急病に失い、最愛の母が癌に犯されるという不運に見舞われ、やがて奨励会を去ることになるのです。
母親を失った後、彼は故郷北海道に戻り、職を転々とした後、最後はサラ金に追い回されるところまで落ちてしまいます。かつての天才少年が、社会からドロップアウトしてしまう。そんな彼と再会した大崎さんが描く、成田英二の人生については、みなさんにも是非、直接『将棋の子』で読んでいただきたいと思います。大筋だけだと暗いばかりの話のようですが、敗れ去っていった若者たちに向ける大崎さんの視線はどこまでも優しく共感的であり、なにより成田英二のどこまでも純粋で明るい性格に、読者は何度も救われるのです。
夭折した村山聖は『勝つも地獄、負けるも地獄』という言葉を残していますが、そんな「棋士の世界という地獄」からドロップアウトして「世間の地獄」に沈んだ若者たちのその後を描きながら、「彼らは将棋に裏切られたのではない。将棋はただ彼らに夢を誇りを与えただけで、何も奪ったりはしていないんだ」という結論にいたるこの物語が、ノンフィクションであったことを、ボクはホントにうれしく思いました。
執筆・2003年11月20日
改稿・2003年11月21日
初出・BBS「アレクセイの花園 」(2003年11月20日)
★★★ ボクたちの認識している現実世界
「アル中」だ「違法ドラッグ」だと、ふりまく話題もにぎやかな鬼才
中島らもさんの、代表作にして最大の長編小説『ガダラの豚』(集英社文庫・全3巻)は、1993年に単行本が初版刊行され、翌94年に日本推理作家協会賞を受賞した作品です。
「あらすじ」は、 こちらをご参照いただくとして、「山あり谷あり」のこの長編を、ひと言で言い表わすとすれば「反サイキック冒険小説」ということになるでしょう。
この作品の面白いところは、手品師と超能力者と呪術師と宗教家がいっしょに出てきて、作中で展開される「超常現象」が、はたして「(作中現実としての)本物の超常現象」か「作中人物による欺瞞(ぺてん)」なのかがなかなかハッキリせず、最後の最後まで、この小説の世界観が「超能力」や「呪術」や「宗教」といった「超常的力」の存在を「作中現実として」認めているのか否かがわからない、という点です。そのために「読者の視点」も、最後の最後まで、不安定な宙吊り状態にされてしまうんですね。そして言い換えればこれは、この作品に描かれている世界って、「ボクたちの認識している現実世界」にとっても近いということなんです。なぜって、ボク自身をふくめて大抵の人は、「超常現象」の有無について、大枠では認めなくても、やっぱり心のどこかにそれを確信できない部分があって「もしかしたら多少は」なんて思ったり、無神論者が「苦しい時の神頼み」をしてしまったりするものだからです。
ふつうであれば、「作中現実として」の「超常現象の有無」は、わりあい早い段階で、読者に提示されます。だから「ホラー小説」などのように「作中現実として」超常現象が「有り」とされれば、読者はその作中に、現実にはありえないであろうことが描かれていても、それ自体は否定せず、ただその「描き方(のリアリティー)」だけを問題にするはずです。一方、「古典的リアリズム小説」などのように「作中現実として」の超常現象が「無し」とされれば、その作中での(十分に説明の無い)「超常現象」の登場は、作品の世界観の破綻(矛盾齟齬)としか見られず、その作品は失敗作と評価されることになるでしょうね。でも、いずれにしろ、たいていの小説は、早い段階で、その「世界観」を提示し、その枠内で、作者の描きたい世界を破綻なく描こうとするものであり、だからこそ読者の方も、そこにどんなことが描かれていようと、それが提示されている世界観に矛盾しないものなら、「こんなことありえない」という理由で、その小説そのものを否定したりはしないんです。・・・でも、この『ガダラの豚』は、その間隙を縫って、おもしろい「効果 」を確保しました。
「作品現実」の「世界観」としての「超常現象の有無」を明示しないまま、話は進められていく。途中で「超常現象としか思えない現象」がたくさん描かれながら、しばらくするとその現象は「合理的に説明可能な現象」だとして作中人物によって否定される。でも、その後にさらに「否定不可能と思われる超常現象」が描かれて、読者はどちらが「作中現実」なのか、混乱の極みに立たされてしまう。・・・つまりこれは、「現実」と「幻想」の幾度も反転する異様な世界の描出を得意とした作家、中井英夫のそれと同じ「バリノード(前言取り消し)」の手法なんですね。
だから、『ガダラの豚』では、最後の方で、「作中現実としての世界観」として「その一方」を選んだかに見えるんですが、たぶん作者としては、本来なら「作中現実」の固定はしたくなかったんだと思います。ただ、エンターティンメント小説という形式の要請が、中井英夫の「幻想小説」のような「宙吊りのままの放置」を許さなかった。わかりやすい決着をつけたからこそ、『ガダラの豚』は広範な支持をうけえた反面 、この着地が「文学作品として弱点」にもなってしまった。・・・でも、やっぱり作品全体として、そこに描かれているのは、「ボクたちの認識している現実世界」と同様の「決定不可能性」なんだと思うんです。だからボクは、この小説が、「超能力(サイキック)」を描いた、絵に描いたような「エンターティンメント小説」でありながら、じつは「ボクたちの認識している現実世界」の本質を象徴的に描いた「反サイキック冒険小説」であり「哲学小説」である、という評価を与えるんです。
ちなみに、とっても面白くて深い作品ですから、これを「傑作」として広くお薦めするのに吝かではないのですが、ただ個人的にちょっと嫌だったのは、前半で個性豊かな魅力をふりまいて、読者に愛着を感じさせる登場人物たちの多くが、後半で無残な死を迎えるという点です。小説として決して「不必要な死」を描いているわけではないから、いちがいに欠点とは言えないのかも知れませんが、その存在が、ある種の読者に対し、この傑作を読み物として「つらいもの」にしているのは事実だと思います。
執筆・2003年12月17日
改稿・2003年12月18日
初出・BBS「アレクセイの花園 」(2003年12月17日)
★★★ よつばとボクら
読んだことのない作家の作品との幸福な出会い。『よつばと!』(あずまきよひこ、メディアワークス)との出会いも、そんな幸運のひとつでした。――たまたま本屋に立ち寄り、めったに見ないマンガの棚を冷やかしてたら、ちょうど第2巻が出たところで、たくさん平積みされているのが目につき、「もしかすると」と感じるところがあって、読んでみることにしたんです。
内容は、 第1巻 、第2巻それぞれの帯裏文にあるとおりです。
『「あずまんが大王」のあずまきよひこが贈る新しい仲間たちがやってきた!
ちょっと変わった女の子よつばちゃんと、とーちゃんと、その周囲の人たちが
繰り広げるささやかな日常。なんにもないところにあふれる不思議な空気。
読むとなんだか楽しくなる、ただそれだけの、ちょっと普通のマンガです。』
『ちょっと不思議な女の子よつばちゃんと、
まわりの大人や子供たちの夏がすぎていくー。
わらったり、ないたり、たべたり、ねたり。
どこかなつかしくて、なにかあたらしい。
「あずまんが大王」のあずまきよひこがお届けする、
超本格まったりコミック第2弾! 産地直送!』
『あずまんが大王』というのは、おたく系のマンガファンには知られた傑作のようで、ボクもタイトルや本は知ってたんですけど、なんとなく敬遠していました。でも、今回は普通
っぽい感じだったので手に取ってみたんですが、これが大正解でした。
感じとしては保坂和志の名作『季節の記憶』のマンガ版。もっとも、こっちの方には「思弁癖」や「静かな哀しみ」みたいなものはなくって、『季節の記憶』のクイちゃんにあたる よつばちゃんが、ひたすら元気に無邪気に肯定的に走り回って、大人たちを和ませるんです。
たしかに、こういう先行きの定かならぬ暗い世相だからこそ、こういう作品が描かれ、好んで読まれるのかも知れません。だから、そうした観点からこうした「癒し」の作品を批判する向きもあろうかと思います。でも、ボクとしては、これを逃避場所とせず、現実を前向きに生きるためのエネルギー源にしたいと思いました。つまり、問題は読者側の消費スタンスなんじゃないかな。
ちなみに、いちばん大笑いできたのが第9話「よつばと復讐」(第2巻所収)。これは文句なしに楽しかった。
それから、印象的だったのが第3話の「よつばと地球温暖化」(第1巻所収)と第14話の「あさぎと
おみあげ」(第2巻所収)。どちらにも「大人のごまかし」が出てくるんですが、それをよつばちゃんは素直に受け入れて素直に喜びます。
このエピソードを、否定的にとらえるのも肯定的にとらえるのも、共に簡単だと思うんですが、ボクとしては問題はそんな単純なことでないように思います。例えば、両親が幼い子供に寝室での行為を見られ「何してるの?」とたずねられ「プロレスごっこをしてたんだよ」と「ごまかす」ことが単純に「悪」なのか。子供に理解できようとできまいと、大人にするのと同じように、正直に事実をありのままに語るのが「正しい」と単純に言えるのか? ――ボクは、そんな場合の、大人の「教条的な正直さ」には、どこか「責任回避のための、嘘回避」という感じをうけるんですよね。相手にとってその説明がどうであろうと、自身が正直に語ってさえおれば、後で責任を問われることはないから安心、みたいな。
おととい園主さまが、アップなさった論文、
真の敵を見さだめる勇気
―― 荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』
のなかに、『しない善より、する偽善』という言葉が紹介されていましたけれど、ボクはこの2つのエピソードに、同様の「善悪における純粋さの問題」というものを考えさせられたのでした。
ちょっと硬い話になりましたけど、でも『よつばと!』は文句なしに楽しめるマンガです。うえに紹介したエピソードのほかにも、第10話「よつばとケーキ」(第2巻所収)、第11話「よつばと どんまい」(前同)など、楽しくて印象的なお話が満載。活字本もいいけど、やっぱりマンガも面 白い! 『よつばと!』を、みなさんに強力推薦いたします!
執筆・2004年4月27日
改稿・2004年4月28日
初出・BBS「アレクセイの花園 」(2004年4月27日)
★★★ ウルトラマンは新生したか?
まず最初に、正直な感想と結論から言っておきますと、『ULTRAMAN』(小中和哉監督)は「期待外れ」の作品でした。――つまり、新生しそこなったというのが、ボクの評価です。けっこう期待してただけに残念でした。
この作品は、「ウルトラマン」第1シリーズ『ウルトラマン』の第1話をベースにして、『バットマン』や『スパイダーマン』のように普通
に「大人も楽しめる娯楽映画」を目指した作品でした。つまり「子供向け怪獣映画」の乗り越えを意図した作品だったんですよね。だから、この作品には「科学特捜隊」や「ウルトラ警備隊」にあたるような「非現実的な特務機関」は存在せず、「後にウルトラマン呼ばれることになる異星人」と事故的遭遇によって合体でするのも「航空自衛隊のパイロット」という設定なんです。つまり、たぶん「ウルトラマン」版の「平成ガメラ」といったラインを狙った作品だったんだと思います。でも、その意図が達成されたとは、ボクには思えませんでした。善かれ悪しかれこの作品は、「ウルトラマン」の枠に止まった、水準作だったんではないかと思います。
前述のとおりこの作品は、テレビシリーズの延長拡大版として「ウルトラマン」映画を超えることを目指した作品でしたから、音楽にB'zの松本孝弘を、本作最大の見せ場である空中戦の演出にアニメ畑出身の板野一郎(「板野サーカス」という異名を取った、変幻自在の空中戦描写
を得意とする伝説的アニメーター。『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督が「2人の師匠」として、宮崎駿と共にその名を挙げる)を起用するなど、意欲的な試みがなされました。――でも、ボクが観たところ、この映画の最大の難点は、映画『ウルトラマンゼアス2』以降、「平成ウルトラマン」シリーズや映画版「ウルトラマン」を撮ってきた「小中和哉監督の(演出力の)限界」です。
何が一番問題なのかといえば、それは本編の人間ドラマ部分が、「大人の映画」の水準に達していないという点なんですね。具体的に言うと、ドラマが型通
りで、しかも「説明的なセリフ」が多すぎるんです。
例えば、主人公は航空自衛隊の戦闘機乗りだったんですが、幼い一人息子が難病にかかっており長生きできない可能性が高いので、少しでも一緒にいてやりたいと自衛官を辞めてしまいます。しかし、戦闘機乗りである父親に憧れて、自らもパイロットになりたいと思っていた息子は、そのことを察して気に病み、母親にこんな感じのことを言います。
「お父さんは僕のためにパイロットを辞めちゃったの? お父さん、倉島のおじちゃんと飛行機の話をしている時は、とっても生き生きしていたよ。なのに・・・」
こんなセリフを幼稚園児が言うか、ということです。
また、この映画は、この息子の「幼稚園に提出した作文」であろうと思われる、
「(…)僕は戦闘機に乗るお父さんがとってもカッコイイと思います。僕はそんなお父さんが大好きです」
といったようなナレーションで開幕し閉幕するという「ベタな演出」もしています。
このほか、怪獣「ザ・ワン」と同様のかたちで、人間と合体したはずの異星人「ザ・ネクスト(=ウルトラマン)」だけが、格闘中、なぜかエネルギー切れ(カラータイマーの点滅)になると、「ザ・ワン」がテレパシーで、
「どうした、もうお終いか? そうか、おまえはまだ人間と完全に融合していないんだな。愚か者め、俺と同じように、最初から食っちまえばいいものを」
なんて、ウルトラマンだけがエネルギー切れになる理由を「セリフ(日本語)で説明」してくれるんですよね。
こうした「安易で型通りの人物造形」や「安易な人物・状況描写」が随所にみられて、その度に白けてしまうんです。たぶん、従来の「ウルトラマン」として観ていれば、さほど気にならなかったんでしょうが、なまじ「普通
の映画」を撮ろうとしているところが目についたので、かえってそうした点が鼻についたんでしょう。
新しい試みとしての音楽と空中戦演出については、まずまずの効果をあげていたと思います。音楽は自然に聞けたし、空中戦も「ウルトラマン」としては斬新でした。ただ、板野一郎の演出が、期待どおりの大成功をおさめていた、とまでは言いません。今まで「ウルトラマン」のそれよりはずっと良かったと思いますが、アニメで感じさせたほどの「動きの爽快感」はなかったんじゃないかと思うんです。これはたぶん、「記号化(様式化)された・2次元アニメ」の演出を、そのまま「リアルに近い・3次元CG」でやっても、完全には馴染まない、というようなことなんだと思います。
なお、この作品は、自衛隊の協力を得て作られていますので、現実の自衛隊の問題については、当然のことながら、無難に避けて通
っています。
物語の要請から、悪役っぽい自衛官(役者がハッキリ悪人づら)も出てきますが、彼は「後にウルトラマンと呼ばれることになる、人間の味方らしい怪物」に対して慎重だっただけで、現実的な観点から見れば(憎まれ役ではあっても)、決して悪役ではありませんでした。ただ、彼の設定が「アメリカ軍と連係する、防衛庁の対バイオテロ研究機関BCST」に所属する将校というところが、現実の「自衛隊=防衛庁・アメリカ軍」に対する嫌悪をにおわせているように感じますし、自衛隊の基地内で、主人公がパイロット仲間の親友である倉島に退職の話をする際、その談話室風の部屋の片隅に置いてあるブックラックに、『正論』というタイトルの雑誌が、表紙を見せてこれ見よがしに3冊も並べてあったのにも、演出者(監督?)の「秘められた思い」を感じました。なぜって、現存する『正論』は、「右寄り」新聞である産経新聞社の発行するオピニオン雑誌で、この雑誌だけが3冊もならべてあるというのは、自衛隊の思想性をそういうものとして認識し、そういうものとして暗に、しかし意図的に語ったのだろうと思えるからです。――ちなみに、この映画の「宣伝協力」としてテロップに流れる出版社は、講談社と小学館だということをご紹介しておいても良いかと思います。
予算が少ないというマイナス要因も、ちゃちなセットなどから窺えましたが、『ULTRAMAN』が「ウルトラマン」を超えて変えられない理由は、やはり「ウルトラマン」というブランドが余りにも権威化しており、それを好きにいじるだけの権利を主張する、個性と信念をもった監督を(『ガメラ』などとも違って)起用できないからなんじゃないか。「なんとか枠を超え出たい」という気持ちに嘘はないにしろ、結局は「無難な枠の中」でしか作れない、本当の意味での「冒険」ができない(円谷プロ子飼いの)監督しか起用できないというところに、「ウルトラマン」が『バットマン』や『スパイダーマン』あるいは『ガメラ』のようになれない、根本的で日本人的な特殊事情があるように、僕には思えてなりませんでした。
執筆・2004年12月22日
改稿・2004年12月23日
初出・BBS「アレクセイの花園 」(2004年12月23日)