インテリげんちゃん庸さについて
―― 高橋源一郎に見る、文学者のホンネ


 

田中幸一(アレクセイ)

 

 以前私は、拙稿お荷物としての「解説」――「探偵小説研究会」所属評論家・柳川貴之の力量 の末尾に、作家も人の子、普通 は「金も地位も名誉も権力も」 みんな欲しいと題する補足説明文を付し、

 つまり「積極的に、(※ 文学賞が)欲しいか?」と問われれば「べつに」と応える人(※作家)は、けっこういるかも知れない。しかし、では「いらないのか?」と問われれば「くれるんなら、ありがたくもらいます」というのが、ほぼ全員なのではないだろうか。では、どうしてこういうことになるのかと言えば、それは作家が(どこかで、半ば無意識に)「世間」に向けては「世俗的権威に無欲な、芸術家」を演じたいものだからで、積極的に「賞が欲しい」とは言いにくいからにほかならない。しかし、本音としては「金も地位 も名誉も権力も欲しい」のだから「じゃあ、いらないんですね?」と重ねて問われれば「いや、待ってくれ。誰もいらないとは言ってないじゃないか。くれるというものなら、ありがたくもらっておくよ」などと言い出すことになるのである。

と書いたが、これをはっきりと裏付ける文章(文証)を見つけたので、以下に紹介しておきたいと思う。

 これは、読書界でも話題になり版を重ねている、大森望と豊崎由美の「文学賞」をめぐる対談本『文学賞メッタ斬り!』(パルコ)について書かれた、高橋源一郎のそれでも、とりあえずもらっちゃうな(『朝日新聞』2004年05月23日掲載)と題する書評(全文)である

-----------------------------------------------------------------

 

   文学賞メッタ斬り! 大森望・豊崎由美著

    それでも、とりあえずもらっちゃうな

 大森望・豊崎由美という希代の「本読み」(変な言葉だけど、このお二人にはぴったり)が、いま存在している、数え切れないほどたくさんの文学賞のあれこれについて、100時間以上も熱く語り合った「オール・ザット・ブンガクショー!」というか、そういう本。

 あとがきで、豊崎さんも「……もっ、なぁーんも話したくないし、考えたくないし、書きたくないし、文学賞のことに関してはっ」と書いていらっしゃるけど、読んでるこっちもお腹(なか)が一杯です。

 お二人は、あらゆる「文学賞」を横断して「あの人のあの作品の評価がおかしい!」とか「あの選考委員の選評を読んだけど、ぜんぜんわかってない!」とか「この賞はほとんど意味がない」とかいっていて、はっきり申し上げて、ぼくもほとんど同意見ですけど、それ以上の詳しい発言は差し控えさせていただきます。

 でも、なんで、こんなにたくさん賞があるんでしょう。よくわからないんですけど、お二人のいうように、少なくとも読者のためじゃなさそうですねえ。

 「豊崎 乱歩賞は偏差値六十くらいの新人賞。有名一流私立大学に入れるくらいの才能がとるんです。……。

 大森 メフィスト賞が一芸入試の大学でね。

 豊崎 そうそう、あれは、けん玉日本一みたいな感じ(笑)。……。乱歩賞はセンター入試かな。

 大森 じゃあ、国立大学でしょう。

 豊崎 そっかー。受けるからにはまんべんなく九教科、保健体育までカバーしてほしい、みたいな(笑)」

 新人賞が大学入試だとしたら、他の賞はなんですかね。「日本文学株式会社」の辞令みたいなものですか。「×××× 右の者 本日をもって課長に任ず」とか。入試に辞令、どっちも文学とはなんの関係もないじゃないかと思われるかもしれませんが、その通 りなんですよ。

 ですから、文学賞って聞いても、別に有難(ありがた)がらずに、「あっそう」と適当に相槌(あいづち)をうっておけばいいんじゃないですか。

 でも、あげるよといわれたら、とりあえずもらっちゃいますけど。

 
評者・高橋源一郎(作家)

-----------------------------------------------------------------


 言うまでもなく、高橋源一郎は、『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫文学賞を、『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整賞を受賞し、自身いくつかの文学賞(三島由紀夫文学賞、朝日新人文学賞、日本ファンタジーノベル大賞、坊っちゃん文学賞、銀杏並樹文学賞など)で選考委員をつとめたこともある、歴とした「文学賞作家」である。

 その高橋が『文学賞って聞いても、別に有難がらずに、「あっそう」と適当に相槌をうっておけばいいんじゃないですか。』などと言うのは、はっきり「無責任」であり、「世間に対する裏切り行為」だと言わねばならない。なぜならば――と説明しなければならないというのも馬鹿馬鹿しい話だが――、「文学賞」というものにおいては、それを「与えてくれる相手」の「権威」を認めるからこそ、これを『有難』く拝受するわけだし、「与える相手」の力量 を認め(一般に向けて)保障するからこそ、これを授与するものだからだ。

 つまり「文学賞なんて非・文学的な制度を、俺は認めないよ」と思えば、受賞を拒否するのが筋だし、「この程度の作品(力量 )ではとても高くは評価できないし、世間にむけて推薦保証することもできない」と考えれば、それに賞を与えないでおくのが当然だからなのである。

 にもかかわらず、高橋源一郎は、自身が「文学賞」を与えられた際には(文学賞を)有難』いものだとへりくだって拝受し、賞を与える際には「この作品は素晴らしい」と自ら保証しておきながら、この書評では「文学賞など、(芸術的な意味合いでは)有難くも何ともないものだ」と、手のひらを返すように、自らの行い(によって示された評価)に反する評価を、自ら語っているのである。

 では、なぜ高橋が、こうも露骨に「矛盾」した態度を採るのかと言えば、それは文学賞「受賞の際」の高橋の態度に、もともと「欺瞞(ぺてん)」があったからに他ならない。

 つまり、高橋は「三島由紀夫文学賞」や「伊藤整賞」を受賞した際も、本音として、それを必ずしも『有難』がったわけではなかったのだ。言い換えれば「三島由紀夫文学賞」や「伊藤整賞」を、「文学賞として、文学芸術的達成を保証する権威」として『有難』がったわけではなく、単に『「×××× 右の者 本日をもって課長に任ず」』とかいった風な『「日本文学株式会社」の辞令みたいなもの』として『有難』がったということだったのである。

 「文学賞」が、しばしば「作家(作品)そのものの価値」を保証するものではなく、その作家の「文壇的な地位 (「日本文学株式会社」における階級)」を示し与えるものでしかないというのは、文学作品に多く親しむ人ほど思い知らされる事実であり、むろん文壇人たる高橋がそれを知らないはずはない。

 しかし、かつての高橋源一郎も、世に何万人と存在する「専業作家・志望者」と同様に、ひとまず「専業作家」になりたい「凡庸な人」に過ぎなかった。だから、彼はまず「作家としての内実」よりも「職業作家としての地位 の保障」を欲した。しかし、いかんせんデビュー当時の彼は、その前衛的な作風で文壇的な注目を集めたはしたものの、一般 にはほとんど読まれることのないマイナー作家であり、「専業作家」であることの困難をおぼえる純文学作家の一人にすぎなかったのである。

 ところが、毎夏恒例の「新潮文庫の100冊」で、『インテリげんちゃんの夏休み』というコピー(85年・糸井重里)とともに、読者の前にその特異に間延びした、人の好さそうな風貌を曝した高橋源一郎は、その後、ビジュアル展開と言うか、タレント展開と言おうか――ともあれ、「作品」以外のところの、本人のタレント性によって、世間に知られる作家となってゆき、「一応、作家専業」で食っていける「作家」となったのである。

 しかし、作家が「作家として評価されない」のは哀しいもの。だから、食えるようになっても、高橋はよりいっそう「作家としての評価」を欲したに違いない。では「作家としての評価」が端的なかたちで(世俗的に)示されるものとは何かといえば、それは、

 (1) 作品の面白さの指標としての、売れ行き(一般 読者の評価)

か、

 (2) 業界玄人筋の評価の反映としての、文学賞

ということになろう。

 高橋源一郎の場合、前者は(昔も今も)ほとんど期待薄だから、はっきりとわかる「作家としての評価」が欲しいと思えば、残る「文学賞」にすがらざるをえないのは、選択の余地のないことだったのである。

 そんなわけで『インテリげんちゃん』のホンネとしては、「文学賞の権威」などという「非・文学的(=非・芸術的)」で「非・知的」なものを認めたくはないし、また「認めていると思われたくもない」。なぜなら、そういう「権威主義」がみっともないものであることを、彼は十二分に心得ていたからである。まただからこそ、高橋はその己が弱点(=文学賞作家であるということ)を日頃から内心気にもしていた。気にしていたからこそ、『文学賞メッタ斬り!』などと題された本の存在が今さらのように気になったし、その大森望・豊崎由美の著書に便乗する形で、

ですから、文学賞って聞いても、別に有難がらずに、「あっそう」と適当に相槌をうっておけばいいんじゃないですか。

と「文学賞の権威を認めていない」ということを誇示したくもなったのである。

 しかし、何を言ったところで、「文学賞」をもらっているという「過去の傷」を消すことはできないし、今後も「美味しいとこ取り」の『おいしい生活』を続けたいというのに変わりはないのだから、いっそ「毒をくらわば皿まで」で今後も「文学賞」や「文化勲章」など「もらえるものは何でも下さい」ということにもなるし、現になってもいる。だからこそ、そうした場合の「先回りのアリバイ工作」として、ぜひとも、

でも、あげるよといわれたら、とりあえずもらっちゃいますけど。

という言葉をつけ加えることだけは、忘れるわけにはいかなかったのである。

 で、もちろんこうした言い種が「二律背反」であることくらいは、高橋源一郎とて重々承知しているのだが、なにしろこういう「ぺてん」を非難できるような、「後ろめたさ」を持たない作家が、現在の日本の文学者の世界には、ほとんど存在しない(例外は、大西巨人くらい)。まして、高橋は「書評家」として確固とした人脈を構築してもいるから、「知合いを批判できない作家」たちは(ホンネはどうあれ)高橋を批判することなどできない。――つまり、自己の「あからさまなぺてん」を、あえて指摘する者などいないであろうことを容易に見込めたからこそ、高橋は自信をもって、このようにぬ けぬけと書くことができたのである。

 つまり結論として言えるのは、この書評に示された高橋源一郎の「偽善(ぺてん)的体質」とは、一人高橋に止まるものではなく、日本の作家・小説家の多くが共有するものに他ならない、ということなのだ。それが日本の文学者の「現実の姿」なのである。

 

執筆・2004年6月2日
改稿・2004年6月5日

初出・BBS「アレクセイの花園(2004年6月2日)

 


関連論文

 ・ 作家も人の子、普通は「金も地位も名誉も権力も」 みんな欲しい

 ・ 笠井潔が、真に望んだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性

 ・ 笠井潔のじつに人間的な欲望

 ・ 『2004 本格ミステリ・ベスト10』 の舞台裏

 ・ もげた翼のひき吊る傷跡 ―― 笠井潔 論

 ・ 恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力 ―― ある「探偵小説研究会」所属評論家の弁

 ・ バイバイ、矢吹 駆 ――「矢吹 駆シリーズ」のラスト

 

 ・ 文学賞にジタバタ ―― フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合



【MENUへ】
 【トップページへ】
 【BBSアレクセイの花園 へ】