◆   文学にジタバタ   ◆
――フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合


 

田中幸一(アレクセイ)

 

 拙稿「インテリげんちゃん」の凡庸さについて―― 高橋源一郎に見る、文学者のホンネでは、作家も人の子、普通 は「金も地位も名誉も権力も」みんな欲しいという問題を、純文学作家高橋源一郎の事例に則して論じてみたが、今回は、(どちらかと言えば左翼であり、文学者的・反世俗的な姿勢を見せる)高橋とは正反対の位 置に立っている、フジ産経・文春系の(つまり「右派」に分類される)作家』であり『ジャーナリスト』である 日垣隆の事例について、同じ問題を、先の拙論を補強するものとして論じてみたいと思う。

 作家も人の子、普通は「金も地位も名誉も権力も」みんな欲しいという問題が、高橋源一郎一個の問題ではなく、文筆家に普遍的な問題であるという事実を示唆するに足る、前記拙論についての補足的な資料として、『産経新聞』(2001年8月5日付け)(今は亡き)名物コラム「斜断機」に掲載された、日垣隆によるエッセイで、その名もずばり文学賞にあたふたを、以下に紹介する。

 

   文学賞にあたふた

 二年ほど前、日本文学振興会から私宛に速達がきた。文学賞の候補になったので、その賞を受ける意思があるかどうか、発表当日はどこにいるか、など返信葉書で知らせてほしいという要望が書かれていた。
 ずいぶん先のその日は、原稿の締め切りが二つある以外に予定はまだ入っていなかった。
 私は、読者や編集者が選んでくれた賞を何度か、心からありがたいと思って受けてきた。日本文学振興会のものは、大先輩といえども現役の同業者が集まって最終的に一等を選ぶものなので、まあ、貰えたらラッキーくらいに考えた。選考委員の好みもある。第一、その候補作よりもっと上質な本を以前に書いていたし、今後もっといいものを毎年書いてゆく自信があったので、落選しても、あっそう、という感じだった。うぬ ぼれととられても仕方がないが、自作くらい自分で評価できる。
 興味深かったのは、少なくとも落選した二人が、「選考委員を殺してやりたい」という意味のことを口にした事実と、たまたま受賞した人も私以外の落選者も、編集者や友人を大勢集めて当選の知らせを待っていたことだ。
 T人間を描くUと偉そうなことを言っているのだから、受賞しなかったときの、自分で集めちゃった人たちへの落とし前くらいきっちりT予想Uしておいてもらいたい。
 五年前にも直木賞(日本文学振興会主催)の候補となった藤田宜永氏は、まさか奥様だけが受賞する、という可能性を全く想定しないで、返信葉書を日本文学振興会宛に投函したわけではあるまい。小池真理子氏は、あの最悪の日以降、苦しむ夫に離婚を打診したと雑誌で語っている。
 今回の候補作を私も全て読んでみた。藤田氏の小説が選ばれたのは、同情という以外に理由は見あたらない。
 ついでながら、受賞作以前に、それより優れた作品のある作家にあとづけで賞を与えるのは、文学の衰退を招く。

作家・ジャーナリスト    
         日垣隆
 

 

 日垣隆が、「日本文学振興会」の主催する賞の候補になったとすれば、それは今年(第35回の)候補になったのと同様、「大宅壮一ノンフィクション賞」だと思われる。
 これは「文藝春秋」社が母胎である「日本文学振興会」の主催する「三つの文学賞」のうちのひとつで、他の二つである芥川賞と直木賞がそれぞれ純文学と大衆文学に対応しているように、ノンフィクション
(文学)に対応したノンフィクション作家の芥川賞だと考えればよかろう。
 つまり、ノンフィクション作家として「食っていく」上で、たいへん大きな意味をもつ「肩書き」であり「権威」だということである。

 さて、日垣隆のこのエッセイは、囲みコラムの字数制限のせいか、充分にレトリックを尽くせなかったようで、その「ホンネ」がそこここでむき出しになっている。そうした部分への分析も含めて、このエッセイを以下、逐語的に解説していきたい。

『 二年ほど前、日本文学振興会から私宛に速達がきた。文学賞の候補になったので、その賞を受ける意思があるかどうか、発表当日はどこにいるか、など返信葉書で知らせてほしいという要望が書かれていた。

 ここでわかるのは、一般には知られていないが、文学賞の「候補作」というのは、たいがいこうした内々の打診に「内諾」を与えた者の作品だけが「候補作」として公表される、という事実だ。
 つまり、必ずしも優れたものが候補作になるわけでも、受賞作になるわけでもないのだ。もしもこうした問い合わせに対し、著者が「受けません」とひとこと言えば、彼の作品は、一般 に発表される前に「候補作」からは外されてしまうのである。

 では、『発表当日はどこにいるか』という質問は、いったい何を意味するのであろうか。
 ――この質問は、候補者に、その賞をいかに切実に欲しているかの「態度」表明を要求しているのである。つまり「当日は自宅で
(事務所で)結果 発表を待たせていただきます」という「従順な態度」を期待しているのだ。だから「どこにいるかわかりません。そんな先のこと」などとでも返事しようものなら、受ける気があると答えていても、とうてい受賞はおぼつかない。
 なにしろこうしたイベントは、マスコミ的に盛り上げられることによって、その権威を保つのだから、受賞が決まってマスコミが取材しようとした時に、肝心の作家が、賞の結果 などどこ吹く風とふらふらと出歩いていて行方不明、では「賞の沽券にかかわる」ということなのである。

 ちなみに『発表当日はどこにいるか、など返信葉書で知らせてほしい』の『など』にも注目すべきであろう。要は、この「確認葉書」は、作家の「賞に対する従順さ(魂を売る気があるのかないのか)」を試す「ご下問状」だということなのだ。

ずいぶん先のその日は、原稿の締め切りが二つある以外に予定はまだ入っていなかった。

 ずいぶん言い訳がましい書き方である。だからどうだと言うのだ。
 要するに、日垣隆はここで「たまたま外出する仕事がなかったから、賞の発表を自宅
(なり、事務所なり)で待たせてもらった」と、つまらない「見栄」を張って見せているのである。

 当然、予定が入っていたとしても、キャンセルできる予定ならばキャンセルして、「結果 報告」を忠犬ハチ公のごとく待ったであろうし、キャンセルできない先約があれば、彼は精一杯連絡先の報告に努め「いつでもマスコミ取材が受けられますよ」という態度と誠意を示したことであろう。

『 私は、読者や編集者が選んでくれた賞を何度か、心からありがたいと思って受けてきた。日本文学振興会のものは、大先輩といえども現役の同業者が集まって最終的に一等を選ぶものなので、まあ、貰えたらラッキーくらいに考えた。

 結局、何でも「もらえるものならもらう」くせに、どうして『読者や編集者が選んでくれた賞を何度か、心からありがたいと思って受けてきた。』などと「前振り」をするのであろうか? それは、彼が『大先輩といえども現役の同業者』が選ぶ「賞」というものを、無条件に奉っているわけではない――と「言いたい(けど、言えない)」ということなのだ。
 つまり『読者や編集者』の権威は『読者や編集者』の権威として
(その範囲内で)認めうるけれども、『大先輩といえども現役の同業者』を、自明に自分より優れたもの(選ぶ権威のある存在)と認める気はない、そうした意味で、内心では(大宅)賞の権威を認めてはいない、ということなのだ。だからこそ、冒頭にご紹介いたしました拙論「インテリげんちゃん」の凡庸さについてに引用した『文学賞って聞いても、別 に有難がらずに、「あっそう」と適当に相槌をうっておけばいいんじゃないですか。/でも、あげるよといわれたら、とりあえずもらっちゃいますけど。』という高橋源一郎と「そっくりな物言い」になってしまっているのである。

選考委員の好みもある。第一、その候補作よりもっと上質な本を以前に書いていたし、今後もっといいものを毎年書いてゆく自信があったので、落選しても、あっそう、という感じだった。うぬ ぼれととられても仕方がないが、自作くらい自分で評価できる。

 つまり『落選しても、あっそう、という感じだった。』というのは嘘っぱちで、そう思えるほどの(プロの物書きとしての)自信』が自分にはあるのだと「世間に思ってほしくて」、つまり「見栄」を張っての「強がり」で、日垣はこのようなことを書いて見せたのである。

 しかし、じっさい何だかんだ言いながらも、自分から進んで「候補」になっておきながら、今さら『落選しても、あっそう、という感じだった。』というのは、かなり無理のある言い種で、それはいかに厚顔な日垣とて、自覚せざるを得ないところだったのであろう。他人が同じ状況で同じような発言をした場合、それを鵜呑みにはできないと、彼自身感じたのかも知れない。だから、『落選しても、あっそう、という感じだった。』という「自己申告」の根拠を、自身の希望どおり(プロの物書きとしての)自信』だと思ってはもらいにくいだろうと考え、「次善の自己申告」として『うぬ ぼれ』を持ち出し、「自己申告」のリアリティーを担保しようとしたのである。

 ともあれ『自作くらい自分で評価できる。』などと見栄をきるのであれば、何でもかんでも賞を欲したりすべきではないし、それでも「食うため」に欲しいというのであれば、そう正直に言うべきなのだ。なぜならそれが「プロの言論人」としての「責任」であり「誠実」の証だからである。
 ……だが、無論、そう正直に言ってしまったら、普通、賞はもらえない。つまり、日垣隆は「食う」ため
(と「名誉」ため)に『「プロの言論人」としての「責任」であり「誠実」』を売って、大嘘をついた、ということなのである。

『 興味深かったのは、少なくとも落選した二人が、「選考委員を殺してやりたい」という意味のことを口にした事実と、たまたま受賞した人も私以外の落選者も、編集者や友人を大勢集めて当選の知らせを待っていたことだ。
 T人間を描くUと偉そうなことを言っているのだから、受賞しなかったときの、自分で集めちゃった人たちへの落とし前くらいきっちりT予想Uしておいてもらいたい。

 つまり「私は、そんなみっともない真似はしなかったぞ。その意味で私は、こいつらと同類ではない」と言いたいのであろう。しかし、こういうのを世間では「五十歩百歩」とか「目くそ、鼻くそを嗤う」と言うのである。

五年前にも直木賞(日本文学振興会主催)の候補となった藤田宜永氏は、まさか奥様だけが受賞する、という可能性を全く想定しないで、返信葉書を日本文学振興会宛に投函したわけではあるまい。小池真理子氏は、あの最悪の日以降、苦しむ夫に離婚を打診したと雑誌で語っている。
 今回の候補作を私も全て読んでみた。藤田氏の小説が選ばれたのは、同情という以外に理由は見あたらない。

 藤田宜永・小池真理子夫婦の事の顛末は、たしかに「文学賞と作家」をめぐる「ドタバタ喜劇」として、笑えるものではあろう。日本の現役作家が、「作品の質」以上に「キャリアの差」で悩むというのは、いかにも「小市民」的で正直だ、とでも言えようか。

 それにしても、この時(第125回直木賞)の候補作は、藤田宜永の受賞作『愛の領分』のほかに、奥田英朗『邪魔』、東野圭吾『片思い』、真保裕一『黄金の島』、田口ランディー『モザイク』、山之内洋『われはフランソワ』の6作だったのだから、これを『全て読んでみた。』という日垣隆の胸中たるや、察するに余りあるものがある。
 とは言え、やはりその原動力が「文学賞への執着」であり「落選したことへのこだわり」であったというのは、否定しがたいところであろう。『同情』で受賞した
(と思えた)藤田宜永への羨望と嫉妬が、こんな皮肉を書かせたに違いない。日垣にその自覚がどの程度あったのかはわからないが、客観的に見れば、彼にとって、このエッセイのタイトル『文学賞にあたふた』というのは、決して他人事ではなかったのである。

『 ついでながら、受賞作以前に、それより優れた作品のある作家にあとづけで賞を与えるのは、文学の衰退を招く。

 ちなみに3年前にこう書いていた日垣隆は、前回候補になった時には『その候補作よりもっと上質な本を以前に書いていた』と自認していたのだから、その当時はまだ『受賞作以前に、それより優れた作品のある作家にあとづけで賞を与えるのは、文学の衰退を招く。』という考えは持っていなかったのであろう。論理的には、そういうことになる。

 しかし、今年の第35回大宅壮一ノンフィクション賞(渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』が受賞)の候補に、彼が進んでなったということは、彼が自身の候補作 『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)を彼の今までの「最高傑作」だと自認したという証拠になる。だが、それを落選させられても、彼はまた『あっそう、という感じ』で落選を受け入れ、また「次回に期する」というのであろうか。もし、そうなのだとしたら、彼は「年々歳々最高傑作を書いて、無限向上している」という「自覚」を持っているということになるわけだが、もしそうだとするならば、これはもう(プロの物書きとしての)『自信』というようなものでもなければ『うぬ ぼれ』ということにもならない。それはもう単なる「妄想」と呼ぶべきものなのだ。

 ともあれ、私には第35回大宅壮一ノンフィクション賞の候補作5作を、全て読んでみようなどいう気持ちもなければ暇もないから、日垣隆の「最高傑作」の落選が妥当なものなのか否かは判断しかねる。  ただし、ひとつだけ言えることは、彼は藤田宜永のように、『同情』で受賞することもなかった、ということである。――いや、「同情で候補になった」可能性はあるし、この先「同情で受賞」することもないとは言えない。なにしろ彼は、「大宅賞」の勧進元である文藝春秋社お気に入りの、反戦後民主主義的・愛国右派ライターなのだから。
(ちなみに、内容は知らないが、日垣の「イラク戦争反対」は、必ずしもこれと矛盾するわけではなかろう)

 ところで、私は日垣隆のこのエッセイ文学賞にあたふたを、産経新聞の切り抜きとして持っていたのだが、このエッセイ、果 たして日垣の著作に、このままの形で、収録されているのであろうか。この点に、私はたいへん興味を持っている。
 と言うのも、こんな「見苦しいエッセイ」をそのまま収録するということは、日垣が自身の「見苦しさ」「言い訳がましさ」に、ずーっと鈍感だという証拠となろうし、収録していない
(あるいは、改変して収録している)とすれば、それは彼がこのエッセイの「見苦しさ」「言い訳がましさ」を自認したということになるからである。

 ともあれ、収録されているとすれば『偽善系』(文春文庫)ということになろう。現時点では未確認だが、同書の目次 を見る限り、収録されてはいないような感じである。――もとより、日垣自身のためには、どっちがマシなのか、私にもよくわからないのではあるが。

 

 

執筆・2004年6月17日
改稿・2004年6月22日

初出・BBS「アレクセイの花園(2004年6月18日)

 


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