討論・笠井潔をめぐって3)  

 


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     目 次3)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
リンクミスのご報告 アレクセイ 6月26日(土)21時19分56秒
思想の公準について はらぴょん 6月26日(土)22時21分36秒
話題は変わりますが はらぴょん 6月27日(日)21時04分0秒
ジュリア・クリステヴァについて はらぴょん 6月29日(火)21時29分38秒
「偽史」の専門家の手際 アレクセイ 6月29日(火)21時47分4秒
笠井潔関連投稿引用紹介(5)(※ 原文:ホランド) アレクセイ 6月29日(火)21時58分49秒
『空の境界』解説に関する雑感 はらぴょん 6月29日(火)22時36分57秒
風車と闘うドン=キホーテ はらぴょん 6月29日(火)23時43分48秒
戦う者は、まず足元を固めよ(1) アレクセイ 6月30日(水)00時56分49秒
戦う者は、まず足元を固めよ(2) 6月30日(水)00時58分1秒
戦う者は、まず足元を固めよ(3) 6月30日(水)00時59分24秒
戦う者は、まず足元を固めよ(4) 6月30日(水)01時00分54秒
映画館様のお慈悲ともいうべき(…)(4) 黒猫館館長(…) 6月30日(水)03時00分44秒
映画館様のお慈悲ともいうべき(…)(5) 6月30日(水)03時08分47秒
竹箒版『空の境界』 はらぴょん 6月30日(水)20時19分11秒
ミステリは、怖くなければ始まらない はらぴょん 6月30日(水)21時31分9秒
コレクターの見識 アレクセイ 72日(金)22時56分38秒
リンクのご報告 アレクセイ 7月 2日(金)23時07分57秒
笠井潔関連投稿引用紹介(6)(※ 原文:ホランド) アレクセイ 7月 2日(金)23時18分34秒
リンクのお礼など はらぴょん 7月 2日(金)23時33分57秒
土蔵の中の赤い光 はらぴょん 7月 2日(金)23時58分39秒
ありがとうございます アレクセイ 7月 3日(土)00時02分13秒
正誤表 はらぴょん 7月 4日(日)13時40分6秒
笠井潔と<天使>のアポリア(22) はらぴょん 7月 4日(日)19時28分44秒
笠井潔と<天使>のアポリア(23) 7月 4日(日)19時30分9秒
竹田青嗣氏についての疑念 はらぴょん 7月 4日(日)19時49分25秒
『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』を読む はらぴょん 7月 4日(日)20時32分26秒
笠井潔と<天使>のアポリア(24) はらぴょん 7月 5日(月)17時28分40秒
笠井潔と<天使>のアポリア(25) 7月 5日(月)17時30分34秒
笠井潔と<天使>のアポリア(26)  7月 5日(月)17時32分12秒
笠井潔という鏡(1) アレクセイ 7月 5日(月)20時53分49秒
笠井潔という鏡(2) 7月 5日(月)20時54分39秒
笠井潔という鏡(3) 7月 5日(月)20時56分16秒
笠井潔という鏡(4) 7月 5日(月)20時57分4秒
笠井潔という鏡(5) 7月 5日(月)20時58分28秒
笠井潔という鏡(6) 7月 5日(月)21時11分24秒
笠井潔という鏡(7) 7月 5日(月)21時12分13秒
笠井潔という鏡(8) 7月 5日(月)21時13分23秒
笠井潔という鏡(9) 7月 5日(月)21時17分3秒
笠井潔という鏡(10) 7月 5日(月)21時18分4秒
笠井潔という鏡(11) 7月 5日(月)21時19分32秒
推測 はらぴょん 7月 5日(月)22時19分42秒
明日からドラマ『ウォーター(…)(3) 黒猫館館長(…) 7月 6日(火)02時37分37秒
明日からドラマ『ウォーター(…)(4) 黒猫館館長(…) 7月 6日(火)02時46分3秒
自分の美を削ぎ落とす はらぴょん 7月 6日(火)06時16分16秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


リンクミスのご報告 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月26日(土)21時19分56秒


 みなさま

先程の書き込み「なぜ、何のための批判なのか?」でいくつかのリンクミスをしました。

討論・笠井潔をめぐっての方では訂正しておきますが、念のためにこちらにもご報告しておきます。リンクを試して下さった方、本当に失礼しました。


【訂正箇所】


なぜ、何のための批判なのか?(1)

(誤)> 推薦者の期待を裏切ってほしいのですが

(正)> 推薦者の期待を裏切ってほしいのですが


なぜ、何のための批判なのか?(3)

(誤)> 「ゼロの波」とは?

(正)> 「ゼロの波」とは?


なぜ、何のための批判なのか?(6)

(誤)> 疑問

(正)> 疑問


http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


思想の公準について 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月26日(土)22時21分36秒

現代思想の著作の中で、なにか一冊自分の思想の公準となるものを示せ、と問われた場合、ドゥルーズ=ガタリの『リゾーム』を挙げることになります。
リゾーム(根茎)とは、限りなく権力から遠い反システムです。(システム化されていないのではなく、権力化してゆくシステムへの恒久的な異議申し立ての基盤であるという点で、反システムなのです。)リゾームというアナーキーな反システムからすれば、実現された社会システムのうち、自由度が最も高い資本主義の制度ですら、なお抑圧的な暴力の部分が在るし、日本のようなゆらぎを許容した天皇制の予定調和の世界ですら、まだ陰湿な圧迫の部分があるということになります。このリゾームの公準として、なにが言論をゆがめているか、なにが精神を圧迫しているか、を問題にすることもできるし、犠牲者であるか、死刑執行人であるかの二者択一を迫る権力に批判の刃を向けることもできます。

批判を経て、単に破壊に終わるのではなく、なにか創造的な成果を示す必要があるように思います。
今回の笠井批判も、批判に終始するのではなく、最終的に別のパースペクティヴを示すのでなければ意味がないのです。別 のパースペクティヴとは、私にとってリゾームに至る方向性の提示になります。
(1)笠井的パラダイムは、私の理想とするリゾームに導くとは思われません。(そのための立証は、まだ途中でですが。)
(2)ジル・ドゥルーズは、ヌーヴォー・フィロゾフについて、「幼稚な二元論をつくり」、「それと同時に思想の中身が空っぽであればあるほど思想家が重要性を増し、空っぽな言表そのものに比べて言表行為の主体が重要性を手に入れる」とし、彼らが行ったのは知の「マーケティング」だけであると述べたことがあります。(「ヌーボー・フィロゾフ及び一般 的問題について」鈴木秀亘訳、『狂人の二つの体制1975-1982』河出書房新社より)ドゥルーズが危惧したのは、知のマーケティングによって、本当に創造的な行為がなされることに支障をきたすということです。私は知の「マーケティング」が優先されてしまう状況は、よろしくないと考えます。
(3)笠井潔の作風があらゆる意味を積分=統合化してゆく方向性を持つのに対し、竹本健治の「ウロボロス」シリーズや清涼院流水の「JDC」シリーズは意味を微分=差異化してゆく方向性を持っています。リゾームという公準に照らせば、後者の方を高く評価します。(もっとも、思想基準以前に、後者の方が読んでいて、好みに合う、愉しいということがあります。これは議論することではありませんが。)清涼院流水の作品については、完成度からすると荒削りなところがありますが、それはそれで魅力があるのではないか、と思います。別 に清涼院を評価していないのに、持ち上げているのではありません。笠井潔の最近の作品(特に『オイディプス症候群』)よりは、(1)個人的に面 白いと思っているし、(2)作品の方向性も評価できるので、少し声高に言ってみたい以上の意味はありません。
(4)笠井潔によるミステリ文壇での利益分配システムの批判によって、アレクセイさまが最終的になにをもたらそうとしているのか、今ひとつ分かりません。批判されている利益分配システムとは異なる理想的な文壇のシステム像をお持ちなのか、あるいはシステムではないが、理想的な批評のあり方像があるのか。その点を提示していただかないと、単なるひがみややっかみと受け取られかねない危険性を持つのではないでしょうか。
(5)笠井潔の著作を、私が系統的に読んでいるのは、初期の小説が面白く、かつミステリと思想小説の両方を兼ね備えるという世界的にも稀有な作品だったからです。評論については、読みながら疑問点ばかりでした。(つまり、小説に盛られている思想についても、疑問点が多かったということです。ただし、小説はいかような受け止め方も出来ますので、瑕疵とはならなかったわけです。)私が完全に笠井潔から離れたのは、『天啓の器』で主張があまりにも私の価値観と対立していることを確認できた点と、『オイディプス症候群』のつまらなさのせいです。『オイディプス症候群』は雑誌で読んで、単行本が出るまで長く待たされたのに、冗長なだけだったことが影響しています。

話題は変わりますが 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月27日(日)21時04分0秒

中井英夫の研究サイト「とらんぷ館」の掲示板に、中井英夫の晩年に週何回か雑用に通 っていた韓国の青年から、講談社文庫版『虚無への供物』をもらったということと、その文庫の巻末に赤ペンによる訂正があり、「BよただBのために乙はこの小説を書いた」との記載もあったとのこと。Bとは誰か、ということでしたので、田中貞夫氏を指すのではないかと返答しました。ところで、「BよただBのために乙はこの小説を書いた」という記載は、書誌学的に重要ではないかと思われますが、どうなんでしょうか。

ジュリア・クリステヴァについて 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月29日(火)21時29分38秒

K2の最新作『吸血鬼の精神分析』(『ジャーロ』連載中)では、ジャック・ラカンとジュリア・クリステヴァをモデルとする人物が登場する。
したがって、今回の作品のより深い読み込みのためには、このふたりの世界をあらかじめおさえておいたほうがよいだろう。(K2の作品は、それを読むことによって、他の文学・思想に関心を持つきっかけになるという特徴がある。このことは、評価されていいだろう。)
ジュリア・クリステヴァは、ブルガリア生まれの「異邦の女」としてフランスの精神分析学会にデビューした精神分析学者・言語哲学者である。その作品は、三期にわけると分かり易い。
(1)『セメイオチケ』の時期……ミハイル・バフチンらの影響下で、記号の解体と生成について探求し、<主体>がいかに生成されるか、あるいは文学の生成について間テクスト性の観点から解明しようとする。
(2)『詩的言語の革命』の時期……精神分析と言語学を結びつけ、革命の可能性をさぐろうとする。ル・サンボリックという象徴秩序を覆すために、ル・セミオティックという無意識から溢れてくる言語の力を用いようとする。
(3)『恐怖の権力』の時期……アブジェクション(廃棄作用・おぞましきもの)にかんする試論である。クリステヴァは、幼児が<主体>として形成されるためには、母性的なものをアブジェクト(おぞましい)ものとして心理的に廃棄し、母性と自分の間に距離を持つ時期が必要であるとする。

「偽史」の専門家の手際 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月29日(火)21時47分4秒


最近『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美/パルコ)を刊行して話題をふりまいた、翻訳家にして書評家の大森望が、自身のサイトの日記に、『空の境界』(奈須きのこ)に付された「笠井潔の解説」について、面 白い感想を書いていました。

『歴史はこうやってつくるのだという見本みたいな原稿で、思わず説得されそうになります。』という出だしが、とても皮肉で笑えます。『空の境界』そのものの評価も語っておりますが、ここでは「笠井潔の解説」について語った部分だけ、引用して紹介しておきたいと思います。


『『空の境界』でもうひとつ驚いたのは笠井潔の解説。上下に分かれて、合計40ページぐらいあります。歴史はこうやってつくるのだという見本みたいな原稿で、思わず説得されそうになります。しかし伝奇ブームが失速して新本格ブームが台頭したっていうのは、いくらなんでも無理があると思った。読者層が全然違うし、伝奇は消えてなくなったわけじゃなくてノベルス棚の一ジャンルとして定着してるから(陰陽師ブームとかもあったし)。
 90年代の伝奇については、ノベルスを無視するのなら(さらに《ブギーポップ》を伝奇に含めるなら)、やはり桑原水菜『炎の蜃気楼』とか若木未生『ハイスクール・オーラバスター』とかを中心にした女の子小説のムーブメントとして語るべきでしょう。
 笠井さん自身は「新伝綺」って言葉は使ってなくて、中心‐周縁論(まつろわぬ民の末裔が活躍するタイプ)を基盤にした80年代伝奇とは別 の新しいものと規定してるんですが、そういうものの第一号に『空の境界』を持ってくる理屈が弱い。
 エロゲの歴史にはまったく疎いので、18禁伝奇ビジュアルノベルの第一号がなんなのかは知りませんが、伝奇RPGってことでは、それこそ『女神転生』シリーズあたりまで遡る必要があるのでは。その影響を受けた小説もいっぱいあったような気がする。
 うーん、興味のないジャンルの話はどうも曖昧な書き方になるなあ。伝奇を軸にしてエンターテインメントの歴史を整理するのは面 白い視点だと思うけど。』
                      (大森望狂乱西葛西日記2004年6月10日





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


笠井潔関連投稿引用紹介(5) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月29日(火)21時58分49秒


次は、うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、ホランドくんが、『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美/パルコ)を読んだ感想として書き込んだ文章の一部(関連部分)です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


文芸出版界、その虚構と現実(中) 投稿者:ホランド 投稿日: 6月29日(火)00時13分7秒


 ほかに興味深い報告としては、エンターティンメント小説、とくにミステリの初版初刷の発行部数にかんする、大森望さんの次のような証言です。

『少数の人気作家を別にすると、エンターテインメント系の四六版単行本って、今はふつう初刷六千部から八千部くらい、それが返品率五割とかも珍しくない』(P150)

 これはかなりすごい数字だとは思いませんか? 以前、園主さまから「四六版単行本で刊行する場合、製作費をペイするには最低でも二千部なんだそうだけど、純文学作家なら大御所級でも、初刷二千部でそれっきりってのが珍しくないらしい」という話を聞かされて驚いたんですが、エンターティンメントが、まさかその3〜4倍程度だなんてびっくりです。
 こないだ園主さまは、

『同人出版でしかなかった『空の境界』の刊行に先立ち、少部数の「限定豪華版」を刊行して「話題作り」をしたなどというのも、じつに『文の商人』笠井潔らしい、巧みな戦略と申せましょう。
なにしろ「同人誌の世界」というのは、場合によっては、「本格ミステリの世界」と比較しても『本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実』があり、『市場のヤスリにかけられているかどうか』という点では『決定的な相違』があるとも言える世界で、そうした「同人誌の世界」から見れば、『本格ミステリの小世界』などという『タコツボ』世界における、たかだか1000部までの「限定本」など、屁でもない部数なのでございますから。』(2004年6月18日)

って書かれてましたよね。
 じっさい『空の境界』の「同人誌版」が万単位で売れたとまでは思わないけど、同人小説としてでも記録的に売れたというのなら、数千部程度は売れてるはずです。で、その数千人いるであろう同人時代からのファンが「私の持ってる『空の境界』が認められて、豪華限定本になった!」ってことで「限定本」を買うんだから、たったの1000部なんて(それ以外の人が一人も買わなくったって)絶対確実に捌ける数字なんですよね。それなのに、それが一瞬で売れたと報じれば、みんなが「(無名の新人作家なのに)すごい!」って思ってしまう。――これって立派に「マインドコントロール」ですよね。

 ともかく、こんな話からも、小説出版業界の驚くほどの「規模の小ささ」がうかがえるし、だからこそ『空の境界』現象なんてことも可能だったんでしょう。
 読者を楽しませることを主眼としたエンターティンメント小説においては、「うまい同人誌作家」と「売れないプロの作家」とでは、作家的力量 に大差がないばかりか、発行部数すらも大差がない。――ただ大差があるのは、ただその認知度(知名度)と、それにともなう「世間的権威」ということなんでしょうね。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


『空の境界』解説に関する雑感 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月29日(火)22時36分57秒

『空の境界』下巻の解説で、笠井さんは「「中心−周縁」論的な伝奇小説では、制度化され権力に支配された日常世界が敵である。都の権力にまつろわぬ 鬼や妖怪たちの物語として、伝奇小説は成立してきた。」(468ページ)と書いています。前後の文脈からすると、<「中心−周縁」論的な伝奇小説>の中に、自身のコムレ・サーガ連作も入れているようです。とすると、いままで言ってきたことは何だったのか、という疑問がでてきます。
笠井さんは、山口昌男の「中心−周縁」理論と自身の世界観を区別するために、自分は周縁ではなく、外部を問題にしてきたと言ってきたからです。一方、栗本慎一郎の「過剰−蕩尽」理論(パンサル理論)は、自分と同じく、共同幻想の外部を問題にしてきたから○としてきたのです。ところが、ここでは半村・五木といった伝奇小説の流れの中に、自身の作品も入れ、これを<「中心−周縁」論的な伝奇小説>とし、一方『空の境界』はそれらと全く違い、<「中心−周縁」論的な伝奇小説>では<日常が敵で、非日常が味方>だったが、「味方は日常、敵が非日常」といっているわけです。
これは彼の考えが変節したのでしょうか。それともここでは大雑把な議論をしているからでしょうか。あるいは、かつて自身の考えが山口昌男と異なるとしてきたのは、ポストモダン派の批判をかわすためのレトリックに過ぎず、実は大差はないと自覚していたということなのでしょうか。
もう一点、笠井さんは、ここで幹也という普通の男の子の立場を重視し、日常を重視していることに『空の境界』の価値を見出しています。これは、<終わりなき日常を生きろ>とするシステム社会学者の方向性と似ている気がします。
ということで、『空の境界』の解説には、異変の予兆を感じます。

風車と闘うドン=キホーテ 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月29日(火)23時43分48秒

セカイ系、青春エンタ、「きみとぼく」の世界、ジャンルX、新伝綺……東浩紀との対話『動物化する世界の中で』以降、笠井さんはおそらく彼自身よくわかっていないような相手と格闘をし始めた。笠井さんの意図は、これらを含めて大掛かりな笠井史観をつくりたいとねらいがあるようである。しかし、未知の相手と格闘するのは、どんな気持ちだろう。宇宙から来るわけの分からない使徒と格闘するような心理に近いのではないか。しかし、この格闘はセカイと笠井さんの距離が果 てしなく遠いことを意識させる。
しかし現在、ポストモダニズムですら社会学の用語をちりばめないと現実感をもてなくなっているというのに、笠井史観は大量 死・大量生という視点で、はなはだ繊細さを欠く粗雑な文化史を描くばかりなのだ。(その点、思い込みの激しい彼は、無自覚のようである。)
こういう相手を批評対象にして、笠井さんが自分と時代のずれをかんじていないわけはないと思う。努力賞ものではあるが、昔と比べると戦慄感覚を見失ったような作品ですら、一等賞を取れる体制を作ってしまっている彼は、自分を褒め称える取り巻きの中で、案外孤独を覚えているのではないか。

戦う者は、まず足元を固めよ(1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月30日(水)00時56分49秒


 はらぴょんさま

思想の公準について

> 現代思想の著作の中で、なにか一冊自分の思想の公準となるものを示せ、と問われた場合、ドゥルーズ=ガタリの『リゾーム』を挙げることになります。

> このリゾームの公準として、なにが言論をゆがめているか、なにが精神を圧迫しているか、を問題にすることもできるし、犠牲者であるか、死刑執行人であるかの二者択一を迫る権力に批判の刃を向けることもできます。

理論的にはそうなんですが、実際にそれ(批判)をやるのは、「肉体」と「人間関係」をそなえた「個人」だということを忘れてはなりません。

かつてマルクスを自身の公準とした人は大勢いたはずですが、誰もが皆、マルクスと同じことをやったわけでもなければ、それぞれが同じ程度の達成を示してみせたわけでもありません。

なぜこのような差異が生じるのかと言えば、それは思想の主体である個々人に、「力量 」や「器」の差があったからなのでしょう。いくら優れた思想でも、それを盛るべき器としての「肉体」が貧弱であれば、それを十全に盛ることはできないのです。
つまり「小さな器」には、偉大な思想の「一部(を不完全に)」しか盛れないし、「歪んだ器」には偉大な思想も歪められた形でしか盛ることができないのです。

> 批判を経て、単に破壊に終わるのではなく、なにか創造的な成果を示す必要があるように思います。

これは、批判される側がよく口にする「詭弁」です。

例えば、会社に、おかしなことばかり言う、足手まといな上司がいたとします。ある人が、そのおかしな部分を指摘して批判すると、その上司はたいてい、こう答えるでしょう。

「君の意見は否定的なばかりで、まったく前向きな創造性がない。他人を批判する前に、前向きな建設的提案をしたらどうなのか」

こういう上司に、彼は内心でこう呟くでしょう。

「お前が黙っているだけで、会社は随分マシになるってことだよ」

> 今回の笠井批判も、批判に終始するのではなく、最終的に別のパースペクティヴを示すのでなければ意味がないのです。別 のパースペクティヴとは、私にとってリゾームに至る方向性の提示になります。

したがって、笠井潔批判が批判に終始したところで、それが正しい批判なのなら、『最終的に別 のパースペクティヴを示す』必要など、まったくありません。

正しい批判とは、批判そのものの中に「正しい方向への示唆」を含んでいるものだからです。
したがって、ことさらにつけ加えられたような「示唆」など、パフォーマンス以上のものではありえないでしょう。そんなものは、しばしば内容空疎で、実現性も希薄な、空論でしかないのではないでしょうか。





( 以下は「戦う者は、まず足元を固めよ(2)」につづく)

戦う者は、まず足元を固めよ(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月30日(水)00時58分1秒


> (1)笠井的パラダイムは、私の理想とするリゾームに導くとは思われません。(そのための立証は、まだ途中でですが。)

誰でもそう思うと思います。

> (2)ジル・ドゥルーズは、ヌーヴォー・フィロゾフについて、「幼稚な二元論をつくり」、「それと同時に思想の中身が空っぽであればあるほど思想家が重要性を増し、空っぽな言表そのものに比べて言表行為の主体が重要性を手に入れる」とし、彼らが行ったのは知の「マーケティング」だけであると述べたことがあります。(「ヌーボー・フィロゾフ及び一般 的問題について」鈴木秀亘訳、『狂人の二つの体制1975-1982』河出書房新社より)ドゥルーズが危惧したのは、知のマーケティングによって、本当に創造的な行為がなされることに支障をきたすということです。私は知の「マーケティング」が優先されてしまう状況は、よろしくないと考えます。

『知の「マーケティング」が優先されてしまう状況』がよろしいと思う人は、まずいないと思います。
問題は「ドゥルーズの危惧」が、はたして情況を正しく映したものなのか、ということなのですね。その点にかんする考察検証を抜きにして、先へ進むのでは、ドゥルーズ教の信者だということにもなりかねません。

> (3)笠井潔の作風があらゆる意味を積分=統合化してゆく方向性を持つのに対し、竹本健治の「ウロボロス」シリーズや清涼院流水の「JDC」シリーズは意味を微分=差異化してゆく方向性を持っています。リゾームという公準に照らせば、後者の方を高く評価します。(もっとも、思想基準以前に、後者の方が読んでいて、好みに合う、愉しいということがあります。これは議論することではありませんが。)清涼院流水の作品については、完成度からすると荒削りなところがありますが、それはそれで魅力があるのではないか、と思います。別 に清涼院を評価していないのに、持ち上げているのではありません。笠井潔の最近の作品(特に『オイディプス症候群』)よりは、(1)個人的に面 白いと思っているし、(2)作品の方向性も評価できるので、少し声高に言ってみたい以上の意味はありません。

『もっとも、思想基準以前に、後者の方が読んでいて、好みに合う、愉しいということがあります。これは議論することではありませんが。』――むしろ、この点が重要でしょう。なぜならそこに、はらぴょんさん固有の「肉体」性の発露が見て取れるからです。

そして、その「肉体」的傾向性、すなわち自己の偏向性をしっかり相対化しておかないかぎり、個人的な『思想の公準』は、それに足をすくわれることになるでしょう。
ですから、なぜ「「ゼロの波」とは?」で、

> もっとも、Vol.2の見所は、508〜509ページに登場している原田忠男とかいう人物ではないでしょうか。(←あっ、自己宣伝してる!)この原田某は、清涼院に接近しているようですが、要するに笠井潔が毛嫌いしているものを支持しようとする戦略的意図があるようです。

なんてことを書いてしまったのか、なぜ『少し声高に言って』みたくなったのか、そこのところをとっくりと考えるべきでしょう。さもなければ、『少し声高に言ってみたい以上の意味はありません。』というような無根拠な否定は、笠井潔の、

『「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』

という東浩紀との往復書簡での弁明同様、説得力に欠けるものにしかなりません。





( 以下は「戦う者は、まず足元を固めよ(3)」につづく)

戦う者は、まず足元を固めよ(3) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月30日(水)00時59分24秒


> (4)笠井潔によるミステリ文壇での利益分配システムの批判によって、アレクセイさまが最終的になにをもたらそうとしているのか、今ひとつ分かりません。批判されている利益分配システムとは異なる理想的な文壇のシステム像をお持ちなのか、あるいはシステムではないが、理想的な批評のあり方像があるのか。その点を提示していただかないと、単なるひがみややっかみと受け取られかねない危険性を持つのではないでしょうか。

「対案」など馬鹿馬鹿しいというのは、最初に書いたとおりです。
『笠井潔によるミステリ文壇での利益分配システム』が、健全な文壇のためには「マイナス要素」でしかないのですから、それをぶっ潰して「ゼロ」に戻すべしというのは、それだけで立派に「建設的な意見」なのですよ。――貴方が、笠井潔の立場を擁護してどうするんですか?(笑)

そもそも『単なるひがみややっかみと受け取られかねない』なんてことを気にするのが、馬鹿馬鹿しいことなのです。

以前、新聞紙上で新保博久に「大衆向け凡庸ミステリ」との診断を下された内田康夫先生は、きっとその時、新保のことを「自身が吹けば飛ぶようなミステリ評論家で、私が地位 も名誉も人気もある売れっ子作家だから、あいつは単なるひがみややっかみで、私のことをこき下ろしたんだろう」とお考えになられたことでしょう。……だから、どうだと言うのでしょうか。自覚のない馬鹿には言わせておけ、とお思いになりませんか?(笑)

私にすれば、私に批判された人が、私の批判を、

 ・ 心の中で(『単なるひがみややっかみ』だと)そう思う

のは、私の批判が、それだけ応えた証拠(の観念的自己慰撫)であり、反論を許さないものだったという証拠にもなろうかと思います。
また、私に批判された人が、

 ・ 口に出して(『単なるひがみややっかみ』だと)そう言う

のなら、それは私の批判の正しさの証明となるでしょう。なぜなら、彼に反論が可能なのなら、彼は『単なるひがみややっかみ』だなどと、幼稚な「負け惜しみ」など言わず、論理的に反論して、私の批判を逆に論破しようとしてくるはずだからです。

つまり、どっちにしろ、私にはそんなことを気にする理由はないのです。

> (5)笠井潔の著作を、私が系統的に読んでいるのは、初期の小説が面白く、かつミステリと思想小説の両方を兼ね備えるという世界的にも稀有な作品だったからです。評論については、読みながら疑問点ばかりでした。(つまり、小説に盛られている思想についても、疑問点が多かったということです。ただし、小説はいかような受け止め方も出来ますので、瑕疵とはならなかったわけです。)私が完全に笠井潔から離れたのは、『天啓の器』で主張があまりにも私の価値観と対立していることを確認できた点と、『オイディプス症候群』のつまらなさのせいです。『オイディプス症候群』は雑誌で読んで、単行本が出るまで長く待たされたのに、冗長なだけだったことが影響しています。

私もが笠井を離れたのはもう少し前ですが、ことの経緯はだいたい同じですね。
でも、笠井潔初期小説から受けた衝撃の大きさは、私のほうが圧倒的に大きかったようです。それはたぶん、私のなかに初期笠井潔と同様の、「至高性」を求める部分があったからではないかと思います。

ただ笠井潔は、その「至高」への道をあっさりリタイヤして、「世俗」的権威を求める方向に走ってしまいました。その点、私はまだ「至高」への道に執着しているから、こうして「世俗」的には何のメリットもない「笠井潔批判」なんてことをしているのです。

つまり私のなかに「至高性」を求める「深き業」さえなければ、私も今ごろは「探偵小説研究会」の面 々のように、笠井潔に取り入って、ミステリ界における世俗的栄達を求めていたことでしょう。なにしろ私は「探偵小説研究会」の誰よりも、古くからの笠井潔ファンであり、誰よりも古く笠井の面 識を得ていたのですからね(笑)。





( 以下は「戦う者は、まず足元を固めよ(4)」につづく)

戦う者は、まず足元を固めよ(4) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 6月30日(水)01時00分54秒


ジュリア・クリステヴァについて

> したがって、今回の作品のより深い読み込みのためには、このふたりの世界をあらかじめおさえておいたほうがよいだろう。

そのためには、もう少し、噛み砕いて書いていただく必要があります。今のままでは「あらかじめ知っている人には、わかりきった説明。知らない人には、わからない説明」になってしまうと思います。

> K2の作品は、それを読むことによって、他の文学・思想に関心を持つきっかけになるという特徴がある。このことは、評価されていいだろう。

これは期せずしてなされた「大いなる皮肉」だと思います(笑)。

ところで、こういう真面目な文章で、いきなり『K2』などと表記するのは、いかがなものかと思います。


『空の境界』解説に関する雑感

> もう一点、笠井さんは、ここで幹也という普通の男の子の立場を重視し、日常を重視していることに『空の境界』の価値を見出しています。これは、<終わりなき日常を生きろ>とするシステム社会学者の方向性と似ている気がします。

笠井潔が『日常を重視』する方向に変わっているのは、『文の商人』などということを自慢気に語り出した段階で、すでに明らかでしょうし、その「日常重視」を具体的に示した行動こそが、「探偵小説研究会」や「本格ミステリ作家クラブ」の設立や、その上での「文学賞」狙いであり「売り上げ倍増キャンペーン」なんだと思います。

つまり、笠井潔の「日常重視」とは、「世俗的欲望にまみれて、恥を知らない」ということと同義なのでしょうね。したがって、

> ということで、『空の境界』の解説には、異変の予兆を感じます。

ということではなく、もっと前からの傾向だと思います。


風車と闘うドン=キホーテ

> こういう相手を批評対象にして、笠井さんが自分と時代のずれをかんじていないわけはないと思う。努力賞ものではあるが、昔と比べると戦慄感覚を見失ったような作品ですら、一等賞を取れる体制を作ってしまっている彼は、自分を褒め称える取り巻きの中で、案外孤独を覚えているのではないか。

同感です。笠井さんには「人間の欲望は、際限のないもの。求めるだけでは、決して満たされないもの」だという古来の知恵に、少しは耳を傾けてもらいたいものです。





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映画館様のお慈悲ともいうべき7月1日の映画の日(1000円均一)にはなんの映画を観たらよいか詳しい人教えてください(4) 投稿者:黒猫館館長☆自殺よりセックスより特撮  投稿日: 6月30日(水)03時00分44秒

☆はらぴょんさん>クリステヴァといえばフロイト派の精神分析学者だった気
がするのですが「おぞましきもの」という概念は非常に興味深いですね〜。
ぜひはらぴょんさんおひまな時でもこの「おぞましきもの」について教えてく
ださい。^^/

映画館様のお慈悲ともいうべき7月1日の映画の日(1000円均一)にはなんの映画を観たらよいか詳しい人教えてください(5) 投稿者:黒猫館館長☆自殺よりセックスより特撮  投稿日: 6月30日(水)03時08分47秒

☆アレクセイさん>
『空の境界』という小説は同人誌が初出だったのですか?それは非常にめずらしい
例ですね〜。詩の世界では同人誌が初出などということはよくあるのですが小説で
同人誌が初出でそれから商業出版になったという話は最近は聞いたことがありませ
んね。ぜひ読んでみたいですね〜。^^

それでは一件コンプリーーーーーーーーーーーーーーーーーート!!!

竹箒版『空の境界』 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月30日(水)20時19分11秒

黒猫館館長さま>
『空の境界』は、まずHP「竹箒」に掲載されて、それから個人サークル「竹箒」からノベルスサイズで刊行されたという経緯を辿ったとのこと。今回の講談社ノベルス版は、さらに加筆されているようです。
同人版は、以下のURLに書影が載っています。(表紙が二種あるということでしょうか。上のURLと下のURLと異なる表紙です。)
http://www.typemoon.org/works/kara.html
http://maijar.org/garakuta/
この同人版と愛蔵版の実物は、まだ直接手にしたことがありません。
編集済

ミステリは、怖くなければ始まらない 投稿者:はらぴょん  投稿日: 6月30日(水)21時31分9秒

個人的な感想なので、他の人がどうなのかわからないが、私にとって『オイディプス症候群』は途方もなくつまらない退屈な本であった。
『オイディプス症候群』は、孤島ものである。孤島ものというのは、閉ざされた離れ小島で、外界との連絡を絶たれた状態で、殺人が起こるというものである。この殺人は、連続殺人の場合が多い。またひとり、またひとりと姿を見せない殺人者によって、孤島に閉じ込められた人が殺されてゆき、主人公が切迫した状況下に置かれるというのが、孤島ものの見所である。
主人公はナディア・モガール。設定としては孤島ものの条件をクリアしている。
初出は『EQ』。ミステリ専門誌である。待望の矢吹駆シリーズということで、私は『EQ』が出るたびに内容を確認していった。(私の場合、雑誌の段階から購入するのは、実はあまりない。単行本やノベルスにまとめられた段階で入手するのが普通 である。だから、相当、期待をかけていたということである。)
物語の導入部で、エイズを思わせる疫病のエピソードが語られ、物語に荘重な印象をもたらしていた。否が応でも、ワクワクする出だしであった。しかし、物語の進行とともに、失速してゆくような感覚を覚えた。今までの矢吹駆シリーズならば、徐々にテンションが上がってゆくというのに。
一体、これはなにが起きたのか。雑誌連載の後、私は放心状態になった。
著者笠井潔は、雑誌掲載後、大幅な加筆修正をすることで知られている。そのせいか、雑誌連載後、なかなか単行本が出なかった。
単行本が出るまでの間、実に何年もの歳月が経過した。一説によると、笠井さんはスキーばかりやっていて、執筆をあまりしないといううわさも聞いた。
やっと単行本が出たが、どうも著者は矢吹駆の出番を早くするように書き直したようである。このシリーズの固定客は、矢吹駆というキャラクターのファンがほとんどである。しかし、孤島もので最初から探偵を出すと、サスペンス色が落ちる。怖くなくなるのだ。だから、出番を早くする代わりに、探偵として活動できない役柄(ミッシェル・フーコーをモデルとするミッシェル・ダジールの東洋人の秘書)という設定にしたのである。
しかし、そういう配慮にもかかわらず、この物語は孤島ものにかかわらず、あまり怖くないのである。連続殺人は起きる。にもかかわらず、怖くない。これは困ったことではないだろうか。(たとえば、二階堂黎人『人狼城の恐怖』は、世界最長ということで、読みきれるか不安になったが、なんのことはない。恐怖のあまり、次がどうなるかとページをめくらずにいられなくなるのだ。)
ひとつには、物語にいろんな要素を詰め込みすぎなのではないかと思う。事件が起きる。しかし、感情的にあたふたしたり、殺されたくないと閉鎖環境から脱出したいと悩みもがくのではなく、知的にギリシャ神話の薀蓄にもとずく推理が延々と展開されるのだ。これにより、スピードが落ちる。これまた、問題である。恐怖の物語は、エスカレートし、増幅してゆくべきものだからである。
ミステリは、怖くなければ始まらない。(せめて、黒猫館の夜の雰囲気があればよかったのだが。)

この物語は、その後第3回本格ミステリ大賞を取ったらしい。しかし、私の場合、この物語が、なんとか賞を取ったとか、実はあまり興味がないし、そういうことを判断基準にして本を選ぶこともしない。むしろ、なんとか賞を取った本は、つまらない本が多い。一般 ウケするということは、どこか欠陥がある<例えば媚びているとか>ということだと思う。(子どものとき『アイコ16歳』でこりごりした経験がある。)
それに、ミステリは、本質的に夜のものであり、だれからも誉められる昼の世界とは無縁であるべきなのであると思う。

コレクターの見識 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 2日(金)22時56分38秒


 黒猫館館長さま

> 『空の境界』という小説は同人誌が初出だったのですか?それは非常にめずらしい例ですね〜。詩の世界では同人誌が初出などということはよくあるのですが小説で同人誌が初出でそれから商業出版になったという話は最近は聞いたことがありませんね。ぜひ読んでみたいですね〜。^^

これからは珍しくなくなるかも知れませんよ。二匹目のドジョウや便乗を狙う輩が、わんさか出てくるかも知れません(笑)。

『空の境界』そのものは、評判も上々みたいだから、読んでみる価値はあるでしょうね。もちろん、公刊された決定版を読んで、ファンになるほど評価ができれば、同人版まで蒐るのも悪くはないでしょう。

でも、ただ単に「流行りものだから欲しい」というのでは、コレクターの名が泣きます。自分の目で判断して、良ければ蒐る。良くなければ、踊らされてばか騒ぎしている「無定見の徒」を冷たく見下してやる、というのも「コレクターの見識」というものでしょう。――明らかに不出来な『仮面 ライダー某』とやらを、視聴率の高さだけで奉る人のような人は、大ばか者だと思うでしょう?(笑)

ところで、

> それでは一件コンプリーーーーーーーーーーーーーーーーーート!!!

これって、八尾の猫さんの影響、うけてません?





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リンクのご報告 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 2日(金)23時07分57秒


 はらぴょんさま

おくればせながら、やっと、はらぴょんさんのサイト 薔薇十字制作室とリンクを張らせていただきました。
リンク集のページに、解説つきでご紹介しておりますので、どうぞご確認下さい。

しばらく中断しているもようの「笠井潔と<天使>のアポリア」ですが、続きを楽しみにしているので、よろしくお願いします。

なお、本日は時間がありませんので、お書き込みの感想等については、後日とさせていただきます。悪しからず、ご了承下さい。




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笠井潔関連投稿引用紹介(6) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 2日(金)23時18分34秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、ホランドくんが書き込んだ文章の一部(関連部分)です。なお、引用文中で引用されている「>」を付した部分は、私の文章です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


感化されやすさについての自覚(4) 投稿者:ホランド 投稿日: 7月 2日(金)16時09分24秒


 園主さま


 (中略)

> 「東京都」→「君が代・日の丸の強制」→「教師」→「創価学会」→「公明党」→「山下栄一」→「スクールカウンセラーの導入」→「心理学者河合隼雄」→「心のノート」→「祖国を愛する心」→「臨教審」→「中曽根康弘」→「石原慎太郎」→「東京都」

> と、現在の日本の「政治と教育」をめぐるキナ臭い動きは、みごとに「閉じた輪」を形成しているということなのでございます。

 こないだ笠井(潔)さんによる『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)の売り込み方が、ほとんど『マインドコントロール』だって書きましたけど、現代はまさに「プロパガンダ(政治的宣伝)」による「洗脳」の時代なんでしょうね。みんな、いいように、それに踊らされているんです。

 もちろん、ボクの選択行動自体にも、そうしたマインドコントロールの影響はあるんでしょうが、その場合、どう対処すれば良いのかと言えば、結局は「世評」に踊らされず、自分の価値観で持って、個々の対象・事象の価値を、客観的に評価するようにするしかない、ということなんだと思います。――つまり、この問題は、「政治」や「文学賞」や「ベストセラー」の問題にとどまらず、もっと普遍的なものなんだと思います。





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リンクのお礼など 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 2日(金)23時33分57秒

アレクセイさま>
リンク集、確認いたしました。綺麗なレイアウトのページで、詳しく(「竹本健治ファン倶楽部<軟体動物同盟>のことまでも)紹介してくださり、ありがとうございます。
一点、気になった点が…
>『天酒房 楽古堂』を開設して下さって大内史夫さん
「下さって」を「下さった」にした方が、良いのではと思った次第。ご確認を。
「笠井潔と<天使>のアポリア」は、近いうちに再開します。
ただし、明日は中部圏の実家に帰るため、PCの書き込みはできません。アレクセイさまの喜びそうなネタ(?)を探して来ようかと考えております。

土蔵の中の赤い光 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 2日(金)23時58分39秒

昨日、滝本竜彦原作・大岩ケンヂ画『NHKにようこそ!(1)』(角川コミックス・エース)を読み、すごく共感し、滝本竜彦著『ネガティヴハッピー・チェンソーエッヂ』(角川文庫)を新たに入手しました。『NHKにようこそ!(1)』は、ひきこもりの話なのですが、とてもひとごととは思えませんでした。ここに書かれているひきこもりと、自分はどこが違うのか、私にはわかりません。なんとか社会人を演じてはおりますが、内面 はここに書かれているのと大差ありません。主人公がいかにひきこもりを脱出できるのか、とても気がかりです。
ところで、ひきこもりは最近よく使われる言葉ですが、乱歩なんかも現代に生きていたらひきこもりとされたかも知れません。乱歩は土蔵で、赤い光のランプをつけて創作しているという作り話を、流布させようとしたようですが、今ならば「ひきこもりに間違いない!」と言われてしまうのではないでしょうか。乱歩の熱中した貼り紙年譜や、内外のミステリの蒐集とトリックの分類、そして創作の分野で繰り広げられる妖しく耽美な夢の世界……これらはひきこもりであることを生かした特技のような気がします。
ミステリはどこか反社会性を帯びた部分があった方が面白い、というのが私の勝手な考えです。だから、ミステリの書き手がひきこもりであってもいいと思うし、そういう部分がない書き手はつまらないと思います。しかし、ミステリの書き手が、文壇政治家だったり、党派活動に余念がなかったら……止めてくれ!と叫びたくなります。

ありがとうございます 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 3日(土)00時02分13秒


 はらぴょんさま

>> 『天酒房 楽古堂』を開設して下さって大内史夫さん
> 「下さって」を「下さった」にした方が、良いのではと思った次第。ご確認を。

ご指摘、ありがとうございました。さっそく訂正しておきました。

三度は読み返しているのに、どうしても自分の目だけでは、ミスを払拭できませんね。今後ともよろしくお願いいたします(この文章で、変換ミスやタイプミスをしないようにしとかないと/^^;)。

> 明日は中部圏の実家に帰るため、PCの書き込みはできません。アレクセイさまの喜びそうなネタ(?)を探して来ようかと考えております。

楽しみにしております。気をつけて、いってらっしゃい。




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正誤表 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 4日(日)13時40分6秒

「笠井潔と<天使>のアポリア(17)」に、以下の誤りがありましたので、お詫びとともに訂正いたします。
(誤)『三匹の蟹〜私立探偵飛鳥井の事件簿』、「三匹の蟹」
(正)『三匹の猿〜私立探偵飛鳥井の事件簿』、「三匹の猿」

(自己分析)
そそかっしい性格なので、記載ミスは結構多い方ですが、今回は猿を蟹にしたことになにか精神分析的主題があるような気がします。
作中作「三匹の猿」は、み猿、きか猿、いわ猿に由来しており、ことなかれ主義をカフカ風の不条理小説、グロテスク・リアリズムの手法で批判した作品という設定になっています。み猿、きか猿、いわ猿に由来した作中作であることをすっかり忘れ、その代わりになぜか河野多恵子の『蟹』のイメージが入り込んでしまったようです。グロテスクからまっさきに蟹が連想されるようになったのは、三島由紀夫が蟹を怖がったというエピソードを知ってからです。

笠井潔と<天使>のアポリア(22) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 4日(日)19時28分44秒

笠井潔は、矢吹駆初期三部作を書き上げた後、コムレ・サーガというSF伝奇小説の連作を執筆していた。彼が、本格ミステリの世界に帰還するのは『哲学者の密室』によってである。
笠井の『哲学者の密室』の主題は、ハイデッガーとナチズムの問題である。この問題は、ヴィクトル・ファリアスが『ハイデッガーとナチズム』(名古屋大学出版会、山本尤訳)で、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)に入党したのが、1933年5月1日で、党員番号が3125894(バーデン地区)、1945年まで党員であったことなどを暴露したことに始まる。ハイデッガーの思想は、実存主義はもとより、フランスのジャック・デリダや、アメリカのイェール学派のポール・ド・マンにも影響を与えていたから、その影響は計り知れなかった。問題は、ハイデッガーの哲学的核心と、思想としてのナチズムとの間に因果 関係にあるかどうかである。笠井潔の場合、『テロルの現象学』で、マルクス主義的な弁証法的権力に基づくテロリズムを、フッサールとハイデッガーの現象学によって「観念の倒錯」と断罪していた。従って、ハイデッガーの哲学が、ナチズムとリンクしているならば、自身の思想の危機に繋がることになるだろう。
ハイデッガーの思想は『存在と時間』に示されているが、それによると彼の目的は基礎的存在論の構築を目的にあり、現存在(実存、人間存在)という存在者を現象学によって記述し、存在者を支えている<存在>(ある)に迫ろうとする。したがって、厳密に言うと、彼は実存主義者でも、実存哲学者でもない。存在主義者であり、そのために現存在分析をしたに過ぎない。彼は、現存在が<存在>に覚醒するのは死を前にした状態においてであるという。そこで、より先鋭的なナチス突撃隊SSに、シンパシーを抱き積極的に支持するようになる。(ちなみに、サルトルの『存在と無』には、存在者のみがあり、それを支える<存在>などという根拠はない。)
とすれば、マルクスを斬るのに、ハイデッガーをもってしてはだめである。そこで召喚されたのは、エマニュエル・レヴィナスである。この人物は、フランスに現象学を伝えた人物であり、ハイデッガーの弟子でもあるが、ユダヤ人としての強制収容所体験から、<イリヤ>という独自の実存概念を作り上げたのである。<イリヤ>とは、主体であることを剥奪され、暴力にさらされ、死者ではないが、かといって生者でもなく、ただ非人称で無名のまま、単に「ある(イリヤ)」としかいえない存在様式のことである。(デリダの『エクリチュールと差異』法政大学出版局に、レヴィナス論が収録されているので、関心のある方は参照されたい。)笠井潔は、「飛沫の実存イメージ(エマニュエル・レヴィナス論)」を書き、ハイデッガーからレヴィナスへ自身の理論のマイナー・チェンジを行った。『哲学者の密室』は、このハイデッガーの全的否定と、レヴィナスの肯定を扱った大作なのである。

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笠井潔と<天使>のアポリア(23) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 4日(日)19時30分9秒

『哲学者の密室』は、二階堂黎人の『人狼城の恐怖』が登場するまでの間、世界最長の密室殺人を扱った本格ミステリであった。この物語が、長くなったのには理由がある。
(1)内容面の理由。この物語は、三十年の歳月を隔てて起きたふたつの三重の密室殺人を扱っている。事件がふたつあるので、当然説明のために長くなる。また、矢吹駆の本質直感による推理は、まずハイデッガーをモデルとするハルバッハ説に基づきなされるが、後にレヴィナスをモデルとするガドナス説に基づき修正される。横溝正史の『病院坂の首縊りの家』同様、推理が二回なされるので、当然長くなるのは必至である。
(2)主題面の理由。この物語では、マルティン・ハイデッガーをモデルとするハルバッハという人物とナチズムの問題が主題を成す。したがって、ハイデッガーの哲学体系の説明をひととおり作中で行われないと、読者に物語を理解してもらうことができない。さらに、ハイデッガーの哲学に代えて、エマニュエル・レヴィナスをモデルとするガドナスが登場することから、ハイデッガーとレヴィナスの差異も説明しておかねばならない。その結果 、説明が膨大なものにならざるを得ない。
(3)作品形式の理由。作中のナチズムの問題から、大量死の時代が、大戦間英米探偵小説を生み出した理由というミステリ理論に発展してゆく。ミステリ理論を内包したミステリということで、これまた膨大な著述量 が必要となる。
矢吹駆シリーズは、中期に入り『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』…と長大化してゆく傾向にあるが、これらの特徴は、ポストモダニズムと脱コード派(脱格系)ミステリの「構築なき脱構築」を批判し、ミステリに構築性を求める笠井の意志が反映していることは疑い得ない。(実際、笠井は京極夏彦の作品などを例に、ミステリにおいて構築性を実現するためには、長大化を避けられないとする見解を示している。)
ただし、端正なミステリへの志向は、矢吹駆シリーズの初期からの特徴であり、中期になってから長大化する理由の説明としては不十分である。
中期になってからの長大化の理由は、<理論体系への意志>が顕著になってきたことにあると思う。
まず、矢吹駆シリーズで扱う思想家が、理論的・体系的な人物になってきたということである。初期で扱った思想家ヴェイユやバタイユは、単独者であり、その哲学は「実存的」になされた。ヴェイユやバタイユにとって、問題は生きることであり、実存にまつわる理論体系を打ち立てることなど問題外であった。ところが、中期で扱うハイデッガーのアプローチは「実存論的」である。さらにフーコー、ラカン、クリステヴァといった構造主義以降の学者たちは、当然、学としての「体系(システム)」への意志を持っている。
第二に、それらの検討を通じて、大量死(あるいは、その陰画としての大量生)に基づくミステリ史観を打ちたてようとする笠井にも、あきらかに理論体系への意志がある。
<理論体系への意志>が強まってきたことは、ミステリ批評家としての完成=安定期の時期に突入したということである。

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竹田青嗣氏についての疑念 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 4日(日)19時49分25秒

以下は「一度公開した文章は、基本的に消せないものだ(アレクセイさま)」という言葉に触発を受けて、ならばアレを、と実家で探し出してきた文章です。
今日は、自分の記載ミスを発見したばかりなので(正誤表参照)、少々テンションは低いですが……これは内容の理解度まで露呈するミスだと思うのです。

ところで『哲学者の密室』の執筆にあたって、笠井潔は竹田青嗣の強力を得ている。フッサールの現象学の啓蒙的な著作で知られるこの人物は、終始変わらぬ 笠井の思想分野での友人であり、古くは角川文庫版『バイバイ、エンジェル』の解説「<世界>という背理」、また角川文庫版『ヴァンパイヤー戦争10魔神ネヴセシブの覚醒』の解説を書き、笠井とともに『ORGAN』の編集委員も務めた。思想的には、フッサールの現象学に基づき、ポストモダニズム、特にデリダの『声と現象』を批判するスタンツなので、笠井と一枚板と判断してよいだろう。
この竹田青嗣の『意味とエロス』(ちくま学芸文庫、1993年第一刷)があるが、その19ページ目には次のような記載が見られる。
「(前略)こういった考え方は、現在では自然認識についてのひとつのはっきりしたパラダイムを形造っている。中沢が盛んに援用する、クリステヴァ、ソレルス、スーフィ、ブーサイック、リオタール、セールなどが、一様にこういう考えを示している。」
ここで、竹田青嗣は二箇所の誤りをしている。
(誤)スーフィ……イスラム教神秘主義の流派を指すので、ここで他の人名とともに併記するのは間違いであり、削除すべき。ちなみに、スーフィは、中沢新一の『チベットのモーツァルト』だけでなく、笠井潔の『薔薇の女』にも、生前離脱をめぐって言及されている。
(誤)ブーサイック……ポール・ブーイサックPaul Bouissaeのこと。中沢新一は、ポール・ブーイサックの『サーカス〜アクロバットと動物芸の記号論』せりか書房1977年を翻訳しており、『チベットのモーツァルト』でも言及されている。
ちなみに、第一刷の段階でおせっかいなことに、私が出版社に連絡してしまっているので、第二版以降ではこの記述は修正されているはずである。
後者の誤りは、記載ミスや記憶の誤りではないかと思う。
しかし、前者はスーフィを現代思想家のひとりと解しているとしか思えない。とすれば竹田は、笠井の全著作を理解しているわけではないし、批判対象の中沢の記述を読みきれていないということではないか。

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『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』を読む 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 4日(日)20時32分26秒

笠井潔の『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』(早川書房)を読む。
笠井潔の批判者(匿名座談会)への反批判の箇所に釘付けになる。
1.彼は匿名の批判者が、無責任な中傷をしてくることを批判し、そこに退廃と堕落があるとする。私の場合、HPで実名を挙げているから匿名ではない。(無論、無名の私など問題になどするわけがないが。)念のために掲示板の書き込みにもメールアドレスを付けることにする。
2.彼は、批判者は「嫉妬や羨望やルサンチマンを動機」としているとしている。そういう動機ならば、『テロルの現象学』の射程圏内に入ってしまう。『テロルの現象学』は、そういう心理から、最終的に党派観念を作り出すとしているからだ。私の動機は、彼の理論が私の価値観(それは浅田−東を主軸とするポストモダニズムに依拠している)と抵触していることと、私のお気に入り(竹本健治のウロボロス連作、その方向性を革命的にエスカレートすれば清涼院流水のJDC連作になる。また、『匣の中の失楽』はポストモダニズム誕生前夜の雰囲気を持った作品である。)の存在すら否定する極端な言説を述べているからである。私は笠井潔について「困った分からず屋」だとは思うが、笠井潔のようになりたいだなんてとんでもない。それは想像しただけで、げっそりする。無論、嫉妬や羨望など起こりようがない。
3.笠井潔は匿名の正体が分かると、書評程度で、体系的な著作もないと批判者を侮蔑するが、私の場合、笠井潔の体系など三流だと思っているので、これまた該当しない。
しかし、世の笠井潔主義者を脱洗脳させるには、笠井理論に適合しない小さな事例をこつこつと指摘するしかないような気がする。

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笠井潔と<天使>のアポリア(24) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 5日(月)17時28分40秒

1998年には、東浩紀の『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(新潮社)が刊行されている。浅田彰の「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。…その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである。」という『批評空間II-18』編集後記の文章を帯文にした『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』によって、私の中で次のような価値体系が出来上がった。

0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)
実体論とは、全体を実体視する立場と、個を実体視する立場(実存主義など)がある。サルトルの実存主義は、現象学を武器に「実存は本質に先立つ」としてコギトという個からの哲学をつくりあげた。サルトルはマルクス主義に接近し、諸個人のプラクシス(実践作用)を重視する主体主義的なマルクス主義をつくりあげたが、レヴィ=ストロースが、そのコギト概念の西欧中心主義的な限界を指摘し、人間は「構造」に規定されていると批判された。

1.関係論(構造主義)
全体や個の実体を否定し、事象を関係のネットワークでとらえる科学的認識方法。言語構造の差異性・恣意性・共時性を強調するソシュールの言語学を、文化人類学におけるトーテニズムの解明に応用したレヴィ=ストロースを皮切りに、精神分析学のラカン、マルクス主義のアルチュセール、歴史学・精神医学・哲学のフーコー、文芸批評のロラン=バルトらが構造主義的な方法で研究を行った。
レヴィ=ストロースの構造主義は、静的な未開社会の解明には有効であったが、動的な専制君主社会や資本制社会の解明には不向きであったことから、記号論的アプローチやポスト構造主義が生じた。

2.記号論(二元論に基ずく弁証法)
コスモス/カオス、中心/周縁、光/闇、ハレ/ケガレのように事物の二項対立を見出し、両者の弁証法的交互作用により、共同体などの動的な動きを解明しようとする研究方法を指す。研究対象により、文化記号論、経済人類学と称されることもある。
(タイプ2a)山口昌男の「中心−周縁」理論のように、文化の周縁から現われるトリックスターに、文化の中心を活性化させる可能性をみたり、スケープゴートをつくることで共同体の結束を高める可能性を見たりするもの。
(タイプ2b)バタイユの『呪われた部分』、栗本慎一郎の「過剰−蕩尽」理論のように、共同体の外部からの侵犯を問題にするもの。
これらの二項対立概念は、事象の抽象化であり、特に資本制においては外部からの侵犯は問題にならず、質的な差異が、貨幣の量 的な差異に変換されてしまうというポスト構造主義からの批判がある。

笠井潔と<天使>のアポリア(25) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 5日(月)17時30分34秒

3.生成論(ポスト構造主義、脱構築主義)
静的な「構造」概念にかえて、いかに実物の動的側面を抽象化なしに捉えるかという問題意識によってなされた後期構造主義の展開を指す。
国家のイデオロギー装置を問題にしたアルチュセール、一望監視装置を軸に権力のエコノミーを問題にしたフーコー、欲望する諸機械という概念を基にシステムの脱コード化の極限としてのリゾームを志向したドゥルーズ=ガタリ、欲望史観を示しシステムからの漂流を模索したリオタールらの試みがある。
また、ジャック・デリダの脱構築については、東浩紀により以下のように二段階の分類がなされた。
(タイプ3a)論理的脱構築(ゲーデル的脱構築)、存在論的脱構築
あるシステム(あるいはテクスト)を形式化し、そこに自己言及的な決定不可能性を見出し、最終的にそのポイントを超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考。
初期のデリダ(『声と現象』『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』)や、かつての柄谷行人(『隠喩としての建築』)などの立場。彼らの仕事は、数学者ゲーデルや、後期ハイデッガーに影響を受けていた。
このような立場にいつまでもとどまるならば、逆説的にシステム(あるいはテクスト)を延命させることになる。3bの立場から「否定神学」として批判される。
(タイプ3b)郵便的脱構築
後期のデリダ(『散種』『弔鐘』『絵葉書』)は、多義的な言語やレトリックなどを駆使して、常人では理解しがたいテクストを書くようになる。東は、これを問題にし、論理的脱構築(または存在論的脱構築)から、郵便的脱構築へのシフトがあったとする。
それは、メッセージが常に相手に正しく伝わるという根拠なき妄信を否定し、たとえルッセージが誤配されたり、相手に届かなかったりするにしても、このメッセージを複数化し、散種させ、発信させることに意義があるとする立場である。郵便的脱構築では、複数的な超越論性が導入される。

社会システム論の観点から、(a)コード化(原始の土地機械、未開社会)、(b)超コード化(野蛮なる専制君主社会)、(c)制限された脱コード化(資本制社会)を、これらの観点がどれだけカバーできるかを見てみると、
0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)……×(a)コード化の分析、×(b)超コード化、×(c)制限された脱コード化
1.関係論(構造主義)……◎(a)コード化の分析、×(b)超コード化、×(c)制限された脱コード化
2.記号論(二元論に基ずく弁証法)……○(a)コード化の分析、◎(b)超コード化、×(c)制限された脱コード化
3.生成論(ポスト構造主義、脱構築主義)……○(a)コード化の分析、○(b)超コード化、◎(c)制限された脱コード化
ということになる。(◎は非常に分析に向いている、○は分析に向いている、×は分析に向いていない、を指す。)
しかし「0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」は、問題の出発点として重要である。例えば、廣松渉は、実体論を物的世界観と呼び、関係論を事的世界観と呼び、事的世界観は仏教に似ているとした。確かに仏教でいう「空」は実体がないことを指し、縁起説は関係論的アプローチを指している。
とすれば、仏教の場合、四苦八苦という苦の認識からスタート(苦諦)して、苦の原因を探求し、事物に実態があるいう迷妄にとらわれ執着していることを知り(集諦)、事物が空であることを知り、心の中の執着から離脱することで苦を消滅させる(滅諦)という過程(道諦)を説くのが基本だから、苦諦とは、「0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」を指すのではないか、と考えられる。苦諦とは実存主義者のいう「限界状況」の認識のことである。
「0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」の立場は、哲学することのはじまりとして、また悩めるものと共に考えるために、その意義を失ってはいない。しかし、その問題を解くために、あるいは世界を把握するためには、そこだけにとどまっていては解決にならないことが多いのだ。

笠井潔と<天使>のアポリア(26) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 5日(月)17時32分12秒

では、笠井潔はどこにいるのか。
笠井の扱ってきた思想家フッサール、ヴェイユ、バタイユ、前期ハイデッガーは、人間認識においては「0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」、世界認識においては「2.記号論(二元論に基ずく弁証法)」の(タイプ2b)である。
思想的にロジックの面から「3.生成論(ポスト構造主義、脱構築主義)」、特に(タイプ3b)から批判することはたやすい。
だが、「3.生成論(ポスト構造主義、脱構築主義)」に対応した文学とはなにか?生きられたイメージとして提出できなければ、いくらロジックで優れていても、この思想が根付いたことにならない。
「0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」に対応した文学は、すぐ思い浮かぶ。サルトルやカミュは、小説や劇作にも手を出していたし、日本の大江健三郎も実存主義的な小説を書いていた。
また、「2.記号論(二元論に基ずく弁証法)」というのは、要するにアポロンとディオニュソスの戦いであり、光と闇の戦いなのだから、古く神話から、現代のRPGまで数多く具体的なイメージを挙げることができるだろう。また、大江健三郎が山口昌男の『文化と両義性』を基に『同時代ゲーム』を書いたことが知られている。(もっとも大江は、山口に影響される以前から『万延元年のフットボール』などでトリックスターやスケープゴートを主題としてきた作家である。)
ポストモダニズムの弱さは、この思想に対応した文学、あるいは具体的なイメージを提出できなかったことだと思う。それができないと、具体的な生き方にまでつながらず、思想として忘却の彼方に押しやられるしかない。

笠井潔という鏡(1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)20時53分49秒


 はらぴょんさま

ミステリは、怖くなければ始まらない

> 個人的な感想なので、他の人がどうなのかわからないが、私にとって『オイディプス症候群』は途方もなくつまらない退屈な本であった。

まったく同感です。「冗漫」の一言に尽きるんじゃないでしょうか。

笠井潔を批判しているとは言え、もともと私はこの「矢吹 駆シリーズ」で笠井の熱心なファンになった人間ですから、他の小説や評論がダメであっても、このシリーズにだけは特別 な期待をかけていました。また、その期待に対し、笠井潔は、前作『哲学者の密室』までは、なんとか応ええていたと思います。

たしかに『哲学者の密室』にも、ミステリとしての弱さあり「そりゃあないだろう」というような部分もあったのですが、「象徴としての密室」という如何にも笠井潔らしいアプローチが徹底しており、全体としては、緊張感のある充実した「小説」になっていると評価できました。

ところが、『オイディプス症候群』には、そういう緊張感がまるでありませんでした。単に「ミステリ+現代思想」という「シリーズの型」を踏襲しているだけ。
『哲学者の密室』で既に限界に達していた「ミステリ的アイデア」の枯渇が、この『オイディプス症候群』では、作者をして「保守的なアリバイ本格」という手堅い形式を選ばせ、今やほとんど商標化した「現代思想」的要素からは、作者の内的必然がまったく感じられない。つまり、それぞれに緊張感(積極性)を欠いた「二大構成要素」によって「型どおりに」構成されただけの作品。それが『オイディプス症候群』だったのです。

『哲学者の密室』が書かれた頃、私はすでに笠井潔に対してかなり批判的になっていました。しかし、それでも『哲学者の密室』に関しては、雑誌連載を読み「なんだかなあー」と思っても、約3倍に加筆された単行本が出れば、跳びつくようにして購入して、これもすぐに読みました。また、読んだ後は、『SRマンスリー』(SRの会)に「雑誌掲載版の3倍に加筆された本作は、その加筆に値するだけの充実ぶりを見せている。だから雑誌掲載版に落胆した読者にも、ぜひこの決定版を読んでほしい。ミステリとして弱い部分もあるが、それを補って余りあるものが、この作品には存在する。この分厚さ故に読まれないという事態を恐れるので、それだけの価値はありと、ここに強く推薦しておきたい」という主旨の書評を書いて投稿しました。





( 以下は「笠井潔という鏡(2)」につづく)

笠井潔という鏡(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)20時54分39秒


しかし、『オイディプス症候群』では、そんな推薦は思いもよらないことでした。こちらも分厚い本ですから、私を笠井潔ファンだと知る『オイディプス症候群』未読の友人からは「『オイディプス症候群』はどうでしたか」と、よく感想を尋ねられました。しかし、そんな場合、私は言下に「長いだけの凡作です。読まなくていい本ですよ。時間の無駄 です。『哲学者の密室』よりもかなり短いはずなのに、冗漫だから、むしろ長く感じられました。あの分厚い本に、ミステリと哲学で二度美味しいなんてことを期待するのなら、はじめから専門の哲学書と普通 によく書けたミステリを1冊づつ読んだ方がいいでしょう。2冊合わせても、大抵あれよりは薄くなるんじゃないですか」なんて言っていました。

ご承知のとおり『オイディプス症候群』はその後、「探偵小説研究会」など、笠井潔の取り巻きの面 々の義理堅さによって、めでたく、お手盛りの「本格ミステリ大賞」を受賞しましたが、『オイディプス症候群』は、その程度ことで評価の揺らぐような(評価の難しい)作品ではありません。だから私は「あれは、刊行時にヨイショする人の多かった、今ではほとんど忘れられている『群集の悪魔』同様、しばらくしたら、誰にもまったく言及されない、笠井潔の一凡作として遇されることになるでしょう」と断言することができたのです。

> ひとつには、物語にいろんな要素を詰め込みすぎなのではないかと思う。事件が起きる。しかし、感情的にあたふたしたり、殺されたくないと閉鎖環境から脱出したいと悩みもがくのではなく、知的にギリシャ神話の薀蓄にもとずく推理が延々と展開されるのだ。これにより、スピードが落ちる。これまた、問題である。恐怖の物語は、エスカレートし、増幅してゆくべきものだからである。

こうした技術的な面もさることながら、最大の問題は、笠井潔の中で「思想」の占める位 置が下落しているという点でしょう。だから、作品の中心となるべきテーマに求心力がなくなり、作品を冗漫なものにしているんだと思います。――結局、やる気もないのに、看板だから「現代思想を扱わないとね」という態度で「哲学ミステリ」を書いたって、面 白いものになるわけがない、ということなのでしょうね。

> ミステリは、怖くなければ始まらない。(せめて、黒猫館の夜の雰囲気があればよかったのだが。)

おっしゃりたいことはよくわかります。一般論としては「怖くなくても、面白いミステリではありえる」のですが、ここではらぴょんさんがおっしゃっているのは「緊張感」の一種なんだと思います。「理知的」なミステリでも「感動的」なミステリでも、あるいは「ユーモア」ミステリでも、それらが傑作であるためには、ある種の「緊張感(と弛緩のバランス)」が必要です。それが『オイディプス症候群』にはないから、「垂れ流し」的冗漫に陥っているのでしょう。





( 以下は「笠井潔という鏡(3)」につづく)

笠井潔という鏡(3) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)20時56分16秒


> この物語は、その後第3回本格ミステリ大賞を取ったらしい。しかし、私の場合、この物語が、なんとか賞を取ったとか、実はあまり興味がないし、そういうことを判断基準にして本を選ぶこともしない。むしろ、なんとか賞を取った本は、つまらない本が多い。一般 ウケするということは、どこか欠陥がある<例えば媚びているとか>ということだと思う。(子どものとき『アイコ16歳』でこりごりした経験がある。)

はらぴょんさんの弱点は、こういう「強がり」方にあると思います。人間というのは、興味のないものに「反発」を憶えたりはしません。反発するのは「期待」があるからにほかならないんです。その意味では、はらぴょんさんも「人並み」に文学賞というものに興味を持っておられるし、期待もしている。それなのに、その期待がしばしば裏切られるから、その「裏切り」に対する「反発」として、つい『むしろ、なんとか賞を取った本は、つまらない本が多い。』なんて極端に感情的な意見を口にしてしまうことにもなるんですよ。

たしかに「文学賞」という制度は、その制度そのものにいろんな問題を抱えています。しかし、だからといって『むしろ、なんとか賞を取った本は、つまらない本が多い。』なんて事実はありません。ここでのはらぴょんさんの言い方は「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」みたいなものです。

たとえば私は、笠井潔を批判し「探偵小説研究会」を批判していますが、これは「探偵小説研究会」の面 々が「笠井潔の子分」だから批判しているのではなく、彼らのやっていることが「批評家として恥ずべきこと」だから、なんですね。だから、私は笠井潔の友だちだからといって、その人を批判したりはしません。ただ「類は友を呼ぶ」と言いますから、その友だちもよく観察検討すれば、似たような問題のあることもままある、ということなのです。

話を文学賞に戻しますと、例えば『アイコ16歳』なんかも、所詮は16歳の子供が書いた小説に過ぎません。ですから、そういうものとして読めば「なかなか良く書けている」ということにもなりますし、公募の新人賞作品ですから、他にこれといった作品がなければ、「将来性を買われて」受賞することにもなる。それで、受賞者が「若い女の子」だと言えばマスコミが馬鹿騒ぎをして、一般 読者の期待(幻想)をいやが上にも煽り、その結果「なんだこれは!」ってことにもなってしまうんですね。

ですから、文学賞受賞作が一般に『つまらない本が多い』ということはありません。たとえば笠井潔の『バイバイ、エンジェル』は「角川小説賞」受賞作です。
ただし「傑作が、必ずしも文学賞に縁があるとは限らない」とは言えるでしょうね。そんな例は、『虚無への供物』や『匣の中の失楽』の名を挙げるだけで充分でしょう(ちなみに、大西巨人の『神聖喜劇』は賞を断っています)。





( 以下は「笠井潔という鏡(4)」につづく)

笠井潔という鏡(4) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)20時57分4秒


そんなわけで、文学賞受賞作で『一般ウケ』した作品は『どこか欠陥がある<例えば媚びているとか>』ということでもないと思います。どんな小説にも、多少の欠陥はあるし、「エンターティンメント」は読者を楽しますために書かれものなのですから、読者に媚びる部分があるのは当然でしょう。もちろん、それは「純文学」でも同じで、他人に読んでもらう(商品として売る)こと考えて書かれたものは、多かれ少なかれ、読者を意識し、読者に喜ばれるものにしたいという意識が働いています。それを「媚び」とするかどうかは、人それぞれでしょうし、どこまでが「配慮」でどこからが「媚び」なのか、そんな線引きなど、むろん存在してはいないんです。

つまり、「文学賞」というものは、本選びの「参考」にはなるけれども「保証書」にはならない、といった程度のものです。なぜなら、文学書受賞作もまた、選考委員という「それぞれの好み」を持つ人たちに選ばれたものでしかなく、そこにも絶対的評価(価値)など存在しえないからなのです。

したがって、「文学賞」を絶対的な権威であるかのように語り、その幻想としての権威を守ろうとするのは間違いです。だから、それは批判されてしかるべきでしょう。しかし、文学賞には文学賞の価値があるし、受賞作には受賞作の価値がある。その客観的事実は、認めないわけにはいきません。逆に言えば、その「事実」を認めないで、自分の僅かな「経験」とそれに由来する「主観的な思いこみ」を、感情のまま公表すれば、それはその人の意見もまた「当てにならない」ということになってしまうのです。

「権威」としての文学賞を『判断基準にして本を選ぶ』ような権威主義は、本物の読書家の択ぶところではありません。ただ、読書家は忙しいのですから、文学賞を「参考」にするというのは、賢明な判断でしょう。それは「世評」や「知人の意見」を参考するのと、何ら変わらないのです。
これは、すべての本を、自分で読んで自分で判断するわけにはいかない以上、当然のことだと思います。例えば、はらぴょんさんは、有名な思想家の本をたくさん読んでおられますが、それは「世評(有名)」を参考にしているということでしょう? まったく無名の思想家の本もたくさん読んでいて、その中から、自分一個の判断で選んだ結果 として、そうした思想家の本を読んでいる、ということではないと思います。

つまり、人は何がしか「他人の評価」を当てにしないでは生きていけないものなのですが、しかし、そうした「他人の評価」のなかにあって「文学賞は、特別 なもの」と考えるのは、権威主義的な「迷妄」に過ぎないということなのです。





( 以下は「笠井潔という鏡(5)」につづく)

笠井潔という鏡(5) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)20時58分28秒


土蔵の中の赤い光

> ところで、ひきこもりは最近よく使われる言葉ですが、乱歩なんかも現代に生きていたらひきこもりとされたかも知れません。乱歩は土蔵で、赤い光のランプをつけて創作しているという作り話を、流布させようとしたようですが、今ならば「ひきこもりに間違いない!」と言われてしまうのではないでしょうか。乱歩の熱中した貼り紙年譜や、内外のミステリの蒐集とトリックの分類、そして創作の分野で繰り広げられる妖しく耽美な夢の世界……これらはひきこもりであることを生かした特技のような気がします。
> ミステリはどこか反社会性を帯びた部分があった方が面白い、というのが私の勝手な考えです。だから、ミステリの書き手がひきこもりであってもいいと思うし、そういう部分がない書き手はつまらないと思います。しかし、ミステリの書き手が、文壇政治家だったり、党派活動に余念がなかったら……止めてくれ!と叫びたくなります。

「ひきこもり」の医学的な定義は知りませんが、ともあれ「ひきこもり」行為は「反社会的」というよりも「非社会的」な行為だと思います。たしかに「ひきこもり」には「社会」的な抑圧にたいする「自衛的行為」という側面 が大きく、その意味では「反社会」的だとは申せましょう。しかし、積極的に「反社会的」なのではなく、社会から「切れてあろう」とするその行為は、その主観においては「反社会的」であるよりも「非社会」指向なのではないでしょうか。

なぜ、私がこういう細かいことにこだわるのかというと、はらぴょんさんは正しく『ミステリはどこか反社会性を帯びた部分があった方が面 白い』と書いておられますが、ミステリ作家を含む結構多くの人に「ミステリは反権威であり、反社会的である」という誤解が、まま見受けられるからです。

この誤解がどこから出てくるのかと言いますと、ミステリは、

 (1) 国家権力の象徴たる「警察」を排して、個人としての「名探偵」を立てる

 (2) 権威(抑圧)としての「正統派文学」ではなく、反逆としての「知的文学」である

といったことがあるからでしょう。

しかし、このような「ミステリの位置」は、ミステリが進んで引き受けたものではなく、結果 として余儀なくされたものに過ぎないのです。だから、ミステリがそういう位置にあるから、ミステリ作家もそうであるとは言えないし、むしろそういう位 置にあるからこそ、「権威(地位)」を欲しがるものだとも言えるんですね。

例えば、私は旧稿「偉大なる夢への儚き抵抗 ――江戸川乱歩と戦争」で、乱歩が「戦争や政治といった世事には興味がない」と言いつつ、結局はその「戦争や政治といった世事」に巻き込まれ、それに対して「断固たる抵抗」を選べなかった、その「文弱の徒」的「弱さ」を、批判に紹介しております。

つまり「反社会」的な存在ならば、自分を不本意に巻き込もうとする「社会」に反抗することができますが、単に「非社会的」なだけならば、「社会」には抵抗できない、ということを言っておきたいんですね。

例えば、はらぴょんさんはご自身を「ひきこもり」的だとおっしゃいますが、私に言わせれば、マニア出身のミステリ作家や評論家も、「乱歩」的という意味でなら、立派に「ひきこもり」的な存在だと思います。そして、そんな「非社会的」な彼らが、「笠井潔という社会的な磁場」に何の抵抗を示すこともなく、簡単に引き込まれ組織されてしまいました。このあっけない事実の重みを、よくよく考えてほしい、と私は思うのです。

「反社会的」と「非社会的」は、一見たいへん似ています。しかし「反」と「非」では、その姿勢がまったく違うのだということを忘れないでいただきたい。「反」のない単なる「非」は、容易に「力」に巻き込まれる。「反」は力ですが、「非」は力ではない、ということを忘れないでいただきたいのです。





( 以下は「笠井潔という鏡(6)」につづく)

笠井潔という鏡(6) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)21時11分24秒


笠井潔と<天使>のアポリア(22)

> 笠井の『哲学者の密室』の主題は、ハイデッガーとナチズムの問題である。この問題は、ヴィクトル・ファリアスが『ハイデッガーとナチズム』(名古屋大学出版会、山本尤訳)で、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)に入党したのが、1933年5月1日で、党員番号が3125894(バーデン地区)、1945年まで党員であったことなどを暴露したことに始まる。

これは「笠井潔は、流行に敏感である」という事実を示す、一事例だと申せましょう(笑)。

『群集の悪魔』も、ベンヤミンの『パサージュ論』が翻訳されて、ちょっとしたベンヤミンブームになった頃に書かれていますからね。
『オイディプス症候群』は、完成までに時間がかかり過ぎて、フーコーブームに乗り遅れた作例だと解すべきでしょう。

だとすると最新作『吸血鬼の精神分析』(『ジャーロ』連載中)が、ジャック・ラカンとジュリア・クリステヴァというのは、どういうことなのでしょう。便乗して価値のありそうな人気哲学者が特にいかったので、ひとまず「否定すべき敵」をテーマに据えてみた、といったところでしょうか? それならそれで、「天啓シリーズ」と同様、笠井潔の「いつものパターン」ですよね(笑)。





( 以下は「笠井潔という鏡(7)」につづく)

笠井潔という鏡(7) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)21時12分13秒


笠井潔と<天使>のアポリア(23)

> 『哲学者の密室』は、二階堂黎人の『人狼城の恐怖』が登場するまでの間、世界最長の密室殺人を扱った本格ミステリであった。この物語が、長くなったのには理由がある。

> ただし、端正なミステリへの志向は、矢吹駆シリーズの初期からの特徴であり、中期になってから長大化する理由の説明としては不十分である。
> 中期になってからの長大化の理由は、<理論体系への意志>が顕著になってきたことにあると思う。
> まず、矢吹駆シリーズで扱う思想家が、理論的・体系的な人物になってきたということである。初期で扱った思想家ヴェイユやバタイユは、単独者であり、その哲学は「実存的」になされた。ヴェイユやバタイユにとって、問題は生きることであり、実存にまつわる理論体系を打ち立てることなど問題外であった。ところが、中期で扱うハイデッガーのアプローチは「実存論的」である。さらにフーコー、ラカン、クリステヴァといった構造主義以降の学者たちは、当然、学としての「体系(システム)」への意志を持っている。
第二に、それらの検討を通じて、大量死(あるいは、その陰画としての大量生)に基づくミステリ史観を打ちたてようとする笠井にも、あきらかに理論体系への意志がある。
<理論体系への意志>が強まってきたことは、ミステリ批評家としての完成=安定期の時期に突入したということである。

御説のとおりだと思います。その上でつけ加えさせていただけば、『<理論体系への意志>が顕著になってきた』という表現は正確ですが、『<理論体系への意志>が強まってきた』というのは微妙です。<理論体系への意志>は、『強まった』というよりも、そちらが『顕著になってきた』「前面 に出てきた」というのが正確な表現だと思うからです。つまり、笠井潔には最初から(『テロルの現象学』以来)ハッキリと<理論体系への意志>が強くありました。それが、ここにきて、どうして『顕著になってきた』「前面 に出てきた」のか。それは、何かが「希薄になり」何かが「後退した」からではないでしょうか。――つまり、「新しいものを生み出す力が枯渇してきた」から「これまでの成果 をまとめて体系化し、見栄えをよくして、二度売りするための作業に移った」ということなのではないでしょうか。言い換えれば、笠井潔は「守り」に入った。

だからこれは『<理論体系への意志>が強まってきた』というよりも「<理論体系への意志>が強まってきた」と呼ぶべき事柄なのだと思います。そして、当然これは、最近の笠井が、取り巻きを組織して「賞」を取ったりしているのと、軌を一にした行動だと思います。つまり「真正面 から実力で勝負しても、もう勝てない」という事実を感じはじめたからこそ、政治的な動きが『顕著になって』「前面 に出てきた」ということなのではないでしょうか。

つまり『ミステリ批評家としての完成=安定期の時期に突入した』というよりも、「クリエイティブな仕事をする時期(最盛期)」を過ぎて、あとは「その成果 をまとめるだけという時期(晩年)」に入ったということなんだと思います。

しかし、「本格ミステリの小世界」では『打ち立て』たと思われている「大量死」にかかわる「大戦間探偵小説論」も、ご指摘のとおり所詮は「借り物」の変造物でしかないのですから、笠井潔の「理論大系」もまた、きっと「借り物」の域を出ないものに終るのでしょうね。





( 以下は「笠井潔という鏡(8)」につづく)

笠井潔という鏡(8) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)21時13分23秒


竹田青嗣氏についての疑念

> ところで『哲学者の密室』の執筆にあたって、笠井潔は竹田青嗣の強力を得ている。フッサールの現象学の啓蒙的な著作で知られるこの人物は、終始変わらぬ 笠井の思想分野での友人であり、古くは角川文庫版『バイバイ、エンジェル』の解説「<世界>という背理」、また角川文庫版『ヴァンパイヤー戦争10魔神ネヴセシブの覚醒』の解説を書き、笠井とともに『ORGAN』の編集委員も務めた。思想的には、フッサールの現象学に基づき、ポストモダニズム、特にデリダの『声と現象』を批判するスタンツなので、笠井と一枚板と判断してよいだろう。

『私は、笠井潔を批判し「探偵小説研究会」を批判していますが、これは「探偵小説研究会」の面 々が「笠井潔の子分」だから批判しているのではなく、彼らのやっていることが「批評家として恥ずべきこと」だから、なんですね。だから、私は笠井潔の友だちだからといって、その人を批判したりはしません。ただ「類は友を呼ぶ」と言いますから、その友だちもよく観察検討すれば、似たような問題のあることもままある、ということなのです。』(「笠井潔という鏡(3)」

と書いたとおりで、竹田青嗣が笠井潔の盟友だからといって、批判否定しようとは思わない。しかし、笠井潔の「明らかなおかしさ」に、「気づかない」あるいは「意図的に指摘を控える」言論人としての竹田青嗣に、「能力的問題」や「党派的偏向」など、「一定の疑い」を見るのは適切妥当なことだと思います。

> この竹田青嗣の『意味とエロス』(ちくま学芸文庫、1993年第一刷)があるが、その19ページ目には次のような記載が見られる。

> 後者の誤りは、記載ミスや記憶の誤りではないかと思う。
> しかし、前者はスーフィを現代思想家のひとりと解しているとしか思えない。とすれば竹田は、笠井の全著作を理解しているわけではないし、批判対象の中沢の記述を読みきれていないということではないか。

微妙なところですね。例えば、私が「私の敵は、A氏、B氏、C氏、それにアメリカである」と書いても間違いではありません。竹田も、

> 中沢が盛んに援用する、クリステヴァ、ソレルス、スーフィ、ブーサイック、リオタール、セールなど

と書いた場合、「スーフィが人名ではない(かも)」と思いつつも『中沢が盛んに援用』しているのは事実だからと、つい並べて書いてしまったのかも知れません。この場合、竹田は「中沢がさかんに援用する思想家は」と書いておれば、完全に間違いだと言えますが、個人名の中に集団名が混じっているからといって、それで間違いだと決めつけるわけにはいきません。そんなことをすれば、それこそが「悪意による恣意的な決めつけ」だと逆ねじを食らわされるでしょう。

もちろん、竹田の書き方は、読者の誤解を招く種類のものですから、間違いではなかったとしても、「配慮に書けた」書き方であり、その意味で「不適切」な書き方だ、とは言えます。だから、上述の一事をして『スーフィを現代思想家のひとりと解しているとしか思えない。』などと言う必要はありません。そのような「決めつけ」は否認されればそれまでですが、たとえ竹田がそういうミスをしていなかったとしても、「表現に配慮の欠ける、無神経な書き手」だということでなら、否定を許さず竹田の問題点を指摘することも可能なのです。

したがって、解釈の余地のある薄弱な根拠に拠って、竹田が『スーフィを現代思想家のひとりと解しているとしか思えない。』と決めつけて『とすれば竹田は、笠井の全著作を理解しているわけではないし、批判対象の中沢の記述を読みきれていないということではないか。 』という批判的結論に結びつけるのは「拙速」というものです。――批判するのであれば、退路を全部立っておいてから、決め手を出すべきでしょう。そうでないと、敵が面 前にいる論争では、逆に足を掬われてしまいますよ。私が敵なら、そうなっている、ということです。





( 以下は「笠井潔という鏡(9)」につづく)

笠井潔という鏡(9) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)21時17分3秒


『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』を読む

> 笠井潔の『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』(早川書房)を読む。
> 笠井潔の批判者(匿名座談会)への反批判の箇所に釘付けになる。

はらぴょんさんのこの文章は、笠井潔の『笠井潔の批判者(匿名座談会)への反批判』に「自身が該当しない」ということを説明した文章ですが、ここにもはらぴょんさんの「弱さ」が露呈しています。

> 1.彼は匿名の批判者が、無責任な中傷をしてくることを批判し、そこに退廃と堕落があるとする。私の場合、HPで実名を挙げているから匿名ではない。(無論、無名の私など問題になどするわけがないが。)念のために掲示板の書き込みにもメールアドレスを付けることにする。

『匿名』文が必ずしも無責任ではないし、『署名』文が必ずしも責任を担っているとは言えない。

例えば、笠井潔自身、かつて、

『野間賞や谷崎賞を代表格とした文学賞は、日本の小説市場における非関税障壁の、あるいはダンゴーやケーレツのシステムの悪しき象徴ではないだろうか。
 それらには、もはや文学的価値の尺度という意味などない。選考委員がまわりもちで受賞しているような、「文壇」的ダンゴーとケーレツの産物にほかならない「賞」が、はたして文学賞の名に値するだろうか。それは芸術院会員や文化勲章にいたる、国家に保証された権威大系に組み込まれた、その下位 階梯をなしているものにすぎない。
 文学賞による権威の分配機構と、公共土木事業の分配機構は、基本的に同型のシステムをなしている。後者に金丸信のような調整役が存在したように、前者にも同様のキャラクターが要請されるのはとうぜんのことだろう。噂によれば「文壇の人事部長」某氏が、その役割を演じているそうだ。』 (『国家民営化論』)

と書いていたにもかかわらず、今では自分が「本格ミステリ文壇の人事部長」におさまっています。それを自己批判しないかぎり、笠井潔のこの「署名」文は「無責任」だと言えますし、そんな無責任男が、


   『自分と、自分が生きているこの時代を直接的に描いてみたい。
   そんなモチーフから、私立探偵飛鳥井をめぐる物語が構想された。
   作者と同年齢に設定せれている飛鳥井は、
   「自業自得の潔さ」において生きるという個人主義的信条においても、
   作者の現在が投影されたキャラクターといえるだろう。
                              笠井潔』

          (『道〈ジェルソミーナ〉 私立探偵飛鳥井の事件簿』単行本帯文)


などと書いているようでは、笠井潔は単なる「無責任男」ではなく、「ナルシスト」の「勘違い男」ということにもなるわけです。

じっさい、命を賭しての戦時下の言論戦などでは、「匿名」は弱者の「ささやかな武器」として正当性をもつと思います。つまり、問題は「匿名」にあるのではなく、それを安易に選ぶ人の「無責任さ」にあるんですね。つまり「無責任さ」がしばしば「匿名」を悪用するのであって、「匿名」そのものが悪なのではない。「戦車」も「核兵器」もそれを悪用する人間がいないかぎりは「悪」にはならないんです(もちろん兵器の場合は「悪用」を前提として作られており、兵器の「善用」というのは、たいがいは欺瞞に過ぎません)。

ともあれ、笠井潔による(1)のような常識論に、いちいち言い訳をする必要はさらさらありません。たとえ、いくつペンネームを持っていようと、「責任の所在を曖昧化するため」になされたものでないのならば、気にすることなどない、ということです。

たとえば、私とうちのサイトのホランドくんが同一人物であり、「田中幸一(私)は、ダブルハンドルの欺瞞をしている」と言った阿呆な「掲示板荒らし」がいましたが、事実がどうあれ、私とホランドくんとが同一人物かどうかは、しばらく掲示板を読めば、誰にでもわかるようになっている。だから、それが「欺瞞」を目的としたものかどうかは、論理的に明らかなことなんです(テレビドラマに「これはフィクションです」と付さなければ、それはペテンか、ということです)。

ですから、その種の「筋違いの批判」など、相手にする必要はない。まして、自分に向けられたものでもない批判に、いちいち先回りをして言い訳する必要などない。むしろ、無用な言い訳などすれば、自身の自信の無さを、敵に気取られることになるだけなのです。





( 以下は「笠井潔という鏡(10)」につづく)


笠井潔という鏡(10) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)21時18分4秒


> 2.彼は、批判者は「嫉妬や羨望やルサンチマンを動機」としているとしている。そういう動機ならば、『テロルの現象学』の射程圏内に入ってしまう。『テロルの現象学』は、そういう心理から、最終的に党派観念を作り出すとしているからだ。私の動機は、彼の理論が私の価値観(それは浅田−東を主軸とするポストモダニズムに依拠している)と抵触していることと、私のお気に入り(竹本健治のウロボロス連作、その方向性を革命的にエスカレートすれば清涼院流水のJDC連作になる。また、『匣の中の失楽』はポストモダニズム誕生前夜の雰囲気を持った作品である。)の存在すら否定する極端な言説を述べているからである。私は笠井潔について「困った分からず屋」だとは思うが、笠井潔のようになりたいだなんてとんでもない。それは想像しただけで、げっそりする。無論、嫉妬や羨望など起こりようがない。

『笠井潔のようになりたいだなんてとんでもない。それは想像しただけで、げっそりする。』という部分で、問題となるのは『笠井潔のように』という部分です。

はらぴょんさんの意見では、『笠井潔』そのものには、なりたくない、とは言えます。しかし『笠井潔のように』となると、どこまでをそこに含めるのかという問題が出てきます。

例えば、私は「笠井潔のような、筆力がほしい」とか「名声に固執し、運動しつづける、あのバイタリティーが欲しい」とか思います。そういう点では『笠井潔のように』なりたいという『嫉妬や羨望』が起こるわけですね。でも、笠井潔の「厚顔無恥さ」とか「徒党好き」とか「権威主義」とかは、頼まれても真似したくはありません。そんなところに『嫉妬や羨望』は起こらないんです。

で、問題は、この『嫉妬や羨望』の「起こる要素」と「起こらない要素」は、たいがい密接に結びついているということなんです。だから、人は『嫉妬や羨望』の「起こる要素」が自分にとって縁遠い時は、例えば笠井潔の欠点を遠慮なく指摘し批判できます。けれど、もし笠井潔との距離が接近して、笠井が『嫉妬や羨望』の「起こる要素」を保証してくれそうになった時、はたしてその人は、笠井潔の欠点や問題点をして「笠井の誘い」を拒絶することができるのか、という事なんですよね。

で、そのひとつの答えが「探偵小説研究会」であり「本格ミステリ作家クラブ」なんだということを忘れてはいけません。つまり、たいがいの人は「いざとなれば、欲望に流されるもの」だということなのです。

仮令ば「はらぴょんくん、『サマー・アポカリプス』の解説を書いてくれないか」と言われて、きっぱり断るとか、没になるのが必至の批判的な解説文が書けるか、ということです。
そんな場合、たいていの人は、笠井潔の他の面には目をつむって、ひたすら『サマー・アポカリプス』の美点だけを語ることでしょう。そこにはすでに(「なし崩し」や「破倫」に至る)「妥協」が含まれているんですよ。

つまり、人間には誰しも「欲望」があり、それを疎外されるがための「ルサンチマン」があるんです。それは、笠井潔にも、私にも、はらぴょんさんにも、ある。確実にあるんです。そして、その確実にある「自分自身のマイナス面 」を直視できなければ、いずれは笠井潔のように、自分を誤解した「哀れなピエロ」ぶり(醜態)を、人様の面 前で演じなければならない、ということになるんです。

ですから、私たちがしなければならないのは、「笠井潔の俗情を指摘すること」でもなければ、「自分の高潔さをアピールすること」でもありません。笠井潔批判を通 じて「すべきこと」とは、笠井潔の批判者である私たちもまた、笠井と同じ人間であり、同じ愚行を演じる可能性のある存在だということを深く反省し、笠井批判を通 して「自己の暗部を剔抉する」ということなのです。――「私は、笠井潔とは違う」ではなく、「私もまた笠井潔である。だからこそ、それは仮借なく批判されなければならない」ということなのです。





( 以下は「笠井潔という鏡(11)」につづく)

笠井潔という鏡(11) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 5日(月)21時19分32秒


> 3.笠井潔は匿名の正体が分かると、書評程度で、体系的な著作もないと批判者を侮蔑するが、私の場合、笠井潔の体系など三流だと思っているので、これまた該当しない。

笠井潔のダメさは、その理論大系が所詮は『三流』であるから、ではありません。いくら勉強をしてみても、『体系的』であることが「優れたこと」だと思うほどの愚かな「事大主義者」から抜けだせない、低俗な「権威主義者」でしかないから、笠井潔は根本的に愚かなのです。

そして、はらぴょんさんのこの笠井潔否定には、笠井潔と同種の「大系」信仰が見られます。しかしそれは「大きいこと(まとまっていること)は良いことだ」という「貧乏人の哲学」でしかありません。ヴェイユやバタイユに「大系性」は無くても、彼らは確実に、笠井潔は無論のこと、現在人気のある多くの流行思想家よりも、ずっと真摯で、ずっと優れた思想家だったと私は思います。


> しかし、世の笠井潔主義者を脱洗脳させるには、笠井理論に適合しない小さな事例をこつこつと指摘するしかないような気がする。

笠井潔に『洗脳』されているような、「頭の悪い大人」はほとんどいないと思います。笠井潔を信奉しているのは、かつての私のような、疑うことをしらない「子供」ばかりなのではないでしょうか。

その意味では『脱洗脳』という表現は適切ではありません。私たちはただ、笠井潔とその周辺によって「隠蔽された事実」を掘り起こし、それを白日の下に曝して、みんなに判断の材料として提供すれば、それで充分なのです。笠井潔を、間違って高く評価するのは、単に「現実を知らない」からなんですね。

もちろん笠井潔が「裸の王様」であることを知りながら、笠井の神輿を担ぐ「したたかな大人」たちにとっては、「事実」は問題ではなく、「勢力(どっちにつけば得か)」が問題なのですから、笠井潔がジリ貧になれば、彼らは自然に離れていくでしょう。でも、そういう卑怯な輩には(例えば)一生『「探偵小説研究会」出身者』というようなレッテルを、(本人が)剥がしても剥がしても、しつこく貼りつづけてやれば良いと思います(笑)。



やっと書き上げたら、「笠井潔と<天使>のアポリア」の(24〜26)が……。これについては、また次回ということで(笑)。




http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


推測 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 5日(月)22時19分42秒

これはまったくの予想ですが、(出来上がる前から、予想を立てるのが好きなんで)『吸血鬼の精神分析』でやろうとしていることは、ラカンの精神分析に多重人格の問題をぶつけてラカンの限界を探ることではないかと思います。
解離ということに初めて触れた精神医学者はピエール・ジャネなんですが、フロイトはもっぱら神経症にばかり関心を示し、ジャネと対立したようです。ラカンはフロイトの後継者ですから、ラカンもまた多重人格とか解離は苦手分野です。そこでフロイト-ラカンの暗部を照射するのに、多重人格の問題を持ってくるのではないかと思います。

明日からドラマ『ウォーターボーイズ2』スタート。ムフムフ・・・どんな美少年が登場するのでしょうか?ゝ(・∀・)ノ(3) 投稿者:黒猫館館長☆正体は小さいモモちゃん  投稿日: 7月 6日(火)02時37分37秒

はらぴょんさん>
シモーヌ・ヴェイユといえば昔ちょっと齧ったことがありますよ。^^
しかしあまり覚えていない(^^;;)
そういえば『二人のシモーヌ』という本があったような気がしま
してヴェイユとボーボワールを比較したりしていましたがわたし
としてはボーボワールのほうが美人だとおもうのですがいかがで
しょうか?(^^;;)
編集済

明日からドラマ『ウォーターボーイズ2』スタート。ムフムフ・・・どんな美少年が登場するのでしょうか?ゝ(・∀・)ノ(4) 投稿者:黒猫館館長☆正体は小さいモモちゃん  投稿日: 7月 6日(火)02時46分3秒

アレクセイさん>
『テロルの現象学』は確か「作品社」という出版社からでていますね。
確かこの作品社はかなり昔からある出版社で昭和30年代に寺山修司
のデビュー作『われに五月を』を出していた気がします。しかし『わ
れに五月を』も現在では○○万円、、とても手がでないですね〜〜。
(^^;;)

自分の美を削ぎ落とす 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 6日(火)06時16分16秒

黒猫館館長さま
>ボーボワールのほうが美人だとおもうのですがいかがでしょうか?
いや、ヴェイユは眼鏡でわざと不美人にみせているだけではないかと。(それにしても眼鏡を取ると美人になるというのは、どこかできいた話だなぁ。)
ヴェイユはナルシスティックな部分がまったくなく、見せ掛けの装飾や物質的な享楽を嫌悪するタイプですよね……で、自虐的ですらある……そういう内面 が外面に出ているのではないかと思うのです。


 

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