討論・笠井潔をめぐって4)  

 


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     目 次4)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
笠井潔関連投稿引用紹介(7)(※ 原文:素朴な疑問者) アレクセイ 7月 7日(水)21時11分42秒
笠井潔関連投稿引用紹介(8-1) 7月 7日(水)21時13分19秒
笠井潔関連投稿引用紹介(8-2) 7月 7日(水)21時14分0秒
笠井潔関連投稿引用紹介(9-1) 7月 7日(水)21時16分2秒
笠井潔関連投稿引用紹介(9-2) 7月 7日(水)21時17分27秒
笠井潔関連投稿引用紹介(9-3) 7月 7日(水)21時18分17秒
笠井潔と<天使>のアポリア(27) はらぴょん 7月 7日(水)21時38分0秒
実証 アレクセイ 7月 7日(水)23時01分8秒
作品社 アレクセイ 7月 7日(水)23時28分42秒
『デスノート』(ジャンプコミックス)(…)(2) 黒猫館館長(…) 7月 8日(木)01時04分31秒
『デスノート』(ジャンプコミックス)(…)(5) 7月 8日(木)01時36分24秒
三つ目の作品社 はらぴょん 7月 8日(木)06時31分2秒
思想は、世界を愛することに始まる(上) アレクセイ 7月 8日(木)13時17分18秒
思想は、世界を愛することに始まる(中) 7月 8日(木)13時18分8秒
思想は、世界を愛することに始まる(下) 7月 8日(木)13時19分0秒
「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進(…) アレクセイ 7月 8日(木)19時48分31秒
暗い波及効果 アレクセイ 7月 8日(木)20時54分27秒
根を持つこと はらぴょん 7月 8日(木)21時28分25秒
ヴェイユとドーマル はらぴょん 7月 8日(木)21時59分51秒
(…)どちらがよりフィクションか? アレクセイ 7月 8日(木)23時21分9秒
『世界認識の方法』のことなど はらぴょん 7月 9日(金)00時13分5秒
笠井潔関連投稿引用紹介 はらぴょん 7月 9日(金)17時39分24秒
『空の青み』 はらぴょん 7月 9日(金)23時46分51秒
『アップルシード』のビデオ化はまだかいな 黒猫館館長(…) 7月10日(土)01時17分27秒
『アップルシード』のビデオ化はまだかいな(2) 7月10日(土)01時25分24秒
錯綜するリアル、複数化する自己[1] はらぴょん 7月10日(土)14時07分55秒
錯綜するリアル、複数化する自己[2] 7月10日(土)14時08分48秒
錯綜するリアル、複数化する自己[3] 7月10日(土)20時43分22秒
錯綜するリアル、複数化する自己[4] 7月10日(土)20時44分31秒
錯綜するリアル、複数化する自己[5] 7月10日(土)20時45分18秒
近況 はらぴょん 7月12日(月)22時03分22秒
流通形態の変容 はらぴょん 7月12日(月)23時39分50秒
ボク、オモシロコワイ。(3) 黒猫館館長(…) 7月13日(火)02時45分17秒
『DDD JtheE.』について はらぴょん 7月13日(火)21時37分48秒
80年生まれ以降……だそうです。 はらぴょん 7月13日(火)21時47分34秒
笠井潔関連投稿引用紹介(10) アレクセイ 7月14日(水)19時00分47秒
キワモノとは誰ことか? アレクセイ 7月14日(水)19時45分4秒
水泳的思考(推定) はらぴょん 7月14日(水)23時54分19秒
『小説家』的図式化の誤謬(1) アレクセイ 7月15日(木)01時19分59秒
『小説家』的図式化の誤謬(2) 7月15日(木)01時21分8秒
なぜか突然ヘルマン・ヘッセの(…)(1) 黒猫館館長(…) 7月16日(金)00時23分52秒
なぜか突然ヘルマン・ヘッセの(…)(2) 7月16日(金)00時48分28秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません。

 

 


笠井潔関連投稿引用紹介(7) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)21時11分42秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、初めて書き込みをしてくれた(らしい)、素朴な疑問者さんの文章(全文)です。

なお。文中の『@』『A』は、私のパソコンがマックであるための「文字化け」だと思われます。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


こんにちは 投稿者:素朴な疑問者 投稿日: 7月 7日(水)13時06分6秒 <!-- Remote Host: YahooBB220055068104.bbtec.net, Time: 1089205566 -->



こんにちは、とある20代男性から「笠井氏について色々語って欲しい」というような主旨の相談を受けた為、色々調べていてここの存在を知りました。

アレクセイさんの書き込みを見て、感想を述べさせて頂きます。
@あそこまで笠井氏を手厳しく糾弾するのは、笠井氏の元熱烈ファンとしての心境の裏返しなのでしょうか?
Aあるいは御自身の「作品の発表の場を潰された、作品が落選した」等、個人的な恨みでもあるのでしょうか?京都大学ミス研ばかり贔屓されるという事には作品の内容への言及が成されていないと思いましたので。
あれほどの文章が書けるのならぜひとも御自身の完成した作品を拝見させて戴きたいのですが…

後気になったのは、「政治をやるのが許せない」という批判は「全く意味を成さない」と思うのですが…
実際ここでアレクセイ様が行なっていらっしゃる行動も「反笠井派の政治活動」に近いものがあると疑念を抱きます。
アレクセイ様は所謂「政治」(×政治家)についてどのようにお考えなのでしょうか?村上龍のように「政治家にはなるな」と受け取られ兼ねないメッセージを発し続けるお考えなのでしょうか?

笠井氏のように「権威に囚われる事の少ない、行動派の左翼的感性者」に好意を抱いている者として、率直な御意見を申し上げました。
若者にこれ以上政治アレルギーが増加すれば、日本の将来に希望は見出せません。
大変恐縮なのですが、私の笠井氏への認識におかしな部分があれば修正を宜しくお願いします。

それでは御返事をお待ちしております。
今後のアレクセイ様の御活躍をお祈りします。

 


笠井潔関連投稿引用紹介(8-1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)21時13分19秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、私(アレクセイ)が書き込んだ文章です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


彼我の差(1) 投稿者:園主 投稿日: 7月 7日(水)19時39分44秒


みなさま、私は、かねがね機会あるごとに本格ミステリ大賞(本格ミステリ作家クラブ 主催)の「お手盛り」性を批判してまいりましたが、今回はそれと比較すべき事例をご紹介したいと存じます。

「本格ミステリ大賞」と好対照とも言ってよい「健全さ」を保っているミステリの賞とは、先般 、桐野夏生の『OUT』がその候補作になって、日本でも広く注目された、アメリカ探偵作家クラブ(Mystery Writers of America)の主催する「アメリカ探偵作家クラブ賞」つまり、MWA賞でございます。

『 MWA賞は俗に「ミステリー界のアカデミー賞」とも呼ばれているが、どこが同じで、どこが違うのだろうか? アカデミー賞は会員の「人気投票」に近いが、MWA賞は全会員の投票で決めるのではなく、作家仲間である選考委員が候補作と受賞作を決定するのである。では、二〇〇二年度の長編小説部門に関して述べてみよう。
 まずMWA副会長がMWA賞委員長を指名し、本部の理事会の承諾を得る。そして、承認されたMWA賞委員長が部門別 の選考委員長を探す。この場合、性別と地域とジャンル(男女、東海岸と西海岸と中部と南部、警察ものとサスペンスものと素人探偵ものと私立探偵もの)の面 で偏りがないようにバランスを取らなければならない。それぞれの選考委員長はまたもや性別 と地域とジャンルの面で偏りがないように、選考委員(長編小説部門では七人)を捜す。選考委員長と委員の資格は、まずMWA正会員であること(つまり、ミステリー関係の小説やノンフィクションを発表して、原稿料か印税をもらったことがあること)。そして、選考にベストを尽し、公平で倫理的に選考すること。しかし、対象になる長編小説は〇二年度で四百作以上に及び、無償で(!)ほとんど一年じゅう選考しているわけだから、創作の仕事ははかどらないし、収入が少なくなることを覚悟しなければならない。締切日が迫っていたり、その部門で自分の作品が有力候補だと思う会員は辞退する場合もある。つまり、選考委員の作品はその部門において選考対象から外されるのである(ほかの部門ならよい)。
 そのほか、MWA賞委員長とそれを指名するMWA副会長の作品はあらゆる部門において選考対象にならないが、会長の作品は選考対象になる。つまり、現会長コナリーは自分の作品を候補作から外す必要はなかったのだが、第三者に公正性を見せるために仕方がなかったのであろう。』

(木村仁良「MWA賞の内幕を暴け!」より、講談社『IN・POCKET』2004・3月号所掲)


つまり、この木村仁良の文章(の、中見出しのひとつ)にもございますとおり『徹底的な公正さが権威をささえている』のが、MWA賞なのでございます。

 


笠井潔関連投稿引用紹介(8-2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)21時14分0秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、私(アレクセイ)が書き込んだ文章です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


彼我の差(2) 投稿者:園主 投稿日: 7月 7日(水)19時40分28秒


このように「公正性の確保」に徹して、「(政治的)有力者へのごますり投票」や「組織票」などを断じて許さない態度が、MWA賞の権威を保証しているのでございますが、では、日本の「文学賞の現実」はどうなのかと申しますと、笠井潔が、

『野間賞や谷崎賞を代表格とした文学賞は、日本の小説市場における非関税障壁の、あるいはダンゴーやケーレツのシステムの悪しき象徴ではないだろうか。
 それらには、もはや文学的価値の尺度という意味などない。選考委員がまわりもちで受賞しているような、「文壇」的ダンゴーとケーレツの産物にほかならない「賞」が、はたして文学賞の名に値するだろうか。それは芸術院会員や文化勲章にいたる、国家に保証された権威大系に組み込まれた、その下位 階梯をなしているものにすぎない。
 文学賞による権威の分配機構と、公共土木事業の分配機構は、基本的に同型のシステムをなしている。後者に金丸信のような調整役が存在したように、前者にも同様のキャラクターが要請されるのはとうぜんのことだろう。噂によれば「文壇の人事部長」某氏が、その役割を演じているそうだ。』 (『国家民営化論』)

と書いているとおりで、しばしばそれは「党派的政治性」が幅をきかせる、いたって「不公正」なものになっているようなのでございますね。
では、こう批判する笠井潔自身が、賞の立ち上げに深くかかわった「本格ミステリ大賞」は、どうなのでございましょう?

今回ご紹介いたしました「MWA賞」と、私の批判する「本格ミステリ大賞」とが、どれほど違っているのか。――それを、多くのミステリファンのみなさまに(拙稿笠井潔が、真に望んだこと。『2004 本格ミステリ・ベスト10』の舞台裏などをご参照いただいた上で)真剣にご検討をいただければ、アメリカのそれに恥じない、日本のミステリ界の健全な発展に、多少は益することにもなるのではないかと、私は斯様に考えるのでございます。


 


笠井潔関連投稿引用紹介(9-1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)21時16分2秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、私(アレクセイ)が書き込んだ文章です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


彼我の差(4) 投稿者:園主 投稿日: 7月 7日(水)19時42分29秒


 素朴な疑問者さま

はじめまして。ようこそ、いらっしゃいました。
なかなか「含蓄のあるハンドルネーム」でございますね(笑)。

いろいろとご質問やらご感想をいただき、

> それでは御返事をお待ちしております。

とのことでございますが、結論から申しますと、貴方さまに対し、個人的にご回答やらご説明をするのは、時間の無駄 だと、私は考えます。なぜならば、貴方さまは、

(1) 私(アレクセイ・田中幸一)が、すでに説明済みの事項について説明を求めており、私の文章をろくすっぽ読んでいない

のが明らかであり、その意味で、

(2) 貴方さまが、他人に教えを乞う場合の(社会人としての)基本的な礼儀をご存じでない

のが、明らかだからでございます。例えば、

> アレクセイさんの書き込みを見て、感想を述べさせて頂きます。
> @あそこまで笠井氏を手厳しく糾弾するのは、笠井氏の元熱烈ファンとしての心境の裏返しなのでしょうか?

このことについては、私はこれまでに何度も「そういう意味合いが大きい(つまり、それがすべてでもない)」という主旨のことを書いております(※ 真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(1)〜(2)等)。
つまり、貴方さまのこのご質問は、「Aである」と言った相手に「Aなのですか?」と質問するのと同じ、まったくの無内容なのでございます。

> Aあるいは御自身の「作品の発表の場を潰された、作品が落選した」等、個人的な恨みでもあるのでしょうか?

これも、事実に則さない、礼を失した「無根拠な憶測」表明でございます。つまり、私には、笠井潔によって『自身の「作品の発表の場を潰された、作品が落選した」等』の事実がないのでございます。

たしかに私は、「創元推理」評論賞に二度3本応募して落選しておりますが、それは、その論文の内容が、初めから「笠井潔が押し進めているようなミステリ評論のあり方」や「笠井潔」そのものを手厳しく批判するものだったからでございます。
つまり、私は初めから、落選させられるのを覚悟の上で、今と変わらぬ自分の意見(笠井潔批判)を書き送ったのでございますから、落とされて怨みに思う理由など、もとより無いのでございます。むしろ「落とされるのが自然」な投稿だったのでございますからね(笑)。
また、そのようなものでなければ、笠井潔選考委員が、私の論文「地獄は地獄で洗え…」を読んで、

『田中幸一「地獄は地獄で洗え…… ――笠井潔批判」。これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。』

(第三回創元推理評論賞・選考委員 法月綸太郎の選評より)

ということになるはずもございません。
笠井潔は、私が彼のファンであることを事前に知っておりましたから、入選させてもらうために笠井流に「媚びた評論」を書いてくることはあっても、よもやあそこまで徹底的な批判を展開するとは思ってもみなかったのでございましょう。だからこそ、彼は「飼い犬に手を噛まれた」とでも勘違いして、激怒したのでございます。

ちなみに、もう一人の選考委員である巽昌章は、落選した拙稿について、次のように語っております。

『やはり選考委員への挑戦といえるのが、田中幸一「地獄は地獄で洗え…… ――笠井潔批判」だった。これは、最近の笠井氏の言動を取り上げて、「身内に甘い」傾向がみえると指摘するものである。最近の「論壇」の状況をよくすくい上げて一貫した文章にまとめているし、単なるゴシップではなく、笠井作品への読み込みを感じさせる点、また、馴合いではない批評という正論が根底にある点で、私は好感を持つ。』

(第三回創元推理評論賞・選考委員 巽昌章の選評より)

――つまり、私のしたこととは「笠井潔が私の論文を落選させる前に、私が笠井潔という人間を落選させた」ということなのでございますよ(笑)。

 


笠井潔関連投稿引用紹介(9-2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)21時17分27秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、私(アレクセイ)が書き込んだ文章です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


彼我の差(5) 投稿者:園主 投稿日: 7月 7日(水)19時43分47秒


 素朴な疑問者さま(つづき)


> 京都大学ミス研ばかり贔屓されるという事には作品の内容への言及が成されていないと思いましたので。

よく意味の取れない文章でございますが……ともあれ、私は一度も『京都大学ミス研ばかり贔屓される』などとは申しておりません。それは、拙論笠井潔が、真に望んだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性をまともに読んでいただければ、明らかなことでございましょう。

しかし、それでもお分かりいただけない方のために、こんな説明をしておきましょう。

 ・ 笠井潔によって『京都大学ミス研ばかり贔屓される』

ということと、

 ・ 笠井潔によって「組織された「探偵小説研究会」や「本格ミステリ作家クラブ」に、京都大学ミス研出身者が、わりあい多い」

ということとは、同じではない。


> あれほどの文章が書けるのならぜひとも御自身の完成した作品を拝見させて戴きたいのですが…

『自身の完成した作品』としての「評論」を、何度もお読みいただいているのではなかったのでしょうか?(笑)

いえいえ、わかっておりますとも。つまり、私に「書けるものなら、(ミステリ)小説を書いてみせよ」とおっしゃりたいのでございましょう?
――これなどは「まともな著作も持たない書評家ごときが、私を批判するな」と(いう主旨の)発言をした笠井潔(『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』)の信奉者らしい「もの言い」だと存じます(笑)。

つぎに、

> 後気になったのは、「政治をやるのが許せない」という批判は「全く意味を成さない」と思うのですが…

また、議論の前提が、間違っております。私は『政治をやるのが許せない』などとは申しておりません。「政治的な力の行使によって、アンフェアなことをするのは許せない」と言っているのでございます。
このことについても、上記の笠井潔が、真に望んだこと。を最後まで読んでいただければ、普通 はご理解いただけるものと存じます。

> 実際ここでアレクセイ様が行なっていらっしゃる行動も「反笠井派の政治活動」に近いものがあると疑念を抱きます。

「(本来の)政治」活動と「悪しき政治的活動」との区別がついていない貴方さまには、当然のことながら笠井潔が行っている「悪しき文壇政治」としての『政治活動』と、私が「個人」で行っている「批評活動」との区別 もつかないことでございましょう。

> アレクセイ様は所謂「政治」(×政治家)についてどのようにお考えなのでしょうか?村上龍のように「政治家にはなるな」と受け取られ兼ねないメッセージを発し続けるお考えなのでしょうか?

『受け取られ兼ねないメッセージを発し続けるお考えなのでしょうか?』とのお尋ねですが、私には、読者の「読解力不足」の責任までは負いかねる、とだけ申し上げておきましょう。


> 笠井氏のように「権威に囚われる事の少ない、行動派の左翼的感性者」に好意を抱いている者として、率直な御意見を申し上げました。

ありがとうございます。現在の笠井潔を、このように高く評価する人とは、一体どういう人なのか、が大変よくわかるご感想をいただけて、私も心より感謝しております。

> 若者にこれ以上政治アレルギーが増加すれば、日本の将来に希望は見出せません。

まったくでございますね。しかし、若者の間に『政治アレルギー』を蔓延させたのは、笠井潔のような「悪しき政治屋」なのでございます。ですから、私は、笠井潔を批判するのでございますよ。

> 大変恐縮なのですが、私の笠井氏への認識におかしな部分があれば修正を宜しくお願いします。

ご自身のお考えは、ご自身でしか『修正』できないものなのでございます。そこを、よくよくご検討下さいまし。

 


笠井潔関連投稿引用紹介(9-3) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)21時18分17秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、私(アレクセイ)が書き込んだ文章です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


彼我の差(6) 投稿者:園主 投稿日: 7月 7日(水)19時44分33秒


 素朴な疑問者さま(つづき)


それでは、私からも『素朴な』質問をひとつ。

人に教えを乞うのに、どうして貴方さまは「匿名」なのでございましょうか?
こうした点からも、笠井潔を『権威に囚われる事の少ない、行動派の左翼的感性者』と評価して『好意を抱いている者』の見識が疑われる、とはお考えにならなかったのでしょうか?
実名などのプライバシーを明かせとは申しませんが、捨てメールアドレスではない、日頃使っているメールアドレスくらい示して見せるのが、人に教えを乞う者、あるいは、他人を批判する者の、最低限の礼儀だとはお思いにならなかったのでございましょうか?

私の場合、笠井潔は私の住所・氏名を知っておりますし、面識もございます。これは笠井潔と同じく「創元推理」評論賞の選考委員だった、法月綸太郎や巽昌章(ともに京大ミス研出身)についても同様で、この二人とも、面 識もあれば住所・名前も伝えてあります。法月とは個人的に飲んだこともあるし、巽の家には何度も遊びに行っておりますよ。評論賞を落選させられてからも。――つまり、私の批判は、物陰から石を投げつけるような種類のものではなく、真っ向から勝負を挑んだものなのだ、ということなのでございます。

拙論恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力――ある「探偵小説研究会」所属評論家の弁にも書きましたが、どうして笠井潔支持者は「匿名」でしか、私にもの申せないのでございましょうか? やはりこれは「類は友を呼ぶ」ということなのでございましょうか?


ちなみに、私と はらぴょん氏との間で現在進行中の討論・笠井潔をめぐっては、「笠井潔の現実」を考える上で、きっと参考になるものと存じますので、こちらもぜひお読みになって下さいまし(笑)。


(※ なお、引用文中の「文字化け」は、そのまま引用させていただきました。マックでは「○囲みの数字」は、このように化けるのでございます)


 


笠井潔と<天使>のアポリア(27) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 7日(水)21時38分0秒

ここで、1986年12月パリのポンピドー・センターで行われた中上健次とジャック・デリダの対談(『文学界』1987年5月号に採録。なお、この模様は『GSたのしい知識』Vol.5 1/2 特集ジュネ・スペシャルにおける浅田彰による編集後記でも触れられている。)を振り返ってみよう。以下は、その要約である。
ここで中上健次は、自身を聖と賤、天皇と被差別部落が背中合わせになった日本文化の深いところで生きている作家として規定し、あたかも赤身と脂肪が入り混じった松坂牛のようだと表現した。
デリダがフランスにはフォワグラがあると言うと、中上は肝臓は解毒=排除の器官だからダメだと反論する。
これに対し、デリダはそういう背中合わせの構造は、共犯関係であり、いつまでもそこに留まるのはどうか、という。
ここで、飛び入りの質問(浅田彰)が入る。質問のポイントは、以下のとおり。
(1)三島由紀夫を「正の天皇主義者」とするなら、中上は「負の天皇主義者」であると解してよいか?
(2)ジャン・ジュネは初めは「聖と賤の弁証法」から出発したが、後にそういう閉域から逃れ、一種のノマド(遊牧民)的生き方の方に向かったが、それについてどう考えるか。
この後、デリダによるジュネの思い出話(ジュネは68年のゼネストの時、反乱する若者を見て美しいと語った、等)に移ってゆくが、ここではポストモダニズムに対応する文学表現、あるいは具体的な生のイメージとはなにか、という観点に沿ってまとめてみたい。
(イ)まず、先にあげた中沢新一の「コスモロジカルな全体性」という言葉に対応するのは、「正の天皇主義者」としての三島由紀夫の作品、あるいはフランスの良識的な文学的伝統に則った作品(ラシーヌ、コルネイユなど)があげられるだろう。
(ロ)では中沢のいう「幻想の外部なるものに依拠する」に該当する文学とはなにかというと、路地という被差別 部落の視点を持つ中上健次の小説世界(『岬』『枯木灘』など)、あるいはサルトルの『聖ジュネ』が解剖し尽くそうとした聖と賤が回転する初期ジュネの小説世界(『花のノートルダム』『薔薇の奇蹟』など)があげられるだろう。
(ハ)最後に「近代の生んだこの怪物的なシステムのなかを生きて、しかもその運動の極限まで駆けぬ けていってみる」という中沢の言葉に対応するのは、路地が解体され、そこから<外>の世界に流出してゆく世界を描いたその後の中上健次の世界(『地の果 て 至上の時』)、あるいは演劇やパレスチナとの連帯表明など<外>に向かっていった晩年のジュネの世界(『恋の捕囚』)ということになるだろう。
以前述べたパラダイム分類に従えば、(ロ)で示した文学とは、(パラダイムその1)アポロンに対するディオニュソスの立場からの反逆、世界に対する呪われた怪物による侵犯を描く文学ということになる。「ウラ日本史観」に依拠する笠井のコムレ・サーガは、ルサンチマンに由来する呪われた怪物の謀反を描く文学である。
これに対し、(ハ)で示した文学は、(パラダイムその2)そういったアポロンとディオニュソス的反逆というナルシスティックな閉域から、さらに<外>へと向かうヘルメス的=天使的逃走を描く文学ということになる。
しかしながら、ポストモダニズムに対応する(ハ)で示した文学が生まれるのは、非常に稀有であるといわねばならない。表面 的に軽妙なだけのポップ文学はいつかメッキが剥がれて失速する。力技で<外>を開いた本物の文学だけが、いまなおわれわれに衝迫力を持って突き刺さるのだ。

http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/


実証 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)23時01分8秒


 はらぴょんさま


このあいだ、思想の公準についてで、

『(4)笠井潔によるミステリ文壇での利益分配システムの批判によって、アレクセイさまが最終的になにをもたらそうとしているのか、今ひとつ分かりません。批判されている利益分配システムとは異なる理想的な文壇のシステム像をお持ちなのか、あるいはシステムではないが、理想的な批評のあり方像があるのか。その点を提示していただかないと、単なるひがみややっかみと受け取られかねない危険性を持つのではないでしょうか。』


とのご意見を賜り、これに対して私は戦う者は、まず足元を固めよ(3)で、

『「対案」など馬鹿馬鹿しいというのは、最初に書いたとおりです。
『笠井潔によるミステリ文壇での利益分配システム』が、健全な文壇のためには「マイナス要素」でしかないのですから、それをぶっ潰して「ゼロ」に戻すべしというのは、それだけで立派に「建設的な意見」なのですよ。――貴方が、笠井潔の立場を擁護してどうするんですか?(笑)

そもそも『単なるひがみややっかみと受け取られかねない』なんてことを気にするのが、馬鹿馬鹿しいことなのです。

以前、新聞紙上で新保博久に「大衆向け凡庸ミステリ」との診断を下された内田康夫先生は、きっとその時、新保のことを「自身が吹けば飛ぶようなミステリ評論家で、私が地位 も名誉も人気もある売れっ子作家だから、あいつは単なるひがみややっかみで、私のことをこき下ろしたんだろう」とお考えになられたことでしょう。……だから、どうだと言うのでしょうか。自覚のない馬鹿には言わせておけ、とお思いになりませんか?(笑)

私にすれば、私に批判された人が、私の批判を、

 ・ 心の中で(『単なるひがみややっかみ』だと)そう思う

のは、私の批判が、それだけ応えた証拠(の観念的自己慰撫)であり、反論を許さないものだったという証拠にもなろうかと思います。
また、私に批判された人が、

 ・ 口に出して(『単なるひがみややっかみ』だと)そう言う

のなら、それは私の批判の正しさの証明となるでしょう。なぜなら、彼に反論が可能なのなら、彼は『単なるひがみややっかみ』だなどと、幼稚な「負け惜しみ」など言わず、論理的に反論して、私の批判を逆に論破しようとしてくるはずだからです。

つまり、どっちにしろ、私にはそんなことを気にする理由はないのです。』

と、私の見解をご説明しましたが、笠井潔関連投稿引用紹介(7)でご紹介いたしましたとおり、「素朴な疑問者」さんは笠井潔を『権威に囚われる事の少ない、行動派の左翼的感性者』だと『好意を抱いている者として』、私が笠井潔を批判するのは、


『御自身の「作品の発表の場を潰された、作品が落選した」等、個人的な恨みでもあるのでしょうか?』

なんて「下衆の勘繰り」を書いてこられました。――その結果 が、どうであったか?

笠井潔関連投稿引用紹介(9-1〜3)で示しましたとおり、そのことで明らかにされたのは、


『現在の笠井潔を、このように高く評価する人とは、一体どういう人なのか、が大変よくわかる』


結果となったのです(笑)。



お書き込みについての感想は、後日ということで、ご容赦下さい。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


作品社 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 7日(水)23時28分42秒


 黒猫館館長さま


『テロルの現象学』は確か「作品社」という出版社からでていますね。確かこの作品社はかなり昔からある出版社で昭和30年代に寺山修司のデビュー作『われに五月を』を出していた気がします。しかし『われに五月を』も現在では○○万円、、とても手がでないですね〜〜。(^^;;)

寺山修司の『われに五月を』や春日井建の『未青年』を刊行した作品社は、ふたりの発掘者である中井英夫の最愛の友であった 、田中貞夫が起した出版社です。

その作品社が、笠井潔の『テロルの現象学』等を刊行した現在の作品社と同じ会社なのかどうか、昔から気にはなりながら、ついつい本多正一さんに尋ねるのをわすれていました。どうでもいいと言えばどうでもいいことなので、未だに正確なところを知らないままです。でも、今度たずねてみようと思います。……忘れなければ、ですが(^-^;)。

ちなみに、今年の五月に、春日井建が亡くなっており、まもなく刊行される『現代詩手帖』の最新号は「春日井建追悼特集号」となるそうです(ちなみに、寺山が亡くなったのも五月)。

私も、自分のサイトに、

 ・ 父の子の帰還――追悼・春日井建

という追悼文を書きました。お読みいただければ幸いです。




http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


『デスノート』(ジャンプコミックス)という漫画が評判イイらしい(2) 投稿者:黒猫館館長☆ブックオフ監視要員  投稿日: 7月 8日(木)01時04分31秒

☆はらぴょんさん>
ヴェイユも「眼鏡を取ったら美人だった」という感じになりそうですね〜。(^^;;)
しかしおしゃれや化粧を全くしない女性とは哲学者とはいえめずらしいですね〜。
少しは見習わねば・・・(実は暑くなってきたので夏服選びに夢中になっていた
りします(^^;;;))

『デスノート』(ジャンプコミックス)という漫画が評判イイらしい(5) 投稿者:黒猫館館長☆ブックオフ監視要員  投稿日: 7月 8日(木)01時36分24秒

アレクセイさん>
田中貞夫氏が作品社の社長だったんですか。^^なるほど〜〜。人脈が見えてきた
感じですね。中井英夫・寺山修司・塚本邦雄・田中貞夫・中城ふみ子と繋がってき
ましたね。ウムウム・・・(^^)

春日井建の歌壇への再登場に関しては塚本邦雄が「還れ 往くことなく」などとい
うなんとも甘口な文章で迎えたのに対し中井英夫はかなり厳しい目でこれをみてい
たらしいですね。中井英夫の厳格な性格が見て取れますね。

それでは一件コンプリーーーーーーーーーーーーーート!!!
編集済

三つ目の作品社 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 8日(木)06時31分2秒

作品社のホームページ(下記参照)に、「社名の由来」が書いてありました。
これを読むと現在の作品社は、寺山修司の『われに五月を』を出していた作品社とは別 物のようです。

http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/index.html


思想は、世界を愛することに始まる(上) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 8日(木)13時17分18秒


 はらぴょんさま


笠井潔と<天使>のアポリア(24)〜(26)

ものすごくわかりやすい見取り図をお示しいただいて、とても参考なりました。ありがとうございました。

現代思想について、私などは趣味的に読み齧っているだけなので、全体感がどうにもぼんやりとしているのですが、はらぴょんさんの文章を読ませていただいて、とてもすっきりした気分になりました。これまでに、いくつか現代思想の概説書や入門書を読んではいるものの、中途半端に詳しかったせいか、すっきりした見取り図をあたえられたという印象がなかったので、余計にそう感じたんでしょう。
もちろん、見取り図というのは、個人的な思想の「ひだ」を削ぎ落として、暴力的に編集した結果 であり、それを鵜呑みにするわけにはいきませんが、しかし、大まかなマップがないと、個々の思想は、現実のなかで実地に運用できないということもありますからね。はらぴょんさんくらい徹底して読んでおられればこそ、こういう平易な見取り図も示せたのでしょうし、たぶん私には一生その暇はないでしょうから、はらぴょんさんの文章が読めたのは、とても幸運なことだったのだと思います。

特に、はらぴょんさんのお考えで感心するというか共感するのは、

> しかし「0.実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」は、問題の出発点として重要である。

> 実体論(現象学、実存主義、人間主義等)」の立場は、哲学することのはじまりとして、また悩めるものと共に考えるために、その意義を失ってはいない。しかし、その問題を解くために、あるいは世界を把握するためには、そこだけにとどまっていては解決にならないことが多いのだ。

> ポストモダニズムの弱さは、この思想に対応した文学、あるいは具体的なイメージを提出できなかったことだと思う。それができないと、具体的な生き方にまでつながらず、思想として忘却の彼方に押しやられるしかない。

という部分です。
「理論と現実との間隙」に注目して、なんとか「思想を、人間と共にある、生けるものとしていきたい」という真っ当な感情は、博識なだけの現代思想オタクには、決して求めえないものでしょう。また、そうした感情が本物であるからこそ、はらぴょんさんは時に勇み足をしたりするんでしょうね。でも、それは美しい失敗だと思います。
人間が生ける思想に忠実たらんとして失敗する例は、サルトルに典型的なのかも知れません。もちろん、サルトルの思想にたいする後続の態度がそうであったように、誠実な失敗もまた、乗り越えられるべき対象であることに変わりはありませんが、私はサルトルという人を、その失敗のゆえにバカにしようとは思わないのです。むしろ、彼の勇気ある挑戦と挫折があったからこそ、人はその先へ進みえたのではないかと思うからなんですね。
そんなわけで、私の場合は、実戦的な経験から、はらぴょんさんの弱点(認識と結論は正しいのに、それをつなぐ「現場の局面 」にうとい。だから、その局面で失敗する)がよく見えますし、だからそこを厳しく指摘することもありますが、それは、はらぴょんさんを攻撃するものでもバカにするものでもありません。私の指摘を、共に戦う者の、忌憚のない助言だと、そのように受けとめていただければ、とてもうれしく思います。





( 以下は「思想は、世界を愛することに始まる(中)」につづく)

思想は、世界を愛することに始まる(中) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 8日(木)13時18分8秒


推測

> これはまったくの予想ですが、(出来上がる前から、予想を立てるのが好きなんで)『吸血鬼の精神分析』でやろうとしていることは、ラカンの精神分析に多重人格の問題をぶつけてラカンの限界を探ることではないかと思います。
> 解離ということに初めて触れた精神医学者はピエール・ジャネなんですが、フロイトはもっぱら神経症にばかり関心を示し、ジャネと対立したようです。ラカンはフロイトの後継者ですから、ラカンもまた多重人格とか解離は苦手分野です。そこでフロイト-ラカンの暗部を照射するのに、多重人格の問題を持ってくるのではないかと思います。

なるほど。いかにも笠井潔が考えそうな、後出しの攻撃ですね(笑)。

他人の思想的成果を便利に援用してまで、ラカンの弱点を突くという行為は、決して「私の方がラカンより、深く問題を把握している」と自慢話に終るべきではありません。当然のことながら、一人の人間では乗り越えることのできない「世界というアポリア」を乗り越えんがために、それぞれの思想的営為はなされるべきなのでしょう。
しかし、そんな当たり前の行為を疎外するのが「人間の業」なのだと思いますし、これはまたこれで大いなる障壁(アポリア)なんですよね。――それは、笠井潔という鏡(「討ち死に」の事例)に照らしてみれば、はっきりとわかる事実だと思います。


自分の美を削ぎ落とす

> いや、ヴェイユは眼鏡でわざと不美人にみせているだけではないかと。(それにしても眼鏡を取ると美人になるというのは、どこかできいた話だなぁ。)
> ヴェイユはナルシスティックな部分がまったくなく、見せ掛けの装飾や物質的な享楽を嫌悪するタイプですよね……で、自虐的ですらある……そういう内面 が外面に出ているのではないかと思うのです。

つまり、ヴェイユの根本にあるのは「潔癖」なんだと思います。それが、自分の人間的な欲望を嫌悪する、「非妥協」的で「厳格」な「禁欲主義(ストイシズム)」として表われたのではないでしょうか。
この指向(嗜好)は、あきらかに「至高性」を求める種類のものです。しかし、ヴェイユはそういう自分の欲望をも「地上との遊離性」として許しはしなかった。だから「根を持つこと」に執着し、「ざらついた」現実の手触りにこだわり、「工場労働」に身を投じて観念的な自分を虐めぬ いたんだと思います。

そして私は、そんなシモーヌ・ヴェイユに、曰く言いがたい共感と魅力を感じ、同時に「そこまでしなくてもいいんじゃないか」と声をかけたくなる衝動を禁じえません。しかし、そんな言葉は、彼女にはまったく無意味であることもわかりきっていますから、私は、ただ彼女の壮絶な生き方を受け止め、自分を正す鏡にしなければならないんだと感じます。そうした意味で彼女は、世界に対して一歩も退くことをせずに生き抜いて見せた、不滅の思想家なんだと思います。





( 以下は「思想は、世界を愛することに始まる(下)」につづく)

思想は、世界を愛することに始まる(下) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 8日(木)13時19分0秒


笠井潔と<天使>のアポリア(27)

> 以前述べたパラダイム分類に従えば、(ロ)で示した文学とは、(パラダイムその1)アポロンに対するディオニュソスの立場からの反逆、世界に対する呪われた怪物による侵犯を描く文学ということになる。「ウラ日本史観」に依拠する笠井のコムレ・サーガは、ルサンチマンに由来する呪われた怪物の謀反を描く文学である。
> これに対し、(ハ)で示した文学は、(パラダイムその2)そういったアポロンとディオニュソス的反逆というナルシスティックな閉域から、さらに<外>へと向かうヘルメス的=天使的逃走を描く文学ということになる。
> しかしながら、ポストモダニズムに対応する(ハ)で示した文学が生まれるのは、非常に稀有であるといわねばならない。表面 的に軽妙なだけのポップ文学はいつかメッキが剥がれて失速する。力技で<外>を開いた本物の文学だけが、いまなおわれわれに衝迫力を持って突き刺さるのだ。

まったく同感です。

『表面的に軽妙なだけのポップ』を超えたところに顕現する、真の『ヘルメス的=天使的逃走』とは、しかし、より具体的に理論化・図式化できるものなのかどうかというと、私はいささか疑問に思います。私の「感じ」では、そういうものは、「個人の内圧による爆発」という「個的な事例」としてしか立ちあらわれることはないのではないか。つまり、パターン化・方法論化することができず、つねに個々が世界との個人的な葛藤のなかで「その瞬間」を育んでゆくべきものなのではないか。――このあたり、いかにも私が「笠井潔の子供」だという出自が露になりますが(笑)、でも、私は「その瞬間」とは「個人の内圧による爆発」という形でありながらも、やはりどこかで「個人」を超えて到来する「恩寵」のようなものだとも思います。


三つ目の作品社

ありがとうございました。おかげでこちらも、やっとすっきりしました(笑)。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 8日(木)19時48分31秒


(前略)さて、『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)にパラサイトして販売されている、われらが笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争』(講談社文庫)ですが、はたして現状は、その「寄生」効果 が充分にあがっていると言えるでしょうか? 初刷をたくさん刷りすぎたせいもあるとは言え、私はまだ書店頭で「第二刷」すら見るに到っておりません。我々、プロジェクトチーム有志には、もっともっと「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーンを盛り上げていく責任と使命があります! いいですか、売れれば勝ちです! 数字がすべてです! みなさん、わかりましたね!

……ただし「笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争』は、奈須きのこが昔、別名儀で書いた作品だ」などと、嘘を言って売ろうとしてはいけません。詐欺に問われては、元も子もありませんから。倫理に反するのは構わないが、法律に触れる行為はまずい。つまり、法律に反しないのなら、手段を選ぶ必要はありません。では、みなさん、熱い最中ではありますが、しっかりと営業に励んで下さい!



(「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より、担当チーフの話)




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暗い波及効果 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 8日(木)20時54分27秒


まだ『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)を読んでいない私なのですが、売り上げが伸びている割には、意外と評判が聞こえてきませんね。もちろんネットで書評サイトを検索すれば、それなりに感想を読むこともできるのですが、これほど売れているのならば、じっとしてても耳に入ってきそうなものなんですが……。

で、講談社ホームページ試読本のページや、amazon.co.jp空の境界(上)amazon.co.jp空の境界(下)などのページをちょっと覗いてみた範囲で言いますと、『空の境界』の評価は「キャラが立っていて、独自の世界観があり、とても素晴らしい」という意見と、「ペダンチックな作風で、文章が読みにくく、私には合わなかった」という意見の、二つの立場に大別 できるように思います。

「ペダンチックな作風で、文章が読みにくい」という評価は、奈須が笠井潔や竹本健治のファンであることを考えれば、容易に納得のいくことです。なぜなら、笠井や竹本自体が、その初期には「悪文」呼ばわりされることも、ままあったからです。したがって、奈須の文章が読みにくいという意見は、むしろ読者の方が『たぶん読書慣れしていないための感想だろう。』とする擁護論も、あながち外れてはいないと思われます。エンターティンメントしか読まない読者にとっての「良い文章」とは、まず何よりも「読みやすい(リーダビリティーの高い)」文章ということになるのでしょうが、ことはそんなに単純ではありません。個性の強い、一般 には「読みにくい(悪文)」とされるであろう文体だからこそ、開示できる世界というものも確実にあり、それゆえに文学の世界は、奥深くもあるのですからね。

ともあれ、amazon.co.jp空の境界(上)のページで、


『まず、文章がとても読みずらかったです。
  (中略)
新伝綺だと銘打ってありましたが、正直そんな凄いものでもない気が……。
普通に読む分には面白いと思えると思うのですが、
  (中略)
発売前の煽りが凄かったので期待しすぎて、拍子抜けという感じです。
  (中略)
個人的に巻末の解説が本書ではなく「新伝綺」についてしてあるっぽかったですし。
何より長すぎて鬱陶しかったです。
解説って普通完結(※ 簡潔?)にするものだと思っていたのですが。 』


という、gleamofhopeさんの否定的な意見や、

『人を選ぶかも知れませんが、文章が下手で説明臭いかも知れませんが、私は嫌いじゃありません。なぜならそれが、ヒーローものだからです。
どんなに、ドジで弱くとも、いつか宝くじに当たる的なサクセスストーリー、嫌いじゃありません。ただ、やっぱり文章が下手で説明臭いです。
むしろ、新人賞で予選落ち、実際、奈須さんはくらってます。

どうなってんの、講談社(笑)』

という、カスタマーさんの悪意ある意見に対し、憤然と、

『「文章が読みづらい」「登場人物同士の関係が複雑」などの否定的意見があるが、たぶん読書慣れしていないための感想だろう。言葉の選び方に若干の画一性が見られる(星4つの理由)ものの、表現の巧みさはそれを補える。比喩にも独特の感性が見出せる。

奈須きのこの作品に初めて触れた。これが初めてで良かったと思う。下手にゲームをやっていたら違う意見になったはず。先入観なく読めたのは幸せだった。その意味で、PCゲームに興味のない読者こそこれを読むと良いかもしれない。解説なんか小説の一部じゃないんだから、読まなければ良いだけの話である。 』

と反論している、terror-tellerさんでさえ、「解説」を擁護する気はさらさらないというのが窺えて、なかなか笑えました。


それにしても、ちょっと調べてみた範囲ですらわかるのは、「笠井潔=講談社の、派手な売り込みキャンペーン」に煽られた多くの人の中には、そのやり口に対し、結果 として反感をもった人が決して少なくはないということですし、それゆえに奈須きのこその人に対しても、悪印象を持ってしまった人すら少なくないという事実なのです。

これも「笠井潔効果」あるいは「ヴァンバイヤー効果」と呼ぶべきなのでしょうか?(合掌)





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根を持つこと 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 8日(木)21時28分25秒

アレクセイさま>
たしかカミュの『反抗の論理』だったと思いますが、ドストエフスキーの言葉を書きとめている箇所があり、それは「世界の意味を愛する前に、世界自体を愛さねばならぬ 」という言葉でした。「思想は、世界を愛することに始まる」というアレクセイさまの言葉から、そんな言葉を連想しました。
おそらくアレクセイさまの批評における強さは、地に足の着いた者の強さだと思います。ヴェイユならば、根を持ったものの強さであると言うのではないでしょうか。
世界それ自体よりも、世界の意味が優先されるとき、ニヒリズムが忍び込む可能性が生じます。地に足の着いた者だけが、ニヒリズムをはねのける強さを持つのです。
一方、私の弱さは、時として観念や理想が先走りをして、安定感を欠くことが多々あることです。その意味で、アレクセイさまの地に足の着いたポジションには学ぶべきものが多いように思われます。

ところで、質問なんですが、"『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より、担当チーフの話"というのは、ノンフィクションですか、フィクションですか。
(ちなみに、私は「ノンフィクションですか、フィクションですか」という質問をよくします。<ウロボロス>の世界にいつしか呑み込まれているような気がするのです。)

ヴェイユとドーマル 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 8日(木)21時59分51秒

笠井潔は、『天使は探偵〜スキー探偵大鳥安寿』集英社2001年と『スキー的思考』光文社1998年で、次のような図式を描いている。(こんなわかりやすい勧善懲悪でいいのか、とこれを読んだ私は頭をかかえてしまいましたが。)

善玉=スキー(引力に逆らわず、上から下に滑り落ちる)=シモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想
悪玉=登山(引力に逆らい、下から上に上がる)=オウム真理教の空中浮揚の思想

単に自分の趣味が登山からスキーになっただけではないか、こんな図式では登山愛好家に失礼ではないか、とつっこみたくもなりますが、私の心にひっかかっていることはシモーヌ・ヴェイユの生涯を振り返ると、ルネ・ドーマルと出会った形跡があることです。(田辺保『シモーヌ・ヴェイユ』講談社現代新書年譜より。なお、この新書はカバーの裏に印刷があります。)
ルネ・ドーマルはシュルレアリスム系の作家で、形而上学的な登山小説『類推の山』を書いています。グルジェフの思想にも傾倒しており、邦訳では目隠しをしてものを読み取れるかどうか実験している写 真が載っています。登山好きで、尋常でない超越的なものへの希求。
はたして、ヴェイユとドーマルはいかなる対話を交わしたか、興味のあるところです。(どなたかご存知の方は、お教えください。)

「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より」と『スキー的思考』は、どちらがよりフィクションか? 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月 8日(木)23時21分9秒


 はらぴょんさま


根を持つこと

私の批判を好意的に受けとめていただいたようで、とてもうれしく思います。本当に、稀なことですから。

でも、過分なお誉めはご遠慮下さい。これ以上やると、馴れ合いくさくなって、みっともないですからね。――それに、Keenさんあたりが、私と貴方をネタに、おかしな「妄想物語」を構想しかねないという点にも留意すべきでしょう(笑)。


> ところで、質問なんですが、"『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より、担当チーフの話"というのは、ノンフィクションですか、フィクションですか。
> (ちなみに、私は「ノンフィクションですか、フィクションですか」という質問をよくします。<ウロボロス>の世界にいつしか呑み込まれているような気がするのです。)

もちろん あれは、私の「脳内ノンフィクション」です(笑)。だから、世間的には「フィクション」に分類されるのでしょうが、「実際にああいう会合が開かれてなどいない」とか「あんな発言は現実にはありえない」とは、誰にも言えないんじゃないですか。「妄想」とは言え、私のそれは、そうとうなリアリズムですから、現実そのままなんてことも、ままあるんですよね(笑)。



ヴェイユとドーマル

> 笠井潔は、『天使は探偵〜スキー探偵大鳥安寿』集英社2001年と『スキー的思考』光文社1998年で、次のような図式を描いている。(こんなわかりやすい勧善懲悪でいいのか、とこれを読んだ私は頭をかかえてしまいましたが。)

> 善玉=スキー(引力に逆らわず、上から下に滑り落ちる)=シモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想
> 悪玉=登山(引力に逆らい、下から上に上がる)=オウム真理教の空中浮揚の思想

> 単に自分の趣味が登山からスキーになっただけではないか、こんな図式では登山愛好家に失礼ではないか、とつっこみたくもなります

まったく同感です。

昔はあんなに、登山が哲学的な行為であるかのごとく三百代言を弄し、人を煙に巻いていたのに、「スキーに凝ったら、いきなりそれかい!」と呆れてしまいました……。また、だから、こないだ私は『スキー的思考』を「トンデモ本」だと言ったんです。

『天使は探偵〜スキー探偵大鳥安寿』については、タイトルからして恥ずかしく、まだ読めてはいません。あのタイトルを始めて目にした時は「おまえは、赤川次郎か! 志茂田景樹か!」とツッコミを入れてしまいました。あれで表紙の絵が可愛かったら(竹内崇とかだったら)、ひっくり返ったことでしょうね。……そのあと、大笑いできたでしょうが(笑)。

……ま、要するに、笠井潔が自信満々に語っていることなんか、「今も昔もその程度のこと」だってことなんでしょうね。こんな笠井潔の評論に感心できる人というのは、結局、笠井の本を読み齧るに止まっているが故なんでしょう。順に読んで行けば、イヤでも「なんやねん、それ!?」ってことになりますから(笑)。


> 私の心にひっかかっていることはシモーヌ・ヴェイユの生涯を振り返ると、ルネ・ドーマルと出会った形跡があることです。(田辺保『シモーヌ・ヴェイユ』講談社現代新書年譜より。なお、この新書はカバーの裏に印刷があります。)
> ルネ・ドーマルはシュルレアリスム系の作家で、形而上学的な登山小説『類推の山』を書いています。グルジェフの思想にも傾倒しており、邦訳では目隠しをしてものを読み取れるかどうか実験している写 真が載っています。登山好きで、尋常でない超越的なものへの希求。
> はたして、ヴェイユとドーマルはいかなる対話を交わしたか、興味のあるところです。(どなたかご存知の方は、お教えください。)

私は、シュールレアリスム小説に苦手意識を持っており、ほとんど読んだことがないんですが、以前、河出文庫から出ていた『類推の山』は、たしかマグリットの絵をあしらった装丁がとってもきれいで、つい買うだけは買ってしまいました。……今は、本の「堆積の山」に埋もれて、読むこともできないんですが(笑)。

たしかに『ヴェイユとドーマルはいかなる対話を交わしたか』は、興味深いですね。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


『世界認識の方法』のことなど 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 9日(金)00時13分5秒

サルトル主義者は「状況」ということばを好む。サルトルの評論集「シチュアシオン(状況)」のせいである。
吉本隆明主義者は「情況」ということばを好む。吉本の時事的な論説文「情況からの発言」のせいである。
したがって「状況」を使用するか、「情況」を使用するかで、サルトル主義者か、吉本主義者かが判ることがある。
ところで、笠井潔は、吉本からアイデアを得て、サルトル風の言い回しで表現するのがお好みらしい。
たとえば、例の縄文民族解放闘争の縄文人とは、吉本のいう「共同幻想」の外部を実体化したものである。(ちなみに縄文民族解放闘争をテーマとした『ヴァンバイヤー戦争2』を書いていたころ、この小説が連載されていた『月刊 小説王』の「ストレンジ・スター・クラブ・スペシャル」という企画で、笠井は松任谷由実と対談し、ユーミンの顔つきを縄文人のようだと褒め称えている。しかし、なんという褒め方か!)ちなみに吉本の『共同幻想論』では、柳田國男の『遠野物語』を使用してサンカに触れ、そういった外部から「共同幻想」の輪郭をあぶりだそうとする。また、吉本は「南島論」で、琉球を日本という共同幻想の外部と看做す見方もしている。
そして笠井の主著『テロルの現象学』での「○○観念」は、サルトルの『弁証法的理性批判』の言い回しの応用のようである。また、『象徴としてのフリーウェイ』に収録されたエッセイによると、サルトルとボーヴォワールが来日した際に、講演会会場まで道案内にタクシーに同乗したのが、笠井少年だったらしい。
ところで、奈須きのこは『Fate/stay night』の完成まで仕事に専念し、読書もままならなかったらしく、完成後に『オイディプス症候群』を読みたいと語っていたが、読み終えたのだろうか?(とても仕事の疲れがとれる本とは思えないのだが。)
この『オイディプス症候群』が探偵小説として冗長なだけであったことは以前述べたが、思想小説としても、初期作品と比べるといまひとつつっこみに欠ける本であった。
フーコーの権力論や外の思考に対して、矢吹は現象学的なエロス論を展開する。ここでは「ならびみ」「むきあい」「わたしみ」の三つにわける。
しかし、これは独創的なものではなく、これは吉本の「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」を、サルトル的な現象学のタームで言い換えたに過ぎない。
初期作品では、矢吹の劇的な思想対立が見せ場だったが、ここではフーコー(ここではダジールという名前になっている)に対し、別 の考えが提出されるだけで、対決には至らない。
ところで、フーコーと吉本の対談記録は『世界認識の方法』にまとめられている。ここで、吉本はフーコーの考えを通 時態より共時態を重視し、地層のように積み重なったものとして見る歴史観であると的確な認識を示し、自身の仕事をマルクス主義を始末する方向では一致しているが、自身の考えはフーコーの発想と相当違うことを述べている。吉本の考えは、幻想領域の記述がメインになっているが、フーコーは国家や権力装置に関心が向かっているのである。
おそらく『オイディプス症候群』の根底には、吉本の『世界認識の方法』があると思う。ただし、『世界認識の方法』がコンパクトで、鋭いのに対し、『オイディプス症候群』は退屈で、その長い物語を読むのに相当な忍耐を要する本である。

笠井潔関連投稿引用紹介 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 9日(金)17時39分24秒

うちのサイトの掲示板「薔薇十字制作室SIDE B BBS」に、私(はらぴょん)が書き込んだ文章です。
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『網野善彦を継ぐ』を読む - はらぴょん@管理人 (男性) Home
中沢新一と赤坂憲雄による対談『網野善彦を継ぐ』(講談社)が刊行になりました。
『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』で知られる日本史学の網野善彦は、中沢新一の叔父にあたり、『すばる』にて中沢は『僕の叔父さん』という網野論を書いたばかりです。また、中沢の『悪党的思考』が網野善彦の仕事にインスパイアされたものであることが知られています。
一方、赤坂憲雄は『異人論序説』『東西/南北考』などで知られる歴史学者で、民俗学や構造人類学などの成果 を取り入れた研究をされています。
ふたりの網野評価が興味深く、いくつかの論点を整理しておきたいと思います。

・網野善彦は「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」に注目した<欲望の歴史学>を創造しようとした。<欲望の歴史学>は、皇国史観や唯物史観などの<抑圧の歴史学>と対立した。網野は秀才の作り出したスマートな理解というものを常に疑った。
・実証主義的な歴史学では、古文書の文字の表面だけを読んでゆく。しかし、網野史学では古文書を前に「何か語り損なわれている欲望が隠されている」と考える。これはマルクスの経済学批判やフロイトの精神分析に似ている。網野は、批判に対し膨大な資料を提示して実証で応えることに、非常な努力をした。実証を超えることを実証しようとしたのである。
・朝鮮半島や南太平洋全体を視野に入れることで、今後の日本史学が変わる可能性がある。たとえば沖縄の八重山群島のアカマタ・クロマタの祭儀のとき、男性だけの秘密結社がつくられる。この集団の中では、外の世界での人間関係や貸借関係が切れ、「老」を価値とする別 な組織ができる。これもまた、「無縁」が原理となった自由空間である。このような祭儀集団に似たものを、南九州のソラヨイや、朝鮮半島・東アジア・南太平洋などにも見出すことができる。
・中部・東北のマタギの集団も、山の世界に行くと日常の主従関係とは関係がなくなり、山言葉に切り替わり、別 のタブーや戒律が課せられる。こういった集団に似たものを、ユーラシア大陸の北方に見出すことができる。
・網野は漂泊的な非農耕民に注目したが、定住的な農業民に対して、周辺的なマージナルなものに過ぎないとする言説に反対した。欲望や否定性から牙を抜き、去勢する宮田登的・山口昌男的「中心−周縁」理論に、網野は異議申し立てをしたのである。
「中心−周縁」理論でいくと「いちばん優秀な民俗学者は、京極夏彦ということになっちゃいませんか(笑)。それ自体は面 白いものですが、やはり世界を閉ざしてしまいます。」(中沢新一、P69)
・カントーロヴィチの『王の二つの身体』は、生き死にする身体と、死んでも残る法人としての身体を考える。しかし、網野は『異形の王権』で後醍醐天皇を支えたのは被差別 の公界にかかわる人であるとした。したがって、天皇にはもうひとつ、芸能的な構造(和歌や、生物学など、自然と一体となった構造)として表現される身体性があるとしなければならないことになる。
・レヴィナスは都市において人間を平等化する力が、貨幣の中にあるとした(対等な立場が成り立たないと商行為が成立しないからである)が、網野もまた貨幣の持つ力を肯定的に捉えていた。網野は、漂白民や移動民が、無縁の土地(河口や河原など)に住むことで、都市ができたと考える。人間の無意識の中には、貨幣や都市をつくりだす必然がセットされていたと考えられる。

ところで、笠井潔は『読売新聞 夕刊』2003.6.21(土)9ページで、「『無縁・公界・楽』や『異形の王権』を読んだとき、わたしに衝撃というものはなかった。網野氏の業績が知られはじめたのは一九七〇年代からだが、その十年以上も前に半村良『産霊山秘録』が出ていたからである。」と書いています。
笠井の半村良『産霊山秘録』に対する評価は、『空の境界(上)』解説でも知ることができるが、要するに「中心−周縁」理論と同一視して読んでいるということです。
しかし『網野善彦を継ぐ』を読むと、網野が「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」という観点から、「中心−周縁」の枠組みを超えようとしていたとされています。笠井の網野評は、中沢・赤坂の網野評と両立しないのです。

『空の青み』 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月 9日(金)23時46分51秒

『ヴェイユとドーマルはいかなる対話を交わしたか』は判りませんが、『バタイユがヴェイユをどう見ていたか』は、最近刊行されたばかりのバタイユ『空の青み』(河出文庫)を通 して知ることができます。ヴェイユをモデルとしたとおぼしき女性が登場するのです。
ところで、「笠井潔と<天使>のアポリア」を読まれた方は、私がバタイユ主義者としての笠井を批判していることをご存知だと思います。では、なぜバタイユを読むのでしょうか。
笠井潔や浅田彰が問題にしているのは、主に『呪われた部分』や『エロティシズム』といった晩年の理論的な著作ですし、バタイユ自体には彼らの捉えた部分からはみ出たもっと錯綜した世界があるのではないか、と思うからです。
また、評論と小説のちがいもあります。評論は、自分の曖昧な部分を詰めてゆき、クリアにするという方向で書かれます。読み手は、これを○か、×か、受け入れられるか、否かで捉えます。しかし、小説はどうも書き手自体がよくわからなくて、クリアでないから書いて表に出すということがあるようです。読み手は、これを多義的に捉えることが出来ます。必ずしも作者と同意見でなくてもよいわけです。
バタイユの文学作品や「無神学大全」には、晩年の整然とした体系とは異なる錯綜とした魅力があります。これは単純に(スマートに)「弁証法を廃滅する反弁証法」だとか「構造とその外部の弁証法」だとかの言葉に収まりきらない豊饒な世界を形作っています。

『アップルシード』のビデオ化はまだかいな 投稿者:黒猫館館長☆ひとりカラオケ大推奨  投稿日: 7月10日(土)01時17分27秒

☆はらぴょんさん>
>スキー的思考>これはスゴイ思考法ですね。^^わたしは水泳が好きでよくプール
に行くのですがマラソン・水泳などの横→横の移動はどうなんでしょうね〜?。^^
「重力に関係していないから良い」ということになるのでしょうか?(^^;)

バタイユでは『マダム・エドワルダ』を読みましたが予想したほど難解ではなかった
でしたヨ^^なんというか幻想的なエロチシズム小説という感じでそれほど「哲学」
的なものは感じはなかったですね〜。(読みが浅いだけだったりして(^^;;))

『アップルシード』のビデオ化はまだかいな(2) 投稿者:黒猫館館長☆ひとりカラオケ大推奨  投稿日: 7月10日(土)01時25分24秒

アレクセイさん>
『空の境界』のアオリはすごいですね〜。わたしの家の近所の大型書店ではベストセラー
の順位表になんとご丁寧にも『空の境界』の順位の数字に◎が付けられていました。
これだけ煽られればなんとなく読みたくなってくるのも人情ですね〜。(^^;;)
しかしわたしは基本的に本は古本屋で買う主義なのであの9800円したという「限定
版」が3000円ぐらいでブックオフにでたらどんなものかゲットしてみてもイイかな
〜?などと考えております。^^

それでは一件コンプリーーーーーーーート!!!
編集済

錯綜するリアル、複数化する自己[1] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月10日(土)14時07分55秒

『空の境界』の荒耶宗蓮はスペシネフか?

『空の境界』の悪の権化は、魔術師・荒耶宗蓮(唯識論のアラヤ識に由来)である。
荒耶宗蓮は「根源の渦」に関心を持ち、根源に遡ろうとする。そのためにまず、荒耶はマンションという形の死の柩を造りだし、そこに集う人間に何度も繰り返し死の体験をさせ、死の質を上げようとする。
[このマンションは、ナチスのショアー(絶滅収容所)のまがまがしさを読者に想起させる。『哲学者の密室』の影響が疑われる。]
荒耶は死の質をあげ、邪悪な怨念を持って、人間の条件を超えようとする。通常の人間では抑止力が働き、根源に到達できない。世界を安定させるために、人間を覚醒させない力が働いているとされる。
[このあたりの議論は、グルジェフの説に依拠している可能性がある。グルジェフのSF仕立ての説明では、月により覚醒を阻止する器官=クンダバッファが、かつて人間に埋め込まれていたとする。現在はないが、それに気づいていないとされる。]
根源は「  」と表現されている。「  」とは空無であると同時に、そこから世界が流出し、創造されるおおもとである。
[ユダヤ教カバラの根幹を成す「生命の木」は、「新世紀エヴァンゲリオン」にも登場したので、ご存知の方も多いと思うが、アインという根源があり、そこから神的な光が流出し、さまざまな作用に分化し、最終的にマクルトという地上が生まれる。黄金の暁会系の魔術は、このカバラが基本にある。詳細はダイアン・フォーチュンの『神秘的カバラ』参照。荒耶はこの根源を遡ることを目指す。]
この物語では、根源はアカシック・レコードとしても表現されている。アカシック・レコードは、ルドルフ・シュタイナーを始め、多くのオカルティストが言及してきた。通 常人には不可視の人類史の記憶の保管庫である。
しかし、この物語の魔術体系は、カバラを基礎に、陰陽思想で味付けされているようだ。
荒耶は、この物語のヒロインにあたる両儀式(両義性・形式・認識の意味を持つ)を奪取しようとするが、両儀式が「  」にすでに到達してしまっている存在だからである。
両義家は、陰陽思想を血のかたちで実体化すべく、遺伝的実験をくりかえし、人間以上の存在を生み出そうとしてきた家系であり、その結果 として両儀式は自分の中に識という殺人者を住まわせていた。式と識は、意識のスイッチひとつで交代できる人格である。しかし、ある事件がもとで、両儀式は生命の危機に直面 する。式か、識が死なねばならぬとき、黒桐幹也(ジャン・コクトーに由来)という両儀式が殺人を犯すことを恐れている少年を恋する識の方が、死を選択する。この結果 、病院で目覚めた両儀式は「直死の魔眼」を獲得する。「直死の魔眼」から世界を見れば、荘子の包丁のように、かたちのあるものすべてを分断できる線を視ることができる。両儀式は、いまは不在となった識との間に、そして世界と自分の間に「空の境界」をかんじている。

錯綜するリアル、複数化する自己[2] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月10日(土)14時08分48秒

とこのような設定を知った笠井潔が、荒耶宗蓮の姿に、自身の伝奇小説『ヴァンバイヤー戦争』に登場する妖僧スペシネフの姿を重ね、狂喜したことは想像に難くない。
物質文明の礎を築いた悪神ガゴールと、精神の自由のために悪神と戦った善神ラルーサという二項対立の図式の中で、吸血鬼一族や古牟礼民はラルーサ側につくものとされる。しかし、古牟礼民の異端者エンや、吸血鬼一族の異端者スペシネフは、悪神と善神を超えた宇宙の恐怖の根源たる第三の神がいるとして、それを覚醒させようとする。
この第三の神は、ネヴセシブという名前で、地球の中心部で眠っているとされる。無論、ネヴセシブが覚醒すれば、地球は最後を迎えることになる。[この設定は、おそらくクトゥルー神話の影響を受けていると推測する。]
では、善悪を超えた第三の神という設定とはなにか。妖僧スペシネフは、ソ連のKGBの背後にいるとされる。つまり、第三の神とは、弁証法権力のことである。マルクス葬送派の笠井は、マルクス主義に組み込まれたヘーゲル的テロリズム(弁証法権力)と対立している。したがって、物語の設定にも、その思想が反映しているのである。
荒耶宗蓮とスペシネフは、ともに根源という観念に取り憑かれた魔人である。
彼らは人間の限界を遥かに踏み越えてしまっている。彼らふたりに共通するのは権力意志であり、六十億もの人の意志や生命を蹂躙することなど目的達成のためにはなんでもないと考える。[符合する]
しかし、荒耶宗蓮の根源とは、「  」、すなわち空無である。
これに対し、スペシネフの根源とは、ネヴセシブである。ネヴセシブの覚醒は、地球霊(ガイ・ムー)にとっては、一切の破滅であり、虚無であるが、ネヴセシブ自体はむしろ有というべきである。[符合しない]

ここで視点を変えて、『空の境界』の荒耶宗蓮はスペシネフかを問うのではなく、荒耶宗蓮は笠井潔ではないのかと問おう。
笠井潔のテクストに対する態度に、荒耶宗蓮的なものを嗅ぎ取るのである。
荒耶宗蓮は、自身の創り出したマンションの住人に、同じ死を反復体験させようとする。これは、経験の積分=統合化(インテグレート)の試みである。荒耶は経験の積分=統合化によって、死の意味を集積させ、それを超越へのスプリングボードにしようとする。
一方、笠井潔は、彼と敵対したポストモダニズムが価値の微分=差異化(ディファレンシエート)の方向性を持っていたのに対し、意味の積分=統合化(インテグレート)の方向性を持っていた。笠井は意味の積分=統合化の果 てに、最後の絶対的・究極的な小説を望む。[符合する]
荒耶が望むものは「  」であり、その獲得のために自らの死も厭わない。
一方、笠井の望むものは最後の絶対的・究極的な小説であり、その獲得のために大文字の主体の死を要求する。そのゆえに三島の自刃を、相当意識している。(『復讐の白き荒野』『天啓の宴』)[符合する]
なぜか、符合するように見えるのは、どうしてだろうか。
この問題は、さらに蒼崎橙子という荒耶に敵対する人物が、笠井的世界観にとって何に該当するかを検討することで、さらに鮮明になってくると考えられる。

錯綜するリアル、複数化する自己[3] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月10日(土)20時43分22秒

蒼崎橙子、あるいは増殖するシミュラクラ

『空の境界』には<荒耶宗蓮>VS<両儀式+黒桐幹也+蒼崎橙子>という対決図式があり、それをめぐってパズルのように様々なストーリーが変奏される。
[その書き方は、上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』の影響が疑われる。上遠野浩平は様々なエピソードを集積し、最終的に読者の頭の中で全体像が結ばれるように書いている。]
ところで、『空の境界』の巻末につけられた笠井潔の解説には、次のような特徴がある。
(1)荒耶宗蓮VS黒桐幹也という対立図式の重視。笠井は黒桐幹也は日常を生きる普通 の男の子の視点であるとし、この立場を善としていることに『空の境界』の新しさを認める。日常を生きる普通 の男の子の視点からすると、荒耶宗蓮も両儀式も蒼崎橙子も、常人の域を超えた非日常の視点である。
しかし、笠井のこれまでの立場は、日常を生きる普通人の視点を「日向水でまどろむ原生動物の生へと退行するのか」(『バイバイ、エンジェル』角川文庫、P303)と侮蔑する立場であった。『テロルの現象学』でも、左翼テロリズムの観念の倒錯を批判するのに、観念の外(=日常)を持ってくるのではなく、(集合)観念による観念の浄化、すなわち非日常的な観念の蕩尽が必要であるとしていた。
『空の境界』解説における笠井の<日常>重視は、突然のことではなく、『国家民営化論』「序章 革命戦士と『文の商人』」であらかじめ用意されたことである。つまり、『国家民営化論』での「文の商人」宣言において、『バイバイ、エンジェル』と『テロルの現象学』の立場からの変節が行われたのである。
『国家民営化論』におけるアナルコ・キャピタリズムの立場は、「歴史の無意識としては、資本主義は、最高の作品である。」という吉本隆明の発言(F・ガタリとの対談『善悪を超えた「資本主義」の遊び方」』(『マリ・クレール』1987年4月号、中央公論社、P303)と呼応するものであった。
ポストモダニズム以降の論壇では、福田和也、宮台真司、東浩紀、大塚英志、斎藤環らの論説が注目されるようになった。このうち、宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』において、オウム真理教や中沢新一のような非日常重視を否定し、終わりなき日常(宮台のいう日常にはブルセラ、援交も含めた意味がある)を肯定してしまえ、と説く。[その後、宮台真司はブルセラ、援交の肯定から、天皇制の肯定にシフトする。]
笠井と宮台における<日常>重視は、倫理的判断の停止がセットになっていることに警戒をせねばならない。

錯綜するリアル、複数化する自己[4] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月10日(土)20時44分31秒

(2)笠井は荒耶宗蓮に対する批判として蒼崎橙子の次のような言葉をあげている。「認めろ荒耶。私達は誰よりも弱いから、魔術師なんていう超越者である事を選んだんだ」(講談社ノベルス、P470)これは、観念のハイアラーキーが、ルサンチマンに由来するという批判である。
蒼崎橙子によるこうような批判に、『バイバイ、エンジェル』の矢吹駆がマチルドに投げかけた批判のエコーを聞くのは容易い。
「マチルド、君はなぜ怖いんだ。ほんとうに勇気があるのなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。」(角川文庫、P375)
しかしながら、笠井が『空の境界』に読み取るのは、自らの理論と適合する事実ばかりなのだ。笠井は蒼崎橙子の本質について、意図的にか、無意識的にかは判らないが、触れていない事実がある。それは蒼崎橙子の魔術の本質が、人形づくりにあるということである。
蒼崎橙子は、荒耶宗蓮のように人間を超えたものになることを望まない。荒耶宗蓮のように「根源の渦」に接近する情熱も持ち合わせていない。蒼崎橙子の魔術は、人形つくりである。当初、その技は幻灯機を利用したものとされるが、これはまだフェイクに過ぎない。蒼崎橙子は、自身とまったく同じシミュラクラ(模造)を作る能力を持ち合わせた魔術師なのである。蒼崎橙子(オリジナル)に対して、蒼崎橙子(コピー)というシミュラクラが作られるのではない。蒼崎橙子(コピー)によって、蒼崎橙子(コピー)をつくりだす蒼崎橙子は、もはやオリジナルの優位 を信じない。蒼崎橙子は、蒼崎橙子(オリジナル)が存命かどうか、自身が蒼崎橙子(オリジナル)か蒼崎橙子(コピー)かも知らないし、知りたいとも思っていないのだ。
荒耶宗蓮は、生きる意味を積分=統合化(インテグレート)して、自身を「1」から「0」にまで突き詰めようとする。しかし、蒼崎橙子は、自身を微分=差異化(ディファレンシエート)して、自身を「1」から「多数多様態」に生成変化させようとする。

(注)『シミュラクラ』を書いたSF作家は、フィリップ・K・ディックであるが、フィリップ・K・ディックとサイバー・メディアに関する論考を準備している(その一部はハヤカワ文庫の『フィリップ・K・ディック・リポート』や、『インターコミュニケーション』に発表された)のが、東浩紀であることは、笠井と東の関係を考えると示唆的である。

錯綜するリアル、複数化する自己[5] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月10日(土)20時45分18秒

<DNAの情報がRNAにコピーされ、たんぱく質が合成される、この場合DNA→RNAへの情報の転写 はあるが、RNA→DNAへの情報の逆転写はない>ということが、ワトソンとクリックのセントラル・ドグマであるが、今日、われわれはエイズ・ウィルスのようなレトロ・ウィルスretro virus(=RNAウィルス)が逆転写によりDNAをつくり、最終的に自己複製することがわかり、このセントラル・ドグマは崩れた。
人間の免疫は、外部からのウィルスによる攻撃に対し、白血球やリンパを持って対抗する。免疫とは、内部/外部の二項対立を鮮明にする。しかし、エイズ・ウィルスは、人間の免疫機能を破壊し、人間の内部/外部の二項対立をなし崩しにする。エイズ・ウィルスは、免疫のディコンストラクション(脱構築)のように機能する。
ここで、コピーのコピーにより増殖する蒼崎橙子は、荒耶宗蓮の魔術体系に対してレトロ・ウィルスのように作用し、最後は荒耶宗蓮の閉じられた思考システムを内部から解体するだろう。
それは笠井の閉じられた思考システムに、竹本健治の<ウロボロス>シリーズや清涼院流水のJDCシリーズを無理やり呑み込ませれば、自壊する危険性があることとパラレルである。

近況 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月12日(月)22時03分22秒

奈須きのこの最新作は『DDD JtheE.』(『ファウスト』Vol.3に掲載)。DDDは、Decoration[装飾]Disorder[混乱]Disconnection[分離]の意味らしい。
登場人物は、石杖在処(いしづえありか)と迦遼カイエ(かりょうかいえ)。
石杖在処(いしづえありか)のありかは、自分の在処という意味だろうか?まさか、イチャーゾのアリカ・システム?
迦遼カイエのかいえとは、フランス語の日記?
二作目が、真価が問われる時ですよね。彼の場合、特に。

……というわけで、当面これを読むため、ここはペースダウンします。それにしても、血生臭い話だこと。この種の話を読むと、口の中で鉄の味がします。

流通形態の変容 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月12日(月)23時39分50秒

ところで、『ファウスト』は、一般の書店よりも、以下のような同人誌やアニメ・ゲームがメインの店に、多く山積みにされている。大手書店と比較しても、その量 は格段の差だ。(ちなみに『空の境界』は今まで扱った商品の中で一番売れたとのポスターが、現在店舗の中に貼られている。)
http://www.toranoana.co.jp/
ということは、『ファウスト』に載っているような小説(ライト・ノベル、キャラクター小説、ゼロの波)については、流通 の形態そのものが違って来ていることを意味する。

ボク、オモシロコワイ。(3) 投稿者:黒猫館館長☆ハムスター党擁立派  投稿日: 7月13日(火)02時45分17秒

☆はらぴょんさん>
奈須きのこってばもう新作ですか?早いペースですね〜〜。(^^;;)
またベストセラーになったりして。。。しかしノベルズ版のカバーがいわゆる
アニメ絵であるのはやはり「時代の要求」でありましょうか?現代ではあまり
リアルというか写実的というかそういう絵よりよりデフォルメされた「カワイ
イ絵」が受けている感じですね。そういえば講談社X文庫などライトノベル系
のカバー絵はみんなアニメ絵ですね。アニメファンとライトノベルの読者層は
重なるトコロが多いのでしょうか?^^

ところで「ゼロの波」ってなんですか?^^

それでは一件コンプリーーーーーーート!!!

『DDD JtheE.』について 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月13日(火)21時37分48秒

奈須きのこ『DDD JtheE.』(『ファウスト』Vol.3に掲載)読了。
徐々に、この作家の特徴が判って来た。
前回『空の境界』で、私は「認めろ荒耶。私達は誰よりも弱いから、魔術師なんていう超越者である事を選んだんだ」(講談社ノベルス、P470)という台詞に注目したが、今度も「何が神さまに選ばれた、だ。責任を他所に押し付けるな。おまえは選ばれたんじゃなくて、自分から進んでいっただけだろう。目も当てられねえぐらい弱いから、悪魔憑きなんてものに逃げたんだよ。」(『ファウスト』Vol.3 426ページ)という台詞がある。ここが、奈須きのこの作家としての核心部分なのだ。
魔術師や悪魔憑き……になろうとする者が、隠蔽している弱さの指摘。これは、ニーチェのルサンチマン批判に通 ずる指摘であり、おそらくは『バイバイ、エンジェル』から受けついだ部分と思われる。
この作家が、自分の主題を持っているということがよく判った。少なくとも、この作家は単なる流行で終わらない、そのことは断定できる。
あと、語り口の特徴も判って来た。俯瞰的な視線で、「……は、所詮……にすぎない。」というふうに断定形で語る部分がある。この部分は、心地よく感じられる。
今回の『DDD JtheE.』は、スプラッタ・ホラーの意匠をまとっているが、いずれの作品も思弁的な部分があり、オカルト趣味も入っているようだ。この思弁的な部分のため、文章が生硬な印象を与えることがある。
『DDD JtheE.』は、恐怖に主題を置いているためか、『空の境界』と違って萌え要素が少ないと思う。

訂正表
謹んでお詫びとともに、訂正いたします。
錯綜するリアル、複数化する自己[4]
上から四行目 (誤)魔チルド → (正)マチルド

80年生まれ以降……だそうです。 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月13日(火)21時47分34秒

黒猫館館長さま>
前にも書きましたが、「ゼロの波」は、ゼロ年代デビューの新人作家のことです。
ちなみに、新人発掘のための「ファウスト賞」は、80年生まれ以降でないと応募資格がないそうです。

笠井潔関連投稿引用紹介(10) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月14日(水)19時00分47秒


うちのサイトの掲示板アレクセイの花園に、ホランドくんが書き込んだ文章(全文)です。


---------------------------------------(以下、引用)---------------------------------------


ヒートダウン・ヒートアップ 投稿者:ホランド 投稿日: 7月 8日(木)22時01分52秒

 みなさん、こんばんは! このところサーバトラブルに翻弄されているここ「花園」ですが、早く安定してくれるといいですね。さっぱり雨の降らない夏日が続いているから、コンピュータもヒートダウン(?)しちゃったのかな?

 さて、それに比べて、ますますヒートアップしているのが、園主さまとはらぴょんさまとの間で現在も進行中の討論・笠井潔をめぐってです。
『ヒートアップ』って言っても、喧嘩になっているわけではないので、どうぞご安心下さい。園主さまはいつもどおり、時々厳しいツッコミを入れていますが、はらぴょんさんの方はマイペースを堅持しており、まったく違ったタイプの二人によるコラボレーションが、笠井潔というテーマをめぐって、うまい具合にアンサンブルを奏でているようです。

 どちらもそれぞれに引き出しを持っているようなので、もうしばらくは「笠井潔をめぐる議論」は続きそうですね。どうぞ、みなさんもご注目下さい。……喧嘩すれば面 白いのに、なんて邪念ぬきで(笑)。





 素朴な疑問者さま
 はじめまして、ようこそいらっしゃいました!

> 笠井氏のように「権威に囚われる事の少ない、行動派の左翼的感性者」に好意を抱いている者として、率直な御意見を申し上げました。

とのことですが、それってここでは、とっても貴重な意見で、その意味では、ご意見の表明はとても価値のあるものだと思います。

ただ、ご意見には根拠がまったく示されておらず、ただ笠井潔批判者である園主さまに、難癖をつけているだけとしか見えないのは問題です。せっかく理論家である笠井さんのファンなんですから、もうすこし論理的に、園主さまの意見を批判否定していくべきではないでしょうか。それから、特にさしつかえがないのなら、こんなうさん臭いハンドルネームはやめるべきでしょうね。でないと、よけいに信用されませんよ。

 ともあれ、討論・笠井潔をめぐっては、黒猫掲示板の方で現在も進行中ですので、いっそのこと、そちらの方へ、笠井潔支持者を代表して、殴り込みをかけてみてはいかがでしょうか? 意見を同じくするもの同士の対話よりは、立場を異にする人が一人でも加わった討論の方が、絶対おもしろいものになると思いますし(笑)。



 Keenさま
> 待つ

 ありがとうございました。
 サッカーも終ったことですし、いつまでも待たせないで、早く復帰して下さいね(笑)。



 園主さま
> 『田中幸一「地獄は地獄で洗え…… ――笠井潔批判」。これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。』

>              (第三回創元推理評論賞・選考委員 法月綸太郎の選評より)

 そう言えば・・・「おっさん、勘違いするなよ。俺がいつ、おまえの弟子になったって言うんだ。俺は、ヘタレの法月綸太郎とは違って、おまえの小判鮫なんかじゃねえんだからな。反論できると言うんなら、相手してやるから、いつでもかかってこんかい!」とか言ってましたよね、昔・・・(^-^;)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

キワモノとは誰ことか? 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月14日(水)19時45分4秒


 黒猫館館長さま


『空の境界』のアオリはすごいですね〜。わたしの家の近所の大型書店ではベストセラーの順位 表になんとご丁寧にも『空の境界』の順位の数字に◎が付けられていました。これだけ煽られればなんとなく読みたくなってくるのも人情ですね〜。(^^;;)
> しかしわたしは基本的に本は古本屋で買う主義なのであの9800円したという「限定版」が3000円ぐらいでブックオフにでたらどんなものかゲットしてみてもイイかな〜?などと考えております。^^

「煽り」だとわかっていても気になるんですから、「煽り」だという認識すらない人たちが、いかに「プロパガンダ」に弱いかがわかると思います。

先の大戦で、天皇を「現人神」だとするプロパガンダがなされ、かなり多くの人がそれを真にうけてしまいました。それを後世の我々が「なんでそんなこと信じるよ」と笑うのは簡単ですが、現在の我々の常識だって、後世の人から見れば、笑うべきものが、きっと含まれていることでしょう。

つまり、自身のなかに「後世の目」を繰り込むことこそが、「プロパガンダ」に対する唯一の対抗策であり、それこそが真の「知性」であり「懐疑精神」なんだと思います。

そんなわけで『空の境界』の限定版が、はたして10年後20年後にも変わらぬ価値を持っているかどうか、そこを考えてみるべきでしょう。もちろん、転売目的で「人気のあるうちに、安く買って高く売り抜ける」という考え方もありますが、そんな人はすでに「コレクター」とは呼べないでしょうね。


>スキー的思考>これはスゴイ思考法ですね。^^わたしは水泳が好きでよくプールに行くのですがマラソン・水泳などの横→横の移動はどうなんでしょうね〜?。^^
> 「重力に関係していないから良い」ということになるのでしょうか?(^^;)

私が想像するに、笠井潔なら水泳の「疑似飛翔性(仮構された無重力状態)の欺瞞」を突いたりするのではないでしょうか(笑)。


さて、黒猫館館長さま向けのお薦め本の紹介です。
『石原豪人「エロス」と「怪奇」を描いたイラストレーター』(河出書房新社・1600円)と書けば、くだくだしい説明は不要でしょう。そう、あの石原豪人です。――イイ味だしてますよ(笑)。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


水泳的思考(推定) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月14日(水)23時54分19秒

笠井潔ならば、水泳的思考を、スキー的思考と空中浮揚的思考の中間にある不徹底な思考であると定義するのではないか。以下は、笠井ならば、このような理論構成をするという推測。(私の考えではないので注意。)

スキー的思考…『天使は探偵〜スキー探偵大鳥安寿』を書いた笠井潔
水泳的思考…「泳ぐ男―水のなかの「雨の木」」(『「雨の木(レイン・ツリー)」)を聴く女たち』を書いた大江健三郎
空中浮揚的思考…『ヨーガ奥義書 第一巻 空中浮揚』で成瀬雅春と対談した中沢新一
http://www.naruse-yoga.com/levitation3.html

スキー的思考では、重力に任せ、完全な自己放棄がなされる。そこに恩寵の光が射す。(テクスト論にこれを適用すると、自分が創るという意識を捨て、大文字の作者を消す。そこに天啓のひらめきが起こる。)
水泳的思考では、コギト(自我)が創るという意識が放棄されず、維持される。しかしながら、世界という水の中に自己をひたす愉楽は知っている。
空中浮揚的思考では、エゴの肥大の帰結により、人間を超えたものを目指すにいたる。

『小説家』的図式化の誤謬(1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月15日(木)01時19分59秒


 はらぴょんさま


『世界認識の方法』のことなど

> この『オイディプス症候群』が探偵小説として冗長なだけであったことは以前述べたが、思想小説としても、初期作品と比べるといまひとつつっこみに欠ける本であった。

> おそらく『オイディプス症候群』の根底には、吉本の『世界認識の方法』があると思う。ただし、『世界認識の方法』がコンパクトで、鋭いのに対し、『オイディプス症候群』は退屈で、その長い物語を読むのに相当な忍耐を要する本である。

たとえ「同じような内容」を、より多くの紙数を費やし「物語化」し「図式化」して見せたとしても、それで『世界認識の方法』と「同じ内容を、よりわかりやすく」伝えられたかどうかは、疑問でしょう。

むしろ、そうした図式化によって失われるものが多いというのは、「いくら紙数を費やしたところで、平易な解説書では、原著のすべては語りきれない」というのと同じことだと思います。
むしろ、物語には物語としての「独自の美質」がなければならない。それが『オイディプス症候群』に無い以上、『オイディプス症候群』は『世界認識の方法』の「へたくそな戯画」だと理解されるべきなのだと思います。





( 以下は「『小説家』的図式化の誤謬(2)」につづく)

『小説家』的図式化の誤謬(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月15日(木)01時21分8秒


笠井潔関連投稿引用紹介

> 中沢新一と赤坂憲雄による対談『網野善彦を継ぐ』(講談社)が刊行になりました。

私も、この本は読みました。とても素晴らしい対談で、語りたいことは多くありますが、本日は時間がないので、はらぴょんさんの書かれている範囲に話題を限定して書かせていただきます。

> ・網野は漂泊的な非農耕民に注目したが、定住的な農業民に対して、周辺的なマージナルなものに過ぎないとする言説に反対した。欲望や否定性から牙を抜き、去勢する宮田登的・山口昌男的「中心−周縁」理論に、網野は異議申し立てをしたのである。
> 「中心−周縁」理論でいくと「いちばん優秀な民俗学者は、京極夏彦ということになっちゃいませんか(笑)。それ自体は面 白いものですが、やはり世界を閉ざしてしまいます。」(中沢新一、P69)

網野善彦は、漂泊の民を、「常民(農耕民)」にたいして第二義的なる存在(非=常民)として、「周縁」「辺境」的なるもの、つまり「マージナル」なものと位 置づけ「安心しよう」とする、歴史学会の保守的な態度を批判しました。

中沢新一が、京極夏彦をこのように批判したのも、「妖怪」などに象徴される「漂白の民(非=常民)」的なるもの(の心性)を、「第二義的なる存在」と規定した上で、その範囲内で「おとなしく楽しもう」という無難な態度が、京極の「妖怪好き」にはハッキリと透けて見えるからです。
そしてそれは、日本の民俗学(会)が、娯楽的オタク的な人気はあるものの、現実(日本人の歴史的実像)に鋭く斬り込むような気迫を欠いた「二流の学問」に安住しようとしている現状においては、とても「優等生」的であり、網野の忌み嫌った「(ものわかりのよい)秀才」的な態度である、ということでもあるのです。

京極夏彦のこのような態度は、私が拙論笠井潔が、真に望んだこと。で、

『(※ 笠井潔が、ミステリ文壇において)独自の位置にあった当代の人気作家 京極夏彦(ハードボイルド作家の大沢在昌の事務所に所属。同じ事務所の宮部みゆきは、笠井潔に叩かれた長谷部史親や縄田一男と同じ「怪の会」出身で、笠井潔派閥とは一線を画している)・森博嗣(大学助教授であり、もともと多趣味な趣味人で、文壇的なことには冷淡。ミステリ至上主義的なミス研的感性からもズレが大きい)らまで取り込むべく積極的なアプローチをした』

と指摘した、京極夏彦のじつに無難で絶妙な「位置取り」からも裏づけられる事実でしょう。

つまり、京極は賢いですから、笠井潔べったりになることの危険性を早々に察知して、笠井潔とは敵対関係にあった長谷部史親や縄田一男によって、メジャーになる前に大切にされ恩義もを感じているであろう、またそれゆえに笠井とは一線を画している大沢在昌や宮部みゆきの「横」に位 置するという、絶妙な距離の取り方をした、ということなのです。「敵対もしないが、取り込まれることもない位 置」とは、いかにも如才無い「秀才」らしい、利口で無難な「位置取り」だと言えるのではないでしょうか。


> 笠井潔は『読売新聞 夕刊』2003.6.21(土)9ページで、「『無縁・公界・楽』や『異形の王権』を読んだとき、わたしに衝撃というものはなかった。網野氏の業績が知られはじめたのは一九七〇年代からだが、その十年以上も前に半村良『産霊山秘録』が出ていたからである。」と書いています。
> 笠井の半村良『産霊山秘録』に対する評価は、『空の境界(上)』解説でも知ることができるが、要するに「中心−周縁」理論と同一視して読んでいるということです。
> しかし『網野善彦を継ぐ』を読むと、網野が「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」という観点から、「中心−周縁」の枠組みを超えようとしていたとされています。笠井の網野評は、中沢・赤坂の網野評と両立しないのです。

まあ、笠井潔の網野理解は、中沢新一が、

『 民俗学がある時期、中心と周縁という枠で問題を整理しようとして、そこに象徴人類学の手法を取り入れて、民俗事象を構造分析しだしました。そのやり方で、民俗学を生き延びさせようとしましたが、それが今ではもうほとんど駄 目になっています。方法がすぐにパターン化してしまって、結局は小説やジャーナリズムに解消されてしまった。』

と語った、『小説家』的『ジャーナリズム』的理解の限界を示すものでしょう。

中沢の言う『小説家』の中で、もっとも注目すべき作家は、笠井潔であるよりもむしろ、京極夏彦であり、『火と花の帝』などを書いて、「漂泊民と天皇の関係」にまで言及した、隆 慶一郎だと思います。





本日はこれまでで、ご勘弁を。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


なぜか突然ヘルマン・ヘッセの『知と愛』などという本を熱心に読み出してしまったこの頃である。(1) 投稿者:黒猫館館長☆ハムスター的思考  投稿日: 7月16日(金)00時23分52秒

☆はらぴょんさん>
「ファウスト賞」は1980年以降生まれでないと駄目ですか。^^しかしスゴイ
ですね〜。作家もどんどん若年化が進んでいるようですね〜。『黒冷水』(だっけ
?(^^;))の作者は高校生だそうで。このままいくと中学生作家や小学生作家
も登場しそうですね。(^^;;;)

水泳的思考>そういえばオ〜ケンは若い頃水泳をやってたらしいですね。もしかし
たら『死者の奢り』もプールの中で発想したのでは?アレ死体がプールにプクプク
・・・(自粛)(^^;;)

なぜか突然ヘルマン・ヘッセの『知と愛』などという本を熱心に読み出してしまったこの頃である。(2) 投稿者:黒猫館館長☆ハムスター党擁立派  投稿日: 7月16日(金)00時48分28秒

☆アレクセイさん>
石原豪人情報ありがとうございます。そういえば最近気がついたのですがホ○の人
の雑誌で大活躍していた絵師「林月光」と石原豪人は同一人物みたいですね。

その昔わたしが小学生だったころジャガーバックスの『地獄大図鑑』がなぜか家に
あり盛んに読みふけっておりました。もちろん絵は石原豪人です。このときなぜか
地獄に対する恐怖とともになにか背筋がゾクゾクする妙な感覚に襲われておりまし
た。これは恐らく筋肉隆々の鬼の姿や苦しみ悶える亡者の姿に子供心にもなにか危
険なエロティシズムのごときものを感じ取っていたのではないか?といまにしてお
もいます。なおさら絵が石原豪人こと林月光だったらもう確実??(^^;;;;)

それでは一件コンプリーーーーーーーーート!!!


 

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