討論・笠井潔をめぐって5)  

 


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     目 次5)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
錯綜するリアル、複数化する自己[6] はらぴょん 7月16日(金)15時55分49秒
錯綜するリアル、複数化する自己[7] 7月16日(金)15時56分33秒
錯綜するリアル、複数化する自己[8] 7月16日(金)15時57分50秒
錯綜するリアル、複数化する自己[9] 7月16日(金)15時58分41秒
錯綜するリアル、複数化する自己[10] 7月16日(金)15時59分47秒
錯綜するリアル、複数化する自己[11] 7月16日(金)16時00分24秒
錯綜するリアル、複数化する自己[12] 7月16日(金)16時01分12秒
錯綜するリアル、複数化する自己[13] 7月16日(金)16時02分1秒
新刊情報 はらぴょん 7月16日(金)16時23分52秒
懐疑的リアリズムの見地から(1) アレクセイ 7月17日(土)12時36分47秒
懐疑的リアリズムの見地から(2) 7月17日(土)12時37分58秒
懐疑的リアリズムの見地から(3) 7月17日(土)12時40分50秒
懐疑的リアリズムの見地から(4) 7月17日(土)12時42分54秒
懐疑的リアリズムの見地から(5) 7月17日(土)12時44分54秒
懐疑的リアリズムの見地から(6) 7月17日(土)12時46分49秒
懐疑的リアリズムの見地から(7) 7月17日(土)12時57分47秒
「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャン(…)(2) アレクセイ 7月17日(土)14時20分22秒
「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャン(…)(3) はらぴょん 7月17日(土)21時27分37秒
「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャン(…)(4) アレクセイ 7月18日(日)00時33分56秒
奈須きのこの文章力(1) アレクセイ 7月18日(日)15時25分4秒
奈須きのこの文章力(2) 7月18日(日)15時26分4秒
奈須きのこの文章力(3) 7月18日(日)15時27分7秒
奈須きのこの文章力(4) 7月18日(日)15時31分39秒
参考までに はらぴょん 7月18日(日)21時02分44秒
夏の試練 アレクセイ 7月18日(日)22時16分11秒
表向きは八ヶ岳スキー同好会なんですが はらぴょん 7月19日(月)13時41分2秒
ご確認事項 黒猫館館長(…) 7月20日(火)02時02分36秒
日本人的な、あまりにも日本人的な アレクセイ 7月20日(火)15時37分39秒
見解 はらぴょん 7月20日(火)21時50分55秒
ここから先、初出はアレクセイの花園                  
あれやこれや(上)(抄) 園主アレクセイ 7月22日(木)22時30分35秒
「討論・笠井潔をめぐって」に関して はらぴょん 7月23日(金)00時08分2秒
抗う者たち(4)(抄) ホランド 7月23日(金)18時38分17秒
はじめまして 時雨 7月24日(土)17時04分36秒
錯綜するリアル、複数化する自己[14] はらぴょん 7月24日(土)21時19分12秒
錯綜するリアル、複数化する自己[15] 7月24日(土)21時20分55秒
錯綜するリアル、複数化する自己[16] 7月24日(土)21時22分15秒
こちらこそ、よろしくお願いいたします はらぴょん 7月24日(土)21時29分49秒
異界からの使者 くらやみ男爵 7月25日(日)09時44分17秒
元気になりましたよー。 Keen 7月25日(日)21時40分35秒
はて? Keen 7月26日(月)16時40分20秒
正統派の矜持(1) 園主アレクセイ 7月26日(月)19時41分54秒
正統派の矜持(2) 7月26日(月)19時42分48秒
正統派の矜持(3) 7月26日(月)19時44分7秒
正統派の矜持(4) 7月26日(月)19時45分31秒
正統派の矜持(5) 7月26日(月)19時47分18秒
正統派の矜持(6) 7月26日(月)19時48分0秒
正統派の矜持(7) 7月26日(月)19時49分9秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


錯綜するリアル、複数化する自己[6] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)15時55分49秒

以下は「薔薇十字制作室 SIDE B BBS」に掲載した原稿に、大幅に加筆したものです。

『多重人格探偵サイコ』をめぐって

大塚英志の『サブカルチャー反戦論』(角川文庫)は、イラク戦争以降、日本の言論空間が「戦時下」に入ったという認識を示している。9・11以降アメリカのマス・メディアで、ジョン・レノンの「イマジン」すら流すことを自粛し始めたことは、日本のニュースでも流れたが、大塚は日本においても、アメリカの正義に異論を唱えることが「失言」と看做され「謝罪」の対象になるなど、マス・コミの自粛傾向があったことを指摘し、これを戦後民主主義の危機として受け止める。
イラク戦争後、柄谷行人ら日本の知識人が、この問題にかかわろうとしなかったことが、本書では槍玉 に挙げられている。この点については、東浩紀が重く受け止め、笠井潔との往復書簡『動物化する世界の中で』においても触れている。『サブカルチャー反戦論』で柄谷の名が挙げられたのは、この問題に関し、発言が最も期待された批評家であったためである。(注)

(注)ではこの時、柄谷行人が何をしていたかというと、NAMと(株)批評空間の立ち上げに専念していたのである。NAMは、資本制=ネーション=ステートへの対抗運動として考え出されたアソシエーションであり、LETS(地域交換取引制度)に依拠している。NAMは、地域通 貨と無利子銀行によって、経済的なグローバリゼーションから、地域を守ろうとする試みであった。
9・11のテロの背景には、経済的・政治的・宗教的な意味での圧倒的な格差があった。だから、アメリカの強力なグローバリズムへの対抗運動としてのこの試みは、テロリズムとは別 な解決法を指し示すという意味で、まったく関係がない試みというわけではなかった。しかしながら、これはまだ実験段階に過ぎず、この痛みを伴わない革命が成果 を導き出すには、相当な時間が必要であった。それゆえに、柄谷はここで、即効性のあるメッセージを出すべきだったと考える。
NAMは、西部忠の考案した地域通貨Qを採用していたが、加入者が一向に増えず、買えるものも少なく、悪循環が続いていた。市民通 貨 Lに切り替えたが、果たして地域通貨の方式の問題点であったのか疑わしい。むしろ、この組織が左翼的な閉じたコミューンのようなものに化したことや、この運動自体の魅力が不十分であったことに問題があったように思う。いずれにせよ、このNAMの運動自体が破綻した。また、NAMの出版部門であった(株)批評空間も、個人によるところが大きかったという問題点があり、中心を担っていた内藤裕治氏の死により解散に追い込まれた。

錯綜するリアル、複数化する自己[7] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)15時56分33秒

日本のほとんどの知識人が沈黙する中、大塚はサブカルチャーに関わる自身の仕事を利用して、ゲリラ戦のような方法で、反戦論をマス・メディアに載せようとした。「多重人格探偵サイコと突然の平和論」が、その時の記録である。
彼は『ニュータイプ』という雑誌に、「多重人格探偵サイコ 試作品神話」という連載を行っており、その第十五回目で、次のようなことを行う。
原稿入稿から、印刷までぎりぎりの日程を見計らって、編集担当に第十五回目の原稿を渡す。事前に内容の予告をすれば、潰される可能性があるし、日程に余裕があれば、書き直しをさせられる可能性も生じるからである。この小説の連載十五回目の冒頭で、登場人物の笹山徹の意識がなくなり、作者自身が語りを乗っ取り、笹山の口を借りて反戦論を展開し始める。物語としてのつじつまを合わせるために、多重人格だから、なんでもありなのだと説明がなされている。
笹山徹の人格を乗っ取った大塚が語るのは、9・11に二機のボーイングがニューヨークの高層ビルに突っ込んだとき、君たちはハリウッド映画のようだと思わなかったかということだ。大塚は経済システムからハリウッド的な見方まで、ひとつの価値観が世界を覆おうとしていると語る。君たちが、あのテロをハリウッド映画のように感じるのは、君たちの思考自体がアメリカの価値観・感性に基づいているからだという。現在のアメリカは、巨大なキリスト教的なカルトと化しており、戦争という名の殺戮を「正義」や「自由」の名のもとに遂行し、それに追随しないのは「敵」と看做そうとしていると指摘する。「戦争をしてはいけない」と当たり前のことを口にしにくくなっている今の状況は、非常に危険であり、この状況を打開するために君たちも「戦争をしてはいけない」「殺してはいけない」ということを言う必要がある。ここで問題なのは、口を噤んでしまうことなのだ、と。(大塚の言葉は、圧倒的に正しい。)
戦後民主主義者としての大塚のポジションは、現在の言説空間において、非常に貴重である。彼の戦後民主主義の部分は、大江健三郎に影響を受けているように思われる。彼は、改憲論者に対抗して、10代の若者に自分なりの憲法前文を書かせようとする試みを行っている。これは、改憲や創憲と似て非なるものである。憲法の平和主義を、もう一度自分のものとして奪還するためなのである。
しかし、大塚のポジションは、現在とても追い詰められている。論壇は、改憲論者による現在の憲法はGHQにおしつけられたという論調が覆っている。大塚は、右寄りのナショナリストに、アメリカに異議を突きつけるために、アメリカの押し付けた憲法九条を教条的に守ることが、逆説的に抵抗の武器となると呼びかける。さらに自身が編集責任を務める『新現実』では、共産党の書記長と対談し、戦後民主主義を守るための政党の選択肢が、ほとんど皆無になったと語る。

錯綜するリアル、複数化する自己[8] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)15時57分50秒

ところで、『多重人格探偵サイコ』には、複数のヴァージョンが存在する。先の反戦論の事例でみるように、大塚は現実と虚構の垣根を取り壊してしまったが、そこに至る下地は、だいぶ前から用意されていたのである。

(1)コミックス版
大塚英志原作×田島昭宇画『多重人格探偵サイコ』(角川コミックスエース)1〜9巻(以下続刊) ※なお、このコミックには民間機をハイジャックして、ガクソの実験船に激突するシーンが含まれている。
大江公彦原作×田島昭宇画『多重人格探偵サイコ』(角川コミックスエース)1巻 ※名義が大江公彦となっている他は、なにも変わっていない。三池崇史監督による映像版で、笹山徹が有害コミックとして『多重人格探偵サイコ』をゴミ箱に捨てるシーンがあるが、このとき大江公彦名義になっている。
大塚英志原作×ひらりん(物語環境開発)画『多重人格探偵サイチョコ』(角川コミックスエース)1巻(以下続刊) ※大塚主宰の物語環境開発による自作のパロディ。

(2)小説版
大塚英志著『多重人格探偵サイコ』(角川スニーカー文庫) 1巻 情緒的な死と再生、2巻 阿呆船。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』(講談社ノベルス)解説笠井潔。帯文法月綸太郎・清涼院流水。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 小林洋介の最後の事件』(講談社ノベルス)解説加藤典洋。※本文は角川スニーカー文庫版の1巻 情緒的な死と再生の増補版。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 西園伸二の憂鬱』(講談社ノベルス)解説東浩紀。※本文は角川スニーカー文庫版の2巻 阿呆船の増補版。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 渡久地菊夫の失敗(近刊)』(講談社)※近刊予告で出されたが、未刊のまま終わりそうな気配である。
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』(角川文庫)
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 小林洋介の最後の事件』(角川文庫)
大塚英志著『多重人格探偵サイコ 西園伸二の憂鬱』(角川文庫) 
大塚英志著『多重人格探偵サイコ/REAL』(徳間デュアル文庫)※三池崇史監督による映像版のシナリオに加筆したもの。
大塚英志原作×許月珍著『MPD PSYCHO/FAKE』(角川スニーカー文庫版)1巻〜3巻、※三池崇史監督による映像版のノベライズ。許月珍が実在するかは不明。ちなみに東浩紀は、許月珍の正体を大塚自身とする仮説を立てている。
大塚英志著『MPD PSYCHO/FAKE』(角川書店)※角川スニーカー文庫版の合本。巻末あとがきで大塚は、版元の判断で、大塚英志著になっているが、許月珍は実在すると主張。
大塚英志著『ロリータ℃の素敵な冒険』(角川書店)
大塚英志著『MPD PSYCHO/FAKE 試作品神話』(角川書店『ニュータイプ』に連載)
大塚英志著『サイコ キューブ』(未刊)

(3)映像版
大塚英志原作×三池崇史監督作品『多重人格探偵サイコ 雨宮洋介の帰還』フィギュアつきDVD BOXセット(角川書店)
大塚英志原作×三池崇史監督作品『多重人格探偵サイコ 雨宮洋介の帰還』DVD 1〜3巻(角川書店)
大塚英志原作×三池崇史監督作品『多重人格探偵サイコ 雨宮洋介の帰還』DVD リミックス版(角川書店)

(4)研究書
三木・モトユキ・エリクソン著『ルーシー・モノストーンの真実』(角川書店) ※『多重人格探偵サイコ』に登場する伝説のロック・ミュージシャン、ルーシー・モノストーンの評伝。フラワー・チルドレンの頃の連続爆弾魔で、コンサート・ツアーをしながら、アメリカで爆弾による殺人を犯しつづけたとされるルーシー・モノストーンの情報は、『多重人格探偵サイコ』からのものばかりで実在するかは不明。実在を証明するために本書を書いた三木・モトユキ・エリクソンは精神科医とされるが、これまた実在するか不明。東浩紀は、三木・モトユキ・エリクソン架空人物説をとる。

錯綜するリアル、複数化する自己[9] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)15時58分41秒

(5)関連グッズ
『多重人格探偵サイコ【トレーディングカード】』(角川書店)No.1〜118。No.109は印刷の際の裁断ミスが起きているものと、そうでないものとある。この裁断ミスによるレア版もまた、意図的に行われた公算が大きい。No.118には、ロリータ℃『ロリータの温度【CD】』(キングレコード)についていたものと、大塚英志原作×許月珍著『MPD PSYCHO/FAKE』(角川スニーカー文庫版)3巻の文庫カバーから切り取るものと2種類がある。
大塚英志著『冬の教室【小説】』(徳間デュアル文庫)
大塚英志原案『東京ミカエル【コミック】』(角川書店) ※大塚の小説・原案のコミックは、なんらかの形で、相互に関連が持たされている。
白倉由美著『ロリータの温度【小説】』(角川書店)
白倉由美+後藤次利プロデュース、ロリータ℃『ロリータの温度【CD】』(キングレコード)※ロリータ℃は、『多重人格探偵サイコ』に登場するキャラクターである。
LUCY MONOSTONE『STRANGE NEW WORLD【CD】』(角川書店・限定版)……その他、カレンダー、アクセサリー、テレカ等、関連グッズ多数。

これらの『多重人格探偵サイコ』関連作品の間には、実は微妙な設定のズレが散見している。これもまた、意図的に為されている。
大塚英志は『多重人格探偵サイコ』を、多様な媒体を使って、さらに微妙な差異をつけて販売している。
その結果、虚構は複数化し、さらに現実を巻き込むことで、現実と虚構の区別をなし崩しにしてしまう。冒頭にあげた笹山徹による突然の反戦論ですら、虚構の一部として受け取り手に送り届けることさえ可能な、フラクタルで、スカスカのメディア・ミックス空間を創り上げてしまったのである。

錯綜するリアル、複数化する自己[10] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)15時59分47秒

大塚は、元『漫画ブリッコ』の編集者であったが、一貫してサブカルチャーに関わってきた経験を生かし、『物語消費論』を書いた。評論家としての大塚の仕事は多々あるが、『物語消費論』が主著となると思う。
消費をめぐる現代思想の流れをおさらいしておくと、まずフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールの仕事(『生産の鏡』『象徴交換と死』など)を押さえておかねばならない。彼はソシュールのアナグラム(綴り換え)論と、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』における消費経済学の考えに影響を受けて、「モノから記号へ、生産から消費へ」というスローガンを打ち出した。現代社会においては、モノの生産から、記号の消費に主軸が移ってきており、広告によるマス・イメージが重要な機能を果 たすということである。
大塚は、ボードリヤールの考えを発展させて、「記号から物語へ」という新たなスローガンを打ち出した。彼はビックリマンチョコレートなどの消費行動に注目する。彼は物語を作り出すことで、より大きな消費を起こすことができると考える。『多重人格探偵サイコ』は、この物語消費の実践例と考えることができる。
これに対し、近年では東浩紀が『動物化するポストモダン』で、データベース型消費という概念を打ち出したことが想起される。トレーディング・カードなどの消費をみると、物語消費の域を超えて、データベース型消費というべき、さらに大きな消費行動が起きているというのである。

錯綜するリアル、複数化する自己[11] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)16時00分24秒

ところで、『多重人格探偵サイコ』が講談社ノベルスに収録された際に、大塚は笠井潔・加藤典洋・東浩紀の3人に、巻末の批評を依頼している。
このうち、笠井潔の解説が巻末についた『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』(講談社ノベルス、2000.3)には、法月綸太郎と清涼院流水による帯文がついている。しかし、笠井潔を筆頭に、法月綸太郎と清涼院流水という二人の名前を並べること自体が、大塚による批評である可能性がある。
たとえば、東浩紀著『不可視なものの世界』(朝日新聞社、2000年)に収録された対談・東浩紀VS法月綸太郎「謎解きの世界1」で、法月綸太郎は「10年後に新本格派の延長として清涼院が登場したと整理されることには、やはり抵抗感があるんですよ。」とし「清涼院ではなく、むしろ麻耶雄高の小説に戻って、もう一度考え直したほうが生産的ではないかという気がします。」(P132)と語っている。(注)

(注)この対談で、東は「竹本健治さんの『匣の中の失楽』をつい先日読んだばかりですが、この作品が70年代の末に発表されたというのはよくわかることですね。作中に描かれるオカルト趣味や神秘主義、独特の衒学的文体、早熟の天才への憧れ。そういったアイテムのすべてが、浅田彰や中沢新一に繋がってゆくニューアカ前夜の雰囲気の裏返しとして読めてしまう。清涼院流水もまた、おそらくは、おそらくは社会的なコンテクストに回収できるでしょう。新本格が八〇年代後半の社会派という意味で、たぶんあれは、九〇年代後半の社会派みたいなものです。」(P134)と語る。こうして、東は「竹本健治→浅田・中沢→清涼院流水」という流れのなかに、清涼院を位 置づけ、清涼院を肯定するのである。東浩紀、最高!!

錯綜するリアル、複数化する自己[12] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)16時01分12秒

法月綸太郎の考え方は、笠井潔の『探偵小説論II 虚空の螺旋』(東京創元社、1998年)のあとがきの見解に沿ったものである。笠井はそこで「一方では探偵小説的構築の抑圧性に直面 し、苦悩に満ちて絶句する法月綸太郎が、他方には探偵小説形式を気楽に消費するに過ぎない、清涼院流水のような新世代が存在する。」と書いているのである。笠井は清涼院流水の作品を、竹本健治のウロボロス連作に起源を持つ脱コード派(脱格派)の作品であり、探偵小説の中のポストモダニズムにあたると看做しているのである。
では、この法月綸太郎と清涼院流水の名前を、帯の上で並べてみせる大塚の意図とはなにか?
同時発売された『多重人格探偵サイコ 小林洋介の最後の事件』と『多重人格探偵サイコ 西園伸二の憂鬱』の巻末の「あとがき」には、加藤典洋と東浩紀に解説を依頼した意図が書かれている。大塚は次のように書く。「ぼくの小説もどきのテキストがそもそも彼らの批評にふさわしい内実を備えたものだと思い込めるほどぼくは愚かではない。示したかったのは批評というものの所在と水準であり、ミステリー小説における批評の閉じ方はすげーばかみたいと日頃公言している以上、外側の批評に晒される責任はあると感じていたからだ。」
『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』で大塚が、笠井に解説を依頼したのは「ノベルスと批評のクオリティを保ちつつきっちり両者を往復することを二十年近く前からやっている心強い先達」(講談社ノベルス、P229)だからである。しかしながら、大塚は笠井潔に敬意を示しつつ、彼を第一人者とする「ミステリー小説における批評」が閉じており、「すげーばか」な世界だとも思っているのだ。
笠井的パラダイム(法月の批評もこのパラダイムに沿ってなされている)では、清涼院流水はミステリー小説の外部である。しかし、大塚は『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』の帯文を、清涼院に依頼する。清涼院はここで「315315−4649」という駄 洒落を書いている!大塚は、ここでミステリー批評の外部を指し示しているのだろうか。

錯綜するリアル、複数化する自己[13] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)16時02分1秒

この仮説を補強する資料がある。清涼院流水『ジョーカー 涼』(講談社文庫、2000年)における大塚英志による巻末解説である。
大塚によるこの解説の要旨は、以下の通りである。
(1)普通小説のジャンルでは、写生的リアリズムが基調である。この写生的リアリズムは「見たるまま、聞きたるまま」を旨とするが、これは見たり、聞いたりする「私」を発生させる。(このあたりの議論は、柄谷行人の『近代日本文学の起源』を髣髴とさせる。)
(2)探偵小説は論理リアリズムに依拠するが、それは近代の日本語で書かれているという点で、常に齟齬が発生し、実作者はその齟齬をいかに埋めるかという問題を抱えていた。
(3)清涼院は、こうした日本語によるリアリズムの呪縛を断ち切り、新しい現実を記述しようとした。清涼院は「神戸」以降の小説家であり、探偵小説的リアリズムで世界を埋め尽くすことで「神戸」に抗そうとした。(このあたりの議論は、おそらく笠井の大量 死理論を意識している。大量死理論を適用するなら、むしろ評価すべきではないか、ということである。また、清涼院が「ミステリー小説における批評」という「すげーばか」な閉じた視点から見ることの出来ない新しい現実に直面 した作家であることも指し示そうとしているのだ。この新しい現実は、虚構と現実の境界が失われるような事態である。)
こうした点を考慮すると『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』の帯文において法月と清涼院の名を並べてみせたのは、大塚によるアイロニーに満ちた批評であったと判断しても、穿ちすぎではないと考える。

新刊情報 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月16日(金)16時23分52秒

竹本健治著(大内史夫解説)『トランプ殺人事件』(創元推理文庫)8/下旬、672円、ISBN4488443036

http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page027.html


懐疑的リアリズムの見地から(1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時36分47秒


 はらぴょんさま


『空の青み』

> 『ヴェイユとドーマルはいかなる対話を交わしたか』は判りませんが、『バタイユがヴェイユをどう見ていたか』は、最近刊行されたばかりのバタイユ『空の青み』(河出文庫)を通 して知ることができます。ヴェイユをモデルとしたとおぼしき女性が登場するのです。

それは興味深いですね。私も河出文庫の海外文学シリーズは買っていて、『空の青み』も買ってありますので、近いうちに読みたいと思います。

> ところで、「笠井潔と<天使>のアポリア」を読まれた方は、私がバタイユ主義者としての笠井を批判していることをご存知だと思います。では、なぜバタイユを読むのでしょうか。
> 笠井潔や浅田彰が問題にしているのは、主に『呪われた部分』や『エロティシズム』といった晩年の理論的な著作ですし、バタイユ自体には彼らの捉えた部分からはみ出たもっと錯綜した世界があるのではないか、と思うからです。

これは当然あると思います。例えば、私は、笠井潔の思想には、はらぴょんさんによる笠井思想の要約からはみ出す部分が多々ある、と考えています。
ある思想家の思想についての後の者の要約というものは、おおむね「細部の切り捨て」によって、かなり恣意的にわかりやすく「図式化」されたものに違いない、と私は考えます。それは、ある種の「歴史」的記述だと言えるかも知れません。

> また、評論と小説のちがいもあります。評論は、自分の曖昧な部分を詰めてゆき、クリアにするという方向で書かれます。読み手は、これを○か、×か、受け入れられるか、否かで捉えます。しかし、小説はどうも書き手自体がよくわからなくて、クリアでないから書いて表に出すということがあるようです。読み手は、これを多義的に捉えることが出来ます。必ずしも作者と同意見でなくてもよいわけです。

これはどうでしょうか? 

> 評論は、自分の曖昧な部分を詰めてゆき、クリアにするという方向で書かれます。

とおっしゃいますが、それは一般論というか、一般的な「評論のイメージ」であって、『自分の曖昧な部分を詰めて』いけば、よけいに曖昧なものになるというのは、しばしばあることなのではないでしょうか。

さっきも書きましたとおり、『自分の曖昧な部分』つまり、明瞭にとらえがたい「細部」を、「ノイズ」として『切り捨て』「切り詰め」ていけば、それはたしかに『クリアにするという方向』になるとは思います。でも、それが「評論」の方法だとは言えない。
つまり『自分の曖昧な部分を詰めて』ゆくことと『クリアにするという方向』とは必ずしも一致しない、と私は思います。

> バタイユの文学作品や「無神学大全」には、晩年の整然とした体系とは異なる錯綜とした魅力があります。これは単純に(スマートに)「弁証法を廃滅する反弁証法」だとか「構造とその外部の弁証法」だとかの言葉に収まりきらない豊饒な世界を形作っています。

ですから、バタイユの『晩年の整然とした体系』という言葉を、本当に真にうけて良いのでしょうか。それは所詮、誰かの「要約」のなのではないでしょうか。もちろん、私はバタイユの思想を詳しくは知りませんが、バタイユの思想が『単純に(スマートに)「弁証法を廃滅する反弁証法」だとか「構造とその外部の弁証法」だとかの言葉に収まりきらない豊饒な世界を形作っています。』ということなら、むしろ『晩年の整然とした体系』という理解(要約)の方を疑うべきなのではないでしょうか。





( 以下は「懐疑的リアリズムの見地から(2)」につづく)

懐疑的リアリズムの見地から(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時37分58秒


錯綜するリアル、複数化する自己[1]〜[5]

これは『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)を読んでからの方がいいようですね。


近況

> 奈須きのこの最新作は『DDD JtheE.』(『ファウスト』Vol.3に掲載)。

> 二作目が、真価が問われる時ですよね。彼の場合、特に。

奈須きのこって男性なんですか。でも、どっちにしろ雑誌掲載を読むほど、評価できそうにはないという予感が……。


流通 形態の変容

> ところで、『ファウスト』は、一般の書店よりも、以下のような同人誌やアニメ・ゲームがメインの店に、多く山積みにされている。大手書店と比較しても、その量 は格段の差だ。(ちなみに『空の境界』は今まで扱った商品の中で一番売れたとのポスターが、現在店舗の中に貼られている。)
>  http://www.toranoana.co.jp/

なるほど。

>  ということは、『ファウスト』に載っているような小説(ライト・ノベル、キャラクター小説、ゼロの波)については、流通 の形態そのものが違って来ていることを意味する。

というよりも、『ファウスト』に載っているような小説(ライト・ノベル、キャラクター小説、ゼロの波)については、もともと「そっち」のものだったということではないでしょうか? 「そっち」のものが「こっち」にあるから『違って』見えるということにはなりませんか?

つまり「スポーツマン」の中に「オタク」が一人はいってきたとか、逆に「オタク」の中に「スポーツマン」が一人はいってきたとか。そこだけみると「おお、新世代!」とか思うかも知れないけど、じつは昔から別 の場所でそれぞれに生きてきた者どうしだったとか?





( 以下は「懐疑的リアリズムの見地から(3)」につづく)

懐疑的リアリズムの見地から(3) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時40分50秒


『DDD JtheE.』について

> 奈須きのこ『DDD JtheE.』(『ファウスト』Vol.3に掲載)読了。
> 徐々に、この作家の特徴が判って来た。
> 前回『空の境界』で、私は「認めろ荒耶。私達は誰よりも弱いから、魔術師なんていう超越者である事を選んだんだ」(講談社ノベルス、P470)という台詞に注目したが、今度も「何が神さまに選ばれた、だ。責任を他所に押し付けるな。おまえは選ばれたんじゃなくて、自分から進んでいっただけだろう。目も当てられねえぐらい弱いから、悪魔憑きなんてものに逃げたんだよ。」(『ファウスト』Vol.3 426ページ)という台詞がある。ここが、奈須きのこの作家としての核心部分なのだ。
> 魔術師や悪魔憑き……になろうとする者が、隠蔽している弱さの指摘。これは、ニーチェのルサンチマン批判に通 ずる指摘であり、おそらくは『バイバイ、エンジェル』から受けついだ部分と思われる。
> この作家が、自分の主題を持っているということがよく判った。少なくとも、この作家は単なる流行で終わらない、そのことは断定できる。

この『断定』は、早計に過ぎないでしょうか。なぜなら、ご指摘の奈須きのこの『主題』とは、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』のそれそのままであり、この程度のことでは「影響をうけている」とは言えても『自分の主題を持っている』とまでは言えないと思うからです。

じっさい、先行作品の影響で、このようなセリフを自作「小説」中に書きつけることは、ぜんぜん難しいことではありません。つまり、「ヒーローごっこ」なら子供にでもできる。けれども、自身にその「ヒーロー性」を科して、その深みから語ることは、決して容易なことではないですし、またそのレベルにいたらない限り、それは「借り物」であり「猿真似」ではあっても、決して『自分の主題』を語ったとは言えないからです。

例えば、私は前に、はらぴょんさんの評論には『貴方自身がいない』と批判しましたよね。それは、例えばここでの、

> 魔術師や悪魔憑き……になろうとする者が、隠蔽している弱さの指摘。これは、ニーチェのルサンチマン批判に通 ずる指摘であり、おそらくは『バイバイ、エンジェル』から受けついだ部分と思われる。
> この作家が、自分の主題を持っているということがよく判った。少なくとも、この作家は単なる流行で終わらない、そのことは断定できる。

という軽率な断定にも裏づけられます。

つまり『魔術師や悪魔憑き……になろうとする者が、隠蔽している弱さ』とは、「著名な思想家の権威」や「最先端の思想の言葉の権威」に寄り掛かって『ニーチェのルサンチマン批判に通 ずる指摘』などと「衒学趣味」で語ってしまう、はらぴょんさんの『弱さ』そのものなのに、それに少しも気づいたふうもなく、こうした『指摘』行為を簡単に肯定評価してしまっているところに、私は、はらぴょんさんの『弱さ』とともに、それと同種の『弱さ』の可能性を、奈須きのこにも感じざるをえないのです。

また、はらぴょんさんと奈須きのこの共通点を考えるうえで、

> あと、語り口の特徴も判って来た。俯瞰的な視線で、「……は、所詮……にすぎない。」というふうに断定形で語る部分がある。この部分は、心地よく感じられる。

というご感想はとても興味深いのですが、これは論争の場でなら、容易に攻め込まれる弱点ともなりうるでしょう。はらぴょんさんなら、こうした場合、笠井潔がどこにどう攻め込むかは、容易に想像できるでしょう?(笑)

> 訂正表
> 謹んでお詫びとともに、訂正いたします。
> 錯綜するリアル、複数化する自己[4]
> 上から四行目 (誤)魔チルド → (正)マチルド

討論・笠井潔をめぐっての方では、この訂正表を残した上で、原文の方も訂正しておきたいと思います。





( 以下は「懐疑的リアリズムの見地から(4)」につづく)

懐疑的リアリズムの見地から(4) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時42分54秒


80年生まれ以降……だそうです。

> 「ゼロの波」は、ゼロ年代デビューの新人作家のことです。
> ちなみに、新人発掘のための「ファウスト賞」は、80年生まれ以降でないと応募資格がないそうです。

私がそこに感じるのは、今さらながらの「新しいもの信仰」です。最先端を行っているのが、楽しくてならないのでしょうね、その編集者は。

ですが、まあ、その気持ちはよくわかるし、それが売り上げに結びつくのであれば、それはそれで結構なことだとは思います。



水泳的思考(推定)

> 空中浮揚的思考では、エゴの肥大の帰結により、人間を超えたものを目指すにいたる。

前述の『こうした場合、笠井潔がどこにどう攻め込むか』の答えが、これですね(笑)。

はらぴょんさんが『人間を超えたものを目指すにいたる』とは思いませんが、そうした「神の高み」に憧れていることは間違いありません。そして、この点を攻撃しようと思えば、これを裏返して、はらぴょんさんが「日常生活(という地べた)」を嫌悪しているという点を突けばいい、ということになります。つまり、「足元の定まらない思想」として、足元を掬うという攻撃です。

ですが、攻撃を恐れるあまり、そこから目をそらすのではなく、敵の攻撃を想定することで、逆に自分の弱点を鍛えられるのなら、それはとても喜ばしいことでしょう。笠井潔の攻撃ごときは、容易に跳ね返せるだけの「強さ」を持っておいてしかるべきですよ。批判するのであればね(笑)。





( 以下は「懐疑的リアリズムの見地から(5)」につづく)

懐疑的リアリズムの見地から(5) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時44分54秒


錯綜するリアル、複数化する自己[6]〜[13]

大塚英志の『多重人格探偵サイコ』そのものは読んでいませんが、大塚の近著はいくつか読んでいるので、おおむね雰囲気はつかんでいるということで、感想を書かせていただきます。

まず、

こうした点を考慮すると『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』の帯文において法月と清涼院の名を並べてみせたのは、大塚によるアイロニーに満ちた批評であったと判断しても、穿ちすぎではないと考える。

という結論は、『穿ちすぎではない』どころか、間違いのないところだと思います。

東浩紀著『不可視なものの世界』(朝日新聞社、2000年)に収録された対談・東浩紀VS法月綸太郎「謎解きの世界1」で、法月綸太郎は「10年後に新本格派の延長として清涼院が登場したと整理されることには、やはり抵抗感があるんですよ。」とし「清涼院ではなく、むしろ麻耶雄高の小説に戻って、もう一度考え直したほうが生産的ではないかという気がします。」(P132)と語っている。

法月綸太郎の考え方は、笠井潔の『探偵小説論II 虚空の螺旋』(東京創元社、1998年)のあとがきの見解に沿ったものである。笠井はそこで「一方では探偵小説的構築の抑圧性に直面 し、苦悩に満ちて絶句する法月綸太郎が、他方には探偵小説形式を気楽に消費するに過ぎない、清涼院流水のような新世代が存在する。」と書いているのである。笠井は清涼院流水の作品を、竹本健治のウロボロス連作に起源を持つ脱コード派(脱格派)の作品であり、探偵小説の中のポストモダニズムにあたると看做しているのである。

この「師弟コンビの掛け合い漫才」には、本当に笑わせてもらえます(笑)。

「新本格」の歴史とともに、ほぼ15年、ミステリファンをやってきた「事情通」として言わせてもらいますと、業界では、法月綸太郎の芝居がかった『苦悩』など、笑って見物する類のギャグでしかありません。そして、それを誰よりも早くから嘲笑していたのが、他でもない、法月綸太郎の後輩である、アイロニカルな本格ミステリ作家、麻耶雄嵩なのです(笑)。(※ 『名探偵 木更津悠也』等参照)





( 以下は「懐疑的リアリズムの見地から(6)」につづく)

懐疑的リアリズムの見地から(6) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時46分49秒


では、この法月綸太郎と清涼院流水の名前を、帯の上で並べてみせる大塚の意図とはなにか?
> 同時発売された『多重人格探偵サイコ 小林洋介の最後の事件』と『多重人格探偵サイコ 西園伸二の憂鬱』の巻末の「あとがき」には、加藤典洋と東浩紀に解説を依頼した意図が書かれている。大塚は次のように書く。「ぼくの小説もどきのテキストがそもそも彼らの批評にふさわしい内実を備えたものだと思い込めるほどぼくは愚かではない。示したかったのは批評というものの所在と水準であり、ミステリー小説における批評の閉じ方はすげーばかみたいと日頃公言している以上、外側の批評に晒される責任はあると感じていたからだ。」

『ミステリー小説における批評の閉じ方はすげーばかみたい』というのは、まったく同感。と言いますか、それを最初に、笠井潔と法月綸太郎にぶつけたのが、この私です(笑)。

「創元推理」評論賞(第2回)で落された応募作ですが、そのタイトルも「虚無への測鉛――ミステリ批評の地平」。

手元に原文がないので、詳しい内容は忘れましたが、要するに、その当時、笠井潔は、ミステリ界における旧来の「書評的評論」を攻撃して、「評論らしい評論」の必要性を訴えていたんですね。で、その「評論らしい評論」とはどういうものなのかというと、それは笠井潔自身の評論であるとか、法月綸太郎が当時やたら柄谷行人を引用しながら書いていたような、衒学趣味のいかにもはったりがましい、でも楽しい「鬼面 (人を脅かす)的トンデモ評論」のことだったんです(笑)。

で、私は前述の論文で「それはちょっと違うだろう」ということを書いたんですね。たしかに従来の「書評的評論」ではものたりない。しかし、ならば「笠井潔」的評論が正しいのかと言えば、ことはそんな単純なものではない。当然のことながら、批評の本質は「形式」にあるのではないのだから、「ミステリ批評」を豊かなものにしようと言うのなら、笠井潔のような主張は筋違いである。批評の「深み」とは、そんなところにはないはずだ、というのが拙論の主旨だったと思います。

『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』で大塚が、笠井に解説を依頼したのは「ノベルスと批評のクオリティを保ちつつきっちり両者を往復することを二十年近く前からやっている心強い先達」(講談社ノベルス、P229)だからである。しかしながら、大塚は笠井潔に敬意を示しつつ、彼を第一人者とする「ミステリー小説における批評」が閉じており、「すげーばか」な世界だとも思っているのだ。

そりゃまあ、笠井潔本人まで『すげーばか』だと正直に言ってしまっては、笠井をじっくり弄れないでしょう。このへんは編集出身の狡猾さでなんでしょうね。「先生」と煽てとけば、なんとか操れると…(笑)。

笠井的パラダイム(法月の批評もこのパラダイムに沿ってなされている)では、清涼院流水はミステリー小説の外部である。しかし、大塚は『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』の帯文を、清涼院に依頼する。清涼院はここで「315315−4649」という駄 洒落を書いている!大塚は、ここでミステリー批評の外部を指し示しているのだろうか。

ミステリファンとしては『大塚は、ここでミステリー批評の外部を指し示している』とは書いてほしくありません。もっと正確に「笠井潔的・ミステリー批評の外部を指し示している」と書いてほしいですね(笑)。





( 以下は「懐疑的リアリズムの見地から(7)」につづく)

懐疑的リアリズムの見地から(7) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)12時57分47秒


この対談で、東は「竹本健治さんの『匣の中の失楽』をつい先日読んだばかりですが、この作品が70年代の末に発表されたというのはよくわかることですね。作中に描かれるオカルト趣味や神秘主義、独特の衒学的文体、早熟の天才への憧れ。そういったアイテムのすべてが、浅田彰や中沢新一に繋がってゆくニューアカ前夜の雰囲気の裏返しとして読めてしまう。清涼院流水もまた、おそらくは、おそらくは社会的なコンテクストに回収できるでしょう。新本格が八〇年代後半の社会派という意味で、たぶんあれは、九〇年代後半の社会派みたいなものです。」(P134)と語る。こうして、東は「竹本健治→浅田・中沢→清涼院流水」という流れのなかに、清涼院を位 置づけ、清涼院を肯定するのである。東浩紀、最高!!

でも、私は、はらぴょんさんの、こういう喜び方には賛同できません。東浩紀がここで語っているのは、清涼院流水の出現が「時代の要請」でもあれば「時代的(社会的)必然」でもある、ということでしかないと思います。つまり、清涼院流水を「継子」扱いにしたがる笠井潔的・本格ミステリ主流派(本格ミステリ作家クラブ)的評価は、ジコチューの偏狭な自己慰撫的評価あって、清涼院流水という存在の意味を読み過っている、ということなんではないでしょうか。

つまり、清涼院流水を「好み」に合わないからといって「徒花」扱いにするのは間違いなのかも知れませんが、しかし、「清涼院流水の存在意義」がそのまま「清涼院流水の作品評価」に直結しうるかどうかは、いささか疑わしい。つまり、エポックメイキングとしての価値はあるとしても、それが時代を超えた普遍的な価値まで有するものなのか、ということですね。――実際、新しい時代の寵児でありながら、時代とともに消えていく人の方が多いんですから、存在意義と作品の価値とは同じではないと思いますよ。


新刊情報

> 竹本健治著(大内史夫解説)『トランプ殺人事件』(創元推理文庫)8/下旬、672円、ISBN4488443036 

じっさい、エポックメイキング性というのは、作品の「価値(魅力)」の一部に過ぎないし、「美」よりも「意義」に価値をおきたがるのは、いかにも評論家的な嗜好なのではないでしょうか。

例えば、この『トランプ殺人事件』もそうですが、ミステリの「美」の大きな要素のひとつは、「無用無意味の美」なんだと思います。つまり「こんなことにここまで凝るのか!」っていう部分(稚気)の美しさが、ミステリという「拵え物」には確かにあると思うんです。





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「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月17日(土)14時20分22秒


(前略)もとより、『ヴァンパイヤー戦争』が2刷を見たというのは、暑い最中を営業に東奔西走してくれたプロジェクトチームの諸君のおかげであります。つまり、ここだけの話で言わせてもらいますと、これは作者の力量 の賜物ではない。作者の奈須きのこ先生の力だけでは、とてもここまで売れはしなかったであろうということです。――え? 作者は笠井潔ですか? ああ、そうでしたそうでした。奈須きのこ先生は『空の境界』の作者であり、我らが『ヴァンパイヤー戦争』の作者は、『アイドルは名探偵』や『黙示録殺人事件』『薔薇族の女』など名探偵 矢吹 丈が活躍する傑作ミステリシリーズを書いた、笠井潔先生でした。……みなさん、どうかしましたか? ま、ともあれ、奈須きのこ先生のおかげとは言え、2刷をみたのは喜ばしいかぎりです。正直なところ、初刷で終っていたら、私は笠井先生に雪の八ヶ岳から蹴落とされたことでしょう(笑)。

しかしまた、すでに月は切り替わって、すでに書店では、今月の新刊によって、先月分になる『ヴァンパイヤー戦争』の1巻2巻が、棚の端へ押しやられるという状況があります。もちろん、出版社が『ヴァンパイヤー戦争』を毎月刊行してくれれば、そのまま忘れさられるという心配もないのですが、今のところはせいぜい隔月刊行ということで、奈須きのこ先生のデビュー作と抱き合わせで売り上げをあげた、最初の2巻と同じだけの売り上げを、第3巻以降に見込むのは相当に困難なことだと申せましょう。回転の早い出版業界では、いくら出足がよくても、弾を次々とくり出さなければ、すぐに失速してしまうからです。

ですから、みなさんには、2刷したということに安心をすることなく、危機感をもって、今後の営業活動になお一層の努力を期待したい。前回も申しましたとおり、我々、プロジェクトチーム有志には、もっともっと「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」を盛り上げていく使命と責任があります。いいですか、繰り返しますが、売れれば勝ちです! 数字がすべてです! 法律に反しないのなら、手段を選ぶ必要はありません。みなさん、わかりましたね!


えー、最後に、Nくんの営業努力をしめすエピソードを、ここでみなさんにご紹介しておきたいと思います。Nくんは営業で書店を回った際、かならず置かれている『ヴァンパイヤー戦争』を平台にびっしりと広げて並べてくるんだそうです。つまり、積んであるものを他の本の上に重ねて、たくさん置かれているように、つまり人気商品であるかのように、見せ掛けるんですね。もちろん、そんなことをしたって、書店員にみつかれば、すぐにもとに戻されてしまうわけですが、Nくんはたとえ30分間でもいいから、そういう状態をつくりたいと思い、こまめにそうした作業を繰り返しているんです。――わかりますか? この心意気ですよ。「そんなことしても無駄 だ。売れるものは売れるし、売れないものは売れない」などとしたり顔でいう輩もおりますが、現に我々は、角川文庫でまったく売れなかった『ヴァンパイヤー戦争』が、パラサイト商法によって、一ヶ月ほどで2刷したという実績を見ているんです。つまり、中味は問題ではない。見た目なんですよ。いまさら言うまでもないことですが、若い読者は笠井潔なんて、ぜんぜん知らないんだから、見た目で勝負すればいいんです。ポイントはそこです。では、みなさん 、暑い最中ですが、気合いを入れなおしての営業を、よろしくお願いいたします!



(「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より、担当チーフの話)





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「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月17日(土)21時27分37秒

『ヴァンバイヤー戦争』が、かつてK川文庫から刊行されたとき、笠井大先生は第11巻のあとかきで、「新書版では主人公の青春遍歴時代を描いた「九鬼鴻三郎の冒険」シリーズが、『ヴァンバイヤー血風録』『ヴァンバイヤー風雲録』『ヴァンバイヤー疾風録』と三冊刊行されているが、それも近い将来には文庫版で読めるようになる予定だ。」と書かれているのですが、この三冊は21世紀になっても出る気配がありません。つまり、K川書店の当初のもくろみが外れたために、この計画はお蔵入りになり、笠井大先生との約束が反故になったわけです。
いいですか。わがK談社は、K川書店のように笠井大先生に大恥をかかせてはならないのです。皆さんもご存知の通 り、当社の主力商品はベストセラーになる中間小説を別にすれば、「新本格」が安定した売り上げが期待できる商品といえるでしょう。わが社のO編集長は、新事業開発部で「新伝綺」を次の主力商品にしようと日夜奮闘されていますが、当面 「新本格」がメインでありつづけると考えられます。
ところが、笠井大先生は、一般の知名度はいまひとつですが、本格ミステリ作家クラブと探偵小説研究会を創設された、それは、それは、すご〜くえら〜い大せんせーなのであります。仮にK川書店のように大せんせーに大恥をかかせることがあったら、「新本格派」の作家が全員別 の出版社に鞍替えすることになるやも知れません。そんなことになったら、君、即解雇ですよ。解雇!
だから、K川文庫の二の舞は絶対に許されないのです。第二版が出たということで油断してはなりません。われわれの成功のバロメーターは「九鬼鴻三郎の冒険」シリーズ全三巻まで刊行することです。K川の限界を超えるのです。そのためには、K川文庫の失敗を、徹底解明する必要があります。敵の敗北の原因を知り、同じ轍を踏まないことが、営業の第一歩なのですから。
K川文庫は『ヴァンバイヤー戦争』を、東映Vアニメ「ヴァンバイヤー戦争」とのタイアップで売ろうとしていました。これは、K川商法らしいメディア・ミックス戦略ですが、誤算がありました。これは小説を売るためのOVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)です。OVAのノベライズではないのです。メインが小説にあり、サブがアニメ ……これでは弱いです。これでは勝てない。
一方、今回のK談社のTYPE-MOONの武内崇先生のイラストという武器があります。第一弾は、TYPE-MOONの奈須きのこ先生の『空の境界』という援護射撃がありました。このノベル・ゲーム業界の若者たちの神々を、笠井大先生の味方につけたことで、『ヴァンバイヤー戦争』の1巻・2巻は好調な売れ行きを示しました。
われわれの営業戦略は、メインにアニメやゲーム、サブに小説を置いたことです。これは革命的な転換です。いいですか、人は『ヴァンバイヤー戦争』という小説を買うのではなく、『ヴァンバイヤー戦争』のパッケージを買うのです。いいですか、皆さんは小説を売るのではない。武内崇先生のイラストを売るのです。なぜ、小説を付けるかといえば、付けないと書店で取り扱ってくれないからです。
玩具でも、1、2個のラムネをつければ、コンビニで売れます。CDだって、写真集をつけ、CDブックに仕立てれば、書店でも売れるのです。
さて、奈須きのこ先生からの次の援護射撃までには、まだ時間がかかりそうです。最近、新作を書かれていますが、ノベルスの厚さには、少し足りないようです。
そこで、次の戦略です。『ヴァンバイヤー戦争』を、K川スニーカー文庫や、F見ファンタジー文庫、電撃文庫の山積みの中に、紛れ込ませるのです。『ヴァンバイヤー戦争』をあたかもキャラクター小説であるかのように偽装して売るのです。大丈夫、武内崇先生のイラストですから、おたくの眼には、ステラがイリヤスフィール・フォン・アインツベルン、通 称イリヤに見えてきますよ。
これでわれわれも儲かるし、笠井大先生の機嫌も良くなる。ついでに、「奈須きのこ先生のイリヤってキャラは、Il y aから来てるんでしょうか、笠井先生の影響ですかね。」なんていえば、ホクホクになりますよ。なにしろ、大先生は『イリヤの空、UFOの夏』ですら、レヴィナスかなぁ、なんて首をひねるくらいですから。そこが可愛いといえば、可愛いのですが。ケケケ。

「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より(4) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月18日(日)00時33分56秒


(前略)さて、急遽みなさんに集まってもらった理由は他でもありません。このプロジェクトチーム検討会の内容が、外部に洩れているという事実が判明したのです。すでにその内容が「笠井潔葬送派」を名乗る無名の輩によって、外に洩らされただけではなく、そのパロディーを書いて、我々や笠井潔先生を揶揄するなどといった小賢しいまねまで行われているらしい。もちろん、とるに足らぬ 相手ではありますが、なにしろ商売と笠井潔先生の名誉とにかかわることですから、我々も世間に誤解を招くような発言は厳に謹むべきでしょう。

ちなみに、どうやら相手は、我々プロジェクトチームが、講談社内に組織されたものと勘違いしているようです。つまりこれは、情報の漏洩が、ここにいるメンバーによってなされたものではないということを意味するものだと言えましょうし、私も諸君を信じ、そのことを確信しております。しかしまた、これ以上の情報の漏洩は断じて許されませんから、今後の検討会においては、申し訳ないが、諸君にも所持品検査に応じてもらわなくてはなりません。
たかが娯楽小説の営業検討会にそこまでするのかという不満もあろうかと思いますが、笠井先生は、新左翼セクトの理論家として学生たちを指導した後、娯楽作家に転身したという経歴の持ち主ですから、かつての革命闘争の現場で血を流した闘士たちからは、かなりの怨みを買っているとしても、なんら不思議はありません。もちろん今では、左翼の内ゲバなんてことも遠い歴史的な出来事となってしまいましたが、慎重には慎重を期すべきでしょう。

また、昔とった杵柄で、文壇での笠井先生の主な活動が、現在でも、オルグ的な色彩 を強く有している以上、それに拒絶反応をしめす者も少なくはない。つまり、文壇内にも笠井先生に反感を持つ敵がいるという可能性は大いにある。とすれば、我々はそうした勢力からも足を救われないよう、ますます結束を固めていかねばならないのであります。

そんなわけで、今日ここで私が諸君に提案したいのは、このプロジェクトチームを、単なる営業促進チームに止めるのではなく、笠井潔先生の思想にもとづく出版革命グループへと発展的に鍛え上げていく、というなのことです。我々は単なる「商売人」ではなく、『文の商人』という笠井潔の思想を下支えする、現場の闘士でなくてはならない。心から笠井潔先生に帰依する闘士でなければならない。そうでなければ、『ヴァンパイヤー戦争』の販売促進という活動の彼方にある、我々の崇高な目的が、真に達成されることはないと考えますが、異論のある人はいますか? けっこう。次回からこの検討会は、笠井先生の思想を学んでいく、実践的な勉強会ともなりますので、忙しい営業の最中ではありますが、しっかり先生のテキストを予習をしてきていただきたい。――私は、前任の担当チーフとはちがって、売り上げ実績だけを問題にするものではありません。その代わりに、諸君の意欲と忠誠心を厳しく問わせていただきますので、その覚悟で、これからの活動に臨んでいただきたいと思います。


(「『ヴァンパイヤー戦争』販売促進キャンペーン」プロジェクトチーム検討会より、新任担当チーフの話)





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奈須きのこの文章力(1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月18日(日)15時25分4秒


昨夜から『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)を読みはじめたのだが、いきなり「文章」で引っ掛かってしまった。笠井潔の(色子、じゃなくて秘蔵っ子……でもないか……。ともかく、笠井潔の)息のかかった新人作家の作品だから、ことさら評価が厳しくなった、というわけではない。むしろ奈須きのこは、笠井潔に見込まれ巻き込まれた人なのだろうから「彼自身には、何の罪もない」と私は考える。だから、奈須に厳しくあたろうなどという気持ちは微塵もない。……なのに、いきなり文章に、ひっかかってしまった。
有り体にいえば、文章が下手なのである。いかにも同人作品らしく、文章が生硬で、読んでいてひどく抵抗を覚えてしまう。はたして、上下巻を読み通 せるかどうか、不安になってくるほどだ。

奈須きのこ(『空の境界』)の文章について、賛否両論のあることは、既にお伝えしてある(暗い波及効果 )。その際、私は、

講談社ホームページ試読本のページや、amazon.co.jp空の境界(上)amazon.co.jp空の境界(下)などのページをちょっと覗いてみた範囲で言いますと、『空の境界』の評価は「キャラが立っていて、独自の世界観があり、とても素晴らしい」という意見と、「ペダンチックな作風で、文章が読みにくく、私には合わなかった」という意見の、二つの立場に大別 できるように思います。
  
「ペダンチックな作風で、文章が読みにくい」という評価は、奈須が笠井潔や竹本健治のファンであることを考えれば、容易に納得のいくことです。なぜなら、笠井や竹本自体が、その初期には「悪文」呼ばわりされることも、ままあったからです。したがって、奈須の文章が読みにくいという意見は、むしろ読者の方が『たぶん読書慣れしていないための感想だろう。』とする擁護論も、あながち外れてはいないと思われます。エンターティンメントしか読まない読者にとっての「良い文章」とは、まず何よりも「読みやすい(リーダビリティーの高い)」文章ということになるのでしょうが、ことはそんなに単純ではありません。個性の強い、一般 には「読みにくい(悪文)」とされるであろう文体だからこそ、開示できる世界というものも確実にあり、それゆえに文学の世界は、奥深くもあるのですからね。』

と書いて、(断定は避けたものの)どちらかと言えば、奈須を擁護する側に立っての文章論を展開した。

しかし、今回『空の境界』の冒頭を10ページほど読んでみて、私の意見はハッキリと「奈須きのこは、文章が下手である」という立場に落ち着いた。
もちろん、これは「文章」にかぎった評価であり、『空の境界』という「作品の総合的な評価」でもなければ、奈須きのこという「作家の才能や将来性」まで云々するものでもない。文章が下手だとは言っても、先般 、『葉桜の季節に君を想うということ』で日本推理作家協会賞を受賞した歌野晶午の、デビュー作(『長い家の殺人』)当時に比べれば、数段マシだとも言える。歌野がその後、目を見張るような成長的変貌を遂げたように、奈須きのこも今後、小説を書き続けていく中で、文章もこなれて、次第に上達していくのは、ほぼ間違いのないところであろう。
だが、現時点での客観的評価としては「奈須きのこは、文章が下手である」としか言いようがないというのも、偽らざる事実なのである。

もちろん、「うまいか下手か」ということを、主観的に語っていても切りがない。そこで、以下に具体例を示して、説明を加えていきたいと思う。





( 以下は「奈須きのこの文章力(2)」につづく)


奈須きのこの文章力(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月18日(日)15時26分4秒


                  ○


(1) 投身自殺に行き会わせた体験を語る、作中人物 黒桐幹也の語り(一人称の短文)が、第1章第1節の前に掲げられている(P8)。
「私」がそれに行き会わせた状況と、その変死体の状況を叙した後、

  その一連の映像は、古びた頁に挟まれ、
  書に取り込まれて平面になった押し花を幻想させた。

と、その変死体の印象を記している。

平たく言えば、地面に叩きつけられて、ぺしゃんこになった死体が「古い本の頁に挟まれた、押し花のように見えた」という意味なのだが、この悪凝りした文章は、あまりに幼なすぎて、「いかにも同人誌的」という印象しか、私にはあたえない。特に『古びた頁に挟まれ』というのは、たぶん「古びた本の頁に挟まれ」という意味だろうから、「古びた」という形容詞のかかる先がおかしい。またここで「本」とか「書物」と書かず、わざわざ『書』と書いているのも、「書画骨董」の「書」を連想させるだけで、不適当であろう。さらに、単に変死体が『押し花』を「連想させた」だけなのに『幻想させた』と表現するのも、大仰すぎて滑稽ですらある。



(2) 第1章第1節の冒頭部である(P9)。

『 八月になったばかりの夜、事前に連絡もなく幹也がやってきた。
「こんばんは。相変わらず気怠そうだね、式」
 突然の来訪者は玄関口に立って、笑顔でつまらない挨拶をする。
「実はね、ここに来る前に事故に出くわしたんだ。ビルの屋上からさ、女の子が飛び降り自殺。最近多いって聞いてたけど実物に遭遇するとは思わなかったな。―――はいこれ、冷蔵庫」』


まず『八月になったばかりの夜』という表現の意味するところは「八月になったばかりの(とある日の)夜」という意味なのだろう。この省略表現は、間違いとまでは言えないものの、「夜が、八月(や九月に)になる」かの印象を与えるので、あまり適切な省略だとは言えない。そのせいで、文章全体がぎくしゃくした印象を与える結果 となっている。

また、ここでの黒桐幹也のセリフは、本来区切られるべきセリフをひとまとめにしているため、とても「説明的」な印象をあたえる。名探偵の謎とき(のセリフ)などのように、場合によっては、「説明的」なセリフも不都合ではないが、この程度の日常会話(雑談)で、「説明的」な印象を与えるのは、小説のセリフ文(科白)として失敗している、と言っても過言ではなかろう。



(3) 黒桐幹也という人物を紹介した、両儀式(人物名)の一人称の語り(P10)。

『 数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代の若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。』


ここでも形容の対象が、曖昧にしか指示されていない。つまり『数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅する』というのが『現代の若者』のように読めてしまう。作者は『数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅する』という言葉を『現代』にかかる形容としているつもりなのだろうが、とてもそのようには読めない。作者の意図を正確に反映しようと思えば、この文章は、

「数々の流行が次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代に生きる若者の中で、退屈なまでに学生という形を維持し続けた貴重品だ。」

とでも、すべきであろう。





( 以下は「奈須きのこの文章力(3)」につづく)

奈須きのこの文章力(3) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月18日(日)15時27分7秒



(4) 「飛び降り自殺」についての会話(P12)。

『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
 意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』


二人が、何を議論しているのか、すぐには呑み込めなかった。が、要するに作者は、『事故』という言葉の意味を知らないのである。それを知らないでいて、『飛び降り自殺』は『事故』か否かという不毛な議論を、作中人物たちにさせているのである。あたかも、その議論が哲学的に奥深い意味でも有しているかのように、思わせぶりに。

「事故」とは『(多く「ことゆえなく」の形で)さしさわり』のことである。つまり、「故なく、生じた差し障り」のことなのだから、『飛び降り自殺』は議論の余地なく『事故』ではない。『自殺』には曖昧なものではあれ「故意」が介在するからで、それは本人の意志にかかわらない、「事故」や「過失死」や「病死」とは、明確に区別 される。

作者は、『飛び下り自殺』という行為の「故意の有無」の部分と『高い所から落ちる』という現象面 を切り離して、前者を「非・事故」的、後者を「事故」的であると評価しているので『他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね』などという意味不明な言葉を書きつけてしまうのである。

しかし、言うまでもなく、『飛び下り自殺』は、『他殺』ではなく「自殺」であり、『事故死』ではなく「自殺死」である。『高い所から落ち』ようが、首をくくろうが、それは「(自殺死の)手段」の違い(バリエーション)に過ぎない。
したがって『他殺でもなく事故死でもない』というのは『曖昧』でも何でもない。『曖昧』なのは作者の「日本語」理解なのである。



(5) 第1章第2節の冒頭部(P14)。

『 八月も終りにさしかかった夜、散歩をする事にした。』


この文章のぎこちなさも、これまでと同様「主語の曖昧さ」によるものである。普通 に読める文章にしようと思えば、

「 八月も終りにさしかかった、とある夜、私は散歩に出ることにした。」

ということになろう。この書き換えで、原文の魅力を損なったとは思えない。そもそも原文には、その読みにくさに値するほどの魅力などないと、私は思う。





( 以下は「奈須きのこの文章力(4)」につづく)

奈須きのこの文章力(4) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月18日(日)15時31分39秒


(6) 散歩途上の風景描写(P14)。

『 夏の終わりにしては外気は肌寒い。終電はとっくに過ぎていて、街は静まり返っていた。
 静かで、寒くて、廃れきった、見知らぬ死街のようでもある。』


『死街』というのは「死骸」と「市街」の掛け言葉なのだろうが、そんな「誰も見たことがないもの」の『よう』だと言われても、言葉が意味をなさない。これでは、幼いまでの「思いつきの濫用」としか評価のしようがない。

ついでに言うと、ここは『散歩』のシーンなのだから、『外気は』という主語は無用であり、余計ですらある。さらに言うと、『外気は肌寒い』では「外気は肌寒い(と感じている)」という意味にも取れる。もちろん、正しくは「外気は(私によって)肌寒(く感じられるほど低)い」のである。だから、どうせなら、

「夏の終わりにしては、外気は肌寒く感じられた。」あるいは「夏の終わりにしては、外気は肌寒いくらいだった。」とでもすべきであろう。前者には「私に」が省略され、後者のは「低い」が省略されている。もちろん、最初に指摘したとおり、もっとシンプルに「夏の終わりにしては肌寒い。」で充分である。「夏の終わりにしては外気が肌寒い」でもいい。



(7) 同じく散歩途上の風景描写(P14)。

『 そんな真夜中でも歩けば人と出会った。
  俯いて、ただ早足で進んでいく誰か。
  自販機の前でぼんやりとする誰か。
  コンビニの明かりに集う、幾多もの誰か。』


『幾多もの』などという日本語はない。ここは「幾多の」(人々)で充分。『幾多もの』という表現は、「無限もの」とか「無数もの」という表現と同じで、誤った強調表現である。『幾多』というのは「無限」「無数」などと同じく「数えきれない(計り知れない)ほど」多いという意味だから、その多さを重ねて強調しても無意味なのだ。つまり、無限を何倍しても無限にしかならないということ。「究極の無限」「数えきれないほどの無数」などといった表現が「形容矛盾」であるのと同じことなのである。



以上、わずか10ページほどの中に、おかしな表現が(目立ったものだけでも)こんなにあった。これでは、この先の文章に期待せよという方が無理だろうし、上下巻あわせて850ページにも及ぶ大作を読みとおすのに、不安を覚えるなという方が無理であろう。

前述したように、まだ若い作家だから、文章が下手なのは我慢しよう。それ以外の部分で、小説としての魅力を持っていれば、そこを評価することに吝かではない。しかし、現時点すでに判明したと言ってよい、「(奈須きのこは)文章が下手である」という事実評価を、ここに明記しておく必要はあるだろう。これは、私の予想に反して、「好みの問題」というレベルの話ではなかったのである。――「編集者は、いったい何をしていたのか」と言っておきたい。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


参考までに 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月18日(日)21時02分44秒

・以下のURLは、まだ同人版しかなかった段階での『空の境界』の書評です。
・ちなみに、このサイトはずっと更新が止まっています。サイトの傾向からして、笠井系のようです。

>文章が下手なのは我慢しよう。それ以外の部分で、小説としての魅力を持っていれば、そこを評価することに吝かではない
文章を我慢した後に来る次の壁は、悪役の荒耶が下巻の冒頭であっけなく倒され、そのあと蝶々の話に移るところです。私の場合、そっちのほうがきつかったです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6376/0206-2.html#b8


夏の試練 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月18日(日)22時16分11秒


 はらぴょんさま

> ・以下のURLは、まだ同人版しかなかった段階での『空の境界』の書評です。
> ・ちなみに、このサイトはずっと更新が止まっています。サイトの傾向からして、笠井系のようです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/6376/0206-2.html#b8

ご教示、ありがとうございます。

ちなみに「書評系のミステリサイト」の場合、笠井潔(とその周辺)にゴマを擦っておけば、「探偵小説研究会」や『本格ミステリ・ベスト10』(原書房)への投票に、誘ってもらえる可能性が高くなる、というメリットもあるようです。メジャー願望の強い人には、無視できないところでしょう。

ともあれ、このあたりの人には、面識があるかも知れません(笑)。


> 『空の境界』

> 文章が下手なのは我慢しよう。それ以外の部分で、小説としての魅力を持っていれば、そこを評価することに吝かではない

> 文章を我慢した後に来る次の壁は、悪役の荒耶が下巻の冒頭であっけなく倒され、そのあと蝶々の話に移るところです。私の場合、そっちのほうがきつかったです。

果たして、この夏の試練を乗り越えられるのか、私?(-_-;)





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


表向きは八ヶ岳スキー同好会なんですが 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月19日(月)13時41分2秒

7月20日頃刊行の黒田研一・二階堂黎人共著『永遠の館の殺人』(光文社カッパ・ノベルス)の推薦文は、笠井潔とのこと。
http://www.asahi-net.or.jp/~WL5K-KRD/index.htm
この三人の共通項は、スキーがとりもつ縁のようです。
それにしても、こんな年賀状を黒田研一は笠井潔にも出しているのでしょうか?
http://www.asahi-net.or.jp/~WL5K-KRD/RF.htm

ご確認事項 投稿者:黒猫館館長☆こどものおもちゃ  投稿日: 7月20日(火)02時02分36秒

☆はらぴょんさん・アレクセイさん>

『討論・笠井潔をめぐって』の「討論」は「一区切りついた」という解釈でよろしい
のでしょうか?私が見たところアレクセイさんの「懐疑的リアリズムの見地から(7)
」の後は「討論」は行われていないようですし、また話題も「笠井潔」から「奈須き
のこ」に移っているようであります。お二方のご確認をお願いしますね。^^/

日本人的な、あまりにも日本人的な 投稿者:アレクセイ  投稿日: 7月20日(火)15時37分39秒


 黒猫館館長さま

ご確認事項

> 『討論・笠井潔をめぐって』の「討論」は「一区切りついた」という解釈でよろしいのでしょうか?私が見たところアレクセイさんの「懐疑的リアリズムの見地から(7)」の後は「討論」は行われていないようですし、また話題も「笠井潔」から「奈須きのこ」に移っているようであります。お二方のご確認をお願いしますね。^^/

> どこを「区切り」とするかはアレクセイさんとはらぴょんさんにおまかせします。
  (「これからこっそり『プリキュア』ビデオ鑑賞・・・至福。(4)」2004年6月21日

端的に申しましょう。「区切り」だと思っていれば、言われなくても約束どおりに、議論の場所を変えていますよ。どうして、一任されたことについて、わざわざ『確認』されなければならないのですか。

このような「持って回った催促のされ方」は不愉快です。長いつきあいなのに、なぜハッキリと「やっぱり、お二人の書き込みばかりでは、どこの掲示板かわからなくなるので、申し訳ないが場所移動してもらえないか」と言ってくれないんです。私だって、そのことを気づかったから、最初にこちらからご確認したんでしょう? それを承知で、こういう仕打ちをしますか?

> お二方のご確認をお願いしますね。^^/

場所を変えることについては、最初から依存はありません。ですが、自分の要求を示唆するに止め、相手に最終判断を委ねて、要求責任の回避を謀ろうとする、こんな卑怯な言い種を、私は、長い友人として許しはしません。言いたいことがあるのなら、ご自分の言葉で、ご自分の責任においておっしゃってください。

私がこういう性格だと言うことは、重々ご存じのはずなのに、情けないかぎりです。

それから、大切なことを書く時に「顔文字」で誤魔化すな、とも言いたい。私は、そんなことで誤魔化されるほど、文章に鈍感な人間ではありません。見くびらないでいただきたい。



 はらぴょんさま

表向きは八ヶ岳スキー同好会なんですが

> 7月20日頃刊行の黒田研一・二階堂黎人共著『永遠の館の殺人』(光文社カッパ・ノベルス)の推薦文は、笠井潔とのこと。
http://www.asahi-net.or.jp/~WL5K-KRD/index.htm
> この三人の共通項は、スキーがとりもつ縁のようです。

笠井潔と仲良しになって、推薦文を書いてほしい(本格ミステリ作家クラブに入りたい、本格ミステリ大賞にも選ばれたい、つまり、個人的に可愛がって欲しいという)作家は、笠井に対し「接待スキー」攻勢をかければよい、ということでしょうか。なんとも日本人的ですねえー、島田荘司が聞いたら嘆きますよ(笑)。

> それにしても、こんな年賀状を黒田研一は笠井潔にも出しているのでしょうか?
http://www.asahi-net.or.jp/~WL5K-KRD/RF.htm

見なくていいものを見てしまった……(-_-;)。

あんなのを笠井潔にも出してたら、その蛮勇を本気で誉めてあげますよ、私なら。でも、出してないでしょうね、きっと(笑)。





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


見解 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月20日(火)21時50分55秒

アレクセイさま

>見なくていいものを見てしまった……(-_-;)。
見せなくていいものを見せてしまった!!
この人は、見せなくてもいいものを見せることで、読み手を確実に失っているような気がします。

さて『討論・笠井潔をめぐって』ですが、奈須きのこについても、実物を読んでおかないと、笠井の論評に対する論評ができませんから、奈須きのこの話題も『討論・笠井潔をめぐって』の続きであると考えます。
ただし、『討論・笠井潔をめぐって』は、総論の部分から各論へ、過去の話から現在の話に移行しつつある気がします。そのために、新たに読む必要のあるものもあり、書き込みのペースは落ちそうな気配です。(私の方も『九十九十九』あたりを読まなくちゃと考えている次第。これが私にとっての夏の試練のようです。)
「区切り」ですが、ひとつにはここに笠井肯定派が飛び入りでもしてくれたら、活気づいて、ドンパチがあって、劇的なクライマックスがあって、「区切り」が鮮明になるのかもしれませんが……いっそのこと私が笠井潔もどきの役を演じて、盛り上げるというのもひとつの手ですが。

それから、場所を変えることについては、依存はありません。次第に、私の書き込みも「編集済」が少なくなってきましたし。まぁ、これも訓練の成果 ということで。
それにこの掲示板ですと、ホランドくんが登場してくれないようですし……。実は、あのキャラ、なかなか可愛いなぁ、と内心思っていたりして……。

ここから先(↓)、初出はアレクセイの花園


あれやこれや(上)(抄) 投稿者:園主  投稿日: 7月22日(木)22時30分35秒

みなさま、先日まで、サイト『黒猫館』黒猫掲示板を舞台に行われていた討論・笠井潔をめぐってが、同掲示板の休止にともない一時中断しております。
掲示板休止のきっかけは、ほぼ間違いなく、私が管理人の黒猫館館長氏を批判したことにあるものと思われます。詳しくは討論・笠井潔をめぐってのログをお読みいただければ、あらましご理解いただけようかと存じますが、ともあれ、黒猫掲示板の休止問題と討論・笠井潔をめぐってとは、内容的な関連はございませんので、討論の主たる相手である はらぴょん氏のご了解が取れ次第、この「討論」の舞台を、ここ「アレクセイの花園」に移したいと考えております。つきましては、みなさまには、あらかじめご報告をさせていただく次第でございます。

「討論・笠井潔をめぐって」に関して 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月23日(金)00時08分2秒

園主さま>
こちらでは、はじめまして(かな?)。

みなさま>
「討論・笠井潔をめぐって」で、お騒がせしておりますはらぴょんと申します。このたびは、「討論・笠井潔をめぐって」の今後につきまして、こちらの園主さまより、当方の掲示板にてお問い合わせがありましたので、回答をしに参上いたしました。
その前に、「討論・笠井潔をめぐって」の読者の方にお詫びを申し上げなければならないことが生じました。
園主さまによると、私宛のメールが届かないとのこと。確認しましたところ、私のメールアドレスは、正しくは
le_corps_sans_organes@yahoo.co.jp
なのですが、「黒猫掲示板」での書き込みの際に、
le_corps_sans_organes@organe s@yahoo.co.jp
になっていたようで、誤ったデータが画面上に残り、毎回同じミスを繰り返していたということが判明いたしました。
「討論・笠井潔をめぐって」の元データも、「黒猫掲示板」ですから、誤ったデータが拡大再生産されていたことになります。
いままで「討論・笠井潔をめぐって」を読まれて、苦情・反論・批判等があって、当方にメールを送信されようとした方には、大変申し訳ありませんが、改めて正しいメールアドレスに送信していただきたくお願いいたします。
無論「討論・笠井潔をめぐって」に関するご意見・ご感想は、掲示板に書いていただき、情報を共有化した方が、今後の議論の進展には望ましいと考えますが、掲示板に書くことに支障がある場合は、なんなりとメールしていただければと思います。

なお、勝手ながらメールの受信に関しましては、ウィルス感染の防止のため、存じ上げない方からの突然届いた添付ファイルは開けないようにしております。
添付ファイルを送られる場合は、あらかじめ添付ファイル送信の予告メールをおくっていただきますようお願いいたします。
また、商業目的のバルクメールも、お断りしておりますので、何卒ご理解のほどお願いいたします。

さて、「討論・笠井潔をめぐって」の続きですが、場所を移し、こちらの掲示板に移行したく考えます。
なお、今後の書き込みについては、一般の書き込みと「討論・笠井潔をめぐって」関連と区別 するため、題名の末尾に「討論・笠井潔をめぐって」関連ならば、kと書くことにします。
「討論・笠井潔をめぐって」のつづきに関しては、新たな資料を読み込む必要もあり、多少書き込みのペースが落ちるかも知れませんが、随時行って行きますので、あまり期待なさらずにお待ちいただければと思います。
また、どこを「討論・笠井潔をめぐって」の終了タイミングとするかですが、それは自然にまかせることにしましょう。一旦、終わったように見えても、実は笠井氏の新刊が出たら、また言いたいこともできるでしょうし。
それから、みなさまにお願いですが、笠井氏に関心のある方はぜひ「討論・笠井潔をめぐって」に加わっていただきたいと思います。特に笠井潔肯定派の方や、ミーハー的なファンの方(笠井潔は男前だから好きだ、でも結構です)が加わっていただけると、より討論が充実し、有益なものになるかと思います。何卒、よろしくお願いいたします。

http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/


抗う者たち(4)(抄) 投稿者:ホランド  投稿日: 7月23日(金)18時38分17秒


 はらぴょんさま
 はじめまして、ようこそおいで下さいました!

 園主さまとの討論・笠井潔をめぐっては、とっても面 白く読ませていただいておりました。
 とにかく、はらぴょんさまの博識にはびっくり。思想哲学関係だけでも大変そうなのに、やたら守備範囲が広いのには、ホントに驚かされました。でも、・・・いちばん感心したのは、じつは園主さまのツッコミに対する対応です。園主さまはあのとおり、意見表明にあたっては遠慮のない人だから、人の弱点だか傷口だかをズバリと突いてきますよね。だから、たいていの人は、その未体験の厳しさに泡を喰い、頭に血がのぼって怒りだしたり、逆に逃げ出したりしちゃうんですが、はらぴょんさんの場合はそのどちらでもなく、それを黙って受けとめておられます。もちろん、おっしゃりたいことはいろいろあるんでしょうが、性急に反発したり拒絶したりしたところで、何の意味もないということがわかっておられるから、それをいったんは黙って受けとめようとなさっているんでしょうね、きっと。
 たぶん、はらぴょんさまには「花園」をロムしていただいてたと思うんで、園主さまの批判に対する、間違った対応というのは、何度も実例的に見ておられると思うんです。でも、人というのは、他人の失敗になかなか学ぶことができません。そうした意味でも、ボクは素直に、賢明な対応だなあーと感心したんですよ。

 黒猫掲示板の休止については、とても残念なことですけど、黒猫館館長さまとはつきあいも長いことだし、きっと園主さまの「友だちなら、なぜ正直に言ってくれないんだ」という気持ちも、いつかはわかってもらえると思います。ただ、気持ちを整理する時間が必要なんでしょうね。

> それから、みなさまにお願いですが、笠井氏に関心のある方はぜひ「討論・笠井潔をめぐって」に加わっていただきたいと思います。特に笠井潔肯定派の方や、ミーハー的なファンの方(笠井潔は男前だから好きだ、でも結構です)が加わっていただけると、より討論が充実し、有益なものになるかと思います。何卒、よろしくお願いいたします。

 う〜ん、それは期待できないんじゃないかな。なにしろ、園主さまを相手に論陣を張るだけでも並み大抵のことじゃないのに、そこへはらぴょんさんが加わっているんじゃ、笠井さんを支持する側でこの討論に参加できる人なんて、まずいないんじゃないですか。下手に参加したらどういう目にあわされるかは、すでに園主さまによって証明済みなんだから、余程の蛮勇の持ち主か、さもなければ身の程知らずでもないかぎり、「鬼に金棒」みたいなお二人に反論することなんか、とてもできないと思いますよ。――やっぱりここは、お二人に頑張ってもらうしかないんじゃないかな、基本的に。

 あっ、それから、お願いがひとつあります。
 読みましたよ、あれ。――ボクももう決して、掲示板のトップイラスト(↑)にあるような子供じゃないんですから、変なからかい方しないでくださいね。この歳になって『可愛い』とか言われても、素直にうれしいとは思えないですから・・・(^-^;)。

はじめまして 投稿者:時雨  投稿日: 7月24日(土)17時04分36秒

突然の投稿失礼します。
私は以前から笠井潔の読者で、こちらのサイトを最近になってからですが拝見させていただいています。
「討論・笠井潔をめぐって」も興味深く読ませていただきました。
所がかわって新展開されるようですが、これからの議論に私も参加させていただけませんでしょうか?
私はアレクセイ氏やはらぴょん氏とは違って無教養で理論的でもないので、足手まといにしかならないかもしれませんが。

錯綜するリアル、複数化する自己[14] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月24日(土)21時19分12秒

笠井潔に影響を与えた思想家吉本隆明は、国家と資本と対立した場合は、資本の側に、資本家階級と労働者階級が対立した場合は、労働者階級の側に、生産者(労働者階級)と消費者(大衆)が対立した場合は、消費者の側に立つと言明している。つまり、国家<資本家階級<労働者階級(生産者)<大衆(生産者)というのが、彼の立場である。
(注)笠井潔と吉本隆明との対談は、『不断革命の時代』(河出書房新社、1986年)で読むことができる。そこで、吉本は笠井の唱えるマルクス葬送に理解を示しつつ、笠井の観念による観念の倒錯の批判という姿勢が主知主義的な危うさをもっているのではと疑問を呈している。
さて、笠井の思想的変遷を辿ると、新左翼での活動とそこからの転向、マルクス葬送の後、
(1)脱コード派のポストモダニズム批判……主としてその批判の矛先は、浅田彰・中沢新一・蓮見重彦・山口昌男に向けられた。
(2)脱格系(脱コード派)の新本格ミステリ批判……主としてその批判の矛先は、竹本健治のウロボロス連作と清涼院流水に向けられた。
という経緯を辿り、現在、彼の関心はジャンルXに向けられるようになった。
ジャンルXとは、コミック、ゲーム、アニメ、ライトノベルらに笠井が名づけた総称である。笠井の関心は、特に高橋しん『最終兵器彼女』(漫画、小学館、2000年〜2002年)、新海誠『ほしのこえ』(アニメ、徳間書店、2002年)、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(ライトノベル、電撃文庫、2001〜2003年)に向けられているようである。


錯綜するリアル、複数化する自己[15] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月24日(土)21時20分55秒

これらのジャンルXには、いくつかの共通 点が見られる。
(a)セカイ系……これらのジャンルXでは、世界と自分との戦いがテーマになっているものが多いが、世界と自分の間にある社会性の問題が抜け落ちている。
(b)萌え要素……東浩紀は『動物化するポストモダン』で、萌え要素からだけから成り立っている記号的キャラクターとして「デ・ジ・キャラット」に注目したが、ジャンルXでは多かれ少なかれ、萌え要素が含まれている。
(c)壊れた世界……西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』というタイトルが端的に示しているように、ジャンルXにおいては、きみとぼくしかいないような主人公のごく周辺の世界だけが問題となり、しかもその世界は不条理なリアルにさらされ、壊れている。
さて、(1)脱コード派のポストモダニズム批判では、全的な強い批判を示した笠井だが、(2)脱格系(脱コード派)の新本格ミステリ批判においては、全的な否定には至らず、次世代を担う作家(舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉、北山猛邦ら)には懐が深いところを見せようとした。そして、(3)より脱コード化の進んだ壊れた世界を描くジャンルXに対しては、これまでの経緯からして当然全否定するはずなのに、これまた理解ある父親(!)という姿を演じようとするのである。これはなぜか。
これは、母集団の問題である。ポストモダニズム<新本格派ミステリ<ジャンルX<<<「大衆」の原像。後者になればなるほど、「大衆」全体に近づいてゆくことになる。脱格系(脱コード派)の新本格ミステリに関しては、その書き手が知的レベルでのポストモダンの洗礼を受けていることが多々あった。しかし、ジャンルXになると、脱コード化(わかりやすく「解体」と言い換えてもいいだろう)の問題は、大衆的にすでに進行してしまっている現実の問題なのである。ジャンルXにおける世界システムの「解体」の問題は、知的な影響よりも、ポスト資本主義体制化の現実問題から来ているというべきなのである。われわれの日常世界に、テロの影が忍び寄り、人々は不況下であえぎ、若者たちは、ありのままの自分を受け入れてくれない世界との齟齬に不条理を感じ、リストカットやオーバードーズ(薬物の過剰摂取)の誘惑と隣り合わせの世界に生きている。この現実が、ジャンルXに反映しているのである。ポストモダニズムによって予兆的に語られた「解体」は、いまや思想や観念ではなく、爛熟した大衆社会が実現してしまっているのである。ここで、かつてのポストモダニズムのように、ジャンルXを斬れば、笠井は「大衆」を敵に廻すことになる。これは吉本主義者笠井にとって、思想的な死、デッド・エンドである。
だが、ジャンルXに対して、物分りのいい父親を演ずるとはいっても、本当にわかっているわけではない。自分のものさしに合わせて、評価するだけである。彼のものさしは「大量 死」の裏返しとしての「大量生」というキーワードである。「大量生」の時代にあって、失われた自己を探求するという不可能な試みとして、彼はジャンルXに肉薄しようとする。


錯綜するリアル、複数化する自己[16] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月24日(土)21時22分15秒

『本格ミステリ これがベストだ!2004』(創元推理文庫)に収録された笠井潔との往復書簡(「本格ミステリ往復書簡二〇〇四」P26)で、鷹城宏は、次のように書く。「セカイ系、脱格系の作品は往々にして、主人公の自分語りを用いはします。とはいえ彼らは、外界と独立した確固たる近代的自我を抱えているわけではなく、他者からの(あるいは他者に対する)承認・否認のあいだでぐらぐら揺れながら、かろうじて自身の輪郭を保っているに過ぎない。何せ、社会領域を通 過しないコミュニケーションでは、こちらから送ったメールはしばしば宛先不明で戻ってくるし、逆に、誰とも知らぬ 相手から不意にケータイに電話がかかってくるかもしれないのですから。」こうして、鷹城宏は現在における不安定な自我のありように注目する。
しかし、疎外論的な自己回復という理論装置が根底にある笠井にとって、そのような不安定な自我は、疎外態であり、本来の自己を回復することによって乗り越えられなければならないものである。しかし、「多数多様態」が疎外態であり、「一」が本来のあるべき姿とするのは、笠井の恣意的な趣味に過ぎない。見方を変えれば、「一」が専制的な理念によってがんじがらめになった疎外態で、さまざまな方向に走り出そうとしている「多数多様態」の方が、より自然なのかも知れない。はたして、ポスト資本主義の申し子である不安定な自我たちは、どこに向かおうとしているのだろう。


こちらこそ、よろしくお願いいたします 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月24日(土)21時29分49秒

時雨さま
>これからの議論に私も参加させていただけませんでしょうか?
ぜひとも。大歓迎です。ところで、時雨さまの関心のあるテーマは、なんでしょうか。それを教えていただけると、今後の議論の上で、ありがたいのですが。


異界からの使者 投稿者:くらやみ男爵  投稿日: 7月25日(日)09時44分17秒

ごきげんよう。花園の諸君。

ん?なに??わしが誰かって?ふぉーーーほっほっほ・・・
いまにわかるいまにわかる。

さて先日の黒猫掲示板での騒動、わしもうしろから見ておった。
園主殿、そなたにちょっと厳しいことを言われたくらいで逃走
するとは黒猫館の館長職も墜ちたものよのう!!あの腰抜けめ
がッ!!
あの日逃走した館長は自家用車で黒猫館を出発、シュバルツバ
ルトを抜け、ひたすら独逸国を南下、ミュンヘンに入ったよう
じゃ。そこの場末のビヤ・ホールでヤケ酒を喰らっているとこ
をわしが突き止めちょいとしめあげたわけじゃよ。

さてここまでいえば諸君、わしが何者かもうわかろう?ふおっ
!あの影姫とかいう小娘から諸君が聞いたとおり黒猫館の真の
支配者は館長ではない。あくまで「黒猫館守護神」様じゃ。
さよう、わしは守護神様の命を受け黒猫館全体を監視しておる
者じゃ。黒猫館では館長から末端の奴隷に至るまで守護神様に
は絶対に反抗できん。そこでおかしな動きがないか見ているわ
けじゃよ!ふおーーーーふぉっふぉっふぉーーー!!!

アナザーディメーションに存在するという「黒猫神殿」そこか
らわしは来た。またなにかあれば出現するかもしれないよって
な。館長については心配するな。いまごろミュンヘン郊外でボ
ーとしておる。気をとりなおしたら帰ってくることじゃろう。

それでは諸君、さらばだッ!!ふぉーーーーっふぉおっふぉっ
ふぉーーーーー!!!

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


元気になりましたよー。 投稿者:Keen  投稿日: 7月25日(日)21時40分35秒

☆ホランドくん

アーニャ宛に、京極さん情報をイロイロとありがとう。でも、

>ホントに、何のために湯治に行っているのやら(笑)。

というのは、誤解があるわね。温泉ってのは、健康な人なら「あー、いい湯だった」ってあったまればそれでイイんだけど、私のような慢性の病持ちにとっては、病根を引きずり出して、むしろ悪くなるものなのよ。もちろん昔ながらの「湯治」ならば、穏やかに治癒するまで1カ月でも温泉に滞在するんだろうけど、現代人にはそれもかなわないから、体の奥底に沈殿してるモノを浮かび上がらせるくらいで良しとせねばならないわけ。
ま、そのうち温泉の種類や効能から効果的な入浴方法まで、じっくりレクチャーしてあげるわ(笑)。

養生しながら、笠井さんと島田荘司さんの『日本型悪平等起源論』(光文社文庫)読みました。前半、笠井さんが何かにつけ『ヴァンパイヤー戦争』に話を持って行くのが可笑しかった(カワイかった)けど、全体としてはなかなか面 白かったです。時に極端な方向へ強引にこじつけるきらいはあるものの、核心をついている部分もけっこうあるな、と思いました。勉強になりましたよ。

その笠井さんの『ヴァンパイヤー戦争』(講談社文庫)を、先日やっと書店で見つけました。以前から興味はあったのですが、あの表紙と口絵の人物紹介のイラスト見たら……「読む」「買う」気が失せました。はあ。
内容知らずに言うのもなんですが、あれじゃどうしたって「謎の美少女を守って世界を救うために悪と戦う、カッコイイ兄ちゃんの冒険譚」としか思えないし、あれだけハッキリとキャラが固定されてしまうと、自分で想像する余地が全くなくなってしまいますよ〜☆ああいう絵に抵抗のない若者の軽い読み物、としか見えない……苦苦苦☆
というわけで、私はパスしてしまったのでした。

では、今日のところはこれにて。お休みなさいませ。


はて? 投稿者:Keen  投稿日: 7月26日(月)16時40分20秒

>笠井さんの『ヴァンパイヤー戦争』(講談社文庫)

って、もしかして

>「謎の美少女を守って世界を救うために悪と戦う、カッコイイ兄ちゃんの冒険譚」
>ああいう絵に抵抗のない若者の軽い読み物

↑この認識で正しかったりして……


昨夜は、賢ちゃんとホランドくん、円酒さま(←変換したら、こんな漢字が出ました。円満なお酒?/笑)でお楽しみだったようですねー。よきかな♪(^0^*
私は今頃ながら、「レッド・ドラゴン」→「羊たちの沈黙」→「ハンニバル」のレクター博士三部作をビデオ鑑賞しました……ゴワイよ〜(T-T)

正統派の矜持(1) 投稿者:園主  投稿日: 7月26日(月)19時41分54秒

みなさま、先のくらやみ男爵さまからのご報告にもございましたとおり、私が管理人の黒猫館館長氏を批判したことによって、休止状態になっておりました黒猫掲示板が、黒猫館館長氏の上司にあたる くらやみ男爵さまのご介入により、管理人を三毛猫室長さまにすげかえることで、休止から3日後の一昨日24日に再開をはたしております。
黒猫掲示板の休止にともない、議論の舞台をここアレクセイの花園に移した討論・笠井潔をめぐってでございますが、ふたたび舞台を黒猫掲示板に戻すのは煩わしいだけでございますし、第一、あの掲示板は、こうした議論には耐ええないと判断いたしましたので、私の管理するこの掲示板で、このまま議論を続行したいと存じます。


なお、再開された黒猫掲示板トップには、

『まったりと趣味のお話をしましょう。(政治、宗教、各種社会運動の話題は削除することがあります。)議論も禁止です。』

という注意書きがございますが、この最後の部分『議論も禁止です。』は、今回の再会にあたってつけ加えられたものであり、黒猫館館長氏が望んで為された討論・笠井潔をめぐっての失敗を強く意識したものであろうことは状況からして明白で、その意味で、この文言は、逃亡した黒猫館館長氏の「遺産」だと申せましょう。

申すまでもなく、「ネット掲示板」という対話の場で、議論を禁止するなどというのは、デタラメも甚だしい所業であり、結局これは「自分にとって好ましくない『議論』だけは、禁止」という意味でしかございません。しかし、それならそれで、管理者として堂々と「ここは趣味の掲示板なので、内容的にそぐわない書き込みについてはご遠慮ください。また、そのような書き込みがあった場合には、管理人の判断で削除させていただきます。」とでも明記すれば良いだけの話なのでございます。

今回いみじくも露呈した黒猫館館長氏の弱点であり問題点は、「嫌なことは嫌なことだから、やめてくれ」と率直に意志表明できない点にあると申せましょう。それでいて、我慢することもできず、自分のそんな意志を押し隠してイイ顔をしながら、かつ自分の希望を実現したいなどと欲ばるから、言い回しが持って回ったものとなり、言われた方に、かえって不快感を与える結果 となったのでございます。





( 以下は「正統派の矜持(2)」につづく)

正統派の矜持(2) 投稿者:園主  投稿日: 7月26日(月)19時42分48秒


私はなにも、今さら黒猫館館長氏個人を批判したいのではございません。ごく一般的な人間の問題として「自らの墓穴を掘る」という愚行を、今回の件を通 して、みなさまにも考えてほしいだけなのでございます。

黒猫掲示板上への書き込みについては、管理人である黒猫館館長氏が、それを好ましくないと判断すれば、管理人として堂々と「やめてくれ」と言えばいいのでございます。それが、管理人の(管理者)権限であり、(管理者)義務であり、(管理者)責任なのでございます。
ただ、今回の場合は、私がわざわざ事前に「ここで議論をしても構わないか」と確認をとり、管理人である黒猫館館長氏が「どうぞ」と言ってお墨付きを与えたものでしたから、それを撤回したいというのであれば、当然それ相応に「お詫び」なり「お願い」をして、「筋」を通 さなければならなりませんでした。また、その「筋」さえ通しておけば、最終的な決定権は管理者にあるのですから、なにも問題はなかったのでございます。

ところが、黒猫館館長氏は、自身が許可したことを早々に撤回することに「後ろめたさ」を感じたのでございましょう。自身の真意を隠した上で、議論の場所の変更を言外に示唆するというかたちを採られました。しかし、今回の場合、そのように陰微なかたちで真意を「誤魔化」そうとした、相手が悪かった。私はそんなことでは誤魔化されないし、「筋」の通 らないことをすれば、友人知人でも仮借なく批判する人間なのですから、当然、黒猫館館長氏も私の厳しい指弾に曝され、あげく逃亡するはめに陥ってしまったのでございます。

私がこういう人間なのは、つきあいの長い黒猫館館長氏なら、当然ご承知だったはずでございます。なのにどうして、こんな過ちを犯してしまったのかといえば、それは彼が、「現実」と向き合う勇気を持たないで、常に逃げることばかりしているからでございましょう。そして、そんな自分の「実像」とすら直面 できないから、「他人の実像」を直視することも当然できず、臆病者が枯れ雄花に幽霊を見て恐れるがごとく、過剰対応をしてしまい、結果 として墓穴を掘ってしまったのでございます。

逃げ腰でものを言う(腰のひけた)人間は、その方向へ突いてやれば、簡単に転んでしまいます。しかし、面 と向かって身構えている人間の場合、その胸を突いたところで、容易に倒れることはございません。
このように、人が強そうな相手と対した場合、正しい対応の仕方は2つしかございません。ひとつは、真正面 から相手と向き合い、弱みを見せないようにし、その上で相手と堂々渡り合おうという姿勢。もうひとつは、恥も外聞もなく、思いきり良くさっさと、逃走することでございます。
言うまでもなく、いけないのは、このどちらでもない中途半端な対応であり、それが今回の黒猫館館長氏のそれだったのでございますね。

(テレビドラマでよくある)不倫や万引きなどの露見を恐れて殺人をおかしてしまう女性。あるいは、人ごみの繁華街でチンピラにからまれても、「助けて」の声ひとつ出せず、言いなりになって路地に連れ込まれ、財布ごと金品を巻き上げられたあげく、その脅迫に屈して警察に被害届を出すこともできずに泣き寝入りする被害者。――こうした人たちは、どちらもその「臆病」さゆえに、自分のおかれた立場、つまり「現実」と冷静に向き合うことができず、いたずらに「(主観的な)恐怖」に支配されて「自らの墓穴を掘る」のでございます。

人間というものは、現実をきちんと見ているかぎりは、そんなに酷い目に遭うことは、まずございません。たいてい不幸というものは、自分を過信したり卑下したり、他人を過信したり蔑視したり、現実を軽視したり、対応不能なものとして過剰に恐れたりするところから、起ってくるものなのでございます。

もちろん、こうしたことは、もって生まれた(と言いたくなるほどの)「性格」に由来するところが大きいので、容易に改められるものではございません。しかし、それで不幸になるのは、誰よりも本人(であり、その周囲)なのですから、「できない」では済まされない。まずは、誰よりも自分のために「強くならねばならない」。そうでないと「損」だということなのでございます。





( 以下は「正統派の矜持(3)」につづく)


正統派の矜持(3) 投稿者:園主  投稿日: 7月26日(月)19時44分7秒


 はらぴょんさま
「討論・笠井潔をめぐって」に関して

ようこそ、いらっしゃいました。
それでは、ここアレクセイの花園討論・笠井潔をめぐってを続行いたしましょう。

なお、それ以外の書き込みも大歓迎ですので、遠慮なさらずに是非どうぞ。

> 園主さまによると、私宛のメールが届かないとのこと。確認しましたところ、私のメールアドレスは、正しくは
> le_corps_sans_organes@yahoo.co.jp
> なのですが、「黒猫掲示板」での書き込みの際に、
> le_corps_sans_organes@organe s@yahoo.co.jp
> になっていたようで、誤ったデータが画面上に残り、毎回同じミスを繰り返していたということが判明いたしました。

すでにメールでお知らせいたしましたとおり、討論・笠井潔をめぐってのページのメールリンクについては、早急に、過去に遡って訂正させていただきます。

なお、「花園」への書き込みのメールリンクのアドレスも、

le_corps_sans_organes@yahoo.co.jp

となっており、頭の部分がまちがっていると思われます。こちらは「過去ログ」収録時に訂正しておきたいと存じますが、次回の書き込みからはご注意くださいまし。

錯綜するリアル、複数化する自己[14]〜[16]

の感想については、別枠で。

では、今後ともよろしくお願いいたします。





( 以下は「正統派の矜持(4)」につづく)

正統派の矜持(4) 投稿者:園主  投稿日: 7月26日(月)19時45分31秒


 時雨さま
はじめまして</