討論・笠井潔をめぐって6)  

 


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     目 次6)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
「Z文学賞選考会」 はらぴょん 7月26日(月)23時31分15秒
若造の上ですが、精一杯やらせていただきます 時雨 7月27日(火)03時04分54秒
錯綜するリアル、複数化する自己[17] はらぴょん 7月28日(水)22時07分12秒
錯綜するリアル、複数化する自己[18] 7月28日(水)22時10分34秒
錯綜するリアル、複数化する自己[19] 7月28日(水)22時12分10秒
錯綜するリアル、複数化する自己[20] 7月28日(水)22時13分52秒
健全な知性(1) 園主アレクセイ 7月29日(木)00時27分12秒
健全な知性(2) 7月29日(木)00時28分0秒
健全な知性(3) 7月29日(木)00時29分19秒
健全な知性(4) 7月29日(木)00時31分25秒
健全な知性(5) 7月29日(木)00時32分39秒
健全な知性(6) 7月29日(木)00時33分24秒
健全な知性(7) 7月29日(木)00時33分24秒
世界の広さ(3) ホランド 7月29日(木)14時00分31秒
若者の目から(1) 時雨 7月29日(木)17時06分9秒
若者の目から(2) 7月29日(木)17時21分0秒
若者の目から(3) 7月29日(木)17時43分5秒
若者の目から(4) 7月29日(木)17時59分30秒
若者の目から(5) 7月29日(木)18時20分32秒
『ザ・コーポレーション』(※ 掲載順序を入替えています) はらぴょん 7月29日(木)17時46分20秒
訂正 時雨 7月30日(金)18時04分52秒
気苦労が多すぎる はらぴょん 7月30日(金)20時18分44秒
空虚に巣食う魔(1) 園主アレクセイ 7月31日(土)22時39分15秒
空虚に巣食う魔(2) 7月31日(土)22時40分5秒
空虚に巣食う魔(3) 7月31日(土)22時41分20秒
空虚に巣食う魔(4) 7月31日(土)22時42分13秒
空虚に巣食う魔(5) 7月31日(土)22時43分0秒
空虚に巣食う魔(6) 7月31日(土)22時44分16秒
見る角度によって(上) 園主アレクセイ 8 1日(日)02時05分3秒
見る角度によって(中) 8月 1日(日)02時06分4秒
見る角度によって(下) 8月 1日(日)02時07分12秒
心はアラゴン(1) 時雨 8月 1日(日)03時40分19秒
心はアラゴン(2) 8月 1日(日)04時03分10秒
心はアラゴン(3) 8月 1日(日)04時12分15秒
おずおずと世代論を(2) ホランド 8月 3日(火)00時04分21秒
おずおずと世代論を(3) 8月 3日(火)00時05分16秒
おずおずと世代論を(4) 8月 3日(火)00時08分53秒
おずおずと世代論を(5) 8月 3日(火)00時09分27秒
熱く焼けた屋根を静かに歩く足音(抄) AOI 8月 3日(火)02時46分13秒
笠井潔と中井英夫(1) はらぴょん 8月 3日(火)21時52分17秒
笠井潔と中井英夫(2) 8月 3日(火)21時53分28秒
笠井潔と中井英夫(3) 8月 3日(火)21時54分23秒
庚申堂をめぐって はらぴょん 8月 3日(火)22時14分16秒
ブラックホール AOI 8月 4日(水)11時46分55秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


「Z文学賞選考会」 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月26日(月)23時31分15秒

園主さま
・メールアドレスの訂正、ありがとうございました。
・「ユリイカ」(青土社)の8月号は、「特集・文学賞 A to Z 」で、『文学賞メッタ斬り!』の大森・豊崎コンビと、島田雅彦による「Z文学賞選考会」の模様が載っています。要注目。この「Z文学賞選考会」でも、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」がとりあげられています。(Aは、芥川を指すようです。)
・現在、舞城王太郎『九十九十九』の読書中ですが、これは今後「討論・笠井潔をめぐって」とも関係してくる内容を含んでいます。直接関係してくるのは、P272〜275とP516〜519ですが、この小説の内容自体が興味深い主題を含んでいます。(しかし、難しいテーマの小説だこと!)とりあえず、予告編ということで。

http://media.excite.co.jp/book/news/topics/089/


若造の上ですが、精一杯やらせていただきます 投稿者:時雨  投稿日: 7月27日(火)03時04分54秒

アレクセイ様、はらぴょん様
丁寧な返答ありがとうございます。必要なのは「真剣」と「誠実さ」ですね、わかりました。肝に命じておきます。
僕自身は某三流私大で歴史を専攻する大学生で、現在最大の関心を寄せているのはそちらの方になります。
歴史の資料などとは別に個人的な読書もしますが、あまり良い読書人とは言えないと思います。こちらで時折話題に上る京極夏彦や東浩紀などをかじったりしていますが、多く読むのは娯楽としてのライトノベルや漫画です。
後はゲームやアニメなども楽しみます。つまりいわゆるオタク、アレクセイ様の発言を借りれば『「世間」を知らない若者』ですね。
このように僕はお二方に比べれば未熟で無知な若輩者ですが、「ジャンルXのファンから見た笠井潔」という視点で何か言えまいか、と思いここに書き込ませていただきました。


錯綜するリアル、複数化する自己[17] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月28日(水)22時07分12秒

矢吹駆はナディアに、名探偵は幾多ある等価の仮説の中から「なぜ一回きりの企てで正しく推論することができたのだろう。」と問い、その答えを「初めから知っていたのさ。」とする。(『バイバイ、エンジェル』角川文庫版P41)一度きりの企てで、真実を射抜くことができるのは、現象学的本質直感だから、というわけである。
ところが、最近の笠井潔は「論理的に、探偵は唯一の真実に達することは「できない。」」(『本格ミステリ これがベストだ! 2004』創元推理文庫P33)と書いている。この認識の変遷の影には、「後期クイーン的問題」がある。
法月綸太郎にとって問題化した「後期クイーン的問題」とは、エラリー・クイーンの後期の作品(たとえば『九尾の猫』)では、犯人が探偵の推理を推理して、その裏をかくという事が行われているという。その結果 、探偵は誤謬推理を行い、その誤謬のせいで死者が出て、煩悶することになる。
これは、柄谷行人が『隠喩としての建築』で、問題にした「ゲーデル的問題」のミステリ版である。数学者クルト・ゲーデルの唱えた不完全性原理とは「ある無矛盾の公理系のなかには、Aも証明できないしAの否定も証明できない、というような命題Aが存在する」(第1不完全性定理)と、「公理系が無矛盾であるかぎり、公理系はおのれの無矛盾性を証明できない」(第2不完全性定理)というものである。柄谷は、あらゆる思考体系は形式化を突き詰めると「ゲーデル的問題」に至るとし、そこから脱構築の糸口をさぐろうと企てた。
「思考機械」とも呼ばれた柄谷だが、「ゲーデル的問題」によって、当時の柄谷は思考停止に陥り、書けない状態に陥った。一方、法月綸太郎もまた「後期クイーン的問題」によって思考停止に陥り、ミステリが書けなくなる。<歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として?>
(注) 「思考機械」という言葉から、私はジャック・フットレルの『思考機械の事件簿』を想起する。柄谷を「思考機械」と呼びはじめたのは誰か知らないが、この本を意識したのではないかと夢想する。
ともかく、「後期クイーン的問題」が議論に上るようになってから、それを意識する書き手の作品の中身が変わったのは事実である。舞城王太郎の描く九十九十九は、明らかに「後期クイーン的問題」以降の探偵である。


錯綜するリアル、複数化する自己[18]   投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月28日(水)22時10分34秒

さて、舞城王太郎の『九十九十九』(講談社ノベルス、2003年)は、一筋縄ではいかない作品である。
(1)舞城の『九十九十九』は、<JDC TRIBUTE>の一冊として刊行された。<JDC TRIBUTE>とは、清涼院流水のJDCシリーズ(『コズミック』『ジョーカー』『カーニバル・イヴ』『カーニバル』『カーニバル・ディ』『彩 文家事件』)の設定を踏襲して書かれた作者と出版元公認の作品であり、現在のところ西尾維新『ダブルダウン勘繰郎』(講談社ノベルス)と、大塚英志原作・箸井地図漫画『探偵儀式』(角川コミックスエース)が刊行されている。舞城の『九十九十九』は、清涼院のつくったキャラクター「九十九十九」を基に、独自の世界を構築する。清涼院の作品に出てくる「九十九十九」とは、日本探偵倶楽部(JDC)第一班のひとりで、探偵神といわれ、その美貌は人を失神させるほどなので、常にサングラスをしているという設定になっている。舞城は、このキャラクターを改変し、美による失神を回避するために、義母から目をくり貫かれたり、自ら顔をそぎ落としたりする設定にしてしまう。
(2)『九十九十九』は、登場人物「九十九十九」が、清涼院流水から届く小説を読むという設定になっている。第二章の「九十九十九」は、第一章の「九十九十九」の出てくる物語を読み、第三章の「九十九十九」は、第一章と第二章の「九十九十九」の出てくる物語を読むという設定である。第一章を読む段階では、この物語は真であるが、第二章を読む段階では、第一章は虚構となる。舞城はP515で、これが竹本健治の『匣の中の失楽』や「ウロボロス」シリーズからの踏襲であることを明らかにしている。
しかし、このメタ・フィクションの造りは、複雑である。清涼院流水から届く小説は、胎内に形作られ、なんども「九十九十九」は切開をして胎児としての小説を受け取る。この切開による出産という表象は、この物語が作品の創造に関する物語であることを示している。
各章には「九十九十九」が登場するが、その傍らにいる女性名は統一性がない。この物語は、単線的に展開する判りやすい話ではない。
さらに、清涼院流水から届く小説は、どうやら誤配や遅配があるようで、第三章の後に、第五章、第四章、第七章、第六章と続くのである。その結果 、それを読んだ順番によって「九十九十九」が三人に分裂する、とされる。(という強引なストーリー展開の小説なのである。)IFもの、パラレル・ワールドものに、読み親しんでいる読者ならば、この三人の「九十九十九」はありえたかもしれない「九十九十九」の可能性を示したものといえる。また、この構成によって、読者にとって最終話と最終章が分裂することになる。


錯綜するリアル、複数化する自己[19] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月28日(水)22時12分10秒

(3)各章で起きる残忍な事件に対し「九十九十九」は推理をして解決を行うが、「九十九十九」は現場に着く前に推理を用意していたり、事件の黒幕が「九十九十九」であったりする。「九十九十九」の推理は、ミステリ・マニアの期待に応えるための意外性を帯びているが、その中身はこじつけの連鎖であり、「後期クイーン的問題」以降の探偵であることがわかる。「九十九十九」は、決して推理を持って真実を射抜くことができないということを、あたりまえの認識としている。
(4)『九十九十九』に登場する「清涼院流水」は創造主の如きポジションを得ているが、神としての「清涼院」に対して、容赦ない言葉が炸裂する。P143で、昔は<流水大説>を書いていたが、<述べる主>となり、<述べ足り内/述べ切れ内>となり、<脳辺那井>となり、<もうお前とは喋ってやんねー世>となり、現在<意味判らせてやらねー世>になっているというのだ。『九十九十九』において、神といえども絶対者ではないし、全知全能でもない。神もまた「後期クイーン的問題」もしくは「不完全性原理」に従う。
(5)P516からP520の記述には、清涼院流水・島田荘司・笠井潔・京極夏彦・竹本健治らの名前がみられ、この作品が彼らを意識して書かれていることが伺われるが、P272からP274では、最近のミステリ評論の中の「大量 死理論」に対する反発の言葉がみられる。無論、「大量死理論」とは笠井潔の唱えた理論である。
「世界大戦中に発生した大量死への反発が<特権的な死を死ぬ>ための装置としての推理小説の隆盛を呼んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。本物の特権的な死というものは皆に惜しまれて死ぬ 死であり病苦に耐えて生命の活力を全て使い果たした挙句にやってくる死であり家族や友人や多くの知らない人たちに看取られる死であり死にたくて死にたい方法で死にたいときに死ぬ 死であり死ぬべくして死ぬ死である。特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。」
「九十九十九」は、『聖書』とかの見立てのために、自分が殺されることは望まないとし、そんな死は決して特権的な死ではない、と反発する。


錯綜するリアル、複数化する自己[20] 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月28日(水)22時13分52秒

(6)ここまで見てきたように『九十九十九』は、舞城の創作観や、ミステリ観が剥き出しになった作品といえる。誤配もしくは遅配によるタイムスリップで、三人の「九十九十九」が誕生するが、ひとりめは「オリジナル」と呼ばれる「九十九十九」であり、この作品世界の創造主である「清涼院流水」を探し、単一の現実に到達しようとする。ふたりめは「コピー」と呼ばれる「九十九十九」であり、「オリジナル」の「九十九十九」が行っている真実さがしをナンセンスだと否定し、複数の虚構の中で生きようとする。そして、三人目はこのふたりの「九十九十九」を俯瞰的に見ている「九十九十九」である。推測するに、舞城本人はこの三人の「九十九十九」を抱え込んだ人間ではないか、と推測される。しかし、それは舞城ひとりだけの問題ではない。私たちにしても、単一の現実に向かおうとする「オリジナル」の部分と、複数の虚構の中で戯れようとする「コピー」の部分と、両者に没頭できない醒めた部分とが混在しているのではないか。とすれば、この小説は私たちの姿を映しだす鏡として機能するのではないか。


健全な知性(1) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時27分12秒

みなさま、私、昨日、米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)を読了しました。本書は「第33回大宅壮一ノンフィクション賞」を受賞した作品でございますが、「文学賞受賞作」などという「俗なレベル」をはるかに超えた、稀有の名著だと申せましょう。

なにより 本書の強さは、著者の「明朗で真率な精神」と「稀有な経歴」とが、奇跡のように出会ったところにございましょう。つまり、「才能」だけでも「経験」だけでも書けないものが、この本にはあるのでございます。具体的に言えば、

『本書は二〇世紀後半の激動の東ヨーロッパ史を個人の視点であざやかに切りとった歴史の証言の書でもあります。個人史の本も、現代史の本も、個別 に存在しているものの、両者をみごとに融合させたという点で、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』はまれに見るすぐれたドキュメンタリー作品に仕上がったのでした。』

と、斎藤美奈子が「解説」で書いているとおりなのございます。

本書を構成する「リッツァの夢見た青空」「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「白い都のヤミンスカ」の3本の中編は、それぞれに、著者が1960年から1964年まで通 っていた、チェコスロバキヤの首都にあった「在プラハ・ソビエト学校」時代の友人、リッツァ、アーニャ、ヤミンスカという女友達の思い出から書き起されます。
各国共産党の国際交流機関としての機能をはたしていた『平和と社会主義の諸問題』誌編集部に、各国を代表して派遣されてきていた人たちの子女が通 う学校が、この「在プラハ・ソビエト学校」であり、当然著者の父親も、その編集部に在籍する社会主義活動家でございました。50カ国以上もの子供たちが学んでいたこの学校で、それぞれに著者と心を通 わせた個性的な少女たちは、しかし、やがておとずれた東欧の激動の歴史の波間で別 れ別れになってしまいます。
ソビエトが解体し、ヨーロッパにおける社会主義が壊滅した後年、著者は、この懐かしい友人たちを尋ね歩き、奇跡的な再開を果 たすのでございますが、その後の3人には、それぞれに「理想と現実」の間で引き裂かれた、東欧社会主義の歴史が深く印されていたのでございます。

本書の優れたところは、一種の理想主義として出発した「社会主義」「共産主義」の現実を、その良い面 も悪い面も、分け隔てなく率直に描いている点であり、その意味で著者が立っているのは(よくある)観念的な「政治的立場」ではなく、否応のない「人間の現実」なのでございます。ですから、著者の描き出す人間の「業」は、時に「政治」や「歴史」さえも超えて、より「深く」「暗く」絶望的なものとさえ映ります。しかし、そうした「人間の現実」と直面 しながらも、どこかで人間を愛し信じることをやめられない著者の明るい強さが、一条の光のごとく、本書の読者に希望の光を投げ掛けるのでございます。

安易な希望に逃避することなく現実を直視し、それでいて絶望の淵に沈むことのない強さ――。 本書に描かれているのは、そういう健全な人間精神の手触りなのだと存じます。





( 以下は「健全な知性(2)」につづく)


健全な知性(2) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時28分0秒


 賢ちゃん
こないだ8時間カラオケをしたと思ったら、今度は入院か。まったく落ち着かない奴だなあ(笑)。

前々からわずらっていた鬱が思わしくないので入院するってことだけど、そりゃあ、こんなご時世で面 白くもない仕事をしていれば、鬱が良くなる理由なんてないだろうな。たしかに安心して入院してられる身分ではないんだろうけど、最後は健康あってのものだねだからね、今は開き直って、ゆっくり養生することだよ。もちろん、君が開き直れない性格だということは重々承知しているけれど、いまさら先のことを気に病んでも仕方がないんだし。

日記にも書いてたとおり、今は入院中に「本を読もう」とか「看護婦さんと仲良くなろう」とか、そっちの方を考えとけばいいんだよ。―― 本の方は書いてたけど、看護婦さんの方も……考えてはいただろう?(笑)

ま、他人の病気はどうしようもないからな、私としては、君を信じて待つしかない。一ヶ月なんて、あっという間だよ。こんなことでもなきゃ、与えられることのない時間なんだから、バカンスのつもりでその時間を大切に楽しんでくれ。人生は一度なんだ。楽しまなきゃ損だよ。





( 以下は「健全な知性(3)」につづく)

健全な知性(3) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時29分19秒


 はらぴょんさま
「Z文学賞選考会」

> ・「ユリイカ」(青土社)の8月号は、「特集・文学賞 A to Z 」で、『文学賞メッタ斬り!』の大森・豊崎コンビと、島田雅彦による「Z文学賞選考会」の模様が載っています。要注目。この「Z文学賞選考会」でも、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」がとりあげられています。(Aは、芥川を指すようです。)

ご紹介ありがとうございました。さっそく、今日購入してまいりましたが、ざっと見た感じでは、内容はさほど濃いものではなさそうでしたね。『文学賞メッタ斬り!』に便乗した、軽い読み物特集という印象でございました。

島田雅彦は「瞠目・反文学賞」の時に注目して、かなり失望させられた人物でございます。結局この人は、「エエカッコしい(気取り屋)」なんですが、「へたれ」の部分があって、最後まではツッパリきれない「半端な人」なのでございます。福田和也との馴れ合いめいた関係が、その良い証拠でございましょう。

> ・現在、舞城王太郎『九十九十九』の読書中ですが、これは今後「討論・笠井潔をめぐって」とも関係してくる内容を含んでいます。直接関係してくるのは、P272〜275とP516〜519ですが、この小説の内容自体が興味深い主題を含んでいます。(しかし、難しいテーマの小説だこと!)とりあえず、予告編ということで。

舞城王太郎は、私が注目する数少ない若手作家でございます。
『文学賞メッタ斬り!』で豊崎由美も言っておりましたが、舞城は「文体」意識のある数少ない若手作家であり、かつその文体は個性的で何より「力」がございます。「うまい」若手というのは結構いるのでございましょうが、「力」のある文体をもった若手作家は、ちょっと他には見あたりますまい。また、舞城は「繊細さ」と「太々しさ」が同居した作家で、その意味でも反時代的に不器用な作家だとも存じます。事実、文学賞の授賞式もふくめて、一切マスコミの前に姿を出さないという態度ひとつ取ってもみても、その個性は本物だと申せましょう。
たしかに、作家としても作品としても、バランスが悪く、完成度の点で問題を残すのではございますが、とにかくこんなユニークな作家は他にはおりません。もうひと皮むければと、思わず期待させる作家なのでございますね。

ちなみに、私が某所で会った某編集者は、いま注目する若手という話題になった時に、私が舞城王太郎の名を挙げると、なぜだか途端に不機嫌になってしまいました。その不機嫌の理由は語られないままだったのですが、ともあれ、嫌われるというのもまた、非凡な才能ゆえなのだと、私は意を強くしたのでございます(笑)。

なお、私はすでに『九十九十九』は読んでおります。ほかに読んだのは、デビュー長編『煙か土か食い物』と短編集『熊の場所』。あと二、三冊は買っておりますが、当分は読めないものと存じます。

錯綜するリアル、複数化する自己[17]〜[20]

こちらについては、後日別枠で。





( 以下は「健全な知性(4)」につづく)

健全な知性(4) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時31分25秒


 時雨さま
若造の上ですが、精一杯やらせていただきます

謙虚で誠実な御文に、好感を持ちました。――正直に打ち明けますと、前回かなり厳しい書き方をしたのは、ひとつには、貴方さまを試す(突ついて反応を見るという)意図があったからございます。
たしかに前回も『お書き込みいただいたご文を拝見すれば、時雨さまが真面目な方なのは重々承知しているのでございますが』などと書きましたが、あれはあくまでも「表面 的な評価」でしかなく、あの段階で、貴方さまの『真面目』さをそのまま信用していたわけではございませんでした。なにしろ、あの段階での貴方さまは、どこの誰とも知れない人物であり、私にはここの管理者としての責任がございましたから、貴方さまがここ「花園」で意見を交わすに値する人物かどうか、それを試さずにはいられなかったのでございます。
そんなわけですので、たいへん失礼をいたしましたが、悪しからずご容赦下さいまし。

では、今後は対等な議論の仲間として、忌憚なく語り合いましょう。

> 僕自身は某三流私大で歴史を専攻する大学生で、現在最大の関心を寄せているのはそちらの方になります。
> 歴史の資料などとは別に個人的な読書もしますが、あまり良い読書人とは言えないと思います。こちらで時折話題に上る京極夏彦や東浩紀などをかじったりしていますが、多く読むのは娯楽としてのライトノベルや漫画です。
> 後はゲームやアニメなども楽しみます。つまりいわゆるオタク、アレクセイ様の発言を借りれば『「世間」を知らない若者』ですね。

『某三流私大』などという書き方は、止めた方が良うございますよ。それでは「謙虚」ではなく「卑下」にしかなりませんし、「卑下」には往々にして「慢心」が付き物だからでございます。

言うまでもなく、人間の価値を決めるのは学歴ではございません。貴方さまは『某三流私大』かも知れませんが、私は「高卒」でございます。しかし、それを恥じているわけではございません。なぜなら、例えば、ミステリ作家や評論家には、東大や京大といった「一流国立大学」を出た人が少なくございませんが、彼らのやっていることはといえば、「大学除籍」で実質「高卒」を自慢する笠井潔に引きづり回され、「探偵小説研究会」や「本格ミステリ作家クラブ」を作り、凡庸な利益誘導活動にあけくれる、といった程度のことで、すこしも「知的」ではないからでございます。

「探偵小説研究会」には東大卒もいるはずでございますが、そんな人たちが高卒の私に批判されて、まともな反論ひとつできず、苦しまぎれに「余裕の薄ら笑い」を演じてまで「沈黙」せねばならないというのですから、「学歴」など、「人間の格」には何の関係もないのは、明らかなことでございましょう。そもそも、「一流大学」を出た彼らが、人間としては「二流」「凡庸」だというのは、「大学除籍」を自慢する「二流批評家」に手もなく牛耳られている事実からも、すでに明らかなのでございます。





( 以下は「健全な知性(5)」につづく)

健全な知性(5) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時32分39秒


 時雨さま(つづき)

また『読書人』というのも「読書をする人」という意味でしかなく、べつに人間の(あるいは、頭の)中味を保証するものではございません。その意味で、ご自身が『読書人』ではないからといって、引け目を感じることはございません。

だいたい、買った本を全部紹介してみせる(他人にひけらかす)人や、読んだ本についてすべて書評を書く等といった人は、ほぼ間違いなく「バカ」でございます。何冊読んでいようと、どんな本を読んでいようと、そういう人は「本質的にバカ」なのでございますよ。

ま、ともあれ、私もそうですが、酒も飲まず、女遊びもせず、博打もしないで、ただただ本を読んでいる人間が、「本をたくさん読んでいる」とか「たくさん、ものを知っている(書物的知識を有している)」というのは当たり前のことで、べつに自慢するようなことではありません。まして、私は貴方さまよりも20年ちかく余分に生きてきて、本ばかり読んできたのですから、本をたくさん読んでいるというのは、当たり前の物理的必然に過ぎないのでございます。

それに私の場合は、活字本を読みはじめたのは、高校からと遅かったので、今の貴方さまの年齢の頃なら、まだ京極夏彦は読みこなせなかったでしょうし、東浩紀なんて齧ることもできなかったでしょう。

私は、子供の頃はマンガばかり読んでいた子供でしたし、中学時に『宇宙戦艦ヤマト』、高校時に『機動戦士ガンダム』の洗礼を浴びた「第一次アニメファン世代」、つまり「前オタク世代」なのでございますから、時雨さまの「オタク」ぶりなど、ぜんぜん何とも思いません。なにしろ私の自慢は、同年に、かの宮崎勤上祐史浩などがいることなのですからね(笑)。さらに自慢話をいたしますと、私は高校の時、漫画部の副部長をやっておりましたし、『アニメージュ』誌は創刊号から200号まで揃えで持っておりますし、『機動戦士ガンダム』の「初放映時の録音(カセット)テープ」を、今も持っているのでございます(笑)。





( 以下は「健全な知性(6)」につづく)

健全な知性(6) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時33分24秒


 時雨さま(つづき)

それから、若者が『世間を知らない』のも当たり前のことなのですから、恥じる必要はございません。ただ、渡る世間には鬼もおりますから、自分の経験の乏しさを自覚しておいても損はない、というだけの話でございます。
前回私が、「世間知らずの若者」と書かずに、わざわざ『「世間」を知らない若者』と書いたのも、じつはそういう含みがあったからなのでございます。つまり、「世間知らず」というのは「(世間を知らないという属性を持つ)否定的な存在」を指す言葉でございますが、『「世間」を知らない』という形容そのものは「事実(属性)」を示すだけで、そこに「価値判断」を含まないのでございます。
――私は、大胆なことをズバズバ言う人間だと思われているかも知れませんが、よく読んでもらえれば、言い回しは結構慎重なのでございますよ(笑)。

> このように僕はお二方に比べれば未熟で無知な若輩者ですが、「ジャンルXのファンから見た笠井潔」という視点で何か言えまいか、と思いここに書き込ませていただきました。

お若いのですから、年長者である私たちより、人間的に「熟達していたり」、「知識があったり」しては、我々の立つ瀬がございません。ですから、そのあたりのことは我々に一応任せておいて(笑)、貴方さまはご自分の美点長所を、討論に生かして下さいまし。またそれが、貴方さまのおっしゃる『「ジャンルXのファンから見た笠井潔」という視点』ということなのでございます。これだけは、逆立ちしても、私には真似のできないことでございますからね(笑)。

――もっとも、世間には「本」を読んで、若者を理解したつもりになり、

「セカイ系、脱格系の作品は往々にして、主人公の自分語りを用いはします。とはいえ彼らは、外界と独立した確固たる近代的自我を抱えているわけではなく、他者からの(あるいは他者に対する)承認・否認のあいだでぐらぐら揺れながら、かろうじて自身の輪郭を保っているに過ぎない。何せ、社会領域を通 過しないコミュニケーションでは、こちらから送ったメールはしばしば宛先不明で戻ってくるし、逆に、誰とも知らぬ 相手から不意にケータイに電話がかかってくるかもしれないのですから。」

なんてことを教科書どおりに語る、大平楽な「世間知らずの読書バカ」の年寄りも、結構いるのでございますが、そのあたりに対する率直なご感想も、是非お聞かせ願いたいと存じます(笑)。





( 以下は「健全な知性(7)」につづく)


健全な知性(7) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(木)00時34分26秒

 Keenさま
> 追悼・中島らも

あくまでも印象の話なのでございますが、結局のところ、中島らもという人は、薬に依存する「弱さ」を持っていたように、私には感じられます。警察につかまって「もうやりません」みたいなことを言い、外に出た途端「あんなの本気じゃねえよ」みたいな強かなポーズを見せてはおられましたが、やはり私からすれば、あれは単に「ツッパリきれない小心者が、見栄をはってカッコをつけていただけ」のように思えてならないのでございます。

結局あの方は、酒に呑まれ、薬に呑まれ、状況にも呑まれていただけ、なのではないか。その意味では、警察が「それ見ろ、あの死に様」と言いたくなるような、――議論されてしかるべきドラッグ問題に関して、悪い影響だけをのこす―― 悪い死に方だったのではないかと存じます。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


世界の広さ(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 7月29日(木)14時00分31秒


 時雨さま
 はじめまして、ようこそいらっしゃいました! 

 すでにご承知のことと思いますが、ボクはこのサイトで園主さまの助手を勤めます「ホランド」と申します。以後よろしくお願いいたします。

 討論・笠井潔をめぐってにご参加くださるんですね。ホントにありがとうございます。
 こないだボクは、はらぴょんさんに新たな参加者なんかそうそう期待できないんじゃないかって書かせていただいたんですが、その予想がはずれて良かったって思ってます。

 園主さまも書かれていましたけど、『いわゆるオタク』であることはぜんぜん問題になりませんよ。だって、園主さまにしろ、はらぴょんさまにしろ、立派なオタクなんだし(笑)。

 むしろ逆に、「オタク的なもの」に理解のない人には、笠井さんをめぐる「本格ミステリ」や「思想」や「文学」の問題を論ずるのは、無理なんじゃないでしょうか。だって、問題となっている「本格ミステリ」にしろ「思想」にしろ「文学」にしろ、そういうジャンルにかかわる人って、そもそもオタク色が強いんですからね(笑)。

 そういう「自閉的自己満足」に向かう傾向のある人たちが、いかにそのジャンルについて「過剰な自負」を持ちたがり、そこにアイデンティティーを委ねたがるものか、ということは、園主さまがよく指摘するところですが、そういうのは園主さまが、いわゆるミステリマニアと呼ばれる人たちと長年つきあってきたからこそ、自信をもって言えるんだと思うんですよ。

 で、まあ、そういうオタクの心理と言うか、正確には「マニア」の心理なんですが、そのへんを押さえておくと、なぜ笠井さんが「本格ミステリ」の世界で覇権を握ることができたのか、というのもよくわかると思うんですよ。

 つまり、「思想」や「文学」は「メインカルチャー」に属するものでしたけれど、「ミステリ」はずーっと「サブカルテャー」に属するものとして一般 に理解され位置づけられてきました。だから「ミステリ」にアイデンティティーを委ねている人たちは、自分たちが「傍流(二流)あつかい」にされていることに、強い「不満と劣等感」を抱きつづけてきたんですね。特に「本格ミステリ」は、「ミステリ」の中では『王道』(山口雅也)だというエリート意識が持っていたから、余計に「傍流扱い」が我慢ならなかったんです。
 そして、そんな人たちのところに、「思想」や「文学」といった「メインカルチャー」の権威をまとった笠井潔という異能の作家=評論家が降り立って「本格ミステリこそ、真に現代の文学なのである」なんて言ってくれたもんだから、「国粋主義者が、日本文化をヨイショしてくれる外人学者を殊更ありがたがる」ように、作家を含む「本格ミステリ」マニアの人たちは、笠井さんの「メインカルチャー」的権威に跳びついちゃった、というわけなんですよね。

 つまり、作家を含む「本格ミステリ」マニアたちが、笠井潔に跳びついたのは、「主流コンプレックス」のわかりやすい表れなんですよ。上述のとおり、それは「国粋主義者が、日本文化をヨイショしてくれる外人学者を殊更ありがたがる」のとそっくりそのままで、その際、その学者が『外人』であることが重要なのであって、「学者としては二流」であることの方は問題にならない、というのも「笠井潔と本格ミステリ界」をめぐる問題と相似的なんですよね。

> 「ジャンルXのファンから見た笠井潔」という視点で何か言えまいか、と思いここに書き込ませていただきました。

 とにかく、園主さまやはらぴょんさまにはない視点からのご感想に、大いに期待しています。遠慮なく思うところを語って下さいね!



 はらぴょんさま
> 錯綜するリアル、複数化する自己

 いよいよ、舞台をここ「花園」に移しての討論・笠井潔をめぐってが本格化してきて、「花園」もにわかににぎやかになってきましたね。
 資料の読み込みまでなさっているはらぴょんさまには、とてもついていけそうにありませんが、ボクも書けることがあったら書かせていただきますので、よろしくお願いいたします。


若者の目から(1) 投稿者:時雨  投稿日: 7月29日(木)17時06分9秒

Keen様
丁寧な自己紹介ありがとうございます。
あいにくデスノートは未読です、ごめんなさい。
好きな漫画はたくさんあるのですが・・・基本的には少年漫画(および少年漫画的な漫画)ですね。
ここで以前話題に上った「仮面ライダーSPIRITS」なんかは集めてますし、「TRIGUN」とか「ヘルシング」とかが大好きです。


若者の目から(2) 投稿者:時雨  投稿日: 7月29日(木)17時21分0秒

園主様(これからはこう呼ばせていただきます)

>正直に打ち明けますと、前回かなり厳しい書き方をしたのは、ひとつには、貴方さまを試す(突ついて反応を見るという)意図があったからございます。

>そんなわけですので、たいへん失礼をいたしましたが、悪しからずご容赦下さいまし。

考えれば当然の対応ですので、こちらは気にしておりません。
同じ状況であれば僕もそうしたでしょうし。
むしろわざわざこんなことを言われてしまってこちらが申し訳ない気分です。

>「謙虚」ではなく「卑下」にしかなりませんし、「卑下」には往々にして「慢心」が付き物だからでございます

分かりました、自分には卑屈なところがあると常々考えていましたし、気をつけます。

>私は貴方さまよりも20年ちかく余分に生きてきて、本ばかり読んできたのですから、本をたくさん読んでいるというのは、当たり前の物理的必然に過ぎないのでございます

それもそうですね。これから僕も時間を無駄にしないよう本を読んでいきたいと思います。

>つまり「前オタク世代」なのでございますから、時雨さまの「オタク」ぶりなど、ぜんぜん何とも思いません。
>『機動戦士ガンダム』の「初放映時の録音(カセット)テープ」を、今も持っているのでございます

すごい!そういう人がいるという話は聞いたことがありましたが・・・
まさか本当に出会えるなんて!

若者の目から(3) 投稿者:時雨  投稿日: 7月29日(木)17時43分5秒

園主様(続き)

>若者が『世間を知らない』のも当たり前のことなのですから、恥じる必要はございません

>お若いのですから、年長者である私たちより、人間的に「熟達していたり」、「知識があったり」しては、我々の立つ瀬がございません

確かにそうですね、生意気なことを言ってしまいました。申し訳ありません。

>貴方さまはご自分の美点長所を、討論に生かして下さいまし。またそれが、貴方さまのおっしゃる『「ジャンルXのファンから見た笠井潔」という視点』ということなのでございます

分かりました、僕なりの意見を出来る限りの「真剣」と「誠実さ」を持って書き込ませていただきます。

>もっとも、世間には「本」を読んで、若者を理解したつもりになり
>大平楽な「世間知らずの読書バカ」の年寄りも、結構いるのでございますが、そのあたりに対する率直なご感想も、是非お聞かせ願いたいと存じます(笑)。

もちろんです。そのためにここに来たのですから。
僕から見れば最近の笠井潔のジャンルX に対する反応(マンガ・ライトノベルへの批評、乙一やTYPE-MOONとの対談など)は「はぁ?なに言ってるんだこのおっさん、つうか話かみ合ってないじゃん」と思う反面 、「へぇ、そういう見方も出来るんだ」と思わせるところもあったりします。
これについては「空の境界」の解説を対象にしていずれ。園主様が「空の境界」を読了されたあたりでこちらもまとめて投下したいと思います。


若者の目から(4) 投稿者:時雨  投稿日: 7月29日(木)17時59分30秒

ホランド様
>はじめまして、ようこそいらっしゃいました!

はじめまして、こちらこそよろしくお願いします。

>「討論・笠井潔をめぐって」にご参加くださるんですね。ホントにありがとうございます。
>こないだボクは、はらぴょんさんに新たな参加者なんかそうそう期待できないんじゃないかって書かせていただいたんですが、その予想がはずれて良かったって思ってます

こちらこそ突然やってきた僕を信用して参加させていただいてうれしい限りです。
実はお二人のやり取りは拝見していました。
そういう発言が出ている状況であれば自分が参加する事にも意義があるのではないかと思って。

>問題となっている「本格ミステリ」にしろ「思想」にしろ「文学」にしろ、そういうジャンルにかかわる人って、そもそもオタク色が強いんですからね(笑)。

そうなんですよねぇ、大学で文学部にいる身なのでその辺は良く分かります(笑)。

>オタクの心理と言うか、正確には「マニア」の心理なんですが、そのへんを押さえておくと、なぜ笠井さんが「本格ミステリ」の世界で覇権を握ることができたのか、というのもよくわかると思うんですよ。

>作家を含む「本格ミステリ」マニアたちが、笠井潔に跳びついたのは、「主流コンプレックス」のわかりやすい表れなんですよ。上述のとおり、それは「国粋主義者が、日本文化をヨイショしてくれる外人学者を殊更ありがたがる」のとそっくりそのままで、その際、その学者が『外人』であることが重要なのであって、「学者としては二流」であることの方は問題にならない、というのも「笠井潔と本格ミステリ界」をめぐる問題と相似的なんですよね。

なるほど。ところでこのかたち、なんだか東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況と少し似ているような?


若者の目から(5) 投稿者:時雨  投稿日: 7月29日(木)18時20分32秒

はらぴょん様 
>錯綜するリアル、複数化する自己

九十九十九ってそんな話だったんですね。
僕は舞城については『ファウスト』第一号に乗った『ドリルホール・イン・マイブレイン(だったかな?)』を呼んだきりなのでよくわからないのですが・・・
そういえばあれも複数の自己をテーマにした短編だったような。

ところで

>法月綸太郎にとって問題化した「後期クイーン的問題」
>P272からP274では、最近のミステリ評論の中の「大量死理論」に対する反発の言葉がみられる。無論、「大量 死理論」とは笠井潔の唱えた理論である。

というくだりですが、ここでなぜか僕は浦賀和宏(個人的に好きな作家の一人でもあったりします)を連想してしまいました。確か彼も似たようなこと作中人物に語らせて笠井潔の『ミネルヴァのふくろうは黄昏に飛び立つか』で批判されていたし、後期クイーン問題についてもちょこっと言及していたからでしょうが・・・
手元の資料が不足しているので今はかけませんがいずれ彼について何か書いてみようと思います。


『ザ・コーポレーション』 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月29日(木)17時46分20秒

どうも、こんにちは。<おたく>のはらぴょんです。
<おたく>というのも、結構さまざまな場所にセンサーを張り巡らせておかねばならず、日々精進の賜物だったりします。
さて、今日は「討論・笠井潔をめぐって」とは関係のない話です。
マイケル・ムーアやノーム・チョムスキーが出演しているドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』を、アップリンクが配給するそうです。(下記URL参照。)ネタ元は、UPLINKのメルマガです。
マイケル・ムーアやノーム・チョムスキーの名は、この掲示板でも言及されたことが多々ありますからね。ご参考までに。
ちなみに、ノーム・チョムスキーって人は、自分の中でバートランド・ラッセルのイメージと重複しています。彼らの学問は<おたく>のセンサーにひっかからないのですが、彼らの反戦論は気になるのです。
それから、時雨さまの「ジャンルXのファンから見た笠井潔」の話が早く聴きたいです!

http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040610204.html


訂正 投稿者:時雨  投稿日: 7月30日(金)18時04分52秒

いくつか誤字脱字がありました。

(1)あありがとございます→ありがとうございます
  仮面ライダー魂→仮面ライダーSPIRITS

(4)とこでこのかたち→ところでこのかたち

(5)個人的に作家の一人でもあったりします→個人的に好きな作家の一人であったりします

はらぴょん様
期待してくださるのはうれしいのですが、その分失望させてしまうのではないかと不安です。
とりあえず僕にとっての評論家としての笠井潔観は園主様への返事で書いたとおりです。
小説についてはまたいずれ。


気苦労が多すぎる 投稿者:はらぴょん  投稿日: 7月30日(金)20時18分44秒

乙一の『小生物語』(幻冬舎)が刊行されました。「小生」という名前で綴られた日記なのですが、作家の日記ですから、「小生」というのもつくられたキャラクターです。
この日記に、「小生」が「笠井潔先生」と三度目の対談をした時のことが書かれています。対談は、一泊二日で八ヶ岳で行われた、とあります。駅から「笠井潔先生」が運転する車に乗って、大変恐縮したとあります。「小生」は「笠井潔先生」に運転してもらうなどということは、とんでもないことで、「小生」は車に引きずられるくらいがちょうどいいと言っています。
「笠井潔先生」のお宅は、屋根裏部屋・地下室・巨大なスピーカーがあり、「小生」は圧倒されます。「小生」は、そこで温泉などのもてなしを受け、次第に非現実感に襲われます。自分が小説家になったとか、「笠井潔先生」とお会いするようになったというのは、実は夢を見ているだけではないか、と。八ヶ岳で、「小生」は「笠井潔先生」や「駆くん」や出版社の人に出会い、「小生」は「笠井潔先生」と出版社の人が「五十肩」の話をしているのを聞きますが、「小生」にとって曖昧模糊とした夢うつつの世界です。
翌日の日記を見ると、八ヶ岳で疲れて、寝込んでしまったとあります。これは精神的な気苦労のせいではないか、と思われます。
後に「小生」は精神科医に夢を見ているような非現実感の話をして、薬を処方してもらったとあります。
冒頭に記したように、「小生」は必ずしも「乙一」とイコールではありません。
しかし、まったくのフィクションでもないようです。
これを読んで、なんだか普通の日本の会社の人間関係みたいな感覚を覚えました。文壇というのは、自由業者の集まりですから、もう少しラフであってもいいと思うのですが、「小生」の「笠井潔先生」への恐縮度を見ていると、新入社員が会社の役員とともに慰安旅行に行ったときの光景のように見えてくるのです。

http://mylog.ishinao.net/id/65


空虚に巣食う魔(1) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(土)22時39分15秒

笠井潔が上下巻にわたる長文の解説を付した、新人作家 奈須きのこのデビュー作『空の境界』。その文章が、壊滅的に酷いものであるという事実については、すでに奈須きのこの文章力(1〜4)において、実例を挙げて証明しておいた。しかしそれは、『空の境界』の冒頭10ページほどを読んだだけの段階でのことである。

「だから」と言うべきか、「それでも」と言うべきか、ともかく私は、このデビュー即ベストセラーになった新人作家の小説を、いちおうは最後まで読んで、きちんと評価してみたいと、その段階では考えていた(上下各巻の帯には、それぞれ「これぞ新伝綺ムーブメントの到来を告げる、傑作中の傑作」「これぞ新伝綺ムーブメントの起点にして到達点」という惹句が躍っている)。
しかし、その意欲は、冒頭30ページまで読むにいたり、あっさりと挫折してしまった。あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さに、それ以上は読むに堪えなくなったのである。

私は、笠井潔を憎みこそすれ、奈須きのこを憎む理由など少しも持たない。奈須きのこが、笠井潔の推輓をえてデビューした作家だからといって、彼に八つ当たりするほど、私はつまらない人間でもなければ、党派的な人間でもないつもりである。しかし、下手なものは下手、ダメなものはダメとしか評価のしようがない。これは、笠井潔云々以前の話なのである。

なぜこの程度の作品を、笠井潔は持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者とって、『空の境界』の文章は、あまりにも酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。

ともあれ、笠井潔の「解説」では、まったく言及されることのなかった『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』について、ここでもう少し、実例に則して説明を加え、その上で、この点に口を閉ざした笠井潔による「解説」の意味を、後で問うてみたいと思う。

前回の奈須きのこの文章力(1〜4)では、目次や扉ページを除いて、実質的に本編がはじまるP9からP17の章の区切り部分までを対象として、目につく「おかしな文章」を取り上げたわけが、今回は、それ以降、P33の第1章第2節の最後までを対象とする。ここまで読んで、私は通 読を断念したのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(2)」につづく)


空虚に巣食う魔(2) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(土)22時40分5秒


(1) 風景描写。(P17)

『 行儀よく同じ高さのビルが道に並んでいる。ビルの表面 は一面の窓ガラスで、今はただ月明りだけを反射していた。』


『ビルが道に並んでいる』わけはない。道に「沿って」並んでいるのである。また、ここは深夜のビル街の散歩シーンなのだから、そもそも『道に』は不必要だろう。誰も、ビルが林や田んぼのなかに並んでいる情景を思い浮かべたりすることはない。つまり「行儀よく同じ高さのビルが並んでいる。」で充分でなのある。

『ビルの表面は一面の窓ガラスで』……言いたいことはわかるが、日本語になっていない。作家が言いたいのは「ビルの壁面 は一面ガラス張りで」ということなのであろうが、「壁」がガラスで出来ている以上、そこには「窓」という設備は存在しない。したがって、ガラス壁をのガラスを『窓ガラス』と形容するのは間違いなのである。



(2) 意味不明な形容。(P17)

『 その時―――つまらない影が網膜に映りこんだ。
 人型らしいシルエットが視界に浮ぶ。』


『つまらない影』とは、いったい何なのか? もちろん例外的には「面白い影」もあるだろうが、普通 、影は面白くもおかしくもないものだから、『つまらない影』などという「意味をなさない日本語」を書く者は、まずいない。小説家では皆無と言ってもいいだろう。



(3) 人形の描写。(P20)

『 それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。人間をそのまま停止させたようなそれは、同時に、決して動かない人型である事を明確に提示していたと思う。
 明らかに人ではなく、同時に人にしか見えないヒトガタ。
 今にも息を吹き返しそうな人間。けれど初めから命などない人形。生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。
 その二律背反に、僕は虜になった。』



この作家は『二律背反』が好きである。しかし、彼の言う『二律背反』とはたいがい『二律背反』ではなく、単なる「論理的混乱」に過ぎない。この作家の非論理性については、奈須きのこの文章力(3)の「自殺-事故死-他殺」をめぐる議論で指摘済みである。

この「人形」をめぐる議論でも、同種の「言葉の混乱」による「論理の混乱」が見られる。だが、それがそのまま、「思わせぶり」な議論として、ヌケヌケと読者の前に放置されてもいる。しかし、『道徳ぎりぎりにまで迫ったほど』などという恥ずかしい日本語や、『生命しか持ちえない、しかし人間では届かない場所。』というほとんど意味不明な文章に、その誤謬は明らかである。

『それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。』を、普通 に(論理的に)意味の通る日本語に訂正すると、

 (A) それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫った、すごく精巧な人形だった。
 (B) それは道徳の限界ぎりぎりに迫る、すごく精巧な人形だった。
 (C) それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったと思えるほど、すごく精巧な人形だった。

となるだろう。
『迫ったほど』などという表現は、奈須きのこの文章力(4)で説明した『幾多もの』という表現同様、論理矛盾を来たしたものなのである。

ちなみに、「人間そっくりの人形を作ること」が、どうして「道徳」と関係してくるのかだが、これは「人形づくり」が「神の御技」の僭越な模倣であるという意味において、「反道徳的」だと考えることができるのである。
だが、この作者にそこまではっきりした認識があって、『それは道徳の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、すごく精巧な人形だった。』などと書いたかどうかは、はなはだ疑わしいと言わざるをえない。むしろ「人形づくりとは、背徳的で甘美な魅惑に満ちた行いである」といった、使い古されて言い回しを、無自覚になぞっただけなのではないかと、私には感じられる。

この作家の論理レベルから推せば、こうした「思わせぶり」な表現は、内容を欠いたその「思わせぶり」による「朦朧」性にこそ、価値があるのではないか。つまり、「無意味(無内容)」だからこそ、非論理的な読者からは「過大評価」という「誤解(妄想)」呼び込むこともできる、ということなのではないか。
京極夏彦風に言えば「その箱は、からっぽだった。そこに魍魎が湧いた。魍魎とは、空虚のことだった。――なんだか、ひどく疲れた」とでもなろうか。





( 以下は「空虚に巣食う魔(3)」につづく)


空虚に巣食う魔(3) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(土)22時41分20秒


(4) 連続飛び降り自殺事件に関する警察の動きについての、黒桐幹也の意見。(P23)

『「……だって遺書が公開されてないでしょう。六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしい物を公開してもいいだろうに、それをひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」』


この論理的混乱は、黒桐幹也をことさら「頭の悪い人物」として描いているせいではなかろう。問題は、作者のほうにある。

遺書の残された自殺があった場合、「警察」がその遺書を公開することは、まずない。これは件数には関係がない。なぜなら、それはそれぞれが、死者の「プライバシー」の無用の侵害にしかならないからである。「警察」が遺書を公開するとすれば、それはその「自殺」が疑われている場合であろう。つまり「自殺」ではなく「偽装殺人」なのではないかなどと疑われる場合に、遺書の信憑性が問題となるから、裁判などでそれが「証拠資料」として取りあげられ、その過程でマスコミに公開される場合もある、というだけの話である。

したがって、明らかに自殺だと認識されている場合には、「警察」は「自殺者」の遺書を公開したりはしない。「遺族」が、マスコミの要請に応じて公開することはあっても、「警察」が勝手に公開するようなことはありえない。これは『数』の問題ではないから『六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもいいだろうに。』ということにはならないのである。

無論、「公開しない」ということと『ひた隠し』にするということは同じではない。同様に「非公開」と「隠蔽」は、同じ意味ではない。当たり前の話なのだが、その区別 が、作者にはついていない。だから、読者に好感をもたせてしかるべき「主要な登場人物であり、語り手」である黒桐幹也に、バカ丸出しのことを語らせてしまう。





( 以下は「空虚に巣食う魔(4)」につづく)


空虚に巣食う魔(4) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(土)22時42分13秒


また、『それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもいいだろうに』という文章は、「主語」が曖昧である。公開するのは「警察」なのか、それとも八人の「自殺者」のうちの『一人(ぐらい)』なのか。――もちろん、死者である「自殺者」は遺書を公開できないから、公開するのならば「警察」か「遺族」ということになろう。ここでも文脈から言えば「警察」のことを言っているのは明らかである。しかし、

『それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを公開してもしてもいいだろうに』

という文章では、どう読んでも『公開』するのは「自殺者」本人ということになってしまう。だから、この文章は本来なら、

「それに六人、いや八人ですか。それだけの数なら一人ぐらい遺書らしきものを残していてもいいだろうに、それを(警察が)ひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」

とすべきところなのである。しかし、遺書の存在そのものが公にされていないのだから、こうした議論自体そもそも成り立たない。つまり、作者はここで、「遺書の存在」の問題と「遺書の公開」の問題を混乱させて、話を「思わせぶり」にしているだけなのである。――このことは、この先のところで、黒桐幹也が、

『「……遺書は公開されないんじゃなくて、初めから用意されてないって事ですか?」』

という科白を吐くことからも明らかである。これは、黒桐幹也が気づかなかったことに気づく、蒼崎橙子の知的鋭さを強調する場面 なのだが、その橙子の説明も見事なまでに非論理的で、ほとんど『ドグラ・マグラ』の一シーンを連想させるほどである。曰く、

『だから、それが関連性だ。いや共通点のほうが正しいか。八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残しておきたい言葉は無く、警察もその共通 点を重要視していないんだろうね』

なにが『故に』なのか、まったくわからない。何の論証にもなっていないのだ。
自殺者に、ハッキリとした動機が発見されないというのは、ごくありふれたことである。それこそ、遺書が残されておれば、そこに理路整然と自殺の理由がしたためられているといった「例外的な事例」もあろうが、遺書が残されていてさえ、自殺の理由がハッキリしないことなど、世の中には幾らでもあるのだ。芥川龍之介だって『漠然たる不安』によって自殺したんだなどと言われているではないか。

なのに蒼崎橙子は、死者たちの投身時の状況が自殺としか思えないことと、『彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もない』といった事実だけで、死者たちの死の理由が『極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。』と断言する。
自殺の理由など、それこそ露見していないだけで、じつは会社の金を横領していたとか、失恋や友人の裏切りといった、ハッキリとしたものなのかも知れないではないか。それをどうして、こうもあっさり『自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。』などと断言できるのか。
――答えは、その方が事件自体を「思わせぶり」なものとして演出できるし、断定的口調が蒼崎橙子の頭の良さを表現し(え)ていると読者に誤解させることができる、と作者が考えているからである。つまり、作者によって想定される読者の知的レベルは、極めて低いと言えよう。私から見れば、蒼崎橙子はバカそのものである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(5)」につづく)


空虚に巣食う魔(5) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(土)22時43分0秒


(5) 蒼崎橙子の言葉についての黒桐幹也の内的思考。(P24)

『 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。
 遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。
 遺書のない自殺。
 遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。
 そして、飛び降りは完全な自殺ではない。
 人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか。だとしたら、何らかの形で遺書は用意されているのが道理だ。
 ならばどうなのだろう。それでも遺書らしき痕跡さえないというのなら―――第三者が彼女達の遺書を持ち去ったのか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。
 ではなにか。考えられる理由は一つ。
 つまり、文字どおりソレは事故なのではないか。
 彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。』

『遺書がないのはなぜだろう。』――蒼崎橙子の無根拠な断定を鵜呑みにしている。バカである。
『遺書がないのでは、人は自ら死なない。』――まるで逆である。遺書があるから、人は自殺するのではない。自殺する者が、遺書を書いたり書かなかったりするだけの話である。黒桐幹也は、単に頭が悪いだけではない。彼には因果 律すら存在しないのである。だから、論理的思考などできようはずもない。

ここでの黒桐幹也の内的思考のデタラメさについて、逐一解説する気には到底なれない。私が説明しなくても、わかる人にはわかるし、わからない人には説明そのものが理解できないに決まっているからである。
ただし、大まかにだけ説明しておくと、 黒桐幹也の思考は、「極論」が「スタンダード」にすり変わり、個人的な「感想」や「仮定」がいつのまにか「定義」になり、やがて単なる「思いつき」が「確信」へと妄想的に変移して「断定」に結果 する、といった態の「蒙昧」そのものなのである。

もしかすると、――笠井潔は、この小説をちゃんと読んでないんじゃないか、と思ってしまう。それなら幸いなのだが、そういうことでもないらしいのが、かえって恐ろしい。笠井は(頭が)どうかしてしまったのだろうか?





( 以下は「空虚に巣食う魔(6)」につづく)


空虚に巣食う魔(6) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(土)22時44分16秒


(6) 両儀式の「飛行」に関する見解。(P25)

『過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。だが、空に憑かれた者ほどその事実が欠落していてね。』


『過去、人間だけの力で飛行を試み成功した者はいない。』――意味不明である。
『人間だけの力で飛行』というのは、「人力だけ」という意味で「動力を用いない」ということなのか、それとも「一切の道具」を用いず「裸一貫」で飛ぶということなのか。
言うまでもなく、人間は「動力」を用いずに空を飛んでいる。「ハングライダー」での飛行は、立派に「無動力」飛行である。それとも両儀式は、「ハングライダー」という道具を用いているから『人間だけの力で飛行』したとは言えないとでも言うのだろうか。それならば不可能なことはわかり切っている。『過去』も『未来』もありはしない。話にならない。

『飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。』――日本語ではない。イヤになる。いきおい文章がぶつ切れになってきた。
『飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。』――頭が痛くなりそうである。吐き気を催しそうだ、と言っても良い。

これも書くのなら、

 ・ 飛行という言葉と墜落という言葉は一対のものだ。
 ・ 飛行と墜落とは、観念連合を為している。

といったところだろう。

『だが、空に憑かれた者ほどその事実が欠落していてね。』――言うまでもなく『空に憑かれた者』ほど『欠落』させているのは、「飛行と墜落とは一対のものだ」という「認識」であって、『事実』ではない。だから、事実として『墜落』することがあるのである。



(7) 地面についての蒼崎橙子の説明。(P32)

『しかし、君が水平と思っている地面も不確かな角度なんだぞ。』


『地面』は、確かか不確かかにかかわりなく『角度』なんかではない。それも言うなら、

「しかし、君が水平だと思っている地面も、厳密に言えば、いくらかの角度はついてるんだぞ。」



これで、もう充分に『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』を立証できたと思うが、いかがであろう。

ともあれ、たかだか30ページほど読んだだけで、こんなに引っ掛かるところがあるのだから、上下巻で約850ページの通 読を、私が断念した気持ちは充分に理解してもらえようし、こんな作者に期待できないという気持ちも理解してもらえると思う。
見てのとおり、笠井潔が推薦した新人だから腐しているというわけではない。これは、そのずーっと以前の話なのである。(つづく)




http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


見る角度によって(上) 投稿者:園主  投稿日: 8月 1日(日)02時05分3秒

みなさま、本日(7/31)は京都まで、本の買い出しに行ってまいりました。主たる目的は、私の大好きな画家山本タカトの第3画集『ファルマコンの蠱惑』(エディシオン・トレヴィル)のサイン本の購入でございます。これまでは京都のアスタルテ書房が山本のサイン本(画集)をあつかっておりましたので、数百円のサイン代を加算されるかも知れないものの、どうせ買うのであればサイン本をと、古本屋めぐりを兼ねて、出かけてきたのでございます。
結論から申しますと、アスタルテ書房には『ファルマコンの蠱惑』のサイン本はおろか、画集そのものが入荷されておりませんでした。私が店主に「山本タカトの新しい画集のサイン本は、まだ入っていないんですか?」と尋ねますと、店主はすこし驚いた様子で「出たんですか?」と聞き返しました。
「ええ、まだ出たばっかりですけど、こちらならサイン本があると思ってきたんですが、まだなんですか?」
「ええ」
「入る予定はあるんでしょう?」
「わかりません」
――どうやら、何の連絡もなかった、ということらしい。私は、たぶん店主が版元にたいして気を悪くしているのだろうと思って、それ以上は追求せず、彼の「これならありますよ」と奨めた、
 『夕化粧』(石川貴一 作・山本タカト 装丁・沖積舎 刊・両者サイン入り)
を購入するに止めました。ほとんど無名なのであろう詩人による、半自費出版と思われる耽美小説集でございます。

目論見がはずれた私は、その後、京都では必ず立ち寄る「三月書房」に足を向けたのでございますが、ここでもこれといった収穫はなく、今日は空振りかと落胆しつつ、はらぴょんさまにご紹介いただきました乙一の新刊『小生物語』(幻冬舎)を購入すべく、河原町の新刊書店「ブックファースト」に寄りました。この店にはひさしぶりだったのでございますが、文芸書に力を入れているのがハッキリわかる充実の棚構成に感心。ですが、大西巨人の『深淵』をまだ平積みにしてくれていたり、文庫の棚でも『神聖喜劇』全5巻が平積みにしてあるのには、うれしいさを通 りこして、経営状況が心配になりさえいたしました(笑)。しかし、そのような店だからこそでございましょう、思いもかけない収穫がございました。

まず、多和田葉子の『容疑者の夜行列車』(伊藤整賞・谷崎賞受賞、2002年7月刊)と『球形時間』(ドゥマゴ文学賞受賞、2002年6月刊)の初版(初刷)本が、まだ残っていたのを発見。多和田は、文壇での評価は高いものの、決して売れっ子作家ではございませんから、初版の部数も少なめで、賞などとろうものなら、あっと言う間に版を重ね、初版が消えてしまう作家でございます。しかし、この種の玄人好みの賞の受賞作(初版本)では古書価がつくこともございません。ただ、めったに文庫になることのない作家の本を、単行本で購うとすれば、やはり初版で買いたいというのが、コレクターの性というものなのでございます。

つぎに、角川文庫版『バッテリー』1・2巻のサイン本がございました。色紙も掲示されておりましたので、たぶんサイン会をやったのだと存じますが、その残りがあったのでございます。残念ながら第1巻の方は第7刷でございましたが、青波が表紙に描かれている第2巻は第1刷でしたので、それで良しとすることにいたしました。

もちろん、この店で乙一の新刊『小生物語』を購入いたしました。
帰りの電車で、この本をぱらぱらとめくっておりますと、いきなり「アスタルテ書房」というゴシック文字が目に飛び込んでまいりました。

『ところで京都へ行った際、とある編集者の方に教えていただいたおすすめの古本屋にも行きました。定金先生と街をうろつきながらようやく探し当てた古本屋は、「アスタルテ書房」という名前の店でした。雰囲気も品揃えも僕好みでした。すごい店でした。店の奥で黒魔術をやっているような雰囲気でした。店員の女性は漫画『アウターゾーン』のミザリーみたいでした。』(P19)

『漫画『アウターゾーン』のミザリー』というのは良く存じませんが、だいたいの想像はつきます。と申しますのも、私もそれらしい、インパクトの強い服装をした、お人形さんのような女性店員を、二度ほど見かけたことがあるからでございます。――ですから、ここでスティーブン・キングの『ミザリー』を思い浮かべてはならないのでございます。

ま、何はともあれ、これだけ誉められているのでございますから「アスタルテ、頑張れよ!」――と思った私なのでございます。





(以下は「見る角度によって(中)」につづく)


見る角度によって(中) 投稿者:園主  投稿日: 8月 1日(日)02時06分4秒


 時雨さま
ここで以前話題に上った「仮面ライダーSPIRITS」なんかは集めてますし、「TRIGUN」とか「ヘルシング」とかが大好きです。

そうでございますか(笑)。それではいずれ仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂のご感想などもお聞かせ下さいまし。


>>『機動戦士ガンダム』の「初放映時の録音(カセット)テープ」を、今も持っているのでございます

すごい!そういう人がいるという話は聞いたことがありましたが・・・
> まさか本当に出会えるなんて!

う〜む。なんだか私も「歴史の証人」みたいになってまいりましたねえー……(-_-;)。


僕から見れば最近の笠井潔のジャンルX に対する反応(マンガ・ライトノベルへの批評、乙一やTYPE-MOONとの対談など)は「はぁ?なに言ってるんだこのおっさん、つうか話かみ合ってないじゃん」と思う反面 、「へぇ、そういう見方も出来るんだ」と思わせるところもあったりします。
> これについては「空の境界」の解説を対象にしていずれ。園主様が「空の境界」を読了されたあたりでこちらもまとめて投下したいと思います。

空虚に巣食う魔(1)〜(6)

というわけで、『空の境界』については、あえなく挫折いたしましたので、遠慮なくやって下さいまし(笑)。


訂正

討論・笠井潔をめぐってのページの方は、すでに訂正しております。
掲示板の方は、バックログの方で訂正してあります。どうぞ、ご確認下さいまし。





(以下は「見る角度によって(下)」につづく)

見る角度によって(下) 投稿者:園主  投稿日: 8月 1日(日)02時07分12秒


 はらぴょんさま
『ザ・コーポレーション』

> マイケル・ムーアやノーム・チョムスキーが出演しているドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』を、アップリンクが配給するそうです。

ご教示、ありがとうございました。ぜひ、観てみたい映画でございます。

> ノーム・チョムスキーって人は、自分の中でバートランド・ラッセルのイメージと重複しています。

たしか、チョムスキーはバートランド・ラッセルを敬愛していて、MITの自室には、ラッセルのポスターを貼っていたと記憶いたします。

> 彼らの学問は<おたく>のセンサーにひっかからないのですが、彼らの反戦論は気になるのです。

その気持ちを大切になさって下さいまし。知的であるということは、現状に安住しない、ということなのでございますから。


気苦労が多すぎる

> 乙一の『小生物語』(幻冬舎)が刊行されました。

ご教示、ありがとうございました。

> これを読んで、なんだか普通の日本の会社の人間関係みたいな感覚を覚えました。文壇というのは、自由業者の集まりですから、もう少しラフであってもいいと思うのですが、「小生」の「笠井潔先生」への恐縮度を見ていると、新入社員が会社の役員とともに慰安旅行に行ったときの光景のように見えてくるのです。

「文壇」とて、実態はごく平凡な「世間」なのでございますよ。

『自由業者の集まり』だから「自由」だなどということはありえません。人が集まれば、そこにはおのずと「序列」や「暗黙の取り決め・しきたり」などができて、「不自由」で「安定」した「世間」が形作られるのでございます。
それに「自由人」というのは「個人」の属性の表れでしかなく、『自由業者』だから「自由人」であるなどということは、まったくないのでございます。

つまり「自由であるべき文学者」だから「自由なのだろう」というのは、誤認であり「幻想」にすぎません。「自由であるべき」だけれども、大半は「不自由人」だというのが、文学者の「ありのままの姿」なのでございます。

したがいまして、文壇的な力を持つベテラン作家に「スキー接待」をする若手・中堅作家もおれば、将来を嘱望される若手作家を可愛がって子飼いにし、自身の「延命」を図ろうとするベテラン作家というのも、当然のごとく存在するのでございます(笑)。

「乙一くん、今度みんなで、スキーをするんだが、君も来たまえよ」
「乙一くん、今度みんなで、書き下ろしアンソロジーを出すんだが、君も参加したまえよ」
「乙一くん、そろそろ君も「e-novels」に、何か書きまえよ」
  ・
  ・
  ・
「乙一くん、当然『GOTH』の文庫解説は僕が書いてあげるから、君は僕の新刊の推薦文を頼むよ」
  ・
  ・
  ・
「乙一くん、君、……僕のことをバカにしてないか。あれだけ面倒を見てやっているのに、……僕をなめたら、ただでは済まないよ」



 ホランド
>  それにしても、あと10年もしたら、冗談抜きで「大下らんぽ」とか「山野Q作」なんて若手作家が出てくるのかも知れません。そうなるとボクも「おじさん、ついていけないよ」って言いたくなるかも・・・。

べつに、無理してついていく必要はないよ(笑)。

若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


心はアラゴン(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 1日(日)03時40分19秒

はらぴょん様
>気苦労が多すぎる
うーん、僕は現物を読んでないし乙一氏の作品は『GOTH』と短編を幾つか読んだだけなのでなんともいえませんが、ちょっと穿ち過ぎではありませんか?
乙一氏はあとがきなどから判断するに繊細な方のようです。そんな方が遠方の同業の先輩の家にわざわざ招かれた上に手厚くもてなされたら緊張しない方がおかしいですよ。
実際僕も受験で親戚の家に泊まったときやたら親切にしてもらって恐縮したおぼえがありますし。
どちらかといえば、出版社の応接室なりホテルなりでも済ませられる対談をわざわざ自宅に招待して行う笠井氏の方が気になります。
好意的に解釈したら『可愛い後輩を対談のついでに息抜きあるいは観光に連れ出す先輩のお節介』に思えなくもありませんが・・・

心はアラゴン(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 1日(日)04時03分10秒

園主様

訂正わざわざ申し訳ありません。

>空虚に巣食う魔
散々ですね。言われてみれば納得なのですが・・・
奈須きのこは結構好きなのでちょっとショックです。

>見る角度によって
京都・・・憧れの地です(現在神奈川在住)。
いつかいってみたいものです、京都にも、その書店にも。

>それではいずれ「仮面ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」のご感想などもお聞かせ下さいまし

分かりました。個人的にも特撮ヒーローについてはいろいろ思うところがあるので、(お許しいただけるのであれば)そちらも含めて。

>なんだか私も「歴史の証人」みたいになってまいりましたねえー

ガンダムの本放送なんて、それこそ僕らの世代にとっては歴史的事件ですよ。

>というわけで、『空の境界』については、あえなく挫折いたしましたので、遠慮なくやって下さいまし(笑)。
そうしたいところなのですが、今大学の方でかなりの修羅場を迎えております。
そのためゆっくり本を読み込んだり評論を書いたりする余裕がなく、たぶん投下できるのはどんなに早くても終戦記念日を過ぎたあたりになりそうです。
それまでは断片的な意見程度しか書き込めないと思います。


心はアラゴン(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 1日(日)04時12分15秒

園主様

>将来を嘱望される若手作家を可愛がって子飼いにし、自身の「延命」を図ろうとするベテラン作家というのも、当然のごとく存在するのでございます(笑)。

そういえば笠井氏はどこかで「60になったら引退してスキーのインストラクターになる」といっていたような気がしましたが、どうなんでしょう。

>若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。

全くです。そんなことをしても当の若者には嘲笑されるだけです。

最後に蛇足。
今回のタイトル、アラゴンと言うのは中世のイベリア半島にあった王国のことで、僕の卒論テーマ(予定)です。
とりあえずいま頭がこの事でいっぱいなので、こういうタイトルを思いついてしまいました。


おずおずと世代論を(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時04分21秒


 時雨さま
>> 討論・笠井潔をめぐってにご参加くださるんですね。ホントにありがとうございます。
>> こないだボクは、はらぴょんさんに新たな参加者なんかそうそう期待できないんじゃないかって書かせていただいたんですが、その予想がはずれて良かったって思ってます

こちらこそ突然やってきた僕を信用して参加させていただいてうれしい限りです。
> 実はお二人のやり取りは拝見していました。
> そういう発言が出ている状況であれば自分が参加する事にも意義があるのではないかと思って。

 『そういう発言』も何も、すでにはっきりと「笠井潔葬送派」と認知されている二人とはまったく別 のところ、しかも「清涼院流水以後」の世代から、笠井潔(の権威)を否定する声があがるというのは、先の二人よりもむしろ、笠井潔およびその周辺にたいする心理的な影響が絶大だと思いますよ。その意味では、時雨さまのご参加は、アマチュアレベルでの「時代の風向きの変化」を象徴する、というものすごく大きな意義を持ったものなんです。

 笠井さんの「清涼院流水以後」の世代への接近(引き寄せ工作=オルグ)は、はっきり言って、「時代の風向き」が最早「新本格」周辺にはない、ということを見て取った、笠井さんの情勢判断にあると思います。

 法月綸太郎さんをはじめとする「新本格」の人たち(特に、ミス研出身の第一世代)は、もともと「本格ミステリ至上主義者(非本格は、そもそもミステリに非ず)」的なこだわりを持ってますから、時代の風向きがどっちを向こうと、自分たちは「本格あるのみ」ということで、「(新)本格ミステリ(の時代)」と心中することも辞さないと思うんです。

 でも、園主さまやはらぴょんさまが何度も指摘しているとおり、笠井さんは「流行の波間を泳いできた人」だから、「本格ミステリ」と心中する気なんか毛頭ありません(たぶん、これは「探偵小説研究会」の人たちも同じで、彼らも少しずつ批評対象(ジャンル)を広げてきており、「機を見て、乗り移る」先を確保しようとしてるんじゃないかな。――「新伝綺」ムーブメントなんて「乗るべき波」をでっち上げようとしているのも、そうした危機意識によるんじゃないかと、ボクは感じます)。
 だから、そんな笠井さんには「清涼院流水以後」の佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎といった世代の作家が、笠井さんが理論的に支えてきた「本格ミステリ至上主義」に対して、おおむね冷淡であり、一定の距離をおこうとしていることが、心配でならないのでしょうね。

 ちょっと「おじさんの若者論」みたいになりそうで心配なんですけど、最近の若者って、園主さまやはらぴょんさまやボクなどの世代とは違って、「敵意むき出しの抵抗」なんて野暮な態度は採らないように思うんです。相手がどういう人であろうと、自分がその人を内心どのように評価しておろうと、ひとまずその人が誉めてくれれば素直に「ありがとうございます」と礼を言うし、自分の欠点を指摘されれば「ごめんなさい」と素直に謝ってしまう。「おまえになんかにゃ言われたかねえよ」みたいな反抗的なポーズを見せるようなことは絶えてない。だから一見したところは、すごく素直で、こちらの思うまま、何でも言うとおりに聞き入れてくれ(操れ)そうな印象を与えるんですが、しかし、実際にはそうじゃない。――なにしろ、同じ「人間」ですからね。

 反抗も敵対もしないで、愛想良くニコニコと対応するんだけれど、自分に好ましくないところからは何時の間にか姿を消している、といった形で自己を通 してしまう「柔らかな強かさ」が、今の若者にはあるように思うんですよ。「嫌だな」と思っても、「嫌だ」とむきつけに言って拒絶するのではなく、それとなく遠ざかってしまうというような「柔らかな抵抗」のしかた。そんなスタンスを、ボクは、今の若者に感じるんです。
 で、それは、はらぴょんさんが注目した、乙一さんにも「そういうところ」が見られるんじゃないかなと思うんです。





( 以下は「おずおずと世代論を(3)」につづく)

おずおずと世代論を(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時05分16秒


 時雨さま(続き)

 はらぴょんさんが、乙一さんのことを『気苦労が多すぎる』、つまり「対等な作家どおしなんだから、先輩作家に、そんなに恐縮しなくても」と「若干の不満」を表明したのに対し、時雨さまは「それが普通 (の人)」なんだと、乙一さんを「普通の人」視することで「擁護」しています。でも、これは所謂「擁護」なのでしょうか?

 ボクが思うに、はらぴょんさまは「作家=芸術家」というものに、まだ幾ばくかの「期待」を寄せておられます。だからこそ「失望」も感じる。でも、時雨さまは、そもそも「作家=芸術家」という存在に「人間的な特別 性」を期待していないんじゃないでしょうか。だから、乙一さんの「普通っぽさ」に「失望」することもなく、否定の意図なしに「普通 ですよ」と言ってしまえるんだと思うんですよ。

 で、ここには「作家=芸術家」といった人たちを「どう見る(位置づける)のか」といった問題に対する「世代格差」だあるように思うんですね。つまり、園主さまやはらぴょんさまやボクなどの世代は、まだ「作家=芸術家」に対して「特別 な存在」であってほしいという「偶像願望」的な感覚があるんだけど、時雨さまや乙一さんの世代と言うか、「清涼院流水以後」の世代には、そういう「芸術家信仰」が薄れてきていると思うんですよね。

 だから、園主さまやはらぴょんさまやボクなどの世代が、笠井さんや法月さんたちを「普通 の人だ」と言えば、これは「批判」であり「否定」として機能し、笠井さんたちにもそのように受け取られたんですが、時雨さまや乙一さんの世代では「普通 の人だ」という評価は、肯定でも否定でもない、文字どおり「普通」だという意味合いしか持たなくなっているんだと思うんですよ。
 で、前者の世代に属するボクとしては、そういう「芸術」というものに対する「淡白」な評価というのは、ちょっと寂しい感じもするんですが、結論的にはそうした考え方の方が現実的であり正しいんじゃないかという気がするんですよね。

 ボクらの世代は「芸術」に「特別な何か」を期待しています。それが何なのかと言えば、たぶんそれは「超越」なんだと思うんです。人間が「人間の枠を超えたところのもの」を顕現し、一瞬なりともそれに到達しうる「契機」こそが「芸術」だと考え、そのように「期待」しているところが、ボクらにはある。
 また、だからこそ、園主さまと笠井さんとの間には「本物の芸術家か、否か」という問題が成立し、それをめぐっての敵対関係も成立するんですが、――そもそもそうした「超越の契機としての芸術」というものが「幻想」に過ぎないとなってしまえば、「本物の芸術家か、否か」なんてことは、問題として成立しなくなってしまうんですよね。

 で、はらぴょんさんが 気苦労が多すぎるで紹介しておられる『小生物語』における乙一さんの姿って、まさに「作家=芸術家」観念が存在しない場所でのお話、つまり時雨さまのおっしゃる『受験で親戚 の家に泊まったときやたら親切にしてもらって恐縮した』(心はアラゴン(1))という話と、まったく同一レベルで語られたものだと思うんです。

 ただ、乙一さんの場合は、そういうスタンスを自覚していて、過去のものとなりつつある「作家=芸術家」観念を、それとなくおちょくっている部分があるとは思うんですよね。というのも、「有名人である作家の仲間入りをしたというのは、もしかすると妄想なのではないか」という乙一さんのふざけ方は、じつは「作家=芸術家」観念それ自体がそもそも「妄想」に過ぎない、ということの批判的揶揄だと感じられるからなんです。





( 以下は「おずおずと世代論を(4)」につづく)

おずおずと世代論を(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時08分53秒


 時雨さま(続き)

>> 作家を含む「本格ミステリ」マニアたちが、笠井潔に跳びついたのは、「主流コンプレックス」のわかりやすい表れなんですよ。上述のとおり、それは「国粋主義者が、日本文化をヨイショしてくれる外人学者を殊更ありがたがる」のとそっくりそのままで、その際、その学者が『外人』であることが重要なのであって、「学者としては二流」であることの方は問題にならない、というのも「笠井潔と本格ミステリ界」をめぐる問題と相似的なんですよね。

なるほど。とこでこのかたち、なんだか東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況と少し似ているような?

 そうかも知れませんね。ただ、東浩紀さんの場合は、単純に「自分の好きなもの」の持つ「時代的な意味」を語り、きちんと評価してもらいたいという「当たり前の願望」が大きいんじゃないでしょうか。
 園主さまも笠井潔が、真に望んだこと。等で指摘されているとおり、東さんは笠井さんとは違って、そうしたマイナージャンルに「憑依」しなければ生きていけないほどマイナーな人ではなく、むしろ笠井さんとは正反対に「知的エリート」として出発した人なんですからね。

 もちろん、そうした東さんのオタク的な行動に便乗し、その「権威」を利用して、「一旗揚げよう」とたくらむ「出版業界人」というのは大勢いると思いますよ。そうしたことから『東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況と少し似ている』というような「うさんくさい」印象が醸成されているんじゃないでしょうか。

 特に『ファウスト』の作りとか『空の境界』の売り方なんて、「アムウエイ」とか、ああいうのに近いうさん臭さがありますものね。派手に着飾って、思いっきりご大層なことを言うんだけど、醒めた目で見ると「おいおいちょっと待ってよ」言いたくなるような、上っ滑りで無責任な印象が否めない。つまり「誠実」さが希薄で「ハッタリがましい」という印象があるんです。――でも、そういうのに弱い人は多いですからね。ころりと引っ掛かって、本気で「素晴らしい!」なんて言い出したりする。でも、そんな人の顔って、どこか憑き物がついたような「こわばり」があるんです。

 これは印象だけで言うんですが、「こだわり」過剰なボクたちの世代と、それに比較すると「淡白」な印象を与える時雨さまや乙一さんの世代の「境界」には、そのギャップを体現するような「アンバランスな極端さ」が現出してしまうのかも知れません。それが誇大妄想的な「清涼院流水」であり、『東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況』といったものなんじゃないでしょうか。





( 以下は「おずおずと世代論を(5)」につづく)

おずおずと世代論を(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時09分27秒


 はらぴょんさま
どうも、こんにちは。<おたく>のはらぴょんです。
> <おたく>というのも、結構さまざまな場所にセンサーを張り巡らせておかねばならず、日々精進の賜物だったりします。

 うふふ・・・(^-^)。

 ――結局「おたく」だってことは、一種の「個性」であって、それそのものには、良いも悪いもないんですよね。ただ、「前・おたく」や「非・おたく」とは違った、長所もあれば欠点もあるというだけなんだと思います。

 最近は「口を謹む」ようになった笠井潔さんも、以前は「おたく」的なものを、すごく嫌悪し批判して、排撃しようとしてました。でも、結局は時代の趨勢に抗しきれず、なし崩し的に「おたく」的なものと馴れ合うしかありませんでした。これは「おたく」的なるものが、時代の必然として現れてきたものであり、笠井さんのような「全共闘」世代が「自己中心主義的な価値観」からそれを忌み嫌ったところで、廃滅してしまうことはとうてい不可能な「時代的要請」だったということなんでしょうね。



 園主さま
若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。

 よく、大岡昇平の、

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬ までいやなことをいって、くたばるつもりなり』

(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

という言葉を引用しておられるところからもわかるとおり、きっと園主さまは「反時代的な頑固じじい」になりたいんでしょうね(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


熱く焼けた屋根を静かに歩く足音(抄) 投稿者:AOI  投稿日: 8月 3日(火)02時46分13秒



☆はらぴょんさま

はじめまして。
時雨さまも加わって、「笠井潔をめぐって」思想史的な側面など、分からないなりに興味深く読ませていただいています。
ところで、はらぴょんさまの薔薇十字制作BBSで書かれていた『哲学者の密室』の献辞について、花園にも書かれると思っていたのですが、削除してしまわれたようですが、ロムした時に気になっていたので簡単な感想として書かせていただきます。
削除されたものを引用していいものかどうかとは思いましたが、ご容赦くださいませ。

>『哲学者の密室』に書かれているか献辞「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」について

『哲学者の密室』は読んでいないのでその内容についてははらぴょんさまの書かれていたことから、想像しています。ただ、

>お前の中身は空っぽ(虚無)で、可能性は尽きているよな、なんていうのは、人として酷いとは思いませんか?

ということについていえば、笠井さんは中井さんについてそういう意味で、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という献辞をされたのだろうかと疑問に思いました。
中井さんに対し個人的に屈折した感情をもたれていたというのは想像に難くありませんが、中井さんにとって『虚無』とは、すべてのものを包括する世界の様相(本質)そのも
のだった。
それは笠井さんにとっても同じであり、世界の本質が『虚無』だからこそ、「ツーテービアン(すべてよし)」であり、「生は暗く、死もまた暗い」のであり、駆は虚無より遣われし者だったのではなかったのかと思います。
「虚無なる」というのは、お前の中身は空っぽという否定的な意味としてではなく、世界の様相(本質)と一体化した中井さんの存在そのものの表現ではないのか、むしろ「虚無への供物の作者」への最大のオマージュのように私には思えます。
ですから、酷いとは思いません。
あるいは、『哲学者の密室』を読めば、はらぴょんさまの言われていることに容易に納得できるのかもしれませんし、どちらもあんまり読んでいるわけではないので、とんでもない勘違いィ〜〜!かもしれませんけれど(笑)。



☆ホランドさま


>これは「おたく」的なるものが、時代の必然として現れてきたものであり

ここのところ、もう少し説明してくださいません?

>おずおずと世代論を

どうして、おずおずなの(笑)?


笠井潔と中井英夫(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)21時52分17秒

(1)竹本健治著『囲碁殺人事件』(河出文庫、昭和60年)解説において、中井英夫は「竹本健治が「匣の中の失楽」で颯爽とデビューしたのは、若干二十一歳のときで、おそらくかれは年少時から、智久少年さながらの知能指数を誇っていたに違いない。しばらくの沈黙ののち、いきなりの「囲碁殺人事件」、そして「将棋殺人事件」と「トランプ殺人事件」を書きおろしで刊行したときは、若いミステリーファンの歓声はさらに昂まった。それは笠井潔の「バイバイ、エンジェル」から「サマーアポカリプス」、そして「薔薇の女」と続く、いずれ劣らぬ 力作が立て続けに刊行されたことと相俟て、探偵小説の新時代を予感させるに充分だった」(P239)と書いています。この解説では、このふたりが探偵小説を離れ、SFに転じたことを嘆く文章が続いています。
(2)竹本健治と笠井潔は、再び探偵小説の世界に帰ってきますが、その頃の中井英夫周辺の空気については、竹本健治著『トランプ殺人事件』(角川文庫、平成6年)の田中幸一氏の解説が資料になると考えます。ここでは、中井英夫の助手である本多正一から、「『匣の中の失楽』と『ウロボロスの偽書』しかよんでいないのだが、後者は評価できないという立場で「竹本さんにもそう言いました。」と」(P292)言われたことが書かれています。記憶は曖昧ですが、中井英夫は、変化球の『ウロボロスの偽書』よりも、直球勝負の『哲学者の密室』を好んだという記事をどこかで読んだ記憶があります。


笠井潔と中井英夫(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)21時53分28秒

(3)『哲学者の密室』の冒頭には、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」と書かれています。まず、確認しておかねばならないのは、単行本刊行は1992年であり、中井英夫の死の前年に刊行されているということです。「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉が書かれていることからして、笠井潔にとってかなりの自信作であったと考えられます。
(4)笠井潔の中井英夫論には、『物語のウロボロス』に収録された「完全犯罪としての作品」、『模倣における逸脱』に収録された「戦後文学者としての中井英夫」と「二人の中井英夫」、『探偵小説論I』に収録された「戦後探偵小説の内破」、創元ライブラリ版『中井英夫全集[4]蒼白者の行進』解説があり、さらには小説形式の『天啓の器』があります。このうち、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」の意味を考えるためには、比較的新しい作品を参照する必要があるように思われます。
(5)『探偵小説論I』では、大量死理論に基づきながら、「アンチ・ミステリー」を、ミステリーの「ブラックホール」化現象として捉えます。現在の新本格派ブームを「第3の波」として捉え、その波の極地において「ブラックホール」が生まれる可能性があるとします。(逆に、竹本健治の『匣の中の失楽』などの『幻影城』の頃を、「2・5波」とします。笠井潔は「2・5波」を、小さな波であり、「ブラックホール」化は到底起きないと考えます。)
『中井英夫全集[4]蒼白者の行進』解説で、笠井潔は中井英夫が『虚無への供物』に続く「アンチ・ミステリー」を書こうとして、『光のアダム』『蒼白者の行進』『他人の夢』といった作品を残したが、これらは『虚無への供物』の水準に達していないとしています。
『天啓の器』では、作者とは天啓の器に過ぎず、創作の天啓は向こうから来るとします。笠井潔は、以前から『虚無への供物』を書いた作者と、『とらんぷ譚』の作者のキャラクター的不一致を感じていたようですが、ここでは創作ということで、多少名前は変えられてはいますが、『虚無への供物』を書いた塔晶夫と、『虚無への供物』に続く「アンチ・ミステリー」を書けずにいる中井英夫を別 人と見做し、後者が前者の作品を盗作したのではないかという妄想にまで至ります。


笠井潔と中井英夫(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)21時54分23秒

(6)『天啓の器』は、評論では書けないような本音が語られてしまっています。『虚無への供物』を書いた後の中井英夫は、かつて天啓を受け止めた器であるが、いまや器のなかは虚無であり、空(から)であるということです。但し、これが笠井潔の創作観であり、彼の考える作家像ですから、これは中井英夫にとどまらず、古今のあらゆる偉大な作家にも適用される作家像と考えられます。
(7)笠井潔の「天啓の器」としての作家像は、彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とリンクしています。彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とは、スキーのように重力に逆らわず、堕ちるがままにすること、すなわち、すべてを受け入れることです。彼は、天啓は向こうから訪れるが、それを受ける準備をしていないと受け止めることができない、とします。
(8)「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉は、一方で『虚無への供物』の作者という器には、天啓が注ぎ込まれることはない、という意味を持つと同時に、現在の私という器には天啓が満ち溢れているという意味があると考えます。
(9)『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです。


庚申堂をめぐって 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)22時14分16秒

AOIさま>
はじめまして。
「笠井潔と中井英夫」について書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
あるいは、AOIさまの言われるように、笠井潔と中井英夫の主題の一致から書かれた献辞なのかもしれません。
本当は、ここに笠井氏本人が登場して、「あの意味はね……。」と語ってくれるのが望ましいのですが、無理でしょうね。

世代論が盛んなようですので、ひとこと。
故・丸山静(文芸評論家、クリステヴァやレヴィナスの初期の翻訳者。)は、「庚申堂」に関して、独自の考え方を持っていました。「庚申堂」には、「見ざる、聞かざる、言わざる」がいますが、これはここで行われた話は秘密だということだそうです。「庚申堂」には、若者が集って、共同体を変革する話し合いとか、秘密にしないといけない良からぬ ことを話していたとか……。民俗学に詳しくないので、なんともいえませんが、「庚申堂」は庚申信仰に基づくものであるとするのが一般 的なはずです。この説は、庚申信仰に基づく場に、実質的な変革の発生源を見ようとするもので、かなり異端の説ではないかと思います。これを聴いたのは、丸山静が最晩年の時ですが、「このおじいちゃんは、なんて若々しいのだろう。」と思ったものです。

ブラックホール 投稿者:AOI  投稿日: 8月 4日(水)11時46分55秒

☆はらぴょんさま

「笠井潔と中井英夫」、詳しく説明いただき、ありがとうございました。m(__)m
『天啓の器』は笠井さんの作家論を知るのに重要な作品のようですね。
でも、

8)「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉は、一方で『虚無への供物』の作者という器には、天啓が注ぎ込まれることはない、という意味を持つと同時に、現在の私という器には天啓が満ち溢れているという意味があると考えます。

ということからすると、なんだか読みたいという気にはなりませんけれど(笑)。

(5)『探偵小説論I』では、大量死理論に基づきながら、「アンチ・ミステリー」を、ミステリーの「ブラックホール」化現象として捉えます。現在の新本格派ブームを「第3の波」として捉え、その波の極地において「ブラックホール」が生まれる可能性があるとします。(逆に、竹本健治の『匣の中の失楽』などの『幻影城』の頃を、「2・5波」とします。笠井潔は「2・5波」を、小さな波であり、「ブラックホール」化は到底起きないと考えます。)

このあたりは気になるところですが、『「アンチ・ミステリー」を、ミステリーの「ブラックホール」化現象として捉えます』というのは、たしかに虚構世界としてのミステリーの「ブラックホール」であるのはたしかでしょうが、「アンチ・ミステリー」そのものが、「ミステリー」という領域を食い破っているのであって、「ミステリーの」ということに収まらないのじゃないかと思えます。
感覚的で、説明になっていませんね(笑)

いずれにしても、中井さんが評価したという『哲学者の密室』はいずれ読みたいと思います。

そういえば、黒孔餡もとい庵という人もいらしたわね(笑)。