討論・笠井潔をめぐって7)  

 


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     目 次7)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
永遠の「観念の俘囚」(1) 園主アレクセイ 8月 4日(水)17時23分36秒
永遠の「観念の俘囚」(2) 8月 4日(水)17時26分3秒
永遠の「観念の俘囚」(3) 8月 4日(水)17時27分20秒
永遠の「観念の俘囚」(4) 8月 4日(水)17時29分36秒
永遠の「観念の俘囚」(5) 8月 4日(水)17時30分38秒
永遠の「観念の俘囚」(6) 8月 4日(水)17時31分45秒
永遠の「観念の俘囚」(7) 8月 4日(水)17時32分34秒
永遠の「観念の俘囚」(8) 8月 4日(水)17時33分32秒
永遠の「観念の俘囚」(9) 8月 4日(水)17時35分36秒
永遠の「観念の俘囚」(10) 8月 4日(水)17時39分26秒
永遠の「観念の俘囚」(11) 8月 4日(水)17時41分8秒
永遠の「観念の俘囚」(12) 8月 4日(水)17時42分9秒
永遠の「観念の俘囚」(13) 8月 4日(水)17時43分26秒
永遠の「観念の俘囚」(14) 8月 4日(水)17時45分13秒
永遠の「観念の俘囚」(15) 8月 4日(水)17時46分7秒
永遠の「観念の俘囚」(16) 8月 4日(水)17時47分48秒
永遠の「観念の俘囚」(17) 8月 4日(水)17時48分33秒
永遠の「観念の俘囚」(18) 8月 4日(水)17時49分11秒
夏の影は夕立の彼方に(1) 時雨 8月 4日(水)23時09分2秒
夏の影は夕立の彼方に(2) 8月 4日(水)23時29分10秒
夏の影は夕立の彼方に(3) 8月 5日(木)00時13分54秒
夏の影は夕立の彼方に(4) 8月 5日(木)00時57分48秒
……。 Keen 8月 6日(金)16時21分8秒
信じる勇気(3) ホランド 8月 6日(金)22時34分56秒
信じる勇気(4) 8月 6日(金)22時36分37秒
信じる勇気(5) 8月 6日(金)22時37分38秒
信じる勇気(6) 8月 6日(金)22時39分11秒
『瀕死の王』、昭和の終わりに はらぴょん 8月 9日(月)21時59分37秒
空虚に巣食う魔(7) 園主アレクセイ 8月10日(火)19時01分47秒
空虚に巣食う魔(8) 8月10日(火)19時02分59秒
空虚に巣食う魔(9) 8月10日(火)19時04分36秒
空虚に巣食う魔(10) 8月10日(火)19時06分32秒
空虚に巣食う魔(11) 8月10日(火)19時07分38秒
空虚に巣食う魔(12) 8月10日(火)19時08分40秒
空虚に巣食う魔(13) 8月10日(火)19時09分43秒
空虚に巣食う魔(14) 8月10日(火)19時14分50秒
空虚に巣食う魔(15) 8月10日(火)19時16分34秒
空虚に巣食う魔(16) 8月10日(火)19時19分17秒
空虚に巣食う魔(17) 8月10日(火)19時21分18秒
空虚に巣食う魔(18) 8月10日(火)19時22分30秒
空虚に巣食う魔(19) 8月10日(火)19時24分19秒
空虚に巣食う魔(20) 8月10日(火)19時25分19秒
空虚に巣食う魔(21) 8月10日(火)19時26分44秒
空虚に巣食う魔(22) 8月10日(火)19時27分59秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


永遠の「観念の俘囚」(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時23分36秒

みなさま、過日ここ「花園」で展開いたしました「きくちゆみ批判」を、 昨日、

・ 市民運動家、その虚像と実像 ―― きくちゆみの場合

として、使用資料などの画像を加え、装いも新たにアップさせていただきました。どうぞ、是非ご覧になって下さいまし。

ちなみに、きくちゆみさまが支援をしておられた、先の参院選候補者で「みどりの会議」公認の小林イチロウ氏が、結局当選したのか落選したのか、それを知らないままの私でしたので、昨日それを確認しようと、きくちさまからの「推薦ハガキ」に刷られていた小林イチロウ氏の事務所である「小林イチロウと明るい未来計画」のホームページを覗こうといたしましたところ、すでにホームページは閉鎖されたのか、以前はたしかに閲覧できた「http://www1ro711.org/」のアドレスでは『指定されたサーバーが見つかりませんでした。』とのエラー表示が出るばかりでございました。
ところが、「Yahoo」で検索して出てきた同じアドレスだと、これが不思議に開けるのでございますね。たぶん「キャッシュ」という機能によって、すでに削除されたページが、どこか別 のサーバーに保存されているとか何とか、そのようなことなのでございましょうが、パソコンやネットにうとい私には、いま一つよくわからないのでございました(^-^;)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(2)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時26分3秒


 時雨さま
>> 空虚に巣食う魔

散々ですね。言われてみれば納得なのですが・・・
> 奈須きのこは結構好きなのでちょっとショックです。

申し訳ございません。しかし、それもある程度は予測し覚悟していた事態でなのございます。――これは「批評」の本質にかかわる問題でございますから、すこし詳しくご説明いたしましょう。


私は、はらぴょんさまが『空の境界』を、わりあい好意的に評価なすっていることを知っておりましたし、時雨さまが、笠井潔に批判的であったとしても、それは必ずしも『空の境界』(および、奈須きのこ)を評価していないということを意味するわけではない、ということも承知しておりました。むしろ、時雨さまの笠井潔評価の眼目は、

僕から見れば最近の笠井潔のジャンルX に対する反応(マンガ・ライトノベルへの批評、乙一やTYPE-MOONとの対談など)は「はぁ?なに言ってるんだこのおっさん、つうか話かみ合ってないじゃん」と思う

というところにあるのですから、時雨さまの立ち位置は、「ジャンルX」を同世代の読者として、それらを正しく理解している、というところにあったはずでなのございます。ということは、『空の境界』(および、奈須きのこ)についても、笠井潔とは違って「正しく理解している」という自負自認があり、そこから笠井潔の間違った理解に対して不満が生じたのであろう、というようなことは、容易に推測できるところだったのでございます。

また、「文章」へのこだわりというものは、一般に、加齢にしたがって強くなる傾向があるように存じます。つまり、若い人は「文章」そのものにはあまり拘泥せず(せいぜい「なんとなく読みやすい(読みにくい)」程度の感覚に止まり)、作品の醸し出す雰囲気やキャラクターや物語(プロット)といった部分に直截にアクセスする(できる)ようでございますね。これは良い悪いの問題ではなく、そういう傾向があるようだという仮説的なお話で、私はこうした法則性を、自身の経験と私の見聞きした読書人の傾向から敷衍したのでございます。

例えば、私はごく若い頃に読んだジュブナイルSFを後年読み返して、その印象のあまりの違いに、愕然とした経験がございます。最初に読んだ際、作品から読み取った「あの素晴らしい世界は何だったのか? あの感動はどこから来たものだったのか?」と、嫌でも考えなければならなかったのでございます。

客観的に見れば、その「作品そのもの」の出来は、後年の「凡作」という評価の方が、むしろ適切なものでしたでしょう。しかし、私がかつて、その作品から、たいへんな感銘をうけたというのも、否定できない事実なのでございます。
で、最終的に私のいたった結論とは「作品から受ける印象や感動というものは、もっぱら作品そのものに内在するというわけではなく、作品に対する読者の内的条件にも大きくかかわるものであり、その組み合わせの適否によって決定されるものである」というようなものでございました。つまり、ドストエフスキーを小学生が読んでも、感動することは困難でしょうし、『桃太郎』の絵本を青年が読んでも、わくわくさせられることはないだろう、とそういうことなのでございます。

作品と読者の間に発生する「印象」や「感動」というものは、「作品のつくり」と「読者の内的条件」の兼ね合いから発生するものである。だから、若い時に素晴らしいと感じた作品を、後年読み返してみた場合、ぜんぜん印象が違っていた、などという現象も起るのだ、と私は結論したのでございますね。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(3)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時27分20秒


 時雨さま(つづき)

そして、自身の経験から申しますと、一般に年寄りよりも若者の方が、「作品」に想像力を触発されやすい傾向がございます。つまり、感動しやすい。すこしの要素(刺激)であっても、想像が膨らみ感動できる(触発されやすい)内的条件にある、ということでございますね。
で、これは一般に「擦れる」と呼ばれる現象にもかかわることなのでございましょう。加齢にともない、読書人は「人生」に「読書」に、擦れてまいります。ちょっとやそっとでは、感動できなくなる。これは一見「鈍感化」という「マイナス要素」のようにも思えますが、必ずしもそうとばかりは申せません。なぜ年配者が感動しにくくなるのかといえば、それは「経験」の蓄積により、作品などの「対象」を、客観的に観察し、その上で判断を下せるようになるからなのでございますね。つまり、たくさん経験を積んだ者は、その「対象」を吟味するための「比較対照物」をたくさん持っているから、安易にそれを鵜呑みにして肯定してしまわないだけの、慎重さを持ちうる、ということなのでございます。

これは、話を「読書」から、「一般的経験」にズラすとわかりやすうございましょう。例えば、ここにたいへん理想的で感動的な内容の演説をしている人がいたといたします。この場合、経験の少ない若者は、わりあい素直にこの演説に感動し、その弁士をすばらしい人物だと評価してしまいがちでございましょう。ところが、「擦れた」大人は、そういう人間には、心にもないことを平気で並べたてるペテン師も少なくない、という事実を経験的に知っておりますから、彼の演説に対し、一定の心理的距離を措き、その演説内容を子細に観察することで、その演説が「内実」のともなった本物か否かを確認することも、可能となるのでございます。

つまり、感動できるという点では、若者の方が得なように思えますが、その感動とは、若者の自覚とは裏腹に、外部に実在するものではなく、じつは「内部の願望の投影」でしかないことが多いのでございますね。したがって、若者はしばしば「騙されやすい」傾向を持ち、「現実をそのままに見ることができない」という傾向を持つのでございます。

また、ですからこそ私は、『空の境界』を本格的に否定評価するに先立ち、

なぜこの程度の作品を、笠井潔は持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者とって、『空の境界』の文章は、あまりにも酷すぎるのではないか。

と書いたのでございます。

この文章の眼目は『ある程度、小説を読んできた者とって』という付帯条件にあるのでございます。すなわち、私がここで言っているのは「この作品の文章的欠点について、若い読者が気づかないというのは、ある程度、仕方のないことなのだろう。しかし、笠井潔ほどの年齢の読書人が、それに気づかないのはおかしい。不自然だ」という意味なのでございます。

このように、「加齢と感動」の法則からいたしますと、お若い時雨さまが、私があれだけ引っ掛かった「文章」に引っ掛かることもなく、『空の境界』(および、奈須きのこ)に素直に感動(評価)できたというのも、理解の範疇にあることだと申せましょう。
つまり、私には、『空の境界』(および、奈須きのこ)を肯定評価できる若者の内的必然というものが、おおむね理解でき(たと思え)ました。ですから、その必要がなければ、時雨さまやはらぴょんさまが評価しておられる作品をわざわざ否定することなど、したくなかったのでございます。むしろ、できれば誉めたいとさえ思ったのでございますね。
そうした気持ちが、私の、

しかし、今回『空の境界』の冒頭を10ページほど読んでみて、私の意見はハッキリと「奈須きのこは、文章が下手である」という立場に落ち着いた。
> もちろん、これは「文章」にかぎった評価であり、『空の境界』という「作品の総合的な評価」でもなければ、奈須きのこという「作家の才能や将来性」まで云々するものでもない。

という当初の発言には、はっきりとにじんでいたものと存じます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(4)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時29分36秒


 時雨さま(つづき)

しかし、空虚に巣食う魔(1〜6)に書きかしたとおり、『空の境界』(および、奈須きのこ)の弱点は、単なる「文章の巧拙」にとどまらず、それに由来する「思考力」と「レトリック」にまでいたっていることが、冒頭30ページまで読むにいたり、否定しがたい事実として、私の目には映じたのでございます。

こうなれば、私も「批評家」として、自己の評価を責任をもって語らなくてはなりません。その結果 、お二人に嫌な思いをさせることになったとしても、私は私の評価を語ることによって、批評家としての責任を、まず果 たさなければならないのでございます。

そして、「差し障り」があるから「できれば語りたくない評価」も、必要とあれば、まっすぐに語ることができるか否か、――これが、批評家を「本物」と「偽物」に二分する、高い分水嶺なのでございます。

私が「およそミステリ評論家と呼ばれる人に、本物の批評家は存在しない」と断言できるのも、「ミステリ評論家」と呼ばれる人たちが、ほぼ例外なく、この嶺を乗り越えられないからでございます。

私に思い当たる「例外」と言えば、それは新保博久ただ一人でございましょう。彼は、その批評家的良心のゆえに、何度も筆禍を被っております。
一方、私の批判する笠井潔および「探偵小説研究会」の面々は、その私利私欲を優先した「党派性」によって、最初から「公正」さを放棄しているのでございますね。だからこそ私は、この「批評家の面 汚し」たちを断じて許さないのでございます。

つまり、私はアマチュアとは言え「批評家」を名乗るものとして、仮にも自身が確信を抱いた評価を、個人的な差し障りを恐れて「口をつぐむ」ことなど、断じてできなかったのでございます。それをすれば、私の存在意義は失われ、もはや笠井潔ら「二流」のあるいは「偽物」の評論家たちを、批判することができなくなってしまうのでございます。ですから、私は、批評の「最後の砦」を守るためとあれば、お二人に嫌な思いもしていただきますし、それで嫌なやつだと思われても良いと考えて、ああした評価を語りました。
もちろん、嫌な思いをさせるのであれば、誠意をつくしたその結果として、嫌な思いをしていただかねばならない。それが「批評家」の努めだと考えたからこそ、私は「具体的」に「事例」に則して、有無を言わさない批判を展開し、否定的評価の根拠を明示したのでございます。

しかし、批判される側にすれば、その批判が「誠実」なものであればあるほど、それを否定し拒絶する理由を失うのですから、余計につらい思いをさせられるものでございます。ならば、いっそ、否定評価は、バカで無責任な批評家の無根拠な批判の方が、よっぽど救われる、とも申せましょう。ですから、誠実な批評家の否定的評価というものは、批評家にとっても、批評される者にとっても、共につらいものとなりがちなのでございます。また、ですからこそ、そこに「馴れ合い」も生じがちなのでございますね。

とにかく誉めておけば、作家に嫌われることはございません。「作家にとって、良い批評家とは、誉めてくれる批評家のことである」という言葉は、たしかに一面 の真理で、誠実に否定・批判しても、作家や作家のファンから嫌われ、仕事を減らすだけで、損こそすれ何のメリットもない。となれば、お互い、嘘でも「誉めあい」をして気持ちよく「共存共栄」していこう、と考えるような批評家が出てくるのも、自然な成り行きなのでございます。

しかし、こうした評論家の目には、「その他の(沈黙する)一般読者」がまったく映っておりません。彼の目には、誉められて喜び、腐されて不満を露にする作家や、「売るのに都合が良い評価」を期待している編集者、人気作家に取り入って要領良く仕事を確保している同業者(批評家)といったものしか、目に入っていないのでございます。

だから、彼らには、作家や編集者に迎合したヌルい評価を読まされることにより、過剰な期待を抱いてその本を購入し、その結果 「どうしてこの程度の作品を、ここまで誉められるんだ」と怒り失望し落胆する、遠くの一般 読者の「被害」など、想像だにできないのでございます。

しかし、「批評家」であれ「作家」であれ、公の場所で意見を表明する文章家・言論人は、自分のそれが「すべての人に読まれる可能性」に配慮し、その責任を担って書く、というのが、「物書き」の本筋というものなのでございます。つまり、業界の狭い世界しか見えなくなった「視野狭窄」の評論家が「二流」であるというのは、論を待たないことなのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(5)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時30分38秒


 時雨さま(つづき)

そんなわけで、私は、たとえ、はらぴょんさまや時雨さまに嫌な思いをさせることになったとしても、私の文章を読むであろう見も知らぬ 読者のために、私の正直な評価を、率直に語らなければならなかったのでございます。本物の「批評家」たらんとする者は、自分一個の評価を責任をもって語ることにより、多くの敵をつくることを恐れてはなりません。身近なところで好かれようとする凡人など、所詮は「物書き」に不向きなのでございます。

『「あれはね、他人のことなんかどうでもいいと思っている代わりに、他人が自分をどう思っていようが関係ないとも思っている。そう云う肚の括り方をしているから、あれだけ傍若無人に振る舞えるんですよ。他人に好かれたいとか自分だけ好い子になろうと思ったら、あんな馬鹿な真似はできないでしょうに」
「ああ、まあ」
 そうかもしれない。
 我が儘な人間は得てして自分だけを可愛がるものだが、榎木津に限っては少し違うように思う。ぼこぼこに云われてもあまり肚が立たないのはその所為かもしれない。
「それに加えて、あれに云わせれば探偵と云うのは職業じゃないんだそうだしねえ。何だか知らないが探偵と云うのは称号だとか、そう云うことを口走るでしょう、あの男は。職業じゃないのなら、辞めようがないでしょうに」
 そう云えば僕もそんな風に威張っているところを見たことがあるような気がする。
「最初に云った通り、神無月の計算違いと云うのはそこにあるのです」
「計算違い――ですか?」
「そう。どうも神無月と云う男は、自分の価値観でしか他人を計れない、度量の狭い男のようですね。自分が好きなものは他人も好きだろう、自分が嬉しいことは他人も嬉しいだろうと、そう固く思い込んでいる。自分の基準は絶対だと信じ切っていて、それを疑うことをしないんですね。だから自分が厭なこと、自分が困ることを基準にして計画を練ったのでしょうが――どうもないですね。そう云う手合は得てして金銭だとか名誉だとか、益体もないものに固執しがちですが、神無月もご多分に漏れずそうだったようですし。でもね、榎木津は金や名誉なんかには洟も引っ掛けませんよ。あれの基準は」
 面白いかどうかでしょうと中禅寺は云った。』

(『百器徒然袋 ― 風』、「雲外鏡 薔薇十字探偵の然疑」P310より)





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(6)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時31分45秒


 時雨さま(つづき)

個人的にも特撮ヒーローについてはいろいろ思うところがあるので、(お許しいただけるのであれば)そちらも含めて。

ここ「花園」は、テーマを限定しておりません。もとより『許し』など、必要ないのでございます。ですから、なんなりとお書き下されば結構でございますよ(笑)。


そういえば笠井氏はどこかで「60になったら引退してスキーのインストラクターになる」といっていたような気がしましたが、どうなんでしょう。

私の記憶では、たしか「五十になったら」という話だったように記憶いたします。つまり、これもお得意の「公言違反」(「公約」とまでは言えないでしょうから/笑)。

第一、プロのスキーヤーでも何でもなかった「ただのスキー大好きおじさん」が、還暦でインストラクターデビューして、いったい誰が教わるというのでございますか? いくら笠井潔でも、そんな大ボケをかましたりは、いたしませんでしょう(笑)。


>> 若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。

> 全くです。そんなことをしても当の若者には嘲笑されるだけです。

そうでございましょう。しかしまた、若者に嘲笑されることを、恐れる必要もないのでございます。

たとえ世間が「若者文化」を文化の主流であるがごとく扱ったとしても、中味のない主流になど迎合する必要はございませんし、己の中味の無さに気づかず、ただ「若さ」ゆえの「主流」への帰属意識に、無内容な自信を持つようなバカ者などには、こちらから嘲笑を浴びせてやれば良いのでございます。

ただ「長く生きた」ということを自慢する「年寄りの愚かさ」と好対照を為すのが、ただ「若い」ということを自慢する「若者の愚かさ」なのでございます。利口な年寄りは、つねに自己の「経験の豊かさ」というものに懐疑するものでございますし、いっぽう利口な若者は、つねに自己の「若さ」に懐疑するものなのでございます。

それが、彼の若者の語った、

――認めたくないものだなあ。自分自身の、若さ故の過ちというものを。

という言葉の意味なのでございます(笑)。


今大学の方でかなりの修羅場を迎えております。
> そのためゆっくり本を読み込んだり評論を書いたりする余裕がなく、たぶん投下できるのはどんなに早くても終戦記念日を過ぎたあたりになりそうです。
> それまでは断片的な意見程度しか書き込めないと思います。

無理をなさる必要はございません。ここ「花園」は、少なくともここ数年は、消えてなくなることなどございませんでしょうし、なにしろ「笠井潔葬送」というテーマは、私のライフワークなのですから、いつでもスタンバっている状態なのでございますよ(笑)。

ですから、今は後悔しないように、学業の方に精一杯励んで下さいまし。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(7)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時32分34秒


 AOIさま
> 梅雨前に終わるはずだった屋根&外壁塗装が遅れて、幌をかけられすっぽり籠の鳥状態。
> 今日はとうとう、朝から雨戸まで閉められて『皆殺しの天使』(ルイス・ブニュエル)かって・・・(泣笑)。

それは大変そうでございますねえ。しかし、ものは考えようで、ただ(無料)でダイエットができるチャンスなのかも知れませんよ(笑)。

世の多くの女性は、大枚はたいてまでダイエットするのでございますから、家にいながらにして、特別 なこともせずに痩せられるのなら、これは万々歳というものでございます。――もっとも、AOIさまがスマート過ぎて困っておられるのなら、そうも申せないのでございますが、なにしろお会いしたことがないので、一般 論で書かせていただきました(笑)。


> 本屋で森達也のオサマ・ビンラディンへの手紙を立ち読みしていたら、「オサマ・ビンラディンを見るたびに、キリストって、オサマ・ビンラディンのような風貌だったんじゃないかと、いつも思う」と言っていた友人の言葉を思い出した。

なるほど。それにしても、だれが見たって、猿顔のブッシュよりは彫の深いビンラディンの方が、知性的だしカリスマ性もありそうだ、と思うのではございませんでしょうか(笑)。

> そういえば、誰もオサマ・ビンラディンについて語らなくなっちゃったわねえ。
> 地獄の釜をひっくり返したオサマ・ビンラディンをキリストの再来というつもりなどないけれど、アメリカが必死に探しているのだろうオサマ・ビンラディンが捕まることを願っている人は案外、少ないのじゃないだろうか?

ごく少ないと存じますよ、世界的に見れば。第一、彼を何の罪で逮捕し罰するというのでございましょう。たしかに彼は、アルカイーダという世界規模のテロ組織のトップなのでございましょう。しかし、彼が「9.11」に直接かかわったかどうかは未だにハッキリしておりませんし、組織のトップだということで、下部組織のやったことに全責任を負わなければならないとすれば、わが天皇裕仁はもとより、アメリカの歴代大統領の大半は、死刑に処されねばならないのではないでしょうか。

オサマ・ビンラディンが、「9.11」のテロを支持したというのは事実でございましょうが、事後における心情的「支持」表明と、実際の作戦「指示」とは、同じ「しじ」でも大違いなのだということを、我々は決して忘れてはなりません。
それに、彼を逮捕し処罰したいというアメリカの真意は、彼が「実際にやったかどうか」にはなく「象徴的な人物を処罰して、けじめをつけたい」というところにあるのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(8)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(8) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時33分32秒


 AOIさま(つづき)

笠井潔『哲学者の密室』における「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という献辞の意味

無論、この言葉の解釈はどのようにでもできましょうし、笠井潔自身の解釈も、「建て前」的解釈と「本音」的解釈のアマルガムなのでございましょう。
その意味で、はらぴょんさまの、

> お前の中身は空っぽ(虚無)で、可能性は尽きているよな、なんていうのは、人として酷いとは思いませんか?

という後者に傾いた一面的な解釈に対する、

> 笠井さんは中井さんについてそういう意味で、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という献辞をされたのだろうかと疑問に思いました。
> 中井さんに対し個人的に屈折した感情をもたれていたというのは想像に難くありませんが、中井さんにとって『虚無』とは、すべてのものを包括する世界の様相(本質)そのものだった。
> それは笠井さんにとっても同じであり、世界の本質が『虚無』だからこそ、「ツーテービアン(すべてよし)」であり、「生は暗く、死もまた暗い」のであり、駆は虚無より遣われし者だったのではなかったのかと思います。
> 「虚無なる」というのは、お前の中身は空っぽという否定的な意味としてではなく、世界の様相(本質)と一体化した中井さんの存在そのものの表現ではないのか、むしろ「虚無への供物の作者」への最大のオマージュのように私には思えます。
> ですから、酷いとは思いません。

という疑義表明と、「建て前」的解釈の補足は、おおむね妥当なものであったと存じます。しかし、AOIさま自身、

> あるいは、『哲学者の密室』を読めば、はらぴょんさまの言われていることに容易に納得できるのかもしれませんし、どちらもあんまり読んでいるわけではないので、とんでもない勘違いィ〜〜!かもしれませんけれど(笑)。

と書かれているとおり、『哲学者の密室』はともかく、『天啓の器』(双葉文庫)を読めば、笠井潔の中井英夫評価が、「本音」のところでは、そんな「きれいごとではなかった」ということも、ハッキリするのでございますね。――そのくらい、あの「小説」における中井英夫と竹本健治の扱いは、「露骨な悪意」に満ちたものだったのでございます。
そして、そうした「露骨な悪意」は、中井英夫の死後、いきなり笠井潔の中に湧いて出たものだとは考えにくい。むしろ、それまで抑圧的に隠蔽してきたものが、中井英夫の死によって表面 化した、と考えた方が、よほど自然なのでございます。

となれば、『虚無なる『虚無への供物』の作者へ』という、中井英夫ヘの「何とでもとれる献辞」には、「露骨な悪意」つまり、はらぴょんさまのおっしゃる『お前の中身は空っぽ(虚無)で、可能性は尽きているよ』などという「思い」も込められていたのであろう、と見るのは、あながち間違いだとは言い切れないのでございますね。

なにしろ竹本健治の『ウロボロスの基礎論』にも描かれておりますとおり、笠井潔は、アル中でよぼよぼになった中井英夫の姿にショックをうけて、スキーを始めたというくらいなのですから、晩年の中井英夫を「単なる敗残者」視していた可能性は大いにあるのでございます。

われわれ一般読者にとっての中井英夫は、「アル中」になっても「キチガイじいさん」になっても、やはり中井英夫は中井英夫であり、あの『虚無への供物』を書いた不出世の作家なのでございます。
しかし、その晩年の姿を「なまじ」近くで見(齧っ)た笠井潔などには、晩年の中井英夫が、単なる見苦しい「死に損ない」と映ったとしても、何の不思議もないのでございます。

『天啓の器』は笠井さんの作家論を知るのに重要な作品のようですね。
> でも、(中略)なんだか読みたいという気にはなりませんけれど(笑)。

しかし、ここはやはり、乗りかかった舟として、『天啓の器』(双葉文庫)を読むべきではございませんでしょうか。この作品、たしかに笠井潔の心根の卑しさが鼻につきはいたしますが、メタ・ミステリとしては、なかなか良く出来た作品でございますよ(笑)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(9)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(9) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時35分36秒


 はらぴょんさま
笠井潔と中井英夫(1)〜(3)

> (2)竹本健治と笠井潔は、再び探偵小説の世界に帰ってきますが、その頃の中井英夫周辺の空気については、竹本健治著『トランプ殺人事件』(角川文庫、平成6年)の田中幸一氏の解説が資料になると考えます。ここでは、中井英夫の助手である本多正一から、「『匣の中の失楽』と『ウロボロスの偽書』しかよんでいないのだが、後者は評価できないという立場で「竹本さんにもそう言いました。」と」(P292)言われたことが書かれています。記憶は曖昧ですが、中井英夫は、変化球の『ウロボロスの偽書』よりも、直球勝負の『哲学者の密室』を好んだという記事をどこかで読んだ記憶があります。

本多正一の評価が、そのようなものであったことは事実でございます。
で、肝心の中井英夫の評価でございますが、はらぴょんさんも書かれているとおり、たしかに中井英夫は、竹本健治の『ウロボロスの偽書』よりも、笠井潔の『哲学者の密室』を、高く評価したようでございますね。しかし、それは『哲学者の密室』を手放しに高く評価したというようなことではございません。私の記憶により、私の責任で証言いたしますと、中井英夫は『哲学者の密室』を再読したおりに「それほどでもなかった」という評価を下したようでございますし、「とにかく長過ぎる」と身も蓋もない感想を漏らしたことも記憶いたします。つまり中井英夫の死後、『哲学者の密室』について「中井英夫が絶賛し、第4の巨峰と評価した」というような言われ方がなされましたが、これは中井英夫の言葉尻だけを捕えた憾みの強い、かなり誇張された表現だ、というのが私の意見なのでございます。

ちなみに、中井英夫は『ウロボロスの偽書』の「おふざけ」と映る部分に、引っ掛かったのではないかと存じます。あの頑固なスタイリストには、竹本健治のぐにゃぐにゃした魅力は、そのままでは理解できなかったのではないか、というのが私の見方でございます。――もっとも、私とて『ウロボロスの偽書』を絶賛したわけではございません。あのラストには大いに失望し、竹本さまにも直接不満を漏らしたものでございますから(笑)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(10)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(10) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時39分26秒


 はらぴょんさま(つづき)

(3)『哲学者の密室』の冒頭には、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」と書かれています。まず、確認しておかねばならないのは、単行本刊行は1992年であり、中井英夫の死の前年に刊行されているということです。「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉が書かれていることからして、笠井潔にとってかなりの自信作であったと考えられます。

この『自信』は、この作品で、笠井潔が自身の「大量死」理論にもとづく「大戦間ミステリ論」を確立したという「自負」と、法月綸太郎によって指摘された「エラリー・クイーンとの共通 性」といった、「意味」や「意義」によって支えられたものだと存じます。

しかし、散文的に申しますならば、『哲学者の密室』は、「象徴としての密室」といったような「意味」付け「意義」付けのレベルにおいては、たしかに良く出来た(凝った)作品ではあるものの、「密室トリック」そのものなどは、あまりパッとしないものであったり無理のあるものだったりして、必ずしも良く出来ていたとは申せません。ですから、『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』での哲学談義が、その普遍性のゆえに容易には古びず、おのずと作品の価値も減じないのに対し、発表当時は独創的であった『哲学者の密室』の「意味」や「意義」の部分は、時間の経過とともに、だんだん有難味が薄れてきて、作品の価値も、それにともない徐々に減じてきている、という印象が私にはあるのでございます。

当時、竹本健治が、私に「『哲学者の密室』はすごい作品だと思いますよ。笠井さんの最高傑作でしょう」というような評価を語った記憶がございますが、私はその時「たしかに大変な力作だとは思いますけど、『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』より上だとは思えません。所詮『哲学者の密室』は、努力賞的な作品だと思いますよ」というような言葉を返したものと存じます。


> (4)笠井潔の中井英夫論には、『物語のウロボロス』に収録された「完全犯罪としての作品」、『模倣における逸脱』に収録された「戦後文学者としての中井英夫」と「二人の中井英夫」、『探偵小説論I』に収録された「戦後探偵小説の内破」、創元ライブラリ版『中井英夫全集[4]蒼白者の行進』解説があり、さらには小説形式の『天啓の器』があります。このうち、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」の意味を考えるためには、比較的新しい作品を参照する必要があるように思われます。

『このうち、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」の意味を考えるためには、比較的新しい作品を参照する必要があるように思われます。』という考え方は、恣意的なものに過ぎないと存じます。

AOIさまへのレスにも書きましたとおり、たしかに笠井潔の後年の意見から、『虚無なる『虚無への供物』の作者へ』という献辞の意味を推し量 るというのは、間違いではございませんでしょう。しかし、この献辞には、『虚無への供物』に衝撃をうけ、まだ中井英夫を尊敬していた当時の、若き笠井潔の想いも、必ずや込められているはずでございます。つまり、あの献辞には相矛盾する「想い」や「評価」が交錯するようにして、幾重にも塗り込められている、と考えるのが妥当だと、私は斯様に考えます。ですから、『比較的新しい』資料をという即物的な捕え方では、笠井潔に対する『虚無への供物』の呪縛の深さを、正確に理解するは、とうてい不可能だと考えるのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(11)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(11) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時41分8秒


 はらぴょんさま(つづき)

(5)…『天啓の器』では、作者とは天啓の器に過ぎず、創作の天啓は向こうから来るとします。笠井潔は、以前から『虚無への供物』を書いた作者と、『とらんぷ譚』の作者のキャラクター的不一致を感じていたようですが、ここでは創作ということで、多少名前は変えられてはいますが、『虚無への供物』を書いた塔晶夫と、『虚無への供物』に続く「アンチ・ミステリー」を書けずにいる中井英夫を別 人と見做し、後者が前者の作品を盗作したのではないかという妄想にまで至ります。

たしかに『妄想』的と申しましょうか、「願望充足的」と申しましょうか、そんな乱暴とも言える手法が『天啓の器』では採られております。しかしこれは、『虚無への供物』という怪物的な傑作の作者と、『とらんぷ譚』等の短篇に代表されるような「マイナー・ポエットの作家」が、同じ肉体に宿るものとして無理に理解するよりも、「むしろ分離して理解した方が、ことの本質に迫れるのではないか」という理解が、笠井潔にあった、ということではございませんでしょうか。

もちろん、私は、この考え方もまた、笠井潔の願望に由来する「謬見」でしかないと思うのでございますが、しかしこれを、『妄想』とまで単純化してしまうのも、いかがなものかと感じるのでございます。


(6)『天啓の器』は、評論では書けないような本音が語られてしまっています。『虚無への供物』を書いた後の中井英夫は、かつて天啓を受け止めた器であるが、いまや器のなかは虚無であり、空(から)であるということです。但し、これが笠井潔の創作観であり、彼の考える作家像ですから、これは中井英夫にとどまらず、古今のあらゆる偉大な作家にも適用される作家像と考えられます。

この要約は、やや粗雑に過ぎると存じます。「天啓の器」とは「天啓を必要とする飛び抜けた作品を生み出すための器」という意味であり、その天啓がなければ『空(から)である』ということではございません。
つまり、笠井潔は、中井英夫は「天啓」が無くても、「マイナー・ポエット」として評価できるような作品なら自然に書けた作家であり、中井英夫本来の姿はそこにある、と評価していたのでございます。
つまり、笠井潔の評価によっても、中井英夫は、二度と「天啓」が降らなくても、それなりの作品は書けた、ということであり、それが意味するのは「作家としてからっぽではない」ということなのでございます。ただ、中井英夫に「非本質的に」備わっていた「天啓の器」としての機能は、もはや働くなっている、というのが笠井潔の評価なのだと存じます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(12)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(12) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時42分9秒


 はらぴょんさま(つづき)

(7)笠井潔の「天啓の器」としての作家像は、彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とリンクしています。彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とは、スキーのように重力に逆らわず、堕ちるがままにすること、すなわち、すべてを受け入れることです。彼は、天啓は向こうから訪れるが、それを受ける準備をしていないと受け止めることができない、とします。

笠井潔が、中井英夫と「恩寵」の思想を結びつけたのは、何よりもまず、中井英夫自身が、しばしば「恩寵」や「神の手」「天帝」といったイメージを偏愛し、繰りかえして語っていたからでございましょう。もちろん、笠井潔の評価には、ヴェイユの「恩寵」思想も影響しているでしょうが、それがメインではないと存じます。


> (8)「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉は、一方で『虚無への供物』の作者という器には、天啓が注ぎ込まれることはない、という意味を持つと同時に、現在の私という器には天啓が満ち溢れているという意味があると考えます。

当時の笠井潔が、そういう充実感を感じていたのは、事実でございましょうね。しかし、『哲学者の密室』は「天啓に由来する作物」とまで言えるような作品ではないと存じます。あれはあくまでも、地上の人である笠井潔が、刻苦勉励したその成果 として、「努力賞」的に完成した、誉められてしかるべき「力作」なのだと存じます。


> (9)『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです。

つまり、笠井潔も当初は「初な作家」であったけれども、だんだん「別格の傑作」を書いて「別 格の作家」の仲間入りをしたいと考えるようになっていった、ということでございましょう。

しかし、なにしろ笠井潔は、本質的に「俗物」でございますから、『超越的なインスピレーション』を欲する反面 、世俗的な政治性を捨て切れません。『超越的なインスピレーション』とは、本来、欲して得られるものではなく、それはまさに「恩寵のごとく降る」ものなのですから、地上的な営為としての文壇政治にかまけている笠井潔に、そんな「恩寵」が与えられることはございませんし、たまさか降ったとしても、笠井潔はそれを捕えそこなうことでございましょう。――お金が落ちてないかと地面 ばかり見ている者の注意力は、とうてい上方にまではいたらないのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(13)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(13) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時43分26秒


 はらぴょんさま(つづき)

庚申堂をめぐって

> 本当は、ここに笠井氏本人が登場して、「あの意味はね……。」と語ってくれるのが望ましいのですが、無理でしょうね。

語ったとしても、本音は語らないでしょうね。なにしろ骨がらみの「政治屋」ですから(笑)。

それに『虚無なる『虚無への供物』の作者へ』という献辞の不明瞭さは、「本音を込めてはおきたいが、その本音を見透かされたくはない」という二律背反から生じているのだとも存じます。


> 「庚申堂」には、「見ざる、聞かざる、言わざる」がいますが、これはここで行われた話は秘密だということだそうです。「庚申堂」には、若者が集って、共同体を変革する話し合いとか、秘密にしないといけない良からぬ ことを話していたとか……。

「庚申信仰」とは、

『 中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としている。
 「庚申=かのえさる」の夜、人の体内に住む「三尸」という虫が、その人が熟睡している間に、天に上って、閻魔さまの眷属である「司命」(閻魔大王の眷属参照)に善悪の報告をするそうである。大きな罪は300日、小さな罪は3日いのちが奪われる、とされる。
 庚申の日ごとに常に徹夜をしていれば、三尸は天に上って司命に人の罪過を告げることができない。だから庚申の晩に身をつつしんで夜明かしをすれば、早死にを免れて長生きをすることができる。
 このような思想を「庚申信仰」と呼ぶ。
 平安から室町時代までは、徹夜の時間つぶしに詩歌管弦をはじめとする種々の遊びをしたが、室町中期より、青面 金剛など崇拝対象の前で勤行をするように変わった。このような行事を行うことを「庚申待(こうしんまち)」という。
 行事の主体が16世紀には、農民や町衆などにひろがっており、やがてこうした行事を行うグループが「庚申講」と呼ばれるようになる。』(参照ページ

というようなことのようでございますね。

つまり「庚申堂」のなかで話されたことは、誰にも「告げ口」できないよ、という意味なのでございましょう。そこで、この「庚申待」という制度を利用して、よからぬ ことの打ち合わせなどもなされたのでございましょうね。
つまり、「庚申堂」とは、「外部」と切れた「特権的空間」ということであり、その意味で「庚申堂」は、網野善彦のいう「無縁・公界・楽」に隣接した小空間だとも言えるのでございましょう。

ちなみに、「庚申信仰」が『天』と絡んでくるというのは、面白い偶然だと申せましょう。
笠井潔は、天から「天啓」の降ってくるのを待っているのでございますが、「笠井潔葬送派」という「三尸」の虫が、天に昇って「笠井潔は、こんなことやってまっせ、あんなせっこいこともやってまっせ」と報告するものでございますから、なかなか天は、笠井潔に「天啓」を降らせてくれません。で、笠井潔は「探偵小説研究会」という「庚申堂」に籠って、日夜陰謀をたくらんでいる――とまあ、こういう構図も成り立つのでございます(笑)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(14)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(14) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時45分13秒


 はらぴょんさま(つづき)

錯綜するリアル、複数化する自己[17]〜[20]

> 矢吹駆はナディアに、名探偵は幾多ある等価の仮説の中から「なぜ一回きりの企てで正しく推論することができたのだろう。」と問い、その答えを「初めから知っていたのさ。」とする。(『バイバイ、エンジェル』角川文庫版P41)一度きりの企てで、真実を射抜くことができるのは、現象学的本質直感だから、というわけである。
> ところが、最近の笠井潔は「論理的に、探偵は唯一の真実に達することは「できない。」」(『本格ミステリ これがベストだ! 2004』創元推理文庫P33)と書いている。この認識の変遷の影には、「後期クイーン的問題」がある。
> 法月綸太郎にとって問題化した「後期クイーン的問題」とは、エラリー・クイーンの後期の作品(たとえば『九尾の猫』)では、犯人が探偵の推理を推理して、その裏をかくという事が行われているという。その結果 、探偵は誤謬推理を行い、その誤謬のせいで死者が出て、煩悶することになる。
> これは、柄谷行人が『隠喩としての建築』で、問題にした「ゲーデル的問題」のミステリ版である。数学者クルト・ゲーデルの唱えた不完全性原理とは「ある無矛盾の公理系のなかには、Aも証明できないしAの否定も証明できない、というような命題Aが存在する」(第1不完全性定理)と、「公理系が無矛盾であるかぎり、公理系はおのれの無矛盾性を証明できない」(第2不完全性定理)というものである。柄谷は、あらゆる思考体系は形式化を突き詰めると「ゲーデル的問題」に至るとし、そこから脱構築の糸口をさぐろうと企てた。

笠井潔の『認識の変遷』と見えるものは、じつは変遷などではございません。

『一度きりの企てで、真実を射抜くことができるのは、現象学的本質直感だから』という説明は、「文学的な(ドラマチックな)誇張」でしかないことは、角川文庫版『バイバイ、エンジェル』の解説で竹田青嗣が、

『 ほんとうはT本質直観による推理Uとは、作者が読者(ひと)を食っているのだ、すこし注意すれば、矢吹駆のまた、歴代の著名な推理家たちと本質的に違った仕方で謎を解いているわけではないことがわかる。』

と書いているとおりで、このことは笠井潔自身も、自覚しているはずなのでございます。つまり『一度きりの企てで、真実を射抜くことができる』『現象学的本質直感』とは、原理的にはありえても、「現実の複雑な事象」にまで、それをそのままに適用できるようなものとしては存在しない、ということを、笠井潔も理解していたということなのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(15)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(15) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時46分7秒


 はらぴょんさま(つづき)

では、矢吹駆の言う、名探偵はその答えを『「初めから知っていたのさ。」』とは、どういう意味なのか。それは、「作中の名探偵」は最初から「作品の外に存在する作者」から「正解」を与えられた特権的な存在である、という意味なのでございましょう。

つまり、この段階で、笠井潔は「経験」的に、「作中の名探偵」が「作中の事件」を『一度きりの企てで、真実を射抜く』 などということは、本来「不可能」であること、「作品の外の作者」が介入することにより、初めてその「不可能が可能になる」ということ、を知っていたのでございますよ。言い換えれば、この認識こそが、まさに『「ある無矛盾の公理系のなかには、Aも証明できないしAの否定も証明できない、というような命題Aが存在する」(第1不完全性定理)と、「公理系が無矛盾であるかぎり、公理系はおのれの無矛盾性を証明できない」(第2不完全性定理)』といったことなのでございます。つまり、「外部(上部審級)の介入」という「公理系の矛盾」を含まないかぎり、「絶対的証明」は不可能なのだ、ということなのでございますね。

ですから、笠井潔の『認識の変遷』と見えるものは、じつは「興味の変遷」に過ぎないのでございましょう。以前は「そんなこと(小説作法としては)当たり前だ」と思って見過ごしていた事実を、法月綸太郎が引っ掛かった「後期クイーン問題」をきっかけ、再考してみる気になった。その結果 、前からわかっていたことを、ことさらに『論理的に、探偵は唯一の真実に達することは「できない。」』と、ゲーデルや柄谷行人の口まねをして、重々しく語りたくなった、というだけのことなのでございます。

経験的に言えば、現実の複雑な事象を『一回きりの企てで正しく推論すること』など、どんな「技法」を持ってきたとしても、とうてい不可能なのでございます。「現実」という『無矛盾の公理系のなか』に存在する「人間」とは、仮構された「全知の悪魔(マックスウェルの悪魔)」でもなければ「世界創造の神」でもなく、無論、この世界の外部にいる「作者」でもないのでございますからね。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(16)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(16) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時47分48秒


 はらぴょんさま(つづき)

(3)各章で起きる残忍な事件に対し「九十九十九」は推理をして解決を行うが、「九十九十九」は現場に着く前に推理を用意していたり、事件の黒幕が「九十九十九」であったりする。「九十九十九」の推理は、ミステリ・マニアの期待に応えるための意外性を帯びているが、その中身はこじつけの連鎖であり、「後期クイーン的問題」以降の探偵であることがわかる。「九十九十九」は、決して推理を持って真実を射抜くことができないということを、あたりまえの認識としている。

『「九十九十九」は、決して推理を持って真実を射抜くことができないということを、あたりまえの認識としている。』というのは、この場合、『「後期クイーン的問題」以降の探偵』と言うよりも、むしろ『九十九十九』という作品が「本格ミステリという予定調和の欺瞞的世界」に反発した「予定調和の存在しない世界のミステリ」つまり、真の意味での「アンチ・ミステリ」だということでございましょう。


> (4)『九十九十九』に登場する「清涼院流水」は創造主の如きポジションを得ているが、神としての「清涼院」に対して、容赦ない言葉が炸裂する。P143で、昔は<流水大説>を書いていたが、<述べる主>となり、<述べ足り内/述べ切れ内>となり、<脳辺那井>となり、<もうお前とは喋ってやんねー世>となり、現在<意味判らせてやらねー世>になっているというのだ。『九十九十九』において、神といえども絶対者ではないし、全知全能でもない。神もまた「後期クイーン的問題」もしくは「不完全性原理」に従う。

「作品世界」に取り込まれた作者とは、竹本健治の「ウロボロス」連作における「小文字の作者」であり、それはすでに本来の「作者」ではない、ということに過ぎません。つまり、「外部の作者」の権威も、作者自身が「作品の中」に取り込まれれば、失効せざるをえないということでございましょう。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(17)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(17) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時48分33秒


 はらぴょんさま(つづき)

(5)P516からP520の記述には、清涼院流水・島田荘司・笠井潔・京極夏彦・竹本健治らの名前がみられ、この作品が彼らを意識して書かれていることが伺われるが、P272からP274では、最近のミステリ評論の中の「大量 死理論」に対する反発の言葉がみられる。無論、「大量死理論」とは笠井潔の唱えた理論である。
> 「世界大戦中に発生した大量死への反発が<特権的な死を死ぬ>ための装置としての推理小説の隆盛を呼んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。本物の特権的な死というものは皆に惜しまれて死ぬ 死であり病苦に耐えて生命の活力を全て使い果たした挙句にやってくる死であり家族や友人や多くの知らない人たちに看取られる死であり死にたくて死にたい方法で死にたいときに死ぬ 死であり死ぬべくして死ぬ死である。特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。」
> 「九十九十九」は、『聖書』とかの見立てのために、自分が殺されることは望まないとし、そんな死は決して特権的な死ではない、と反発する。

つまり、笠井潔の「大量死理論」とは、「現実」には「多様な意味を持つ(意味を確定し得ない)、現実の死」に対し、それをあたかも「外部」から俯瞰するがごとき視線で「意味づけたもの」、つまり自身「内部の存在(人間)」でありながら、あたかも自分が「作者」や「神」のごとき「外部の存在(特権的存在)」であるかのような「誤った自己認識」に立って語られた、賢しらな「妄言」でしかない、という意味なのでございましょう。

そして、そうした意味では、笠井潔は「後期クイーン的問題」もしくはゲーデルの「不完全性原理」を正しく理解していない、と言えるのでございますね。
笠井潔の理解は、いつでも「観念的」であり、自身の「実在」がその認識に繰り込まれることは、絶えてないのでございます。ですから、笠井潔はつねに、自己認識を裏切る行動を繰り返さざるを得ないのでございましょう。

ついでに申しますと、法月綸太郎の「後期クイーン的問題」に関する「苦悩」などというのも、同種の「茶番」に過ぎません。
法月綸太郎は、自分がエラリー・クイーンの「正統な嫡子」であるとの誤認(じつは「単純な猿真似」でしかない)によって、自分はエラリィ(作中探偵)の「苦悩」を共有できる特権的存在であると「勘違い」しただけなのでございますね。つまり、法月のいかにも「観念的な苦悩」とは、幼児が特撮ヒーローになりきってしまうのと同様の、実に「幼稚な心性」に支えられていたのでございます。ですから、「番組」が終れば自ずと熱が冷めるように、法月綸太郎の「苦悩」とやらも、時間の経過とともに深まりを見せることはなく、何時の間にか雲散霧消して、後には「保守的な本格ミステリ作家」を残すに止まったのでございます。

したがいまして、舞城王太郎の反発とは、笠井潔や法月綸太郎に見られる「ウソ臭さ」に対するものなのでございます。リアルで常識的な「現実」認識からすれば、笠井潔らが「もっともらしく理論づける世界」こそ、逆に「ウソ臭い」ものでしかございません。また、そんな輩が、「清涼院流水の世界は破綻しており、何のリアリティーもない」と言うのですから、へそ曲がりな舞城王太郎は「ならば、その『何のリアリティーもない』清涼院流水の世界を使って、あなた方がリアリティーがあるとする、本格ミステリの世界の欺瞞性を暴いてやろう」と考えたのではないでしょうか。そうした感情が、

> 特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。

という部分には、とてもよく現れていると存じます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(18)」につづく)

永遠の「観念の俘囚」(18) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時49分11秒


(6)ここまで見てきたように『九十九十九』は、舞城の創作観や、ミステリ観が剥き出しになった作品といえる。誤配もしくは遅配によるタイムスリップで、三人の「九十九十九」が誕生するが、ひとりめは「オリジナル」と呼ばれる「九十九十九」であり、この作品世界の創造主である「清涼院流水」を探し、単一の現実に到達しようとする。ふたりめは「コピー」と呼ばれる「九十九十九」であり、「オリジナル」の「九十九十九」が行っている真実さがしをナンセンスだと否定し、複数の虚構の中で生きようとする。そして、三人目はこのふたりの「九十九十九」を俯瞰的に見ている「九十九十九」である。推測するに、舞城本人はこの三人の「九十九十九」を抱え込んだ人間ではないか、と推測される。しかし、それは舞城ひとりだけの問題ではない。私たちにしても、単一の現実に向かおうとする「オリジナル」の部分と、複数の虚構の中で戯れようとする「コピー」の部分と、両者に没頭できない醒めた部分とが混在しているのではないか。とすれば、この小説は私たちの姿を映しだす鏡として機能するのではないか。

誰もが『三人の「九十九十九」を抱え込んだ』存在だというのは、まったくそのとおりでございましょう。しかし、これは非常に常識的で「リアルな人間観」なのでございます。

舞城王太郎は、こういう当たり前に「リアルな人間観」を持った作家であったからこそ、「本格ミステリ」の世界の「観念的倒錯」性を、本能的に見抜き、それに反発したのでございますね。
そうした意味で、舞城王太郎の『九十九十九』とは、笠井潔的な「本格ミステリ」を葬送する企て、笠井潔的な「本格ミステリ」の「墓碑銘」たらんとする「アンチ・ミステリ」としての企てだったのでございます。――ただし、その手際は、お世辞にも「鮮やか」だとは、言いかねるものだったのでございますが(笑)。



 ホランド
> きっと園主さまは「反時代的な頑固じじい」になりたいんでしょうね(笑)。

だって、頑固じじいは、カッコいいし、可愛いだろう(笑)。





それでは、みなさま、本日はこのへんで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


夏の影は夕立の彼方に(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 4日(水)23時09分2秒

ホランド様

>『そういう発言』も何も、すでにはっきりと「笠井潔葬送派」と認知されている二人とはまったく別 のところ、しかも「清涼院流水以後」の世代から、笠井潔(の権威)を否定する声があがるというのは、先の二人よりもむしろ、笠井潔およびその周辺にたいする心理的な影響が絶大だと思いますよ。その意味では、時雨さまのご参加は、アマチュアレベルでの「時代の風向きの変化」を象徴する、というものすごく大きな意義を持ったものなんです。

そ、そうなんですか?そこまでいわれると恐縮です。
でも、僕は清流院が大好きというわけでもないし『ファウスト』や『ゼロの波』に対しても斜めに見ているところがあるので感覚が若い世代としては少しずれていると思います。
それに笠井潔に対しても園主様やはらぴょん様ほど厳しく批判しているわけでもありませんし。
だからそこまで期待されていいのか・・・

>反抗も敵対もしないで、愛想良くニコニコと対応するんだけれど、自分に好ましくないところからは何時の間にか姿を消している、といった形で自己を通 してしまう「柔らかな強かさ」が、今の若者にはあるように思うんですよ。

確かにそういうところはありますね。
僕も嫌いな人でも欠点を指摘されたらへこみますし。

>ボクが思うに、はらぴょんさまは「作家=芸術家」というものに、まだ幾ばくかの「期待」を寄せておられます。だからこそ「失望」も感じる。でも、時雨さまは、そもそも「作家=芸術家」という存在に「人間的な特別 性」を期待していないんじゃないでしょうか

言われて見ればそうですね。僕の場合には完全にあたってます。
『物書き職人』を自認する京極夏彦や「小説は良くも悪くも仕事です」と公言して憚らない森博嗣などに触れているから自然にこういった認識が生まれてきたのかもしれません。
前述しましたと通り僕は園主様やはらぴょん様ほど笠井潔に対して苛烈な批判を浴びせようという気持ちが薄いのも、読者であった年月や思い入れ以外にもこういった認識の違いが原因にあるのかもしれません。


夏の影は夕立の彼方に(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 4日(水)23時29分10秒

ホランド様(続き)

>そうかも知れませんね。ただ、東浩紀さんの場合は、単純に「自分の好きなもの」の持つ「時代的な意味」を語り、きちんと評価してもらいたいという「当たり前の願望」が大きいんじゃないでしょうか。

確かに東さんは個人誌の編集などはなさりますが別に党派活動にいそしんだりはしていませんからね。
それから少し批判的な書き方になってしまいましたが、決して東さんは嫌いではありませんよ。
わざわざ評論本を買う為だけにコミックマーケットまで行こうと思っているぐらいですから。サイン入りDVDなんてものまで持ってますし(笑)

>つまり「誠実」さが希薄で「ハッタリがましい」という印象があるんです

それは確かにそうなんですが、それでもしっかり売れてたりしますからね。しかも若い世代を中心に。
その辺について少し考えがまとまってきたので、いずれ完成したらここに書き込ませていただこうと思います。


夏の影は夕立の彼方に(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 5日(木)00時13分54秒

はらぴょん様

>『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです

これは少し違う気がします。
昨年刊行された『ファウスト』に収録されたTYPE-MOONとの対談で笠井潔は「創作は模倣だ」という『ヴァンパイアー戦争』や『巨人伝説』のあとがきと同内容の自説を展開していますし、『天啓の宴』でも模倣する悦びみたいなものにはいくらか触れられています。
むしろこの二つの創作観は個別のものではなく並存するものである、つまり「原則として創作は模倣と同義だが、時として天啓を受けた作家が超越的な作品を生み出す」というのが笠井潔の一貫した創作観であると考えた方が妥当だと思うのですが・・・


夏の影は夕立の彼方に(4) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 5日(木)00時57分48秒

園主様

>永遠の「観念の俘囚」

>「文章」へのこだわりというものは、一般に、加齢にしたがって強くなる傾向があるように存じます。つまり、若い人は「文章」そのものにはあまり拘泥せず(せいぜい「なんとなく読みやすい(読みにくい)」程度の感覚に止まり)、作品の醸し出す雰囲気やキャラクターや物語(プロット)といった部分に直截にアクセスする(できる)ようでございますね。

そうですね、実際僕もあまり文章を気にしませんし。

>例えば、私はごく若い頃に読んだジュブナイルSFを後年読み返して、その印象のあまりの違いに、愕然とした経験がございます。

あ、似た経験は僕にもあります。

>「差し障り」があるから「できれば語りたくない評価」も、必要とあれば、まっすぐに語ることができるか否か、――これが、批評家を「本物」と「偽物」に二分する、高い分水嶺なのでございます。

>私が「およそミステリ評論家と呼ばれる人に、本物の批評家は存在しない」と断言できるのも、「ミステリ評論家」と呼ばれる人たちが、ほぼ例外なく、この嶺を乗り越えられないからでございます。

>私の批判する笠井潔および「探偵小説研究会」の面々は、その私利私欲を優先した「党派性」によって、最初から「公正」さを放棄しているのでございますね。だからこそ私は、この「批評家の面 汚し」たちを断じて許さないのでございます。

>そんなわけで、私は、たとえ、はらぴょんさまや時雨さまに嫌な思いをさせることになったとしても、私の文章を読むであろう見も知らぬ 読者のために、私の正直な評価を、率直に語らなければならなかったのでございます。

わかりました。丁寧な説明痛み入ります。
ですが僕には 『空虚に巣食う魔』に対する不快感はありません。
批判は論理的かつ適切なものでしたし、今回説明してくださったような考えに裏打ちされているのであれば何も言うことはありません。
むしろ信者意見ばっかり聞いて茹だっていた頭がいいかんじに冷えたので感謝したいぐらいです。

>ここ「花園」は、テーマを限定しておりません。もとより『許し』など、必要ないのでございます。ですから、なんなりとお書き下されば結構でございますよ(笑)。

ありがとうございます。それでは完成したら書き込ませていただきますので、忌憚のないご意見をお願いします。

>第一、プロのスキーヤーでも何でもなかった「ただのスキー大好きおじさん」が、還暦でインストラクターデビューして、いったい誰が教わるというのでございますか? いくら笠井潔でも、そんな大ボケをかましたりは、いたしませんでしょう(笑)。

あ、その客を確保する為に「探偵小説研究会」を設立したのでは(笑)?

>ただ「長く生きた」ということを自慢する「年寄りの愚かさ」と好対照を為すのが、ただ「若い」ということを自慢する「若者の愚かさ」なのでございます。利口な年寄りは、つねに自己の「経験の豊かさ」というものに懐疑するものでございますし、いっぽう利口な若者は、つねに自己の「若さ」に懐疑するものなのでございます。

金言ありがとうございます。一長一短というわけですね。

それでは皆様、お話したいことは尽きないのですがまだ作業が残っているのでこの辺で。


……。 投稿者:Keen  投稿日: 8月 6日(金)16時21分8秒

賢ちゃんの入院以来、なんだか、内臓がいくつか抜けて足りなくなっちゃったような気分なのです。サッカーのゲーム見ても、感想書くところがない。それ以前に、賢ちゃんはこのゲーム見てないんだなって。
加えて、なぜだか2回も投稿に失敗しています。送信途中で何かあったのかもしれませんが、いきなり「×」の画面 になってしまって。リロードすると、ちゃんと出てくるんですけどね。
というわけで、ちょっとご無沙汰してました。でも、賢ちゃんが帰って来た時に、笑顔で「お帰りっ!(^0^*」て出迎えたいので、もう少ししゃんとしたいです。
私にとって賢ちゃんがどれほど大切な友達であるか、実感してるこの頃です。園主さまとホランドくんも同じでしょうけど。

「年寄り」と「若者」の一長一短、懐かしいですねー(笑)。
私18才、中井さん62才の当時、中井さんが若い頃に見たという映画やらシャンソンやらの話題に「ついて行けない」のがもどかしくて、片っ端から古いフランス映画見たりしたものでした(照)。何しろビデオもなかった(※ウチには)ので、名画座とかまわったりして……若かったんだなあ。今思うと、44年のキャリア差をそう簡単に埋められてたまるもんですかってなもんですが、当時は、自分がモノを知らないことが悔しく、恥ずかしかったんじゃないかなあ。それで中井さんとどんな話してたかって、あんまりハッキリとした記憶がない……断片的には覚えてるんだけど。それと、当時の私はまだ笠井さんや竹本さんの作品もたいして読んでおらず、ミステリファンでもなかったため、そっち系の話はしてなかったんじゃないかと。(ああ、惜しいことをした!/笑)
そうだなあ、中井さんが昔の思い出話を聞かせてくれたことが多かったかもしれない。で、私たち(乙女たち)がそれに反応してキャーキャーと(笑)。だから、目の前にいる仲良しのおじいちゃんが「『虚無への供物』の作者である中井英夫」だという認識は、あんまりなかった。幻想文学の別 冊で『中井英夫スペシャル』が出た時、友人と「中井さんって、『中井英夫』やったんやね〜」と、アホな感想もらしてまして☆
んで、そういう私たちを、中井さんは目を細めて見てたんだろうかなって。
八重洲ブックセンターで、地方ではまずお目にかからない中井さんの著書をごっそり買い込んだって話した時も、「アイドルスターに夢中になるのと同じで、すぐ飽きちゃうんじゃないのー?」なんて言われたっけ。この発言、よくよく考えると、自らを「若きアイドルスター」と同格に置いてるわけで、中井さんがなかなかの自信家だったことがうかがえたりして(笑)。

中井さんの思い出話をつらつらと書いてたら、内臓が生えてきた気がします。
ではまた。


信じる勇気(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時34分56秒


 AOIさま
これは「おたく」的なるものが、時代の必然として現れてきたものであり

ここのところ、もう少し説明してくださいません?

 難しいですねー。仮令ば、それを「高度情報化社会」におけるパイパー化された「欲望」充足の一形態ととらえる――なんてことも可能なんでしょうが、それだけでないのは確かです。「おたく」発生の内因というのは、なかなか一筋縄ではいかないと思うんですが、ただ「環境」要因としての、物質的あるいは情報的な「過剰なまでの豊かさ」があった、ということは否定できないと思います。「あるひとつのことへの興味」だけで、人生を埋め尽くせるほどの「豊かさ」があってこそ、「おたく」という極端な存在形式が可能となると思うんです。

>> おずおずと世代論を

> どうして、おずおずなの(笑)?

 ボク自身、「世代論」というのは、大雑把で、時に嘘っぽいものだ、という認識があるからですよ(笑)。

そういえば、黒孔餡もとい庵という人もいらしたわね(笑)。

 「内側から喰いやぶる」というんなら、ボクのイメージとしては、ブラックホールと言うよりも、小栗虫太郎風に・・・「白蟻」です(ムシャムシャバリバリ)。



 はらぴょんさま
(9)『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです。

 笠井潔の「創作」に関する考え方を、「模倣→天啓」という変移でとらえるというのは、時雨さまも、

これは少し違う気がします。
> 昨年刊行された『ファウスト』に収録されたTYPE-MOONとの対談で笠井潔は「創作は模倣だ」という『ヴァンパイアー戦争』や『巨人伝説』のあとがきと同内容の自説を展開していますし、『天啓の宴』でも模倣する悦びみたいなものにはいくらか触れられています。
> むしろこの二つの創作観は個別のものではなく並存するものである、つまり「原則として創作は模倣と同義だが、時として天啓を受けた作家が超越的な作品を生み出す」というのが笠井潔の一貫した創作観であると考えた方が妥当だと思うのですが・・・

と書かれているとおりで、無理があると思います。

 はらぴょんさま自身、かつての笠井さんに、色濃く「超越指向」のあったことを、指摘なさってたんじゃなかったでしたっけ? ――だから、そういう指向は、当然「文学」や「創作」にも結びつけて考えられていたはずですし、ボクは読んでいないんだけど、笠井さんの初期評論集のタイトルにもなっている『秘儀としての文学』(作品社)なんて認識も、そのあたりから出てきてるんじゃないでしょうか。

 つまり、笠井さんには、あらゆる事象について「観念的理解」と「現実的理解」というのが並列して存在してて、それが時に矛盾を起すんじゃないでしょうか。たとえば「原則として文学賞は、恣意的な権威の配分機構として利用されるべきではないが、場合によっては、不当な扱いをうけてきた弱小ジャンルを盛り上げるための政治装置として、効果 的に利用されて良いものである」みたいな感じで。





( 以下は「信じる勇気(4)」につづく)

信じる勇気(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時36分37秒


 時雨さま
そ、そうなんですか?そこまでいわれると恐縮です。
> でも、僕は清流院が大好きというわけでもないし『ファウスト』や『ゼロの波』に対しても斜めに見ているところがあるので感覚が若い世代としては少しずれていると思います。
> それに笠井潔に対しても園主様やはらぴょん様ほど厳しく批判しているわけでもありませんし。
> だからそこまで期待されていいのか・・・

 もちろん、「若い世代」と言ったって、それは人それぞれで、みんながみんな「清涼院流水」や『ファウスト』や「ゼロの波」を無条件に信奉してるなんて思ってはいませんよ。ただ、どうであれ、時雨さまが「若い世代」に属するという事実は揺らがないし、その代わりはボクらにはできません。だから、「若い世代」の一人としてご参加いただけただけで、なかば期待に応えているってことなんですよ。
 もちろん、これって、ある意味で失礼な言い方だと承知してはいるんですよ。だって、「私」という個性を「世代」に回収されて、うれしい人なんて、あんまりいませんからね。でも、「その世代に属する」という事実の持つ意味は大きい、ということは言っておくべきだと思ったんです。――もちろん、あとは個人的に頑張っていただきたいんですが、頑張るというのは、笠井さんを苛烈に批判しろというようなことではなく、ご自分の意見をしっかりと語っていただきたいということなんです。
 こっちの水は、本音のぶつかりあいで「辛い」。それに対し、あっち(探偵小説研究会)の水は、馴れ合いで「甘い」、かも知れないけど ―― ほー、ほーホタルさん ――、それは「罠」だよってわけです(笑)。

> 言われて見ればそうですね。僕の場合には完全にあたってます。
> 『物書き職人』を自認する京極夏彦や「小説は良くも悪くも仕事です」と公言して憚らない森博嗣などに触れているから自然にこういった認識が生まれてきたのかもしれません。
> 前述しましたと通り僕は園主様やはらぴょん様ほど笠井潔に対して苛烈な批判を浴びせようという気持ちが薄いのも、読者であった年月や思い入れ以外にもこういった認識の違いが原因にあるのかもしれません。

 そうですね。――ただ、ボクは、「文学」が「超越の契機」であることを、完全に「幻想」だと思っているわけでもありません。ごく少数だとは言え、『虚無への供物』のような「恩寵」をうけたとしか思えない作品が実在する、というのも、また事実なんですからね。

 だから、京極夏彦や森博嗣のように、利口に開き直られるのも、残念なんですよね。たしかに、いくら「俺は文学者だ」と力んだところで、「恩寵」が降ることは、ほとんどないでしょう。その場合、その作家の「文学者ぶり」は、結果 として、滑稽で悲惨なだけのもの、となってしまいます。でも、「恩寵」を求める気持ちを持つ者がいなくなれば、「奇跡」というものは起らなくなるんじゃないか。だから、報われないかも知れないけど、それでも信じてみるということは、とても大切なことなんじゃないか。――そんな風に思えるんです。
 たとえばそれは、「愛」というものにも似ているかも知れません。そんなもの、たいがいは「幻想」なんだけど、でもそれを信じる人がいるかぎり、それは世界のどこかで生き続ける。そんなものなんじゃないかと思うんです。

 だからボクは、「創作」を『職人芸』や『仕事』と言い切る作家よりも、

  ――われに新しき光のごとく、小説よ降れ!

と念じ続けた「神の道化師」、中井英夫を愛さずにはいられないんですよ。





( 以下は「信じる勇気(5)」につづく)

信じる勇気(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時37分38秒


 時雨さま(続き)

確かに東さんは個人誌の編集などはなさりますが別に党派活動にいそしんだりはしていませんからね。
> それから少し批判的な書き方になってしまいましたが、決して東さんは嫌いではありませんよ。
> わざわざ評論本を買う為だけにコミックマーケットまで行こうと思っているぐらいですから。サイン入りDVDなんてものまで持ってますし(笑)

 へえー、東浩紀さんって、コミケ展開までしてるんですか、さすがは「おたく」を自負するだけのことはありますね(笑)。

つまり「誠実」さが希薄で「ハッタリがましい」という印象があるんです

> それは確かにそうなんですが、それでもしっかり売れてたりしますからね。しかも若い世代を中心に。

 『ファウスト』の読者に関する、こないだのボクの書き方は、ちょっと感情的すぎたかなって、反省してます。たしかにあの売り方は好きじゃないんですが、それは読者の責任じゃないですからね。――こないだのボクの文章を読んで、気を悪くなさった方がきっとおられたことでしょう。この場でお詫びしたいと思います。ホントにごめんなさい。

 園主さまもおっしゃってたとおり、若者は「擦れて」ないから騙されやすい。だから、そういう若者を守ってあげるのが、ボクたち年長者の仕事なんだと思います。――正直、簡単に騙される人たちには「どうしてそうなんだよ!」って腹の立つこともあるんですが、敵を見誤ってはいけませんよね。

 時雨さまも、ボクが変なことを言ったら、遠慮なく突っ込んで下さいね。気がつかないまま、暢気な顔して過ちを継続させることこそが、最大の恥さらしなんですから。目が醒めるように、びしっと指摘して下さい。よろしくお願いいたします。





( 以下は「信じる勇気(6)」につづく)

信じる勇気(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時39分11秒


 Keenさま
賢ちゃんの入院以来、なんだか、内臓がいくつか抜けて足りなくなっちゃったような気分なのです。サッカーのゲーム見ても、感想書くところがない。それ以前に、賢ちゃんはこのゲーム見てないんだなって。

 じつは今日、賢ちゃんから園主さまのところに電話があって「ほかに何も出来ないので、本ばかり読んでる」って報告があったそうですよ。

 「今、サッカーやってるでしょう。テレビ、観ないの?」
 「共同テレビだから、好きなの見れませんしね」
 「でも、テレビなら持ちこめるんじゃないの?」
 「まあ。可能ですが、そこまでするのも面倒だから」
 「……」

ということで、園主さまは、いかにも賢ちゃんらしいなあー、と呆れたそうです(笑)。
 でも、おかげで本は快調に読めてて、園主さまが薦めた(因縁の/笑)光原百合さんの最新文庫『十八の夏』(双葉文庫)を読んで、早速、光原さんに「良かった」って電話したそうですよ。――どうやら、あちこち電話してるみたいですね(笑)。



 園主さま
舞城王太郎は、こういう当たり前に「リアルな人間観」を持った作家であったからこそ、「本格ミステリ」の世界の「観念的倒錯」性を、本能的に見抜き、それに反発したのでございますね。
> そうした意味で、舞城王太郎の『九十九十九』とは、笠井潔的な「本格ミステリ」を葬送する企て、笠井潔的な「本格ミステリ」の「墓碑銘」たらんとする「アンチ・ミステリ」としての企てだったのでございます。――ただし、その手際は、お世辞にも「鮮やか」だとは、言いかねるものだったのでございますが(笑)。

 やっぱり、ずいぶん舞城王太郎を買っておられますよね(笑)。
 でも、「作品」というのは、もちろん「意図」や『企て』も大切だけど、最終的には「出来(完成度)」だっていうのは、厳しいところですよねー。

 ちなみに、舞城王太郎の新刊『好き好き大好き超愛してる。』(講談社)が、まもなく刊行されるもようです。収録作品は、『群像』に一挙掲載された表題作と、『ファウスト』第一号の巻頭を飾った『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』の2篇。

 表題作は、はらぴょんさまがご紹介なさっていたとおり、『ユリイカ』2004年8月号の「文学賞AtoZ」特集での「Z文学賞」の候補作にもなった作品です。みなさん、要チェック!(かも/笑)





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

『瀕死の王』、昭和の終わりに 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 9日(月)21時59分37秒

ホランドさま
>「模倣→天啓」という変移でとらえるというのは……無理があると思います。
 
うーん。どうやらミスリーディングをやらかしたということですね。


時雨さま
>『ファウスト』に収録されたTYPE-MOONとの対談で笠井潔は「創作は模倣だ」という『ヴァンパイヤ(×ア)ー戦争』や『巨人伝説』のあとがきと同内容の自説を展開しています
 
『ファウストvol.1』は、実家にありますので、お盆休みに原文を確かめてきます。
ところで、笠井さんの趣味は、スキーの前は登山だったと記憶します。
で、『スキー的思考』になると「登山的思考」を批判しています。「スキー的思考」的創作観と、「登山的思考」的創作観の間に差異はないのでしょうか。どうも、そのあたりのところが不鮮明なのです。まぁ、「スキー的思考」などという<とんでも>に、クリアな理解をしようとする私が間違っているのかも知れませんが。
まぁ、それはさておき、ミスリーディングをしないように、文献に基づいてじりじりと進めることにいたしましょう。

「……一九七〇年代以降の伝奇小説は、天皇を最大の敵役に祭りあげることで物語的な力を得てきた。天皇が死んだら、伝奇小説を支えてきた構図が土台から崩れてしまう。」
最近作『瀕死の王』で、笠井潔は自身をモデルとする宗像冬樹にそう言わしめている。(講談社「メフィスト」2004.9月号P213)
天皇に対する自身の書いてきた伝奇小説の位置づけは、マルクス主義に対する観念批判論の位 置づけと相似している。『テロルの現象学〜観念批判論序説』は、当初「「第一部 芸術論」、「第二部 エロティシズム論」、「第三部 革命論」」(『テロルの現象学〜観念批判論序説』あとがき ちくま学芸文庫版P416)と続く評論として構想されたが、東欧の自由化とソ連の崩壊により、中途で執筆放棄されることになったのである。
このような天皇/コムレ・サーガ、マルクス主義/観念批判論の位置づけの仕方を見ていると、ピエール・クロソウスキーの『ロベルトは今夜』IIIの一節が想起される。(引用は『わが隣人サド』豊崎光一訳、晶文社、P5から。ちなみに、河出書房版「人間の文学30」若林真・永井旦訳ならばP144。)
「倒錯者である場合、その人は神を罵倒してその結果神を存在させることになる。つまり神を信じているわけだし、密かに神に親しんでいる証拠であるとくるわけね!」
クロソウスキーは、ここで神を罵倒する者と、神の共犯関係を指摘している。
この観点は、<笠井潔を罵倒し、その結果、笠井潔を存在させることになる>危険性も、同時に示すものである。
大切なことは、笠井潔の作品や振る舞いを通じて、笠井潔の教えを護教的に守るだけとか、笠井潔を罵倒するだけで終わるのではなく、なにがしかを学ぶことであるように考える。


空虚に巣食う魔(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時01分47秒


(承前)

 『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』については、前章(空虚に巣食う魔(1)〜(6))までで、十二分に証明できたと思う。この小説はたしかに、読むに堪えない文章と思考力によって書かれた小説である。

 だが、笠井潔は、上下巻にわたる長文「解説」の冒頭部で、この作品を、

『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証することにしよう。』(上巻P409)


と書いている。

 言うまでもなく、笠井潔によってこの「解説」が書かれた段階では、『空の境界』は「同人小説として、異例に良く売れた」という実績しか持っていない。したがって、笠井の言う『伝奇小説に新地平を拓いた』というのは、「内容的には」拓いたと言ってよい新しさがあると「笠井潔が(個人的に)評価した」ということに過ぎず、現に『伝奇小説に新地平を拓いた』というわけではない。それはまだ、「解説」執筆段階においては、「笠井潔の頭の中だけに存在する、可能性」であるに過ぎない。つまり、まだ『秘められている』に過ぎないのである。それを、あたかも「実現」したものであるかのごとく『伝奇小説に新地平を拓いた』と書いてしまうところに、笠井潔の評論の『偽史』性があると見てもよい。

 この「解説」を読んだ者のなかには、笠井潔のこの断言から、あたかも『空の境界』が『伝奇小説に新地平を拓いた』結果 、それに続く「新伝綺」小説が陸続と生み出されて、『八〇年代伝奇小説』ブームを思わせるような活況をひき起している――かのような「幻想」を、そこに見た者も少なくなかろう。
 私がすでに指摘した、「文章のまずさ」や「非論理性」にまったく気づかない読者が、『空の境界』という作品の人気を支えているのだとすれば、そうした読者が、笠井潔の「解説」が描き出した「解釈」や「仮説」や「幻想」を、そのまま「事実」だと信じ込む可能性も、充分に高いと言わねばならない。それはまた、この「解説」を書いた笠井潔自身にも、あらかじめ推測され、期待されていたことなのであろう。





( 以下は「空虚に巣食う魔(8)」につづく)


空虚に巣食う魔(8) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時02分59秒


 笠井潔による、上下巻にわたる「解説」は、

  上巻解説 : 山人と偽史の想像力
  下巻解説 :「リアル」の変容と境界の空無化

と題され、先の引用文にもあるとおり、上巻解説は『『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証』した、笠井潔流の「八〇年代伝奇小説 概論」であり、『空の境界』の独自性が論じられるのは下巻解説においてである。

 笠井潔は「八〇年代伝奇小説 概論」たる「山人と偽史の想像力」において、「八〇年代伝奇小説」ブームを支えたものを、次のように説明してみせる。

『一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備したところの、天皇の想像的な再中心化というフィクションが、八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した。第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説が、未曾有のブームを巻き起こしたのも当然であろう。しかし伝奇小説のジャンル的繁栄は、八〇年代とともに終る。
 一九八九年一月、昭和天皇の死に直面した八〇年代伝奇小説は、急激な失速と空転の過程に入った。東アジアの占領地で大量 虐殺を繰り返した皇軍の大元帥という魔的なイメージが、伝奇小説的な想像力を裏側から支えていた。魔王としての昭和天皇の生物学的な消滅は、天皇を最大最兇の敵役に祭りあげていた伝奇小説的な想像力に、回復不能ともいえる深刻な打撃をもたらしたのだ。
 差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』(上巻P430〜431)


 なるほどよくできた「仮説」である。つまり、「物語」的に「よく描けた絵」だ、という意味である。
 たしかに、

『差異の解体を利潤に転化する資本主義の徹底化した高度資本主義は、上下の垂直的差異(階級社会)を横並びの水平的差異(総中流社会)に平準化する。八〇年代の高度資本主義は「消費する『階級』の解体」を促進し、総中流社会を実現した。しかし八〇年代の総中流社会とは、三島由紀夫が予見した無差異性の凡庸な地獄の完成でもある。他人と同じであるという凡庸性に、人間は耐え続けることができない。』(上巻P429)


という状況から、人々は「個性」を主張しようと、様々なものにものに憑依した。その多くは「ブランド」品と呼ばれるもので、ブランドの権威がそれを身に纏う者の「個性」を保証してくれるという「幻想」に、多くの人たちは賭けたのである。「オタク」という生存様式もまた、同様の心理から生み出されてきたものなのかも知れない。「物」であれ「情報」であれ、人並み優れて徹底的に「保有」することにより、他人との差異化を図ったというわけである。――無論、こうした「差異化の欲望」というものは、自身の「身の安全の保証」ということを大前提としており、自己の他者との差異化とは、常に自己が他者の優位 (上位)に配置されるものでなければならなかったのは、断るまでもないことである。

 ともあれ、『空の境界』の「解説」における笠井潔の立論は、「ブランド」への憑依などといった個別 の対応では解消しきれなかった「差異化の欲望」を、タイミングよく捉えたのが『第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説』であったということである。
 「天皇」という絶対的な「差異」を持ち出すことにより、平準化されきった『無差異性の凡庸な地獄』に「起伏のる物語性」を回復し、その後、固定してしまっては困るその抑圧的な差異性を、「天皇」の対極的な存在である「山人と偽史」の想像力をぶつけることで中和化し脱中心化する、という便利で安全なシステムが「伝奇小説」というものであったから、八〇年代には「伝奇小説」が一大ブームとなったのだ、――というのが笠井潔の立論なのだ。





( 以下は「空虚に巣食う魔(9)」につづく)


空虚に巣食う魔(9) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時04分36秒


 笠井潔の、この立論は、3つの仮説によって構成されている。それは、

 (1) 八〇年代状況論
 (2) 「天皇の虚構的中心化」論
 (3) 「山人と偽史の想像力」の勃興論

である。
 私は、(1)と(3)については、おおむね承認できる。(1)は、その時代を生きた者として、実感的に承認しうるし、(3)については、笠井潔の「解説」にも引用される、山口昌男などの「文化人類学」などの成果 が象徴的に示したように、「豊かになり中心的な存在になったものは、逆に貧しきものや非中心的なものに、ある種の怖れを交えつつ、魅了される」という傾向があるからである。

 つまり、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった人たちは、心のどこかで『貧しきものや非中心的なもの』を恐れつつも、それに惹かれていたのではないか。そうしたものが、栄華を誇る自分たちに襲いかかるのを恐れる反面 、貧しくとも自由かつ個性的であり、そもそも「個性」などということに拘泥する必要もない彼らの生き方に、どこかで憧憬めいた感情をもっていたのではあるまいか(事実、『清貧の思想』という本が、ベストセラーになった)。だからこそ、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった八〇年代の小説読者が、「山人」などに象徴される「まつろわぬ 」人々と、心理的に「同一化」しようとしたことは、想像に難くない。「実生活」は『高度資本主義』社会の繁栄の真只中においたまま、「想像の世界」では、そこから自由な「野生(非社会)」の存在として、世界を自由に(越境的に)駆けめぐり、時にはそんな存在を捕えて「社会化」しようとする「敵(悪)」と戦い、これを粉砕するヒーローとなるのである。

 このように考えた場合、笠井潔の言う「天皇の虚構的中心化」というのは、八〇年代における伝奇小説ブームを説明する上で、ほとんど必然性を欠いてしまう。
 実際、特に「伝奇小説」ファンであったとは言えなくとも、若き読書人の端くれとして八〇年代を生き、荒俣宏の『帝都物語』の熱心な読者ではあった私には、当時「天皇」とは、ほとんど意識にのぼらない、日常的には「たいへん印象の希薄な存在」でしかなかったように思う。
 『帝都物語』でも描かれるとおり、「天皇」の存在が多くの日本国民の目にクローズアップされるのは、昭和天皇の病状が悪化し、日々その様態をつたえる「下血と輸血」報道が繰り返されるようになってからではなかったか。それまでの「天皇」は、一部「左翼」や「右翼」を除いた、多くの国民にとって「天皇と呼ばれる、人の好さそうな老人」としか映っておらず、善かれ悪しかれ「戦争の記憶」からは切断されて(「戦後は遠くなりにけり」で)、およそ「魔王」性を喚起するような存在ではなかったのではあるまいか。

 そうした意味で、私は笠井潔の主張する(2)の要素、つまり八〇年代において「天皇の虚構的中心化」がなされたという主張は、どうにも「疑わしい」し「話を作り過ぎている」としか思えない。

 たしかに(1)と(3)の要素だけでは、「絵(仮説)」としての中心性を欠いてしまい、お世辞にも「魅力的な仮説」とは言えなくなるだろう。しかし、我々がここで問題としているのは、「八〇年代伝奇小説」ブームというものの「現実的な意味内容」であって、後から付与される「魅力的な意味づけ」ではないのである。
 だが、私がこれまでに何度となく指摘してきたとおり、笠井潔は「小説家にしては批評家的に過ぎ、批評家としては小説家的に過ぎる」のである。つまり、「小説」においては、その「意義」「意味」を優先してしまうあまり、実質のともなわない「頭でっかちの小説」になってしまうし、現実的な「批評対象」の現実的な「内実」を剔抉すべき「批評」にあっては、その本分を放逐した「大向こうを唸らせる(大向こうに受ける)」ことだけを目的とした批評、すなわち「批評対象の現実」に忠実たらんとする初心を欠いた「エンターティンメント的批評(仮説)」の構築に腐心する傾向が顕著なのである。

 それはすでに、幾人かから批判の声のあがっている「大量死」理論に基づく「大戦間本格ミステリ論」と、現代における「本格ミステリ」の優越性という笠井の議論にも顕著である。たしかに、サブカルチャーの片隅におかれていた「ミステリ」を、それまでは無縁とも言えた「現代世界史」や「現代思想史」にからめて「意義づけ」れば、「ミステリ」ファンは大喜びをして、それを支持するだろう。しかし、笠井潔がそういう作業を開始したのは、「新本格ミステリ」ブームが定着した後なのだから、これはブームにコミットするための「恣意的なゴマスリ」であり「ウケ狙いの後づけの理屈」だという色合いは否定できない。





( 以下は「空虚に巣食う魔(10)」につづく)

空虚に巣食う魔(10) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時06分32秒


 また実際、この「新本格ミステリ」ブームが翳りを見せ始めると、笠井潔は『空の境界』の出現に、「伝奇」小説ブームの新たな到来を示唆的に予告し、その文章の中で、あれだけ口を極めて褒めちぎっていた「本格ミステリ」の意味を、

『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』


と、愛想も小想もなく語ってしまう。

 ここで語られている「本格ミステリ」の意義とは、「伝奇小説が昭和天皇の消滅により機能しなくなった時、その穴を埋めるものとして登場したのが、より完成度の高い、つまり自己完結性の高いオナニズム装置としての本格ミステリであった」ということでしかないのである。

 いったいなぜ、笠井潔の「本格ミステリ」への語り口は、こんなにも冷めてしまったのだろうか。――それは「新たに時代を制するもの」の出現を本格的に語るためには、「老いたる王」は廃棄されなければならないからである。つまり、「八〇年代伝奇小説」の衰退をうけて必然的に成り上がってきたのが「新本格ミステリ」であるのならば、その「次なる王者」である「新伝綺小説」の登場は、その登場の大前提として「老いたる王」としての「新本格ミステリ」の「過去」性が語られなければならないからである。

 もちろん、この『空の境界』の「解説」において、笠井潔は「新本格ミステリ」ブームの終焉を、直截に語ってはいない。しかし、「八〇年代伝奇小説」の『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』解消機能を、より完全化したものとして「新本格ミステリ」を捉えた場合、

『 八〇年代伝奇小説が描いた境界性には、この(※ 『空の境界』の)ような複雑きわまりない屈折は見られない。中心に対する周縁、日常に対する非日常の境界という具合に、境界性は明確なものとして把握されていた。キャラクターとして幾重にも境界的な要素を畳みこまれていたヒロインは、八〇年代「ニューアカ」を代表した山口昌男の文化理論から、決定的なまでに逸脱している。いまや探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界、つまり「空の境界」なのだ。』(下巻P460)


という笠井潔の現在の見地からすれば、「新本格ミステリ」は最早「過去のもの」と看做されなければならない、ということになるのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(11)」につづく)


空虚に巣食う魔(11) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時07分38秒


 しかし、この一見もっともらしい「仮説」も、現実には「個人的延命」という姑息な意図に由来する、本末転倒した、つまり「因果 」を転倒させた「後づけの屁理屈」でしかないのは、笠井潔の動きを観察してきた者の目には、明らかなことであろう。

 すなわち、「新本格ミステリ」ブームの行き詰まりということは、『空の境界』の出現を待つまでもなく、ここ数年、多くの業界関係者の間で、実感をもって語られてきた既成の事実なのである。私はこのことを、笠井潔が、真に望んだこと。のなかで、

『(※ 笠井潔は)綾辻行人のデビュー以来の長らく続いた「本格ミステリ」の行き詰まりが囁かれる中、最近では舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉などの十代読者にも支持されている「新感覚」派の若手にも「理解という名の触手」を伸ばしており、「本格推理小説」の延命を図っている。』

と書いているし、おおよそその意味するところは、ホランドこと碧川蘭が、

『 笠井さんの「清涼院流水以後」の世代への接近(引き寄せ工作=オルグ)は、はっきり言って、「時代の風向き」が最早「新本格」周辺にはない、ということを見て取った、笠井さんの情勢判断にあると思います。

 法月綸太郎さんをはじめとする「新本格」の人たち(特に、ミス研出身の第一世代)は、もともと「本格ミステリ至上主義者(非本格は、そもそもミステリに非ず)」的なこだわりを持ってますから、時代の風向きがどっちを向こうと、自分たちは「本格あるのみ」ということで、「(新)本格ミステリ(の時代)」と心中することも辞さないと思うんです。

 でも、園主さまやはらぴょんさまが何度も指摘しているとおり、笠井さんは「流行の波間を泳いできた人」だから、「本格ミステリ」と心中する気なんか毛頭ありません(たぶん、これは「探偵小説研究会」の人たちも同じで、彼らも少しずつ批評対象(ジャンル)を広げてきており、「機を見て、乗り移る」先を確保しようとしてるんじゃないかな。――「新伝綺」ムーブメントなんて「乗るべき波」をでっち上げようとしているのも、そうした危機意識によるんじゃないかと、ボクは感じます)。
 だから、そんな笠井さんには「清涼院流水以後」の佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎といった世代の作家が、笠井さんが理論的に支えてきた「本格ミステリ至上主義」に対して、おおむね冷淡であり、一定の距離をおこうとしていることが、心配でならないのでしょうね。』

おずおずと世代論を(2)

と説明しているとおりなのである。

 ちなみに、今や私の認識は、上記論文笠井潔が、真に望んだこと。執筆時とは違い、後者碧川蘭の認識に近いものになっている。
 すなわち、笠井潔は『「本格推理小説」の延命』を図って、「清涼院流水以後」の若い世代の作家に接近しているのではなく、もはや「自分一個の延命」を図って、それをしているのだ、ということである。――つまり、笠井潔の内部では、すでに「新本格ミステリ」は、切り捨てられている可能性が高い、ということのだ。
 だからこそ、笠井潔は接近する若手作家の範囲を「ミステリ作家」に限定することを止めて、「ジャンルX」の若手作家全体にまで広げはじめたのではないか。そして、その結果 として必然的に出てきたのが、「新伝綺」作家だとして持ち上げられる、奈須きのこのデビュー作への、

『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』

という「過剰なまでの支援」なのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(12)」につづく)


空虚に巣食う魔(12) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時08分40秒


 つまり、話を戻すと、『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』の解消装置としての「八〇年代伝奇小説」や、それをより完全化したものとして「新本格ミステリ」を、根本的に超えるものとして『空の境界』を捉える、という笠井潔の立論は、実際には、「新本格ミステリ」の衰退という事実をうけて、後からひねり出され虚構された、「青田刈り」的「後づけの理屈」に過ぎないのである。

 「八〇年代伝奇小説」から、上手に「新本格ミステリ」に乗り移った際に用いた「後づけのヨイショ」という手管を、今回は、過去の経験を生かして、ちょっと早めに使ってみた、というのが、奈須きのこの『空の境界』に対する過剰なまでのバックアップの、本当の意味なのである。


 つまり、このことを言い換えると、『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない、ということなのだ。

 笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。つまり、奈須きのことは、でっち上げてでも「新時代のスター」になってもらわなければならない存在だった。ちょうどそれは、鳴り物入りで行われた新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」みたいなものだったのである。
 そこでピックアップされた若者は、たとえ彼がどれほどの器であろうとも、ひとまず周囲が最大限に騒ぎ立て、過剰な宣伝と演出と優遇で、世間に彼を「スター(の器)」として認知(または、誤認)させねばならなかった。「才能があるんだから、放っておいても頭角を現してくるよ」というのとは正反対に、「黒い鴉も白い」と思わせようとする、本人をなかば置き去りにしての「売り込み」こそが、奈須きのこのデビューにあたって採用された「無名の新人のデビュー作の限定豪華版を、普及版の刊行に先立って刊行する」とか、「ミステリ界の大御所的評論家である笠井潔に、上下巻にわたる異例に長文の解説書かせる」といった「奇妙な動き」の意味だったのである。

 これがうまくいけば、講談社は「新本格ミステリ」ブームの衰退傾向にともない傾きつつある講談社ノベルスを、「新伝綺」という新しいブランドで盛りかえすことができるだろうし、笠井潔は「先見の明のある優れた評論家」として、また「新世代の良き理解者」として、あるいは「新本格ミステリ」ブームで担ったのと同じ「党派理論家」としての立場を、「新伝綺」ブームにおいても担えると算段したのであろう。





( 以下は「空虚に巣食う魔(13)」につづく)

空虚に巣食う魔(13) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時09分43秒


 もちろん、笠井潔としては、東浩紀に指摘された時と同様、私のこのような読みを『邪推』だと否定することだろう。
 笠井潔は、東浩紀の「笠井潔=度しがたい党派人間」説が、『邪推』だとする根拠を、

『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。しかし、それは現代思想タコツボの不健全性が、他の小世界にも同じように瀰漫しているに違いないという、東君の無根拠な思い込みにすぎません。本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。この相違には、業界の構成者の品