討論・笠井潔をめぐって8)  

 


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     目 次8)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
凶鳥の黒影(1) 園主アレクセイ 8月11日(水)00時26分8秒
凶鳥の黒影(2) 8月11日(水)00時27分21秒
凶鳥の黒影(3) 8月11日(水)00時34分10秒
凶鳥の黒影(4) 8月11日(水)00時35分1秒
転向について(1) はらぴょん 8月11日(水)23時00分32秒
転向について(2) 8月11日(水)23時01分25秒
富士の湖畔より(1) 時雨 8月11日(水)23時18分59秒
富士の湖畔より(2) 8月11日(水)23時33分22秒
富士の湖畔より(3) 8月11日(水)23時42分35秒
富士の湖畔より(4) 8月11日(水)23時59分23秒
富士の湖畔より(5) 8月12日(木)00時25分13秒
ものわかりのよさの影(5) ホランド 8月13日(金)16時15分51秒
ものわかりのよさの影(6) 8月13日(金)16時25分2秒
『空の境界』の分かりにくさについて(1) はらぴょん 8月15日(日)10時59分52秒
『空の境界』の分かりにくさについて(2) 8月15日(日)11時01分9秒
トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(1) はらぴょん 8月15日(日)15時45分54秒
トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(2) 8月15日(日)15時46分47秒
トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(3) 8月15日(日)15時49分47秒
終戦の日は、いまだ遠く(5) 園主アレクセイ 8月16日(月)16時29分49秒
終戦の日は、いまだ遠く(6) 8月16日(月)16時30分59秒
終戦の日は、いまだ遠く(7) 8月16日(月)16時32分19秒
終戦の日は、いまだ遠く(8) 8月16日(月)16時33分10秒
終戦の日は、いまだ遠く(9) 8月16日(月)16時34分22秒
終戦の日は、いまだ遠く(10) 8月16日(月)16時49分37秒
終戦の日は、いまだ遠く(11) 8月16日(月)16時50分57秒
終戦の日は、いまだ遠く(12) 8月16日(月)16時51分44秒
終戦の日は、いまだ遠く(13) 8月16日(月)16時52分30秒
名優(下) ホランド 8月19日(木)02時01分11秒
魔笛の調べに乗って アマデウス耿乃介 8月19日(木)23時50分8秒
木の葉と扉の鍵(1) 時雨 8月24日(火)00時37分36秒
木の葉と扉の鍵(2) 8月24日(火)01時00分38秒
木の葉と扉の鍵(3) 8月24日(火)01時15分19秒
「自己決定権」の罠(1) 園主アレクセイ 8月25日(水)21時10分37秒
「自己決定権」の罠(2) 8月25日(水)21時12分12秒
「自己決定権」の罠(3) 8月25日(水)21時13分27秒
「自己決定権」の罠(4) 8月25日(水)21時14分17秒
「自己決定権」の罠(5) 8月25日(水)21時15分24秒
「自己決定権」の罠(6) 8月25日(水)21時17分24秒
「自己決定権」の罠(7) 8月25日(水)21時18分2秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


凶鳥の黒影(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時26分8秒

みなさま、いよいよ「中井英夫へのオマージュ集」の内容が、確定したようでございます。河出書房新社から2004年9月17日の刊行予定で、予価のみ2300〜2400円と未確定とのことでございます。


    凶鳥の黒影――中井英夫へ捧げるオマージュ

      L'ombre noire d'un oiseau sinistre
      ―― Hommage a HIDEO NAKAI


     【序文】
     鶴見俊輔:序文「中井英夫のこと」

     【短篇】
     赤江瀑「歌のわかれ」
     有栖川有栖「彼方にて」
     北森鴻「銀河・1984」
     倉阪鬼一郎「黒月物語」
     竹本健治「黒の検閲」
     獄本野ばら「流薔園の手品師」
     津原泰水「ピカルディの薔薇」
     皆川博子「影を買う店」
     森真沙子「墓地見晴亭」
     中井英夫「黄泉戸喫」

     【エッセイ】
     恩田陸「邂逅について」
     笠井潔 「中井さんと遇うまで」
     菊池秀行「彼は怒っているだろうか」
     北村薫「彗星との邂逅」
     長野まゆみ「蛻のから」
     三浦しをん「残酷な力に抗うために」
     山田正紀「『虚無への供物』への供物」

     【あとがきにかえて:短篇】
     本多正一「壁画と旅する男」

     【年譜】


おなじみの人から、「えっ、この人もファンだったの」という若手まで、個性的な顔ぶれの揃った、期待できる内容となっております。装丁も、光文社文庫版『神聖喜劇』や『江戸川乱歩全集』の間村俊一が担当し、ビジュアル面 でも凝った一冊となる模様でございます。

同書が刊行されましたら、また「INFORMATION」の方で書影を掲載してご案内いたしますが、それまではこれだけの情報で、あれこれ期待を膨らませて下さいまし。決して裏切られない一冊となっているはずでございます(笑)。


さて、本日(8/10)、過日話題にのぼりました京都のアスタルテ書房から「先日おっしゃっていた、山本タカトの新画集(『ファルマコンの蠱惑』)のサイン入りがはいりましたので、ご入り用でしたら、いつでもおいで下さい」との電話がございました。したがいまして、アスタルテ書房は山本タカトおよび版元のエディション・トレヴィルに無視されたわけではなく、山本タカトおよび版元のエディション・トレヴィルも義理を欠いたわけでもなかったようでございますね(笑)。――まさか、ここであのようなことを書いたから、山本タカトかエディション・トレヴィルが、慌ててサイン入り画集を送った、というようなこともございませんでしょうし(笑)。
ちなみに、関西で(しばらくの間は定価で )この画集をサイン入りであつかうのは、たぶんこのアスタルテ書房くらいしかないものと存じます。ご興味のある方は、ぜひこの機会に、(「裏で黒ミサをやっているんじゃないか」とか何かと)噂に高いアスタルテ書房にお運び下さいまし(笑)。





( 以下は「凶鳥の黒影(2)」につづく)

凶鳥の黒影(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時27分21秒


 時雨さま
わかりました。丁寧な説明痛み入ります。
> ですが僕には 『空虚に巣食う魔』に対する不快感はありません。
> 批判は論理的かつ適切なものでしたし、今回説明してくださったような考えに裏打ちされているのであれば何も言うことはありません。
> むしろ信者意見ばっかり聞いて茹だっていた頭がいいかんじに冷えたので感謝したいぐらいです。

恐縮でございます。
しかし、私なら、好きな作品を「ひどい作品だ」と評価されれば、その批評がいかに理路整然と誠実に語られたものであろうとも、やはり気分的には辛うございましょうね。

ちなみに、過日お読みいただいたのは、『空虚に巣食う魔』の前半(1)〜(6)であり、本日は後半の(7)〜(22)をアップさせていただきました。
この後半をお読みいただければ、私がどうして、さほどの興味もない『空の境界』の評価をあえて語らなければならなかったが、おわかりいただけようかと存じます。――お勉強の方が一段落してからで結構でございますから、ぜひご感想をお聞かせ下さいまし。


>>ここ「花園」は、テーマを限定しておりません。もとより『許し』など、必要ないのでございます。ですから、なんなりとお書き下されば結構でございますよ(笑)。

> ありがとうございます。それでは完成したら書き込ませていただきますので、忌憚のないご意見をお願いします。

どのようなものを読ませていただけるのか、楽しみに待たせていただきます(笑)。


>> 第一、プロのスキーヤーでも何でもなかった「ただのスキー大好きおじさん」が、還暦でインストラクターデビューして、いったい誰が教わるというのでございますか? いくら笠井潔でも、そんな大ボケをかましたりは、いたしませんでしょう(笑)。

> あ、その客を確保する為に「探偵小説研究会」を設立したのでは(笑)?

しかし「探偵小説研究会」のメンバーは、平均年齢も高く、基本的に書斎派でございますからね。それよりは新たに「伝奇小説研究会」を設立して、若いメンバーを募った方が賢明かと存じます。若者との交流は、私ども高齢者の「ボケ防止」にもなりますし(笑)。

> 金言ありがとうございます。一長一短というわけですね。

何かを得るということは、往々にして何かを失うことなのでございましょう。問題は、それに気づく方が少ないということなのでございます。



 Keenさま
「年寄り」と「若者」の一長一短、懐かしいですねー(笑)。
> 私18才、中井さん62才の当時、中井さんが若い頃に見たという映画やらシャンソンやらの話題に「ついて行けない」のがもどかしくて、片っ端から古いフランス映画見たりしたものでした(照)。何しろビデオもなかった(※ウチには)ので、名画座とかまわったりして……若かったんだなあ。今思うと、44年のキャリア差をそう簡単に埋められてたまるもんですかってなもんですが、当時は、自分がモノを知らないことが悔しく、恥ずかしかったんじゃないかなあ。

それが普通でございますよ。私などは未だに「一切智の夢」を棄てられない人間なのでございますから(笑)。――まあ、また、そういう性格だからこそ、「年寄りは、たくさん知ってて当たり前」なんて不遜なことを、若い頃から考えていたのでございましょうね(笑)。

> でも、園主さまとの電話のやりとりの様子はいかにも賢ちゃんらしくて、笑えますねー。(^0^*
> まあ、ウツが進むと、好きだったものにも興味がわかなくなったり、ちょっとしたことでも面 倒でできなかったりするんで、そういうのもあるんでしょうか。
> しかし「ケータイは禁止」っていうから、公衆電話もダメなのかと思ってましたが、そんなはずないですよね〜(笑)。

そのうちきっと、Keenさまのところへも電話を寄越すことでございましょう。鬱(の気分)を伝染させられないように、せいぜいご注意下さいまし(笑)。





( 以下は「凶鳥の黒影(3)」につづく)

凶鳥の黒影(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時34分10秒


 はらぴょんさま
『瀕死の王』、昭和の終わりに

> ところで、笠井さんの趣味は、スキーの前は登山だったと記憶します。
> で、『スキー的思考』になると「登山的思考」を批判しています。「スキー的思考」的創作観と、「登山的思考」的創作観の間に差異はないのでしょうか。どうも、そのあたりのところが不鮮明なのです。まぁ、「スキー的思考」などという<とんでも>に、クリアな理解をしようとする私が間違っているのかも知れませんが。

結局のところ、「スキー的思考」とか「登山的思考」というのは「比喩」でしかなく、単なる「比喩」を「本質」的なものと取り違えるところに、混乱が発生するのでございましょう。笠井潔には、「比喩」と「現実」を混同する傾向があるようでございますね。つまり「○○と語りうるものは、○○である」と考える。しかし、これは「観念的事実」としての「実感」ではあっても、「事実」そのものではございません。

結局のところ、笠井潔の理屈というものは、たいてい『中から湧くものだから駄 目(中略)中にあるものなんか何でもアリで面白くない』ということになるのでございますね、本物指向のある者には(笑)。


> 「……一九七〇年代以降の伝奇小説は、天皇を最大の敵役に祭りあげることで物語的な力を得てきた。天皇が死んだら、伝奇小説を支えてきた構図が土台から崩れてしまう。」
> 最近作『瀕死の王』で、笠井潔は自身をモデルとする宗像冬樹にそう言わしめている。(講談社「メフィスト」2004.9月号P213)

なんとかの「ひとつ憶え」でございますが、空虚に巣食う魔(9)で分析いたしましたとおり、笠井のこの「八〇年代伝奇小説」論は、かなり恣意的で胡散臭いものだと存じます。


> クロソウスキーは、ここで神を罵倒する者と、神の共犯関係を指摘している。
> この観点は、<笠井潔を罵倒し、その結果、笠井潔を存在させることになる>危険性も、同時に示すものである。
> 大切なことは、笠井潔の作品や振る舞いを通じて、笠井潔の教えを護教的に守るだけとか、笠井潔を罵倒するだけで終わるのではなく、なにがしかを学ぶことであるように考える。

笠井潔に学んだ最大のことは「いくら頭が良くても、思想・哲学の勉強をしてみても、それだけでは、自身の人間的「弱さ」を乗り越えることはできない。むしろ、人間の業は、そういうものをも体よく利用し、自身の弱さを正当化して、延命を図るものである」ということでございましょう。「二乗不作仏」ということを、イヤというほど見せつけてくれたのが、笠井潔なのでございます。



 アーニャ
> ホランドくんの「政治とスポーツの混同」に対する抗議は、かのピクシーが常々口にしてたことだって、Keenさまが感動してたわよー。
> 「サッカーは、国家間の諍いの因縁に影響され易いスポーツ」なんじゃないかしらね。
> もともと、サッカー発祥の地・ヨーロッパでは、村と村との争いごとの解決法として、サッカーの元になったゲームを利用してたり、村を上げての狂乱の祭り(ストレス解放)に、やっぱり前サッカー的ゲームを行ってたりしたようだから、現代の「戦争モドキ」や「フーリガン」の起源も、そこらへんに関係あるんでしょうね。

問題は、人が「起源」や「出自」に囚われすぎるという点だろう。サッカーがどのような「起源」や「出自」を持っておろうと、それに縛られなければならない理由はない。大切なのは「如何にあるべきか」であり「これから先」のことなんだよ。

> アリョーシャ、皆さま、Keenさまをまたちょっと温泉に連れてくわね。

今ごろはまだ温泉かな? まあ、3人と1匹で湯当りしておいで(笑)。





( 以下は「凶鳥の黒影(4)」につづく)

凶鳥の黒影(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時35分1秒


 ホランド
> すでに報道のなされていますとおり、現在、中国で行われているサッカー・アジアカップで、中国人観客が露骨な反日感情を示し、ブーイングなどをおこなったことが、ちょっとした政治問題に発展しています。

サッカー・アジアカップは、日本の優勝で幕を閉じたようだが、相変わらず、ものの表面 しか見れない人も多いようだな。

例によって、日本を代表する極右の石原慎太郎東京都知事は、日本や自分の行いは棚上げにして、ブーイングを行った中国人観客について『中国は民度が低い』と、ことさら差別 的な発言をしたようだな。こんな石原を見て、中国人が「日本人は民度が低い」などと短絡思考しないことを祈るよ(笑)。

ちなみに、自分は「低くない」と思っているらしい石原慎太郎の、読書界での評判を紹介しておこう。
ご存じ『文学賞、メッタ斬り!』から、芥川賞選考委員 石原慎太郎の「選評」についてだ。

豊崎 シンちゃん(石原慎太郎)の特徴は、必ず時代の閉息とか日本社会の衰退とかを、文学に重ねるとこです。エラソーな、ごタイソーなことを言って候補作を否定していく御仁です。
大森 T私達の属する国家社会の衰退を感じさせる昨今だが、どうもこの国の文学の方も衰退の感を否めないUとか。
豊崎 でしょ? あるでしょ。もおっ、毎回そうなんですよ。例えば堀江敏幸さん(『熊の敷石』124回)がとった時なんかもすごいですよ。

 ……随筆に毛が生えたような程度の小説が人生への刺激たり得る訳もない。文学の衰退の一つの原因は、それでも良しとする作家側の倒錯にもあるようだ。

 文学と国家の衰退がこの人のクリシェです。小説とは、文学とは、と大上段に構えて高みから見下ろさないと気がすまないんですよ。
大森 国の将来を見据える政治家は言うことが違うと。
豊崎 そう。シンちゃんは、政治家なんだから選考委員は降りるべきなんですよ。せめて、話し方教室と書き方教室通 ってからもいっかい出直してほしい(笑)。だいたい言葉遣いからして間違ってる人ですからね。主語と述語がつながっていかない文章がものすごく多くて、ある種の文体実験を読まされているような気持ちにすらなってきます(笑)。これなんか意味取りにくいですよ、中村文則さんの「銃」(128回候補作)についてなにかいってるんですけど、

 この社会では非合法、故にも所持そのものが犯罪ともなる拳銃という凶器に対する人間の本能的なフェティシズムがやがては生活を支配してかかり、その実際の使用、発射殺戮への衝動が彼を呪縛していく。

 何回読んでもよくわからない。
大森 T人間の本能的なフェティシズムUねえ。独創的な言葉遣いです。
豊崎 受動と能動の使いかたをよく間違えるのも特徴的です。「銃」についての文章はTこの作家の力量 、というよりもそれ以前の、最後までドライブがかかり通すエネルギーは貴重で、Uと続いていくんだけど、これはTドライブをかけ通 すエネルギーUにしなきゃいけない。極めつきが

 藤野千夜氏の「夏の約束」はホモという異常な世界を余儀なくする主人公たちのスケッチだが、これがまともなヘテロの人間世界だったら何の劇性もありはしまい。という批評は偏見に依るものだといわれても、私にはあくまで一人の読書として何の感興も湧いてこない。平凡な出来事の中で描いてホモを定着させることが新しい文学の所産とも一向に思わない。……

Tホモという異常な世界を余儀なくする主人公が……。Uって、なんだよそれ。TするUじゃないでしょ、T余儀なくUはTされるUんだよっ(笑)。編集者も手を入れてやればいいのに。Tホモという異常な世界Uとか、差別 的発言もひどい。さすが、女は生理があがったら社会として養う価値がない、生き物としての価値がないっていうご意見をもっておられる御仁ですね。こういう人には、下半身御意見番のジュンちゃん(※ 渡辺淳一)からTこの種のことを書くときはもう少し勉強して、真摯に書くべきだろうUって御注意をしていただきたい(笑)。
大森 たぶん、知事は言うことを聞かないと思うけど(笑)。』(P99〜101)

「奈須きのこVS石原慎太郎」の「日本語」対決というのも、なかなか面 白いかも知れないな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


転向について(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月11日(水)23時00分32秒

『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目)で、作家宗像冬樹は「『堕天使の冬』の続編を出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」とあり、「『鬼道伝』の第一巻が、現象学探偵シリーズの十倍という読者を獲得した」(P217)とある。
ここで宗像冬樹は笠井潔、『堕天使の冬』、『鬼道伝』は『ヴァンパイヤー戦争』を指していると考えられる。
作家宗像冬樹は『鬼道伝』の最終巻を脱稿したあと、伝奇小説の新作『補陀落島秘録』の構想をまとめてみるが、「棚上げにしよう」とする。宗像冬樹は「なんだか気が抜けた」と感じており、伝奇小説ブームの終わりを予感しているようだ。(P217〜218)
さて『補陀落島秘録』が何を示しているか。コムレ・サーガのうち未刊の『無底の王』ではないかと考えるが、どうだろう。
やる気をなくした宗像冬樹に、編集者は伝奇小説ブームの峠は過ぎたが、「伝奇というジャンルは残る」とし、「天啓教」を指し示す。「天啓教」は「『縄文の霊性で近代の超克を』というビラを配っており、「近代の超克」にはポストモダンというルビが振られていたとされる。編集者は『鬼道伝』を読んで「天啓教」に入ったものもいるかも知れないと宗像をおだてる。(P218)
では、現実はどうか。「天啓教」はオウム真理教のことである。そして、笠井潔はオウム真理教の獄中幹部から、自分は笠井のSF伝奇小説の読者であり、「自分にとってオウムとはコムレ教なのだ」と書かれた手紙を受け取ったことがあるという。(笠井潔・東浩紀往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書、P113)
この後、『瀕死の王』第四章は、日本のポストモダニズムが、バブル的繁栄とリンクしており、ポストモダニズムの唱えた「差異化の時代」や「記号の時代」が、商業資本のスローガンとなったという見解が述べられる。(P218)これは、「浅田彰という装置」(『<戯れ>という制度』作品社に収録)での浅田ブームと「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が連動しているという見解と同一である。
確かに、浅田彰の『逃走論』には、商業広告におけるコピー文化を評価した軽めのエッセイが含まれていた。浅田の場合、自著が売れすぎたことを警戒し、自身を「隠れ左翼の優雅な論客」(蓮見重彦による浅田評)ではなく、単なる左翼であると宣言し、軌道修正を行うことになる。

転向について(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月11日(水)23時01分25秒

『瀕死の王』の編集者は、「虚構と現実が混濁し、相互浸透するのがポストモダン」(P218)とし、「天啓教」を虚構と現実の区別 がなくなった連中とみる。
『瀕死の王』第四章では、「天啓教」と「伝奇小説」と「ポストモダニズム」が関連があるとされる。そして、「天啓教」に自身の「伝奇小説」が影響を及ぼしたかも知れないとする。(この点、彼は別 に嘆かわしいことだとは捉えていない。)そして、「最大の敵役」である天皇の死とともに、自身の「伝奇小説」の時期は終わるという。この結果 、自身は安全圏に脱出し、彼は、自身が脱退した「旧・伝奇小説」と「ポストモダニズム」に対し、「天啓教」の温床となった責任論を問う立場に飛び移ることになる。
ここで、重要なことは、かつて笠井潔は自身の「伝奇小説」と「ポストモダニズム」を対立関係で捉えていたのに、自身が抜けると「伝奇小説」と「ポストモダニズム」が「天啓教」の元凶として結び付けられるということである。
『空の境界』下巻の解説では、「「ニューアカ」を代表した山口昌男の文化理論」(P460)という記述がみられる。正確にいうと、ニューアカデミズムの中心は、浅田彰と中沢新一であり、山口昌男はその先駆者であった。浅田と中沢はポスト構造主義を主張し、山口昌男は記号論を代表していたのである。ここで、笠井が浅田・中沢でなく、山口を持ってきたのは、山口の「中心−周縁」理論の方が「伝奇小説」と関連づけやすいからである。もっと奇妙なことは、笠井潔はかねてから山口昌男は×、栗本慎一郎は○、蓮見重彦は×、柄谷行人は○といってきた人間である。笠井潔は、栗本の「過剰−蕩尽」理論を支持し、山口の「中心−周縁」理論の周縁には共同幻想の外部が入っていないからだめだといってきた。しかし、自身の『ヴァンパイヤー戦争』を含めた「伝奇小説」の枠組みを、『空の境界』下巻の解説で山口の「中心−周縁」理論と関連付けて説明しているのはなぜか。つまり、「旧・伝奇小説」と山口のような「ポストモダニズム」が、オウム真理教の温床となったのであり、自分は早々と手を切ったといいたいのである。そのために、首尾一貫していないご都合主義的改ざんが行われていると考えられる。
こうして、笠井潔の何度目かの転向が行われる。それはオウム真理教から離れて、終わりなき日常としての援交とブルセラを肯定せよと説く初期の宮台真司に似て、オウム真理教から離れて、終わりなき日常としてのゲーム、ライトノベル、新伝綺小説などを肯定せよと説く立場である。(それにしても、あまりいい転向先とはいえないですね。ぷぷい。)


富士の湖畔より(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時18分59秒

皆様、こんばんわ!
やっと合宿が終わりましたので書き込めます。

ホランド様

>信じる勇気

>若い世代」と言ったって、それは人それぞれで、みんながみんな「清涼院流水」や『ファウスト』や「ゼロの波」を無条件に信奉してるなんて思ってはいませんよ。ただ、どうであれ、時雨さまが「若い世代」に属するという事実は揺らがないし、その代わりはボクらにはできません。だから、「若い世代」の一人としてご参加いただけただけで、なかば期待に応えているってことなんですよ。

そういっていただけると有難いです。

>、「私」という個性を「世代」に回収されて、うれしい人なんて、あんまりいませんからね。でも、「その世代に属する」という事実の持つ意味は大きい、ということは言っておくべきだと思ったんです。――もちろん、あとは個人的に頑張っていただきたいんですが、頑張るというのは、笠井さんを苛烈に批判しろというようなことではなく、ご自分の意見をしっかりと語っていただきたいということなんです。

分かりました。若い世代として、自分の意見をしっかり持つようにします。

>――ただ、ボクは、「文学」が「超越の契機」であることを、完全に「幻想」だと思っているわけでもありません。ごく少数だとは言え、『虚無への供物』のような「恩寵」をうけたとしか思えない作品が実在する、というのも、また事実なんですからね。

「恩寵」ですか。どうも良く分かりませんね・・・
以前読んだ「ドグラマグラ」もなんだか良くわからなかったし。
そうですね、ちょうどいい機会ですからここらで「虚無への供物」を読んでみます。
『超越』か・・・どういったものなのでしょうね。

富士の湖畔より(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時33分22秒

ホランド様(続き)

>へえー、東浩紀さんって、コミケ展開までしてるんですか、さすがは「おたく」を自負するだけのことはありますね(笑)。

それもあるのでしょうが東さんの場合出版業界に強いコネクションを持ってらっしゃらないことが最大の理由ではないでしょうか。
同じように「ジャンルX」や「ライトノベル」に注目する評論家、たとえば笠井氏の場合は作家として、探偵小説研究会の主催者としての地位 をある程度確立しているので商業出版で評論はいくらでも出来る。
また大塚英志氏はもと編集者でメディアワークスの株主でもありますから
「金と責任は全部持つから角川から雑誌ださせて」
といえば後輩編集者に手伝わせて好き放題に評論や対談が出来る雑誌を立ち上げられます(『新現実』のことですが)。
でも東さんは思想評論の世界からこちらの世界にやってきたばかりの新参者ですからなかなか自由に動けない。
そんな中で自分自身の言葉を表現する為に「おたく」であり「ポストモダン世代」である自分の思想の中から出した答えが、参加者と直接交流でき、自由に発言できるコミケへの参加であり有料のメールマガジンという形式なのだと思います。

>『ファウスト』の読者に関する、こないだのボクの書き方は、ちょっと感情的すぎたかなって、反省してます。たしかにあの売り方は好きじゃないんですが、それは読者の責任じゃないですからね。――こないだのボクの文章を読んで、気を悪くなさった方がきっとおられたことでしょう。この場でお詫びしたいと思います。ホントにごめんなさい。

すみません、こちらこそ言葉が足りませんでした!
『ファウスト』にハッタリじみたところがあるのは僕も同意見です。
あの文章は「それでも売れていることが興味深い」といった意味で、ホランド様を非難する意味は含んでいません。


富士の湖畔より(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時42分35秒

はらぴょん様

>『瀕死の王』、昭和の終わりに 

>ところで、笠井さんの趣味は、スキーの前は登山だったと記憶します。
で、『スキー的思考』になると「登山的思考」を批判しています。「スキー的思考」的創作観と、「登山的思考」的創作観の間に差異はないのでしょうか。どうも、そのあたりのところが不鮮明なのです。まぁ、「スキー的思考」などという<とんでも>に、クリアな理解をしようとする私が間違っているのかも知れませんが。

まだこの二つについての評論(『スキー的思考論』でしたっけ?)は未読なのですが、いつ聞いてもすごい言葉ですね。僕はスキーできませんからよくわからないですが・・・

>大切なことは、笠井潔の作品や振る舞いを通じて、笠井潔の教えを護教的に守るだけとか、笠井潔を罵倒するだけで終わるのではなく、なにがしかを学ぶことであるように考える。

全く同感です。これは笠井潔批判だけではなくすべてに適用できることですよね。


富士の湖畔より(4) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時59分23秒

園主様

>凶鳥の黒影

>恐縮でございます。
しかし、私なら、好きな作品を「ひどい作品だ」と評価されれば、その批評がいかに理路整然と誠実に語られたものであろうとも、やはり気分的には辛うございましょうね。

僕も最初正直に申し上げれば嫌な気持ちになりましたが、だからといって感情的になって園主様に噛み付いてもそれは不毛な口論を生み出すだけで非生産的です。
ならば、僕がとるべき最善の行動は園主様の批判を受け止めた上で、奈須きのこのファンの立場から「なぜ『空の境界』を魅力的だと感じたのか」を精一杯論理的に語ることだと考えたのです。
というわけで、いずれここで自分なりの『空の境界』だけでなく『月姫』や『Fate/stay night』も含めた「奈須きのこ」論を現在構想中ですのでいずれ投下させていただきます。
僕なりの園主様の誠意への返答として。


富士の湖畔より(5) 投稿者:時雨  投稿日: 8月12日(木)00時25分13秒

園主様(続き)

>『空虚に巣食う魔』(7)〜(21)

大変興味深く拝見させていただきました。
特に『空の境界』上巻の解説の検証は80年代の事情を知らない僕のはとても有難いです。
これで僕も下巻の作品論の論考に集中できます。
ただ、空の境界が笠井潔と講談社の共謀によって祭り上げられてというくだりには全面 的には賛成しかねます。
数字のデータこそ提示されていませんが奈須氏がシナリオライターとして参加した同人ゲーム『月姫』が驚異的なヒットを記録したのは事実です。
これは同人ゲームでありながらファンジン漫画のアンソロジーが10冊以上出版され(同人の同人というわけです!)、TVアニメ化(内容自体はお世辞にも出来がいいとは言えないものでしたが)まで果 たしたということからも伺えると思います。
空の境界のブームは、講談社や笠井潔が持ち上げていると言うこともあるでしょうが最大の要因は、奈須氏がシナリオライターとして所属するTYPE-MOONのファンがゲームの関連商品として買っているところが大きいのではないでしょうか。
90年代後半に流行ったあかほりさとるのノベライズ小説のように。


さて、今夜はこの辺でおいとましますが、これからは余裕が出来たので本格的な意見の作成をはじめます。
とりあえず次は『空の境界』下巻の論考になるでしょうが・・・
それでは皆様、おやすみなさい。

ものわかりのよさの影(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時15分51秒


 時雨さま
>> へえー、東浩紀さんって、コミケ展開までしてるんですか、さすがは「おたく」を自負するだけのことはありますね(笑)。

それもあるのでしょうが東さんの場合出版業界に強いコネクションを持ってらっしゃらないことが最大の理由ではないでしょうか。

 なるほど、勉強になりました。
 昔、「職業詩人なんてやつは、みんなペテン師だ」というような言葉を読んだ記憶があります。これは「詩」では喰っていけないという意味であり、それなのにそれで喰っている人というのは、どこか「詩人」ではないところで喰っているのを誤魔化しているんだ、という意味だとボクは理解しました。それは「哲学」や「思想」や「批評」についても同じで、普通 こういうものでは喰っていけないから、たいていの「哲学者」「思想家」「批評家」は学校の先生をやっているんですよね。それで生活の糧を確保した上で、「哲学」や「思想」や「批評」をやっているんです。

 だから東浩紀さんの場合も、普通なら大学に働き口をみつければ、それで済むんでしょうが、

> そんな中で自分自身の言葉を表現する為に「おたく」であり「ポストモダン世代」である自分の思想の中から出した答えが、参加者と直接交流でき、自由に発言できるコミケへの参加であり有料のメールマガジンという形式なのだと思います。

という形式をあみだしたというのは、とても立派なことだと思います。

 笠井潔さんは、「作家」兼「批評家」として「独立採算」の『文の商人』であろうとして、結局は園主さまやはらぴょんさまから「その現実」を批判されています。
 たしかに「生活の糧」を他所で確保した上で、というのは、形としてはスマートではないかも知れませんけれど、「筆一本で身を立てる」というのは、あくまでも「作物が立派なものである」ということが大前提になるんですよね。肝心の「小説」や「批評」が「糧を得るため」ために歪められたものになるくらいなら、始めから「生活の糧」は別 のところで確保した方が、よほど潔いと言えるでしょう。

 東浩紀さんの場合は、この両立しにくいものを、新しい市場を再発見することでクリヤしたのかも知れません。だとすれば、それはそれ自体、注目し、評価してよいことなんだと思います。


>>『ファウスト』の読者に関する、こないだのボクの書き方は、ちょっと感情的すぎたかなって、反省してます。たしかにあの売り方は好きじゃないんですが、それは読者の責任じゃないですからね。――こないだのボクの文章を読んで、気を悪くなさった方がきっとおられたことでしょう。この場でお詫びしたいと思います。ホントにごめんなさい。

> すみません、こちらこそ言葉が足りませんでした!
> 『ファウスト』にハッタリじみたところがあるのは僕も同意見です。
> あの文章は「それでも売れていることが興味深い」といった意味で、ホランド様を非難する意味は含んでいません。

 いいえ、誤解です。ボクは時雨さまに非難されたなんて思っていませんよ。ただ純粋に、自分の書いたことが不適切であったと思ったからお詫びしただけで、時雨さまからの非難の有無は関係ないんです。非難されたって、納得しなければ、絶対に謝罪したりしませんしね(笑)。だから、そんなに気をつかわないで下さい。

 『ファウスト』が売れているというのは、ひとつにはあの「ハッタリがましい売り方」もあるんでしょうが、それだけではないのかも知れません。いずれにしろ、『ファウスト』を読んでいないボクは、そうした肯定的要因の存在を否定できる立場にはないんだから、あの「ハッタリがましい売り方」にみんなが騙されて売れているんだ、みたいな決めつけめいた言い方は、やっぱり不適切だったんだと思うんですよ。――ボクは、自分が「知りもしないことを決めつけるような馬鹿」でありたくはなかった。だから、自分のために、みなさんに謝罪しただけなんです(笑)。





( 以下は「ものわかりのよさの影(6)」につづく)

ものわかりのよさの影(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時25分2秒


 はらぴょんさま
転向について(1)〜(2)

> 『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目)で、作家宗像冬樹は「『堕天使の冬』の続編を出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」とあり、「『鬼道伝』の第一巻が、現象学探偵シリーズの十倍という読者を獲得した」(P217)とある。
> ここで宗像冬樹は笠井潔、『堕天使の冬』、『鬼道伝』は『ヴァンパイヤー戦争』を指していると考えられる。

 『瀕死の王』を読んでいないので確かなことは言えませんが、作中の『堕天使の冬』のモデルは、たぶん『サマー・アポカリプス』のことだと思います。というのも、笠井さんが本格的に『ヴァンパイヤー戦争』に取りかかったのは、矢吹駆シリーズ第3作『薔薇の女』を書いてからですからね。つまり『『堕天使の冬』の続編を出してから』と語られる『続編』が現実には『薔薇の女』にあたるので、『堕天使の冬』は『サマー・アポカリプス』だと考えられるんです。もちろん、このタイトルには『サマー・アポカリプス』の「夏」と『バイバイ、エンジェル』の「(堕)天使」が、二重に響いているんでしょうけど。

 ちなみに、『堕天使の冬』にいちばん近いタイトルの作品は、矢吹駆シリーズの0号作『熾天使の夏』ですが、これはたしか『バイバイ、エンジェル』の前に書かれているはずだから、ここでの『堕天使の冬』のモデルにはならないと思います。

> 作家宗像冬樹は『鬼道伝』の最終巻を脱稿したあと、伝奇小説の新作『補陀落島秘録』の構想をまとめてみるが、「棚上げにしよう」とする。宗像冬樹は「なんだか気が抜けた」と感じており、伝奇小説ブームの終わりを予感しているようだ。(P217〜218)
> さて『補陀落島秘録』が何を示しているか。コムレ・サーガのうち未刊の『無底の王』ではないかと考えるが、どうだろう。

 『補陀落島秘録』については、ボクも見当がつきません。


『瀕死の王』の編集者は、「虚構と現実が混濁し、相互浸透するのがポストモダン」(P218)とし、「天啓教」を虚構と現実の区別 がなくなった連中とみる。

 このへんは、園主さまの、

結局のところ、「スキー的思考」とか「登山的思考」というのは「比喩」でしかなく、単なる「比喩」を「本質」的なものと取り違えるところに、混乱が発生するのでございましょう。笠井潔には、「比喩」と「現実」を混同する傾向があるようでございますね。つまり「○○と語りうるものは、○○である」と考える。しかし、これは「観念的事実」としての「実感」ではあっても、「事実」そのものではございません。

と、まるで「逆さま」な認識ですよね。だって、笠井さんは「反・ポストモダン」のはずなんですから。
 でも、こうした園主さまの笠井潔観からすれば、

では、現実はどうか。「天啓教」はオウム真理教のことである。そして、笠井潔はオウム真理教の獄中幹部から、自分は笠井のSF伝奇小説の読者であり、「自分にとってオウムとはコムレ教なのだ」と書かれた手紙を受け取ったことがあるという。(笠井潔・東浩紀往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書、P113)

という現実は、読者がその作品(『ヴァンパイヤー戦争』)から「作者の生理(オカルト嗜好)」まで正しく読み取り、それを受け入れるならば、それも「必然的な結果 だった」ということになるんですよね。その点では、はらぴょんさまが指摘なさっている、

しかし、自身の『ヴァンパイヤー戦争』を含めた「伝奇小説」の枠組みを、『空の境界』下巻の解説で山口の「中心−周縁」理論と関連付けて説明しているのはなぜか。つまり、「旧・伝奇小説」と山口のような「ポストモダニズム」が、オウム真理教の温床となったのであり、自分は早々と手を切ったといいたいのである。そのために、首尾一貫していないご都合主義的改ざんが行われていると考えられる。

という笠井さんの『首尾一貫していないご都合主義的改ざん』とは違い、園主さまの笠井潔観は『首尾一貫』したものだと言えるんでしょうね。




『空の境界』の分かりにくさについて(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)10時59分52秒

◆ ホランドさま
『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回め、P217)の記載を忠実に引用すると、「一九八○年代のはじめに『堕天使の冬』の続編を二作出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」となっています。
引用が不完全だったために、誤解を抱かせてしまったようで申し訳ありません。ここで書かれている『堕天使の冬』は『バイバイ、エンジェル』、続編二作は『サマー・アポカリプス』と『薔薇の女』ということで、つじつまが合うと考えます。


『空の境界』の分かりにくさについて
(1) 『空の境界』は、過去→現在→未来という時系列に沿った描き方がなされていません。各章間の流れも、過去→現在→未来ではないし、章の中の流れも過去→現在→未来ではありません。
例えば、上遠野浩平の『ブギ―ポップは笑わない』は、過去→現在→未来の流れで書かれているのではなく、いくつかの断片的エピソードの積み重ねが綴られ、最終的に読者の頭脳の中でジグソーパズルのように全体像が組み立てられるという仕掛けになっていました。村井さだゆきらが脚本を手がけたそのアニメ版『ブギ―ポップは笑わない〜ブギーポップ・ファントム』も、この方法が踏襲されていました。
読者の頭脳の中でジグソーパズルのように全体像が組み立てられるというのは、一種の「謎−解明」であり、物語をミステリアスにする効果 があります。しかし『ブギ―ポップは眠らない』では、効果を挙げたこの方法も、『空の境界』のように各章間の流れも、章の中の流れも錯綜すると、読者にとって非常に呑み込みにくい話になります。
例えばジャン・ジュネの『泥棒日記』のような小説の場合、追憶のシーンが時系列に関係なく挿入されます。(新潮文庫版をお読みの方は、改版後のものでご確認ください。改版前は、読者に分かりやすいように時系列に修正されて翻訳されています。)このように物語のあらすじを二の次にした小説ならば、この手法もありでしょうが、物語のあらすじがメインのエンターテイメントでは度を過ぎると、マイナスになってしまいます。
『空の境界』は、ある程度、過去→現在→未来という時系列に沿った分かりやすい描き方をし、主題に沿って荒耶と式の対決をクライマックスに持ってくる方が、より成功を収めたのではないかと考えます。
聞くところによると、『空の境界』は、当初『空の境界式』としてWeb掲載されており、その際には荒耶と式の対決がメインになっていたようです。現在の『空の境界』は、『空の境界式』より大幅増補がなされており、荒耶と式の対決というクライマックスが中盤に描かれ、その後荒耶の影響を受けた小物(ザコ)との戦いが続く形になっています。


『空の境界』の分かりにくさについて(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)11時01分9秒

(2) 『空の境界』の作者は、読者に対して、なにが起きているか分かりやすく伝える気がないようです。例えば、各章の途中までを読むと、さっぱり分からない描き方がなされています。各章は、一章分読了し、プロットの再構成をしないと、なにが起きているか了解できないようになっているのです。
例えば、第一章の俯瞰風景のあらすじを書くと、以下のようになります。
荒耶側の駒として、巫条霧絵が登場し、巫条霧絵は何人かの少女に対し「空を飛べる」という魔術的な催眠術を施した結果 、少女たちは能力を開花させ、宙に浮いた。巫条霧絵は、ひとつの人格で、通常の体以外に、分離した意識体を有していた。両義式は、このうち巫条ビルで、空中を浮いていた意識体の巫条霧絵をナイフで斬った。少女たちを操っていた意識体の巫条霧絵が殺害されたことで、魔法が解け、落下した。巫条霧絵もまた、本体である意識体の死が引き金となり、墜落による自殺を遂げる。
しかし、このあらすじは、第一章を読み通し、読者が頭の中でプロットの再構成をしないと分からないようになっています。しかも、説明不足であり、単に時系列にしただけでは、納得できない書き方がなされています。
説明不足と感ずるのは、次のような箇所です。(a)巫条霧絵が複数の体を持っていたことの説明、(b)巫条霧絵が少女たちに施した魔術的な催眠術の説明、(c)少女たちの落下に関する説明。
例えば、私が作者ならば、(a)魔術師が複数の体を持った事例があること(カスタネダの<ドン・ファン>シリーズに出てくるドン・ヘナロの分身の術や、ダイアン・フォーチュンが『心霊的自己防衛』で挙げている心霊攻撃の例があること)を示し、巫条霧絵の場合、腫瘍に侵された通 常の自己から逃れるために別の意識体をつくったという説明をし、巫条霧絵に影響を受けた少女たちにも現実逃避の自殺衝動を無意識のうちにかかえていたことにします。(b)そして魔術的な催眠術とは、相手の無意識に「空を飛べる」などのメッセージを刷り込み、意識にはその記憶が上ってこないようにして、密かに無意識の限界意識という足かせを外し、潜在能力を開放してしまうことだと説明し、催眠術というものは原理的に自殺の意思のないものを、自殺に導くことはできないと説明し、(c)少女たちの無意識下の「空を飛びたい」という願望の裏側には、「世界の果 てまで行きたい=現実嫌悪=自殺願望」があり、巫条霧絵の術でその潜在意識が顕在化したのだと説明します。これにより、少女たちの死は、巫条霧絵の関与による他殺であり、本人の意識に反する事故であり、本人たちの無意識に忠実な自殺であるという判断の難しい事例となります。
ここまでインプットした上で、以下の記述を再読してみましょう。

『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
 意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』(『空の境界』上巻P12)

私の場合、初読の時から『空の境界』を時系列に頭の中で再構成し、作者の説明不足を補いながら読んだのですが、これは通 常の読書では要求されない作業です。しかも、これだけ補正作業しても、「完全にわかった」とはなりません。どうも奈須きのこは、よく分からないところが残った方が、カルト的な人気が出るとでも思っているのでしょうか。とすれば、それは早々に捨て去るべき誤った考えです。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)15時45分54秒

『両翼の騎士』(北宋社、1985年)に収録されている高取英の「縄文民族解放小説」は、黒木龍思(活動家時代の笠井潔のペンネーム)の「日本革命思想の転生」における太田竜の<原始共産制への復帰論>批判に注目する。しかし、高取は結末部分で、黒木による太田批判にもかかわらず、その後書かれた笠井潔の『巨人伝説』等の「縄文民族解放小説」と、太田竜の「アイヌ民族解放闘争」とが類似しているのではないかという疑問を投げかけている。
この評論を再確認していこう。黒木龍思は太田竜の<原始共産制への復帰論>について「そのケバケバしい反近代主義的装飾にもかかわらず、本質的に近代主義的時間意識の枠内における<ロマン的反動>にすぎない。」(『両翼の騎士』P118)と書いている。ここで、原典を確認すると「<ロマン的反動>の組織的思想である「戦士的共同体」論は、「原始回帰思想」=「原始共産制への復帰」論、「民族的責任論」とならんで六十年代新左翼の思想的解体の混沌から発生した」(『情況』昭和47年7月、情況出版、P89、黒木龍思「日本革命思想の転生」(上)(3))とある。ここで「戦士的共同体」論とあるのは、武士道や涅槃教に基いて「戦士的共同体」を築こうとする企てのことを指す。黒木龍思の「戦士的共同体」論批判は、後の『哲学者の密室』の主題となったハイデッガーの死の哲学とナチスの結びつきへの批判を想起させる。マルクス主義への肯定と否定という差異はあっても、その他の部分では似通 った論を展開しているのである。黒木龍思は、「戦士的共同体」論、「原始共産制への復帰」論、「民族的責任」論を<ロマン的反動>という概念で括り、<ロマン的反動>を日本的ファシズムと地続きの思想として排撃する。「「資本主義(−帝国主義)−近代主義」の、かかる本質的存在様式を総体として批判するのでなければ「世界共産主義」の革命綱領は獲得されえない。」(『両翼の騎士』P118)
しかしながら、第三世界革命論が座礁し、「世界共産主義」への信頼が崩壊すると、笠井潔は黒木龍思というペンネームを捨て、「マルクス葬送派」に転向する。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)15時46分47秒

太田竜の『マルクスを超えて』(風濤社、1986年)には、以下の二本の座談会の記録が収められている。
1.座談会マルクス葬送の後に(笠井潔、戸田徹、小阪修平、太田竜、西垣内堅佑)(初出「テーゼ」第3号、1982年3月、同時代思想編集委員会編集、風濤社)
2.座談会没後100年 マルクスは甦るか(竹内芳郎、太田竜、笠井潔、戸田徹、小阪修平、西垣内堅佑 )(「テーゼ」第4号、1983年6月、同時代思想編集委員会編集、風濤社)
これらの対談では、笠井潔は、太田竜、戸田徹、小阪修平、西垣内堅佑とともに「マルクス葬送派」としての発言を行っている。つまり、笠井潔と太田竜は、セットで転向組なのである。
その後、笠井潔は『巨人伝説』をはじめとするコムレ・サーガで、縄文民族=コムレ一族の闘争の歴史を描く。公式的には、「縄文民族解放小説」は、柳田國男の『遠野物語』と吉本隆明の『共同幻想論』の<山人><サンカ>であり、吉本隆明の「南島論」に出てくる天皇制の外部としての<南島>と同等の位 置を占めるものとされる。
しかし、太田竜の「アイヌ民族解放闘争」のアイヌと縄文民族を置き換えたという疑いを完全に払拭することはできない。ただし、「縄文民族解放小説」はマルクス葬送派の笠井潔の作品であり、マルクス主義者・黒木龍思の作品ではないから、反マルクス主義的な内容を持っている。(例えば『巨人伝説』は百田というマルクス主義者を人喰いとして戯画化して描き、『ヴァンパイヤー戦争』はKGBを敵として描く。)とはいえ、笠井潔はマルクス葬送派になった後も、すべてを破壊しつくす究極の革命への願望(それは度し難い権力意志の現われである)を放棄していないようだ。かつて反核平和運動に異議を唱え、自分なら核シェルター破壊運動を行うといったのも、常に思想によって人間を支配し、それによって尊敬を得たいと考えるのも、人並み外れた権力意志の現われではないかと思われる。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)15時49分47秒

(注)笠井潔とJ=P・サルトル
竹内芳郎は、サルトルの『弁証法的理性批判』の訳者のひとりであり、笠井潔の発言にもサルトルの影響が伺える。
「座談会マルクス葬送の後に」では、笠井はマルクス主義のくそまじめ主義を批判している。
「笠井 私は、マルクス主義者と長いことつき合っていて、一番気にかかったことは、このくそまじめ主義なんですよ(笑)。」太田竜『マルクスを超えて』(P188)
このくそまじめ主義批判であるが、サルトルの『存在と無』にくそまじめの精神を批判した部分がある。
また「座談会没後100年 マルクスは甦るか」では、<集合性>や<溶解集団>という『弁証法的理性批判』の用語を笠井は使用している。

(注)アイヌ民族解放闘争と東アジア反日武装戦線
太田竜のアイヌ民族解放闘争の思想は、東アジア反日武装戦線に影響を与えたとされている。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/saitou.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%A5%A2%A5%B8%A5%A2%C8%BF%C6%FC%C9%F0%C1%F5%C0%EF%C0%FE
その後、太田竜は、家畜制度を批判し、動物実験に反対し、1992年に地球維新党を設立し、出雲帝国富士皇朝の万師露観とユダヤ陰謀論を展開している。要するに<トンデモ>である。


終戦の日は、いまだ遠く(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時29分49秒


 はらぴょんさま
転向について(1)(2)

> 『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目)で、作家宗像冬樹は「『堕天使の冬』の続編を出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」とあり、「『鬼道伝』の第一巻が、現象学探偵シリーズの十倍という読者を獲得した」(P217)とある。
> ここで宗像冬樹は笠井潔、『堕天使の冬』、『鬼道伝』は『ヴァンパイヤー戦争』を指していると考えられる。
> 作家宗像冬樹は『鬼道伝』の最終巻を脱稿したあと、伝奇小説の新作『補陀落島秘録』の構想をまとめてみるが、「棚上げにしよう」とする。宗像冬樹は「なんだか気が抜けた」と感じており、伝奇小説ブームの終わりを予感しているようだ。(P217〜218)

> やる気をなくした宗像冬樹に、編集者は伝奇小説ブームの峠は過ぎたが、「伝奇というジャンルは残る」とし、「天啓教」を指し示す。「天啓教」は「『縄文の霊性で近代の超克を』というビラを配っており、「近代の超克」にはポストモダンというルビが振られていたとされる。編集者は『鬼道伝』を読んで「天啓教」に入ったものもいるかも知れないと宗像をおだてる。(P218)

以前、はらぴょんさまは「笠井潔は、思想評論界で行ったポスト・モダン思想批判を、そのままミステリ界で竹本健治批判としてくり返している」という主旨のことを書かれておりましたが、どうやら笠井は今度は、竹本健治批判の意味をも有した「天啓三部作」と同種の手法、つまり「フィクション形式で、現実を撃つ」という形式で、ポスト・モダン思想批判をしようとしているのかも知れませんね。

もちろん、こうした「手法」自体は、決して間違いではございません。「小説的象徴化」により、現実の事象を、より本源的なレベルで描出するというのは、小説家にとっては、むしろ正攻法だからでございます。――しかし、言うまでもなく、安易にこれをやると、その結果 は「単にフィクション形式で好き勝手を書いて、憂さ晴らし(の自己正当化)をしただけ」ということにもなってしまいます。

笠井潔の 『瀕死の王』が、どこまで「現実」を昇華しえているかは、作品の完成を待って評価したいところでございますが、ただ「天啓三部作」における天童某(=竹本健治もどき)の描写 を見るかぎり、あまり期待しない方が懸命なのだとは存じます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(6)」につづく)

終戦の日は、いまだ遠く(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時30分59秒


 はらぴょんさま(つづき)

『空の境界』の分かりにくさについて(1)(2)

> 『空の境界』の分かりにくさについて
> (1) 『空の境界』は、過去→現在→未来という時系列に沿った描き方がなされていません。

> 読者の頭脳の中でジグソーパズルのように全体像が組み立てられるというのは、一種の「謎−解明」であり、物語をミステリアスにする効果 があります。

> この手法もありでしょうが、物語のあらすじがメインのエンターテイメントでは度を過ぎると、マイナスになってしまいます。

たしかに『時系列に沿った描き方』なされていない場合、わかりにくい(読みにくい)作品になる「可能性」が高まりはいたします。ですが、要はそうした「手法」を使いこなすだけの、作家の「技量 」の有無が問題なのだと存じます。つまり問題は、「手法」そのものではなく、「作家の力量 」であり、その「自覚の有無」なのではないしょうか。


(2) 『空の境界』の作者は、読者に対して、なにが起きているか分かりやすく伝える気がないようです。

> 第一章の俯瞰風景のあらすじを書くと、以下のようになります。
> 荒耶側の駒として、巫条霧絵が登場し、巫条霧絵は何人かの少女に対し「空を飛べる」という魔術的な催眠術を施した結果 、少女たちは能力を開花させ、宙に浮いた。巫条霧絵は、ひとつの人格で、通常の体以外に、分離した意識体を有していた。両義式は、このうち巫条ビルで、空中を浮いていた意識体の巫条霧絵をナイフで斬った。少女たちを操っていた意識体の巫条霧絵が殺害されたことで、魔法が解け、落下した。巫条霧絵もまた、本体である意識体の死が引き金となり、墜落による自殺を遂げる。

> このあらすじは、第一章を読み通し、読者が頭の中でプロットの再構成をしないと分からないようになっています。しかも、説明不足であり、単に時系列にしただけでは、納得できない書き方がなされています。

> 私が作者ならば、(a)(中略)巫条霧絵の場合、腫瘍に侵された通常の自己から逃れるために別 の意識体をつくったという説明をし、巫条霧絵に影響を受けた少女たちにも現実逃避の自殺衝動を無意識のうちにかかえていたことにします。(b)そして魔術的な催眠術とは、相手の無意識に「空を飛べる」などのメッセージを刷り込み、意識にはその記憶が上ってこないようにして、密かに無意識の限界意識という足かせを外し、潜在能力を開放してしまうことだと説明し、催眠術というものは原理的に自殺の意思のないものを、自殺に導くことはできないと説明し、(c)少女たちの無意識下の「空を飛びたい」という願望の裏側には、「世界の果 てまで行きたい=現実嫌悪=自殺願望」があり、巫条霧絵の術でその潜在意識が顕在化したのだと説明します。これにより、少女たちの死は、巫条霧絵の関与による他殺であり、本人の意識に反する事故であり、本人たちの無意識に忠実な自殺であるという判断の難しい事例となります。
> ここまでインプットした上で、以下の記述を再読してみましょう。

つまり、「あらすじ」を理解でき、さらに、はらぴょんさまが考案されたような「補足説明」がなされれば、私が奈須きのこの文章力で、

> 二人が、何を議論しているのか、すぐには呑み込めなかった。が、要するに作者は、『事故』という言葉の意味を知らないのである。それを知らないでいて、『飛び降り自殺』は『事故』か否かという不毛な議論を、作中人物たちにさせているのである。

と断じた、『「飛び降り自殺」についての会話(P12)』についても理解できる、というお話なのでございますが、それでもこれは「違う」と存じます。つまり、作者の意図がどうあれ、それが日本語として正しく表現されていなければ、それを正しく理解することはできない。ただし、作者とおなじ「日本語誤解」をしておれば、作者の意図を理解することはできる、ということなのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(7)」につづく)

終戦の日は、いまだ遠く(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時32分19秒


 はらぴょんさま(つづき)

『第一章の俯瞰風景のあらすじ』が、はらぴょんさまのご説明どおりであり、はらぴょんさまの「補足説明」が仮に存在したものと仮定して、話を進めましょう。

巫条ビルで発生した不審な「連続墜落死(自殺容疑)事件」は、じつは超能力者巫条霧絵の強烈な暗示によって空中浮遊を実現していた少女たちが、両義式による「巫条霧絵の意識体」斬り(殺し)によって、暗示が解けたことによる墜落事故死だった。巫条霧絵もまた、本体である意識体の死が引き金となり、墜落による自殺を遂げた」というものでございました。
この事件を、はらぴょんさまは、奈須きのこの意図に沿って「補足説明」を加えた上で、

> 少女たちの死は、巫条霧絵の関与による他殺であり、本人の意識に反する事故であり、本人たちの無意識に忠実な自殺であるという判断の難しい事例となります。

と説明なさいますが、ここには奈須きのこと同種の「言葉の濫用」が見られるのでございます。上の文章を、

 (A) 巫条霧絵の関与による他殺
 (B) 本人の意識に反する事故
 (C) 本人たちの無意識に忠実な自殺

に分解して、ご説明いたしましょう。

まず(A)でございますが、たしかに『少女たち』の「墜落死」に、巫条霧絵は深く『関与』しておりますが、霧絵がしたのは『少女たち』を浮遊させることであって、霧絵が「墜落」させたのではないのですから、『少女たち』の「墜落死」を巫条霧絵による『他殺』とするのは、間違いでございます。

例えば、誘拐犯人が誘拐した子供をビルの屋上の遊園地で遊ばせていたところ、べつの人物がその子供を誤ってビルから転落死させたしまったとします。この場合、最初の誘拐犯は決して「殺人罪」に問われることはことはなく、子供の死を、彼の『他殺』と呼ぶことはできません。これと同じことでございますね。

(B)は、『事故』という言葉についての誤認による、誤った理解でございます。前にも書きましたとおり、

「事故」とは『(多く「ことゆえなく」の形で)さしさわり』のこと

なのでございますね。したがいまして『本人の意識に反する事故』という文章は、「自家撞着」文だと申せましょう。つまり『事故』とは、『本人の意識に反する』も反しないも、もともとあらゆる『故』(故意、意図、理由など)の存在しないが故に『事故』なのでございますから、『本人の意識に反する事故』などという表現は「反論が許されない公正な討論」みたいなものなのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(8)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(8) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時33分10秒


 はらぴょんさま(つづき)

(C)でございますが、たとえ『少女たち』が『無意識』に死を願望していたとしても、『少女たち』の「墜落死」を『自殺』とは申し(え)ません。
彼女たちの死は、両義式による「巫条霧絵の意識体」斬り(殺し)にともなう、(式と霧絵、双方の)想定外の「巻き添え事故」死に過ぎないのでございます。

前述した「誘拐された子供の墜落死」という事例ならば、墜落死させた人物に「故意」が無くても、「重大な過失」があったとして「重過失致死罪」を問われる可能性がございますが、両義式の場合、「巫条霧絵の意識体」斬り(殺し)をすれば『少女たち』まで墜落死してしまう、とまでは予想できなかったでしょうから、式が罪に問われることは、基本的にはございません。それが「客観的現実」でございます。したがいまして、『少女たち』の死は、特異な事例ではあれ「不幸な事故死」としか言えないのでございますね。

つまり『少女たち』の「無意識」を忖度して言う『自殺』とは、正確には『自殺』ではなく『自殺のようなもの(だったのかもしれない)』という程度の話なのでございます。つまり、ここには私が笠井潔について語った、

笠井潔には、「比喩」と「現実」を混同する傾向があるようでございますね。つまり「○○と語りうるものは、○○である」と考える。しかし、これは「観念的事実」としての「実感」ではあっても、「事実」そのものではございません。

つまり、奈須きのこの『「飛び降り自殺」についての会話(P12)』が「非論理的」なのは、「現実的分類用語」と「比喩」という、まったく「論理レベルの異なったもの」を、混同して論じているからなのでございます。そして、はらぴょんさまも、その力場に引き込まれてしまっている、と申せましょう。

譬え話をいたしましょう。「うちの飼い犬ジョンは、大切な家族の一員です」という意見は、間違いではございません。しかし、「だから、ジョンも家族の一員として、戸籍に登載して下さい」と言えば、彼は「頭がおかしい」と思われても仕方ないのでございます。さらに申しますと、飼い犬ジョンを殺すと「器物損壊罪」に問われはしますが、決して「殺人罪」には問われません。たとえ飼い主にとってジョンが「人間同様」であったとしても、客観的にはジョンは「人間」ではない、のでございます。つまり、「自殺」と「自殺同様」とは同じではないのでございます。

したがいまして、奈須きのこの問題点は、『説明不足』にあるのではございません。「論理的思考能力の低さ」と、それに由来する「非論理的な文章」にこそ、奈須きのこの問題点があるのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(9)」につづく)

終戦の日は、いまだ遠く(9) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時34分22秒


 はらぴょんさま(つづき)

トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(1)〜(3)

それにしても、人はどうして「歴史」にその正当性の起源を求めようとするのでございましょうか。先日も私は、「戦争代替競技」としての「起源」が云々されることの多い、サッカーについて、

 問題は、人が「起源」や「出自」に囚われすぎるという点だろう。サッカーがどのような「起源」や「出自」を持っておろうと、それに縛られなければならない理由はない。大切なのは「如何にあるべきか」であり「これから先」のことなんだよ。

と書きましたが、問題の本質は同じだと存じます。

確かに「正義」というものは、「時代」や「立場」によって変化いたしますし、その意味では「相対的」なものでしかないとも申せましょう。しかし、だからといって、不確かな「歴史的起源」に正当(正統)性の根拠を求めようとするのは、安易でございましょう。もしかすると間違っているかも知れない、自己の「正義」や「愛」に、いつでも真摯に向き合い、懐疑しつつ、自身に可能な範囲で、それを実行に移していくことだけが、「全知」ならざる人間にできる「唯一のこと」なのではないでしょうか。仮構的な「起源」に、自身の根拠をゆだねるというのは、時間の彼方に自己の責任を放擲する、一種の「責任放棄」なのではないかと、私には感じられます。


> 例えば『巨人伝説』は百田というマルクス主義者を人喰いとして戯画化して描き

ご承知のとおり、この『百田』のモデルは、いいだももでございます。かつて、笠井潔の上部組織の理論的指導者だった人でございます。

……このような子供じみた、あるいは単なる「腹いせのイヤがらせ」めいた『戯画化』しかできないからこそ、笠井の新作『瀕死の王』にも、『あまり期待しない方が懸命だ』と考えざるをえないのでございます(笑)。


> 笠井潔はマルクス葬送派になった後も、すべてを破壊しつくす究極の革命への願望(それは度し難い権力意志の現われである)を放棄していないようだ。かつて反核平和運動に異議を唱え、自分なら核シェルター破壊運動を行うといったのも、常に思想によって人間を支配し、それによって尊敬を得たいと考えるのも、人並み外れた権力意志の現われではないかと思われる。

笠井潔は「誉め―貶し」の法則性は、ハッキリしております。
目上の場合、利用できそうな人物は「誉め」あげてお近づきになろうといたします(かつてのサルトル、吉本隆明、柄谷行人、中井英夫等)。一方、利用価値のない(なくなった)、むしろ「目の上のこぶ」のような人物については、たいへん精力的に「貶し」ます(サルトル、少し前の柄谷行人、かつてのいいだもも、死後の中井英夫等)。その批判は、自己顕示欲の強い子供そのままに「あれもこれも大したことないよ」という調子でございます。それはまるで、相手の欠点を指摘することで、自身が相手より上位 に立てるとでも思っているかのような様子だと申せましょう。
同輩、後輩についても、基本的には同様で、もはや実例を挙げるまでもないかと存じます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(10)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(10) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時49分37秒


 時雨さま
僕も最初正直に申し上げれば嫌な気持ちになりましたが、だからといって感情的になって園主様に噛み付いてもそれは不毛な口論を生み出すだけで非生産的です。
> ならば、僕がとるべき最善の行動は園主様の批判を受け止めた上で、奈須きのこのファンの立場から「なぜ『空の境界』を魅力的だと感じたのか」を精一杯論理的に語ることだと考えたのです。
> というわけで、いずれここで自分なりの『空の境界』だけでなく『月姫』や『Fate/stay night』も含めた「奈須きのこ」論を現在構想中ですのでいずれ投下させていただきます。
> 僕なりの園主様の誠意への返答として。

まったくの正論でございます。しかし、私が貴方さまに感心いたしますのは、その「正論」を自身の行動に反映できている点でございます。

他人事ならば、だれでも『感情的になって(…)噛み付いてもそれは不毛な口論を生み出すだけで非生産的』と言えますが、事が自身に及ぶと、たいていの方は頭に血がのぼって、バカな発言をし、恥の上塗りをなさいます。そんな最近の実例が、市民運動家、その虚像と実像 ―― きくちゆみの場合の、きくちゆみでございましょう。

口先で、いくら「賢明そう」なことや「謙虚そう」なことを言ったところで、自身に「不適切な自惚れ」を抱いている人間(つまり、自信過剰で、自己懐疑の回路を絶った人間)は、他者からの批判を、不当な中傷としか思えませんので、冷静に対処できないものなのでございますよ。

貴方さまは以前、ご自身、

自分には卑屈なところがあると常々考えていました

と書かれておりましたが、それは『自己懐疑の回路』が正常に機能していることの反面 でもあったのでございましょう。――それにしても、「自信過剰」でも「卑屈」でもない、ちょうどよい「自己認識」というのは、誰にとっても、生涯の難問なのでございましょうね。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(11)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(11) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時50分57秒


 時雨さま(つづき)

>> 『空虚に巣食う魔』(7)〜(21)

ただ、空の境界が笠井潔と講談社の共謀によって祭り上げられてというくだりには全面 的には賛成しかねます。
> 数字のデータこそ提示されていませんが奈須氏がシナリオライターとして参加した同人ゲーム『月姫』が驚異的なヒットを記録したのは事実です。
> これは同人ゲームでありながらファンジン漫画のアンソロジーが10冊以上出版され(同人の同人というわけです!)、TVアニメ化(内容自体はお世辞にも出来がいいとは言えないものでしたが)まで果 たしたということからも伺えると思います。

たしかに、奈須きのこが『同人ゲーム』(『月姫』)の「シナリオライター」として、すでに一廉の人物であるのは事実なのかも知れません。しかし、私が問題としているのは、『「同人小説」としては例外的によく売れた、という実績しかない新人作家』でしかないを奈須きのこを、笠井潔と講談社が、「小説家」として、異常に『祭り上げ』ている、という点なのでございますね。つまり「ゲームのシナリオライター」としての力量 実績と、「小説家」としての力量実績を、混同させてはならない、それは別物である、ということなのでございます。私が問題としているのは、あくまでも『空の境界』の著者である「小説家」としての奈須きのこなのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(12)」につづく)

終戦の日は、いまだ遠く(12) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時51分44秒


 時雨さま(つづき)

空虚に巣食う魔(17)でご紹介いたしました、笠井潔の岡島二人論余は如何にしてミステリ作家となりしか(『模倣における逸脱』所収)には、こんな指摘がございます。

『 シナリオライターはシナリオ「作家」ではあるが、むろんのこと映画「作家」ではない。他人が書いたシナリオを、不可欠の前提として映画を制作する監督でも、その映画「作品」にかんしては、唯一無二の「作家」という権利を主張しうる。というのは、おなじシナリオで映画を撮影しても、監督が違えば、完成された作品は異なるものとならざるをえないからだ。むろん、シナリオと映画を完璧に分離して考えるのには、現実問題として多少とも無理がある。その把握を前提にしても、映画からシナリオをマイナスして残る部分に、その作品の実質的な固有性があることまでは否定しえないだろう。小説にしても、事情はおなじなのだ。アイディアやストーリーはむろんのこと、「箱書き」にまで完成された形で手渡されたとしても、それを実際の小説の文として書いた者が「作者」である。というのは、ディテールを要約することは不可能であるし、そして作品の実質は、まさにディテールにこそあるのだから。』(P176)

つまり、奈須きのこは、『同人ゲーム』という「シナリオ」が最重要部分を占めるジャンルにおいては、「優れたシナリオ作家」かつ「優れたゲーム作家」でありえました。けれども、「小説」においては、「ゲーム作家」にはほとんど求められないであろう「小説的文章化能力」が、その最重要部分であるため、はらぴょんさんがおっしゃる『あらすじ』(つまり笠井潔のいうシナリオ的な『アイディアやストーリー』)の部分でいかに優れたものを創りだせようとも、それに「小説的文章化能力」がついていっていなければ、彼は「優れた小説家」とは呼べない、ということなのでございます。

したがいまして、『月姫』などの『同人ゲーム』で、奈須きのこがいかなる実績を持っていようとも、それは「小説家」としての力量 を何ら保証するものではございませんし、むろん、「小説家」としての実績ともなりません。いいかえれば、「小説家」としての奈須きのこが『空の境界』でプロデビューする段階で持ちえた実績とは、私の言う『「同人小説」としては例外的によく売れた』ということでしかないのでございます。ですから、その段階で、あの『空の境界』という「小説」の文章を読んでいた笠井潔や講談社の担当編集者が、奈須きのこを「小説家」として、あのように過剰に持ち上げるのは、不当である。つまり、あれは、

笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。

ということになるのでございますよ。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(13)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(13) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時52分30秒


 時雨さま(つづき)

空の境界のブームは、講談社や笠井潔が持ち上げていると言うこともあるでしょうが最大の要因は、奈須氏がシナリオライターとして所属するTYPE-MOONのファンがゲームの関連商品として買っているところが大きいのではないでしょうか。

『ブーム』に関しては、おおむねご指摘のとおりでございましょう。
『空の境界』の売り上げを支えたのは、まず「ゲームのシナリオライターとしての奈須きのこ」のファンでございましょう。たぶん、彼らの多くは、まず「ゲームのシナリオライターとしての奈須きのこ」のファンになり、その『ゲームの関連商品』として同人版『空の境界』を購入したのではないでしょうか。だからこそ「文章」が、さほど気にならなかった。なぜなら、彼らにはあらかじめ「奈須きのこはすごい作家だ」という意識が強く存在するとともに、「奈須きのこはゲームのシナリオ作家であって、専門の小説家ではない(から、多少文章が下手なのはしかたない)」という意識があったからではないでしょうか。

ついでに申しますと、「ゲームのシナリオライターとしての奈須きのこ」のファンとともに『ブーム』を支えたのは、「新しいもの好き」で「プロパガンダに弱く」「文章に鈍感な」、相対的に若いミステリファンでございましょう。


さて、今夜はこの辺でおいとましますが、これからは余裕が出来たので本格的な意見の作成をはじめます。
> とりあえず次は『空の境界』下巻の論考になるでしょうが・・・

楽しみに待たせていただきます(笑)。






名優(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月19日(木)02時01分11秒


 はらぴょんさま
◆ ホランドさま
『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回め、P217)の記載を忠実に引用すると、「一九八○年代のはじめに『堕天使の冬』の続編を二作出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」となっています。
> 引用が不完全だったために、誤解を抱かせてしまったようで申し訳ありません。ここで書かれている『堕天使の冬』は『バイバイ、エンジェル』、続編二作は『サマー・アポカリプス』と『薔薇の女』ということで、つじつまが合うと考えます。

 そうですね。それでスッキリしました(笑)。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思

 今日、本屋さんで見たんですが、偶然にも、徳間書店から「偽史」に関する(ちょっといかがわしい感じの)叢書が刊行されはじめたようですね。第一回配本として2冊出ていましたが、その2冊目の方の帯に「天皇家の天孫降臨の神話もまた偽史である。正史が存在しないからこそ、人は偽史を欲してしまうのだ」みたいなことが書いてありました。ちゃんと読まなかったんで間違ってるかも知れませんが、だいたいそんな感じで、なるほどって思ったのでした。

 左翼の人たちは、「偽史」に「偽史」で対抗したわけですけど、結局それって、偽史に裏づけられた「天皇家の権威」を認めるも同然なんじゃないかなあー。精神性としては「同じ穴のむじな」的と言うか・・・。



 園主さま
 今日はありがとうございました。
 『サンダーバード』は、評判が左程でもなかったので、あまり期待していなかったんですが、それがかえって良かったのかも知れませんね。

 ところで、ザ・フッドを演じたベン・キングズレーって、園主さまのお好きな『ガンジー』でガンジー役をやった人ですよね。おなじ坊主頭の東洋人役でも、今回はその名のとおり典型的な「悪玉 」を演じて、ずいぶん違った感じでした。それにこの人は『アマデウス』で(笠井潔、じゃなくて)サリエリを好演した人でもあります。名優なんですねー。

 まもなく、マイケル・ムーア監督の『華氏911』が、大阪でも公開されます。日本では、どのくらいヒットするんでしょうね?





 ではでは、みなさん、おやすみなさい。

魔笛の調べに乗って 投稿者:アマデウス耿乃介  投稿日: 8月19日(木)23時50分8秒

>それにこの人は『アマデウス』で(笠井潔、じゃなくて)サリエリを好演した人でもあります。名優なんですねー。

 おーっと、違いますよホランド氏♪
 『アマデウス』でサリエリをやったのは、F・マーリー・エイブラハムという人です♪
 こちらは『薔薇の名前』なんかにも出てますな♪
 名優です♪

 ベン・キングズレーの他の代表作は、有名なとこでは『シンドラーのリスト』、あとはポランスキーの『死と処女』なんかでしょうか♪
 『スニーカーズ』『デーヴ』なんかも好きですが♪

 チャオ♪

http://www.ne.jp/asahi/chateaudif/toki0504/


木の葉と扉の鍵(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)00時37分36秒

どうも、ご無沙汰しておりました。
さて、今日になって以前少し言及した東浩紀さんの同人誌が手に入りました。
内容は美少女ゲームへの評論や関係者へのインタビューなどで本来こことは関係のないものですが、最近の笠井潔とファウストに言及した箇所がありなかなか興味深い内容だったので転載させていただきます。座談会の中での発言になります。ちなみに()内は僕の補足です。

(ファウストは厳しい方針選択を迫られている、という東の発言を受け)
更科(注1):SFが嫌いでミステリも苦手なんだけど、伝奇は好きだから「新伝綺」という方針自体はありがたいと思っています。
(中略)
ただ『空の境界』の笠井潔さんの論だけだと、どうしてもスポイルされているものが出てきてしまうんです。だからどこかでカウンターを当てていかないと、そろそろ危険な感じはしますよ。
東:同感ですね。このところの笠井さんの動きはおかしいし、それに乗っちゃう(ファウストの)太田編集長の動きにも疑問がある。この座談会が活字になる頃には出てるはずだけど(座談会は7月4日に行われた)、『ファウスト』第三号は、第二特集が「新伝綺」で、そのあおりで舞城さんも左藤さんも滝本さんも表紙に名前が載ってない。しかも、元長さんや原田さんの作品は伝奇というわけでもなくて、「新伝綺」という名称は奈須さん一人のために作られたものです。これは太田さんも言っている。つまり、奈須さん一人のために舞城や佐藤を表紙から追い出したわけだけど、これはつい一年前、太田さんが「この雑誌は舞城と佐藤と西尾のものですから」といっていたのを知る僕からすると、ちょっと考えられない方針転換なんです。


木の葉と扉の鍵(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)01時00分38秒

(続き)

東:確かにTYPE-MOONが抱える資産は大きいと思う。けれども、太田さんも笠井さんも美少女ゲームのユーザーじゃない。今だから言うけど、彼らに『月姫』や奈須さんの名前を教えたのは僕と佐藤君(注2)です。しかも笠井さんは、僕との往復書簡『動物化する世界の中で』で、1980年代の自分の伝奇小説について、あれは「退却」だったとはっきり書いている。むしろ僕の方が、再評価してほしいと書いているぐらいなんです。それがわずか二年でこうでしょう。いろいろ考えがあるんでしょうけど、往復書簡の相手としては愉快なわけがない。笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。
『ファウスト』そのものには期待しているけど、舞城さんと佐藤さんと西尾さんの一人でも『ファウスト』に掲載されないようになったら、僕も書かなくなるでしょう。こういう発言が多少はカウンターとして効けばいいんでしょうけど、まあ、二十万部(『空の境界』の公称売り上げ)の前では蟷螂の斧か(笑)。更科さんのおっしゃる通 りですよ。
(以下略)

注1:編集者兼ライターの更科修一郎氏。詳細はttp://d.hatena.ne.jp/cuteplus/000000
注2:小説家の佐藤友哉ではなくこの座談会の参加者でもあるライター・佐藤心氏のこと。
詳細はttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%ba%b4%c6%a3%bf%b4


木の葉と扉の鍵(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)01時15分19秒

以上、『波状言論臨時増刊 美少女ゲームの臨界点』134Pより

・・・とまあ、なんだか園主様がご覧になったら「それ見たことか!」とおっしゃりそうなことになっています。どうもこれを読む限り、以前僕が賛成しかねると発言した奈須きのこのデビューに関する園主様の推測は、かなり真相に迫っているようですね。
これから『ファウスト』はどこへ向かうのか・・・ジャンル?の一読者として、興味深く見守らせていただきますか。
ちょうど現在「新伝綺」の考察と、その続編として『空の境界』解説の論考を含めた笠井潔と「新伝綺」の関係考察を考えておりましたので(なんだかこんな事ばっかり言ってる気がする・・・、園主様、はらぴょん様、遅筆でごめんなさい!)、今回の内容は大きく活かせると思います。

それでは皆様、良い夜を。


「自己決定権」の罠(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時10分37秒

みなさま、過日、私は、斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読みましたが、それに続いて読んだのは、小松美彦の『自己決定権は幻想である!』(洋泉社新書)でございました。
どういう流れかと申しますと、――斎藤貴男の『機会不平等』で問題視されているのは、ひとつには、「新自由主義」政策下での「自己責任」の欺瞞でございます。では、その「自己責任」を問う場合の前提となる、「自己決定」の問題をどう考えれば良いのだろうか、と私は斯様に考えたのでございます。

小松美彦の意見は、いたってシンプルかつ本質的なものでございました。つまり、タイトルにもございますとおり、――『自己決定権は幻想である』、現実にあるのは、人間が生きていく上で、避けえずなされる「自己決定」であり、それは本来「権利」と呼ぶような「外から保証されるもの」などではない。したがって「自己決定権は認めよう。自由にやりなさい。しかし、その責任は自分で取りなさい」という今の日本政府の考え方は、人々の当然の営為たる「自己決定」を権力の介入から守るために「言あげ」した「自己決定権」を、逆手に取った、不当なものなのである。つまり政府は、個人の行動が自己決定に基づくものだからといって、その(政府の)責任を放棄したり、本人に押しつけたりすることはできない。政府は、すべての国民を(税金未納者も犯罪者も)守る義務があるのだ。だから、国民の方も、「自己決定権」を逆手に取った、政府のレトリックに引っ掛かってはならない。今どき「自己決定権」が云々される場合は、その裏にまったく別 の「思惑」のあることを慮るべきであろう。―― という主旨の内容でございました。

小松の意見については、私もまったく賛成でございますから、これに特に付け加えるべきことはないのでございますが、ただ「面 白いつながり」が、私と小松美彦の間にございましたので、その点について、少々書かせていただきましょう。

私が、小松美彦の存在を知ったのは、「脳死・臓器移植」問題が世間の耳目を集めていた頃でございます。「自己決定権」という美名に流され、世間が「臓器移植」に都合のよい「脳死を、人の死とする」意見に、傾きかけていた当時、小松はその著書『死は共鳴する ――脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房)で、そうした流れに、敢然と「否」を叩きつけていたのでございます。

ご存じのとおり、わが笠井潔は、その著書(でありトンデモな)『国家民営化論』(光文社 知恵の森文庫)で、――国家は文化指導一切せず、倫理は各個人に完全に委ねられ、安楽死も自殺も「自己決定権」の行使として自由であり、売春も性サービス業として認められ、犯罪被害者およびその遺族には、加害者への「決闘権」が認められる、――というような、笠井潔流の「国家民営化論」を展開いたしました。

架空の話としては「なかなか面白い」のでございますが、 この国家論がトンデモであるというのは、そもそもこれが、「国家」というものの本質からはずれた立論であり、現実性皆無の「与太ばなし」に過ぎないからなのでございます。言うまでもなく、国家とは、善かれ悪しかれ「国民」をコントロールし、管理しようとするものなのでございますね。それが「教育」などの『文化指導』を手放すことなど、絶対にありえないのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(2)」につづく)

「自己決定権」の罠(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時12分12秒


ともあれ、ご存じのとおり、笠井潔は、

  
  『自分と、自分が生きているこの時代を直接的に描いてみたい。
   そんなモチーフから、私立探偵飛鳥井をめぐる物語が構想された。
   作者と同年齢に設定せれている飛鳥井は、
   「自業自得の潔さ」において生きるという個人主義的信条においても、
   作者の現在が投影されたキャラクターといえるだろう。
                              笠井潔 』


       (笠井潔『道〈ジェルソミーナ〉 私立探偵飛鳥井の事件簿
           初版単行本(1996年10月30日 第一刷発行)・帯文全文)



などという自慢話をしたがる、自称「自己責任」主義者なのでございますが、それは私が、拙論笠井潔が、真に望んだこと。で実証いたしましたとおり、無根拠な自家宣伝に過ぎないのでございますね。
例えば笠井潔は、自分が「文学賞」に無縁な立場にある時は、「身内で持ち回りするような文学賞」を否定批判しておりましたが、自分が関われそうになってくると、平然と「身内で持ち回りするような文学賞」を運営し、あるいは受賞する側に回ってみせた、典型的な「言行不一致の無責任言論人」なのでございます。
――まあ、それはおくとして、笠井潔のこうした「自己責任」主義者ぶりに目をつけて、対談をしたのが、小松美彦その人だったのでございます。

この対談は、後に小松の対談集『対論 人は死んではならない』(春秋社)に収められますが、私の知る限り、笠井潔の著作には未だ収められていない模様でございます。

しかし、残念なことに、私は小松の『死は共鳴する』も、この『対論 人は死んではならない』も、刊行当時に購入しておりながら、未読であり、かつ本が見あたらないのでございます。したがって、笠井潔と小松美彦との『対論』の内容は、両者の立場の相違から推測するしかないのでございますが、この対論は、十中八九、小松の側から仕掛けられた、批判的・論争的なものだったのでございましょう。それは『自己決定権は幻想である!』の内容からも、容易に推しはかれることなのでございます。

さて、ここまででわかることは、元「左翼」として「反体制」的なポーズを採りながらも、「自己責任」「実力主義」を標榜する笠井潔の本質は、案外、「自己責任」や「実力主義」「結果 主義」を表看板にして、弱者を切り捨てようとする、エリート主義の「新自由主義」に近いものである、ということでございますね。

言うまでもなく、「新自由主義」は、国家による「関税」などの規制を撤廃して、「自由」で「実力主義」的な世界市場を実現しようと訴える「グローバリズム(経済)」理論と繋がっており、この「強者に都合の良い、自由(=反・弱者保護)」は、「力がすべてである」と訴えるアメリカの「新保守主義」、つまり「ネオコン(=ネオ・コンサーバティブ)」とも、思想的に繋がっているのでございます。そして、笠井潔が『文の商人』を強調することや、ネオコンの論客たちが そもそも「転向左翼(=挫折した、元・左翼)」であったことなどを考えあわせれば、笠井潔とネオコンの思想家たちの共通 点は、なんら不思議なものではなくなってくるのでございます。

つまり、私が「今のアメリカ(の新保守主義)」や「グローバリズム」や「戦争」や、日本をも席巻している「新自由主義」に抵抗する心性と、笠井潔を批判し「葬送」しようとする心性とは、根底的には同じものだということなのでございますね。





( 以下は「「自己決定権」の罠(3)」につづく)


「自己決定権」の罠(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時13分27秒


その証拠に、小松美彦は、この『自己決定権は幻想である!』で、人間の「死の問題」を論じて、そのひとつの答を、中井英夫の言葉のなかに見い出すのでございます。

『 ある日、テレビのスイッチをつけたときのことです。『人は死んではならない』で、後に「〈死者との連帯〉」へ』という語り下ろしの対談をお願いすることになる、歌人の福島泰樹氏が、スタジオで、ある亡くなった女性の思い出話をしていました。
 そのときに、これも亡くなってしまった作家の中井英夫の逸話が出たのです。かつて、中井は自分の文学上の盟友の今際に駆けつけたとき、衰弱した盟友に、「人は死んだらどこへ行くのか」と聞かれ、答えることができなかった。盟友が亡くなった後もずっとそのことを悩み続け、答を見つめられないまま、やがては自分の番がやってくる。そして、病床で、自分に寄り添ってかいがいしく世話をする人に向かって、ほとんど遺言のように、「わかった。人は死んだら、残された者の心の中に行くんだ」と言ったというのです。
 私はこの言葉に衝撃をうけました。私は浄土真宗の檀家の一人ですが、それまで死んだら極楽や地獄へ行くと思ったことはありませんし、また神のもとに行くと思ったこともありません。「土に帰る」と言われれば「ああ、そうか」と思うけれども、それで納得していたわけでもありませんでした。しかし、そのときにはじめて、なるほどと思いました。「死は共鳴する」という、自分が作り出したいささか戦略的な言葉と、「人は死んだらどこへ行くのだろう」という年来の恐怖とが、一挙につながったと感じたのです。ですから、手元にあった紙を手繰り寄せ、私は、大急ぎで中井英夫の言葉を書きつけました。「人は死んだら、残された者の心の中に行く」と。私は「死は共鳴する」という自分の言葉が、誰かが死んだら残された者の心の中に行くという、たったそれだけのことを言っているに過ぎないということに、いまさらのように気がついたわけです。
「死は共鳴する」という言葉には、近代化され、抽象化され、生理学化されてしまった死とその認識に対して、それは過ちだということを指摘する、キャッチ・コピーという面 があります。ところが、それを訴えてきた当の本人が、まさにそのことによって、自分の思考の深まりを停止させ、自分が最も嫌う、抽象化による思考の停止をひき起していたわけです。有体に言って、いい気になっていたと言わざるを得ない。私は、福島さんが語った中井の言葉に感激しただけではなく、そのことにも大きな衝撃を受けていたのだと思います。』(P171〜172)

中井英夫の、素朴と言えば素朴な「死」観を、小松はここまで深く謙虚に受けとめております。そしてこれは、老いさらばえた中井英夫の姿にショックをうけて、健康のためにスキーを始めた笠井潔とは、たいへんな好対照、雲泥の差だと申せましょう。

たしかに笠井潔も、『哲学者の密室』で、レヴィナスの思想を援用して、「死に先駆」しようとしたハイデガ−の思想を乗り越えようといたしました(そして、乗り越えたつもりでございました)。つまり、「私の死」は、私の所有物ではないということは、頭では理解できていたはずなのでございます。しかし、笠井は、自身を、「自己責任」主義者であり、自己責任の引き受け得る人間だ、と勘違いするような蒙昧さを持っておりましたから、ついつい「自己責任権」を振り回し、「自殺権」などということを、むしろ自慢げに口走ったりしたのでございます。つまり、そうした心性は、自らが批判して見せたハイデガ−にそっくりな、現実性のない(身の程を知らない)、幼いヒロイズムでしかなかったのでございますね。

そんなわけで、こうした笠井潔と小松美彦とが対立するのも当然なら、中井英夫に縁の深かった笠井潔が、中井の死後、その評価を下方修正する一方、面 識のなかった小松の方が中井英夫を絶賛したというのも、決して故なきことではないのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(4)」につづく)


「自己決定権」の罠(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時14分17秒


また言うまでもなく、私が小松美彦の立場に対し共感する一方、笠井潔を葬送しようとまでするのも、決して故なきことではない。つまり、〈「反・新自由主義」「反・新保守主義」→斎藤貴男→小松美彦→中井英夫(反世界)→私→「反・新自由主義」「反・新保守主義」〉という系(=輪)と、〈「自己決定権」「自己責任」→笠井潔→「エリート主義」「権威主義」→「新自由主義」「新保守主義」→「自己決定権」「自己責任」〉という系(=輪)とは、根本的に対立しており、まったくの別 系統を為している、ということなのでございます。だからこそ、私はこんな意外なところで思いもかけず、中井英夫の賞讃者に、ばったり出会ったりすることも可能だったのでございます。つまり、こうした「出会い」や「つながり」というものは、決して「偶然」の産物なのではなく、「必然」によってもたらされたものだ、ということなのでございます。

ともあれ、このようなわけで、「自己責任」「実力主義」を標榜する笠井潔の本質が、案外、「自己責任」や「実力主義」「結果 主義」を表看板にして、弱者を切り捨てようとする、エリート主義の「新自由主義」者、つまり今のアメリカや我が国の支配者層に近いものである、という事実は、知っておいた方が良うございましょう。

例えば、彼らはこう言って、きっと自己の責任逃れを謀ることでございましょう。曰く、

「たしかに私は、奈須きのこの『空の境界』の解説を書いて、この小説の持つ意味を語り、その部分を賞揚した。しかし、この作品が、すべての読者を楽しませるようなものだと、保証した憶えはない。その本を買うか買わないかは、消費者の自己決定権に任されているのだから、自分に合わない作品を買ったのだとしたら、それは購入者本人の自己責任の範疇であり、解説者の私には関係のない話だ。貴方に、買えと言った憶えは、私にはない。貴方が、自由に買ったのだ」

「自己決定」は事実行為でございますが、「自己決定権」は幻想であり、それは現状において、本来一定の責任を担うべき立場の者の「責任逃れ」の道具にされております。ですから、「自己決定=自己責任」という欺瞞の論理に欺かれることなく、私たちは「生きる上での、当然の営為」としての「自己決定」をなさなければなりません。それは他者を「免責」させるものではなく、誰もが否応なく引き受けていかなければならない、自明の大前提的営為でしかないのでございます。

ともあれ、私たちは賢明でなければなりません。そして、人々の生を不当に搾取する者たちの欺瞞を鋭く見抜き、それを告発しなければならない。それは我々の自衛手段であり、避けられない営為なのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(5)」につづく)

「自己決定権」の罠(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時15分24秒


なお、驚いたことに――と言っても「必然」なのでございますが(笑)、小松美彦は、私が斎藤貴男の『機会不平等』を論じて(「見たくない現実」との戦い)書いたのと、そっくりな言葉を、『自己決定権は幻想である!』の終盤に、次のように記しております。

『 私が、自分の主張を、「呼びかけ」や「願い」として語ってきたつもりであることは、これまでにも述べてきました。この気持ちの底には、一般 化や抽象化は決してすまいという気持ちがあるわけですが、そのために、実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。議論だけではなく、実際の脳死・臓器移植も私の批判とは反対の方向に進んでいますし、その他の先端医療の問題にしても同じような側面 があるわけです。
 私はそのことを踏まえて、私は負けるかもしれないとか、いずれは負けるだろうということを、これまで随所で言ってきました。これは、自分としては負けるかもしれないけれど言い続けていくという、私なりの決意表明のつもりですが、これをニヒリズムではないか、敗北主義ではないかと捉える人がいます。しかし、私の考え方はニヒリズムなどではありません。
 ニヒリズムというのは、本来、ニヒルに構えて何もしない態度のことを指して言う言葉です。どうせ駄 目だからと、斜に構え、腕を組んで、含み笑いをしながら、達観を装う態度のことです。
 私はたしかに負けるだろうとは思っていますが、生きている限り自分の主張をし続けていこうと少なくともいまは思っていますし、その意気込みだけはあると思うので、ドン・キホーテではないにしろ、ニヒリストとはむしろ反対だと思うのです。その意味では(※ 『高瀬舟』で、安楽死を美しく肯定的に描いた)森鴎外の方が、よほどニヒリズムを隠しもっているような気がする。
 最近、私なりの反ニヒリズムを歌ってくれているような詩を発見したので紹介します。抵抗の詩人と言われた、故・金子光晴の作品です。


        *

     反対

  僕は少年の頃
  学校に反対だつた。
  僕は、いままた
  働くことに反対だ。

  僕は第一、健康とか
  正義とかが大きらひなのだ。
  健康で正しいほど
  人間を無情にするものはない。

  むろん、やまと魂は反対だ。
  義理人情もへどが出る。
  いつの政府にも反対であり、
  文壇画壇にも尻を向けてゐる。

  何しに生まれてきたと問はるれば、
  躊躇なく答えよう。反対しにと。

  (※ 中略)

  人がいやがるものこそ、僕の好物。
  とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。

  僕は信じる。反対こそ、人生で
  唯一つ立派なことだと。
  反対こそ、生きてることだ。
  反対こそ、じぶんをつかむことだ。

     ――初期詩篇、『金子光晴抄』(冨山房百科文庫49、一九九五年)より』(P191〜195)

つまり、小松美彦もまた、中井英夫や大西巨人や斎藤貴男と同じ『生き方がバカ正直で、へたくそな』男なのでございます。本人は謙遜なさっていますが、彼は、私が『ドン・キホーテ』と呼んだ、不利な戦いに自分を賭ける「バカの戦列」に加わった、同志の一人なのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(6)」につづく)


「自己決定権」の罠(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時17分24秒


 Keenさま

>> 主よ、心弱きユダの子にその憐れみを垂れたまえ ―― 三浦しをん批判

> かの愛の名作『愛と誠』(原作・梶原一騎、作画・ながやす巧/講談社)で早乙女愛が、ぐれてしまった「現在の誠」の中に、少年時代に命懸けで自分を救ってくれた「白馬の騎士」としての誠が今もまだ生きている、と信じて尽くし、愛し続ける姿がここにあります。

不覚にも私は、その「連想」を思いつきませんでしたが、過分な「解説」を、誠にありがとうございました(笑)。

> ところで園主さま、

>> その証拠に42歳の今も独身である。

> あれ?まだ8月ですよ、1つ多めにサバ読んでるんじゃあ……?
> なーんて尋ねたら、

>  榎木津は紅茶を一気に飲み干して、
>  「馬鹿者。覚えている訳ないだろうが」
>  と云った。
>  (京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)より引用)

> という展開になるんでしょうね(笑)。

正解でございます。――今年は「厄年」だということしか念頭になく、自分が何歳だったのかは、ハッキリ覚えてなかったのでございますね。計算するのは面 倒だし(笑)。

ちなみに、常連さま以外の方のために、ご説明しておきますと、これは「加齢による記憶力の減退」などではなく、昔からの私の特徴なのでございます。つまり「興味のないことは、まったく覚えられない」のが、私なのでございます。そんなわけで、

>  「馬鹿者。覚えている訳ないだろうが」

なのでございます(笑)。

ま、ともあれ、私の指摘が正しいか否かは、この先の三浦しをんの仕事ぶりでハッキリいたしましょう。もちろん私は、三浦しをんのファンとして、私の危惧のはずれることを、心から願っているのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(7)」につづく)

「自己決定権」の罠(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時18分2秒


 時雨さま

・・・とまあ、なんだか園主様がご覧になったら「それ見たことか!」とおっしゃりそうなことになっています。

 それ見たことか!

> 東浩紀『波状言論臨時増刊 美少女ゲームの臨界点』134Pより

> それがわずか二年でこうでしょう。いろいろ考えがあるんでしょうけど、往復書簡の相手としては愉快なわけがない。笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。

東さまなら、笠井潔に「そのようなもの(=信念)」の無いことくらい、重々承知しているはずなのに、……わざと、ボケておられるのでございましょうな(笑)。

> 『ファウスト』そのものには期待しているけど、舞城さんと佐藤さんと西尾さんの一人でも『ファウスト』に掲載されないようになったら、僕も書かなくなるでしょう。こういう発言が多少はカウンターとして効けばいいんでしょうけど、まあ、二十万部(『空の境界』の公称売り上げ)の前では蟷螂の斧か(笑)。

私は、『蟷螂の斧』であることを気にいたしません。それはちょうど、いま読んでいる『チェ・ゲバラ伝』(三好徹・文春文庫 絶版)で紹介されている、カストロの次のような宣言に、近い確信を持っているからでございます。

  『「私を断罪せよ。それは問題ではない。歴史は私に無罪を宣告するだろう!」』(P95)

つまり、――私のことを無名だと思って、その批判を所詮は『蟷螂の斧』だと、無視したり鼻で笑ったりするがいい。しかし、歴史は私の「笠井潔批判」が正しかったことを、近い将来、かならず宣告することになるだろう――ということでございます。

> ちょうど現在「新伝綺」の考察と、その続編として『空の境界』解説の論考を含めた笠井潔と「新伝綺」の関係考察を考えておりましたので(なんだかこんな事ばっかり言ってる気がする・・・、園主様、はらぴょん様、遅筆でごめんなさい!)、今回の内容は大きく活かせると思います。


期待しております。頑張ってくださいまし。



 ホランド
> それと予告編でやっていた『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』(エロール・モリス監督)も気になりますよね。

うん。それも気になるけど、同じく予告編でやっていた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督)の方が気になって、やっと今ごろ『チェ・ゲバラ伝』なんか読んでるんだ。

言うまでもなく、この映画は、他国キューバの革命に身を投じ、革命を成功に導いて、高い地位 を得ながらも、その地