討論・笠井潔をめぐって9)  

 


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     目 次9)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2004年)
ゲリラの栄光(1) ホランド 828日(土)16時49分36秒
ゲリラの栄光(2) 8月28日(土)16時51分4秒
ゲリラの栄光(3) 8月28日(土)16時52分29秒
ゲリラの栄光(4) 8月28日(土)16時54分57秒
課題図書 はらぴょん 8月28日(土)21時34分51秒
チェ・ゲバラの遺した難問(1) 園主アレクセイ 8月28日(土)23時57分58秒
チェ・ゲバラの遺した難問(2) 8月28日(土)23時59分12秒
チェ・ゲバラの遺した難問(3) 8月29日(日)00時00分56秒
チェ・ゲバラの遺した難問(4) 8月29日(日)00時03分25秒
チェ・ゲバラの遺した難問(5) 8月29日(日)00時04分16秒
チェ・ゲバラの遺した難問(6) 8月29日(日)00時06分11秒
チェ・ゲバラの遺した難問(7) 8月29日(日)00時07分22秒
異議申し立ての思想(1) はらぴょん 8月30日(月)10時37分0秒
異議申し立ての思想(2) 8月30日(月)10時38分11秒
異議申し立ての思想(3) 8月30日(月)10時44分18秒
異議申し立ての思想(4) 8月30日(月)10時47分59秒
異議申し立ての思想(5) 8月30日(月)22時14分45秒
自己完結の貧困さ(1) ホランド 8月31日(火)22時15分28秒
自己完結の貧困さ(2) 8月31日(火)22時18分11秒
自己完結の貧困さ(3) 8月31日(火)22時19分7秒
自己完結の貧困さ(4) 8月31日(火)22時20分45秒
文体をめぐって はらぴょん 9 1日(水)19時52分51秒
美心へ(1) 園主アレクセイ 9月 3日(金)17時39分59秒
美心へ(2) 9月 3日(金)17時41分5秒
美心へ(3) 9月 3日(金)17時42分6秒
美心へ(4) 9月 3日(金)17時44分0秒
美心へ(5) 9月 3日(金)17時45分7秒
たったひとつの冴えたやりかた(1) ホランド 9月 6日(月)17時35分54秒
たったひとつの冴えたやりかた(2) 9月 6日(月)17時37分8秒
たったひとつの冴えたやりかた(3) 9月 6日(月)17時38分8秒
たったひとつの冴えたやりかた(4) 9月 6日(月)17時39分9秒
妄想炸裂 はらぴょん 9月 6日(月)23時11分40秒
まだまだ! Keen 9月 8日(水)11時34分34秒
ファウストの夜(1) アレクセイ 9月 8日(水)19時03分32秒
ファウストの夜(2) 9月 8日(水)19時04分12秒
ファウストの夜(3) 9月 8日(水)19時05分17秒
ファウストの夜(4) 9月 8日(水)19時06分28秒
『ファウストの夜』 作者あとがき 9月 8日(水)19時45分20秒
もっと、エロティシズムを! AOI 9月10日(金)01時30分18秒
さすがはAOIさま Keen@爆笑 9月10日(金)11時36分29秒
メフィストーフェレスの囁き ナディア・モドーキ 9月10日(金)13時07分50秒
パラレルな後日談 Keen 9月10日(金)13時10分58秒
たとえば、コスモス・・・。 AOI 9月11日(土)10時18分30秒

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


ゲリラの栄光(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時49分36秒

 みなさん、こんにちは! いま映画『華氏911』で話題のマイケル・ムーアに関する読本、『マイケル・ムーアがよくわかる本』(宝島社)が刊行されました。まだ、パラパラと見ただけで、全部きっちりと読んだわけではないんですが、いくつか引っ掛かった部分について書かせていただきます。

 まず、テレビでお馴染みの辛口コメンテーター、デーブ・スぺクタ−さんが『ムーアは確信犯的に開き直っている/重要なところをわざとカット/これはもう捏造ですよ!』(見出し)という主旨の批判をしています。で、デーブさんは、ムーアのそうしたやり口を批判した本やサイトを紹介してるんですが、ボクは「これはもう、御用評論家の仕事でしかないな」と思いました。

 デーブさんの指摘していることが、全部事実だと仮定しても、ムーアはそれを文字どおり『確信犯的に』やっているんです。つまり、世界各国で多くの罪なき人々を虐殺し、アメリカを金持ちのためだけの「悪の帝国」にしてしまったブッシュを、ムーアは自分に与えられたあらゆる手段をつかって、葬り去ろうとしているんです。つまり、ムーアにとって映画は、きれいごとではなく「テロの手段」なんですね。だからムーアも正直に、この映画はブッシュを打倒するためにつくった映画だ、つまり「プロパガンダ映画」だと認めているんですよ。

 で、それを「やってはいけないこと」だとするデーブさんは、その一方で『日テレでやってた『電波少年』もちょっとウソっぽいところあったけど、あれはユーモアでやってたからまだいい。』なんて言っちゃってます。「ムーアと『電波少年』では、背負っているものが違うだろう」と思うのですが、デーブさんの意見は、あくまでも「恣意的」で「身内に甘い」。

 つまりデーブの意見は、武器も人員も少ないゲリラに、巨大なアメリカの正規軍と「正面 から正々堂々と戦え、卑怯だぞ!」と言っているようなものなんですね。だから『御用評論家』だと言うんです。

 もちろん、デーブが日頃から、ブッシュや歴代アメリカ大統領が、世界規模で流してきた「デマ(プロパガンダ)」を、チョムスキーみたいに徹底的に批判しているとか、身体を張って、それ相応のことをやった上で、ムーアのやり口を好ましくない、と言っているのなら、ボクもわからないではないんです。でも、この人が日頃やってることは、所詮、暇つぶしのテレビ鑑賞者に向けた、無為に消費されるだけのコメントの送信でしかない。ブッシュ批判だろうとなんだろうと、その域を一歩も出ようとはしてません。つまり、彼のやっていることは、所詮は、商業ベースに乗った、自分の金儲けだけが目的の、無難な「娯楽の垂れ流し」に過ぎないんです。また、だからこそ彼は、巨大な権力への抵抗者であるムーアを批判することは出来ても、商売に直結する『電波少年』みたいなものは擁護してしまうんですよね。





( 以下は「ゲリラの栄光(2)」につづく)



ゲリラの栄光(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時51分4秒


 これは、園主さまがお好きな(ボクも好きだけど)『A』『A2』の森達也監督にも言えることです。

 森監督は、世間がこぞって評価している(らしい)、ムーアや『華氏911』について、

   『あまり明解なものを出されちゃうと、僕はちょっとアレルギーがある』

と、世間がこぞって敵視し排除しようとしたオウム真理教の視点に立って見せた、反骨人の面 目躍如たるところを見せています。でも、インタビューアーに『もし、森さんがブッシュを描くとしたら?』と問われて、

『頭はあんまりよくないだろうけど、基本的に彼は善意の人だと思うんです。正義を遂行するという使命感に酔ってもいますね。だから彼は、イラクの人を救おうと思っているのに、なんで俺はこんなに批判されるんだろうって、きっと本気で思ってますよ。善意や正義が世界を壊すんです。僕ならそういうブッシュを描きたいと思う。ブッシュの孤独とかね。『華氏911』では徹底的にブッシュを嘲笑の対象にしているらしいけれど、少なくともそんな貧しい撮り方はしたくないな。それはブッシュの浅薄さとなんら変わらないもの』

なんて答えています。

 ブッシュ政権の現実を、少しでも勉強して知っている人にとっては、森さんの意見は、なんとも救いがたく『浅薄』で「独りよがり」なものでしかありません。『善意や正義が世界を壊す』なんて陳腐な図式は、ネオコンの論客ロバート・ケーガンの書いた論文、例えば邦訳タイトル『ネオコンの論理』(光文社)なんかを読んだら、瞬時に消し飛んでしまうくらい、あまっちょろいものですし、第一、『『華氏911』では徹底的にブッシュを嘲笑の対象にしているらしいけれど』って、森さんは映画を観ないで『そんな貧しい撮り方はしたくない』とか言ってるんですよね。自分も、同じ映画監督なのに。

 それに、さっきも書いたとおり、よく知りもしないのに「世間とは違って、私だけはものの本質がわかっている」という、森さんの「自惚れ」は、ブッシュに対する『頭はあんまりよくないだろうけど』とか『それはブッシュの浅薄さとなんら変わらない』とかいった評価にも表われています。ブッシュをよく研究してて「ブッシュは頭が良くない」とか「浅薄だ」と言うのならいいんだけど、勉強していないからこそ、自分のイメージだけで『頭はあんまりよくないだろう』なんて言ってしまう。そして、そうした曖昧な印象だけで『ブッシュの浅薄さ』なんてことまで言い出してしまう。

 園主さまが先日ご紹介なさっていた、小松美彦さんの言葉を借ると、結局これは『有体に言って、いい気になっていたと言わざるを得ない。』ということなんですよね。でなきゃ、こんな無責任なコメントは出来ませんからね。
 森さんのコメント(利いた風な口)は、ムーアに対してはもちろん、ブッシュに対しても失礼な、高慢きわまりないものだと思います。

 ちなみに、この『マイケル・ムーアがよくわかる本』では紹介されていないはずだけど、森達也監督とデーブ・スぺクタ−は、共に元テレビディレクターだったということから「旧知の仲」なんで、デーブから刷り込まれた印象で、観てもいない『華氏911』を論じちゃった、てこともあったのかも知れません。デーブ同様、森さんも『電波少年』を擁護してましたしね。





( 以下は「ゲリラの栄光(3)」につづく)


 


ゲリラの栄光(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時52分29秒

 時雨さま

東浩紀『波状言論臨時増刊 美少女ゲームの臨界点』134Pより

> 確かにTYPE-MOONが抱える資産は大きいと思う。けれども、太田さん(※ 『ファウスト』編集長)も笠井さんも美少女ゲームのユーザーじゃない。今だから言うけど、彼らに『月姫』や奈須さんの名前を教えたのは僕と佐藤君(注2)です。しかも笠井さんは、僕との往復書簡『動物化する世界の中で』で、1980年代の自分の伝奇小説について、あれは「退却」だったとはっきり書いている。むしろ僕の方が、再評価してほしいと書いているぐらいなんです。それがわずか二年でこうでしょう。いろいろ考えがあるんでしょうけど、往復書簡の相手としては愉快なわけがない。笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。

 かなりハッキリした「証言」だと言えるでしょうね、これは。

 もちろん、笠井さんやその周辺は、例によって「知らん顔」を決め込むんでしょうね。――かつて、長谷部史親や縄田一男を批判した時のようなことは、もう起らない。なぜなら、笠井潔は負ける喧嘩はしたことがない人だから、ということなんでしょう。『文の商人』は、「赤字覚悟のご奉仕セール」を謳ってみせても、決して本当に赤字になるような「商売」はしませんからね(笑)。


> ・・・とまあ、なんだか園主様がご覧になったら「それ見たことか!」とおっしゃりそうなことになっています。どうもこれを読む限り、以前僕が賛成しかねると発言した奈須きのこのデビューに関する園主様の推測は、かなり真相に迫っているようですね。

 これは、園主さまが書かれていた、

 つまり、このことを言い換えると、『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない、ということなのだ。
>  笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。つまり、奈須きのことは、でっち上げてでも「新時代のスター」になってもらわなければならない存在だった。ちょうどそれは、鳴り物入りで行われた新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」みたいなものだったのである。

 したがって、「新伝綺」に、時代的必然があるというのは「嘘」である。たしかに「ジャンルX」全体の流行傾向には時代的必然はあろうが、その中でも、今回特に「伝奇」小説をクローズアップしてみせたのは、そこに「特別 な時代的要請」があったということではなく、「笠井潔の個人的都合」があったというに過ぎないのである。
>  実際、大した前兆現象もなく、新人作家のデビュー作ただ1作だけをとらえて「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」と言われても、たいていの人には、ピンと来なかったはずだ。それもそのはず、「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」という断言の内実は、じつのところ「ここから、伝奇小説ブームをふたたび巻き起こそう。巻き起こってもらわなければ困る」ということに過ぎなかったのである。

ということですよね。それを東浩紀さんは、

> 笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。

と婉曲に表現したんだと思います。

 でも、……そう、うまくいくかなあー? 『空の境界』の売り上げは、そろそろ頭打ちになってるようだし、園主さまが書かれていた内容では、あの小説をまともに誉め上げるような書評は、名のある人からは出てこないでしょう。次作が出た時に見込めるのは、結局、奈須きのこの作品なら「なんでも買い揃える」というTYPE-MOONのファンだけ、ってことになるんじゃないかなあー。

 それに、その意味では、もう便乗(寄生)商法の効果も薄れているだろうから、『ヴァンパイヤー戦争』の第3巻以降は、増刷(2刷)も困難だと思いますよ。





( 以下は「ゲリラの栄光(4)」につづく)


ゲリラの栄光(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時54分57秒


 Keenさま

主よ、心弱きユダの子にその憐れみを垂れたまえ ―― 三浦しをん批判

 この評論について、前から共通の話題として語られていた『愛と誠』の図式に当てはめるとか、園主さまの「年齢忘れ」に榎木津を引用するとか、ボクのネタ振りに『「乙女なげやり」化』と最新のネタでやりかえすとか、――かなり園主さま的なテクニックを身につけてきましたね(笑)。

> 『美少年』は、懐かしいなあ(※MENUの「ネットゼミナール楽古堂」参照)。初読時はひっくりかえりそうになりましたが、今はヘーキです。団さんらしい表現やオチのつけ方に、笑ったりしてます。「花園」に通 ううちに、耐久力ついたんでしょうか(笑)。

 うん。やっぱり、かなり影響うけてるみたいです。良かったのかどうかは別にして(笑)。



 園主さま

私が、自分の主張を、「呼びかけ」や「願い」として語ってきたつもりであることは、これまでにも述べてきました。この気持ちの底には、一般 化や抽象化は決してすまいという気持ちがあるわけですが、そのために、実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。(小松美彦『自己決定権は幻想である!』より)

 さっきボクは、笠井さんについて、

笠井潔は負ける喧嘩はしたことがない人だ

って書きましたが、それは小松美彦さんのこのような性格とも 、『たいへんな好対照、雲泥の差』だということなんでしょうね。

 小松さんは、個々の人間を置き去りにして、自分一個の高みに駆け昇ってしまうという『抽象化による思考の停止』を恐れ、それを峻拒しました。
 それに対し、笠井さんは「観念による観念批判」というスタイルからもわかるとおり、骨がらみの「観念」主義者であり、だから逆に「置き去りにしがちな現実」については、『信念』も何もなく、ひどく俗物的な損得打算的動きしか取れなくなるんでしょうね。
 また、そうしたことを含めて園主さまは、それを『永遠の「観念の俘囚」』と表現したんだと思います。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。

課題図書 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月28日(土)21時34分51秒

『ユリイカ9月臨時増刊号 特集 西尾維新』(青土社、近刊)
執筆者 西尾維新、東浩紀、笠井潔ら
刊行状況については、以下のURLでご確認ください。

http://www.seidosha.co.jp/


チェ・ゲバラの遺した難問(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月28日(土)23時57分58秒

みなさま、先日ご報告いたしました『チェ・ゲバラ伝』(三好徹・文春文庫 絶版)を、過日読み終えました。感想としては、「ああ、この人は、私が思っていたよりもロマンチストであり、自己の美意識に厳格な人だったんだな」ということでございます。

ところで、先日私は、『自己決定権は幻想である!』の著者である小松美彦が、同著の中で、

私はたしかに負けるだろうとは思っていますが、生きている限り自分の主張をし続けていこうと少なくともいまは思っていますし、その意気込みだけはあると思うので、ドン・キホーテではないにしろ、ニヒリストとはむしろ反対だと思うのです。

と書いているのをご紹介した上で、

小松美彦もまた、中井英夫や大西巨人や斎藤貴男と同じ『生き方がバカ正直で、へたくそな』男なのでございます。本人は謙遜なさっていますが、彼は、私が『ドン・キホーテ』と呼んだ、不利な戦いに自分を賭ける「バカの戦列」に加わった、同志の一人なのでございます。

と書きましたが、驚くことに今回も、

こうした「出会い」や「つながり」というものは、決して「偶然」の産物なのではなく、「必然」によってもたらされたものだ

と、前回書いたのと同様の『必然』から、「ドン・キホーテ」が三たび登場してまいりました。

かなり長くになりますが、『チェ・ゲバラ伝』から、エルネスト・チェ・ゲバラという人物をよく語った部分を、引用させていただきます。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(2)」につづく)

チェ・ゲバラの遺した難問(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月28日(土)23時59分12秒


『 カストロは偉大な現実主義者であった。キューバ革命の最高責任者として、かれはチェのように率直に振舞うわけにはいかなかった。ソ連が援助が打ち切られれば、キューバ革命がどれほどの困難をかかえこむか、かれはそれを計算しなければならなかった。
 チェの、理想のために誰とでも戦うし、不正に対する批判を腹蔵しておく必要はないという考え方は、もとより盟友カストロにはよくわかっていた。ふたりの間に、徹底的な意見の交換があったことは、想像にかたくない。カストロはおそらくチェをなだめたであろう。だが、チェのような男にとって、自分を偽って生きることは不可能でだった。自分の信念に忠実に生きる生き方しか、かれにはできなかった。
 バチスタの圧政から解放されたキューバ革命の基礎は多くの問題をかかえているにしてもほぼ固まっている。その点については、じゅうぶんに役割を果 たしたのだ。しかし、かつてのキューバのように、圧政や不正に苦しんでいる国民がいる。それは、自分の存在がキューバの立場を苦しくすること以上に、かれの心を惹きつける。となれば、かれに残された道は、キューバを去って、新しい戦場に向かうことしかなかった。
 この場合、革命の指導者ならば、自分を屈してもキューバに居残って、カストロに協力すべきだという批判も成り立つかもしれないし、さらには現実問題として、カストロに従ってさえいれば、チェはキューバのナンバー2でいられるのだ。かれはいわば革命の元勲であり、元勲として生涯を終えることもできたであろう。困苦にみちた流浪の生活にあえて身を投ずることもないであろう。だが、かれはあえて困難な道を選んだのである。
 歴史は多くの革命家をもったが、いったん権力を手にした革命家がみずからその地位 を放棄して、困苦にみちた新たな戦列に加わったという例はかつてない。
 チェがそれをなした史上最初の革命家であった。もしかすると、ドン・キホーテになりかねないその生き方がこの稀有の革命家に天があたえた道なのかもしれなかった。
 もとより、チェ自身それはよくわかっていることであった。かれは、カストロあての手紙を書きあげると、両親あてにも手紙を遺した。

 ――もう一度わたしは足の下にロシナンテの肋骨を感じています。盾をたずさえて、再びわたしは旅をはじめるのです。
 十年ほど前、わたしはもうひとつの別れの手紙を書きました。想い出すけれど、わたしは自分が立派な兵士でもよい医師でもないことを残念がっていました。いまはよい医師になろうとは決して考えていませんが、兵士としては悪い方ではありません。
 わたしがより自覚的な人間になったことを除けば、本質的に変わったことは何もありません。わたしのマルキシズムは深まり、純粋になりました。わたしは、自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だと信じていますし、この確信に従って行動するのです。
 多くの人は、わたしのことを冒険家というでしょう。わたしはそうなのです。しかし、違った種類の――自分の信念を証明するために命をも賭ける人間なのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分が望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。
 わたしは、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどうして表現したらよいのかを知らなかっただけです。わたしは自分の行動に極端な厳格さをもっているので、理解してもらえなかったことがあったと思います。わたしを理解していただくのは容易ではないのですが、いまは、わたしを信じてほしいのです。
 芸術家のような喜びをもって完成を目指してきたわたしの意思が、なまってしまった脚と疲れた肺を支えてくれるでしょう。わたしはそれをやるつもりです。
 この二十世紀の小さな外人部隊長をときどき想い出してください。セリヤ、ロベルト、ファン=マルティン、ポトティン、ベアトリス、そして皆さんにキスを送ります。
 そしてあなた方には、おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。
                                  エルネスト

 なんという手紙であろう! 革命家チェ・ゲバラとしてではなく、エルネストとして書いたこの手紙には、恐ろしいまでの正確な予見がうかがえる。ロシナンテは、いうまでもなく、ドン・キホーテの愛馬の名前なのだ。そして、かれの文章が美しければ美しいほど、キューバを去って行くチェの悲劇的な象がうき上がってくる。』(P291〜294)





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(3)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時00分56秒



当時、キューバは1962年のいわゆる「キューバ危機」を脱したところでございました。キューバ革命は、アメリカ帝国資本によって虐げられていた農民たちの支持によって達成された革命でございます。ですから、カストロたちは、その期待に応えるべく、キューバの土地を押さえていたアメリカ現地企業の有償接収を断行したのでございますが、もちろんアメリカがこれを快く思うはずはございません。CIAの指導の下、亡命キューバ人を組織して、逆革命を画策するなどの陰謀がございましたが、それらはぎりぎりのところで、なんとかしのがれたのでございます。
しかし、当時、農業国キューバの最大の輸出品は砂糖であり、その最大の輸出先はアメリカでございましたから、アメリカの制裁的禁輸に対し、キューバは早急な対応を迫られていたのでございます。

そこへ助け舟を出したのが、アメリカのライバルであった、ソ連なのでございますが、無論、ソ連は好意でキューバを助けたわけではございません。キューバを、社会主義の衛生国家とすべく、功利的な主従関係を結ぼうととしたのでございます。それでも、アメリカとソ連が対立している間は、まだよかったのでございますが、アメリカとソ連の「雪解け」が言われ出すと、ソ連は大国のエゴを露骨に示しはじめたのでございました。そこで、キューバの外交にも深くかかわっていたゲバラは、名指しこそしなかったものの、アメリカとソ連を、二つながらに「大国のエゴ」と糾弾する演説を何度となく行い、ついにソ連に睨まれるにいたっていたのでございます。

つまりゲバラは、キューバを第二の故郷として愛し、離れがたい気持ちを抱いてはいたのでございますが、彼が自身の信念を貫こうとすれば、盟友のカストロを苦しめ、革命を危険に曝すことにもなりかねなかったのでございます。それに、若き日の放浪において自らの眼で確かめたように、南米にはまだまだ、アメリカの帝国資本に搾取され、塗炭の苦しみにあえいでいる人々が大勢いたのでございます。ならば――。
このようにして、チェ・ゲバラはふたたび一人の兵士として、異国のジャングルに入っていったのでございます。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(4)」につづく)

チェ・ゲバラの遺した難問(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時03分25秒


チェ・ゲバラが私に突きつける難問は、何と言っても『自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だ』という信念の問題でございます。
圧倒的な経済力と暴力を所有するアメリカ帝国資本に対しては、生半なことでは対抗できないし、ましてや収奪された権利を取り戻すことなどできない。それを取り戻すためには武装闘争しかない、というゲバラに対し、この平和な日本にうまれ育った私が、「暴力は憎しみしか生まない」とか「暴力は絶対悪である。暴力に正義も悪もない」などといった「聞きかじり」の「口まね」を語ることなど、恥ずかしくて、とてもできるものではございません。もちろん、ゲバラとて、暴力が好ましいものでないことくらいは、百も承知していたのでございます。

彼がキューバの外交使節団の代表として日本を訪れた際、彼らは、訪問を希望していたにもかかわらず、一向に案内しようとしない日本政府の対応に業を煮やし、日程を変更してまで、広島を訪れました。

『 チェは二時すぎに、新広島ホテルに到着した。このホテルは、慰霊碑から僅かの距離である。チェはそこで花束(千五百円だった)を受けとり、慰霊碑にささげ死者の霊をとむらった。
 それから、一行は資料館に入った。約一時間かかったというから、長い方である。(同館での平均の見学時間は三、四十分)
 チェは、館内のさまざまな原爆による被害の陳列品を見るうちに、見口氏に英語でいった。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされ、腹がたたないのか」
 それまで、見口氏はもっぱら大使と話すだけで、チェやフェルナンデスとは、ほとんど口をきいていなかった。それまで無口だったチェがこのとき不意に語りかけ、原爆の惨禍の凄じさに同情と怒りをみせたのである。見口氏はいう。
「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別 れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持としては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした」』(P236〜237)

『 チェの日本訪問が、かれ自身にいかなる内面的影響を及ぼしたかは、今後の研究仮題だろう。しかし、かれのその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる。そして、かれがボリビアに新しい戦場を求めて潜入してから送った「世界の人民にあてたメッセージ」中でも、広島、長崎の原爆にふれている。それをみると、日本でうけた最大の感銘は、どうやら広島にあったらしいのである。』(P244)

それはそうでございましょう。ゲバラは、庶民の苦しみに敏感な人間でございましたし、兵士として自ら進んで危険に身をさらして戦った男でございますから、原爆という兵器の残虐さと卑劣さは、普通 の政治家になど想像もできないほど、いや、私を含む今の日本人の大半が想像できないほどのものとして、生々しく感じとっていたことでございましょう。
また、ですから、このようなことを二度と許してはならないと思ったでしょうし、このような行為をなした者が決して赦されてはならないと、心底怒りを覚えたのでございましょう。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(5)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時04分16秒


ですからこそ、私は、チェ・ゲバラの『自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だ』という信念を、心底、否定し去ることが出来ません。所詮、私の「言論」主義とは、「人殺しは、醜いことだし、できればしたくはない」という、個人的な「実感」や「美学」に由来するものでしかございませんし、「私は私なりに精一杯やれば、世界の虐げられた人々の責任までは、担えなくても仕方がなかろう」という現実的な判断の拠ったものでしかないのでございます。
つまり私の「言論だけでは、暴力に勝てないかもしれない。けれども、私は私の美意識を貫くだけだ」という考え方は、所詮、「私は私一個の美意識に忠実に生きられれば、それで充分だろう」というものでしかないのでございます。ですから、チェが「知識人」には期待しなかったという事実に対して、有効な反論はまったく思いつかなかったのでございます。

『 このラテン・アメリカのきびしい現実を前にして、わたし(※ 著者、三好徹)はつぎのエピソードを頭にうかべずにはいられない。
 あるラテン・アメリカの知識人が、ある日チェにたずねた。
「わたしは国の革命のために、どうしたら貢献できるでしょうか」
 チェは問いかえした。
「失礼ですが、あなたはどんなお仕事をなさっていますか」
「わたしは著述家です」
「ああ! わたしも医者でした」
 とだけ、チェはいった。』(P367)

このはぐらかしは、何と残酷な思いやりによるものだったのでございましょう……。

たぶん、私はこれからも「暴力の行使には、できるかぎり反対して、言論の及ぶ範囲で、人々の幸せに貢献したい」というような立場に立ち続けることでございましょう。しかしそれは、本当に過酷な現実を前にして、銃をとらざるを得ない人々(例えば、パレスチナの殉教攻撃者)まで、「紋切り型の平和主義理論」でもって、否定し去りうるものではないのでございます。

『自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だ』という信念との葛藤は、安易な否定も肯定も許さない、たぶん私一生の仮題となるのでございましょう。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(6)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時06分11秒


 Keenさま
『春日井建の世界』(思潮社)が、発売になったようですね。「現代詩手帖永久保存版」だそうですから、本多さんが寄稿された本は、きっとこれでしょう。書店巡りしないとな〜。

そうでございますね。――正直なところ、春日井建にはさほど興味はないのでございますが、中井英夫への言及があるものも、いくつかはございましょうから、買っておきたいと存じます。で、ついでに宣伝(笑)。

 ・ 父の子の帰還 ―― 追悼・春日井建


> 京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)

> 純情といえば、京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)の木場修の旦那!関くんを抑えて、堂々の下克上でしたねー♪関くんも相変わらずでしたが、2作目とあって、キャラがそれぞれ動き始めたようですね。(^0^*

「俺は、一度だって、あのどうしようもない駄目人間の、下に立ったことなんてないと思うがな」

と木場修なら眉間に皺を寄せ、獰猛な表情で、そう吐き捨てたところでございましょう(笑)。

まあ、中禅寺はメインシリーズの主人公で、関口はメインシリーズの「何が起ってもおかしくない世界」を構築するためのフィルターで、共に動かせない大切な存在。ただ『魍魎の匣』の場合は、物語に動きをもたせるために、木場が大活躍したわけでございますが、どうやらそれは例外的なことのようで、その後はどうも冷や飯を食わされ、あまり活躍の機会を与えてもらっていないようでございます。――もっとも、木場ならば、

「あんな訳のわからんクソみたいな事件には、二度とかかわりたくもねえぜ!」

ということになるのでしょうが。

ちなみに、メインシリーズでは「一服の清涼剤(?)」的な役どころの、我が榎木津礼二郎でございますが、清涼剤は一服だから良いのであって、服用し過ぎると、あのメインシリーズの世界を、破綻させかねない危険な存在でもございます。しかしまた、あれだけの個性でございますから、いつまでも脇に押し込めておくわけにもいかず、彼がメインとなる中編シリーズ『百器徒然袋』(薔薇十字探偵シリーズ)は、自ずと構想されたのでございましょう。

つまり、中禅寺・関口・木場・榎木津のメイン四人のうちで、もっとも冷や飯を食わされているのは、やっぱり木場という感じでございますね(笑)。

「だから、それが俺の望むところだって、言ってるだろうが!」





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(7)」につづく)

チェ・ゲバラの遺した難問(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時07分22秒


 はらぴょんさま

『ユリイカ9月臨時増刊号 特集 西尾維新』(青土社、近刊)
> 執筆者 西尾維新、東浩紀、笠井潔ら
> 刊行状況については、以下のURLでご確認ください。

http://www.seidosha.co.jp/

情報提供、ありがとうございました。
笠井潔がらみの「ヤバイ記事」があると嬉しいのでございますが、……たぶん、無いのでございましょうねえ(笑)。

もちろん、私も購入して、チェックを入れたいと存じます。はらぴょんさまも、このところ書き込みが激減しておりますが、ゾンビハンターの使命を全うするには、まだまだこれからでございますので、しっかりネタを仕入れて、頑張ってくださいまし(笑)。

エルネスト・チェ・ゲバラも、その著書『ゲリラ戦争 キューバ革命軍の戦略と戦術』(中公文庫)のなかで申しております。

  『打撃は、絶間なく与えねばならぬ』

つまり、小さな攻撃でもいいから絶間なくくり返し、敵に休む暇、安心して眠る余裕を与えずに、精神的にじわじわ追い込んでいくという「心理戦」が、巨大な戦力(影響力)をもたない我々ゲリラにとって、もっとも有効な戦術だ、ということなのでございます。――ちなみに、これは私の「オリジナル解説」でございます(笑)。



 ホランド

つまりデーブの意見は、武器も人員も少ないゲリラに、巨大なアメリカの正規軍と「正面 から正々堂々と戦え、卑怯だぞ!」と言っているようなものなんですね。だから『御用評論家』だと言うんです。

ゲリラにとって「奇襲」や「罠」は、決して卑怯な手ではない。

例えば、アブラハム重戦車で民間人の家を押しつぶしながら正面から攻めてくるイスラエル軍と、物陰からパチンコで石をぶつけてくるパレスチナの子供たちと、どっちが卑怯か、ということだな。

『チェ・ゲバラ伝』を読んだら、『ゲリラ戦争』も貸してやるよ。前に買っておいた『ゲバラ日記』も掘り出しておかないとな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


異議申し立ての思想(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時37分0秒

エルネスト・チェ・ゲバラに関しては、『チェ・ゲバラ モーターサイクル・ダイアリーズ』(棚橋加奈江訳、角川文庫)が、来月25日に刊行予定です。これは23歳当時のゲバラが、中古のバイクで南米大陸を横断した際の旅日記です。
>『打撃は、絶間なく与えねばならぬ』(ゲバラ)
この言葉から、毛沢東の『持久戦論』を想起しました。彼らの考えたゲリラの戦術は、どちらも長期戦なのですね。毛沢東の持久戦は、実際のところは広大な中国大陸を逃走しつつ遊撃戦を繰り返すというものでしたが、最終的にはロングスパンで勝利を得たわけです。
チェ・ゲバラに関心が行くというのは、この時代の閉塞感に風穴を開けたいということだと考えます。閉塞感とは、否応なしにアメリカ主導のグローバリズムに我々が巻き込まれているということと、現在「戦時下」であり、わが国の政府が日本を戦時協力体制にシフトさせる選択をしたことに由来すると考えます。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_search.php?pcd=200407000173


異議申し立ての思想(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時38分11秒

「戦時下」において、反戦を貫くということで、昔、フランシス・ジャンソンが組織した<ジャンソン機関>を思い起こしました。
フランシス・ジャンソンは、哲学者で、ジャン=ポール・サルトルの主宰する『ル・タン・モデルヌ』で活躍していた人であり、『伝記サルトル』(筑摩書房)の著者でもあります。私が、この人の名を初めて知ったのは、カミュVSサルトル論争の火付け役として、でした。(カミュ/サルトル/ジャンソン『革命か反抗か』新潮文庫参照。)
カミュVSサルトル論争は、カミュが『反抗的人間』を刊行したことに始まります。サルトルは「唯物論と革命」の頃は、現代のマルクス主義は機械論的唯物論に陥っているといういいかたで、マルクス主義を非難しますが、共産主義者がフランス当局のでっちあげで逮捕される事件(デュクロ事件)を契機に左傾化し、「共産主義者と平和」を書きます。これはマルクス主義陣営は、平和勢力であるというものです。これに対し、カミュの『反抗的人間』は、マルクス主義は歴史を神格化する歴史主義であり、歴史主義的な美徳によって際限のないテロリズムや強制収容所を生み出すような全体主義に帰結するというものであり、カミュはマルクス主義ではなく、中庸を守った人間中心主義的な連帯に基づく反抗に留まろうとします。カミュの示した反抗の思想は、「シュルレアリスム第二宣言」以降のアンドレ・ブルトンや、「共産主義者と平和」を書いたサルトルらの思想と対立することは明らかで、彼らとの間に論戦が起こりました。
カミュの『反抗的人間』を好ましく思っていなかったサルトルは、フランシス・ジャンソンに『ル・タン・モデルヌ』で『反抗的人間』を書評してくれないかと依頼します。これに対し、カミュは「『ル・タン・モデルヌ』編集長への手紙」を書き、『ル・タン・モデルヌ』編集長ジャン=ポール・サルトルとの直接対決に発展します。カミュのマルクス主義批判に対するサルトルの反論のポイントは、人間は歴史的状況にどっぷりと漬かっており、歴史的状況に入ろうかどうか思案しているカミュの思考は、観念的であるということです。
現在の観点からすると、サルトルのマルクス主義陣営は、平和勢力であるという考えはナイーヴすぎる見方であり、全体主義的な権力の一形態とみるべきだと考えます。しかし、カミュの中庸や正午の思想というものも曖昧な部分が多く、サルトルの批判はそこをついたものだと思われます。


異議申し立ての思想(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時44分18秒

(注)カミュVSサルトル論争に続いて起きたのは、メルロ=ポンティVSサルトル論争です。現象学者モーリス・メルロ=ポンティは、当初『ヒューマニズムとテロル』(現代思潮社)で精錬されたスターリン主義擁護をしていましたが、『弁証法の冒険』(みすず書房)で非共産党系左翼に転向し、ソ連の公式マルクス主義もサルトルの思想も、ともに弁証法を失ったウルトラ・ボルシェヴィズムであると断じました。これに対し、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「メルロ=ポンティと似非サルトル主義」という反論を書きます。このことは、サルトルが『弁証法的理性批判』(人文書院)という大著を書く契機となります。
サルトルの『弁証法的理性批判』に対する批判は、構造人類学者クロード・レヴィ=ストロースによる『野生の思考(パンセ・ソヴァージュ、野性の三色スミレの意味も持つ)』(みすず書房)によって為されます。この本は、巻末でサルトルが『弁証法的理性批判』で描いたようにはフランス革命は起きなかったとし、サルトルは西欧中心主義的なコギトにこだわっているが、人間の思考は構造に縛られており、自由に歴史を変えられるわけではないと書いています。意味深長なことに、この本の献辞はメルロ=ポンティに捧ぐとなっています。


異議申し立ての思想(4) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時47分59秒

さて、このフランシス・ジャンソンですが、ジャン=リュック・ゴダール監督の『中国女』に出演しています。『中国女』は、ヴァカンスに知人宅が留守になったのを利用して、5人の男女が毛沢東思想を学習するという話で、フランシス・ジャンソンは、テロを決意したアンヌ・ヴィアゼムスキー演ずるヒロインを説得して思いとどまらせようとする哲学教師として登場します。ジャンソンは、誰かを演じているわけではなく、ジャンソン本人として発言しているので、カミュとの論争で「テロもやむなし」とする人かと思っていたものですから、認識が変わりました。
ちなみにゴダールには、アルジェリア戦争を批判した「小さな兵隊」、軍人を嘲弄した「カラビニエ」、未来の全体主義社会を批判した「アルファビル」などがありますので、ご関心のある方はチェックされるとよろしいでしょう。
このジャンソンが、アルジェリア戦争当時に組織していたのが<ジャンソン機関>です。この機関はアルジェリア独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支援したり、良心的徴兵忌避者の逃亡補助などを行っていました。その後、この地下組織は当局に発覚し、メンバーの何人かが逮捕され、ジャンソンは国外逃亡をします。
<ジャンソン機関>の裁判の際に、ディオニス・マスコロ(マルグリット・デュラスの当時の夫)。ジャン・シュステル(シュルレアリスト)、モーリス・ブランショが、以下のような宣言文(アルジェリア戦争における不服従の権利にかんする宣言)を起草します。
1.われわれはアルジェリア人民に対して武器をとることの拒否を尊敬し、正当と見なす。
2.われわれは、フランス人民の名で抑圧されているアルジェリア人に援助と庇護を与えることを自分の義務と考えるフランス人の行為を尊敬し、正当と考える。
3.植民地体制の崩壊に決定的な貢献をしているアルジェリア人民の事業は、すべての自由人の事業である
これには、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・ブルトン、クロード・ランズマン、アラン・レネ、マルグリット・デュラス、ロブ=グリエ、ナタリー・サロートらが署名をし、その署名者の人数から「一二一人宣言」と言われるようになります。

現在必要なことは、われわれがこうした先人たちから不服従と連帯の精神を学び、それを生かさないならば、事態はより悪化する可能性があるということです。(現在の戦時協力体制は、徴兵制の復活と言論統制に行き着く危険性をはらんでいます。)


異議申し立ての思想(5) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)22時14分45秒

しかしながら、異議申し立ての思想には、テロリズムとの切断をいかに図るかという難問が、付き纏います。
笠井潔の『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機に、マルクス主義を総括し、これを葬送する目的で書かれた評論です。

連合赤軍事件については、以下を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D

ところで、『テロルの現象学』第六章では、東アジア反日武装戦線による「個人的準備=ゲリラ兵士としての配慮」や、「“狼”通 信第一号」が批評の対象となっています。笠井潔の活動家時代も、マルクス葬送派への転向後も、太田竜(龍)がいたわけですが、この太田がかつて東アジア反日武装戦線の爆弾教祖であったことを考え合わせると、『テロルの現象学』がまず第一に切断しようとしたのは、自分の似たところのある太田竜の革命思想であったのではないか、ということが伺えます。
『テロルの現象学』は、マルクス主義を弁証法的権力として、全体知に基づいて人間を抑圧し、自由を剥奪するものとして把握します。笠井の分類では、テロリズムは「デカルト型テロリズム」と「ヘーゲル型マルクス主義」に分類され、マルクス主義は弁証法に基づく「ヘーゲル型テロリズム」とされます。(柄谷行人との対談『ポスト・モダニズム批判〜拠点から虚点へ』作品社参照)こうして、いかにマルクス主義を始末するかという問題に対し、笠井は反弁証法が必要だと考えるわけです。バタイユの普遍経済学とフッサールの現象学は、「ヘーゲル型テロリズム」を否定するための笠井の基盤となります。
こうして、笠井はマルクスの全的否定に至るわけですが、それに代る代案として提出しているのは、実現不可能な電光石火革命論や、警察や裁判所に至るまで国家を民営化せよとするアナルコ・キャピタリズムのみです。
では、笠井が思想的に敵対するポストモダニズムは、この問題に対し、どのような態度を示してきたでしょうか。ポストモダニズムもまた、ヘーゲル的な全体知に反対します。しかし、笠井がこれを破壊(ディストラクション)する代わりに、ポストモダニズムはこれを脱構築(ディコンストラクション)するわけです。ポストモダニズムは、マルクスのテクストを聖典としてではなく、多様な読み取りが可能なものとして、解釈の上でこれを開き、さらに実践の上でも差異の解放を革命として看做します。
ポストモダニズムの特徴として、権力の脱中心化が挙げられます。フーコーにおいては、一望監視装置(パノプティコン)批判として、ドゥルーズ=ガタリにおいては、リゾーム(根茎)状のネットワークと、社会的マイノリティーの擁護のための革命的戦争機械の称揚として現れます。彼らの目的は、権力からの逃走線を引くことにあるのです。
つまり、笠井はテロルの切断のために異議申し立ての思想を一切切り捨てているのに対し、ポストモダニズムは異議申し立ての思想であり続けているということです。

笠井潔の『バイバイ、エンジェル』や『テロルの現象学』を初めて読んだころ、笠井のマルクス葬送派への転向から、椎名麟三や埴谷雄高の転向を想起しました。例えば、椎名麟三は、治安維持法違反で逮捕され、獄中でニーチェを読み、マルクス主義者から実存主義者となり、晩年にはさらにキリスト者になります。
埴谷雄高もまた、獄中でカントを読み、脱党します。
しかしながら、笠井の場合、最後まで知識人としての覇権を確保し、同時代の精神的指導者となるという欲望と手を切っていないし、その実現のためにミステリ批評に批評の主軸を移したと考えられます。精神的指導者として人心を支配したいという欲望が顕在化していることが、笠井の転向の特異な点であると思います。


自己完結の貧困さ(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時15分28秒

 みなさん、こんばんは! 『華氏911』のマイケル・ムーア監督が、またやっているようです(笑)。

『  「敵陣」取材のムーア監督に大ブーイング 米共和党大会

 「フセイン政権下のイラクが平和のオアシスだったと信じさせようとした不誠実な映画監督」――共和党全国党大会初日の30日、ベトナム戦争の英雄、マケイン上院議員がブッシュ大統領に対する応援演説のなかでドキュメンタリー映画「華氏911」のマイケル・ムーア監督を激しく批判、ムーア氏が会場から退席する場面 があった。
 ブッシュ批判を続けるムーア氏は今回、米紙のコラムニストとして「敵陣」を取材。マケイン氏が演説している時は、記者席にいた。マケイン氏の批判をきっかけに、会場の参加者がいっせいにムーア氏に向かってブーイングを浴びせ、「(ブッシュ大統領に)あと4年」と連呼すると、ムーア氏は両手を挙げ、笑顔で「(現政権は)あと2カ月」と言い返すと、席を立って会場から出た。
 ムーア氏は取り囲んだ記者団に対し、「共和党を助けたいなら、僕の映画に触れるべきじゃなかった。さらに多くの人が見に行くだけだ」とマケイン氏の批判に反撃。イラク戦争を正当化し続けるブッシュ氏については「戻ってきた兵士のひつぎをみて、人々は何のために死んだと思うだろう。ブッシュはこの大会でその疑問に答えることはできない」と断言した。 (08/31 19:16) 』(asahi.comより

 『華氏911』を観た人にとって、「フセイン政権下のイラクが平和のオアシスだったと信じさせようとした不誠実な映画監督」なんて批判は、なんとも的外れです。なぜって、ムーアは、フセインを「パパブッシュのお友達」だった人で、アメリカが細菌兵器や毒ガス兵器まで提供してバックアップし、イラン攻撃の手先として利用した「好ましい独裁者」だった、って言ってるんですからね。
 フセインの「独裁者」性が、アメリカで言あげされはじめたのは、フセインがアメリカの言うことを聞かなくなってからなんです。それまでは、フセインが毒ガスでクルド人を殺したって、アメリカはそれを非難しようとはしなかったし、第一、現在でも世界中に、アメリカに支援されている「独裁者」が大勢いる、という事実を忘れてはなりません。むしろアメリカは、「国民の利益」を顧みず「自分一人の利益」に固執する「独裁者」の方が好きなんです。なぜって、彼らの方が御しやすいからですよ。――「悪代官」が「越前屋」とつるむみたいなものですからね(笑)。

 ま、この程度の的はずれな批判しかできないというのは、このマケイン上院議員自身はもちろん、共和党議員・支持者の大半が、『華氏911』を観ていないという証拠なんでしょう。
 ムーアの言うとおり、感情的な批判では、その場は身内でもり上がれるだろうけど、結果 としては映画の宣伝に加担することになる。その意味では、この『ベトナム戦争の英雄』さんは、ムーアの「挑発」にまんまと引っ掛かってしまったということなんだと思います。つまり、これが「ベトナムの戦場」だったら、彼はブービートラップに引っ掛かって「戦死」していたところだ、ということです。





( 以下は「自己完結の貧困さ(2)」につづく)


自己完結の貧困さ(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時18分11秒


 はらぴょんさま
異議申し立ての思想

こうして、笠井はマルクスの全的否定に至るわけですが、それに代る代案として提出しているのは、実現不可能な電光石火革命論や、警察や裁判所に至るまで国家を民営化せよとするアナルコ・キャピタリズムのみです。
> では、笠井が思想的に敵対するポストモダニズムは、この問題に対し、どのような態度を示してきたでしょうか。ポストモダニズムもまた、ヘーゲル的な全体知に反対します。しかし、笠井がこれを破壊(ディストラクション)する代わりに、ポストモダニズムはこれを脱構築(ディコンストラクション)するわけです。

 こないだも指摘しましたが、小松美彦さんが『自己決定権は幻想である!』で、

私が、自分の主張を、「呼びかけ」や「願い」として語ってきたつもりであることは、これまでにも述べてきました。この気持ちの底には、一般 化や抽象化は決してすまいという気持ちがあるわけですが、そのために、実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。

と書いているところの対極に、笠井さんはいるんですよね。

 つまり、小松さんは個々の事例や人を大切にしたいと考え、それに配慮するから、派手な理論は打ち立てにくい。そこからこぼれ落ちるものに配慮するから、わかりやすい「単調なもの言い」がどうしてもできない。だから『実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。』ということにもなります。
 その点、笠井さんは「個々の事例や人」なんてことはどうでもよくて、要は「自分の理論」が首尾一貫して矛盾がなく、そうした意味で弱点が少なく「強い」ということが大切なんでしょう。だから、笠井さんは簡単に『マルクスの全的否定』もできるし、『実現不可能な電光石火革命論や、警察や裁判所に至るまで国家を民営化せよとするアナルコ・キャピタリズム』なんてことも平然と唱えることができるんです。

 結局のところ、笠井さんには「現実の問題」に対する「責任感」が、決定的に欠落しているんですよ。マルクスの思想を批判する代わりに「それが担ってきたものを、自分が担おう」なんて気はさらさら無くて、ただ敵の欠点を上げつらうことで、「自分の方が賢い」ということを示せたつもりになっているし、誰の苦しみをも引き受ける気がないから「実現不可能な面 白い空論」を弄んでは、「自分の独自さ」を示せたつもりになって、独り悦にいることができるんですね。





( 以下は「自己完結の貧困さ(3)」につづく)

自己完結の貧困さ(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時19分7秒


 はらぴょんさま(続き)

 つまり、笠井潔の思想の根底には「私はすごいぞ。だから賞讃せよ」という、度しがたい自己顕示欲だけが渦巻いているんです。で、そんな笠井さんにとっては、他人ことなんかどうでもよくて、他人はつねに「自分のすごさ」の証明に奉仕する「道具」でしかない、ということにもなるんですよ。

 その意味でも、『(※ 奈須きのこの)『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない』という園主さまの指摘は正しいと思うし、「他人を道具につかう」という行動は、笠井さんが『哲学者の密室』で、自身批判してみせた「人間の道具化(尊厳の収奪)」に毒されたものだと言えるんでしょうね。

 また、そんな笠井さんが、本格ミステリの側に立って「ミステリは、死者の尊厳を回復する文学だ」と主張すること自体矛盾してて、いかにも胡散くささが漂ってきますし、その点を舞城王太郎さんが『九十九十九』(講談社ノベルス)の中で、

『世界大戦中に発生した大量死への反発が<特権的な死を死ぬ >ための装置としての推理小説の隆盛を呼んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。本物の特権的な死というものは皆に惜しまれて死ぬ 死であり病苦に耐えて生命の活力を全て使い果たした挙句にやってくる死であり家族や友人や多くの知らない人たちに看取られる死であり死にたくて死にたい方法で死にたいときに死ぬ 死であり死ぬべくして死ぬ死である。特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。』

と作中人物に指摘させているのは、はらぴょんさまのご紹介どおり、舞城さんが安直な「体制順応派」などではなく、「人間の道具化」に反発する、真っ当な感性をもった人だということの証なんでしょうね。





( 以下は「自己完結の貧困さ(4)」につづく)


自己完結の貧困さ(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時20分45秒


 Keenさま
> 「花園」で田中幸一にケンカを学ぶ

>> ――かなり園主さま的なテクニックを身につけてきましたね(笑)。
>> うん。やっぱり、かなり影響うけてるみたいです。良かったのかどうかは別にして(笑)。

> そりゃあもう。近頃、つらつらとよその掲示板ロムしてて、荒らしっぽい書き込みやケンカを見かけても、
> 「フッ、まだまだだね。論理が穴だらけだぜ」
> なんて思うようになりましたから(笑)。
> いやね、もともと(議論好きな)おフランス仕込みの下地はありましたから、これも成長の証と言えるでしょう。だって私、小心者なんだもん。(;^_^A

 そうかあー、かなりのもんですね(笑)。

 でも、園主さまから一番学ぶべきことは「不動心」というやつなんじゃないかな。「デビルマン・不動明の心」ということじゃなくて(笑)、相手に「呪」に毒されない「確固とした自己」の構築ということです。

 世の中には、頭の良い人は大勢いると思うんですよ。でも、そういう人も、園主さまにかかると、意外なほどに「脆い」ところを見せてしまう。なぜなのかというと、彼や彼女は、たしかに頭は良いのかもしれないけど、人間的な部分で(園主さま言うところの)「弱さ」を持っているから、結局はその「良い頭」に立脚した意見を持てないでいるんですね。だから、そこを園主さまに突かれると、人間的な「弱さ」の部分が堰を切って噴出し、頭の良さをさらに麻痺させて、本来の頭の良さにはまったく見合わない「感情的な醜態」を曝すことになってしまうんだと思います。

 だから、大切なことは、他人がどうとかいうことよりも、「自分の実際」を冷静に知って、そこに立脚することなんだと思いますよ。自分を、過大評価もしなければ、卑下もしない。そこが大切なんです。

 例えば、笠井さんのように自分を過大評価しちゃうと、まさにその評価に見合わない実態の部分を突かれるし、真面 目な人にありがちな卑下は、しばしばその人が受けるに値しない非難まで不当に受け入れることとなって、相手の間違いを野放しに容認しちゃうという結果 になる。

 良きにつけ悪しきにつけ、自分をしっかりと把握しておれば、他人に何を言われても動じることがありません。
 相手の批判的指摘が当たっていれば「御説ごもっとも。それが私の課題です。ところで、私がここで問題としたいのは、そういう貴方自身、それに気がついているのかということなんですね」と当たり前に切り返せるし、相手の批判がはずれていれば「そう思いますか? 私としては、それはまったくの的はずれだと思いますが、貴方の独自なご意見として、ありがたく拝聴しておきましょう。」と聞き流すことも出来ます。

 自分に、「自信」というよりも、「確固たる自己認識」がなければ、相手の批判的指摘にいちいち動揺しなければならないから、本来の力までが発揮できなくなるんです。――自分の輪郭を把握する(自分を、過大評価もしなければ、卑下もしない)というのは、とっても困難なことなんでしょうが、それが他者と意見を交わす場合、何より大切なことなんだと思いますよ。



 園主さま
> 「『華氏911』オフィシャルサイト」の掲示板『華氏911』異論反論! BBS

 また「掲示板あらし」イジメをやってますね。よくやるなあー、まったく・・・(-_-;)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

文体をめぐって 投稿者:はらぴょん  投稿日: 9月 1日(水)19時52分51秒

「東浩紀の文章を批評する日記」
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20040701
ここのコメントの中に、奈須きのこの文体を問題にしている人がいて、途中で文体が変わるという指摘をしています。
最初の「俯瞰風景」を、この人は小説といっていいのかと疑問を呈し、「リズムの化け物」という言い方をしています。要するに、読めたものではない、ということなんでしょう。
で、その後、「ヘンな小説」になるが、この「ヘンな小説」はつまらないといっています。
結論。最初から最後までいいところがないということですね。

「宵トマトの部屋にようこそ!」
http://rhizome.exblog.jp/
掲載小説「空の饗宴」は、最近、暴走気味です。


美心へ(1) 投稿者:園主  投稿日: 9月 3日(金)17時39分59秒

みなさま、私が最近読んだ小説家の中で、すこし気になっているのが、中井英夫へのオマージュ集『凶鳥の黒影』にも小説を寄せている、新鋭嶽本野ばらでございます。

嶽本の小説を読んでみる気になったのは、彼が中井英夫ファンであることを知ったからというよりも、むしろそれ以前から、彼がトランスジェンダーの傾向をもつ、そうとう変わった人物であるということを知っていたことと、嶽本野ばらファンである私の友人が、ある時『嶽本さんの話はとても苛酷なので少し短目がいいです。気持ちが入り込みすぎてちょっと現実に帰れなくなりそうだし。エミリーはそれほどに苛酷なお話でした。でも、好きなんです。』とメールに書いてきたからでございます。

嶽本野ばらは、若者を中心に支持されている作家のようでございますが、その秘密が、私にはこの「痛い世界」観、逆にいえば「傷つきやすさ」の感覚にあるのではないか、と思えました。
また、この問題は、討論・笠井潔をめぐってでも話題になった「セカイ系」小説家の問題にも、深く関連するものと、私には思われたのでございます。

で、嶽本野ばらの第一著作『ミシン』(「ミシン」と「世界の終りという名の雑貨屋」の2篇を収録)と最新作『ミシン2/カサコ』(ともに小学館)の2冊を読んだのでございますが、私の予想はほぼ当たっていたようでございます。
「ミシン」と「世界の終りという名の雑貨屋」は、共に主要な登場人物が「世界」を下らないものと感じており、その点で「生きにくさ」を感じております。しかし、作中では、世界がどのような点で下らなく生きにくいのかということは示されておらず、そのため、それを自明なものとして共有できる読者は良いのでしょうが、私のような人間には、どうも作者の「独断」的なもの言いや「思い込みの強さ」のようなものが、鼻について仕方がございませんでした。ですから「きっと、この世が生きにくいと感じている、今の傷つきやすい若い読者には、これは共感されるし、癒されると感じるんだろうな。……しかし、これは同病相哀れむに近いものなんじゃないか」と思えたのでございます。

「ミシン」の続編である長編『ミシン2/カサコ』は、死にそこなった主人公の「再生の物語」とも言える内容で、お話としては、個人的には「好き」と言っても良いものでございました。しかし、内容的には、根本的な解決(乗り越え)がなされているとは言えず、問題は最後まで、「個人的な関係」に支えられた「内面 の問題」に終始いたします。その意味で、この小説は、一歩前進したとも言えますが、まだまだ問題を積み残しているのでございますね。





( 以下は「美心へ(2)」につづく)

美心へ(2) 投稿者:園主  投稿日: 9月 3日(金)17時41分5秒


『 T乙女のカリスマUとしてカルト的な支持を受ける一方、最近は三島賞候補に二回なるなど、文壇からも熱い注目を浴びている。が、それゆえの迷いや悩みもあった。
 「小さなライブハウスで、下手くそでも必死な演奏が売りだったバンドが、急に大きなステージに出たようなもの」。同じように歌っても、二階席に声が十分届かないもどかしさ。「自分のイメージが独り歩きして、昔の読者から『野ばらちゃんは変わった』と言われるのがキツかった」
 もう一度原点に戻るべく、「ガンガン直球を投げ込んだ」のが本書(※ 『ミシン2/カサコ』)。「もう二階席なんか関係ない、『ここまでたどり着けるヤツにだけ聴かせてやるよ』という感じ」。きゃしゃな姿の内側に、確かにハードボイルドな心がある。(小学館、1200円) (汗)』

(2004年8月1日付『讀賣新聞』、「著者来店」より)

たぶん『(汗)』というのは、ここ「花園」でも何度か名前の上がった、ミステリに詳しい「石田汗太」記者を指す略号なのでございましょうが、ともあれ、はたして今の嶽本野ばらを『確かにハードボイルドな心がある。』とまで持ち上げて良いのかどうか、私にはいささか疑問なのでございます。
もちろん 『ミシン2/カサコ』の主人公ミシンには、著者の思いが色濃く投影されているのでございましょうし、その意味で、著者がここでミシンの言葉に託して、今の自分の心境を語るのも間違いではございませんでしょう。そしてまた、『二階席』をあえて振り捨てていこうとするスタンスも、基本的には間違いではないと存じます。しかし、今のミシンの位 置が、すなわち嶽本野ばらの現在位置が『ここまでたどり着けるヤツにだけ聴かせてやるよ』というほどのものかどうかは、大いに疑問であり、作者自身そのことに気づいていないとしたら、作者をこの先で待つものは、客観性を欠いて「凝りかたまった、独りよがりの偏狭さ」ということにもなるのではないでしょうか。

しかし、私は、それを心配するほど、嶽本野ばらという作家に愛着を感じているわけではございません。むしろ私は、この作家の向う側に、現代の「傷つきやすい若者」の病理を感じて、そこから眼が離せないのでございます。

嶽本野ばらの著作は、さらに3冊ほど購入してありますので、もうすこしこの作家を研究してみる予定でございます。私は、その先に見えてくるものについて、決して楽観してはおりませんが、できることならば『ミシン3』では、「自己の乗り越え」と「世界との和解」が語られることを期待したい。私が期待するのは「弱者のツッパリ(=悲鳴)」ではなく、「強き者のツッパリ(=抵抗)」なのでございます。





( 以下は「美心へ(3)」につづく)


美心へ(3) 投稿者:園主  投稿日: 9月 3日(金)17時42分6秒


 はらぴょんさま

異議申し立ての思想

> 『打撃は、絶間なく与えねばならぬ』(ゲバラ)

> この言葉から、毛沢東の『持久戦論』を想起しました。彼らの考えたゲリラの戦術は、どちらも長期戦なのですね。毛沢東の持久戦は、実際のところは広大な中国大陸を逃走しつつ遊撃戦を繰り返すというものでしたが、最終的にはロングスパンで勝利を得たわけです。

圧倒的な戦力を持たない以上、ゲリラには執拗さ、つまり「しつこさ」が必要だというわけでございます。そして、そうした点からも、現在イラクで行われている(「テロ」と蔑称されている)抵抗戦は、まったく正統的で自覚的な「ゲリラ戦」であり、その意味であれは、間違いなく「しつこく」継続されるでしょうし、アメリカから言えば「ベトナム化」せざるをえないであろう、ということでございます。

ちなみに、ああいう「祖国と尊厳と自由」を賭けて戦うゲリラ戦とは違い、われわれのゲリラ戦は、べつにいつやめても支障のないものなのでございますが、だからこそ逆に「しつこさ」を保つことが困難なのだとも申せます。こうした場合、もっとも大切なのは、陰険だと思われるくらいに「しつこさ」を「楽しむ気持ち」なのではないでしょうか。相手にとっても、敵のこういう性格は、最も嫌なものでございましょうしね(笑)。

> チェ・ゲバラに関心が行くというのは、この時代の閉塞感に風穴を開けたいということだと考えます。

一般的に『チェ・ゲバラに関心』が集まっているとは思いませんが、私個人について言えば、チェ・ゲバラについては昔から興味がございましたし、三好徹の『チェ・ゲバラ伝』を買うのも2度目か3度目でございます。今回は、たまたま映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』の公開を知ったので、そのまえに伝記を押さえておこうと思ったのでございます。

ちなみに、私は昔、チェ・ゲバラと(若い頃の)笠井潔の「顔」が似ていると思ったことがございます。どちらも、顔立ちのハッキリとした男前でございますから。ただ、笠井潔の方は、昔はたいていむずかしい顔をして写 真に写っていたのに対し、チェ・ゲバラの方は微笑んでいる写真が多かった。ですから、私は、三好徹の『チェ・ゲバラ伝』の表紙にも使われている有名なゲバラの肖像(画?)のイメージに近いものを、当時の笠井潔に感じたのかも知れません。
ともあれ、昔ならこうした発見を喜んでご紹介できたのでございますが、今となっては紹介するのが恥ずかしく感じられます。そのことが、私には残念でなりません。


これには、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・ブルトン、クロード・ランズマン、アラン・レネ、マルグリット・デュラス、ロブ=グリエ、ナタリー・サロートらが署名をし、その署名者の人数から「一二一人宣言」と言われるようになります。

> 現在必要なことは、われわれがこうした先人たちから不服従と連帯の精神を学び、それを生かさないならば、事態はより悪化する可能性があるということです。

そのとおりでございますね。

ただ、私がチェ・ゲバラを持ち出して、みなさんに考えてほしかったのは、国家が「署名運動」など端から相手にせず、知識人の権威など屁のツッパリにもならない状況下での、大衆にたいする暴力的な収奪に対して、いったい我々には何ができるのか、というようなこと(自問)でございます。だから、私は最後に「チェ・ゲバラと、ある知識人の会話」をもってきたのでございます。

つまり、我々が「先進国の知識人」と同じ「特権階級」に甘んじている現状についても、もっと自覚的であるべきだと思うのでございますね。でないと、それは金持ちが、その「金持ち的余裕」のゆえに、貧乏人を憐れむといったような、鼻持ちならないものになるからでございます。だからこの場合、「憐れみ」や「同情」よりも、(チェ・ゲバラのような)悲惨な現状に対する「怒り(憤り)」の方が、問題を「我が事」と感じているという点で、本物のように、私には思えるのでございます。





( 以下は「美心へ(4)」につづく)

美心へ(4) 投稿者:園主  投稿日: 9月 3日(金)17時44分0秒


 はらぴょんさま(つづき)

笠井潔の『バイバイ、エンジェル』や『テロルの現象学』を初めて読んだころ、笠井のマルクス葬送派への転向から、椎名麟三や埴谷雄高の転向を想起しました。例えば、椎名麟三は、治安維持法違反で逮捕され、獄中でニーチェを読み、マルクス主義者から実存主義者となり、晩年にはさらにキリスト者になります。
> 埴谷雄高もまた、獄中でカントを読み、脱党します。
> しかしながら、笠井の場合、最後まで知識人としての覇権を確保し、同時代の精神的指導者となるという欲望と手を切っていないし、その実現のためにミステリ批評に批評の主軸を移したと考えられます。精神的指導者として人心を支配したいという欲望が顕在化していることが、笠井の転向の特異な点であると思います。

これは逆だと存じます。

たいていの「転向者」は、転向先でも『最後まで知識人としての覇権を確保し』 たがるもので、椎名麟三や埴谷雄高のような「潔い」例の方が、むしろ『特異』なのではないでしょうか。――つまり、笠井潔の『転向』は、たいへん凡庸なものであったし、笠井潔その人は「転向者の、その他大勢の一人」に過ぎないのだと存じます。





( 以下は「美心へ(5)」につづく)

美心へ(5) 投稿者:園主  投稿日: 9月 3日(金)17時45分7秒


 はらぴょんさま(つづき)

文体をめぐって

> 「東浩紀の文章を批評する日記」
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20040701
> ここのコメントの中に、奈須きのこの文体を問題にしている人がいて、途中で文体が変わるという指摘をしています。
> 最初の「俯瞰風景」を、この人は小説といっていいのかと疑問を呈し、「リズムの化け物」という言い方をしています。要するに、読めたものではない、ということなんでしょう。
> で、その後、「ヘンな小説」になるが、この「ヘンな小説」はつまらないといっています。
> 結論。最初から最後までいいところがないということですね。

smatobaさまのご意見でございますね。――まあ気持ちとしてわかりますが、あまりにも主観的なもの言いで、意見としてほとんど意味をなしていないと存じます。このような言い方なら、小栗虫太郎でも大西巨人でも、同様に腐せることでございましょう。その意味では、サイトマスターのmotidukisigeruさまが後で書かれているとおり、批判者には「(客観的な)説明責任」がついて回るということでございましょう。

ただし、そうした責任を果たしていない人の多くには、自身の主観と客観の区別がついていないという根本的な問題がございます。そこに無自覚だからこそ、smatobaさまのものみたいな意見も出てくるのでございますね。彼はあれで、十分に客観的な意見表明だと思い、他人にも伝わると思い込んでいるのでございますが、まさにそこが問題なのでございます。

ところで、motidukisigeruさんが、

『奈須きのこを取り上げるのが、商業的な堕落だ、というのなら、根拠を挙げてそう主張すれば良いのです。しかし、彼の根拠は「新青春エンタじゃないからよくない」と言っている。新青春エンタというのは、西尾維新と佐藤友哉と舞城王太郎を含んでるわけで(つまり、よく考えるとまるで共通 点がない)、元長柾木や原田宇陀児が、奈須きのこに比べ、「より新青春エンタだ」というのは、無理でしょう。』

と書いて、東浩紀が『ファウスト』の新たな編集方針を批判していることについて、「説明責任」を果 たしていないと批判しておられます。この文章は、この7月上旬に書かれたものだと思うのでございますが、その段階では、どうやら東さまは、この編集方針の転換の裏に「笠井潔と太田編集長による、新伝綺ブームでっち上げ作戦」があるということを、一般 に向けて明示していなかったようでございますね。

話がどうしても「業界裏話」的になって生臭くなるし、下手すれば喧嘩にも発展しかねない事ですから、公には口にしにくかったのかも知れませんが、そういう肝心なところを伏せたままで批判したりするから、こういう批判も出てくるのでございましょう。

ともあれ、実際のところ、東浩紀さまが『ファウスト』を『商業的な堕落だ』と批判する主たる理由が、『元長柾木や原田宇陀児が、奈須きのこに比べ、「より新青春エンタだ」』(と言えるのに、奈須きのこに比べて扱いが小さいのは、筋に反している)ということではない、というのは、今となっては明らかなのではないでしょうか。

このへんは、「文学」と言えども、純粋に「文学的意味合い」の範囲内だけでは論じられない、という証拠でございましょう。その意味では、(自画自賛になって恐縮ですが)拙稿笠井潔が、真に望んだこと。のような、現実に食い入る批評活動も、泥をかぶることを怖れず、展開する必要があるのではないかと存じます。





( 以下は「美心へ(6)」につづく)


たったひとつの冴えたやりかた(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月 6日(月)17時35分54秒

 みなさん、こんにちは! 今、若い読者を中心に人気のある乙一さんの『きみにしか聞こえない CALLING YOU』(角川スニーカー文庫)を読みました。一読後の印象は「上手い作家」だということと「まじめな人」だということでした。この本には「Colling You」「傷 KIZ/KIDS」「華歌」の3編が収められているんですが、共通するのは、主人公が「世界の悪意」に傷つけられた「まじめで繊細な人」だということです。この点で、この作品集は、先日園主さまが論じておられた、嶽本野ばらの問題とも通 じるところがあると、ボクには思えました。

 ただ、嶽本野ばらと乙一の違いは、乙一の方はこの3本の短篇のいずれにおいても、そのラストで「世界の肯定」を試みている点です。
 例えば、「KIZ/KIDS」では、他人の傷を自分の身体に転位させる超能力をもった無垢な少年が、世界に絶望した時、自分の身体では引き受けきれないほどの「傷」を引き受けることで自殺しようとするのですが、そんな少年を愛おしく思う親友の少年が、その「傷」の半分を引き受けることで、少年を救います。そしてラストで、このように「世界の肯定」を語るんです。

『 おまえを見ているうちに、世界がそんなにひどいもんじゃないってわかった。この町は見渡すかぎり錆とガラクタに覆われていると思っていた。でも、そうじゃなかったんだ。おまえは唯一、無垢だったよ。悪い人間だと思っていたやつの中に、少しでもいい部分があるように、神様はこの世界に、心の澄み切ったおまえのようなやつを作ったんだ。
 あまりにも無垢だから、何度も人に裏切られ、傷ついて絶望するかもしれない。だけどこれだけは知っておいてほしい。おまえは、大勢の人間の救いなんだ。たんに、怪我を治してあげられるって意味じゃないんだぜ。おまえがいつも優しく、他人のことばかり考えているということが、はるかに多くの人間を暗闇のような場所から救い上げるんだ。だからおまえが、いらない子なはずがないよ。おまえが死んだら、オレはきっと泣く。
 半分になったとはいえ、オレらにはひどい傷跡が残っている。でも、それを誇りに思う。いつかこの傷跡を移動させて、消すことがあるかもしれない。だけど、この世界に痛みを分かち合うやつがいたのだということを、覚えておいてほしい。』(P116)

 「負け戦かもしれないけれど、その負け戦を戦うことで、人の希望にはなりえる」というのは、いつも園主さまが強調しているところですが、作者がここで語っているのは、「挫けない」ということではなく「汚れない」というかたちでの、それに近いことなんでしょうね。
 ただ、この微妙なズレを、悲観的に解釈すれば、多くの読者は、この科白の中の『あまりにも無垢だから、何度も人に裏切られ、傷ついて絶望するかもしれない。』という部分にだけ共感して、「そうなんだ、自分も」といって一時的に癒されるだけ、そうやって作品を消費するだけ、ということになるのかも知れません。でも、作者が付け加えるかたちで読者に望んでいるのは「君も傷を引き受ける仲間になってほしい」ということなんだと思いますし、その段階にいたって初めて、「汚れない」ではなく「挫けない」ことの重要性が理解できるのだとも思います。





( 以下は「たったひとつの冴えたやりかた(2)」につづく)


たったひとつの冴えたやりかた(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月 6日(月)17時37分8秒


 ともあれ、こうした認識において、嶽本野ばらと乙一のあいだには、一見大きな開きがあるように思えるのですが、しかしまた、この開きがどこまで本質的なものかというのは、一筋縄ではいかない難問だとも思います。というのも、乙一のこの作品は「若者向けのエンターティンメント」として書かれたものであり、その点については、乙一自身ハッキリと自覚的だからです。つまり、乙一は、大人として「読者の大半を占めるだろう若者に配慮」して、このような「フォロー」をしたという側面 も、まず間違いなくあったと思われるからです。でも、じっさいのところ、乙一自身にとっても、世界は『錆とガラクタに覆われている』ものだと感じられているんではないしょうか。そして、そのなかで救いとなるものは『無垢』しかありえないとも――。
 その意味では、これは嶽本野ばらの世界観と、なんら変わりはないんですよね。ただ、乙一には、そういう自身の世界観を「正直に語るだけでは、まずい」という「大人の配慮」があったから、上に引用したような「フォロー」が、最後のところで「やや唐突に」挿入されることになったのだと思います(これは、他の2作にも言えます)。
 ところが、嶽本野ばらの方には、そういう「大人の配慮」がほとんどありません。だから、自分の実感にストレートに「世界の悪意」を描き、「被害者意識」を隠すこともなく表出してしまってるんですね。嶽本野ばらのこうした点に、園主さまは物足りなさを感じているのでしょうが、これは「文学者」としては、ある意味で「正しいあり方」だとも言えるでしょう。と言うのも、乙一のバランス感覚(大人の配慮)は、どこまでも「世界の肯定」を大前提とした「イデオロギー(=虚偽意識)的なもの」とも言える「作為的なもの」だからなんですよね。言っていることは正しいんだけど、でも「ホントに、そう感じてるの?」って言いたくなるところが、乙一のこの短編集に収められた3本には、共通 して感じられたんです。

 だから、ここで大切なことは、嶽本野ばらと乙一の「相違点」ではなく、むしろ、「世界の悪意」を感じ『無垢』に救いを求めるという、「共通 点」の方なんではないかとボクは思います。





( 以下は「たったひとつの冴えたやりかた(3)」につづく)

たったひとつの冴えたやりかた(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月 6日(月)17時38分8秒


 その意味で、この二人の作品と好対照をなしていると感じたのが、これも先日読んだばかりの、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名作短篇「たったひとつの冴えたやりかた」(早川文庫・同名短編集所収)です。この作品は『SFマガジン』誌が、1998年におこなった『オールタイム・ベストSF』の「海外短篇部門」で、堂々の第1位 に輝いた傑作中の傑作(ちなみに、ティプトリー・ジュニアは、同部門の4位と7位 にもランクインしています)で、SFファンに言わせれば「今ごろ読んだのか」と言われそうな作品なんですが、ボクがこの作家の作品を読むのは、これが初めてでした。

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは、SFの最前線を走った作家だ、というようなことを聞かされていたのと、この作品が代表作であるということ、さらにこの思わせぶりなタイトルから、ボクは「この作品には、きっと、あっと驚くような落ちなり仕掛けなりがあるに違いない」と思って読みはじめました。ところが、この作品は、そういうのとはまったく反対方向の作品で、平たく言えば、「人間の崇高さ」というものを一人の少女の勇気ある行動を通 して描いた「感動作」だったんです。そして、そうした意味で、この作品は、日本人好みでもあれば、女性にも毛嫌いされない作品だったとも言えるわけなんですが、ただ、ティプトリー・ジュニアの作品としては、むしろ「異色作」だったのかも知れません。

 で、「たったひとつの冴えたやりかた」が、嶽本野ばらや乙一の作品と「好対照」をなす部分とは何なのかというと、それは「世界に対する態度」なんですね。
 嶽本野ばらや乙一の作品では、世界は悪意をもって侵害してくる存在なんですが、「たったひとつの冴えたやりかた」では、世界は探究されるべき可能性に満ちた魅惑的な存在と感じられているんです。また、こうした「感じ方」の違いから出てくることなんでしょうが、前者は世界に対して「受動的」であり、後者は世界に対して「能動的」です。だから前者が「被害者意識」に傾きがちなのに対して、後者はすべての事態を自分で引き受けていこうとします。つまり、どちらの作品も『無垢』な主人公が「理不尽な不幸」に見舞われるという点では同じなのですが、前者はその不幸を「被害者」的に受けとめ、後者はその不幸を自身の問題と受けとめて善処しようとするんですね。

 このように前者(嶽本野ばらや乙一の作品)と後者(「たったひとつの冴えたやりかた」)には、はっきりとした方向性の違いがあって、同じように「逆境にある主人公」を描いてはいても、描かれたものはまったく違った印象を与えるんです。で、両者の違いが何に由来するものなのかというのは、単純には確定できないんですが、ただ言えることは、今の日本では「たったひとつの冴えたやりかた」的な作品は、生み出されにくいだろうな、ということなんですね。





( 以下は「たったひとつの冴えたやりかた(4)」につづく)

たったひとつの冴えたやりかた(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月 6日(月)17時39分9秒


 どうして、こんなことになってしまったんでしょうか? それはひとつには、ボクたちが「世界の真実の姿を見てしまった」と感じているからなのかも知れません。もはやボクたちには「見果 てぬ可能性としてのフロンティア」は残されておらず、日々、否応なく目にさせられるのは、世界の汚い実相でしかない。だから、ボクたちは最早、かつてのような希望を抱くことが出来ず、ただ絶望しないようにするしか、生きていく手立てがないんだということなのかも知れません。

 じっさい、短編集『たったひとつの冴えたやりかた』の訳者あとがきでは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(じつは女性)の悲劇的な死に方が紹介されて、読者に大きなショックを与えずにはいません。高齢で寝たきりとなり、アルツハイマー病まで進行してきた夫を射殺し、自身も銃で自殺したというんです。二人の間には、生前に取り決めがあったようで、この二人の死は計画的な「心中」だったようですが、しかし「たったひとつの冴えたやりかた」を読んだ後では、この死は、世界の非情さを際立たせて、暗澹たる気分になるのは避けられないものとなっています。

 「この汚れた地上に、不本意に産み落とされ、傷つきながら生きている私」という認識は、今の若者に、ある程度普遍的な認識なのかも知れません。そして、この認識の問題点は、それがある程度は、真実を突いているという点なんですね。

 それでもボクたちは、この地上で生きていかなければならないのでしょうか? 小説や流行歌に癒しを求め、日々自分をごまかしながら、それでも生き続けることが、正しいことなのでしょうか? ――でも、ボクは、そんな逆境のなかに取り残されたボクたちの選びうる「たったひとつの冴えたやりかた」を探すことこそが、ボクたちの生を意味あらしめることなんじゃないか、とそんな風に抵抗してみたいと思うんです。最後はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアにも見つけられなかったそれを見つけることだけが、少なくともボクにとっての真に「たったひとつの冴えたやりかた」だと思うんです。





( 以下は「たったひとつの冴えたやりかた(5)」につづく)

妄想炸裂 投稿者:はらぴょん  投稿日: 9月 6日(月)23時11分40秒

メールマガジンファウスト[第二十二号]によると、『ファウスト』Vol.4の第一特集は「文芸合宿 atファウスト!」であるとのこと。
以下は引用。

編集長:それでは、突然ですが、「乙一、北山猛邦、佐藤友哉、滝本竜彦、西尾維新」の5人の小説家に編集者生命を懸けて心からのお願いがあります。本当に勝手すぎるお願いで誠に申し訳ありませんが、たった今から、10月頭のスケジュールをすべてキャンセルしていただけませんでしょうか。そう、この「文芸合宿」にぜひご参戦をお願いします! 合宿所までのチケットは5人分、すでにこちらで用意してあります。ご決断いただけましたら、即、僕の携帯までお電話を!

なんでしょう。この体育会系のノリは。
「ご決断いただけましたら、即、僕の携帯までお電話を!」なんて言っていますが、断ることなんてできるのでしょうか。「断ってもいいのかな。干しちゃうぞ!」と言われそうです。
ちなみに、このメールマガジンには、メールアドレスがついていて、
faust@kodansha.co.jp 
「五人の小説家の合宿参戦を後押しする応援メール」を送ってくれと読者に呼びかけています。「いいのかな。読者の期待を裏切っても……」O編集長の声が聞こえてきそうです。
作家のメンバーをみますと、ひきこもり傾向のある人が見受けられます。ひきこもりの合宿……なんだか、辛そうです。
このメールマガジンの次号は、五人の作家の返答結果だそうです。
合宿の内容は、まだ公開されていません。合宿ということは、先輩作家によるモーレツしごき教室とかあるのでしょうか。もし、あっとしたら、ますます辛いものになりますね。
笠井潔先輩によるモーレツしごき教室とか……(冷や汗)。
一時間目は、「歴史」。<君たちは、もっと過去のミステリーを読むべきだ。過去の作品を学習し、作品世界の構築とはなにかを知るべきだ。>
二時間目は、「倫理」。<君たちは、笠井潔葬送派の言説に耳を傾けてはならない。彼らは、裏切り者か、ポストモダンかぶれか、どちらにせよ私の敵である。>とか、なんとか。ありえない話ではない、ありえない話ではない……。

http://www.melma.com/mag/67/m00093167/


まだまだ! 投稿者:Keen  投稿日: 9月 8日(水)11時34分34秒

☆はらぴょんさま

>妄想炸裂

ハッキリ言って、甘いです。これは単なる「想像」です。この程度ではとても「妄想」とは言えませんし、まして「炸裂」レベルではありません。
「合宿」というからには、当然宿泊を伴います。そこで、夜の部は先輩作家先生方による「ミステリ・ナイト〜邪兄図(じゃにいず)モーレツしごき個人授業」が行われ……と、せめてこれくらいの展開を提示しなくては。
三浦しをんのエッセイを読んで、妄想炸裂について研究することをお薦めします。


さて、私はこれから外出しますので、今ははらぴょんさんへの教育的指導(笑)のみにて失礼します。
行ってきまーす。(^0^*


ファウストの夜(1) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 9月 8日(水)19時03分32秒


 予想どおり、笠井潔先生の講演が、合宿初日最後のプログラムだった。夕食の後なので、かなり眠いのだが、人生の大先輩であり、日本ミステリ界の大御所作家の講演で、まさか学生の頃のように居眠りをするわけにはいかない。

 笠井先生の講演は、エドガ−・A・ポオを始祖とする「伝奇小説」の歴史をひとわたりなぞるもので、博識を誇る先生らしく、やたらいろんなジャンルの作家名や著作名が出てくるのには、しょうじき辟易させられた。もちろん、僕たちだって、そうした過去の作家や思想家に興味がないわけではないし、その仕事を軽視するつもりもない。しかし、すでに専業作家となってしまった僕たちには、そうした知識が是非とも必要というわけではない。評論家ではないんだから、系統だてて網羅的に読んでなどいなくても、面 白い小説を書く分には、なんら差し支えはないのである。

 結局、笠井先生のお話は、落ち着くところに落ち着いた。結論として先生がおっしゃったのは、
「これからは伝奇小説の時代である。だから、君たちも伝奇小説を書きたまえ」
という、なかば押し付けがましい御託宣だった。

 笠井先生が演壇を降りると、脇にひかえていた太田編集長が、僕たちに向かって言った。
「え〜、なお今夜からは、毎晩お一人ずつ、プログラムの終了後に、笠井先生の部屋で個人教授を受けていただくことになっております。みなさんそれぞれの個性に応じた、きめ細やかな指導がしたいという、後進の育成に熱心な笠井先生らしい、特別 なご計らいですので、みなさん、真剣に受講くださいますよう、くれぐれもお願いいたします。なお、順番は、五十音順ということで、今夜は乙一先生、お願いします。テキストは笠井先生の方で、ご準備くださっているそうなので、手ぶらで結構だそうです」

 予想どおりだった。奈須きのこさんが仄めかしていたのは、やはりこのことだったのだ。
 でも、僕たちは、こうした展開をむしろ望んでいた。こうでなくちゃ困るんだ。――僕は、そう内心でほくそ笑んでいた。





( 以下は「ファウストの夜(2)」につづく)

ファウストの夜(2) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 9月 8日(水)19時04分12秒


 遠慮がちなノック。いかにも、物静かな好青年の乙一くんらしい。思わず弛んでしまう顔を引き締めてから、私は、やや低い声つくって、ノックに応じた。
「乙一くんか?」
「はい」
 本来なら、ドアは開いているからと勝手に入ってもらうところなのだが、私はわざわざ戸口まで行き、ドアを開いて、乙一くんを招き入れた。私はドアのノブを握ったまま、身体を開くと、
「さあ、奥へ入りたまえ」
と彼を先にリビングに送り込み、後ろ手にドアノブの錠を内側から捻った。

 乙一くんは、所在なげに、部屋の中央に突っ立っていた。上背のある彼が立ったままでは、私もいささか気後れしてしまう。
「まあ、そのへんに……ベットにでも掛けたまえ。なに、気を使うことはないよ。酒でも飲みながら、ゆっくりやろうじゃないか」
「いや、僕は、あんまり強くないんで……」
「なに言ってるんだ。君のために準備しておいたんだぞ。それを飲めないというのか」
「いえ、そんな……」

 ほかの4人はまだ勘づいていないだろうが、すでに彼は、私の意図に気づいているようだ。もちろんそれは、彼がうちへ遊びに来た時に、それとなくこちらの意図するところを伝えておいたからである。――彼は才能のある作家だ。どんな手を使ってでも、繋ぎ止めておく価値がある。だが、妻子のいる自宅では、それもさすがにまずいので、彼には私の「格別 な好意」を伝えるに止めておいたのである。

 グラスを啄むようにして、ロックを舐めている。本当に弱いのかもしれない。前回は、それなりに飲んでいたようにも思うのだが……。
 私は、
「そんな飲み方じゃ、うまくないだろう」
 そう言いながら、おもむろに彼の背に腕を回した。





( 以下は「ファウストの夜(3)」につづく)

ファウストの夜(3) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 9月 8日(水)19時05分17秒


「やめなさい!」

 声を発したのは、乙一くんではなかった。声は、戸口の方から響いたのである。
 数人の男たちが立っていた。いや、4人だ。明日以降、私の個人教授を受ける予定になっていた「可愛い生徒たち」である。

「なんだ、君たちは?」
「いい加減にしてくださいよ。僕は、個人の性癖なんて云々する気はないけど、彼も嫌がってるじゃないですか。……被害者は、一人で十分ですよ、先生」
 そう応えたのは、北山猛邦だった。――こいつが一番の年長者だったかな? ――、北山は手で、合鍵らしきものを弄んでいる。

 頭の中で危険信号が明滅した。だが、――こんな世間知らずの若造どもに舐められてはいけない。こっちは学生時代に国家権力とやりあった経験もあるんだ。
 私は、威厳を込めて言った。
「北山くん、誰に対してそんな口のきき方をしてるんだ? 君は自分の立場がわかっていないようだな。ちょっと人気が出てきたからと言って、いい気になっていたら、きっと後悔することになるぞ」

 北山が、小さく顔をしかめながら汚いものでも見るような目を私に向けた後、今度はニヤニヤ笑いを浮かべ、

「いやだなあー、僕たちは明日以降を待ちきれなかったから、みんなで押しかけたんですよ。正直、趣味じゃないんだけど、みんなでやれば怖くないって言うか、先生のご趣味を満足させられるんじゃないかって」

 何が言いたいんだろう、こいつは。厭な予感がする。――、そう思ったと同時に、乙一が背後から私を羽交い締めにした。

「何をするんだ! こんなことして、ただじゃ済まんぞ!」

 精一杯ドスを利かせて威嚇したが、北山はニヤニヤ笑いを浮かべながら応じた。
「ただでは済まないって、ここまで誰が助けに来てくれるって言うんです? 運動不足の太田さんたちですか? それとも、法月先生や探偵小説研究会のみなさんが、老骨に鞭うって駆けつけてくれるとでもおっしゃるんですか? いいですか、ここでは5対1。先生に勝ち目はない。なに、心配にはおよびません。僕たちは先生に焼きを入れようとか、そんな乱暴なことを言ってるんではありません。本来なら、今夜から一人ずつ可愛がっていただく予定だったのを、すこし趣向を変えて、今晩、僕たち5人が、先生をせいいっぱい可愛がってさしあげることにしたんですよ。先生、スキーで鍛えておられるから、体力には自信をお持ちなんでしょ。大先輩として、若造5人を、その大きな胸に受けとめてくださいよ」

「おい、演説はもういいから、さっさと片づけてくれよ。腕が疲れてきたよ」
 私を羽交い締めにしていた乙一が、面倒くさそうにそう言った。

「すまんすまん。じゃ、縛らせてもらいましょうか。佐藤さん、ロープとカメラ、持ってきましたよね?」
 北山がそう言うと、佐藤友哉は、
「うん。でも、それだけじゃなくて、みんないろいろ持ってきてるみたいだぞ。僕はいやだなあー、こんなオヤジにそんなことするの。悪趣味だよ」
「ぼやかない、ぼやかない。これも健全なミステリ業界を作るためには、必要なことなんだよ。誰かが、手を汚さなきゃならないんだ」
 はあー、と佐藤が深いため息をつくと、北山が皆を励ますように言った。
「じゃ、始めようか」

 そこから先に起ったことを、私は生涯、語ることはないだろう。ともあれ、――こうして恥辱の一夜が始まったのだ。





( 以下は「ファウストの夜(4)」につづく)

ファウストの夜(4) 投稿者:アレクセイ  投稿日: 9月 8日(水)19時06分28秒

 



 な、なんだ、これは……!
 ――その書き込みの存在を私に知らせたメールにも、おおよそのことは書かれていたから、下劣極まりない内容であるのはわかっていたし、それなりに覚悟もしていた。だが……。

「アレクセイのやつだけは、絶対にゆるさん!!」

 笠井潔の怒号が、八ヶ岳の嶺嶺に木霊して消えた。



 同じ頃、関西では、アレクセイが、鼻をほじりながら面倒くさげに言った。

「だから、いつでも相手になったるって、言うとるやろが。能書きばっかり垂れとらんと、さっさとかかってこんかい」

 ついでに、勢いよく屁までひった。――完全に舐めきった態度であった。



おわり        




※ この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは、あんまり関係ないはずです。(作者)

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


『ファウストの夜』 作者あとがき 投稿者:アレクセイ  投稿日: 9月 8日(水)19時45分20秒



 ひさしぶりの小説です。みなさん、いかがでしたでしょうか? 私としては「やおい小説」を書くこと自体、それなりに抵抗があったのですが、はらぴょんさんとKeenさまの書き込みに触発されて、なんだか随分エグいものを書いてしまいました。ほのぼのとした可愛く美しい「やおい小説」なら、私もそれほど抵抗は感じなかったのでしょうが、しかし、Keenさまが示されたものをそのままなぞるのも業腹なので、つい、ひとひねりを加えた結果 が、こんなものになってしまったというわけです。――でも、けっこうありがちなものになっていますよね。なにぶん素人なもんで、大目に見ていただければ、幸いです。

 では、最後に、この作品を書くにあたり、お世話になったり、ご迷惑をお掛けしたみなさんに、お礼とお詫びを申し上げたいと思います。まずは執筆のきっかけを与えてくれた、はらぴょんさんとKeenさんに、お礼を申し上げたいと思います。あなた方がいなければ、きっとこの作品が書かれることはなかったでしょう。それから、この作品でずいぶん酷い目にあわせてしまった笠井潔先生には、お詫びを申し上げておかねばなりません。本当はこんな形ではなく、公場での一騎討ちといきたかったんですが、機会を与えていただけない苛立ちから、つい、こんなつまらないものを書いてしまいました。できれば、二度とこんなものを書かないで済むようにしていただけると、私自身、元・笠井潔ファンとして救われると思います。それから、文字どおり「汚れ役」を振ってしまった乙一、北山猛邦、佐藤友哉、滝本竜彦、西尾維新の各先生がた。みなさんには何ら含むところはありませんので、どうかご勘弁下さい。恨むのから「文芸合宿 atファウスト!」なんてものを考え出した、太田編集長を恨んでください。最後に太田編集長さんには、『ファウスト』のますますのご発展を祈念しております、と書いておきたいと思います。

 続編は期待しないでください。ありがとうございました。

アレクセイ   

 

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


もっと、エロティシズムを! 投稿者:AOI  投稿日: 9月10日(金)01時30分18秒

☆ホランドさま

>ちょうど一ヶ月ぶりですよね。お変わりなく過ごされていたことと思います。いや・・・ぜんぜん変わりなかったら、もっとお顔を見せてくださってましたよね。やっぱりお忙しかったのかな?

一ヶ月もたっていたんですね。過去ログみて、びっくり!
半月ぶりくらいかなあと思ってたわ(笑)。
月日のたつのってほんと、早い・・・(つくづく)。
いろいろ雑事に追われて、落ち着かない日々ですが、手伝っていた友人のライヴも無事終わり、少し緊張が解けたりすると、もう、いけない・・・(笑)

>あの映画には「情報量」や「映画としての完成度」に還元されないものが確かにありますし、むしろそちらの方にこそ、あの映画の真骨頂があるように思います。

憑きもの落としのような映画でしたね(笑)。

> 韓国映画『子猫をお願い』

大阪では終わっているようです。ざんねん!(^_^;)

http://www.koneko-onegai.jp/info/


☆園主さま

>それは考えてはいけないことなのでございます……(-_-;)。

みたくない現実。ほんとうは快楽。

『ファウストの夜』

パロディーとしては、よく出来ていると思います(笑)。

「すまんすまん。じゃ、縛らせてもらいましょうか。佐藤さん、ロープとカメラ、持ってきましたよね?」
 北山がそう言うと、佐藤友哉は、
「うん。でも、それだけじゃなくて、みんないろいろ持ってきてるみたいだぞ。僕はいやだなあー、こんなオヤジにそんなことするの。悪趣味だよ」
「ぼやかない、ぼやかない。これも健全なミステリ業界を作るためには、必要なことなんだよ。誰かが、手を汚さなきゃならないんだ」
 はあー、と佐藤が深いため息をつくと、北山が皆を励ますように言った。
「じゃ、始めようか」

この描写なども、なかなかたのし(笑)
臨場感あります。
しか〜し、エロくない!エロくないぞー!
笠井潔先生に対しての肉体的あるいは、精神的欲望が感じられない!
おつきあい程度のカンシンなのでは?
「健全なミステリ業界を作るため・・・」という下心が不純じゃ!(コホン!)

もっと、エロティシズムを!
もっと、嘗め回すような肉体の描写を!
もっと、精神のいたぶりを!

・・・ということで(笑)。

さすがはAOIさま 投稿者:Keen@爆笑  投稿日: 9月10日(金)11時36分29秒

もっと、エロティシズムを!

うーん、見事なご指摘!確かに私も「ファウストの夜」を読んで、何か物足りないような気はしたのですが、AOIさまのカキコで納得しました(笑)。
うん、「