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討論・笠井潔をめぐって(1) ◆
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◇ 以下にご紹介するのは、作家であり評論家である笠井潔をめぐる討論(?)です。「討論」という言葉の後に「?」マークを付したのは、以下にご紹介するものが、必ずしも明白な形での「討論」という形式をとってはおらず、時には「対話」であり、時には「論文」という形をとって、形式にこだわらない形で進行生成したものだからです。
◇ なぜ、このような特殊な形式のものになったのかと言えば、それはもともとこの「討論」(仮に「討論」と呼んでおきましょう)が、「なりゆき」上、自然に生成したものだからです。
◇ この「討論」は、私が黒猫館館長氏のサイト『黒猫館』の掲示板「黒猫掲示板」に、私が、笠井潔とは無関係な論文について、宣伝の書き込みをしたことに端を発します。この論文の感想を下さったはらぴょん氏が、私と同様、笠井潔に強い興味を持っておられたことから、話題はしだいに笠井潔の方へと移行してゆき、このページをまとめた現時点(2004/6/23)では、討論は前記「黒猫掲示板」において随時進行中です。
◇ 現時点(2004/6/23)でこの討論をこのような形でまとめた理由は、「黒猫掲示板」で進行中の討論の「発端から経緯」を俯瞰しやすくするためです。「黒猫掲示板」で進行中の討論の理解の用に供するとともに、討論の記録を正確に残す場所として、このページは作られました。
◇ なお、進行中の討論については、随時このページの末尾に収録していく予定です。
※ 「黒猫掲示板」が、 2004年7月21日より休止となったため、討論の場所は、アレクセイの管理する掲示板「アレクセイの花園」へと移されました。(2004/7/23)
※ 「黒猫掲示板」は、 2004年7月24日に、管理人を更迭して再開されましたが、討論はそのまま「アレクセイの花園」において続行されます。(2004/7/27)
2004年6月23日
2004年7月23日(改訂)
2004年7月27日(改訂)
文責・アレクセイ(田中幸一)
01. 2004/06/06 〜 06/17(001 〜 046)
02. 2004/06/17 〜 06/26(047 〜 092)
03. 2004/06/26 〜 07/06(093 〜 137)
04. 2004/07/07 〜 07/16(138 〜 179)
05. 2004/07/16 〜 07/26(180 〜 226)
06. 2004/07/26 〜 08/04(227 〜 270)
07. 2004/08/04 〜 08/10(271 〜 314)
08. 2004/08/11 〜 08/25(315 〜 353)
09. 2004/08/26 〜 09/11(354 〜 396)
10. 2004/09/11 〜 09/21(397 〜 430)
11. 2004/09/24 〜 10/22(431 〜 464)
12. 2004/10/26 〜 11/29(465 〜 499)
13. 2004/12/05 〜 12/30(500 〜 529)
14. 2005/01/02 〜 01/18(530 〜 571)
15. 2005/01/00 〜 00/00(572 〜 000)
16. 2005/00/00 〜 00/00(000 〜 000)
17. 2005/00/00 〜 00/00(000 〜 000)
18. 2005/00/00 〜 00/00(000 〜 000)
19. 2005/00/00 〜 00/00(000 〜 000)
20. 2005/00/00 〜 00/00(000 〜 000)
(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5) 書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。
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リンク
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投稿タイトル | 投稿者 | 投稿日時(2004年) |
| わが胸に受け継がれし魂 | アレクセイ | 6月 6日(日)03時26分58秒 | |
| なぜか、ドラキュラ | はらぴょん | 6月 7日(月)21時54分26秒 | |
| 実はボクはまだ20代に(…) | 黒猫館館長(…) | 6月 8日(火)01時58分15秒 | |
| 潜伏する異論 | アレクセイ | 6月 9日(水)00時20分50秒 | |
| 表出する……異論? | Keen | 6月 9日(水)14時09分52秒 | |
| 「伝奇」の終焉と「新伝綺」のはじまり | はらぴょん | 6月 9日(水)15時47分57秒 | |
| ナディアといえば不思議の海の… | はらぴょん | 6月10日(木)22時37分34秒 | |
| インフォメーション | はらぴょん | 6月10日(木)23時52分1秒 | |
| 「男どうしの友情」受難の時代 | アレクセイ | 6月11日(金)14時55分46秒 | |
| 不在の敵と見えない敵 | アレクセイ | 6月11日(金)15時12分15秒 | |
| 日本的構築と空虚としての中心(1) | はらぴょん | 6月11日(金)20時37分28秒 | |
| 日本的構築と空虚としての中心(2) | 6月11日(金)20時38分7秒 | ||
| 日本的構築と空虚としての中心(3) | 6月11日(金)21時44分34秒 | ||
| 個人的な、かくも個人的な | はらぴょん | 6月11日(金)22時07分42秒 | |
| 終わらない議論の果てで | はらぴょん | 6月11日(金)22時22分33秒 | |
| 真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(1) | アレクセイ | 6月12日(土)00時19分32秒 | |
| 真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(2) | 6月12日(土)00時22分8秒 | ||
| 真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(3) | 6月12日(土)00時24分15秒 | ||
| 真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(4) | 6月12日(土)00時25分15秒 | ||
| 真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(5) | 6月12日(土)00時26分13秒 | ||
| 無神論と反有神論 | はらぴょん | 6月12日(土)20時58分14秒 | |
| ドストエフスキーとニヒリズムの問題 | はらぴょん | 6月12日(土)21時25分25秒 | |
| 「すへてよし」の名のもとに | はらぴょん | 6月12日(土)23時02分58秒 | |
| 似て非なるもの? | アレクセイ | 6月14日(月)17時01分10秒 | |
| 生きられる思想として(1) | アレクセイ | 6月14日(月)19時59分19秒 | |
| 生きられる思想として(2) | 6月14日(月)20時00分22秒 | ||
| 生きられる思想として(3) | 6月14日(月)20時01分17秒 | ||
| 生きられる思想として(4) | 6月14日(月)20時02分16秒 | ||
| お願い | アレクセイ | 6月14日(月)20時30分17秒 | |
| 昏い天使をめぐって | はらぴょん | 6月14日(月)20時45分24秒 | |
| 天使になること | はらぴょん | 6月14日(月)21時19分31秒 | |
| 謎と幻惑と、一本の薔薇を | はらぴょん | 6月14日(月)21時59分17秒 | |
| 『ふたりエッチ画集・ゆらゆら』ゲット。(…) | 黒猫館館長(…) | 6月15日(火)02時06分42秒 | |
| 訂正 | はらぴょん | 6月15日(火)06時20分11秒 | |
| 笠井潔と<天使>のアポリア(1) | はらぴょん | 6月15日(火)21時49分24秒 | |
| 笠井潔と<天使>のアポリア(2) | 6月15日(火)21時50分5秒 | ||
| 魂の原点に還るということ | はらぴょん | 6月16日(水)06時03分35秒 | |
| なぜか、特撮系 | はらぴょん | 6月16日(水)06時18分2秒 | |
| 笠井潔と<天使>のアポリア(3) | はらぴょん | 6月16日(水)22時05分58秒 | |
| 私を衝き動かすもの(1) | アレクセイ | 6月17日(木)14時20分29秒 | |
| 私を衝き動かすもの(2) | 6月17日(木)14時22分4秒 | ||
| 私を衝き動かすもの(3) | 6月17日(木)14時23分3秒 | ||
| 私を衝き動かすもの(4) | 6月17日(木)14時26分3秒 | ||
| 私を衝き動かすもの(5) | 6月17日(木)14時27分16秒 | ||
| ご確認、その他。 | アレクセイ | 6月17日(木)15時46分9秒 | |
※ 書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって「黒猫掲示板」の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
(※ 「アレクセイの花園」では「編集」機能は、採用されておりません)
★ 黒猫館館長さま
こちらでは、ごぶさたしております。
『仮面ライダーSPIRITS』(原作 石ノ森章太郎・漫画 村枝賢一、講談社) に触発されて、私なりの「仮面 ライダー論」を書きました。
この論文は、現在の世界情勢を背景に、私の個人的な思いを語ったもので、「仮面 ライダー論」としては、かなり異色の、私にしか書けない種類のものになっていると思います。
こちらの掲示板には、特撮マニア、仮面ライダーマニアの方も大勢出入りなさっているとお聞きしておりますので、できれば同世代の仮面 ライダーファンに読んでもらいたいと、論文の宣伝をさせていただきに参上いたしました。
「変なのみたいだけど、ちょっと読んでみるか」という奇特な方がいらしたら、どうぞご笑読のほど、よろしくお願いいたします。
論文のタイトルは、
「仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」
です。
・『仮面ライダーSPIRITS!〜わが胸に受け継がれし魂』を読みました。読んで思ったことは、アレクセイさんは現役のファイターだなぁ、ということと、ではお前はどこにいるのか、ということです。
『仮面ライダーSPIRITS!〜わが胸に受け継がれし魂』で、現代の仮面ライダーの条件として、悪と戦うことといわずに、、『弱者のため』『みんなの(幸福・平和の)ため』に戦うとした点に共感を覚えました。なぜなら、古今東西、戦争肯定論者は、正義の名のもとに大量 虐殺を肯定するのですし、この論説で書かれている匿名の名のもとに卑劣な自己責任論を展開する人も、自身の主張を正義と考えているからです。
抽象的な善悪の前に、それによりどれだけの人が傷つき、死んでゆくかということを考える想像力が必要だと考えます。
・ファイターという言葉を書きながら、ふと、いつもファイターでありたいと書いていた作家・批評家を想起しました。(なんて遠まわしな言い方なんだ!)『象徴としてのフリー・ウェイ』の帯には、そんな言葉が印象的に書かれていました。しかし、あのころ挑戦者であった彼も、現在は守る側なんですよね。
・近日中に、この作家・批評家のドル箱的作品であった『ヴァンパイヤー戦争』の講談社文庫版が刊行されます。今回は、はっきり言って武内崇(TYPE-MOON)のイラストだけが楽しみです。(だって、この本、角川ノベルズ、角川文庫、作品社愛蔵版と何度も購入して、ストーリーはだいたい頭にはいってますから。)未完成のシリーズものが多い彼の作品の中でも、これは最後まで完成しており、彼の可能性と限界を読み取るには最適のテクストといえると思います。で、薔薇十字制作室SIDE B
http://acephale.e-city.tv/
のBBSにて、講談社文庫版の刊行前に、各巻の読み解きをすこしづつ進めていこうかと考えている次第。(このBBSのアドレスは、teacupでは書き込みできません。)とりあえず、今月刊行予定の第一巻と第二巻に関するコメントは掲載済みです。
・まぁ、中身は判っている『ヴァンパイヤー戦争』は、どうでもいいのですが、以前ここでも紹介した奈須きのこ(TYPE-MOON)の『空の境界』(講談社ノベルズ)がそろそろ出ますので、これは未知の愉しみです。愛蔵版は、発表と同時に完売だったようです。まぁ、これも吸血鬼の話ですが。
アレクセイさん>
どうもお久しぶりです。^^/
御論文興味深く拝読させていただきました。ご投稿ありがとうございます。
いきなり本題からそれるようで恐縮ですがわたしもまた「変身ヒーロー番組」
というものはいったいなんのために存在し、そのテーマはなんであり、また
いつの時代でも人々を魅了し続けるのはなぜか?という素朴かつ究極の難問
を絶えず胸にいだいてきました。なぜ「彼ら」は毎週戦わなくてはならない
のか?そしてなぜクウガの次はアギト、アギトの次は龍騎、龍騎の次は55
5と「彼ら」の戦いは決して終わることがないのか?・・・この難問に対す
るヒントが今回のアレクセイさんの御論文で提示されている気がします。
アレクセイさんの提示する「失われた理想」、なぜ日本人は理想を失ったの
か?という問題をわたしなりに考えれば日本における「哲学の不在」が考え
られます。大抵の日本人は「哲学」と聞くと不愉快な顔をします。また哲学
科卒業の学生の就職が難しいこと、年々縮小されていく高等学校の「倫理」
の科目の枠(リセで哲学が「必修科目」とされているフランスと対照的です
ね)など日本人はますます哲学から遠ざかろうとしているようです。徳川時
代は朱子学、陽明学が官学とされ、町人の間でも論語の「素読み」が行われ
ていた事実を考えると現代の日本人は徳川時代よりも後退している気がしま
す。
そんな哲学不在の日本という国に発生した「特撮ヒーロー文化」これはまさ
に現代の日本において哲学の代理的機能を果たしているとわたしは考えるわ
けです。子供が始めて出会う「ドラマ」といわれている「戦隊シリーズ」が
もうなんと28年も続いているという驚異的な事例からわたしは子供が「戦
隊シリーズ」から人間の生きるうえでの基本的なことを唯一教えてくれる場
所であると考えます。なにも教えてくれない親、「道徳」の授業を潰して、
名門中学受験のための自習の時間にしてしまう小学校、そんな殺伐とした環
境のなかで子供は「戦隊シリーズ」から「仲間と協力する心」「仲間と協力
して困難を打ち破る心」を学ぶのではないでしょうか?これは「社会」の構
成員として絶対に必要な心だと思います。しかし人間というものはいつまで
でも仲間と一緒に居られるわけではない、いやむしろ孤立無援の存在として
「一人で孤独に戦わなくてはならない時」がくるという恐怖を子供から思春
期を迎える時期に誰もが突きつけられるとわたしは思います。
そんな時に「この恐怖に充ちた社会」とひとり孤独に戦う「人生の先輩」と
して「仮面ライダー」が現れる、そのようにわたしは考えます。
アレクセイさんの「仮面ライダースピリッツ」は
(1) 弱者のために、無償で、自らの危険をかえりみず戦う心
(2) 数を恃まず、独りでも戦う心(志を同じくする者を仲間とする)
(3) 自分一個の復讐心のためではなく、みんなの(幸福・平和の)ため
戦う心
ですがこれをわたしなりに解釈しますと(1)は人間としての基本的なあり
方、(2)は自分という人間を「修める」心(孤独と内省の習慣)、(3)
は社会における人間のあり方、(復讐主義による悪意の連鎖を断ち、平和で
幸福な社会を築こうとする意志)であるように思えます。
宮内洋氏が「ヒーロー番組は教育番組である」という名言を残していますが
わたしもまさにそう思います。そして現代では30代以上の大人もヒーロー
番組を競ってみる時代、これは理想を喪失した大人たちが再び理想をもとめ
始めている前兆であるのかもしれません。「大人たちよ、仮面ライダースピ
リッツを思い出せ!!」とわたしはやや過激ではありますが現代社会の主翼
を担っている30〜40代の層に檄を飛ばしたいのです。
それではまた。
編集済
潜伏する異論 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月 9日(水)00時20分50秒
★ はらぴょんさま
> 「仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」
> ・『仮面ライダーSPIRITS!〜わが胸に受け継がれし魂』を読みました。読んで思ったことは、アレクセイさんは現役のファイターだなぁ、ということと、ではお前はどこにいるのか、ということです。
ご感想、ありがとうございました。ご指摘のとおり、私の論文の眼目はそこにあります。つまり「自分はどうだろう?」と自己を顧みる契機を、この論文からつかみ取っていただくというのが、私の願ったことなんです。
「こんな時、仮面ライダーなら?」という問題意識を持ってほしい。つまり「超自我」=「倫理機制的審級」としての「仮面 ライダーSPRITS」を、多くの人に思い出してほしい。子供の頃に持っていたはずのそれを、取り戻してほしいと思ったんです。
> 新装版『ヴァンパイヤー戦争』
表紙で売ろうというのが見え見えの「便乗商法」ですね。まあ、笠井さんとしては「読んでもらえさえすれば、今の若者にもきっと喜んでもらえるはずだ」ってことなんでしょうけど、それにしても売り方が、さすがは『文の商人』というべきか。編集部ではなく、ご本人が立てた戦略だってのも、見え見えですもんね(笑)。
★ 黒猫館館長さま
拙論へのご感想、ありがとうございました。
> アレクセイさんの提示する「失われた理想」、なぜ日本人は理想を失ったのか?という問題をわたしなりに考えれば日本における「哲学の不在」が考えられます。
今月の新刊で、勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』(ちくま新書)というのが出ています。私は書店で手に取っただけなので、詳しい内容は知りませんが、「元来、思想や哲学など必要としない庶民の立場から、はばをきかせる思想や哲学の傲慢を批判した」本のようですね。
この人は、それなりに反骨心のあった人なのですが、『まれに見るバカ』(洋泉社新書)などといった著書では、反骨のつもりが「俗情との結託」となってしまっていて、今回のも「知に、劣等感(と反発感)をもった人たち」の支持を当て込んだ「俗情との結託」本になっているみたいですね。私は読むつもりはないのですが、館長さま、真っ向から対立する意見ですので、一度お読みになられてはいかがでしょうか。
ともあれ、実際のところ私の論文は、かなり多くの人を「嫌な気分」にさせるもののはずです。ですから、反発も含めて、そういう意見も読んでみたいというのが、私の希望なんですが……無理なんでしょうねえ−(笑)。
ではでは。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm
表出する……異論? 投稿者:Keen 投稿日: 6月 9日(水)14時09分52秒
☆アレクセイさま
> 「仮面ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」
を読んで……
「なにを見ても男の友情(?)に読みかえる」
(※三浦しをん『夢のような幸福』(大和書房)より引用)
私の趣味をご存知の方ならば、もうこれ以上の言葉は不要でしょう。
しかし、インターネットは不特定多数の方々がアクセス可能なものですから、少々解説致しますね。
論旨自体は、アレクセイさまが常日頃おっしゃっていることなので、私にとっては目新しいものではありませんでした。いかにも彼らしい主張だな、というところです。
しかし、本文中に引用された『仮面ライダーSPIRITS』の一場面は、本郷猛と滝和也のプラトニックな「男の友情」に満ちあふれておりました!保身や損得勘定といった、欲得ずくの利害関係などカケラもない、これは真実のプラトニック・ラブです!ああ、なんと美しい……(T-T)
>ともあれ、実際のところ私の論文は、かなり多くの人を「嫌な気分」にさせるもののはずです。ですから、反発も含めて、そういう意見も読んでみたいというのが、私の希望なんですが……無理なんでしょうねえ−(笑)。
アレクセイさまの論文は、私を「幸せな気分」にさせてくれました。ですが、こういう意見は読むまでもなく……バレバレなんでしょうねえー(笑)。
☆黒猫さま
「変身ヒーロー番組」についてのご考察、大変感じ入りました。
しかし、残念な事実もお伝えせねばなりません。小さな男の子の母である私の友人から聞いた話しなのですが、彼女の息子は「戦いのシーンになったら、呼んでー」と言って、ドラマ部分では他のことをして遊んでいるのだそうです。制作者サイドが「教育番組」を意図して練り上げたであろうキャラやストーリーの設定には目もくれず、「戦闘シーン」だけを楽しんでいる。ヒーローたちがなぜ、何のために戦っているかを知ろうともせず、アクションや武器のカッコ良さだけに憧れ、マネしているのだと。
これはひとえに、最近のライダーシリーズが必要以上に難解になってしまっていることの弊害だと思います。「大人に思い出させる」ことも大切ですが、本来の主役である子供たちにも伝わり易いメッセージを、と願います。編集済
☆アレクセイさま
>「超自我」=「倫理機制的審級」としての「仮面ライダーSPRITS」
「超自我」という言葉を見て、私はサルトルの『言葉』のなかの一節を喚起しました。
「私は<超自我>というものを持たなかった。」
サルトルは幼くして父親を亡くしており、そうであるがゆえに<超自我>による「〜はしてはいけない」という倫理的禁止命令を持たなかったということです。
そこで、サルトルは自ら倫理を定め、選択し、それに従って生きたわけです。<超自我>のない彼には、自らの選んだ倫理が正しいかどうかを判定してくれるものはなく、常に不安に満ちた実存的選択となるわけですが。
私にとって<超自我=スーパー・エゴ>とは、神であり、専制君主であり、家父長制の父であり、象徴秩序であり、要するに打倒するべき敵にあたります。
「仮面ライダーSPRITS」に該当する部分があるとすれば、<無意識=エス=イド>のアナーキーにこそ、であると考えます。
細かなことですが、異論好きとお見受けしましたので。
さて昨日、奈須きのこ著『空(から)の境界』(上・下)(講談社ノベルス)を入手しました。上下二巻ともに、笠井潔の評論が載っており、上巻では80年代伝奇小説の通 史を、下巻では『空(から)の境界』の評価を行っていました。
上巻で展開されている論理は、おなじみのもので、80年代の伝奇小説(自身の『ヴァンパイヤー戦争』を含めて)が、
(1)山窩(サンカ)小説と関連があったこと。
(2)偽史と関連があったこと。
を挙げています。
(1)に関しては、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』、三角寛のサンカ小説が資料源となるでしょう。笠井のコムレ・サーガにみられる縄文民族解放闘争の考えは、要するに吉本隆明の「共同幻想」の外部を実体化し、そこから天皇制という日本的システムを覆そうとする試みであり、柄谷行人の批判的な表現を使えば「ウラ日本史観」です。
(2)ここでいう偽史とは、竹内文書、九鬼文書、宮下文書、上記、秀真伝、東日流外三郡誌、小谷部全一郎著『成吉思汗は源義経也』、酒井勝軍著『太古日本のピラミッド』、山根キク著『キリストは日本で死んでいる』等のトンデモ本を指します。
ここで注目すべき点は、80年代伝奇小説は、昭和天皇の死の頃より、時代背景の変遷とともに、ジャンル的に廃れていったということを、当時の当事者であった笠井自身が認めている点です。
下巻の解説は、『空の境界』自体の論評なのですが、現在上巻しか読んでおりませんので、論評の論評はまた後日ということにします。
ここで、論点を変えて、今回『空の境界』を講談社が、「新本格」と対になるような「新伝綺」というキャッチコピーをつけていることに注目してみましょう。無論、これは商売戦略上の言葉ですが、編集者が80年代「伝奇」と、これから売り出そうとしている「新伝綺」のちがいをどうとらえているかが判り、興味深いものがあります。
<80年代伝奇は峻別された“日常”と“非日常”の逆転をカタルシスとする物語構造を持っていたがゆえに冷戦構造下の二極化した世界で隆盛を極め、冷戦の崩壊とともに必然的に没落していった。
ひるがえって、ゼロ年代の現在は、隣の国の核ミサイルも遠い国からやって来たテロリストも日本転覆を企む宗教結社も小学生を惨殺するクラスメイトも“たった今”僕たちのすぐ隣に確実に存在する。今やそれ以前の“日常”は“非日常”と、“非日常”は“日常”と溶け合って成立している。そういった、90年代以降に訪れた新しい現実を前提としたゼロ年代以降のための新しい伝奇小説、それが“新伝綺”です。>(講談社「メール・マガジン・ファウスト」 第19号より抜粋)
例えば『ヴァンパイヤー戦争』は、KGBやCIAを相手に、主人公九鬼と吸血鬼一族、そしてコムレ一族が戦うということで、当時ウケたわけですが、それを支えていた冷戦構造が終焉したため、せいぜい<『空の境界』の著者が読んでいた作品>としての評価しか得られないと考えられます。旬を過ぎた作品ということです。
講談社の『ヴァンパイヤー戦争』の広告自体が、それを示しています。
<『空の境界』の誕生を用意した、80年代伝奇を代表するあの記念碑的傑作>
つまり、『ヴァンパイヤー戦争』は、伝奇ジャンルでの<超自我>、踏み倒されるべき権威的な<父>と化しているということなのでしょう。編集済
それはそうと、今度の『ミステリーズ』(東京創元社)のリレー小説で、笠井氏はナディア・モガールを登場させ、一連の矢吹駆シリーズをフランスで出版された作者ナディア・モガールのミステリーであると受け取れる記載をしています。
これまた『天啓の器』と同じで、大文字の作者を消すための伏線なのでしょうか。
(注)天啓シリーズについては、以下の記載が詳しい。
http://d.hatena.ne.jp/sanatoli-natith/20031213
正典・解説・偽典と……あるわけですね(笑)。編集済
・講談社から『講談社オフィシャルファイルマガジン 仮面 ライダー』が出ましたね。
http://shop.kodansha.jp/bc/comics/rider/
・週間わたしのおにいちゃん(誰だ、<わたおに>ときいて、「渡る世間は鬼ばかり」を連想したのは。)は、現在「とらのあな」とかに山積みになっています。私はなんば店で見ました。買い逃した方はどうぞ。
http://www.wata-oni.net/
・キューティーハニーSMFCは、4と5を入手したのですが、なかなか売ってないです。コンプリートは難か。
http://www.bandai.co.jp/candy/products/2004/20971.htm
ところで、このキューティーハニーですが、見所はハニーがコバルト・クローを倒す際に、憎しみでは救われないことを知るシーンと、ラストでシスター・ジルと対決し、人間を超えた(生死を超越した)存在となることを拒否するところではないかと思います。ああ、特撮って勉強になるなぁ。
「男どうしの友情」受難の時代 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月11日(金)14時55分46秒
★ Keenさま
> 「仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」
> 「なにを見ても男の友情(?)に読みかえる」
> (※三浦しをん『夢のような幸福』(大和書房)より引用)
>
> 私の趣味をご存知の方ならば、もうこれ以上の言葉は不要でしょう。
> アレクセイさまの論文は、私を「幸せな気分」にさせてくれました。ですが、こういう意見は読むまでもなく……バレバレなんでしょうねえー(笑)。
まったく(ハア)。Keenさんの趣味を知っている私としては「予想したとおり」でした(ハア)。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm
不在の敵と見えない敵 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月11日(金)15時12分15秒
★ はらぴょんさま
> 「仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」
>>「超自我」=「倫理機制的審級」としての「仮面ライダーSPRITS」
> 「超自我」という言葉を見て、私はサルトルの『言葉』のなかの一節を喚起しました。
> 「私は<超自我>というものを持たなかった。」
> サルトルは幼くして父親を亡くしており、そうであるがゆえに<超自我>による「〜はしてはいけない」という倫理的禁止命令を持たなかったということです。
> そこで、サルトルは自ら倫理を定め、選択し、それに従って生きたわけです。<超自我>のない彼には、自らの選んだ倫理が正しいかどうかを判定してくれるものはなく、常に不安に満ちた実存的選択となるわけですが。
> 私にとって<超自我=スーパー・エゴ>とは、神であり、専制君主であり、家父長制の父であり、象徴秩序であり、要するに打倒するべき敵にあたります。
> 「仮面ライダーSPRITS」に該当する部分があるとすれば、<無意識=エス=イド>のアナーキーにこそ、であると考えます。
> 細かなことですが、異論好きとお見受けしましたので。
ご意見ありがとうございます。おかげで面白いことに思い至りました。
問題は、なぜ私が今ここで『「超自我」=「倫理機制的審級」としての「仮面ライダーSPRITS」』を日本人に求めたのかということです。
はらぴょんさんは、
> 私にとって<超自我=スーパー・エゴ>とは、神であり、専制君主であり、家父長制の父であり、象徴秩序であり、要するに打倒するべき敵にあたります。
とのことですが、これは、かつて「神」を殺そうとした(ニーチェなどの)西欧の知識人の立場そのままです。彼らには「キリスト教の神」というのが、避け難い倫理規範、絶対的権威として存在していました。だから知的に自由たらんとすれば、彼らは「神との対決」を避けられなかった。
その点、サルトルがアンガージュマンなどであらたな「倫理」の必要を訴えたのは、「神」が殺された後の荒廃した西欧精神世界にあって、彼自身も「神」を持たず、あらたな「倫理」の構築が急務と思えたからでしょう。
しかし、本邦は、西欧的な意味での「神」、つまり「絶対的で権威的な、厳格な倫理規範としての神」は存在せず、「八百万の神」すなわち「遍在する神」としての「世間(の目)」が、外在的倫理として機能してきました。つまり「他人の目」を内面 化した「恥の文化」のなかで生きてきたということです。
ところが、現代社会は「匿名性」の社会ですから「他人の目」が届かない部分が拡大し、「恥の文化」が失効しはじめてきました。日本における「匿名ネット掲示板」の低劣さは、その象徴的事例であろうと思います。
つまり、一般に今の日本人には「殺すに値するような倫理規範」つまり「(殺すに値するような)超自我」は存在しない、というのが私の意見なのです。だからこそ私は『「超自我」=「倫理機制的審級」としての「仮面 ライダーSPRITS」』を持とうと、平易なかたちで「初歩的なこと」を訴えたんですね。
はらぴょんさんは、ご自身の「超自我」を『神であり、専制君主であり、家父長制の父であり、象徴秩序であり、要するに打倒するべき敵にあたります。』と書かれていますが、実際問題として「厳格な信仰」や「対決すべき国家」や「抑圧的な父(親や家)」や「意にそわない秩序に巻き込もうとする力(世間)」をそれほどまでに強く感じておられるでしょうか? 感じておられるのなら、それとの対決は(かつての西欧知識人がそうであったように)避けられないものだと思うのですが、いかがでしょうか?
今の日本人には、あまりにも「厳格な父」としての倫理が失われています。つまり「欲望を肯定せよ」という資本の論理によって、すべての欲望が自堕落に肯定されています。そんな社会において、「打倒すべき倫理」などというものが、はたして本当に存在するのか。実際のところそれは、「欲望を肯定せよ」という現状を支配する資本原理によって刷り込まれた「現状誤認」ではないのか、とそう考えたのでした。
私の印象としては「絶対的で抑圧的な倫理」と戦おうとする者には「絶対的に個人的な倫理」が存在します。つまり、大勢に流され順応する日本人には、もとより「神殺し」は不可能だったと思うのです。それは、いまだに「天皇制」が延命されていることにも明らかなのではないでしょうか。
日本的構築と空虚としての中心(1) 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月11日(金)20時37分28秒
アレクセイさま
すこぶる興味深い議論になってきましたね。
まず、議論を整理しましょう。
(1)フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と宣言したのは、自身が神になること。神の裁きから完全に自由となることであった。
(2)ニーチェ以降のフランスの実存主義者、その典型的な例としてのジャン=ポール・サルトルの場合、神は死んだのでなく、はじめからいないのであり、人間は自由の刑を処せられた存在である。したがって、人間は神のように、自らの道を選択する自由と責任が生じることになる。
(3)さらに時代が下って、ポスト構造主義のドゥルーズ=ガタリは、「神の裁きと訣別 するため」のアントナン・アルトーを引用しながら、器官なき身体を説く。器官なき身体の反対語は、神によって組織化された身体なので、これまた絶対的な自由を意味する。
(1)から(3)は、西欧的な構築への反逆と要約できる。まず、原型は、キリスト教の神への反抗であり、それが変奏されて、教条主義的な道徳主義への反抗や、全体主義や専制主義への政治的反抗になってゆく。
>しかし、本邦は、西欧的な意味での「神」、つまり「絶対的で権威的な、厳格な倫理規範としての神」は存在せず、「八百万の神」すなわち「遍在する神」としての「世間(の目)」が、外在的倫理として機能してきました。つまり「他人の目」を内面 化した「恥の文化」のなかで生きてきたということです。
アレクセイさまの指摘は、日本には西欧と異なる日本的な構築があるということです。これと同じ議論を、私は目にしたことがあります。その人は、こんな意味の主張をしていました。
(1)安部公房や倉橋由美子の前衛的なスタイルの文学は、カフカのものまねである。カフカには神を殺すという必要性があったが、彼らにはその必要性がない。なぜなら、日本には絶対的な神が不在だからである。カフカの苦悩を形だけまねる彼らの文学を評価しない。
(2)ドゥルーズ=ガタリの議論を輸入しようとしたポスト・モダニスト、例えば浅田彰は、自分をネクラのパラノとしたが、日本には日本的構築というものがあり、西欧とは異なる天皇制というシステムがある。日本的構築の本質は、対人恐怖症であり、構築らしい構築をしないことにある。西欧と比べると、はるかにねちっこく、陰湿である。これに対して、スキゾでは対抗できない。むしろ、パラノ、言い換えれば本格的な構築の意志こそが武器となりうる。
これらは、『宝島別冊』や『ORGAN日本・不可視のシステム』や『ポストモダニズム批判』で、笠井潔が展開していた議論です。よりによって笠井潔葬送派のアレクセイさまの中に、笠井的なものを見てしまったというわけです。
日本的構築と空虚としての中心(2) 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月11日(金)20時38分7秒
しかしながら、笠井が批判しようとした浅田にも、日本的構築批判が存在します。これは「朝日ジャーナル」に掲載された「マンダラを破れ、パリで語った日本」です。
浅田は、まず、ルイ・アルチュセールの「国家と国家のイデオロギー装置」を引用しながら、超コード化社会を説明します。
上位のメタレベルに、神=専制君主=父(大文字のS、Sは主体を示す)があり、臣下(小文字のs)に向かって呼びかけます。次に、臣下同士が呼びかけあいます。最終的に、臣下が自身に向かって、呼びかけます。こうして、自己が自己を監視し、フーコーのいう「奇妙な経験的二重体」(二重体とは自己を視る自己というわけです。)が出来ます。これにより、権力のシステムが貫徹します。
最初に述べたニーチェから始まる神への反逆は、この大文字のSへの反逆です。
しかし、アルチュセールの権力論は、西欧的構築についての議論です。
日本的構築について、浅田は日本には天皇制というシステムがあり、バルトが「表徴の帝国」で皇居について語った言葉「空虚な中心」を引用します。
西欧ならば大文字のSがあるところに「空虚な中心」があるというわけです。
次に浅田は、日本的構築をモデル化しようとします。黒板に大きな円を描き、その円の中に小さな円を三つ描きます。で、小さな円のそれぞれに、さらに一回り小さな円を三つ描きます。これが、マンダラ・モデルであり、小さな円の中に、全体の設計図が組み込まれており、全体として予定調和が保たれているというのです。
マンダラ・モデルは、一時期はやったニュー・サイエンス、特にその源流であるアーサー・ケストラーの『ホロン革命』を想定しています。ホロン(全体子)のもとをたどると、ライプニッツのモナド(単子)に行き着きます。モナドロジーは、観念論であり、スピノザに源流を持つマテリアリスムと鋭く対立します。
これに対し、傍聴者のひとりが反論します。「マンダラはそもそもマハー・バイロチャナが…」と。これに対し、浅田は「あなたはマンダラについて語っておられる。よろしい。お好きなように。ただし、私はマンダラには興味がない。私が関心があるのは、マンダラが持つイデオロギー的隠蔽効果 にある。」と。
そして、浅田は日本的構築(マンダラ的予定調和のヴィジョンに隠蔽された天皇制というシステム)の下に、ノマドロジー(遊牧論)を置き、マンダラ的予定調和のヴィジョンのもとにリゾーム的な多種多様な生成が抑圧されているとして、これを切り裂く革命的戦争機械となることを説くわけです。
日本的構築と空虚としての中心(3) 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月11日(金)21時44分34秒
例えば、ジョルジュ・バタイユの場合、神に反逆するスタンツにおいて、ほとんど神を保持しているわけです。バタイユは、どこまでも「反・有神論」であって、「無神論」には成りえないわけです。
それと同様に、ほとんど構築らしい構築がなされていない日本に対して、戦略的に本物の構築をぶつけることは、逆説的に構築への意志に加担するのではないか。それならば、いっそのこと異常なほどに、徹底した反構築をぶつけた方が、ストレートでいいのではないか、と考えます。
確かに日本には、絶対者に相当するものはいないのですが、それでも抑圧的なシステムは存在します。日本人の心性を考えるために、例をあげると、第二次世界大戦後、日本人は「戦争はこりごりだ」と考え、世論調査などでも軍備拡張を望まない人が多かったにもかかわらず、時の政府が軍備拡張をすると「まぁ、仕方ない。」といっては、ずるずると来たわけです。そして、今度は多国籍軍参加です。そうなると、命令系統が多国籍軍のトップから来るわけで、自衛隊の独自性はほとんどなくなるわけです。第二次世界大戦の直後と比較するなら、日本人は妥協に妥協を重ね、ほとんど当初の願いと正反対になっているにもかかわらず、「まぁ、仕方ない。」を言うわけです。物事を徹底的に考えることなく、なぁなぁでゆくのが、日本的な原抑圧ではないか、と思います。そして、このシステムは、社会の頂点から、末端の会社組織にいたるまで見られる特色です。
これは、母性的ともいえる抑圧といえるかもしれません。天皇制の本質は、文化的天皇制(歌により文化的に世を統べる)にあり、これは母性的な抑圧といえます。ただし、明治期から第二次世界大戦末までは、これに富国強兵を主眼とする男性的な専制君主的抑圧が重なります。
個人的な、かくも個人的な 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月11日(金)22時07分42秒
しかし、超お堅い文章だこと。自分で自分がうんざりするほどです。
どうも自分の性格は、エッセネ派の生まれ変わりのようなところがあって、異様に厳格で禁欲的になってゆく傾向があります。トルストイの『人生論』なんかを幼少のころ読んで、内面 化してしまったせいかもしれません。これを読むと、人間の生物的・動物的なところが、嫌になります。
さらに言葉の方も、小学生の頃から、カントがどうのこうの、シェリングがどうのこうのといっていました。(卒業文集にも、カントの言葉が書かれてあったりして、ぞっとするほどです。<あなた自身の人格ならびにすべての人の人格において人間性の品位 を尊敬しなさい。そして、その人格を常に目的として用い、決して手段として用いてはならない>)カントの場合、どうも感性で得られる世界を侮蔑し、軽視しているところがあって、理性で徹底的に批判し、吟味しないと信用してはいけないという雰囲気です。
こういう事柄で、心の中がいっぱいになると、成績は下がるし(学校で習わない特定科目だけ詳しくなるわけです)、愉しい青春が台無しになるわけです。
たぶん、現在、反逆的な哲学や、犯罪的な文学に没頭しているのは、自分のそういう部分を破壊したいからなのでしょう。
こんな奴は、日本中を探しても、私一人くらいなので、あまり人の指針にはなりません。
終わらない議論の果てで 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月11日(金)22時22分33秒
収拾がつかなくなったついでに……。
竹本健治の『ウロボロス』シリーズに対抗する笠井潔の『天啓』シリーズの位置というものは、かつてのニュー・アカデミズム(ポスト構造主義日本版)に対する『<戯れ>という制度』の位 置の再現であり、笠井葬送は、ポスト構造主義的立場からなされるべきだというのが、私の立場です。
アレクセイさまの笠井潔葬送の立場というのは、文壇政治批判という理解でいいでしょうか。(思想的な差異はあるかどうかが知りたいのです。)
真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(1) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月12日(土)00時19分32秒
★ はらぴょんさま
> 日本的構築と空虚としての中心(1)(2)(3)
面白く拝見しました。
> アレクセイさまの指摘は、日本には西欧と異なる日本的な構築があるということです。これと同じ議論を、私は目にしたことがあります。その人は、こんな意味の主張をしていました。
> これらは、『宝島別冊』や『ORGAN日本・不可視のシステム』や『ポストモダニズム批判』で、笠井潔が展開していた議論です。よりによって笠井潔葬送派のアレクセイさまの中に、笠井的なものを見てしまったというわけです。
というご指摘は、まったく正しい。と申しますか、私は以前から「もっとも古い笠井潔ファンであり、日本一たくさん、矢吹3部作を持っているコレクター」だと言っているんですが、最近の私しか知らない人は、もしかすると私が熱烈な笠井潔ファンであったことを知らないかもしれませんね(笑)。
私の笠井潔批判(葬送)とは、一言で言えば「昔の笠井潔が、今の笠井潔を批判する」というものです。その典型が「文学賞による権威配分システムを批判した笠井潔による、文学賞による権威配分者になった(変節した)笠井潔を批判する」という形式ですね。
「昔の笠井潔が、今の笠井潔を批判する」というのは「真の(あるべき)笠井潔が、偽の(現にある)笠井潔を批判する」ことだとも言い換えられます。つまり、笠井潔批判(葬送)をしようとする私の立場とは、とりもなおさず「昔の笠井潔=真の笠井潔」であり、「今の笠井潔=偽の笠井潔」が読者の前に描き出した「笠井潔という幻想(=笠井潔の理論)」にあるのです。笠井潔は、自分の紡ぎ出した「幻想」によって、いま逆襲されているということなんですよ。
( 以下は「真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(2)」につづく)
真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(2) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月12日(土)00時22分8秒
ちなみに、私ははっきりと記憶しておりませんが、笠井潔が、
> (1)安部公房や倉橋由美子の前衛的なスタイルの文学は、カフカのものまねである。カフカには神を殺すという必要性があったが、彼らにはその必要性がない。なぜなら、日本には絶対的な神が不在だからである。カフカの苦悩を形だけまねる彼らの文学を評価しない。
> (2)ドゥルーズ=ガタリの議論を輸入しようとしたポスト・モダニスト、例えば浅田彰は、自分をネクラのパラノとしたが、日本には日本的構築というものがあり、西欧とは異なる天皇制というシステムがある。日本的構築の本質は、対人恐怖症であり、構築らしい構築をしないことにある。西欧と比べると、はるかにねちっこく、陰湿である。これに対して、スキゾでは対抗できない。むしろ、パラノ、言い換えれば本格的な構築の意志こそが武器となりうる。
と言っているのなら、たしかに笠井潔らしい発言だなとは思いますが、私はこの意見を支持しかねます。
つまり、原則としての「さるまねではダメだ」という考えは支持しますが、「先達に学ぶ」のは良いことだと考えますし、個別 の事例としての『安部公房や倉橋由美子』に対する笠井潔の『カフカのものまねである。カフカには神を殺すという必要性があったが、彼らにはその必要性がない。』は、ほとんど決めつけで無根拠だと考えます。
平たく言ってしまえば、笠井潔は自身にとって「目の上のたんこぶ」的な存在については、しばしばこのような形で独断的に否定しますし、逆に同じ『さるまね』でも、自身に利すると判断された場合は精一杯持ち上げるのを辞しません(奈須きのこ『空の境界』など)。
つまり、笠井潔は自身が示した「原理原則」に対し、いたって不誠実な人間で、それを私は「笠井潔は批評家ではなく、党派理論家である」と言明しているのです。
笠井潔のこうした「得手勝手さ」は(2)にもハッキリと現われております。笠井潔の言う、
> 日本的構築の本質は、対人恐怖症であり、構築らしい構築をしないことにある。西欧と比べると、はるかにねちっこく、陰湿である。これに対して、スキゾでは対抗できない。むしろ、パラノ、言い換えれば本格的な構築の意志こそが武器となりうる。
というのは、結局のところ「自分の好みの押しつけ」に過ぎませんし、現に今の笠井潔がやっている「文壇政治」はイヤになるほど「情実」にうったえる「日本的」なものです。
つまり「パラノにはパラノを」という趣味的な意見を「面白い」とは思いますが、笠井潔は他人を否定してまでうったえた自己の主張を、自身あっさりと裏切ってしまう、不実な人間なんですね。だからこそ、私は「かつての笠井潔ファン」として、「見苦しく延命する笠井潔」を責任をもって葬送しようと考えるのです。
ちなみに、この『延命』という言葉も、笠井潔が良く使う(かつて良く使った)言葉として意識して使っていますし、『自堕落』というのも同じです。
昔の笠井潔は『自堕落』な『延命』をする権威者を批判しましたが、今は自分が権威者になって、今度は自身が『自堕落』に『延命』を謀っているんですね。かつてのファンとしては、尊敬した笠井潔にこれ以上「生き恥」を曝してほしくないということなのですよ。
( 以下は「真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(3)」につづく)
真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(3) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月12日(土)00時24分15秒
> 例えば、ジョルジュ・バタイユの場合、神に反逆するスタンツにおいて、ほとんど神を保持しているわけです。バタイユは、どこまでも「反・有神論」であって、「無神論」には成りえないわけです。
> それと同様に、ほとんど構築らしい構築がなされていない日本に対して、戦略的に本物の構築をぶつけることは、逆説的に構築への意志に加担するのではないか。それならば、いっそのこと異常なほどに、徹底した反構築をぶつけた方が、ストレートでいいのではないか、と考えます。
私は本質的に「無神論」というのはありえないと考えます。「キリスト教の神(やその他の宗教上の神)」が実在しないという意味での「無神論」ならありえますが、そうした「神」を否定する根拠としての「理性」や「現実」「自然」「民族」「血」「国家」といったものまでも、ある種の「神」だと考えるならば、個別 の「反・有神論」はありえても、「無神論」はありえない。人間、何らかの「神」を持っているものだからです。はらぴょんさんも、
> 原型は、キリスト教の神への反抗であり、それが変奏されて、教条主義的な道徳主義への反抗や、全体主義や専制主義への政治的反抗になってゆく。
と紹介しておられますとおり、人間における「神」とは必ずしも「宗教上の神(仏)」という形では現れないんですね。ですから、我々が「宗教」だけを問題としているのでなければ、「反・有神論」としての「無神論」でしかありえないし、それで充分なんだと思います。
( 以下は「真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(4)」につづく)
真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(4) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月12日(土)00時25分15秒
> それと同様に、ほとんど構築らしい構築がなされていない日本に対して、戦略的に本物の構築をぶつけることは、逆説的に構築への意志に加担するのではないか。それならば、いっそのこと異常なほどに、徹底した反構築をぶつけた方が、ストレートでいいのではないか、と考えます。
この部分には、やや混乱があるのではないでしょうか。
『ほとんど構築らしい構築がなされていない日本』とは、つまり「非・構築な、日本」ということでしょう。その「非・構築」な日本に『本物の構築』をぶつけることも『構築への意志に加担する』ことになる、というのは当然のことですし、それは「非・構築」の悪しき部分を是正するために「構築」を利用することでしかないのですから、何ら問題はないと思います。
はらぴょんさんの言い方では、「構築(への意志)」への加担が、前提的に間違いであるかのように聞こえますが、そんなことはないと思います。問題は、「構築」の教条化であり「神」化で、「構築への意志」そのものではない。
「構築」に対して「構築」をぶつけるのは、「宗教上の神」に「理性という神」をぶつけたのと同じで、後者の「神」の存在自体は否定されないけれど、それをして最終的には『構築への意志』に『加担する』ものとして否定すべきなのか。私は、より完全なるもの(神)を目指して(構築への意志)、「神どおし」をぶつけあうことは、間違いではないと思います。同様に「非・構築」の「神」に「反・非・構築」の「神」として「構築」をぶつけるのも、間違いではないと思います。
はらぴょんさんは、ここで『ほとんど構築らしい構築がなされていない日本に対して』は『いっそのこと異常なほどに、徹底した反構築をぶつけた方が、ストレートでいいのではないか』と書かれていますが、ここに言う『徹底した反構築』は「徹底した非構築」のこと(言い違い)ではないでしょうか。
前記のとおり、はらぴょんさんはここで、「非・構築に構築をぶつけること」すら『構築への意志に加担する』ものとして否定しているのですから、その後で言う『徹底した反構築』とは「徹底した構築をぶつける」ということではありえず、おのずと「非・構築」には「徹底した非・構築をぶつける」という意味になると思うんです。
しかし実際のところ、『異常なほどに』とか『徹底した』とかと、言うのは簡単ですが、実行は極端に困難でしょう。「異常なほどに、徹底した非構築」なんて、具体的なイメージすら浮ばないのではないでしょうか? それにおよそ「非・構築」とは「徹底」に無縁なものですしね。
したがって「非構築な日本」には「徹底した非・構築」をというのは、気持ちとしてはわからないでもないのですが、これは現実的には、単なる『自堕落』に流される公算が大きいように思われます。
ですから結論としては、「構築への意識」に薄く、おのずと打倒すべき「超自我」も育っていない日本においては、西欧的な「構築への意志」の「弊害」を恐れる必要はない(段階ではない)ので、「構築」の意志をもって、日本をうてば良いのではないかと、私は思うのです。
その意味では、「スキゾにはスキゾをではなく、日本的スキゾにはパラノを」という笠井潔の意見と似てくるんですが、私はスキゾ的闘争(としての逃走)というものを一概に「間違いだ」と否定したりはしません。ただ現実的には、パラノよりも、より困難だろうというだけのことなんですね。
ま、じっさい、浅田彰的・スキゾ的な闘争(=闘争)は失敗したわけですけれども、笠井潔的なパラノもより自堕落なスキゾに頽落するという形で失敗しているのですから、「融通 無碍な日本という、非・構築的なシステム」との対決方法は、「スキゾかパラノか」といった、硬直的に教条的なものであっては困難なのだとは思います。
( 以下は「真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(5)」につづく)
真に笠井潔的なるものは、反・笠井潔的である(5) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月12日(土)00時26分13秒
>> はらぴょんさんは、ご自身の「超自我」を『神であり、専制君主であり、家父長制の父であり、象徴秩序であり、要するに打倒するべき敵にあたります。』と書かれていますが、実際問題として「厳格な信仰」や「対決すべき国家」や「抑圧的な父(親や家)」や「意にそわない秩序に巻き込もうとする力(世間)」をそれほどまでに強く感じておられるでしょうか? 感じておられるのなら、それとの対決は(かつての西欧知識人がそうであったように)避けられないものだと思うのですが、いかがでしょうか?
> 確かに日本には、絶対者に相当するものはいないのですが、それでも抑圧的なシステムは存在します。(中略)これは、母性的ともいえる抑圧といえるかもしれません。
つまり、それは『抑圧的なシステム』ではあっても、「超自我」であり「厳格な倫理規範(=父)」ではない、ということですよね。その意味で、議論を起点に戻せば、日本人には打倒するに値する「超自我」が存在しない。それゆえに『母性的ともいえる抑圧』システムに易々と捕らえられてしまうのでしょう。
ですから、この日本において『抑圧的なシステム』と戦おうとすれば、それは、
> <超自我=スーパー・エゴ>とは、神であり、専制君主であり、家父長制の父であり、象徴秩序であり、要するに打倒するべき敵にあたります。
ということにはならないんだと思います。むしろ「(厳格な父としての)超自我」は、日本における『母性的ともいえる抑圧』システムの対抗軸として、必要なものなのではないでしょうか。
無神論と反有神論 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月12日(土)20時58分14秒
アレクセイさま
>もしかすると私が熱烈な笠井潔ファンであったことを知らないかもしれませんね
私の場合、『ウロボロスの基礎論』から得た知識で、熱烈な笠井ファンであることは存じ上げておりました。ただ、最近の評論で笠井葬送を宣言されているのを見て、なんらかの思想的齟齬が生じているのかな、と思っておりましたが、実は「笠井潔以上に、笠井的」であるために、最近の本格ミステリ作家クラブとか探偵小説研究会とかでの賞の分配による権威付けや党派的な活動を見ていて、その変節が耐えられなくなっているというわけですね。今回のご返答で、どのような立場におられるのか、理解しました。
まず、前回の「無神論」と「反・有神論」という用語の由来から説明しておきましょう。かつてのサルトルVSカミュ論争の記録は『革命か反抗か』として刊行されていますが、その際に、サルトルがカミュを評していった言葉が、君は「無神論」ではなく、「反有神論」であり、ありもしない神にいつも反抗しているのだ、ということです。
サルトルの場合は、即自存在で、かつ対自存在というものはありえない、神は空しく自己を失う、というわけで、はじめから神はいないと頭で割り切っているところがあります。
一方、カミュの場合、常に演劇的なモデルが頭の中にあり、絶対的肯定と絶対的否定がせめぎあっていました。そして、フランスの批評家は、作品の中に観念しか見ようとしないといって、いらだっていました。カミュの場合、激情型で、沈思黙考するときと、多弁なときと、相当波のある人だったようです。
つまり、おおざっぱにいえば、サルトルは理性の人であり、カミュは感情の人といえるかもしれません。
バタイユも感情の人であり、サルトル・カミュ論争の際は、カミュを擁護する文章を発表しています。バタイユとカミュを比較すると、カミュは悲劇的な感情が基調低音を成しているのに対し、バタイユはエロスと笑い(これは陰惨な主体を解体する笑いですが)が基調低音を成しているといえるかも知れません。編集済
ドストエフスキーとニヒリズムの問題 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月12日(土)21時25分25秒
『バイバイ、エンジェル』を読んだ際に、物語の終盤で、主人公の矢吹がふたりの青年と対話する場面 があります。青年たちはサルトルの『汚れた手』や、カミュの『正義の人びと』もどきのセリフを口にするのですが、矢吹は「ふん、サルトルか。」「今度はカミュか……。馬鹿馬鹿しくて話にもならん。」といいます。このシーンは、サルトルとカミュを読んできた私には、結構衝撃的でした。
矢吹は、人間は観念に憑かれ、観念に操られる存在であるという認識があって、実存主義や不条理の思想にみられる人間の主体的判断への信頼を批判したわけです。
しかしながら、この小説は、広義の実存主義文学という印象をぬぐえませんでした。
探偵小説と思想小説との融合というだけでなく、矢吹の「すべてよし」という言葉が、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフを連想させたからです。
キリーロフは、この世界に神は存在しない、しかし神なしに人は生きられない、という考えから、自分が神になろうとします。で、すでに神がいないということは、すでに自分が神であるからだと考えます。そして、彼は「すべてよし」とつぶやき、世界の人々に自分が神であることを告知するために自殺を企てるわけです。
しかし、ここで腑に落ちないのは、ドストエフスキーにとって、スタヴローギンも、キリーロフも、シャートフも、克服すべきニヒリストと捉えられていることです。
矢吹連作は、作者の成長とともに進行する教養小説ですから、いつかはこのキリーロフの部分を超えることが必要ではないか、と考えます。
仮に、それを達成し得ない場合、この小説は<悪霊>が主人公であったことになるのではないでしょうか。編集済
「すへてよし」の名のもとに 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月12日(土)23時02分58秒
ソルジェニーツィンの『収容所群島』や、連合赤軍事件に直面 することにより、ふたつの立場が成り立ちます。
(1)フランスの新哲学派(ヌーヴォー・フィロゾフ。『メートル・パンスール』『料理女と人喰い』のアンドレ・グリュックスマン、『人間の顔をした野蛮』のベルナール・アンリ=レヴィら。)や、日本のマルクス葬送派(『テロルの現象学』の笠井潔ら。)のように、ロシア型マルクス主義の論理的必然的帰結が、収容所群島であり、テロリズムであるとし、反マルクス主義を取る立場。
(2)ロシア型マルクス主義を否定しつつ、テロリズムに帰結しない別な形の革命、ないしオルタナティヴな変革を探求する立場。『マルクスの亡霊』を書き、郵便的脱構築を図るジャック・デリダや、『マルクスの偉大さ』を執筆プランに載せ、非権力的なリゾームの可能性を探求するジル・ドゥルーズらのポスト構造主義の流れや、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『<帝国>』などのポスト・マルクス主義の流れ。
笠井の場合、観念により観念を浄化する集合観念論や、『ユートピアの冒険』における電光石火的な革命、さらにはアナルコ・キャピタリズムといった代案(それが十分な代案であるとは思えませんが)がありますが、(1)の立場で代案を提出しない場合、現状肯定イデオロギーになってゆきます。
大昔、吉本隆明(笠井の師匠格にあたる)が『「反核」異論』という本を出したことがありました。これは、大江健三郎らが参加した文学者による核兵器反対の声明への異論です。それは、反核兵器の運動は、ソ連よりの認識の土台に立っているので、賛同しないというものです。
吉本の場合、当初マルクスの読み直し(共同幻想といった幻想領域を批評で扱うときには、下部構造は無視できる)からはじまり、高度消費社会の実現による生活感覚に基づき、形而上学的な思想から転向する軌跡を送ったわけで、(1)の先駆的人物といえなくもないと考えます。
『「反核」異論』は、アメリカだけでなく、ソ連も含めた完全な反核兵器の立場を許容する含みを持たせていますが、かといって自分がそれをするわけではなく、実際は単に当時の反核兵器の運動を拒否するに留まるものでした。
どうも、ロシア型マルクス主義を拒否するあまり、結局なにもしない方向(「すべてよし」)にいっている印象を受けたものでした。
これは、『サマー・アポカリプス』を論ずるための前ふりです。矢吹はここでシモーヌ・ヴェイユと髣髴とさせる女性活動家と対決し、目の前に原子力帝国を作り、権力を手に入れようとする男がいるが、これを殺せば貴方の神は死ぬ し、殺さずに見逃しても貴方の神が死ぬとして、「すべてよし」を言わせようとします。しかし、これに対し、彼女は驚くべき脱出口を見つけるわけですが、それはさておき、矢吹的立場ですと「すべてよし」の名のもとに様々な暴力が容認されてしまうわけです。それじゃいかんだろう、と思うのです。たとえば、以下のURLを見て「すべてよし」とは、とても言えません。編集済
似て非なるもの? 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月14日(月)17時01分10秒
★ 黒猫館館長さま
> キルビル観たいが貸し出し中
『キルビル』は、好き嫌いの分かれる「おバカなアクションおたく映画」です。つまり、必ずしも一般 受けはしません。それでも『part1』がそれなりに入ったのは、この映画がなんとなく「オシャレな映画」だと一般 に勘違いされたからなんでしょう。その結果『part2』の方は、かなり厳しい結果 だったみたいですね。私も早々の打ち切りで見逃した『part2』はビデオで観るつもりなんですが、いずれにしろ黒猫館館長さまならば、それなりに楽しんでいただけるんじゃないかと思います。
> しかしいつのまにか「友情」が「愛情」に変わらないかちょっと心配だったりする・・(^^;;)
黒猫館館長さまも、Keenさんと同じ「そっち方面の人」だったのですか! 私はまた、そういう趣味は影姫さまだけかと思っていたのですが、似た者夫婦だったのですね……(-_-;)。
> 「哲学者の顔」に関心があったわけですが・・・
今日、両親が茶の間でテレビドラマを観てて、それを横からのぞいていて気がついたことがありました。
――埴谷雄高と植木等は似ている。
生きられる思想として(1) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月14日(月)19時59分19秒
★ はらぴょんさま
> 無神論と反有神論
サルトルとカミュとバタイユのお話、たいへん勉強になりました。専門用語に馴れていないので、わかりにくい部分もありましたが、おおむね理解できたと思います。
私は、この3人の中ではカミュに近いかもしれません。
> サルトルの場合は、即自存在で、かつ対自存在というものはありえない、神は空しく自己を失う、というわけで、はじめから神はいないと頭で割り切っているところがあります。
> 一方、カミュの場合、常に演劇的なモデルが頭の中にあり、絶対的肯定と絶対的否定がせめぎあっていました。そして、フランスの批評家は、作品の中に観念しか見ようとしないといって、いらだっていました。カミュの場合、激情型で、沈思黙考するときと、多弁なときと、相当波のある人だったようです。
カミュの『フランスの批評家は、作品の中に観念しか見ようとしない』という意見は、とてもよくわかります。もし、サルトルが『即自存在で、かつ対自存在というものはありえない、神は空しく自己を失う、というわけで、はじめから神はいないと頭で割り切って』いたとしたら、当然、カミュの葛藤の重さが理解できなかったでしょう。けれども、結局はその種のサルトル的「理性」が、「運動」の中で、自分の「理想」をも裏切らざるを得ない場所に、サルトル自身を連れていくんですよね、笠井潔もそうであったように。
よく世間では「条理を尽くす」と言いますけれども、当然のことながら、「情」と「理」は切り離されたものではありません。ですから、「情」を「理性」と無関係なものと切り離すような「理性」は、必ずや「情」の報復をうけるものです。しかし「理性」が自慢の人は、なかなかこれに気づかない。そもそも「情」が切り離せるという考え方自体が、個人的な「情」から出ていることが、なかなか自覚できないんですよね。
で、サルトルにとっての「神」も、この「情」のようなものだったんじゃないでしょうか。だから「情」と格闘しているカミュの態度が、「情」に振り回されているだけに見えたんではないか。でも、「情」に鈍感なればこそ、サルトルは一見おちついていられた。でも、それはそれで、「情」によって振り回されている状態の「一形態」だとも言えるのではないでしょうか。
( 以下は「生きられる思想として(2)」につづく)
生きられる思想として(2) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月14日(月)20時00分22秒
> ドストエフスキーとニヒリズムの問題
ニヒリズムの超克という問題は、笠井潔の存在に関係なく、私自身の重要仮題です。私のハンドルネームも、ドストエフスキーが、ニヒリズムを超えたところの「希望」として描こうとしたアレクセイ・カラマーゾフに由来しておりますからね(もうひとつの由来は、中井英夫の『虚無への供物』)。そして、私とドストエフスキーの共通 点は「信仰にたいする、アンビバレンツな感情」です。そして、そうした解きがたい難問の中心にいるのが、アレクセイ・カラマーゾフなんです。
> キリーロフは、この世界に神は存在しない、しかし神なしに人は生きられない、という考えから、自分が神になろうとします。で、すでに神がいないということは、すでに自分が神であるからだと考えます。そして、彼は「すべてよし」とつぶやき、世界の人々に自分が神であることを告知するために自殺を企てるわけです。
> しかし、ここで腑に落ちないのは、ドストエフスキーにとって、スタヴローギンも、キリーロフも、シャートフも、克服すべきニヒリストと捉えられていることです。
「神はいない。しかし、人々は神なしには生きられないのだから、神に代わるべき神を立てよう」というのは、現実的なものとして、しばしば試みられることのようです。たとえば、小林よしのりは、自己の存在意義を求めて社会的な運動に参加しその目標を達成すると、新たな依存対象を求めるがごとくして、政治運動組織に取り込まれていった、自立できない日本の若者たちを見て、そうした「(大衆的)中心」の不在と必要を痛感し、そこに「国家」という「神」を据えようと考えたようです。
けれども私は、「無いものは無い」んだし「間違いは間違い」なんだから、その現実をそれぞれがきちんと直視する努力をして、「それなりにやっていくしかない」と考えます。
もちろん『それなり』にやるとは、大抵の人が何らか(国家や信仰など)の「神」にバラバラに帰依している状態を「当面 は、しかたなく承認して、やっていく」ということでもあります。つまり、現状が理想的なものだとは思わないし、それを支持するつもりもないけれども、ひとまずはそんな現状に立って、よりよきところを目指すほかはない、という方法論です。
逆に言えば、「神」に代わるものなんて、そんなに簡単には立てられっこないし、立てられたとしたらそれはとても「危険なもの」となるでしょう。マルクス主義哲学は「疎外の三形態」として「神・国家・資本」と言ったほどで、新たに立てられる「神」とは、新たな「疎外」の形態に他ならないんですからね。
> 矢吹連作は、作者の成長とともに進行する教養小説ですから、いつかはこのキリーロフの部分を超えることが必要ではないか、と考えます。
> 仮に、それを達成し得ない場合、この小説は<悪霊>が主人公であったことになるのではないでしょうか。
まったく同感です。笠井潔の「矢吹シリーズ」を『キリーロフの部分を超えること』を目指した『作者の成長とともに進行する教養小説』だと思ったから、私は「当然、シリーズの結末は決まっていない」と考えていたんです(※ 拙稿「バイバイ、矢吹 駆」乞参照)。でも、笠井さんがそんなことを考えていたかどうか、いまはいささか疑問ですね。最近の矢吹駆は、作者同様、あまりにも自己肯定的に過ぎるように感じます。
で、その結果としての最近の笠井潔の言動を見れば、『<悪霊>が主人公であったことになる』公算は非常に高いと思います。すでに「矢吹シリーズ」は、笠井潔にとっての「商用看板」であり、唯一の「ドル箱」に成り果 てておりますからね。
( 以下は「生きられる思想として(3)」につづく)
生きられる思想として(3) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月14日(月)20時01分17秒
> 「すへてよし」の名のもとに
> ソルジェニーツィンの『収容所群島』や、連合赤軍事件に直面することにより、ふたつの立場が成り立ちます。
> (1)フランスの新哲学派(ヌーヴォー・フィロゾフ。『メートル・パンスール』『料理女と人喰い』のアンドレ・グリュックスマン、『人間の顔をした野蛮』のベルナール・アンリ=レヴィら。)や、日本のマルクス葬送派(『テロルの現象学』の笠井潔ら。)のように、ロシア型マルクス主義の論理的必然的帰結が、収容所群島であり、テロリズムであるとし、反マルクス主義を取る立場。
> (2)ロシア型マルクス主義を否定しつつ、テロリズムに帰結しない別な形の革命、ないしオルタナティヴな変革を探求する立場。『マルクスの亡霊』を書き、郵便的脱構築を図るジャック・デリダや、『マルクスの偉大さ』を執筆プランに載せ、非権力的なリゾームの可能性を探求するジル・ドゥルーズらのポスト構造主義の流れや、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『<帝国>』などのポスト・マルクス主義の流れ。
> 笠井の場合、観念により観念を浄化する集合観念論や、『ユートピアの冒険』における電光石火的な革命、さらにはアナルコ・キャピタリズムといった代案(それが十分な代案であるとは思えませんが)がありますが、> (1)の立場で代案を提出しない場合、現状肯定イデオロギーになってゆきます。
> 笠井の場合、観念により観念を浄化する集合観念論や、『ユートピアの冒険』における電光石火的な革命、さらにはアナルコ・キャピタリズムといった代案(それが十分な代案であるとは思えませんが)があります
これもまったく同感です。笠井潔の「代案」は、「お話」としてはそれなりに面白くはあるものの、所詮は「フィクション」の域を出るものではありません。個人的な趣味に偏しただけの「現実性が皆無な代案」など、思想家の責任ある代案だとは言えないでしょう。多くの思想家が簡単に代案を示せないのは、笠井潔のごとく「浅瀬を渡る」ことに、無責任さを感じるからでしょう。
その意味で、笠井潔は「思想家(批評家)的に過ぎる小説家であり、小説家的に過ぎる思想家(批評家)」なんでしょうね。だから「一般 」受けはするけれども、「玄人筋」からは相手にされないんでしょう。
ともあれ、私としては(1)と(2)の立場の「どちらが正しい」などと言う気はありません。
「我が心の師」大西巨人は「真正マルクス主義者」として、『収容所群島』や「連合赤軍事件」の問題は、マルクスの考えが歪められたがゆえのものであり、言葉の本来の意味での「マルクス主義理論」のせいではないという立場を採っていますが、私は「どんな理論だって、誤解される側面 はある」ということで、ごく一般に理解されている「マルクス主義」の問題を徹底的に剔抉しようとする(1)の立場は、とても大切なものだと思っております。
しかし、笠井潔に見られるように、この立場には「理論」批判中心主義的な偏向が強く感じられます。つまり、どんな理論にもつきまとう「人間的な部分」つまり「情」の部分まで、「理論」に発するものだと見てしまう(転倒した)部分があるように思うんです。これはサルトルの「理性」信仰と同じで、「理論」を観念的に偏重し過ぎているんだと思います。
その意味で、「理論」を「修正」できると現実的に考える(2)の方が、現実への対応としては手堅いのではないでしょうか。
つまり、はらぴょんさんもご指摘のとおり、理論的完全主義の(1)は、その性格どおり、まともな「代案」など、まず立てられはしないし、
> (1)の立場で代案を提出しない場合、現状肯定イデオロギーになってゆきます。
ということに、現になっていると思うんですよね。その典型が、自らが批判した「文壇政治屋」に成り果 てた、笠井潔その人なんです。
( 以下は「生きられる思想として(4)」につづく)
生きられる思想として(4) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月14日(月)20時02分16秒
> 『「反核」異論』は、アメリカだけでなく、ソ連も含めた完全な反核兵器の立場を許容する含みを持たせていますが、かといって自分がそれをするわけではなく、実際は単に当時の反核兵器の運動を拒否するに留まるものでした。
> どうも、ロシア型マルクス主義を拒否するあまり、結局なにもしない方向(「すべてよし」)にいっている印象を受けたものでした。
> これは、『サマー・アポカリプス』を論ずるための前ふりです。矢吹はここでシモーヌ・ヴェイユと髣髴とさせる女性活動家と対決し、目の前に原子力帝国を作り、権力を手に入れようとする男がいるが、これを殺せば貴方の神は死ぬ し、殺さずに見逃しても貴方の神が死ぬとして、「すべてよし」を言わせようとします。しかし、これに対し、彼女は驚くべき脱出口を見つけるわけですが、それはさておき、矢吹的立場ですと「すべてよし」の名のもとに様々な暴力が容認されてしまうわけです。それじゃいかんだろう、と思うのです。たとえば、以下のURLを見て「すべてよし」とは、とても言えません。
『「反核」異論』での吉本隆明の主張は、その思想的潔癖性においては大いに共感できるのですが、はらぴょんさんのご指摘どおり、その現実的効果 には問題があるように思います。
ですから、私としては、一人の人間のなかに(1)と(2)の立場、つまり「理」と「情」の立場が葛藤状態として常に設定されているべきで、それこそが本当の「理性」だと思うんです。で、それが結果 として、妥協的なものになるか、そうならないかは、結局は「個人の資質」によるんだと思います。
『サマー・アポカリプス』における「すべてよし」の問題は非常に重い。しかし、この問題について私は――やや好意的解釈に過ぎるかも知れませんが――、これをはらぴょんさんのようには理解していません。
> 矢吹的立場ですと「すべてよし」の名のもとに様々な暴力が容認されてしまうわけです。
ここです。つまり、「すべてよし」というのは、『様々な暴力』も含む「人間の負の側面 」をも含めて「人間存在を肯定する」ということだと、私は思うんです。また、そこにしかニヒリズムを乗り越える契機はないのではないでしょうか。
『『様々な暴力』も含む「人間の負の面」をも含めて「人間存在を肯定する」』というのは、決して『様々な暴力』を容認するということではないと思うんです。それは容認できないけれど、それが容認できないからといって、それから解放され得ない「人間存在」までも容認しないということにはならない、という立場。そういうものがあり得ると私は考えますし、矢吹 駆の「すべてよし」というのも、少なくとも私は、そういうものとして理解してきたんです……が、もちろん作者にとってもそうであったという保証はなく、だからこそ私はこの解釈を、「ファン」ゆえの『好意的解釈』かも知れないと留保をつけるのです。
『カラマーゾフの兄弟』のラストで、アレクセイ・カラマーゾフが「大地」にキスをします。私は、ここに、この「血塗られた大地」をも人間のために祝福しようという「すべてよし」の思想の象徴を見るのです。
お願い 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月14日(月)20時30分17秒
★ 黒猫館館長さま・はらぴょんさま
拙稿「仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」の紹介に端を発した議論を、主に、はらぴょんさんのご協力のおかげで、現代史における思想的難問という側面 からの「笠井潔をめぐる諸問題」に関する実りある対話へと育て上げることができたように思います。
そこで、この議論が一段落すれば、これを私の方でコンテンツとしてまとめ、うちのサイトにアップしたいと考えているんですが、いかがなものでしょうか?
私の上記論文紹介の書き込み(6/6)から以降を収めることとし、私の議論に直接関係のないものだけを最低限除外して、なるだけ原型をとどめる形でまとめたいと考えます。
今のところこの計画は、お二人とKeenさんにご許可がいただければ、私の構想どおりのものになると思います。どうぞ、ご許可のほど、よろしくお願いいたします。
昏い天使をめぐって 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月14日(月)20時45分24秒
アレクセイさま
ものすごく深いテーマになってきましたね。特に、
>『『様々な暴力』も含む「人間の負の面」をも含めて「人間存在を肯定する」』というのは、決して『様々な暴力』を容認するということではないと思うんです。それは容認できないけれど、それが容認できないからといって、それから解放され得ない「人間存在」までも容認しないということにはならない、という立場。そういうものがあり得ると私は考えますし、矢吹 駆の「すべてよし」というのも、少なくとも私は、そういうものとして理解してきたんです
という言葉には、なるほどそういう読み方があったのかと、眼からうろこが取れる思いでした。
そういえば、ドストエフスキーの作品に、「すべてよし」ということは、殺人という究極の悪をも含めて、人間のすべてを肯定しようとすることであり、全く罪もないちっちゃな女の子の頭を、鈍器で殴り、脳漿が飛び散るような世界も含めて、完全に肯定することであるが、このように人間が完全に自由であるということを、キリストの下に知っているものは、決してそのようなこと(殺人)をしないであろう、というくだりがあり、この部分を椎名麟三がエッセイの中でしきりに評価しているのを思い出しました。
椎名麟三は、マルクス主義者から、ニーチェ主義者となり、最終的にキリスト者になった人物であり、ドストエフスキーやキルケゴールのうちに人間の救済の可能性を探求しました。
ただ、『サマー・アポカリプス』で矢吹がシモーヌ・リュミエールを追い詰めるとき、彼は死神のような相貌をしているわけです。神を信じない矢吹の「すべてよし」は、悪魔的ともいえるでしょう。
別の例をあげて考えてみましょう。笠井潔の『黄昏の館』の中に、『昏い天使』という小説(作中作)がでてきますが、この小説では、ジュリエットという昏い天使が、主人公の日本青年に「自分の命を賭金にした愛他的行為」と「暴行、強奪、殺人という呪われた犯罪行為」という善悪の両極端を命じる、とあります。つまり、ジュリエットは善悪を超えた聖性を持っているというわけです。しかし、この天使は昏い……。
ドストエフスキーは、キリストのもとに、このことを知っているならば、と留保をつけましたが、『黄昏の館』の著者は、キリストのもとに知っているわけではないから、なのでしょう。
『黄昏の館』という作品は、笠井潔が聖なるものに志向性を持つ宗教的人間であることを証明しているように思います。しかし、彼はなにかを信じているわけではないのです。(このことは否定的な意味で言っているのではありません。)
笠井潔と天使の問題は、『薔薇の女』などの作品を参照しながら、さらに検証する必要があります。なぜなら天使は、道を求めて彷徨う矢吹駆の一筋の啓明だからです。編集済
天使になること 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月14日(月)21時19分31秒
『薔薇の女』は、ジョルジュ・バタイユをモデルとするジョルジュ・ルノワールという人物が出てきて、矢吹駆と<呪われた部分>や<エロティシズム>をめぐって議論をするわけですが、どうやら矢吹の関心は、ジョルジュ・ルノワールよりも、ジルベール・レヴィという人物に向かっています。
ジルベール・レヴィは、幼少から天使教育を受け、生前解脱者であったといいます。ジョルジュ・ルノワールとの対話も、ジルベールが本物の<聖としての聖>であることの裏づけのためにあるといって過言ではないでしょう。
ジョルジュ・ルノワールというか、バタイユは、<悪としての聖>を説きました。『呪われた部分〜普遍経済学の試み』は、太陽エネルギーの過剰供給により、生命力が異常に過剰となり、これを戦争・祝祭・交易などによって蕩尽することが説かれています。ここでは、善悪を超越したパワー崇拝があります。
しかし、矢吹の志向は、<悪としての聖>を超えて、<聖としての聖>に向かっているようなのです。矢吹の宿敵は、ニコライ・イリイチ・モルチャノフというニヒリズムの権化のような男なのですが、人々を踊らせ破滅に導くこの男を殺害すれば、矢吹自身が悪となるという『サマー・アポカリプス』で問題となったパラドックスが発生します。問題をクリアするためには、矢吹が生前解脱をし、<聖としての聖>にヴァージョン・アップする必要があるわけです。
しかし、ここで笠井潔は、目標とする生前解脱した天使を殺害します。読者のもとに差し出されるのは、かつて天使であったものの骸にすぎません。なぜなら、この矢吹連作は、作者とともに成長する教養小説であり、作者が生前解脱していない以上、生前解脱しているものを生きた姿で描き得ないから、です。(これと同じロジックが、『梟の巨なる黄昏』でも使用されます。笠井は『梟の巨なる黄昏』という『死霊』に比すべき作品を直接書かず、作中に登場する小説「梟の巨なる黄昏」として、その効果 だけを描くのです。)
問題は、この後『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』、「吸血鬼の精神分析」と続きながら、この天使の問題が封印されてしまったのか、顔を覗かせなくなったことです。たしかに、ハイデッガーも、フーコーも、(未完成なので断定は出来ませんが)ラカンも、重要なのですが、初期三部作と比べると魂の問題は、相当な迂回をし始めた印象をぬ ぐえません。小森健太朗氏が矢吹連作で、グルジェフをとりあげてくれないものか、と評していたのを想起します。まぁ、いきなりグルジェフでは、急激すぎますが。
謎と幻惑と、一本の薔薇を 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月14日(月)21時59分17秒
アレクセイさまへ
アレクセイさまのサイトへの転載に関しては、別に異存はありません。(しかし、そうだとすると手を抜けませんね。)
BBS「アレクセイの花園」でも、ホランドさまにこの掲示板での議論をご紹介していただいているようで、なんだか不思議な展開になってまいりました。
現在、楽古堂さまのサイトが、うちのサイト(薔薇十字制作室)の中にあることも含めて、奇妙な一致・微妙な違いがあるようです。
(1)「アレクセイの花園」にも薔薇があり、うちのサイトにも薔薇十字団の薔薇があります。「アレクセイの花園」の薔薇は、<薔薇への供物>の薔薇なのでしょうか。
(2)LIBRAには、アレクセイさまの笠井潔葬送宣言の評論があり、うちのサイトには黒樹龍思作『天啓の骸』という、これまた笠井潔葬送を目的とする悪意ある小説がある。(ただし、この葬送の意味合いは、異なっているようです。)
(3)はらぴょんもまた、はらぴょんの名前で少年回廊に登場することはない。
ところで、BBS「アレクセイの花園」のホランドさまは、
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575508470/250-0207282-1085060
に出てくる秋田県のホランドさまとは別人なのでしょうね。編集済
『ふたりエッチ画集・ゆらゆら』ゲット。きゃーーー^^!!優良さんス・テ・キ!!(2) 投稿者:黒猫館館長☆正体はETかも・・・ふふ 投稿日: 6月15日(火)02時06分42秒
アレクセイさん>『キルビル』はタランティーノが昔の日本映画の『修羅雪姫』
のリメイク(?)として作った映画のようですね。この『修羅雪姫』梶芽衣子
の名演技で同時代の『女囚701号さそり』などとともに人気を博していたよ
うですがわたしとしては上村一夫の原作の力も大きいと思いますね。上村一夫
はあまりにも有名な『同棲時代』やよりアングラ色の強い『密猟記』や『怨獄
紅』などで1970年代の大人気劇画家だったらしいですね。わたしとしても
上村一夫の劇画は林静一の抒情と石井隆の陰湿さ(←私的には誉め言葉です)
をたして2で割ったような日本的ドロドロの世界が気に入っています。『修羅
雪姫』は上村一夫の劇画のなかでもより反体制的色彩の強いかなり過激な作品
だった気がしますね。これならスキモノのタランティーノが夢中になるのも無
理はないと妙に納得しているわけです。
いや、わたしはホ○ではありませんが(^^;;)「ホ○」に理解のある人間
なだけです。ちなみに「S○」は完全に影姫の領域ですのでわたしはさっぱりわ
かりません。
はらぴょんさんとの御議論の部分はアレクセイさんのサイトに移しても大いに
結構ですよ。^^それでは〜。
訂正 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月15日(火)06時20分11秒
「なぜか、ドラキュラ」の項で、「まぁ、これも吸血鬼の話ですが。」は削除。
『空の境界』を3/4ほど読み進めていますが、まだ吸血鬼が出てこない。早とちりというわけです。似たような設定ですが『真月譚 月姫』とは違うようです。
笠井潔と<天使>のアポリア(1) 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月15日(火)21時49分24秒
『薔薇の女』(初出「野性時代」1982年)で、笠井潔はバルザックの『セラフィタ』やルドルフ・シュタイナーに言及しながら、生前離脱者としての天使への希求を語った、しかし、本書以降、笠井は<天使になること>について口を閉ざしてしまった。生前離脱者としての天使になることが、矢吹駆の魂の救済に繋がる唯一の道であるにもかかわらず。その結果 、矢吹駆は、未だ覚醒に至ることなく、現在時の地獄をリヒリストとして悪霊のように彷徨う。
ところで、笠井潔の論敵であった浅田彰や中沢新一は、まるで示し合わせたかのように<天使になること>について、さかんに語っている。
例えば、浅田彰の場合、島田雅彦との対談『天使が通る』(新潮社単行本1988年)において、ヴィム・ヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」について触れながら、「あの映画を観るとベンヤミンのことを思い出す」と語り、「実際、ベンヤミンにとっても天使というのは重要な存在だったわけです。彼は若いときにクレーの『新しい天使』に出会い、亡命生活の間もずっとそれを持ち歩いていたんですね。その<新しい天使>というのは、最初は破壊の天使として現われてくる。つまり、本当の可能性を見つけようと思ったら、世界の調和的な見かけを一ぺん破壊して、すべて廃墟にしてしまわなければならない。廃墟の中にあって初めて、わずかな隙間から光が射し込んでいるのが見つかるかもしれない、と。それを破壊を通 じての遡行といってもいい。ただしそれは、そこから調和的な全体が流れ出してくるような起源ではなく、そういう全体の見かけを打ち砕いたときに初めて見出される根源―Ursprungなんですね。」(新潮文庫版261-262ページ)
笠井潔と<天使>のアポリア(2) 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月15日(火)21時50分5秒
さらに、中沢新一の『雪片曲線論』(青土社単行本1985年)。ここに収録された「II la science Angelique」は、彼の天使論であり、次のように書かれている。「天使は男でも女でもない。両性具有者である。だがそれは、天使のなかにふたつの性が融合合体しているということを意味しない。天使はふたつの性をともどもに抜き去ってしまうのだ。けれど天使は身体を持ってこの世界に現われてくるのだから、その存在様式はとても奇妙なものになる。つまり天使は存在しているのでも非―存在でもない。存在と非―存在の「間」にすべり込んでいくような、精神の運動性のメタファーであると考えられるのだ。」(中公文庫版129ページ)
一体、日本のポスト構造主義(ニュー・アカデミズム)にとって、天使とはいかなるメタファーだったのか。ここで、まず再考する必要があるのは、笠井潔の主著『テロルの現象学』と日本のポスト構造主義(ニュー・アカデミズム)の関係である。その論考のためには、『<戯れ>という制度』が参照されるべきである。なぜなら、『<戯れ>という制度』には、蓮實重彦批判と浅田彰批判が展開されているからである。そして、この両者の関係を把握しながら、両者にとって天使とはなにか、が捉え直さねばならない。編集済
魂の原点に還るということ 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月16日(水)06時03分35秒
講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』第一巻の帯の推薦文は、奈須きのこ(『月姫』『空の境界』)によるもの。
『空の境界』の解説を笠井潔が行い、その笠井潔の著作を『空の境界』の著者が行い、『空の境界』の絵師が飾り付ける。
ここで、同人誌ルートから一般流通ルートに乗りたいものと、ゲーム・アニメ系の支持者を読者に取り込みたいものの利害が一致し、ひとつのループが完成する。
これらの解説も、推薦文も、見返りを期待しない贈与の一撃とは言えない。結果は予想されており、安定したループができ、ひとつのグループとして完成する。
しかし、帯のキャッチコピー「そのルーツを知れ。」
こんな帯を巻きつけられて、笠井潔よ、本当にいいのか。「そのルーツ」とは『月姫』や『空の境界』のこと。
笠井潔や竹本健治を読んできたという奈須の作品は、いわば笠井の<子>。
<子どもの七光り>、あるいは<月姫の月の残照に照らされて、その姿が浮かぶ>、そんな評価を版元にされて本当にいいのか。
自力で太陽のように輝く、あのファイターのスピリッツは、どこへ行ったのか。
どこかで間違えたのだ。出発点は良かった。たとえ、それが未完成で、満足いかない精神のレベルの表現であったとしても。
どこかで成長が止まり、どこかで成長の代わりの自己讃美が始まってしまった。
おそらくは自身を否定するものに、心を閉ざしたからだ。
笠井潔よ、もう一度、自身のルーツに帰れ。
そのためにならば、なんどでも斬り倒そう。ゾンビ・コマンドのような笠井自身がつくりだしたニセ笠井を。
そう、私はニセ笠井の殺戮者。死神なのです。
(注)それと同時に、死神同士がつるむのも良くない。それでは、現在の彼のやっていることと同じになる。各人が各人のやり方で、単独者として斬り込む。方法や意見の相違が生じたときは、死神同士で斬り合う。それでいい。
なぜか、特撮系 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月16日(水)06時18分2秒
ところで、講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』第一巻の解説は、笹川吉晴である。第二巻も同様。この調子で行くと、全巻笹川吉晴なのか。
ところで、笹川吉晴の解説には、次のような単語が頻出する。
『ウルトラセブン』、『アイアンキング』、『レインボーマン』、『怪奇大作戦』、『帰ってきたウルトラマン』、『人造人間キカイダー』、『仮面 ライダー』、『新造人間キャシャーン』、『無敵超人ザンボット3』……。
表紙と帯で、同人ゲーム系・アニメ系の人を引き込み、さらには解説で特撮系の人を取り込む……そういう作戦なのだろうか。
笠井潔と<天使>のアポリア(3) 投稿者:はらぴょん 投稿日: 6月16日(水)22時05分58秒
『テロルの現象学〜観念批判論序説』(作品社単行本1984年、ちくま学芸文庫1993年)は、マルクス主義による党派観念を集合観念により、内部から解体することを目的とする<マルクス葬送派>としての笠井の主著である。
マルクス葬送派とは、連合赤軍事件を契機に、マルクス主義は論理必然的にテロリズムを正当化する理論に行き着くという認識に至り、転向した人々を指す。この思想潮流は、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を契機に左翼思想から転向したかつてのフランス68年5月革命の元闘士たち(ヌーヴォー・フィロゾフ)の動きとパラレルに発生している。
活動家時代の笠井潔は、黒木龍思という名前で、いいだももの率いる新左翼のグループに属し、『拠点』、『構造』、『革命の武装』、『情況』といった理論誌に評論を掲載し、階級形成論や第三世界革命の可能性について論及していた。第三世界革命に論及すること自体が、革命論がゆきどまりに達し、どうしようもなくなっていたことを象徴している。(ちなみに、『ヴァンパイヤー戦争』に登場する九鬼鴻三郎もまた、当時の活動家名に由来している。)
フランスのヌーヴォー・フィロゾフとの差異は、日本には宇野派経済学があったことがあげられる。この精緻なマルクス主義理論により、逆説的に革命の不可能性が明らかになり、彼らは理論的必然性とは関係なしに革命の道を選択したといえる。
笠井潔のSF『巨人伝説』には、いいだももをモデルとした人物が、人喰いとして描かれる。これは、ヌーヴー・フィロゾフのアンドレ・グリュックスマンの『料理女と人喰い』を念頭に置いた戯画である。
しかし、マルクス主義への私怨を除けば、黒木龍思時代と何が変わったのだろう。黒木龍思の黙示録的で、浪漫的情熱に溢れた文体は、この人物が理論を語りつつも、決してクールではなく、思い込みと決め付けにとらわれやすい性格を示している。何も本質的なものは変わっていないのではないか、という疑惑が脳裏を掠めるのは私だけだろうか。
※次回は『テロルの現象学』の中身を検証します。
私を衝き動かすもの(1) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月17日(木)14時20分29秒
★ はらぴょんさま
> 謎の幻惑と、一本の薔薇を
> アレクセイさまのサイトへの転載に関しては、別に異存はありません。
ありがとうございます。
Keenさま、黒猫館館長さまにもご許可をいただきましたので、計画を進めさせていただきます。
ただ、黒猫館館長さまは『はらぴょんさんとの御議論の部分はアレクセイさんのサイトに移しても大いに
結構ですよ。^^それでは〜。』とのお言葉を下さってはおりますが、実際のところ『仮面 ライダー』を論じるのであればともかく、さらにこちらの掲示板で「笠井潔」を延々と論じ、板面 を覆うのは、ご迷惑なのではないのかと危惧されるのです。そこで、今後のこの議論に関しては、私のサイトの掲示板「アレクセイの花園」に移した方が良いのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか? ――この件については、再度、館長さまのご意向を確認した上で決めたいと思っております。
> BBS「アレクセイの花園」でも、ホランドさまにこの掲示板での議論をご紹介していただいているようで、なんだか不思議な展開になってまいりました。
> 現在、楽古堂さまのサイトが、うちのサイト(薔薇十字制作室)の中にあることも含めて、奇妙な一致・微妙な違いがあるようです。
『奇妙な一致』について3点挙げておられますが、これは特に『謎』でも『不思議』でもなく、単に「趣味」が似ている、ということでしょうね。端的に申しますと、「哲学趣味」とか「オカルト趣味」といったことです(笑)。
もちろん『微妙な違い』は、はらぴょんさんと私の「個性」の違いでしょう。例えば、「阪神タイガース」のファンには、当然のことながら「似たようなところ(性格・傾向)」が多々あります。が、その一方、個々が別 人であってみれば、当然のことながら性格も違えば個性も違う、というのと同じです。
> ところで、BBS「アレクセイの花園」のホランドさまは、
> http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575508470/250-0207282-1085060
> に出てくる秋田県のホランドさまとは別人なのでしょうね。
もちろん、別人です。うちのホランドくんは、大阪在住ですから(笑)。これも何の『不思議』もないことで、竹本健治ファンなら「ホランド」や「ナイルズ」といったハンドルネームを使ってみたくなるのは、当然の心情だと思います。
( 以下は「私を衝き動かすもの(2)」につづく)
私を衝き動かすもの(2) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月17日(木)14時22分4秒
> 昏い天使をめぐって
>> 『『様々な暴力』も含む「人間の負の面」をも含めて「人間存在を肯定する」』というのは、決して『様々な暴力』を容認するということではないと思うんです。それは容認できないけれど、それが容認できないからといって、それから解放され得ない「人間存在」までも容認しないということにはならない、という立場。そういうものがあり得ると私は考えますし、矢吹 駆の「すべてよし」というのも、少なくとも私は、そういうものとして理解してきたんです
> という言葉には、なるほどそういう読み方があったのかと、眼からうろこが取れる思いでした。
> そういえば、ドストエフスキーの作品に、「すべてよし」ということは、殺人という究極の悪をも含めて、人間のすべてを肯定しようとすることであり、全く罪もないちっちゃな女の子の頭を、鈍器で殴り、脳漿が飛び散るような世界も含めて、完全に肯定することであるが、このように人間が完全に自由であるということを、キリストの下に知っているものは、決してそのようなこと(殺人)をしないであろう、というくだりがあり、この部分を椎名麟三がエッセイの中でしきりに評価しているのを思い出しました。
> ただ、『サマー・アポカリプス』で矢吹がシモーヌ・リュミエールを追い詰めるとき、彼は死神のような相貌をしているわけです。神を信じない矢吹の「すべてよし」は、悪魔的ともいえるでしょう。
矢吹 駆のシモーヌ・リュミエ−ルに対する態度は「過酷」であるとは思いますが、『悪魔的』だとは思いません。なぜなら、ドストエフスキー的な(あるいは、私的な)意味での「すべてよし」であっても、矢吹がシモーヌ・リュミエ−ルに課したような「突き詰め」は、当然のことながら、避けては通 れないものだからです。
ドストエフスキー的な意味における「すべてよし」は、一見したところ、俗に言う「ヒューマニズムにあふれたもの」のように感じられるかも知れませんが、それはたぶんちょっと違うでしょう。この「すべてよし」の背後には、そのような形で「全肯定」しなければ、逆に「すべて滅ぶべし」という「全否定」を選ばざるをえない傾きが、確かに存在するのです。つまり、極端から極端に走る「ロシア的な暗い激情」がそこには隠されているんです。
ですから、ドストエフスキー的「すべてよし」は、もともと、キリスト教の「神」的ではなく、「悪魔」的な側面 も含めた「すべてよし」の「神」なのです。
> 別の例をあげて考えてみましょう。笠井潔の『黄昏の館』の中に、『昏い天使』という小説(作中作)がでてきますが、この小説では、ジュリエットという昏い天使が、主人公の日本青年に「自分の命を賭金にした愛他的行為」と「暴行、強奪、殺人という呪われた犯罪行為」という善悪の両極端を命じる、とあります。つまり、ジュリエットは善悪を超えた聖性を持っているというわけです。しかし、この天使は昏い……。
> ドストエフスキーは、キリストのもとに、このことを知っているならば、と留保をつけましたが、『黄昏の館』の著者は、キリストのもとに知っているわけではないから、なのでしょう。
ですから『ジュリエットという昏い天使』は、決して特別なものではありません。『善悪の両極端』はドストエフスキー的「神」にもあるのですが、ただその「神」は、『ジュリエットという昏い天使』ようにわざわざ人間に対し『善悪の両極端を命じ』たりはしないんですね。彼(ドストエフスキー的「神」)は、人間が現にそうやってしか生きられないことを知っていますから、わざわざ命じるまでもないんです。ただ彼は、そんな人間の「昏い運命」に「すべてよし」という哀れみを垂れたもうのです。
我々の手はみな、罪なき子供たちの血に塗れています。我々はそのようにしてしか「あたりまえの生活」を生きてはいけない。なのにいまさら大仰に、それを『命じ』られる状況を想定しなければならないというのは、その人が「自分の手の汚れ」に無自覚な、愚鈍で凡庸な人間である証拠にほかならないなのです。
( 以下は「私を衝き動かすもの(3)」につづく)
私を衝き動かすもの(3) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月17日(木)14時23分3秒
> 『黄昏の館』という作品は、笠井潔が聖なるものに志向性を持つ宗教的人間であることを証明しているように思います。しかし、彼はなにかを信じているわけではないのです。(このことは否定的な意味で言っているのではありません。)
> 笠井潔と天使の問題は、『薔薇の女』などの作品を参照しながら、さらに検証する必要があります。なぜなら天使は、道を求めて彷徨う矢吹駆の一筋の啓明だからです。
したがって、この手のことをして『笠井潔が聖なるものに志向性を持つ宗教的人間であることを証明している』とは、まったく思いません。彼は単に「哲学趣味」「オカルト趣味」の持ち主であるに過ぎない。笠井潔をそのように(『聖なるものに志向性を持つ宗教的人間である』と)評価するのは、「哲学趣味」「オカルト趣味」的な「過剰解釈」、つまり「意味の病い」に囚われているということだと思います。
> しかし、矢吹の志向は、<悪としての聖>を超えて、<聖としての聖>に向かっているようなのです。矢吹の宿敵は、ニコライ・イリイチ・モルチャノフというニヒリズムの権化のような男なのですが、人々を踊らせ破滅に導くこの男を殺害すれば、矢吹自身が悪となるという『サマー・アポカリプス』で問題となったパラドックスが発生します。問題をクリアするためには、矢吹が生前解脱をし、<聖としての聖>にヴァージョン・アップする必要があるわけです。
> しかし、ここで笠井潔は、目標とする生前解脱した天使を殺害します。読者のもとに差し出されるのは、かつて天使であったものの骸にすぎません。なぜなら、この矢吹連作は、作者とともに成長する教養小説であり、作者が生前解脱していない以上、生前解脱しているものを生きた姿で描き得ないから、です。(これと同じロジックが、『梟の巨なる黄昏』でも使用されます。笠井は『梟の巨なる黄昏』という『死霊』に比すべき作品を直接書かず、作中に登場する小説「梟の巨なる黄昏」として、その効果 だけを描くのです。)
> 問題は、この後『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』、「吸血鬼の精神分析」と続きながら、この天使の問題が封印されてしまったのか、顔を覗かせなくなったことです。たしかに、ハイデッガーも、フーコーも、(未完成なので断定は出来ませんが)ラカンも、重要なのですが、初期三部作と比べると魂の問題は、相当な迂回をし始めた印象をぬ ぐえません。小森健太朗氏が矢吹連作で、グルジェフをとりあげてくれないものか、と評していたのを想起します。まぁ、いきなりグルジェフでは、急激すぎますが。
なぜ笠井潔がここに来てこのような『迂回』を始めたのか、その理由は明白でしょう。彼は、自身が『生前解脱』などとは無縁な「俗物」でしかないことを自覚し始めたんです。かつてあったその種の指向が、所詮は「趣味」の域を出ず、若さゆえの「ロマンティック(で、ナルシスティック)な幻想」でしかなかったことが、否定しがたく判ってきたんですね。しかし、彼はそこでそうした自身の「俗物」性を直視することなく、それこそが「正しい」のだと、転倒的に自己の現状を追認したのです。そして、それを端的に示すのが、彼の(「文の武士」ではない)『文の商人』という自覚(レトリック)です。
つまり、笠井潔は『生前解脱』を『迂回』したのではありません。それが不可能だと判ると、「そんなものはもともと間違った認識だったのだ」と、これ見よがし威張りはじめ、演技過剰気味に(言い訳しながら)そこから立ち去ったに過ぎないのです。
したがって、今の彼に『生前解脱』への道筋を期待するのは間違いです。小森健太朗が「矢吹シリーズ」でグルジェフを取り上げてくれというのは、彼自身「オカルト趣味」の持ち主として、「矢吹シリーズ」を「オカルト趣味を満たしてくれるシリーズ」だと見た証拠にほかなりません。また実際のところ、今後の笠井潔には、それ(オカルト趣味)以上のものは、期待できないのかも知れない。
しかし、初期三作のファンである私としては、できればそんなもの(成れの果て)は読みたくありません。そんなものを書かれるくらいなら、いっそ笠井潔に死んでもらった方がマシです。でも、こうした感情こそが、かつての笠井潔やドストエフスキーが持っていた「黙示録的情熱」というものなのですから、私としては「頽落した矢吹シリーズ」など承認するつもりはないけれども、書かれれば、それもまた「人間の哀しき営為」として「すべてよし」とするつもりではあるのです。
( 以下は「私を衝き動かすもの(4)」につづく)
私を衝き動かすもの(4) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月17日(木)14時26分3秒
> 笠井潔と<天使>のアポリア
したがって、笠井潔のかつての自己申告を鵜呑みにして、彼を『天使』としての『生前解脱』を希求した『聖なるものに志向性を持つ宗教的人間』だと見、その筋で笠井潔を評価しようとするのは、笠井潔の取り巻きたちと同じで「現実に目を瞑る」弊に陥ることにしかならないでしょう。
たしかに「趣味的」には面白い。なにか「奥深く重厚そう」なものに見えますからね。しかし、それこそが「オカルト趣味」なのです。それこそが、同じく「オカルト趣味」の持ち主ながら、自らの嗜好を仮借なく腑分けしたウンベルト・エーコが、その著書『フーコーの振り子』(文春文庫)で描いた「オカルト」の「陳腐きわまりない真相」に、未だ無自覚な人間の「趣味的営為」なんですよ。
ですから、笠井潔と「天使」の問題を考える場合、必要なことは「笠井潔は天使に惹かれたから、宗教的な人間だ」と一足飛びに「面 白そうな結論」にとびつくのではなく、まず「なぜ笠井潔は、天使のイメージに惹かれたのか」と、そこから始めなければならないのです。
> 魂の原点に還るということ
> 自力で太陽のように輝く、あのファイターのスピリッツは、どこへ行ったのか。
> どこかで間違えたのだ。出発点は良かった。たとえ、それが未完成で、満足いかない精神のレベルの表現であったとしても。
> どこかで成長が止まり、どこかで成長の代わりの自己讃美が始まってしまった。
> おそらくは自身を否定するものに、心を閉ざしたからだ。
> 笠井潔よ、もう一度、自身のルーツに帰れ。
こう言いたい気持ちはよくわかります。しかし、これは論理的意志的に生きてきたと思っている笠井潔自身にはまったく響かない、「かく語る側だけに心地のよい言葉」でしかありません。
我々に必要なのは、このように語ることではなく、笠井潔の自己幻想を徹底的に破壊してやることなのです。彼に還るべき『ルーツ』など存在しない。そこには間違いなく現在の「頽落の種子」が孕まれていたのだという事実を突きつけることでしかないのです。そしてその先は、笠井潔自身が決めることでしかないのです。
( 以下は「私を衝き動かすもの(5)」につづく)
私を衝き動かすもの(5) 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月17日(木)14時27分16秒
> そのためにならば、なんどでも斬り倒そう。ゾンビ・コマンドのような笠井自身がつくりだしたニセ笠井を。
> そう、私はニセ笠井の殺戮者。死神なのです。
> (注)それと同時に、死神同士がつるむのも良くない。それでは、現在の彼のやっていることと同じになる。各人が各人のやり方で、単独者として斬り込む。方法や意見の相違が生じたときは、死神同士で斬り合う。それでいい。
『つるむ』という言葉には「否定的ニュアンス」がはっきりと感じられますが、『つるむ』ことの何がどういけないのかが、私には判然としません。私にとって『斬り合う』ことは日常事であり、それは『つるむ』ことのなかに含まれています。私の言葉でいえば、『つるむ』のは構わないけれど『馴れ合う』のはいけない、ということにでもなりましょうか。
例えば、縁も所縁もない「笠井潔」なら批判できるけれども、縁も所縁もある「竹本健治」や「楽古堂主人」「黒猫館館長」「Keen」を批判することができない、というようなことは私にはありません。私は後者のみなさんとつるんでいると言えますが、それは笠井潔と「探偵小説研究会」とのつるみ方とは大いに違っているでしょう。私は「独り立つ」ことを怖れないでいこうとは思いますが、孤独者であることを「かつての笠井潔」のように自慢するつもりはありません。そんな軽薄な「ナルシシズム」の発露は、みっともないとしか思えないからです。
私とはらぴょんさんがつるんだところで、笠井潔なり「探偵小説研究会」の評論家たちが、それをどうこう言うことはできないでしょう。なぜなら「同じ考え」を持つ者どおしがつるむのは、ごく自然なことだからです。
私が、笠井潔と「探偵小説研究会」の関係を問題視するのは、彼らがその関係から発する「権益」のために、自分たちの関係の「現実」に目を瞑り、しばしばそれを糊塗隠蔽する欺瞞に走るからなんですね。借りにも「公的言論公表者」がそういうことをしてはいけない、というのが私の意見なのです
(※ 「恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力 ――ある「探偵小説研究会」所属評論家の弁 」参照)
じっさい、はらぴょんさんの書かれるものを見て、笠井潔や「探偵小説研究会」の面 々がどう感じるか、私にはそれが容易に想像できます。彼らにとって私は、――ニコライ・イリイチのような存在なんです。危険な思想を人に吹き込んで、頭を狂わせてしまう昏い悪魔。でも、私としてはただ「解毒剤」を射って回っているだけなんですがね(笑)。
私には「笠井潔」を批判しなければならない「理由」があります。それを常に感じながら批判をしています。
はらぴょんさんが、私と同様、「笠井潔」を批判する「理由」。つまり、その「内的要請」とは、何なのでしょうか? 当然のことながら、それは私と同じではないでしょうが、じつはそれこそが最大の「アポリア」なのではないでしょうか。
ご確認、その他。 投稿者:アレクセイ 投稿日: 6月17日(木)15時46分9秒
★ 黒猫館館長さま
> はらぴょんさんとの御議論の部分はアレクセイさんのサイトに移しても大いに結構ですよ。^^
ありがとうございます。
ただ、はらぴょんさんへのレスにも書きましたが、このままこちらの掲示板で「笠井潔」についての議論を(二人で)するのは、やや場違いに思えて抵抗もありますし、何より他のみなさまの目障りになるのではないかと危惧しております。
もちろん、そんな議論もやってくれた方がにぎやかでよいということであれば、このまま続行させていただくことに吝かではないのですが、なんならうちの掲示板の方に場所移動しようかとも思うのですが、いかがなものでしょうか? ご意見に従いたいと思いますので、どうぞご回答下さい。
> 『キルビル』はタランティーノが昔の日本映画の『修羅雪姫』のリメイク(?)として作った映画のようですね。
> おしい!違うんだなぁ。修羅雪姫はあくまでオーレンとブライドへのオマージュに過ぎないんだよ。
> タランティーノは「ロード・トゥ・パーミッション」を見て、お怒りになり「子連れ狼は俺にやらせろ!」と仰ったんです。(< 神村刹那さま)
神村さんがおっしゃっているように『キル・ビル』は、『修羅雪姫』のリメイクとして作られた作品ではなく、『修羅雪姫』や『子連れ狼』をはじめとした、タランティーノが愛した多くの選考作品へのオマージュとしてつくられた作品のようです。
私はそうした選考作品群について詳しくはありませんので、それを後付けの知識で解説することはしませんが、タランティーノがそういう稚気をもって楽しんでつくっているのが映画からひしひしと感じられたので、私のような人間にも楽しめたんだと思います。
> いや、わたしはホ○ではありませんが(^^;;)「ホ○」に理解のある人間なだけです。ちなみに「S○」は完全に影姫の領域ですのでわたしはさっぱりわかりません。
いやいや、単に自覚がないだけかも知れませんよ。つまり、そのうち「目覚め」るかも知れません。どっちに目覚めるのかはわかりませんが……両方だったりして(笑)。
【アレクセイの関連論文】
・ 笠井潔が、真に望んだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性
・ お荷物としての「解説」――「探偵小説研究会」所属評論家・柳川貴之の力量
・ 恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力 ―― ある「探偵小説研究会」所属評論家の弁
・ 「インテリげんちゃん」の凡庸さについて ―― 高橋源一郎に見る、文学者のホンネ
・ 文学賞にジタバタ ―― フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合
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