討論・笠井潔をめぐって14)  

 


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     目 次14)    

(1) 背景色が灰色のものは、「笠井潔」とは無関係の書き込みですが、 会話の流れ上関連のあるものとして収録しております。
(2) 「リンク」欄の書き込みナンバーをクリックすると、該当の書き込みにジャンプできます。
(3) 「投稿者」欄のメールリンクは、書き込みに準じています。
(4) 「投稿タイトル」「投稿者」名の長いものは、省略して(…)を付しています。
(5)  書き込みの中から「笠井潔」に関連した部分のみを「抄録」した場合には、(抄)をタイトルに付します。

 

リンク 投稿タイトル 投稿者 投稿日時(2005年)
2005年、笠井潔を巡るあれこれ はらぴょん 12日(日)16時43分1秒
2005年、笠井潔を巡るあれこれ 2 1月 2日(日)16時59分9秒
2005年、笠井潔を巡るあれこれ 3 1月 2日(日)17時28分35秒
お正月は退屈すぎる(3) ホランド 1月 2日(日)23時33分18秒
お正月は退屈すぎる(4) 1月 2日(日)23時36分43秒
お正月は退屈すぎる(5) 1月 2日(日)23時43分21秒
知覧 特攻平和会館 いっちょがみ 1月 3日(月)22時39分34秒
プレゼント(4) 園主アレクセイ 1月 5日(水)01時14分30秒
プレゼント(5) 1月 5日(水)01時16分45秒
プレゼント(6) 1月 5日(水)01時18分29秒
幻視のリレーを引き継ぐものは? はらぴょん 1月 7日(金)14時59分21秒
生きているチャーリィ・ゴードン(2) ホランド 1月10日(月)01時54分33秒
園主さんに質問 DHC 1月10日(月)21時23分15秒
アジール戦線異常アリ・2 古田 1月10日(月)21時30分54秒
7時間カラオケの後で(1) 園主アレクセイ 1月11日(火)01時52分8秒
7時間カラオケの後で(2) 1月11日(火)01時53分15秒
7時間カラオケの後で(3) 1月11日(火)01時54分18秒
7時間カラオケの後で(4) 1月11日(火)01時55分24秒
目先の感情に囚われない知性(2) ホランド 1月13日(木)01時28分39秒
インターミッション(2)(抄) 時雨 1月13日(木)03時09分39秒
余計なお世話でした DHC 1月13日(木)16時29分41秒
結晶化する精神(1) 園主アレクセイ 1月14日(金)01時47分30秒
結晶化する精神(2) 1月14日(金)01時48分17秒
結晶化する精神(5) 1月14日(金)01時54分37秒
結晶化する精神(6) 1月14日(金)01時56分15秒
結晶化する精神(7) 1月14日(金)02時07分25秒
コムレ・サーガをひっくり返す はらぴょん 1月14日(金)22時29分44秒
※「瀕死の王」ネタバレ注意! Keen 1月15日(土)12時08分13秒
矢吹駆のキャラクター設定はいかに為されたか はらぴょん 1月15日(土)19時44分1秒
危篤の父(3)(抄) 園主アレクセイ 1月17日(月)04時41分12秒
この寒さか(抄) Keen 1月17日(月)15時24分29秒
仮設舞台は変われども(抄) はらぴょん 1月18日(火)12時59分22秒
そういえば…… Keen 1月18日(火)15時34分52秒
アジールとしての「花園」(2) ホランド 1月18日(火)23時37分17秒
アジールとしての「花園」(3) 1月18日(火)23時38分40秒
アジールとしての「花園」(4) 1月18日(火)23時39分44秒
アジールとしての「花園」(6) 1月18日(火)23時43分18秒
アジールとしての「花園」(7) 1月18日(火)23時45分17秒
アジールとしての「花園」(8) 1月18日(火)23時48分36秒
アジールとしての「花園」(9) 1月18日(火)23時49分36秒
アジールとしての「花園」(10) 1月18日(火)23時50分21秒
アジールとしての「花園」(11) 1月18日(火)23時51分22秒
アジールとしての「花園」(12) 1月18日(火)23時52分4秒
【 目次(15)へ】

 

書き込みの右下にある「編集済」とは、投稿者が投稿後に書き込みの内容に手を加えたことを意味します。したがって「編集済」のものは、登校時と若干内容に異同がありますが、本ページ収録用にログを取得して以降の「編集」は反映されておりません。したがって黒猫掲示板の「バックログ」所収のログと若干異同があるかも知れませんが、その場合は、こちらのログの方が古い(投稿時に近い)ものとご理解下さい。
アレクセイの花園では「編集」機能は、採用されておりません)

 

 


2005年、笠井潔を巡るあれこれ 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月 2日(日)16時43分1秒

ご無沙汰しております。新年になった機会に、笠井潔関連で注目される事柄をリストアップしておきたいと思います。
講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』7巻から11巻の刊行が残されているために、笠井さんは毎月10時間程度のゲラへの加筆・修正作業を行うようです。
TYPE-MOONによる全面的なバック・アップ体制により、毎回、武内崇さんのイラストを文庫のカバーにつけ、あたかもライトノベルであるかのように、とらのあなをはじめとするアニメ・ショップに文庫を置くことにより、新規読者の開拓を図ろうとしているわけですが、その割には「『ヴァンパイヤー戦争』って凄いね」なんて声は聞いたことがありません。知名度が上がったのは、TYPE-MOONの方のようです。(その道筋のひとの間で、早くも次回作となるノベルゲーム『Fate/hollow ataraxia』(フェイト/ホロウ アタラクシア)の話題がでていますし、「メフィスト」の最新号で、奈須きのこさんと綾辻行人さんが対談してますし……。ここで綾辻さんが奈須さんの文体について、時系列や主語が転々とするので読みにくいとの留保をつけながら、カッコいい文体だといっていますが、どう思われますか?)思うに以前、笠井さんというと、知名度はともかく、読み応えのある本を書く人というイメージでしたが、最近は売れさえすれば、たとえ読者が表紙の女の子に萌えているだけで、中身を読んでくれなくってもいいと考えているようにも見えます。

http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/


2005年、笠井潔を巡るあれこれ 2 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月 2日(日)16時59分9秒

講談社メフィストで掲載中の『瀕死の王』は、<矢吹駆>シリーズのナディア・モガールと、<天啓>シリーズや「黄昏の館」の宗像冬樹が、日本の昭和の終焉期を舞台に殺人事件に巻き込まれるというもので、『サマー・アポカリプス』で取り上げられた『二十世紀の神話』の話だとか、『ヴァンパイヤー戦争』のムラキの正体とかについても言及されています。これらは笠井さんの読者サービスなのだと思うんですね。以前、笠井さんというと、読者サービスからほど遠い作家のように思われたのですが、最近はそうでもないようです。しかし、この種のサーピスは、<矢吹駆>シリーズと<天啓>シリーズと『ヴァンパイヤー戦争』を読んでいる読者にしかウケないので、効き目のある対象者は限定されてしまうように思います。
対談「笠井潔をめぐって」では、笠井さんに批判的な立場の発言をしているわけですが、相矛盾するようですが、議論の前提として、もっと笠井さんの本を読む層が増えて欲しいとも思っています。以下のURLは、「敵に塩を贈る」ためのものです。

http://www.wikihouse.com/coliwiki/index.php?%B3%DE%B0%E6%B7%E9


2005年、笠井潔を巡るあれこれ 3 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月 2日(日)17時28分35秒

現在、笠井さんはジャーロに、<矢吹駆>シリーズ最新作『吸血鬼の精神分析』を掲載されていますが、このジャーロの最新号2005年冬号に、柳川貴之氏の評論「ニアミステリの関係」第18回が掲載されています。実は昨年末、竹本健治ファン倶楽部<軟体動物同盟>の掲示板に、柳川氏の評論は接続詞の使い方が変だし、なにを言いたいのか自分でもわかっていないのでないかという趣旨の書き込みがありました。調べてみると、柳川貴之氏は探偵小説研究会の会員で、すでに園主さまに「お荷物としての「解説」」で、その稚拙な解説ぶりを批判されていたことがわかりました。ネット上で公開されている評論を読んでみましたが、確かによくわからない文章でした。
ここで問題となるのは、探偵小説研究会に加入すると、解説の水準に関わらず、一般 向けの商業誌に掲載されやすくなるのではないか、ということです。とすれば、これは由々しき問題ではないか、と思われます。
あと笠井さん関連で注目すべきトピックスは、『天啓の虚』と『無底の王』の単行本化はあるか、否か、ということです。前者は『ウロボロスの純正音律』の完成を見計らって、その批判を織り込み、加筆・修正をした上で出してくる気がします。後者はコムレ・サーガに分類できますが、オウム真理教事件を連想させる内容のため、さらに封印が続くと考えます。

http://players.music-eclub.com/players/Song_detail.php3?song_id=50168


お正月は退屈すぎる(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月 2日(日)23時33分18秒


 はらぴょんさま

 あけましておめでとうございます!
 園主さまの殴り込み(?)に呼応して、さっそく「笠井潔ネタ」をありがとうございます(笑)。

>> 討論・笠井潔をめぐって

TYPE-MOONによる全面的なバック・アップ体制により、毎回、武内崇さんのイラストを文庫のカバーにつけ、あたかもライトノベルであるかのように、とらのあなをはじめとするアニメ・ショップに文庫を置くことにより、新規読者の開拓を図ろうとしているわけですが、その割には「『ヴァンパイヤー戦争』って凄いね」なんて声は聞いたことがありません。

 う〜ん、たしかにそうですね。「売れてるぞ」って話にはなるんですけど、読んだ人の感想は聞こえてきませんよね。
 園主さまも、「笠井潔の本」については今までのところ完全蒐集してるからっていうんで、今回の講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』も買っているんですが、じつは解説すら読んでいないんだそうですよ・・・(^-^;)。

> 「メフィスト」の最新号で、奈須きのこさんと綾辻行人さんが対談してますし……。ここで綾辻さんが奈須さんの文体について、時系列や主語が転々とするので読みにくいとの留保をつけながら、カッコいい文体だといっていますが、どう思われますか?

 これは、園主さまにお答え願いましょう(笑)。

> 思うに以前、笠井さんというと、知名度はともかく、読み応えのある本を書く人というイメージでしたが、最近は売れさえすれば、たとえ読者が表紙の女の子に萌えているだけで、中身を読んでくれなくってもいいと考えているようにも見えます。

 そういった印象の変化は否めないでしょうね。じっさい、印象だけの話でもないし。

(※ 元来、別々だったシリーズをひとつの世界につないでいって、キャラクターをクロスオーバーさせるという)この種のサーピスは、<矢吹駆>シリーズと<天啓>シリーズと『ヴァンパイヤー戦争』を読んでいる読者にしかウケないので、効き目のある対象者は限定されてしまうように思います。

 たしかにそうですね。でも、これは「読者サービス」だけでもないと思いますよ。園主さまの言葉を借りると「作家は歳をとってくると、どうしても自分の世界を集大成して、ひとつの小宇宙として構築しようとする傾向が出てくる」ということ。
 こないだ、笠井さんの近年の傾向を評して、こう言っていましたが、例えば竹本健治さんにだってこの傾向はあるし、泡坂妻夫、栗本薫なんていう、シリーズキャラクターを持つ『幻影城』出身の作家は、みんなそんな傾向を見せていますよね(連城三紀彦・田中芳樹さんなんかは、どうなのか知りませんが・・・)。最近では他に、漫画家のCLAMPもそんなことをやっているそうですね。――「歳がとってくると」って言うと怒られそうですが(笑)。

対談「笠井潔をめぐって」では、笠井さんに批判的な立場の発言をしているわけですが、相矛盾するようですが、議論の前提として、もっと笠井さんの本を読む層が増えて欲しいとも思っています。以下のURLは、「敵に塩を贈る」ためのものです。

 どんな人が書いていようと、良い作品は良い作品ですからね。今でもボクは「矢吹駆」ファンだし。・・・ただ、最近は、そこに「初期」っていう限定句をつけたくなるのが、つらいところなんですけど。





( 以下は「お正月は退屈すぎる(4)」につづく)

お正月は退屈すぎる(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月 2日(日)23時36分43秒


 はらぴょんさま(続き)

現在、笠井さんはジャーロに、<矢吹駆>シリーズ最新作『吸血鬼の精神分析』を掲載されていますが、このジャーロの最新号2005年冬号に、柳川貴之氏の評論「ニアミステリの関係」第18回が掲載されています。実は昨年末、竹本健治ファン倶楽部<軟体動物同盟>の掲示板に、柳川氏の評論は接続詞の使い方が変だし、なにを言いたいのか自分でもわかっていないのでないかという趣旨の書き込みがありました。調べてみると、柳川貴之氏は探偵小説研究会の会員で、すでに園主さまに「お荷物としての「解説」」で、その稚拙な解説ぶりを批判されていたことがわかりました。ネット上で公開されている評論を読んでみましたが、確かによくわからない文章でした。


 はらぴょんさんがここでおっしゃっている<軟体動物同盟>の掲示板への書き込みとは、以前、ここ「花園」へも書き込みに来て下さった、杉澤鷹里さんの次のような文章です。

『187 ニアミステリな関係第18回について 杉澤鷹里 2004/12/18 22:17

「ニアミステリな関係第18回」(『ジャーロ』2005年冬号)で、柳川貴之さんが、『囲碁殺人事件』について、論じていました。
 論じていたという言い方が適切かどうか分かりません。商業誌に載せる文芸評論の水準ではないですから。
 主張していることの核は「推理がいかに論理的に完全であろうとも、手がかりという概念が無限に定義可能である限り、正しい手がかりの選択は常に不完全であり、誰にも保証できない」という考え方(まるで矢吹駆です!)が、『囲碁殺人事件』に現わされているということだろうと思うのですが、そしてそれを『思考機械の事件簿I』との対比を通 して浮き彫りにするという構図なのだろうと思うのですが何しろきわめて稚拙、断言は出来ません。もっとうまく表現できるだろうに、と強く感じました。
 接続詞の使い方もこれでいいのかと疑問を持ち、首をひねりました。自分が何についてしゃべっているのかよく分かっていないんじゃないかという、おそれすら感じました。
(議論の流れの全体が稚拙なのでそう感じたということであって、ゲーデルの不完全定理についてといった断片のそれぞれについて誤りがあったというわけではありません)』


『188  「ニアミステリな関係第18回について」の訂正 杉澤鷹里 2004/12/20 19:39

 187の文中の『囲碁殺人事件』を「牧場智久」シリーズに、『思考機械の事件簿I』を「思考機械」シリーズに、それぞれ訂正します。

 それと「断片のそれぞれについて誤りがあったというわけではありません」という断言は不適切でした。
 たとえばチェスは有限で、推理形式は無限という主旨の発言は、かなり疑わしい。
「推理は言語(約二千種類からなるひらがなとカタカナと常用漢字)によって表現できる」「推理は有限の長さによって表現できる」と仮定すれば、推理形式も有限ということになりますから。

 187の投稿をした時点で、投稿者は何かに対して憤っていた、冷静ではなかった、ということ自体、考察の対象としてちょっと面 白いよなあ、と自己分析しています。』

 そして、この次の書き込みが、『T.Harada』こと、はらぴょんさまの、

『189 杉澤さま T.Harada@発起人 2004/12/23 00:19

ミステリ評論家・柳川貴之について、google検索をかけたところ、まっさきにこれが引っかかりました。(笑)
ここでも文章がなっていないということが論じられています。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_yanagawa.html

となるわけです(笑)。

 このあとの議論は、<軟体動物同盟>の掲示板をご確認いただくとして、――もうここまでくれば、柳川貴之さんには「プロとしての文章能力がない」と断じてもいいんじゃないでしょうか。





( 以下は「お正月は退屈すぎる(5)」につづく)


お正月は退屈すぎる(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月 2日(日)23時43分21秒


 はらぴょんさま(続き)

 そして、ここで考えるべきなのは、園主さまがやはり文章能力を問題にした論文虚空に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』で言及している、文章力(あるいは文体)と思考能力(あるいは思考形式)の関連性、という点です。

 つまり、「文章力」を含む「文体」というのは、「思考形式」を含む「思考能力」の反映だと言える部分が確実にあるんですよね。
 文章の表現上の巧拙は「馴れ(=訓練)」で何とかなるところもあるんですが、内容的に稚拙な文章しか書けない人というのは、思考段階ですでに稚拙である可能性が高い、ということがまずあります。つぎに、「文体」には「思考形式」が反映されるということがあります。
 例えば、園主さまが尊敬する大西巨人のあの「特異な文体」は、大西さんの「厳格主義(リゴレシスム)」的な思考形式(思考嗜好)の反映であるのは、間違いのないところだと思うんですよね。柳川貴之さん場合はその悪い事例ですし、園主さまの「文体」も、はらぴょんさんの「文体」も、その「思考形式」をよく反映している、という点では同じだと思いますよ。


ここで問題となるのは、探偵小説研究会に加入すると、解説の水準に関わらず、一般 向けの商業誌に掲載されやすくなるのではないか、ということです。とすれば、これは由々しき問題ではないか、と思われます。

 これは、『とすれば』と仮定するまでもない、「事実」でしょう。それを否定できる人はいないんじゃないでしょうか?
 それに「コネ」で仕事をもらうというのは、世間では当たり前にあることですし、残念ながら文筆業界だって、その例外ではありえない、というのが現実のようです。ただ、そうした実態を「研究会」という金看板で誤魔化して、なかじ「公正」ぶって見せている欺瞞性(=不誠実さ)が、批評家集団である「探偵小説研究会」の本質的な問題点なんだと思いますよ。

 園主さまが、「探偵小説研究会」の某会員に公場対決を申し込み、某会員が言い訳ばかりして逃げ回ったという事件の経緯は、園主さまの恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力 ―― ある「探偵小説研究会」所属評論家の弁に詳しく紹介されていますが、園主さまの直截な詰問に対し、この某会員の返している言葉を見れば、彼ら自身にその自覚があるのも、明らかなことだと思います。

> あと笠井さん関連で注目すべきトピックスは、『天啓の虚』と『無底の王』の単行本化はあるか、否か、ということです。前者は『ウロボロスの純正音律』の完成を見計らって、その批判を織り込み、加筆・修正をした上で出してくる気がします。後者はコムレ・サーガに分類できますが、オウム真理教事件を連想させる内容のため、さらに封印が続くと考えます。

 『天啓の虚』については、ご推測のとおりでしょうね。
 でも、『無底の王』の発表が遅れているのは、この作品が『オウム真理教事件を連想させる内容のため』だからかどうかは、いささか疑問です。じっさい、笠井さんが自己宣伝しないかぎり、オウム信者が「コムレ・サーガ」の影響をうけてたなんて話は、どこからも出てこなかったでしょう。その意味では、本来、笠井潔の娯楽小説の社会的影響力なんか、皆無と言っても良いくらいで、まったく問題にはならないはずですから。


 ――そんなわけで、本年もよろしくお願いいたします!(^-^)



 園主さま

> ちなみに今年は、君がむかし書いた小説や、「黒孔庵座談」シリーズがアップできるかも知れないので、その折はよろしく(笑)。

 小説はちょっと恥ずかしいなあー。考えさせていただけませんか?(^-^;)





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


知覧 特攻平和会館 投稿者:いっちょがみ  投稿日: 1月 3日(月)22時39分34秒

読ませていただいて大笑いしました。
まだまだいるんですよね、こういう
日教組が作り上げた「優等生」が(笑)
脳ミソが小さいのか硬いのか・・・・。
「私、と〜ってもおバカ」って言ってるのと
同じなんだっての。

>現在、この掲示板は「投稿モード」を採用しておりますため、ご投稿は即時に表示され>ません。
>管理人がチェックの後、手動で掲示板に反映しますので、半日から数時間のタイムラグ>がございます。
>ご理解とご協力の程、よろしくお願いいたします。(管理人・アレクセイ)

↑だから、こんなことしなきゃいけないんですよ(笑)
やり方もセコイですよね。
ま、せいぜいお幸せに。


プレゼント(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月 5日(水)01時14分30秒


 はらぴょんさま

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

2005年、笠井潔を巡るあれこれ

「メフィスト」の最新号で、奈須きのこさんと綾辻行人さんが対談してますし……。ここで綾辻さんが奈須さんの文体について、時系列や主語が転々とするので読みにくいとの留保をつけながら、カッコいい文体だといっていますが、どう思われますか?

なにしろ綾辻行人といいますと、笠井潔との対談で、笠井潔の探偵小説評論『ミネルヴァの梟は黄昏に飛たつか?』(早川書房)について、

  『なるほど評論というものの醍醐味はこのあたりにあるわけか』

などという感想を漏らす方でございますからね(笑)。
単行本『ミネルヴァの梟は黄昏に飛たつか?』にも帯文として引用されている、綾辻のこの言葉をもじりますと、さしづめ奈須きのこの「文体」は、

  「なるほど文体のカッコよさとは、こういうことなのか」

ということにでもなるのでござましょう。
つまり、綾辻行人の場合には、評論における「事実即応性」が重きをなさない(つまり「トリッキーな意見と、それを支える説得力」といった、エンターティンメント的側面 を重視する)ように、綾辻にとって、「文体」の良し悪しと「論理性」は、ほとんど無関係だというなのでございましょう。そして、そうした判断を支えるのが、綾辻行人の「美意識」なのでございます。

ちなみに私は、昔、綾辻行人に「悪文」だと言われたことがございまして、自分でもまったくそのとおりだと綾辻の評価を追認していたのでございますが、これは綾辻の評価が間違っていたということではなく、昔の私の文章が、誰が見ても悪文だと思えるほどに、見かけ上それとわかりやすい悪文だったということなのでございましょう(笑)。

なお、「奈須きのこの文体」評価については、他にも書きたいことがあるのでございますが、本日は時間がございませんので、また後日とさせていただきます。あしからずご了承下さいまし。

> ミステリ評論家・柳川貴之について、google検索をかけたところ、まっさきにこれが引っかかりました。(笑)
> ここでも文章がなっていないということが論じられています。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_yanagawa.html

なるほど、本当でございますね。私も、今回検索してみて、初めて知りました。

しかし、ということは、柳川さまご本人や「探偵小説研究会」のみなさまにも、私の一連論文(笠井潔葬送シリーズ)は読んでいただいていると考えてもよい、ということなのでございましょうね。ネットのロボット検索は、今のところ「身分に関係なく、公平である」というのが、ここにハッキリ示されているのでございますから(笑)。
それでも、ご当人やその周囲からまったく反響が無いというのは、世に言う「返事が無いのは元気なしるし」というのとは、すこし違う事情なのでございましょうね(笑)。





( 以下は「プレゼント(5)」につづく)


プレゼント(5) 投稿者:園主  投稿日: 1月 5日(水)01時16分45秒


 いっちょがみさま

知覧特攻平和会館

読ませていただいて大笑いしました。
> まだまだいるんですよね、こういう
> 日教組が作り上げた「優等生」が(笑)
>脳ミソが小さいのか硬いのか・・・・。
> 「私、と〜ってもおバカ」って言ってるのと
> 同じなんだっての。

年頭から、みなさまには「お目汚し」でございましたが、私があえて「いっちょがみ」さまの書き込みをアップいたしましたのは、この文章が、先日(1/2)ホランドくんの語っていた問題の、良い例証になると考えたからでございます。すなわち、

> 「文章力」を含む「文体」というのは、「思考形式」を含む「思考能力」の反映だと言える部分が確実にあるんですよね。
> 文章の表現上の巧拙は「馴れ(=訓練)」で何とかなるところもあるんですが、内容的に稚拙な文章しか書けない人というのは、思考段階ですでに稚拙である可能性が高い、ということがまずあります。つぎに、「文体」には「思考形式」が反映されるということがあります。
>  例えば、園主さまが尊敬する大西巨人のあの「特異な文体」は、大西さんの「厳格主義(リゴレシスム)」的な思考形式(思考嗜好)の反映であるのは、間違いのないところだと思うんですよね。柳川貴之さん場合はその悪い事例ですし、園主さまの「文体」も、はらぴょんさんの「文体」も、その「思考形式」をよく反映している、という点では同じだと思いますよ。

ということでございます。
「いっちょがみ」さまの文章には、本人の意図するところ以上に、ご自身の『「思考形式」を含む「思考能力」』が、みごとに反映されているのではございませんでしょうか。

『頼むから、ナンセンスなことを言うのを怖れないでほしい。ただ必ず、自分の言っているナンセンスなことに注意してほしい。』

これはウィトゲンシュタインの言葉でございますが、私はこの言葉を、

「どうか、世間でナンセンスだと受け取られるような発言をする、勇気を持ってほしい。ただ、そうした言葉がナンセンスなものと受け取られるのだという、自覚は持っていてほしい。でないと、それは主観的には『ナンセンスなことを言う』ことにならず、自ずともとより『怖れ』も何も持ちようがないからである」

という風に理解しております。

つまり「いっちょがみ」さまの文章は、たしかにナンセンスなのでございますが、ご当人はそれがナンセンスだということに、まったく気づいておられません。だから、このような文章を、匿名とは言え、書き込む気になるのでございます。
さらに申しますと、ウィトゲンシュタインは、世間からナンセンスと評価されようと言うべきことは言う勇気を持て、と言っているのでございましょうが、「いっちょがみ」さまはその「匿名」という選択によって、世間の評価に自身をさらすだけの勇気を持たないという事実(=勇気の無さ)を、自ら暴露しております。

したがいまして、以上のことからわかるのは、私の『脳ミソ』を妬んでおられるらしい「いっちょがみ」さまは、ウィトゲンシュタインの望む哲学的思考者から、最も遠い人だということなのでございます。





( 以下は「プレゼント(6)」につづく)


プレゼント(6) 投稿者:園主  投稿日: 1月 5日(水)01時18分29秒


 いっちょがみさま(つづき)

そこで、ご本人にお尋ねしたいのですが、

――「いちょがみ」さま、貴方さまは、本気で、私より知的に優れているとお思いですか? あるいは、私よりも、人間的に豊かで、人様に敬愛を受け得る人間だとお思いですか?

問題は、「いっちょがみ」さまには、私に対し悪意を込めた言葉を発することによって、私や私の周囲の人に不愉快な思いをさせるという、その「目的」しか眼中になく、そもそもどうして私に悪意を抱くのか、その自己省察がまったく欠落している、という点なのでございます。つまり『自分の言っているナンセンスなことに注意』するという視点が、まったく欠落しているのでございますね。ですから、「いっちょがみ」さまの文章は、自覚のないナンセンスなものとなって、読者にもその「自覚の無さ」が露に伝わってしまうのでございます。

このように、「掲示板荒らし」をするような方というのは、おおむね「文体」について無自覚であり、それはたいがい自分自身についての無自覚・無認識に発するものなのでございます。しかし、無自覚・無認識というものは、決して自身へのこだわりの無さからくるものではございません。むしろ、他者から充分に評価されていないと感じる「度しがたい自己執着」、つまり「自意識過剰」から来るものなのでございます。
しかしまた、そのような方が、その虐げられた欲望のゆえに、人前に出られない(匿名)人間になってしまうというのは、何とも皮肉な逆説だと申せましょう。

この問題について、私は「いっちょがみ」さまに、拙文真の敵を見さだめる勇気を捧げたいと存じます。





( 以下は「プレゼント(7)」につづく)

幻視のリレーを引き継ぐものは? 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月 7日(金)14時59分21秒

埴谷雄高著『幻視の詩学〜わたしのなかの詩と詩人』(思潮社・詩の森文庫)の解説は、齋藤慎爾さんがされていますが、二箇所に渉って笠井潔さんの評論を引用されています。一箇所目は埴谷さんが『死霊』の完成に注いだ60年という年月は、ゲーテが『ファウスト』、プルーストが『失われた時を求めて』に費やした年月を凌駕するという趣旨のもので、二箇所目は「全宇宙に匹敵する特権的な<その一語>」を求めようとするマラルメ的願望を埴谷さんが持っていたというものです。
『中井英夫[1]虚無への供物』(創元ライブラリ)の付録3にも、埴谷さんの『虚無への供物』の推薦文「文学の特別 席」とならんで、齋藤さんの「塔晶夫へのオード」が並んでおり、齋藤さんが三島由紀夫・澁澤龍彦・埴谷雄高・中井英夫らの文学を高く評価していることが伺えます。
笠井さんは、『テロルの現象学』の時から、埴谷さんの評論についてテロリズムの難問に取り組み、それを克服しようとした思想ということで言及しており、その後も『死霊』について一冊の本の中に全世界の意味を封じ込めようとする試みとしてたびたび論及しており、齋藤さんの目を引くことになったのだと思います。
齋藤さんの文章を読みながら考えたことは、例えば笠井さんが『天使/黙示/薔薇』(矢吹駆初期三部作)と『テロルの現象学』だけを書いただけで夭折していれば、埴谷雄高・中井英夫らの系譜に立つマイナーな作家として評価することも可能だったのかも知れませんが、現在のポジションはそれとは正反対の本格ミステリ界のインサイダーであり、理論を用いて本格ミステリ界を組織化しておこうという立場であり、権力として機能してしまっているということです。
吉本隆明さんの『悪人正機』(聞き手:糸井重里)に、次のようなくだりがあります。
「詩の世界って、たくさん賞があるんです。もういろいろあってさ。で、他のジャンルではそんなことはないんだけど、選者が自分たちでもらっちゃうんだよ。かわりばんこみたいにして。
この貧しさがかなわねえなって。」(新潮文庫版、P75参照のこと)
これを次のように、改ざんして読んでみましょう。
「ミステリの世界って、たくさん賞があるんです。もういろいろあってさ。詩のジャンルだけじゃないんですよ。いろいろあるのに、さらに賞を制定して、自分たちでもらっちゃうんだよ。かわりぱんこみたいにして。
この卑劣さがかなわねぇなって。」

◆ホランドさま
薔薇十字制作室SIDE B BBSに次のような書き込みがあります。
色々と情報をありがとうございますm(__)m。 - 賢ちゃん (男性)2004/10/12(Tue) 06:16
>「ClAMPノキセキ」という雑誌には、毎回ClAMP作品のキャラが、チェスの駒となって付録としてついてきますから、第四号でチェスの駒となったみさきに出会うことができるわけですが。
むむむ。そんなものまで発売されていたとは(汗)。
雑誌は探してみようと思います。

というわけで、賢ちゃんは「ClAMPノキセキ」のことは、すでにご存知だと思います。

http://players.music-eclub.com/players/Song_detail.php3?song_id=50401


生きているチャーリィ・ゴードン(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月10日(月)01時54分33秒


 はらぴょんさま

齋藤さんの文章を読みながら考えたことは、例えば笠井さんが『天使/黙示/薔薇』(矢吹駆初期三部作)と『テロルの現象学』だけを書いただけで夭折していれば、埴谷雄高・中井英夫らの系譜に立つマイナーな作家として評価することも可能だったのかも知れません

 この言葉は痛切ですね。園主さまも、以前はよくそんなことを言ってましたよ。

 例えば、当初、園主さまにとっての竹本健治は「『匣の中の失楽』を書いた天才作家」というものでした。だから、『囲碁殺人事件』や『将棋殺人事件』ではぜんぜん物足りなくて、『トランプ殺人事件』で「まあ、これくらいなら」といった感じだったようですね。今はそこまでは要求していないからいいんですが、最初の頃は期待が大きかっただけに、竹本さんに対する要求もとっても厳しくて「貴方はこんなものを書いているべき人じゃない」的な言い方もしたようです。
 『ウロボロスの偽書』には、竹本さんが『匣の中の失楽』や「ゲーム三部作」などの初期作品を書いた後、ミステリを書くのが厭になって、ミステリから離れた時期への言及があったと思います。これは竹本さん自身、『虚無への供物』(そして『匣の中の失楽』)の呪縛というものに重くのしかかられていたということを示しているんでしょうが、当時の園主さまも同様な呪縛にとらわれきっていたから、おのずと竹本さんへの要求も厳しかったんでしょうね。

 そうした時期が過ぎて、そういう自分を相対化した後の園主さまの冗談が、竹本さん本人を前にしての、

「僕の竹本健治を返せ! 僕の笠井潔を返せ! 僕が愛した本物の竹本健治と笠井潔は、きっともう死んでいて、いま生きているのは、それに成り変わった偽者なんだ。僕の竹本さんと笠井さんは、中井英夫の後継者として、お墓のなかで仲よく眠っているんだ」

というものだったんです。

 つまり、園主さまがこの「洒落にならない冗談」で表現しているのは、ひとつには、人間はいや応なく変わるものなんだし、その現実が認められないというのは「精神の幼さ」でしかないということ。そして、もうひとつは、でも、そうした感情(正直な気持ち)は、今でもどこかで生き続けている、ということなんだと思います。

 なんだかこれも『アルジャーノンに花束を』めいた話になってしまいましたね(笑)。





( 以下は「生きているチャーリィ・ゴードン(3)」につづく)

園主さんに質問 投稿者:DHC  投稿日: 1月10日(月)21時23分15秒

はじめまして。知人から興味深いサイトがあると聞き、ここに来てみました。彼が関心をもつのは納得できたけど、疑問がふつふつとわきあがってきた。公平感に欠けた部分がありそうだと。
自分の知っていることにはいろんな深読み、裏読みをするけど、自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?
一例をあげるなら、『週刊文春ミステリーベスト10』で、

雫井脩介の『犯人に告ぐ』が第1位に輝いたのは、紀伊国屋書店社員によるベスト本投票「キノベス2004」でも明らかなとおり、書店員による『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。

と断言している。
だけど、『犯人に告ぐ』は、双葉社の担当編集者が一年かけて社内を調整し、営業や重役、役員たちに読ませて了解を取りつけ、初版を5万部も刷ったという話です。初版5万部は、相当なメジャー作家でないと無理な数です。この本をベストセラーにするため、双葉社は発売前にゲラを綴じた白表紙の本を大きな書店の店員用にばらまいたらしく、印刷所でカバー付の完成品ができる前に、書店の裏方や他社の編集者の間で話題となっていたそうです。
もし『犯人に告ぐ』のこういった裏情報を知っていたら、笠井潔一派や若桜木虔一派を批判した時と同様な反応を見せて、上のように、『犯人に告ぐ』が『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒した、といった断定的な感想を書けなかったのではないか? 他のアンケートでそれほど評価の高くなかった本が第1位 に輝いたら、何かがあると考えるべきではないか?


アジール戦線異常アリ・2 投稿者:古田  投稿日: 1月10日(月)21時30分54秒

>園主さま

下で、望まれる共同体について書いていて、矢吹駆の「ブタ以下」発言が頭をよぎり、次のような話を思い出しました。
ある禅寺に、悟りを得るべく修行する人たちがいるのですが、ある日、ひとりの市井の人間がやってきて、その日の内に悟りを得たとして下山したそうです。
これは、真実なり悟りなりというのが日々の生活から乖離したところにはないということだそうですが、けれど現在の市井が理想のものであるということを保証するものではないでしょう。
ずっと疑問なのですが、矢吹駆はどんな労働によって日々の糧を得ているのでしょうか。まあ、矢吹駆=天使だとすれば、そんな疑問は吹いて飛ばされるのですが。

レムの作品は、昔『ソラリスの陽のもとに』を読んだことがありますが、SFとしての評価以前に文体(翻訳)が性に合わなかったようです。泰平ヨンのシリーズは、よく耳にするものの、現物を目にしたことがありません。ネット古書店やオークションを利用すれば入手が容易くなるのでしょうが、小説についてはあまりそうしたくないのです。できれば、ぶらりと立ち寄った古書店にて邂逅したいと思っています。

>時雨さま

竹本健治の作品で最初に読む本として、私が一番ふさわしいと思うのは『閉じ箱』です。私が高校生のときに『匣の中の失楽』を読んで、周囲の人間に薦めてまわったのですが、返ってきたのは「すごいと思う、だが超絶すぎて近寄りがたい」という意見ばかりで、竹本氏の他の作品には手が伸びなかったようです。分量 も結構なものがありますし、読後の疲弊が強いのかも知れません。
その点『閉じ箱』は短編集なのでとっつき易いし、竹本作品の魅力をあますところなく詰め込んだものだと思うので、お薦めいたします。
竹本氏の短編で私が一番好きなものが、『閉じ箱』所収の『仮面たち、踊れ』だというのが、もっと単純な理由なのですが。
読書するときに限らないですが、時機というのは重要ですね。私がブギーポップシリーズで最初に読んだのは、二作目の『VSイマジネーター』だったのですが、そうじゃなく一作目から順番に読んでいたら、おそらくここまで続けて購読していなかったと思います。多感に濫読する年頃に出会ったというのも大きな要因です。

……書店在庫を調べてみたら、『閉じ箱』は角川ホラー文庫版も入手不可とのこと。なんということでしょう。
『闇に用いる力学・赤気篇』も入手不可になっているし、ああ、世の中何か間違ってやしないだろうか……
園主さま、『闇に用いる力学』は、はたして完結するのでしょうか、それ以前に続篇が出版されるのでしょうか。

7時間カラオケの後で(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月11日(火)01時52分8秒

みなさま、すでにホランドくんから報告がございましたとおり、本日は、3人でカラオケに行ってまいりました。ホランドくんは単に『3人で7時間』歌ったと書いておりましたが、これは普通 におとなしい曲を7時間歌ったということではございません。どっちかと言えば、「叫び」系の曲をたくさん歌っての7時間だと、斯様にご理解下さいまし(笑)。

なお、本日はあまり時間がなく、また数日は仕事が立て込んでおり書き込みができない怖れもございますので、ここはひとまず、新来のDHCさまとひさしぶりの古田さまのお二人にレスさせていただくことにし、はらぴょんさまとAOIさまは後日ゆっくりレスさせていただくいうことでご勘弁いただきたいと存じます。あしからず、ご了承下さいまし。





 DHCさま

ようこそ、お出で下さいました。また忌憚のないご意見をありがとうございます。

なにしろ「業界の禁忌にふれる裏話」ゆえ、その筋からは完全黙殺されておりましたので、多少なりともこのような反響があったことは、たいへん嬉しゅうございました。反響が届かないのは、決して読まれていないからではないというのが、お話からも窺われたからでございます。


さて、ご意見を拝読して、まず感じましたのは、貴方さまは『公平』ということを取り違えているのではないかということでございます。

貴方さまは『笠井潔一派や若桜木虔一派』がやったことと、『双葉社』の編集者や書店員がやったことを、同列にならべて評価なさっておられますが、これは明らかに「次元の違う話」でございましょう。
つまり『笠井潔一派や若桜木虔一派』は「小説家」や「評論家」といった「公的言論公表者」ですから、自身が公にする文章(意見)については、「プロ」としての責任を負わねばなりません。ところが、彼らは自身が関与した「ベストテン投票」や「文学賞」において、「不公正」な「身内びいき」を一般 読者にはわからないかたちでやったのですから、これは彼らの「職業倫理」に反する行いであり、「読者への背信行為」として問責断罪されてしかるべきことなのでございます。

しかし、出版社社員・編集者の仕事とは何か? ――彼らの仕事は、精一杯面白い本を作って、それを売ることでございます。また書店員の仕事とはなにか? それは本を売ることでございます。つまり、『双葉社』の編集者がやったのは、自社の製品の売り込みであって、別 に非難される筋の行為ではございません。また、売り込みをうけた書店員が、それを読んで面 白いと思えば、それを推すことに何ら問題はないのでございます。元々彼らは、評論家でもなければ物書きですらないのですから、すべての作品を読んだ上で公正に評価しなければならない筋など毛頭ない。書店員とは所詮「本を売る人」であって「読む人」でも「評価する人」でもないのでございます。つまりそんな「読書の素人」を「プロの評論家」などと並べて、評価を語らせねばならないところに、そもそも、ミステリ業界におけるプロの物書き・評論家の情けなさがあるのでございます。





( 以下は「7時間カラオケの後で(2)」につづく)

7時間カラオケの後で(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月11日(火)01時53分15秒


 DHCさま(つづき)

私の書いたものをよく読んでいただければおわかりいただけましょうが、私は「文の素人」である「編集者」や「書店員」と、「プロの物書き」を同列には並べておりませんし、私が興味を持つのは当然のことながら、まずは「プロの物書き」の方なのでございます。そして、その彼ら「プロ」の倫理が地に墜ちているというのに、それをさておき、素人である編集者や書店員の「余技としての書評」の倫理を問うなどというのは、本末転倒というものではございませんでしょうか?

私に言わせますと、「出版社の売り込み」を問題にするほど、貴方さまがこの種の「ベストテン」における公正さについて問題意識を持っておられるのなら、当然貴方さまも、ミステリ業界に隠然たる影響力を行使している「笠井潔一派」を、まずは徹底的に批判していてしかるべきなのではございませんか? そういうところを他人まかせにしておいて、「あれもこれもお前がやれ」とはおっしゃれないはずでございますよね。もし、ご自分のことを棚上げにして、私にそこまで多くのことを要求なさるのだとすれば、それは果 たして『公平』とか「公正」な態度だと言えるのでございましょうか?

また、貴方さまはどういうおつもりで、どこの誰とも知れないハンドルネームをお使いなのでしょうか? もし、貴方さまがご自身の発言に責任を持つおつもりなら、どんな作家のファンで、どういうサークルに所属しているとか、どんな作家と面 識があるといったことくらい、書いても良いのではございませんか? 自分のカードは全部伏せておいて、人の言論に注文をつけるというのは「フェア」ではない、とはお思いになりませんか? いったい貴方のなさっていることと、「双葉社の編集者」がやっていることと、どっちが「公明正大」だとお考えなのでしょう。

こういう業界裏話に興味をもたれているからには、貴方さまもミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間ではないはずでございます。少なくとも、好きなミステリ作家の一人もいないというわけではないはず。
そんな貴方さまが、本気で私に『公平』さを求めるとおっしゃるのなら、せめて貴方さまも、私と同様、逃げ隠れのできない立場にたって、身体をはった発言をなさったらよろしゅうございましょう。私が笠井潔や法月綸太郎を批判できるのは、それだけの公正さを保っているからで、匿名の素人が好き勝手を言っているのとは訳がちがうのでございますよ。「同じ物書き」として、真正面 から挑んでいるからこそ、彼らは私の存在を笑い飛ばすわけにはいかないのでございます。


譬え話をいたしましょう。――私は善良なる一市民で、私の前を走って逃げていく3人の犯罪者がいたとします。私は、できれば3人とも捕まえたいのですが、それをするのは物理的に不可能ですので、私は3人のなかでもっとも極悪人の犯罪者を追いかけ、なんとかこれを捕まえたといたします。それを警察に突き出した後、残りの2人を探しましたところ、幸運にももう一人を見つけることができ、彼を捕まえることもできました。しかし、残りの一人は取り逃がしてしまいました。
さて、これを高みの見物していた者が、私に向かって「一人だけ逃がしてしまうのは『公平』ではない。捕まえるのなら、みんな公平に捕まえろ」と言いました。そこで、私は「そこまで手は回りませんよ。私は一人なんですから。それに私は最善を尽しましたよ」と言いますと、彼は「出来ないんなら初めから、犯罪者を捕まえようなんてするな」と言いました。
しかし、それで喜ぶのは誰なのでしょうか? ――それに、犯罪者を捕まえるのは、なにも私でなければならない理由はございません。私に替わって彼が、3人いっぺんにひっ括っても、べつに構わないのでございます。……しかし彼には、そんな危険なまねをする気など、毛頭なかったのでございましょう。世の中とは、そんなものなのでございます。





( 以下は「7時間カラオケの後で(3)」につづく)

7時間カラオケの後で(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月11日(火)01時54分18秒


 古田さま

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

下で、望まれる共同体について書いていて、矢吹駆の「ブタ以下」発言が頭をよぎり、次のような話を思い出しました。
> ある禅寺に、悟りを得るべく修行する人たちがいるのですが、ある日、ひとりの市井の人間がやってきて、その日の内に悟りを得たとして下山したそうです。
> これは、真実なり悟りなりというのが日々の生活から乖離したところにはないということだそうですが、けれど現在の市井が理想のものであるということを保証するものではないでしょう。

これは『市井』の話ではなく、『日々の生活=日常』の話なのでございますよ。つまり『日常』から切り離された「非日常の空間=神聖な空間」にのみ『真実なり悟りなり』が宿るのではない。むしろそれらは『日常』のなかに伏在するものなのだ、ということを語っているのではないでしょうか。言い換えれば、「場所」の問題ではないのだ、という主旨の譬え話なのだと存じます。したがいまして、『日々の生活』と『市井』を一直線に結びつけるのは誤解だと存じます。

> ずっと疑問なのですが、矢吹駆はどんな労働によって日々の糧を得ているのでしょうか。まあ、矢吹駆=天使だとすれば、そんな疑問は吹いて飛ばされるのですが。

彼は「簡単な生活」を実践しておりますから、生活費は僅かなものでしょうし、なにしろあらゆる才能に恵まれ、なおかつ、仕事の内容に不満をもらすような人間でもないので、何なりと生活はできましょう。『オイディプス症候群』は、ちゃかりと大学教授の助手になってもおりましたしね(笑)。

> レムの作品は、昔『ソラリスの陽のもとに』を読んだことがありますが、SFとしての評価以前に文体(翻訳)が性に合わなかったようです。泰平ヨンのシリーズは、よく耳にするものの、現物を目にしたことがありません。ネット古書店やオークションを利用すれば入手が容易くなるのでしょうが、小説についてはあまりそうしたくないのです。できれば、ぶらりと立ち寄った古書店にて邂逅したいと思っています。

そうですね。私もできれば現物を手に取って確認してから買いとうございますし、おっしゃるとおり『ぶらりと立ち寄った古書店にて邂逅』できれば最高でございます。しかし、いずれにしろ、すでに読み切れないほどの本を所蔵しておりますから、ネットを利用してまで、さらに本を買う必要は、まったくないのでございます(苦笑)。





( 以下は「7時間カラオケの後で(4)」につづく)

7時間カラオケの後で(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月11日(火)01時55分24秒


 古田さま(つづき)

竹本健治の作品で最初に読む本として、私が一番ふさわしいと思うのは『閉じ箱』です。私が高校生のときに『匣の中の失楽』を読んで、周囲の人間に薦めてまわったのですが、返ってきたのは「すごいと思う、だが超絶すぎて近寄りがたい」という意見ばかりで、竹本氏の他の作品には手が伸びなかったようです。分量 も結構なものがありますし、読後の疲弊が強いのかも知れません。

そのとおりでございますね。しかし、それは『閉じ箱』についても同じで、(初版本の)帯文にもございましたとおり、一般 には『閉じ箱』も、

  『この息苦しさは何だろうか……』

ということになるのでございしょう。

もちろん私も、『閉じ箱』は、『匣の中の失楽』とならぶ竹本健治の代表的著作だと存じます。

> 竹本氏の短編で私が一番好きなものが、『閉じ箱』所収の『仮面たち、踊れ』だというのが、もっと単純な理由なのですが。

私は、『閉じ箱』所収の「夜は訪れぬうちに闇」が、竹本健治の最高傑作ではないかと存じます。

> ……書店在庫を調べてみたら、『閉じ箱』は角川ホラー文庫版も入手不可とのこと。なんということでしょう。
> 『闇に用いる力学・赤気篇』も入手不可になっているし、ああ、世の中何か間違ってやしないだろうか……

まったくでございますね。しかし、世の中そんなものでございますよ。
「チョムスキーがノーベル平和賞を受賞するようなら、世界ももっとまともだったろうに」と言った人があるそうでございますが、本当にすごい人はかえって評価されない――などということは、ままあることなのでございます。

ともあれ、「ゲーム3部作」を収めたついでに、そのあたりも「創元推理文庫」に収めてくれれば良いのでございますが……。

> 園主さま、『闇に用いる力学』は、はたして完結するのでしょうか、それ以前に続篇が出版されるのでしょうか。

『闇に用いる力学』は、竹本作品のなかでも、ファンからもっとも続編の期待されている、人気の高い作品なのでございますが、―― 2001年以前、竹本健治は『今世紀中に、なんとか続編を』と言っていたのが、新世紀に突入しますと『今世紀はまだまだ先が長いから(笑)』となってしまいました……。したがいまして、続編は当面 は難しゅうございましょうし、まして完結させる気などあるのかどうか。
もちろん、埴谷雄高の『死霊』のように、完成しないのが運命づけられた作品として、ある種の完成を見せてくれれば、それはそれで構わないのでございますが、今のままでは、あまりにあまりでございますよね。

さらに申しますと、『闇に用いる力学』のネタは、短編として小出しにしてしまっているところがあるようにも見受けられますので、そのあたりが「続編としての長編」をさらに困難にしてはいないかと、危惧されるところでもございます。

ちなみに竹本健治の現在抱えている仕事は、

 (1) 『ウロボロスの純正音律』(『メフィスト』)
 (2) 「牧場智久の雑役シリーズ」(『ジャーロ』)

で、ここに間もなく、

 (3) 「文春ミステリ・マスターズ」

が加わります。
(3)は書き下ろしになるか、雑誌連載をまとめる形になるかは、はっきり存じ上げませんが、当面 はこの3本を並行して執筆する形となりましょう。

で、(1)が完結すれば、『闇に用いる力学』に取りかかる可能性があるのかと言えば、不定期に短編の注文も入りましょうから、(1)が終ったくらいではぜんぜん無理で、さらに(2)か(3)が終っても、次に待っているのは、みなさまお忘れであろう「マンガの2作目」なのでございますね……。

で、私は多くの竹本健治ファンの気持ちを汲んで、心を鬼にして、竹本健治に「ファンは、マンガの2作目なんか望んでいませんよ。そんなの描く暇があったら、『闇に用いる力学』の続きを書いて下さい」と直言しますと、竹本健治は「だって、もう僕は漫画家なんだし、漫画の方が描きたいんだもん。それに漫画を描くという約束で、南雲堂からスタジオを借りたまんまなんだから、描かないわけにはいきませんよ」……とまあ、処置なしなのでございます(-_-;)。



 賢ちゃんホランド

今日はご苦労さまでした。耳に残った私の歌を、子守唄にして眠ってくれたまえ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。


目先の感情に囚われない知性(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月13日(木)01時28分39秒


 DHCさま

 はじめまして、ようこそおいで下さいました!

『犯人に告ぐ』は、双葉社の担当編集者が一年かけて社内を調整し、営業や重役、役員たちに読ませて了解を取りつけ、初版を5万部も刷ったという話です。初版5万部は、相当なメジャー作家でないと無理な数です。この本をベストセラーにするため、双葉社は発売前にゲラを綴じた白表紙の本を大きな書店の店員用にばらまいたらしく、印刷所でカバー付の完成品ができる前に、書店の裏方や他社の編集者の間で話題となっていたそうです。

 園主さまは、ずっと以前、つまり島田荘司が『水晶のピラミッド』(1991)を刊行した際に、この白表紙本が『このミステリーがすごい!』の投票者たちに事前配布されたのを問題視して、島田荘司を(『SRマンスリー』誌上で)批判したことがありましたよ。

 この際、園主さまは、「白表紙本の配布」を許可したか黙認したのであろう著者の島田荘司を批判してましたし、身近な「SRの会」の会員のなかにも、投票者として白表紙本をもらって平気な人のいることも批判していました。
 つまり、園主さまはこの当時でも、そういうことをする編集者については、ほとんど問題視していなくて、それを黙認したのであろう作家の方を批判したり、「ただで本をもらう」ことを良しとし、その本と「自腹を切って買わなければ読めない本」とを同じように『公平』に評価しうると考える「ベストテン投票者(作家・批評家・マニア)」を批判していたんですね。

 ですから、そのでんで言えば、今回の『犯人に告ぐ』の場合も、批判されるべきは著者の雫井脩介だということになるんでしょうが、ただ今回は、白表紙本を配布先が『大きな書店の店員』だということですから、これは「ベストテン投票者」を狙い撃ちにした『水晶のピラミッド』の場合とは、同列には扱えないんですね。
 編集者が販売促進の一環として「書店に見本刷りを配布して、商品への理解を深めてもらう」というのと、「ベストテンへの投票を期待して、投票者に無料で本を提供する」というのは、ぜんぜん意味が違うからです。

 園主さまが『譬え話』で書かれていたとおり、園主さまもDHCさまも「一介のアマチュア読書家」だという点では、まったく同じ立場なんですから、DHCさまに「その気と勇気と批評力」があれば、園主さまと同じことが同じ立場でできるはずなんです。なのに、それをしていないのはなぜか? それを考えてみる必要があると思いますよ。案外、自分のことが一番わかっていないのも、自分ですからね。
 ――もっとも、DHCさまが園主さまに批判される側の「プロ(あるいは、その関係者)」なのなら、自分の立場に自覚がないために園主さまを批判したんじゃない、ということになるんでしょうけどね。





( 以下は「目先の感情に囚われない知性(3)」につづく)


インターミッション(2)(抄) 投稿者:時雨  投稿日: 1月13日(木)03時09分39秒

>はらぴょん様

お久しぶりです。今年もよろしくお願いいたします。

>TYPE-MOONによる全面的なバック・アップ体制により、毎回、武内崇さんのイラストを文庫のカバーにつけ、あたかもライトノベルであるかのように、とらのあなをはじめとするアニメ・ショップに文庫を置くことにより、新規読者の開拓を図ろうとしているわけですが、その割には「『ヴァンパイヤー戦争』って凄いね」なんて声は聞いたことがありません。

そうですね、僕がたまに見るTYPE−MOONのファンサイトでも随分前の日記で「『ヴァンパイヤー戦争』買いました。読んだら感想アップします」って日記に書いて、それっきりだし。

ところで『無底の王』というのはどういった作品なのですか?
笠井氏の作品でオウムというと『天啓の宴』が浮かびますが・・・
よろしければもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。



>古田さま

明けましておめでとうございます。
『閉じ箱』のご紹介ありがとうございます。在庫切れということですが・・・
実は我が家の近所には日本最大規模を誇るBOOK−OFF町田店があるのです!
というわけでそこに行けばきっと見つかるはずなので探してみます。

それでは皆様、今夜はこの辺で。重ねて今年もよろしくお願いいたします。

余計なお世話でした 投稿者:DHC  投稿日: 1月13日(木)16時29分41秒

ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。ぼくは基本的に小説もゲームも芸術品ではなく、商品だと考えています。だから、笠井さんが仲間の本の売り込みに業界内での自分の権力を行使したとしても構いません。本を買うときの目安は権威者の推薦文や受賞作品といった付加価値ではなく、本の内容だからです。選択の失敗もありますが、どんな愚作でも金額分の娯楽を与えてくれれば、それでOKです。
園主さんの考えと異なり、本の提供者という意味でぼくにとっては、編集者や書店員も作家と同列な存在です。よって、笠井さんたちを批判する必要性を感じていません。前の投稿の趣旨は、出版社を批判しているのではなく、園主さんが双葉社の件を知らないようだったから情報を提供し、園主さんの弱点だと思われる面 を指摘しただけのことです。ぼくの目的は掲示板荒らしではなく、園主さんへの建設的なアドバイスのつもりでした。でも、レスから判断して、どうやら余計なお世話だったようですね。
初投稿に関して、ぼくが園主さんに期待した反応は、まず第一に、双葉社についての情報が正しいかどうかを確認するため、ぼくに情報源を問いただすことでした。でも、園主さんはぼくが指摘した
>自分の知っていることにはいろんな深読み、裏読みをするけど、自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?
という言葉を無視して、情報の真偽のほどを問いただすこともなく、出版社の売り込みの正当性について論じた。どこの誰とも知れないハンドルネームの人間が書いた情報を、どうして裏付けもなくそのまま採用することができるのですか?
問題にしている不公平感とは、園主さんのそういった態度です。詳細な分析(笠井関連の深読み)と、断定的で不確かな部分(『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。という独断)が玉石混交しているところです。第一、書店員や他社の編集者の間で話題になったのは、作品への評価ではなく、双葉社の売り込み方に関してだったのです。
こういった点こそ、ぼくが指摘したかった園主さんの欠陥部分なのです。サイトの評論文を読むと、せっかく良いことを論じているのに、肝心かなめなところで、非論理的で独断的な言動がちらほらとうかがえます。どんなに素材や立脚点がすばらしくても、料理の仕方が間違っていれば、できあがったものは不良品とならざるをえないでしょう。
ホランドさんの投稿の『このミス』の投票者たちへの事前配布に関して、ミステリーに造詣の深い知り合いに確認したところ、次のような返答をもらった。このミス編集部が白表紙本を配布したのは、前年の『暗闇坂の人喰いの木』がアンケート対象の十月末の発刊日にもかかわらず、実物が書店に並んだのが十一月中旬以降で、初旬の締切りに間に合わないと考えた十数人の回答者が、本も読まずに一票を入れたのだそうです。未読の本に投票した回答者に、編集者が直接電話で確認し、締切り日までに読めないのなら、他の作品に再投票するように迫った。ぼくの知り合いがその一人だったというのだから、この情報は真実です。この問題を踏まえて翌年、編集部が講談社に参加したかったら発刊日を守るか、無理なら島田本を事前配布するように求めたのが事の真相です。よって、園主さんが一番に責めるべき相手は、前年に読んでもいない島田本に投票した一部の回答者たちです。園主さんはこれをご存知でしたか? 園主さんの批判文は未見ですけど、ホランドさんの要旨から判断して、この真相を知っていたら論点が異なっていたのではありませんか?
ぼくはネットで双葉社の件を知りましたが、活字では大型書店の売上ベストテンにも入ったロッキング・オン社の『日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー2005』で、大森望さんが詳しく触れています。


結晶化する精神(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時47分30秒

みなさま、私、昨日は、最近文庫落ちした澁澤龍彦のエッセイ集『夢のある部屋』(河出文庫)を読んだのでございますが、このエッセイ集、全体に感心しないものが多いように感じられました。この文庫本は、1973年に刊行された単行本に、文庫未収録の短編エッセイを増補したものでございますが、1928年生れの澁澤が、四十代前半の男盛りに書いたもののせいか、妙な「力こぶ」がしばしば感じられ、晩年の悠揚迫らざる魅力が感じられなかったのでございます。
もちろんこれは、私が澁澤晩年のエッセイや小説のファンだからで、当然この時期のものに魅力を感じる読者も大勢おりましょう。ただ、私がこのことから感じたのは「澁澤龍彦も、最初から(=若い頃から)澁澤龍彦(=高丘親王)だったわけではないんだな」――つまり、彼もまた、歳を重ねるごとに自分を練り上げたいった人間だったんだな、ということなのでございます。

こう思えるのは、私が歳をとって、一種カリスマ的な存在であった澁澤龍彦を、相対化できるようになったからでございましょう。もし若い頃にこのエッセイ集を読んでいたなら、なぜそこに「澁澤龍彦らしさ」が感じられないのかがわからず、きっと単に「面 白くない」と思ったことでございましょうね。

人間は、多かれ少なかれ誰でも、いずれは枯れてくるものでございます。いまだに重厚さを失わない、かの大西巨人でさえ、やはり若い頃の作品にくらべれば、どこかある種の「枯れた味わい」を漂わせております。
澁澤龍彦や大西巨人あるいは中井英夫といった作家に惹かれる私は、もとより枯れた作風の作家が好きなわけではなく、むしろ個性の強い、「濃い」作家こそが好きなのだと申せましょう。しかし、そういうエネルギーがあり余って沸々と煮えたぎっているような作家の、全盛期における怪物的な作品が魅力的なのはもちろんのこと、そういう作家が「枯れ」て研ぎ澄まされてきた時の「晩年の魅力」というのも、またたいへん貴重なものと感じられるのでございます。
初めから「薄味」の水ぶくれ作家が枯れれば、単に「スカスカ」になってしまうだけでございますが、澁澤龍彦や大西巨人といった作家は、その晩年において「枯れる」と言うよりも「結晶化」を見せるのでございましょう。加齢によって何かが失われるのではなく、凝縮し、その純度を増していったのでございます。

そして澁澤龍彦が結晶化の果てに辿り着いたのは、「枯れる」という言葉とは正反対とも言える、無心に戯れる「童子」の境地だったのだと、私は斯様に感じるのでございます。

結晶化する精神(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時48分17秒


 はらぴょんさま

齋藤さんの文章を読みながら考えたことは、例えば笠井さんが『天使/黙示/薔薇』(矢吹駆初期三部作)と『テロルの現象学』だけを書いただけで夭折していれば、埴谷雄高・中井英夫らの系譜に立つマイナーな作家として評価することも可能だったのかも知れませんが、現在のポジションはそれとは正反対の本格ミステリ界のインサイダーであり、理論を用いて本格ミステリ界を組織化しておこうという立場であり、権力として機能してしまっているということです。

齋藤慎爾が笠井潔を引用するのは、おっしゃるとおり笠井潔に『埴谷雄高・中井英夫らの系譜に立つ』作家であることを期待したことがあったということでしょうし、今の笠井潔がダメだとしても、それで過去の文業がまったくの無価値になるとは考えなかったからでございましょう。

たしかに笠井潔は、小説であれ評論であれ、それなりに面白いものを書いておりますし、その部分はただしく評価されるべきでございましょう。また事実その部分は、現在のミステリ界でも評価されておりますし、見てのとおり齋藤慎爾だって評価しております。ですからこそ、問題となるのは「誰も触れたがらない、笠井潔の現状」なのでございましょうね。

ご承知のとおり、齋藤慎爾は、評論家であり歌人であり編集者でございます。そして、そんな齋藤慎爾の批評は、笠井潔への評価にも表われておりますとおり、多分に「編集者」的なものだと申しましょう。つまり、「見せたいところだけ」を切り抜き、見栄えよく並べかえた上で見せるという「編集」がなされており、「その本質を剔抉し、現状を正確に映しだすもの、ではない」ということなのでございます。

齋藤慎爾は、綾辻行人も評価していたと記憶しておりますが、この二人に共通するのは「見たいものしか見ない(見られない)」という弱さなのでございましょう。
先日も書きましたとおり、私は綾辻行人の新作『暗黒館の殺人』に、綾辻の自己防衛的(=自己賛美的)なものを感じておりますが、私は同様のものを、北村薫の『朝霧』(創元推理文庫)に対する、齋藤慎爾の解説に感じさせられました。
私とて、二人が、人間的には良い人であり、それなりに才能のある人だというのを認めるに吝かではございません。ただ、一般 的な「人柄」や「才気」だけでは、人間は衰えゆく自己の現実を直視することなど、どだい不可能なのでございましょう。そしてその典型が、二人がそろって評価する、笠井潔その人なのでございます。



 賢ちゃん

こないだはご苦労さんでした。
それにしても、そろそろ新曲を開拓しないと、ちょっとマンネリ化してきたなあ……。

>  入手したいものを入手してしまうと、ちょっと気が抜けます(苦笑)。

たしかにね。手に入れた瞬間が一番うれしんであって、その後はもうどおってことはない。つまり、結婚と同じようなものだ――なんてことを、独身男が言っても、あまり説得力は無いんだが(笑)。

> 今は、TV番組の『相棒』に夢中です。
> 水谷豊の、話し方が耳に心地よいんです。
> あ、勿論番組の内容も好きですけどね。

ああ、あの2週1話でやっている刑事ドラマだね。なんどか見たけど、なかなか力の入った番組だと思ったよ。水谷豊は、いつもどおり水谷豊だったけど、それで納得させるところが、彼の魅力だろうな。ただ、もうすこし茶目っ気のある芝居の方が、好みではあるんだけど。





( 以下は「結晶化する精神(3)」につづく)

結晶化する精神(5) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時54分37秒


 DHCさま

私は先日(1/5)、一般に「掲示板あらし」と認められるであろう(し、貴方さまもたぶん同様に認めるであろう)「いっちょがみ」さまについて、次のように書きました。

「掲示板荒らし」をするような方というのは、おおむね「文体」について無自覚であり、それはたいがい自分自身についての無自覚・無認識に発するものなのでございます。しかし、無自覚・無認識というものは、決して自身へのこだわりの無さからくるものではございません。むしろ、他者から充分に評価されていないと感じる「度しがたい自己執着」、つまり「自意識過剰」から来るものなのでございます。
> しかしまた、そのような方が、その虐げられた欲望のゆえに、人前に出られない(匿名)人間になってしまうというのは、何とも皮肉な逆説だと申せましょう。

と書きましたが、これは貴方さまにも、ぴったり当て嵌まります。例えば、貴方さまは、私に、

貴方さまはどういうおつもりで、どこの誰とも知れないハンドルネームをお使いなのでしょうか? もし、貴方さまがご自身の発言に責任を持つおつもりなら、どんな作家のファンで、どういうサークルに所属しているとか、どんな作家と面 識があるといったことくらい、書いても良いのではございませんか?

> こういう業界裏話に興味をもたれているからには、貴方さまもミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間ではないはずでございます。少なくとも、好きなミステリ作家の一人もいないというわけではないはず。

と尋ねられて、

ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

などと、トボケた回答をなさっておられます。

私は、貴方さまが、八百屋であろうと、アメリカ人であろうと、両親が健在であろうと、そんなことに興味はございませんし、そんなことを尋ねたのでもございません。
貴方さまもミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間ではないはず』だから、そのあたりを明かせるものなら明かしてみせよ、と言ったのでございます。

結局、貴方さまは『ミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間』どころか、実際には、業界の裏情報にまで通 じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』が身近にいたり、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』がいたりします。――こういうのを世間では「ミステリ界やミステリ出版界と縁のある人間」と言うのでございますよ(笑)。

つまり、貴方さまはご自分が「第三者」的な立場から発言しているかのように見せ掛けたいがために、

> ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

などと無意味なことを書いて誤魔化された。

しかし、自分の発言に信憑性を持たせようとしたために、間抜けにも「ミステリ界やミステリ出版界と縁のある人間」であることを自己暴露してしまったのでございます。





( 以下は「結晶化する精神(6)」につづく)

結晶化する精神(6) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時56分15秒


 DHCさま(つづき)

貴方さまは、

ぼくが指摘したかった園主さんの欠陥部分なのです。サイトの評論文を読むと、せっかく良いことを論じているのに、肝心かなめなところで、非論理的で独断的な言動がちらほらとうかがえます。どんなに素材や立脚点がすばらしくても、料理の仕方が間違っていれば、できあがったものは不良品とならざるをえないでしょう。

と、私の非論理性を証明できたかのようなことをおっしゃっておりますが、それが可能なほど貴方さまが論理的でもなければ明晰でもないというのは、このように貴方さまご自身の文章に明らかでございます。

> 園主さんはぼくが指摘した
> 自分の知っていることにはいろんな深読み、裏読みをするけど、自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?
> という言葉を無視して、情報の真偽のほどを問いただすこともなく、出版社の売り込みの正当性について論じた。どこの誰とも知れないハンドルネームの人間が書いた情報を、どうして裏付けもなくそのまま採用することができるのですか?

と鬼の首でもとったようなことをおっしゃっておられますが、私がそこを無視したのは、説明するまでもないと考えたからに他なりません。
『自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?』って、私は自分のよく知らないことについては、何の判断も下さないだけでございますよ。貴方さまは、「判断を下さない」ということと『ありのままに受け取』ることの区別 がついていないだけなのでございます。つまり、

> 問題にしている不公平感とは、園主さんのそういった態度です。詳細な分析(笠井関連の深読み)と、断定的で不確かな部分(『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。という独断)が玉石混交しているところです。

ここで貴方さまに『独断』だと断定なさっている、

『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。

という私の言葉は、私の『独断』でもなければ『断定』でもない。単なる、投票結果 としての「事実(=書店員の票が、『犯人に告ぐ』に集まって、他の作品を圧し、第一位 となった)」ではございませんか。これは、投票結果をみれば誰にでもわかることで、私の推理でも判断でも何でもないのでございます。私は事実を整理して報告しているだけですし、その内容の是非については何ら自己の判断を語ってはいないのでございます。それを『断定』だとか『独断』だとかおっしゃるので、何を寝ぼけたことを言っているのか、と相手にしなかっただけなのでございます。





( 以下は「結晶化する精神(7)」につづく)

結晶化する精神(7) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)02時07分25秒


 DHCさま(つづき)

貴方さまが、ご自身おっしゃるように、なんら「隠さなければならない(ミステリ界との)関係」などもっていないと言うのなら、業界の裏情報にまで通 じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』や、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』の名前を明かしてご覧なさいまし。
貴方さまはご自身で、

> どこの誰とも知れないハンドルネームの人間が書いた情報を、どうして裏付けもなくそのまま採用することができるのですか?

とおっしゃってますが、当然のことながら、貴方のような方のおっしゃることを、私は鵜呑みにはしませんよ。
『双葉社』のことについては、仮にそういうことがあったとしても何ら問題ではない、と説明しただけのことで、『どこの誰とも知れない』貴方さまが信用できないのはもとより、貴方さまが、さも実在するかのように紹介なさっている「匿名」の二人の『知り合い』だって、その実在すら疑わしいと申せましょう。――実際この二人は、貴方さまの「分身」である可能性だって充分にあるのでございますからね(笑)。

ですから、貴方さまが、いくら、

> 十数人の回答者が、本も読まずに一票を入れたのだそうです。未読の本に投票した回答者に、編集者が直接電話で確認し、締切り日までに読めないのなら、他の作品に再投票するように迫った。ぼくの知り合いがその一人だったというのだから、この情報は真実です。

などと『真実』を訴えても、何の意味もございません。

読まずに投票したのが貴方ご自身だとか、誰某だと書かれているのならばともかく、『どこの誰とも知れない…人間』からの得たという『どこの誰とも知れない…人間』による情報を、どうして信じられましょう。貴方のおっしゃることは、自己矛盾だらけではございませんか。

時間がないので、今日はここまでにしておきますが、「ミステリ界との(隠さなくてはならないような)つながり」など無いとおっしゃるのであれば、次回は貴方の『知り合い』の名前をご紹介下さいまし。そうすれば、貴方がどの程度、ミステリ界に縁のある方かも、ハッキリいたしましょう。

次回は、他の点についても説明させていただきましょう。書かないと誤魔化したみたいに言われますからね。――もっとも、あんまり理詰めで追い詰めると、ますます正体を明かしていただけないであろうと予想される点が、ジレンマなのではございますが(笑)。



 ホランド

探してみたけど見つからなかったなあー。そもそも、そっちに貸してたっけ?





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


コムレ・サーガをひっくり返す 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月14日(金)22時29分44秒

笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争7蛮族トゥトゥインガの逆襲』(講談社文庫)が刊行されましたが、今回の表紙を見て、なぜか荒俣宏の『地球暗黒記』(角川文庫、全3巻)を連想してしまいました。アフリカの密林に立つ美少女と、ハワイの密林に立つ美少女……。それだけの共通 点ですが。
ところで、先日、時雨さまから『無底の王』の内容について質問がありましたが、残念ながらよく知らないのです。(知らないので、気になっているのです。)これは『SFマガジン』1995年2月号〜1996年2月号に掲載された伝奇SF小説で、コムレ・サーガに属する作品ということは確かなんですが、笠井潔の小説で雑誌掲載の段階からコンプリートしていたのは、『オイディプス症候群』だけで、この作品の掲載された『SFマガジン』は購入しておりません。それどころか、雑誌掲載の段階で読んでしまうと、単行本になったとき、有難味がなくなることを恐れ、あまり内容をチェックしておりませんでした。曖昧な記憶で申し訳ないのですが、この作品はコムレ教のダーク・サイドを描いていたように思います。少し本屋で立ち読みして、「おや?」と思った記憶があるのです。(このサイトをご覧の方で、当時の『SFマガジン』をお持ちの方、もしくはこの連載をしっかり読んでいたという方は、お教えください。たぶん、このサイトは笠井派の方もチェックされていると思いますので、是非ご教示を。)
笠井潔は『巨人伝説』・『ヴァンパイヤー戦争』等で、コムレ教を善玉として扱っています。ただ、そこに留まっていては「ウラ日本史観」になるという柄谷行人の批判があって、笠井潔も、当時、コムレ・サーガをもう一回ひっくり返す必要があることを認めていました。したがって、コムレ教ですら、テロリズムに転化する逆説を描く必要があるのです。ただ、くり返しますが『無底の王』の内容を、私はよく知りませんので、『無底の王』がそのねらいで書かれたものなのか、なんとも言えません。また、『瀕死の王』となんらかの関係があるのか(<王>シリーズ?)もわかりません。


※「瀕死の王」ネタバレ注意! 投稿者:Keen@やや回復  投稿日: 1月15日(土)12時08分13秒

はらぴょんさん、先日立ち読みした『メフィスト』最新号の「瀕死の王」で、矢吹駆の本名が「アスカムラキ」だとハッキリ書かれていたのが、とても気になってます。
私は『ヴァンパイヤー戦争』は未読ですが、ムラキというのは、その作中人物なのですよね?笠井さんは、本当に自分の小説作品を全部つなげて、一大笠井ワールドを構成しようとしてるのかなあ……


矢吹駆のキャラクター設定はいかに為されたか 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月15日(土)19時44分1秒

『熾天使の夏』、『エディプスの市』、『ヴァンパイヤー戦争1』の内容に触れています。未読の方は、ご注意願います。
★Keenさまへ
『バイバイ、エンジェル』から始まる矢吹駆シリーズのキャラクター造形がいかに生まれたかについては、『熾天使の夏』(講談社文庫)、短編集『エディプスの市』第三部に収められた「超越へ」で知ることができます。
まず、『熾天使の夏』は主人公となる話者が、左翼ラディカリズムによってテロリズムに走り、現在植民地都市に逃れてきた人間という設定であるために、話者の名前は周到に消されていますが、一箇所だけ<カケル>と呼ばれる瞬間があります。この作品は、矢吹駆シリーズの第0作として出版されたため、読者はこの主人公が若き日の矢吹駆であることはわかっているわけですが。
『熾天使の夏』には「完璧な自殺それが問題だ。」というセリフが散見しますが、このあたりは大江健三郎の『われらの時代』(新潮文庫)を連想させます。また、「すべてよし」は、ドストエフスキーの『死霊』のキリーロフのセリフから来ていると考えられます。生硬で観念的な文体は、埴谷雄高等の実存主義系の文学の影響が顕著です。
『エディプスの市』第三部「超越へ」は、普通小説のかたちで、左翼テロリズムに帰結する思想の難問(アポリア)を描こうとした未完の作品ですが、この作品の主人公は<明日香>となっています。こちらの文体は、おそらくマルセル・プルーストの模倣だと思われます。
矢吹駆の構想段階では、<明日香(アスカ)>や<矢吹志駆摩(シグマ)>だったことがあるということです。
笠井潔は、当初、普通小説で左翼テロリズムの問題を描こうとし、挫折しています。彼は、探偵小説という様式化されたジャンルの形式でやっと、この問題を描くことに成功したのです。(本当は純文学でデビューしたかった人間だということです。)
後年、彼は、探偵小説という形式には、戦争中の大量死と戦後の大量生という生きる意味を奪われた時代に抗するという意味があるのだと考えるようになり、自分が探偵小説の分野に移動したのは、意味があったとしています。しかし、これは後知恵であり、実のところ、彼の探偵小説は、普通 小説の代用品として要請されただけのことです。
ちなみに、現在刊行されている『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)は、主題に沿った文芸作品を批評するというスタイルで書かれていますが、当初「観念論」というタイトルで構想されていた段階では、文芸評論ではなく、純然たる理論書を書く予定だったようです。
『ヴァンパイヤー戦争』の主人公、九鬼鴻三郎は、笠井潔が<黒木龍思>という名前で新左翼の活動をしていた頃の仲間の活動家ネームだそうです。『ヴァンパイヤー戦争』には、ムラキという元左翼テロリストが出てきます。ムラキの経歴は、矢吹駆とそっくりであり、ムラキの持っているレコードの枚数は、矢吹駆のそれと一致します。ムラキは、かつて自分が属した左翼ラディカリズムに対して、「反・観念」の立場をとっています。この「反・観念」の思想は、『テロルの現象学』で示された「集合観念」と同一であり、観念の内にあって観念自体を浄化する観念とされています。(この浄化とは、岡本太郎の言っていた芸術の「爆発」と同じことを指しています。どちらもバタイユの呪われた(過剰な)部分の蕩尽ということと重ね合わされた意味をもっています。)ムラキの行動的分身が、九鬼鴻三郎であり、九鬼鴻三郎がマッチョなのは「反・観念」だからです。
(しかし、マッチョは観念の外なので、九鬼鴻三郎は、『テロルの現象学』の思想を十全に表現しているわけではありません。笠井潔は、自著『テロルの現象学』における観念の内側から観念を浄化する点を強調し、形而上学に対し、内部から、形式化を徹底し、これを脱構築=ディコンストラクトするジャック・デリダや柄谷行人に相当する仕事を、マルクス主義に対してやっているのだと主張していましたが、その主張に反する安直な表現に走っていることになります。)
『ヴァンパイヤー戦争1』で、ムラキは吸血鬼に対する現象学的態度を示します。現象学という言葉を使用していませんが。吸血鬼は実在するのかどうかと迫る九鬼に対し、ムラキは実在するかどうかという問題をかっこでくくり、それがどうであろうと、吸血鬼がいるとして話を進めないと、現前する生命の危機を回避できないとします。ムラキは、思考法まで、矢吹駆なのです。
<明日香(アスカ)>と<ムラキ>が、矢吹駆であることは、『瀕死の王』より前から設定されていたことなのです。

http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/


危篤の父(3)(抄) 投稿者:園主  投稿日: 1月17日(月)04時41分12秒


 はらぴょんさま

笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争7蛮族トゥトゥインガの逆襲』(講談社文庫)が刊行されましたが、今回の表紙を見て、なぜか荒俣宏の『地球暗黒記』(角川文庫、全3巻)を連想してしまいました。アフリカの密林に立つ美少女と、ハワイの密林に立つ美少女……。それだけの共通 点ですが。

これで美少女オンリーの表紙画が、3巻続きましたね(笑)。

それにしても『地球暗黒記』とは懐かしい。例によって読んではおりませんが、私もこの本は刊行当時に購入して所蔵しておりますよ。
そういえば、『地球暗黒記』の装丁画も、角川文庫版『ヴァンパイヤー戦争』と同様、天野喜孝でございましたよね。また、荒俣宏の代表作『帝都物語』の文庫版の装丁は何度か変わりましたものの、天野喜孝が(途中まで?)担当したこともあったと記憶いたします。ま、それほど、当時、天野喜孝は売れっ子で、伝奇アクションと言えば天野喜孝という感じだったのかも知れません。――そうそう、講談社文庫版『江戸川乱歩全集』の装丁画も天野喜孝でございましたが、聞くところによると、天野は特に乱歩ファンというわけでもなく、小説も読まずにイラストを描いていたそうでございます。

今度『帝都物語』が再文庫化される際は、『ヴァンパイヤー戦争』にならって、武内崇さんに描いてもらうことになるかもしれませんね。しかし、武内さんの加藤保憲ってのは……。また、『帝都物語』の表紙画が、美少女ばっかりというのも、なんだかまずい気がいたします(笑)。

矢吹駆の構想段階では、<明日香(アスカ)>や<矢吹志駆摩(シグマ)>だったことがあるということです。

今さらながら、笠井潔のネーミングセンスには唸らされますね(笑)。

<明日香(アスカ)>と<ムラキ>が、矢吹駆であることは、『瀕死の王』より前から設定されていたことなのです。

この表現は適切ではないと存じます。つまり、当初から矢吹駆とムラキが「同一人物」だと設定されていたかどうかは、疑わしいのではないでしょうか。

たしかに、矢吹駆とムラキは「パラレルな関係」にあるとは思いますが、果たして最初から「同一人物」と設定されていたのかどうか?
例えば、矢吹駆とムラキが同一人物だとすると、「矢吹駆シリーズ」の世界と『ヴァンパイヤー戦争』などの「コムレ・サーガ」の世界も「同一」ということになってしまいます。しかし、そうだとすると、そもそも初期「矢吹駆」3部作の世界は、矛盾なく成立するのか? 吸血鬼や超能力者が跋扈する世界において、あのオーソドックスな本格ミステリの世界が成立しうるのだろうか? 矢吹駆の「現象学的本質直観による推理」のその依って立つ世界とは、そんな世界だっただろうか? ――とそういうことなのでございます。単純な話、「首切り殺人」とか「密室殺人」なども、吸血鬼や不死者や超能力者が存在していたのでは、ああいう推理は成り立たないのではないでしょうか? 

そうしたことから私は、「矢吹駆シリーズ」の世界と『ヴァンパイヤー戦争』などの「コムレ・サーガ」の世界は、酷似した別 の世界(=パラレルワールド)であり、矢吹駆とムラキは「同一人物」ではなく、「パラレルな関係」にある、と考えるのが順当だと思うのでございます。

つまり、笠井潔自身も、当初は2つの世界を、パラレルなものとして「設定」していた。しかし、いまや笠井潔は、作家の晩年にありがちな欲望にとり憑かれ『自分の小説作品を全部つなげて、一大笠井ワールドを構成しよう』と、個々の(シリーズの)作品世界を破綻させかねない、無理なつなげ方をしようとしているのではないかと、私は斯様に危惧しているのでございます。





( 以下は「危篤の父(4)」につづく)

この寒さか(抄) 投稿者:Keen  投稿日: 1月17日(月)15時24分29秒

はらぴょんさん、矢吹駆とムラキのつながりについて、詳細な情報をありがとうございました。私も園主さまと同じ考えで、カケルとムラキは類似・同種のキャラに過ぎなかったものを、ここにきて強引にくっつけようとしているのではないかな〜、と思うのです。ただ、笠井作品をそれほど読んでない私ですので、裏付けはありませんが。

ところで、「瀕死の王」の作中人物のセリフに「マイホーム・パパ」という単語が見受けられたのですが、これは単なる偶然か、はたまた、笠井さんもナディア・モドーキ作カモン・ベイビーを読まれたのか……?もし、もしもそうなら、笑って頂けてたら嬉しいなあ(無理?)。


仮設舞台は変われども(抄) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月18日(火)12時59分22秒

★Keenさま
ちなみに、笠井潔の『サイキック戦争』の主人公は、竜王翔(リュウオウ・カケル)です。
カケルを連発するのは、なぜなんでしょうか?
竜王は、どこから来たのでしょうか。私は、竜王というと、綜合ヨガ・竜王会を基にする神智学協会ニッポン・ロッジを連想します。(考えすぎかもしれませんが。竜王翔はサイキック能力があるということになっているので、ミステリアスな雰囲気を出すために、オカルト関連で出てくる用語を使っているのではないかと思うのです。)
無論、笠井潔の伝奇SF(コムレ・サーガ)の世界を、直接、矢吹駆シリーズの本格ミステリの世界に繋げることはできません。本格ミステリは、コード(物語を進める上での約束事)さえ決めておけば、山口雅也や西澤保彦が実作で試みているように、奇抜な設定でも本格のロジックを展開することは可能ですが、矢吹駆シリーズの世界の設定は、この世界と地続きですから。
しかし、笠井潔は、こんなことを書いてしまう作家なのです。「過去百年、あるいは千年にもわたり、読むにあたいする文学作品は例外なしに、飽くことなくおなじ主人公のおなじ運命を描いてきたともいえるだろう。」(『黄昏の館』徳間文庫版83ページ)笠井にいわせると、それは「不可能であると知りながら、それでも永遠の時をめがけて決死のジャンプを敢行してしまう」主人公であり、「仮設舞台」が変わるだけで、ダンテもファウストも、『失われた時を求めて』の話者も、『城』のKも、マルテもラスコーリニコフも、同一人物だというのです。
私には笠井潔の小説は、「仮設舞台」が変わるだけで、いつも似たようなタイプの人間を、くりかえし描いているように見えます。
[追伸]
http://web.thn.jp/kbi/zatu3.htm の1月6日の箇所に、中井英夫による笠井潔の『哲学者の密室』に関するコメントが載っています。


そういえば…… 投稿者:Keen  投稿日: 1月18日(火)15時34分52秒

笠井さんのご子息も、確か翔(カケル)さんとおっしゃるんでしたよね。
竜王っていうと、私は竹本さんの影響で棋士を連想してしまいますが……
今日はちと不調なので、これにて。


アジールとしての「花園」(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時37分17秒


 古田さま

> 『僕の叔父さん網野善彦』を読みました。
> 歴史学、ならびにあらゆる学問がアジールを念頭に置くべきだという考えと、それを実践した網野氏の姿に感銘を受けました。ただ気になったのは、アジールに対して国家を強調しすぎているのではないか(中沢新一氏の考えか?)、という事です。これは、網野氏が彼の歴史学を提唱した時には有効だったのかも知れませんが、現在、アジールが存在しえなくなったという現在では、こういう観点は、いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇に巻き込まれてしまうのではないかと思います。

 『僕の叔父さん 網野善彦』が見つかりました! さっそく読みましたので、古田さまのご意見を参照しながら、ボクの感想を書かせていただきます。

 まず議論の前提として書いておきますと、ボクは網野善彦の本をぜんぜん読んでいないので、ここで議論の対象となるのは、中沢新一が理解したところの網野善彦の考え方だということです。
 ただ、これは網野善彦の考え方を対象にしていないということではありません。どんな人の理論であれ、それが論じられる際は、必ず論じる人の「解釈」を経たそれでしかありえませんから、網野善彦本人が死去した今、「正統な網野善彦理論」という特権的な解釈(=立場)は実質的に存在せず、問題は自ずと、網野善彦が書き残したことを、如何に有意義なものとして発展的に生かしていくかということになるんだと思います。

 そうした意味で、中沢新一の解釈は、明確なヴィジョンを備えた、ひとつの優れた網野善彦理解だと、ボクは思います。

 古田さまは『アジールに対して国家を強調しすぎているのではないか』と疑問を呈せられていますけど、ボクは、アジールとは「人間的秩序」によって囲い込まれた「(最後の)自然」であり、「国家」とは「人間的秩序」の現時点における最強形態だと思いますので、アジールに対して「国家」を対応させるというよりも、「国家」が人間(=個人)の自然(=自由)を取り囲み、窒息させようとしているこの時代において、その困難を打開する可能性の象徴として、「アジール」をもってくるというのは、戦略的に有効なものだと考えます。

 例えば、以前ここでも話題にのぼりましたが、東浩紀さんと大澤真幸さんの対談『自由を考える 9.11以降の現代思想』(NHK出版)では、マイケル・ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』で描いた「脅迫神経症的な安全病におかされた(アメリカ)国民」という問題が、日本でも着実に広がりつつあり、日本の国民も、「国家」から「安全」を保証してもらう代わりに、自らの「自由」を放棄するという傾向が強まっている、というような指摘がなされていました。

 つまり、「人間的=社会的・秩序」はボクたちの世界から「アジール」という「自由の場」を奪っただけではなく、個々の精神のなかに存在する「アジール」まで囲い込み、消し去ろうとしているのです。
 でも、人間は「精神のアジール」を失ってまで、ホントに生きていくことは可能なのでしょうか? たしかに人間は「ただの動物」ではなく、「人間的=社会的・秩序」を構築し、それによって「ただの動物」を超えてきた存在です。しかし、自分のなかの「自然」を「動物の部分」を扼殺して、はたしてホントに生きていくことができるのか? ――そこが問題なんだと思うんですね。

 古田さまは、「アジール」の対立物として「国家」を対置することは、結局のところ「反国家主義としての左翼」に結びつくだけのことなのではないかと危惧されているのでしょう。でも、ボクには古田さまのおっしゃる『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇』というものが、あまりにも観念的であり第三者的なものに思えて仕方ありません。





( 以下は「アジールとしての「花園」(3)」につづく)

アジールとしての「花園」(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時38分40秒


 古田さま(続き)

> かつてアジールが存在したのは人間の根源にある自由意志によるとされていますが、これに私はあえて疑問を呈したいのです。アジールがかつてのような形ではありえなくなったのは、ひとえに高度情報化が成したことだと私は考えます。高度情報化と、そこから導かれた言語的ありかたの陳腐化、そこに国家権力がするりと浸透したのではないでしょうか。例えば、先の奈良女児誘拐殺人事件の犯人が逮捕され、顔写 真が公開され、「異常な」性癖が暴かれました。犯罪心理学のセンセイが出てきて、まるで台本通 りの分析を披露し、聴衆はポルノ規制だ性犯罪者データベースだと言い出す始末。あるいは「鬱病というのが最近流行しておりまして、鬱病になりやすい人はかくかくしかじかの性質を有しており云々」と娯楽番組で放送されたりしています。
> こういう「人を憎んで罪を憎まず」という姿勢は、宗教の不在や硬直化、人文系学問の価値の低下とつながって、お互いに強めあいます。

 ここで古田さまが書かれていることは、まったく正しいと思います。しかし、問題は、この現状をこのように分析してみせる古田さまご自身は、この状況の外に立っており、何の影響も受けないですむ立場にあるのか、ということです。
 古田さま自身の「アジール」であり「自然」であり「自由」が扼殺されようとしている現状にあって、古田さまはそれにどう抵抗しようとしているのか? そのひとつの答が、

> 先の『革命』の話と、アジールなしの共同体づくりということを考えて、ふとモーリス・ブランショの『明かしえぬ 共同体』を思い出したので、そこから引用すると、

>「伝統的革命」とは逆に、権力を奪取してそれをもうひとつの権力に置き換えることや、パスティーユなり冬宮、エリゼ宮あるいは国会なりを占拠するといったさして重要でもない目標があったわけでもなく、また古い世界を転覆することがねらいだったのでもなく、各人を昂揚させ決起させることばの自由によって、友愛の中ですべての者に平等の権利を取り戻させ、あらゆる功利的関心の埒外で共に在ることの可能性をおのずから表出させることこそが重要だったのである。(ちくま学芸文庫)

> こういう試みは不断に行われなきゃならないし、これこそが詩や文学などの芸術、人文諸学の役割であって、現在もっとも求められているものだと思います。

 ボクはモーリス・ブランショも読んでいないので、正確なことはわかりませんが、ブランショを引用して、ここで古田さまがおっしゃっているのは、「硬直した政治に回収されない、人間解放としての革命とその持続」の必要性、そしてそれの身近な実践として『詩や文学などの芸術、人文諸学』の重要性なんだと思います。

 ボクは、この理論の前半部分を、笠井潔が『バイバイ、エンジェル』で描いた「太陽を直視する特権的な一瞬としての革命」に近いものだと思いますし、後半の「実践規定の矮小化」は、そうした「革命」が、笠井潔の事例にも見られるとおり、結局は「人間の政治的欲望」に回収されるという「現実にたいする失望」から来るもののように思われました。

 これは『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇』という言葉に感じられる「党派政治への絶望」から来るものであり、それが「政治嫌悪」になっているのだろうと、たしかに共感はできるんですが、でも、最後は『これこそが詩や文学などの芸術、人文諸学の役割であって、現在もっとも求められているものだと思います。』というところに収まるのでは、あんまりだと思うんです。

 実際、中沢新一が危惧しているのも、『詩や文学などの芸術、人文諸学』こそが、そうした「人間的=社会的・秩序」に、真先に統制されてしまっているという点なんですね。その実例は、園主さまが問題提起している「ミステリ業界」の問題や、はらぴょんさまが吉本隆明の言葉を引用して紹介していた「詩人業界」にも、すでに明らかな事実だと思うんです。





( 以下は「アジールとしての「花園」(4)」につづく)

アジールとしての「花園」(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時39分44秒


 古田さま(続き)

『 アジールは存在できない――それが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。今日の歴史学者とて、その例外ではない。アジールの実在感を感じ取ることのできないままに、アジール的なるものへの感性を抑圧する教育システムをくぐり抜けて研究者となった彼らは、近代以前の社会に生き生きと実在していたアジールの息吹きを感じ取れなくなってしまっている。そういう抑圧された意識によって解読され、解釈された「歴史」なるものが、今日のアカデミズムを支配する歴史学を再生産する様式となっている。』(P69〜70)

 自分だけは「歴史」の外部にいるという謬見に、専門家は囚われがちだし、それはボクたちだって同じでしょう。だからこそ、ボクらは自ら主体的に歴史に参入する必要があるのではないか。そうした参入が『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇に巻き込まれてしまうのではないか』という怖れを惹起するというのは理解できます。しかし、それを恐れて傍観者でいるというのは、結局のところ、『アジールは存在できない』という「人間的=社会的・秩序」の側の教育(=洗脳)によって去勢された人間の、無自覚に権力の側に立つ態度なのではないでしょうか。

 問題は、自分の立場が「右翼か、左翼か」ではありませんし、無論「右翼と見られるか、左翼と見られるか」でもありません。
 園主さまはよく、「オレはオレだ。左翼の中に入れば右翼だと言われ、右翼の中に入れば左翼だと言われる。それがオレであり、オレの立場とは、すなわち永遠のノン(否)であり、アンチ(反)である」というような見栄を切ります。これは現実に参入しながら、しかし『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇』に参入しない・させられない「自由な個人」の立場表明なんではないでしょうか。そして、言うまでもなく、この立場は「反逆天使ルシファー」の立場であり、網野善彦言うところの「悪党」の立場であり、中沢新一言うところの「悪党的思考」というものなのではないでしょうか。

 ホントに、もう『アジールは存在できない』のでしょうか? たしかに物理的空間におけるアジールは、極端に少なくなりました。しかし、アジールを排除する最大の道具だった「高度情報化」のなかにも、よく見れば「アジール」は存在するし、アジールは個人の心のなかのアジールの反映として、現実社会の変化に適応しながら、形を変えて生き残っていくのではないでしょうか。また、それが失われる時こそ、人類の死滅する時なのではないのでしょうか。

 もう『アジールは存在できない』――そんなことはありません。その実例が「今ここ」にあります。この「アレクセイの花園」こそが、ひとつのアジールであり、ボクと古田さまの間でこうして繰り広げられている議論こそが、『僕の叔父さん 網野善彦』に描かれた中沢新一の父と叔父と網野善彦との間で繰り広げられた「アジール(=非制度空間)における、自由な議論」の再演なのではないでしょうか。

 「アジール」を不可能なものと感じさせるのは、現実の層においては、まず「国家という強固な管理統制制度」でしょうけれど、それを支えているのは、やはり「自由」の目くるめく開放感に、「非既知の空間」への参入に、怖れをなしてしまう現代人の、惰弱な保守性なんだと思います。

 飼い犬は、安心して暮らせるかも知れないけど、だからといって縛られることを良しとしたら、つながれたまま捨てられた場合、為すすべもなく飢え死にするしかありません。だから、いつでも逃げだせるだけの自由、つまりアジールだけは確保しておく必要があるんだと、ボクは思います。





( 以下は「アジールとしての「花園」(5)」につづく)


アジールとしての「花園」(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時43分18秒


 DHCさま

 DHCさまの正体を推理してみましょう(笑)。

 「立場」を問われたDHCさまは、ご自身のことを、

ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

と自己紹介して、ご自身が「ミステリ界」や「出版業界」とは縁のない人間であることを強調なさいました。
 なぜ、そうしたのかと言えば、DHCさまの園主さまに対する否定的評価が、「党派的な批判・攻撃 」ではなく、「客観的な評価」であったり「単純な助言」であったと見せかけたかったからでしょう。

 でも、園主さまが

結局、貴方さまは『ミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間』どころか、実際には、業界の裏情報にまで通 じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』が身近にいたり、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』がいたりします。――こういうのを世間では「ミステリ界やミステリ出版界と縁のある人間」と言うのでございますよ(笑)。

と指摘したとおり、DHCさまは「自己紹介」と矛盾する「交友関係」を、後で自己暴露してしまっています。

 DHCさまが自己暴露したご友人は、どちらも園主さまの「批判対象」の圏内に入っており、そういう人たちとつき合いがあり、自分ではそういう人たちを「批判する気が無い」のだとすると、DHCさまがそういう園主さまの批判対象たちに肩入れして、園主さまにケチをつけようとするというのは、充分に考えられることだと言えるでしょう。またその際、その「党派的な動機」を隠蔽するため、「匿名により第三者を装おう」なんてことも、当然のごとくなされるでしょうし、そんな人は、その党派性を問われて、正直に「私は誰某の友人である」とか「誰某を信奉し、その批判者に敵意を抱く者である」なんて名乗ることは、皆無でしょうね。

 でも、だ