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★ 笠井潔が、真に望んだこと。 ★
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往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性
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東浩紀 哲学往復書簡2002 動物化するポストモダン 大澤真幸 自由を考える 9.11以降の現代思想 ポスト・モダニズム 糸井重里 高橋源一郎 柄谷行人 浅田彰 ホランド 水没ピアノ 佐藤友哉 吉本隆明 舞城王太郎 西尾維新 SF 法月綸太郎 巽 昌章 千街晶之 探偵小説研究会 清涼院流水 長谷部史親 縄田一男 島田荘司 本格ミステリ 綾辻行人 我孫子武丸 有栖川有栖 北村薫 鮎川哲也 京極夏彦 宮部みゆき 怪の会 森博嗣 本格ミステリ作家クラブ 三浦雅士 文芸春秋 ミステリ・マスターズ 山田正紀 日本推理作家協会賞 中山元・山路龍天 三浦雅士 大塚英志 新保博久 本格ミステリ大賞 このミステリーがすごい! 本格ミステリ・ベスト10 日本冒険作家協会 野崎六助 北米探偵小説論 バイバイ、エンジェル サマー・アポカリプス 薔薇の女 禁じられた遊び 地獄は地獄で洗え…… 国家民営化論 鮎川哲也賞 選考委員 竹本健治 中井英夫 アンチ・ミステリー 虚無への供物 匣の中の失楽 ウロボロスの偽書 マルクス主義 スキー アレクセイの花園 園主 LIBRA アレクセイの星座 オイディプス症候群
アレクセイ(田中幸一)
『本書は、二〇〇二年の二月五日から、同年一二月一日にかけて、集英社新書ホームページ上で公開された東浩紀氏と笠井潔氏の往復書簡(『哲学往復書簡2002』)全一六信を、公開時の状態で基本的に手を加えずにまとめたものです。(中略)九・一一を枕にした第一信「九・一一と文学の言葉」を皮切りに、月二回のペースで順調に更新を重ねてきた本企画は、東浩紀氏による第五信「イデオロギー?」をきっかけに、急速に、緊迫の度を増していきます。そして、終盤間際にいたっては、ついに企画の継続が危ぶまれるほどに、両氏の対立が激化します。この間、往復書簡は各方面 で注目を浴び、集英社新書ホームページへのアクセス数も急増しました。(以下略)』
『動物化する世界の中で』(東浩紀・笠井潔、集英社新書)の冒頭部に置かれた「編集部より」という一文は、この「ネット往復書簡」の成立状況を、如上のように紹介する。
このスキャンダラスと言ってもよい「ネット往復書簡」の存在を、私は自身「笠井潔葬送派」を名乗る者でありながら、本書の刊行までまったく知らなかった。リアルタイムで、この興味深い往復書簡が読めなかったのは、かえすがえす口惜しい。もし、その存在をリアルタイムで知っていたならば、むざむざ「笠井潔による、公然たる大嘘」を許しはしなかったものを……。
だが、ものは考えようである。途中で徹底したツッコミを入れていたら、本書が現在の形で存在したという保証はまったくないのだから、「笠井潔の嘘」を蒐集する意味では、これはこれで良かったのかも知れない。相手を論駁するには、まずしゃべらせるだけしゃべらせておいてから、その言葉をネタにして、ぐうの音も出ないほど叩き伏すというのが、論争・批判の鉄則だからである。
○
議論は、東浩紀がその著書『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)で示した「動物化の時代」という認識と、「9.11以降の世界」の諸問題を、リンクさせる形で語り合っていこう、と言うのが当初の方針であったらしい。東浩紀が主導したこの「ネット往復書簡」の狙いは、本書に遅れること10日の後に刊行された、社会学者
大澤真幸との対談集『自由を考える 9.11以降の現代思想』(NHKブックス)に、かなり忠実な形で実現されている。
先に引用したとおり、笠井潔とのネット往復書簡『動物化する世界の中で』は、2002年の2月5日から、同年12月1日にかけて「8往復16信」で行なわれたものであり、一方、大澤真幸との対談『自由を考える』は、2002年8月10日、同年11月10日、同年12月25日の「3回」をまとめたもので、第1回の対談が行なわれたのは、すでに笠井との齟齬の大きさが露呈して、東からの「不満と疑義の表明」がなされた後のことである。
東浩紀の狙いは、いたって素直なものである。
理由はどうあれ、人間が考えることを放棄して、快楽に単純反応して生きる、この「動物化の時代」は、「思想の言葉」や「批評」が社会的に無効化し、必要とされない時代である。だが、その一方で「9.11」以降の世界の動き、殊にアメリカの臆面
もない覇権主義に代表される「現実的な諸問題」は、決して「動物化の時代」と無縁なものではない。なぜならば、アメリカの「大義なき戦争」は、人々の「理屈ではなく、まず安全を欲する」という「動物化」された欲望の増大に支えられていると見ることが容易だからだ。「理想」「大きな物語」「象徴界」「第三者の審級」……どう呼んでも良いのだが、要するに人を「動物的な快楽反応のみ」に堕さしめることを引き止め(引き上げ)てきた「人間的な観念」が、先進国において顕著に失効しはじめた結果
、人々は「いかに生くべきか」という問いを見失い、ただ「(私が)安全に気持ちよく」生きることを望み、そのためには「家畜」として柵のなかに囲われることすら望みはじめたのである。
「しかし、それでいいのか? これはどこかおかしくないのか? 我々は今、とんでもない隘路に迷い込もうとしているのではないか?」……それを「人間的に問うこと」つまり「知的に問うこと」が、今、言葉を生業としている者に科された使命なのではないか。これが東浩紀の問題意識なのである。
ところが、笠井潔は、こうしたアクチュアルな問題について現実的な対応を思索しようという東に対し、「そうした問題の枠組みは、何も昨日今日に始まったことではなく、八十年代ポスト・モダンの時代に、すべて出揃っていた。その時代に、そうした状況に徹して批判を加えてきた者としては、その部分での掘り下げなしでの、今の問題への取り組みは、何の意味もなさない」とし、話を「ポスト・モダニズム(知識人)批判」に収斂 させようとした。
これに対し、東浩紀は第五信「イデオロギー?」で、笠井潔の対応にいら立ちを隠さずに、次のように書くにいたる。
『確かに、笠井さんが指摘されたように、八〇年代、マスコミで若手知識人=ポストモダニストとして取り沙汰された人々のなかには、六〇年代の運動の総括という点では非倫理的だった方がいたかもしれません。それを弾劾しなければならない立場があるのも理解できます。
しかし、あえて率直に言わせていただきますが、僕はその問題にほとんど関心をもつことができない。というのも、僕には、そこで行なわれた「転向」や「闘争」なるものは、一部論壇あるいは運動業界(そういうものがある、と僕の友人の市民活動家からはウンザリした表情で愚痴られたことがあるのですが)内部の、しかも特定の世代だけが関わった小さなエピソードにしか思われないからです。
実際、糸井重里や高橋源一郎が「一九六九年を前後する断層についての徹底的な思考を回避し、連合赤軍事件の共犯者としての政治世代には避けることのできないマルクス主義との闘争に日和見を決め込ん」でいたのだとしても(おそらくそのとおりなのでしょうが)、そんな事情が、糸井のコピーにつられてセゾングループになけなしの小遣いを注ぎ込み、高橋が登場するワープロのポスター(あれは八〇年代でしたか?)を呆然と見上げていた当時の僕に何の関係があったでしょう。糸井や高橋の言葉は、笠井さんが指摘した「闘争」の場所を単純に迂回し、消費社会が用意した新しい回路を通 って高校生の僕に届いてしまっていた。ポストモダニズムの流行も同じことです。その働きに全共闘の総括は関係ありません。マルクス主義も関係ない。前回の手紙で記した記帳のエピソード(※ 引用者註:昭和天皇危篤に際し皇居前広場で行なわれた記帳に、若者も多数参加とマスコミに大きく取り上げられた。冷やかし半分に参加した高校生東浩紀も、そのうちの一人だった)のように、そこでも何らかの政治的効果 が生み出されてはいるのですが、その働きはもはやかってのイデオロギーの文脈では理解できない。僕が「フェイクとしての大きな物語」と呼んだものは、消費社会とメディアの回路から生まれてきたものです。僕にとってもっとも切実な「政治的」問題は、マルクス主義にしろ何にしろ、特定のイデオロギーとの対決ではなく、むしろこの得体の知れない力との対峙にあります。』
東浩紀のこのいら立ちは、決してわかりにくいものではない。例えば「全共闘世代」である笠井潔らの「親の世代」は「戦争体験世代」だが、かつてこの「戦争体験世代」が「子の世代」に対して「戦争体験」自慢「軍隊経験」自慢をして疎まれたのと、この場合まったく同じパターンなのである。曰く「おまえらは、革命だとか運動だとか闘争だとか、一人前みたいな顔をして言うけれど、そんなものは戦争の悲惨さを知らず、平和な戦後の日本でのほほんと生きてきたからこその、子供じみた戯言だ。マルクスだか何だかは知らないが、何の苦労も知らないおまえらが、本を多少読み齧っただけで利口ぶるんじゃない。あの戦争と敗戦の意味を知らずして、今を云々するのは所詮無意味なんだ。少しはお父さんの話を聞きなさい」。
東浩紀の言うとおり、笠井潔の「全共闘」「政治の時代」「連合赤軍事件」の総括など、笠井の「子の世代」である東にとっては、「戦争」以上に縁遠いものであろう。それを思考せよと言われても「僕たちには、僕たちの世代の切実な問題がある」というのも、また当然のことなのである。
そんな東浩紀に対し、笠井は、「年長者として」なだめるように語りかけながらも、話題は「論壇」的なところから離れることは絶えてない。東浩紀は、笠井潔のこうした素振りに『防衛的で文壇的な振る舞い』を見て、さらに批判の度を強める。
東は、笠井潔が、「批評を生き抜く」ことを避けたために堕落したとする柄谷行人と、典型的なポストモダニストとして批判する浅田彰の二人を取り上げて、間接的に笠井潔のスタンスを批判する。
『とはいえ、笠井さんがお聞きになりたいのは、このような回答ではないのかもしれません。ここで重要なのは、デリダやヴェイユをめぐる思想史的な問題、ましてやカトリックやユダヤ教といった込み入った問題ではなく、もっと単純に、現実世界の何もかもを否定し、抽象化し、そこから目を逸らすための知的方法としての「否定神学」と、現実世界と格闘するためにこそ否定の言辞を繰り出さざるをえず、結果 としてその否定に自らも巻き込まれてしまうような生き方としての「否定信仰」、そのふたつの差異なのかもしれません。要は、「生きられない批評」と「生きられる批評」のふたつがあり、この両者はたがいに見まごうばかりに似ているけれど、しかし決して混同してはならないのだ、と(※ 笠井さんは)いうわけです。
この件については、僕は単純に、そのような差異は認められない、とだけお答えしておこうと思います。より正確には、そのような差異は、巧妙な文体と批評家のパフォーマンスに対して読者の側が勝手に投影した幻想だ、というのが僕の考えです。「生きられない批評」と「生きられる批評」の区別 は、笠井さんが言及されたように柄谷氏が「批評とポスト・モダン」で導入して使われるようになりました。それは文芸業界ではよく利用されていますが、とりわけ、特定の批評家を評価し、別 の批評家を非難するときに用いられます。たとえば『批評空間』の読者のあいだでよく言われるのは、柄谷行人は批評を生きているが、浅田彰は批評を生きていない、といった区別 です。
しかし現実はどうか。当の浅田氏自身がなぜかこのような批判を受け入れているようなので話が厄介なのですが、僕に言わせれば、この区別 には何も意味がありません。むしろ常識的に考えれば、湾岸戦争以降の一〇年間、批評家として活躍していたのは、柄谷行人ではなく浅田彰のほうです。当時の浅田氏は『批評空間』の特集を組み立て、美術批評や建築批評の場で睨みを効かせ、薬害エイズや筒井康隆断筆宣言問題などで積極的に発言をしていた。しかし同時期の柄谷氏は何をしていたのか。具体例を挙げる必要はないと思いますが、「生きられる批評」を標榜するにはあまりに防衛的で文壇的な振る舞いばかりが目立っていた、というのが僕の印象です。第一信で触れた大塚(※ 英志)氏の非難にしても、その一〇年の蓄積のうえで現れている。「生きられる批評」という修辞は、結局のところ、そのような文壇内の居直りを導くものでしかなかった。これが僕の認識です。』(東浩紀・第九信「批評が生きられる必要はない」P122より)
碧川蘭(ホランド)も指摘するとおり、ここでの「柄谷行人」に「笠井潔」がぴったり当てはまるというのは、笠井潔の「実際」を知る読者には「明白な事実」であろう。
『つまり、笠井さんは「難問を徹底して生き抜く」ということを言い、そこから「逃げ出した」人たち(ポスト・モダニスト=糸井重里・高橋源一郎など)を、しばしば非難(し、言外に「自分だけは違う」と)しますけど、「では、実際、笠井潔のやってることは何なのだ?」ということなんですよね。
例えば、笠井さんが「9.11」に「アフガン空爆」に「イラク戦争」に「有事法制」にどれだけの発言をし、それらの「現実」に対して、どれだけ批評家としての責任を果 たしたのか、ということです(辺見庸さんなら「何もしていない」と言うでしょう)。たしかに、どこかでいくらかは発言しているでしょう。なにしろ批評家を名乗っていて、それらについて何も発言しなかった人を探すことの方が、むしろ大変なくらいですからね。でも、どっちにしろ、客観的に見て、笠井さんがそれらの「現実」を生きた度合いと、「ミステリ文壇での勢力争い」という現実に生きた度合いとを比較したら、それはどう贔屓目に見たって、笠井さんは後者に力を濯ぎ、選択的にそちらをより深く生きたとしか見えないんです。事実、ここ10年の笠井さんの五、六冊批評的著作は、最近刊行された『徴候としての妄想的暴力』以外は、すべて「ミステリ」にかかわる本でしょう。もちろん笠井さんとしては、「ミステリ」を語ることは、そのまま「世界の現実」を語ることだということなんでしょうが、この徹底的に「観念的」で、自堕落な「自己肯定」こそが、東さん言うところの『文壇内の居直り』ということになるんじゃないでしょうか。』(ホランド「注目!」4月24日より・BBS「アレクセイの花園」所収)
ここで碧川の指摘する、笠井潔の『ミステリ文壇での勢力争い』が、次の「火種」となる。
東浩紀の間接的な批判を、鷹揚に受け止めた後、笠井は次のような提案をした。
『そろそろ今回の紙数も尽きてきました。「現在の国内外の政治状況について」論じよ、という東君の注文に応えられなくて、申し訳なかったと思います。東君から次回以降に提起されるであろうアクチュアルな問題にかんしては、可能な範囲で応答するつもりです。ただし、個人情報保護法や住基ネット問題、などなどに見られる権力の現代的な再編を論じる前に、あるいはそれと並行して、東君の意見を聞いておきたいことがあります。たとえば、『水没ピアノ』の佐藤友哉の評価について。
あるいは吉本隆明の「話芸」、自認しているところの蓮實重彦の「映画」にあたるような領域が、僕の場合は「探偵小説」です。この、僕には主戦場である領域で、無視できない新事態が生じている。清涼院流水の登場に起点があるともいえますが、舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新といった二〇代の新人作家を、どのように捉えるべきなのか。(中略)アニメやゲームという領域では、経験と知識という点で東君と噛み合う議論をするのは難しいのですが、本格ミステリなら可能でしょう。「実存」という厚みや深みの失効とポストモダンなひらべったさにかんして、その辺から話を噛み合わせてみるというのは、どんなものでしょうか。』(笠井潔・第一〇信「世代間コミュニケーションの構図」P138-139 より)
笠井潔のこの提案に対し、東は激しい拒絶反応を示す。それは「業界の裏事情」就中「ミステリ業界の裏事情」をまったく知らない「一般 読者」には奇異に映るほどであった。
『かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験をもつ僕としては、とにかく、この往復書簡が、団塊と団塊ジュニアが野合していまさら新人類批判を行なっている、と捉えられるのがもっとも不愉快でした。その理由は、第五信でも書いたとおり、そもそも僕は、個人的な記憶をもたない六〇年代や七〇年代より、八〇年代のほうにはるかに強い親近感を抱いているし、また、抱かざるをえないからです。一九七一年に生まれた僕としては、全共闘世代から「一緒に八〇年代(※ ポスト・モダンの時代)を批判しよう」と言われても、「それはそちらで勝手にやって下さい」としか答えようがない。』
『この注文には応じかねます。この往復書簡でミステリの状況分析を主題にするつもりはありません。理由はふたつあります。
第一に、僕はミステリにそれほど詳しくありません。良い読者でもありません。同じエンターテインメントであれば、僕の趣味嗜好はSFのほうにはるかに強く傾いている。仕事のあと、寝る前にただ無駄 にページをめくるならば、密室殺人が出てくる小説よりも宇宙人や超能力者の出てくる小説のほうが好きだというわけです。
ところが、いまこのタイミングで佐藤氏の話題が出されたことの背景には、いささか厄介な本格推理業界の事情があるように思います(読者のみなさんには申し訳ないですが、その詳しい説明は省略します)。『水没ピアノ』は、ミステリ評論家、とりわけ、笠井氏に近い立場を取る評論家のあいだではまったく評価されていないらしいので、笠井さんはここで、批評家としての東浩紀が自分の味方なのかどうか、はっきりさせたいとお思いになったのかもしれません。ご自身の意見を留保したまま、まず最初に僕の読みだけを引き出そうという書き方にも、疑念を覚えます。失礼な深読みかもしれませんが、すぐあとに清涼院流水、舞城王太郎、西尾維新といった名前が並べられている以上、事情を知る読者にはそのように誤解される可能性がありますし、また、いささか厄介な言い方になりますが、僕がそのように「誤解」することを笠井さんは予測できたはずです。
しかし僕は、いま述べたように、そのような党派争いに首を突っ込むほど、ミステリの事情に詳しくありません。そもそも、ミステリの「あるべき姿」についてほとんど意見がないので、佐藤氏の小説がミステリとしてどうなのか、意見を述べることはできません。僕個人は『水没ピアノ』は素晴らしい小説だと感じますが、だからこそ、僕は、このような文脈で、佐藤友哉という才能を、将棋のコマのようにもち出して消費したくはありません。彼の小説について語るとしたら、また別 の機会に書かせていただきます。
第二の理由はより本質的です。稚拙で失礼な言い方ではありましたが、僕はここまで、笠井さんと僕の立場の違いを確認したうえで、だからこそ、私たちが共通 して直面する「いま、ここ」の現実をめぐって討議しよう、と呼びかけ続けてきました。
(中略)
前回の笠井さんのお返事を読むかぎり、その意図ははっきりと伝わっているように思います。ところが笠井さんは、そのうえで、今度は、共通 の話題として本格ミステリの状況分析を指定されてきた。九・一一や住基ネットについて語るのもいいが、それよりまず『水没ピアノ』について意見を交換しよう、と書かれてきた。確かにこの話題ならば現在の問題ではあるかもしれません。しかし、このような提案がなされたことで、僕としては、世代的差異云々というより、ここにはさらに深刻なディスコミュニケーションが宿っているのではないか、と疑わざるをえませんでした。そもそも、笠井さんは、この往復書簡をどのような読者を想定して進められているのでしょうか。』(東浩紀・第一一信「だれのために……」P141-144 より)
と、東浩紀は「笠井潔の政治性」を自明の前提として、その「オルグ(※ 政治的・組織化=勧誘)」をはっきりと拒絶している。
(1)『いまこのタイミングで佐藤氏の話題が出されたことの背景には、いささか厄介な本格推理業界の事情があるように思います(読者のみなさんには申し訳ないですが、その詳しい説明は省略します)。『水没ピアノ』は、ミステリ評論家、とりわけ、笠井氏に近い立場を取る評論家のあいだではまったく評価されていないらしいので、笠井さんはここで、批評家としての東浩紀が自分の味方なのかどうか、はっきりさせたいとお思いになったのかもしれません。ご自身の意見を留保したまま、まず最初に僕の読みだけを引き出そうという書き方にも、疑念を覚えます。』
(2)『事情を知る読者にはそのように誤解される可能性がありますし、また、いささか厄介な言い方になりますが、僕がそのように「誤解」することを笠井さんは予測できたはずです。』
(3)『僕は、このような文脈で、佐藤友哉という才能を、将棋のコマのようにもち出して消費したくはありません。』
このような批判は、プロの批評家である東浩紀には、生半可な知識(「単なる噂」程度の知識)で、不用意に書けることではない。
(1)は、「笠井さん、僕は貴方が本格推理業界で文壇政治に勤しんでいるのを、よく知ってますよ。貴方の周囲に、法月綸太郎・巽 昌章・千街晶之といった、貴方の主催する「探偵小説研究会」所属の取り巻き評論家がいることも知っていますし、法月さんや千街さんが、貴方の御墨付きで清涼院流水のデビューを嘲笑したことだって知っています。また、かつて貴方が、長谷部史親や縄田一男といった敵対者を徹底的に糾弾して、主流派となりつつあった貴方と本格推理作家との良好な関係を望む業界から、彼らを実質的に閉め出したことも知っています。もちろん、こんなドロドロした本格推理業界の内幕の説明は、門外漢の僕の仕事ではありません。ただ僕は、そんなタコツボの争いごとには興味はないし、そんなことに巻き込まれたくないだけなんです」と、
(2)は、「僕だって、そのくらい知ってるってことは、笠井さんなら当然ご承知でしょう。僕の友達にも、本格推理業界に属する人間がいることくらい、笠井さんが知らないはずがない。なのに、僕にこうして踏み絵を踏ませようとするのは、僕がそこまでされても、笠井さんに尻尾を振るとでもお考えなっているということなのでしょうか?」と、
(3)は、「僕は、批評を党派争いの道具に使う気はありません。笠井さんは、かつて党派イデオローグであり、党派のためなら黒を白に言い包めるようなことも、恥とはしないのかも知れませんが、僕は批評家であり、批評は批評対象に対して誠実であるのが、最低限のモラルだと考えています。ですから、新しい才能を、自党派の勢力拡大の思惑の中で、誉めたり腐したりするようなことはできません。僕は、佐藤友哉という才能が、本格推理業界、なかんずく笠井さんに利するか否かにかかわりなく、純粋に評価をしたいと思います。もちろん僕自身も、笠井さんの勢力拡大のためのコマとして利用されることなど、まっぴらゴメンです。僕を、取り巻きの人たちと同一視しないで下さい。たしかに僕は、アニメオタク出身の平凡な若輩者ですが、評論家としての自負は持っていますし、人間として筋を通 す覚悟も持っているつもりです」
と、言っているに等しいのである。
東浩紀が、暗に指摘したとおり、事実として笠井潔は、ミステリ界内外の有力者を取り込んで、自派の勢力を拡大強化することに余念がない。
具体的に書くと、笠井潔はこの約十年間に、下のような活動を展開してきた。
(1) ミステリ界では、まず本格ミステリ復興の功労者である島田荘司と共闘して、本格ミステリ擁護のイデオローグとなり、島田荘司の推輓によってデビューした綾辻行人・法月綸太郎・我孫子武丸(京都大学ミステリ研究会閥)ら「新本格第一期」の作家たちへの影響力を強めた。
(2) 次に、法月綸太郎・巽昌章と共に、創設された「創元推理評論賞」(東京創元社)の選考委員をつとめ、やがて自分がデビューさせた者(千街晶之など)を中心に、若手評論家を結集して「探偵小説研究会」を組織する。
ちなみに、「創元推理評論賞」の選考委員に、当時まだ評論をいくつか発表しただけの法月綸太郎、業界人ですらなかった無名の巽昌章(京大ミス研出身)の二人が就任したことについては、完全な抜擢人事であり、もちろん抜擢したのは、京大ミス研閥との関係を深めていた、笠井潔以外にはありえない。当然、こうした経緯から笠井潔は「探偵小説研究会」の実質的リーダーとなるが、その事実は公言しない。でないと、子飼いの評論家による「身内誉め」が露骨になるからである。
(3) その一方、本格ミステリ作家のニューリーダーである有栖川有栖・北村薫(どちらも「非・京大」であり、どちらかと言えば島田荘司派ではなく、鮎川哲也派)の両名を押さえ、独自の位 置にあった当代の人気作家 京極夏彦(ハードボイルド作家の大沢在昌の事務所に所属。同じ事務所の宮部みゆきは、笠井潔に叩かれた長谷部史親や縄田一男と同じ「怪の会」出身で、笠井潔派閥とは一線を画している)・森博嗣(大学助教授であり、もともと多趣味な趣味人で、文壇的なことには冷淡。ミステリ至上主義的なミス研的感性からもズレが大きい)らまで取り込むべく積極的なアプローチをした後に「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げて、業界の一大勢力とした。
(4) 綾辻行人のデビュー以来の長らく続いた「本格ミステリ」の行き詰まりが囁かれる中、最近では舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉などの十代読者にも支持されている「新感覚」派の若手にも「理解という名の触手」を伸ばしており、「本格推理小説」の延命を図っている。
ちなみに、舞城王太郎は純文学の賞である「三島由紀夫賞」の候補にもなっており、笠井潔はこのあたりの作家を、編集者であり文芸評論家の三浦雅士などに紹介して、ミステリの文壇的地位
向上を図っている。また「芥川賞」「直木賞」の勧進元で、これまでミステリには縁の浅かった出版社である文芸春秋に、「ミステリ・マスターズ」という書き下ろしミステリシリーズの企画を持ち込んだのも、実質的には笠井潔(と北村薫)と見ていいし、その意図するところは、文脈的に見て明白である。
(5) ミステリ界外では、SF界の古参作家 山田正紀をミステリ界で後押し(日本推理作家協会賞)するなどして、SF界への影響力を確保し、最近ではSFの公募新人賞の選考委員にもなっている。 純文学方面では、エンターティンメントに親近な奥泉光(芥川賞作家)に接触したりしている。
(6) 小説業界以外では、中山元・山路龍天などの(人文系)大学教授や、三浦雅士などの有力編集者(元『ユリイカ』編集長)という「権威筋」との関係を開拓する一方、大塚英志・東浩紀など新世代に人気のある若手評論家との接触を重ねる。
など、こうした目配りの良さ(布陣の巧さ)は、さすがに、かつて体制の転覆をねらった「新左翼のオルガナイザー(組織人)」だっただけのことはあると言えよう。
しかし、こうした動きは、「ミステリ界」や「笠井潔」に多少とも興味をもって観察しておれば、すぐに気づく程度に「明らさまな」もので、ミステリ関係者にも知り合いのいる東浩紀なら、イヤでも笠井潔のこうした動きを気づかないわけにはいかなかったはずである。
笠井潔は、東浩紀の批判に対し、
『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。しかし、それは現代思想タコツボの不健全性が、他の小世界にも同じように瀰漫しているに違いないという、東君の無根拠な思い込みにすぎません。本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。この相違には、業界の構成者の品性や性格の問題というよりも、もう少し構造的なものがある。簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。市場のヤスリにかけられているかどうかは、決定的な相違ですから。プロとして顧客に商品を売って生活をしている以上、ほとんどが大学教授のアマチュア・ライターで占められている特殊な世界のように、「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』
(笠井潔・第一二信「言論的「禁治産者」の独り言」P163 より)
親子ほども歳の違う東に、痛いところを突かれ、「激怒」した笠井の表情が浮かぶようだ(かつて、私や新保博久や長谷部史親・縄田一男に、文字どおり「激怒」したように)。もちろん、すでに公開されている議論の中でのことであるから、怒りを露にはしていないけれど、この文章には、押さえても押さえ切れない怒りの感情が、笠井潔の本性とともに、ハッキリと刻印されている。
まず、笠井潔はここで「本格ミステリ界には『党派争い』などない」と明言しているが、これはいかにも「思想犯(=確信犯)」らしい「臆面
のない否認」に過ぎないことは、明らかな事実である。
リアルタイムでこの「ネット往復書簡」を読んでいたミステリ業界関係者は、きっと「よく言うよなあー」と思ったことだろうし、『2ちゃんねる』あたりでは「嘘ばっかり」といったツッコミも入ったことであろう。
なぜ笠井潔の言い分(全面否認)が「臆面もない大嘘」なのか、すこし説明してみよう。
もともと日本のミステリ文壇には、「日本推理作家協会」という業界包括的・中心的な親睦団体が存在している。そこへ笠井潔は、有栖川有栖を看板に立てて「本格ミステリ作家クラブ」という別
団体を創った。それだけならまだしも、笠井は、そこに従来からあった(権威としての)「日本推理作家協会賞」に対抗する形で自前の「本格ミステリ大賞」(本格ミステリ作家クラブ
主催)を設立し、またミステリ界全体をカバーする(売り上げにも直結した)年間ベスト投票誌『このミステリーがすごい!』(宝島社)に対抗するような形で、本格ミステリだけをピックアップして売り込む『本格ミステリ・ベスト10』(探偵小説研究会
編著・原書房)を刊行した。ここまでやって、「党派争い」が(陰微なかたちでも)まったく生じてなどいないと、笠井は本気でそう言うのであろうか? 笠井潔が主導した、これらの「一連の動き」が、「党派争い=勢力争い」に無関係だと、そう言うのであろうか?
もちろん、これまでにも「日本推理作家協会」と重なるかたちで、「日本冒険作家協会」という冒険小説・ハードボイルド系の作家を中心とした親睦団体が存在し、独自に「日本冒険作家協会賞」というものを主催していた。しかし、こちらの方は、冒険小説・ハードボイルドの熱狂的なファンである、タレントの内藤陳を中心とした、文字どおりの親睦(酒盛り)団体であり、意識的な党派拡大運動もなければ、その結果 として、その団体も賞も、営業的には、ミステリ業界全体にたいして、ほとんど影響を与えることはなかった。また、そのために「日本推理作家協会」と「日本冒険作家協会」は、なんら軋轢を生じさせることもなく、これまで共存してきたのである。
ここで注目していいのは、笠井潔と同じ「全共闘世代」の人間、なかんずく「全共闘」にかかわった人間は、ほとんど「本格ミステリ作家クラブ」には関わっていないという事実である。
もちろん野崎六助のように、もともとは新左翼の別
セクトの理論家であったための近親憎悪から、笠井潔に批判的であり、笠井を『クサイ・ケツ』(「テロルの電子音楽
―― 笠井潔の停止した時計」、彩流社刊『亡命者帰らず』所収)とまで書いて過去を持ちながら、趣味的に刊行したミステリ評論『北米探偵小説論』(初版は青豹書房)が、法月綸太郎の絶賛(法月は、同書中の本格的な「エラリー・クイーン論」に惚れ込んだ)などを経て「日本推理作家協会賞」を受賞した途端、これでのマイナーな左翼評論家ではなく、メジャーなミステリ評論家として食っていけるとスケベ心を出したのか、いつのまにか法月綸太郎の親分である笠井潔に仁義を切って、正式にミステリ業界入りを果
たし、笠井は笠井で、かつて「野崎だけは許さん」と激怒したことも忘れ、尻尾を振って子分になろうとする野崎に総括を要求することもなく、いつのまにか「対談」をやるような仲となって、野崎もその期待に応えて笠井潔の『オイディプス症候群』を『本格探偵小説の一大ページェント』と絶賛する書評(『サンデー毎日』2002.5.19号)を書くなど、忠勤これに努めてみせた……などという、身も蓋もない「例外」はあるものの、大半の「全共闘」経験者は、その度し難い「政治性」にうんざりしており、そのために笠井潔のように露骨な「遺物的政治人間(過去の亡霊)」にかかわろうとしないのであろうことは、想像に難くないのである。
つまり、笠井潔の周辺にいるのは、基本的には「ノンポリ」の人間であり、「政治性の弊害」には、いたって鈍感な人間たちだと言っていい。「ひとまず大好きな本格ミステリの地位
向上に役立つし」とか「仲間になっておいて損はないし」とか「誘ってくれたのに、あえて入らないのは角が立つし」という人間が、九割方だと断じてもよかろう。いずれにしろ、笠井潔に面
と向かってたてつける人間は、皆無なのである。
また「本格ミステリ作家クラブ」は、「本格ミステリ」と限定的な団体名を掲げて、「日本推理作家協会」との差別 化(住み分け)を図っているかに見せながら、そのじつ、一時流行の兆しを見せた「ホラー業界」の人間まで、創立時において、すでに取り込んでいるという「事実」がある。実際のところ、ホラーしか書いたことのない作家でも、コネがあれば「本格ミステリ作家クラブ」に入れるのであれば、冒険小説作家やハードボイルド作家でも、本人が望めば、これを拒む理由はどこにもない。となれば、実質的に「本格ミステリ作家クラブ」は(「日本冒険作家協会賞」とは違って)、「日本推理作家協会」と完全に競合して、これを駆逐しかねない、「全方位 型」親睦団体だということになってしまうのである。
これでも、笠井潔は「党派争い」など存在しない。『「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』などと、盗人たけだけしい「大嘘」をついて、しらを切り続けるのであろうか? それとも、……笠井の言う『業界』とか『本格ミステリの小世界』というのは、もともと「本格ミステリ作家クラブ」という一組織(の内部だけ)を指すのであろうか? だから、その外でどんなに反感を持たれていようと、軋轢が存在しようと、そんなものは「存在しない」に等しい、とでも言うのであろうか?
笠井潔の人間的な「陰険」さは、 次の部分に明らかであろう。
『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。』
笠井潔は「党派争い」の現実を『東君の無根拠な思い込みにすぎません。』と断じているが、如上のごとく、「党派争い」の存在の「具体的な証拠(事実)」は、いくらでも明らさまに存在しており、東が『無根拠な思い込み』でものを言う必要など、さらさらないのである(さながら、笠井潔の否認は「アメリカのプロパガンダ(政治的宣伝)」に、私の指摘は「チョムスキーの事実指摘型批判」に類比的であろう)。
しかし、「党派争い」という「痛いところ」を突かれた笠井は、それを全面
否認して、その出所を「東の妄想」に求めようとする。
つまり、笠井潔は、東が正直に語った『かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験』という言葉を、卑劣にも逆手に取り、『傷』という否定的な言葉に置き換えて(レトリックを駆使して)、「経験にもとづく現実的な判断」を「精神的外傷(トラウマ)に由来する妄想」だということにしようとしたのである。
つまり、この「笠井潔の論理」でいくと、「つらい経験」は「妄想」を呼び込むものでしかない、ということになるのだが、それならば、日頃みずからも自慢話的に吹聴しているとおり、「転向左翼の笠井」の方が、「オタクの東」よりも、よほど多くの「つらい経験=トラウマ」を抱えており、「妄想」の種にはこと欠かない人物だ、とも言えるのではなかろうか。
また、笠井は、かつて東の所属した「現代思想の小世界」を『タコツボ』と見下し、現在みずからが所属する「本格ミステリの小世界」を『現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。』と言う。そして、その根拠が『簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。』と言うのは、まさに世に言う「目くそ、鼻くそを笑う」であり、いかにも「文筆業という小世界=タコツボ」に生きる人間らしい「視野狭窄」だと言えよう。いったい笠井潔が、その知名度に比して、どれだけ「稼いでいる」と言うのであろうか?
笠井本人は、現在、日本のエンターティンメント文学界の主流である「本格ミステリ」に属しており、しかも斯界の理論的リーダーだというのが自慢なのかも知れないが、京極夏彦や森博嗣、有栖川有栖といった、ごく限られた「売れっ子作家」を除けば、本格ミステリ作家の年収など、さほどのものでないというのは、文筆業界の現実を多少とも知る者にとっては「常識」の範疇に入る事実であろう。
そうした自らの現実を棚上げにして、銭儲けにならない「現代思想(=批評)の小世界」を嗤うというのは、なんとも「党派的」で「厚顔無恥」に過ぎるのではなかろうか?
さらに言えば、かつて笠井潔は、島田荘司との対談の中で、「ミステリ」から「SF・伝奇アクション」の方へと「転向」した理由は、彼の「ミステリ」作品に何の反響もなかったからだと言っている。『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』といった「初期の名作」は、さほど売れなかったし、反響もなかった。つまり、当時の笠井潔は『市場のヤスリにかけられて』いない「アマチャア作家」であり、その当時の『傷』が、今の「メジャー指向の文壇政治屋」としての彼をつくった、とも言えるのである。つまり、東浩紀にかんして、笠井潔は「自分がそうだから、人もそうだ」と思ったのであろう。
ともあれ、実売部数において「エロマンガ」「エロ同人誌」の足下にも及ばない、ごく稀に一万部刷るか刷らぬ かというような(笠井潔の本は、大半が再刷されていない)「通 俗作家(職業作家)」が、身の程知らずに「偉そうなことを言うな。このバカタレが」……というのが、私の正直な感想なのである。
笠井潔のこのように「不誠実な回答(見え透いた嘘)」に対し、東浩紀は、次のように返信している。
『前回も記したように、僕は本当に推理業界のことはよく知りません。笠井さんが党派争いなどないと断言されるのなら、おそらくそのとおりなのでしょう。しかし、党派争いがあるという「誤解」を招くような雰囲気が僕のまわりには漂っていること、これは事実だと申し上げておきます。そして僕は、単純に、そのような「誤解」に巻き込まれたくなかっただけです。』
(東浩紀・第一三信「傷」P170 より)
東浩紀が、こう言ってあっさり「退いて見せる」のは、たぶん、臆面 もなく平然と「大向こうを意識した・大嘘」をつき、東の人格を蔑ろにしたも同然の笠井には「もはや何を言っても無駄 だ」ということだったのであろう。ここで東が「それは嘘だ」と言いつのれば、後は「嘘つき相手の、実りのない泥試合」が待っているのは目に見えているからである。無論、東にそんなことをする気などない。東には、笠井潔やミステリ界に対して、そこまでする「義理」など、まったく無かったからである。
それにしても、『党派争いがあるという「誤解」を招くような雰囲気が僕のまわりには漂っていること、これは事実』という言い回しは、慎重でもあれば、いかにも意味深長なである。
つまり、これは、「笠井潔にしてみれば」党派争いは「存在しない」のかも知れない。しかし、それは「事実として、存在しない」のではなく、全共闘出身のオルガナイザーである笠井潔にすれば、それを「党派争い」の範疇に入れるべきことだとは「認識しえないという意味で、存在しない」だけだ……と言いたいのではないだろうか。だから笠井が「党派争い」だとは思わない程度の(たとえば「商売上の権益確保活動」だと認識する)行為ならば存在していて、それを「党派争い」だと感じている人は現に多数存在する、ということなのかもしれない。
例えばそれは、満員電車のなかで「やむなく」他人の足を踏んだとても、踏まれた方は「やむを得ない」とは思わない。あるいは、革命のために「やむなく」一般
人に犠牲を強いたとしても、殺された方は「やむを得ない」とは思わない、というようなことなのかもしれない。
笠井の視点からすれば、独裁者が「独裁など存在しない。私は聞くべき意見には耳を貸している」と言うのと同じことなのであろう。笠井の『本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通
しがいいと僕は感じています。』という言い種は、自己の立場に鈍感なトップにしばしば見られる、凡庸極まりない「惚けの徴候」である。
ともあれ、笠井潔のような「押しつけがましく・無神経な性格」の持ち主ならば、このような鈍感な主張は、十二分にありえることであろう。それは、一番弟子の法月綸太郎までが、次のように証言しているとおりである。
『そんなわけで、ぼくはここ一年間ずっと、**さんの命令に従って、一所懸命ご奉公してきた次第です。自分の仕事を犠牲にしてね。**さんは、こっちの都合とか考えないで、勝手に頭越しに話を決めちゃう人ですから――法月君、今度『G思想』で〔メタ・ミステリー〕特集というのをやることになったから、きみは、百枚の評論を書きたまえ。もう編集長に話は通 してある。ぼくは対談をやるから。法月君、今度『Y時代』で〔本格ミステリーの現在〕という連載評論の企画をやることに決めたから、第一回はきみが書きたまえ。ぼくは他誌の要約を載せるから。法月君、今度はA新聞が出す『T』という雑誌で〔新本格〕特集をやることになったから、きみは短篇を書きたまえ。いや、もうそういうことに決まったんだ。ぼくはS田荘司と対談をするから――いつもこんな調子でね。もちろん目をかけてもらって、引き立ててくれるのはありがたいと思ってますし、**さんの推理文壇に対する提言のひとつひとつに賛同している人間ですから、ぼくも日本のミステリー文化向上のために、できる限りの努力はしようと思っていますよ。現にそうしてきたつもりです。
だけど、いくら何でもあんまりなんじゃありませんか。だってぼくはここんところ、**さんに命じられた仕事をこなすのが精一杯で、予定の原稿なんか全然書けずにいるんです。そこのところを、もうちょっと考えてほしいなってオモいますよ。ぼくは**さんとちがって、注文に応じていくらでも原稿が書けるような、そんな達者な作家じゃありません。自分ができるからって、ほかの人間もできるとは限らない。**さんは、強制はしていないって言いますけどね、むげにいやだと言ったらカドが立つでしょう?』(「禁じられた遊び」・『小説トリッパー』1995 冬季号・単行本未収録)
ともあれ、「客観的」「世間一般の常識的」に言えば、笠井潔が「ミステリ業界」における「党派争い」の中心人物であるというのは、論を待たない事実なのである。
もし、異論があると言うのなら、私は笠井潔ご本人でも、その取り巻きの誰とでも「公場対決」をお約束する。ぜひ派手にぶち揚げようではないか(ただし、匿名でのイヤがらせは止していただきたい)。
これまで縷々記してきた事実は、私が「笠井潔の文壇政治」について知っていることの一部でしかない。もちろん、私が知っていることは、笠井潔がやっていることのごく一部である。だが、いずれにしろここでは、東浩紀によってその存在を指摘され、当の笠井潔によって全面 否認された「笠井潔による党派争い」の存在が、事実「存在する」という証拠を示すことにより、そんなものは「無い」、それは「東浩紀の妄想であり邪推」だとした笠井潔が「大嘘つき」である、という事実を明らかにしただけで充分であろう。
言うまでもなく、笠井潔の「大嘘」は自覚的なものであり、「単なる無自覚」などでは決してない。あたかもそれは、流行語にもなった「記憶にございません」という政治屋の懐かしい答弁にも類比的な「確信犯的な虚偽申告」による「否認」なのである。
「物書き」は「書くこと」において誠実でなければならないが、笠井潔のような「政治屋」は、「政治目的の達成」に誠実でありさえすれば、「手段としての嘘」も正当化されてしまうのであろう。……これが、私をして、笠井潔を「批評家ではなく、政治的・党派理論家だ」と断じさせる所以なのである。
ちなみに、東浩紀が『僕のまわりには漂っている』とする『党派争いがあるという「誤解」を招くような雰囲気』が、いったいどのあたりから発生しているのか、それについては、私にも「具体的な人物」として思い当たるフシがある。
彼だという保証はないので、実名は出さないが、その彼はミステリ業界にありながら、笠井潔とその取り巻きの胡散臭さを嫌い「本格ミステリ作家クラブ」への入会の誘いを拒絶して、笠井潔周辺では始終「陰口」を叩かれている人物……ではないかと、私は推察する。
ここで私がこんなことを書くと、その彼が、笠井潔一派による迫害を受けるのではないかと心配する向きもあろうが、ミステリ界の外部にいる私ですら思い当たる彼ならば、笠井潔およびその取り巻きの頭に、彼の名前の浮かばないはずもなく、私がここに何を書こうと、彼が迫害される時は、事実のいかんにかかわらず迫害されるであろうことは、予想に難いことではないである。したがって、業界に詳しい読者に注意を喚起しておきたいのは、彼の「ミステリ雑誌」への連載が、不自然なかたちで打ち切られたとしたら、それは「何かがあった」ということだと、そう理解してほしい。彼一人を業界から逐うことくらい、今やミステリ『文壇の人事課長』「陰の党委員長」と化した笠井潔の影響力をもってすれば、なんら難しいことではないのである。……もちろん、私のこの文章は、そうさせないための「牽制」なのである。
○
ともあれ、笠井さん、私の見解が事実無根だというのであれば、陰でグズグズ言わず、公然と反論してご覧なさい。それとも、いぜん私が「創元推理評論賞」応募作として、公然と貴方に送りつけた笠井潔批判論文『地獄は地獄で洗え……』の時と同様に、『怒り心頭に発し』(by
法月綸太郎)ながらも、利口に「だんまり」を決め込むつもりですか? まあ、政治屋の貴方のことだ、喧嘩して何のメリットの無い私とやりあうことなど金輪際ないだろうが、東浩紀のそれのような公然たる「笠井潔批判」が現れてきたという事実の重さは、よくよく心しておいた方が良いだろう。
かつて、
『野間賞や谷崎賞を代表格とした文学賞は、日本の小説市場における非関税障壁の、あるいはダンゴーやケーレツのシステムの悪しき象徴ではないだろうか。
それらには、もはや文学的価値の尺度という意味などない。選考委員がまわりもちで受賞しているような、「文壇」的ダンゴーとケーレツの産物にほかならない「賞」が、はたして文学賞の名に値するだろうか。それは芸術院会員や文化勲章にいたる、国家に保証された権威大系に組み込まれた、その下位 階梯をなしているものにすぎない。
文学賞による権威の分配機構と、公共土木事業の分配機構は、基本的に同型のシステムをなしている。後者に金丸信のような調整役が存在したように、前者にも同様のキャラクターが要請されるのはとうぜんのことだろう。噂によれば「文壇の人事部長」某氏が、その役割を演じているそうだ。』(『国家民営化論』)
と断じ批判した貴方が、今ではミステリの公募新人賞である「鮎川哲也賞」の選考委員をつとめ、かつては批判していた「日本推理作家協会賞」を受けては、今度はその選考委員となって山田正紀や法月綸太郎という「手ゴマ」の受賞の後押しをし、それだけでは飽き足らず、SFの公募新人賞の選考委員までつとめて、いまや押しも押されもしない「業界の有力者」、正真正銘の『文壇の人事部長』になって『文学賞による権威の分配機構』の中心に居座っているということの事実を、貴方はいったいどう説明するつもりなのか。
貴方は、この往復書簡の中でも、柄谷行人らを批判してこう書いている。
『いうまでもなく、一〇年前の湾岸戦争反戦署名「文学者」は、アメリカのアフガン攻撃に協力する日本政府にも抗議しなければならない。それが筋というものでしょう。しないとしたら、そこには変節があります。変節が絶対に悪いとはいいませんが、立場を変えたのなら、変えた根拠を「文学者」として明らかにしなければならない。それがしない(できない)以上、一〇年前の反戦署名が社会的発言や社会的行為の水準に達していなかったことは、事後的に証明されたと見なすしかありません。』
(笠井潔・第二信「私と世界と「政治的発言」」P31-32)
その貴方が、自分からは自己の『変節』の理由を語らない。
……だが、じつのところ私は、貴方が「変節」したなどとは思っていない。なぜなら、貴方は、かつても今も、要は権力指向の強い、身勝手な「党派理論家」だったという事実を、かつてのファンとして身に沁みて知っているからだ。
だから貴方は、自分にとって好ましくない「有力者」には難癖をつける一方、自己に利するものについては不公正なまでに持ち上げることも辞さなかった。そんな貴方だからこそ、当面
自分には関係のなかった「純文学文壇の有力者」を貶し、政治家を貶した。ミステリ界では、『虚無への供物』の作者中井英夫の後継者として世間から並び称される一方、その温厚な人柄で若手の作家に好かれたライバル竹本健治については、彼のいかにも野方図と見えるメタ・フィクション的な方向性を「形式の不徹底」だと禁欲主義者のごとく批判しては、竹本健治ファンからは「モーツアルト竹本に嫉妬する、サリエリ笠井」などと嘲笑されたりもした。もちろん、思想家についても、貴方は、時の最有力者を批判したりはしない。だいたい貴方の出発点は、すでに流行遅れとなって捨て去られた「マルクス主義」への批判だったではないか。つまり貴方は、いつだって「追い討ち」をかけるだけ人だったのだ。
貴方は決して「変節」などしていない。貴方の一貫した主張とスタンス。それは「私だけが戦っている。ほかの奴らは、みんな不徹底である」という身も蓋もない「被崇拝願望」であり、それに由来する「権力指向」である。
そして今、貴方は「本格ミステリの小世界」の頂点に近いところに位 置を占めるにいたった。もはや「純文学の小世界」や「現代思想の小世界」で、高い位 置を占めることはできそうにないが、だからこそ貴方は「なに、あんな市場のヤスリにかけられていない、大学教授か、アマチュア・ライターと大差ないやつらで占められている特殊な世界など、顧慮するにも値しない」と嘯いてみせるのであろう。これも貴方ならではの「劣等感」と「ルサンチマン」と「権力指向」の賜物なのだ。
だが、頂点を極めた瞬間から「凋落」は始まる。そしてその「合図」が、東浩紀の「遠慮のない批判」だ。
この合図をもって、「笠井潔批判というタブー」は確実に緩むだろう。貴方と東浩紀との対談で、対立が表面
化した後に、アクセス数が激増したという事実は忘れない方がいい。「なんだ、事実を突かれれば、笠井潔もろくすっぽ抗弁ができないんだな」と思った者は少なくはなかろう。そして「威張ってるからだよ、ざまあ見ろ」と思った人間も、少なくはないはずだ。
今はまだ「擦り寄ってくる人間」も多いだろうが、船が沈没しかければ、ネズミたちは巻き添えを恐れて早々に逃げ出してしまうだろう。そうなれば、笠井さん、貴方の老後は、貴方が恐れた中井英夫のそれとはまた違った、とても「寂しい老後」ということになるでしょうね。かつて、開高健が島田雅彦に言われた『開高さんは、釣りでもしてて下さい』というのと同じ調子で、若手から「笠井さんは、スキーでもしてて下さい」と言われる日も、そう遠くないのかも知れない。
……だが、貴方の名前は、一時代を画した「文壇政治家」として、末永く語りつがれることでしょう。これは私が保証させてもらいましょうか。
2003年5月6日
※ 本稿は、当ウェブサイト『LIBRA アレクセイの星座』のBBS「アレクセイの花園」に発表した、下記の2つの拙稿をもとに、大幅に加筆改稿を加えたものである。
・「怠惰と堕落」 2003年4月24日
・「笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する」2003年4月26日
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◆ 補記・笠井潔のじつに人間的な欲望 ◆
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拙稿「笠井潔が、真に望んだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性」発表後、いくつかのご感想やらご質問をいただいた。そのなかに、予想だにしなかった「意外な質問」が一つあり、私はそれへの回答を書いた。これは広く読んでおいていただいた方が良いと思えたので、その質問と共にそれへの私の回答を、ここに紹介させていただく。
私は一般人であり、且つ良いミステリ読書ではありませんので、ミステリ業界の内幕などと言ったものなど想像も出来ませんが、確かに表面 に現れている現象だけを取れば、園主(※ アレクセイ・田中幸一)様の批評にある通 りのことが起こっているのかもしれないとは思わされてしまいます(何事も一方的に盲信または妄信しないというのが私のスタンスですので、お気を悪くされませんように)。
さて、ここで私には判らないことがあるのです。それは笠井氏がそれほどの八面六臂の活躍ぶりで「文壇政治」に精を出し、それが実りつつあるとして、その事実が笠井氏に一体いかなる利をもたらすのかということです。これは「気分がいい」などと言ったことではなく、あくまでも実利があるのかと言う疑問です。
例えば、自分の臣下にしか出版を許さないとか、己に与さない新人作家はデビューさせないなどといった状況があるのでしょうか。もしも、そうした状況があるとしたら、それは笠井氏にとってどんな意味があるのでしょう。笠井作品と氏の亜流作品しか存在しないというお寒い状況を招くことにどんな意味があるのか、私には理解できません。文壇という狭小な社会/世界に君臨することに一体どんな意味があるのでしょうか。
それとも、こうした活動の涯にもたらされるものは、やはり精神的な充足感だけなのでしょうか。かつて自分がアイドルになれなかった夢を子供に託す母親のように、全共闘時代にできなかったことを今、ミステリ業界で達成しようとしているのでしょうか? 江戸の敵を長崎で、という理屈なのでしょうか。その笠井氏の動機の部分が理解できないので、どうにも園主様の批評及び主張がすっきりと納得できません。この辺り差し支えのない範囲で結構ですので、説明頂ければと思います。
(本年5月11日付け よたろう『はじめまして』より)
この質問は、たいへん面白い。と言うのも、東浩紀の「笠井さんの党派争いに巻き込まれるのは御免だ」という批判的な指摘に対し、
『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。』
(『動物化する世界の中で』より)
などと臆面もなく応えてみせる笠井であるから、私の当該論文による批判に対しても「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。そんなことまでして、僕にどれほどの実利があると言うのでしょう。」などと、とぼけてみせる可能性も少なからずあるからである。
さて、この質問を要約すると、『「文壇政治」に精を出し、それが実りつつあるとして』『実利があるのか』『やはり精神的な充足感だけなのでしょうか』ということになろう。 そして、こうまとめれば、この「質問(疑問)の立て方の問題点」も見えてくるし、自ずと答も明らかになるのではないだろうか。
つまり、この質問への答は「もちろん実利もある。ただ、それは副次的なもので、最終目的は『気持ちがいい』ということである」ということになる。 つまり、問題は「二者択一」ではないのだ。なぜなら「気持ちいい」という「結果」は、「実利」と密接に絡んでおり、別 々に存在するものではないからなのである。
ここで少し遠回りをして、一般的な「人間心理」について書いておこう。
まず「人は何を求めて生きるのか?」という人間存在の根源的問いについて。これにはいろいろな答え方が可能であろうが、異論のありえない答のひとつが「気持ちよくなるために」というものである。人間は、「気持ち良さ」を求めて生きている。これに、例外はない。
食事をするのも、睡眠を取るのも、いやいや仕事をするのも、恋をするのも、セックスをするのも、子供を育てるのも、テレビを見るのも、哲学書を読むのも、難問を解こうとうんうん唸るのも、喧嘩をするのも、慈善運動をするのも、挨拶をするのも、刺青を入れるのも、絵を書くのも、小説を書くのも、世界平和を願うのも、信仰をするのも、革命家になるのも、金儲けをするのも、権力者に擦り寄るのも、人を馬鹿にするのも、体力の限界に挑むのも、パンチドランカーになるまでボクシングを続けるのも、手術しなければ死ぬ
とわかっていて手術しないのも、金儲けをするのも、立身出世を願うのも、整形手術をするのも、自殺をするのも、SMクラブで女王さまに鞭でしばかれるのも、犯罪をおかすのも、……人が、強制されることなく、自分からなすことのすべては、(直接的・間接的の違いはあれ)何らかの「快楽=気持ちよさ」をそこに期待し、それを得るためなのだ。
例えば、歌の歌詞にも『君の行く道は 果てしなく遠い だのになぜ 歯を食いしばり 君は行くのか そんなにしてまで』というのがあるが、この『なぜ』という問いへの究極の答は「それが気持ちいいから」なのでございます。もちろん、これは言い換えれば「それをしないと気持ち悪い(満足できない)から」ということでもある。
人が、「金儲け」に奔走するのも、「地位・名声」を欲するのも、「美貌」を欲するのも、その究極の目的は「気持ちよくなるため」である。もちろん中には、その目的を見失い、「金儲け」や「地位
・名声」「美貌」などの獲得といった「気持ちよくなるための・手段」を「目的」だと勘違いする人も少なからず出てくるが、それは一種の「倒錯」でしかない。人は、もし「何をしなくても(何を得なくても)」幸福感(気持ち良さ)に満たされるのであれば、あえて行動は起こさないものなのだ。
しかし、発達心理学の知見が示すとおり、母胎の中で全能感(完璧な幸福感)に微睡んでいた子供も、この世に生まれでた途端、そこから始まるのは「喪失の歴史」であり、それを補完する形での「幸福感回復活動の歴史」である。つまり、人はこの世に生まれた瞬間から「欠落感(=不満感=不快感)」を持っており、それを埋めようとする本能が、そのまま「生きる力」ともなっているのだ。そのような意味で、人が生きることの「究極の目標」は、平易に言えば「気持ちよくなること」。ちょっと硬い言い方をすれば「全能感の回復」なのである。
さて、ここまで説明すれば、この質問が、ある種の倒錯にとらわれているが故に発せられたものであることがお分かりいただけよう。
『さて、ここで私には判らないことがあるのです。それは笠井氏がそれほどの八面 六臂の活躍ぶりで「文壇政治」に精を出し、それが実りつつあるとして、その事実が笠井氏に一体いかなる利をもたらすのかということです。これは「気分がいい」などと言ったことではなく、あくまでも実利があるのかと言う疑問です。』
つまり、よたろう氏は「ただ『気分がいい』だけではつまらない。やはり『実利』を求めるはずだが、では、それは具体的に何なのだ?」と問われているのだが、笠井潔が求めているのも、所詮は『気分がいい』状態であり、氏の言う『実利』というのも所詮は、その目的を達するための「手段」に過ぎないのである。
もちろん、前述のとおり「手段としての、実利」が得られなければ、なかなか「結果 としての、気持ちよさ」は得られないので、当然、何らかの「実利」を得ようとはするだろう。だが、だからと言って、それが「目的」ではないし、そこが「肝心」でもないのである。 したがって『実利』を具体的に列記しても、あまり意味はないのだが、具体的に書かないとピンと来ない方も多かろうから、ここでは、ひとつだけ代表的な『実利』を紹介しておこう。
それは、自作『オイディプス症候群』が、「2003 本格ミステリ・ベスト10」(「探偵小説研究会」編著・原書房)で堂々の(?)第一位 に選ばれ、本の売り上げが増えたこと(栄誉と実益)。また、その余勢をかって、「本格ミステリ大賞」(本格ミステリ作家クラブ 主催)の第3回小説部門受賞作になる可能性も大だということ。 同賞第3回では、評論部門でも笠井の本が候補に挙がっており、予選委員の面 子と、選ばれた候補作を見れば、これが笠井の「文壇政治」の成果であるのは、明らかなことなのである。
○
以上の「よたろう氏の質問への回答」は、本年5月12日に、私がBBS「アレクセイの花園」にアップした『知性の微睡み』を改訂したものである。
なお、その後、身も蓋もなく予想どおりに、笠井潔が「第3回本格ミステリ大賞」を「小説部門」と「評論・研究部門」の両部門で、W受賞を果 たした(※ 「小説部門」は、乙一『GOTH』と同時受賞)。これは前記のとおり『笠井の「文壇政治」の成果 であるのは、明らかなこと』なのだが、ここでは念のために『予選委員の面 子と、選ばれた候補作』について、紹介しておくことにしよう。拙稿「笠井潔が、真に望んだこと。」の読者ならば「なるほど、この面 子なら」と納得していただけることであろう。
さて、『ダ・ヴィンチ』誌 本年4月号によると、
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第3回本格ミステリ大賞候補作決定

本格ミステリクラブ(会長・有栖川有栖氏)が主催する、年度内の本格ミステリ・ベスト1を決める同賞の候補作が、我孫子武丸氏ら5人の予選委員により選出された。
本選では候補作を全作読んだクラブ員が投票を行い、5月に開催予定の公開投票会の席で受賞作が決定される。昨年の小説部門大賞受賞作は山田正紀氏の『ミステリ・オペラ』。
【最終候補作品】
● 小説部門
『オイディプス症候群』笠井潔
『GOTH』乙一
『法月綸太郎の功績』法月綸太郎
『マレー鉄道の謎』有栖川有栖
『聯愁殺』西澤保彦
● 評論・研究部門
『怪奇幻想ミステリ150選』千街晶之
『殺す・集める・読む』高山宏
『探偵小説論序説』笠井潔
『迷宮逍遥』有栖川有栖
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とのことであったが、この『我孫子武丸氏ら5人の予選委員』とは、
我孫子武丸・山田正紀・円堂都司昭・末國善己・野間美由紀
のことである。それぞれを「笠井潔との関係」でご紹介しておくと、
我孫子武丸は、笠井とは、ネットノベルの配信会社『e-ノベルス』の共同経営者という間柄である。
山田正紀には、「笠井潔が、真に望んだこと。」でも紹介したとおり、笠井の強力な推薦があって、『ミステリ・オペラ』が「第2回本格ミステリ大賞」を受賞し、「日本推理作家協会賞」を受賞したという経緯がある。
笠井潔が山田正紀をバックアップしているという事実は、笠井潔関連の場所で、頻繁に山田正紀の名を見かけることからも明らかであろう。この「共同戦線」の心理的な理由は「世代的共感」や同じ「角川小説賞受賞者」といった色んな要素がありえるが、ともあれ「探偵小説研究会」のメンバーである千街晶之の著書『怪奇幻想ミステリ150選』に、御大然として「笠井潔と山田正紀の対談」(千街は司会進行役)が掲載されているという事実は、このあたりの「力関係」と「人間関係」をありあり伝える事実だと言えよう。
円堂都司昭・末國善己の二人は、「探偵小説研究会」のメンバー。
野間美由紀については、よく知らないが、笠井潔と直接的な「人脈」的つながりは無さそうである。
以上のように、「本格ミステリ大賞」と「本格ミステリクラブ」と「探偵小説研究会」は、「笠井潔」という「一本の中心軸」によって貫かれているという事実は、誰にも否定できない。
したがって、笠井潔が「第3回本格ミステリ大賞」を受賞したのも、こうした「人脈」構築の結果
、つまり「文壇政治」に賜物だと言っても、笠井潔周辺以外からは、異論の出ないものと、私は確信している。
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ちなみに「第3回本格ミステリ大賞」の公開選考会では、「小説部門」で、たかだか全54票、受賞作得票数16票の「票読み」を間違えて、当初、乙一『GOTH』の単独受賞という結果
がマスコミ報道された。
しかし、その後、笠井潔の『オイディプス症候群』にカウントされるべき票が、「評論・研究部門」の候補作にカウントされていたことが判明。「小説部門」は『GOTH』と『オイディプス症候群』のW受賞ということに訂正された。
選考会役員を7人も立てて、仰々しく「公開選考会」をやったわりには、何ともお粗末なことだが、しかし、思うにこの珍事は、心理学で言うところの「意味のある過失」だったのではあるまいか? なぜなら、「本格ミステリクラブ」の中にも、内心、笠井潔の政治性を疎ましく思い、その受賞を面 白くなく感じている者も、少なからずいるからである。そうした情念が、起こるはずのないミスを招き寄せたのだ、と言っては穿ちすぎだろうか。……それとも、フザケ過ぎだろうか(笑)。
2003年6月14日
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