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◆ バイバイ、矢吹
駆 ◆
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――「矢吹
駆シリーズ」のラスト
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田中幸一(アレクセイ)
※ 末尾の日付けにもあるとおり、本稿は某同人誌用の原稿として「2002年7月16日」に書き下ろしたものである。しかし、諸般 の事情により同誌の刊行が現在に至っても目処の立っていないことから、今回、此処での発表に踏み切った。
読んでもらえばご了解いただけようが、本稿執筆当時には、リンクされていなかった「矢吹 駆シリーズ」と「コムレ・サーガ」であったが、その後に両シリーズの橋渡しとなる作品の執筆が開始されたという噂を耳にしたのも、本稿の発表を早めた理由のひとつである。
本稿のなかでも書いているとおり、笠井潔の小説は、雑誌掲載(初出)時と単行本刊行時とでは、その完成度が大きく異なりがちなため、私は『哲学者の密室』以降の笠井作品は、絶えて雑誌掲載時には読まなくなった。そのため前記「橋渡し」作品も読んではいないのだが、どうやらこの作品は連載が中絶して未完成となった模様で、いまだに単行本は刊行されていない。(2004年4月21日記す)
―― インスピレーションを与えてくれた、Keenさんに
もう十年以上も前、まだ「新本格第一世代」が出揃ってもいなかった当時(1989年・平成元年)の話だが、「SRの会」の全国大会に参加するため清里まで出向いた折りに、八ヶ岳に程近い山梨県北巨摩郡甲斐小泉の喫茶店で、笠井潔にインタビューしたことがある。当時、「矢吹
駆シリーズ」が単行本で3冊(『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』)、文庫本(角川文庫版)で前の2冊まで刊行されており、笠井の執筆活動の中心は、『ヴァンパイヤー戦争』『サイキック戦争』『巨人伝説』などの「コムレ・サーガ」と称されるSF作品を経て、「新本格ムーブメント」の影響もあったのであろう、再びミステリへの回帰を見せ始めていた。もっとも、その年、笠井がひさしぶりに刊行したミステリ『復讐の白き荒野』は、私が期待したような本格ミステリではなく、スパイ小説と冒険小説の中間くらいの作品であり、私をひどく落胆させたりもした(ちなみに、この作品は昭和天皇の死去を受けて書かれたものである)。
このインタビューに先立つ数年前、まだ「新本格ムーブメント」が巻き起こる以前の日本のミステリ界の状況を、中井英夫は、昭和60年9月4日付けで刊行された竹本健治の『囲碁殺人事件』(河出文庫版)の解説で、次のように書いている。
『 だが、七〇年代から八〇年代にかけてのこの賑わい も長くは続かず、笠井潔が「ヴァンパイヤー戦争」を書いてSFに転じたように、竹本健治も八三年に「狂い壁 狂い窓」を講談社ノベルスの一として出したのち、いまはSFの大作を準備中だという。惜しいと言えば惜しい、当然と言えばそれも当然な新局面 が展開しようとしているのが八五年夏の現状である。』
「新本格ムーブメント」を経た後のミステリ全盛の現状しか知らない若い世代には、想像も出来ない状況かも知れないが、当時は笠井潔も竹本健治も「ミステリ界の人」ではなくなっていたのである(もっとも、竹本健治が「ミステリ界の人」かと言うと、それは現状でも疑問はあろうが)。
私が笠井にインタビューを行なったのは、「新本格ムーブメント」の最初期の頃で、まだ自分を「熱心なミステリファン」「熱烈な笠井潔ファン」だと信じていた頃であった。今でこそ、笠井潔が当時自称していた「マルクス葬送派」をもじった、「笠井潔葬送派」を自称する私だが、当時の私は、ファンとして純粋に期待すればこその厳しさに満ちた、熱烈な笠井潔ファンであり、当時ほとんど他に聞き及ぶこともなかった数少ない「矢吹
駆」ファンであった。
インタビューは、笠井の当時の興味の沿って多岐に渡ったが、私の興味の中心は「矢吹
駆シリーズ」の次作はいつ書かれるのか? ……この一点に集中していた。
笠井 (略)ところでご質問の「矢吹シリーズ」ですけどね、以前に『EQ』で二回くらいの分載でシリーズ第4作をやってほしいという話があったんですけど、あれをまた始めると4作目を書いたのはいいけれど、また一〇年くらい書かないってわけにもいかないし、始めるんなら全十作は無理でも全五作ぐらい完結という風にしたいんです。でもね、あれはとにかく時間がかかるんですよ。最低でも半年ぐらいかかる。そうすると、幾年かはそれを仕事の中心に据えないとあと二冊なり三冊なり書くってことはできないんですよ。
田中 また一〇年後ってのはだめでしょうか? 僕はそれでいいと思うんですが(笑)。そんなに次々と書かれては困るって部分もありまして(笑)、やっぱりああいうミステリというのはじっくり書いてもらわないと、そんなにポコポコ書けるもんじゃないですから…。
笠井 そう思っている人がいるから、こっちも気楽に書けないという…頑張っちゃうと言おうか(笑)。
田中 忘れてもらっては困るんですけど、いつでもどこかで蓄積していると言おうか、例えばこの腰あたりに「矢吹シリーズ」の袋があって、何年かの間に少しずつ溜まっていくというそういう感じだといいんですがね(笑)。
(中略)
田中 「矢吹シリーズ」は一応全十作の予定でしたよね?
笠井 それはまあなんとなく切りがいいから十作って言ったら、それがそういうことになってしまって(笑)。
田中 しかし十作となると書くことが無くなっちゃうんじゃないかなぁと思うんでしよね。テーマが散漫になっちゃうんじゃないかという不安も(笑)。
笠井 そうですね、ヴァンダインの例を見ても3作くらいで止めておいた方が良かったということもありますからね(笑)。
田中 やはり第一作目でメインテーマみたいなものが扱われますよね。でだんだんとテーマが瑣末な、と言うと語弊がありますけど、…中心的なことから外れていって一般 化していくって感じがするんですけど、…作品の出来不出来は別として。
笠井 それはシリーズものの苦しいところだよね。
田中 あのまま一〇作までいっちゃうと、どこまでいくのかなという(笑)。
笠井 一〇作は書かないだろうな。あと二つか三つ。
田中 僕もそれくらいでで充分だとは思うんですよね。
笠井 じゃあ十年に一作でもいいかな(笑)。
田中 でも矢吹 駆が矢吹 駆でなくなってしまうと困りますし(笑)。ほんと、一〇年に一作でもいいんですけどね。その間に読まなくちゃならない買い置きの本がたくさんあるし(笑)。しかし…その一〇年に一度のが裏切られると、また激怒しなくちゃなりませんし(笑)。
笠井 『才能が枯渇した』って(笑)。
田中 好きなこと言ってますが、アハハ…。
(「アンチ・ミステリの巨人 笠井
潔さんに聞く」より
探偵趣味倶楽部 会誌『群探』十四号 平成2年3月12日発行 所収)
笠井は、このインタビュー当時はまだ躊躇していた「矢吹 駆シリーズ」の第4作を、翌年(1991年・平成3年)『EQ』誌の3月号から9月号の4回にわたり連載し、さらにそれを約一年かけて約三倍の長さにまで加筆し、単行本として上梓した。これが現行の『哲学者の密室』である。
そしてシリーズ第五作となる最新刊『オイディプス症候群』は、単行本『哲学者の密室』から3年後(1994年・平成6年)に『EQ』誌に分載され、単行本化されたのは、ご承知のとおり、世紀も変わって本年(2002年・平成十四年)のことであった。雑誌連載終了より、じつに8年の時を閲していたのである。
しかしこの八年間、笠井はずっと『オイディプス症候群』の改稿をしていたわけではないらしい。『ジャーロ』(第8号、2002年
夏季号)に掲載された笠井のエッセイ「八年間の不思議」によると、
『連載完結の翌日から『オイディプス症候群』の改稿に着手したわけではない。実際に作業を開始したのが二〇〇〇年の春、加筆を仕事の中心に据えたのが昨年春、完成に向けて無我夢中で書きはじめたのは八月以降だろう。11月、12月で四百枚の新原稿を書いた。』(※ 原文「一一月、一二月」と表記)
とのことである。
さて、話を先のインタビューに戻すと、私はこの時、笠井に発したある質問とそれへの回答を、このインタビュー記事には落していない。なぜなのか、その理由は今となっては忘却の彼方に置きさられて不明なのだが、推測するに、その質問が発せられたのがインタビュー終了後で録音をしていなかったためか、あるいは、質問とその回答が「矢吹 駆シリーズ」のラストに関わるものであったため、読者の感興を少しでも削ぐまいとの配慮から、あえて原稿に落さなかったのか、のいずれかであろう。
その質問とは何か?
それは 「シリーズとしてのラストの構想はあるんでしょうか?」 というものであった。
私は「無い」と思っていた。なぜなら第一作『バイバイ、エンジェル』は、左翼運動の根本的な問題点を突きつけ、その総括を迫った、かの「連合赤軍事件」(連合赤軍のメンバーは、絶望的な革命成就への殉教的覚悟を問う「総括」において、仲間の命を自らの手で奪うという悲惨で倒錯的な殺人事件を引き起こした)を、左翼学生運動の理論家闘士だった笠井が避けては通
れない「思想的課題」とし、これを乗り越えるために書いた小説であったからだ。……第3作の『薔薇の女』では、「超越への止みがたい希求と現実との相克」がテーマとして選ばれ、少なくとも読者である私からすれば、やや「切実さを欠くテーマ」となったように思えたが、少なくとも第2作『サマー・アポカリプス』の「理想と現実の相克と選択」というテーマは、第1作のテーマであるアポリア(難問)を引きずっており、充分すぎるほどに、笠井にとっても「切実なテーマ」だと、私には思えたのである。
だから私は、第3作まで読んだ段階で、「矢吹 駆シリーズ」は笠井が「自己の思想的課題を切実な状況としてシュミレートし、そこで思考しながら乗り越えていこうとしているシリーズ」だと考えたのである。したがって「シリーズの結末は見えていないはずだ」というのが私の予想だったのである。
ところが笠井の回答は、この予想に反して、じつにあっさりしたものだった。
「いちおう考えはありますよ」
この返事は、私にとってはけっこうショックだった。「そんなはずはない」はずだった。だが事実は否定できない。思えば私と笠井潔の齟齬は、その最初から存在していたのである。
*
それでも私にとっての矢吹 駆は、やはりこの現実世界の難問と戦いながら生きる「人間」であった。天才的な知性と、身体機能を含む戦闘の才能と、美貌とを兼ね備えた「超人」的な人間であったとしても、それでも彼の思考は、この地上にあって血を流しながら遍歴するひとりの人間のものであった。……しかし、つい先日、それがそうでないことに気づいた。そしてインタビューの時の笠井の回答が、十数年ぶりに初めて腑に落ちた。やはり私は、笠井潔を誤解していたように、矢吹
駆をも同様に誤解していたのだ。
私は、私が期待する人間像を笠井潔という人間に投影し、その期待を裏切られて、笠井潔に反発するようになった。「なんだ、ただの政治(勢力争い)好きの理屈屋じゃないか。もっと人間的な欲望から距離のおける、禁欲的な孤高の思考家だと思っていたのに!」……これが私の笠井潔に対する反発の根源にある認識なのである。したがって矢吹
駆に対する誤解も、基本的にはこの誤解と同型である。なるほど矢吹 駆は作者である笠井
潔本人とは違って『禁欲的な孤高の思考家』だとは言えよう。その点で矢吹 駆は、長らく私の期待を繋ぎ止めてきた。しかし、それとは別
のところで矢吹 駆は、私の期待したような存在ではなかった。彼をそういうものと誤解したのは、やはり私が彼にある種の救済を、切実な「希望の光」であることを期待したからであろう。だが、彼は凡庸な私などが期待を寄せられるような存在ではなかった。彼は、我々とは根本的に違った存在であることがわかった。それに初めて気がついた……と、私はそう思ったのである。
気づきは突然に訪れた。それは私が開設運営するウェブサイトの掲示板「アレクセイの花園」で行なわれていた、泡坂妻夫の短篇連作「亜愛一郎シリーズ」の第1作「DL2号事件」についての合評会のなかでのことであった。
この前段として、ある時、この合評会の参加者であるKeen氏が、私に、
『あ、園主さま、笠井さんの『オイディプス症候群』は、とりあえず読了されてますよね? ちょっとお聞きしたいことがありますので。(察しがつきます?)』
(4月30日(火)17時40分11秒)
と尋ね、私がまだほとんど読めていないという主旨の回答をすると、Keen氏は、
『『オイディプス症候群』については、つまり、園主さまは雑誌連載時にもe-novelsでもまだ一度も読んでらっしゃらないんですね?それが確認できればよろしいのですわ……どうぞ、「最後の2ページ」までじっくりと味わって下さいませ……フフフ♪』
(5月2日(木)15時18分10秒)
と何やら思わせぶりな書き方をした。もちろん、気にはなったもののミステリのラストに関わることを先に聞くわけにもいかなかった。
ところで、このKeen氏はとてもユニークな人で、「暗合」を見つけるのが得意と言おうか、暗合を呼び寄せるのが得意と言うべきか、とにかく普通
の者なら見逃すような「偶然の一致」的なこと見い出す才能において、非凡な感覚を持った人であった。だからこの時、私は、Keen氏が『オイディプス症候群』の「最後の2ページ」に、何かハッキリはしないが、彼女の感性に引っ掛かるものを見つけたんだなと理解した。
その後、掲示板上で「亜愛一郎」を語り合う中で、私が、
『……それにしても、東映マンガまつりの『マジンガーZ 対 デビルマン』ではございませんが、『亜愛一郎 対 矢吹 駆』というのを読んでみたいものでございますね。どなたか書いてはいただけませんでしょうか?(笑)』
(5月5日(日)02時07分59秒)
と冗談を書いたところ、ここから議論は次のような展開を見せていった。
Keen 『ところで、亜くんの存在そのものが「偶然」なことに気づきました。「探偵を生業としない」のはカケルくんや牧場智久くんもですが、彼らはそれぞれ、仇敵を追っていたり、ミステリファンだったりと、何がしか事件に関わる動機を持っています。亜くんの場合は、皆無です。常にただ巻き込まれただけです(「掘り出された童話」のみ例外)。ミステリの設定としては一番不自然なのでしょうが、亜くんだからこそ許される、というより、偶然居合わせるのでなくては彼らしくありません。また、その他の描写 がリアルなので、亜くんとのミスマッチがかえって面白い効果を上げているように思えます。』
(5月7日(火)14時03分47秒)園主 (私・田中幸一) 『考えてみればこの勝負、明らかに矢吹 駆に分が悪いのではございませんでしょうか? なぜなら矢吹 駆はただ「美しい」だけではなく、それに見合った「知」に裏付けられ、隙なく自らを鎧っている人間でございます。それに対して亜愛一郎は、そういう「堅牢さ」を関節はずしする存在なのでございます。
考えても見て下さいまし。矢吹 駆の深刻な哲学談義を聞かされた時の亜愛一郎の姿を。亜愛一郎は決して矢吹 駆のそうした深刻さをバカにしたりはしないでしょうが、たぶんその深刻さを共有することも出来ず、ただ呆気にとられて感心しているだけでございましょう。
真面目な話をふざけることで無効化しようとする人間は少なくございません。しかし、その意識的な「素振り」は、それがそのまま「真面 目な話」の有効性の証ともなってしまうのでございます。ところが、亜のように自然に「噛み合わないもの」の存在は、「真面 目な話」が所詮は個人的な問題でしかなく、ゆえに「権威」など持たないということを、意図せずして白日の下に曝してしまうのでございます。……そして、そのことによって亜愛一郎が明らかにするのは、本当は「善も悪もない」という真理と同じことを意味する、本当は「賢明も愚かもない」「真実も欺瞞もない」「現実も虚構もない」「正気も狂気もない」ということなのでございます。「在る」のはただ、それらの「区別 」がなくては生きられない「私」のみなのでございましょう。』
(5月9日(木)00時46分04秒)Keen 『園主さまの書き込みから私が考えたのは、亜くんは駆シリーズ第3作『薔薇の女』に登場する「熾天使=ジルベール・レヴィ」に匹敵するキャラなのではないか、ということでした。この二人はついに邂逅することがなかったので、「亜vs駆」がどう実現するのか……想像できないんです。』
(5月11日(土)20時21分32秒)AOI 『わたしの駆理解(あんまり知っているとはいえませんが)と少々違うようなので、一言、ふたこと。
『隙なく自らを鎧っている人間』ということですけれど、駆が意識的に鎧っているというふうには私には思えないのです。(※ 亜愛一郎と矢吹 駆の二人は)深刻さを共有はしないですね。でも、駆は自分から哲学談義を聞かせたりはしないでしょう?そのようなシテュエーションは是非みてみたいです。『亜愛一郎』もほとんど読んでいなくておこがましいですが、私には、駆と亜とは、哲学談義をしたりしなくても分かり合える気の合う友人のように思えますよ。(以下略)』
(5月11日(土)10時05分34秒)ホランド(碧川 蘭) 『つまり、亜愛一郎が生きて動いている世界は、たとえ悲惨な事件が起こる世界であったとしても、亜の存在そのものによって「あらかじめ救われている世界」なんだと思います。一方、矢吹 駆の住む世界には、亜愛一郎は生きることが出来ない(存在し得ない)。矢吹 駆の住む世界は「暢気な南の国の王子さま」が自由に漫遊できるような幸福な世界ではないんです。つまり、矢吹 駆と亜愛一郎とは住んでいる世界が違うから、原理的に出会えないんでしょう。そういうことだと思います。
(中略)
こないだの話で言うと、オウムの信者は「不完全な天使」だから不完全に「この世」に存在することができ、亜やジルベールは「完全な天使」だから「この世」には存在できないんだと思います。そこが「似ている(けど、同じじゃない)」ところなんでしょうね。
(中略)
ですから、矢吹駆にとって亜のような存在は「救い」にはならないと思います。それは「この世」ではない(断絶した)ところに垣間見えた「幸福なるもの(聖なるもの)」の姿(影)に過ぎないからです。』
(5月12日(日)11時01分11秒)
こうした議論を受けて、私は、AOI氏へのレスとして、自己の「矢吹 駆」観を次のようにまとめた。
『★ AOI さま(つづき)
>『隙なく自らを鎧っている人間』ということですけれど、駆が意識的に鎧っているというふうには私には思えないのです。『意識的に鎧っている』というのは当たらないかも知れませんが、「隙なく自らを鎧わざるをえない人間」であり「鎧っているという自覚のある人間」ではございましょう。つまり、矢吹駆はこうハッキリと申しているからでございます。
『彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら 虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうし ようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。』
(創元推理文庫 ・笠井 潔『バイバイ、エンジェル』より)矢吹 駆のこの「自己認識」を、「謙虚な認識」であり「実際はそんなことはない」などと考えるのは間違いでございます。「そんなことはないですよ。貴方は立派な人です」と言っても、矢吹 駆は眉を顰めるだけでございましょう。なぜなら、そういう「意見」は、矢吹 駆を一段高い観客席から見下ろして、余裕綽々に「高く評価してみせる」御見物衆の(所詮は他人事といった)傲慢な姿勢だからでございます。
私はかつて自分のことを「私は××××だ」と感じました(『××××』は、ラルース家殺人事件の犯人の名前。ホランドくんのいう『墜ちたビーナス』)。私はそれほど、この世界を「嫌悪」していたからでございます。ですから、その人物と『双子』だという矢吹 駆も、私には決して「他人」ではないのでございます。そして、そういう私から見れば、引用した矢吹 駆の言葉は「文字通り」の「正しい自己認識」であり、だからこそ彼を『隙なく自らを鎧っている人間』だと評価したのでございます。> 深刻さを共有はしないですね。でも、駆は自分から 哲学談義を聞かせたりはしないでしょう? そのような シテュエーションは是非みてみたいです。
矢吹 駆は誰に対しても、基本的には『自分から哲学談義を聞かせたりはしないでしょう』。なぜなら彼の哲学は徹頭徹尾「自分のためのもの」でしかないから、そういうものでしかありえないからでございます。それでも彼は他者との交流を断ち切ってはおりませんから、乞われればそれを語りもするのでございます。
しかし、亜愛一郎のような人間には「哲学」が必要でございましょうか? Keenさまが『亜愛一郎:ジルベール・レヴィ(=天使)匹敵説』を唱えられておりましたが、私もこれには同感で、そういう亜愛一郎ならば、もはや「哲学(=人間であるが故に必要なもの)」など必要はなく、そんな相手に哲学談義を聞かせるほど、矢吹 駆も呑気ではないということなのでございましょう。しかしまた、哲学を必要としない「天使」相手だからこそ、あえて自分の哲学をぶつけてみたいということにもなるような気がするのでございます。そして、自己の生を賭した哲学が、天使という存在の前に如何にお粗末で無力なものであるかということを、あえて暴きだそうとするかも知れない……という風にも考えるのでございます。彼岸としての「外部」を直視したいと願う矢吹 駆なら、そういうことだってしかねないと思うのでございますよ。亜愛一郎が矢吹 駆の哲学談義を聞かされ、呆気にとられポカーンとして、その後「す、すごいですねえー」とか全然理解していないような様子で言うのを見ながら、矢吹 駆は自分の無力と道の遠さを(自分が、豚以下、虫けら以下だということを)再確認して、初めてかすかに微笑むのではないでしょうか。……『希望はある』と。』
(5月14日(火)16時45分56秒)
ここには私の「矢吹 駆」観が、自己認識と密接不可分の関係にあることが、よく表れている。
さて、その一方、私は、Keen氏の『駆シリーズ第3作『薔薇の女』に登場する「熾天使=ジルベール・レヴィ」』という言葉に、ちょっとした引っかかりを感じていた。と言うのも、「矢吹
駆シリーズ」0号作である『熾天使の夏』は、矢吹
駆がまだ左翼革命闘士だった時代を描いた小説であり、タイトルの「熾天使」は明らかに主人公
矢吹 駆その人を指しているとしか考えられなかったからである。しかし、たしか「熾天使=ジルベール・レヴィ」は「闘えない天使」だったからこそ殺されたのではなかったなかったか?
そこで私は『「熾天使」というのは「闘える天使」であり、ジルベール・レヴィは(ただの)「天使」ではなかったでしょうか?』と、Keen氏に問うてみた。すると、その回答は『創元推理文庫版の二八二〜三ページには、「熾天使セラピムに自身を擬したジルベールも、悪魔の軍勢を殲滅するために完全武装した黙示録の大天使ミカエルではなかった。」というカケルくんのセリフがありますよ。』(5月15日(水)14時16分51秒
)というものであった。
ここで私はこの「矛盾」について、つぎのように考えてみた。
『そうでございますか。そこを探し切れなかったのでございますよ。
私がああ申しましたのも、『熾天使の夏』の「熾天使」は矢吹 駆のことを指しており、その彼は「闘える天使」ではなかったかと考えたからと、アト・ド・フリースの『イメージ・シンボル辞典』(大修館書店)によりますと「熾天使」は『S a r a p h i m ¨火と愛も天使で6つの翼をもち、サンクトゥス S a n c t u sという語が3つ書かれている(「聖なるかな」の三聖唱)盾をもっていて、天使ウリエル U r i e l に導かれる』とあったからでございます。
このあたりはもう少し勉強してみないと正確なところはわかりませんが、ただをジルベールがそうであったように「熾天使」を「闘えない天使」と評価するのならば、矢吹 駆を「熾天使」と比喩するのは適切ではなかろうかと存じます。無論、これは私の短なる読み違い(『熾天使の夏』の「熾天使」は、矢吹 駆のことを指していない)かも知れませんし、なにより私の誤読ではなくとも、単に『熾天使の夏』が『薔薇の女』以前に書かれたものであったせいかも知れないのでございます。つまり笠井潔は「天使」という比喩に愛着を持っているようでございますが(『熾天使の夏』『バイバイ、エンジェル』『天使は探偵』)、矢吹 駆を「大天使」と比喩するのには、さすがに抵抗があったということなのかも知れません。』
(5月17日(金)17時18分13秒)
これに対し、Keen氏は私の「天使の階級」に対する誤解を正しつつ、つぎのように書いた。
『天使については、私もきちんと確認してからでないと詳しいことは言えませんが、確か、人間の前に現れるのは「大天使」と「(ヒラの)天使」だけだったかと。それより上階級の天使は、基本的には人間とは接触しないことになっていたと記憶しています。(違ってたらゴメンナサイ☆)
「大天使」は軍隊であり、ミルトン『失楽園』でサタンを討伐したことで有名なミカエルが隊長で、「ヒラ天使」の部長は、受胎告知で有名なガブリエルです。 ちなみに、「熾天使」は天使の最高位ですね。ご存じとは思いますが、ご参考までに。>皆さま
矢吹駆くんは、論者によって「熾天使」にされたり「堕天使」にされたりするので、私もまだよくわかってません。『オイディプス症候群』は、「カケルシリーズ」の後半5作(?予定)の展開を占う上で、とても重要な作品だと思います。実は私、その大筋に心当たりがついているのですが……まさか笠井さん、そんなはずはないですよねえ〜☆ ともあれ園主さま、『オイディプス』読了なさったらお知らせくださいね。一度ご相談したいですわ。』
(5月20日(月)18時46分48秒)
Keen氏はここで『矢吹駆くんは、論者によって「熾天使」にされたり「堕天使」にされたりする』と書いているが、私はこのような議論を展開した論者にまったく記憶がない。まとまった「矢吹駆」論を読んでいないということはないはずだから、これはたぶん、私がそのような議論には興味がなかったので、記憶しなかったということなのだと思う。では、なぜ興味がなかったのかと言えば、それは私にとっての矢吹
駆は、あくまでも「人間」であり、矢吹 駆を「比喩的」に語る場合に「天使」というイメージを使うことは、いたって凡庸なことだと考えたからである。だから、その「凡庸な比喩」という範囲において、それが「熾天使」だろうが「堕天使」だろうが、それは比喩する状況による偏差の範囲で「そこに大した意味はない」と考えたからであろう。
だが、やはり気になったのはKeen氏の『『オイディプス症候群』は、「カケルシリーズ」の後半5作(?予定)の展開を占う上で、とても重要な作品だと思います。実は私、その大筋に心当たりがついているのですが……まさか笠井さん、そんなはずはないですよねえ〜☆』という言葉である。これは『オイディプス症候群』のラストが暗示するものが「まさか、そんなはずない」と言うほど意外なものであることを意味しているのだが、Keen氏が『大筋に心当たりがついている』というそれは何なのか?
ここで私に閃いたものは「矢吹 駆は、本物の天使だった」のではないか、ということだった。
*
ここまで長々と前振りをしてきたのだから、私のこの「閃き」に驚かない読者も案外多いのかも知れない。
しかし、私にとっての矢吹 駆は、あくまでも「人間」でなければならなかった。あくまでもひ弱な存在である「人間」の一人である矢吹
駆が、過酷な思想的遍歴をする物語だからこそ、私はこのシリーズに自分を重ねて、切実な「人間の物語」として読むことができたのだ。ところが、……それがそうではなかったのではないか? それらはすべて私の勝手な「独り合点」であり、作者は主人公
矢吹 駆が「普通の人間」だと断言したことはなかったのではないだろうか?
このように疑ってみると、たしかに矢吹 駆が「天使」である可能性を示す事実はいくつも浮かび上がってきた。
まず私は、「矢吹駆シリーズ」が「作者の体験を直接的に反映させた作品(特に『バイバイ、エンジェル』)」であるから、まさか自分を投影した主人公を「天使」などの超人の類いと設定することはなかろう、という憶断があった。
そしてまた「矢吹 駆シリーズ」は、絵に描いたような「本格ミステリ」だから、探偵役の主人公を文字どおりの超人の類いに設定するはずはない、という憶断もあった。つまり、作者の笠井
潔が影響を受けたであろうヴァン・ダイン(『僧正殺人事件』)にしろエラリー・クイーン(『エジプト十字架の謎』)にしろ、その主人公である「名探偵」は、その「知性においては、超人」的ではあっても、その「存在自体は、普通
の人間」である。神でも仏でも超能力者でもない彼らが、その「知性」のみで「不可解な謎」と解き「事件」を解決するからこそ、彼ら「名探偵」は英雄たりえるのである。だから……矢吹
駆も、当然、存在としては普通の人間にちがいないと、私は考えたのである。
しかし笠井は、もともと「超越願望」が強く、主人公を超人的な存在として設定するのを、むしろ好む方で、これは『ヴァンパイヤー戦争』『サイキック戦争』『巨人伝説』等のミステリ以外の小説には顕著である。また笠井が直接的な影響をうけたと思しき、平井和正(『ウルフガイ・シリーズ』)や永井豪(『デビルマン』)などの多くのエンターティンメント作家、作品の傾向を考えれば、そうした傾向は、もはや歴然たる事実と言っても過言ではないのだ。だが、……私は「こと、推理小説(本格ミステリ)においては、話は別
だ」と考えた。そう考えたかった、のであろう。
私のそうした「願望」を裏切る事実はいくつも存在する。例えば連作短篇シリーズの『天使は探偵』の主人公
大島安寿は、決して本物の「天使」というわけではないのだが、この作品の背景には謎の教団(宗教団体)「天啓教」が存在している。そしてこの教団は、その名が示すとおり笠井の別
シリーズである「天啓三部作(『天啓の宴』『天啓の器』『天啓の虚』)」(※
『天啓の虚』のみ現時点予定)にも、その影を落している。「天啓三部作」は、竹本健治の「ウロボロス三部作」を批判的に意識した「メタ・ミステリ」のシリーズで、「ウロボロス三部作」ではつけられることのない「謎の論理的解明」が、じつにきっちりとつけられている。そのため、「メタ・ミステリ」ではあっても「ミステリ」ではありえず、自ら『ミステロイド(疑似推理小説)』と称する「ウロボロス三部作」と比較するまでもなく、「天啓三部作」は立派なミステリ(推理小説)なのだが、じつはシリーズ第1作『天啓の宴』には、本物の「悪魔」ジュリエットが登場する(一般
には「ホラー」に分類されるであろう)『黄昏の館』の主人公の名前が登場するのである。つまり、「普通
のミステリ」であると見せ掛けられている『天使は探偵』は、同じくミステリである「天啓三部作」を介して、本物の「悪魔」が登場する『黄昏の館』の世界と繋がっており、その「世界観を共有」しているという事実が存在する。
だが、さらに言うならば、「悪魔」ジュリエットというのは、単純にキリスト教的世界観のなかで生み出された悪魔ではない。
『オザク族はユーラシア大陸を横断し、縄文日本に渡来した巨石民族オルザリックの子孫なのだ。であればオザク族王家の直系子孫にあたる緒先家は、ミュンヘンのビヤホールにたむろする陰謀家など及びもつかない高貴な 血統と言うべきであろう。/ 緒先家の次代当主は、文字どおり世界の王たるべき使命をおびている。その使命を実現するためにも、魔女ジュリエットを探しあてなければならない。古代秘教の女祭司である不老不死の美女に導かれるならば、緒先倫太郎は暗黒の神バジリフィスの加護により、ついには世界の王になるという使命さえ実現できるはずだ。』
これを読めば『黄昏の館』という「ホラー」作品が、じつは『ヴァンパイヤー戦争』『サイキック戦争』『巨人伝説』等の「コムレ・サーガ」とその「世界観を共有」しており、おそらく「コムレ・サーガ」の一部であろうことは容易に想像される。つまり、一見「普通
のミステリ」であると見せ掛けられている『天使は探偵』は、「悪魔」や「吸血鬼」や「超能力者」が跋扈する「世界」とも、じつは地続きであったと考えることができる。
そして、こうなってくると、笠井 潔の小説作品は、短篇まで含めて、大半の作品が「コムレ・サーガ」の一部であると言えそうで、その中で最大の「例外」と見えるのが「矢吹
駆シリーズ」だということになるのだが、……しかし、本当にそうなのだろうか? 『ヴァンパイヤー戦争』と並んで、笠井潔の小説の二本柱、いや今となっては「代表作」とも言っていい「矢吹
駆シリーズ」が、笠井の構想した「コムレ・サーガ」という巨大な物語の構想から外されているなどということがありえるだろうか? これは人間の心理(欲望の法則)から考えて、まずありえないことだろう。
このような視点から「矢吹駆シリーズ」を検討してみると、いくつかの疑わしい点が浮かんでくる。
まず、矢吹駆の宿敵たる謎の人物ニコライ・イリイチの存在は、どこか「悪魔」めいて人間的な存在感が希薄である。例えば、矢吹
駆は「ラルース家殺人事件」(『バイバイ、エンジェル』)の犯人を評して『堕天使(ルシファー)……。硝子の天使さ。たしかに天使だったけれど、硝子のように硬く、冷たく、砕けやすかった。この世界では天使だからこそ地獄に堕ちることになる。なにかが憑いたんだ』と語る。この「天使」のように純粋だった娘の耳もとで「革命」という魔物の魅力を語り、それを憑りつかせ、脳乱させたのは、他でもないニコライ・イリイチだ。ニコライは、この少女だけではなく多くの人間の「心の隙(弱さ)」につけこんで、彼らを「狂気の殺人鬼」へと変貌させていった。そうした在り様はまさに、人間を篭絡する「悪魔」そのものだと言っても、決して過言ではなかろう。このニコライ・イリイチが、単に「悪魔的な人物」なのではなく、本物の「悪魔」であってはならない理由が、はたして本当にあるのだろうか。
次に、矢吹 駆は「堕天使(ルシファー)」と評し『彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。』と批判した「ラルース家殺人事件」の犯人を、その一方で『××××はまったく僕自身だった。誰が僕以上に××××の観念を、そしてあのように奇怪に倒錯した極限的な意志がどんな生の惨苦から分泌されたのかを理解し実感することができたろうか。僕ほど高く××××を評価できる人間が他にいるだろうか。××××は僕の双子の妹だった。僕の半身だった……。だから(中略)僕は××××を殺そうと思った。殺すことができると思った。××××は僕の半身だったが、許すことのできない半身だった。意図して自分の腕を切断する人間を誰が非難できるだろう。僕が××××を殺すことは、僕が僕の肉の一部を殺すことだった。つまり、あれは自殺だ。僕が僕にたいして企てた自殺だったんだ。』とまで評している(※ 伏せ字は引用者による)。「天使」であり「堕天使」となった彼女は、矢吹 駆にとっては『双子の妹』であり『僕の半身』であり、だからこそ『許すことのできない半身』だった。……はたして、これも単なる「比喩」なのだろうか。矢吹 駆がこの時、それを自覚して語っていたとは思えないが、彼は自分のなかに眠る「本性」を彼女のなかに見たのではないか。つまり、矢吹 駆は「自覚」のない、しかし本物の「天使(堕天使)」だったという可能性は考えられないだろうか?
この他にも「矢吹 駆=天使(堕天使)」説を裏づけそうな、疑わしいエピソードはいくつもある。
たとえば、矢吹 駆は、ヒマラヤ山中での「最初の離脱(超越的)体験」を次のように語っている。
『最初の離脱は、怖ろしい雪嵐のなかで、白い闇のなかで僕を襲った。雪のなかで道を喪しない、確実に這い寄って来る死の恐怖で惨めに竦み上がった、ボロ屑のような生命に見苦しく執着する自分がどんなに情けなかったことだろう。がちがちと、折れるほどにも歯を噛み鳴らしながら、かろうじて掘った雪洞に顫えながら蹲っている時だった。僕は突然の恐怖の発作でほとんど息苦しいほどだった。嘔き気を押さえて、僕を恐怖で打ちのめした異様に強力なまなざしの源を辿って、地響きをたてる雪嵐の白い闇をおそるおそる見上げた。轟々と吹き渡る雪嵐の上空高く、そこに、何かが、いた。私より遥かに偉大なもの、巨大なもの、目も鼻も口もない怖ろしい存在が、冷え冷えと僕を見おろしていた。それは、確かに、そこにいた。その時、最初の離脱が僕を襲った。それまで一言唱えるのも顔が歪むほどに苦痛だった僕の呪文が、冴えわたり、しんと静まり返った頭蓋のなかで微やかに響き渡っているのだ。このものの前で、自分の弱さ、自分の醜さ、自分の無力さを確認するのに、どんな不自然さもありえるはずがなかったのだ。生まれて始めて、僕は永遠の存在、偉大なる聖霊の存在をありありと知覚していたのだ。死を前にして狂い出しそうなほどだった動物的恐怖は、たちまちのうちに、まるで洪水が ひいていく時のように静かに去って行った。雪洞に蹲り、僕は自分のことを一粒の空虚な砂粒だと考えていた。この発見がなんと新鮮で感動的だったことだろう。ガンジス河の河辺のすべての砂粒のなかの一粒である自分。しかし、永遠に母なるガンジスは、いつだってそこに、あるんだ……』
(『サマー・アポカリプス』より)
ここは矢吹 駆の「超越体験」を語るものとして描かれている。しかし、これを「小説のワンシーン」だと即物的にとらえるならば、矢吹
駆が出会った「巨人」は、単なる「離脱体験の象徴」ではなく、「神秘的な実在」だったと考えることも可能で、そう考えたからと言って、矢吹
駆自身の「体験解釈」を必ずしも否定するものとはならないはずだ。
すなわち、彼は、まさに死に瀕した瞬間に「この世の外部から来た者」に救われたのである。それは「ある使命」を帯びて、この「下界に遣わされ者」、「天から降臨した者」、すなわち人間によって「天使」と呼び習わされていた存在だったのではあるまいか。……彼は、下界での「宿り身」を欲していた。同じく「人間」に宿り、この地上に「憎悪と死」をまき散らそうとしている「同類」と闘うために、彼にも「人間」の身体が必要だったのだ。だが、彼が宿るためには、それ相応の人間である必要があった。彼に宿られた人間は、その事実を自覚することがない。また、宿った彼がその人間の意識を乗っ取って、その身体を意のままに操ることは、許されていない。宿った彼と、宿られた人間との意志は、お互いに干渉しあうことなく自由に共存し続ける。だからこそ、彼らの精神は、自然に響き合うものでなければならない。宿った彼の強制がなくとも、彼が欲する方向に進みゆく……そんな意志の持ち主に、彼は宿らなくてはならなかった。そして、そんな彼が宿命的に出会った人間こそ、雪山で死にかかっていた、矢吹
駆という革命家崩れの日本人青年だったのではあるまいか。
つまり、この「最初の離脱(超越的)体験」とは、古くは「ウルトラマンとハヤタ隊員との出会い」であり、結果
的には「デビルマン(正確には、悪魔アモン)と不動明との出会い」とよく似た種類のものだったのではないだろうか。
もちろん「アモンと不動明」の関係は、私がここで想定したような「天使と矢吹 駆」の関係にそのまま重なるものではない。アモンは、もともとは気の優しい平凡な少年
不動明に憑依し、彼の身体を操るつもりだったのだが、彼の牧村ミキを愛する心に負けて、その主導権を人間
不動明に奪い返されてしまうのである。しかし、ではそれで不動明がもとの気の優しい人間に戻ったかというとそうではない。彼はアモンの影響もうけて、悪魔の身体能力を手に入れると共に、ちょっと不良っぽい好戦的な人間に変貌していたのである。
「天使と矢吹 駆」の関係もこれに似ており、片方が片方の意志を一方的に蹂躙して、その身体を思うがままに操るのではなく、矢吹
駆が主導権を握りつつも、天使から一定の影響を受けているのではないかと、私は考えてみる。しかし、こう言うと、矢吹
駆の人間的な変貌(成長)は「外部から来ったもの」によりもたらされた受動的なものなのかと疑義を呈する人もいるだろう。しかし、これを「受動的」と評するのは「人間が変わる」ということの現実を理解していないための誤解だと、私は思う。人間が変化する時には、何かが「外部から働きかけてくる」ものなのだ。それは矢吹
駆が語るような「離脱体験」といったものかも知れないし、ありふれたものでは「恋愛や結婚や身内の死」といったこともあろうし、時には読んだ本の一節により受けた感銘かも知れない。このように、人が変化する契機というものは多かれ少なかれ「外部から働きかけてくる」ものだと言っていい。しかしまた、それはしばしば「内部の要請する声」の呼応して「外部から働きかけてくる」ものでもある。矢吹
駆の場合がまさにその典型例で、たとえ彼が天使に憑依されることにより変化したとしても、それは決して「受動的」と評すべきものではなく、彼がそれを呼び寄せ、自ら取り込んだ「天啓」だと言い換えることもできるのである。
このほか、「矢吹
駆シリーズ」と『デビルマン』との類縁性を感じさせるものとして、『ヴァンパイヤー戦争』の主人公
九鬼鴻三郎と、九鬼の盟友で明らかに矢吹 駆の分身である「ムラキ」の関係が挙げられよう。「動」の九鬼に対して「静」のムラキ。「肉体」の九鬼に対して「知性」のムラキ。この二人の組み合わせは、どこか「不動明と飛鳥了」を思わせるところがある。そして周知のとおり、不動明が見るからに悪魔の姿をした悪魔が宿った「デビルマン(悪魔人間)」であるのに対し、飛鳥了は「天使」の姿をした悪魔が宿った「デビルマン(悪魔人間)」だったのである。
もちろん「ムラキ」は、あくまでも「矢吹 駆の分身」であって、矢吹 駆そのものではない。二人が同一人物ではありえないのは明らかな事実であろう。だが、両者の世界はパラレルに存在する世界であり、接点が皆無だというわけではない。矢吹
駆が言うように「巨人」が存在の「外部」から襲来したものなのなら、二つの世界がそこで交差したと考えても何の不都合もないのではないか。
もともと「推理小説(ミステリ・探偵小説)」の世界観とは、基本的には「離脱体験」や「外部」などとは無縁な、即物的に現世主義的なものであり、そうした世界観を揺るがす「謎(ミステリー・神秘)」を「現世の論理」で解体し、揺るがされた世界観を安定させ回復させるのが「現世の論理の英雄」たる「名探偵」という存在なのである。だからこそ、「離脱体験」や「外部」を希求する矢吹
駆という「名探偵」は、本質的に自己矛盾的な存在であり、「推理小説的世界」と「反・推理小説的世界」との「境界」の立つ存在だと言えるのだ。だから、そんな彼を通
してなら、「推理小説」の世界に「外部としての天使」が侵入してきても、さほど驚くべき事態だとは言えないのではないのである。
また『ヴァンパイヤー戦争』は、『宇宙の善神ラルーサ・悪神ガゴール』の戦いまでも、その世界背景として描いているが、これは単純に「神と悪魔の黙示録的最終戦争」だと言い換えても良く、「矢吹 駆とニコライ・イリイチとの闘い」は言わばこの戦いの「人間的知性」レベルにおける「象徴的闘争(戦争)」であり「代理戦争」だと言い換えることも可能なのではあるまいか。彼らに「天使」や「悪魔」といった「外部の存在」が宿っていようといまいと、そこで闘われていることの意味にさしたる違いはないとも言えるのではなかろうか。
『「でも、私には判らない。セットの浜辺で、シモーヌがあなたに投げた最後の問い、なぜこの惨めな地上に舞い戻ってきたのかという問いにあなたは答えなかったわ。死んでしまったシモーヌに替わって、今私がもう一 度質問したいの。なぜあなたは帰って来たの、この人間たちの世界に」
「僕にだって、判らない。シモーヌに最初に会った後だ。僕が喋ったことを憶えているかい。……導師は、地上に戻って悪の勢力と闘うことなしには、第三の、究極 の離脱には到達しえないと告げた。この言葉自体が僕には謎だ。導師は、世界は仮象であり善も悪も存在しないことを僕に教えたのだから。しかし、この夏のあいだに僕は、いわば悪の都シャンバラに潜む暗黒の力に操られているといっていい新しい黒魔術師の存在を知ることに なった。導師が僕を地上に送ったのは、この男と闘わせるためだったのかもしれない」』
(『サマー・アポカリプス』より)
「善悪は在るのか?」という問いに対する「在る」という答と「無い」という答の存在は、「神(天使)と悪魔は存在するのか?」という問いに対するそれぞれの答と似ているようには思えまいか。それは、ある次元では「在る(存在する)」と言えるし、同等の別
のある次元では「無い(存在しない)」とも言え、要はその設問をどの次元で捉えるかの問題でしかないように、私には思える。
だが、ここで忘れてはならないのは、「愛」という人間への執着が、しばしば「悪」へと転化するように「善」と「悪」とは同じコインの裏表でしかないということだ。「善」のないところに「悪」はなく、「悪」のないところには「善」もない。両者は補完し合う、ヤヌスの双面
神なのである。そしてそれは、私がここまで漠然とながら示してきた「神(天使)と悪魔」は「同族」であり、それはその「働き」によってしか区別
されえないもの、先験的な別物ではないのだ、ということでもある。つまり「善悪」が一つのものであり、「神(天使)と悪魔」とが一つのものであるとすれば、「善悪」や「神(天使)と悪魔」といった区別
は、本質的には「無い(存在しない)」と言い換えても、何ら不都合ではないのである。
つまり矢吹 駆の導師が言った『世界は仮象であり善も悪も存在しない』ということと『地上に戻って悪の勢力と闘うこと』とは、決して矛盾することではないのではないか。『世界は仮象』という時には必ずどこかで「実象」が想定されていよう。少なくとも「仮象」を思惟する「私」だけは「実象」であらねば、そもそも「仮象」なるものは想定しえない。つまり「実象」と「仮象」は同じひとつのもの、つまり「実仮一如」であり、同様に『善も悪も存在しない』世界と「悪が存在し、それと善として闘わねばならない」世界とは同じものなのである。……つまり導師の言う『第三の、究極の離脱』とは「有無一如」という超越論的覚醒を意味するのではないかと私は考える。この「世界」がどうあれ、「私」たちは「私」によって思考し、「私」を生きていかねばならない。言うまでもなく、これは「ロゴス中心主義」ではない。「確かな私」から始めるのではなく、不確かであったとしても、そこから逃れられない「私」から始めるしかない、ということなのである。
閑話休題。ともあれ、「導師と矢吹 駆」の関係は、「天帝(善神)と天使」の関係に重ねることができる。「すべてを悟りつつ使命を与える者と、使命を与えられ地上に遣わされた者」という関係の類似性は、矢吹 駆と「天使」との類縁性を示し、両者の「この地上」での一体化の容易さとその必然性を示しているのではないだろうか。
*
ここまで「矢吹 駆は、天使である」あるいは「矢吹 駆は、天使を宿らせた人間(天使人間)」であるという仮説にそって検討を進めてきた。しかし、私は、この仮説を、現実の「矢吹 駆シリーズ」という小説シリーズに、必ずしも妥当するものだとは考えていない。それは所詮「だとすれば、笑えるだろうな」という程度のものでしかない。……にも関わらず、このようなことに時間と紙数を費やすのは、エンターティンメント界ではよく見られる「アイデアの面 白さだけが売り物の、エンターティンメント評論」を書きたかったからでは無論ない。
私は長らく「矢吹 駆」というキャラクターに憧れてきた。彼のどこに憧れてきたのかというと、結局は彼の「ストイック(禁欲的)」さであり「自己批評性」にであろう。私が「矢吹
駆」の作者 笠井潔に失望したのも、結局は笠井が、自家宣伝したほどには禁欲的ではなく、世間一般
の方へと凡庸化していく自己を、自堕落に追認正当化することしかできなかったからである(健康保険のこと、結婚のこと、党派運動(文壇ボス指向)のこと、スキー(趣味)のこと、等々)。
作者には期待できなくても、「作者の願望の形象化」である「矢吹
駆」には「まだ期待できる」と思いたかった私にとっても、残念ながら近ごろの「矢吹
駆」の変化は否定し難いものがある。シリーズ0号作である『熾天使の夏』を読めば明らかなように、「連合赤軍事件」によって総括を迫られていた当時の笠井は、自己の内面
と向き合い「自己と世界との関係」に呻吟していた。ところが、最近の笠井は「すべて説明することによって、世界を掌握してしまおう」という一種の「権力指向」に染まりきっており、初期には見られた「自己革命」という中心的課題からはどんどん遠ざかって、「革命性」を凡庸に堕落させただけの単なる「社会(ミステリ界)革命家」になり果
てたと言っても過言でははない。かっての笠井潔にとって、今の笠井潔は、間違いなく「唾棄すべき豚」「『積み上げた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫でまわす』高利貸にも似た、本格ミステリの殉教者」であろう。そしておそらく、評論家
笠井潔の現在の語り口は、「連合赤軍事件」以前、自己総括以前の、「党派イデオローグ」黒木龍志のそれにまで退行しているに違いない。
私が笠井へのインタビューで危惧したように、そうした作者の変化にともなって、残念ながら「矢吹
駆」も必然的な変化を見せているようだ。多くの読者を驚かせたであろう『オイディプス症候群』のラストシーンで示された矢吹
駆の「優しさ」は、しかし単純に彼の成長だと理解して良いものなのだろうか。『熾天使の夏』『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』の頃には確かに存在した、焼けつくような「超越願望」。それはたぶん「自己の度し難い権力指向」を直視していたからこそ、切実に希求されたものなのではなかったろうか。「観念の豚」である己を乗り越えたいと望んだ切実さは、しかし今の笠井潔には無い。……そうした渇望感が、今の矢吹
駆には見られない。自己の属性ゆえに嫌悪した「権力指向」、いったんは批判しさったはずのそれに自己が染まりきり、後戻りの出来ないところまで来てしまった以上、もう一度新たな「連合赤軍事件」でも起こらないかぎり、笠井は自己に「寛容」になるしかない。もとより彼は、自ら変われる人間ではなかったのである。彼は頭の切れは非凡だが、その「権力指向」も決して人並みではなかった。にもかかわらず、彼はその「禁欲さ」「自己批評性」においては人並みの以上ではなかった、のである。
*
ともあれ、このような作者によって書きうる「矢吹 駆シリーズ」のラストとは、いったいどのようなものであろうか。
矢吹 駆が地上に降り立ったがために、一時的に記憶を失っていた「昏い天使」であるのなら、彼は使命を果
たした後、天に還らねばならないであろう。その意味で、彼はもともとナディアを愛してはならない存在だったのである。しかし『オイディプス症候群』で矢吹
駆の変化が暗示されていたとしたら、シリーズのラストはどのようなものになるのだろうか。
また、矢吹 駆が「天使」を宿らせた存在だとすれば、そのラストシーンは必ず、去りゆく「天使」と地上に残された「人間」としての矢吹
駆の別れが描かれるだろう。そうであれば、おのずとナディアのもとには人間 矢吹
駆が残されることになるのだが、しかし……。
ナディアの「愛(人間的な感情)」にどう応えるのか、それによって「矢吹 駆の遍歴」はその真価を問われることになるだろう。『オイディプス症候群』のラストにも見られるように、矢吹 駆は昔のままではありえないし、それは許されない。しかし、彼が作者のごとき自堕落な凡庸化にいたれば、それがより悲惨であることは火を見るよりも明らかであろう。
「天啓」が降りなくなった後の中井英夫がそうであったように、「昏い天使(天啓)」が去った後の笠井潔に、私は多くのものを期待できない。笠井は、中井英夫をして「天啓の器に過ぎなかった」としたが、そのでんでいけば、彼もまた「天啓の小さな器」だったのであろう。だが、私はそれでも笠井潔という作家の才能を否定しようとは思えない。大きかろうと小さかろうと「天啓の器」たり得たことは事実であり、それは非凡なことなのだ。何よりもそれは、彼が「選ばれた者」の証であるし、彼が「天啓を呼び寄せた者」であったことの証なのである。
「矢吹 駆シリーズ」のラストがどのようなものになろうと、それでこれまでの作品の価値が変わるわけではない。文学とは「結論」が問題ではないのだ。大切なのは「真実(外部)」に触れること。そしてそれは、「説明」に代表される乾いた論理によって達成されうるものではなく、初期の矢吹
駆に見られた「切実な渇望」の果てに一瞬、恩寵のごとく、天啓のごとく触れうるものなのであろう。「文学」とは、その瞬間を描くものであり、「恩寵」そのものは描きえないもの、他者と共有しえないものなのである。そして、そうした意味において、「矢吹
駆シリーズ」のラストシーンは既に描かれていた、とも私は考える。
矢吹 駆がその身をもって語った「天啓」とは、存在の矛盾に呻吟する誠実な人間の中にこそ「天使」は宿るのだということなのであろう。かつて笠井自身が何度も語ったように、観念の泥絵の具を世界に塗りたくり巧みな世界図を描いた見せたとしても、それは所詮、態の良い偽物に過ぎない。矢吹
駆という「昏い天使」は、そういう脂ぎった人間らしさを嘲笑しつつ、なおも人間らしさを生きようとして呻吟する、そんな天使だったのではあるまいか。
これが私の「去りし天使へのオマージュ」である。
2002年7月16日
【 追 記 】
本論執筆中にKeen氏が明かして下さったのだが、氏が『笠井さんの『オイディプス症候群』は、とりあえず読了されてますよね? ちょっとお聞きしたいことがありますので。(察しがつきます?)』と書いた「お聞きしたいこと」と、『『オイディプス症候群』は、「カケルシリーズ」の後半5作(?予定)の展開を占う上で、とても重要な作品だと思います。実は私、その大筋に心当たりがついているのですが……まさか笠井さん、そんなはずはないですよねえ〜☆ ともあれ園主さま、『オイディプス』読了なさったらお知らせくださいね。一度ご相談したいですわ。』の「大筋に心当たりがついている」とは、話が別
だったそうである。私はこの二つの話を、同じ話題に関すること、つまり「矢吹
駆シリーズ」のラストにかかわることだと理解したのだが、前者はそういう話ではなく、もっと個人的な話であったそうだ。
後者の「大筋に心当たりがついている」は、いかにもKeen氏らしい大胆な推測なのだが、これも私の「矢吹
駆=天使説」とは縁も所縁もないものだった。Keen氏の仮説を紹介するのは私の任ではないので、ここでは明かさないでおくが、ともあれ「矢吹
駆シリーズ」がどういうラストを迎えるのかという推測は、矢吹 駆ファンの矢吹
駆観を占う意味でもけっこう面白い設問だったのかも知れない。
前同日
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★ カモン、ベイビー ★
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ナディア・モドーキ
「カケル、ミシェールが泣いてるわ。あの泣き方はオムツよ。私、もう出勤時間だから、あとお願いね」
「ああ、わかった」
私は、カケルへのキスも慌ただしく、愛車のシトロエン・メアリに乗り込んだ。
あの「ラルース家殺人事件」から、もう何年経ったのだろうか。その後いくつかの事件を経て、カケルと私は現在、小さなアパルトマンで同居している。大学で哲学のリサンス(学士号)を取得した後、カケルに習い覚えた日本語をもとに、さらに学習を深めた私は、今では語学学校で教える側になっていて、カケルが主にメナージュ(家事)をしてくれている。もちろん、以前のようなラ・ヴィ・サンプル(簡単な生活)ではない。なぜなら、私たちの間には、昨年生まれた息子のミシェールがいるのだから。彼の名付け親は、ジャン=ポール。
「まったく、嬢ちゃん(マ・プチット)に赤ん坊ができるなんて、信じられますかい?警視もこれで、おじいちゃんってわけですな」
独身ゆえに、初めて名付け親になったバルベスも私のパパも、もはやこの小さな天使の虜だ。どうやらジャン=ポールは私たちの息子に、サタンを討伐した大天使の名を与えたつもりらしい。
ともあれ、私たちはうまくやっている。一体どういうわけでこうなったのかは、いずれ明らかになるだろう。あなた(読者)が好むと好まざるとに関わらず、カケルは今や、日本語で言うところの「マイホーム・パパ」なのだから。
( ナディア・モドーキ『カモン、ベイビー』 2004年4月21日 14時27分36秒 投稿より )
★ ★ ★ ★ ★
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病床より、園主さまへのお礼 投稿者:Keen@療養中 投稿日: 4月21日(水)14時32分3秒
今日は調子がいいので、ちょっと書き込みしてみます。園主さまの↓のお知らせの後では、「何やそれ!」と思われそうですが……(^0^*
でも、これってお礼になるんでしょうか?園主さまがもっとも嫌がりそうなパロ書いてしまいましたが……☆
まあ「つねに妄想一筋」者の戯言と、笑って下さいませ。想像力豊かな皆さまにおかれましては、カケルくんが赤ンボ抱き上げて「べろべろばあー」したり、ミルク飲ませたり、う●ちつきオムツ取り替えたり、どうやっても泣き止まないので途方に暮れたりしてるところをお楽しみ……イタタタ、カケルファンの皆さま、石を投げないで下さい。
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追記 投稿者:Keen@療養中 投稿日: 4月21日(水)14時56分41秒
なお、「ナディア・モドーキ」の筆による「矢吹駆シリーズ」の結末は、園主さまの論文「バイバイ、矢吹駆」の内容を受けて書かれたものであり、同論文中で触れられている「いかにもKeen氏らしい大胆な推測」とは別 物ですので、ご了承下さいませ。え、その「推測」の内容?……それはヒミツです♪(^0^*
〔特別付録:BBS「アレクセイの花園」より〕
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