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◆ お荷物としての「解説」 ◆ |
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――「探偵小説研究会」所属評論家・柳川貴之の力量
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アレクセイ(田中幸一)
歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』は、『2004
本格ミステリ・ベスト10』と『このミステリーがすごい! 2004年度版』で、ともに堂々の第1位
に輝いた本格ミステリの傑作である。
つまり、この作品の素晴らしさについては既に定評があるわけだが、その一方、この作品に付された「解説」の出来が「酷い」というのも、少なくともマニア筋では、既に定評となっている。『葉桜の季節に君を想うということ』は、文藝春秋の『本格ミステリ・マスターズ』という叢書の一冊とした刊行されたが、この叢書は新作単行本の叢書でありながら、基本的には巻末に「作家論(解説)」「著者インタビュー」「著作目録」などが付されているという特徴があり、今回ここで取り上げるのも、本書『葉桜の季節に君を想うということ』に付された「探偵小説研究会」所属の評論家・柳川貴之による「コードをこえる者
―― 歌野晶午論」である。
柳川貴之によるこの「解説」について、私のサイトの掲示板「アレクセイの花園」に、FIVEPLACES氏から、次のような感想の書き込みがあった。
『私には小難しい用語を並べただけでほとんど何も言っていないに等しい、つまらない解説だと感じました。インタビューはとても良くまとまっているのに、その中の「解説が必要ない理由」を正に実証しているようで皮肉だなあと思いました。』(2004.2.20)
柳川貴之による「解説」について、まず私の率直な感想を書いておこう。端的に言って、この「解説」は、FIVEPLACES氏の言う『小難しい用語を並べただけでほとんど何も言っていないに等しい、つまらない解説』であるに止まらず、それ以前の問題として「日本語になってもいない」拙い文章である。
この「解説」を一読して、私がうけた印象は「ちょっと成績に自信をもっている高校生が、背伸びをして批評書や哲学書を読み齧ったあげく、専門用語をつかって文芸評論らしきものを書いてみました、というもの」だったのである。
立ち読みしていただければ、その文章の「(拙い)独りよがり」性は、すぐにご理解いただけようが、ここではまず、そのさわりの部分をご紹介しておこう。
『 歌野晶午が『長い家の殺人』でデビューしたのは、一九八八年であったから、今年(二〇〇三年)は作家デビュー十五周年に当たる。新本格ムーブメントの先駆になった綾辻行人のデビューが一九八七年なので、歌野の歩みは、ほぼ新本格とともにあったといえるだろう。』(P418)
ここでは、まだ「下手」でも日本語にはなっている。私も自他共に認める悪文家だから、他人の文章の巧拙をとやかくは言いたくはない。まして、なにやら年長者が若い者虐めをしているみたいな感じになるのは、たいへん不本意なのことなのだが、解説者である柳川貴之は、一応「ミステリ評論家」であり、この「解説」は原稿料をもらい「プロの文筆家」として書いたものなのだから、やはり「下手でも良い」と言うわけにはいかないのだ。せめて平均的なアマチュア程度の文章は書いてほしいし、書かねばなるまい。それが無理なら、せめて他の者には書けない独創性のあるものを書くなり何なりしてほしい。文章も下手で中味もないのでは、文字どおり「私は歌野晶午の小説が読みたくて本を買ったんだから、この解説(頁)分のお金を返せ」ということにもなるのである。
――『中味がない』というのは、次のような文章によく表れていよう。
『 後述するが、本格ミステリがジャンル的に拡散しているか否かについては、異論もある。本格は、その作品領域を拡大し続けているのであり、決して貧弱に拡散していっているのではないという意見である。たしかにジャンル的発展をどのように受け取るかについては、諸説あるだろう。ただ、本格ジャンルが常に自らの力学に基づいた運動をしていることは、現在、疑いようがない。こうした運動は、いわば形式のダイナミズムであり、従って、ジャンル的拡散は、ミステリの静的構造としての問題ではなく、動的問題である。』(P419)
何の変哲もない壺を高価に売りつけようとする、妖しげな新興宗教や霊感商法の会合では、よくこの種の「わかったようなわからないような説明」がなされる。無論、ここで解説者 柳川貴之が売りつけようとしているのは、歌野晶午でもなければ『葉桜の季節に君を想うということ』でもない。柳川が売りつけようとしているのは「本格ミステリの権威」なのである。
ここで問題とされているのは、「本格ミステリのジャンル的拡散(の有無)」ということなのだが、それへの『異論』が『決して貧弱に拡散していっているのではないという意見』だというのが、すでにおかしい。これでは「ジャンル的拡散」そのものは認めてしまっており、ただそれに注文をつけているだけだ、ということになるではないか。こうした論理的混乱は、結局のところ、柳川の「ジャーゴン(専門語・職業用語・訳のわからない言葉)の不必要な多用」に見られる、その「幼い心性」に原因があるのだと言えよう。
ここで言う「ジャンル的拡散」とは、平たく言えば「あるジャンルが、拡散・離散という形で、その独自の求心性を失い、崩壊する様態」を指している。それをマニア・批評家的には、カッコよく「ジャンル的拡散」などと言うのである。柳川の場合、こうした意味をしっかり押さえずに、何となく「ジャンル的拡散」というジャーゴンをつかったために、前述のような「業界人以外には、伝わりにくい文章」になってしまったのだ。
つまり、柳川がここで書きたかったのは「本格ミステリが、拡散・離散という形で、その独自の求心性を失い、崩壊しつつあるという意見があるが、本格は、その作品領域を拡大し続けているのであり、決して貧弱に拡散していっているのではないという意見もある。つまり、本格ミステリにおける拡散は、(かつてのSFの場合のそれとは違い)ジャンル的な衰退を意味するものではない」ということであり、ジャーゴンなど振り回さずに、このように素直に書けば、それで済むことだったのである。……もっとも、このように素直に書いてしまっては、柳川の意見の「手前味噌さ」が、露骨に見えてしまう結果
にもなるのではあるが。
実際、『ただ、本格ジャンルが常に自らの力学に基づいた運動をしていることは、現在、疑いようがない。』などという「断言」は、ほとんど「宗教家の確信」と選ぶところがないほど「客観的には無根拠」である。ここに『現在』という限定句がついているのは、せめてもの「ご愛嬌」だと言えようが、『こうした運動は、いわば形式のダイナミズムであり、従って、ジャンル的拡散は、ミステリの静的構造としての問題ではなく、動的問題である。』などと、無意味な修辞を重ねるにいたっては、もはや「だからどうした」の一言で片づけられてしかるべきだと言えよう。
ことほど左様に、柳川貴之による「解説」は、「ちょっと成績に自信をもっている高校生が、背伸びをして批評書や哲学書を読み齧ったあげく、専門用語をつかって文芸評論らしきものを書いてみました、というもの」なのである。
そんな「稚拙な解説」が、こともあろうに「解説を必要としない作家」の「代表作ともなるであろう作品」に付されたというのは、なんとも皮肉なことである。 FIVEPLACES氏の指摘どおり、同書の巻末にふされたインタビューで、柳川から『歌野さんの文庫には解説がほとんどついていませんが』と問われ、歌野は次のように答えている。
『簡単に言えば、僕の書くようなものは、解説が必要なほど難しくはないと思うのが一つですね。それからもう一つは、誰が適切な解説を書いてくれるかわからないんです。ただのエッセイだったら必要ないと思うんですよ。拒否しているわけじゃなくて、どなたに頼んでいいかわからないというのが正直なところですね。』(P437)
これも一種の「叙述トリック」。つまり「嘘は書いていないが、本当のことをそのまま語っているわけではない」……と言ってしまっては、皮肉に過ぎようか。
素直な柳川は、歌野の『誰が適切な解説を書いてくれるかわからないんです。ただのエッセイだったら必要ないと思う』という言葉を聞かされて「じゃあ、私が、たんなるエッセイではない、本格的で適切な歌野晶午論を書いてやる」と考えたのかも知れないが、だとすれば、それは「ナイーブ」というよりも、むしろ「鈍感」だと評すべきであろう。
私のような一般社会で揉まれた人間には、歌野が何を言わんとしているかは、一目瞭然である(※
もちろん皮肉)。
すなわち、『僕の書くようなものは、解説が必要なほど難しくはないと思う』というのは「解説で権威づけしなければ、読者に感心してもらえないようなものを書いているつもりはない。僕はプロの娯楽小説家である」という歌野の「自負」の表明である。そして、歌野がこのように語る裏には、他の「本格ミステリ」作家が「批評による権威づけ」を有り難がっているという現実への「苦々しい思い」もあったのであろう。
柳川の「解説」にも『歌野は一見すると、新本格ムーブメントとは疎遠な道を進んできたように見える。(中略)歌野は、新本格ムーブメントと時代を一にしつつ、常に背を向けてきたようにさえみえる。』という指摘がなされている。しかし、柳川はこの後すぐに『とはいえ、こうした捉え方は、歌野晶午を読む上で、ひとつの側面 的本性を表わしているに過ぎない。』と片づけてしまうのだが、むしろ歌野晶午という作家を正しく理解し、その作品を正しく評価するためには、この側面 をこそしっかりと押さえるべきなのだ。
つまり、歌野が「新本格ムーブメント」と一線を劃してきたというのは、「新本格ムーブメント」が、主として「ミステリ・マニア」出身者による「仲良しクラブ」的な「馴れ合い(もたれ合い)」を強く感じさせるもので、それに違和感を覚えたということなのであろう。
歌野晶午が、島田荘司との出会いによって作家デビューし、島田に対して心酔的と言って良いほどの感情を抱いていたというのは、歌野のデビュー当時を知っている者には、周知の事実である。で、その島田荘司がどういうタイプの人間かと言えば、それは善かれ悪しかれ「異邦の騎士」(※
島田荘司の初期長編のタイトル)なのである。つまり、いつも一緒にいて仲良くしているわけではないけれど、いざ友が窮地に立たされた時には、どこからともなく現われて、颯爽とその危機を救う騎士だというわけである。
事実、島田荘司はある時期、自らがデビューの後押しをした、綾辻行人らによる「新本格」ミステリを、「コード型ミステリ」であり、「コードに依存した書き方は、本格ミステリの衰退をもたらす」として批判したことがあった。つまり、島田荘司は、綾辻行人などの新人を多数世に送り出しはしたものの、彼らを自分の子飼いにして「党派」と作ろうなどとは決してしなかった。その意味で島田荘司は、弱者を助ける「騎士」としての潔さを、確かに持ち合わせていたのである。そして、そんな島田を尊敬する歌野であれば、「新本格ムーブメント」とは馴れ合わない、というのも至極自然な選択だったのである。
ここで話を「なぜ文庫に解説をつけないのか」の理由に戻し、二つ目の理由『誰が適切な解説を書いてくれるかわからないんです。ただのエッセイだったら必要ないと思うんですよ。拒否しているわけじゃなくて、どなたに頼んでいいかわからない』の検討に移ろう。
柳川の言うとおり、歌野晶午は「新本格ムーブメント」の歴史とともに歩んできた「本格ミステリ」作家である。だから、「本格ミステリ」業界に、どんな評論家がいるのかは、当然ある程度承知しているはずである。しかし、そうした人たちの中には『適切な解説』を書いてくれそうな人は見あたらなかった。だから『どなたに頼んでいいかわからない』。これは『拒否しているわけじゃなくて』、「頼むに値する相手がみつからない」ということなのだ、と歌野は言いたいのである。
つまり、歌野のインタビューに対する答は、平たく言えば「僕は解説で持ち上げてもらわなければならないような、面 白くないエンターティンメントなど書いていない。ましてや、今のミステリ業界では、そうした提灯持ち解説ではない、まともな解説の書ける人なんていないでしょう。だから、そんな解説なんか、あえてつけなくても良いと思っているんですよ」ということなのである。
それにしても、このような作家の本に、どうして、選りにも選って、このような「解説」が付されることになったのであろうか。
――それは、本書『葉桜の季節に君を想うということ』が、綾辻行人・笠井潔・二階堂黎人・北村薫の4人を「編纂委員」とする『本格ミステリ・マスターズ』(文芸春秋)という叢書から刊行されたものだからにほかならない。
言うまでもなく、この4人は(歌野晶午が『背を向けて』きた「本格ミステリ・仲良しクラブ」の発展形である)本格ミステリ作家クラブの設立に関わった、その主要メンバーである。
「本格ミステリ作家クラブ」は、「本格ミステリ」のさらなる「普及」と「地位 向上」を目指した団体だと言ってもよかろうが、この『本格ミステリ・マスターズ』叢書という企画も、いわば「本格ミステリ作家クラブ」のそうした目的に発するものなのである。
すなわち、これまでは、ミステリの版元といえば、まず早川書房があり東京創元社がある。それにカッパノベルスで一世を風靡した光文社や、横溝ブームを巻き起こした角川書店、すこしマイナーなところでは双葉社といったところが、ミステリを主力商品として売り出してきた。そして、それを主力商品とはしないまでも、わりあい力を入れてきた大手出版社に講談社と新潮社と集英社などがあった。――つまり「売れてなんぼ」の現今の厳しい出版事情では、商品として手堅いミステリは、わりあい大切にされてきたのである。
ところが、大手出版社のなかには、まったく出さないというわけではないけれども、ミステリの刊行にはおおむね冷淡な会社も数社あった。特にそのなかでも、「本格ミステリ作家クラブ」の主要メンバー、就中「政治戦略の中心人物」である笠井潔が問題としたのは、ご存じ「芥川賞・直木賞」の勧進元である文藝春秋であった……というのは、容易に推測されうるところであろう。
ちょうど今は、前回の「芥川賞・直木賞」受賞作(第130回 芥川賞受賞作:綿谷りさ『蹴りたい背中』、金原ひとみ『蛇にピアス』、等)がベストセラー化して、馬鹿売れしている最中でだから、文学賞の老舗「芥川賞・直木賞」が、いまだ、いかに一般 に対してもその影響力を失っていないかということが、容易にご理解いただけると思う。
しかし、今回の直木賞受賞をうけて新たに作成された、京極夏彦の「京極堂シリーズ」(講談社ノベルズ)の帯には、『講談社ノベルズデビュー初、直木賞受賞!』という言葉が刷られていた。
つまり、ここで見落としてはならないのは、京極夏彦の受賞作が「本格ミステリ」でもなければ「ノベルス(新書)」でもないという事実である。京極夏彦と言えば、まず「京極堂シリーズ」と言っても過言ではないのだが、その京極でさえ、受賞作は「時代小説」の「ハードカバー」だった。
言うまでもなく、ミステリが対象となるのは、「大衆文学」を対象とした「直木賞」なので、話を「直木賞」に限定するが、長い「直木賞」の歴史の中では若干の例外はあるにせよ、「新書や文庫書き下ろしでは、作品がどんなに優れていても、まず賞の候補になることはない。さらにミステリでも、ハードボイルドや冒険小説なら受賞も夢ではないが、本格ミステリでは候補になることすらない」というのが、ミステリ業界では、昔から通 説として語られている。これは「本格ミステリ」が「他の大衆文学」や「ハードボイルド・冒険小説」等とは違って、「人間描写 」や「ドラマ性」を売り物にしてはいないというその「特殊性」からくる、必然的な不幸なのだが、特殊であることそのものには「知的エリート気取りの自負」は持てても、世俗的な勲章の方も諦めきれないという「本格ミステリ」周辺の「俗物」たちは、陰では(よるとさわると)「本格は損だ」とか「不公平だ」などと(ずっと)言い続けてきたのである。
そして、自身、かつては、
『野間賞や谷崎賞を代表格とした文学賞は、日本の小説市場における非関税障壁の、あるいはダンゴーやケーレツのシステムの悪しき象徴ではないだろうか。
それらには、もはや文学的価値の尺度という意味などない。選考委員がまわりもちで受賞しているような、「文壇」的ダンゴーとケーレツの産物にほかならない「賞」が、はたして文学賞の名に値するだろうか。それは芸術院会員や文化勲章にいたる、国家に保証された権威大系に組み込まれた、その下位 階梯をなしているものにすぎない。
文学賞による権威の分配機構と、公共土木事業の分配機構は、基本的に同型のシステムをなしている。後者に金丸信のような調整役が存在したように、前者にも同様のキャラクターが要請されるのはとうぜんのことだろう。噂によれば「文壇の人事部長」某氏が、その役割を演じているそうだ。』(『国家民営化論』より)
と書いて『文学賞による権威の分配機構』を妬ましげに批判した笠井潔が、今では自ら「本格ミステリ大賞」という文学賞を立ち上げ、『権威の分配』をする側に回っているという現実をみれば、その笠井が「本格ミステリ大賞」などとは比較にならないほどの「世俗的権威」と「経済効果 」のある「直木賞」を、指をくわえて放置しておくわけがない、というのはの自明の理なのである。
では、どうすれば「本格ミステリ」で「直木賞」を取れるようにできるのか。まずは「直木賞」の勧進元である文藝春秋に「本格ミステリ」に興味を持たさなければならない。自社で出せば、いやでも担当編集者は読む。それで面
白ければ「直木賞」の候補になることもありえよう。また受賞すれば本が売れることは、文春とて当然わかっているのだから、できれば自社の出した本に受賞させたい。でも、露骨なお手盛りをやってしまうと、せっかくの「賞の権威」に傷をつけることにもなりかねないのであからさまなことできない、という側面
があるのも事実だ。
で、笠井とすれば、他社で傑作を刊行しても、「直木賞」の候補になることはまずないが、文春ならば、作品さえ良ければ受賞もあながち不可能ではない。ならば、まずは文春から「本格ミステリ」を出させよう、とそういう戦略だったのであろう。
このようにして企画立案された『本格ミステリ・マスターズ』叢書の大きな特徴は、巻末に「作家論」「著者インタビュー」「著作目録」などの「おまけ」が(たいがいの場合)ついているという点である――のは、冒頭に紹介したとおりである。若干の「例外」もあるようだが、それがどのような作家の巻かは、注目に値いすることだが、ここではあえて伏せておこう。
ともあれ、このような「おまけ」が何を意味するのかは、ハッキリしている。それは歌野晶午が嫌った「権威づけ」である。だから「作家論」と言っても、もちろんそれは、その作家を全体的・総合的に論じるものではなく、とにかく「提灯持ち」的に持ち上げるものとならざるを得ない。そしてそれは、「その作家」を持ち上げるという形を取りながら、叢書全体の狙いとしての「本格ミステリのすごさを、文藝春秋に売り込む」という狙いも、当然そこには込められている。だから、自ずとここでは、とにかく「誉めたてる評論家」が必要とされるのである。
そこで登場したのが、笠井潔の意をうけてその目的に邁進する「探偵小説研究会」の面 々、つまり「笠井潔の手駒」たちだ。
つまり、「ちょっと成績に自信をもっている高校生が、背伸びをして批評書や哲学書を読み齧ったあげく、専門用語をつかって文芸批評らしきものを書いてみました、というもの」しか書けない未熟な柳川貴之が、どうして「解説を必要としない作家」の本に「読むに堪えない」、しかし「精一杯、本格ミステリを持ち上げている」解説を書くことが、できたのか。それは、――彼が「探偵小説研究会」の一員だったからに他ならないのだ。
もちろん「他にもうすこしマシなのがいただろう」という意見もあろうが、なにしろ「党派政治」というものは「質」ではなく「数」であるから、自ずとこういう人も出てくるのである。つまり「ミステリ評論の質的拡散」とでも呼ぶべき、皮肉な事態である。
それに、彼らを手駒として思いどおりに動かそうと思えば、やはり時には「餌」をやらなくてはならない。つまり「解説」などの「仕事」を世話してやらなければならない。彼らとて、「タダ働き」するほど、笠井潔に心酔しているわけではないのである。
その結果、『本格ミステリ・マスターズ』叢書のなかで、柳川貴之に割り振られたのが、歌野晶午の巻だったのだ。
当然のことながら、柳川の未熟さは、笠井潔や「探偵小説研究会」の面 々の、事前に知るところだったであろう。しかし、叢書の規模と「探偵小説研究会」の人数からすれば、一人に一冊は割り振らないと「俺だけ書かせてもらえない」という不平不満が出るのは目に見えいる。だから、誰かに「犠牲」になってもらわなければならなかった。そこで、その「犠牲」に選ばれたのが、日本の「本格ミステリ」業界では、あえて「傍流」の位 置に甘んじてきた歌野晶午だった、というわけなのだ。
つまり、他者と馴れ合うことなく独自の道を歩んできた者の著作に、最悪の「解説」が付されたというのは、決して「偶然」ではない、単なる「運命の皮肉」だったのではない。そして、こうした必然の存在こそが、現在の日本の「本格ミステリ」業界の「歪み」を象徴する出来事だったのである。
さて、私は拙論「『2004 本格ミステリ・ベスト10』の舞台裏」の最後で、本(2004)年5月に決まる「第4回本格ミステリ大賞」の受賞作は、
小説部門: 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』
評論・研究部門: 千街晶之『水面の星座 水底の宝石』
だと予想したが、先般発表された「候補作」にも、予想どおりにこの2冊が入っていた。「探偵小説研究会」のメンバーである千街晶之の評論書は、ここでは措くとして、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』の受賞を予想するのは、いくつかの理由がある。
その理由とは、
(1) 昨年の「本格ミステリ」作品のなかでは、歌野のそれが断トツに評判がよく、これに受賞させなければ「本格ミステリ大賞」の、つまり「本格ミステリ作家クラブ」の見識が疑われる。
(2) 「身内の作品」だけではなく、「本当に優れた作品」に賞を与えることによって、「賞」そのものを権威付けることができる(「日本SF大賞」が、SFプロパーの作家の作品と、それ以外の作家の話題作に、交互に賞を与えてきたのは有名はところ)。
(3) これまではどちらかというと「本格ミステリ作家クラブ」に距離をおいてきた歌野に、賞を与えることで、歌野を「抱き込む」ことができるかも知れない。
といったことがあるからである。
もっとも、『葉桜の季節に君を想うということ』が受賞することによって、柳川貴之の「どうしようもない解説」が、さらに多くの人の目にふれることになる、というのは、やはり「皮肉」だと言うべきであろう。
歌野晶午とて、デビュー当時は「素人丸出しの、へたくそな文章」を書いたから、こんな解説者に当たってしまうというのも、ある意味では「因果 応報」なのかも知れない。柳川だって、こんな「解説」をたくさん書いているうちに、いつかは歌野のように上達するのかも知れないからだ。だから歌野は、その日のために、ここは堪えなければならない……ということなのかも知れない。
しかし、こんな「解説」に金を払わされる一般消費者は堪ったものではない。歌野晶午の本を買って、歌野の作品がつまらなかったのであれば我慢もできようが、望みもしない「余計な付録」に対価を要求されたのでは堪ったものではないからである。
しかしまた、『葉桜の季節に君を想うということ』が受賞することによって、一番つらい思いをするのは、たぶん柳川貴之本人なのであろう。なぜならば、今はわからなくても、彼が将来、自分の文章を読み返しては赤面 し、いたたまれなくなるであろうことは「間違いない」と考えられるからである。
執筆・2004年2月21日
改稿・2004年4月12日初出・BBS「アレクセイの花園」(2004年2月21日)
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【補記】
上記論文の「原文」を読んだFIVEPLACES氏から、次のような感想の書き込みを、掲示板「アレクセイの花園」の方へいただいた。
『『葉桜〜』解説についての書き込み拝読しました。インタビュー内の「叙述トリック」の喩えの妙、直木賞の件の深読みのし過ぎかなと思いつつも園主さまの日頃の主張に見事に結びつく論考、園主さまの「解説の解説」は期待(?)以上で大変興味深かったです。』(2004.2.23)
文中の『直木賞の件の深読みのし過ぎかな』という疑義について、回答した文章を、以下に文体を改め、加筆して紹介しておく。
2004年4月12日
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◆ 作家も人の子、普通
は「金も地位も名誉も権力も」 みんな欲しい ◆
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『『葉桜〜』解説についての書き込み拝読しました。インタビュー内の「叙述トリック」の喩えの妙、直木賞の件の深読みのし過ぎかなと思いつつも園主さまの日頃の主張に見事に結びつく論考、園主さまの「解説の解説」は期待(?)以上で大変興味深かったです。』(2004.2.23)
いかにも、バランスのとれた物の見方のできる、FIVEPLACES氏らしいご意見だと思う。と言うのも、ご指摘のとおり『直木賞の件』については、具体的な「文証(物証)」がなく、あくまでも「状況証拠」しかないから、『深読みのし過ぎかな』と思われても仕方のない部分も、たしかにあったからだ。
しかし、「バランスのとれた物の見方」が常に正しいとは限らないし、またそうした(良識)レベルを乗り越えた洞察を示してこそ、評論家の名に値するのだとも言えよう。その意味で、『直木賞の件』については、『深読みのし過ぎかな』という「バランスのとれた物の見方」は、実際には「認識の不充分さ」を示すものだと、私は考える。
つまり、具体的に言えば、――笠井潔が「直木賞の、本格ミステリによる、受賞」まで射程に入れて『本格ミステリ・マスターズ』を企画し、その編纂にかかわったとする「推理」――は、決して「深読み」などではなく、「人情の必然」にしたがった「合理的な推理」だと考えるのである。
たぶん、FIVEPLACES氏は、「現実」問題として、
(1) 一般に推理作家が、そこまで直木賞(の受賞)にこだわるものなのか?
(2) 笠井潔がそこまで深謀遠慮の行動をしただろうか?
という疑問を持たれたのであろう。
しかし、「案外」現実とはそのようなものであり、その点に関しては「世間」の判断は、往々にして大いに甘いのである。
たとえば「清純派アイドル」というのは、客の前では「ウンコもしません」「セックスって何?」という顔をしているものだし、よほど擦れた人間でもない限りは、その「仮面
」を何となく是認してしまいがちなものである。なぜなら、誰でも好きこのんで「汚い現実」は見たくないからなのだ。
しかし「清純派アイドル」だって「ウンコもすれば、セックスもする」し、時には人並み以上に「くさいウンコをしたり」「セックスが大好き」な場合だってある。なぜなら、彼あるいは彼女も、所詮は「普通
の人間」だからなのだ。
同様に、作中で「反権威」や「正義」や「純愛」や「誠実」や「論理(的整合)性」を語ることの多い作家であっても、「ウンコもすれば、セックスもする」し、同様、往々にして「金も地位 も名誉も権力も欲しい」ものなのである。だが、ふつうはそのような感情を、おくびにも出しはしないものなのだ(※ 例えば、『叛史』を売り物にした船戸与一も、直木賞をありがたく頂戴して、文学の「正史」を追認した)。
そんなわけで、「清純派アイドル」の「仮面」を見せられて、何となく「ウンコもしなければ、セックスもしない」ような印象をもたされがちな「ごく普通 の、善良な人たち」、つまり「バランスのとれた物の見方」のできる人たちも、「作家の仮面 (表向きの顔)」しか見ることができなければ、おのずと知らず知らずのうちに、そこから「仮面 による幻想」を植えつけられているものなのである。
つまり、日頃「僕は自分の書きたいものを書きたいように書ければ、それで満足です」とか「みなさんに喜んでもらえることが、私のプロの小説家としての、最高の喜びであり勲章なのです」などと言っている、つまり暗に「私は文学賞なんかに興味がありません」などと言っている「作家の仮面 」ばかりを見せられることによって、人(読者)は何となく「作家は、それほど文学賞などの世俗的権威に執着しているわけではない」し「それを受賞するために、深謀遠慮を企てたり、裏工作をしたりはしない」のだろうなどと「好意的理解」をしてしまいがちなのだ。
しかし、なんども言うように、作家だって(ごく小数の例外はあるにしろ)「金も地位 も名誉も権力も欲しい」ごく「普通の人間」であり、しかも「うまくやれば、それが手に入りうる立場にいる人間」なのだ。だからこそ、彼らがそれを「求めていない」と考えるよりは、「求めている」と考える方が、ずっと合理的で普遍的妥当性があるのである。
まして、笠井潔は『文の商人』の自称し、その見地から「文学賞の効用」(と、それの「一部の人間による独占の害悪」)を語った人物なのだから、もとより「賞の権威」にたいして興味の薄いわけがないし、またそんな笠井が「理論的指導者」であり「政治的有力者」であるところの「本格ミステリ作家クラブ」が、もっとも「世俗的権威」と「経済効果 」のある「直木賞」と、無縁であることを「好し」とするわけなどないのである。
たとえば、こういう思考実験をしてみてほしい。
ここに「本格ミステリ作家クラブ」に所属する、一線級の作家(つまり、文学賞を受賞してもおかしくない、力量 のある作家)が100人いたとする。そこで、彼らにつぎのような質問をしてみるのだ。
―― 挙手でお答え下さい。みなさんは、直木賞が欲しいですか?
80人くらいが挙手する。
―― いま手を挙げなかった方にお尋ねします。直木賞をあげると言われても、あえて固辞するという方は、挙手して下さい。
(さて20人中、何人が挙手するでしょうか?)
―― では、もう一度、全員にお尋ねします。「直木賞などいらない」という方は、挙手してください。
つまり「積極的に、欲しいか?」と問われれば「べつに」と応える人は、けっこういるかも知れない。しかし、では「いらないのか?」と問われれば「くれるんなら、ありがたくもらいます」というのが、ほぼ全員なのではないだろうか。では、どうしてこういうことになるのかと言えば、それは作家が(どこかで、半ば無意識に)「世間」に向けては「世俗的権威に無欲な、芸術家」を演じたいものだからで、積極的に「賞が欲しい」とは言いにくいからにほかならない。しかし、本音としては「金も地位 も名誉も権力も欲しい」のだから「じゃあ、いらないんですね?」と重ねて問われれば「いや、待ってくれ。誰もいらないとは言ってないじゃないか。くれるというものなら、ありがたくもらっておくよ」などと言い出すことになるのである。
私は、如上のような「人情の必然」にしたがって、前回のような『直木賞の件』に関する「合理的な推理」を組み立てた。――これでも、まだ、あの推理を『深読みのし過ぎ』だと考えられるだろうか。
『 ただ、私は、少々退屈でも著者のこれまでの足跡や他にオススメの作品を紹介した解説や、ちょっと馴れ合いだなと感じても著者との交遊や作品の感想を書いたエッセイ調の解説は、あった方が文庫を買うとき嬉しく思います。最近解説のついてない文庫が結構見受けられますが、文庫に解説がついていないというのはカレーに福神漬けがついていないような何ともいえない物足りなさを感じてしまうのです。』(FIVEPLACES)
これは、私もまったく同感。
『お荷物としての「解説」』で書いた「解説論」は、あくまでも歌野晶午の「解説(不必要)論」を解説したものであり、もとより私の持論ではない。だから、特別 に「金かえせ!」というようなものでさえなければ、まあ『福神漬』はついていた方が、私としても嬉しいのである。――もちろん『福神漬』に止まるものである必要は、さらさらないのではあるが(笑)。
執筆・2004年2月24日
改稿・2004年4月12日
初出・BBS「アレクセイの花園」(2004年2月25日)
【関連論文】
・ 笠井潔が、真に望んだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性
・ 恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力 ―― ある「探偵小説研究会」所属評論家の弁
・ 「インテリげんちゃん」の凡庸さについて ―― 高橋源一郎に見る、文学者のホンネ
・ 文学賞にジタバタ ―― フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合