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◆ 父の子の帰還 ◆
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――追悼・春日井建
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田中幸一(アレクセイ)
中井英夫との縁深き『その人々』の一人が、また亡くなった。――去る(2004年)5月22日のことである。
『 春日井 建氏(かすがい・けん=歌人)22日午後5時58分、中咽頭(いんとう)がんのため愛知県内の病院で死去、65歳。同県江南市出身。自宅は名古屋市千種区光が丘2の3の14。葬儀・告別 式は25日午後1時から千種区千種2の19の1、いちやなぎ中央斎場で。喪主は弟郁(いく)氏。 19歳の時に発表した第一歌集「未青年」が三島由紀夫から「われわれは一人の若い定家を持った」と絶賛された。一時、歌壇を離れたが、2000年に歌集「友の書」「白雨」で、権威のある迢空賞を受賞した。』
昨日(2004年6月28日)、中井英夫最晩年の助手であった本多正一から、メールをもらった。来月発売の『現代詩手帖』春日井建追悼特集号に追悼エッセイを書いたが、その中に『お名前出します』ので『よろしく』との内容だったのだが、世事にうとい私は、このメールで、初めて、春日井建の死を知ったのである。
本多のエッセイのタイトルは「われにも五月を」で、これは『「われに五月を」とうたった寺山修司と 同じ若葉の季節、中井英夫に愛された青春の歌人がまたひとり永遠の輝きを放つことになった。』という奇縁(暗合)に由来してつけられたものである。
本多のエッセイに引用されている、塚本邦雄の文章(「還らざるべし ― 中井英夫『黄泉戸喫』書評」)に、
『 中城、寺山に続いて、中井英夫が登場させたのは、「短歌」昭和三十三年八月号の五十首詠「未青年」作者、当時二十歳の春日井建であった。二年後に上梓の同標題の処女歌集は三島由紀夫の序文を飾ってゐる。(略)これこそ、まさに中井英夫が求めつづけてゐた歌人ではなかつたらうか。否、春日井建自体が、中井英夫の創作品であつたと極言したいやうな気もする。今は、彼を創つた二人ながら、黄泉に居を移してしまつた。戸喫の料は一巻の歌集といふのも、故人の本懐であらう。』
とあるように、春日井建は、中井英夫に深く愛された、若き才能であった。しかし、その春日井建が寺山修司と同じ五月に亡くなったというところに、私はなんとも切ないものを感じさせられていた。
――なぜなら、終生その才能を中井英夫に愛されつづけた寺山修司とはちがい、春日井建はある時期以降、中井英夫から激しい怒りを向けられる存在となってしまっていたからである。そして、その主たる原因とは、一度は歌を捨てた春日井が、父親が主催していた結社を引き継いで、歌壇に復帰したというところにあったようだ。
中井英夫の怒りは、彼が短歌の世界で果
たした役割を思えば、容易に理解できるところであろう。
中井が一介の編集者として中城ふみ子、寺山修司などの「真に新しい才能」を送りだした当時の短歌界は、結社の頂上に君臨する保守的な大御所歌人たちが、若手歌人の生殺与奪をにぎる、たいへん旧弊で閉鎖的な世界だった。つまり、そのような大御所連に理解できないような短歌は、黙殺の憂き目を見ることになったし、そもそもそういう人たちの主催する結社に所属しないかぎりは、個人として歌作を楽しむ者は、「趣味人」ではありえても、「歌人」と名乗ることは決してできなかったのである。
しかし、中井英夫はそんな「歌壇」の閉鎖性を憎悪しぬいていた。戦争が終り、我々の頭上を被っていた黒雲が払われたというのに、どうして歌壇はこうも閉鎖的であり、若者たちがその思いを素直に表現することを抑圧しようとするのか。なぜ、若き生命からほとばしり出る歌を認めようとはしないのか――そんな中井英夫が、歌壇の常識に逆らい必死の思いで掬い上げた宝石、中井の短歌への熱き思いの結晶こそが、中城ふみ子であり、寺山修司であり、そして春日井建に他ならなかったのである。
その春日井建が、デビュー歌集『未青年』で華々しく燃焼した後、歌壇を去った。きっと中井英夫は、この潔い才能を誰よりも愛おしみ、さらに深く愛したことであろう。
ところが、『行け帰ることなく』(第二歌集タイトル)として歌壇を去った、その若き天才が、四十づらを下げ、『中部短歌会の主宰者』として、歌壇に復帰したのである。
裏切られた。あいつは俺を裏切った!――中井英夫の心は、かつて溺愛した若き才能の変節に対し、真っ赤な憎悪に燃え上がったことだろう。
『 しかしながら、春日井建の作品は、デビューが華々しかったのと呼応するかのように、その輝きを失うのも急だった。『未青年』1卷でその魅力の全てを出し切ったかのように、その後は全く生彩 の無いものになってしまったのである。そして間もなく、氏は歌壇からも姿を消してしまった。
その春日井建が突然歌壇に復帰したのは1980年(昭和50)、中部短歌会の主宰者だった父親が亡くなりその跡を継いでのことだった。若かった彼も40代になっていた。これに対して歌壇では、大歓迎する側と「甘すぎる」としてそれに反撥する側とがあったらしい。歌壇内部のことはどうでもいい、私にとって『未青年』1卷があればそれで十分だというのが、率直な感想である。』
中井英夫がこの『「甘すぎる」としてそれに反撥する側』に立ったことは、容易に想像できよう。以降、中井英夫は「春日井建は『未青年』で誕生し『未青年』のまま夭折した天才である。今の春日井建は、春日井建の仮面 をかぶった、何かほかの醜い生き物であり、俺が愛した春日井建ではない。だからこそ俺は、今は亡き春日井のためにも、あのニセモノを金輪際認めるわけにはいかないのだ」と考えたのではないだろうか。
しかし、ものの考え方とは、人それぞれである。私も基本的には、中井英夫の狷介な考え方が好きなのだが、あえて「変節」した春日井建の生き方もまた、ひとつの覚悟に立った、人の生き方なのであろう。
『 二十二歳、モダンダンスの脚本を書く。やがてテレビ、ラジオ、舞台が表現の場になった。三十一歳、第二歌集『行け帰ることなく』刊行。「歌への別 れをはっきり言ってなかったのでまとめた。歌は二十三歳のときのもので、気持ちの上ではもっと前に別 れていたんです」。なぜ別れたのか。「『未青年』で達成感があった。短距離走者が走り終わった後のようでした」
「幼いころから死生観をもっていた。いま、やすらかに生きられることに通じている」
「若いということは茂った木、悩みも多く、つらすぎる。事件を起こした少年の心の底を推し量 ると、自分の若いころと通じたものがあると思う。老いるとさっぱりした木になる。若い人は暗い。年を取ると明るくなる」 』
明るく軽く生きることが間違いであろうはずがない。才能に殉ずることだけが、人の生き方ではない。春日井建は、中井英夫の憎悪の言葉を、直接間接にその背にうけとめながら、自らの信じる生き方を生きたのであろう。そして、誰よりも彼を愛し、誰よりも彼を憎悪した中井英夫の死を、春日井建は静かに見送ったのである。
『 その折りだったか日常における中井英夫のワガママぶりに話が及んだ。三人が顔を合わせたのは葬儀の数刻ばかりだったけれど、私と春日井さんの会話のなかにもうひとりが親しく顔をのぞかせていた。戦後短歌の名編集者と『虚無への供物』の作家の駄 々っ子ぶりに閉口したあれやこれやの笑い話となって、思えばいい供養だった。こんな話をしてると中井さん、化けて出てきちゃいそうですねえ。
「いやあ僕、中井さんだったら枕許に出てきてもらってもいいなあ。もう一度お会いしたいですよ」
春日井さんは楽しそうに笑われた。』(本多正一「われにも五月を」より)
春日井も、中井英夫の彼への憎悪が、何よりも彼への深い愛情に発したものであったことを、理解していたのであろう。また、だからこそ「生きておられるうちは、中井さんに許してもらうことはできないかも知れない。でも……」と思っていたのではないだろうか。
だが、だからこそ私には、 そんな春日井が五月に死んだという事実に、やり場のない切なさを感じるのである。それはまるで、ある時から大好きな父に見返られなくなったおとなしい子供が、その気を惹くためにした「寂しい最後の悪戯」のようではないか。
――中井さん、それでも僕は貴方が大好きですよ。あの世でなら、貴方も僕を許してくれますよね?
『 この二月、春日井さんの妹さんより「春日井が中井さんについて書いたもののコピーを送っていただけないでしょうか」と連絡を受けたばかりだった。ご自身の病状を念頭に、なにかをおまとめなるおつもりだったかと思う。ほどなく訃報に接した。』(全同)
きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ
夏休みよ
さようなら
僕の少年よ
さようなら
ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち
(中略)
二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した
(寺山修司「五月の詩・序詞」より)
執筆・2004年6月29日
改稿・2004年7月2日初出・BBS「アレクセイの花園」(2004年6月29日)
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