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田中幸一(アレクセイ)
「正字正仮名」問題は、私のような文学愛好家には避けて通 れない問題である。まして自分で文章を書いて、それを公に発表している者としては、ことは責任問題でもあろう。だが、それにもかかわらず私が「正字正仮名」問題と対峙することは、これまで一度も無かった。なぜならば、それは、この現代日本の「日常生活」には、ほとんどかかわってこない問題でしかなかったからである。
仮にも一国の「言葉」の問題である。それが「どうでも良いこと」であるはずはない。にもかかわらず、実際には、それはそういうものとしての位 地しか与えられていない。このギャップこそが、「正字正仮名」問題を現実的に語る上で、もっとも重要な要因なのではないかと私は思う。
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以下の論文は、私が「正字正仮名」に無知だということを前提としてなされる。すなわち「正字正仮名の長所も短所も基本的には知らない」という前提で書く、ということであり、その議論は「略字新仮名」を常用している私が、「正字正仮名」を「略字新仮名」よりも「優れたもの」と(詳しい検証抜きに)前提して、議論を進めるということでもある。
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「正字正仮名」問題を現実的に考える上でまず大切なことは、ことの是非はべつにして、すでに「正字正仮名」はいったん「死んでいる」という事実に立脚すべきである、ということであろう。このことを「正字正仮名」主義者に言わせれば「不当に殺された」ということにもなるのであろうが、「正当」であろうが「不当」であろうが「いったんは死んでいる」という「事実」に変わりはない。私がここで論じているのは、ことの「経緯」における「是非善悪」ではない。「今ここの現実」の話なのである。
「正字正仮名」問題において、現実的に大切なのは「今ここ」の現実を、「未来」に向けて、どう変えていくかという問題である。そしてそれは、「過去」の検証は、主として「未来」への行動のための「礎」とすべきものでなのであって、決してそちらが「中心・課題」ではないということなのだ。つまり突き放して言えば、「過去の経緯」など、現代の日本人の大半にとっては基本的には「どうでも良い」し「関係ない」ことなのだ、という厳しい現状認識を持てということなのだ。この現実を押さえずに、「過去の経緯」を語ることで「今ここ」に働き掛け、「今ここ」を「未来」に向けて変えていこうとしても、どだいそれは無理な話なのである。
「正字正仮名」は甦ったりはしない。この事実を押さえなければならない。「死んだもの」が甦ったり、「過去」が「現在」の次に来たりはしない。次に来るのは「新しい生」であり「未来」なのだ。つまり、「正字正仮名」は「新しいもの」、「略字新仮名」の「次に来るもの」、「未来の言葉」として、「今ここ」で語られなくてはならない。「過去」の栄光や権威に縋るのではなく、圧倒的に先行して優勢な敵(略字新仮名)を「ゼロから出発」して追い抜くで覚悟でなければならない。そして「正字正仮名」主義者は、その無自覚な「報復主義」を克服しない限り、「正字正仮名」を「未来」のものとして「再生」させることは、およそ不可能なことなのだと、私は考える。
「正字正仮名」主義者の木村貴は、「正字正仮名」が「略字新仮名」に比べて、いかに「性能的に優れている」かについて、多くを語っている。それは同時に「略字新仮名」が、いかに「性能的に優れていない」かについて語っているということでもある。つまりこれは「新しいもの」を推奨する上での「基本」である「性能論」である。次に木村が語っているのは、「優れたもの」が「劣ったもの」に、いかに摺り替えられていったかという「歴史的事実」である。そして、ここで問題となるのは、この後者の語られ方である。
言うまでもなく「歴史的事実」を押さえることは基本であり、重要な作業には違いない。だが木村の場合、「日本語を汚した愚か者たち」への「報復」に力点が置かれてしまっており、本来の目的であった「正字正仮名」の優秀性を歴史的に実証するというところからは、ついつい論点が外れてしまいがちなのだ。だから木村の文章には「ルサンチマン」が強く感じられて、「事実の冷静な指摘」という印象は案外薄い。「悪」に対して「怒り」を向けること自体は、決して間違ったことではない。しかし、木村の「怒り」は、ほとんど時間的に不在の「日本語を汚した愚か者たち」を通
り越して、無自覚に「今ここ」の「略字新仮名」使用者たちに放たれてしまっているのだ。無論、木村は充分に理知的な人間だから、それを露骨に書いてはいない。木村のそれは「情」の問題であるため、主として「論調に滲む」という性質のものとなっているのだ。しかし、それを読む多くの「略字新仮名」使用者たちは、結果
としては、そこに「秘められた非難と憎悪」と敏感に感じ取って、「イヤな気分」にさせられるのだ。……説得されるのでも、共感させられるのでもない。「悪者(共犯者)・愚か者」呼ばわりされたと、直観的に理解するのである。
だが、この「非難」が妥当性を欠くのは、木村とて頭では理解しているはずだ。なぜなら「今ここ」で「略字新仮名」を使用している者の大半は、自ら望んでそれを選択したのではない。それを「唯一のもの」として選択の余地なく与えられた人たちなのだ。言わば、この人たちもまた「日本語を汚した愚か者たち」の「被害者」なのである。「なぜ、おまえは日本人なんだ」……と非難されても困るように、自分が「略字新仮名」使用者であることそのものを非難されても、多くの人はその非難を妥当なものだとは思わない。「正字正仮名」問題というものの存在すら知らなかったに等しい多くの人にとって、「専門家」のそういう非難は、「薮から棒」な非難としか思えないのである。したがって、多くの人は、二言目には「論理」という言葉を持ち出す木村の意見に、ただ鼻持ちならなさを感じて「拒絶反応」を示しがちなのである。
このように、木村の言葉に「拒絶反応」を示す者の「情」は、決して無根拠なものはいない。もちろん、木村の「(そんな風に言いたくもなるという)情」とて理解できぬ
ものでもない。だが、その「情」を肯定すれば、「正字正仮名」を「未来」のものとして再生させることは決してできない。世界各地の地域紛争が、「過去」に発する「ルサンチマン」の故に、そしてその「報復主義」故に、解決の目処が立たない(「未来」を絶望的に閉ざしてしまう)というのは、誰もが知る事実であろう。その同じ過ちを、木村をはじめとする「正字正仮名」主義者が犯している可能性は非常に高い。「不当に虐げられてきた・優秀な者たち」の「ルサンチマン」は、いや増して根深いのだ。だが、彼らは「馬鹿」ではないから、それを剥き出しにしたりはしない。それを、他人はおろか、誰よりも自らに対して「巧妙に隠蔽してしまう」のだ。だから問題の解決は、よりいっそう困難なものとならざるをえないのである。
「正字正仮名」を「未来」のものとしようと思うのならば、まずこの「隠蔽されたルサンチマン」の克服が必要であろう。「私たちだけは、情に流されない、論理的な人間だ」というような思い込みがあるのだとしたら、それは「傲慢」と言うよりも「人間に対する無知」だとしか言えまい。「人は論理のみにて生きる(動く)に非ず」……そうした「現実」を直視するところからしか、次の段階には進めないのである。
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「正字正仮名」を「未来」のものとするためには、まず「現状」を受け入れなくてはならない。それが如何に受け入れ難いものであろうと、それを「現実」だと認めない限り、「正字正仮名」主義者は「未来」への立脚点を失わざるをえない。「肯定」しろと言っているのではない、「事実は事実として受け止めよ」と言っているだけなのだ。
さて「現状」を認めれば、何がどう変わってくるのか? それは、これまでほとんど「性能論」と「歴史批判」の2本立てだった「正字正仮名」の布教施策に、「現状改変への具体策の模索」を加えることになるだろう。「このような優れた道具を使わない君らは、間違っている。愚かだ」と言うだけに止まらず、その「優れた道具」が「なぜ使われないのか」について(感情的に「愚かだからだ」で済ませずに)現実に則して検討を加え、「具体的な改変手段・方法論」を示す方向に動くはずだ。そうせざるをえないはずなのだ。にもかかわらず、それが充分になされてこなかったのは、誰よりも「正字正仮名」主義者が、現状の改変に絶望していて、ただ「(知的)報復」だけに「救い」を見い出していたためだ、と言っては穿ち過ぎなのだろうか?
言うまでもなく、現状においては「略字新仮名」の方が「圧倒的にメリットが大きい」。それは、木村自身が、
せめて私的な場では自分の理想を追求してみたいと思つてゐます。 メリットは?といふお尋ねですが、まあ、所詮は自己滿足ですから、 目に見える特典はありません。あつたら下さい。(笑)
(「なぜ書くか、「古い」表記で」より)
と書いて、認めているところでもある。そして、何よりもそういう現実があるからこそ、多くの人は「略字新仮名」を使い続けるのである。そして、この「当たり前の現実」について、これまで「正字正仮名」主義者はどれだけ有効な対応策を示しえたであろうか? ……たぶん、ほとんど何も出来なかったのではないかと、私は推測する。実際、木村が「正字正仮名」の「長所」を語る時に持ち出すのは、必ず「我々の日常」とは縁遠い「哲学者・文学者」といった『最先端』の部分の、「専門家」の話である。
「あらゆる文化の尖端にあるものは精神の驚異である言語である」――ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的諸考察』(藤田健治譯、二玄社)より 上に引いたのはスイスのバーゼル大學教授を長く務め、ニーチェの友人で もあつた文化史家、ブルクハルトの言葉です。彼は言ひます。「言語は(中略)その中に國民がその精神生活の實體をたくはへておく最も永続的な素材である。特に偉大な詩人や思想家の場合にさうである」。
(「なぜ書くか、古めかしい漢字と假名遣で」より)
この文章には、この後『偉大な先達の精神』『偉大な詩人、思想家の文章は』『19世紀イギリスの作家、ギッシングは』『シェイクスピア』『井原西鶴はおろか、明治の森鴎外や樋口一葉すら』『ノーベル經濟學賞受賞者で、哲学者でもあるフリードリッヒ・フォン・ハイエク』といった言葉が続く。無論、これらの言葉は「正字正仮名」の「優秀性」「正統性」を説明し「権威」づけるために使われているわけなのだが、『特に偉大な詩人や思想家の場合に』にという「限定」が、逆に暴露しているのは、「正字正仮名」の長所は「そういう最先端の部分でしか、実質的には役に立たないというのが、偽らざる現状である」ということなのだ。言うまでもなく、日本人の大半は、そういうところ(最先端の部分)で生きているわけではない。たまにそういうところにかかわることもあるけれど、それは「全生活のなかでは、趣味的なごくほんの一部」のことでしかない。そして現状で「正字正仮名」がかかわれるのは、所詮その「ごくほんの一部」のことでしかないという事実を、この「限定」は正直に裏書きしてしまっているのである。
当然のことながら「言葉」というものは、まず「日常的な道具(実用品)」である。それが「芸術・学問」といった「最先端にも使われる」というのは紛れもない事実だが、決して「言葉」は「芸術・学問」のためだけにあるのではない。そして、実際のところ私たちの大半は
「芸術家」でも「学者」でもない。だから「言葉の重要性、あるいは優先順位
」が、「芸術家・学者」と違っていても、それはむしろ当然の話なのである。例えば、プロの板前にとっての「包丁の良し悪し」が、主婦にとっての「包丁の良し悪し」とは、「その重要性、あるいは優先順位
」において全く違う、というのと同じことなのだ。この場合に「主婦も包丁を使うのなら、そんな安物の粗悪品を使うべきではなく、この高価だが性能の良い包丁を使うべきだ」というような言い種は、所詮「包丁屋」の論理でしかないことを、私たちはゆめゆめ忘れるべきではない。じっさい「包丁」なら少々高くても、性能さえ良ければ、すぐにでも役立つのであろうが、「正字正仮名」は「今のところ」ほとんど使い道のない(実用性に乏しい)、使い勝手の悪いしろものなのだ。木村のように「正字正仮名」を布教するために、それを使うという「使用目的」のある人は良い。だが「布教活動」をしない人にとってのそれは、わりに合わない、単なる「珍奇な道具」に終わってしまう可能性は大なのである。
実際、木村自身も、多くの「正字正仮名」主義者も、日常生活では「略字新仮名」を使っているはずで、それを使わないで生活ができるのは「芸術家」や「学者」といったごく一部の「環境的に恵まれた人」たちだけであろう。「それが正しい日本語だから」というので、会社で「正字正仮名」を使っても、無論それは通 らないのである。つまり「正字正仮名」主義者ですら「現実的生活」の側面では、「正字正仮名」に徹してはいられないというのが、私たちのこの「現実」なのだ。私たちが置かれている環境は、明日から「正字正仮名」に切り替えてもさして支障のない「ごく一部の恵まれた人たち」とは違うのだ。だから、そうした「現実的状況(環境)」への具体的な取り組みを抜きにして、『特に偉大な詩人や思想家の場合に』といった「例外的」な話ばかりされても困るのである。そして困るのは、私を含む「略字新仮名」使用者ではない。それはむしろ「正字正仮名」を広めたいと言っている人たち自身の方なのである。
だから「正字正仮名」主義者が、本気で「正字正仮名」を普及させたい、現状を正したいと思うのであれば、「高踏趣味」に自足すべきではない。日常生活のなかに「正字正仮名」を再生させる方途を、泥まみれになって模索すべきであろう。それ無くして「正字正仮名」主義者は、「正字正仮名」という使い勝手の悪い道具を、ただその「性能」と「出自の正統性」だけで、「当然、使って然るべきもの」として語るべきではない。なぜなら、それは半ば「欺瞞」だからである。
多くの人たちにとっては『ブルクハルト』も『ニーチェ』も『ギッシング』『シェイクスピア』も『井原西鶴』も『森鴎外』も『樋口一葉』も『ハイエク』も『中井英夫』も、『漢籍』も『哲学』も『思想』も『芸術』も、基本的には「関係ない」。これが言い過ぎなら「重きを為さない」と言い換えよう。少なくとも多くの人にとって、そういうものの為に「使い勝手の悪い道具」を使うことは「生活の必要上」出来はしないのである。無論、「状況」が変われば、つまり「環境」的に「使い勝手が良くなれば」多くの人がそれを使うようになることだろう。だが、現に「使い勝手が悪い」状況下においては、それを「押し付ける」権利は誰にもないし、それを選ばない者を「愚か者」呼ばわりする権利も誰にもない(事実「実用性」を考慮することが愚かだとは言えまい)。つまり「正字正仮名」主義者が今すべきことは、「具体的な環境作り」でなのある。……ただし、その「環境作り」がすなわち「正字正仮名」の布教であるというところに、「正字正仮名」の再生問題は、最大のジレンマを抱えているのだけれども。
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最後に、私の見通しを示しておこう。
「正字正仮名」の再生は、ほぼ無理だと思う。これは、その運動が「間違っているから」ではなく、「現状を変える(逆転する)のが困難すぎる」と考えるからだ。
善かれ悪しかれ「時間は逆行しない」し、歴史に「もし」は無意味である。そして「正字正仮名」に有利な条件は、「性能論」と「歴史的正統性」以外、皆無というのが、偽らざる「現状」なのである。
つまり、いくらマラソンの金メダリストでも、40キロのハンデを与えては、小学生にすら勝つこと(追い抜き逆転すること)はできない。そして、マラソンにゴールがあるように、人の一生にも期限はある。だから「いつかは(実用的になる=逆転するだろう)」と悠長なことを言ってはいられないというのが、この「現実」なのだ。
では「正字正仮名」の再生運動自体、まったく無意味なのかと言えば、決してそんなことはない。「正字正仮名」の存在は、これからも「なし崩し」的に乱れていく可能性のある「日本語」に対して、一種の「理想」「良心」「歯止め」として機能していくだろうし、そうしていかなければならないと思う。「かつて日本には、このような立派な人がいた」と語られることによって「ならば、私も頑張ろう」と思う人は少なくあるまい。これと同じで「今は使われていないけれども、日本語とは本来こういう立派なものだったのだ」と語ることは、「現在」そして「未来」の日本語のために、決して無意味ではないのである。
私たちは、革命達成の希望が無いからと言って、「抵抗戦」まで放棄してしまうわけにはいかない。革命が無理なら漸進的変革を目指すべきだろう。それが、妥協の許されない『日常という現実との闘い』というものなのである。
2001年7月20日
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補記
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木村貴氏の「瓦礫の家」について
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私の基本的な考え方については、すでに小文「「日常」という名の戦場で」に、充分語られていると思う。だから木村貴氏の「瓦礫の家」(BBS『アレクセイの花園』/2001年7月20日付け書き込み)についても、あえて事細かに感想を述べる必要はないのかも知れない。だが、「書く」ことが物書きの使命であるのならば、一応の説明はしておこうと思う。
皆さんの方がお詳しい中井英夫氏が、どこかで「小説は美神への供物。一句たりとも腐つてゐてはならない」(うろ覺えの爲、字句は不正確)と書いてゐましたね。要するにこれなのです。俗字新假名で書いても、論理的に書きさへすれば、意味は判ります。しかし文學とは、いやいや、凡そ文章とは、意味が判りさへすればそれで良いものでせうか。
『凡そ文章とは、意味が判りさへすればそれで良いものでせうか。』と問われれば、当然「そんなことはない」という話になるだろう。だが、それは中井英夫の言葉と同様、「理想としては」という「限定条件付き」の話なのである。つまり、凡そ文章とは、ひとまず意味が伝わりさえすれば良い、とも言えるのだ。だから「翻訳書」というようなものが存在して、それを私も木村氏も読むのであろう。「現実的側面
」とはそういうものなのである。
そして福田恆存ら「正字正仮名」主義者の指摘にもかかわらず、多くの作家が「略字新仮名」を使い続けるのは、作家といえども『ひとまず意味が伝わりさえすれば良い』という「現実」から切断された「特権的存在」などではないからなのだ。理想を求めて書くことのみが正しいのならば、彼は「正字正仮名」の日本語ではなく、英語でもラテン語でもエスペラント語でも、自ら信じるところに従って書けばよろしい。それは「理想」として「心掛け」としては、正しいことだろう。だが、作家は決して「自己満足」のためにだけ書いているわけではない。少なくとも大半の作家はそうである。つまり、まずは「読まれなければならない」というのが大前提なのだ。……無論、これの度が過ぎれば「読者に媚びるばかりの屑作家」にもなってしまうわけだが、そういうものは論外として、「読まれなければならない」と考えること自体は、決して間違いではないのである。してみると、「今ここ」で「正字正仮名」にこだわる(義理立てする)ことに、いったいどれだけの価値があるだろう? 書くのはたしかに「それができる一部の恵まれた人たち」であろう。だが、読む者の大半は「正字正仮名」に縁も所縁も無い人たちなのである。ならば、作家が「正確に書く」ことを多少犠牲にしてでも「ひとまず、より自然に伝わる」文章を選ぶこと自体は、決して間違いだとは言えまい。作品とは、所詮、作家のものではなく「テクストと読者の間に発生するもの」だとも言えるのである。ならば「正字正仮名」に馴染みのない「読者」に配慮するのは当然のこと。それは一種の、「現実との駆け引き(闘争)」なのである。
歴史的假名遣には、かうした論理的混亂がありません。では、なにゆゑ現代の文學者が「現代かなづかい」を使用して恥ぢないかと云ふと、理由は三つ。第一に、文部省すなはち國家の御墨附であるから。第二に、物心ついて以來ずつと使用して慣れ親しんでゐるから。第三に、周圍の皆が使つてゐるから。しかし、この三點は、非論理的な言葉の使用を正當化する根據にはなり得ません。
森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事が、いかに冒涜的な所行か、お判りいただけると思ひます。鴎外が論理的な表記で美しく仕上げた「供物」を、腐つた代替材料で安つぽい代物にして仕舞ふ行爲なのです。無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。
恐らく、「ガラクタとは言過ぎ」「何をガラクタと感ずるかは個人により樣々」「ガラクタにはガラクタなりの良さがある」等々の反論があると思ひます。再反論の用意はあるのですが、くたびれたので、今日のところはこれで御勘辨を。數日留守に致しますので、續きはその後で。
木村氏の議論は「性能論」に終始している。そして、それが「論理的な態度」であると思い込んでいるかのようである。だが、「性能論」的是非と「倫理論」的是非とは、決して同日の談ではない。「人は論理のみにて生きる(動く)に非ず」と言うよりも「人は感情で動くが、それにはしばしば論理的裏づけが付与される」と言うべきかも知れない。
人はしばしば「ガラクタ」を選ぶ。「カッコイイ義父よりも、アル中のどうしようもない実父」を選ぶ場合がある。「街でたまたま知り合った美人よりも、幼馴染みの不美人」を選ぶことだってある。「日本語より英語の方が優れていると論証されたって、母国語への愛着は捨てられない」だろう。これらはすべて「非論理」なのか? そんなことはない。それが「人間の、動物としての本能」であり、それは「生き(残)るための論理」なのだ。
「感情」の問題は、「性能論」だけでは乗り越えられない。それは「社会主義」の理想が、ついに「人間の感情」に対して「現実的」でなかったが為に、ついえ去ったという「歴史」にも明らかであろう。「感情」を軽んずる者は、「感情」に復讐されるのだ。「感情」も、また「人間の論理のうち」であるとの認識を欠いた「論理」は、所詮「絵に描いた餅」でしかないのである。