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◆ 「正字正仮名」論争(1) ◆
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「正しき日本語」と「日本語ついての正しさ」をめぐって
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リンクのお願い。 投稿者:アレクセイ 投稿日: 7月14日(土)20時33分48秒
(註 この書き込み「リンクのお願い。」は、木村貴氏のウェブサイト『地獄の箴言』の掲示板に書き込まれたものです。 ― 管理人 2001.8.1)
>木村さま
こちらでは、はじめまして。その折はたいへんお世話になりました。言葉は不適切ですが、たいへん楽しませていただきました(笑)。
私は快楽主義者を自認する男ですので、(好きなことは別にして基本的には)面 倒なことが嫌いで、それが出来ない性格です。ああした議論や論争でも、わかりきったことを説明するのは、それが必要だとわかっていても、なかなか充分にはできないところがあります。その点、今回は木村さんがそうした面 をキチンと押さえて下さったので、私はたいへん楽をさせていただいた気分でした(笑)。
すでにうちのサイトの「大西赤人批判」のページで、こちらのトップページと掲示板を紹介して、それぞれにリンクを張らせていただいておりますが、今度は正式にうちの「LINKS」のページに、こちらのサイトを加えさせていただきたいと思います。なにとぞ、よろしくお願いいたします。
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リンクの件 投稿者:木村貴 投稿日: 7月15日(日)06時24分59秒
アレクセイ樣、わざわざ御聯絡有難う御座いました。勿論、御自由になさつてください。私の方も、近々、リンク集にこちらのサイトを加へる積りです。
大西掲示板の過去ログでアレクセイさんの論爭を讀んで、「これは面 白い人がゐる」と思つたのが、あの掲示板で投稿を始めた一つの動機でした。短い期間でしたが、期待通 り、大いに勉強になりました(他の人は大いに迷惑だつたかもしれませんが)。『神聖記』、今後も樂しみにしてをります。私のサイトの大西コンテンツも、一服入れたら少し追加する積りです。大西掲示板は無くなりましたが、いつかまた、大西巨人や他の話題やについて議論したいですね。今度は私がバッサリやられる番かもしれませんけれども。 皆樣、どうか、園主さまが論爭をやりに何處かにすつ飛んで行つても、温く見守つてやつてくださいますやう。それでは。
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大切なもの(下) 投稿者:ホランド 投稿日: 7月15日(日)11時08分43秒
◆ 木村貴さま
はじめまして。ボクは『LIBRA』の助手を勤めますホランドと申します。
お噂はかねがね伺っておりましたし、木村さまのホームページ『地獄の箴言』も、ざっとですが、すでに拝見させていただいております。だから、今はちょっと緊張しております。それにしても、「花園」で、かの「正字正かな」(?) の文章を読ませていただくのは、何とも独特の感慨がありましたよ(笑)。
木村さんも同じでしょうが、ボクは生まれた時から「新字新かな」だったので、ほとんどそれに疑問を感じることはありませんでした。たとえ「言葉を大切に」とか「きれいな日本語を」と思っても、それはあくまでも「新字新かな」の枠内でのことでした。だけど「日本語」というものを真剣に考えようとすれば「正字正かな」の問題は避けて通
れないものだとも思います。その意味で、「正字正かな」にこだわっておられるみなさんの活動は、とても意義深いものだと思っています。
だけど正直な気持ちを言ってしまえば、ボクは「日本語そのもの」よりも、それによって「表現されたもの」の方に興味があります。つまり木村さまの書かれたものが「正字正かな」であろうと「新字新かな」であろうも、ほぼ同じように「その内容に」興味を持つだろうということです。そんなボクですから「正字正かな」の問題は、いちおう木村さんたちにお任せして、ボクはボクなりの「大切な問題」に取り組ませていただきたいと思っております。この気持ちが嘘でない以上、木村さまは「立場のちがい」というものを、きっと理解して下さると、「大西赤人批判」を読ませていただいて、ボクは確信いたしました。
「快楽主義者」を自認する園主さまのサイトですから、『自由と規律』とは大違いの「好き放題」って感じですけど(笑)、これを機会に末永くおつきあいください。よろしくお願いいたします。
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更新情報2点 投稿者:園主 投稿日: 7月16日(月)00時52分16秒
みなさま、本日は更新情報が2点ございます。
ひとつは『Ryu's Milk Bar』の方に「作品解題 ―『受難な日々』篇」をアップさせていただいたこと。
もうひとつは「LINKS」のページに、木村貴さまのサイト『地獄の箴言』を加えさせていただいたことでございます。
「作品解題 ―『受難な日々』篇」は、なかなか手間のかかるページでございましたが、これがフォーマットになりますので、あと3巻分の「作品解題」は、わりあい早期に完成・アップできるのではないかと存じます。
「LINKS」に加えさせていただいた木村貴さまのサイト『地獄の箴言』は、たぶんうちの「LINKS」の中では、均一蝋さまの『反幻想文学ページ 氷沼黄司』とはまた違った意味で、もっとも異色のサイトとなりましょう。今後は、さらに多様なサイトを「LINKS」にコレクトしていきたいものと存じます(笑)。
★ 木村貴さま
わざわざのお運び、恐縮いたします。
光栄にも、そちらの「リンク集」へお加えいただいたわけでございますが、この上はそちらの「リンク集」でもっとも異彩 を放つ「異形」「異貌」「異端」のサイトとなれますよう、さらに精進したいものと存じます。そして、その目指しますところは、木村さまが「ああ、もうこことリンクしておくのは恥ずかしい!」と音をあげるような「愉しい」サイトでございます(笑)。
>いつかまた、大西巨人や他の話題やについて議論したいですね。今度は私がバッサリやられる番かもしれませんけれども。
自信に満ちた謙遜のお言葉、まことに気持ち良うございます。そうでございますね。いずれ機会があれば、本気で議論いたしましょう。言葉で、お互いの命をやりとりするくらいの、本物の論争をやりましょう。貴方さまとならば、きっと皮膚がぴりぴりするような緊張感の中で、血も踊るような論争が適うことでございましょう。
ともあれ末永くおつきあいをいただきますようお願いいたします。それからたまにはこちらに書き込みに来ていただいて、秘められた「軟派」な面 もお見せ下さいまし(笑)。
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ご質問 投稿者:楽古堂主人 投稿日: 7月17日(火)23時16分56秒
木村貴様へ。
・ はじめまして。楽古堂と申します。
・ 貴HPを、一部ですが拝見させていただきました。
・ 「正字正仮名遣い」を、この平成の御代に啓蒙しようとする、高潔な志を持った方がいる。
・ そう思うだけで、21世紀の日本の風通しが、若干良くなった感じがいたしました。
・ 涼風に出会えた気分です。
・ 私は、ホランドさんと同じ立場に立つ人間でしょう。
・ このHPに、掲載してもらっている拙文を、いくつかを読んで頂くと分かると思います。
・ およそどのように書くかということには、漢字や仮名遣いも含めて、自分で文書を書く際には無関心です。
・ (あえて言えば一つの文章が、自分の意図したものとは別の意味に取られないように注意する、ということだけでしょうか。)
・ 何を書くかということに、全力投球しております。
・ しかし、詩の読解で正字を調べると、思いの他に作品の意味がはっきりとするという体験には、何度も出会いました。
・ 吉川幸次郎博士の「杜甫詩注」は、最愛の書であります。
・ 他者の文章の「精読」は、ぼくの方法の根幹です。
・ そうした体験から、「正字正仮名遣い」の作品の場合は、引用も原典によるべきだという主張に賛成いたします。
・ そこで二つ質問があります。
・ 一つ目。
・ 木村さまのHPを拝見していて不思議だったのは、文学作品への言及があれほど多彩
でありつつ、「正字正仮名遣い」が、そうでない場合よりも、作品そのものの完成度をより高め、表現を充実させているということの証明が、脱落しているように思えることです。
・ 二つを比較する場合に、片方の優位を証明したいのであれば、当然その長所がどこにあるかを説明するはずです。
・ 日常生活の、普通の商品の比較においても、だれもがしていることです。
・ そして、たとえば「正字正仮名遣い」の文学作品が、「新字新仮名遣い」になった時に、何が損なわれてしまったのかということについての、作品に即しての具体的な証明は当然できることでしょう。
・ 私は、見逃しているのでしょうか。
・ それとも、何かの書籍で、すでにまとまった形で展開されているので、あえてHPではする必要もないことなのでしょうか。
・ 具体的に、ここにあるとご教示頂ければ幸甚です。
・ 二つ目。
・ 楽古堂は、「正字正仮名遣い」の問題については、まったくの無知です。
・ たとえば、その反対語は「略字略仮名遣い」ではないでしょうか。
・ 「新字新仮名遣い」の反対語は、「旧字旧仮名遣い」であるように、論理的には、考えます。
・ それが、時に「略字新仮名遣い」になっているのは、なぜなのでしょうか。
・ 私は、木村さんの行為に、自分と同じ資質を認めます。
・ それを一言で言えば、言葉の「厳密の探求」への意志です。
・ こう言うと前言と矛盾するようですが、創造活動の場よりも日常生活の方で顕著な性癖です。
・ (文章を書こうとするときには、考える速度は、字を書く速度よりもはるかにはやいので、手が頭に追い付くので精一杯という、物理的な限界があります。)
・ 本当は言葉に対して、何かがおかしくて、それに引っ掛かるという、小さいが日常生活で度重なる違和感です。
・ 卑俗な事例で申し訳ありませんが、楽古堂は小学校の低学年の頃、先生に「黒板」は緑色だから「緑板」ではないかとか、「白墨」は赤も黄色もあるから「色チョーク」と呼んだ方がいいとか、「黒板消し」は、黒板を消すのではないから、「字消し」としようとか、いろいろ難癖を付けるような児童でした。
・ その目が文学作品に向けられると、ぼくの文章になります。
・ 木村さんが、政治的な活動に主眼を置く方だと弁えつつ、無知な一市井の学究として教えを請いたいと思います。
・ 焦りません。暇な時間がある時でかまいません。
・ 以上の二点の質問、よろしくお願い申し上げます。
楽古堂主人・大内史夫拝
2001年7月17日(火)
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すべては腕次第 投稿者:木村貴 投稿日: 7月18日(水)07時08分51秒
>ホランド樣
こちらこそ宜しくお願ひします。私が獨裁者にでもなれば、國民全員に正字正假名を強制する事も出來るわけですが、殘念ながら、そんな望みは無いやうです。正字正假名でも愚かな事を書く人間はゐるし、略字新假名でも立派な意見を述べる人はゐます。だから私は、ただ單に略字新假名で書かれた文章だと云ふ理由だけで、その文章を馬鹿にしたりはしません。
私は正字正假名が(少なくも略字新假名よりは)正しい國語表記だと考へますので、當然、それを普及させたい氣持ちはあります。しかし、こればかりは強制するわけにはいきません。私が福田恆存さんや松原正さんの文章を讀んで感動し、正字正假名に「轉向」したやうに、私の讀者にも「轉向」して貰ひたい氣持ちは大いにあるのですが、それが成就するかどうかは、私の腕次第と云ふわけです。
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正字正假名について(1) 投稿者:木村貴 投稿日: 7月18日(水)08時36分48秒
>樂古堂主人・大内樣
御質問、有難う御座います。詳しく書くと相當長くなつて仕舞ひさうなので、取敢へず簡單な囘答で御勘辨ください。
便宜上、第二の御質問から行きます。まづ假名遣ですが、現在一般 に使はれる文部省公認の假名遣は、正式には「現代かなづかい」と云ひます。一方、私が使つてゐる假名遣は、學問的には「歴史的假名遣」或いは「契冲假名遣」と呼びます。これら二つを短く約めて呼ぶ場合、前者は戰後新しく出來た假名遣だから「新假名遣」、後者は主に戰前使用された古い假名遣だから「舊假名遣」と呼ぶ事が多いやうです。これなら、「新」「舊」が對になつて、整然と見えます。
しかし、歴史的假名遣・契冲假名遣を奉ずる人間としては、「舊假名遣」と云ふ呼稱には異議を唱へたいのです。なぜなら、「舊」と云ふ言葉には、「古臭くて今の時代に合はないもの」「捨て去るべきもの」と云ふ意味合ひが附きまとふからです。事實、さうした效果 を狙つて呼ばれる場合が多いのです。
ここでは詳述出來ませんが、私は、歴史的假名遣・契冲假名遣は古臭いどころか、勝れて近代的な表記だと考へます。寧ろ「現代かなづかい」の方こそ、時代遲れの思想を引き摺つてゐます。從つて、歴史的假名遣・契冲假名遣を使用する人間は、「正しい假名遣」と云ふ積極的な意味合ひと誇りとを込めて、「正假名遣」と呼ぶ場合が多いのです。
言葉の對應關係を重視するのなら、私は「現代かなづかい」の事を「新假名遣」でなく、「邪假名遣」とか、「誤假名遣」とか呼ぶべきなのでせう。しかし國語として通 用しないので、「新假名遣」でお茶を濁してゐるわけです。「略假名遣」と云ふ呼び方は、適切でありません。「現代かなづかい」は、歴史的假名遣を「略」して作つたものではないからです。ではどう云ふ理窟に基いて作つたかと云ふと、場當り主義の出鱈目で、理窟も糞も無いわけです。これを話し出すと長くなるので、またの機會にします。
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正字正假名について(2) 投稿者:木村貴 投稿日: 7月18日(水)08時55分43秒
次に漢字です。文部省が定める「常用漢字表」の漢字の字體は、そのまま素直に呼べば「常用漢字體」でせう。一方、『新潮國語辭典』には、「正字」の語義の一つとして、「俗字などに對して、畫を略したりしない正統とされる漢字の字體」とあります。つまり、私がホランドさん宛の投稿では「俗字」と書いたやうに、「正字」の對義語は「俗字」と云つても好いし、畫を略さないのが正字だと考へれば、「正字」の對義語は「略字」と云つても好いでせう。戰後出來た字と云ふ意味で「新字」と呼ぶ場合もあるでせう。私の立場からは正字を「舊字」と呼ぶべきでないのは、假名遣の場合と同樣です。
このやうにも言へるでせう。「現代かなづかい」も、「常用漢字體」も、確たる基準無しに作られたものだから、自づから、それらの性格・特色を的確に言ひ表す事が難しく、呼稱も非論理的なものにならざるを得ない――。
さて、漸く第一の御質問にお答へするところまでたどり着きましたが、少々くたびれたので、續きは近日中に御返事します。それでは。
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訂正と追加 投稿者:木村貴 投稿日: 7月18日(水)09時21分02秒
>私がホランドさん宛の投稿では「俗字」と書いたやうに、
「俗字」と書いたつもりだつたのですが、「略字」でしたね。この部分は削除です。
序でに一言。以上の説明でお判りと思ひますが、私は「現代かなづかい」「常用漢字體」を全うな國語表記と認めず、出來損ないとして差別 してをります。正字正假名が金ならば、俗字新假名は鍍金だと考へてをります。私は、雙方の價値を同等に認める博愛主義には立ちません。
このやうに書けば、大内さんの第一の御質問への囘答のヒントになるでせう。でも、詳しくは後日。
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木村貴さんへ 投稿者:影姫青夜 投稿日: 7月18日(水)14時18分05秒
木村さんは歴史的仮名ずかいを「普及させたい」とのことですが、
それはおかしいのではないですか?自分が使いたければ、使えば
よいしそれをだれも否定しません。しかし、あなたが「普及させ
たい」というとなろと、ことは一変します。要するにあなたは私
に「使え」と強制しているのです。歴史的仮名ずかいにたいする
木村さんの思い入れ、おおいに結構です。しかし私は歴史的かな
ずかいを使いたくありません。また現代仮名ずかいを使うことは
現代の「常識」です。歴史的仮名ずかいを使っている新聞が一誌
でもありますか?つまり歴史的仮名ずかいを使うことは、特殊で
あり、趣味的なことなのです。「常識」がいかに大切かは福田恒存
をご愛読なさっている木村さんならご存知ではないのですか?
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影姫青夜さまへ。 投稿者:園主 投稿日: 7月18日(水)19時18分04秒
本日は時間がございませんので、簡単に書かせていただきたく存じます。
まず、貴方さまの木村さまへの批判は、あまりにも穴だらけで、あれでは木村さまも反論のしがいがございません。
いったい何をそんなにムキになっておられるのでございしょうか? 木村さまは何も強制してはおられず、ただ自らの信ずるところを、大勢にこびずに語っておられるだけでございましょう?
もういちど冷静に、木村さまのご意見を読んでみて下さいまし。 「常識」を批判したのは、誰よりもニーチェなのでございます。
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木村様、園主様へ 投稿者:影姫青夜 投稿日: 7月19日(木)02時10分50秒
昨日の昼はなぜか頭に血がのぼっていたようで、木村様に変なイチャモン をつけてしまいました。木村様、園主様お騒がせして、誠に申し訳ありま せん。
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布教の手管 投稿者:木村貴 投稿日: 7月19日(木)09時11分08秒
あれれ、あつさり謝られると何だか拍子拔けです。折角なので、少々。
熱心なクリスト教徒が、己が信仰を非クリスト教徒に布教するのは理解出來るし、布教の自由は認められるべきです。正字正假名は宗教ぢやあありませんが、私の姿勢としては似たやうなものです。自分が正しいと思ふものは、他人にも勸めます。但し、勸め方にもいろいろあつて、ただ闇雲に「正字正假名は素晴らしいから使へ」と押附けたつて、誰も振り向いてくれないでせう。だから、「すべては私の腕次第」なのです。
私は宗教の布教と違ひ、いきなり自宅を訪問したり、路上で引き止めたりはしません。ただ、書くだけです。だから影姫さんも、そんなに怖い顏をしないで、どうか大目に見てやつてくださいな。私の言ふ事に納得出來なければ、無視するなり批判するなりなさつてください。もし私の言ふ事が面 白いと思はれたら……新しい世界が待つてゐるかもしれませんよ! まあ、それほど大袈裟なものぢやあありません。背筋を伸ばすか伸ばさないか程度の違ひです。
前囘、「正字正假名が金ならば、俗字新假名は鍍金だと考へてをります」と書きましたが、この比喩は適當でありませんでした。「正字正假名が正しい姿勢ならば、俗字新假名は惡い姿勢です」の方が宜しい。私は、正字正假名が無謬だとは考へてゐません。しかし、俗字新假名に比べれば「まし」だと考へます。この關係を比喩にするならば、「金と鍍金」よりは「正しい姿勢と惡い姿勢」の方がふさはしいでせう。金は滅多に見つかりませんが、正しい姿勢は努力さへすれば誰でも出來るからです。
樂古堂さまへの御返事は、もう暫くお待ちください。
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「歴史的仮名遣ひ」問題 投稿者:楽古堂主人 投稿日: 7月19日(木)18時24分37秒
木村貴様へ。
>このやうにも言へるでせう。「現代かなづかい」も、「常用漢字體」も、確たる基準無しに作られたものだから、自づから、それらの性格・特色を的確に言ひ表す事が難しく、呼稱も非論理的なものにならざるを得ない――。
・ 「略字新仮名遣い」の問題了解しました。
・ 非論理的な相手に、論理的な戦い方しかできないという、困難な状況が見えてきました。
>正字正假名でも愚かな事を書く人間はゐるし、略字新假名でも立派な意見を述べる人はゐます。だから私は、ただ單に略字新假名で書かれた文章だと云ふ理由だけで、その文章を馬鹿にしたりはしません。
・ この宏量が好ましいところです。
・ 木村さんのような場合は、群盲象を撫でるの世界で、唯一目を開いている勇強者のように、自分をみなしがちです。あなたには、そういう臭みがありません。正正堂堂としてらっしゃいます。
>私が福田恆存さんや松原正さんの文章を讀んで感動し、正字正假名に「轉向」したやうに、私の讀者にも「轉向」して貰ひたい氣持ちは大いにあるのですが、それが成就するかどうかは、私の腕次第と云ふわけです。
・ この腕と、楽古堂の第一の質問は関係すると思うのです。
・ どのように実感を持った言葉で、啓蒙と教育が可能かという問題です。
・ 二つほど、自己紹介を訂正しておきたいと思います。
・ 楽古堂大内史夫の職業は、予備校の国語教師であります。
・ 現代文、古文、小論文を教えております。
・ したがって、「歴史的仮名遣ひ」については、ある程度の知識はあります。
・ その意味では、無知ではありません。
・ 別に自分をソクラテスの立場に持ってきたかった訳ではありませんが、言葉が不足していらぬ
配慮をさせたように思います。
・ ちなみに、ぼくの歴史的仮名遣いを学生に教える時のあんちょこは、『国語の建設』(林武・講談社・昭和47年・第三刷)所収の「正仮名づかひ習得法」であります。
・ 画家の本ですが、その世界ではある程度の評価は得ているのでしょうか。素人の真剣さに好感を持っております。
・ 楽古堂は、小学校低学年の頃には正字正仮名遣いが、ほぼ自由に読めておりました。(正確であったかどうかは怪しいです。)
・ つまり、木村さんのような「転向」の必要がもともとありませんでした。 ・ 古い世代の人間なのです。
・ 45歳のぼくは、ある理由から、おそらく漢文の素読をやらされた最後の世代ではないでしょうか。
・ あの方法は、もちろん子どもの記憶力と集中力を鍛える、最適な方法であると思います。
・ ずいぶん鍛えられたと思います。ことに読書力が付きました。
・ しかし、同時になんというのでしょうか、あれは孔丘先生の頭脳の働きを、幼児の柔らかい頭脳に、憑依させるようなものすごい教育方法だと思うのです。
・ ぼくは教育心理学には詳しくありませんが、最近の英語の教授法によると、幼児の場合は、単語は運動をつかさどる脳に記憶される。それに対して年齢が高くなるほど、単語は普通
の学習の脳に記憶される。
・ 前者は、体に覚え込ませ、後者は、頭に記憶させるといっても、それほどに検討違いではないと思われます。
・ 楽古堂は小学校入学前から、この脳髄の中枢に侵入してきた孔子という精神の異物と、自分の精神の自由をかけた真剣勝負を強いられたのです。
・ 他の理由もあるのでしょうが、小学校入学当時から、ぼくはどもりになってしまいました。
・ 言いたいことは山のようにあるのに、言葉が出てこないのです。
・ この症状は、中学校一年生ぐらいまで続き、ぼくを苦しめました。
・ だから、先生への言葉咎めは、内心の声でそう言えれば良いと考えたことです。実際にそう流暢に言えたのではありません。
・ 柄にもなく、格好を付けてしまいました。
・ 以上二点、訂正しておきます。
・ 第一の質問の答えを楽しみにしております。
・ 単に文書名と書名をご教示頂ければ十分なのですが、何かご面倒をかけているようで申し訳ありません。
2001年7月19日(木)
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ゲームの達人 投稿者:ホランド 投稿日: 7月19日(木)20時06分19秒
みなさん、こんばんは! 「歴史的かな遣い」問題が盛り上がってますね。こんな話題で盛り上がることは、めったに無いことでしょうから、みなさんもこの機会にいろいろ考えてみられてはいかがでしょうか?
◆ 木村貴さま
>私は正字正假名が(少なくも略字新假名よりは)正しい國語表記だと考へますので、當然、それを普及させたい氣持ちはあります。しかし、こればかりは強制するわけにはいきません。
そうですね。ボクは、むしろそこがポイントなんだと思います。つまり「正しいこと」「優れたもの」を「相手の意志を反してまで押し付けるのは正しいことなのか(結果 よければ、すべて善しなのか)?」という問題ですね。こう問えば、大抵の人は「それは間違いだ」って答えるでしょう。でも、人間の歴史は「正義の押しつけあい」の歴史であるとも言えるんです。「他人の正義」だから「押しつけるなよ、迷惑だ」って思いますが、その人自身が案外「自分の正義を押しつけている」ことってあると思うんです。
例えば「禁煙」の押しつけ。これなんかも「傍迷惑」という錦の御旗があるから、なんの躊躇もなく、それを通 そうとする人がいますけど、問題は本来、そんなに簡単なものじゃないと思うんです。だって、傍迷惑なことでも、迷惑をかけている方が圧倒的に多ければ、それは通 っちゃうわけでしょ? かつての喫煙みたいに。今だってそういうことはいくらでもありますよね。すると「傍迷惑」というような根拠は、ホントは建て前で、実際は「数の論理」に過ぎないということになります。で、そういう「正義」って嘘臭いと思うんですよ。でも、一方で「数」を無視した「正義の押しつけ」は、テロリストの論理とぜんぜん変わらないようにも思うんですよね。
つまり「正しいこと」「優れたもの」であっても、「正しく」利用されなければ、より大きな「悪」に招いてしまうことがある・・・というようなことだと思うんです。「歴史的かな遣い」問題は、そういう部分で、より普遍的な問題と接続しているように思うんですよ。
◆ 影姫青夜さま
ふふふ。早とちりしちゃいましたね(笑)。なにか腹のたつようなことがあったのですか? 例えば、古本屋さんで、年来探していた本を見つけて「やった!」と思った瞬間、横にいた人にその本を抜かれてしまったとか(笑)。・・・これは冗談ですが、まじめな話、園主さまもよく言っていますが「勢いで書いた文章をろくに推敲もせずに投稿したら、きっと後悔することになる。誤字脱字といった技術的な面
も含めて、冷静な目で自分の文章を見られるようになるまでは、できれば文章を公にはしない方がいい。俺のような天才的即興性を、持っていない人間は特にそうだ」そうですよ(笑)。まあ、いつもの自慢話なんですが、真実の一面
はついていると思います。「原稿は一晩寝かせよう」というようなことを書いている作家さんは多いですしね。
勉強になったと思えば良いと思います。だから、懲りずに書き込みに来て下さいね。偉そうなこと書いちゃって、ごめんなさい。
◆ 楽古堂主人さま
>だから、先生への言葉咎めは、内心の声でそう言えれば良いと考えたことです。
同感です(楽古堂さまの真似)。「理想」を言えば『内心の声』をそのまま「言語化」すれば良いんですよね。ただ問題は「言葉」は「対自的なもの」に止まらず、「対他的なもの」とならざるをえないという点でしょう。逆もまた真なりで、エスペラント語の問題なんかもそうだと思います。
◆ 園主さま
嫌なことを書くようですが、……絶妙の「間の手」でしたね(笑)。
さすがは「情況を演出する」演出家を自称するだけのことはあると思いました。これからは、こういう「当事者」じゃない時の『ゲームの達人』(ほとんど誤訳)的発言を、もっと読ませてもらいたいです(笑)。
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「作品解題 ― 『僕の恋愛計画』篇」アップ! 投稿者:園主 投稿日: 7月20日(金)00時18分05秒
みなさま、「歴史的仮名遣ひ」問題の議論も盛り上がっているようでございますね。おおいに結構なことでございます。日々精進、日々勉強、「我以外、皆我が師なり」というのが、私の座右の銘でございます(嘘)。
さて本日は、引き続いて『Ryu's Milk Bar』の方へ、「作品解題 ―『僕の恋愛計画』篇」をアップさせていただきました。これに「作品解題 目次」を加えれば「作品解題」は、いよいよ完成でございます。また、これに引き続き「私のベスト5」に取りかかる予定でもございます。みなさま、どうぞ『Ryu's Milk Bar』にご注目下さいまし。
なお、みなさまへのレスは、本日はお休みとさせていただきます。「作品解題」を完成させた上で、ゆっくりと書かせていただくつもりでございます。また、「歴史的仮名遣ひ」問題についても、そろそろ私の基本的なスタンスを示させていただこうかとも思っております。どうぞ、ご期待下さいまし(笑)。
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瓦礫の家(1) 投稿者:木村貴 投稿日: 7月20日(金)07時51分44秒
>樂古堂樣
さう云ふ御職業の方とは知らず、いやいや、以前、プロフィルを拜見した筈なのに忘れてゐまして、大變失禮致しました。釋迦に説法になつて仕舞ひますが、今更引込みがつかないので、もう暫く續けさせてください。なほ、林武畫伯は御存命中、「國語問題協議會」http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/list.htm の會長だか副會長だかを務められた事があり、私は未讀ですが、立派な見識をお持ちだつたやうです。
私の正字正假名のバイブルは福田恆存氏の『私の國語教室』(中公文庫版は恐らく品切。文藝春秋版全集に收録)ですが、この本には、表記の違ひによる文學作品の値打ち云々を正面 から論じた箇所は無いやうです。從つて、御質問には私自身が無い智慧を振り絞つてお答へせねばなりません。時間稼ぎをした割には、碌な考へが浮ばないのですが、取敢へず簡單に書いてみます。
皆さんの方がお詳しい中井英夫氏が、どこかで「小説は美神への供物。一句たりとも腐つてゐてはならない」(うろ覺えの爲、字句は不正確)と書いてゐましたね。要するにこれなのです。俗字新假名で書いても、論理的に書きさへすれば、意味は判ります。しかし文學とは、いやいや、凡そ文章とは、意味が判りさへすればそれで良いものでせうか。
例へば、「故郷え歸る」と書いても、意味は判ります。ああ、「故郷へ歸る」の誤りだな、と推測出來るからです。だからと言つて、「故郷え歸る」と書いて恥ぢない文學者がゐるでせうか。一人もゐないでせう。ところが、その同じ文學者が「故郷を思ふ」と書かずに、「故郷を思う」と書いて恥ぢない。それは矛盾ではないかと私は思ふ譯です。「腐つた言葉」を使つて平氣なのは解せないと思ふ譯です。
なぜ「現代かなづかい」が腐つた言葉かと云ふと、論理的な一貫性が無いからです。「言ふ」を「言う」と表記すると、文法上、いかなる混亂が生ずるか、私のサイトに説明した文章「なぜ書くか、『古い』表記で」 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8991/bbs/swippy01naze.html があるので御參照ください。「なぜ書くか、古めかしい漢字と假名遣で」 http://members.aol.com/kimura39/hihan/01nazekaku.html にも「現代かなづかい」の不合理を説明した箇所があります。
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瓦礫の家(2) 投稿者:木村貴 投稿日: 7月20日(金)07時53分37秒
歴史的假名遣には、かうした論理的混亂がありません。では、なにゆゑ現代の文學者が「現代かなづかい」を使用して恥ぢないかと云ふと、理由は三つ。第一に、文部省すなはち國家の御墨附であるから。第二に、物心ついて以來ずつと使用して慣れ親しんでゐるから。第三に、周圍の皆が使つてゐるから。しかし、この三點は、非論理的な言葉の使用を正當化する根據にはなり得ません。
森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事が、いかに冒涜的な所行か、お判りいただけると思ひます。鴎外が論理的な表記で美しく仕上げた「供物」を、腐つた代替材料で安つぽい代物にして仕舞ふ行爲なのです。無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。
恐らく、「ガラクタとは言過ぎ」「何をガラクタと感ずるかは個人により樣々」「ガラクタにはガラクタなりの良さがある」等々の反論があると思ひます。再反論の用意はあるのですが、くたびれたので、今日のところはこれで御勘辨を。數日留守に致しますので、續きはその後で。
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「「日常」という名の戦場で」をアップ!(上) 投稿者:園主 投稿日: 7月20日(金)21時00分26秒
みなさま、本日はお約束どおり『Ryu's Milk Bar』の方へ「作品解題 」の目次を追加して、「作品解題」を完成させました。
それから、私の「歴史的仮名遣ひ」問題に対する基本的なスタンスを示すものとして「「日常」という名の戦場で ――「正字正仮名」問題について」という論文もアップさせていただきました。本来は、いったんこの「花園」にアップしてからと思っていたのでございますが、結構な長さになってしまいましたので、読み勝手も考慮して、最初からサイト・ページとしてアップさせていただいたのでございます。みなさま、ぜひ上のリンクをご利用いただき、小文をご笑読下さいまし。
★ 影姫青夜さま
>昨日の昼はなぜか頭に血がのぼっていたようで、木村様に変なイチャモンをつけてしまいました。木村様、園主様お騒がせして、誠に申し訳ありません。
過ちを素直に認めることは、たいへん大切なことでございますし、なかなか出来ることでもございません。ですから、それ自体はとても立派なことなのでございますが、ただし「謝ればお終い」ではいけません。大切なのは、なぜ自分が過ちを犯してしまったのか、それを「掘り下げること」、つまり語の本来の意味における「反省」をすることでございます。
なぜ、あの時「頭に血がのぼっていた」のか? なぜ「変なイチャモンをつけて」しまったのか? それを誰に語る必要もございませんから、自分なりに掘り下げてみるのでございます。そうすることによって、人は成長できるのでございます。
ホランドに続いて「偉そうなこと」を書いてしまいましたが、それもこれもすべては「友情」の故と、私に都合よく考えて下さいまし(笑)。
★ 木村貴さま
たくさんの書き込みを、ありがとうございます。ROMのみなさまも多少はビックリしているかも知れませんが、なに、ここではけっこう議論も多ございますから、お気遣いには及びません。一投稿の字数制限など技術的な制約はございますが、どうぞこの調子でいろんな書き込みをなさってくださいまし(笑)。
なお、「歴史的仮名遣ひ」問題に対する基本的なスタンスは、前記論文に書いたとおりでございます。どのようなご反論がいただけるものか、ラブレターの返事を待つような心境で、ドキドキしながら待たせていただくことにいたします(笑)。
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「「日常」という名の戦場で」をアップ!(下)
投稿者:園主
投稿日: 7月20日(金)21時01分49秒
★ 楽古堂主人さま
>45歳のぼくは、ある理由から、おそらく漢文の素読をやらされた最後の世代ではないでしょうか。
>あの方法は、もちろん子どもの記憶力と集中力を鍛える、最適な方法であると思います。
>ずいぶん鍛えられたと思います。ことに読書力が付きました。
私は昔から「暗記もの」が嫌いでございました。ですから「漢字テスト」は大嫌いでしたし、丸暗記が嫌いだったせいで、いまだに「歴史(年号)」は苦手ですし、「英語(単語・文法)」もダメ。「数学」は方程式、「科学」は法則を憶えるのがイヤで、酷い成績を取っておりました。その結果 が、「直観」と「連想」と「理屈(レトリック)」がすべての、現在の私なのでございます(^-^;)。
★ ホランド
ひと聞きの悪い言い方をするな。私はただ、バランスを考えているだけだ。全体が、滑らかにバランスよく進行するようにと、気を配っているだけなのだ。以前、楽古堂主人さまも私の「気配り」を誉めて下さったことがあるだろう。私は本来、そういう人間なのだ。「天秤座のアレクセイ」なのだ。うんうん。
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「日常」という名の戦場で ――「正字正仮名」問題について
田中幸一(園主・アレクセイ)
※ 本稿は、ウェブサイト『LIBRA アレクセイの星座』に
2001年7月20日に
単体のページとして発表されたのが初出となります。
「正字正仮名」問題は、私のような文学愛好家には避けて通 れない問題である。まして自分で文章を書いて、それを公に発表している者としては、ことは責任問題でもあろう。だが、それにもかかわらず私が「正字正仮名」問題と対峙することは、これまで一度も無かった。なぜならば、それは、この現代日本の「日常生活」には、ほとんどかかわってこない問題でしかなかったからである。
仮にも一国の「言葉」の問題である。それが「どうでも良いこと」であるはずはない。にもかかわらず、実際には、それはそういうものとしての位 地しか与えられていない。このギャップこそが、「正字正仮名」問題を現実的に語る上で、もっとも重要な要因なのではないかと私は思う。
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以下の論文は、私が「正字正仮名」に無知だということを前提としてなされる。すなわち「正字正仮名の長所も短所も基本的には知らない」という前提で書く、ということであり、その議論は「略字新仮名」を常用している私が、「正字正仮名」を「略字新仮名」よりも「優れたもの」と(詳しい検証抜きに)前提して、議論を進めるということでもある。
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「正字正仮名」問題を現実的に考える上でまず大切なことは、ことの是非はべつにして、すでに「正字正仮名」はいったん「死んでいる」という事実に立脚すべきである、ということであろう。このことを「正字正仮名」主義者に言わせれば「不当に殺された」ということにもなるのであろうが、「正当」であろうが「不当」であろうが「いったんは死んでいる」という「事実」に変わりはない。私がここで論じているのは、ことの「経緯」における「是非善悪」ではない。「今ここの現実」の話なのである。
「正字正仮名」問題において、現実的に大切なのは「今ここ」の現実を、「未来」に向けて、どう変えていくかという問題である。そしてそれは、「過去」の検証は、主として「未来」への行動のための「礎」とすべきものでなのであって、決してそちらが「中心・課題」ではないということなのだ。つまり突き放して言えば、「過去の経緯」など、現代の日本人の大半にとっては基本的には「どうでも良い」し「関係ない」ことなのだ、という厳しい現状認識を持てということなのだ。この現実を押さえずに、「過去の経緯」を語ることで「今ここ」に働き掛け、「今ここ」を「未来」に向けて変えていこうとしても、どだいそれは無理な話なのである。
「正字正仮名」は甦ったりはしない。この事実を押さえなければならない。「死んだもの」が甦ったり、「過去」が「現在」の次に来たりはしない。次に来るのは「新しい生」であり「未来」なのだ。つまり、「正字正仮名」は「新しいもの」、「略字新仮名」の「次に来るもの」、「未来の言葉」として、「今ここ」で語られなくてはならない。「過去」の栄光や権威に縋るのではなく、圧倒的に先行して優勢な敵(略字新仮名)を「ゼロから出発」して追い抜くで覚悟でなければならない。そして「正字正仮名」主義者は、その無自覚な「報復主義」を克服しない限り、「正字正仮名」を「未来」のものとして「再生」させることは、およそ不可能なことなのだと、私は考える。
「正字正仮名」主義者の木村貴は、「正字正仮名」が「略字新仮名」に比べて、いかに「性能的に優れている」かについて、多くを語っている。それは同時に「略字新仮名」が、いかに「性能的に優れていない」かについて語っているということでもある。つまりこれは「新しいもの」を推奨する上での「基本」である「性能論」である。次に木村が語っているのは、「優れたもの」が「劣ったもの」に、いかに摺り替えられていったかという「歴史的事実」である。そして、ここで問題となるのは、この後者の語られ方である。
言うまでもなく「歴史的事実」を押さえることは基本であり、重要な作業には違いない。だが木村の場合、「日本語を汚した愚か者たち」への「報復」に力点が置かれてしまっており、本来の目的であった「正字正仮名」の優秀性を歴史的に実証するというところからは、ついつい論点が外れてしまいがちなのだ。だから木村の文章には「ルサンチマン」が強く感じられて、「事実の冷静な指摘」という印象は案外薄い。「悪」に対して「怒り」を向けること自体は、決して間違ったことではない。しかし、木村の「怒り」は、ほとんど時間的に不在の「日本語を汚した愚か者たち」を通
り越して、無自覚に「今ここ」の「略字新仮名」使用者たちに放たれてしまっているのだ。無論、木村は充分に理知的な人間だから、それを露骨に書いてはいない。木村のそれは「情」の問題であるため、主として「論調に滲む」という性質のものとなっているのだ。しかし、それを読む多くの「略字新仮名」使用者たちは、結果
としては、そこに「秘められた非難と憎悪」と敏感に感じ取って、「イヤな気分」にさせられるのだ。……説得されるのでも、共感させられるのでもない。「悪者(共犯者)・愚か者」呼ばわりされたと、直観的に理解するのである。
だが、この「非難」が妥当性を欠くのは、木村とて頭では理解しているはずだ。なぜなら「今ここ」で「略字新仮名」を使用している者の大半は、自ら望んでそれを選択したのではない。それを「唯一のもの」として選択の余地なく与えられた人たちなのだ。言わば、この人たちもまた「日本語を汚した愚か者たち」の「被害者」なのである。「なぜ、おまえは日本人なんだ」……と非難されても困るように、自分が「略字新仮名」使用者であることそのものを非難されても、多くの人はその非難を妥当なものだとは思わない。「正字正仮名」問題というものの存在すら知らなかったに等しい多くの人にとって、「専門家」のそういう非難は、「薮から棒」な非難としか思えないのである。したがって、多くの人は、二言目には「論理」という言葉を持ち出す木村の意見に、ただ鼻持ちならなさを感じて「拒絶反応」を示しがちなのである。
このように、木村の言葉に「拒絶反応」を示す者の「情」は、決して無根拠なものはいない。もちろん、木村の「(そんな風に言いたくもなるという)情」とて理解できぬ ものでもない。だが、その「情」を肯定すれば、「正字正仮名」を「未来」のものとして再生させることは決してできない。世界各地の地域紛争が、「過去」に発する「ルサンチマン」の故に、そしてその「報復主義」故に、解決の目処が立たない(「未来」を絶望的に閉ざしてしまう)というのは、誰もが知る事実であろう。その同じ過ちを、木村をはじめとする「正字正仮名」主義者が犯している可能性は非常に高い。「不当に虐げられてきた・優秀な者たち」の「ルサンチマン」は、いや増して根深いのだ。だが、彼らは「馬鹿」ではないから、それを剥き出しにしたりはしない。それを、他人はおろか、誰よりも自らに対して「巧妙に隠蔽してしまう」のだ。だから問題の解決は、よりいっそう困難なものとならざるをえないのである。
「正字正仮名」を「未来」のものとしようと思うのならば、まずこの「隠蔽されたルサンチマン」の克服が必要であろう。「私たちだけは、情に流されない、論理的な人間だ」というような思い込みがあるのだとしたら、それは「傲慢」と言うよりも「人間に対する無知」だとしか言えまい。「人は論理のみにて生きる(動く)に非ず」……そうした「現実」を直視するところからしか、次の段階には進めないのである。
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「正字正仮名」を「未来」のものとするためには、まず「現状」を受け入れなくてはならない。それが如何に受け入れ難いものであろうと、それを「現実」だと認めない限り、「正字正仮名」主義者は「未来」への立脚点を失わざるをえない。「肯定」しろと言っているのではない、「事実は事実として受け止めよ」と言っているだけなのだ。
さて「現状」を認めれば、何がどう変わってくるのか? それは、これまでほとんど「性能論」と「歴史批判」の2本立てだった「正字正仮名」の布教施策に、「現状改変への具体策の模索」を加えることになるだろう。「このような優れた道具を使わない君らは、間違っている。愚かだ」と言うだけに止まらず、その「優れた道具」が「なぜ使われないのか」について(感情的に「愚かだからだ」で済ませずに)現実に則して検討を加え、「具体的な改変手段・方法論」を示す方向に動くはずだ。そうせざるをえないはずなのだ。にもかかわらず、それが充分になされてこなかったのは、誰よりも「正字正仮名」主義者が、現状の改変に絶望していて、ただ「(知的)報復」だけに「救い」を見い出していたためだ、と言っては穿ち過ぎなのだろうか?
言うまでもなく、現状においては「略字新仮名」の方が「圧倒的にメリットが大きい」。それは、木村自身が、
せめて私的な場では自分の理想を追求してみたいと思つてゐます。 メリットは?といふお尋ねですが、まあ、所詮は自己滿足ですから、 目に見える特典はありません。あつたら下さい。(笑)
(「なぜ書くか、「古い」表記で」より)
と書いて、認めているところでもある。そして、何よりもそういう現実があるからこそ、多くの人は「略字新仮名」を使い続けるのである。そして、この「当たり前の現実」について、これまで「正字正仮名」主義者はどれだけ有効な対応策を示しえたであろうか? ……たぶん、ほとんど何も出来なかったのではないかと、私は推測する。実際、木村が「正字正仮名」の「長所」を語る時に持ち出すのは、必ず「我々の日常」とは縁遠い「哲学者・文学者」といった『最先端』の部分の、「専門家」の話である。
「あらゆる文化の尖端にあるものは精神の驚異である言語である」――ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的諸考察』(藤田健治譯、二玄社)より 上に引いたのはスイスのバーゼル大學教授を長く務め、ニーチェの友人で もあつた文化史家、ブルクハルトの言葉です。彼は言ひます。「言語は(中略)その中に國民がその精神生活の實體をたくはへておく最も永続的な素材である。特に偉大な詩人や思想家の場合にさうである」。
(「なぜ書くか、古めかしい漢字と假名遣で」より)
この文章には、この後『偉大な先達の精神』『偉大な詩人、思想家の文章は』『19世紀イギリスの作家、ギッシングは』『シェイクスピア』『井原西鶴はおろか、明治の森鴎外や樋口一葉すら』『ノーベル經濟學賞受賞者で、哲学者でもあるフリードリッヒ・フォン・ハイエク』といった言葉が続く。無論、これらの言葉は「正字正仮名」の「優秀性」「正統性」を説明し「権威」づけるために使われているわけなのだが、『特に偉大な詩人や思想家の場合に』にという「限定」が、逆に暴露しているのは、「正字正仮名」の長所は「そういう最先端の部分でしか、実質的には役に立たないというのが、偽らざる現状である」ということなのだ。言うまでもなく、日本人の大半は、そういうところ(最先端の部分)で生きているわけではない。たまにそういうところにかかわることもあるけれど、それは「全生活のなかでは、趣味的なごくほんの一部」のことでしかない。そして現状で「正字正仮名」がかかわれるのは、所詮その「ごくほんの一部」のことでしかないという事実を、この「限定」は正直に裏書きしてしまっているのである。
当然のことながら「言葉」というものは、まず「日常的な道具(実用品)」である。それが「芸術・学問」といった「最先端にも使われる」というのは紛れもない事実だが、決して「言葉」は「芸術・学問」のためだけにあるのではない。そして、実際のところ私たちの大半は「芸術家」でも「学者」でもない。だから「言葉の重要性、あるいは優先順位 」が、「芸術家・学者」と違っていても、それはむしろ当然の話なのである。例えば、プロの板前にとっての「包丁の良し悪し」が、主婦にとっての「包丁の良し悪し」とは、「その重要性、あるいは優先順位 」において全く違う、というのと同じことなのだ。この場合に「主婦も包丁を使うのなら、そんな安物の粗悪品を使うべきではなく、この高価だが性能の良い包丁を使うべきだ」というような言い種は、所詮「包丁屋」の論理でしかないことを、私たちはゆめゆめ忘れるべきではない。じっさい「包丁」なら少々高くても、性能さえ良ければ、すぐにでも役立つのであろうが、「正字正仮名」は「今のところ」ほとんど使い道のない(実用性に乏しい)、使い勝手の悪いしろものなのだ。木村のように「正字正仮名」を布教するために、それを使うという「使用目的」のある人は良い。だが「布教活動」をしない人にとってのそれは、わりに合わない、単なる「珍奇な道具」に終わってしまう可能性は大なのである。
実際、木村自身も、多くの「正字正仮名」主義者も、日常生活では「略字新仮名」を使っているはずで、それを使わないで生活ができるのは「芸術家」や「学者」といったごく一部の「環境的に恵まれた人」たちだけであろう。「それが正しい日本語だから」というので、会社で「正字正仮名」を使っても、無論それは通 らないのである。つまり「正字正仮名」主義者ですら「現実的生活」の側面では、「正字正仮名」に徹してはいられないというのが、私たちのこの「現実」なのだ。私たちが置かれている環境は、明日から「正字正仮名」に切り替えてもさして支障のない「ごく一部の恵まれた人たち」とは違うのだ。だから、そうした「現実的状況(環境)」への具体的な取り組みを抜きにして、『特に偉大な詩人や思想家の場合に』といった「例外的」な話ばかりされても困るのである。そして困るのは、私を含む「略字新仮名」使用者ではない。それはむしろ「正字正仮名」を広めたいと言っている人たち自身の方なのである。
だから「正字正仮名」主義者が、本気で「正字正仮名」を普及させたい、現状を正したいと思うのであれば、「高踏趣味」に自足すべきではない。日常生活のなかに「正字正仮名」を再生させる方途を、泥まみれになって模索すべきであろう。それ無くして「正字正仮名」主義者は、「正字正仮名」という使い勝手の悪い道具を、ただその「性能」と「出自の正統性」だけで、「当然、使って然るべきもの」として語るべきではない。なぜなら、それは半ば「欺瞞」だからである。
多くの人たちにとっては『ブルクハルト』も『ニーチェ』も『ギッシング』『シェイクスピア』も『井原西鶴』も『森鴎外』も『樋口一葉』も『ハイエク』も『中井英夫』も、『漢籍』も『哲学』も『思想』も『芸術』も、基本的には「関係ない」。これが言い過ぎなら「重きを為さない」と言い換えよう。少なくとも多くの人にとって、そういうものの為に「使い勝手の悪い道具」を使うことは「生活の必要上」出来はしないのである。無論、「状況」が変われば、つまり「環境」的に「使い勝手が良くなれば」多くの人がそれを使うようになることだろう。だが、現に「使い勝手が悪い」状況下においては、それを「押し付ける」権利は誰にもないし、それを選ばない者を「愚か者」呼ばわりする権利も誰にもない(事実「実用性」を考慮することが愚かだとは言えまい)。つまり「正字正仮名」主義者が今すべきことは、「具体的な環境作り」でなのある。……ただし、その「環境作り」がすなわち「正字正仮名」の布教であるというところに、「正字正仮名」の再生問題は、最大のジレンマを抱えているのだけれども。
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最後に、私の見通しを示しておこう。
「正字正仮名」の再生は、ほぼ無理だと思う。これは、その運動が「間違っているから」ではなく、「現状を変える(逆転する)のが困難すぎる」と考えるからだ。
善かれ悪しかれ「時間は逆行しない」し、歴史に「もし」は無意味である。そして「正字正仮名」に有利な条件は、「性能論」と「歴史的正統性」以外、皆無というのが、偽らざる「現状」なのである。
つまり、いくらマラソンの金メダリストでも、40キロのハンデを与えては、小学生にすら勝つこと(追い抜き逆転すること)はできない。そして、マラソンにゴールがあるように、人の一生にも期限はある。だから「いつかは(実用的になる=逆転するだろう)」と悠長なことを言ってはいられないというのが、この「現実」なのだ。
では「正字正仮名」の再生運動自体、まったく無意味なのかと言えば、決してそんなことはない。「正字正仮名」の存在は、これからも「なし崩し」的に乱れていく可能性のある「日本語」に対して、一種の「理想」「良心」「歯止め」として機能していくだろうし、そうしていかなければならないと思う。「かつて日本には、このような立派な人がいた」と語られることによって「ならば、私も頑張ろう」と思う人は少なくあるまい。これと同じで「今は使われていないけれども、日本語とは本来こういう立派なものだったのだ」と語ることは、「現在」そして「未来」の日本語のために、決して無意味ではないのである。
私たちは、革命達成の希望が無いからと言って、「抵抗戦」まで放棄してしまうわけにはいかない。革命が無理なら漸進的変革を目指すべきだろう。それが、妥協の許されない『日常という現実との闘い』というものなのである。
2001年7月20日
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補記 木村貴氏の「瓦礫の家」について
私の基本的な考え方については、すでに小文「「日常」という名の戦場で」に、充分語られていると思う。だから木村貴氏の「瓦礫の家」(BBS『アレクセイの花園』/2001年7月20日付け書き込み)についても、あえて事細かに感想を述べる必要はないのかも知れない。だが、「書く」ことが物書きの使命であるのならば、一応の説明はしておこうと思う。
皆さんの方がお詳しい中井英夫氏が、どこかで「小説は美神への供物。一句たりとも腐つてゐてはならない」(うろ覺えの爲、字句は不正確)と書いてゐましたね。要するにこれなのです。俗字新假名で書いても、論理的に書きさへすれば、意味は判ります。しかし文學とは、いやいや、凡そ文章とは、意味が判りさへすればそれで良いものでせうか。
『凡そ文章とは、意味が判りさへすればそれで良いものでせうか。』と問われれば、当然「そんなことはない」という話になるだろう。だが、それは中井英夫の言葉と同様、「理想としては」という「限定条件付き」の話なのである。つまり、凡そ文章とは、ひとまず意味が伝わりさえすれば良い、とも言えるのだ。だから「翻訳書」というようなものが存在して、それを私も木村氏も読むのであろう。「現実的側面
」とはそういうものなのである。
そして福田恆存ら「正字正仮名」主義者の指摘にもかかわらず、多くの作家が「略字新仮名」を使い続けるのは、作家といえども『ひとまず意味が伝わりさえすれば良い』という「現実」から切断された「特権的存在」などではないからなのだ。理想を求めて書くことのみが正しいのならば、彼は「正字正仮名」の日本語ではなく、英語でもラテン語でもエスペラント語でも、自ら信じるところに従って書けばよろしい。それは「理想」として「心掛け」としては、正しいことだろう。だが、作家は決して「自己満足」のためにだけ書いているわけではない。少なくとも大半の作家はそうである。つまり、まずは「読まれなければならない」というのが大前提なのだ。……無論、これの度が過ぎれば「読者に媚びるばかりの屑作家」にもなってしまうわけだが、そういうものは論外として、「読まれなければならない」と考えること自体は、決して間違いではないのである。してみると、「今ここ」で「正字正仮名」にこだわる(義理立てする)ことに、いったいどれだけの価値があるだろう? 書くのはたしかに「それができる一部の恵まれた人たち」であろう。だが、読む者の大半は「正字正仮名」に縁も所縁も無い人たちなのである。ならば、作家が「正確に書く」ことを多少犠牲にしてでも「ひとまず、より自然に伝わる」文章を選ぶこと自体は、決して間違いだとは言えまい。作品とは、所詮、作家のものではなく「テクストと読者の間に発生するもの」だとも言えるのである。ならば「正字正仮名」に馴染みのない「読者」に配慮するのは当然のこと。それは一種の、「現実との駆け引き(闘争)」なのである。
歴史的假名遣には、かうした論理的混亂がありません。では、なにゆゑ現代の文學者が「現代かなづかい」を使用して恥ぢないかと云ふと、理由は三つ。第一に、文部省すなはち國家の御墨附であるから。第二に、物心ついて以來ずつと使用して慣れ親しんでゐるから。第三に、周圍の皆が使つてゐるから。しかし、この三點は、非論理的な言葉の使用を正當化する根據にはなり得ません。
森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事が、いかに冒涜的な所行か、お判りいただけると思ひます。鴎外が論理的な表記で美しく仕上げた「供物」を、腐つた代替材料で安つぽい代物にして仕舞ふ行爲なのです。無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。
恐らく、「ガラクタとは言過ぎ」「何をガラクタと感ずるかは個人により樣々」「ガラクタにはガラクタなりの良さがある」等々の反論があると思ひます。再反論の用意はあるのですが、くたびれたので、今日のところはこれで御勘辨を。數日留守に致しますので、續きはその後で。
木村氏の議論は「性能論」に終始している。そして、それが「論理的な態度」であると思い込んでいるかのようである。だが、「性能論」的是非と「倫理論」的是非とは、決して同日の談ではない。「人は論理のみにて生きる(動く)に非ず」と言うよりも「人は感情で動くが、それにはしばしば論理的裏づけが付与される」と言うべきかも知れない。
人はしばしば「ガラクタ」を選ぶ。「カッコイイ義父よりも、アル中のどうしようもない実父」を選ぶ場合がある。「街でたまたま知り合った美人よりも、幼馴染みの不美人」を選ぶことだってある。「日本語より英語の方が優れていると論証されたって、母国語への愛着は捨てられない」だろう。これらはすべて「非論理」なのか? そんなことはない。それが「人間の、動物としての本能」であり、それは「生き(残)るための論理」なのだ。
「感情」の問題は、「性能論」だけでは乗り越えられない。それは「社会主義」の理想が、ついに「人間の感情」に対して「現実的」でなかったが為に、ついえ去ったという「歴史」にも明らかであろう。「感情」を軽んずる者は、「感情」に復讐されるのだ。「感情」も、また「人間の論理のうち」であるとの認識を欠いた「論理」は、所詮「絵に描いた餅」でしかないのである。
2001年7月20日