「正字仮名」論争(2) 
「正しき日本語」と「日本語ついての正しさ」をめぐって

 

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総論と各論の間に(上) 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 7月22日(日)09時44分55秒

木村貴様へ。
林武畫伯は御存命中

・ 長寿でいらっしゃいますね。ご加餐をお祈りしております。

福田恆存氏の『私の國語教室』この本には、表記の違ひによる文學作品の値打ち云々を正面 から論じた箇所は無いやうです。

・ そのような文章としての「各論」を期待しておりました。
・ かつて、『私の國語教室』を読んだ時にも、その点の不足を感じたのです。(もう二十数年前の読書の記憶です。間違いがありましたら、失礼します。)
・ 「各論」の不足が、木村さんの持説の力を弱めています。
・ 精進されて、少しずつ研究を積み重ねていかれることを希望いたします。
・ 第一の質問への答えを、ありがとうございました。
・ 以下、「総論」となりますね。
・ 楽古堂の興味と関心は、「各論」にあります。
・ お礼として、少し感想を書きます。

歴史的假名遣には、かうした論理的混亂がありません。

・ これは、木村さんが「背筋」の屈伸の比喩をされていたように、程度の問題でしょう。
・ 原理ではなくて、厳密にそれを厳守した人間が、明治以降にいたのかと考えれば良いのだと思うのです。
・ たとえば、たしか福田氏が近代の日本文学史の中でも、高く評価されていた幸田露伴と森鴎外に、次のような誤用があります。
・ 露伴の場合、
(1) 「云ふて」『太郎坊』その他。
(2) 「読んで見やう」『縁の糸』
(3) 「食べましやう」『をさな心』
(4) 「いくら野趣が減殺されやうが何様しやうが」『旅行の今昔』
・ 鴎外の場合は、
(5) 「はいる」(「はひる」と書くのが正しいとされる「入る」)『魔睡』
    「刺客が手を動かしたとものとは信ぜなかった」
    「安が躊躇して決せないために」『澁江抽齋』
・ 「信じない」ではなくて、「信ぜない」、「決しない」ではなくて「決せない」とするのは、口語と文語の混同ですね。
・ 鴎外は、「サ変」と「上二段」の動詞を、荘重な効果を出したいために、わざと混用しているのだと思います。(正確に使用している場合も無論あります。)
・ 以上、語用の例は、『ことばと文体』寺田透・河出書房新社・1975年・206ページよりの孫引きです。
・ 別にいじわるで、言葉咎めをしているのではありません。
・ 彼らでさえ、そうだったということです。
・ 木村さんの重荷が、いくらかでも肩に軽くなると考えたからです。
・ 無矛盾でないからといって、彼らの文学者としての価値は、いささかも高下しません。
・ 偉大な文学者たちでしょう。
・ 『露伴随筆集』上・下 (寺田透編 岩波文庫 1993年)は、ぼくの愛読書です。記憶の図書の倉庫から、論証に必要とされる中国の書物を、軍の勇将たちのように自由自在に召喚し、論陣を組んでいきます。準備の用意周到の静。いざ戦闘を開始してからの、勇猛果 敢の何物も押し止めることのできない怒涛の進軍。動との対比。ついに、中国の正史と思われてきた書物を、中国の学者の方法で偽史と断定します。しかも、そのことが、中国の学者への軽蔑ではなくて、その理論的な正当性の証明であり、中国の長い学問的な伝統への称賛になっていきます。露伴は、本当に知的に興奮します。歴史的仮名遣いのミスなど、楽古堂にとっては、なにものでもありません。)
・ 歴史的仮名遣いの無矛盾性は、論理という抽象的な世界にしか存在しないのだと思うのです。
・ 本質的な問題は、木村さんが、なぜ言語に論理的な整合性を求めてやまないのかということでしょう。
・ 「厳密の探求」への意志を、おもちなのだと思うのです。
・ しかし、それは言語よりも、作品へ向けられるべき資質ではないでしょうか。
・ たとえば、「正字正仮名遣い」で書かれた、三島由紀夫の文学の精読はいかがでしょうか。
・ 『太陽と鉄』の、死への鋼鉄の意志を彫琢したような、詩的散文の重厚な効果は、「正字正仮名遣い」の荘重さに負うところ大でしょう。
・ 西洋哲学も、あなたの意志に相当答えてくれるでしょう。
・ この『正字正仮名遣い』という解決の困難な問題にも、新しい展望が開けてくるように思います。

 

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総論と各論の間に(下) 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 7月22日(日)09時46分08秒

森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事

・ しかし、現在の岩波書店の森鴎外全集には、「正字正仮名遣い」の版があるように思います。
・ 校訂と編集に、力の入った仕事と聞いております。
・ 明らかに年少の読者を対象にする文庫化の場合は、木村さんとしても、無念でしょうが、「強制」できない以上は、その発行を認めざるを得ないと思います。
・ 森鴎外の「正字正仮名遣い」の『高瀬舟』『山椒太夫』などは、普通の大学生でも古文の得意なもの以外は、容易に読めません。
・ しかし、作品としては「現代仮名つかい」ならば、中学生でも十分に未読が可能なはずです。朗読すれば、小学校高学年で理解できます。読むべき価値のある名作だと思います。
・ 文庫の「略字新仮名遣い」化には、反対されないと思いますが、いかがでしょうか。
・ 森鴎外(この「鴎」の字は、略字ですね。ぼくのワープロではこれしかありません。)という人様の本名まで、勝手に略字にする現代の風潮は、慥かに腹立たしいことです。
・ しかし、こういうところこそ、比較的容易に改善できるように思えます。
・ 記憶容量の豊富さが、それを可能にする物理的な条件です。
・ もう一つは、パソコンのソフト業者の意識の問題です。
・ これは、木村さんが展開されているような、ネットでの反省を求める抗議の活動で、かなり改善できるのではないでしょうか。
・ 「現代かなつかい」の文章を、「歴史的仮名遣い」にほぼ完全に変換するソフトは、比較的容易に作れるのではないでしょうか。
・ 「略字」を「正字」に変換して、印刷することも可能でしょう。
・ 俳句や短歌の世界の人々や、漢字試験を受験する方に、売れると思います。
・ 木村さんの啓蒙と教育は、これらの趣味の世界で、一定の成果をあげるのではないでしょうか。
・ 楽古堂は、ふざけているのではありません。
・ このような形態でしか、「正字正仮名遣い」の運動の進展は期待できないように思えるからです。
・ つまり、「正字正仮名」を必要として、それを使うことができる新しい人たちの創出なのです。やりがいのある仕事でしょう。
・ HPでの「各論」の展開に期待しております。
・ 「総論」については、失礼させていただきます。

 

  2001年7月20日(土)

 

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「花園」の仁王像?(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 7月22日(日)16時28分44秒

 みなさん、こんにちは! さてさて「正字正仮名」問題について、「花園」の理論家2人の意見が出揃いましたね。木村さまは数日留守になさるとのことでしたが、あと二、三日も待てば、きっと何らかのご感想を聞かせて下さることでしょう。・・・でも、2人の意見に一致して言えることは、「正字正仮名」は「日常生活で使用する道具としては、復活させられないだろう」という見通 しです。もちろん2人は、それでも「正字正仮名」運動には、今後も一定の意義があるとは認めているわけですが、さて木村さんはこういう評価を受け入れることが出来るのでしょうか? もし受け入れられないとなれば、何らかの反論がなされるはずです。となると、そこからが本格的論戦の始まりとなる可能性は大きい。さあ、みなさん、今後の展開にご注目下さいね!(ちなみに、ボクはふざけてるんじゃありませんよ。「本物」の論戦を期待しているだけなんです)

 

 木村貴さま
 そんなわけで、早期のご帰還をお待ちしております。「瓦礫の山(※ママ)」は、案外堅牢なようですよ(笑)。

 あっ、それから引っ掛かってたことについて、ひとつご質問します。  おっしゃるとおり、鴎外が歴史的仮名遣いで書いた作品を、勝手に『「現代かなづかい」に改竄して出版する事』が決して好ましいことではなく、ある意味では『冒涜的な所行』だというのは、たしかにそのとおりだと思います。だけど、その論理で言うのなら「略字新かな」で書かれた中井英夫の文章を(カッコ書きの引用のかたちで)『「小説は美神への供物。一句たりとも腐てはならない」』と「歴史的仮名遣い」に勝手に改竄して記述するのも、道義的には同じことなのではないでしょうか? この場合、「歴史的仮名遣いの方が優れているから」という理屈は通 らないと思うんですけれど、どうなんでしょう?


 影姫青夜さま
 「「日常」という名の戦場で ――「正字正仮名」問題についてで、一部ネタにされてましたね(笑)。あれって、園主さまのパターンなんですよ。園主さまって「記憶力がない」と自慢(?)するだけあって、手近にあるものを有効利用するのがとっても上手なんです。ボクも、これまで何度ネタにされたことか。「先日、ある友人が私にこう言った。」とか、よくやるんですよ。それと同じですね。それから、何度か聞かされたことにある自慢(?)として「何度も引用しているお気に入りは別 にして、俺の引用というのは、たいていここ半年に読んだ本に限られる」ってのもありました。そう言えば、最近は引用が少ないような(笑)。

 

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「花園」の仁王像?(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 7月22日(日)16時34分01秒

 楽古堂主人さま
 楽古堂さまの総論と各論の間にを読ませていただいて最初に連想したのは、お寺の門に飾ってある「仁王像」です。つまり園主さまと一対で「阿吽の呼吸」というやつ(笑)。もちろん、園主さまが「阿」で、楽古堂さまが「吽」。ボクはここにも、おっしゃられていた「動と静」の対比の妙を感じました。

記憶の図書の倉庫から、論証に必要とされる中国の書物を、軍の勇将たちのように自由自在に召喚し、論陣を組んでいきます。準備の用意周到の静。いざ戦闘を開始してからの、勇猛果 敢の何物も押し止めることのできない怒涛の進軍。動との対比。

 もちろん、この「静と動」の一体的形象は、楽古堂さまお独りのことでもあるわけです。だって、園主さまには「静」の部分が欠けていますからね。それを補うのが、園主さまの場合「トリックスター性」ということなんでしょうけど(笑)。


 園主さま
以前、楽古堂主人さまも私の「気配り」を誉めて下さったことがあるだろう。私は本来、そういう人間なのだ。「天秤座のアレクセイ」なのだ。うんうん。

 なんだか、すっごく信憑性に欠ける意見だけど、楽古堂さまのようなご自分に「欠けている部分」を持った人を『LIBRA』に招いた功績は、評価せざるをえないところでしょうね(笑)。でも、・・・考えてみれば、ボクだって長らくそういう役目を担っているわけだからなあ。うんうん。

 

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『Ryu's Milk Bar』に「私のベスト5」をアップ!
        投稿者:園主  投稿日: 7月23日(月)10時30分00秒

みなさま、昨日は『Ryu's Milk Bar』の方に星崎龍 作品 私のベスト5」をアップさせていただきました。「ついに語られるアレクセイの赤裸々な少年愛の姿!!」……というようなことで、お見逃しの無きよう、よろしくお願い申し上げます(笑)。
ともあれ、これでひとまずは『Ryu's Milk Bar』の強化週間は終了でございます。さて、この次はどの辺りを攻めてやろうか知らん。

 


 楽古堂主人さま
かつて、『私の國語教室』を読んだ時にも

さすが楽古堂主人さま、やっぱり読んでいらっしゃる。一方、私は、「「日常」という名の戦場で ――「正字正仮名」問題についての方でご覧いただきましたとおり、『私の國語教室』など福田恆存の初版本を6・7冊所蔵しておりながら、じつはまだ1冊も読んではおりません。さすがはコレクター! と言うべきなのでございましょうか……(^-^;)。



 ホランド
「本物」の論戦を期待しているだけなんです

今回は珍しく、論争を拒まないんだな。まあ、おまえの言いたいことはわかるよ。要するに、今は亡き人外境主人 中 相作さまとのような泥試合ではなく、きちんとした「議論」ならOKだということだろう? 私としては泥試合も決し嫌いではないんだが、いずれにしろ木村さまなら、そんな心配は無用だ。まあ、楽しみにしといてくれ(笑)。

 

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>樂古堂樣 投稿者:木村貴  投稿日: 7月24日(火)09時28分06秒

人間が言葉でしか物事を論理的に考へられない存在である以上、究極的には、文章の表現と内容とは切り離して論じられません。無論、表現の領域は廣いですから、私は正字正假名だけを論ずる積りはありません。しかし、日本の文學・言論にとつて、正字正假名の問題が重要である事だけは忘れてならないと思ひます。

文庫本の「略字新假名遣」化については、やはり「反對」と言はざるを得ません。第一に、全集は經濟的・物理的(場所塞ぎになる)な理由で一般 人が購入するのに必ずしも向かないから。第二に、年少者であつても、振り假名や「慣れ」によつて、正字正假名は意外に簡單に讀めるからです。これは樂古堂さん御自身の經驗からもお判りでせう。

鴎外や露伴に限らず、表記の誤りは誰にでもあります。誤りは直せば濟む事。肝腎なのは、誤りを誤りと判斷する爲の規範がしつかりする事です。繰返しになりますが、歴史的假名遣が完璧だとは言ひません。しかし論理性において新假名よりも遙かに「増し」であり、規範としては勝れてゐると考へます。短歌や俳句などの特殊な用途に閉ぢ込めるのは勿體ないし、詩歌と一般 の文章の間の龜裂が大きい事は一種の悲劇だと思ひます。

御想像の通り、正字正假名による文章表記を可能とする技術は、相當の進歩を遂げてゐます。私の使用する正字正假名辭書「契冲」は、商業ベースに乘せる爲、やはり短歌や俳句の愛好家、古文學習者などの需要に依存する部分が多いやうです。それでも、規模は知れてゐます。

本音を言へば、正字正假名の復權は不可能でせう。のみならず、私の心の中には「普及なんぞしなくて好い」と云ふ氣持ちもまた存在します。そもそも言葉は政治で統制出來るものではないのですが、現在の日本は無理矢理統制してゐるわけで、それに對するカウンターパンチとして政治的手段も必要かもしれない。しかし、假にそれが成功しても、略字新假名が廣まつた時と同じやうに、皆がただ御上の言ひなりになつて正字正假名に宗旨易へしたのでは、殆ど意味は無い。理窟で納得しないのなら意味は無い。だから私が出來る事も、私がやりたい事も、政治活動ではなく、ただ書くだけです。御指摘の通 り、現在の私のウェブサイトは「言葉を盡くして説」いたとはまだまだ言へない状態なので、今後努力せねばなりません。

蛇足めきますが、最後に一言。三島由紀夫の作品は殆ど讀んだ事が無いのですが、大西巨人氏による三島評http://members.aol.com/kimura39/onishi/010107mishima.html と同樣、細部に巧さや鋭さはあつても、全體としてはさほど立派な文學者ではないと云ふ印象を持つてゐます。三島に關する拙い文章 http://members.aol.com/kimura39/mt/06mishima.html を一つだけ、サイトで公開してゐます。三島の正字正假名の作品より、中野重治や大西巨人の俗字新假名の作品の方が優れてゐます。結局のところ、私は、「同じ内容の文章ならば、表記は正字正假名の方が良い」と言つてゐるに過ぎないのです。

 

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>ホランド樣 投稿者:木村貴  投稿日: 7月24日(火)09時37分25秒

これを言ふとまたぞろ物議を釀しさうですが、私は、引用時には略字新假名の他人の文章を正字正假名に直すのを原則とします。文意を歪める恐れが無ければ、本文と引用文との表記統一は、表現の自由の範圍内と考へるからです。掲示板など急いでゐる時は、原文をそのまま複寫する事が多いのですが、腰を据ゑて書く文章では、引用文は出來るだけ正字正假名に改めます。

「それなら鴎外を略字新假名に改めるのも表現の自由だらう」と突込まれさうですね。無論、法的には問題無いとされてゐます。だからこそ、出版社の社長が刑罰を受ける事もなく、略字新假名に改竄した作品を出し續けてゐられるわけです。しかし、これまで述べた事からお判りと思ひますが、私の考へからすると、略字新假名への改變は不當です。

私の考へは、單純な「原文尊重主義」とは違ひます。『平家物語』や『方丈記』などの古典には歴史的假名遣から外れた表記が多く存在しますが、出版界ではこれを歴史的假名遣に修正する事が一般 的です。私は、一般向けの書籍であれば、さうした變更に贊成します。理由は……簡單に言へば、「國語表記の基準として、正字正假名が最もふさはしいから」なのですよ、やつぱり。

引用については、先日、別の場所で論爭をやらかしたばかりで、近く、それらの文章をまとめる積りです。ですが、御不審の點があれば、どうぞこの場でも突込んでください。

 

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>アレクセイ樣 投稿者:木村貴  投稿日: 7月24日(火)09時44分48秒

詳細な批判をわざわざ書き下ろしてくださり、有難う御座います。

>なにゆゑ現代の文學者が「現代かなづかい」を使用して恥ぢないかと云ふと、理由は三つ。第一に、文部省すなはち國家の御墨附であるから。第二に、物心ついて以來ずつと使用して慣れ親しんでゐるから。第三に、周圍の皆が使つてゐるから。しかし、この三點は、非論理的な言葉の使用を正當化する根據にはなり得ません。(木村投稿「瓦礫の家」)

御指摘の通り、上記の私の記述は言葉足らずで亂暴でした。福田恆存氏や松原正氏も、出版事情によつては略字新假名で本を出してゐます。私自身、公的生活においては略字新假名を使用してゐます。他人樣の現實との妥協(乃至は鬪爭)を十把一からげに非難するやうな書き方をしたのは輕率でした。第四點として「出版事情その他の已むを得ざる理由」を補つたうへで、論ずるべきでした。

現代の文學者に、國語表記の問題を眞劍に考へてゐる人が殆ど見當らない。その事に對する苛立ちが、亂暴な書き方につながつたのだと思ひます。しかし、これとて具體論拔きでは單なる感情の押附けになつて仕舞ひます。私は、正字正假名を不當に貶しめる文學者・言論人は斷乎批判しますが、已むを得ぬ 事情のある人まで一緒くたに非難する積りはありませんし、してはならないと考へます。今囘は、言葉足らずの結果 、「一緒くた」に非難すると取られても仕方のない文章を書いて仕舞ひました。

時間が足りないので、續きは後日書かせてください。これで終つては、餘りに神妙過ぎる!

 

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「思い」を乗せて(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 7月25日(水)20時46分55秒

 みなさん、こんばんは! 何はともあれ、とにかく暑い! 大阪は連日の酷暑。大阪弁で言うと、めちゃ暑い! で、ボクは・・・クーラーのある部屋で、こうしてPCに向かっております。暑い盛りに「正字正かな」論争なんて、暑苦しいことするなよなー・・・って思っている人も多いでしょうが、暑い夏にこそクーラーのあるところで熱いものをいただく。これがホントの贅沢っていうものなんじゃないでしょうか?(・・・屁理屈)



 影姫青夜さま
それから私はアパートに帰り、どうすれば一週間で五万円という大金を造ることができるのか、ひたすら考えました。まず親に出してもらうことを考えましたが、これは絶対にダメだと思いました。なぜなら自分で造ったお金で買わないと、本から魔法が去っていってしまうような気がしたからです。

 そういう「実効」ではなく「思い」を大切にする心というのが、本物の「倫理」なんだと思います。そういうものは揺るぎませんもん。  でも、・・・ボクなら親に前借りはしたかも知れないな。本を買うとは言わないで、もう少し納得させられそうなものを考えて(笑)。

 

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「思い」を乗せて(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 7月25日(水)20時51分09秒

 木村貴さま
 お忙しいところ、ご意見をいただきありがとうございます。一度に3人を相手にするのは物理的体力的に大変でしょうが、よろしくお相手を願います。

私は、引用時には略字新假名の他人の文章を正字正假名に直すのを原則とします。文意を歪める恐れが無ければ、本文と引用文との表記統一は、表現の自由の範圍内と考へるからです。

私の考へは、單純な「原文尊重主義」とは違ひます。

 まず引っ掛かったのが『單純な「原文尊重主義」』という言葉です。

 「単純な」という形容詞を「勝手に」つけられるのなら、大抵の「主義」は否定できると思います。例えば「単純な「社会主義」はダメだ」「単純な「正字正かな主義」はダメだ」というような。実際、「正字正かな」さえ使えば日本語の未来は薔薇色だなんて考えは妄想でしょう。でも、そういう風に「単純に」考える人は実在するんでしょうが、一方でそのレベルに「勝手に」的を絞って「正字正かな」を批判しても仕方ないと思うんですよ。それと同じで、『私の考へは、單純な「原文尊重主義」とは違ひます。』という言い方は、あまり意味がないと思うんです。『私の考へは、單純な「原文尊重主義」』だと思っている人なんか、実在しませんもん。

 また『私の考へは、單純な「原文尊重主義」とは違ひます。』という言葉には「原文尊重主義」者は「オリジナルを尊重すれば良し」と『單純』に考えている、というニュアンスがあるように感じられます。つまり「なぜオリジナルを尊重しなければならないのか」という点での掘り下げがない、と決めつけているニュアンスが・・・。でも、ホントにそうなんでしょうか? ボクはそんなことはないと思いますよ。

 例えば「なぜオリジナルを尊重しなければならないのか」の答として、まず考えられるのが「著作権」の問題です。つまり「文章を含む創作物は、原則として、原著者のものであるから、第三者がこれを勝手に改変することは、著作者の当然守られるべき権利を侵害する(犯罪)行為である」というような考え方です。で、無論こうした意見については、木村さまも反論を持っておられるでしょうし、ボクにもそれはあります。でも、次の意見はどうでしょう。「なぜオリジナルを尊重しなければならない」のか? その理由は、「あらゆる改変」が『文意を歪める』から。・・・木村さんも「文意を歪める改変はいけない」と思っておられるわけですよね。でも、実際「正字正かな→略字新かな」であろうと「略字新かな→正字正かな」であろうと、「字面 」が変わる以上、書き手が「文章に込めた意図は変わらざるをえない」のではないでしょうか? たとえば小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を、全文「ひらがなの、分かち書き」にしたらどうでしょう? たしかに木村さんがおっしゃっておられるレベルでは「文意は歪められていない」でしょうが、小栗虫太郎の「あの文体に込めた意図は、決定的に歪められ失われてしまう」でしょう。つまり「文章」とは「意味内容」だけの存在ではなく、明らかに「姿(みてくれ)」という身体性を持った存在だということなのです。無自覚な素人ならいざ知らず、いやしくも作家だの物書きだのと名乗っている人は、当然そこまで考えて文章を書いているはずです。つまり、ある時は「あるとき」と書き、またある時は「ある時」と書き分けます。「ひらがなで書こうが、漢字で書こうが、文意は変わらない」と木村さんは考えるのでしょうか? ボクはそんな「雑な考え方」は到底受け入れられません。ボクが字面 まで考えて「国語」と書いたものを勝手に「國語」と変えられ「文意は歪めていない」なんて言われても、到底納得できるものではないんです。

 もうすこしわかりやすい喩えをしておきます。岡本太郎が描こうと、東山魁偉が描こうと、ゴッホが描こうと、ピカソが描こうと、「リンゴ」はリンゴでしかありません。でも、その「リンゴをスイカに改変しなければ、そこに他人が手を加えても良い」のか、ということですね。無論ダメですよ、そんなの。
 でも、こう書くと「文章と絵とは違う」と思う人もいるかも知れませんが、そんなことはないんです。文字だって、もともとは「絵」から始まってるんですから「姿(みてくれ)」は重要なんです。その意味で、木村さんのご意見は「意味偏重」と言うよりも、「言葉」や「文章」というものについての「全体観に欠ける」ところがあると思います。その意味で「手前味噌」であり「客観性に欠ける」と言えるのではないでしょうか? これはもちろん「論理的ではない」ということでもあります。

 

 

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私というアポリア(上) 投稿者:園主  投稿日: 7月26日(木)00時37分54秒

 木村貴さま
現代の文學者に、國語表記の問題を眞劍に考へてゐる人が殆ど見當らない。その事に對する苛立ちが、亂暴な書き方につながつたのだと思ひます。しかし、これとて具體論拔きでは單なる感情の押附けになつて仕舞ひます。私は、正字正假名を不當に貶しめる文學者・言論人は斷乎批判しますが、已むを得ぬ 事情のある人まで一緒くたに非難する積りはありませんし、してはならないと考へます。

ここでおっしゃられていることは、基本的には正しいものだと存じます。ですが『現代の文學者に、國語表記の問題を眞劍に考へてゐる人が殆ど見當らない。』という非難は、どんなものでございましょうか? 私はこの言い方に、なかざきさんの「あなたはテロリストの実際について、いったいどれだけのことご存じなのですか?」という問いに秘められいたものと同種の「身勝手」を感じます。この種の問いに対する私の回答は「考えることは山程あるんです。その中で、その問題の占める比率が低いからといって、それで専門家の貴方に、大切なことをなおざりにしているなどと非難される筋合いはない」というものでございます。そして、これは多くの作家の言い分でもございましょう。

無論、この場合「作家は、文の、日本語のプロなんだから、一般人とは違って、考えるのが当然だ」という理屈は通 りません。「文章に問題を限定したとしても、またそれはそれで問題が細分化されて、考えねばならぬ ことは山程出てくる」ものなのでございます。つまり「作家なら、正字正かな問題について、考えるのが当然だ」という考え方は、基本的には、ホランドくんも指摘しておりますとおり、貴方さまの「手前味噌な言い分」でしかなく、それは貴方さまが自己中心的な「視野狭窄」に陥っておられる証拠なのでもございます。「正字正かな」問題は、それを「法的・強制的」に歪めてしまった、あるいは歪めてしまう立場にある文部省の担当者(その道のプロ・有責者)以外には、基本的には、誰に対しても「(考えて)当然のこと」だとは言えないのでございます。それはあくまでも「考えることが望ましい」であり「考えるに越したことはない」というものなのでございます。それが本当に理解できておれば『その事に對する苛立ちが、亂暴な書き方につながつた』りはしないのでございます。「人は論理のみにて動くに非ず」あるいは「人は感情によって動くが、それにはしばしば論理的裏付けが付与される」とは、そのようなことなのでございます。ですから「感情で動く、あるいは動いた」人間を笑ってはなりません。それは「自分自身の最大の難問」でもあるからなのございます。そして、それに比較すれば「正字正かな」問題など……と言っても、決して過言ではございません。ですから、貴方さまの理屈が正しいのならば、貴方さまは「正字正かな」問題を放り出してでも、ご自身の「感情」問題に取り組まねばならない。それが「当然だ」ということになってしまうのでございます。無論、私はそのようには考えないのでございますが。

 

 

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原典尊重とは何か(1) 投稿者:木村貴  投稿日: 7月27日(金)12時08分01秒

ホランド樣、こちらこそ宜しくお願ひします。

或る種の歴史觀を、批判を込めて「自虐史觀」と呼ぶ事がありますが、さうした史觀を唱へる當の本人の中には、「俺の史觀は自虐史觀だ」と考へる人は誰もゐないわけです。同樣に、「私の考へは、單純な『原文尊重主義』だ」と自認する人が實在しないのは、ホランドさんから指摘されるまでもなく、餘りにも當たり前です。しかし、或る立場から批判的に見た場合、「單純な『原文尊重主義』」と呼ぶべきものは實在します。

>「なぜオリジナルを尊重しなければならない」のか? その理由は、「あらゆる改変」が『文意を歪める』から。

ホランドさんのこの御意見は、殘念ながら、批判的に「單純」呼ばはりされても仕方ないものです。「あらゆる改變」を許さない引用など、事實上不可能な繪空事、すなはち無責任な放言に過ぎないからです。早い話、ホランドさん自身、以下のやうに書いていらつしやいます。

>たとえば小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を、

私の手許に創元推理文庫版『小栗虫太郎集』があつて、初出時の插繪が多數收録されてゐますが、横書きの題字は全て『件事人殺館死黒』と右から左に書かれてゐます。横書きの時、小栗虫太郎の生前のスタイルを破つて左から右に書いたら、「文意を歪める」事になりませんか。また、この小説の本文を當掲示板で引用する時、横書きで表示したら、小栗虫太郎が望んだ「姿(みてくれ)」を損なひませんか。縱書き表示だつて技術的には可能なのに、それをやらないのは怠慢ではないですか。

お解りでせうか。もちろん、通常の横書き文の中で突然、『件事人殺館死黒』などと書くのは非常識です。文章全體の流れを亂し、讀み手も自分自身も混亂するからです。讀み手と自分自身の都合に合はせて『黒死館殺人事件』と右から左に書くのが當然かつ正當な「改變」であります。小説本文の横書きも同斷。

同樣に、私は、略字新假名の文章を引用する場合、讀み手と自分自身の都合に合はせ、なるべく正字正假名に改變します。この場合の都合とは、「引用部分を含めた文章全體の論理的統一」「美觀」「讀みやすさ」等であります。必要なら「原文は略字新假名」と註記すれば宜しい。逆に、私の文章を略字新假名に直して引用する人がゐたら、私は心で泣くかもしれないけれど、顏は笑つて許してあげます。

さうさう、私が折角、『平家物語』や『方丈記』の例を擧げたのを、ホランドさんは見過ごしていらつしやいます。岩波文庫版の『方丈記』は、底本の「絶へて」を歴史的假名遣の「絶えて」に改めたり、「飢へ」を「飢ゑ」に直したりしてゐます。これらも「文意を歪める」不當な措置なのですか。

 

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原典尊重とは何か(2) 投稿者:木村貴  投稿日: 7月27日(金)12時09分53秒

>もうすこしわかりやすい喩えをしておきます。岡本太郎が描こうと、東山魁偉が描こうと、ゴッホが描こうと、ピカソが描こうと、「リンゴ」はリンゴでしかありません。でも、その「リンゴをスイカに改変しなければ、そこに他人が手を加えても良い」のか、ということですね。無論ダメですよ、そんなの。

「わかりやすい」どころか、全然引用の比喩になつてゐませんよ。私は、ホランドさんが掲示板に投稿した文章そのものを改變しようとしてゐるのではないのですから。

繪に喩へるなら、例へば、かうでせう。『イタリア・ルネサンスの巨匠たち フラ・アンジェリコ』(東京書籍)と云ふ本の41頁では、名畫『嘲弄されるキリスト』から、右端に座つてゐる坊さんの姿だけを取り出して擴大して、文章で色々と説明を加へてゐます。フラ・アンジェリコが練りに練つた構圖が臺無しです。ホランドさんは、この本のやり方は「無論、ダメ」だとお考へですか。

「あらゆる改變」を排除した引用なんて無理なのです。開き直るわけではありませんよ。原典を好き勝手に變へたら、引用そのものが無意味になりますから。では、どうすれば良いか。引用者の責任において、改變を加へるべき部分は加へ、元通 りに殘すべき部分は殘すしかありません。改變の内容と出處さへ明らかにしておけば、誤解を招く恐れはありません。これこそ、眞の「原典尊重」です。

「原典維持の限界」を視野に入れないホランドさんの主張は、「言葉」や「文章」と云ふものについての「全體觀に缺ける」し、「單純」呼ばはりされても仕方ないものです。これはもちろん、「論理的ではない」といふ事でもあります。

一本取つたかな?

 

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捲土重來!……と思つたが 投稿者:木村貴  投稿日: 7月27日(金)12時24分09秒

「原典尊重とは何か(1)」の中で、「左から右」を誤つて「右から左」と書いて仕舞つた箇所があります。御免なさい。

さて、アレクセイさん。

>私はこの言い方に、なかざきさんの「あなたはテロリストの実際について、いったいどれだけのことご存じなのですか?」という問いに秘められいたものと同種の「身勝手」を感じます。この種の問いに対する私の回答は「考えることは山程あるんです。その中で、その問題の占める比率が低いからといって、それで専門家の貴方に、大切なことをなおざりにしているなどと非難される筋合いはない」というものでございます。

……うむむ、仰る通りです。私が間違つてをりました。謝つたそばからボロを出して仕舞ひました。「一本取つた」なんて喜んでゐる場合ではありませんでした。

またしても、ここで時間切れになつて仕舞ひました。なかなか先に進めない。次囘は月曜日になりさうです。また宜しくお願ひします。ホランドさんも。では。

 

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手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(日)01時34分20秒

みなさま、私、(中略)本日は珍しいことに新刊で歌集を買ってまいりました。「鬼才 穂村弘、9年ぶりの書き下ろし歌集。」『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(小学館)でございます。表紙はずいぶん可愛いウサギ少女が引っ越しをしているイラスト。これなら詩オンチの私にもわかるかも知れないと、手にとって拾い読みしてみると……はたして「可愛くて、ちょっと寂しい」感じの詩が、そこには並んでおりました。

  目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

  高熱に魘されているゆゆのヨーグルトに手をつけました、ゆるして。

  眼ってのは外に出てきた脳なんですってね。感心しました。脳か。

 

 木村貴さま
「一本取つた」なんて喜んでゐる場合ではありませんでした。

まさしくそのとおりでございますよ。若いとは申せ、ホランドくんは十余年にわたって私の薫陶を受けてきた、この私の一番弟子でございます。それに彼は実戦経験も豊かでございますから、貴方さまが思われている程、容易く捩じ伏せられるような相手ではございません。既に時遅しとの感もございますが、くれぐれも用心なさいまし。戦場においては油断は禁物。相手を侮るのは命取りでございます(笑)。


 ホランド
わかっておるだろうな。手加減する必要はない。してはならん。木村さまの批評家生命を取るつもりで徹底的にやるのだ(笑)。

 

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「アンチ・ヒロイズム」をアップ!・・・してもらいました(笑)。 投稿者:ホランド  投稿日: 7月29日(日)17時31分20秒

 みなさん、こんにちは! やっと木村貴さまへの反論を書き終えました。昨日から係っきりでだったんで、もうへとへと。書く前から予想していたとおり、かなり長いものになっちゃったので、園主さまにお願いして、先程、サイトの方へアップしていただきました。タイトルは「アンチ・ヒロイズム ―― 木村貴氏のご批判に応じてです。よろしくご笑読ください!

 

 木村貴さま
 捲土重来! 園主さまに言われたから、徹底的にやったわけではありませんよ。「ちょっとボクのこと、軽く見たんじゃないのぉ?」って思ったから徹底的にやった・・・わけでもありません。議論は全力投球。忌憚なくやるのが「大原則」ですものね(笑)。

 園主さまが申しておりましたが、近いうちに「正字正かな」関連の一連の文章を、一覧できるように別 枠でまとめる予定だそうです。そうなれば、長い文章は直接そちらに発表していただくということも可能になるそうです。それまでは分割投稿のお手数を取らせてしまいますが、なにとぞよろしくお願いいたします。



 園主さま
わかっておるだろうな。手加減する必要はない。してはならん。木村さまの批評家生命を取るつもりで徹底的にやるのだ(笑)。

 もう、ひと聞きの悪いことを書かないで下さいよ! もちろん、これは「大西赤人批判」の時の、木村さまへの園主さまの言葉をなぞったものであるってのは、ボクも重々わかっています。でも、悪趣味。これじゃあまるで、ボクが園主さまの意のままに動く殺し屋(手のもの)みたいじゃないですか。ボクはね、けっして人に命令されたからというだけで動くような、そんな主体性のない人間じゃありませんからね。「助手」だからって見くびることは、園主さまだって許しませんよ。

 ところで『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、今度貸して下さいねー(それはそれ、これはこれ、・・・そこはそれ)。

 

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アンチ・ヒロイズム  ―― 木村貴氏のご批判に応じて


碧川 蘭ホランド

 

 本稿は、ウェブサイト『LIBRA アレクセイの星座』に 2001年7月22日に、 単体のページとして発表されたのが初出となります。

※ 引用した文章の「日付け」は、特記なき場合は、BBS「アレクセイの花園」に書き込まれた日付けとご理解下さい。

 

一本取つたかな?(「原典尊重とは何か(2)」2001年7月27日付け)

 ボクは取られてないと思ってますよ(^-^;)。
 原典尊重とは何かを読ませていただいたボクの率直な感想としては「あれれ?」って感じでした。・・・だって木村さまは、ボクのこと放ったらかしにして、ボクの幻を相手に「一本取った」と勘違いなさっているんですもの。

 でも、選手同士がお互いに主観だけで、一本取ったの取られてないのと言い合っても仕方ありません。やっぱり判定は、審判である「客観的第三者」に下してもらいましょう。そのためにボクは、これからボクの「主観形成」の根拠と論理を、以下に書かせていただきたいと思います。


 木村さまのボクへのご批判が「的はずれ」だと言うのは、木村さまがボクのことを「オリジナルの改変」を一切許さない「原文原理主義」者とでも呼ぶべきものとして措定しておられるからです。そして、その措定には明らかな無理があると思います。
 木村さまは、

「なぜオリジナルを尊重しなければならない」のか? その理由は、「あらゆる改変」が『文意を歪める』から。(「「思い」を乗せて(中)」2001年7月25日付け)

というボクの文章の「断片」をとらえて、「原文原理主義」者だと理解なさったようですが、これは「牽強付会」以外の何物でもありません。
 上に引用したボクの文章は、「原文尊重主義」の「原理となる事実」を説明したものに過ぎません。したがって、そこに語られているのは、

 (1) オリジナルは尊重されなければならない

という「原文尊重主義」の「」と、その「原則」を支える「根拠(事実・意味)」である

 (2)「あらゆる改変」が『文意を歪める』から

という「根拠説明」だけです。

 例えば「法律は遵守されなければならない。」というのは、普通 なら誰もが納得する「原則」です。そしてこの文章を誰もが納得するのは、それがあくまでも「原則」であって「絶対原理」ではないからです。つまり「明らかに過った法律(悪法)に対しては、人はその良心に従って、その法律の遵守を拒絶できる(すべきである)」というのが「常識(暗黙の了解・大前提)」となっているからです。つまり、一般 的に「現実社会」で適用される「決まり事」や「義務」というものは、所詮「人為」的なものであり「絶対原理(神的原理)」ではありえないから、「例外」の存在は「自明の前提」なのです。例えば「法律は遵守されなければならない」と「緊急非難」や「正当防衛」は、決して矛盾するものではないのです。つまり「大原則」としてはそうであるけれど、その原則を守ることにより「より悪い結果 」が惹起されることが明らかな場合は、その「決まり事(法)」はその「法制定の目的」から考えても「遵守されるべきではなく」、そうした場合は、法遵守の「義務」は免除され、法違反についての「責任」も免除されるということなのです。

 もちろん、これは『オリジナルは尊重されなければならない。』と言った場合にも同じで、この言葉は「普通 に理解」すれば「絶対原理」の表明などではなく、明らかに「原則の提示」に過ぎません。それを「絶対原理の表明」だと決めつけるのは、「非・普通 に理解(曲解)」することであり「牽強付会」だということになるわけです。

 これは(2)についても同様です。『「あらゆる改変」が『文意を歪める』』というのは、程度の差こそあれ「まぎれもない事実」で、これは誰にも否定できません。だからボクたちは誰しも「自分の作品が、他者に無断で改竄された場合の、憤り・無念さ」などを想像して(つまり、相手の立場に立つ・他者を思いやる、ことによって)「出来うる限り、原作者の意志を尊重しようと努力すべき」だと「主体的・倫理的」に考えるべきなのです。だからこそ園主さまは、木村さんが、

森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事が、いかに冒涜的な所行か、お判りいただけると思ひます。鴎外が論理的な表記で美しく仕上げた「供物」を、腐つた代替材料で安つぽい代物にして仕舞ふ行爲なのです。無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。(「瓦礫の家(1)」2001年7月20日付け)

と書かれた時に、

> 他人の著作物を勝手に改変することが間違いであるということと、『ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。』という話とは、論理的にはつながらない。実際、『ガラクタで建てた家』が好きな人はいる。それを『全う』ではない……つまり「普通 」ではない、「大多数の者と同じ」ではないと言うことは出来ようが、それで『ガラクタで建てた家』が好きな人の「好み」や「気持ち」を倫理的に「悪だ(正しくない)」と処断することは出来ないはずだ。(「「日常」という名の戦場で」2001年7月20日付け・書き下ろし)

と書いて『他人の著作物を勝手に改変することが間違いである』という原則だけで、それに反したという事実だけで、人を『倫理的に「悪だ(正しくない)」と処断することは出来ない』と反論したのです。つまり、「原則」から逸脱したとしても、その逸脱に「合理的根拠」があるのならば「それは悪ではない(正しいことである)」と主張し「例外を認めるべきだ(例外の存在を認識せよ)」と、木村さまに言ったのです。

 これは楽古堂主人さまのご意見もいっしょなんです。つまり、非専門書としての「文庫本」や「子供向け図書」では、「原文正字正かな」の作品を馴染みやすい「略字新かな」に書き換えることも、「公共の利益」に鑑みるならば、「許容」されるべきではないか・・・ということですね。この楽古堂主人さまのご意見も、あくまでも『オリジナルは尊重されなければならない。』という「原則」に同意した上での、「現実的運用時」における「例外」の話なのです。

 つまり、園主さまや楽古堂主人さまが、木村さまに対して、こういう「原則」の「現実的運用時」における「現実問題(例外問題)」を突きつけたりするのは、それは木村さまのご意見こそが「例外を認めない・原理主義」だと看做されたからに他ならないのです。そして、その評価が正しいというのは、先に引用しました、

森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事が、いかに冒涜的な所行か、お判りいただけると思ひます。鴎外が論理的な表記で美しく仕上げた「供物」を、腐つた代替材料で安つぽい代物にして仕舞ふ行爲なのです。無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。

という木村さまの「絶対認められない・認めるべきではない・認める者は全う人間ではない」という言明に明らかなのです。

 

 さて、ここで話は冒頭に戻ります。
 木村さまは、ボクのことを「原文原理主義者」だとして批判なさいました。ところが、実際に「原理主義的主張」をしていたのは、当の木村さまの方なんです。……これは、明らかな「矛盾」ですよね(笑)。でも、こうした「矛盾」は、何も今に始まったことではありません。
 もともとボクが木村さんに対して発した「最初の質問」である、

おっしゃるとおり、鴎外が歴史的仮名遣いで書いた作品を、勝手に『「現代かなづかい」に改竄して出版する事』が決して好ましいことではなく、ある意味では『冒涜的な所行』だというのは、たしかにそのとおりだと思います。だけど、その論理で言うのなら「略字新かな」で書かれた中井英夫の文章を(カッコ書きの引用のかたちで)『「小説は美神への供物。一句たりとも腐つてゐてはならない」』と「歴史的仮名遣い」に勝手に改竄して記述するのも、道義的には同じことなのではないでしょうか? この場合、「歴史的仮名遣いの方が優れているから」という理屈は通 らないと思うんですけれど、どうなんでしょう?(「「花園」の仁王像?(上)」2001年7月22日付け)

は、木村さんの「他人に厳しく、自分に甘い」という「矛盾」した態度に対する「疑義」として発せられたものなのですからね。

 それに、「正字正かな」を勝手に「略字新かな」に変える者は「全うな人間ではない」と断言する木村さんに比べて、ボクがもっと慎重であり「例外」にも配慮する人間であることは、この文章の好ましいことではなく、ある意味ではという言い回しにも明らかだと思います。

 ボクが、

「なぜオリジナルを尊重しなければならない」のか? その理由は、「あらゆる改変」が『文意を歪める』から。

という「わかりきった原則」をあえて書いたのは、「他人の改変には厳しい」のに「自分は(中井英夫の文章を)改変して平然としている」という木村さまの矛盾に対するボクの「疑義」に、木村さまがさらに『私の考へは、單純な「原文尊重主義」とは違ひます。』なんていう、ほとんど意味不明の「見当違いの回答」をなさったからなのです。木村さまはご自身を『原文尊重主義』者だと言っておられますが、原文尊重主義とは「原作者の意図を尊重しよう」という考え方を言うんですよ・・・ということを説明するために、ボクはわざわざその「原則」を書かざるをえなかったのです。

 木村さまは「自分の改変(の場合)」について、その「正当性の説明」として、

私は、引用時には略字新假名の他人の文章を正字正假名に直すのを原則とします。文意を歪める恐れが無ければ、本文と引用文との表記統一は、表現の自由の範圍内と考へるからです。(中略)「それなら鴎外を略字新假名に改めるのも表現の自由だらう」と突込まれさうですね。無論、法的には問題無いとされてゐます。だからこそ、出版社の社長が刑罰を受ける事もなく、略字新假名に改竄した作品を出し續けてゐられるわけです。しかし、これまで述べた事からお判りと思ひますが、私の考へからすると、略字新假名への改變は不當です。
 
私の考へは、單純な「原文尊重主義」とは違ひます。『平家物語』や『方丈記』などの古典には歴史的假名遣から外れた表記が多く存在しますが、出版界ではこれを歴史的假名遣に修正する事が一般 的です。私は、一般向けの書籍であれば、さうした變更に贊成します。理由は……簡單に言へば、「國語表記の基準として、正字正假名が最もふさはしいから」なのですよ、やつぱり。

と書かれておられますが、ここには「自分の場合だけを正当化する理由は、全く語られていない」んです。

 木村さまは『文意を歪める恐れが無ければ、本文と引用文との表記統一は、表現の自由の範圍内と考へるからです。』と書いてますが、これだけでは木村さま自身も認めておられるとおり「逆もまた真」になってしまいます。そこで木村さまは「『平家物語』や『方丈記』などの古典」の『表記』の話を持ち出し、これは「認める」と言い、その「理由」として『「國語表記の基準として、正字正假名が最もふさはしいから」なのですよ、やつぱり。』と、その「一貫性の無さ・矛盾」の説明にもならないことを、さもそれが説明になっているかのごとく平気な顔で書いているのです。

 木村さま個人がどう思おうと、人はそれを「正当な・論理的な・客観性のある意見の説明(論理)」だとは思わない。だから、木村さまに「正当な・論理的な・客観性のある意見の説明(論理)」を求めているです。そして木村さま自身『と突っ込まれそうですね』と書いておられるとおり自分の言葉が「(他者に対する)説明」になっていないのは半ばわかっているのです。にもかかわらず、最後の根拠説明が『國語表記の基準として、正字正假名が最もふさはしい』・・・「ふさわしい」などという「主観」に終わってしまうところが、木村さまの「論理性」の限界であり、木村さまが「わが仏(「正字正かな」だけ)は尊し」という類いの「情」に囚われ、それに無自覚な証拠なのです

 木村さまは、園主さまも指摘なさっているとおり、ことが「わが仏」に及ぶにいたって、客観性を完全に放棄してしまっているのです。それはちょうど、なかざきさんが「ことがテロリストに及ぶにいたって」おかしくなったり、大西赤人さんが「ことがロシアに及ぶにいたって」客観性を保てなくなったりというのと全く同じことなのです。他人の(仏の)ことならば「公正に思考して語れ」と余裕しゃくしゃくで要求できるけれど、ことが自分の(仏の)こととなると、途端に「公正に思考して語れ」なくなってしまうのです。・・・こうした「身勝手」な「矛盾」と、それを「糊塗するための強弁・詭弁」あるいは「無自覚な論理的混乱」が、ここでの木村さまの意見の「意味不明」性を形成しているのです。

 こんなわけですから、木村さまは、先も引用したように、つい先日までは、

森鴎外は「假名遣意見」を著し、歴史的假名遣の擁護を訴へました。その鴎外の作品を「現代かなづかい」に改竄して出版する事が、いかに冒涜的な所行か、お判りいただけると思ひます。鴎外が論理的な表記で美しく仕上げた「供物」を、腐つた代替材料で安つぽい代物にして仕舞ふ行爲なのです。無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。

と言っていたのに、ボクを「原理主義者」だと非難した後では、

同樣に、私は、略字新假名の文章を引用する場合、讀み手と自分自身の都合に合はせ、なるべく正字正假名に改變します。この場合の都合とは、「引用部分を含めた文章全體の論理的統一」「美觀」「讀みやすさ」等であります。必要なら「原文は略字新假名」と註記すれば宜しい。逆に、私の文章を略字新假名に直して引用する人がゐたら、私は心で泣くかもしれないけれど、顏は笑つて許してあげます。

なんて「矛盾」したことを平然と書けるのです。(最低限『「原文は略字新假名」と註記』が必要だということがわからないという段階で、既に充分「非常識」でしょう。それに事実、それはなされていなかったのです。)
 木村さまだって、鴎外と同様『歴史的假名遣の擁護を訴へ』ているんでしょう? なら『私の文章』であろうが「鴎外の作品」であろうが、「正字正かな」で意識的選択的に書かれた文章を『略字新假名に直』す人がいたら、それには「断固として反対すべきだ」という話じゃなかったんでしょうか? それを『心で泣くかもしれないけれど、顏は笑つて許してあげ』るような人間は『全うな人間』じゃないという話じゃなかったんでしょうか? 『「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間』で、「怒らない」つまり『笑つて許してあげ』るような人間は『全うな人間』じゃないとまで言い切ったのは、ほかならぬ 木村さまご自身だったのではなかったでしょうか?

 無論これは「全文改変」か「一部引用改変」かといった問題ではありません。なぜなら「一部引用改変」の場合であっても、木村さんのおっしゃる『「引用部分を含めた文章全體の論理的統一」「美觀」「讀みやすさ」』というメリットでは、「改変により、原文についての情報を歪める」というデメリットを上回るだけ利点があるとは到底考えられないからです。

 「引用部の無い、一個人の文章」のなかで「表記」や「文体」が「不統一」なのであれば、それは明らかに「美しくなく」「読みやすくない」でしょう。したがって「統一」は目指されるべきでしょう。しかし、「引用部」というのは、もともと原則的には「他人のもの」なんですから、地の文と「同じであるわけがない」んですよ。そしてそれは「誰しも常識として知っていること」なんです。だから、それを自分の文章のなかに「拝借」して使用する際には「原文を勝手に弄らない」というのは「当たり前の礼儀」であり、またその「必要性もない」ことなんです。無論これは「権利の有無」などという最低レベルの問題でもないんです。
 つまり木村さまのおっしゃる『「引用部分を含めた文章全體の論理的統一」「美觀」「讀みやすさ」』というメリットの説明は、決して「普遍性」のある見解ではなく、所詮は「木村さま個人」か、せいぜい「礼儀を弁えない(身勝手な)「正字正かな」主義者」の主観にしか説得力を持たない、非常に「趣味的・主観的な(好き嫌いレベルの)」意見(理由説明)でしかないということになるわけです。

 『「なぜオリジナルを尊重しなければならない」のか? その理由は、「あらゆる改変」が『文意を歪める』から。』という「事実」がわかっていれば、そして「原作者の意図を尊重しよう」という「原則」が理解できていれば、それは「全文改変はダメでも、引用だから許される」なんて言えないのは明らかなんです。もちろん、そうした「身勝手」な改変を「法」がどれほど規制できるのかは知りませんが、もともと「法」というのは「礼儀」や「常識」や「倫理」や「論理」で、自己を律しきれない人のために作られた、その意味での「最低限取り決め」なんです。そんなレベルの話を、こうした議論の場に持ち出さねばならないということからしても、木村さまのご意見は「おかしい(無理を孕んでる)」んですよ。


 ここまで見てきたように、木村さまのご意見(反論)は、「場当たり的」であり「一貫性の欠除」した「非論理的」な放言に過ぎない、としか言い様のないものです。

 そして、こうした「無責任さ」「デタラメさ」「不誠実」を支えているのは、「とにかく「正字正かな」についての自分の見解は正しい」という「根拠薄弱な確信」であり「盲信」なのです。だから、その「絶対的真理」に逆らう者は「無前提に間違った者であり(悪意の有無にかかわりなく)悪である」故に「私は『正字正かなをめぐる議論においては』真実を虚心坦懐に求めようとする必要はなく、ただ絶対的に正しい者として相手に勝たねばならない」ということになってしまっているのです。だけど、・・・これは木村さまが、ご自身の掲示板でAZさんに説いておられた「議論の本質」とは、完全に「矛盾」する考え方なのです。

 

 そういうわけで、木村さまの、ボクを「原文原理主義者」に擬しての批判は、すべて「的はずれ」なのです(「自虐史観」の喩え、小栗虫太郎の喩えも論外で、反論の価値もありません)。そしてそればかりではなく、木村さまの「今回の物わかりの良いご意見」は誰よりも「こないだまでのご自身の狷介な立場」を批判するものとなってしまっているのです。ですから、木村さんが今回の「原点尊重とは何か(1)(2)」の結論として書かれておられる

「原典維持の限界」を視野に入れないホランドさんの主張は、「言葉」や「文章」と云ふものについての「全體觀に缺ける」し、「單純」呼ばはりされても仕方ないものです。これはもちろん、「論理的ではない」といふ事でもあります。

というお言葉は、自ずと園主さまや楽古堂主人さまの「木村さまヘの反論・批判」の「言い換え」でしかなくなっているのです。そして、この「自家撞着」に満ちた「意見」がどこから出てくるのかは、すでに園主さまが指摘しているところでしょう。それは 、

誰よりも「正字正仮名」主義者が、現状の改変に絶望していて、ただ「(知的)報復」だけに「救い」を見い出していたためだ、と言っては穿ち過ぎなのだろうか?(「「日常」という名の戦場で」)

ということなのです。

 木村さま自身、

本音を言へば、正字正假名の復權は不可能でせう。のみならず、私の心の中には「普及なんぞしなくて好い」と云ふ氣持ちもまた存在します。(「>樂古堂樣」2001年7月24日付け)

と「正直」に認めておられますとおりで、園主さまの指摘が半ば「当たっている」ことは、ここでも裏付けられます。そして次に、後の残り半分である『ただ「(知的)報復」だけに「救い」を見い出していたため』という指摘の正当性が問われるわけですが、「議論は勝てば良いというものではない」という主旨の言葉を口にしながら、先程までの説明のように「明らかな矛盾」を連発しながらも「自分が正しい」ということを主張して止まないというのは、木村さんにとって「批評」が、結局は「最後の拠り所」としての「自己の正義(個人的優秀性)」を「立証するもの(証拠)」としてしか機能していない証拠なのではないでしょうか? それが「真実探究の手法」として機能していない証拠なのではないのでしょうか?

 木村さんは、ご自身の掲示板に書き込まれた最新の文章反時代的言論(2001年7月20日付け)の中で、

クリスト教の力がまだ強大であつた時分、「神は死んだ」と言つてのけたニーチェは、文字通 り、反時代的言論人であつた。民主主義・平和主義イデオロギーが強大な現代日本で、結果 的にであれ民主主義や平和主義を支持するやうな事を言つたり書いたりする言論人・文學者には、私はさつぱり魅力を感じない。

と「ことの正邪」よりも「ことの魅力の有無」を渇望する傾向を正直に告白しています。

 こういう気持ちは、ボクだってわかるんです。でも、所詮「自己の個人的嗜好」でしかないことを、木村さまは何の「留保」も無しに、ただ「正しいこと(主張)」であるかのように語られています。でも、これは明らかに「間違い」だし、「危険」なことなのではないでしょうか? 「真実や正義」は「頭数に宿るものではない」という事実は、「真実や正義」は時に「少数者の側に宿る」こともあるかわりに、「多数者の側に宿る」こともある、という事実を意味しているのです。
 そして、そういう「現実」に対する木村さんの「少数者のヒロイズム(選民意識)
」が、いかに「危険」なものかは、容易に理解できると思います。現実とは、ニーチェが期待したような「ドラマチックなもの」ではありません。ボクたちは、ワーグナーが描いたような「悲劇のヒーロー」なんかじゃないんです。凡庸な世界を生きるボクたちは、それがいかに退屈であり、それ故にそれがいかに苦痛であろうとも、それを「勝手に面 白いものに改変して評価してはならない」んです。

 園主さまのおっしゃるとおり「日常」という「凡庸」な「現実という名の舞台」で、ボクたちは「現実主義(リアリズム)」のお芝居を演じなければなりません。「目立ちたがり屋のオーバーアクション(見当違いのスタンドプレー)」は許されないんです。時には・・・いいえ、しばしば「面 白くもない凡人」が主役を演じるような舞台を、ボクたちは正直に演じ上げなければならないんです。それが「全うな舞台を創る」ということなのではないでしょうか。そして、それこそが「全うな役者たらん」とする者の覚悟というものなのではないでしょうか。・・・時には、ワキに廻る覚悟(自制心)なしには、決して「批評家」は勤まらないと、ボクは思います。

 

 

  2001年7月29日

 

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声が聞きたい(上) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(日)20時29分20秒

みなさま、すでにホランドくんがお知らせいたしましたとおり、ホランドくんの木村貴さまへの反論文「アンチ・ヒロイズム ―― 木村貴氏のご批判に応じてを、こちらには掲載せず、そのまま独立したページとしてアップさせていただきました。この文章は、木村さまの批判をうけて書かれたものでございますのため、単品としての独立性に欠ける部分があるのでございますが、その点に関しては、後日、『正字正仮名』問題のページ(※ ココ)を作りました際に、そちらへ編入するという形で、解決を図りたいものと存じます。

 

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声が聞きたい(下) 投稿者:園主  投稿日: 7月29日(日)20時33分51秒

 ホランド
ボクはね、けっして人に命令されたからというだけで動くような、そんな主体性のない人間じゃありませんからね。「助手」だからって見くびることは、園主さまだって許しませんよ。

おまえを見くびるだなんて、とんでもない話だよ(笑)。今回の「アンチ・ヒロイズム ―― 木村貴氏のご批判に応じてだって、他人に言われて書けるようなものじゃないのは、誰の眼にも明らかだろう。それに『名張人外境』からの「独立戦争」時のおまえの活躍ぶりは、言葉に尽くせぬ 感謝とともに、決して忘れられるものではない。たしかに肩書きは「助手」だけれど、おまえは私の「片腕」だと言っただろう。使うの使われるのといった関係じゃない。それは私だって、承知しているよ(笑)。

 

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少々お待ちください 投稿者:木村貴  投稿日: 7月30日(月)17時04分28秒

ホランドさんの御意見、拜讀しました。現在反論を書いてゐますが、かなり時間がかかりさうです。完成はひよつとすると今週末くらゐになつて仕舞ふかもしれません。しばらくお待ちください。

分量等の關係上、恐らく、自分のサイトで公開する事になると思ひます。いづれにせよ、完成しましたら改めて御報告します。それでは。

 

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話題のひとつ(上) 投稿者:園主  投稿日: 7月31日(火)18時51分23秒

みなさま、猛暑が続いておりますが、いかがお過ごしでございましょう? テレビの話題をさらっていた参院選も自民党の圧勝で終わり、これからが正念場だそうでございます。私は政治のことには、からきし疎いのでございますが、我が地元 大阪から自民党の谷川などという、どうみても「改革」などとは縁のなさそうな、こないだまでは党の中でも首の挿げ替えを検討されていたという老人政治家が断トツでトップ当選したり、プロレスラーの大仁田厚が当選したりするのを目の当たりにいたしますと「なんだかなあー」という気分にさせられてしまいます。そういえば、2週間ほど前、銀行で創価学会の知人に行き会いしました折「選挙はどうですか? 小泉人気といっても公明党は大変でしょう?」という挨拶から入って、小泉首相にキャアキャア言うミーハーな人たちについて、私が「日本人って、やっぱり田舎もんですよね」と振って頷き合った後、「でも、僕が一番好きな政治家は土井たか子なんですよ。あの人のしゃべりは、凛としててイイですねー」と言いますと、その知人は「えーっ、田舎もん」ときっちり返してくれたのでございます(笑)。
……ちなみに私は、社民党の支持者ではございません。どこにも信用がおけないので、どこにも投票したくないという、政治に無知な「一般 人」なのでございます(笑)。

 

 木村貴さま
いよいよ本腰が入ってきたようでございますね。今回も私は、お二人に主役の座を攫われてしまうのでございましょうか?(笑)

さて、ホランドくんも書いておりましたが、二、三日中には『「正字正仮名」論争』(※ ココ)というような形で、これまでの関連する書き込みをまとめたいと考えております。したがいまして、今後そちらのサイトでアップされます分につきましても、随時収録したいと存じますので、よろしくご協力の程、お願いいたします。 ともあれ、充実した真剣勝負の議論を期待いたします。

 

 


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