「正字仮名」論争(4) 
「正しき日本語」と「日本語ついての正しさ」をめぐって

 

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汝、まず自身に問え

  ―― 木村貴氏の『汝の「常識」を疑へ』を読んで

 

碧川 蘭ホランド) 

 

 木村さまの、ボクへの反論文『汝の「常識」を疑へ』を読みながら、ボクは「これはおかしい。ここも変だ」とあちこちたくさん引っかかりを憶えました。ですから、その結論についても「おかしな理屈の積み重ねの結果 」だという印象しか受けず、ぜんぜん納得がいきませんでした。

 そこで、ボクがこれから書かせていただく再反論文は、ボクのそうした実感を読者のみなさまに追体験していただくのが一番手っ取り早いのではないかと考えて、木村さんの御文を、頭から順番に「虱潰し法」で検討批判を加えていくという形式を選ぶことにしました。

 この方法は、省略が少なくなるから誤解の余地が減る分、どうしても文章量 が増えてしまいます。見掛けの量にうんざりされる方もきっと出てこられることでしょうが、「その分、内容はわかりやすいですよ」と最初に強調しておいて、本論に移りたいと思います。

 

 

 

前口上」について

以下は、電子掲示板「アレクセイの花園」における「『正字正假名』論爭」の延長であり、ホランドこと碧川蘭氏による私(木村)への批判に對する反論として書かれる文章である。碧川氏は言ふ。

一般的に「現實社會」で適用される「決まり事」や「義務」といふものは、所詮「人爲」的なものであり「絶體原理(神的原理)」ではありえないから、「例外」の存在は「自明の前提」なのです。(「アンチ・ヒロイズム」)

その通りである。そこまで解つてゐながら、なにゆゑ碧川氏が「新字新假名の文章を引用時に正字正假名に變更する事」をあつさり非常識と決めつけ得るのか、理解に苦しむ。表記變更は、「引用文を勝手に改變してはならない」と云ふ「決まり事」「義務」の「例外」である。從つて、決して非常識な行爲ではない。これから、そのゆゑんを説くとしよう。

 

 『そこまで解つてゐながら、なにゆゑ碧川氏が「新字新假名の文章を引用時に正字正假名に變更する事」をあつさり非常識と決めつけ得るのか・・・この問いに対するボクの端的な答えは「例外として承認できる程の、合理的な説明がなされていないから」というものです。引用にもあるとおり、例外の『存在』は自明の前提です。それは否定のしようもない「事実」です。だけど、それが「存在」するいう「事実」を認めることと、その「存在」の「質」を評価(し、時に否定批判)することとは、話が別 です。ボクは『表記變更は、「引用文を勝手に改變してはならない」と云ふ「決まり事」「義務」の「例外」である。』という事実は(原則として)認めます(良き例外は認めるということ)。
  でも、木村さまがやった中井英夫の文章に対する「改変」は、その(例外の存在を認めるという)原則ですら適用されない逸脱例(つまり、悪しき例外)だと評価するんです。だから認められないんですよ。

 ものごとに「例外」は付き物です。だからこそ、一般 論個別論を混同してはなりません。一般論(原則)としては認められることでも、個別 の事例では認められないような場合(例外)はいくらでも存在します。
  木村さまの議論は、ご「自分の場合」の個別性をなんら顧慮することなく、妥当な「一般 論」を展開することで、その一般論に該当しないご「自分の場合」まで、正当化できたように思っている、としか見えないんです。

 

 

表記變更は非常識か」について

作家・大西巨人氏の愛讀者には、以下のやうな「斷り書き」はお馴染の筈である。

なお、引用に際して、私は、原典のかな遣いに従ったが、原典が旧かな遣いの場合にも、促音ならびに拗音に関する「字を小さくする書き表わし方」は、これを(従来の我流どおりに)採用した(漢字は、総じて新字体)。(光文社文庫『春秋の花』 「はしがき」)

大西氏はこの「我流」に從ひ、例へば、森鴎外の短篇小説『心中』原文の「方角がしつかり分からなかつたと云ふのが不思議ぢやありませんか」と云ふ箇所を、「方角がしかり分からなかたと云ふのが不思議ぢありませんか」と改變してゐる。大西氏は、『大西巨人文選』第二卷の「卷末對話」において、「促音、拗音は小さく表記するはうが合理的なやうな、讀みやすいやうな」(原文は新字新假名)とその理由を述べてゐる。

この方針が果して適切かどうかは、意見の分かれるところであらう。例へば、大西氏自身も認める通 り、詩歌にもこの原則を適用すると、美觀上、かなり違和感がある。かと言つて、「散文は小さい字、詩歌は大きい字」と使ひ分けるのも統一感を缺く。また、私自身は、促音・拗音の大きい字を含む文章が讀みにくいとは別 段感じない。從つて私は大西氏の「我流」に追隨はしないが、一つの見識であるとは思ふ。兎も角も私は、大西氏による原文改變を、表現の自由の正當な行使と認める。

 

 要するに木村さまがここでおっしゃりたいのは「大西巨人も、改変を正当な行為と認めている」ということです。「その点では、私(木村)と大西巨人は同意見だ」と。・・・でも、木村さま自身が『この方針が果 して適切かどうかは、意見の分かれるところ』とか『私は大西氏の「我流」に追隨はしないが、一つの見識であるとは思ふ。』と書かれているとおり、大西巨人さんの「改変」と木村さまの「改変」では、その「意味」するところも「価値」も違うんですね。それを「改変」という点で(だけ)は同じだなんて「雑(で、非本質的)な括り方」で「一緒くた」にされても困るんです。

 考えても見て下さい。大西巨人さんの「改変」は、今現在の「一般 多数の読者」が「新字新かな」に馴染んでおり「その方が読みやすい」という「妥当な情勢判断」とその「メリット」に対する認識が正しく働いた上での「改変」です。ですから、大西巨人さんの「改変」は、木村さま風に言えば「いちいち断らなくても良い」ような、断らなくても「一般 多数の読者」が納得するような「合理的な改変」なのです。しかし、それでも大西さんは、原文・原著者への配慮として、あるいは誤解を無くすためのより一層の努力として、毎回いちいち「注釈」をつけているのです。そして、・・・こういうのが、ボクの期待する原文や原著者にたいする「敬意」表明の実践であり、「敬意」の現れとしての「礼儀」の姿なのです。

 そんな大西巨人さんの場合に比べて、木村さまの場合はどうだったでしょうか?
 木村さまは原文が 「新字新かな」だった中井英夫さんの文章を引用するにあたり、「正字正かな」で書かれているご自分の文章に合わせて、何の注釈も付さずに「正字正かな」に「改変」しています。この(改変の)場合、「新字新かな」に馴染んでいる今現在の「一般 多数の読者」に対しては、ただ「読みにくい」というデメリットこそあれ、これといったメリットは何もありません。
  こう書くと、木村さまは「正字正かな」の効用を説かれることでしょうが、その効用が事実だとしても、「それを求めていない」一般 多数の読者には、それを「問答無用」の「注釈抜き」で「これで読め」とやられるのは傍迷惑な押しつけ」以外の何物でもないんです。結局、もともと「新字新かな」で書かれていた中井英夫さんの文章を、わざわざ「正字正かな」に書き換えるというのは、一般 多数の読者にとっての「有意義(有価値)」ではなく、「正字正かな」主義者にとっての「有意義(有価値)」でしかないんですね。
 いくら栄養があったって食べたくないものは食べたくない。例えばピーマンに栄養があったとしても「味も嫌いだ が、とにかく嫌いだ。あんなものを口に入れることなど、想像だにできない」と言ってる人(大人)に、ピーマンをそれと気づかれないように調理して、「親切心」で食べさせるようなものです。やっぱり、こういうやり方は「思いやり」とは言えないと思います。結局それは親切な私」の「押しつけ」であり、「自己満足に過ぎないんですよ。正しいことをやっていると言うのなら、「ピーマンを使っているけど、ぜったい美味しいはずだよ。だから食べて」と「注釈」付きで勧めるべきだと、ボクは思います。相手の立場に立てば、これは当たり前に納得できることなのではないでしょうか?

 

 

「趣味的」大いに結構」について

私が新字新假名で書かれた文章を引用する時、正字正假名に改める理由も、大西氏とほぼ同じである。具體的論證は弊サイトの「なぜ書くか、古めかしい漢字と假名遣で」「なぜ書くか、『古い』表記で」等を御參照願ひたいが、日本語の文章は、正字正假名で表記する方が「合理的」であり、「讀みやすい」。合理的なものには屡々美が具はるから、「美しい」と云ふのも理由の一つに擧げて良からう。また、私には、引用部を含む文章全體を統一した國語論理體系で表記したいと云ふ思ひもある。

 

 だから『私が新字新假名で書かれた文章を引用する時、正字正假名に改める理由も、大西氏とほぼ同じである。』というのは、「ほとんど嘘」なんですよ。『ほぼ同じ』という表現は正しくありません。「共通 する側面も無いこともない」という程度のことを『ほぼ同じ』と言い換えるのは、「ほとんど嘘」だと言えるんです。そしてこれは「悪しきレトリック」というやつです。

 次に『日本語の文章は、正字正假名で表記する方が「合理的」であり、「讀みやすい」。』という断言ですが、これも眉唾です。ボクも「正字正かな」については詳しくありませんから、園主さま(アレクセイ氏)同様に、『「正字正かな」は合理的』だという仮定に立って議論しましょう。……「正字正かな」は「合理的」です。でも、だからといって「読みやすい」とは言えない。なぜなら読みやすさ」を保証するのは「合理性」よりもむしろ「慣れだからです。事実、ボクは「新字新かな」の方が明らかに「読みやすい」。この文を読んでいるあなた(読者諸兄)も、たぶんそうでしょう。
 つまり木村さまが、ここで言う「読みやすい」とは、現実の「一般多数の日本人」にとっての「読みやすい」ではなく、「もし日本語の表記に白紙状態の読者が、両方を同じように学んだとしたら」というような「仮定的状況下」での「読みやすい」なんです。そして、この 「正字正かな」の方が「読みやすい」というのは、「と仮定した場合」という条件付きだということを、木村さまは 知ってか知らずか(気づきながらか無自覚にか)「明記」していないんですよね。
 園主さまも書いていましたが、国語表記の問題は「現実」問題なんです。「もしも神様が実在したら」とか「もしもあの時、おかしな改変が国家レベルでなされていなかったら」とか「もしも読み手が、日本語の表記について白紙状態であったならば」なんて言ったってダメなんですよ。たとえ 「正字正かな」が「合理的」だとしても、だから「読みやすい」とは言えない。それが現実なんです。現実の問題は「合理性」だけでは語れない。現実にはそこに「多くの条件」が絡んでくるんだということも、既に園主さまが書いておられたとおりなんです。なのに木村さまの議論は、いつまで経っても「手前味噌な仮定の状況」から離脱することができないんです。

 木村さまが「正字正かな」を「個人的に使う理由」として『 合理的なものには屡々美が具はるから、「美しい」と云ふのも理由の一つに擧げて良からう。』というのならわかります。しかし「美」は「不合理な押しつけ」の根拠にはなりません。特定の「美」は、普遍的なものではないからです。つまり、「自己満足」ならしても良い。だけど「自己満足」だけで押しつけられても、他人(他者)は決して「満足(納得)」しないということです。

 『また、私には、引用部を含む文章全體を統一した國語論理體系で表記したいと云ふ思ひもある。』という「気持ち」も理解できます。ですが、これも同様に「他人に強いる」根拠にはなりません。これも所詮は「自己満足」です。

 

>碧川氏に言はせれば、私が以上擧げたやうな理由は、「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」と云ふ事にならう。假にさうだとしても、私は、私自身による表記改變を、大西氏による表記改變と同等に、表現の自由の正當な行使と考へる。「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」で「讀みにくい」結果 を招いたり、その他の害惡を社會に及ぼしたりするとは、到底斷定出來ないからである。新字新假名に直す場合の方が、「讀みやすい」と感ずる人の數は多いだらう。しかし、言ふ迄もなく、表現の自由を認めるか認めないかは、「數の問題」では無いのである。

 

 『碧川氏に言はせれば、私が以上擧げたやうな理由は、「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」と云ふ事にならう。』・・・そのとおりですね。ですからこそ『假にさうだとしても、私は、私自身による表記改變を、大西氏による表記改變と同等に、表現の自由の正當な行使と考へる。』ようでは困るんです。ボクは大西巨人さんの「改変理由」を『「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」』とは評価していませんから。
  前にも書きましたが「一緒くた」にされては困るんです。木村さまは『「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」で「讀みにくい」結果 を招いたり、その他の害惡を社會に及ぼしたりするとは、到底斷定出來ないからである。』と説明なさっておられますが、『「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに』「不合理」ではないとしても、『「讀みにくい」結果 を招いたり』するのは歴然たる「事実」なんです。『その他の害惡を社會に及ぼしたりする』と言えば大袈裟ですが(大袈裟に言うからこそ、該当しにくくなるわけですが)、「一般 多数の日本人」にとって「傍迷惑」な「改変」であるというのは紛れもない事実です。泉下の中井英夫さんも迷惑でしょうが、ファンのボクはもっと迷惑に感じています。中井英夫の読者にとっては、そうした「改変」は「改悪」以外の何物でもなく、ファンでない人には「紛らわし」かったり「煩わし」かったりするだけです。なんども言うようですが、そうした「改変」に価値を見い出しているのは「正字正かな」主義者(の主観)だけです。 それは木村さまも新字新假名に直す場合の方が、「讀みやすい」と感ずる人の數は多いだらう。』と認めざるをえない事実なのです。そして、この事実に対する木村さまの抗弁は『しかし、言ふ迄もなく』なく『表現の自由を認めるか認めないかは、「數の問題」では無いのである。』という、またしても「法」による「権利」の話なのです。「言うまでもなく」ボクは「木村さまの改変の内容の道義的是非」と問うているのであって、「木村さまの法的権利の有無」を問うているんではないんですね。『表現の自由を認めるか認めないかは、「數の問題」では無い』としても、「道義的是非」の問題は、「多数決」という意味での『数の問題』ではなくても、説得力」という意味での「数の問題」ではあるんです。「説得的な説明」ができない人が「私は数の論理には拠らない」なんてカッコをつけてもダメだってことは、木村さまにだってわかるはずです。でも、木村さまのおしゃられていることは、そういうことでしかないんですよ。

 

>「引用時の表記變更」を實踐する(實踐した)プロの言論人は、大西巨人氏に限らない。小林秀雄、福田恆存、松原正、小西甚一、唐木順三、葦津珍彦と云つた人々を、差し當たり私は擧げる事が出來る。このうち一部の人については、具體例を解説した文章(「表記變更は公正な慣行である」)を書いた事があるので、參照されたい。以上擧げた人々は、碧川氏の言ふ「誰しも常識として知つてゐること」を知らない愚者ではないし、「當り前の禮儀」を辨へない馬鹿でもないと私は信ずる。

のみならず、これらの人々による表記變更は、獨自の信念・配慮に基く改變を引用文に施す事により、我國の言論を眞に豐かで自由なものにしてゐると積極的に評價する。彼ら(そして私)の表記變更は、假に「趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)」代物であるとしても、それと同時に、「普遍性」を持つと確信する。趣味・主觀と普遍性とは必ずしも排他的なものではない。

 

「引用時の表記變更」を實踐する(實踐した)プロの言論人は、大西巨人氏に限らない。』・・・プロじゃないけど、ボクだって場合によってはそうでしょう。この場合の『場合によっては』とは「その改変に妥当性が認められる/場合によっては」という意味であり、「何でも認める」ということではありません。無論これは、ご自分の「改変」に「律儀」に「注釈」を付す、自他に「厳格な大西巨人ならば、余計にそうでしょうね。

 ですから『「引用時の表記變更」を實踐する(實踐した)プロの言論人』と言うのなら、それは大半の『プロの言論人』がそれに該当するでしょう。だからそんなものを列挙しても、何の意味もないんです。問題はそれらの人の「改変」が「個々の問題」として、それぞれに妥当であったか否かなんです。

 したがって、木村さまに『小林秀雄、福田恆存、松原正、小西甚一、唐木順三、葦津珍彦と云つた人々を、差し當たり私は擧げる事が出來る。このうち一部の人については、具體例を解説した文章(「表記變更は公正な慣行である」)を書いた事があるので、參照されたい。以上擧げた人々は、碧川氏の言ふ「誰しも常識として知つてゐること」を知らない愚者ではないし、「當り前の禮儀」を辨へない馬鹿でもないと私は信ずる。』『のみならず、これらの人々による表記變更は、獨自の信念・配慮に基く改變を引用文に施す事により、我國の言論を眞に豐かで自由なものにしてゐると積極的に評價する。彼ら(そして私)の表記變更は、假に「趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)」代物であるとしても、それと同時に、「普遍性」を持つと確信する。趣味・主觀と普遍性とは必ずしも排他的なものではない。』と「確信」やら「信念」やらを語られても、ボクは「そうですか」としか言い様がないんですね。だってこの人たちが「何」を「どうのように」改変したのか、そして、その「根拠」はどういうものだったのかということを、ボクはぜんぜん知らないんですから。
  無学なボクが存じ上げない名前もありますが、いずれにしろ、ここに列記されておられる方は、たぶん皆さんその道の「権威」なのでしょうね。だから「具体的」な検討材料でもないのに「担ぎだす」意味もあるんでしょう。「あの権威が言うのだから、たぶん間違いない」ということなんでしょうが、でも、それで済むんだったら、ボクらのようなアマチュアが議論する意味なんて無いんですよ。・・・これも園主さまによって、既に指摘済みのことですが、どうして木村さんはそういう「有名人」や「権威」に頼りたがるんでしょうか? 論理的・説得的に自己の主張の「正しさ」を語れるのなら、そんなものを持ち出さなくても良いと思うんですが。事実、ボクはそんなこと、ほとんどやってないでしょ? せいぜい「ピーマン」を持ち出したくらい(笑)。僕は「ことの是非」を論ずるのに、「偉い人」を持ち出す必要なんて、まったく感じていません。ボクは独りでやれますよ
・・・ちなみに、園主さまは「権威」じゃないですよね?(^-^;)

 

 

「意味」と「姿」を峻別 せよ」について

私がなにゆゑ、上に擧げた言論人の表記變更を正當と考へるか。彼らの表記變更の内容は樣々であるし、その動機・目的は必ずしも全て明らかではない。だが共通 して言へるのは、表記變更により、いささかも引用元の文章の論旨を曲げてゐないと云ふ事である。

碧川氏は、「文意」の通常の意味に「姿(みてくれ)」と云ふ要素を加へ、この廣義の「文意」の尊重が重要だと説く。しかし、引用時の「改變して構はないもの、改變してならないもの」を分析的に論ずるには、「意味」と「姿」は出來る限り峻別 して考へるべきである。

私は、「姿」そのものを論ずる文章でない限り、狹義の「文意」(意味)さへ曲げてゐなければ、少なくも必要最低限には原著者を尊重したと言つて差し支へないと考へる。そして、「姿」の部分は、引用者の責任において、讀者への配慮のために變更を加へて構はないと考へる。なぜなら、引用文は飽く迄も「從」であり、それを論ずる引用者自身の文章が「主」であるからである。引用文の何を改變し、何をそのまま殘すかは、引用者が文章の目的に應じて判斷して構はないし、判斷すべきである。「文章を書く」とは、そのやうな取捨選擇の決斷を含む綜合的行爲なのである。

 

 木村さまは『私がなにゆゑ、上に擧げた言論人の表記變更を正當と考へるか。彼らの表記變更の内容は樣々であるし、その動機・目的は必ずしも全て明らかではない。だが共通 して言へるのは、表記變更により、いささかも引用元の文章の論旨を曲げてゐないと云ふ事である。』って力説しておられますが、それは「当たり前」のことでしょう? 「引用」で「論旨」が変えられたら、そんなものは「引用」じゃありませんよ。これは「最低限、守るべきこと」であって「力説」して「誉め上げる」ようなことではありません。こんなことは「まともな人」なら「プロアマ問わず」常識として心得ていることです。

碧川氏は、「文意」の通常の意味に「姿(みてくれ)」と云ふ要素を加へ、この廣義の「文意」の尊重が重要だと説く。しかし、引用時の「改變して構はないもの、改變してならないもの」を分析的に論ずるには、「意味」と「姿」は出來る限り峻別 して考へるべきである。』・・・ちょっと『引用時の「改變して構はないもの、改變してならないもの」を分析的に論ずるには』の部分には、論旨的に混乱があるんじゃないでしょうか? どうも意味がハッキリしません。
  でも、まあ、いずれにしろ『「意味」と「姿」は出來る限り峻別 して考へるべきである。』というのは間違いでしょう。「姿」が「意味」の一部を醸成している以上、それは原理的に「峻別 - 不可能」なんです。 『べき』だと言うのなら、「引用」時にも「姿」が醸成する「意味」にまで配慮す「べき」なんです。でも、実際の場合、たとえば「引用」のような場合、「引用」という行為そのものが「原理的」に「姿を切りくずす」という性格を持ってしまっているんですね。「姿」を変えずに「引用」するというのは、「全文-引用
」以外、原理的にありえないんです。だから「引用」などの実際の場面 では「しかたなく」「姿」への配慮の点で「妥協」しなければならない」んです。これが「引用」の「現実」であり、「実際」時の「論理(筋)」なんです。ですから『「意味」と「姿」は出來る限り峻別 して考へるべきである。』なんていう言い方は、根拠の無い「断言」による「強弁」に過ぎないんです。ボクは「必要なことするな」と言っているのでも「出来ないことをやれ」と言っているのでもありません。そんな無茶は言いません。必要なことはやらざるをえない。だからやれば良いけど、でも、だからって何をやっても良いとは言わないし、「できる限りの配慮はすべき」だと、当たり前のことを言っているだけなんです。

 ですから『私は、「姿」そのものを論ずる文章でない限り、狹義の「文意」(意味)さへ曲げてゐなければ、少なくも必要最低限には原著者を尊重したと言つて差し支へないと考へる。』というような言い方は手前勝手です。『狹義の「文意」(意味)』を曲げない、というのは『必要最低限』のことであり、それは人間として、「法的」にではなく「倫理的」に、「最低限はたすべき義務なのであって、決して『原著者を尊重した』つまり「他人に配慮した」というような「立派なこと」ではないんですよ。『原著者を尊重したと言つて差し支へないと考へる。』と言うのは、あんまり「厚かましすぎる」じゃないでしょうか?

 「引用」など、場合によっては「姿」の改変も「やむを得ない」ところでしょう。それはボクも認めます。でも『そして、「姿」の部分は、引用者の責任において、讀者への配慮のために變更を加へて構はないと考へる。』というのも認めはしますが、ここで問題となるのは『讀者への配慮のために』という木村さまの美辞なんですね。大西巨人さんの場合には、たしかにこれに当たるでしょう。でも、木村さまの「改変」は、これには当たらないというのが、ボクの意見なんです。木村さんの「改変」は『讀者への配慮のために』というよりも、ご自身(「正字正かな」主義者)のためだとしか思えないんです。木村さんの「改変」の実際は、木村さんがここで展開している「論理」からは逸脱しているんです。ですからボクは何度も、「事例」に沿った議論をしなくてはいけない。一般 論で、個別の事例を正当化してはいけないと言うんです。

 『なぜなら、引用文は飽く迄も「從」であり、それを論ずる引用者自身の文章が「主」であるからである。引用文の何を改變し、何をそのまま殘すかは、引用者が文章の目的に應じて判斷して構はないし、判斷すべきである。「文章を書く」とは、そのやうな取捨選擇の決斷を含む綜合的行爲なのである。』・・・したがって、この「一般 論」にも、ボクは同意します。
  でも、木村さんの「判断」は「間違っていた」と判断します。ボクは「権利の有無」の話をしているのではないんです。ボクがしているのは「木村さんの判断の是非・妥当性の検討」なのです。

 

 

飜譯からの類推」について

例へば、主となる文章が英語ならば、從である引用文はそれに合はせて英語に變へるのが自然だし、正當でもある。つまり、飜 譯である。著作權法第32條は、他人の著作物からの引用が承諾なしに行へる旨などを定めてゐるが、文化廳の『著作權法入門』(著作權情報センター發行)によると、引用と同樣の目的で、「飜 譯も出來る」(同書40頁)。「姿」の歪みは勿論の事、「意味」の歪みもなかなか避け得ない外國語への飜 譯ですら、原著者の承諾なしに行へるのだから、「姿」の歪みが遙かに小さく、「意味」の歪みは皆無な正字正假名への變更は、法的に當然認められると考へるのが至當である。

碧川氏は、「法は最低限の取り極めに過ぎない。たとへ法が認めても、趣味的・主觀的な國語表記の改變は、原著者に失禮だからやるべきでない」と仰るかもしれない。だがそれなら、「飜 譯を伴う趣味的・主觀的な引用」も許されない事になる。或る日本人が趣味で日本語の小説の一部を英語に飜 譯し、英語で批評を書き、公開する事は許されない惡行なのか。私はさうは思はない。

 

 『例へば、主となる文章が英語ならば、從である引用文はそれに合はせて英語に變へるのが自然だし、正當でもある。つまり、飜 譯である。著作權法第32條は、他人の著作物からの引用が承諾なしに行へる旨などを定めてゐるが、文化廳の『著作權法入門』(著作權情報センター發行)によると、引用と同樣の目的で、「飜 譯も出來る」(同書40頁)。』・・・ここまでは「言うも愚かな」こと、というやつですよね。無論、同意します。

 『「姿」の歪みは勿論の事、「意味」の歪みもなかなか避け得ない外國語への飜 譯ですら、原著者の承諾なしに行へるのだから、「姿」の歪みが遙かに小さく、「意味」の歪みは皆無な正字正假名への變更は、法的に當然認められると考へるのが至當である。』・・・ここは典型的な「詭弁」ですから、みなさん注目して下さいよ。
 まず「法的」に認められる云々というのが、ここでの議論では、文字どおり「論外」であるということは、何度も書いてきたとおりです。逆にいえば、木村さまは、法的な「権利」を振り回すことくらいでしか、自己の正当性をアピール手立てが無いということ、これは裏書きしているんですね。
  それから注目すべき「典型的な詭弁」とは、「姿」が大きく変わる「翻訳」ですら認められるのならば、「翻訳」よりは「姿」の変化の小さい「正字正かな」への「改変」は『當然認められる』べきだという「論理」です。・・・言うまでもなく「改変の是非」は「姿の変化の大きさ」には比例しません。「大きな変化」でも「妥当性のある改変」なら、それは「認められる」し、一方「小さな変化」でも「妥当性に欠ける改変」なら、それは「認められるべきではない」んです。それが「ことの是非を判ずる」ということなんです。つまりここでの木村さまの「詭弁」は、本来「中味」の問題であることを「見掛け」の問題に擦りかえることによって、構成されたものなのです。したがって、ここでの木村さまのご意見には、まったく正当性はありません。

 したがって『碧川氏は、「法は最低限の取り極めに過ぎない。たとへ法が認めても、趣味的・主觀的な國語表記の改變は、原著者に失禮だからやるべきでない」と仰るかもしれない。』というのは、そのとおりです。客観的な妥当性に欠ける『趣味的・主觀的な國語表記の改變』など、主体的・倫理的にすべきではありません。『だがそれなら、「飜 譯を伴う趣味的・主觀的な引用」も許されない事になる。或る日本人が趣味で日本語の小説の一部を英語に飜 譯し、英語で批評を書き、公開する事は許されない惡行なのか。私はさうは思はない。』・・・ここもちょっと混乱した文章ですが、いずれにしろ「翻訳」による「姿」に変化は、どんなに「努力」しても「原理的」に避けられないものなのですから、その「姿」の変化には「妥当性」はあるんです。これは「引用」だって同じ(というのは既に 書いたとおり)。だから、それらの行為が「悪行」だとは「私もそうは思わない」ですよ。したがって『或る日本人が趣味で日本語の小説の一部を英語に飜 譯し、英語で批評を書き、公開する事は』当然「許されます」ますし、「悪行」でもありません。「翻訳」であろうがなかろうが「引用」であろうがなかろうが、原文や原著者を蔑ろにするような趣味的・主觀的な「改変」は「倫理的に許されないという、ただそれだけの話です。

 

禮儀は大事である。しかし私は、「禮儀」を過度に重んじた結果 、自由で豐かな言論活動を排除するやうな社會を招く事は望ましくないと考へる。從つて、たとへ「禮儀」に外れようと、「飜 譯を伴う趣味的・主觀的引用」「國語表記變更を伴う趣味的・主觀的引用」の雙方を擁護する。そして幸ひな事に、既に見たごとく、我國の現在の法制度はそれらに對する強い後盾となつてゐるのである。

 

 ボクはべつに「礼儀第一主義」ではありません。当たり前に「礼儀」を重んじているだけです。ボクだって当然のことながら『「禮儀」を過度に重んじ』ることを善しとはしないし、『言論活動を排除するやうな社會を招く事は望ましくないと考へる』んです。だけどボクは、木村さんのように「無根拠に」『「飜 譯を伴う趣味的・主觀的引用」「國語表記變更を伴う趣味的・主觀的引用」の雙方を擁護する。』ほどの「芸術至上主義者」という「非論理家」ではありえません。ボクは「「芸術」を過度に重んじ」ないんです。そんなボクは、「礼儀」と「趣味・主観の表現(芸術)」の双方を、その度ごとに秤にかけて、是々非々でどちらを優先するかを判断すべきだ、と主張します。それは、ちょうど「差別 表現問題」と一緒ですよ。ボクは、それが「芸術」だという理由だけで「野方図な表現」を擁護しません。例えば、同じ「穢多・非人」という言葉でも、これが使われるべき局面 かどうかの「妥当性」の判断は、その度ごとになされるべきだと主張します。つまらない「趣味」「主観」を、「芸術」や「文化」の名のおいて垂れ流されるのは、「芸術」や「文化」にとっても傍迷惑な話だと、ボクは思います。

 『そして幸ひな事に、既に見たごとく、我國の現在の法制度はそれらに對する強い後盾となつてゐるのである。』・・・それは良かったですね。でも、ボクはこういう言い方に嫌悪を越えて、怒りすら感じます。「犯罪者にも黙秘権はある」だから「俺は金輪際、ホントのことはしゃべんねーからな。これは法律が認めていることなんだから、あんたに文句をいう権利は無いぜ」と、そんな憎まれ口を言われたような気分になるからです。何度も言うように、ボクがしているのは、そんなレベルの話ではない!

 

 

表記變更する時・しない時」について

ところで、私は、大西巨人氏の「斷り書き」を、原文の新字新假名のままで引用した(漢字はPC環境によつては一部正字にしか見えないかもしれないが、技術上の問題ゆゑ御寛恕を乞ふ)。大西氏に對する「失禮」を恐れたからではない。國語表記そのものを主題とした文章の場合、表記を變更すれば、讀者を混亂させる事があるからである。

例へば、「漢字は、総じて新字体」を「漢字は、總じて新字體」と直せば、讀者は「おやおや、引用文は新字體と言ふが、大西氏自身は舊字體で書くのかしらん。何だか矛盾してゐる」と奇妙に思ふであらう。このやうな文章の場合、表記變更はやるべきでない。

逆に言へば、混亂を招く恐れがなければ、引用者の責任において、合理性や讀みやすさを目的に表記を變更して構はない。私は、大西氏の對談發言を正字正假名に直して引用した。國語表記に關する内容ではあるが、引用部分に拗音・促音が存在しない爲、讀者に「矛盾してゐる」と感じさせる恐れが小さいからである。それでも誤解する人が皆無ではないだらうから、念の爲、「(原文は新字新假名)」と註を加へたのである。但し、今囘は説明しやすいやうに敢へて改變したが、通 常は、同じ文章中に同一筆者の文を複數引用する場合は、表記は統一すべきであらう。

 

 『ところで、私は、大西巨人氏の「斷り書き」を、原文の新字新假名のままで引用した(漢字はPC環境によつては一部正字にしか見えないかもしれないが、技術上の問題ゆゑ御寛恕を乞ふ)。大西氏に對する「失禮」を恐れたからではない。國語表記そのものを主題とした文章の場合、表記を變更すれば、讀者を混亂させる事があるからである。』・・・これはまあ「当たり前の措置」であると思います。当たり前のことを当たり前に行うのに、大西さんを恐れる必要がないというのも、また当たり前のことでしょう。しかし『(漢字はPC環境によつては一部正字にしか見えないかもしれないが、技術上の問題ゆゑ御寛恕を乞ふ)』というが「当たり前」かどうかは疑わしいと思います。ボク個人は、このくらい気を使うのは「好ましいことだ」と思いますけど、このすぐ後に問題となる、木村さまの「不要な註は不要」だという主張からすれば、この註は不要なんではないでしょうか? だって漢字が『一部正字にしか見えない』『PC環境』って、そのPCの使用者が「意図的・意識的・選択的」に構築したもの(特殊性)なのではないのでしょうか? なら、相手の自覚的選択に基づく『技術上の問題』を、木村さまが『御寛恕を乞ふ』のは筋がとおりません。ここでの『御寛恕を乞ふ』は元来「不要」であり、ご自身の主張からすると「一貫性」を欠いた「不合理な行動」としか言えないのではないでしょうか?(前述のとおり『大西氏に對する「失禮」を恐れたからではない。』という自己顕示的な「殊更な」自体が、すでに不要なものなんですが)

 『例へば、「漢字は、総じて新字体」を「漢字は、總じて新字體」と直せば、讀者は「おやおや、引用文は新字體と言ふが、大西氏自身は舊字體で書くのかしらん。何だか矛盾してゐる」と奇妙に思ふであらう。このやうな文章の場合、表記變更はやるべきでない。』・・・ここまでは同意します。

 『逆に言へば、混亂を招く恐れがなければ、引用者の責任において、合理性や讀みやすさを目的に表記を變更して構はない。』・・・ここがまた論理的におかしい。ここを正しく論理的な主張として書きなおすとすれば「逆に言えば、混乱を招く怖れがなく、かつ、合理性や読みやすさを目的として、引用者がその自己責任において、表記の変更をするのは構わない。」とでもなるでしょう。この違いが、おわかりいただけますでしょうか? 
 木村さまの ご文章は『逆に言へば、混亂を招く恐れがなければ、』という「前提条件」と『表記を變更して構はない。』という「結論」の間に、『引用者の責任において』と『合理性や讀みやすさを目的に』という2つの「補強条件が挿入することによって、元来それのみでは不充分な混亂を招く恐れがなければという「前提条件」を、さも「それだけで充分」であるかのように見せ掛けているんです。
 つまり結論から言いますと『混亂を招く恐れがなければ』 『表記を變更して構はない。ということは言えないんです。『混亂を招く恐れがなければ』というのは、先にも論じた「意図の改変が無ければ」というのと同じ「最低限の義務」に過ぎません。それ(最低限の義務)をクリヤーし、さらに「改変にともなうデメリット」を補って余りあるだけの「自他にわたる合理的なメリット(ここでは合理性や讀みやすさ)」を確保し、さらにその「メリット・デメリット」のプラスマイナス判断についての責任を「引用者」が事後的・対他的に負うという条件が付されて、やっと「引用部の改変」の妥当性は担保されるんです。
 繰り返しますが 『混亂を招く恐れがないというだけでは、好きに「改変」をして良いとは言えません。それでは不十分なのです。

 『私は、大西氏の對談發言を正字正假名に直して引用した。國語表記に關する内容ではあるが、引用部分に拗音・促音が存在しない爲、讀者に「矛盾してゐる」と感じさせる恐れが小さいからである。』・・・ここで注目すべきは、木村さんが「改変」して「引用」したという大西巨人の文章は、もともと「文章」として書かれたものではない(つまり表記が問題とならない)『對談發言』だという点です。
 大西巨人さんも「対談」でしゃべった言葉が「文章化」される段階で、不可避に「言葉のニュアンスが改変されてしまう」ということは、当然承知していたでしょう。たとえテープから起こしたゲラに直しを入れたとしても、それは「対談」の内容そのものではありえないということを承知していたでしょう。『對談發言』の文章とは、元来そういう性格のものなのです。ですから、その文章を「正字正かな」に「改変」することは『小さい』デメリットはあるものの、それほど目くじらを立てて拒否する程の「改変」ではなかったとも言えましょう。一方、中井英夫さんの文章は元から文章」として書かれたものであり、原著者である中井さんの手によって、意識的・意図的・選択的に「新字新かな」で書かれたものなのです。だから、この場合の中井英夫さんの「表記」に対する「意識」は、大西さんの『對談發言』についての「表記」の意識とは、自ずとレベルに違いがあるんですね。ここいらが、ボクが主張している個別 性」の問題であり、その重要性なんです。

 比較的「デメリット」の『小さい』大西巨人さんの『對談發言』についての「改変」の場合でも『それでも誤解する人が皆無ではないだらうから』と、木村さまは『念の爲、「(原文は新字新假名)」と註を加へたのである。』わけですよね。なのに、ほとんど何の「メリット」もない、「誤解を招く」だけ「読みにくい」だけの「改変」を、木村さまは原著者(中井英夫)の「意図」を排除してまで「改変」したんです。このへんも木村さんの「一貫性の無さ」と言えるし、「いつの間にか、配慮する(無難な)態度に変わってきている」という批判の根拠事例にもなるでしょうし、「改変」の是非判断の「デタラメさ」の証しだとも言えるんじゃないでしょうか? なぜ「あの時」中井英夫さんの「あの文章」を「あの様に改変する」必要があったのでしょうか? もちろん個人的な「好み」はあったでしょうが、ボクが問うているのは『合理性や讀みやすさ』と言った「客観的・合理的」な理由の有無なんです。そんなものは「あの場合」無かったというのが、ボクの「意見」であり、「有った」というのが木村さまのご意見のはずなんですが、「客観的・合理的」な理由なんて「無かった」というのが、「党派的・政治的」ではない人の「当たり前の判断」なんじゃないでしょうか?

 『但し、今囘は説明しやすいやうに敢へて改變したが、通 常は、同じ文章中に同一筆者の文を複數引用する場合は、表記は統一すべきであらう。』・・・これは、当然そうすべきだと思います。「不要の改変は不要」ということです。

 

 

不要な註は不要」について

序でだから、「(原文は新字新假名)」と云つた類の註記の要不要について少しく詳しく述べる。要するに、書かなくとも誤解を招く恐れがなければ、わざわざ書く必要はない。私が註記拔きで中井英夫氏の文章を正字正假名で引用(正確にはうろ覺えによる再現)した事を、碧川氏はかう批判した。

最低限『「原文は略字新假名」と註記』が必要だといふことがわからないといふ段階で、既に充分「非常識」でせう。それに事實、それはなされてゐなかつたのです。(「アンチ・ヒロイズム」)

中井英夫氏が新字新假名で執筆すると云ふ事實は、表記變更を指摘した碧川氏自身は勿論の事、議論の當面 の參加者で、中井ファンであるアレクセイこと田中幸一氏も、讀書經驗の豐富な樂古堂主人こと大内史夫氏も、百も承知の筈である。さう云ふ意味(中井氏が新字新假名派である事)も込めて、私は最初に「皆さんの方がお詳しい中井英夫氏」と書いたのである。そこまでの含意は傳はらなくとも仕方ないが、いづれにせよ、中井本に詳しい讀者を相手に、「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要なんぞ全く無い。註は原著者への義理立ての爲に書くものではない。讀者の爲に書くものなのだ。

一般讀者の中には、私の引用を見て「中井英夫と云ふ人は正字正假名で書くのか」と誤解した人もあるかもしれぬ 。しかし、それは原文に當たればすぐ判る事である。もしその人が誤解したまま議論に加はつて來たら、その時點で私が説明すれば濟む。原文を確かめもせず、どこかで誰かに「中井英夫は正字正假名派」と知つたかぶりして恥をかいたら? そこまで面倒は見切れない。

 

 『中井英夫氏が新字新假名で執筆すると云ふ事實は、表記變更を指摘した碧川氏自身は勿論の事、議論の當面 の參加者で、中井ファンであるアレクセイこと田中幸一氏も、讀書經驗の豐富な樂古堂主人こと大内史夫氏も、百も承知の筈である。さう云ふ意味(中井氏が新字新假名派である事)も込めて、私は最初に「皆さんの方がお詳しい中井英夫氏」と書いたのである。そこまでの含意は傳はらなくとも仕方ないが、いづれにせよ、中井本に詳しい讀者を相手に、「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要なんぞ全く無い。註は原著者への義理立ての爲に書くものではない。讀者の爲に書くものなのだ。』・・・これも「奇妙な論理」の類いです。つまり「詭弁」。問題の所在を誤魔化しています。ここのポイントは『いづれにせよ、中井本に詳しい讀者を相手に、「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要なんぞ全く無い。』と、木村さまはご自分の文章(掲示板「アレクセイの花園」への書き込み)の「読者」が、まるで中井ファンであるボクや『中井ファンであるアレクセイこと田中幸一氏も、讀書經驗の豐富な樂古堂主人こと大内史夫氏』に限られているかのように書かれています。たしかに木村さまの「議論の相手」ならその3人でしょうし、その「3人には」わざわざ『「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要』はないかも知れません。ですが、電子掲示板というのは、基本的には「の場所」ですから、木村さまの文章の読者はその「3人」だけではなく「不特定多数」なんです。そして、その「不特定多数の読者」の中には当然のことながら中井英夫に詳しくない人も多く含まれるんです。そして木村さまがご自身を「公の場所」に文章を発表する『言論公開者 』だとおっしゃるのなら、当然のことながら「不特定多数の読者」に配慮して『「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要』もあるんですよ。さっき大西巨人さんの『對談發言』の「改変」について『念の爲、「(原文は新字新假名)」と註を加へた』のと同様にです。
 したがって『 いづれにせよ、中井本に詳しい讀者を相手に、「原文は新字新假名」と馬鹿丁寧に斷る必要なんぞ全く無い。註は原著者への義理立ての爲に書くものではない。讀者の爲に書くものなのだ。』は「詭弁」なんです。読者を勝手に「限定」して、議論を進めてはならないんです。

 『さう云ふ意味(中井氏が新字新假名派である事)も込めて、私は最初に「皆さんの方がお詳しい中井英夫氏」と書いたのである。そこまでの含意は傳はらなくとも仕方ない』・・・「仕方」がなくはありません。「仕方はあった」のにしなかった。あえてしなかった」。だから当然の結果 として「伝わらなかった」のです。ボクはその「あえて・すべきことを・しなかった」ということを責めているんです。

 『一般讀者の中には、私の引用を見て「中井英夫と云ふ人は正字正假名で書くのか」と誤解した人もあるかもしれぬ 。しかし、それは原文に當たればすぐ判る事である。もしその人が誤解したまま議論に加はつて來たら、その時點で私が説明すれば濟む。原文を確かめもせず、どこかで誰かに「中井英夫は正字正假名派」と知つたかぶりして恥をかいたら? そこまで面倒は見切れない。』・・・これはもう「居直り」としか言い様のない「酷い理屈」です。仮にも『言論公開者の覺悟 』なんてことを口にする人の言うべきことではありません。
 『 誤解した人もあるかもしれぬわかっていたんなら、ご自分が頼まれもしない「改変」を勝手にやったのだから、せめて「」くらいをつけるべきだったんですよ。ボクはそれすら為されていないから「非常識」だといったんです。その、ご自分の「改変」者としての「怠慢」を棚に揚げて『それは原文に當たればすぐ判る事である。』なんて言う。『原文に當たればすぐ判る』で済むんだったら、どんなデタラメを書いておいたって、たとえば「中井の原文はラテン語」と書いておいたって、その真偽は『原文に當たればすぐ判る』ってことになりますよ。「引用文」については「正確な引用がなされている」というのが「暗黙の了解」となっているから、普通 は誰だって、いちいち「原文に当たったりはしない」んです。そしてそれは木村さんだって同じはずです。ですから、引用にあたって「改変」がなされたのなら、それは妥当な「暗黙の了解」を逸脱する特例(例外)であり、当然『誤解する人が皆無ではないだらうから、念の爲、「(原文は新字新假名)」と註を加へ』て、「不要の混乱」を避けるたべきだったんです。そしてそれが「改変」者の「責務」であり「自己責任」の取り方なのです。
  「責任」というのは「お題目」であってはなりません。「責任」を口にするのなら、やるべきことはきちんとやっておいてから言って欲しい。実際、不都合が起こってからでは「責任」は取りきれるものではない、という事実は、「責任を取る」ことの困難さを真面 目に考えたことのある人なら、当然わかっているはずなのです。

 したがって『もしその人が誤解したまま議論に加はつて來たら、その時點で私が説明すれば濟む。原文を確かめもせず、どこかで誰かに「中井英夫は正字正假名派」と知つたかぶりして恥をかいたら? そこまで面倒は見切れない。』という言い種は「傲慢」以外の何物でもありません。
 「不要な誤解」を招いた時点で反省し謝罪すべきなのに、木村さまはそれを『その時點で私が説明すれば濟む』と言います。すみませんよ、そんなもの。木村さんの「説明不充分」な文章を「鵜呑みにして(信じて)」『恥をかいた』人に、木村さんは「申し訳なかった」と謝罪するどころか、「鵜呑みにする、貴方が軽率なんだ。私の書いてることが事実そのままだなんて思うな。迷惑だ」と主張しているんですね。ここまで来れば、これはもう「騙されるおまえが悪いんだ」というような言い種と「ほとんど同じ」と言っても差し支えないでしょう

 

 

言論公開者の覺悟」について

また御覽のやうに、私は碧川氏の文章を、「原文は新字新假名」と云つた註を附けずに正字正假名に直して引用してゐる。碧川氏が新字新假名で書く事は、論爭の舞臺である掲示板「アレクセイの花園」を見れば一目瞭然だし、内容的にも混亂を招く恐れはないからである。碧川氏はさぞ氣分を害されてゐる事であらう。だが私は、批判された腹いせに嫌がらせをしてゐる譯ではない。誰の文章であらうと、同じやうに改變するのである。

筋論を言へば、碧川氏は、私による表記變更に文句を附ける事は出來ない。既に述べた如く、引用時の表記變更は合法的な行爲なのである。法治國家において、合法的な行爲を許さない資格は誰にも無い。法治國家で言論を公にする人間たるもの、たとへ表記變更が不本意でも、「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が必要なのである。

私自身、すでに「原典尊重とは何か(1)」で書いたやうに、その覺悟は當然ある。これは碧川氏が言ふやうな「物分かりの良い態度」なんぞではなく、「返したくなくとも、借りた金は返す」と云ふのと同じ、法治國家の國民として當り前の意思表明なのである。

合法的な表記變更を「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が無い人間は、法治國家において言論を公にする資格が無い。公開された著作物は原著者のものであると同時に、公共の財産でもある。碧川氏や泉下の中井英夫氏やがいかに「憤り・無念」を感じようと、「表記變更は許さぬ 」と口にしたら最後、言論公開者として失格なのである。

 

 これまで説明してきたとおり『また御覽のやうに、私は碧川氏の文章を、「原文は新字新假名」と云つた註を附けずに正字正假名に直して引用してゐる。碧川氏が新字新假名で書く事は、論爭の舞臺である掲示板「アレクセイの花園」を見れば一目瞭然だし、内容的にも混亂を招く恐れはないからである。』という理屈はとおりません。これは『原文に當たればすぐ判る』という「怠慢」「横着」な理屈と同型の理屈です。
 たしかに「アレクセイの花園」の当たれば、ボクが「新字新かな」で書く人間であることはわかるでしょう。ですが、木村さまのこの論文が公開された場所は「アレクセイの花園」ではなく、木村さまのウェブサイト『地獄の箴言』です。ならば『地獄の箴言』の一ページであるこの論文『汝の「常識」を疑へ』の読者が、どうして必ず「アレクセイの花園」を当たるという保証があるでしょうか? 無論そんな保証はありませんから、少数とは言え、ボクのことを木村さまの友達の「正字正かな」主義者だと思い違いする人は出てくるでしょう。『汝の「常識」を疑へ』をひと通 り読めば、引用文の内容から、ボクが『「正字正かな」主義者ではない』ということが明記されている同然(注釈されている同然)だから「誤解」されることも少ないだけで、この場合も註を附けずに正字正假名に直して引用してゐる。が大丈夫だという話ではないんです。

 『筋論を言へば、碧川氏は、私による表記變更に文句を附ける事は出來ない。既に述べた如く、引用時の表記變更は合法的な行爲なのである。法治國家において、合法的な行爲を許さない資格は誰にも無い。法治國家で言論を公にする人間たるもの、たとへ表記變更が不本意でも、「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が必要なのである。』『私自身、すでに「原典尊重とは何か(1)」で書いたやうに、その覺悟は當然ある。これは碧川氏が言ふやうな「物分かりの良い態度」なんぞではなく、「返したくなくとも、借りた金は返す」と云ふのと同じ、法治國家の國民として當り前の意思表明なのである。』『合法的な表記變更を「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が無い人間は、法治國家において言論を公にする資格が無い。公開された著作物は原著者のものであると同時に、公共の財産でもある。碧川氏や泉下の中井英夫氏やがいかに「憤り・無念」を感じようと、「表記變更は許さぬ 」と口にしたら最後、言論公開者として失格なのである。』・・・こう言っては、それこそ木村さまが『さぞ氣分を害され』ることでしょうが、はっきり言って、これは「そうとう酷い理屈」です。

 ボクは最初から最後まで「筋論」を言っているんですよ。「法律で決まっているから、是非もなく、そうなんだ」というのは「筋論」ではなく「法律論」です。「法律ではそれが許容されているかも知れないが、筋(理屈)から言って、それはおかしい」というようなのを「筋論」と言うんです。そして二言目には「法律で保証されている」という事実を印篭のごとく持ち出してくるのが「ここのところの木村さま」なんです。

 『既に述べた如く、引用時の表記變更は合法的な行爲なのである。法治國家において、合法的な行爲を許さない資格は誰にも無い。』・・・この理屈、変だと思いませんか? ボクに「法律で保障されている権利」を「強制的」に『許さない資格』がないのは「自明の前提」です。ボクは「政治家」でもなければ「権力者」でもない、一個の「言論人(すなわち「口舌の徒」)」なんですから。でも、そんなボクにも道義的許さない資格というのは当然あります。ボクに言わせれば、ここでの木村さんの議論は「デタラメ」を通 り越して、ほとんど「脳乱」状態でなされたものとしか思えません。
  もちろん『法治國家で言論を公にする人間たるもの』「法律」を尊重しなければいけませんよ。でも、「尊重する」ということと「盲従する」ということは同じではありません。「法律」といえども「間違いは間違い」だと言えるのが「言論の自由」だし、「間違いは間違いだ」と言うのが「言論人の責務なんです。『表記變更』だろうと何だろうと、それが「道理にそわない(非道)」と思えば、「それは違うぞ」というのが「真の言論人」です。「おかしな話だけど、法律で決まってるんなら仕方ないですよ。どうぞ、お好きに為さって下さい(にっこり)」・・・なんていうのは『全うな』言論人の「言うこと」「すること」じゃありません。そんなものは金輪際『覺悟』とは言いませんよ。

 したがって『その覺悟は當然ある。』わけがありません。『これは碧川氏が言ふやうな「物分かりの良い態度」なんぞではなく、「返したくなくとも、借りた金は返す」と云ふのと同じ、法治國家の國民として當り前の意思表明なのである。』でもありません。当然のことですが、木村さんの『返したくなくとも、借りた金は返す』という喩えは「不適切」です。ボクは「同じ条件なのに、片側は弁護士をつけたから税金が安くなる」みたいなことはおかしい。それは「おかしい」と主張批判すべきだと言っているんです。「おかしいことは、法律が保障していても、おかしいと主張すべきだ。法律は絶対ではない。法律を批判することは、法律を尊重しないということと同じではない」ということを主張しているんです。
  借りたお金を返すのは当然のことで、それを『返したくな』いと考える方が、そもそも「間違っている」んです。そして「正しい不満」の表明と「過った不満」の表明を「一緒くた」にされても困るんです。ボクは「正義を法に優先させよ」と言っているのであって「個人趣味・願望を法律に優先させよ」と言っているんではありません。「個人趣味・願望」を「道理」に優先させたくて、「法律」の話まで持ち出してきたのは、ほかでもない木村さまの方なんですよ。

 したがって『合法的な表記變更を「心で泣いて、笑つて許す」覺悟が無い人間は、法治國家において言論を公にする資格が無い。公開された著作物は原著者のものであると同時に、公共の財産でもある。碧川氏や泉下の中井英夫氏やがいかに「憤り・無念」を感じようと、「表記變更は許さぬ 」と口にしたら最後、言論公開者として失格なのである。』という具合に「論理」や「筋」ではなく、「法律」を盾に取って「批評・批判(言論)」を封じようとする木村さんの方が、「議論を拒絶する者」として、明らかに言論公開者として失格なんです

 

感情問題」について

「さうは言つても、嫌がる人 の文章をわざわざ變へて、嫌はれたらどうする」と仰る方もあるだらう。私も、相手と仲良くしたい場合、その點だけは困る。困るけれども、表記變更を自分の方針として公言した以上、こればかりは仕方がない。

私は「電子掲示板など自分にとつて氣輕な場所では、それほど改まつた文章を書く必要はない」と考へるから、掲示板での引用は新字新假名の文章をそのまま複寫する事が多い。これなら、相手との軋轢は取敢へず表面 化しなくて濟む。

しかし、そのやうな誤魔化しは遲かれ早かれ、この「非常識を疑へ」のやうな改まつた文章を書く時に馬脚を現すだらうし、仲の良い人の文章だけを「贔屓」して新字新假名のまま引用してゐる事が讀者に知れ渡つたら、私の言論人生命は終りである。表記變更しても相手から嫌はれないやうにする爲には、日頃から信頼關係を築くしかない。それでも嫌はれるなら、諦めるしかない。

 

 これもまた「的はずれな議論」、あるいは「狡い策謀」です。

 木村さまは、ここで「自己の言論人としての覚悟」を雄々しく語っています。でも・・・これは「書かでもがな」なことなんです。だってこの種の覚悟は「言論人なら当然のもの」であって、なにも木村さまに限った、あえて「注釈」的に語らなければならないほど「特別 」なこと、「個人的な確信」などではないからです(『不要の註は不要』)。事実、ボクだってここまで書くからには木村さまに「憎まれる」のは覚悟のうえです。ですが、そんな「覚悟」は当然のことですから、ここまではそれを語る必要なんて考えもしませんでした。今はたまたま木村さまが「ことさらに」そんなことを書かれるものだから、ボクはそれが「ことさら」なものじゃないと立証するために仕方なく「それはボクだって同じですよ」と語っただけなんです。

 でも、真の問題は、なぜ木村さまはこんな「書かでもがな」なことを「あえて書いた」のか? ということでしょう。「自分の覚悟を自慢したかった」・・・というのもぜんぜん無いことはないでしょう。ですが、木村さまなら、それが多少でも物の見えた人間には「失笑をかう」程度の、幼稚な「自己顕示」行為だということには気がついていたと思います。なのになぜ「その(失笑を買う)危険」を犯してまで、あえて「書かでもがな」なことを書いたのでしょうか? それは、「自分を覚悟のある人間だ」と見せることによって、論敵であるボクを、相対的に「覚悟のない人間」、まるでボクが原著者へのご機嫌取りの為に「改変」に反対している人間ででもあるかのように、読者に印象づけようとした・・・ということなんです。そうじゃなかったら、どうしてここでこんな「不要な仮定」による「不要な注釈」がいるというのでしょうか。
 ボクが「狡い策謀」と書いたのは、こういうことです。こんな「姑息なやり口」は絶対に許せない。たとえ「法律」がそういう「姑息」さを許容したとしても、ボクは「言論人」としてそれを決して許しはしない。だから、ここにこうして「言論(論理)」をもって告発したんですよ。


私の過誤」について

ところで、「アレクセイの花園」における私の態度は、折角温く迎へてくれた人々と信頼關係を築くうへで、至らない點があつた。以下、その點を説明し、陳謝しなければならない。私は、かう書いた。

無論、「現代かなづかい」でも、「雁」や「阿部一族」の筋は理解出來ます。しかし、それだけで良い筈がない。ガラクタで建てた家にも人間は住めますが、「こんな家に住めるか」と怒るのが全うな人間です。(「瓦礫の家(2)」)

補足・訂正をずるずると後囘しにしたまま、ここまで來てしまつたが、これは大變亂暴な文章であつた。ガラクタ云々で私が眞に言ひたかつたのは、「もし或る人間が、新字新假名が望ましくない表記だと理性的に納得したなら、『こんな表記で書くのは嫌だ。なぜかうなつたのだ』と、戰後の國語改革に對し腹を立てるのが自然である」と云ふ事であつた。しかし、こんな文章ではさうした意圖はさつぱり傳はらない。

もつと正直に言へば、粗雜な文章をうつかり書いて仕舞ふのは、私自身の中に、「俺は正しいのだから少々亂暴な事を言つても良い」と云ふ驕りや、「この場所なら多少破目を外しても大目に見て貰へるだらう」と云ふ甘えがあるからに違ひない。恥づかしい事である。こんな事を口走るやうでは、「引用時の表記變更は正當」と聲を大にして主張しても、すんなり受容れて貰へる道理がないし、碧川氏から「『わが佛(「正字正かな」だけ)は尊し』といふ類ひの『情』に囚はれ」てゐると批判されても仕方がない。粗暴な發言で氣分を害された方々には、重ねてお詫び申上げます。

 

 木村さんは、ここでいちおう「自己の(過去の)過ち」を認めて「反省の言葉」を語っています。しかし『私が眞に言ひたかつたのは、「もし或る人間が、新字新假名が望ましくない表記だと理性的に納得したなら、『こんな表記で書くのは嫌だ。なぜかうなつたのだ』と、戰後の國語改革に對し腹を立てるのが自然である」と云ふ事であつた。しかし、こんな文章ではさうした意圖はさつぱり傳はらない』という言葉に明らかなように、結局のところは「そこに書かれていなかった真意とやらの説明になっており、「付けの言い訳自己正当化」に終わっています。「言論人」は「言ったこと」「書いたこと」が全てであり、「本当にあったかどうかも定かでない『真意』」なんて「一文の値うちもない」というのは自明の前提、それは「覚悟」の上の話なのです。後から「じつは、あれの真相は・・・」なんてことを言えるんだったら、どんなことでも「正当化」することはできるんですよ。「註」をつけなかった「理由」を後からあれこれ書いて見せるのと同様で、あとで「つもり」を説明しなきゃならないようなことなら、最初にきちんとそこまで書いておけということです。それが「言論人」ってものでしょう。これだって『その時點で私が説明すれば濟む。』という問題ではないんです。こんな「後からの説明(言い訳)」を「自分に許し(甘やかし)」てばかりしているから、「形ばかりの反省しかなされていない」と言われるんです。

 園主さまは、こないだ影姫青夜さまに『反省をしましたというだけではダメです。なぜ反省せねばならないような過ちを自分が犯してしまったのか、それをきちんと検討しなければならない。それこそが語の本来の意味における「反省」なのです』というようなことを書かれていましたが、木村さまに必要なのはまさに「このこと」なんです。だから、木村さまに必要なのは『驕り』や『甘え』の「存在」をみとめる、なんてレベルの話ではありません。言うまでもなく、人間の中には誰しも『驕り』や『甘え』は「存在」しているんです。ですから、それ(存在)自体を認めることは「当然」のことであり「一般 論」を出ないんです。「自分の驕り」であり「自分の甘え」の検討がなされて、初めて「反省」したと言えるんです。そして、このことも既に園主さまによって、木村さまには指摘済みなのです。「というアポリア」は「正字正かな」問題よりもずっと重要でしょう、という言葉で。

 木村さまが、未だに本物の「反省」をなさっていないというのは『こんな事を口走るやうでは、「引用時の表記變更は正當」と聲を大にして主張しても、すんなり受容れて貰へる道理がないし、碧川氏から「『わが佛(「正字正かな」だけ)は尊し』といふ類ひの『情』に囚はれ」てゐると批判されても仕方がない。』という言葉にも明らかでしょう。ここに語られているのは、要するに「あんな舌足らずの書き方をしたのでは『誤解』されても仕方ありませんでした」ということです。これは前にも書いたように「でも私の本意(真意)は、そこには無いんですよ」ということなんですが、しかし、こんな具合に「自分の真実(実態)」を他所に「逃して、生き延びさせる」以上、根本的な「反省」なんかできるはずないんです。

 だから木村さまには「安易に謝罪しないで欲しい」と言いたい。『粗暴な發言で氣分を害された方々には、重ねてお詫び申上げます。』・・・これは『粗暴』とか『氣分を害』したとか言うレベルの話ではないんです。ボクが問うているのは、木村さまの言論人としての「資質」レベルの話であって、「過失」「不手際」といった「技術」レベルの話ではないんですよ。

 

 

例外は例外的に認める」について

大内氏の「文庫の『略字新假名遣い』化には、反對されないと思ひますが、いかがでせうか」と云ふ御質問に對し、私は以下のやうに答へた。

文庫本の「略字新假名遣」化については、やはり「反對」と言はざるを得ません。第一に、全集は經濟的・物理的(場所塞ぎになる)な理由で一般 人が購入するのに必ずしも向かないから。第二に、年少者であつても、振り假名や「慣れ」によつて、正字正假名は意外に簡單に讀めるからです。これは樂古堂さん御自身の經驗からもお判りでせう。(「>樂古堂樣」)

この私の囘答を指して、碧川氏は「例外を認めない・原理主義」と批判した。そんな事はない。例へば、中學生向けの現代國文法の教材として鴎外の作品をどうしても使ひたいなら(そもそもそんな目的ならば、鴎外なんぞより最初から新字新假名の文章を使へば宜しいのであるが、それはまあ措くとして)、正字正假名のまま教へても混亂するばかりで本來の目的を達せられないだらうから、現代日本で支配的な新字新假名に變へなければならないだらう。

しかし、大内氏は「現代國文法の教材」などではなく、「文庫」と仰つたのである。文庫本をそのまま教材に使ふ人もなくはないだらうけれども、一般 的には、作品そのものを味はふのが文庫本の最大の役割であらう。子供も讀むが、大人だつてそれ以上に讀む。鴎外の作品を原典で樂しみたいが、全集を買ふ經濟的・物理的餘裕のない大人も讀む。全集はすぐ品切になる。古本屋にあるとは限らない。古本屋が近くにない人だつてゐる。

「新字新假名に慣れた現代人に、正字正假名は無理」と思ふ人がゐたら、それは取越苦勞である。實のところ、明治以降の口語文なら、正假名と新假名の文章にさほど大きな違ひはない。漢字も類推で判るものが殆どである。振假名を附ければ、さらに讀みやすくなる。ならば、古典は文庫本でも、いやいや、國民が入手しやすい文庫本だからこそ、表記を變へず、原文の味はひを殘す方が良いではないか。しかも、現代においては新字新假名の文庫本は溢れかへつてゐるが、正字正假名の文庫本は(岩波の僅かなリクエスト復刊本等を除けば)皆無に等しいのである。

私は、「原理主義」から文庫本の表記改變に闇雲に反對したのではない。以上のやうに現實の諸條件を勘案し、理性的に「反對」と結論したに過ぎない。條件次第では「例外」を認める。但し、私は、大原則として正字正假名は新字新假名よりも勝れると考へるのだから、結果 として正字正假名を選擇する場面が多くなるのは當然である。

私は、正字正假名と新字新假名との間で搖れ動きつつ眞實を撰びかねてゐる者ではない。すでに正字正假名を「眞實」として撰びとつた人間なのである。しかし、狂信的に固執してゐる譯ではない。萬が一、誰かが「正字正假名は間違つた國語表記である」と私に悟らせてくれる日が來たなら、喜んで眞理に從はう。

 

 もうだいぶ前から木村さんの論理破綻は「覆うべくもなくなって」きています。たぶん「息切れ」が原因でしょうが、そういう時こそその人の「本質」が覗くんです。

 『この私の囘答を指して、碧川氏は「例外を認めない・原理主義」と批判した。そんな事はない。例へば、中學生向けの現代國文法の教材として鴎外の作品をどうしても使ひたいなら(そもそもそんな目的ならば、鴎外なんぞより最初から新字新假名の文章を使へば宜しいのであるが、それはまあ措くとして)、正字正假名のまま教へても混亂するばかりで本來の目的を達せられないだらうから、現代日本で支配的な新字新假名に變へなければならないだらう。』・・・ほら、また始まりました「後付けの正当化(いつの間にかの柔軟化)」。ボクが木村さまを『「例外を認めない・原理主義」と批判した』当時、木村さまは今現在のように「たくさんの例外を容認」なさってはおらず、「柔軟な」園主さまや楽古堂主人さまの意見に「狷介な注文」をつけていただけなんですよ。
  だいたい『年少者であつても、振り假名や「慣れ」によつて、正字正假名は意外に簡單に讀めるから』なんていう理屈が「手前勝手」です。簡単に『「慣れ」によつて』なんて書いてますが、その「望みもしていないもの」に『「慣れ」』るのが面 倒」でたまらないというのが、木村さまにはわからないんでしょうか? 「好きなら」大変なことでも「苦痛」は感じませんが、「好きでもないこと」というのは、仮りにそれが「簡単なこと」だとしても、それに時間を取られること自体がそもそも「苦痛」なんですよ。木村さんの理屈には、この種の「手前味噌な前提条件」が多すぎて、全然「現実に則していない」んです

 『しかし、大内氏は「現代國文法の教材」などではなく、「文庫」と仰つたのである。文庫本をそのまま教材に使ふ人もなくはないだらうけれども、一般 的には、作品そのものを味はふのが文庫本の最大の役割であらう。子供も讀むが、大人だつてそれ以上に讀む。鴎外の作品を原典で樂しみたいが、全集を買ふ經濟的・物理的餘裕のない大人も讀む。全集はすぐ品切になる。古本屋にあるとは限らない。古本屋が近くにない人だつてゐる。 』・・・この議論もうんざりさせられます。どうして『しかし、大内氏は「現代國文法の教材」などではなく、「文庫」と仰つたのである。』なんて言えるんでしょう? これはご自分の『現代國文法の教材』案が正しく、すなわち「そうでない案(たとえば楽古堂主人さまの「文庫」案)は間違いだ」といった論理展開を示すものです。木村さまは簡単に『一般 的には、作品そのものを味はふのが文庫本の最大の役割であらう。』と言われていますが、それは事実の「一側面 」に過ぎません。楽古堂主人さまが「文庫」には「新字新かな」化も許容されるべきなのではないかとご主張なさったのも「一般 に、文庫はお手軽で取っ付きやすいという利点がある」からで、その「利点」を生かすためには「正字正かな」は「得策ではなく」むしろまずは「取っ付きやすい」ところから文学に馴染んでもらって、そこから「正字正かな」に進んでもらった方が、「正字正かな」のためにも良いのではないか、という戦略があったからであるはずです。ですから、この楽古堂主人さまの指摘した「一側面 」を無視して、「文庫は正字正かなの方が良い」とする自己の主張を通すために、手前味噌な「文庫の利点の定義」を持ち出してくるというのは、アンフェアの誹りを免れ得ない行為だと言えるでしょう。そしてなぜ、ここで木村さまが楽古堂主人さまの「文庫」案を否定するのかと言えば、それは今さら自分にも「例外を認める柔軟さはある」ということを語るために持ち出してきた現代國文法の教材案が「今さら出したもの」ではあれ、自分が否定した「文庫」案を越えるものだと立証しないことには、「文庫」案を否定した時の狷介さの「根拠」が無いことになってしまうからなんです。つまり、ここでの議論は、ほとんど実質的に「正字正かな」問題から離れてしまって、ただ木村さまの体面 (面子)保持」と「言論人としての保身工作」に堕してしまっているのです。

 『私は、「原理主義」から文庫本の表記改變に闇雲に反對したのではない。以上のやうに現實の諸條件を勘案し、理性的に「反對」と結論したに過ぎない。條件次第では「例外」を認める。但し、私は、大原則として正字正假名は新字新假名よりも勝れると考へるのだから、結果 として正字正假名を選擇する場面が多くなるのは當然である。』・・・自己申告だけでは、もはや信用できません。あとで「鵜呑みにする方が馬鹿なんだ」と言われかねないんですからね。『闇雲に反對したのではない』『諸條件を勘案し』『理性的に「反對」と結論した』と言っても、それが文章に書かれていなかったら、すべてペケなんですよ。「出し遅れの証文」とやらがホントにその当時「実在していたという保証は無い」んですから。

 『但し、私は、大原則として正字正假名は新字新假名よりも勝れると考へるのだから、結果 として正字正假名を選擇する場面が多くなるのは當然である。』・・・これはホントでしょう。でも、これも「言わでもがな」なことです。基本的には、誰だって「正しい」と思うことを「正しい」言い、「優れている」と「優れている」と言うんです。問題は、そうした「主観」ではなく、その「語られた判断」が「客観的・論理的に、正しいか否か」なんです。個人的に『考へる』だけではダメなんですよ。

 『私は、正字正假名と新字新假名との間で搖れ動きつつ眞實を撰びかねてゐる者ではない。すでに正字正假名を「眞實」として撰びとつた人間なのである。しかし、狂信的に固執してゐる譯ではない。萬が一、誰かが「正字正假名は間違つた國語表記である」と私に悟らせてくれる日が來たなら、喜んで眞理に從はう。』・・・これも自己申告に過ぎません。自分を『狂信的』な人間だとか『固執してゐる』人間だなんて認める人はいないんです。でも、そういう人の中にこそ『狂信的』な人、『固執してゐる』人が実在するんです。木村さまはご自分が「そうではない」と思うのなら、「そうではない」と言うだけではなく、事実としてそれを示さなければなりません。さりとて手の平を返したように「柔軟ぶり」を見せたあげく「気づかなかったでしょうが、私は昔から柔軟な人間なんです」なんて言ってもダメです。何度も言うように、それは「後付けの自己正当化」でしかなく、それで明らかになるのは「誠実さの欠除」だけなんです。

 

 

「無念」に想ひを巡らす」について

そろそろお終ひにしたいが、ここで、碧川氏の文章をもう一度引く。

ボクたちは誰しも「自分の作品が、他者に無斷で改竄された場合の、憤り・無念さ」などを想像して(つまり、相手の立場に立つ・他者を思ひやる、ことによつて)「出來うる限り、原作者の意志を尊重しようと努力すべき」だと「主體的・倫理的」に考へるべきなのです。(「アンチ・ヒロイズム」)

既に述べたやうに、「憤り・無念」は全てを正當化する譯ではない。しかし、碧川氏の上記文章は、大筋では正論であるし、筆者の誠實を示すものである。ところで、私は「無念」と云ふ言葉からこんな事を考へた。

福田恆存氏が『私の國語教室』で縷々説いたやうに、戰後の國語改革は日本語を歪めて仕舞つたと私は信ずるが、今に至るも改善の兆しが全く見えない事に對し、福田氏は草葉の蔭でさぞや「無念」に思つてゐる事であらう。福田氏に限らぬ 。「假名遣意見」を著した森鴎外も、言葉にうるさかつた幸田露伴も芥川龍之介も、苦勞の末に歴史的假名遣を確立した契冲も、本居宣長も國語學者の時枝誠記も、そして合理的で美しい國語を愛した多くの亡き人々も、その「無念」は想像に難くない。

私は、死者の「無念」こそ、深く「思ひやる」事が大切だと思ふ。G・K・チェスタトンは「死者にも投票權を與へよ」と述べたが、あらゆる弱者の中でも、死者は顧みられる事の最も少ない弱者だからである。いやしくも國語に關心を寄せる方々は、どこかで立ち止まつて、死者の「無念」に想ひを巡らせて貰ひたい。

勿論、これは「考へるのが當然」と云ふ押附けではないし、もし「戰後國語改革は惡」と云ふ結論に達したとしても、だから直ちに正字正假名で書けと云ふ事にもならない。「正字正假名は規範としては正しいが、自分は新字新假名が好きだから新字新假名で書く」と云ふ選擇だつて有り得るのである。「正字正假名を普及させたい」などと書いたから誤解されても仕方ないのだが、私は、個人がプライヴェートに書く文章において新字新假名を選擇するのは全く構はないと考へてゐる。私は、いやしくも一國の政府が、「現代仮名遣い」だの「常用漢字表」だの、非論理的な代物を國民の手本として掲げるのはをかしいと主張してゐるのである。

 

 『既に述べたやうに、「憤り・無念」は全てを正當化する譯ではない。しかし、碧川氏の上記文章は、大筋では正論であるし、筆者の誠實を示すものである。』・・・これでも誉めたつもりなんでしょうか?
 ボクの『ボクたちは誰しも「自分の作品が、他者に無斷で改竄された場合の、憤り・無念さ」などを想像して(つまり、相手の立場に立つ・他者を思ひやる、ことによつて)「出來うる限り、原作者の意志を尊重しようと努力すべき」だと「主體的・倫理的」に考へるべきなのです。』という主張は、『出來うる限り』と書いてもいるとおり、もともと「原則(的な考え方)」なんです。つまり『 大筋』なんですね。ですから「原則」に外れる「例外」のあることも、ボクは木村さんより以前から承知し、主張し、その「例外」を擁護してきたんです。ともあれ、その「原則」であり「大筋」をとらえて「憤り・無念」は全てを正當化する譯ではない。って、そりゃ 当たり前ですよ。これは「子供は大人じゃない」とか「伊藤さんは田中さんじゃない」なんていうのとぜんぜん違わない「わかりきったこと」なんです。で、気をつけなくてはならないのは、この「わかりきったことを、わざわざ書いて見せた時」なんですね。・・・もう、おわかりですよね。これもさっき指摘したのと同じパターンの「策謀」なんです。「原則(大筋)」に対して、わざわざ「原則(大筋)でしかない」と、ことさら「でしかない」という不要な否定句」を付して、相手を「印象的に貶める」という手口なんです

 こう書くと「どうして、そう悪意にばかり取るんですか」と嘆かれそうですが、それは木村さまがそういう「書かでもがな」なことを殊更に書いて、「不当な評価」をボクの文章に貼りつけようとするからです。自覚の有る無しにかかわりなく、ボクはこういう「姑息」なやり方を認めません。自覚が無いんなら、わからせてあげるだけのことです。

 『私は、死者の「無念」こそ、深く「思ひやる」事が大切だと思ふ。』・・・これも「手前味噌」です。『死者の「無念」』などと大袈裟なことを言いながら、そこに召還されてくる死者は、ご自分の立場に近い(都合の良い)人ばかり。要するにこれは『死者の「無念」こそ、深く「思ひやる」事』などという立派なことではなく、ただ自分自身の「無念・願望」を「権威ある死者に仮託して語らせている」だけなんです。それをご大層に『「思ひやる」事が大切だと思ふ。』なんて言うのは「烏滸がましい」にも程があるというものです。

 『死者の「無念」こそ、深く「思ひやる」事が大切だと思ふ。』という言葉の『こそ』は「生者の「無念」」と比較してというお話なのでしょう。でも、どういう根拠で「生者」より『死者』を『こそ』優先させなくてはならないのでしょうか? それは生者」は死者のように「自分(木村さま)の都合」どおりには、しゃべってくれはしないからです。

 ボクに言わせれば『死者の「無念」も、生者の「無念」も、ともに出来うるかぎり「思いやる」ことが大切です。すなわちそれは「他者(他人)」を思いやるということです。そんな人は当然のことですが、原著者の意図にも最大限の思いやりを示すことでしょう』ということになるんです。

 

 

放言主義者かく語りき」について

最後に、「少數者のヒロイズム(選民意識)」と云ふ御批判に對して一言。たしかに私は、よく亂暴な放言をやらかす。碧川氏がお讀みになつた「反時代的言論」もその一つである。しかし私は、自分の掲示板では、時々は一方的な放言をやらかしても構はないと考へてゐる。亂暴な内容を補ふ發言が、過去ログやサイト本體の中に存在するからである。

例へば、民主主義については、こんな事を書いた事がある。

クリスト教の神は人間を超えた存在だから、近代になつて人間同士の平等と云ふ概念が廣がつても、宗教の思想的基盤は搖がない。と云ふよりも、「神の下に人間は皆平等」と云ふクリスト教の教義そのものが、民主主義の思想を生み出したのである。ところが、日本の天皇は飽く迄も人間、「人の上の人」に過ぎないから、平等思想が入つて來ると非常に困つた事になる。かと云つて、今更、平等思想を日本から追出さうとしても無理である。……困つた困つた。

いつか野嵜さんが書いていらつしやつたやうに、「天皇の下の平等」と云ふ形で西洋思想との折合ひをつけてゆくしかないのでせう。これまた難事だとは思ひますが。(「平等思想と天皇」平成13年5月1日 「地獄の箴言 掲示板」より)

平和主義については、こんな事を書いた事がある。

松原正氏が説くやうに、人間は正義を氣に掛けずにゐられない存在であり、それゆゑ戰爭は無くならない。人間が道徳的である爲には、戰爭は「最後の理性」として積極的に必要だとも思ふ。ゆゑに私は戰爭肯定論者である。しかし戰爭肯定論者は、ハティのやうに戰爭で息子を失ひ悲しむ母親の存在を忘れてはならぬ と思ふ。無論、母親が我が子を愛するがゆゑに戰爭を望む場合も有るのであり、母性を反戰思想の道具に使ふのは僞善である。だが戰爭肯定論が戰爭否定論に比べ遙かに増しだとしても、夏目漱石が書いたやうに「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない」以上、そこから零れ落ちるものは有る筈なのである。(「戰爭と母性と」平成12年6月18日 「現代の批判」より)

アレクセイの花園」でさんざん亂暴な發言をした私だから、碧川氏から「ヒロイズム」と決めつけられても「身から出た錆」ではある。けれども、一つの放言だけを材料に論評されたのは、ちと「無念」である。

 

 『しかし私は、自分の掲示板では、時々は一方的な放言をやらかしても構はないと考へてゐる。亂暴な内容を補ふ發言が、過去ログやサイト本體の中に存在するからである。 』・・・これが「反省」の無い証拠です。さっき『私の過誤』のところで『至らない點があつた』『陳謝しなければならない』『大變亂暴な文章であつた』『こんな文章ではさうした意圖はさつぱり傳はらない』『こんな事を口走るやうでは』『受容れて貰へる道理がない』『批判されても仕方がない』『重ねてお詫び申上げます』と「自分の(そこでの)到らなさ」を謝罪してみせたのは、いったい誰だったのでしょうか?

 「ほかのところでちゃんと書いているから。到らない文章(放言)でもいいんだ」と言うのなら、なぜさっきはそれを「過誤」だと認めたんですか?
 結論から言えば、「他所に書いてある」じゃダメなんです。せめて「そのことについてはここでは書かないが、こちらを参照してもらいたい」と「註」のひとつも「その時」につけておくべきなんです。それをまた今度も「今頃になって」から「こんなことも書いてます」と持ち出してきたって遅いんです。ダメなんなんですよ。初めから「」をつけておけば、誰もそれを本質的な「放言」だとは思わないんです。「説明すべきことをしていない」から「到らぬ もの」としての「放言」だと評価され「非難」されるんです


 『アレクセイの花園」でさんざん亂暴な發言をした私だから、碧川氏から「ヒロイズム」と決めつけられても「身から出た錆」ではある。けれども、一つの放言だけを材料に論評されたのは、ちと「無念」である。』・・・ここまで読んでいただければ、もはや誰の目にも明らかなことでしょうが、ボクは、木村さまの発言の多くに共通 して浮き出している身から出た錆』をもとにして、木村さまの『ヒロイズム』を解析してみせたのです。それは『決めつけ』でも『一つの放言だけを材料に論評』 したものでもありません。むしろ木村さまのこういう無根拠な書き方の方こそ『 決めつけ』と呼ぶべきなのではないでしょうか?

 

 

 ここまで見てきたように、木村貴さまの「ご意見」というのは、ご本人の自覚の有無にかかわりなく「強弁」と「詭弁」に満ちた「不誠実」なものです。一見、ものわかりが良さそうで、謙虚に「反省」する人のように見えますが、本質的にはそうではありません。

 なぜ、こういうことが起こるのかと言えば、それは頭の良い木村さまにも、人並みの「煩悩(押さえ難い欲望)」があって、それに振り回されているということなのだと思います。その「煩悩」とは、他人から「知的だと思われたい」「意志堅固だと思われたい」「柔軟性があると思われたい」「謙虚だと思われたい」という「の見栄」と、「間違いを認めたくない」「自分が煩悩によって振り回されていると認めたくない」「言い負かされたと認めたくない」と「の見栄」という、本来両立しないものを、無理に(論理破綻的に)両立させた結果 、惹起されたものだと思います。そしてこれは、頭の良い人に「ありがち」な「人間的現象」なんだと思います。

 ボクはここまで、それこそ木村さまの「批評家生命をとる」つもりで、厳しく、残酷なまでに批判を加えてきました。しかし、なぜそこまでしたのかと言えば、それは木村さまが頭の良い人だからこそで、なまじの批判では、木村さまなら「すぐに後付けの言い訳」でっち上げて、それを自分に投げ与えてしまうことが目に見えていたからです。それをされてしまっては、何のために批判したのかということになりますから、ボクはいやでも木村さまがご自分の「深層」と直面 せざるを得ないところまで、徹底的に「引きずり下ろした」というわけです。

 園主さまが、最後には決裂した、なかざきさまや五島さまを評して『あの人たちも、基本的には真面 目で良い人なんだと思う。少なくとも世間の水準に照らせば、間違いなくそうだろう。だけど、そんな彼らが最後にはああいう醜態を曝してしまうというのは、結局、自分の中にも存在する「悪」や「弱さ」を直視するだけの「力」が無かったからだろう。真面 目な人、良い人であるが故に、周囲からもそう評価され、自分でもそれを素直に信じてきた結果 、ぎりぎりのところまで追い詰められた時に、自分の深層から現れてくる「悪魔」の存在を直視できなかったんだろう。しかたがないと言えばしかたがないし、可哀想だと言えば可哀想だ。だが、長い一生の間には、自分の負の部分を直視しなければならない時が必ずあるし、結局、自分の責任は自分で取るしかないんだ。あの人たちが、あの残酷な体験を通 して、すこしでも自分というものを深く見つめなおしてくれたらと思うよ』と大体そういうようなことを語っておられましたが、これはボクの木村さまに対する思いでもあるんです。

 もちろんボクの「憎まれてもいい」という覚悟は、木村さま程度のものではない 、というのはここまで読んできて下さった方には十二分に伝わっていることでしょう。ですから、ボクがここで書いていることは、もちろん「フォロー」と呼ばれるものではありません。ただ、「憎まれる」のが目的ではないですから、いちおう自分の意図は全部語っておこうと言うだけのことなのです。木村さまの「怠慢」の批判者であるボクが、同じ過ちを繰り返したのでは洒落になりません。だから「書けることは全部書いた」んです。それでも「憎まれ」たら諦めもつくという、ただそれだけのことです。

 

 なにはともあれ、まだ論争は終わっていません。木村さまから反論があれば、たぶんボクはまた納得できずに反論することでしょう。ここに書いたのは、ひとまず今ボクに書ける意見のすべてなのです(あー、疲れたー・・・)。

 

 

  2001年8月7日

 

 

 


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