不良・創価学会員による
アメリカ「イラク攻撃」支持
公明党批判

◆ 君よ、如修行の行者たれ! ◆

 

 

アレクセイ(田中幸一)

 

 私は、十代なかばから二十代なかばにかけて、宗教団体である「創価学会」の会員として、活動をしていた。しかし、今はまったく活動をしていない。その理由は、この創価学会の信仰が「本物」だとは、ついに確信できなかった(ため、これ以上その確認作業に時間をかけられないと考えた)からである。ただし、私が確信を持つにいたらなかったのは、何も「創価学会」の信仰ばかりではない。私は「宗教」というものに「単なる精神修養」以上の「ある種の力」を期待しており、その後も現在にいたるまで主に書物を通 して「宗教」への興味を持続しているのだが、宗派を問わず、その種の「手応え」を感じるには至っていないのである(書物で「信仰」の真髄が感得できるわけがないというご意見はもっともなものであるが、人はすべての宗教宗派について、充分に体験的検証をする時間など持てない)
 「法華経」を奉ずる日蓮の仏法は大乗仏教であり、それに属する「創価学会」の活動の中心は、もちろん布教活動
(布教による民衆救済)である。だが、確信を持てないのでは、当然その活動もままならない。まして内心「この宗教は本物なのか? いや宗教自体、願望による幻想なのではないか?」という積極的な疑問をかかえていたのでは、いくら「実践の中でしか、確信は掴めない」とはいっても、自信のない布教活動には常に「後ろめたさ」がついて回らざるをえず、そのジレンマで精神的にも大変つらかったのである。

 なお、冒頭部分で、「脱会した」ではなく『活動をしていない』と書いたのは、私が、正式には創価学会を脱会をしておらず、もちろん退会させられてもいないため、書類上では、いまだに学会員だからである。つまり私は、学会の立場からすると、「退転(信仰喪失)状態にある会員」というわけなのだが、創価学会は日蓮の仏法によって、迷える民衆を救うことを目的とした宗教団体であるから、活動をしてなくても、会費にあたるものを一切払っていなくても、あるいは逆に、多少批判的な言動をしたとしても、それだけで「邪知」に迷える人を見捨てて「退会させる」というような、そんな無慈悲なことはしないのである。
 そんなわけで、私は今だに創価学会員なのだが、ただし「信仰を失った」「批判的な」会員ということなのである。

 さて、そんな経歴から私は、創価学会員(特に末端会員や末端組織)の実態というものをよく知っているため、週刊誌などから与えられた悪意ある情報や個人の偏頗な印象だけで、学会員をとやかく言う人たちとは、自ずとスタンスが違っている。私は多くの学会員が「ごく普通 の庶民」だということをよく知っているし、彼らに見られる熱心な(時に強引な)布教活動も、「信仰による民衆救済」という大目的を信じているが故の、ある意味では「当然の行動」だと理解している(もちろん「理解している」ということと、それが「正しいと評価する」ということとは、同じではない)。ただ、私は、彼ら個々の「信仰」そのものが「(願望充足的)盲信」の域を出ず、必要な「知的懐疑」を欠いていると感ぜられるので、そのあたりを「信仰のあり方」の問題として批判せざるをえないのである。
 ともあれ、そんなわけで私は、今でも一般の学会員の人たちには、決して悪意は持ってはおらず、むしろ偏見でとやかく言われがちな彼らに、同情的ですらあるとは言えるだろう。私が創価学会を正式に脱会しないのも、かつての末端同志にある種の友情を感じているからだと言っても良い。彼らの「盲信」には批判的であれ、私は彼らの「素直さ」や「真面 目さ」を、世間の水準に比して、やはり愛しまざるをえないのである。


 しかし、そんな私がどうしても許せないのが、自民党と連立政権を組んだ「公明党」である。私が学会員として活動していた当時、自民党というのは「悪の政党」以外の何ものでもなかった。共産党が「もっとも嫌い」な政党であれば
(たぶんこれは、「信仰」と「思想」の近親憎悪であろう)、自民党は「打倒すべき悪」そのものだったのである。ところが、今の公明党はどうか?

 『産経新聞』に連載されている『「イラク攻撃」日本の責任』の第5回(2003年2月22日付け)に、公明党の冬柴鉄三幹事長の談話をまとめたものが、『国際社会と無法者との対立』という見出しつきで掲載されていた。全文は、以下のとおりである。

 イラク問題は「フセイン大統領と国際社会との対立」であって、「米国が戦争・それ以外が平和」ということではない。目的は大量 破壊兵器などの完全廃棄で、これが国際社会の脅威になっていることが問題なのだ。テロリストに科学兵器が回ったら大変なことになる。
 全世界で反戦デモが起きているが、大量破壊兵器などの廃棄を求める圧力を戦争と連想しているようだ。しかし国と国の対立ではなく、「国際社会対無法者」という構図であることを忘れてはいけない。
 日本の対応について対米追従との批判がある。しかしこの批判はあたらない。日本は国際協調を重視しながら対応している。一部の国は査察強化で対応すべきだと主張しているが、問題はフセイン大統領が協力しない限り完全な査察はできないということ。足りないのは大統領の誠意で、大統領が心変わりするには究極の圧力が必要だ。
 公明党内では「米国が武力攻撃するには新たな国連決議が必要だ」というコンセンサスはできている。もちろん武力行使容認がまとまっても、すぐに攻撃すべきではない。あくまでも武力容認決議は最終的な圧力で、米国にもそうなるようお願いしている。
 仮定の話は避けたいが、新たな決議がないまま米国が攻撃に踏み切った場合、主要国の大半が静かなる承認というケースもありうるだろうし、原理主義的に「支持しない」というほど頭が固いわけではない。
 個人的な考えとしては、国民の合意があれば国連を中心とした集団安全保障体制に参加することに賛成だが、今回も精神としてはそういうことを射程に考えてもいいのではないかと思う。
 イラクの復興支援も今後、議論になるだろう。日本は中東に原油を依存しており貢献することは当然。国際協調、中東地域の安定が日本経済の安定につながることを踏まえるべきだ。
 その仕組みとして国連平和維持軍(PKO)がある。現行のPKO協力法の枠組みでは、派遣の要件など難しい部分もある。イラク問題のために特別 措置法が必要な場面も出てくるかもしれない。
 明確な武力行使を目的としたものはできないということ。周辺国への難民支援や医療支援など、交戦状態の中でも実施しないといけないケースも想定される。武器使用についてよく議論になるが、これは国民とともに議論を積み上げないといけない話。武器使用と武力行使は違うという側面 をきちんと考えるべきだ。(談)

 その昔、同じ「世界平和を願う信仰の同志」と頼み、公明党を支援した者として、私は、このグニャグニャとした言い訳がましい文章を書き写 しながら、情けなくて悔し涙すら禁じえない。

 

 言うまでもなく、宗祖 日蓮大聖人は、誤った信仰が日本(世界)を不幸にしているという宗教的世界観に立脚し、当時、権力と結びついていた既成の仏教諸派を前に『念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊(立正安国論)と獅子吼し、命の危険に及ぶ三度の「法難」にあわれた。また『法華折伏、破権門理(如説修行抄)といって、法華経の精神は「仮借のない法論・破折によって過ちを正す」の精神だとし、権力の弾圧に一歩も退くことなく、過酷で苛烈な生涯を送った「末法の如説修行の仏」であった。


 また創価学会の牧口常三郎 初代会長は、先の大戦において、軍国日本を平和仏法の立場から批判し、獄に下って、そこで亡くなられた。
  戸田城聖 第二代会長
は、生きて獄から帰還し、獄死した恩師の遺志をついで戦後の焼け野原に立ち、正法流布による世界平和の実現を誓い、原子爆弾を使用した者は何人であろうと『これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。』と被爆国日本においても先駆的な「原水爆禁止宣言」を発表した。
  また「世界平和」実現に向けての活動のひとつとして政治活動の重要性を認め、実質的に公明党の産みの親となり、また自分の足で創価学会の信仰・日蓮大聖人の仏法を世界に広めた池田大作 第三代会長
(現・創価学会インターナショナル会長)は、その主著であり学会員の「聖典」とも言える小説『人間革命』第一巻の冒頭を

戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。

と書き起こし、戦後の創価学会が「不戦・平和への誓い」から出発したことを明確に記しているし、現在の池田大作SGI会長の主たる仕事は、民間・私人レベルでの平和外交たる「平和旅」だと言えよう。

 

 言うまでもなく、公明党は、主要幹部はもとよりその大半が、現役の創価学会員である。そして、その創価学会員であり、池田会長の「弟子」を自認する(であろう)公明党の冬柴鉄三幹事長が、ここでは『新たな決議がないまま米国が攻撃に踏み切った場合、主要国の大半が静かなる承認というケースもありうるだろうし、原理主義的に「支持しない」というほど頭が固いわけではない。』とイラクに対する「戦争・攻撃の容認」を明言しているのである。日蓮大聖人の末弟子でもあるはずの公明党の冬柴鉄三幹事長が、仏法の原理原則である「言論戦主義」「平和主義」を違えると、ここで明言しているのである。……これがどうして黙認できるだろうか?
 公明党のこうした方針について、公明党の支持母体である創価学会の、現在のトップである池田大作SGI会長は、いったい如何なる立場を取っているのであろうか? たしかに創価学会と公明党とは別 団体であり、特定の宗教団体である創価学会が、公明党の政治活動方針に余計な口出しをするのは「好ましくない」ことなのかも知れない。しかし、「世界平和の実現」「庶民の中に生まれ、庶民のために戦い、庶民のために死んでいく」という「公明党の立党精神」が崩壊の危機に瀕している今、口出しはできないと拱手傍観を決め込むことが、はたして日蓮大聖人の弟子たる者に許されることなのであろうか?

 日蓮大聖人は、開目抄の中で、

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども、疑いををこして皆捨てけん、拙なき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするるなるべし

と、学会員ならば誰でも知っている有名・厳格な言葉を記しておられる。

 平和な時代に平和を叫ぶことは容易である。しかし、わが国、自身の身にも損害(日本がアメリカに逆らえば、何らかの損をするのは必定)が及ぼうという今この時、この『まことの時』に、この平和仏法の精神を堅持できなくて、何が「日蓮大聖人の弟子」であろう。
 私は「大聖人の不良弟子」として、今この時にこそ「平和」を叫び、『魔ものであり、サタンであり、怪物で』あるアメリカを批判し、そのアメリカの「戦争」を容認する公明党員・創価学会員を批判し、破折せざるをえない。

 このままでは、先の大戦時と同じく、「日蓮主義」の影響を受けた者が、世界に「一色の安定平和」をもたらすべく(強制すべく)(「アメリカの正義」に加担して)外国に攻め入ったという「恥ずべき歴史」が、再び刻まれることであろう。たしかに大聖人は、この仏法だけが世界に平和をもたらすが故に、これを世界に流布しなければならない、とはおっしゃった。しかし、その為には手段を選ばないとはおっしゃらなかった。宗教は、その宗教の正しさにおいて広まるべきであり、この法華経にはその力がある、というのが大聖人の大確信であったはずだ。だからこそ今、公明党は、先の大戦時の「日蓮主義者」たちの轍を踏むことなく、正しく『法華折伏、破権門理』の精神で「世界平和」を目指さなければならないのである。今「アメリカの正義」のお先棒を担ぐことは、大聖人の仏法に泥を塗る行為だと心得るべきであろう。


 イラクに学会員はいないかも知れないが、そこにも「戦争」の被害に泣かされる「庶民」は必ず存在する。
 そんな
イラクの大地に立って、迫りくるアメリカ軍を前に、『南無妙法蓮華経』と獅子吼する、そんな日蓮大聖人の本当の末弟子は、どこにもいないのであろうか。

 

 

  執筆・2002年2月26日 (初出・BBS「アレクセイの花園 同日)
  改訂・2002年3月3日

 


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