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◆ 疑心暗鬼を見る ◆
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近藤和宏氏の行動原理
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アレクセイ(田中幸一)
私の論文『ダチョウの論理 ―― 近藤和宏氏の論理について 』に対する、近藤和宏氏(以下、敬称略)の反論文である『アレクセイ氏への疑問3』は、私が先に『貧困なる精神・貧困なる知性 ―― 近藤和宏氏について 』で指摘した、
『近藤和宏という人物には、「常識が不足」しており「その自覚も不足」している。にもかかわらず、自分が多少の「専門知識」を有していることを鼻にかけており「自分が優秀な人間だと思い違い」してもいる。そんな彼は当然のことながら「自己客観視」ということが全然できない「自閉的」「自己完結的」「自己満足的」な「幼児性格者」だから、「他人の事を容易に見下し」がちである。反面 、「自立心が欠如している」ため「権威」や「知識」や「仲間」といったものに依存しがちで「孤立(独立)」に堪ええない「脆弱な精神の持ち主」でもある。またその「精神の脆弱性」ゆえに「自己の過ちを認める勇気がなく」結果 として、いつまでも「言い訳に言い訳を重ねる」といった行動を繰り返し続けるのである。』
という近藤自身の本質を、さらに懇切丁寧に「裏書き」してくれる、たいへん愉快な文章である。
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近藤は『アレクセイ氏への疑問3』の冒頭部の「議論内容について」で次のように書いている。
『アレクセイ氏はどうにも私の人格を攻撃することにばかり注力されていますが、自らの転載と転記についての誤用と誤解、転載と引用に対する誤解と解釈の甘さについてなんら言及されていません。話題を逸らすことばかりを考えず、議論の本題についてしっかり語ってください。 私はこの点についての議論を行うものだと考えておりましたが、アレクセイ氏の見解は異なるものなのでしょうか。』
まず近藤は、私の批評を「人格攻撃」だと攻撃しているが、この点については既に『ダチョウの論理 ―― 近藤和宏氏の論理について 』で説明済みである。すなわち、
『……まことに「無自覚な人間」とは如何ともし難いものである。当然のことながら、これは私の力をもってしても如何ともしがたいわけのだが、この「愚行の軌跡」をフレームアップして読者諸兄に提供し、「他山の石」としていただくことは、あながち価値の無いことでもあるまい。したがって、この論文も形式的には近藤の反論に応える形にはなるが、本質的には「反論」ではなく「近藤和宏論」であり「人間の愚行の姿」を論じた論文である。』
近藤にはこの文章の意味が理解できなかったのであろう。所詮、批評文にも「敬称をつけろ」と要求するような人間なのだから理解できないのは当然である。だが、自分が理解できていない可能性を考慮せず(できず)に他人を非難するというのは何とも困ったことなのだが、……もとより私の書いていることが理解できれば『アレクセイ氏への疑問3』という文章自体が執筆不可能なのだから、これも致し方のないことであろう。
例えば、ある「小説」を批評したとする。それは「作品論」であるのは勿論、自ずと「作家論」の性格も帯びてこよう。作中人物の意見を作者の意見と同一視するような初歩的なミスは論外として、まともな批評であれば、その「作品世界の特質」を読み解くことによって、「作者の世界観」すなわち「作者の人間性」に迫ることがなされよう。だからこそ「作品」を通 しての「作家論」は可能なのである。そしてこれは何も「小説」に限ったことではなく、「批評文」や「エッセイ」などの文章表現は無論のこと、「美術絵画」や「映画」「造形」といった対象でさえ、「作家論」は可能なものとされているのである。
したがって私が近藤の文章を読んで「近藤和宏論」を書くのは、客観的には何の不都合もないことである。そして「作品論」においては「傑作は傑作、駄 作は駄作」と語られるように、「作家論」でも「優れた書き手は優れた書き手、ダメな書き手はダメな書き手」と語られるのは当然のことで、批評においては「誉めねばならぬ ような義理などない」というのは、これまた当然のことなのだ。
だが世の中に馬鹿の尽きることはない。例えば以前、ミステリ評論家の新保博久が朝日新聞紙上で、人気ミステリ作家 内田康夫の作品を「ミステリとしては取るに足らない凡作だけれど、この程度のものだからこそ、逆に一般 受けするんだろう」という主旨の評価を語った結果、日頃 編集者やファンから、あるいは提灯持ち評論家からチヤホヤされてばかりいたのであろう内田は、激怒して朝日新聞に抗議をし、人気作家の発言力を用いて、新保の連載を打ち切れと圧力をかけた……というのは、業界では有名な話である。
言うまでもないことだが、新保も評論家である以上、内田の作品がなぜ「ミステリとしては取るに足らない凡作」であるかは説明をしている。それがなければ、その文章は「批評文」ではなく単なる「感想文」であり、文字どおりの「悪口」にしかならないからだ。しかし、内田にすればこの「説明」に納得がいかなかったのであろう。それは仕方のないことなのかも知れないが、しかし、納得できようとできまいと、それが「説明責任」を果 たした「批評文」であるのならば、それを「批評文」として認め、その上で「反論」をもって応じるのが「筋」というものなのである。自分が納得できないからといって「悪口」や「誹謗中傷」と決めつけるのは、そちらの方が非論理的な「過ち」なのだ。
つまり近藤のいう「人格攻撃」というのも、所詮は内田の愚行と同種の「独りよがり」でしかない。批評というものの「厳しさ」がわかっていない彼らは、「作品」が貶されれば「誹謗中傷」だと思い、「書き手である自分」が貶されれば「人格攻撃」だと、単純にそう思い込むのである。
私は批評をしているのだから「駄作は駄作」だと言うし「馬鹿は馬鹿」だと言う。ただし、それだけでは素人の「感想文」と同じだから、その「判断の根拠」は読者に示すのである。もちろん「駄 作」を「駄作」だと論証すること自体にはあまり意味がない。なぜなら、そんなことは既に多くの人にはわかっていることだからだ。新保が人気作家の内田をあえて貶したのは、内田が「人気作家」であるが故に、内田作品の「ミステリとしての凡作性」に気づかない読者が大勢いたからなのだ。批評家 新保としては「人気作家であるということと、優れたミステリ作家であるということは、話が別 なんですよ」という「見落とされがちな真実」を、「専門家の立場」から語ってみせたということなのである。だからこそ新保の「凡作は凡作」という当たり前の評価には「批評的価値」があったのだ。
同様、近藤を「ダメ」だと語ること自体に、私は価値を見い出してはいない。そんなことは彼のこれまでの言動を見れば自明だからである。しかし、彼が「なぜダメなのか」それを正しく理解する人は決して多くはあるまい。だからこそ、私はそれを「批評家として」語るのである。彼がダメなのは「こうこうだからだ」と語ることは、近藤一人の問題を超えて、普遍的な「人間の問題」となるであろう。「ああ、そういうことなのか。ならば近藤の(内田の)愚行は他人事ではないな」と読者に、彼らの「問題点」を共有してもらおうというのが、私の「批評家として」の狙いなのである。 それが『本質的には「反論」ではなく「近藤和宏論」であり「人間の愚行の姿」を論じた論文である。』という言葉の意味なのである。
したがって、近藤の言う「人格攻撃」など、馬鹿馬鹿しすぎて、到底私にできることではないのである。所詮、近藤は私にとっては「研究材料」であり「生きた教材」でしかない。それは 『ダチョウの論理 ―― 近藤和宏氏の論理について 』にも説明済みの事項なのだ。
『自らの転載と転記についての誤用と誤解、転載と引用に対する誤解と解釈の甘さについてなんら言及されていません。』などというのも同じで、本人が理解してないだけなのに、それを『言及されていません。』などと都合良く語れる、近藤は「そんな人間」なのである。
『転載と転記について』については既に『貧困なる精神・貧困なる知性 ―― 近藤和宏氏について 』で充分説明済みで、これで納得できないのは、私の解釈が「自分のものとは違う」という意味で納得できない近藤や(内田や)そのお仲間(野嵜健秀・木村貴)だけであろう。最初に掲げた『貧困なる精神・貧困なる知性 ―― 近藤和宏氏について 』の結論どおり、彼らは所詮『「自己客観視」ということが全然できない「自閉的」「自己完結的」「自己満足的」な「幼児性格者」』なのだから、自己に否定的な意見など、もとより受け入れようもないのである。
『転載と引用に対する誤解と解釈の甘さについて』についても同様の「手前味噌」でしかない。要は「近藤としては」自分の意図を「全面 的に受け入れさせたいだけ」なのだ。「私の文章なんだから、私の意志を100パーセント受け入れよ」という主張なのである。それが完全に満たされないものである限り、それは「甘い」と評価される。しかし、かつて木村貴も主張したように「公にされた文章」は「その書き手だけのものではない」。だからこそ「引用」ということが法律でも認められている。つまり書き手がいくら「100パーセント(完全)」を望んだとしても、それはあくまでも「希望」であって「強制」ではない。だから「HTMLまで再現して下さい」「いや、そこまでする必要は認めません」で済むのである。あとはその「判断」を第三者が妥当なものと認めるか否かで、「新字新仮名」の文章をわざわざ「正字正仮名」に書き換えて引用する木村が、「HTMLの再現まではしない」という態度を非難できるはずもないのだが、しかし党派性に凝り固まった木村には、そんなことすら理解できないのである。
その点、近藤はまだマシで「HTMLの再現」までは強要できないことをよく知っているからこそ、今度は『複写 された文章が主となり、複写した者が記述した文章が従となる場合、文中に複写された文章は転載と扱われます。複写 された文章が従となり、複写した者が記述した文章が主となる場合、文中に複写された文章は引用として扱われます。この差は用法にあり、複写 された文章の多寡は関係ありません。』という理屈を持ち出してきて、「一部でも許可無しの使用はまかりならん」とやるわけなのだ。
だが、私が作成している『「正字正仮名」論争』にしろ『「掲示板荒らし」対処法』(※ 作成中)にしろ、その主旨は「何が実際書かれたのかを、すべて白日の元に曝す」という意図のものであり、これには近藤とて本来、異論はないはずなのだ。それに全体が引用で構成されているとは言え、近藤の文章は「全体のごく一部、または構成要素のひとつ」でしかなく『複写 された(※ 近藤の)文章が主となり、複写した者が記述した文章が従となる場合』には当たらない。「今でこそ」近藤はそれなりに長い文章を書いているが、私が最初に転記・転載を願い出た当時には大したものを書いていたわけではなく「決して、全体の中で占める位 地が高いとは言えない」ものだったのである。つまり、近藤がここで持ち出してきた理屈は、近藤にはまったく当て嵌まらないのである。
ここに言う 『複写された文章が主となり、複写 した者が記述した文章が従となる場合』 とは、例えば私が寺山修司の歌を百首ほど使用し、それにそれぞれ「これは素晴らしい」とか「これはまあまあ」と言った程度の解説を付して「私の本」として発表しようとしたような場合なのである。つまり「人のふんどしで相撲をとろう」とするような輩を取り締まるために、こういう「使用制限」が設けられているのであるから、私の 『「正字正仮名」論争』や『「掲示板荒らし」対処法』(※ 作成中)が、これに当たらないのはわかりきったことなのだ。
では、なぜ近藤はここまで「屁理屈」をこねるのか? もちろんそれは「とにかく一部たりとも使用されたくない」という「身勝手」がその本音であり、なぜそこまで頑に拒絶するのかと言えば、それは要するに「すべてを白日の下に曝される」のが「怖い」だけなのだ。「引用が不正確」だとか何とか言っているが、引用転載に「文言レベル」で誤りがあれば、それを指摘して正せば済むことなのだ。所詮、近藤の「注文」は決して「曝す」方向での建設的な意見でないことは、説明するまでもなく誰の目にも明白であろう。近藤は拒絶のための拒絶をしているに過ぎない。ただ隠蔽してしまいたいだけなのである。
『アレクセイ氏はどうにも私の人格を攻撃することにばかり注力されていますが、自らの転載と転記についての誤用と誤解、転載と引用に対する誤解と解釈の甘さについてなんら言及されていません。話題を逸らすことばかりを考えず、議論の本題についてしっかり語ってください。 私はこの点についての議論を行うものだと考えておりましたが、アレクセイ氏の見解は異なるものなのでしょうか。』
したがって『話題を逸らすことばかりを考えず、議論の本題についてしっかり語って 』いただきたいのは、他でもなく「近藤自身」の方なのである。
ちなみに近藤は今回の『アレクセイ氏への疑問3』で『 私はこの点についての議論を行うものだと考えておりましたが、アレクセイ氏の見解は異なるものなのでしょうか。』とか『私はアレクセイ氏が私と転載と転記、転載と引用についての議論を行いたいと思っているものだと考えていましたが、アレクセイ氏の今までの文章は明らかにこれと異なります。また、他の方の日記を見ても、やはり期待されていたのはこの辺りであったという意見を拝見しました。 私も、こういった内容の議論は自らにとって非常に有益であり、他の方にとってもやはり有益であるものだと思いましたから議論に付き合う意思を持っていましたが、アレクセイ氏の行いたい議論が私についてなのであれば、私自身に興味がある人以外にとっては全く意味のないものであり、その点について知りたい方は、単に私とコンタクトを取れば良いだけですから誰にとってもなんら有益ではなく、むしろ私にとっては時間の浪費で無駄 でしかありません。 アレクセイ氏は何に関して議論したいのでしょうか。』とかなどと平気な顔で書いているが、私が「HTML」だの「転載・引用」といったことに興味が無いのは始めからわかりきったことではないか。
そもそも「事の起こり」は、近藤が私のサイトの掲示板に出向いてきて、私とホランドを同一人物と前提した上での「的外れな質問や非難」をし、それが『支離滅裂』だったと判明するや『気にしない』でくれなどといった「非常識な物言いをした」ことに発するのである。近藤のこの『支離滅裂』な発言は、近藤が自サイトの「日記」のページに、私とホランドについて「同じメールアドレスを使っている以上、同一人物だとしか思えない」と書いていたことからその根拠らしきものが伺えるのだが、私がこれに対しても「そう思うのは勝手だが、そう思うことと、そんな薄弱な根拠で他人のことを公の場所で無責任にとやかく言うこととは、決して同じではないし、許されることでもない」とその倫理観を非難し、近藤がこれに抗弁したという経緯にも、問題の所在は明らかであろう。私と近藤との議論が 本来、「HTML」だの「転載・引用」といったことレベルの話ではなく、「書くことの倫理」の問題なのは、始めからわかりきっていたことなのである。
だが、『ダチョウの論理 ―― 近藤和宏氏の論理について 』 でも指摘したように、近藤はどうにかして「話題」を自分の専門領域に引きずり込みたいのである。だから「そもそもの事の起こり」を都合良く忘れて、『私はアレクセイ氏が私と転載と転記、転載と引用についての議論を行いたいと思っているものだと考えていましたが、アレクセイ氏の今までの文章は明らかにこれと異なります。また、他の方の日記を見ても、やはり期待されていたのはこの辺りであったという意見を拝見しました。 私も、こういった内容の議論は自らにとって非常に有益であり、他の方にとってもやはり有益であるものだと思いましたから議論に付き合う意思を持っていましたが、アレクセイ氏の行いたい議論が私についてなのであれば、私自身に興味がある人以外にとっては全く意味のないものであり、その点について知りたい方は、単に私とコンタクトを取れば良いだけですから誰にとってもなんら有益ではなく、むしろ私にとっては時間の浪費で無駄 でしかありません。 アレクセイ氏は何に関して議論したいのでしょうか。』なんぞという得手勝手な「個人的な趣味」の押しつけを、平然と語りうるのである。
そして、近藤がここでもまた『他の方の日記を見ても、やはり期待されていたのはこの辺りであったという意見を拝見しました。』などと書いていることには注目しておくべきであろう。以前にも指摘したとおり、近藤は自分の「正義」を自分一個の「論理」で主張することができず、誰かに恃まなくてはいられない「自立心に欠けた人間」なのである。私の近藤論の結論は、近藤の発言によって「繰り返し」裏付けられ続けるのである。
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ことほど左様に、近藤の理屈とは、すべて『恥知らず』の『手前味噌』に由来している。近藤は、今回の『アレクセイ氏への疑問3』の中で『私が実際にアカウントなどの取り扱いについて業務で行った経験があるということを明言したのは、『プロ』という肩書きの「権威を持ち出し」たのではなく、アレクセイ氏とは違い、現実的な判断を行うことができる点を読者に対し明示するためです。何を持って恥知らずと取られたのかが理解できませんが、何故こうした中傷の言葉を、仮にも論文としている文章の至るところに埋め込むのかが私には理解できません。』と書いているが「恥知らず」が「恥知らず」なのは当然であろう。「プロの名に恥じない説得的な論理があるのならば、肩書きなど持ち出さずとも、説得的な説明はできるはずだ」という、ただこれだけのことが近藤にはわからないのである。つまり、近藤の場合「プロの名に恥じないだけの論理・倫理」を語れもしないのに、それを恥じることなく「肩書き」だけは誇示してみせるから、文字どおりの「恥知らず」なのだ。前回 『ダチョウの論理 ―― 近藤和宏氏の論理について 』で説明したとおり「肩書き」が「プロ」だからと言って『 現実的な判断を行うことができる』とは限らない。それが近藤には、いくら説明されてもわからないのである。
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近藤のこの都合の良い「忘却癖」は、同類である 「掲示板荒らし」野嵜健秀とそっくりである。野嵜は「ダブルハンドルは迷惑行為だ」と主張しながら、自らはそれ以上の事をしても恥じない人間だった(意識的「掲示板荒らし」を自慢するようなクズである)。そして、そんな野嵜を、同類として批判することができないどころか、パソコンオタクとして共感するところ多大であるらしい近藤は、そんな野嵜の言葉を自説を補強するものとして、平然と引用してみせるようなこともできるのである。つまり近藤は、そういう「プロの名に恥じないだけの論理・倫理」が欠落した人間なのだ。
例えば、近藤の都合の良い「忘却癖」の一例としては、
『相手に何かを伝えるのであれば、正確に記述するのは当たり前のことです。ミスは修正したら良いだけです。それを、修正するのではなく開き直ったりするのは止めてもらえませんか。なお、固有名詞を間違えるというのは、対象が人物であればその人に対して最も失礼な行為ですし、対象が物体などであれば、それはその対象自体を指さない言葉になってしまうと考えます。』
などという言い種が挙げられよう。言うまでもなく、誤字の指摘がしたいのであれば「ここが誤字ですよ」と指摘すれば、よろしい。それを「利口ぶったイヤがらせ」で、
『相変わらずタイトルとタイトル画像の文字が一致されていないようで。
どちらが正しいタイトルなのか分かりませんね。
title 要素: ARUGMENT
タイトル画像: ARGUMENT
かつ、相変わらず最初に相手を貶すところから入るところはなんら変化が無く、相手に対してどういう姿勢で向かっているかが目に見え、語り合う価値の無い相手であることを自ら証明されているご様子。』
などとやるから、
『本当に貴方は「相変わらず」ですね(笑)。
貴方の文章で役に立つのは「誤字誤植の指摘」くらい……といったところは、ご同類の野寄さんそっくりです(今回も引用なさってますね。野寄さんとの類縁性がハッキリして、おおいに結構)。』
なんて逆ねじを喰らわされるのである。
『目を瞑ることができる程度の頻度での誤字などであれば気にはしませんが、アレクセイ氏が文章を書かれると、意図的に行っているのではないかと思われるほどに、必ずどこかに誤字や誤用が紛れ込んでいます。』
とのお言葉だが、これは被害妄想というものだろうし、私だって人間だからミスもあれば欠点もある。だから「誤字誤記」だって、指摘してもらえば、それを訂正することに吝かではない。事実、近藤の名前については既に訂正してもいるし、今後も同様な訂正はするつもりである。
近藤は『ミスは修正したら良いだけです。それを、修正するのではなく開き直ったりするのは止めてもらえませんか。』などとわかったようなことを書くが、そういうご立派な(当たり前な)ことが言えるのなら『誤字は普通
に指摘したら良いだけです。それを、利用して皮肉ったり、それで「すべてがわかる」みたいな無茶な言い掛かりは止めてもらえませんか。』ということにもなる、という……そんなことすらわからないのだろうか?
無論、わからないのである。なにしろ近藤は「身勝手」な「自己完結」人間なのだから、自分の事は別
扱いで、自分のやった「不都合な行為」は、都合の良く「忘却」できる人間なのだ。
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「敬称略」問題についても同じ。近藤は、
『アレクセイ氏は自らが書かれている文章を論文とされていらっしゃいます。しかし、どう読んでも論文と受け取ることはできません。どこの世界にテーマについて全く論じず、議論相手への罵詈雑言だけを並べた論文が存在するのでしょうか。』
と書いているが、これは「テーマ」を「HTML」だの「転載・引用」といった話だと「身勝手」に決めつけているが故に出てくる、的外れな議論だというのは、すでに説明済みである。
続いて近藤は、
『私に関する考察だと見たとしても、アレクセイ氏の主観だけで述べられ、私がアレクセイ氏に見せたことのない面
を持っていることは全く考慮されていないように思われます。また、説得力を持つ根拠が全く提示されておらず、論文と評するにはやはり無理のあるものに思えます。
あらかじめ「敬い」もしないし「見下し」もしない。ただ「それそのもの」として「フラットな関係」を前提に扱うというアレクセイ氏の述べられている定義は、私も全くその通
りだと考えます。しかし、アレクセイ氏の文章を読まれた方で、対象となっている私とアレクセイ氏がフラットな関係になっていると思われる方がいらっしゃるのでしょうか。』
などと寝ぼけたことを書いている。
批評で「分析」が行われるのは当たり前のこと。「見えているもの」そのものをそのまま語るだけではなく、それを「腑分け」し「秘められた本質」を語るのは、批評というものの「常道」である。したがって『見せたことのない面 』つまり「近藤の隠された本質」に批評が言及するのは当然のことであって、なんら不思議なことではないのである。故に『全く考慮されていない』も何も、そういう非難自体、所詮は近藤が、如何に「批評」というものを理解していないかを自ら証す「妄言」でしかないのである。
また、関係が『フラット』だからこそ「遠慮なく否定も肯定もできる」というのも、論を待たない「自明の事実」であろう。近藤は『フラット』とは「肯定も否定もしない(できない)関係」だとでも思っているのだろうか? ……もちろん、そう思っているからこそ、そう書いているのだし、これまでの人生で、この様に他人から「否定・批判」されたことがなかったからこそ、近藤には『フラット』な関係というものの「意味や価値」がわからないのであろう。私が近藤を「お子様」だというのは、そういう「根拠」と「分析」があってのことなのだ。
忌憚なく「批判しあう・できる」ということの価値を知らず、お互いに「誉め合い」「持ち上げ合う」だけ「凭れあう」だけの仲間(じつは己が分身のようなもの)だけを周囲に集め、その言葉だけを鵜呑みにしナルシシズムに浸りきった彼らは、たまにそこからはずれる「外部」の意見を聞かされると、それがまったく容認できず、「人格攻撃」だ「非難中傷」だと必死になって否定するしかないのである。これが近藤の、他者をいれえない「唯我独尊」的幼児性の「視野狭窄」なのである。
笑うべきことに近藤は、
『アレクセイ氏は『まともに取り合う価値』も無いものに取り合うのは、「貴方の愚かさ(意志薄弱さ)」の自己証明でしかないと仰られていますが、アレクセイ氏は私の返事が欲しくて、わざわざ書いたことをメールにて連絡されてきたのではないのでしょうか。
たとえ気が進まなくても、わざわざメールでまで伝えてきた方に対して、簡単でも返事を書くのは礼儀だと思いますので返事を書いたまでです。それを意志薄弱だと言われるのであれば、どうぞその様に考えられ続けて結構です。個人がどのような思いを相手に抱くかを制限することはできませんから。』
と自分が私(アレクセイ)の「批判」だの「問いかけ」だのに答えるのは『礼儀』からだ などと、またもや「恩着せがましく」、かつ自分の「礼儀正しさ」「誠実さ」を図々しく「自己申告」して見せて、恥じるところをまったく知らない。
言うまでもなく私の「批判だの問いかけだの」が『まともに取り合う価値』もないものであったとすれば、それに取り合わなくても『礼儀』に反したことにならないというのは「理の当然」であろう。
近藤は、自分の『意志薄弱』を認めたくないから、こんな笑うべき「見当違い」を平然と口にできるのだろう。だが近藤のこうした「矛盾」も、「相手にしない」などと強がりを言いながら、今だに私から自立できない野寄や木村と同様で、所詮は私の「批判」に反論しないことには「落ち着かない」というだけのことなのである。読者が私の主張を「もっともだ」と思うかも知れないと、それが心配だから、否定しないではいられないだけなのだ。
だが、これはそれだけ私の「批判」を、近藤が内心では「認め」、それに「脅威を感じている」証拠にほかならない。近藤に『まともに取り合う価値』もないと口でいうほどの自信があるのなら、私が何をどう批判しようと、それを悠然と無視することもできようはずだ。ちょうど私が、野嵜や木村の「マスターベーション的批判」を相手にしないのと同じような態度が、近藤にだって取れるはずなのだ。
近藤は内心(前意識)では、私の批判の有効性を認めている。にもかかわらず「脆弱な精神(意識)」がそれを認めようとはしないだけなのである。
近藤は、私のこうした「分析的評価」を『アレクセイ氏の妄想の中で広がった私の人物像を基にした誹謗中傷』としたいようだが、残念ながらそうは問屋が卸さない。
近藤が「言い訳」を連ねれば連ねるほど、近藤の本音は「より多く」の読者に対して「よりはっきり」と闡明されるのである。それは野寄が、私の「放し飼い」策にまんまと乗せられて、自分で自分の正体を明かすようなことをぺらぺらしゃべってみせたのと同じことなのだ。
近藤がいくら否定したところで、近藤の実態は「近藤自身の書いたものから滲む体臭」によって、すでに多くの読者には明らかなものとなっている。そして、その体臭が指し示す「近藤の本性」とは、
『「常識が不足」しており「その自覚も不足」している。にもかかわらず、自分が多少の「専門知識」を有していることを鼻にかけており「自分が優秀な人間だと思い違い」してもいる。そんな彼は当然のことながら「自己客観視」ということが全然できない「自閉的」「自己完結的」「自己満足的」な「幼児性格者」だから、「他人の事を容易に見下し」がちである。反面 、「自立心が欠如している」ため「権威」や「知識」や「仲間」といったものに依存しがちで「孤立(独立)」に堪ええない「脆弱な精神の持ち主」でもある。またその「精神の脆弱性」ゆえに「自己の過ちを認める勇気がなく」結果 として、いつまでも「言い訳に言い訳を重ねる」といった行動を繰り返し続けるのである。』
という人物像なのである。
「文言」上で否定すれば、それで読者が納得してくれると思ったら、それは大間違い。それは所詮「人間」というものを知らない「お子様の論理」であり、その拙い理屈を無理矢理にでも信じようとするのは、「現実」を直視できずに「自己満足」的行為に「自閉」する『ダチョウの論理』にほかならないのである。
最後にひとつ、近藤に助言しておこう。
『ダチョウの論理』にこういうものもある。
「論敵の欠点をあげつらえば、相対的に自分が良く見えるに違いない」……言うまでもなく、これは間違いである。私がいくら欠点多き人間であったとしても、それは所詮、私の問題でしかない。私と近藤とは、関連なく存在している「個別
的存在」であり、私がどうあれ「近藤という存在」は「それそのもの」以上でも以下でもないのである。したがって、私を非難しても、少しも自分を立派に見せることはできない。むしろ、そのやり口によっては、近藤は自分を貶めることにもなろう。「誤字を揶揄して喜ぶ」などというのは、自分を貶めた典型例なのだ。だから今後は、そのくらいは弁えてせいぜい「言い訳」を重ねるべきであろう。
2001年9月12日
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◆ 近藤和宏氏、投げ文を打つ ◆
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ここまで議論を重ねてきたところで、突然、近藤和宏氏が、ここまでの「近藤和宏論(1〜3)」のページを指定した上で「誹謗中傷がある」として、このページを置いている「アット・ニフティー」社に対し「削除要請」をおこなっていたことが、「アット・ニフティー」社からのメール(2001年9月17日 9:08 PM)で判明した。
文章上では強気の姿勢を崩さなかった近藤氏だが、議論の内容では自らが劣勢にあるとの自覚はあったのだろう。もちろん当該ページの削除は、このとおり行なわれなかった。「誣告」ごときを恐れて「削除」を行なう必要などなかったし、「アット・ニフティー」社にもそんな権限は無かったからである。
詳細についてはこちらをご確認していただくとして、この匿名による「投げ文」「泣きつき」行為があった後、議論の仲介場所となっていた掲示板「ARUGMENT」への、近藤氏の書き込みはぱったりと止まってしまった。さすがに、その「卑怯な行為」によって誰の目にも明かとなった自己の実質的な敗北を認めざるを得なくなって「姿を暗ませたのだろう」と私がそのままうっちゃっていたところ、どうやら近藤氏は、「アット・ニフティー」社への「投げ文」を行なったことについては頬被りをしたまま、こっそりとご自分のサイトに、私への反論やら批判やらをアップしていた模様である。
しかし、すでに彼が「相手をするに値しない人物」であることは立証されたわけだから、このうえ負け犬を鞭打つようなことは止しにした。こちらに迷惑をかけない以上、彼のような人間にも生き場所は与えられるべきだし、そのくらいの度量
は私にだってあるということである(笑)。
ちなみにこの補足文章は、近藤氏の「アット・ニフティー」社への「誣告」から2年後、近藤氏と共闘していた「掲示板荒らし」の野嵜健秀が、近藤氏と同じく「アット・ニフティー」社に「誣告」を行なったことを切っ掛けに、追加されたものである。もちろん「野嵜健秀による誣告」も軽くあしらってお終いである。
2003年11月25日