●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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トウー・テ・ビアン(5) 投稿者:園主  投稿日: 3月27日(水)01時12分16秒


このように考えていきますと、Keenさまの、

>中井さんと私の関係など、当事者以外の皆さまにとっては「どうでもいいこと」であり、「それがどーした」以外の何でもないと。

という考え方は「非・文学」的であることがわかってまいりましょう。もとより問題は「私にとって」であり、「私」に徹するのが「文学」の立場なのでございます。「私」に徹し「個」に徹するところから、結果 として「公」に開いていくのが「文学」なのでございます。

>我を見失って、公の場たる掲示板で私信ばかりを書いていました。申し訳ありませんでした。

我々に「私信」以外の何がございましょう? 「多数意見」が所詮は「小数(個人)意見」の寄せ集めでしかないように、「公の(場所での)意見」などというものも、その実態は「個人的意見の寄せ集め(の結果 、無個性的に見えるようになった意見)」でしかないのではございませんでしょうか?

>ただ、「花園」ならば妖怪ポストのようなモノもあるような気がして……。
>冥府の中井さんに想いを伝える術もなく。

私が批評という「公の言論」を携わりがら、どうして「花園」を重視しているのか、お分かりでしょうか? それは「私」や「個」を蔑ろにしたところには、「公」など生きてはこないと考えるからでございます。……天下国家を論じる者には、路地裏の片隅で飢えて死ぬ 子供の「個」の苦しみなど関係がない、というようなものではないと考えるからでございます。

我々は、「公」に開いていく「私」であり「個」を生きるために、「文学」を「言葉」を必要としているのでございましょう。我々は「文学」に何かを強いられるのではございません。我々が「文学」を選ぶのでございます。そしてそれが、切れ味の鋭い武器でありつづけるために、どんな「(他者の)正義」や「(他者の)倫理」とも切り結べる剣であらしめつづけるために、我々は時に、その武器が我と我が身を傷つけるほどに危険なものであるということをも承知の上で、それとつき合わねばならないのでございましょう。「武器」とは、敵だけが「斬られる」というような性格のものではございません。だからこそ、われわれはその武器の手入れを怠らない一方で、その武器の使い方にも細心の注意を払わなければならないのでございます。

いささか、とりとめのない書き方になってしまいましたが、私の「文学」とはこのようなものなのでございます。


 ホランド
だからまあ、マーケットリサーチの結果にもとづいて書かれるような小説に、私は「文学」を感じないし、「快感」を覚えないんだろう。「私」であり「個」に徹した結果 が「公」に開いたようなものではない、最初から「公」のもの、「私」不在の、「個」であることを捨てたものなど、所詮は「暴力(制度)」に屈服したものでしかないということなんじゃないかな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


トウー・テ・ビアン(4) 投稿者:園主  投稿日: 3月27日(水)01時11分23秒


しかし、私は日常的に、自分が「悪」だと考えるものと闘っております。「善悪」が「快不快」でしかないのだとすれば、私の「善」など(多数派意見であったとしても)所詮は主観的個人的なものでしかなく、相手を「悪」だと考える(客観的・絶対的)根拠などないのでございますが、私はそれでも自分の「善」を信じて行動しております。なぜなら、人間は「自分の実感」を疑っていては「生きていけない」と考えるからでございます。つまり私は「この世界には善も悪もない」という理解に対しても「それでも私は自分の善に従って生きる」という生き方にも「トウー・テ・ビアン(すべてよし)」と考え、それ以上の根拠など求めないのでございます。

いったい「暴力が悪で、言葉が正義」だなどと誰が決めたのでございましょう? 「人間の尊厳とは、暴力を理性で乗り越えること」だと言いますが、結局のところ、乗り越えたから何だと言うのでございましょう? なぜ他の動物と同じ弱肉強食ではいけないのでございましょう? 私はこれらの「問い」に対する客観的・絶対的な「答(根拠)」は存在しないと考えます。ただ、私といたしましては「言葉が正義」であり「暴力が理性によって乗り越え」られ「弱肉強食ではない」方が、「より多くの人間に喜び」がもたらされるだろうと考えますし、「より多くの人間に喜び」がもたらされる方が、そうでないよりは、私にとっては「気持ち良い」ことだと感じますから、私は「そうではない」という人の意見には組みせず、自己の「善」を貫こうとするのでございます。

つまり、私の「善」とは、「私の快」なのでございます。つまり、すべての根拠は「私」にしかないのであり、そういう「私の武器」が「文学」に代表される「言葉」だということなのではございませんでしょうか?

したがって「文学」はおのずと「私」のものでございます。「文学」においては、「ねばならない(義務)」はすべて「私」のためのものであら「ねばならず」、「他人」や「社会」のものであってはなりません。ですから、「文学」が「私」に「不快」をもたらす形で「ねばならない(義務)」を科してくる時、それは「私」にとって、もはや「文学」ではないと言えるのではないでしょうか?
例えば、生田耕作という他人が自分個人の立場を権威づけるために「(フランス)文学」を「至上のもの」として押し付けてこようとしたら、我々は「フランス文学が何ほどのもんやねん。そんなもん犬にでも喰われてしまえ」と言っても良いし、それが「暴力(制度)」に屈しない態度が「文学」の立場なのでございましょう。





( 以下は「トウー・テ・ビアン(5)」につづく)


トウー・テ・ビアン(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月27日(水)01時10分20秒


言うまでもなく、あらゆる物事は『黙約』を交わしている「一部の人間」の間でのみ成立するものでございます。「文学」においてもそれは同様で、そのこと自体にそれほど意味があるとは思えません。たとえば「宗教」にしても「思想」にしても、それは『黙約』を交わしている「一部の人間」の間でのみ成立するものでございます(「国家」も「社会」も「民俗」も「家族」も)。では、なぜ人はそのような『黙約』を交わして、自らをそれに縛り、わざわざ「義務」を負おうとするのでございましょう。それは、人がこの「過酷な世界」で生きていくためには、そういうものが「是非とも必要」だったからではございませんでしょうか? 私は先ほど「文学」に代表される「言葉(言論・理性)」だけが「暴力」に対抗しうる我々の武器だと申しましたが、その意味では「宗教」や「思想」は、その端的な例でございましょう。ある宗教は彼岸の楽園を保証をすることで、人々に過酷な現実との折り合いをつけさせようとし、べつの宗教はその宗教的権威によって積極的に現世的権威を否定し、その打倒を訴えました。この後者の「宗教」に近いのが、「マルクス主義」に代表される「政治思想」でございましょう。「階級闘争の果 て、皆が平等に暮らせる世の中は必ず来る」と説いたその思想は「天国」ほどには遠くない「まだ見ぬ 楽園」を保証したものであり、その思想の信奉者とは、要するにその思想を真実だと信じるという『黙約』を交わした人にほかならず、「それ以外の人」にとっては、その思想が保証した「まだ見ぬ 楽園」など「虚構」であり「欺瞞」でしかなかったのでございます。

この世界には、本当は『善も悪もない』と導師は言った。だが、導師はカケルに言った。
―― 地上に戻って、悪と闘え ―― と。

「倫理学」とは、簡単に言うと「善悪とは何か」を問う学問だと、私は理解いたします。そして、為すべき「善」のもっともシンプルな考え方のひとつが「多数者利益の尊重」でございましょう。つまり10人の人間がいて、そのうち6人がAを支持し、残りの4人が非Aを支持したといたします。そして、10人の集団は分裂することを許されず、どちらかを選択しなければならないとしたら、「Aを選ぶべきだ。なぜなら非Aを選んだ場合より、幸せになれる人が2人分多いからだ」という考え方でございます。しかし、この単純な考え方ですべてがうまくいかないのはわかり切ったことでございましょう。実際、現実には何らかの「選択」がなされざるをえないとしても、では「小数意見」は「切り捨てられて、まったく顧みられない」というわけではございません。よく言われますとおり「小数意見」は尊重されなくてはならないのでございます。では、なぜ『「小数意見」は尊重されなくてはならない』のでございましょうか? 私が思いますに、それは「多数意見」というのも、所詮は「個人的意見(小数意見)」の寄せ集めでしかなく、誰もが「小数意見」として切り捨てられる立場に立たされる可能性を持っているからでございましょう。つまり、「多数意見」と「小数意見」というのは常に存在いたしますが、それぞれの「構成員」は流動的・非固定的なのでございます。ですから、自分が「少数派」に立たされ、意見が入れられなかった場合を考えれば、今は「多数派」であったとしても、「小数意見」は「できるかぎり尊重しよう」ということになるはずであり、結局はそれが「より多くの人に満足を与える(最良の)選択」になるからなのでございます。
……ともあれ、「超越論」的なところにその根拠を求めないとすれば、「善悪」の根拠は所詮「快不快」に還元されるのではないかというのが私の結論であり、「快不快」が「善悪」であると言わない(表現しない)とすれば、この世界には「善も悪もない」というのは事実だと、私は斯様に思うのでございます。





( 以下は「トウー・テ・ビアン(4)」につづく)


トウー・テ・ビアン(2) 投稿者:園主  投稿日: 3月27日(水)01時08分12秒

 楽古堂主人さま ・Keenさま
「文学至上主義という名の全体主義」というタイトルで書き込まれた、楽古堂主人さまのご意見を検討させていただく前に、一点、誤解のないようにあらかじめお断りしておきたいと存じます。これまでにも何度かご紹介しておりますとおり、楽古堂さまはワープロで、ネットをご利用なさっておられるために、直接、掲示板へ書き込みをすることがお出来にならないのでございます。ですから、こちらへの書き込みは、楽古堂さまが私にメールでお送り下さった文章を、私が書き込む(転記する)という形でなされております(そのため、楽古堂さまの書き込みのIPアドレスが、私と同じになっているのでございまして、楽古堂さまと私が同一人物だなどという愉快なお話ではないのでございます)。また、楽古堂さまのご投稿には、通 常の場合、タイトルが付されておりませんので、たいていは私が適当につけさせていただいております。今回の「文学至上主義という名の全体主義」というタイトルも、私が内容に合わせて付けさせていただいたものであり、楽古堂さまご本人による命名ではございません。

>・ 繰り返しますが、この「文学」の定義が成立するのは、そのような黙契を交わしている一部の「作家」と「読者」の間においてのみなのは、当然のことです。
>・ 「わたしは、そうは思わない」という「作家」や、「読者」にとっては、この定義は、自分とは何の関係もないものに過ぎません。(楽古堂さま)

>これを読んで、目が覚めました。
>中井さんと私の関係など、当事者以外の皆さまにとっては「どうでもいいこと」であり、「それがどーした」以外の何でもないと。
>我を見失って、公の場たる掲示板で私信ばかりを書いていました。申し訳ありませんでした。

>ただ、「花園」ならば妖怪ポストのようなモノもあるような気がして……。
>冥府の中井さんに想いを伝える術もなく。(Keenさま)

端的に申しますと、Keenさまの「読み」は間違いでございましょう。楽古堂さまの書かれたことから、このような理解は引き出せないのではないでしょうか? もちろん、楽古堂さまの書き方にも、楽古堂さまらしからぬ 「過剰さ」があったように存じます。そしてそれはたぶん「生田耕作ショック」の影響なのではないかと、私は理解いたしました。
楽古堂さまに拠りますと、

>(ある種の「作家」と「読者」にとって)「文学」(作品)というものは、(「作家」と「読者」の双方にとって)あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な(表現としての一種の)存在(の様態)であり、また(「作家」と「読者」の双方にとって)そういう存在(の様態)であらねばなりません。ですから(登場人物である)「人間」を、「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学(作品)も、(そのような了解のある「作家」と「読者」の双方にとっては)文学の王道を行くものだとすら申せましょう。

でしかないから、「それ以外の者」には「文学」など何ほどのものでもないのだということでございますね。これはまったくそのとおりでございましょう。しかし、

>・ これも「文学」における「全体主義」の反映の、一つの露頭に過ぎません。

という表現は行き過ぎではないかと存じます。と申しますのも、私たちが、

>>「文学」というものは、あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な存在であり、またそういう存在であらねばなりません。ですから「人間」を「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学も、文学の王道を行くものだとすら申せましょう。

というような考え方を大筋で受け入れているのは、我々のような「暴力を持たざる者」つまり「非・権力者」にとって、「権力者(暴力占有者)」に対抗する術は「文学」に代表される「言葉(言論・理性)」だけだからではございませんでしょうか? つまり「言葉」は、「王権」をも侵犯する(否定する・打倒する)もの『であらねば』ならない。そうでなければ、我々は「人間としての尊厳」を奪われて、畜生同様の「弱肉強食」の「暴力」の世界に生きなければならないからでございます。つまり、人間が「人間としての尊厳」を保つには、どうしても「文学」に代表される「言葉(言論・理性)」が『あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な存在』でなければならない。そういうもので「あらせなければならない」ということなのでございます。ですから、ここでいう『ねばならない(義務)』とは「文学という絶対王権に対する服従義務」ではなく「文学という我々自身の武器に対する管理義務」なのでございます。





( 以下は「トウー・テ・ビアン(3)」につづく)


トウー・テ・ビアン(1) 投稿者:園主  投稿日: 3月27日(水)01時06分12秒

みなさま、「とかくこの世はままならぬ 」と申しますが、いっきに読みたい本がある時に限って、いろいろな用事が入って、まとまった時間が取れないものでございます。私の感触では『オイディプス症候群』の売れ行きは、けっして悪くないように思われます。もちろん分厚い本でございますから、1冊でも売れれば目立つということもございましょうが、それだけではないようでございますね。あとは、作品の出来自体が良ければ「トウー・テ・ビアン(すべてよし)」というところでございましょう(笑)。






 影姫青夜さま
>春はときめきの季節

その後の、恋の行方はいかがでございましょう。ブックオフで、かの美青年は見かけますでしょうか? 首尾良くいったというご報告を受けても、決して妬んだりはいたしませんので、事後報告をよろしくお願いいたします(笑)。


 アルフォンヌ耿之介さま
>私、近所のブックオフの100円コーナーの棚から、赤江瀑『舞え舞え断崖』を取り出しました。
>その後、『異形コレクション』、竹河聖、小林恭二、ジョン・ソールなども引っぱりだし、いそいそとレジに向かったのでした。
>思えばあの時の私も、誰かの熱い眼差しを浴びていたやもしれませんね。

かもしれません。私なら、その姿を目で追いながら「まあ、100円なら構わないけど、『舞え舞え断崖』はイマイチやぞ」と、熱心な赤江 瀑ファンとして「警告」光線を放っていたことでございましょう(笑)。


 AOIさま
>図書館にリクエストしていた『薔薇館の神々』『日本近代文学と<差別>』が他館から借りられ、手許にまいりました。

>『薔薇館の神々』はタイトルから想像していたロココ風(?)とは違って、・・・・・・ひゃー(赤面 )、描写がリアル。

そうでございましたか? 私、ずいぶん以前に読んだきりなので、そのへんのところははっきり記憶しておりません。いや、本当に(笑)。

>『日本近代文学と<差別>』はちょっと、手ごわそうなかなと思いましたが、そうでもなく明解で読みやすそうです。

この本は「文学の功罪」の「罪」の部分を鋭く抉り出しているおり、紋切り型の「文学礼讃」を厳しく批判するものでございます。この本と、これに続く渡部直己の著書『不敬文学論序説』(太田出版)は、日本の文学が、社会に対して果 たしてきた「負の役割」を考える上で、避けられない問題提起をしております。ぜひ多くの方に読んでいただきたいものと存じます。

>そんなことないと思います。Keenさんのお話を伺っていると、深いところで中井さんと繋がっておられるのが分かります。

AOIさまがここでおっしゃられていることを、私は以下に書かせていただきました。「私」であり「個」に徹することで「公」に開き、そこで「個」と「個」が初めて出会える、そんな場所。それが「文学」であるというような話でございます。





( 以下は「トウー・テ・ビアン(2)」につづく)


ミーハーなのではなく、思いが深いだけ。 投稿者:AOI  投稿日: 3月26日(火)22時58分14秒

☆Keenさま

>中井さんと私の関係など、当事者以外の皆さまにとっては「どうでもいいこと」であり、「それがどーした」以外の何でもないと。
我を見失って、公の場たる掲示板で私信ばかりを書いていました。申し訳ありませんでした。

そんなことないと思います。Keenさんのお話を伺っていると、深いところで中井さんと繋がっておられるのが分かります。中井さんのただの一読者の私には、触れることのできない感慨があるのだろうと口を差し挟むのを控えていますが。
中井さんを実際に知る園主さまとKeenさまのお話は、私も楽しませて頂いていますので、思いの丈、中井さんに伝えることのできなかったこと、お聞かせくださいませ。ここでしか、できないことではないでしょうか?


ミーハーな読者の再自覚 投稿者:Keen  投稿日: 3月26日(火)17時50分40秒

>「文学至上主義という名の全体主義」(楽古堂さま)
>・ 繰り返しますが、この「文学」の定義が成立するのは、そのような黙契を交わしている一部の「作家」と「読者」の間においてのみなのは、当然のことです。
>・ 「わたしは、そうは思わない」という「作家」や、「読者」にとっては、この定義は、自分とは何の関係もないものに過ぎません。

これを読んで、目が覚めました。
中井さんと私の関係など、当事者以外の皆さまにとっては「どうでもいいこと」であり、「それがどーした」以外の何でもないと。
我を見失って、公の場たる掲示板で私信ばかりを書いていました。申し訳ありませんでした。

ただ、「花園」ならば妖怪ポストのようなモノもあるような気がして……。
冥府の中井さんに想いを伝える術もなく。

園主さま、ビデオのダビングできましたので、明日にでも返送いたします。
図らずも「写真同封」になってしまうのが面映いですが……(照)。


文学至上主義という名の全体主義 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 3月26日(火)12時43分30秒

AOI様へ。園主様へ。
>「文学」というものは、あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な存在であり、またそういう存在であらねばなりません。ですから「人間」を「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学も、文学の王道を行くものだとすら申せましょう。

・ ぼくは、この論理の虚偽が指摘できると思います。
・ 次のようにパラフレーズしてみます。

>(ある種の「作家」と「読者」にとって)「文学」(作品)というものは、(「作家」と「読者」の双方にとって)あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な(表現としての一種の)存在(の様態)であり、また(「作家」と「読者」の双方にとって)そういう存在(の様態)であらねばなりません。ですから(登場人物である)「人間」を、「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学(作品)も、(そのような了解のある「作家」と「読者」の双方にとっては)文学の王道を行くものだとすら申せましょう。

・ 繰り返しますが、この「文学」の定義が成立するのは、そのような黙契を交わしている一部の「作家」と「読者」の間においてのみなのは、当然のことです。
・ 「わたしは、そうは思わない」という「作家」や、「読者」にとっては、この定義は、自分とは何の関係もないものに過ぎません。
・ これも「文学」における「全体主義」の反映の、一つの露頭に過ぎません。
・ 「文学」の自由は、多様な「作家」と「作品」と「読者」の共存を許すことから始まると思っています。
・ このような言説は、もっと巧妙な衣裳をまとって、様々な形で現代もマスコミの世界に横行しています。
・ かぼそいですが、なんとかこの時代の巨大な潮流に、竿を差して漕いでいきたいものです。
・ 非力ですが、その第一歩は、「花園」のように、各人が自分の感想と意見を持って、切磋琢磨しあうことでしかないと思っています。
・ 楽古堂が、自分の粗末な読みを、経過まで含めて報告するのは、そのための一つの方法であります。



  2002年3月24日(日)

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_rakkodo.html


雨上がりはいつになることか。 投稿者:AOI  投稿日: 3月26日(火)10時54分37秒

☆ホランドさま

>ちょっと寂しいですけど、我慢します(笑)。

いや〜ん、ホランドさまったら、泣けてしまいます。(嬉/涙)。私もゆっくり書込みしたいんですけど、とんでもないこと書いてしまいそうで・・・(恐)。

>『男性的なサディスト性』というのが、イマイチぴんと来ないんですが、これは男
性のサディズムが「観念的で捩じくれている」というようなことなのでしょうか? 
つまり「直接的ではない」ということ? 女性なら、こういう「回りくどい」サディ
ズムの発揮の仕方はせず、もっと直截だということなのでしょうか?

よくわからないんですけどね。そんな気がしただけなのです(爆)。
男性の場合、社会的に附与された部分も含めて、物理的(肉体的)にも、攻撃的(サディスティック)であるのが自然なところがあるでしょう?たぶん・・・?。それから、もろもろ推し量 るに、刹那的なところも(?)。ですから、サディスティックであるばかりではなく、マゾヒスティックな捩じれがより肉体的な快感を呼び起こすということがあるのかなあ・・・と思ったり。
そういうことが観念的(=ブキッシュ?)ということなのかどうかはよく分かりませんけれど。

>一般に「コレクター」は男性が圧倒的に多いですし、「いざとなったら強い(生命力・生活力がある)」のは女性だとも言いますが、このあたりも性別 による「観念度(現実性)」の違いが出てるんじゃないのかなあー?

う〜ん、よく分かりません。肉体の違いはきっと大きいと思いますけど。


図書館にリクエストしていた『薔薇館の神々』『日本近代文学と<差別>』が他館から借りられ、手許にまいりました。『家鳴き』の怖い私は、最近は、図書館利用を心がけています。期限を守ったことほとんどないんですけど(笑)。あっ、また園主さまに怒られそう。欲張って借りてしまって、なんとなーく、借りてあることに満足したまま他のものを読みたくなったりで・・・。
『薔薇館の神々』はタイトルから想像していたロココ風(?)とは違って、・・・・・・ひゃー(赤面 )、描写がリアル。
Keenさん、御覚悟なさいませ(笑)。まだ、100ページほどですけど。
『日本近代文学と<差別>』はちょっと、手ごわそうなかなと思いましたが、そうでもなく明解で読みやすそうです。

この先さらに忙しくなりそうなので、土曜日から公開された『原始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』を観ました。インタヴューなどで綴られたドキュメンタリーですが、前半部分、多感な青春を思わせる頃までがとても面 白かったです。
平塚らいてうが女性解放運動に果たした役割を決して否定するものではありませんが、『原始、女性は実に太陽であった』という女性解放運動の象徴的な言葉が彼女を実際以上に象徴的な存在にさせているように思います。彼女は当時の女性の大多数の置かれていた状況に比して、格段に恵まれていた環境とそれから想像される経済的な後ろ盾があっただろうこと、しかし、あるいはそれとは引き換えに戦闘的な運動からは距離をとっていたこと。悲劇的な運動家に比して、傷を負うことも少なかったことが、あるいは彼女を象徴的な存在にさせているのではと思いました。もちろん、平塚らいてうらの生きてきた時代がとても厳しい時代であったということは言うもでもありませんが。


Keenの恩返し 投稿者:Keen@ろくろ首  投稿日: 3月25日(月)16時28分00秒

伸びるだけ伸びきってしまったろくろ首が、プレッツェル様の結び目になっているような気がします。未だ収拾がついてませんわ。ワープロソフトOASYSも動かないままです。インストールやりなおさないと……。(ゆえに今はベタ書きです)

それでも、人間としての日常生活は続けなければなりません。
今日買い物にでまして、「ぜひとも園主さまにビデオの恩返しを!」との一念により選んだ『人形の国のアリス』の一箱から、出ました。
「蛙の召使」!あた〜り〜♪ドーンドーン♪
園主さま、まだ入手されてないようでしたら、ぜひお受け取り下さいませ。
ビデオは、現在クラウス兄の図書館の設備にてダビングを依頼してますので、済み次第返送いたしますね。

ホランドくん、昨日ロムした時、ちょっとスネてたのよー☆
前回のカキコでホランドくん宛に書けなかったから、怒ってレスくれなかったのかなあって。
ゴメンね☆(エヘヘ……/照)
まだ雲の上を歩いているような気分なのです。
笠井さんの新作も気になるし、賢ちゃんにも「もの申したい」んだけど……(フフフ♪)

今回ばかりは、私も絶句してます。何とも形容できません。
「それがどーした」とも言えず…… Confusion.
ただ……を連ねるばかり。園主さまのタイトル「宿縁」とホランドくんの「バランス」が耳に谺してます。

ところで、私、出版事情には暗いのですが、「校正モレ」って重大なことなんですよね?
創元ライブラリ『中井英夫全集3 とらんぷ譚』のジョーカーにあたる「影の狩人」本文中に、二カ所の異同を見つけたのです。
実は、私の手持ちの平凡社『とらんぷ譚』は、初版以前のゼロ版(?)なのです。
出版前の最終チェックで、中井さん自身の手による校正がなされています。
それが反映されていないところが二カ所あるのです。
本多さんが校正なさってるのでしょうから、私ごときがでしゃばるのも憚られますが、あるいはこれを指摘できる証拠を持っているのは私だけなのではないか、とも思われ……。
該当個所のコピーを添えるなりして本多さんにご連絡するべきか、ご教示下さいませ。

想いは千々に乱れたままですが、とりあえず送信します。


実話。 投稿者:アルフォンヌ耿之介  投稿日: 3月25日(月)02時00分41秒

>影姫青夜様
 ぜんぜんどうでもいいことですが。
 1週間ほど前のことですが。
 時刻は夕方6時頃でしたが。
 革ジャンも着ておりませんでしたが。
 私、近所のブックオフの100円コーナーの棚から、赤江瀑『舞え舞え断崖』を取り出しました。
 その後、『異形コレクション』、竹河聖、小林恭二、ジョン・ソールなども引っぱりだし、いそいそとレジに向かったのでした。
 思えばあの時の私も、誰かの熱い眼差しを浴びていたやもしれませんね。

>天下の影姫が美青年にうつつを抜かし古本蒐集が手につかなくなっては大変です。

 ただの「美青年」とお友達になりたいのならこういう悩みもありでしょうが、「古本好き」の「美青年」ならば、両立可能なのでは? 悩む必要なんてないと思いますよ。

 ではでは。

http://www.ne.jp/asahi/chateaudif/toki0504/


レス漏れ 投稿者:ホランド  投稿日: 3月24日(日)21時43分51秒


 Keenさま
うっかりしておりました。ゴメンなさい。m(_ _)m ペコリ

>園主さまにお借りしたビデオ『ETV特集 黒鳥館日記 〜作家・中井英夫の生と死』見てたんです。
>39分ごろ、「流薔園」のUPの後、画面に映し出された羽根木での薔薇宴。
>咲き誇る薔薇の下、中井さんの隣で笑っているのは19才当時の私ではありませんか!

すごいなあー。・・・それにしてもボクや園主さまも、十年近くまえに、それと知らずにとは言え、Keenさまのお顔を見ていたってことですよね。ちょっと不思議な気分です。


バランス(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月24日(日)18時13分00秒

 
 楽古堂主人さま
随筆 虫の知らせ

 ご投稿ありがとうございました。

 このお友だちのことは、以前「河島英五さんへの追悼文」を書かれた時にもご紹介なさってましたよね。
 「虫の知らせ」かあ。ボクがもし友だちとこういう約束をしていたら、このようなことが起こった時に「死後の生」を信じることができるかなあー? 「どうせなら姿を見せてくれよ。だったらハッキリするのに」っていう気にもなるでしょうし、なかなか微妙なところですね。・・・ボクは頑固なのかなあー(^-^;)。

>・ SF小説について「視線の二重性」という概念で、貧しい批評行為を、ぼくが展開していたのは、1980年代後半のことです。
>・ 図式的に言えば、「宇宙から見下ろす視点」と同時に、「地上を這うように歩く視点」の、二つが交差するところに、SF小説は成立するという論でした。

 園主さまも、何度かこれと同じことを言っておられました。たしか「神の視点」と「虫けらの視点」というような表現じゃなかったかな。これは園主さまがよくおっしゃる「人間とは、神にでも獣以下(悪魔)にでもなれる可能性の存在だ」という言葉と関連してるんでしょうね。園主さまは『「そう考えるべきだ」「そうすべきだ」とわかっていて、それができないのが「人間」』と書かれていますが、つまり「人間の実際」はこのような「可能性(不確定的)の存在」であっても、それぞれの「自己認識の実際」は「人間って素晴らしい」とか「人間って最低の生物」というように、多くの場合「可能性の存在」である人間を「どちらかに固定的に規定」してしまい「安心しようとする傾向がある」ということなんだと思います。「どちらでもあり、どちらでもない」というような、不安定な「宙づり状態の認識」を保ち続けるのがつらいんでしょう。それと同じで『視線の二重性』の確保というのは、理屈としてはわかっても、決して誰にでも実践できるようなものではないんでしょうね。そこに「人間のアポリア(難問)」があるとも言えるのではないでしょうか。


 AOIさま
>>じつは自分をマゾヒスチックな快感が得られる立場に持っていこうという「無意識」のはたらきのせいだったんだと理解すれば、「私」は「菊雄を助けたい」と思った後もやっぱり、菊雄をサディストの群れに与えた「サディスト」(共犯)だったとは言えるんでしょうけどね。

>この感情はたぶんに、男性的なサディスト性なのではないか(?)とふと思いました。

 『男性的なサディスト性』というのが、イマイチぴんと来ないんですが、これは男性のサディズムが「観念的で捩じくれている」というようなことなのでしょうか? つまり「直接的ではない」ということ? 女性なら、こういう「回りくどい」サディズムの発揮の仕方はせず、もっと直截だということなのでしょうか? 「性差別 」にはならないと思う(事実だと思う)んですが、一般に男性は女性よりも、良く言えば「観念的」、悪くいえば「倒錯的」なところがあるように思います。もちろん例外はありますけど、一般 に「コレクター」は男性が圧倒的に多いですし、「いざとなったら強い(生命力・生活力がある)」のは女性だとも言いますが、このあたりも性別 による「観念度(現実性)」の違いが出てるんじゃないのかなあー?


 お忙しいんでしょうね。ちょっと寂しいですけど、我慢します(笑)。


 園主さま
 すみません。『オイディプス症候群』と同時刊行の『探偵小説論序説』(笠井潔・光文社) 、急ぎませんけど、また貸して下さいねー(^-^;)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい。


バランス(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月24日(日)18時12分06秒

 みなさん、こんばんは! とうとう笠井潔さんの『オイディプス症候群』(光文社)が刊行されましたね。ボクも今日、買ってきました! 本屋さんであの真っ黒な本を見た時は、震えすら感じました。装丁は、有名な装丁家の菊池信義さんで、すっごくカッコイイです。「1500枚くらい」と聞いていたので、案外分厚いなと思ったら、一段組だったんですね。ま、何はともあれ、十年ぶりくらいの「矢吹 駆シリーズ」の新作です。ボクもこれを書き終えたら、さっそく読み始めたいと思っています。まだ読んでいないから、傑作だっていう保証はできませんけど、今年のミステリ界の最大の注目作であることは間違いなしです。できればみなさんも『オイディプス症候群』を読んでみて下さいね!





 影姫青夜さま
>古本と美青年!!!両手に花とはこのことでしょう!!!

 ブックオフで、拾い物の初版本を見つけたと思ったら、今度は美青年ですか。こないだまでの落ち込みとは正反対に、今度は憑きまくってますね(笑)。およそ「古本」と「美青年」と「赤江瀑」なんて、ちょっとやそっとでは揃わない条件ですよね。ですから、

>皆様、私はどうしたらいいのでしょうか?
>美青年に声をかけお友達になるべきでしょうか?それともそんな甘ちょろいことは振り切って今までどうりひたすら古書蒐集に励むべきなのでしょうか?

 もちろん、今はその「美青年」獲得(^-^;)に全力を注ぐべきでしょう。だって「古本」ですら「一期一会」なんですから、せっかくの「稀有な3大条件」が揃ったこのチャンスを逃すべきではないと思います。でないと、後できっと後悔すると思うな。もちろん、人間だから買って持ち帰るというわけにはいかないので、ゲットする(^-^;)にはかなりの困難をともなうでしょうが、あせらずに例の『まずはお友だちから』ということで頑張ってみて下さい。
 ・・・とにかく「びょんびょん跳ねるカエル」に戻るどころか、今にも空を飛んでしまいかねないご様子ですね。影姫さまがその「美青年」を、「花園」に連れてきて下さる日を楽しみにしております(お姿が拝見できないのが残念ですけど/笑)。


 賢ちゃん
 こちらは「恋愛」がらみの「心理的葛藤」について、園主さまに厳しく突っ込まれていますね(笑)。

 でも結論から言っちゃうと、誰だって「心時めくような恋」はしたいし「つらい恋」や「失恋」はしたくないと思います。そして、誰だって最初から「失恋」した場合のことまで考慮して、「恋」をするわけじゃないと思いますよ。だから「もう恋愛はけっこう」なんて言う前に、次回に備えて(笑)「なぜ自分の恋は長続きしないのか」を考えるべきでしょうね。賢ちゃんは、その理由を「振り向かせるまでで満足しちゃうから」と説明していますが、これでは説明になっていませんもん。だって「振り向かせるだけ」で満足する人(職業的ジゴロ)は「恋」をしません(その必要性がないです)からね。賢ちゃんの場合は「振り向かせよう」とした段階で、すでに「恋」をしているはずだから、それが「振り向かせた」段階で「なぜ消えるのか?」あるいは園主さまが指摘しておられるように「本当にその段階で消えたのか?」と考えるべきでしょう。・・・もっとも、考えれば「鬱になりそう」だというのなら、無理に考える必要はないですけど、でも、そうなるとこの先も同じパターンの失恋を繰り返しそうで、ちょっと心配です・・・(^-^;)。





( 以下は「バランス(下)」につづく)


春はときめきの季節 投稿者:影姫青夜  投稿日: 3月24日(日)07時33分16秒

皆様、おはようございます。影姫です。
今日はちょっとウフフな話題をお話させていただきます。

私は毎日、夜8時ごろ近所のブック・オフに行きます。
無論、「掘り出し物」を探すためです。
一週間ほど前、私はあいもかわらずブック・オフで古本と
にらめっこしていました。ふとその時です。・・・

美青年・・・・・・^^が私のとなりをとおりすぎたのですvvv
彼は革ジャンにピッタリしたジーンズをはいています。
おそらく20代前半でしょう。私はこの年頃の美青年に目がないので
彼がどんな本を読むのかとこっそりあとをつけました。

彼は立ち止まると、すいと「赤江ばく」の文庫本を取り出したでは
ありませんか(!!!)
美青年と「赤江ばく」このあまりにはまりすぎなコンビネーション
に私は眩暈さえ感じました。・・・・・

その日はそれだけだったのですが、なんと次の日も彼はいたのです。・・・
私は彼とお友達になりたいです。いっしょに喫茶店でお茶を飲みたいです。vvv
古本と美青年!!!両手に花とはこのことでしょう!!!

しかし古本一筋死して屍拾うものなし・・・と古書極道の道を選んだ私
が美青年とお友達になっていいのでしょうか?天下の影姫が美青年に
うつつを抜かし古本蒐集が手につかなくなっては大変です。

でも彼とお友達になりたい・・・これもまた私の本音なのです。
皆様、私はどうしたらいいのでしょうか?
美青年に声をかけお友達になるべきでしょうか?それともそんな
甘ちょろいことは振り切って今までどうりひたすら古書蒐集に
励むべきなのでしょうか?

ああ・・・なんという悩み・・・10年まえの私からは想像できません。

ではでは皆様ごきげんよう。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


宿縁(下) 投稿者:園主  投稿日: 3月24日(日)01時05分29秒


 AOIさま
>>「文学」というものは、あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な存在であり、またそういう存在であらねばなりません。ですから「人間」を「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学も、文学の王道を行くものだとすら申せましょう。

>このことは、重々分かっているつもりです。
>つい、菊雄の身になってぐちってしまったんでした。

いいえ、それで良いのでございます。私も『しかし、その「建て前(きれいごと)」の裏には、しばしば「卑小な個人の、卑小な欲望」が隠されているだけであったりもいたします。』あるいは『「文学が、なんぼのもんじゃい!」という感じもいたします』と書いておりますとおり、上に引用していただいたような「正論・建て前・きれいごと」を完全に信用し奉っているわけではございません。ただ、積極的に否定するほどの論拠も持ち合わせていないので、今は「文学」の功績にたいして敬意を表し、尊重しているに過ぎないのでございます。


 Keenさま
>園主さまにお借りしたビデオ、『ETV特集 黒鳥館日記 〜作家・中井英夫の生と死』見てたんです。
>39分ごろ、「流薔園」のUPの後、画面に映し出された羽根木での薔薇宴。
>咲き誇る薔薇の下、中井さんの隣で笑っているのは19才当時の私ではありませんか!

ほほう。なんともはや……。

>平野啓一郎『日蝕』

>ほぼ同感です。
>私は三島は好きですが、平野は早熟ということ以外、特に三島に似ているとも思えません。

そうですね。私もそう思いましたが、そこまで言えるほど三島を知っているという自信がなかったので、ああいう曖昧な表現になった(した)のでございます。

>平野の年齢を考えればよく書けているとは思いますが、

実際のところ、文学の世界においては、「神童」で大成した人は少ないようでございますね。一種の「狂い咲き」で終わったかたの方が多いようでございます。
ともあれ、もうそろそろ、作家の若さを売りにするのは、止めた方が良ろしゅうございましょう。あれは、たいへん「非・文学的」なことだと存じます。


 賢ちゃん
>ネタにマジレスされても、困るんだけどねぇ…(苦笑)

真面目な発言には「構え(イデオロギー)」が入るけど、冗談には「本音」が反映されるからね(笑)。

>「失恋」を恐れるっていうのは、多分当たっていると思うね。
>でも、やはりそれだけじゃない気はするんだけどね??

私のいう『正反対の心理が貼り付いている』というのは、『「失恋」を恐れる』反面 で「「恋愛」を強く欲する」心理が隠されている、ということだよ。だから「もういらないよ」なんて言いながら、チャンスがあったら、君はそれに跳びついちゃう可能性があって、そうなった時に「こないだの発言は何だったの?」ってことになりかねないから、不用意なことは言わない方が良い、と言っているのさ。

よくあるだろう? 「こないだの発言は何だったの?」ってパターン(笑)。


 ホランド
とうとう『オイディプス症候群』が出たな。
じつはこないだ、2年ぶりくらいに「SRマンスリー」に投稿をした。原稿はここに書いたものに手を入れたものだが、もしかすると今年は、ひさしぶりにミステリと深く関わる年になるかも知れないな。楽古堂さまが再びSFに本腰を入れるようになったのと、タイミング的に奇妙に重なってしまったよ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。


http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


宿縁(中) 投稿者:園主  投稿日: 3月24日(日)01時04分31秒


 楽古堂主人さま
>・ SF小説の衰退には、ぼくたちの世代の責任が大きいでしょう。

「責任」とは難しい言葉でございます。楽古堂さまに『SF小説の衰退』の責任があるとは、一般 には誰も考えないことでございましょう。ですが、「責任」とは、それを積極的に引き受ける者の自覚のなかには確実に存在しているものでしょうし、そういう自覚のないところには(他人がどう言ったところで)「責任」観念は存在しない(育たない)ものでございます。
「責任を負う」というのは、あるいは一種の愛情表現なのかも知れません。「日本人として、戦争責任を負う」というのは、何よりも「日本」という国への愛情表現(帰属意識の現れ)でしょうし、私が己に「笠井 潔批判」を課すのも、楽古堂さまが『SF小説の衰退』に責任を負おうとするのも、すべて同じことなのではないでしょうか?

>・ ただSFを社会批評の概念装置とすることには、ぼくは、当初から批判的な立場に立っていました。
>・ 無自覚だった、わけではありません。

たぶん、多くのSF作家たちも、自作を『社会批評の概念装置』だとは思っていなかったことでございましょう。ただ、その側面 において「他の小説よりも優れている」「最前線にいる」という、奢った勘違いをしていたのではないでしょうか?

>・ SF小説について「視線の二重性」という概念で、貧しい批評行為を、ぼくが展開していたのは、1980年代後半のことです。
>・ 図式的に言えば、「宇宙から見下ろす視点」と同時に、「地上を這うように歩く視点」の、二つが交差するところに、SF小説は成立するという論でした。
>・ 前者の「垂直の視点」が、後者の「水平の視点」と交差する場所。
>・ そこに立とうと思っていました。

この考え方自体は正しいものと存じます。ただし、「そう考えるべきだ」「そうすべきだ」とわかっていて、それができないのが「人間」であり、その部分まで踏み込まないことには、理論は「下手なSF小説みたいな・絵空事」に終わってしまう、ということなのではないでしょうか? 『わかっていて、それができないのが人間』という部分にまで踏み込むのが、本来の「批評」であり「文学」なのではないでしょうか? ……SF者には「そんなことは全部わかっているよ」式の「頭でっかちの、自身過剰」が多かったように思うのでございます。そしてそれは、自身を「宇宙から見下ろす視点」を欠いた、たいへん「人間的な人間」の姿でしかなかった、ということでなのございましょう。

>・ アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」論に挑戦するつもりです。
>・ 生田耕作の『黒い文学館』を読んでしまったことで、方針の転換を迫られてしまいました。

「SF的精神」のもっとも良質な達成を辿り返してみることで、本来、SFが辿るべきだった道を検討しなおしてみる、という試みはたいへん貴重なものでございましょう。業界では、とにかく「SFを売れるようにするには、どうすれば良いか」というような発想しか出てこないことでございましょうから、ここで楽古堂さまのような方が、腰を据えて問題の根本に取り組むというのは、たいへん意義深いことだと存じます。どうぞ頑張って下さいまし。





( 以下は「宿縁(下)」につづく)


宿縁(上) 投稿者:園主  投稿日: 3月24日(日)01時03分46秒

みなさま、私、ひさびさにミステリに取り組まねばならないことになりました。「矢吹 駆シリーズ」第5作『オイディプス症候群』(笠井 潔・光文社)が、いよいよ刊行されたのでございます。

私にとって「矢吹 駆シリーズ」の第1作『バイバイ、エンジェル』は、単に「すごいミステリ」「好きなミステリ」というに止まらず、「己心の闇」というものの存在を教えてくれた画期的な小説でございました。つねに「自分を疑うこと」。つまり、上っ面 の「自己欺瞞的動機」を疑って、その奥に隠された「自分を駆り立てるもの(情念)」の正体を直視すること。……そういう姿勢の必要性を教えてくれたのが、笠井 潔の『バイバイ、エンジェル』でございました。また、笠井 潔はその『虚無への供物』論によって、私に批評の面 白さを教えてくれた恩人でもございました。ですから、かつての笠井 潔は、私にとって「遥かにのぞむ理想の高峰」だったのでございます。

しかし、笠井の著作をいろいろと読むうちに、私の「単純な憧れ」は、しだいに修正を迫られたのでございます。そして、それはやがて(「可愛さ余って憎さ百倍」という心理もあったことでございましょうが)「俺が批判しなくて、誰に批判できる」というようなものに変貌してゆき、ついに私は「笠井 潔葬送派」を自称するまでに到ったのでございます(ちなみに、この名称は笠井自身の「マルクス葬送派」のもじり)。
「矢吹 駆シリーズ」は、今でも私がもっとも愛するミステリのシリーズでございます。『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』(いずれも創元文庫)と続く3作目までは、私は日本一熱心なこのシリーズのファンだったつもりでございます。しかし、約10年のブランク経て書かれた第4作『哲学者の密室』(光文社文庫)には、私は賛否両面 の評価を持ちました。そして、雑誌連載から8年を経て今回刊行されたのが第5作『オイディプス症候群』なのでございます。
かつて私は、「雑誌連載は下書き」とした笠井の発言をとらえて、「下書きを読まされる読者はたまったもんじゃない。『哲学者の密室』みたいに単行本化されてみると3倍にも膨らんでいたというのでは洒落にならない。だから今回、私は『オイディプス症候群』の雑誌連載は読まなかった。後は、雑誌連載を読んだ奇特な読者のために、『オイディプス症候群』の単行本が、『哲学者の密室』みたいに、量 的に大化けしないことを祈りたい」というような皮肉を書きました。あれから約8年、幸い「量 的」には大化けしなかった『オイディプス症候群』が、「質的」にどれだけ化けているのか。それを「公正に」見極めるのが、元「熱心な笠井 潔ファン」としての私の務めなのでございます。





( 以下は「宿縁(中)」につづく)


ネタにマジレスされても、困るんだけどねぇ…(苦笑) 投稿者:賢ちゃん  投稿日: 3月23日(土)22時24分03秒

☆園主さま
そういう方向でレスが来るとは、
予想外でしたが、まあ、それも良しってことで。

>「サディズムとマゾヒズム」じゃないけれど、極端な態度の裏側には、たいていの場合、正反対の心理が貼り付いているものだからね。
ま、そういうことでしょうね。
「失恋」を恐れるっていうのは、多分当たっていると思うね。
でも、やはりそれだけじゃない気はするんだけどね??

☆Keenさま
>お相手にふらせるタイプですか?
>マゾヒスティックな。
>こういう人って、後あとまで残るんだと思います(笑)。
>「あー、あんなにいい人だったのに、振ってしまって悪いことしてしまったわー」って。
>そんなふうにお相手を苦しめて、ほんとうはサディストでしょ(笑)?
サディストでもあり、マゾヒストでもあり……
どっちかって云うと、サディストですがね(笑)。
俺が、何故サディストになってしまったのかを分析すると、
また鬱になりそうなんで、止めときます(爆)。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/6709/


予定の変更 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 3月23日(土)16時11分50秒

園主様へ。皆様へ。
>「特権的立場」に依存した自らのあまっちょろい批評性
>「批評」というものは、やはりどこかで「身を賭して」やらなければならないこと。

・ その通りだと思うのです。
・ SF小説の衰退には、ぼくたちの世代の責任が大きいでしょう。
・ ひとつのジャンルと三十数年間、付き合ってきました。
・ 栄枯盛衰の歴史の全過程に、付き合うことになってしまいました。
・ SF小説の「浸透と拡散」は現状として、そこに見えていたのに、これほどに急速に「雲散と霧消」をするということは、1990年代になるまで、正直のところ、ぼくは予想もしていませんでした。
・ 今に、新しい才能が登場するだろうと、何の根拠もなく思っていました。(正直に言えば、その何人かは、「パラドックス」の中から、出るだろうと思っていました。この中から、十人のプロ作家を輩出すると、ぼくが能天気に断言したのは、結成20周年の軽井沢のペンション、「グラス・ホッパー」での集会の席でした。何という思い上り!)
・ ただSFを社会批評の概念装置とすることには、ぼくは、当初から批判的な立場に立っていました。
・ 無自覚だった、わけではありません。
・ SF小説について「視線の二重性」という概念で、貧しい批評行為を、ぼくが展開していたのは、1980年代後半のことです。
・ 図式的に言えば、「宇宙から見下ろす視点」と同時に、「地上を這うように歩く視点」の、二つが交差するところに、SF小説は成立するという論でした。
・ 前者の「垂直の視点」が、後者の「水平の視点」と交差する場所。
・ そこに立とうと思っていました。
・ この視線は、二重になっています。
・ 「何をしても良いのよ、とSFは言った」としても、何をするかは個々の作家の責任に委ねられているわけです。
・ ぼくの考え方は、SF小説というジャンルにおいては、敗北したと思っています。
・ よほどの科学の進歩や技術革新があって、ロボットや宇宙旅行に新しい展開が生じるまでは、このままだと思います。
・ SF小説の出版については、もう元には戻らないでしょう。
・ 別な道がありえたのではないかという、苦い反省があります。
・ そこで、楽古堂は、SFに戻ります。
・ 今年の作業の予定の変更を、正式に公表しておきます。
・ すでに250枚以上になろうとする、大西巨人の『神聖喜劇』論「深淵」を、一時中断します。(400枚以上になるでしょう。実に難物です。「群盲象を撫でる」というのは、こういうことを言うのでしょう。楽古堂が、なんとか突破口を探して苦闘している経過が、そのままに読み取れると思いますが。)
・ アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」論に挑戦するつもりです。
・ 生田耕作の『黒い文学館』を読んでしまったことで、方針の転換を迫られてしまいました。
・ 楽しみにしていた方は、まあ、いないとは思いますが、一応、御寛容をお願いしておきます。




  2002年3月22日

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_rakkodo.html


発掘☆ 投稿者:Keen  投稿日: 3月22日(金)18時34分41秒

書きさしですが、とりあえず送信しちゃいますね。
続きがいつ書けるのかわかりませんので。

          ※

「随筆 虫の知らせ」は……

☆楽古堂さま

リレー小説『薔薇迷宮』への参加を断られた時、「ある人物の死」についてお話しされてたのを記憶しています。
きっと、A.Tさまのことですね。
何と言うことでしょう、私もオートバイ事故で身内を亡くした経験があるのです。
楽古堂さまのお気持ち、お察しいたします。私には鮮烈な原体験でした。
もう四半世紀前になりますが、その日は奇しくも9月11日。我が家だけのささやかな命日は、昨年、歴史に残る世界のメモリアル・デイになってしまいました。
嬉しくない暗合。
私の誕生日は夭逝した金沢出身の少女漫画家「花郁悠紀子」さんの命日にあたり、中井さんのお通 夜が執り行われた日でもあったようです。モロ当たりの相澤啓三さんはショックだったようですね(苦笑)。
私は、ひとの死に感応する力はないようです。中井さんの時も何も感じませんでした。「NSR」関連で新潮文庫『伊豆の踊子』を手に取り、表題作を再読するよりもショックを受けたのは、三島由紀夫の筆になる「解説」と同時収録の短編「抒情歌」でした。ちょっと恐ろしくなりましたが、竹本健治『閉じ箱』収録の短編「緑の誘い」のラストと同じく「私は大丈夫よ。ダイジョーブ」と呟いてみるのでした。

>「あしひきの山の歌」について。

>keen様へ。
>・ 鋭いですねえ。

ギャグですか?(笑)。
お手許に『英和辞典』がありましたら、「Keen」という単語を引いてみて下さいませ。>皆さま
なお、意味は一つだけでなく、沢山並んでいる全部をお読みくださいね。特に(俗)(英)(アイル)などがついている、最後の方まで。

>・ keenさんの「暗合」は、直感力の産物でもあるでしょう。
>・ ただ「直感力」のあまりにも鋭敏な人は、ろくろ首のような状況になることがあります。
>・ 頭だけが、身体を差し置いて遠くに行ってしまいます。

よくご存じですね。これは、自覚してます。ほとんど『不思議の国のアリス』状態ですね(笑)。

>・ 自分の頭部が、胴体にきちんと填まっているかの点検をお忘れなく。
>・ 結局、外れることはありませんが。

そういって頂けて、安心しました。自分でも収拾がつかなくなる時がありますので。
そんな時は、まあ時間に任せてしまいますが、悪くするとエネルギーを使い果 たして鬱を呼び込んでしまうので、もう少し自分でコントロールする術を身につけたいと思っています。

>・ 星空とひとりで対峙するのが、山にいく目的のひとつでした。

私が山に行く目的は、「気」を鎮めるためかもしれません。

なお、私は基本的には「合理主義」です。特定の宗教・思想を奉じる者ではありません。
しかし、超自然の力を全て否定する者でもありません。つねに「人智を越えたモノ」への畏敬の念を抱いております。


☆園主さま

>平野啓一郎『日蝕』
>「この人は日本の純文学作品を良く読んでいて、その文章的長所を上手に身につけているな」といった程度のものでございました。もとより私は三島の小説が「合わない」人間ですので、平野の良さがわからないだけなのかも知れませんが、文章としては三島よりも読みやすく、比較的「過美」ではないと思いました。
現時点では、平野啓一郎が「天才」なのか、単に「早熟で器用」なだけなのかは判断いたしかねますが、いずれにしろこの『日蝕』が、「芥川賞受賞作」としてではなく、「文学作品」として長く残るほどのものだとは思いませんでした。もしも平野に才能があるのならば、今のマスコミにその才能をすり減らされことなく、大きく成長してもらいたいとものだ存じます。

ほぼ同感です。
私は三島は好きですが、平野は早熟ということ以外、特に三島に似ているとも思えません。
平野の年齢を考えればよく書けているとは思いますが、やっぱり「ものたりない」の一言に尽きます。
この人のこれから、には期待してますが。


中井さん! 投稿者:Keen  投稿日: 3月22日(金)18時14分32秒

また一体何の冗談ですか。

園主さまにお借りしたビデオ、
『ETV特集 黒鳥館日記 〜作家・中井英夫の生と死』
見てたんです。
39分ごろ、「流薔園」のUPの後、画面に映し出された羽根木での薔薇宴。
咲き誇る薔薇の下、中井さんの隣で笑っているのは19才当時の私ではありませんか!

もうあの頃から赦免して下さってたんですか?
それならそうと、何か合図してくれたっていいじゃないの☆
私、なんにも知らなかったんだから……

さっきまで投稿文書いてたOASYSは動かなくなるし、ベタ書きで送信できるかどうかもわからないけど、いつまでもイタズラっ子なんだから!もう〜……

皆さま、そういうわけでして、書きかけのレスは生没不明。
私は前後不覚の正体不明に陥っております。
クラウス兄の帰宅を待って、なんとかこの事態を収拾したいと存じます。
いずれまた。


賢ちゃんの中にSMをみた。 投稿者:AOI  投稿日: 3月21日(木)22時52分46秒

☆賢ちゃん

>恋愛までに至る過程、要するに相手を振り向かせるまでが楽しいってことです(苦笑)。
で、いざ付き合いだしたら、飽きる…っと(贅沢爆)。
て云うか、「おつきあい」そのものが、あまり楽しく感じられないのですよ。
>っていうか、俺は実践派なんだけどね。実のところ(自爆)。

お相手にふらせるタイプですか?
マゾヒスティックな。
こういう人って、後あとまで残るんだと思います(笑)。
「あー、あんなにいい人だったのに、振ってしまって悪いことしてしまったわー」って。
そんなふうにお相手を苦しめて、ほんとうはサディストでしょ(笑)?

☆ホランドさま

>じつは自分をマゾヒスチックな快感が得られる立場に持っていこうという「無意識」のはたらきのせいだったんだと理解すれば、「私」は「菊雄を助けたい」と思った後もやっぱり、菊雄をサディストの群れに与えた「サディスト」(共犯)だったとは言えるんでしょうけどね。

この感情はたぶんに、男性的なサディスト性なのではないか(?)とふと思いました。

>火星でも神聖でもなく、・・・なに言う天然(おそまつ)。

なるほど。納得です(笑)。

☆園主さま

>「文学」というものは、あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な存在であり、またそういう存在であらねばなりません。ですから「人間」を「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学も、文学の王道を行くものだとすら申せましょう。

このことは、重々分かっているつもりです。
つい、菊雄の身になってぐちってしまったんでした。


メールの欠落補足と「随筆 虫の知らせ」 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 3月21日(木)21時37分41秒

園主様へ。
・ 以下の分のメールが、欠落しているように思えます。
・ 再投稿します。

・ さらに、随筆 虫の知らせを送ります。
・ こちらも、よろしくお願いします。


************************************


クラウス様へ。
・ はじめまして。
・ 楽古堂と申します。
・ この時期に、ニュージーランドと縁故のある方に出会えるとは、嬉しいことです。
・ 金と暇があれば、日本の旅行会社が必ず企画するだろう『ロード・オブ・ザ・リング』ニュージーランド・ツアーに、同行したいものと考えていました。
・ 土地の人情が、J.R.R.トールキン描くところのホビット族と、近いように思えるのです。
・ 食べることと、ゆっくりすることを何よりも愛する農民気質は、ピーター・ジャクスン監督からも、明瞭に感じ取れます。
・ そのくせ、自分の利害に関わる時には、妙に辛辣で勤勉にもなります。 
・ 旅行は、まず無理でしょう。
・ 三日以上の連休が取れるのは、年に数回です。
・ 意味ではなくて、朗々誦すべき言葉の美については、日本人にとっては、短歌が最良の形式のひとつのように思われます。
・ 楽古堂にとっての秀歌は、一読して印象に残り忘れない作品です。
・ 塚本邦雄の歌だけでも、五十首以上を暗誦できるでしょう。他の歌人も含めれば、おそらくその数倍のストックがあります。
・ 歌の良い点は時に応じて、心の表面にふうっと浮かび上がって来てくれるところです。
・ たとえば春一番の季節になると、次の歌が思い浮かびます。

   丘に来て両手に白い帆をはれば風はさかんな海賊の歌  斎藤 史

・ 正確な表記ではないかもしれませんが、それでも良いと思っています。
・ 丘を駈け下りたい気分になることが大切ですから。


  2002年3月12日(火)

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_rakkodo.html


批評の主体(5) 投稿者:園主  投稿日: 3月21日(木)20時30分29秒


 影姫青夜さま
>平野啓一郎『日蝕』・金城一紀『GO』
>神保町あたりではこの2冊で1万円は軽く超える買い物を1200円程度でやってしまったのですから・・・

それは良い買い物をなさいました。よく「誰々殺すにャ刃物はいらぬ、××ひとつあれば良い」などと申しますが、そのでんでいきますと「影姫、元気づけるにャ薬はいらぬ 、拾いもの(の古本)一冊あれば良い」という(たいへん字余りな)ことなのでございましょうね(笑)。

>平野啓一郎『日蝕』の帯がなんと「2種類」あるのです。見慣れている「青色帯本」のとなりになんと「黒帯本」が・・・!!

『日蝕』は、「新潮社装丁室」による、たいへん素晴らしい装丁の本でございます。しかしそれは、「元帯」がついていての話でございまして、あの「テカテカした青色の賞帯」は、せっかくの装丁を台無しにしたものでございます。

『日蝕』は、「三島由紀夫の再来! 絢爛たる天才の出現!」といった調子の大変な肝煎りで、文芸誌『新潮』に一挙掲載されました。新人賞の受賞作というわけではなく、「無名の大学生」の持ち込み作品が、そのまま一流の文芸誌に一挙掲載されたのでございます。そしてその作品は、すぐに「芥川賞」を受賞。作者の平野啓一郎は「三島由紀夫の再来」であるばかりではなく、「芥川賞の最年少受賞者」として一躍に注目を浴びたのでございます。……ちなみに、私の友人の話によりますと、「芥川賞の最年少受賞者」は平野啓一郎ではなく、丸山健二だそうでございます。事実は、どうなのでございましょう?

ともあれ、話題の大型新人の作品『日蝕』と第2作『一月物語』を読んだ感想は、「この人は日本の純文学作品を良く読んでいて、その文章的長所を上手に身につけているな」といった程度のものでございました。もとより私は三島の小説が「合わない」人間ですので、平野の良さがわからないだけなのかも知れませんが、文章としては三島よりも読みやすく、比較的「過美」ではないと思いました。
現時点では、平野啓一郎が「天才」なのか、単に「早熟で器用」なだけなのかは判断いたしかねますが、いずれにしろこの『日蝕』が、「芥川賞受賞作」としてではなく、「文学作品」として長く残るほどのものだとは思いませんでした。もしも平野に才能があるのならば、今のマスコミにその才能をすり減らされことなく、大きく成長してもらいたいとものだ存じます。

ちなみに以前、こちらでも話題になった金城一紀『GO』は未だ読めてはおりません。まだビデオも観ておりませんが、……もうビデオ落ちはしておりますよね?


 ホランド
>な〜んだ、まだ『SFスナイパー』、読まれていなかったんですね。

半分くらいは『パラドックス』の「変格探偵特集」号で読んでいたんで、そのうちと思っているうちに「埋もれて」しまってそのままというわけだよ。だから、おまえから返してもらったら、この機会に通 読させてもらう予定だ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


批評の主体(4) 投稿者:園主  投稿日: 3月21日(木)20時29分40秒


 Keenさま
>昨日「魚の召使」のWりが出まして、惜しいニアミス!と思ったのですが、なんとこれが「自立する魚」でした。かなりの前傾姿勢ではありますが。
>どうやら、個体差があるようですね。

それは良うございました。私の方は、家に籠りっきりですので、まったく進展がございません。

ところで、「INFORMATION」でご紹介しております多賀新展は、そちらでの開催でございます。ぜひ時間をみつけて、ご覧になって下さいまし。


 黒瀬珂瀾さま
>その『詩人・その虚像と実像 父 ― 金素雲の場合』という本、
>なんとかして手に入れたいと思いますので、
>版元など教えていただければ幸いです。

版元は「創林社」でございます。四六版上製カバー装の単行本で、装丁は村上昂が担当しております。

ホランドくんも書いておりますが、この本がいったいどれくらい現存するのか、なかなか難しいところでございましょう。創林社の社長は、いろんな意味で北原に逆らえない状態にございました。ですから、北原はこの出版社から好きなだけ本を刊行したようでございますね。たしかに、北原は小説家として一定の力量 を持っており、本が出ること自体は不思議ではございませんが、なんでもかんでも次々にという当時の刊行状況は、やはり異常なものでございました。
『詩人・その虚像と実像 父 ― 金素雲の場合』にしても、有名な人物が書いたものならばいざ知らず、ほとんど無名の作家が、知る人しか知らない「韓国人詩人」について書いた「自伝的告発本」など、普通 は刊行できるものではないのでございます。そんなわけで、少部数出版、少部数売り上げはほぼ確実と思われます。版元は、社長が事件に連座して、倒産。在庫は、その内容や事件の性格からして、まずは裁断でございましょう。『薔薇館の神々』や『美少女綺譚』なら、いずれか一方を年に一度は古本屋で見かけたりいたしますが、『詩人・その虚像と実像 父 ― 金素雲の場合』については、古本屋で見かけたことがないような気がいたします。





( 以下は「批評の主体(5)」につづく)


批評の主体(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月21日(木)20時26分59秒

 楽古堂主人さま(つづき)
私は以前、「量子力学的世界像」を扱ったミステリを書いて「今やミステリは文学の最前線に立っている」と言うようなことを書いたミステリ作家 山口雅也について「そんなことで文学の最前線に立っていると思えるとは、何とも幸せなこと(無知)だ」というような感じで馬鹿にしたことがございます。「文学とは、そんな単純なものではない」ということでございますね。ところが、こういう程度の低い「勘違い」をする人が現実にはけっこう多くて、SF全盛期の作家やファンはもとより、今のSF作家やファンの中にすら、こういう意識の持ち主が少なくないのではございませんでしょうか? つまり、自分たちだけは「見えている」という「増上慢」の持ち主のことでございます。

『宇宙人達が、地球人の文明のおかしなところを、笑い飛ばす』というその肝心要(批評)の部分が『よほど、気心の知れた相手』にしか話すことができず、現実には『すでに泡の抜けたビールのようなもの』でしかない『公開を前提とした「SFバカ話」』を飽きもせず「無難な商品」として再生産し続けているのだとしたら、SFが文学として「取るに足らないもの」という評価を受けたとしても、それは自業自得というものでございましょう。
SFの欠点は、「特権的立場」に依存した自らのあまっちょろい批評性に、自覚が足りない点にございましょう。もちろん、例外的な存在はおりますでしょうが、ジャンルとしての問題点はそのあたりに存するのではございませんでしょうか? 「批評」というものは、やはりどこかで「身を賭して」やらなければならないことでございます。少なくとも、その覚悟は必要でございましょう。もし自分の身を「現実」という危険にさらすのがイヤなのなら、「批評」などということは考えず、ミステリのように「大人の娯楽」「知的読み物」という「重さ」を主張しない立場に徹するべきだと私は考えます。

門外漢が偉そうなことを書きましたが、門外漢にはかつての日本SFが、一面 で斯様に「鼻持ちならないもの」に見えたという事実は、知っておいても無駄 にはならないのではないでしょうか?

>・ 「まぐろ屋猫丸」氏の最近の仕事について、ぼくは何も知りません。
>・ どんな本が出ているのでしょうか?

「まぐろ屋猫丸」氏については、よく存じ上げませんが、氏がホランドくんの見込みどおり「森奈津子」さまであるなら、ホランドくんの(または、この)書き込みの中のリンクをご利用いただければ、著作リストなどの完備された、森奈津子さまの公式サイト『森奈津子の白百合城』に跳べるはずでございます。ですが、ワープロによる閲覧ではジャンプが不可能なのかも知れませんので、念のため、以下にURLを記しておきましょう。

『森奈津子の白百合城』URL
http://member.nifty.ne.jp/mori98/index.html


 AOIさま
「NSR」
>「快楽の道具」でしかないというのが、やりきれない気も。

これは非情に難しい問題をはらんでおります。昨日、ホランドくんが紹介していた『SFスナイパー』の惹句『「何をしてもいいのよ」とSFは言った』に象徴されるように、サドに代表される「悪徳の文学」が存在ように、「文学」というものは、あらゆる「禁忌」を侵犯する自由な存在であり、またそういう存在であらねばなりません。ですから「人間」を「快楽の道具」として扱うような「反・倫理」的な文学も、文学の王道を行くものだとすら申せましょう。しかし、その「建て前(きれいごと)」の裏には、しばしば「卑小な個人の、卑小な欲望」が隠されているだけであったりもいたします。もちろん文学は、その「人間の卑小さ」すらも取り込む貪欲なものであるべきなのでございますが、単純に「意図」も「結果 」も「卑小な作品」というのが、じつは大半を占めるのが現実現状なのでございます。ですから、我々はごく限られた「小数の傑作」のために「大半の卑小な作品」の「作品的価値」まで認めなければならない謂れはございませんが、その一方で「小数の傑作」を生み出すための「素地」として「大半の卑小な作品」の「存在的価値」は認めなければならないのでございましょう。……「文学が、なんぼのもんじゃい!」という感じもいたしますが、いずれにしろ「現実」というものは、「美味しいとこ取り」を許してはくれないのでございます。

>ふたりとも、がんばれー!!

恐縮でございます(笑)。





( 以下は「批評の主体(4)」につづく)


批評の主体(2) 投稿者:園主  投稿日: 3月21日(木)20時23分38秒


 楽古堂主人さま
美食家の運命 ―― 書評『黒い文学館』生田耕作

>生田耕作が覚えた「嘔吐感」は、特にSFやミステリーのように小さなジャンルの中で、多くの作品を読んできた方は、遅かれ早かれ同じような感想を持つようになると思われます。

幸いなことに、私は『嘔吐感』というほどのものを感じたことがございません。それは私が『小さなジャンル』に執着し続けられない「気の多い」「欲張り」だからかも知れませんし、『嘔吐感』を覚えるようになるずっと以前に「腹を立て」たり「内在批判」をしたりして適当にストレスを発散し、骨身に沁みて嫌いになる以前に「飽きて、他所へ行ってしまう」などするからかも知れません。
『嘔吐感』とは、「過剰な愛情の裏返し」かも知れませんし、「過剰な愛情」とは実は「自己愛」を他者の上に投影した「欺瞞的恋情」なのかも知れません。こうした心理は、「好きになった相手が私を裏切った」として「イヤがらせ」をし、それを自分の「愛の深さの証し」と考える「ストーカーの心理」まで「あと一歩」のところまできているのではないでしょうか? 生田耕作の「新刊」や「批評家」に対する「憎悪」むき出しの「否定」も、同じような心理に由来するのでございましょう。

>・ つまり、惑星地球を、宇宙から見下ろすような視点が必要です。(竹本健治氏にも、この視点があります。)
>・ 宇宙人達が、地球人の文明のおかしなところを、笑い飛ばすのです。
>・ よほど、気心の知れた相手としかできません。
>・ 外部に口外できるような内容ではありません。
>・ 公開を前提とした「SFバカ話」は、すでに泡の抜けたビールのようなものになっています。
>・ 現代社会の絶望感や閉塞感から、一時だけですが解放されます。
>・ 大脳の「垢擦り」をした後のような、爽快な気分になれます。

『宇宙から見下ろすような視点』というのは、SFの「批評性」の比喩として、わりあいよく使われるものでございましょう。ですが、この視点に立った時、人はしばしば「自分」の姿を見失ってもおり、そこが「SFの弱点」ともなったのではございませんでしょうか?

『宇宙人達が、地球人の文明のおかしなところを、笑い飛ばすのです。』……「あの猿みたいな生物は、なんとバカバカしい社会を創ったのだろう」とタコ型の宇宙人が地球人を笑う。その一方で地球人は、そのタコ型宇宙人の星まで観測ロケットを飛ばし、彼らの社会を観察してこういうのです。「あのタコみたいな生物は、なんとバカバカしい社会を創ったのだろう」。

もうひとつ譬え話をしましょう。ある男が言いました「やたら群れたがるやつらにロクなのはいない」。もっともな意見でございます。ですが、その男性をべつの人物が評してこう言いました「彼は、群れたがる人間を嘲笑する人間どおしで群れたがる人間だ」。

「しがらみ(束縛)」から離れて、ものごとを客観的に見るということは、不可欠なことでございます。しかし、それだけなら「単なる知的自慰」に終わって、実際のところ大したことではないとも申せましょう。その「客観的認識」にそって、「しがらみ(束縛)」のある「現実」とかかわる時にこそ、初めてその「客観的認識」の「強度(真価)」が問われるのだと言い換えても良いのかも知れません。

小松左京の「社会貢献」も、豊田有恒の「政治的言論」も、半村良の「人間回帰」も、横田順彌の「古典回帰」も結局は、SFが自慢した『宇宙から見下ろすような視点』が、たいていの場合「身体性」の欠如したものでしかなかった、という「自覚と反省」に由来する「揺り返し」なのではないでしょうか?

もちろんは私は「根をもつこと」と言うシモーヌ・ヴェイユに親近感を感じるタイプの人間でございますから、『宇宙から見下ろすような視点』に立つような人間(の中でも、「根無し草」的人間)には、「肌合い」として反発を感じるのでございましょう。しかし、たとえば澁澤龍彦は「歴史の彼方から人間を見下ろすような視点」の持ち主であり、その意味では『宇宙から見下ろすような視点』の持ち主に近いのでございますが、私は澁澤にたいしては全く反発を感じません。この差がどこから来るのかと言えば、それは彼が「自他の区別 」なく物事を客観的に見ていた人(「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」)、「透徹した視点」持った「独りよがりの自信過剰に陥らない」人だったからでございましょう。





( 以下は「批評の主体(3)」につづく)


批評の主体(1) 投稿者:園主  投稿日: 3月21日(木)20時19分17秒

みなさま、本日は「春分の日」でございます。つまり暦の上でも、春。桜も例年になく早い開花を見せているようでございますね。昨年来、世界情勢、国内情勢ともに暗い話題尽しといった観がございますが、「冬は必ず春となる」「闇が深ければ深いほど、夜明けは近い」といった言葉を胸に、しぶとく生き残っていきたいものでございます。

さて、本日は多賀新展のご案内を「INFORMATION」の方へアップさせていただきました。今回は銅版画集刊行記念の展覧会で、名古屋での開催でございます。絵画芸術なら大概はそうでございますが、特に細密微妙さが命である銅版画の素晴らしさは、実物をふれないことには決してわかるものではございません。 地元のみなさまは、この機会に是非、多賀の実物に触れて下さいまし。





 賢ちゃん
>まずは、ご回復おめでとうございます。

ありがとう。

>抜け駆けって(苦笑)。
>何か、そっちのが悪意がないかい??(笑)

いいや、よくある「仲間意識」というものでしょう(笑)。

>ま、俺の方は、当分ないから安心しても良いと思うぞ(自爆)。

本人の弁は、あまり当てにならない。そう言った1時間後に恋に落ちるということもある。それが恋というものだろう。それなのに『当分ない』などと言えるのは、わかっていない証拠だと思うよ(笑)。

>ま、俺が飽きっぽいのが、一番の元凶だとは思うのだけれど、

君の恋愛が長続きしない理由は、相手の立場に立って状況を見れないからだと思う。つまり、一応うまくいってしまうと、君はそれに満足して、相手への気配りを無くしてしまう。自分も満足しているんだから相手も満足しているんだろうという気分になってしまう。だが、現実はそう甘くはない、といったところかな(笑)。

>で、いざ付き合いだしたら、飽きる…っと(贅沢爆)。
>て云うか、「おつきあい」そのものが、あまり楽しく感じられないのですよ。

だから、これは「後付けの自己欺瞞(虚偽意識)」に近い。もし、事実そうだったら、失恋して落込むこともないわけだから、

>俺に彼女ができて、はしゃぎまわって、
>また振られて落ち込むところを観たいから、

という状況も出てこないというわけだよ。

>ん?今まで感動してなくって、「娘。」で初めて感動を知ったのなら、
>論理的は破綻してないと思われますが、如何?(苦笑)

これも同じようなこと。私が君の「自分自身に関する断言(判断・予想)」を信用しないのは、恋愛に関しての『当分ない』と同様、感動ということについて「未来」にも『ない』と安易に断定してしまう迂闊さを知っているからだよ。たしかに今まではそうだったかも知れないが、これからのことは本人にだって容易にわかるものじゃないし、断言できるものじゃない。それを安易に予言してしまうような迂闊さが君にはある。これはある意味で「自己過信」と言っても良い。「モーニング娘。」の経験で、自分の「主観的確信」がいかに当てにならないかということを充分に学んでいたなら、恋愛も『当分ない』なんて言わないだろう。思うにこれは、失恋を恐れるあまり「もうシンドイから恋愛はゴメンだ」という防衛意識が言わしめたものであろうし、その意識の裏には「失恋のない、楽しいだけの恋愛ならいつでも大歓迎」だという気持ちがあるとも思うよ。「サディズムとマゾヒズム」じゃないけれど、極端な態度の裏側には、たいていの場合、正反対の心理が貼り付いているものだからね。

ともあれホランドくんの

>なんかコレって、嫌味なくらい余裕な言い方じゃないですかあー?(笑)

という言葉は、君の「主観」を問題にしているのではないと思う。第三者的には「そう見える」から気をつけた方が良い、という忠告が含まれているんだと思うな。君にその気はなくても、君を知らない第三者なら「何をすかしたこと言ってるんだ」と思っても全然無理はない言葉だからだ。あの言葉が他人の発したものなら、君だってそう取っていたことだろう。『相手の立場に立って状況を見れない』というのは、そういうことなんだよ。

冷静に分析してしまって申し訳ないが、これは君の最大の問題点なので、じっくり検討して欲しいと思う。自分のことを考える(自己の現実を直視する)というのが、いちばん難しいことなんだけれどね。





( 以下は「批評の主体(2)」につづく)


「あしひきの山の歌」と『SFスナイパー』について。 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 3月21日(木)12時59分18秒

「あしひきの山の歌」について。

園主様へ。ホランド様へ。
・ なるほど。「郷愁」、そして「思い出」。
・ そうなのかもしれません。
・ 本人は、まだ中程度の山へのハイキングぐらいは、できると考えています。
・ 軽い気持ちで書いていますが、そうなのかもしれません。
・ ぼくの登山の時代は、終わっているのですね。

keen様へ。
・ 鋭いですねえ。
・ 七首目が、いちばん思い出します。
・ keenさんの「暗合」は、直感力の産物でもあるでしょう。
・ ただ「直感力」のあまりにも鋭敏な人は、ろくろ首のような状況になることがあります。
・ 頭だけが、身体を差し置いて遠くに行ってしまいます。
・ 自分の頭部が、胴体にきちんと填まっているかの点検をお忘れなく。
・ 結局、外れることはありませんが。
・ 星空とひとりで対峙するのが、山にいく目的のひとつでした。


『SFスナイパー』について。

・ SFのファンであることの醍醐味に、ファンの中での「バカ話」があります。
・ 体験していない人に説明するのは難しいのですが、人間社会のタブーをひとつ一つ脱落させていくのです。
・ つまり、惑星地球を、宇宙から見下ろすような視点が必要です。(竹本健治氏にも、この視点があります。)
・ 宇宙人達が、地球人の文明のおかしなところを、笑い飛ばすのです。
・ よほど、気心の知れた相手としかできません。
・ 外部に口外できるような内容ではありません。
・ 公開を前提とした「SFバカ話」は、すでに泡の抜けたビールのようなものになっています。
・ 現代社会の絶望感や閉塞感から、一時だけですが解放されます。
・ 大脳の「垢擦り」をした後のような、爽快な気分になれます。
・ 「PARADOX」の最良の部分は、そこにあると思います。
・ 「まぐろ屋猫丸」氏の最近の仕事について、ぼくは何も知りません。
・ どんな本が出ているのでしょうか?



  2002年3月21日(木)

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_rakkodo.html


余裕ねぇ…(苦笑) 投稿者:賢ちゃん@さて…  投稿日: 3月21日(木)12時56分43秒

☆ホランドさま

>なんかコレって、嫌味なくらい余裕な言い方じゃないですかあー?(笑)
余裕っていうか、開き直りっていうか(苦笑)。
ま、どうでも良いですけどね。当分恋愛はしそうにないし(自爆)。

>「モーニング娘。」で、生まれて初めて感動というものを知ったと言われたんだぞ、と園主さまは脱力して呆れてましたよ。「だから賢ちゃんの(自分自身に関する)断言は信用しない」と言ってました。
ん?今まで感動してなくって、「娘。」で初めて感動を知ったのなら、
論理的は破綻してないと思われますが、如何?(苦笑)
まあ、信用がないのは、今までの言動が言動(謎笑)ですので、
自業自得っていうか、自縄自縛ですが←ひとりSMってス・テ・キ(アホ爆)。

>「SFスナイパー」
何度か目にしたこともあるし、ちょこっと読んだこともあるんですが、
その頃は活字SF者ではなかったので、はっきり覚えていません。
「SMスナイパー」だったら、嫌ってほど読んでますが(自爆)。
っていうか、中学時代から、SM雑誌を読みつづけている俺って、
変ですか?
確か、初めて読んだSM雑誌は…なんだったけ?覚えてないや(記憶力悪っ!)。
けど、殆どのSM雑誌は、読んでると思いますね。

っていうか、俺は実践派なんだけどね。実のところ(自爆)。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/6709/


!!(^O^)大豊漁(^0^)/~~~~~!! 投稿者:影姫青夜  投稿日: 3月21日(木)02時15分58秒

皆様こんばんは。影姫です。
先日、私が「豆鉄砲を食らったカエル」になってしまった顛末は
お話しましたが、序序に「ビョンビョン動き回るカエル」へと
回復を始めたのです。これはいったいなにが原因なのでしょうか?

実は本日、近所のブック・オフに行きました。ブック・オフも
最近は出物が少なくあまり期待していったわけではありません。
ところがハードカバー半額本のところで私はふとたちどまり
ました。いつも見慣れている平野啓一郎『日蝕』の帯がなんと
「2種類」あるのです。見慣れている「青色帯本」のとなりに
なんと「黒帯本」が・・・!!私は直観しました。
「これは元帯・初版だ!!!」丁寧に調べてみるとやはりその
通りでした。ちなみに『日蝕』は芥川賞本のくせに「元帯」が
存在するという非常にめずらしいケースの本です。ここいら辺
にこの本の「人気」があるのかもしれません。

私は涼しい顔をして『日蝕』をレジにもっていこうとしました。
(古書マニアは掘り出し物に当たった時もポーカーフェイスを
崩してはならないのです。)

とその時、金城一成『GO』がちらりと見えました。なんとこの本
の帯にも「直木賞受賞」と「書かれていません」。
私は顔面が崩壊してゆくのを感じました。それも無理はないでしょう。
神保町あたりではこの2冊で1万円は軽く超える買い物を1200円
程度でやってしまったのですから・・・

ともあれ「ブックちゃん、ゆるしてええ〜〜〜もう絶対バカにしません!!!」
とブック・オフ様様様にお礼を申し上げたところで、この戯文もおしまいに
させていただきます。

おしまい。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html



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