●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2003年4月下旬(1)
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薔薇と蜜かぐわしかれどせつなかれど少女密偵団は来たらず(福島泰樹) 投稿者:Keen  投稿日: 4月26日(土)17時31分19秒

☆影姫さま

>「月光書影閲覧室」に『狂い蜜殺し蜜』(特装版)の書影を入れたのはkeen様への「オマージュ」なのですよ。(⌒ー⌒)ノ

……光栄ですわ、ありがとうございます。
「春喪祭」も大好きな作品ですので、このカップリングは嬉しいですね。
タイトルは、福島さんの、中井さんへの弔歌です(ご存じでしょうが)。

☆野茶坊さま

>遊園地?

初めまして。
なかなかナイスな表現ですねえ〜、言い得て妙、ですわ(笑)。
でも、「美少年」が芝生でうっかり昼寝してると、「狩人(ハンター)」に何されるかわかりませんよ〜、フフフ♪


「恥じ」について 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月26日(土)17時24分01秒

☆AOIさま
> マイケル・ムーアがアカデミー賞の受賞でブッシュを批判して叫んだことを思い出しましたけれど、そのことの批判でもありますか?

いえ、マイケル・ムーアさんのことは想定しておりませんでした。
と、いうのが、質問の回答でそれでサラリと終わりにするつもりだったのですが、

>杉澤さまは、特にマイケル・ムーアを意識なさってはいませんでしょうが、私が指摘いたしましたとおり、ムーアのように「血みどろの戦い」をする人間を、どう評価するかという点では、関連のある、とても重要な質問をなさっていると存じます。

と、いうアレクセイさんのお言葉があり、軽く流すことが出来なくなりました。いやはや、さすが怪人。
─ ・ ─
 マイケル・ムーアを評価するために、もう少し「恥じ」ということについて整理しておきます。私が「恥じ」というときそれは、「切断」と「排斥」を行わない、という意味合いを含んで用いています。起こっている事態を自分とは関わりのないものとするという、事態の「原因と自分との切断」と、その生じている事態の原因となった存在を一切許容しないという「原因の自分たちからの排斥」とです。

「排斥」に関して少し説明します。
 たとえば、ひきこもりの現場では「ゆるし」というのが重要なテーマとなることがあるそうです。
 ひきこもっている子供の多くが親に対して反発し親を許せないと思っている。そしてその関係は中々修復されない。子供が親を許せないのは、親が圧倒的に優位 な存在だからです。自分よりも巨大な存在を許すということはない。あくまで自分が権力を行使する立場にある限りにおいて、ヒトは相手を許したり許さなかったりという決定を行えるのだから。

「ゆるし」との関連において私は「憎悪」「怒り」ではなく「恥じ」と言います。恥じるときヒトは、その対象を自分の下位 のものとして捉えている。そのとき「ゆるし」の可能性が生じると思うのです。

 これが、私の考える「恥じ」です。(アレクセイさんの「憎悪」「怒り」とどの程度の隔たりがあるかは分かりません。戦うことと許容することとの境界線の引く位 置がどこにあるのか、という以上の差はないようにも思います)
 問題の根本的な解決を見ないままに許してばっかりではしょうがないんですけどね。少なくとも民族紛争など「敵」と対峙する結果 エスカレーションが生じ事態を悪化させている場合において、そこに内在する立場のものは、根本的な解決のために怒り戦うよりも、許せないものを許すことが重要である、と私は考えます。

 だから、inoさんの質問に応じるかたちで表現した「『この、恥さらし!』と叫び相手を足蹴にするような、問題原因の所在を自分から切り離しそれを排斥するようなことではありません」というのは、「切断」「排斥」をしないと言う意味でのみ用いたのであって、実際のところそのような表現がなされる局面 においては、言外の意味において充分に「自分とその相手が同一の集合体」であると理解し「最終的には(自分たちの一部としての)相手を許容する」場合が多く、その場合を(相手を足蹴にするその瞬間ではなく)俯瞰的に捉えれば私の「恥じ」概念に合致するように思います。
 
 といった次第で結論的には明らかなように、マイケル・ムーアの試みは「自分とその相手が同一の集合体」であると理解し「最終的には相手を許容する」ものであると私は判断し、それを認めています。
 また理論がどうこう言う以前に、大舞台で非難しちゃいけないヒトを非難するという蛮行が、私は大好きなので自分もそういう舞台に立ったら是非やってみたいと思います。

補足)恥じについてもう少し自己分析すると、私には世界のありとあらゆるものに対して優位 に立ちたい、相手を見下したいという欲求があるようです。

 ……亀レスですいません。私が既に殺されていて代わりに私を名乗っている人間がこの質問に気づかなかった、ということではなく、単に遅筆作家のノロイがかけられているだけなのです。

http://www4.rocketbbs.com/141/ouro.html


徒し心のオジギソウ 投稿者:AOI  投稿日: 4月26日(土)10時10分13秒

☆ホランドさま、みなさま

>当時の浅田氏は『批評空間』の特集を組み立て、美術批評や建築批評の場で睨みを効かせ、薬害エイズや筒井康隆断筆宣言問題などで積極的に発言をしていた。
(東浩紀・第九信「批評が生きられる必要はない」P122より)

と書かれている『批評空間』は先日サイードについて浅田彰氏が書いているとご紹介した下記URLでご覧になれます。是非、どうぞ。

http://www.criticalspace.org/special/archive.html

☆inoさま

>まだ去りません。
>時候の挨拶です(^^)梅雨も近いし・・・。

シッツレイしましたあ〜(笑)。

>AOIさまの音楽批評?もこれからですよね。

えっ!?まあ〜(しどろもどろ)

明日は、チェンバロ、ヴァイオリン、ウード(アラビアの弦楽器)、タブラ(インドの打楽器)という前代未聞(前衛的?)なセッションに行ってまいりますわ(笑)


遊園地? 投稿者:野茶坊  投稿日: 4月26日(土)01時00分33秒

ホランドさま、はじめまして。歓迎のレスありがとうございます。お返事遅れてすみません。

それにしても賑やかな掲示板です。鳥のさえずる「花園」というより、子どもがあっちでぎゃーぎゃー、こっちでぴーぴーっ、ベンチでは眉間に皺寄せた爺さんが何やらぶつぶつ・・・てな感じの「遊園地」か「公園」ですね、これは・・・(園主さま、ゴメンナサイ!)。皆さまそれぞれ思い思いに過ごしておられるようです。私は時々芝生で昼寝でもしに参りましょうかねえ(笑)。

ギリシャの逍遥学派を彷彿とさせる対話が掲示板の随所に見られます(時間がなくて一時に全部はとても読み切れませんが)。率直に意見を述べあい、互いの違いを認め合いながら(違いを楽しみながら)、厳しく吟味しあうことによって、新たな価値を創造していこうとする共同のいとなみが対話なんですよね。「究極の真理を発見した」とは誰も言わない。

「師弟」というのも、本当はそうした関係なのだと思います。まあ、うちらの世界(創価学会)では、「うちの父ちゃん、すごいんだぞお」と子どもが自慢しているような段階なんですがね・・・。そろそろ思春期にさしかかって「えっ? 父ちゃんて、そんなもんだったの?」といった葛藤をへて、さて人生の師匠を求めるのか求めないのか、求めるとして誰を師匠にするのか、等身大の父ちゃんを改めて「師匠」とすべく、その思想と行動を学びなおし、場合によっては噛みついてもいくのか・・・、もちろん全部自分で決めることです。尤も、自分への「信伏随従」を強要する坊主の滑稽さを嗤いながら、自らもまた信伏随従を「師弟不二」と勘違いしている向きも実態として多々ありまして、これは対決し克服しなければならない師弟観です。まあ、どうぞ見守ってやってくださいまし。


行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ(山中智恵子) 投稿者:影姫青夜  投稿日: 4月25日(金)23時20分46秒

☆AOI様>>影姫さま〜〜!!
心配いりません。わたしはAOI様を始めとする花園の皆様をいつもカンノンサマ
のごとく見守っておりますよ。(⌒ー⌒)

☆keen様>「月光書影閲覧室」に『狂い蜜殺し蜜』(特装版)の書影を入れたの
はkeen様への「オマージュ」なのですよ。(⌒ー⌒)ノ

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


起立礼。 投稿者:ino  投稿日: 4月25日(金)22時32分12秒

ホランドさま

分かりやすく、書いていただいて有難うございます。
じっくり読んで、またまいります。


まだ去りません。 投稿者:ino  投稿日: 4月25日(金)21時44分37秒

AOIさま

>では皆様お元気で。
時候の挨拶です(^^)梅雨も近いし・・・。
AOIさまの音楽批評?もこれからですよね。


えーーっ! 投稿者:AOI  投稿日: 4月25日(金)18時13分20秒

☆inoさま

>では皆様お元気で。

どこかに行ってしまわれるんですかあー!?
まだ、ゼンゼンお話してないのにー!


☆ホランドさま

> 『サイード 21世紀への対話』放送のご案内

> BSかあ。だれかビデオをとってくれないかなあー。

おまかせあれ!
ってよく、失敗するんですけど…(緊張)


☆アーニャさま

>★福島泰樹『葬送の歌』(河出書房新社)

>「(中略)若い歌人たち、また作家、編集者、芸人たちの死を回顧。短い文章にも死を語る激しい思いがあふれている。」

書店で見ました。でも、急いでいたので中身チェックしてないの。
影姫さまは、きっと購入済みですね。影姫さま〜〜!!


再び新刊情報 投稿者:アーニャ  投稿日: 4月25日(金)16時39分41秒

☆ホランドくん

>>『動物化する世界の中で』
>まあ、そう言わずに、アーニャも読みなって(笑)。

うん、ナルホド、ホランドくんの紹介文で、bk1の書評「笠井さんは押され気味で分が悪い」の意味も察せられるわね。私も、きちんと読んでみるわ。

でも、ハヤカワ文庫で、またちょっと気になる新刊が……

★『北野勇作どうぶつ図鑑』全6巻(特製おりがみつき)本体各420円
 「かわいい動物たちが全部で6種類。読んで、折って、集めよう!」

 その(1)・かめ……『かめくん』の姉妹篇「かめさん」ほか、新キャラ「カメリ」も登場!
 その(2)・とんぼ……初期作「西瓜の国の戦争」、書き下ろし「トンボの眼鏡」ほか、侵略テーマの3篇を収録。
 (以上、4月刊)

 その(3)・かえる & その(4)・ねこ(5月刊)
 その(5)・ざりがに & その(6)・いもり(6月刊)

どう?そそられるでしょ〜(^0^*

★フィリップ・J・デイヴィス『ケンブリッジの哲学する猫』深町真理子=訳
 「聡明な雌猫トマス・グレイの目を通して、学者たちの愉しき営みをユーモラスに描く。」

これは、社会思想社からハードカバーで絶版になってた本の文庫化。(ハヤカワさん、ありがとう♪)
以前からお薦めしたかったんだけど、どうせ入手難だし……と思ってたのよ。なぜか「ノンフィクション」に分類されてるんだけど?
私の理想とする生き方に、一番近いネコかもしれないわ。イラストもよくってよ♪

>> 赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』
>> まああ、AOIさまったら、「アレ」を試してご覧になったことあるの!?(<Keenさま)
>> ・・・「アレ」って? キャー!(赤面)(<AOIさま)

>ぜんぜん意味わかんないよー!!!

しょうがないわねえ、鬼印式部さまの「第3回」に、そのエピソードも使うようにお願いしてみるわ。でも、今度は「清水の舞台から飛翔する」覚悟で書いて頂かないとねえ……

☆AOIさま(←代表/短歌好きの皆さまへ)

★福島泰樹『葬送の歌』(河出書房新社)

 「(中略)若い歌人たち、また作家、編集者、芸人たちの死を回顧。短い文章にも死を語る激しい思いがあふれている。」

ハードカバーで2000円と、お手軽ではないけれど、私も気になる1冊なので……要チェック!先に見つけられたら、情報お願いしますね(特に中井さんに関して/笑)。

にゃあ〜♪


注目!(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月24日(木)23時21分52秒


 園主 さま
 今日はひさしぶりに「オウム真理教」(現:アーレフ)のニュースをやっていました。事件以来7年目にして、やっと麻原彰晃教祖の被疑事件13件についての論告求刑が行なわれたとか。ボクの見たワイドショーでは、それに併せて「今だに、オウムと地域住民とのトラブルが続いている」という紹介があったんだけど、あいわからず地方自治体は法律違反の「転入届不受理」をしているらしいし、住民は住民で転入してきただけで何もしていないオウムの信者たちに対し「その法衣が気味悪いんだ」とか勝手なことを言って、「殺人集団オウムは出ていけ!」とやってました。被害者意識に凝り固まり、しかも正義を嵩に着て、自堕落に他人を非難する人たち。・・・ホントにうんざりです。

 例えば、殺人常習犯がいて、彼が刑期を終えて出所してきたとしますよね。そしたら地方自治体は、彼の転入届を拒否したりするでしょうか? しませんよ。そんなことしたら、基本的人権の侵害だから、大問題になります。ところが、オウム信者だったら、それが許されるんです。しかも、転居届けを拒否されている信者たちは、事件に関与してない人たちなんですよ。彼らは「罪もない善良な市民」の一人に過ぎない。オウム真理教という宗教を信じているという「ただそれだけ」で、彼らは基本的人権を公然と踏みにじられているんです。つまり彼らは「居住権」だけではなく、「思想・信条の自由」という基本的人権まで踏みにじられているんです。

 これは「憲法第九条」に違背する「自衛隊の派遣」や「有事法制」などが、次々と進められているこの国の現実と、見事に同調した現象だと思います。「原則はダメ」でも「現実的には何でもオーケー」ということで、大切な「憲法」が蔑ろにされ、気がついたらボクたちの「基本的人権」なんて、国から「何もなければ、大目に見てやる」みたいなものでしかなくなるんではないでしょうか?
 「非常時」という言葉は、いつだって「人権侵害」の口実として使われます。でも、オウムの人たちが生活することが「非常時」でしょうか? 「何か起こってからでは遅いだろう」……そう言って、アメリカはアフガンやイラクの人々を虐殺したんです。

 ボクは、正当充分な理由もなく、オウム信者の人権を損なう人たちに、断固反対します。これは「イラク攻撃」に反対したのと同じ論理から導き出された、必然の結果 なんです。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


注目!(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月24日(木)23時20分15秒


 ハムちゃま さま
> はなじょのの諸君、ついに念願の書影コンテンツ「月光書影閲覧室」
> 男〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜奮しまちた!!!
> くだくだ説明はしまちぇん!!!まずは御覧あれい!!!

 稀覯本に興味のない人が見ても、楽しめる内容にして欲しいなと思いました。
 ボクには、あそこで紹介されている本が、どうしてそこまで価値のあるものなのか、ぜんぜんピンと来なかったからです。たんなる「見せびらかし」に終らないように、もうひと工夫が必要なんではないでしょうか?


 Keen さま
>>> 赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』
>> 読んだ時に、既視感を感じたのはなぜだろう?と。
>> どうも、思い出せない。(思い悩むAOI)

> まああ、AOIさまったら、「アレ」を試してご覧になったことあるの!?
> もちろん、被験者は「ホランドくん」よねっ♪(キャー!/赤面)


> ・・・「アレ」って? キャー!(赤面)
> 影姫さまなら、10回くらい実験してるかも・・・ふふ。(<AOIさま)

 ぜんぜん意味わかんないよー!!!

 赤江さんの『殺し蜜狂い蜜』は、ずいぶん昔に読んだんだけど、ぜんぜん内容を憶えていません。読み返せば、「アレ」の意味がわかるのかも知れないけど、・・・わかりたくもないような感じがするなあー(-_-;)。


 楽古堂主人 さま
> ・ マクルーハンに「魚には、自分が泳いでる川の流れの全体は見えない」という有名な言葉があります。
> ・ 自分が帰属する、世代の意識から離れた視点が必要です。

 これはいちばん基本的な認識でありながら、いちばん難しいところでもありますよね。実際、自分が泳いでいる川を、俯瞰する視点など取りうるのか? 
 原理的には不可能でありながらも、それが必要であるという事実が否定できない以上、人が選びうるのは「俯瞰的視点を仮構的に設定する」という「自覚的な選択」だと思います。それと、もうひとつは「俯瞰しえない」という事実に徹して物事を見ていくという立場。これらは矛盾するようでいて、実際には、たぶん「相補的」なものではないのかという気がします。なぜなら、どちらか一方というのは、人間には「不可能」だと思えるからです。そして、このことから結論されるのは、最悪なのは「無自覚に、どちらか一方を選んでしまっている」という状態なんだと思います。


 アーニャ さま
> Keenさまが『動物化する世界の中で』は見つけたので、私もひとまずざっと目を通 してみたんだけど……何しろ、「花園」での会話に慣れてますからねえ〜(笑)。

 まあ、そう言わずに、アーニャも読みなって(笑)。





( 以下は「注目!(6)」につづく)


注目!(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月24日(木)23時19分16秒

 ino さま(つづき)

 こうした「世界の現実を見る目」は、池田氏よりも、むしろ一般の学会員さんの方に不足してるじゃないですか? ・・・inoさまも含めて(笑)。
 今回は、たまたま公明党が「イラク攻撃」を支持したんで、現実と直面せざるをえなくなって、大騒ぎになったんでしょうけど、これがもし「湾岸戦争」の時みたいに、公明党がまだ野党だったら、当然「イラク攻撃」を支持しなかっただろうし、学会員の人もほとんど何も考えないで「教条的平和主義」を連呼してたんじゃないでしょうか? そして自民党の議員が『軍事力を全否定するということは、一個の人間の「心情倫理」としてならまだしも、政治の場でのオプション=「責任倫理」としては必ずしも現実的とはいえないでしょう』とでも発言しようものなら、「絶対平和主義」を振りかざして、みんなでその人を「戦争肯定論者」として袋叩きにしたんじゃないでしょうか?

 大切なことは、「現実」は現実として直視しなければならない、そのうえで、いかなる道を選ぶかをよくよく考えなくてはならない、ということです。つまり、池田氏が現実的に物事を考えたところで、結論として出てくるのは、「戦争肯定」とは限らないということなんですね。
 人が「戦争という現実」に責任を持とうとすれば、結果として戦争を肯定するか否定するかは別 にして、まずは現実を直視して、それを真摯に思考しなければならないんです。だから、それを避け、そこから逃げるというのは、それが「戦争反対」の「平和主義者」であろうと(誰であろうと)許されないことだ、ということなんです(これが過日の「賢ちゃん問題」の意味です)。

 だから池田氏の問題も、問題を現実的に考えるというところまでは、何ら問題はなかった。ところがinoさまのおっしゃるところでは、個人としては結局「戦争反対」を選んだのもかかわらず、それを創価学会の指導者の立場で、明確に打ち出すことをせず、結果 として組織が反対方向に動くことを「止められなかった=容認した」ということなんだと思います。
 つまり佐高信の非難は論外だとしても、それでは池田氏に何の問題もなかったのかと言えば、そうとも言えない。園主さまが指摘しているとおり「創価学会の指導者」としての責任は免れえないんです。そして、そのあたりのことを現実的に思考できないのであれば、inoさまをはじめとする学会員の方が、池田氏の現実的思考を「この場合だけ評価する」というのは、欺瞞でしかないということになるんですよね。池田氏の考え方が「現実に対して責任を負おうとする誠実なもの」だと評価するのなら、それ以外の現実問題についても、学会員の方たちは、「現実的に思考する義務」がある、ということになるんですよ。





( 以下は「注目!(5)」につづく)


注目!(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月24日(木)23時18分02秒

 ino さま
 園主さまに、ビシビシ突っ込まれてますねえー(笑)。でも、これくらいで挫けないで、食らいついていって下さいね。
 大切なのは、あちこちに手を拡げて、全部を中途半端にするのじゃなく、大切な問題に限って、それを深く掘り下げろってことなんですから。

> アレクセイさまだから申し上げますが、班長、地区R、部長時代は、徹底して開拓したのですが、論理的な思考を徹底して学習した記憶がありません。

 それをここで学べばいいんじゃないですか(笑)。

 もちろん園主さまは、inoさまのご病気のことはわかっておられますよ。それを承知の上で、あえて「差別 なし」に真っ向から問題点を指摘なさってるんだと思います。だって「病気だからしかたがない」と言ったら、何も言えなくなりますからね。できるかできないかが問題ではないんだと思います。大切なのは、inoさまがいま持っておられる力を、充分に出し切っているかどうかなんですね。持てる力を出し切れ、ということなんだと思います。inoさまの人柄が、病気でも歪められてはいないように、考えることだって、持てる力を出し切れば、きっと人並み以上のものが出せますよ。ボクはそう信じています。園主さまもそう信じるから、厳しく要求するんだと思いますし、あれだけたくさん書かれるんだと思います。期待してなかったら、あんなに書けませんよ。だから、inoさまも自分を信じて頑張って下さい(^-^)。

> 「池田SGI会長」の1・26SGI提言の「軍事力を全否定するということは、一個の人間の「心情倫理」(マックス・ウェーバー)としてならまだしも、政治の場でのオプション=「責任倫理」としては必ずしも現実的とはいえないでしょう」という文言を文脈を無視し、SGI会長も戦争を否定していないという人がいる。

> このSGI会長提言の・・・現実的とはいえないでしょう。」の後には次の言葉が続くのです。
> 「しかし、ハードパワー、とくに軍事力が憎悪と報復の連鎖に陥ることなく、何らかの効果 を生むとすれば、それを保持する側にあるいはやむを得ず行使せざるを得ない場合でも、そこに徹底した自制心、それ自体ソフトパワーの淵源でもある自制心・節度が働いているかどうかにかかっていると思います」
> この文脈から私は「責任倫理」の具体性を問題にするなら、「全否定」しては相手(これは明らかにアメリカです)と対話できないということを含んだ、闘争的な文章だと私は思います。
> 先に書いた「軍事力を全否定することは・・・・・・現実的とはいえないでしょう」という部分だけで、池田SGI会長は戦争に反対しなかったという人がいますが、そのひとは現実に、膨大に存在する兵器をなくすことができる、と言えるのでしょうか。

 前半部分だけを引用して、池田氏を「宗教人にあるまじき、戦争肯定論者」だと非難したのは『サンデー毎日』の佐高信ですよね。あれはたまたま読んで、「ひどい文章だなあー」と思っていました。だって池田氏の言葉は、あの部分だけを読んだって、しごく常識的な意見であり、特に「戦争肯定論者」ってことにならないのは明らかなことだと思ったからです。
 と、言うか、むしろボクは池田氏が「教条的平和主義」を語らなかったことの方に感心しましたよ。「この人も、現実問題を誠実に思考しようとしてるんだな」って。





( 以下は「注目!(4)」につづく)


注目!(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月24日(木)23時16分03秒


 ここでの「柄谷行人」に「笠井潔」がぴったり当てはまるということは、「花園」のみなさんなら、すでにお気づきでしょうね(笑)。

 つまり、笠井さんは「難問を徹底して生き抜く」ということを言い、そこから「逃げ出した」人たち(ポスト・モダニスト=糸井重里・高橋源一郎など)を、しばしば非難(し、言外に「自分は違う」と)しますけど、「では、実際、笠井潔のやってることは何なのだ?」ということなんですよね。
 例えば、笠井さんが「9.11」に「アフガン空爆」に「イラク戦争」に「有事法制」にどれだけの発言をし、それらの「現実」に対して、どれだけ批評家としての責任を果 たしたのか、ということです(辺見庸さんなら「何もしていない」と言うでしょう)。たしかに、どこかでいくらかは発言しているでしょう。なにしろ批評家を名乗っていて、それらについて何も発言しなかった人を探すことの方が、むしろ大変なくらいですからね。でも、どっちにしろ、客観的に見て、笠井さんがそれらの「現実」を生きた度合いと、「ミステリ文壇での勢力争い」という現実に生きた度合いとを比較したら、それはどう贔屓目に見たって、笠井さんは後者に力を濯ぎ、選択的にそちらをより深く生きたとしか見えないんです。事実、ここ10年の笠井さんの五、六冊批評的著作は、最近刊行された『徴候としての妄想的暴力』以外は、すべて「ミステリ」にかかわる本でしょう。もちろん笠井さんとしては、「ミステリ」を語ることは、そのまま「世界の現実」を語ることだということなんでしょうが、この徹底的に「観念的」で、自堕落な「自己肯定」こそが、東さん言うところの『文壇内の居直り』ということになるんじゃないでしょうか。

 東浩紀さんの笠井批判はこれだけに止まらず、それはかなり厳しいものだと言っても、決して過言ではないと思います。なにしろ批評家としての「産みの親」とも言うべき柄谷行人さんを、ここまで非難する覚悟がある人ですから、ミステリ業界での利権にからんで笠井さんを批判できないミステリ評論家の人たちとは違って、いまさら心にもないおべんちゃらを、笠井さんに言う必要なんて、まるでありませんからね。

 そんなわけで『動物化する世界の中で』(東 浩紀・笠井 潔、集英社新書)は、やっぱりお薦めです。案外「ここから変動が始まった」なーんて本になるかも知れませんよ。・・・もっとも、園主さまは「俺が先駆者だ」って言うでしょうけど(笑)。





 AOI さま
> 『ほんとだよ』は竹本さんの初期短編集を思わせると思ったんだけど、どんなふうに思ったかしら?

 たしかに歌詞的には、そのとおりですね。ちょっと角川文庫版『囲碁殺人事件』の巽昌章さんによる解説の『世界が「存在しない存在」のかすかな悲鳴と呼びかけに満ちているという直感。そのざわめきの中に、私たちは置かれている。』という結語を想起させるものがあります。

 でも、ボクの率直な感想としては、正直あまり竹本健治的な印象は受けませんでした。もっと素直に「恋愛の歌」として聞いたからなんでしょうね。

> もうー!どうして私がやらせなんてしなくちゃいけないのー!?(プンプン)

 疑ったりして、ごめんなさい。失礼しましたー。 m(_ _)m ペコリ

> 押してもだめなら、引いてみろって言うわよ。
> ♪3歩進んで、2歩下がる〜(だっけ?)とも。

 園主さまの場合、「♪ 押してダメでも 押し破る」じゃないですかあー(笑)。

> 試しにもう一度RE:…ってタイトルにうってみるわね。

 今度はうまくいきましたねえー・・・(-_-;)。

> 『サイード 21世紀への対話』放送のご案内

 BSかあ。だれかビデオをとってくれないかなあー。





( 以下は「注目!(3)」につづく)


注目!(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月24日(木)23時15分13秒

 みなさん、こんばんは! いま話題の『動物化する世界の中で』(東 浩紀・笠井 潔、集英社新書)についてです。途中まで読んだ園主さまは『この分では、この先も、あまり期待できないのではないか』と言い、ざっと目を通 したアーニャは『だけど……何しろ、「花園」での会話に慣れてますからねえ〜(笑)。』と書いていますが、ボクはなかなかどうして、東さんとても頑張っていて、かなり面 白いと思いますよ。ボクもまだ読み終えてはいないんですが、みなさんにこの本をお薦めするうえでも、ここでひとつ、読みどころをご紹介しておきたいと思います。

『とはいえ、笠井さんがお聞きになりたいのは、このような回答ではないのかもしれません。ここで重要なのは、デリダやヴェイユをめぐる思想史的な問題、ましてやカトリックやユダヤ教といった込み入った問題ではなく、もっと単純に、現実世界の何もかもを否定し、抽象化し、そこから目を逸らすための知的方法としての「否定神学」と、現実世界と格闘するためにこそ否定の言辞を繰り出さざるをえず、結果 としてその否定に自らも巻き込まれてしまうような生き方としての「否定信仰」、そのふたつの差異なのかもしれません。要は、「生きられない批評」と「生きられる批評」のふたつがあり、この両者はたがいに見まごうばかりに似ているけれど、しかし決して混同してはならないのだ、と(※ 笠井さんは)いうわけです。
 この件については、僕は単純に、そのような差異は認められない、とだけお答えしておこうと思います。より正確には、そのような差異は、巧妙な文体と批評家のパフォーマンスに対して読者の側が勝手に投影した幻想だ、というのが僕の考えです。「生きられない批評」と「生きられる批評」の区別 は、笠井さんが言及されたように柄谷氏が「批評とポスト・モダン」で導入して使われるようになりました。それは文芸業界ではよく利用されていますが、とりわけ、特定の批評家を評価し、別 の批評家を非難するときに用いられます。たとえば『批評空間』の読者のあいだでよく言われるのは、柄谷行人は批評を生きているが、浅田彰は批評を生きていない、といった区別 です。
 しかし現実はどうか。当の浅田氏自身がなぜかこのような批判を受け入れているようなので話が厄介なのですが、僕に言わせれば、この区別 には何も意味がありません。むしろ常識的に考えれば、湾岸戦争以降の一〇年間、批評家として活躍していたのは、柄谷行人ではなく浅田彰のほうです。当時の浅田氏は『批評空間』の特集を組み立て、美術批評や建築批評の場で睨みを効かせ、薬害エイズや筒井康隆断筆宣言問題などで積極的に発言をしていた。しかし同時期の柄谷氏は何をしていたのか。具体例を挙げる必要はないと思いますが、「生きられる批評」を標榜するにはあまりに防衛的で文壇的な振る舞いばかりが目立っていた、というのが僕の印象です。第一信で触れた大塚(※ 英志)氏の非難にしても、その一〇年の蓄積のうえで現れている。「生きられる批評」という修辞は、結局のところ、そのような文壇内の居直りを導くものでしかなかった。これが僕の認識です。』
    (東浩紀・第九信「批評が生きられる必要はない」P122より)

 

 

( 以下は「注目!(2)」につづく)

 

 

おっしゃるとおりです。 投稿者:ino  投稿日: 4月24日(木)21時47分27秒

アレクセイさま

丁寧なレスありがとうございました。

>貴方さまの『根本的な問題点』とは何か?・・・それは「不徹底」でございましょう。

私事ですが、妻と一度三年間同じ職場にいたことがあるのですが、困難に立ち止まってただ考え込む私に、「どうして必要な努力をしないのよ!」と言われたことがあります。徹底してやる生命力が欠けているのでしょう。アレクセイさまだから申し上げますが、班長、地区R、部長時代は、徹底して開拓したのですが、論理的な思考を徹底して学習した記憶がありません。梁石日氏の「アジア的身体」(平凡社)を去年から少しづつ読んでいますが非常に苦労しています。
 この文章も断片的ですが私としては必要な本は選べても、内容を読み取る力が不足していると言わざるを得ません。「徹底的に」心してやっていきたいと思います。

>貴方さまの文章は「断片的」でございます。それは貴方さまの思考様式でもございましょう。

これも首肯いたします。そろそろまた絵を描くことにしました。

>内実が「不十分」「不徹底」

これも首肯いたします。

>自己の信仰に対しては「ただ嘆くだけ」というスタンスから一歩も出ようとしていない。その点で、ご「自身の信仰」に対してはやはりまだ「不誠実」なのでございます。

厳しいご指摘ですが、貴掲示板に書かせていただいた私の言葉の数々から、それを感じ取られたということですね。うつを逃げ場にしようとはおもいませんが、まだよくなってはいないようです。自分との闘いをしないといけないと思います。

>なにより力量ある池田氏を卑しめるものだとも考えておりました。もちろん今でもそうです。

失礼な物言いになるかと思いますが、お許しください。このお言葉を聞いてアレクセイさまの掲示板に来た甲斐がありました。「池田氏」の著作からアレクセイさまは「池田氏」の認識を深められたのでしょうね。勝手な推測ですみません。
 昨年の6月23日の聖教新聞1面2面に国連難民高等弁務官アガ・カーン氏についての「池田氏」の随筆が掲載されました。「人類は進歩しているのか? 5千万人もの「故郷を追われた」人々 難民への尊敬を 難民とは「難と戦ってきた勇者」・・・・その中の一文に惹かれました。「仏法でも「縁起」を説く。すべて関連し合っている。関係ないものなどない。だれかが飢えるとき、自分も、飢えに手を貸している。そして本来、私たちがともに背負うべき人類社会の重荷を、その人たちに押しつけているのだ。だから難民支援は「与える」のではない、自分が奪っている万分の一を「返す」のだ。・・・・堂々と新聞一面 でこう主張する「池田氏」に私は並大抵でない人間としての奥深さを感じました。
 
 「同時代掲示板」に私の意見を書くこともあるかと思いますが、ご遠慮なくご意見ください。
では皆様お元気で。


サイードの番組 投稿者:AOI  投稿日: 4月24日(木)19時57分12秒

友人より番組の紹介がありました。

『サイード 21世紀への対話』放送のご案内

エルサレム生まれのパレスチナ人思想家、エドワード・サイード氏と 彼の親友でパレスチナ人の人権擁護活動家、ラジ・スラーニ氏が 出演する番組のご紹介です。
なお、以下のサイトでは番組内で紹介される、サイード氏の特別講演のすべてを 閲覧することができます。(長さ:約1時間40分)
"Inequality and Power: Palestine and the Universality of Human Rights"
  http://webcast.berkeley.edu/events/details.html?event_id=46

【番組名】    BSプライムタイム『サイード 21世紀への対話』
【放送日時】   NHK衛星第1放送(BS-1)
          2003年4月26日(土)22:00〜22:50
【内容】 中東の地・エルサレムに生まれたパレスチナ人思想家:エドワード・サイード(現アメリカ・コロンビア大学教授)は、イラク戦争勃発前夜、自ら幼少期を過ごした故郷のひとつ、エジプト・カイロを訪れ、緊迫した情勢の中で、学生・市民に向かって特別 講義を行った。
「記憶−不平等と人権」。その公開講義にひとりのパレスチナ人の姿があった。
現在、ガザに住み、自ら数々の拷問をともなう逮捕拘禁にも屈せず、パレスチナ人の人権擁護のための活動を続けている親友:ラジ・スラーニである。
ガザで会って以来、久々の再会を果たした二人。
サイードとスラーニは、旧交を温める一方、現在のパレスチナ、イラク、そしてアメリカの「帝国主義」について語り合う。二人の対話の18時間後、中東は 戦火に包まれた。サイードのカイロでの特別講義と、ラジ・スラーニとの対話を オムニバス形式で綴り、21世紀の世界と、人間のあり方を問うメッセージを伝える。


それは残念☆ 投稿者:アーニャ  投稿日: 4月24日(木)17時12分17秒

☆アリョーシャ

>新刊情報、ありがとう。さっそく購入して読んでいるよ(笑)。

Keenさまが『動物化する世界の中で』は見つけたので、私もひとまずざっと目を通 してみたんだけど……何しろ、「花園」での会話に慣れてますからねえ〜(笑)。

>> ☆アラン・パーカー監督『バーディ』('84)

>ぜひ観たいものだが、近くのレンタルビデオ屋には無かったな。

せめてジャケットだけでも見られるように、↓にURL貼っておくわね。

>あいつも、ああ言いながら、心の底では、自分が見捨てられることはないということを良く知ってるんだ。だから、あんなに甘えた態度を取るんだよ。(>ホランドくん)

フフフ♪


あ、私、杉澤鷹里さまの掲示板でもちょっと遊んできたので、よかったらそちらもご覧くださいませ♪(>皆さま)

にゃあ〜♪

http://www.rakuten.co.jp/discstation/341766/352638/352694/410989/


怠惰と堕落(5) 投稿者:園主  投稿日: 4月24日(木)01時49分08秒


 Keen さま
> これは、まずは「全体小説」という言葉の定義からですね。
> 「アンチ・ミステリ」同様、何となく使われてますが……(って、私だけの思い込みかも?批評には疎いので)

そうでございますね。ただし、ここで勘違いしてはならないのは、ここでは、いわゆる一般 的な「言葉の定義」がどうかということが重要なのではなく、我々がここで議論したいと思っているものとして「仮に全体小説と呼んでいるもの」の「具体的な内実」を、他人にも伝わるように説明しなければ、そもそも議論が成立しないのだ、ということでございます。
ですから、「アンチ・ミステリー」の場合でも、私は「私の定義」を(その根拠とともに)明確に語っただけなのでございます。

> 確かに、「小説」という以上、始めから「××シリーズ・第1巻」と銘打ってなければ、後から編集するのは、イジワルに言えば「あざとい」ですね。

商業的には、そうでございましょう。ですが、問題は、批評的にそうした「あざとさ」を、批評者本人が充分に自覚できているか否かなのでございます。

> しかし、フランス文学史上、バルザックやゾラが「作品の総合化」で評価されているのも事実ですので、園主さまのおっしゃる(中略)ご意見とは、また観点が異なる、ということになるでしょうか。

観点が異なると申しますよりも、私は「全体小説」というものの価値が、凝縮された・象徴としての『世界(の縮小)模型』という点にあると「仮定」した上で、その価値から見た場合、『境界をどんどん外に拡げゆき、その結果 として「世界と重なる模造品」』には『あまり意味』がない、としたのでございます。

つまり、バルザックやゾラの小説の価値は、もともと「凝縮された・象徴としての『世界(の縮小)模型』」というところにはなく、個々の作品をつなげて「見てゆく」ことで浮かび上がってくる「作家の世界観」の方にあった、ということではないでしょうか? つまり『作品の総合化』とは、作家自身がしたことである以上に、「読者・批評家のしたこと」なのではございませんでしょうか。


 楽古堂主人 さま
> ・ 「清冽なエロティシズム」は、真壁岬という「登場人物」への形容です。
> ・ 『クレシェンド』という「作品」の形容ではありません。
> ・ これを描写するとは、どういうことでしょうか?
> ・ 嵐の中で乱れる、真壁岬のストリップ・ショーを、竹本健治に描写してもらいたいという興味・関心は、ぼくにはまったくありませんが。


杉澤さまが引っ掛かった『清冽さ』というのは、もちろん直接具体的には『真壁岬という「登場人物」への形容』なのでございますが、問題はそのシーンに代表される『クレシェンド』という作品のラストにおける(竹本健治らしくない)「奇妙なまとまりの良さ」なのではないでしょうか。

もちろん、誰も『ストリップ・ショーを、竹本健治に描写してもらいたい』とは思わないのでございますが、「霊鎮め(たましずめ)」の(ホトをさらしての)霊的舞踏が「清冽」だというのも、何か不似合いで不十分だというのが、その実感なのではございませんでしょうか?


 アーニャ
> ★ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』鈴木主税=訳
> ★東 浩紀/笠井 潔『動物化する世界の中で』

新刊情報、ありがとう。さっそく購入して読んでいるよ(笑)。

> ☆アラン・パーカー監督『バーディ』('84)

ぜひ観たいものだが、近くのレンタルビデオ屋には無かったな。


 ホランド
> というわけで、大変そうですけど、友情のために頑張って下さい(笑)。

ああ。私は「情が濃い」からな(笑)。
あいつも、ああ言いながら、心の底では、自分が見捨てられることはないということを良く知ってるんだ。だから、あんなに甘えた態度を取るんだよ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


怠惰と堕落(4) 投稿者:園主  投稿日: 4月24日(木)01時48分21秒


 AOI さま
> と書かれている時点で半ば理解されているのではないかと思えたのですが。
> また、

> と書かれていることは、否定的ともとれますが、自身の弱さに向き合わざるをえない書きようともいえませんか?

そのようにも言えないことはございません。しかし、人間には「バランス感覚」がございますから、非難する時でも、何がしかのフォローは入れるものでございます。その方が「非難」にリアリティーが与えられますからね。つまり「理解できないで、非難しているのではない」ということを「読者」に知らしめるために、自己批判的、あるいは反省的な視点がもり込まれる場合も少なくない、ということなのでございます。

>> 内面を投影しない話を、それがどんなに驚くべき事実を語っているものでも、聞く私はつまらないと感じていること。

> と書かれていることは、ある意味ジャーナリストとして驚きです。

たしかに。やはり辺見さまは「ジャーナリスト的」ジャーナリスト(リアリスト)ではなく、「小説家的」ジャーナリスト(ロマンチスト)だったということでございましょう。そこが長所であったと同時に、弱点であるのかも知れません。

> 『メディア・コントロール』鈴木主税=訳のなかの辺見庸さんのチョムスキーの印象はかなり、冷静な書き方になっていますね。

『冷静な書き方』 になっている、というのは「正しい表現」でございましょう。つまり実際に「冷静」になっているかどうかは(変化が見られるかどうか)は定かではないけれども、「書き方」には違いが見られるということでございますね。
ですが、この「書き方の違い」は、辺見の一文が、チョムスキーの著書である『メディア・コントロール』への「推薦文」的性格をもつものであることを考えれば、当然のことだとも申せましょう。したがって、これだけでは、辺見の内面 におけるチョムスキー評価に変化が見られるか否かは、何とも言えないところでございましょうね。

>この文脈から推しますに、この奇妙な「障害」は、「霊的」な現象ではないかと存じます。つまり「RE」というのは「返信」の「RE」ではなく、あの世から帰ってきたの「RE」、霊魂(REIKON)の「RE」ではございませんでしょうか……。

> う〜む。そうかなあ・・・(笑)

って、もともと「いたこ」の「口寄せ」が「霊的な現象」なのでございますから、それを疑われましてもねえー(笑)。

> 大竹茂夫さんの個展に行って来ました。

> 戦車の絵もありました。有名ミステリー作家O氏が買われたそうです。骸骨の絵がお好きなんですって、O氏。奥さまもミステリー作家(?)。どなたのことか分かります(笑)?

折原一さま。奥さんは、新津きよみさまでしたか。ミステリ界で、夫婦とも作家というのは、そう多くはございません。綾辻行人・小野不由美夫妻(小野は、ミステリ作家とはいい難い)、藤田宜永・小池真理子夫妻(どちらもミステリは書きますが、専門ではない)、白峰良介・黒崎緑(ともにミステリ作家)くらいだと存じます。

> エドワード・サイード(1935年パレスチナ生まれ、現在米国に居住する文学批評家)が現在のアメリカについて分析している記事がありました。お暇なときにでもどうぞ。

http://www.netlaputa.ne.jp/~kagumi/articles03/0303.html

サイードについては、本は買ってあるのですが、まだほとんど読めておりません。チョムスキーの翻訳書が一段落しましたら、読みたいものと存じます。


 ハムちゃま さま
> はなじょのの諸君、ついに念願の書影コンテンツ「月光書影閲覧室」
> 男〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜奮しまちた!!!
> くだくだ説明はしまちぇん!!!まずは御覧あれい!!!

見たことのない本が多く、たいへん興味深く拝見いたしました。

ただし、これは他の方にも申し上げたことがございますが、書影を撮影するときくらい、硫酸紙はお剥がし下さいまし。美に殉ずる者は、面 倒を厭てはなりません。せっかくの美しさが台無しでございます。





( 以下は「怠惰と堕落(5)」につづく)


怠惰と堕落(3) 投稿者:園主  投稿日: 4月24日(木)01時47分29秒


 ino さま
今回は、貴方さまの「議論」に関する、根本的な問題点を指摘しておきましょう。
貴方さまの『根本的な問題点』とは何か? ……それは「不徹底」でございます。

ご自身もお書きになられておりますとおり、貴方さまの文章は「断片的」でございます。それは貴方さまの「思考様式」の正直な反映でもございましょう。私は、貴方さまの「正直さ」「素直さ」「真面 目さ」を豪も疑うものではございませんが、いくら真面目で正直であっても、その思考が「断片」的では、それは思考として「不十分」「不徹底」なものとなるしかございません。
その結果、貴方さまの議論は「ひととおり」のもので「自己満足」的に終ってしまう傾向が見られるのでございます。具体的に申しますと、私やホランドくんが提出した「問題提起」について、一応は誠実な「回答」を示されるのでございますが、その内実が「不十分」「不徹底」なままで「議論」が深められることがなく、あっさり次の話題が移って行き、結局は同じことの繰り返しになって、進歩が見られないのでございますね。

ですから、今後、貴方さまが心掛けるべきは、安易に他人に教えてもらう(指摘してもらう)ことを期待したり(質問したり)するのではなく、与えられたひとつの質問を、まずは自分の頭でギリギリまで思考し、「これ以上の解答はあるまい」というところまで完成させてから、「どうでしょう、これでは」と言って他人にぶつけてみるということでございましょう。「鍛え」とは、そういうものなのでございます。

> 先日書き込みましたRe.「人間の弱さ」(4)の

>>> 浅はかな私の信心は(略)ひよこのさんぽです。

> これは、私の無表情な心象のイメージでしかなく
> 遊戯でありましたこと、深くお詫びいたします。

> 訂正させていただくと、「(略)迷える凡夫です。」が最も正直な表現です。

例えば、貴方さまの如上の文章は、貴方さまの「誠実さ」を示すものであり、貴方さま自身としては「正直に語った」ということで満足の得られるものなのでございましょう。しかし、『ひよこのさんぽ』と言おうが『迷える凡夫』と言おうが、貴方さまの信心が「不徹底」なものであることに変わりはなく、この「言い換え」に「実効的な意味」は皆無なのでございます。

つまり貴方さまは、この言い換えによって、私への「誠実」は守ったものの、自己の信仰にたいしては「ただ嘆くだけ」というスタンスから一歩も出ようとはしていない。その点で、ご「自身の信仰」に対しては、やはりまだ「不誠実」なのでございます。
したがって、貴方さまが心掛けるべきことは、「自己批判を語る」ことではなく、その認識に基づいて「どう具体的に対処するのか」ということでございましょう。世間一般 でも言えることでございますが、自分のことをダメだダメだと言いたがる人間ほど、そのダメさから抜け出る努力をしないものなのでございます。ダメだという人間には、誰も過大な期待をしないということを、彼自身よく知っているからでございましょう。

>質問させていただきますが園主様を煽ったのはどのようなお方でしたか。

これは地域幹部、地方幹部、聖教新聞などの「すべて」と申せましょう。彼らは「私たち学会員の師匠は池田先生であり、我々弟子は、師と異体同心の信心に励まなくてはならない」と申しておりました。

私としては、師匠とは人それぞれに、自分で見つけるべきもので、組織によって組織的に「販売促進」されるものだとは考えておりません。また、このような理不尽なやり方は「洗脳」であり、なにより力量 ある池田氏を卑しめるものだとも考えておりました。もちろん、今もそうでございます。
つまり、私としては「子供じゃないんだ、師匠くらい自分で探す。私は他人の推薦がないと、師匠も捜せないほどの貧しい精神生活はしていない。おおきなお世話だ、放っといてくれ。あんたらがそんな具合だから、学会員は軒並み、組織に依存し、自立できない人間になってしまうんだ」と思っていたのでございます。


 杉澤鷹里 さま
> [天狗]についての考察を投稿しようと思ったのですが、さんざん苦吟したうえ結局ものになりませんでした。

[天狗]とは何でしたっけ? 『クレシェンド』に出てきたのでしょうか? まさか大坪砂男の「天狗」ではございませんよね?





( 以下は「怠惰と堕落(4)」につづく)


怠惰と堕落(2) 投稿者:園主  投稿日: 4月24日(木)01時42分15秒


『以前は(※ 日本の文壇が)パリ型かアメリカ型かという分け方でいえば、早くいえば、安もののパリという感じだった。のべつつるんでやっていたわけ。それに近頃われわれけんかをしないでしょう。お互い、このやろうばかなことをいってと思っても、口には出さないでしょう。「どうも、どうも、」とか、「なあ、なあ」とか、「まあ、まあ」というでしょう。たまに率直なのがいて、立ち上がりかけると、「まあ、いいじゃありませんか」と、横からとめるのがいるから、そのままトイレに言ってしまうとか、大体立ち上げる前にすわることを考える時代であると感じませんか、あなたは。あなたのことをいってるんじゃないよ、一般 のことをいってるんだ、風潮を。』

『(略)わからないときはわからない、わかるときはわかる、いいときはいい、悪いときは悪い、批評の原則というのは、他人の作品を介して自分を語ることだという大原則はあるけれども、正直正太夫になるしかないんじゃないの。感じることのできる素質をもっている人は、やっぱりたくさんいるんで、それを自分の感じたままに書かないから、問題が紛糾してくるんじゃないかしら。ほしいのは率直さだけですよ、オレとしていいたいのは。ほかにあまりないな。たいてい皆さんものすごく学識豊富だし、よく知っていらっしゃるし、いうことないんで、ひたすらオレなんかおそれいってしまうんだけれども、ただほんとうに正直正太夫でいってください。この人は正直にしゃべってるんだ、この人のいうことなら、私がその説に反対であっても、この人なりに信じてもよいといえるような批評とか、書評とか、その他もろもろのものがいまなさ過ぎるのよ。この人も何かをおもんぱかって書いているんじゃなかろうかと思ってみたり、この人ならこう書くだろうと思ったとおりにその人が書いていたりして、意外性なぞもない。だからいわゆる不信なるものが出てくるわけだな。簡単な話ですよ。正直になればいいのです。』

『さっきの、文壇といって悪ければ、日本における文学世界、文学界、この中における一般 の風潮で、立ち上がる前にすわることを考えるという風潮は、もう十五、六年、ぼくの観測では続いている。それは経済的復興と一緒になっているんじゃないかと思うんだけれども、三島さんがある作品の中で鋭く指摘しているんだよ。そのことばをぼくはいまそのまま使っている。朝鮮戦争以後、経済復興と一緒にこういう状態がからんできた。伊藤整さんも、あるエッセイの中でそういうことをいっていたと思う。それはずっとこのところ十五、六年続いている。金持ちでもないのに、金持ちけんかせずという態度、それではよく理解し合っているのかというと、理解し合っていない。内心では、「このバカ!」と思いながら、お互いにウダウダとその場をやっている。
 それから、一匹の犬が夜中に吠えると、百匹の犬がそれと一緒になってワーッと吠える。こういう付和雷同性が、近ごろずっと目立っています。ノーといえる人がいなくなっている。めずらしく石川達三さんが、「わからん」と一言いったわけ。そしたら、オレもわからん、私もわからんといい出した。なぜ初めからそういわんのか、それだけのことだ、ぼくがいいたいのは。』

以上は、「左翼的偽善」に失望して「瑣末な描写 」に作家の使命を見い出そうとした、開高健の言葉でございます。

たしかに開高自身はナイーブに過ぎたとも申せましょう。しかし、開高がここで指摘する「文壇的欺瞞」という問題の重要性は、今もなんら変わりなく、それを表で批判した人物が、裏でそれを推進させるといった形をとって、さらに現在も悪化進行している「アクチュアルな難問」なのでございます。
そしてこれは、少なくとも私の場合、日本のミステリ業界人に直接触れてきた「経験」から、反論を許さないほどの自信をもって断言できる「紛れもない事実」なのでございます。

そんなわけで「金丸信的・文壇政治屋」である笠井潔を相手に、東浩紀の率直さが、どこまで意味をなすのか。……なかなか難しいところではございますが、この先の応酬に期待したいと考えるところでございます(笑)。





( 以下は「怠惰と堕落(3)」につづく)


怠惰と堕落(1) 投稿者:園主  投稿日: 4月24日(木)01時27分05秒

みなさま、すでにアーニャとホランドくんによりご紹介ずみの、話題のネット往復書簡集『動物化する世界の中で』(東 浩紀・笠井 潔、集英社新書)を、私、現在半分くらいまで読んだところでございます(問題の東浩紀による第五信「イデオロギー?」を過ぎて、第八信まで読了)。今のところでは、ホランドくんの『激しい論戦を見なれているボクの眼には、この論戦がどう映るのでしょうか? とても楽しみです。』という期待(?)に応えるほどの応酬はなされておりません。この分では、この先も、あまり期待できないのではないかと存じます。編集部の『東浩紀氏による第五信「イデオロギー?」をきっかけに、急速に、緊迫の度を増していきます。そして、終盤間際にいたっては、ついに企画の継続が危ぶまれるほどに、両氏の対立が激化します。』という言葉に期待したいところでございますが、今までのところ「意見の相違の明確な提示」はなされていても『企画の継続が危ぶまれるほど』の内容は何もございません。「意見の相違」があるのは自明の前提で、それがなければ話し合う意味もございませんからね。……もっとも、現今のように「本音」を隠した「馴れ合い」が常態化した文学界(言論界ではなく)にあっては、今回、東が見せたような「率直さ」は珍重すべきものなのでございましょう。ミステリ界では、絶えて見られないものでございますから。

なお、この往復書簡集に対する私の「まだまだヌルい」という評価は、何も私個人を基準にした、主観的なものではございません。たまたまこの前に読んでいたのが、小田実の対談集『変革の文学』(李恢成・大岡昇平・開高健・佐伯彰一/旺文社文庫・昭和53年3月30日 初刷発行)で、これを読み、かつてはまだ「激しい本音の応酬」があったことを確認していたからでございます。

この対談のなかでも、とくに激しい応酬が見られたのは、小田を個人的には評価していても「左翼的偽善」一般 には失望し切っていた開高健との対談と、小田とはもともと立場を異にするらしい佐伯彰一との対談で、ことに開高とのやり取りは、ほとんど「喧嘩」に近いところまでいっておりました。
もちろん、私は「対談」や「往復書簡」に、たんなる「喧嘩」を期待しているわけではありませんが、私は「読むに値する対話」の前提として、まず当事者の「誠実な率直さ」を期待するのでございます。





( 以下は「怠惰と堕落(2)」につづく)


ツブノセミタケ 投稿者:AOI  投稿日: 4月23日(水)13時17分26秒

大竹茂夫さんの個展に行って来ました。
ツブノセミタケって地中の蝉の幼虫に捕り付いて、その養分で育つキノコ。そして、蝉を死なせてしまうんだとか。
ギュスターヴ・ドレに影響を受けていたという高校2年の時にボールペンで描いたという怪鳥、怪物の絵もなかなかよかったです。
戦車の絵もありました。有名ミステリー作家O氏が買われたそうです。骸骨の絵がお好きなんですって、O氏。奥さまもミステリー作家(?)。どなたのことか分かります(笑)?

☆Keenさま

>赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』
>まああ、AOIさまったら、「アレ」を試してご覧になったことあるの!?
もちろん、被験者は「ホランドくん」よねっ♪(キャー!/赤面)

・・・「アレ」って? キャー!(赤面)
影姫さまなら、10回くらい実験してるかも・・・ふふ。

私の読んだ赤江瀑作品で特に三島を想起させるものはなかったのですけど、この作品からは三島を想起しました。


☆園主さま

『メディア・コントロール』鈴木主税=訳のなかの辺見庸さんのチョムスキーの印象はかなり、冷静な書き方になっていますね。


杉澤鷹里様へ。 投稿者:楽古堂主人  投稿日: 4月23日(水)12時04分48秒


・ 『岬にての物語』論への感想、ありがとうございます。
・ 思いつくママに、ご返事します。
・ 矢木沢の物語という視点で読むのが自然だと、ぼくも思います。
・ なぜ真壁岬の物語になったのかということと、彼女の二面性については、書いてありますが。
・ 「全体小説」論は、ぼくの手に余ります。
・ あくまで竹本健治という「作家」の場合限定ということです。
・ 「清冽なエロティシズム」は、真壁岬という「登場人物」への形容です。
・ 『クレシェンド』という「作品」の形容ではありません。
・ これを描写するとは、どういうことでしょうか?
・ 嵐の中で乱れる、真壁岬のストリップ・ショーを、竹本健治に描写してもらいたいという興味・関心は、ぼくにはまったくありませんが。
・ 杉澤さんには、「作品」「作家」「登場人物」「読者」というものを、個別 に見るという視点が、希薄のように思います。(『『風刃迷宮』論参照のこと。)
・ あなただけではなくて多くの批評家にも、不足しているように感じる時があります。
・ ここを混同すると、竹本健治のような複雑な「作家」の「作品」については、足元を掬われます。
・ ぼくの『岬にての物語』についてというよりは、杉澤さんのこれからの論考のために、以上の弱点を指摘しておきます。
・ 具体的に説明します。
・ たとえば「全体小説」の問題です。
・ 以下のような諸点から、論じることが可能です。
1・竹本健治の「作品」群
2・竹本健治という「作家」の主題
3・推理小説の「全体小説」という「作品」群
4・推理小説の「全体小説」という「作品」群を書く「作家」論
5・文学の「全体小説」という「作品」群
6・文学の「全体小説」という「作品」群を書く「作家」論
・ 他にも、無数にあるでしょう。
・ 様々なレベルで、論じることができるということです。
・ 自分の視点を明確にしていくことで、杉澤さんの論考はさらに展開していくでしょう。
・ 簡単なようで難しいです。
・ ぼくも、いつも明確に意識しているわけではありません。
・ もう一例を上げます。
・ 「さえない男」という「登場人物」論は、重要な指摘だと思います。
・ その「欝屈した視野」というのもおもしろいです。
・ 普通は「欝屈した性格」でしょう。
・ 興味深い問題意識です。
・ つまり、ここには、以下の視点が重層しています。
1・「さえない男」としての「登場人物」への、杉澤さんという個人の「読者」の「作品」の読み(共感があるのだと思います。)
2・「さえない男」としての「登場人物」への、ある世代の「読者」の「作品」の読み
3・「2」とは異なる世代の、「読者」との「作品」の読みの比較
・ 杉澤さんの『岬にての物語』の読みは、「3」の実践でしょう。
・ つまり、「読者」論の性格が強いです。
・ 難しいです。
・ マクルーハンに「魚には、自分が泳いでる川の流れの全体は見えない」という有名な言葉があります。
・ 自分が帰属する、世代の意識から離れた視点が必要です。
・ さらに、努力してまいりましょう。
・ 「天狗」考を、楽しみにしております。


(2003・04・22)



http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_rakkodo.html


亀レス☆ 投稿者:Keen  投稿日: 4月22日(火)17時06分30秒

☆AOIさま

>>赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』
>読んだ時に、既視感を感じたのはなぜだろう?と。
>どうも、思い出せない。(思い悩むAOI)

まああ、AOIさまったら、「アレ」を試してご覧になったことあるの!?
もちろん、被験者は「ホランドくん」よねっ♪(キャー!/赤面)

☆園主さま

>>『「全体小説」化』について

>「全体小説」とは「小説の形をとった、世界(の縮小)模型」だということでございます。
>基本的には「一編の小説作品」として完成したものが「全体小説」であり、ある作家の作品をすべて(あるいは、いくつかを)ひっくるめたものを「全体小説」とは呼べないと存じます。基本的に別 々の作品を「横に繋いでいく」という形をとったとしても、それは単にそのような手法において、作者が作品による「全体化」を目指しているとは申せましても、そこで目指されているものを「全体小説」と呼ぶのは不適当だと考えるからでございます。
つまり「全体小説」とは『一冊きり』のものとして作られるもの(この場合『失われた時を求めて』全十巻も「一冊」という意味でございます)を言い、「ゲーム三部作」『風刃迷宮』『闇に用いる力学 赤気篇』『クレシェンド』などを横につないで「世界(の縮小)模型」としようとしたとしても、それらを「全体小説」と呼ぶのは不適当だと存じます。

これは、まずは「全体小説」という言葉の定義からですね。
「アンチ・ミステリ」同様、何となく使われてますが……(って、私だけの思い込みかも?批評には疎いので)
確かに、「小説」という以上、始めから「××シリーズ・第1巻」と銘打ってなければ、後から編集するのは、イジワルに言えば「あざとい」ですね。
しかし、フランス文学史上、バルザックやゾラが「作品の総合化」で評価されているのも事実ですので、園主さまのおっしゃる、

>なぜならば「世界(の縮小)模型」の「全体小説」の意義は、「一冊」のなかに「世界が凝縮されている」という点にあるのでございますから、境界をどんどん外に拡げゆき、その結果 として「世界と重なる模造品」となることは、この場合、あまり意味のないことだからでございます。

というご意見とは、また観点が異なる、ということになるでしょうか。
楽古堂さまのご意見もお聞きしたいです。
お時間できましたら、よろしくお願い致します。

>「アメリカの鬼双児」

拝読しました。苦い、です。
神戸の「酒鬼薔薇」事件が起こったのも、確か、のっぺりした郊外のニュータウンでしたよね。
「過剰防衛」が外へ指向したのが『DL2号機事件』、内へと向かったのが『目に見えない子』だというのが、私の課題選定者としての前提だったことを思い出しました。
(楽古堂さまの「NSR」第2回&第3回をご参照下さいませ。)

己の内なる恐怖に打ち勝つには、自ら何か行動を起こすこと、だけです。
そこで、どういう方法で、何を選択するか、が問題なんですね。

うう、体力の限界☆
本日はこれにて。


追記。Re.決裂か(2)の2 投稿者:ino  投稿日: 4月22日(火)15時28分12秒

ホランドさま

前回の続きです。このSGI会長提言の・・・現実的とはいえないでしょう。」の後には次の言葉が続くのです。
「しかし、ハードパワー、とくに軍事力が憎悪と報復の連鎖に陥ることなく、何らかの効果 を生むとすれば、それを保持する側にあるいはやむを得ず行使せざるを得ない場合でも、そこに徹底した自制心、それ自体ソフトパワーの淵源でもある自制心・節度が働いているかどうかにかかっていると思います」
 この文脈から私は「責任倫理」の具体性を問題にするなら、「全否定」しては相手(これは明らかにアメリカです)と対話できないということを含んだ、闘争的な文章だと私は思います。
 先に書いた「軍事力を全否定することは・・・・・・現実的とはいえないでしょう」という部分だけで、池田SGI会長は戦争に反対しなかったという人がいますが、そのひとは現実に、膨大に存在する兵器をなくすことができる、と言えるのでしょうか。


ついに男〜〜〜〜〜奮!!! 投稿者:ハムちゃま  投稿日: 4月22日(火)02時39分07秒

はなじょのの諸君、ついに念願の書影コンテンツ「月光書影閲覧室」
男〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜奮しまちた!!!
くだくだ説明はしまちぇん!!!まずは御覧あれい!!!

<行きかた>
下のURLから「黒猫館トップページ」→「目次のページ」
→「黒いバナー『月光書影閲覧室』」

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


恐怖するアメリカ 投稿者:園主  投稿日: 4月21日(月)22時47分57秒

みなさま、本日は、過日こちらに書きました映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』論(?)に手を加えた、アメリカの鬼双児 ――『ボウリング・フォー・コロンバイン』と『ツイン・ピークス』をアップさせていただきました。初出稿に加筆し、画像もございますので、すでにこちらでご一読下さっている方も、是非いちどご覧下さいまし。

なお本日は時間がございませんので、みなさまへのレスは、また後日とさせていただきます。悪しからずご了承下さいまし。


それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


信じ、疑うごと&疑い、信じること 投稿者:ino  投稿日: 4月21日(月)22時19分55秒

アレクセイさま

切れぎれですみません。
4・19のアレクセイさまのおっしゃった「信じているものを徹して疑うことができないのか?」という問い、重く受け止めています。疑って疑って疑いきれないようになって信じよという意味も含まれますか?正直な気持ちを書きますが、入信以前はかなり疑いました。入信後は信じることと疑うことは、相反するのではないかと思うことが多くなったと思います。教学でも大聖人は人法ともに本尊であり、末法のご本仏である。久遠元初の自受用法身である大聖人の南無妙法蓮華経が、釈迦の法華経の文底に秘沈された仏であり、釈迦を成仏させた法はその南無妙法蓮華経である。
という人間としては釈迦より後の大聖人の悟りが釈迦を成仏させた。というような法の時空を超えたとらえかたはびっくりしましたが、その時間概念、空間概念の広大さが疑いより、信じる方向へ自分を向けさせました。
 これは一つのたとえですが、アレクセイさまのおっしゃる「盲信」に陥らない信仰はどうあるべきかというご意見、わかります。安易に(努力をせずに)信じることは、良いことではないとおっしゃっているのでしょう?
 でも信じようと追求することと、信じるに値するものかと追求することとはちがいます。アレクセイさまは、日蓮仏法は信じられないと結論なさったのですか?
 お気向きのときにご意見お聞かせくださると幸いです。主知主義のことでも結構です。
 


もう一つのアメリカ 投稿者:AOI  投稿日: 4月21日(月)21時51分17秒

エドワード・サイード(1935年パレスチナ生まれ、現在米国に居住する文学批評家)が現在のアメリカについて分析している記事がありました。お暇なときにでもどうぞ。

http://www.netlaputa.ne.jp/~kagumi/articles03/0303.html

サイードについては浅田彰氏のアーカイブに書かれているものがあります。
ここは沢山の批評が収められていて読み応えありそうです。

http://www.criticalspace.org/special/asada/voice9912.html


反省。 投稿者:ino  投稿日: 4月21日(月)21時38分02秒

アレクセイ様

先日書き込みましたRe.「人間の弱さ」(4)の

>>浅はかな私の信心は(略)ひよこのさんぽです。

これは、私の無表情な心象のイメージでしかなく
遊戯でありましたこと、深くお詫びいたします。

訂正させていただくと、「(略)迷える凡夫です。」が最も正直な表現です。


Re.対話は決裂したか!?(2) 投稿者:ino  投稿日: 4月21日(月)19時21分42秒

ホランドさま

分析の視点はいつも鋭いですね。(^^)

>「神秘主義」の傾向が見て取れます。これを裏返せば、inoさまの「外部世界」への「嫌悪」や「逃避」が見て取れるとも言えます。

 なるほど、「嫌悪」「逃避」は自分自身が一番認めたくないために、無意識に押し込められている可能性がありますね。難治性のうつなのはこのへんにありそうですね。明らかに入信前の私は、この二つに支配されていたのかもしれません。入会後克服できた要素、今もマイナス面 で出てしまうのでしょう。
 だれのCDか忘れましたが、語りのCDを知人から借りて聴いています。

 「自分は 生きるのに 値する人間です
  自分は自分のままで いいんです
  自分は愛するに値する人間です」
  自分は自分の居所を 作っていいんです
  自分をうんとすきになります」

 という言葉を車で聴いています。
 自分を好きになることが大事だと思います。

>「イラク戦争」やそれを支持した「公明党」「創価学会」という現実の問題、これらの取り組みはinoさまの弱点を鍛えるという意味があるといえるんじゃないでしょうか。

 意見ですが、「創価学会」の支援する「公明党」(公明党国会議員)は、新決議=武力行使に残念なことに条件付だが賛成した。「創価学会の」私たち多くの末端会員は、うろたえ、怒り、苛立ちなにもできないと自分を責めた。イラク攻撃反対デモにも参加した学会員もいた。「池田SGI会長」の1・26SGI提言の「軍事力を全否定するということは、一個の人間の「心情倫理」(マックス・ウェーバー)としてならまだしも、政治の場でのオプション=「責任倫理」(同)としては必ずしも現実的とはいえないでしょう」という文言を文脈を無視し、SGI会長も戦争を否定していないという人がいる。
 これについてはまた書きます。
 中途半端ですみません。
 コメント有難うございました。


RE:・・・ 投稿者:AOI  投稿日: 4月21日(月)09時18分11秒

☆園主さま

ー人間としての「弱さ」ーで書かれている辺見さんとチョムスキーについて、ほぼ同感です。いつもながら、ここで書かれていることは、

>だがそのローラーはじりじりと、しかし着実に、この世界を圧し尽して、最早そのローラーにかからない場所は皆無となった。

というような描写ですね(笑)
ただ、私は、辺見さんが

>瞋恚の暗い炎のようなものがときに眼の奥に見えた気がする

と書かれている時点で半ば理解されているのではないかと思えたのですが。
また、

>この人は内面を(他のインタビューでもあらかたそうであったが、私に対しても)語らないつもりなのだな。無意識にそうしているのではなく、意識的に、あるいは方法的にそうしているのだな、と。
>内面を投影しない話というのは、個の内面を綿々と引きずり重ねた話を、往々、委細構わず力でなぎ倒してしまうということ。

と書かれていることは、否定的ともとれますが、自身の弱さに向き合わざるをえない書きようともいえませんか?それから


>内面を投影しない話を、それがどんなに驚くべき事実を語っているものでも、聞く私はつまらないと感じていること。

と書かれていることは、ある意味ジャーナリストとして驚きです。

>この文脈から推しますに、この奇妙な「障害」は、「霊的」な現象ではないかと存じます。つまり「RE」というのは「返信」の「RE」ではなく、あの世から帰ってきたの「RE」、霊魂(REIKON)の「RE」ではございませんでしょうか……。

う〜む。そうかなあ・・・(笑)


☆ホランドさま

> ボクも『カレーライス』が気に入りましたよ!

よかった!!
『ほんとだよ』は竹本さんの初期短編集を思わせると思ったんだけど、どんなふうに思ったかしら?

>これってホントですか? やらせじゃないの?

もうー!どうして私がやらせなんてしなくちゃいけないのー!?(プンプン)

> 「・」が機種依存文字だなんて聞いたことないし、事実今まではこんなこと一度もなかったのに。それに「ゥゥゥ」なんて、まさに亡霊のうめき声で、出来過ぎですよ。・・・嘘なんでしょ、AOIさま?(^_^;)

「・」と「ゥ」とはキーボードではゼンゼン離れているし、まして、「ゥ」は変換し
なければいけないので(それも3回)とっても不思議。
無意識にキーボードを打っていたとか(笑)?←そんな〜
その後に直接書き込みができなかったりもしたので、やはりPC の何らかの接続異常があったのではないかな?と…。
それとも、園主さまのイタズラ(笑)?

>これから、どう手をうつか、・・・なかなか難しいところだよね。

押してもだめなら、引いてみろって言うわよ。
♪3歩進んで、2歩下がる〜(だっけ?)とも。


試しにもう一度RE:…ってタイトルにうってみるわね。


対話は決裂したか!?(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月21日(月)01時10分03秒


 杉澤鷹里 さま
> 「清冽」であることに、私は物足りなさを感じました。

 なんとなくわかりますよ。園主さまも『クレシェンド』に関しては、妙にまとまっているんだけど「それが良いことなのかどうか」みたいな書き方をしてましたものね。つまり、竹本健治作品としては、そのこじんまりとした「まとまり」方に、やや「物足りなさ」を感じたということなんでしょうね。このくらいで「清冽」に落ち着いてほしくない、というような感じ。


 アーニャ
> ★東 浩紀/笠井 潔『動物化する世界の中で』

> これは、新書になったってことなの?以前、アリョーシャが書いてたような気がするんだけど。

 園主さまが以前に触れていたのは、東さんの著書『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)のことだよ。ここで紹介してた。

> ★ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』鈴木主税=訳

> もうとっくに話題に出てたかしら?「辺見庸氏によるインタビューも収録」ですって。

 グッドタイミングだね(笑)。

> ☆アラン・パーカー監督『バーディ』('84)

> もし、賢ちゃんがバーディみたいになったら、アリョーシャは絶対にアルになるんだろうなあ、と思うわ。

 刑事ドラマじゃないけど、映画みたいに二時間半で解決したら、園主さまも苦労はないんだろうけど、まあ、それなりの覚悟で、事に望んでいるようだね。今回はホントに、仮借が無いから。賢ちゃんが好きなアイドルの「想定」の中での扱いを見て、「これはかなり本気だ」と思ったし、あれを読まされたら、賢ちゃんが我慢できなくなるんじゃないかとは、ボクも予想した。・・・つまり、我慢できる程度で止めていては、繰り返しになっちゃうということだったんだろうね。今回は「最後まで行く」という覚悟だったんだと思うな。だから、賢ちゃんが逃げ出すのも承知の上だったんだろうね。これから、どう手をうつか、・・・なかなか難しいところだよね。

> Keenさまの義弟・鷹里さまの掲示板に連載中の小説に、なんだか私も出演してるらしいのよねー。どんな役どころかしらね?

 へえーっ。それはちょっと気になるなあー。でも、変にコメントするとボクまで取り込まれそうだから、ここは触らぬ 神に何とやらということで・・・。『基礎論』と『薔薇迷宮』だけで、ボクはもう充分(以上に)に足りてますから(^-^;)。


 園主 さま
というわけで、大変そうですけど、友情のために頑張って下さい(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

 

対話は決裂したか!?(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月21日(月)01時09分15秒


 賢ちゃん
> 君の方こそ、最低だね。
> 私の書いたことから、勝手にそんな妄想を紡いで、
> 決め付けるんだから、いやはや大したもんだよ。

 どうして園主さまの書いたことが『妄想』だと言えるのか、それを説明しなきゃ、賢ちゃんの書いてることの方が『決め付け』になっちゃいますよ。

>> なぜ、「結論」が、こんなに「短い」んだと思う? それは「それ以外」には一切触れたくないからだ。

> それも君の妄想。

 これが『決め付け』です。だって、園主さまのは明らかに「推論」でしょう? 
 自分のことなんだから、違う(当ってない)というのなら、その理由を説明すべきだし、説明できるはずでしょう?

> 単に沢山かくのが面倒くさいというのと、
> どうせ何を書いたって、君の批判の対象になるだけだから、
> 沢山の文章を書いても不毛なだけなんだよ!

 もちろん、こういう『決め付け』をたくさん書いても『不毛』だけど、筋の通 った意見をたくさん書くのは不毛じゃないですよ。
 賢ちゃんの書き方じゃ、単に「書けない」から、その言い訳をしてるとしか見えないですよ。賢ちゃんの断言は、自分一人のためになされているから(それに止まっているから)、読者にはぜんぜん説得力がありません。単に「拒絶的」「逃避的」な印象しか与えなくて、逆に園主さまの意見を裏付ける形になっちゃっています。どうして、もっと冷静に反論できないの? それじゃあ「当っているから」としか受け取れないですよ。

> この文章も、君は「逃避」とか批判するんだろ?え?
> 馬鹿馬鹿しい。

 だって、そうとしか見えないですよ。

> 君の想像力の逞しさには、感心するよ。まったく。

 その「想像」が、当っているようにしか見えないんです。

> じゃ、もうここの掲示板には、何も書かないでおくさ。

 また、この『じゃ』で、自分の行為の責任を、他人に擦りつけている。これじゃあ、卑怯だと言われても仕方ないですよ。

> 逃避と云いたきゃ、云えば良い。
> これは、本当に逃避なんだから。
> じゃあ。これで。
> さようなら。

 どうして「言い訳」ばっかりするの? どうして「捨て台詞」を言うの? どうして「後足で砂をかける」ような卑怯なことをするの? 「引き際の美学」が、賢ちゃんのは無いの?

 どうして、みんなの気持ちをわかってくれないの?





( 以下は「対話は決裂したか!?(4)」につづく)


対話は決裂したか!?(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月21日(月)01時08分34秒


 ino さま
> 先日は「歓喜」したと一言で済ませて申し訳ありませんでした。
> 追記すれば、その内的体験後は人を肯定的にみることができるようになりました。

 なるほど、それまでは人間を否定的にしか見ることができなかったということですね。
 創価学会の信仰のおかげで、人間を肯定的に見ることができるようになった。世界が明るく、生きるに値するものに変わったということでしょう。これはinoさまがおっしゃっていた「境涯革命」の一種かも知れませんね。

 ただ、ここで気をつけなくてはいけないのは、もちろん人間を否定的に見るよりは肯定的に見る方が良いんですが、肯定的に見る「だけ」ではいけないということです。つまり、根本的なところでは人間を肯定するべきでしょうけど、現実の具体的局面 においては「否定すべき時は否定すべき」だということだし、それができないと困るということです。で、この時「困る」のは、inoさん一人に止まらないということ。つまり、inoさん一人が「我慢」して済むわけではないから、必要な局面 で人間を否定的に見、否定的に評価するというのは、人間の「社会的(対他的)義務」だということです。
 で、ここがinoさんの、現在の課題となっているところなんではないでしょうか? つまり「否定的に評価すべき時に、それができないことが、ままある」ということ。そして、そのあたりをして園主さまに「盲信」と言われてしまう点ですね。

 「肯定的」と言うと、ただそれだけで無条件に良いことのように思われがちですけど、「悪」や「過ち」に肯定的であってはならない、というのは当たり前の事。その意味で、適切に否定的であるということは、洞察力と体力の両方がいる、とても大変なことだと言えるのかも知れませんね。

> ユング心理学と生命潮流(ライアル・ワトソン〜工作舎)、桐山靖雄、密教、チベット仏教、バルド・ソドル、シュルレアリスム、マックス・エルンスト、アンドレ・ブルトン、アントナン・アルトー、ロベール・デスノスなどの詩人、画家

inoさまの「魂の遍歴」の跡ですね。これらには一貫して「内面世界に秘められたもの」という「神秘主義」の傾向が見て取れます。これを裏返せば、inoさまの「外部世界」への「嫌悪」や「逃避」が見て取れる、とも言えます。つまり、ここにもinoさまの弱点は、かなりハッキリと印されていると言ってもいいでしょう。ですから、今後の課題は「外部世界」とのかかわりを如何に充実させるか、ということになるのでしょうね。その意味では、今回の「イラク戦争」や、それを支持した「公明党」「創価学会」という「現実の問題」。これらへの取り組みは、inoさまの弱点を鍛えるという意味があると言えるんじゃないでしょうか。

> 宗教の話はいつもだと苦しい(趣意)とのことでしたので、今度は私の好きなギターのことを書きます。

 無理に話題を変えなくてもいいですよ。書きたいことを書いて下さい。ギターのことやその他のことは、書きたくなった時に書いて下されば結構ですから(^-^)。





( 以下は「対話は決裂したか!?(3)」につづく)


対話は決裂したか!?(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月21日(月)01時07分52秒

 みなさん、こんばんは! 昨日の「アーニャ新刊情報」にあった『動物化する世界の中で』(東 浩紀・笠井 潔、集英社新書)がとっても気になって、さっそく本屋さんに偵察に行ってきました。なにしろ『bk1の書評では「笠井さんは押され気味で分が悪い」』って書いてあるんだから、「これ、どういうこと?」って感じで俄然興味を惹かれました。そして・・・実物の帯には『対話は決裂したか!?』『批評の最前線で、今、何が起きているのか? ネットで公開された大波乱の往復書簡が、ついに新書に。』とあります。そんなことがあったのか〜、ぜんぜん知らなかった! 元ファン失格ですね(笑)。

 本書の冒頭には「編集部より」という、このネット往復書簡の成立状況を紹介する一文が置かれており、そこには、

『本書は、二〇〇二年の二月五日から、同年一二月一日にかけて、集英社新書ホームページ上で公開された東浩紀氏と笠井潔氏の往復書簡(『哲学往復書簡2002』)全一六信を、公開時の状態で基本的に手を加えずにまとめたものです。(中略)九・一一を枕にした第一信「九・一一と文学の言葉」を皮切りに、月二回のペースで順調に更新を重ねてきた本企画は、東浩紀氏による第五信「イデオロギー?」をきっかけに、急速に、緊迫の度を増していきます。そして、終盤間際にいたっては、ついに企画の継続が危ぶまれるほどに、両氏の対立が激化します。この間、往復書簡は各方面 で注目を浴び、集英社新書ホームページへのアクセス数も急増しました。(以下略)』

こんな事件が起こっていたなんて・・・。リアルタイムで観戦できなかったのが、返すがえす残念に感じられると共に、園主さまのうれしそうな顔が一瞬脳裏が過り、いそいそこの本を買い込んだボクなのでした(笑)。

 さて、激しい論戦を見なれているボクの眼には、この論戦がどう映るのでしょうか? とても楽しみです。・・・って、なんだか性格が悪くなったようですね。園主さまの悪影響?(^-^;)





 ハムちゃま さま
> 『ソフィの選択』この前黒猫館住人全員で観まちタヨ!!!
> 内容は・・・怖すぎて思い出したくありまちぇん!!!ヾ(;△;)ノ

 それはとっても楽しみ!


 AOI さま
> それに、私も若い男性にやさしんですもん。。

 もちろん、時と場合によっては「例外もあり」ってことですよねえー(笑)。

> 「RE:・・・」って、機種依存文字?「RE:ゥゥゥ」になってしまいました。

 これってホントですか? やらせじゃないの?
 「・」が機種依存文字だなんて聞いたことないし、事実今まではこんなこと一度もなかったのに。それに「ゥゥゥ」なんて、まさに亡霊のうめき声で、出来過ぎですよ。・・・嘘なんでしょ、AOIさま?(^_^;)





( 以下は「対話は決裂したか!?(2)」につづく)



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