●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2003年4月下旬(2)
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さらに追加☆ 投稿者:アーニャ  投稿日: 4月30日(水)23時17分05秒

☆野茶坊さま

丁寧なご説明、ありがとうございます。私、「カワハギの煮つけ」が大好きですわ♪
「美少年」キャラがまた一人(二人?)増えたようですので、鬼印式部さまが早速登場させてしまうかもしれませんねえー(笑)。

☆ホランドくん

故意か、見落としか、突っ込み忘れか?
Keenさまって、「儚い」(<鷹里さま)の……?
私は、すごく意外な回答だったんだけど、ホランドくん、どう思う?

今日は、細切れに書き込んでばっかりね。
でも、そろそろ寝ます。皆さま、お休みなさいませ。良い夢を。
にゃあ〜♪

PS.『動物化する世界の中で』が、bk1のトップページ(↓URL)に入ってるわ。
   「話題の新刊」ってことね〜♪

http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_top.cgi/3cc90d5451dd80102480?aid=02atnifty0001


ふにふに 投稿者:野茶坊  投稿日: 4月30日(水)21時58分36秒

keenさま
なんだ、「美少年」て私のことじゃなかったのかいな、喜んだのに・・・。
「野茶坊」は「やんちゃぼう」の語源です。というのはうそ。山の野生児に付けられたニックネームが「やちゃぼう=やんちゃぼう」で、後に「野茶坊」の漢字が当てられたのでしょう。それから、釣りの時に「餌とり」をして邪魔するカワハギのことを「やちゃ」と呼びます。あ、奄美の言葉(琉球方言群)です。

yuaさん、早く戻っておいで〜。みんな「美少年」が好きみたいだよ。ちなみに私もあなたがいるから、こちらへ押しかけたんですよ〜。園主さまを追っかけてきたというのは、ほんのお追従なのです(笑)。

「眉間に皺寄せた爺さん」は、特定のどなたかをさした表現ではございません、ハイ。なんとなくそんな爺さんがいてもサマになるような雰囲気の場所だなと思ったのです。ホントですよ!!!
いや、ホントに・・・。


天地人。Re「ごろごろしながら考える(1)」 投稿者:ino  投稿日: 4月30日(水)21時27分58秒

一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを
(寺山修司「十五才」より)

☆ホランドさま

>結論すると、
「やりたくないことはやるな。やりたいことをやれ」

>それが「好き」になるまで待つんです。

私の心の暴君shouldにさよならします。とてもホランドさまの言葉の数々心に響きました。


追加☆ 投稿者:アーニャ  投稿日: 4月30日(水)11時20分00秒

>> それにしても賑やかな掲示板です。鳥のさえずる「花園」というより、子どもがあっちでぎゃーぎゃー、こっちでぴーぴーっ、ベンチでは眉間に皺寄せた爺さんが何やらぶつぶつ・・・てな感じの「遊園地」か「公園」ですね、これは・・・(園主さま、ゴメンナサイ!)。皆さまそれぞれ思い思いに過ごしておられるようです。私は時々芝生で昼寝でもしに参りましょうかねえ(笑)。(<野茶坊さま)

>ありがとうございます。とてもうれしいイメージでございますね(笑)。謝っていただく理由など、まったくございません。
>それに以前、ここ「花園」の常連であった「をとめざ」さまという方も、「花園」を「賑やかに花が咲き乱れ、鳥や虫が飛び交っている」というような場所だと比喩して下さったことがございます。
つまり、ここ「アレクセイの花園」は、上品に手入れされた「鑑賞目的」の花園ではなく、花々が自由に咲き誇るための「解放区」的な場所なのでございましょう(笑)。(<アリョーシャ)

私は、ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』(講談社文庫)所収の、「しずかなのがすきなヘムレンさん」を思い出したわ(笑)。
これも、大好きな作品なの。

にゃあ〜♪



今日は大雨、傘がない(嘘) 投稿者:AOI  投稿日: 4月30日(水)10時35分13秒

☆杉澤鷹里さま

>『傘をささないシランさん』

知ってます〜。

私の前回の書き込みはシランさんの傘だったような・・・(苦笑)。

>補足)恥じについてもう少し自己分析すると、私には世界のありとあらゆるものに
対して優位に立ちたい、相手を見下したいという欲求があるようです。

>歩み寄りを放棄する気はないのだけれど、いや、むしろ世界の意味的な反転を志し
てはいるのだけれど、今はまだつっぱっしとけばいいかなって思います。

>歩み寄りのために一つだけキーワードを挙げれば、アイデンティティですね。

私が興味深いと思うのは、弱い立場のものが「恥」という意識操作によって、世界を
反転しようとするところです。

>私自身の本来の立場からすれば、精神論など意味がなく、また常に人間が選択を行
えるかのような世界観も錯認として退けるのであって、今回の私の議論の展開が不本
意なものであったのは事実です。

と書かれていることはホランドさまの

>「自己の優位性」を「ユニークさ(独自性)」として示そうとするあまり、議論に
歪みが生じているせいではないかと、ボクは思います。

と言われていることに通じますか?
そうであったら、私の書いていたことはまるで可笑しかったですね(笑)。

☆園主さま

>『サイード 21世紀への対話』。

録画できましたよ〜〜ん(笑)。近いうちに。
内容的には、50分という短さもあって、十分なものとは思えませんでしたが活字で
は分りにくいサイードという人の感触というようなものがヴィジュアルなだけによく
わかります。






ちょっと、取り急ぎ。 投稿者:アーニャ  投稿日: 4月30日(水)10時10分26秒

☆野茶坊 さま

↓以下は、Keenさまからの伝言です。

「野茶坊」さまを「やんちゃぼう(ず)」と読んでしまい、以前、書き込まれたお若い「yua」さまと混同してしまいました。それで、「美少年がお昼寝」云々となったわけですが、カン違いされた野茶坊さまは、さぞ面 食らわれたのではないかと……あるいは、不快に思われたかもしれませんね、失礼致しました(ぺこり)。(<Keen)


☆ホランドくん

>> 『薔薇迷宮』外伝・〜平安朝篇〜 第3回(改訂版の続き)
>> 「亜歴世少納言」説を、うまく取り込んで下さいましたね。ありがとうございます(笑)。(<園主さま)

>もしかして、今回のストーリーは、本当に園主さまが考えたんではないですか?
>この「可愛らしさ」の対するこだわりは、いかにも園主さまらしさがプンプンします・・・。(>Keenさま)

これは「和姦」か?「岡嶋二人、藤子不二雄」か?フフフ♪

>蜂蜜をたらしてのエッチって、なんだか平凡な気がするんだけどなあー。

そりゃあ、もちろんよ。
だって、鬼印式部さまが赤江さんの「ネタばらし」するわけにいかないじゃないのー☆「ヒント」を出しただけよ。以前読んだのなら、これで「あっ、そうか、アレのことか!」って、思い出してくれるんじゃないかなって。

>まあ、赤江 瀑さんの華麗なレトリックにかかれば、そんなツマンナイことは考えられないんだろうけどね。・・・やっぱり、読み返してみようかな。

ぜひそうしてちょうだいっっっ!!!

>投稿日: 4月30日(水)04時53分09秒
>ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

ホランドくんこそ、今から寝るのー?
「カーテンの隙間から差し込む朝日が、無防備な寝顔に光の線を映している……再び、アリョーシャの白い手が伸びて来た……」
なーんてね♪フフフ♪♪

☆アリョーシャ

>「薔薇色の骨」(福島泰樹)

『創元推理 4 <'94年春号> 』の「追悼・中井英夫」という特集に載ってたものじゃないかしら。
Keenさまが引用してた弔歌を含む7首が「薔薇色の骨」と題されてて、それとは別 に、「幻町より海辺の墓地を眺望せよ」という文章もあるわ。

他には、笠井潔、竹本健治、綾辻行人、本多正一……といった方々の寄稿も。
ここに「田中幸一」もあったらよかったのになあ☆


ところで、Keenさまは、義弟・鷹里さまの掲示板に大事件発生で気を揉んでおられて、今はちょっとレスできませんので、また今度。
にゃあ〜♪


ごろごろしながら考える(8) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時53分09秒


 アーニャ
>>『動物化する世界の中で』

> うん、ナルホド、ホランドくんの紹介文で、bk1の書評「笠井さんは押され気味で分が悪い」の意味も察せられるわね。私も、きちんと読んでみるわ。

 日頃、園主さまが書かれていることを読んでいる「花園」の読者なら、笠井さんが東さんに痛いところを突かれているのが、とてもよくわかるよね。当然、笠井さんさんとしては「そんな非難はお門違いだ」ってかたちで躱そうとしているわけだけど、『bk1の書評「笠井さんは押され気味で分が悪い」』という感想が出るということは、笠井さんの躱し身がうまくいっていないということなんだろうね。だって、園主さまのおっしゃるとおり「そんなことを考えるのは、君のトラウマのせいだ」という反論は、いかにも低劣だもん。これって、園主さまが「掲示板荒らし」の野嵜健秀さんを「一流大学である早稲田まで行って、いったい何を習ってきたのか」と皮肉った時、「大学は関係ない。そういうことを言うのは、高卒であるおまえの学歴コンプレックスのせいだ」と言い返したのと、ほとんど同じレベルだもんね。・・・だいたい批判に対して、有効な(論理的)反論をできない人は、その非難の出所を「批判者のコンプレックス」ということにして、その批判の根拠(出所)を自分から逸らし、無根拠化しようとするんだよね。ホントにその批判が間違っていれば、「コンプレックス」なんて曖昧なことを持ち出すまでもなく、具体的に論駁できるはずなのに。笠井さんの場合も、話が具体的になると「まずい」という意識があったんだろうね。

>>> 赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』
>>> まああ、AOIさまったら、「アレ」を試してご覧になったことあるの!?(<Keenさま)

>> ぜんぜん意味わかんないよー!!!

> しょうがないわねえ、鬼印式部さまの「第3回」に、そのエピソードも使うようにお願いしてみるわ。でも、今度は「清水の舞台から飛翔する」覚悟で書いて頂かないとねえ……

 蜂蜜をたらしてのエッチって、なんだか平凡な気がするんだけどなあー。オイルだとかシャボンの変形だろう? たしかに蜂蜜って甘いし、「蜜」というのは、エロティックな印象があるけど・・・なんだかベタベタしそうで、あんまりピンと来ないなあー(笑)。
 まあ、赤江 瀑さんの華麗なレトリックにかかれば、そんなツマンナイことは考えられないんだろうけどね。・・・やっぱり、読み返してみようかな。


 園主 さま
> 笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する

 ガンガンいってますねえー(笑)。

『自由を考える 9.11以降の現代思想』(東浩紀・大澤真幸/NHKブックス)のなかで、東浩紀は「自由」にかかわる問題として、近年、意識の高まっている「セキュリティー」の問題を取り上げている。また、

> 大澤真幸は『自由を考える 9.11以降の現代思想』の「あとがき」のなかで、東浩紀の「セキュリティー」の問題にからめて『ボウリング・フォー・コロンバイン』について言及していたよ。

 なるほど。おもしろそうですね。読んでみたいと思いますので、よろしければ貸して下さい(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


ごろごろしながら考える(7) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時52分35秒


 野茶坊 さま
> それにしても賑やかな掲示板です。鳥のさえずる「花園」というより、子どもがあっちでぎゃーぎゃー、こっちでぴーぴーっ、ベンチでは眉間に皺寄せた爺さんが何やらぶつぶつ・・・てな感じの「遊園地」か「公園」ですね、これは・・・(園主さま、ゴメンナサイ!)。皆さまそれぞれ思い思いに過ごしておられるようです。私は時々芝生で昼寝でもしに参りましょうかねえ(笑)。

 納得です。・・・ところで『ベンチでは眉間に皺寄せた爺さんが何やらぶつぶつ』って、これ誰のことでしょうか?(笑)

> 「仕事と社会を休養せよと隔離される」ことを「不本意ながら」と嘆くより、寧ろ喜んでいただきたい。「仕事と社会」を距離をおいてながめるチャンスですし、「仕事と社会」から離れて自由に思考・行動(何もしないでゴロゴロすることも含めて)できるチャンスじゃありませんか。本当は、すべての人に保障されるべきことだと思いますよ。

 無責任な言い方かも知れませんけど、ボクもそんなチャンスが欲しいなあー。
 園主さまもよく言ってますよ「世間のオヤジどもは、一週間も休みが続くと、時間を持て余して大変だから、あまり長い休暇はいらないと言うけれど、俺なら半年くらいはオーケーだな。やりたいことはいっぱいあるし。ただ、ずっと休みだとマンネリになるから、半年休んで一ヶ月働いて、また半年休むみたいなパターンがいいなあー」って(笑)。ボクも読みたい本がいっぱいたまってるしなあー。


 Keen さま
> 『薔薇迷宮』外伝・〜平安朝篇〜 第3回(改訂版の続き)

> 「また、考え込んでおられるようですね。」
> 後ろから声をかけて来ましたのは、「亜歴世少納言」。『蒼司の枕』という稚児物語の作者として有名な、私の先輩に当たる女房でございます。
> 「くよくよと思い煩われるのは、貴女の悪い癖でございますよ。私なら、このように致しますのに。」
> と、私の筆を取られ、さらさらとお書きになる……

> 「亜歴世少納言」説を、うまく取り込んで下さいましたね。ありがとうございます(笑)。(<園主さま)

 もしかして、今回のストーリーは、本当に園主さまが考えたんではないですか?
 この「可愛らしさ」の対するこだわりは、いかにも園主さまらしさがプンプンします・・・。

> なるほど、これはこれで面白いが、もう「私の物語」ではありませぬ。この続きは、少納言にお任せすることにして、やはり私は、私の続きを書くことに致しませう。

 鬼印式部さまらしい作品を期待します。清水の舞台に立てるかな?(笑)


 芙宮 さま
> 「相変わらず」って言葉、園主さまに対してが一番使用頻度高いな。相変わらずお元気そうですね。良かった。良かった。ホランドさまも元気?

 おひさしぶりです。もちろん、ボクも相変わらず元気ですよ!(笑)

> 芙宮が来ていない時ももちろん毎日、溢れんばかりの人間愛を芙宮から受け取ってくれているものと信じています。そうでしょう?

 まあ、いちおう(^-^;)。

> といったところでお時間です。おやすみなさい。
> ぐー。

 このへんがなあー(笑)。





( 以下は「ごろごろしながら考える(8)」につづく)


ごろごろしながら考える(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時51分36秒

 杉澤鷹里 さま(つづき)

 なぜ、この「目撃者である女子高生」たちは、「個人」ではなく、『同一の電車利用者という相』で「事件」を「オジサン」を評価しなければならないのでしょうか? 一人の「女子高生」の立場を『同一の電車利用者という相』まで拡大することができるのであれば、それは「良識ある人間という相」すなわち「個人」にまで拡大しても何ら問題はないはずです。なのに、どうして『同一の電車利用者という相』という「中途半端な相」に止まるのか、その合理的な理由がわかりません(示されていません)。「恥じる」のなら「同じ人間」として恥じればいいはずなのに。

で、その理由を考えてみると、ここでも浮かび上がってくるのが「差異」の問題です。つまり、前記の具体例の解答を
「オジサンの電車での携帯の使用を注意した女子高生が、オジサンに逆切れされ殴られたとき、周りの女子高生は殴ったオジサンをオジサン世代という相で把握しオジサン全体を憎悪するのではなく、そのオジサンをそういう性格の持ち主である個人だと正しく確定し、これを安易にオジサン一般 の問題に敷衍してはならない。そして「たとえ自分が間違っていても、注意をしてくれた相手が、弱者であれば、居丈高に振る舞ってしまう、反知性的な理不尽さ」というのは、なにもオジサンという種族特有のものではなく、人間一般 のことなのだから、これを同じ人間として恥じるようにし、自己の問題として主体的に、そのような理不尽さがまかり通 らないような世の中をつくるための努力しなければならない、と考えるべきだということになります。実際に殴られた女子高生が、殴ったオジサンをどうしようもなく憎んだり許せなかったりするのは、その現場では制御困難なことでしょうが、人間の愚かさを我がこととしてとらえる意識をあらかじめ持っていれば、彼女はその理不尽な暴力にも、毅然として対することができるのではないでしょうか」
と書いてしまっては、何の「特別性」も無くなってしまい、「自他の差異」を示せなくなり、自己の「優位 性」を仮構できなくなってしまうからです。

 つまり杉澤さんの文章のわかりにくさというのは、「自己の優位性」を「ユニークさ(独自性)」として示そうとするあまり、議論に歪みが生じているせいではないかと、ボクは思います。そして、これは「若者には、ありがちなパターン」だと思うんですよね。ひとことで言えば「奇を衒う」ということです。

 ボクは、何も杉澤さまを批判しているのではありません。「衒い」というのは、これから成長しようとする若者には必要なものだと思うし、その衒いがすぐに好ましい結果 に結びつくことなんか、そうそうあることではないからです。ただ、自分の過去を省みて思うのは、そういう「若書き」は、後で誰よりも自分で恥ずかしいものだということなんですよね。だから、後で悶え苦しまないためにも、そのあたりの自覚も多少はあった方が良いんじゃないかと思い、書かせていただいたんです。・・・もちろん、これは、ボクの理解が正しければということですけれど(笑)。





( 以下は「ごろごろしながら考える(7)」につづく)


ごろごろしながら考える(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時50分44秒

 杉澤鷹里 さま(つづき)

> もっと具体的な例を挙げます。
>  オジサンの電車での携帯の使用を注意した女子高生が、オジサンに逆切れされ殴られたとき、周りの女子高生は殴ったオジサンをオジサン世代という相で把握しオジサン全体を憎悪するのではなく、同一の電車利用者という相で理解しこれを恥じるようにする、ということになります。実際に殴られた女子高生が殴ったオジサンをどうしようもなく憎んだり許せなかったりするのは制御可能なことではなく、従って私の議論の枠組みを外れます。

 この具体例についての杉澤さまの解答である『殴ったオジサンをオジサン世代という相で把握しオジサン全体を憎悪するのではなく、同一の電車利用者という相で理解しこれを恥じるようにする』というご意見も、ひとひねりはあるものの、「無理のある理屈」という印象が否めません。そして、その「無理」がどこから来るのか考えてみると、それは「同一の電車利用者という相で理解」するという「立場設定」の中途半端さからなんです。
 『オジサンの電車での携帯の使用を注意した女子高生が、オジサンに逆切れされ殴られた』という事件を目撃した『周りの女子高生』たちの取るべき判断は、どういうものなのでしょう。それは関係者である「オジサン」と「女子高生」を、その「正しく注意を与えた者が、逆に殴られた」という事件の本質において「評価」することであって、「オジサン」や「女子高生」という「事件の本質」ではない「副次的要素」で評価しないというものです。したがって、杉澤さまのおっしゃる『殴ったオジサンをオジサン世代という相で把握しオジサン全体を憎悪するのではなく』というところまでは正しいのですが、その後に来るのは「正しく注意を与えてくれた人を逆に殴るような、理不尽で卑劣な個人、として評価する」となるべきなのです。・・・ところが、杉澤さんの議論は、なぜかここで視点が「評価する側」の方に一転して『同一の電車利用者という相で理解しこれを恥じるようにする』となっており、これでは文章としての論理的整合性に欠けると言わざるを得なません。で、ここでなぜこんな「おかしな視点の変化」が起こったのかと言えば、それは杉澤さま自身『殴ったオジサンをオジサン世代という相で把握しオジサン全体』として評価することを諌めながら、事件の目撃者である「女子高生」たちを「個人」としてではなく、「被害者の女子高生」と「同種」の「女子高生という相」で捉えてしまっているからではないかと思います。





( 以下は「ごろごろしながら考える(6)」につづく)


ごろごろしながら考える(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時49分32秒

 杉澤鷹里 さま(つづき)

>  歩み寄りのために一つだけキーワードを挙げれば、アイデンティティですね。

>  「自分」というものは、もう目まぐるしく変わってる。個体というのは強固な境界を持ってるものではないと、私は考えています。

 杉澤さまが何度かおっしゃっている『個体というのは強固な境界を持ってるものではない』つまり「自他の境界は曖昧なものであり、絶対的なものではない」というご意見には、特に異論はありません。たぶんこれは竹本健治さんの「ウロボロス」シリーズや『匣の中の失楽』などの「世界観」に影響を受け、それを世界理解の素型とされているからなんじゃないかと思います。
 ただ、この原理から言えば、「自他の差異」はいたって脆弱なもので、『「自分」というものは、もう目まぐるしく変わって』次の瞬間には「目の前の他者」ともなりうる存在なんだから、その杉澤さまが『「日常」は本当にビックリすることの連続です。「えっ、この人たちこんなふうに考えるの?」ってな具合』なことに頭を痛めるというのは、その認識と矛盾した事実のように思えます。
 そしてむしろここに見えてくるのは、さっき指摘した『「ステグマ(聖痕)」、つまり「選ばれたものとしての特質」』という「固有性」への執着なのではないかということです。じっさい、

> 恥じについてもう少し自己分析すると、私には世界のありとあらゆるものに対して優位 に立ちたい、相手を見下したいという欲求があるようです。

という願望を充足するには、「自他の境界」は明確でなくてはなりません。そうでなくては「優位 ・劣位」という「位相的異相化」ができないからです。

 で、ボクやAOIさまが感じた「わかりにくさ」や、園主さまが感じた「論理的混乱」は、杉澤さまのこうした「内的矛盾」に由来するのではないかというのが、ボクの見解です。「差異のあるところに、差異がない」と言い、「差異があるところに、差異がない」と言えば、それはたしかに「特別 」な論理にはなりますが、一般には「論理錯誤」としか見えません。





( 以下は「ごろごろしながら考える(5)」につづく)


ごろごろしながら考える(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時48分31秒

 杉澤鷹里 さま(つづき)

 ここで杉澤さまは「自分個人の問題」と「民族問題」を同等に扱っておられますが、ボクはこれにも違和感を感じます。
 なぜなら杉澤さまは、園主さまの『問題は、杉澤さまの(中略)充分お気づきになられていない』云々という指摘を受けて、『これが、頭の痛いことではあります。』と書かれているんですから、頭を痛めているのは、「他人の問題点」ではなく、「自分の問題点」のはずです。
 一方「民族問題」というのは、いつでも「なんであいつらは」とか「だからあいつらは」と、諸問題の発生源を「他者の異質性」に求めるところにあると思うんです。言い換えれば「自己の異質性」についての無自覚ですね。つまり「民族問題」というのは、所詮は「フィクション」であり「地域文化の差異」でしかないものを「民族」という観念に絶対化し、そうした「地域文化の差異」を客観的に相対視しえなくなったところに発してくるものだと思うんです。つまり「手で直接、食物をつかんで食べるのは野蛮だ。だからあいつら(の民族は)畜生なみだ(だから、あいつらとは話し合いにならない)」みたいな考え方ですよね。

 こう見てくると、「自分個人の問題点」に気づいているはずの杉澤さまが、ご自分の問題と「民族問題」を同等に見るのは変なんです。なぜって、杉澤さまの問題は「自覚しても、なお解決しない難問」であり、一方「民族問題」は「自覚が困難な問題」だからで、園主さま風に言うと「問題のレベル」が違うということになるはずなんですよね。

 では、なぜ杉澤さまは、両者を単純に「同等の問題」として語れるのか、と考えてみると、ひとつ浮き上がってくる疑いは、杉澤さまが「自己の、一般 的他人との、差異」を「ステグマ(聖痕)」、つまり「選ばれたものとしての特質」として「優位 的」に理解しているのではないか、ということです。そうであれば、それは「民族問題」と「同等」の、「錯誤意識」の問題だということになりますからね。

 そして、このような、たぶん杉澤さまには面白くないような理解を補強してしまうのが、ご自身の、

> 歩み寄りを放棄する気はないのだけれど、いや、むしろ世界の意味的な反転を志してはいるのだけれど、今はまだつっぱっしとけばいいかなって思います。

というような言い方です。これは明らかに「問題は、相手方にある」という言い方です。だから『歩み寄り』をしてやっても良いけど、今は『つっぱっしとけばいいかな』とも思えるわけです。





( 以下は「ごろごろしながら考える(4)」につづく)


ごろごろしながら考える(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時46分44秒


 杉澤鷹里 さま
 率直に言わせていただきますと、どうもお書きになられる文章が、わかりにくく感じられます。例えば、

>  また「ゆるせないものをゆるせ」についてですが。
>  (その状態が理想的であるか否かという価値判断よりも)ある状態に到達するのを可能にするシステムについて考える、というのが私の基本的な考え方です。だから、私が「許せないものを許すことが重要」と言うとき、それは「ゆるせないものをゆるせ」というスローガンが大事だという意味ではなく、それを可能にする条件を模索していこうということなのであって、

『(その状態が理想的であるか否かという価値判断よりも)ある状態に到達するのを可能にするシステムについて考える、というのが私の基本的な考え方です。』・・・この部分でいうと、まるで『その状態が理想的であるか否かという価値判断』無しで、いきなり『ある状態に到達するのを可能にするシステムについて考える』ことができると言っているように聞こえます。でも、それが「考えるに値するものだ、という価値判断」無しには、その『ある状態に到達するのを可能にするシステムについて考える』ことなんかありえないんじゃないでしょうか? つまり、この両者は「比較の対象にすべき関係にはない」のではないでしょうか。

 つぎに、上の、ボクが「論理的に納得のできない前提」を『だから』と受けて、つまり「理由・根拠説明」として語られる『私が「許せないものを許すことが重要」と言うとき、それは「ゆるせないものをゆるせ」というスローガンが大事だという意味ではなく、それを可能にする条件を模索していこうということ』というのも、よく理解できません。なぜなら誰だって『スローガンが大事だ』なんて思わなくて『それを可能にする条件を模索していこう』と思ってはいても、それが実際にはなかなか難しい、という話だと思うからです。
 つまり、結論として言っていることはすごく常識的なのに、それを強化するために置かれ、比較して否定されるべき前段が、奇妙に無意味なんです。つまり、前段は、後段に意味を持たせるための「否定的前提」なのに、後段との「比較対象項としては不適当」だから、「比較」のかたちでは、後段と論理的につながらなくて、その結果 、文章としては論理的に意味を為していないんですね。つまり、このような破綻があるために、文章全体が、とても読み難いものになっているようなんです。

 だから、ボクとしては、園主さまのおっしゃる、

> 問題は、杉澤さまの議論の『諸前提』が特殊なものでありながら、それが語られていないこと(語る必要性・自己の特殊性)に充分お気づきになられていないように見える

というのは、杉澤さまが、

>  これが、頭の痛いことではあります。「日常」は本当にビックリすることの連続です。「えっ、この人たちこんなふうに考えるの?」ってな具合に。それは日本以外ででも大して変わりません。だから日本で受けるショックも一種のカルチャーショックなのだろうなあ、と思ってます。
>  この問題が簡単に克服できるならば、民族問題も同様の手法によって克服できるのではないかと、思います。

と肯定しておられるにもかかわらず、ちょっと違うんじゃないかなと思います。





( 以下は「ごろごろしながら考える(3)」につづく)


ごろごろしながら考える(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 4月30日(水)04時43分01秒

 みなさん、こんばんは! いよいよゴールデンウイークですね。いかが、おすごしでしょうか? と言っても、これをすぐに読んで下さる方は、とくに遠出の予定のない方なんでしょうね(笑)。今日は昼間から男性陣の書き込みが続きましが、きっとみなさん、おうちでゆっくりなさっているのでしょう。野茶坊さま風に言うと、のんびりごろごろなさっているってところかな。もちろん、かく言うボクも、な〜んにも予定が入ってないのですが、まあ本が読めるからいいか、と。じつはボクも昼寝しちゃって、朝昼逆転・・・(^-^;)。





 AOI さま
>>> 『サイード 21世紀への対話』放送のご案内

>> BSかあ。だれかビデオをとってくれないかなあー。

>おまかせあれ!
>ってよく、失敗するんですけど…(緊張)

 ありがとうございます! うまく録れました?(^_^)


 ino さま
 園主さまの厳しい客観行動主義的な注文と、野茶坊さまの脱力主義的な助言に対する、inoさまの対応は、とても興味深いものだと思いました。というのも、その反応パターンが、ほぼ同じだからです。つまり「なるほど・ありがとうございました・自分にはいろいろ問題があるのですが・そのように頑張ります」というパターンですね。
 ですから、ボクが助言するとすれば、それは「パターン崩し」です。つまり、inoさまの場合、どうしてもこの「真面 目パターン」という一種の罠にはまっちゃうというのが問題点ですから、意識的にこのパターンをはずして、心の動きに幅をもたせるという作戦です(笑)。

 具体的に言うと、さっき示した通常のパターンである「なるほど・ありがとうございました・自分にはいろいろ問題があるのですが・そのように頑張ります」の逆さまをいくんです。つまり、
 (1) 「それはおかしい、納得できない」と反論を試みる。
 (2) お礼は言わない。
 (3) 自分の長所を怖じずに書く。
 (4) 納得できないことは、やらない。誓わない。
という感じですね(笑)。
 これって結構むずかしいと思いますよ。だって「反論」するには、「肯定」する以上の読み込みが必要だし、「お礼」を言わないとなれば、それなりの「反論」をしなければなりません。「自分の長所」を書くということは、それだけ責任を背負うということだし、「やらない」と拒絶することは勇気がいりますからね。

 このなかでも、ボクが特に大切だと思うのは(4)です。
 inoさんを見てて、強く感じられるのは、「良いことは、やらなければならない」「やるからには、やれねばならない」みたいな「義務感に支配されている」ところです。
 でも、ボクが思うには「良いことは、やった方がいいけど、やらなければならないものではない。やりたくなければやらないでいい。やりたければやればいい」「やるからには、やれた方がいいに決まってるけど、やれるかどうかはわからない。だからやれなければやれないでしょうがない。また、その気になったらやればいい」みたいなことだと思うんですよね。つまり、結論すると、

 「やりたくないことはやるな。やりたいことをやれ」

ということになります。つまり、やるんなら「好きでやれ」ということなんですよ。「イヤイヤやっても、ろくなことないぞ」ということです。これは「自分の気持ちに正直になれ」ということですし、それは「自分のホントの気持ちを、よく観察しなくてはならない」ということです。
 なぜ「自分のホントの気持ちを、よく観察しなくてはならない」かというと、それがわかってないと、何をやってもうまくいかないだろうと思うからです。

 まず「嫌なことはできるかぎりやらない」。それが大切なことであればあるほど、イヤイヤやってはいけないんです。それが「好き」になるまで待つんですよ。やりたくて仕方がなくなるまで待つんです。で、ひとまず好きなことを一生懸命やるんです。そのなかで何かが見つかるんではないかと、ボクは思います。





( 以下は「ごろごろしながら考える(2)」につづく)


芝生でお昼寝・・・ねごと・・・ 投稿者:野茶坊  投稿日: 4月29日(火)22時32分01秒

園主さま

「池田氏」を良識の枠に閉じ込めているのは、私ども学会員かも知れません。「池田氏」が一介の野人であれば、これはもう相当な奇人・変人になられたのではないかという気がします。しかし、一方ではまた、大組織を預かる責任感が「池田氏」の思想を形成したという面 もあるでしょうね。

本当は、お気楽な私ども「弟子」がそれぞれに奇人・変人ぶりを発揮していくべきなのですが、実態はご承知の通 りです。「猊下に信伏随従を」という宗門を嗤っておきながら、「師弟不二」をちらつかせながら「先生」への「信伏随従」を強いる体質を根底から変えていかない限り、「師弟不二」どころか、「師弟」もあり得ないでしょう。「師弟不二」を騙る「信伏随従」が「師弟不二」とは似ても似つかぬ 「面従腹背」そのものであることを、身を以て証明した人間は有名な全国幹部から無名の一地方幹部にいたるまで、それこそ無数にいると思うのですが、まだまだ懲りないようです。しかし、いつまでも「無告の民」を続けるのは嫌だとの声もあがってくるでしょう。あげていかなきゃ・・・。ということで、不良・創価学会員のアレクセイさま、あなたさまも「書類上」とはいえ創価学会員である以上は「当事者」なんですよね〜(笑)。

「池田氏」批判も私はあっていいと思っています。私の最大の批判は「何であの時、会長を辞めたんじゃあ〜!! おかげで会員の金太郎飴化が加速してしまったじゃないか! 『大河の時代』はどこへ行ったんだよお!」というもの。それに対して「池田氏」はこう答えるでしょうね、間違いなく。「君ら会員がだらしなさすぎたんだよ。とても私と一緒に闘えるとは思えなかったから、私は身を引くしかなかったんじゃないか。「一人立つ」ことのできる者がいったい何人いたんだ? 私にぶら下がってただけじゃないか。君らには金太郎飴が似合ってたんだよ。あれから24年、少しは成長したのかよ! ああ、私は弟子の育て方を間違ったのかも知れない・・・」「いや、先生。そんなことありませんって・・・。金太郎飴はもう飽き飽きしましたから・・・。」「本当かなあ・・・? ならば証明して見ろ」。

「奇人」「変人」というのは他人が貼り付けたレッテルであって、南方熊楠も大杉栄も、それからだれでしたっけ・・・? あ、宮武外骨だ・・も、自ら「奇人」「変人」を演じていたのではなく、世におもねることなく自分に忠実に、自分らしく生き通 したということですよね。人間としてごくアタリマエの生き方のはずなんですが、大半の人間にとってそのアタリマエがアタリマエではないのは、なぜなんでしょうかねえ・・・? 私は「世間」というものの制約が大きいように思うのですが・・・。


力を抜いて・・・。 投稿者:ino  投稿日: 4月29日(火)16時09分14秒

野茶坊さま

>「淵に潜む」こと自体を楽しんでいけばいいんですよ。

楽しめる自分になりたいと祈りながら、構えている自分に気づかせていただきました。目からうろこです。肩の力を抜く、おっしゃるとおりですね。無作の表現で自信つけます。ありがとうございます。

>「不本意ながら」とおっしゃるinoさまは、他人との比較においてご自分を貶められておられるのではないかという気がします。それが結果 としてご自分を甘やかすことにつながりませんか?

鋭いご指摘ありがたく頂戴いたします。過去一度山間の小学校現場で、複式のTTで、教頭T2、私がT1で1,2年の国語の授業をしたのですが(1年生一人、2年生6人でした)、一度T1とT2を替わったことがありました。なんとその教頭の授業の上手いこと・・・。私はがっくり。そのような体験はたぶん象徴的な出来事だったのでしょう。心のどこかにおっしゃるように他人との比較に過敏な私がいるのでしょう。

 交流分析を兄から教えられ、本を読みました。思うに私は、you are OK,I'm not OK の心の構えをどこかで、身につけてしまったようです。この構えはうつに陥りやすいパターンです。何とか変えようと思いますがきびしいものがありますね。信仰を持った人間が何を言っているのか、といわれそうですが(これもマイナス思考ですね)矯正中です。

 自分を貶め、結果として自分を甘やかす=何か困難があると、努力する前に自分の心に目をむけ混乱に陥り病むという安全地帯に自分を置く〜と理解してよろしいですか。

 即答ですが、思いを書きました。野茶坊さま、メッセージありがとうございました。


Take it easy. 投稿者:野茶坊  投稿日: 4月29日(火)15時12分37秒

inoさま、肩の力を抜きましょう。「勝つと思うな 思えば負けよ」と村田英男が歌ってましたね。私は絵のことはよくわかりませんが、「圧倒的な実証」を求めるあまり力んで大上段に振りかぶって描かれた絵は、同じような感じで書かれた文章や語られた言葉と同様、自分で後で振り返って赤面 するようなものにならないでしょうか・・・? 自然体・あるがままの自分の内奥からの発信こそ、結果 的に人の心の琴線に響くのではないかと思うのですが・・・。

「昇らんがためなり」・・・昇らなくたっていいじゃありませんか。「淵に潜む」こと自体を楽しんでいけばいいんですよ、「衆生所遊楽」ですから。「戦う」ことより「楽しむ」ことだと私は思います。いかなる状況をも楽しんでいけるしたたかさ・たくましさこそ、「境涯」というんじゃありませんか? 

「仕事と社会を休養せよと隔離される」ことを「不本意ながら」と嘆くより、寧ろ喜んでいただきたい。「仕事と社会」を距離をおいてながめるチャンスですし、「仕事と社会」から離れて自由に思考・行動(何もしないでゴロゴロすることも含めて)できるチャンスじゃありませんか。本当は、すべての人に保障されるべきことだと思いますよ。そのせっかくのチャンスを「不本意ながら」とおっしゃるinoさまは他人との比較においてご自分を貶めておられるのではないかという気がします。それが結果 としてご自分を甘やかすことにつながりませんか? 

まず、あるがままの自分を受け容れることだと思いますよ。言い換えれば、「現実から眼をそらさない」ということでもありますが、何となく肩が凝って疲れてしまいますので、私はこんな言い方が好きではありません、昔は好きでしたが・・・。

まあ、気楽に生きましょう。


傘をささないシランさん 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月29日(火)11時37分40秒

 論理的には全然混乱がないと思うのですが、いくつか誤解を招きやすい箇所はあるとおもいます。

例えば、
>「怒り」が、私やinoさまのいう「憎悪」や「怒り」と同じでないことは明らかでございましょう

というのはその通りで、「『恥じ』について」では一貫して私の提出した「恥じ」概念との対で「憎悪」「怒り」という言葉を用いています。

 また「ゆるせないものをゆるせ」についてですが。
 (その状態が理想的であるか否かという価値判断よりも)ある状態に到達するのを可能にするシステムについて考える、というのが私の基本的な考え方です。だから、私が「許せないものを許すことが重要」と言うとき、それは「ゆるせないものをゆるせ」というスローガンが大事だという意味ではなく、それを可能にする条件を模索していこうということなのであって、今回は模索のための手掛かりとして、許すことの前提として許されるものを下位 に置くような認識をしているのだということ、そしてそのような認識の一つとして「恥じ」があるのだということ、を述べたにとどまります。これ以上踏み込んだことは、個別 的・技術的な話になります。(そして、その個別的・技術的な考察こそが重要だと私は考えるのですけれど、限られた時間で充分な情報を得ることのできるものがなかったのと、個別 的な話はやはり個別的であろうということで、割愛しました。時間が許し、そして個別 的であるけれど一般的な性質を帯びたものがあればまた紹介したいと思います)

─ ・ ─

 私自身の本来の立場からすれば、精神論など意味がなく、また常に人間が選択を行えるかのような世界観も錯認として退けるのであって、今回の私の議論の展開が不本意なものであったのは事実です。

>問題は、杉澤さまの議論の『諸前提』が特殊なものでありながら、それが語られていないこと(語る必要性・自己の特殊性)に充分お気づきになられていないように見える

 これが、頭の痛いことではあります。「日常」は本当にビックリすることの連続です。「えっ、この人たちこんなふうに考えるの?」ってな具合に。それは日本以外ででも大して変わりません。だから日本で受けるショックも一種のカルチャーショックなのだろうなあ、と思ってます。
 この問題が簡単に克服できるならば、民族問題も同様の手法によって克服できるのではないかと、思います。
 まあ、ある程度自覚できる問題については「匣の中の匣」で紹介できればいいかと思うのですが、あまり自信はありません。
 歩み寄りを放棄する気はないのだけれど、いや、むしろ世界の意味的な反転を志してはいるのだけれど、今はまだつっぱっしとけばいいかなって思います。

 歩み寄りのために一つだけキーワードを挙げれば、アイデンティティですね。

 「自分」というものは、もう目まぐるしく変わってる。個体というのは強固な境界を持ってるものではないと、私は考えています。

 AOIさまの質問「「恥じるとき」という場合、何に対して恥じるのでしょうか?「その対象」とかかれていますので、自分自身を恥じるということではないのでしょうね」に答えるのが分かりやすいと思うのですけれど、恥じるというのは「共同体の構成員」の犯した規範の逸脱を「共同体の代表」が自分(たち)のこととして「世間さま」に対して感じるものです。だから、その対象は自分自身ではないけれど自分の一部ではあるわけです。その「共同体」というのは恣意的なものであって、それは完全に個人と一致する場合もあれば、欽ちゃんファミリーみたいなものになる場合もあるわけで(「共同体」の俯瞰的に見たときの恣意性と内在的な絶対性についての考察はベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』と若林幹夫の『地図の想像力』とがイイです)、今回のinoさんに触発されて「恥じ」たことでは、共同体の範囲は「資本主義社会で上位 に位置する集団」となり「その構成員」の犯した規範の逸脱を「同じ集団に属する私」が「人類全体」に対し、恥じるということになります。
 もっと具体的な例を挙げます。
 オジサンの電車での携帯の使用を注意した女子高生が、オジサンに逆切れされ殴られたとき、周りの女子高生は殴ったオジサンをオジサン世代という相で把握しオジサン全体を憎悪するのではなく、同一の電車利用者という相で理解しこれを恥じるようにする、ということになります。実際に殴られた女子高生が殴ったオジサンをどうしようもなく憎んだり許せなかったりするのは制御可能なことではなく、従って私の議論の枠組みを外れます。

http://www4.rocketbbs.com/141/yurufra2.html


未来に向かうこと(1) 投稿者:ino  投稿日: 4月29日(火)10時29分13秒

アレクセイさま

 厳しいご指摘有難うございました。おっしゃるように、師弟に関しての書き込み以外は、たぶんアレクセイさんにとってはinoの愚痴を聞かされているということだったのでしょう。さぞ面 倒なことであられたであろうと拝察し、お詫び申し上げます。それにもかかわらず、コメントをたくさんいただいたこと感謝いたします。

 4ケ月、4ケ月、一年3ケ月と不本意ながら社会と仕事を休養せよと隔離されることを繰り返していると、どこか心がいびつになっていたのでしょう。「嘆く」ことから一歩も出ていないとのご指摘、私の心の根っこを「革命」しない限り、社会的人間としての使命を果 たすことが困難であろうと思われます。

 この病、身体的な面と真理的な面が混在し、厄介でもてあましています。このような愚痴をさっぱりと捨て去るのは信仰、それも形ではない、命がけの信仰の実践と思います。これから「圧倒的な実証」を祈りに掲げ戦います。

 アレクセイさんのおっしゃる

>私が好ましいと思う池田氏の特徴は「法華経は将軍学である」という言葉にも示されているように、「信仰」を「個人的」「精神修養」的なものに止めず積極的に「世にうって出る智慧」現世をよりよくしていく智慧と考え、その必要を語っているところでございますね。(物足りなさは、良識的にすぎるという点でございましょう。私はもっと、世に入れられない程の強烈な個性派が好きでございますから)

 今、私が考えていることは、私の中に作り上げた普遍的なフォルムで、どこにもないタブローを描きあげることです。市の公募展で特選取ったぐらいのちゃちなものではなく、もっと大きなエポックになる作品を作り上げることです。鬼束ちひろではありませんが「圧倒的な作品」を作ることなのです。これが実証だと宣言するときを心に描いています。「咬龍の淵に潜むは、昇らんがためなり」です。

 「実証」と言いながら、そこに至らない理由は色々考えられるでしょうが、日蓮仏法の確信」、自らは仏なのだという思いに至ることを、私を含め多くの学会員が確信できていないからでしょう。

>つまり、自分のいたらなさを嘆くというのは「自己慰撫」でしかなく「反省」にはならないし、ましてや「前向きの努力」とは無関係だ、ということでございます。

 私はそういうつもりではなかったのですが、客観的に見るとそうであったのですね。
 これは私の心を占めているが「嘆き」であるとすれば、それは私の心の過去の嘆きが解決されていないことと考えられます。自己分析をすれば私の三才までの人間としての他人との信頼関係を上手く身につける環境ではなかったということと、強烈な失恋のトラウマですね。こんなことを言っても、つまらん過去を見、未来に向かって立てない(立ちつつあります)男の情けない自己弁護です。おっとまた嘆いてしまいました。アレクセイさま怒っているでしょう?
 
>つまり泣き言はいらない、ということでございます。

 ごもっともです。一人立つ信心で、毅然として生きていくことが、これからの私の決意であり、課題です。敢えてこうして諌めてくださるアレクセイさまに感謝します。

>「信仰に対して不誠実」

 原点に立ち戻りたいと思います。誓願をします。御書を読みます。自信をなくすうつに勝ちます。

 池田名誉会長観をお書きになりましたが、思うに慶応大小林節教授の言っているように、学会の副会長は池田名誉会長と境涯があまりにもかけ離れています(趣意)。

 私が池田名誉会長の膨大な発言、著述の中で、池田名誉会長の心に深くあるのは「知られざる創価学会」(ビデオ〜木村恵子編=会外のジャーナリスト)で発言の「庶民一人ひとりが皇帝である、それくらい極端に見える人間観が大事です」この言葉です。

 また、お暇なとき、気の向かれたとき、


隠されたリンク(6) 投稿者:園主  投稿日: 4月29日(火)01時04分17秒


 ホランド
> 「非常時」という言葉は、いつだって「人権侵害」の口実として使われます。でも、オウムの人たちが生活することが「非常時」でしょうか? 「何か起こってからでは遅いだろう」……そう言って、アメリカはアフガンやイラクの人々を虐殺したんです。

書き忘れてたが、今日、紹介した『自由を考える 9.11以降の現代思想』(東浩紀・大澤真幸/NHKブックス)のなかで、東浩紀は「自由」にかかわる問題として、近年、意識の高まっている「セキュリティー」の問題を取り上げている。また、おまえがここ書いた『ボウリング・フォー・コロンバイン』評の、

> つまり「他者=外部」は、常に「私=内部」を侵犯する「脅威」として「恐怖」されるものと感じられている、と言うんですね。だから、わかりやすく言えば「びびり虫=臆病者」が「過剰反応して攻撃的になる」というパターンだということです。これはアメリカの「銃器犯罪」の問題に限らず、「何でもかんでも」の「訴訟社会」の問題、「やつらが我々の仕事と安全を奪っていく」という「人種差別 」問題、それから「ならず者国家は危険であり、先制攻撃が必要だ」の「外交」問題にも、じつに見事に当て嵌まる「アメリカ」論なんです。
        (ホランド『「恐怖」の研究』・4月 7日 投稿分より )

に対して、私は

『上に引用したホランドくんの言葉は、「オウム真理教」を論じた社会学者 大澤真幸の議論を想起させるものがある(『虚構時代の果てに オウムと世界最終戦争』/ちくま新書)。
 (記憶違いがなければ)大澤は、「毒ガス(=目に見えず、いつのまにか私を侵犯する悪意の象徴)攻撃」を受けていると真剣に訴えていた「オウム真理教」教祖や幹部たちの「被害妄想的な恐怖」を語りながら、彼らの脆弱なメンタリティーを指摘していた。』
    (アメリカの鬼双児 『ボウリング・フォー・コロンバイン』と『ツイン・ピークス』

とコメントしたけど、その大澤真幸は『自由を考える 9.11以降の現代思想』の「あとがき」のなかで、東浩紀の「セキュリティー」の問題にからめて『ボウリング・フォー・コロンバイン』について言及していたよ。
つまり、ここのところ、私たちが取り上げているいろんな問題は、やっぱり根っこのところで密接に関係しているということなんだと思う。実際、北朝鮮の核兵器の「恐怖」を煽る日本のマスコミの論調は、アメリカのイラクの脅威を煽ったやり方とまったく同じだものな。マスコミの煽動に、いいように動かされている日本の大衆の知的レベルは、決して北朝鮮大衆の知的レベルに優るものではないと言えるだろう。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


隠されたリンク(5) 投稿者:園主  投稿日: 4月29日(火)00時22分05秒


 芙宮 さま
> 園主さま。暇じゃない時間は忙し楽しく学問してます。暇な時間も楽しく過ごしてます。
> 前にお伝えした私の生活環境の変化、先月終わりました。ひとつ大人になったかな。
> 少なくとも経験値の意味で。ふふふ。

おひさしぶりでございます。とは言え、今回はわりと間遠ではございませんでしたね。

それにしても、相変わらず不用意に誤解を招きかねないご発言……(^-^;)。

> 「相変わらず」って言葉、園主さまに対してが一番使用頻度高いな。相変わらずお元気そうですね。良かった。良かった。ホランドさまも元気?

ははは。相変わらずの「笠井潔葬送派」ぶりを示したところでございますよ。みなさま、私が相変わらず過ぎて、呆れておられることでございましょう。……もちろんホランドくんも、相変わらずでございますよ(笑)。

> いつもは来られないけど、毎日パソコン立ち上げる度に思いを馳せています。(実際)
> ぼ〜っとふと考える、最近あの子と連絡とってないなあとかいう流れにはいってますよ。
> 芙宮が来ていない時ももちろん毎日、溢れんばかりの人間愛を芙宮から受け取ってくれているものと信じています。そうでしょう?

ありがとうございます。もちろんでございますよ。手間のかかった「我が娘」でございますからね。そのくらいのことは、していただかないと(笑)。

> といったところでお時間です。おやすみなさい。
> ぐー。

なんで、朝の7時(07時09分02秒)から寝るんだよ!


 アーニャ
> ★『北野勇作どうぶつ図鑑』全6巻(特製おりがみつき)本体各420円
>  「かわいい動物たちが全部で6種類。読んで、折って、集めよう!」

>  その(1)・かめ……『かめくん』の姉妹篇「かめさん」ほか、新キャラ「カメリ」も登場!
>  その(2)・とんぼ……初期作「西瓜の国の戦争」、書き下ろし「トンボの眼鏡」ほか、侵略テーマの3篇を収録。
>  (以上、4月刊)

>  その(3)・かえる & その(4)・ねこ(5月刊)
>  その(5)・ざりがに & その(6)・いもり(6月刊)

さすがはノスタルジーの作家だな。子供やネコが、オモチャにしたがるような、身近な小動物が多い(笑)。

> ★フィリップ・J・デイヴィス『ケンブリッジの哲学する猫』深町真理子=訳
> 「聡明な雌猫トマス・グレイの目を通して、学者たちの愉しき営みをユーモラスに描く。」

古本で出たら、読んでみようかな。

> ★福島泰樹『葬送の歌』(河出書房新社)

見たよ。二十人弱への追悼文を集めた本で、中井英夫については「薔薇色の骨」というタイトルのそれ一本だ。私もどこかで読んだ記憶があるんだが、『幻想文学』誌だったかな? 寺山修司とか、たこ八郎とか、他に何人か知った名前もあったけれど、それほど興味は無いので、買いはしなかった。

> あ、私、杉澤鷹里さまの掲示板でもちょっと遊んできたので、よかったらそちらもご覧くださいませ♪(>皆さま)

見た見た。『智者猫』……うまいこと言うなあ(笑)。





( 以下は「隠されたリンク(6)」につづく)


隠されたリンク(4) 投稿者:園主  投稿日: 4月29日(火)00時21分07秒


 ino さま
> 失礼な物言いになるかと思いますが、お許しください。このお言葉を聞いてアレクセイさまの掲示板に来た甲斐がありました。「池田氏」の著作からアレクセイさまは「池田氏」の認識を深められたのでしょうね。勝手な推測ですみません。

私も、以前多少は「聖教新聞」や池田大作氏の著作を読んでおりましたから、それなりに氏を評価してはおります。
まず、池田氏の意見というのは、非常に「良識的」であり、特に問題もなければ、個人的な異論もございません。私が好ましいと思う池田氏の特徴は、「法華経は将軍学である」という言葉にも示されているように、「信仰」を「個人」的「精神修養」的なものに止めず、積極的に「世にうって出る智恵」「現世をより良くしていく智恵」と考え、その必要を語っているところでございますね(物足りなさは、良識的に過ぎるという点でございましょう。私はもっと、世に入れられない程の強烈な個性派が好きでございますから)。

ところが、池田氏のこうした「積極的な社会参加路線」に対し、学会員の実際は「布教」と「公明党支援」以上のものがほとんど目につかないという物足りなさがございます。もちろん創価学会員の立場からすれば、「布教」と「公明党支援」こそが正統派の「積極的な社会参加路線」なのでございましょうが、それは「組織」としての「積極的な社会参加」であったとしても、学会員個々の「積極的な社会参加」とは申せません。「師匠の教え」のままに生きるというのであれば、「組織の打ち出し」のままに動くだけではなく、師匠の教えを自分で受け止め、自分なりに生きるということが、より大切なのではないでしょうか?
社会の中では、創価学会員の個々の顔が、まったく浮かび上がってこない。「さすが学会員。信仰を持っている人は、やっぱり違う」と良い意味で言われるような実績がほとんど無いという事実に、いまの学会員の「問題点」が如実に現れているものと存じます。

>> ただ嘆くだけ=信仰に対して不誠実

> ここのところを敷衍していただけると幸いです。よろしくお願いします。

つまり、自分のいたらなさを嘆くというのは「自己慰撫」でしかなく、「反省」にはならないし、ましてや「前向きの努力」とは無関係だ、ということでございます。

これは「信仰」に限定された話ではなく、人間一般の話でございます。
私が誰かの何かを批判する時、そこに期待されているのは「御説のとおり、ああ私って何てダメなやつなんだろう」などという返事ではなく、「なるほど。ご指摘をうけて初めて気がつきました。だとすると、今後、私は○○のような点に気をつけてゆき、同じようなことを繰り返さないように精進しなければなりません」というような返事なのでございますね。

つまり「泣き言」はいらない、ということなのでございます。なにも本人にあらためて「私は何とダメなんだろう」と認めていただかなくても、私は、ダメだから思うからそれを指摘したのでございます。ですから、そんな返事は、私にとって無意味なのでございますね。せっかく指摘したのですから、私としては「では、どうするのか」それを具体的に示していただきたいし、それこそが誠実な返事だと思うのでございます。(自覚の有無に関係なく)他人の同情を乞うような「泣き言」は、「自分の心の中で、存分にどうぞ」ということなのでございます。

したがって、貴方さまの場合ですと、本気で「信心」に取り組み、本気で成長する気なのなら、「私が(今は)ダメ」なのはわかりきったことなのですから、それを今さら「ただ認めたり」『ただ嘆くだけ』というのは、成長のための『信仰に対して不誠実』だという意味なのでございます。





( 以下は「隠されたリンク(5)」につづく)


隠されたリンク(3) 投稿者:園主  投稿日: 4月29日(火)00時19分21秒


 杉澤鷹里 さま
> 「恥じ」について

この回のご説明は、どうも論理的な混乱があるようでございますね。すでにAOIさまから、細かく質問がなされておりますので、その点に関してはくりかえしませんが、例えば、

> 少なくとも民族紛争など「敵」と対峙する結果エスカレーションが生じ事態を悪化させている場合において、そこに内在する立場のものは、根本的な解決のために怒り戦うよりも、許せないものを許すことが重要である、と私は考えます。

という部分の「怒り」が、私やinoさまのいう「憎悪」や「怒り」と同じでないことは明らかでございましょう。
以前に申しましたとおり、ここには「十界互具」的な「レベル(階梯)」の違いがございます。すなわち「私は、憎悪という感情を、憎悪する」といった場合、これを単純に「自己矛盾」と考えることもできますが、現実的には「目的語の省略」による「見掛け上の矛盾」でしかないとも考えられましょう。すなわち私やinoさまが言っているのは「私は、(「民族紛争」に代表されるような「感情的」)憎悪を、憎悪する(が、それは憎悪一般 を否定するものではない。悪を憎悪する気持ち、すなわち「倫理的」憎悪が人間社会に不可欠なものであることは、言明するまでもない自明の前提であろう)」というようなことなのでございます。
つまり、杉澤さまの議論は、どうもこの「議論のレベル」が単純に混乱しているように思うのでございます。いかがでございましょうか?

> 鋭いご指摘が大いに参考になったとともに、同時に諸前提の相違からくる微妙な齟齬感を感じもしました。

私にいたしますと、 問題は、杉澤さまの議論の『諸前提』が特殊なものでありながら、それが語られていないこと(語る必要性・自己の特殊性)に充分お気づきになられていないように見える、という点でございましょう。どこに齟齬があるのか、その見極めが、まず必要でございましょう。

> 「破壊者の幻想譜」で、私と共犯関係にある方なのです。彼の全力を尽くして暴走する書き込みには影響されてしまいました。自分の得意分野を滔々と語るそのサマを「羨ましい」と思ったのです。

なるほど。貴方さまは、善かれ悪しかれ「自制」が働いてしまうタイプでございましょうからね。その気持ちは、よくわかります。しかし、人間のタイプというものは、たいがいは宿命的なものでございますから、貴方さまは貴方さまの個性を伸ばしていかれる方が良うございましょう。もちろん、その場合にも、タイプの違うライバルの存在というものは、たいへん貴重なものでございます。

>>[天狗]とは何でしたっけ?

> 直接には、楽古堂主人のクレシェンドノート「48.」で言及されている天狗です。『クレシェンド』で轡田清太郎が天狗に攫われたというエピソードがあります。

失念しておりました。

「天狗誘拐譚」というのは、「異能」の問題と密接に関連する、民俗学的なテーマでございます。私の好きな南方熊楠も、天狗に誘拐された経歴を持っていたと記憶します。また、牛若丸の例でも明らかなとおり、「天狗誘拐譚」は、衆道の問題とも関連してまいります。

最近では、その関連バージョンとして『千と千尋の神隠し』がございますが、この作品については、楽古堂さまもたいへん興味を示しておられましたしね。私も「千尋」が男の子だったら、もっと興味を持ったのでございましょうが、ロリコンの宮崎駿にそれを期待するのは、無理というものでございましょう(笑)。


 Keen さま
> 『薔薇迷宮』外伝・〜平安朝篇〜 第3回(改訂版の続き)

「亜歴世少納言」説を、うまく取り込んで下さいましたね。ありがとうございます(笑)。

> 時には、金色の蜜を小君に垂らして、お戯れにも……

> しょうがないわねえ、鬼印式部さまの「第3回」に、そのエピソードも使うようにお願いしてみるわ。でも、今度は「清水の舞台から飛翔する」覚悟で書いて頂かないとねえ……(<アーニャ)

今回も『「清水の舞台から飛翔する」覚悟で書い』た、とは言えないようでございますね(笑)。まあ、今回は、引用的に紹介された「亜歴世少納言」説の中への組み込みでございますから、「描写 」がないのは致し方ございませんが、擬古典調とはいえ「小説の命」は描写 でございますから、今後に期待したいものでございます。

> なるほど、これはこれで面白いが、もう「私の物語」ではありませぬ。この続きは、少納言にお任せすることにして、やはり私は、私の続きを書くことに致しませう。

というわけで、……何かと、期待いたしましょう(笑)。





( 以下は「隠されたリンク(4)」につづく)


隠されたリンク(2) 投稿者:園主  投稿日: 4月29日(火)00時18分07秒


 影姫青夜 さま
> 花園の皆様をいつもカンノンサマのごとく見守っておりますよ。(⌒ー⌒)

ありがとうございます。

ところで、ぜんぜん関係ないことでございますが、日本推理作家協会賞を受賞した山口雅也の『日本殺人事件』(角川文庫)の初版本の帯にも『カンノンさまが見ているぞ!』というような文句がございましたね、たしか。


 野茶坊さま
> それにしても賑やかな掲示板です。鳥のさえずる「花園」というより、子どもがあっちでぎゃーぎゃー、こっちでぴーぴーっ、ベンチでは眉間に皺寄せた爺さんが何やらぶつぶつ・・・てな感じの「遊園地」か「公園」ですね、これは・・・(園主さま、ゴメンナサイ!)。皆さまそれぞれ思い思いに過ごしておられるようです。私は時々芝生で昼寝でもしに参りましょうかねえ(笑)。

ありがとうございます。とてもうれしいイメージでございますね(笑)。謝っていただく理由など、まったくございません。

それに以前、ここ「花園」の常連であった「をとめざ」さまという方も、「花園」を「賑やかに花が咲き乱れ、鳥や虫が飛び交っている」というような場所だと比喩して下さったことがございます。
つまり、ここ「アレクセイの花園」は、上品に手入れされた「鑑賞目的」の花園ではなく、花々が自由に咲き誇るための「解放区」的な場所なのでございましょう(笑)。

> 「究極の真理を発見した」とは誰も言わない。

「究極の真理を発見した」と「言う」人は、究極の真理を発見していないように、私には思えます。そのように言えるのは「神」「仏」の類いであり、「人」が言えば、それはたぶん「ペテン師」か「愚か者」の類いでございましょう。「人」が知りうるのは、いつでも「現時点で、もっとも確からしきこと」なのではないでしょうか。

> 自分への「信伏随従」を強要する坊主の滑稽さを嗤いながら、自らもまた信伏随従を「師弟不二」と勘違いしている向きも実態として多々ありまして、これは対決し克服しなければならない師弟観です。まあ、どうぞ見守ってやってくださいまし。

これは何も「信仰者」に限ったことではありません。そうした「信仰者」を嗤う「世間の人たち」とて、「テレビや新聞」の常識を妄信し、果 ては「自己の狭い了見」にしばしば立て籠るのでございますからね。……私のとっての「信仰者の問題」は「盲信の問題」であり、それはそのまま「人間(全般 )の問題」なのでございます。





( 以下は「隠されたリンク(3)」につづく)


隠されたリンク(1) 投稿者:園主  投稿日: 4月29日(火)00時17分19秒

みなさま、ここのところ『動物化する世界の中で』(東 浩紀・笠井 潔、集英社新書)をめぐる議論が続いておりますが、本日はそれと関連する新刊のご紹介をいたしましょう。
『自由を考える 9.11以降の現代思想
(東浩紀・大澤真幸/NHKブックス)……タイトルからもお分かりのとおり、ここでは東浩紀が、笠井潔に相手にして果 たせなかった「議論」の一部が、実現的に示されております。また事実、この本に収められている3つの対談は、2002年8月10日、同年11月10日、同年12月25日に行なわれたもので、『動物化する世界の中で』後半期にほぼ重なっており、東浩紀のなかでこの「大澤真幸との対談」と「笠井潔との往復書簡」との差異が検証されたことは、疑いを入れないものと存じます。そうした意味でこの二著は、そこでそれぞれに主題化されている問題以前の、「知とは何なのか?」を問う意味で、非常に面 白いものとなっていると申せましょう。

もちろん『自由を考える 9.11以降の現代思想』は、そのタイトルのとおり、現代社会に表面 化しつつある「自由の問題の新局面」を扱ったものでございます。すなわち、利便が拡大し、その意味で自由が拡大しているかのようでありながら、その一方、息のつまるような管理社会化が進んでいるこの現代社会。そこでの「自由」とはいったい何なのかを問い直し、無効化しつつある古典的な「自由」の概念を刷新しようという、意欲的な試みがなされた、たいへん興味深い議論となっております。
みなさまには、ぜひこの二著の併読をお薦めしたいと存じます。





 AOIさま
>> 『サイード 21世紀への対話』放送のご案内

>> BSかあ。だれかビデオをとってくれないかなあー。(<ホランドくん)

> おまかせあれ!
> ってよく、失敗するんですけど…(緊張)

私からもお願いいたします。期待しております(感謝)。

>> 当時の浅田氏は『批評空間』の特集を組み立て、美術批評や建築批評の場で睨みを効かせ、薬害エイズや筒井康隆断筆宣言問題などで積極的に発言をしていた。
(東浩紀・第九信「批評が生きられる必要はない」P122より)

> と書かれている『批評空間』は先日サイードについて浅田彰氏が書いているとご紹介した下記URLでご覧になれます。是非、どうぞ。

http://www.criticalspace.org/special/archive.html

いつも、面白いサイトをご紹介下さり、ありがとうございます。なかなか覗く時間が取れませんが、いつも感謝しております。今後もいろいろとご紹介下さいまし。





( 以下は「隠されたリンク(2)」につづく)


亀は起きているのだけれど 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月28日(月)22時57分50秒

 そうだ、このかんじ。この議論のための議論に堕していくような、細部に嵌入していくような徒労感。すっかり忘れてた。懐かしいと思った。

☆AOIさま

 さっそくのお返事ありがとうございます。
 鋭いご指摘が大いに参考になったとともに、同時に諸前提の相違からくる微妙な齟齬感を感じもしました。

 膨大な時間を費やし、結構な量の文章を書いたのですが、間隙を埋めるものとは思われなかったので、個々の議論に触れず今日はここまでで投稿させていただきます。またうまい表現を思いついたら、投稿します。

 今日は、URLを微妙に変えて、「破壊者の幻想譜」姉妹サイトの「匣の中の匣」を紹介していきます。

http://www4.rocketbbs.com/141/yurufra2.html


欠落 投稿者:AOI  投稿日: 4月28日(月)05時03分30秒

☆影姫青夜さま

>心配いりません。わたしはAOI様を始めとする花園の皆様をいつもカンノンサマの
ごとく見守っておりますよ。(⌒ー⌒)

見守ってくださっているの?嬉しいですね。
どうしてカンノンサマになられたのか。その心境を是非お聞きしたいですわ。
それから、心配なんてしておりませんことよー(笑)。いろいろお聞きしたかっただけ。

☆杉澤鷹里さま

うさぎという説も、多少(笑)。

穴に落ちた(イターッ!)


思いつくままに(下) 投稿者:AOI  投稿日: 4月28日(月)02時51分41秒

(つづき)
杉澤さまが「恥」というとき、「憎悪」「怒り」が被害者の感情・意識に依拠したも
のであるのに対し、主として加害者であることを意識したものではと思います。

加害者としての意識は実際に加害者である場合であっても忘れがちです。
人間は最終的にはゆるされているものだと私も思っています。ただ、存在論的意味合いとは別 に加害者としての意識が、安易な自己免責と当然の責任の追及を曖昧にしてしまう可能性があるのではと危惧します。

> これが、私の考える「恥じ」です。(アレクセイさんの「憎悪」「怒り」とどの
程度の隔たりがあるかは分かりません。戦うことと許容することとの境界線の引く位 置がどこにあるのか、という以上の差はないようにも思います)

> 問題の根本的な解決を見ないままに許してばっかりではしょうがないんですけどね。

第一に、根本的な解決を図ろうとすることこそ必要なことですね。
そのことと内面の問題と、別の問題と考えるというのではないにしても、慎重に考えるべきではと思います。
人間は元来ゆるされてあるものだと思いますが、それは「私」がゆるすのか。加害者自身がゆるすことなのか。

>少なくとも民族紛争など「敵」と対峙する結果エスカレーションが生じ事態を悪化させている場合において、そこに内在する立場のものは、根本的な解決のために怒り戦うよりも、許せないものを許すことが重要である、と私は考えます。

実際的に大変難しいことですね。当然そのように努力してきた人々は必ずいるはずですし。たとえば、爆弾を落とされたイラクの人々に怒るな、許せなくとも許せということはあまりに一方的なもの言いですね。
ゆるすということには、「共感する」ということがどうしても必要になってきますが、先ずは、十分な事実の認識と反省とがなされなければ人間としての共感はもてないのではないでしょうか?

以上、思うままに書かせていただきましたが、まだ、十分整理できないままです。


おもいつくままに(上) 投稿者:AOI  投稿日: 4月28日(月)02時49分05秒

☆影姫青夜さま

>心配いりません。わたしはAOI様を始めとする花園の皆様をいつもカンノンサマの
ごとく見守っておりますよ。(⌒ー⌒)

☆杉澤鷹里さま

>……亀レスですいません。

楽しみに待たせていただきましたわ。
丁寧なレスをありがとうございます。私は亀型人間と自認しています(笑)。うさぎという説も、多少(笑)。

>補足)恥じについてもう少し自己分析すると、私には世界のありとあらゆるものに対して優位 に立ちたい、相手を見下したいという欲求があるようです。

と書かれているように、「恥」というものについて存在論的な意味合いで語られているのだろうというのは漠然と分りましたが、少し違うようにも・・・。
思いつくままに質問させていただきますね(笑)。

>私が「恥じ」というときそれは、「切断」と「排斥」を行わない、という意味合い
を含んで用いています。起こっている事態を自分とは関わりのないものとするという、事態の「原因と自分との切断」と、その生じている事態の原因となった存在を一切許容しないという「原因の自分たちからの排斥」とです。

自分と世界は繋がっているという認識(世界内存在?)において、世界との関係を「恥」と捉えるということになるのでしょうか?
つまり、ムーアの件について言えば、ブッシュの行為をご自身から「切断」「排斥」せずに、というよりもできるものではなく(?)その事態について「恥」ととらえるという。


>「排斥」に関して少し説明します。
 たとえば、ひきこもりの現場では「ゆるし」というのが重要なテーマとなることがあるそうです。
 ひきこもっている子供の多くが親に対して反発し親を許せないと思っている。そしてその関係は中々修復されない。子供が親を許せないのは、親が圧倒的に優位 な存在だからです。自分よりも巨大な存在を許すということはない。あくまで自分が権力を行使する立場にある限りにおいて、ヒトは相手を許したり許さなかったりという決定を行えるのだから。

もし、そうであるなら、圧倒的な優位な存在の親をどのような形であれ、壊すか乗り越える以外にないのではないでしょうか?ゆるせないものをゆるせと言っても・・・。

>「ゆるし」との関連において私は「憎悪」「怒り」ではなく「恥じ」と言います。
恥じるときヒトは、その対象を自分の下位のものとして捉えている。そのとき「ゆるし」の可能性が生じると思うのです。

ちょっと、私には分りにくいので質問させてください。
・「恥じるとき」という場合、何に対して恥じるのでしょうか?「その対象」とかか
れていますので、自分自身を恥じるということではないのでしょうね。
今回の件について具体的にいうならば、被害をこうむったイラク国民?ブッシュ(の行為)?
「その対象を下位のものとして捉えている」「ゆるしの可能性が生じる」という記述からすると、ブッシュなのではと思えますが、ブッシュの行為は自分とは「切断」「排斥」できることではなく、その行為を「恥」と考え、「ゆるす」可能性へともっていこうということになるでしょうか?
ということは、自分で自分をゆるすということになると思うのですが。
つまり、自己免責では。

・恥じるときヒトは、その対象を自分の下位のものとして捉えているということに関して。
「切断」「排斥」できることではないと考えるのであれば、自分自身を恥じるということになるのであって、つまりは、自分(その対象)を自分の下位 のものとして捉えるということなのでは?
これは、日本的マゾヒズムといえるもの?
大戦後の一億総懺悔に通じるものを感じますが。
責任ということになれば、当然のごとく権力を持つものと持たざるものとの責任の軽重というものがあるはずですね。




お尋ねいたします。 投稿者:ino  投稿日: 4月27日(日)20時46分28秒

アレクセイさま

4月24日(木)、怠惰と堕落(3)にお書きになったinoへのご意見についてお尋ねいたします。決して感情的になっているわけではなく、どのようなことをお感じになって以下の点を、ご指摘くださったのかご教示ください。

 ただ嘆くだけ=信仰に対して不誠実

ここのところを敷衍していただけると幸いです。よろしくお願いします。


アキレスに亀は追いつけるか 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月27日(日)11時53分47秒

☆アレクセイさま
>> 最近、急に抑制が利かなくなってしまった、と自分自身思います。それは、私が「破壊者の幻想譜」はじめるそのきっかけになった人物の影響が強いと思うのですが、それは余計な話ですね。
>いいえ、とても気になります。誰の、どのような影響によって、どうして、『急に抑制が利かなくなってしまった』のかは、貴方さまを知る上で、重要なポイントでございましょう。

「破壊者の幻想譜」で、私と共犯関係にある方なのです。彼の全力を尽くして暴走する書き込みには影響されてしまいました。自分の得意分野を滔々と語るそのサマを「羨ましい」と思ったのです。

>杉澤さまが引っ掛かった『清冽さ』というのは、もちろん直接具体的には『真壁岬という「登場人物」への形容』なのでございますが、問題はそのシーンに代表される『クレシェンド』という作品のラストにおける(竹本健治らしくない)「奇妙なまとまりの良さ」なのではないでしょうか。
>「霊鎮め(たましずめ)」の(ホトをさらしての)霊的舞踏が「清冽」だというのも、何か不似合いで不十分だというのが、その実感なのではございませんでしょうか?

 概ねそのとおりです。

>もちろん、誰も『ストリップ・ショーを、竹本健治に描写してもらいたい』とは思わないのでございますが

 あ。私の立場表明をするなら『ストリップ・ショーを、竹本健治に描写してもらいたい』って思ってるほうです(笑)。もうちょっとだけ言うと、ハイヌウェレに対置されるに値するようなアメノウズメの在り方の描写 ですね。

>[天狗]とは何でしたっけ?

 直接には、楽古堂主人のクレシェンドノート「48.」で言及されている天狗です。『クレシェンド』で轡田清太郎が天狗に攫われたというエピソードがあります。

☆楽古堂主人さま
>・ 杉澤さんには、「作品」「作家」「登場人物」「読者」というものを、個別 に見るという視点が、希薄のように思います
> マクルーハンに「魚には、自分が泳いでる川の流れの全体は見えない」という有名な言葉があります。

 今回は「楽古堂主人」の眼差しを強烈に感じた「岬にての物語」論に、別 の眼差しを感じさせるようなものをぶつけてみました。それで相対化される何かがあれば面 白いかと思います。基本的に私は、「作品」全体、「作家」全体、個々の「登場人物」を俯瞰し客観的にそれらを把握したうえでそれを表明する、ということはしないです。時にはいくつかの作品、幾人かの作家・登場人物を横断し、自分の考えていることを表現するのが常態です。作品を読むのではなく、その作品を素材に語るというものです。

>・ 自分が帰属する、世代の意識から離れた視点が必要です。

 これにはちょっと疑問を抱いています。帰属しているのは世代だけではないと思いますし、帰属しているとされるものから完全に独立することは不可能でしょう。魚の視点は川を俯瞰しないかもしれないけれど、鳥の触覚は水の流れの実際を感じるものではありません。 まあ、本来的な私自身の嗜好は鳥の視点にありますけれど。

>「天狗」考を、楽しみにしております

 ご期待に添いたいと思います。が、いつになるのかわかりません。

☆ホランドさま
>園主さまの挑発に乗っちゃって、後悔なさってませんか?(笑)

 ちっとも後悔してませんが、その大言に見合うような暴発ができずもどかしいです。

>でも、園主さまは若い男の子が好きですから、とっても大切にしてくれると思いますよー( ̄ー ̄)

 実際、レス読むと大切にされてるなって思います。でもホントのかわいがり方は、また違ったりして(ドキドキ)

>> Keenさまの義弟・鷹里さまの掲示板に連載中の小説に、なんだか私も出演してるらしいのよねー。どんな役どころかしらね?
> へえーっ。それはちょっと気になるなあー。でも、変にコメントするとボクまで取り込まれそうだから、ここは触らぬ 神に何とやらということで・・・

 変にコメントしてほしいなあ、と思います。破壊者作家の皆さん、てぐすね挽いて待ってます。

>>>では、Keenさまのどういうところを、そこまで慕われているのか、その説明をぜひお願いします(笑)。

 儚いところかな。(ポッと顔赤らめ、下手より逃走)

http://www4.rocketbbs.com/141/ouro.html


おはよう 投稿者:芙宮  投稿日: 4月27日(日)07時09分02秒

園主さま
 足跡…足跡…。暇な時間は家にいないから(居ても寝てるかな)殆ど来なくてごめんね。
園主さま。暇じゃない時間は忙し楽しく学問してます。暇な時間も楽しく過ごしてます。
前にお伝えした私の生活環境の変化、先月終わりました。ひとつ大人になったかな。
少なくとも経験値の意味で。ふふふ。
 「相変わらず」って言葉、園主さまに対してが一番使用頻度高いな。相変わらずお元気
そうですね。良かった。良かった。ホランドさまも元気?
 いつもは来られないけど、毎日パソコン立ち上げる度に思いを馳せています。(実際)
ぼ〜っとふと考える、最近あの子と連絡とってないなあとかいう流れにはいってますよ。
芙宮が来ていない時ももちろん毎日、溢れんばかりの人間愛を芙宮から受け取ってくれて
いるものと信じています。そうでしょう?といったところでお時間です。おやすみなさい。
ぐー。


あらら☆ 投稿者:Keen  投稿日: 4月27日(日)02時47分52秒

これはまた、シリアスな展開に……
場違いなところに、投稿してしまいました。
まあ、ミーハー・ブレイクとして、お読み下さいませ。

しっつれいしましたあ〜♪(下手より逃走☆)


『薔薇迷宮』外伝・〜平安朝篇〜 第3回(改訂版の続き) 投稿者:鬼印式部  投稿日: 4月27日(日)02時29分42秒

『……女房とは、因果なもの。お側に控えて一部始終を知りながら、「ご無体な」とも申せず、全て果 てられた後、泣きじゃくる「蘭の小君」をお宥めするより他にございませなんだ。しかしなぜか私には、お二人の営みが、前世からの約束事のように思われましたのでございます。』

 さて、これをどのように改訂しようか……と思案しておりますと、

「また、考え込んでおられるようですね。」

後ろから声をかけて来ましたのは、「亜歴世少納言」。『蒼司の枕』という稚児物語の作者として有名な、私の先輩に当たる女房でございます。

「くよくよと思い煩われるのは、貴女の悪い癖でございますよ。私なら、このように致しますのに。」

と、私の筆を取られ、さらさらとお書きになる……

              ※

 しかしこの時、お二人は交わりを結ばれはしなかった。未だ清らかな「幸の君」と幼い「蘭の小君」とでは、無理からぬ ことではあったが、必至の覚悟でおられた「蘭の小君」は、

「私を食べてしまいたいほど好きだとおっしゃったのは、嘘だったのですか?舐めたり吸ったり噛んだりなすっただけで、召し上がらなかったのは、私が美味しくはなさそうだったからなんですね?「幸の君」は、美味しくない私など、嫌いになってしまわれたのでしょう!」

と、泣きじゃくるばかり。「幸の君」は途方に暮れられ、

「式部よ、何とか小君をお宥め申せ」

と仰せになる。……如何したものかと案じておりましたところ、几帳の側に置かれた桃を見て、良いことを思いつきました。

「「蘭の小君」、そのように嘆かれますな。それ、あの桃をご覧なさいませ。よく熟れて、甘そうでございましょう?水菓子には、食べ頃というものがありまする。小君は、未だお小さくてあられますゆえ、未だ青いうちに召し上がるなど、勿体のうございますわ。「幸の君」も、そのように思し召されたのではありませぬ か?」

「そうなのですよ。私のたった一つの大切な美果なのですから、今は我慢して、美味しく熟するための手入れに努めましょうぞ。小君もお助け下さいますね?」

「幸の君」がここぞとばかりに畳みかけられると、小君はようやっと泣き止まれ、

「では、私は毎日甘いものをたくさん食べて、美味しい桃になれるよう、精進致しましょう!」

と、涙を浮かべたまま、嬉しそうに微笑まれた。

それ以来、「蘭の小君」は各地の水菓子や、蜂岡の蜂蜜などを次々と召され、「幸の君」は、夜毎、「小君の手入れ」に勤しむようになられた。時には、金色の蜜を小君に垂らして、お戯れにも……

そのように日を送られるうち、小君が今度は、「歯が痛うございます」と泣かれた。
ほんに、せんのないことで。

              ※

なるほど、これはこれで面白いが、もう「私の物語」ではありませぬ。この続きは、少納言にお任せすることにして、やはり私は、私の続きを書くことに致しませう。

(続く)


笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(5) 投稿者:園主  投稿日: 4月26日(土)23時17分15秒


斯様なわけで、東浩紀による「党派争い」の存在の指摘に対し、そんなものは「無い」、それは「東浩紀の妄想であり邪推」だとした笠井潔の言い分は、客観的に言って「大嘘」でございます。そしてそれは、決して「単なる無自覚」などではなく、政治屋の「記憶にございません」という懐かしい答弁にも類比的な「確信犯的な虚偽申告」による「否認」だと申せましょう。
これが、私をして、笠井潔を「批評家ではなく、政治的・党派理論家だ」と断じさせる所以なのでございます。


ちなみに、東浩紀が『僕のまわりには漂っている』とする『党派争いがあるという「誤解」を招くような雰囲気』が、いったいどのあたりから発生しているのか、それは私にも「具体的な人物」として思い当たるフシがございます。
その彼は、ミステリ業界にありながら、笠井潔とその取り巻きの胡散臭さを嫌い「本格ミステリ作家クラブ」への入会の誘いを拒絶して、笠井潔周辺では始終「陰口」を叩かれている人物……ではないかと、私は推察いたします。
そして、その彼は、名前こそ挙げてはいないものの、この掲示板への私の書き込みにも、何度かご登場願っている人物なのでございます(笑)。


ともあれ、笠井潔さま、私の見解が事実無根だというのであれば、陰でグズグズ言わず、公然と反論してご覧なさいまし。それとも、またこれまで同様に(怒り心頭に発しながら、も)利口に「だんまり」を決め込むつもりでございますか?(笑)


http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(4) 投稿者:園主  投稿日: 4月26日(土)23時16分00秒


ともあれ、笠井潔のこのように「不誠実な回答」に対し、東浩紀は、次のように返信しております。

『前回も記したように、僕は本当に推理業界のことはよく知りません。笠井さんが党派争いなどないと断言されるのなら、おそらくそのとおりなのでしょう。しかし、党派争いがあるという「誤解」を招くような雰囲気が僕のまわりには漂っていること、これは事実だと申し上げておきます。そして僕は、単純に、そのような「誤解」に巻き込まれたくなかっただけです。』
                     (※ 東浩紀「傷」P170 より)

『党派争いがあるという「誤解」を招くような雰囲気が僕のまわりには漂っていること、これは事実だ』というのは、いかにも慎重でもあれば、なかなか意味深長な言葉でもございましょう。
つまり、「笠井潔にしてみれば」党派争いは「無い」のかも知れない。しかし、全共闘出身のオルガナイザーである笠井潔が「党派争い」だとは思わない程度の行為(たとえば「商売上の権益確保活動」)でも、それを「党派争い」だと感じている人は現にいるであろう、ということなのでございます。
例えばそれは、満員電車のなかで「やむなく」他人の足を踏んだとても、踏まれた方は「やむを得ない」とは思わない。あるいは、革命のために「やむなく」一般 人に犠牲を強いたとしても、殺された方は「やむを得ない」とは思わない、というようなことでございますね。

ことに笠井潔のような「押しつけがましい・無神経な性格」では、一番弟子の法月綸太郎までが証言しておりますとおり、このようなことは、他にいくらでもありえることなのでございます。

『そんなわけで、ぼくはここ一年間ずっと、**さんの命令に従って、一所懸命ご奉公してきた次第です。自分の仕事を犠牲にしてね。**さんは、こっちの都合とか考えないで、勝手に頭越しに話を決めちゃう人ですから――法月君、今度『G思想』で〔メタ・ミステリー〕特集というのをやることになったから、きみは、百枚の評論を書きたまえ。もう編集長に話は通 してある。ぼくは対談をやるから。法月君、今度『Y時代』で〔本格ミステリーの現在〕という連載評論の企画をやることに決めたから、第一回はきみが書きたまえ。ぼくは他誌の要約を載せるから。法月君、今度はA新聞が出す『T』という雑誌で〔新本格〕特集をやることになったから、きみは短篇を書きたまえ。いや、もうそういうことに決まったんだ。ぼくはS田荘司と対談をするから――いつもこんな調子でね。もちろん目をかけてもらって、引き立ててくれるのはありがたいと思ってますし、**さんの推理文壇に対する提言のひとつひとつに賛同している人間ですから、ぼくも日本のミステリー文化向上のために、できる限りの努力はしようと思っていますよ。現にそうしてきたつもりです。
 だけど、いくら何でもあんまりなんじゃありませんか。だってぼくはここんところ、**さんに命じられた仕事をこなすのが精一杯で、予定の原稿なんか全然書けずにいるんです。そこのところを、もうちょっと考えてほしいなってオモいますよ。ぼくは**さんとちがって、注文に応じていくらでも原稿が書けるような、そんな達者な作家じゃありません。自分ができるからって、ほかの人間もできるとは限らない。**さんは、強制はしていないって言いますけどね、むげにいやだと言ったらカドが立つでしょう?』
(法月綸太郎「禁じられた遊び」より・『小説トリッパー』(一九九五 冬季号))

ともあれ、私が時々こちらでご紹介する各種の「事実」にも明らかなとおり、「客観的」「世間一般 の常識的」に申しますならば、笠井潔は「党派争い」を中心になって進めている人物なのでございます。

もし、異論があると言うのなら、私は笠井潔ご本人でも、その取り巻きの誰とでも「公場対決」をお約束いたしましょう(ただし、匿名で掲示板荒らしをするのは、止していただきたい/笑)。





( 以下は「笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(5)」につづく)


笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(3) 投稿者:園主  投稿日: 4月26日(土)23時14分33秒


笠井潔の「陰険」さは、 次の部分に明らかでございましょう。

『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。』

笠井潔は「党派争い」の現実を『東君の無根拠な思い込みにすぎません。』と断じておりますが、如上のごとく、「党派争い」の存在の「具体的な根拠」は、いくらでも明らさまに存在しており、東が『無根拠な思い込み』でものを言う必要など、さらさらないのでございます(さながら、笠井潔の否認は「アメリカのプロパガンダ(政治的宣伝)」に、私の指摘は「チョムスキーの事実指摘型批判」に類比的でございましょう)。

しかし、「党派争い」という「痛いところ」を突かれた笠井は、それを全面 否認して、その出所を「東の妄想」に求めようといたします。
つまり、笠井潔は、東が正直に語った『かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験』という言葉を、卑劣にも逆手に取り、『傷』という否定的な言葉に置き換えて(レトリックを駆使して)、「経験にもとづく現実的な判断」を「精神的外傷(トラウマ)に由来する妄想」だということにしようとしたのですね。……つまり、笠井潔にとっては「つらい経験」は「妄想」を呼び込むものでしかない、ということなのでございますが、それを言うのであれば、日頃みずからも自慢話的に認めているとおり、「オタクの東」よりは、「転向左翼の笠井」の方が、よほど多くの「つらい経験=トラウマ」を抱えており、「妄想」の種にはこと欠かない人物だと言えるのでございます。

また、かつて東の所属した「現代思想の小世界」を『タコツボ』と見下し、現在みずからが所属する「本格ミステリの小世界」を『現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。』と言うその根拠が『簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。』というのは、世に言う「目くそ、鼻くそを笑う」そのままであり、いかにも「文筆業という小世界=タコツボ」に生きる人間らしい「視野狭窄」だと申せましょう。いったい笠井潔が、その知名度に比して、どれだけ「稼いでいる」というのでございましょうか?

笠井本人は、現在、日本のエンターティンメント文学界の主流である「本格ミステリ」に属しており、しかも斯界の理論的リーダーだというのが自慢なのかも知れませんが、京極夏彦や森博嗣、有栖川有栖、西尾維新といったごく限られた「売れっ子作家」を除けば、本格ミステリ作家の年収などさほどのものでないというのは、文筆業界の現実を多少とも知る者にとっては「常識」の範疇に入る事実でございます。
そうした自らの現実を棚上げにして、銭儲けにならない「現代思想(=批評)の小世界」を嗤うというのは、なんとも「党派的」に「厚顔無恥」なことではございませんでしょうか?

さらに申しますと、笠井潔はかつて、島田荘司との対談の中で、「ミステリ」から「SF・伝奇アクション」の方へと「転向」した理由は、彼の「ミステリ」作品に何の反響もなかったからだと申しております。『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』といった「初期の名作」は、さほど売れなかったのでございますね。つまり、当時の笠井潔は『市場のヤスリにかけられて』いない「アマチャア作家」であり、その当時の『傷』が、今の「メジャー指向の文壇政治屋」としての彼をつくった、とも言えるのでございます。
……ま、ともあれ、「エロマンガ」「エロ同人誌」の足下にも及ばない「通 俗作家」が、身の程知らずに「偉そうなことを言うな、このバカタレ」というのが、私の意見なのでございます。





( 以下は「笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(4)」につづく)


笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(2) 投稿者:園主  投稿日: 4月26日(土)23時13分00秒


笠井潔は、東浩紀のこの批判に対し、

『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。しかし、それは現代思想タコツボの不健全性が、他の小世界にも同じように瀰漫しているに違いないという、東君の無根拠な思い込みにすぎません。本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。この相違には、業界の構成者の品性や性格の問題というよりも、もう少し構造的なものがある。簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。市場のヤスリにかけられているかどうかは、決定的な相違ですから。プロとして顧客に商品を売って生活をしている以上、ほとんどが大学教授のアマチュア・ライターで占められている特殊な世界のように、「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』
     (※ 笠井潔・第一二信「言論的「禁治産者」の独り言」P163 より)

親子ほども歳の違う東浩紀に、痛いところを突かれ、「激怒」した笠井の表情が浮かぶようでございますね(かつて、私や新保博久や野崎六助に「激怒」したように/笑)。この文章には、押さえても押さえ切れない、怒りの感情が、笠井潔の本性とともに、ハッキリと刻印されております。

まず笠井潔はここで「本格ミステリ界には『党派争い』などない」と明言しておりますが、これはいかにも「思想犯(=確信犯)」らしい「臆面 のない否認」に過ぎないことは、明らかでございます。

なぜなら、もともと日本のミステリ文壇には、「日本推理作家協会」という業界包括的・中心的な団体がございました。そこへ笠井潔は、有栖川有栖を看板に立てて「本格ミステリ作家クラブ」という別 団体を創ったのでございます。それで、ここに「党派争い」が(陰微なかたちでも)まったく生じていないと、笠井は本気でそう言うのでしょうか? また従来からあった(権威としての)「日本推理作家協会賞」や、(売り上げに直結する)年間ベスト投票誌『このミステリーがすごい!』に対抗するような形での、自前の「本格ミステリ大賞」の設立や、『本格ミステリ・ベスト10』の刊行が、「党派争い=勢力争い」に無関係だと、そう言うのでございましょうか?  それとも、笠井の言う『本格ミステリの小世界』というのは、もともと「本格ミステリ作家クラブ」という一組織(の内部だけ)を指すのでございましょうか?





( 以下は「笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(3)」につづく)


笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(1) 投稿者:園主  投稿日: 4月26日(土)23時11分40秒

みなさま、『動物化する世界の中で』(東 浩紀・笠井 潔、集英社新書)を読み終えました。前回『今までのところ「意見の相違の明確な提示」はなされていても『企画の継続が危ぶまれるほど』の内容は何もございません。「意見の相違」があるのは自明の前提で、それがなければ話し合う意味もございませんからね。』と書きましたとおりで、たしかにその後、当事者同士が「こうなっては往復書簡の中断もやむを得ないかも知れない」みたいなことを書いているのは事実でございますが、私個人としては「これくらいのことで、いちいち泣き言を言うな」というのが、最後まで読み終えた段階での、私の正直な感想でございました。(以下、敬称略)

とは言え、今どき『これくらいのこと』でも「稀有」だというのは、否定できない事実であり、その点では東浩紀は「期待以上に頑張ってくれた」ということは申せましょう。その意味では、みなさんには本書を、十二分に楽しんでいただける「スリリングな往復書簡」になっていると、お薦めしたいと存じます。


                ○


今回の往復書簡で、私がもっとも注目したのは、東浩紀が、

『かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験をもつ僕としては、とにかく、この往復書簡が、団塊と団塊ジュニアが野合していまさら新人類批判を行なっている、と捉えられるのがもっとも不愉快でした。その理由は、第五信でも書いたとおり、そもそも僕は、個人的な記憶をもたない六〇年代や七〇年代より、八〇年代のほうにはるかに強い親近感を抱いているし、また、抱かざるをえないからです。一九七一年に生まれた僕としては、全共闘世代から「一緒に八〇年代(※ ポスト・モダンの時代)を批判しよう」と言われても、「それはそちらで勝手にやって下さい」としか答えようがない。』
           (東浩紀・第一一信「だれのために……」P141 より)

と明確に「笠井潔の政治性」を批判し「オルグ(※ 政治的・組織化=勧誘)」を拒絶している点でございます。

以前、私も指摘しましたとおり、笠井潔は、ミステリ界内外の有力者を取り込んで、自派の勢力を拡大強化することに余念がございません。

具体的に申しますと、ミステリ界では、まず本格ミステリ復興の功労者である島田荘司と共闘して、本格ミステリ擁護のイデオローグとなり、次に若手評論家による「探偵小説研究会」を組織して自らそのリーダーとなる一方、本格ミステリ作家のニューリーダーである有栖川有栖・北村薫の両名を押さえ、独自の位 置にあった当代の人気作家 京極夏彦・森博嗣らまで取り込むべく積極的なアプローチをした後に「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げて業界の一大勢力と為し、最近では舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉などの十代読者にも支持されている新感覚派の若手にも「理解という名の触手」を伸ばそうとしております。

また、ミステリ界外では、SF界の古参作家 山田正紀をミステリ界で後押し、中山元・山路龍天などの(人文系)大学教授や、三浦雅士などの有力編集者(文芸評論家)という「権威筋」との関係を開拓する一方、大塚英志・東浩紀など新世代に人気のある若手評論家との接触を重ねるなど、その目配りの良さは、さすがに、かつて体制の転覆をねらった「新左翼のオルガナイザー(組織人)」だっただけのことはございましょう。

しかし、こうした動きは「ミステリ界における笠井潔の動き」というものを多少でも知っておれば、すぐに気づく程度に「明らさまな」ものであり、ミステリ関係者にも知り合いのいる東浩紀が、笠井潔のこうした動きを「知らないはずはない」のでございます。





( 以下は「笠井潔の「確信犯的・欺瞞」を告発する(2)」につづく)



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