●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2003年4月中旬(1)
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早起きしすぎ。 投稿者:AOI  投稿日: 4月15日(火)06時05分40秒

☆賢ちゃん
>>「愛する者が殺されそうになっていたら、相手を殺してでも止める」(<園主さ
ま)

>相手を殺してから…さて、あなたはどういう対処をするつもりなんですか?
正当防衛と過剰防衛の違いを認識してください。
私は、仮に愛するものが殺されそうになっても、相手を殺そうとは考えません。
喩えそれが「女神様」だったとしてでもです。
何故なら、殺した後のことを考えると、その重圧に耐えられないと思うからです。
正当防衛であろうと、殺人は殺人。
そんな十字架を背負うほど、私は強い人間ではありませんから。
勿論、傍観するわけではないですよ。
殺人以外の手段で、守ろうと考えるわけです。

賢ちゃんお久しぶりです!
この質問はもともと今はなくなってしまった賢ちゃんのフリー掲示板で私が振ったも
のなので横レスですが、失礼します(笑)。
殺人以外の方法があるのなら愚問でしょう?
愛するものと殺戮者とぎりぎりの選択をいったのですよ。
戦争になったら、人を殺すのは絶対嫌だから「逃げる」「自殺する」といった賢ちゃ
んに戦争になって愛するものが殺されそうになっていたら、と問いかけたのですよ
ね。
「相手を殺してでも止める」
「殺してでも止める」
殺す以外に愛するものを守る方法がなかったら、たとえ、殺人者となって、十字架を
背負っても、相手を殺してでも止める。咄嗟にそうするでしょう。
そうありたい。そう思っています。私も。
愛するものを守れなかったと悔いて生きるよりも。


ところで、ひとつ質問してもいいですか?
愛するものが殺されそうになっていても殺人を決してしないといわれていますが、そ
れなら、なぜ、イラクが大量破壊兵器を隠している可能性があるからといって、アメ
リカのイラク攻撃を是認できるのですか?

☆野茶坊さま

はじめまして。
「野茶坊」、「しばてん」(by 田島征三)をおもい起こしました。
「しばてん」は悲劇ですけれど。(謀反の首謀者にされる)
よろしくお願いします。


inoさまにヒント! 投稿者:野茶坊  投稿日: 4月15日(火)03時02分50秒

inoさま

「野茶坊」というのは、私の郷里の山中に住んでいたという伝説の野生児です。ふだんは山中深く身を潜めていますが、時に里へ下りてきて食い物を盗んだり・・の悪さをします。しかし、どこか憎めない。分限者から盗んだ食い物を貧しい家の軒下にそっと置いたり、情け容赦なく砂糖を取り立てる役人をとっちめたりもする・・・。いまだに語り継がれています。


Re.「過去・現在・未来(7)その2 投稿者:ino  投稿日: 4月15日(火)00時43分44秒

先日の続きです。

 先に書きました大聖人在世当時の「師弟の信心」は、大聖人と四条金吾、南条時光などに見られると思います。そのような信仰のあり方、「広宣流布」という大聖人の御遺命をなし遂げようとする意志、一切衆生の幸福の実現への意志は、代々会長とその強い広布の一念の下に庶民信仰者が集うという心をもとにした、「師弟の信心」に見られると思います。
 初代、二代、三代会長を、会員が「先生」と呼ぶのは、初代を二代が「先生」と呼び、二代を三代が「先生」と呼んだ(かなり厳しい薫陶をうけたとのこと)ことと三代にわたる会長を、会員が呼ぶこととは深い関係があると思います。戸田二代会長を三代会長が厳格に「先生」と呼び、共戦した場面 を見た会員は戸田第二会長を「先生」と呼んだことは想像に難くありません。
 三代会長もについても広布の指揮を取った場所で共戦した会員が、戸田二代会長の死後、三代会長を先生と呼び慕ったことは自然なことだったと思います。
 牧口常三郎初代会長が、価値論、創価教育学体系などをもとに、日蓮仏法を生活と結び「大善生活実験証明座談会」を中心に広めていきました。国家神道に最後まで異を唱え、治安維持法違反で逮捕、投獄、そして獄死しました。
 牧口常三郎とともに入獄した戸田城聖は、師と仰いだ牧口常三郎の仇をうつ為にも、権力の魔性への戦いを挑むためにも民衆宗教の興隆を目指し、闊達な庶民の心情に即した「法華経講義」をもとに「広宣流布」の布陣を敷きました。
 ある座談会で、戸田と運命的な出会いをした池田は、「戦争に反対して、牢獄に入った人は信頼できる」と、戸田の前で入会決意。その後の学会の経済的基盤であった戸田の事業の苦境を支え、戸田を師と仰ぎ、戸田の構想の実現のために、戸田の生前死後を問わず、奔走しました。
 この三代にわたる「広宣流布のために」というという一点から、師より学び、行動するという、(信・行・学の)創価学会員の信仰の姿勢は生まれていると思います。


遠賢は不滅だ。 投稿者:ino  投稿日: 4月14日(月)23時16分31秒

AOIさま

遠賢さんの情報ありがとうございました。
「夢よ叫べ」ぜひ聴きたいものです。
近々レンタルショップに行ってみます。
多謝!!


反論。 投稿者:賢ちゃん  投稿日: 4月14日(月)20時34分56秒

>君の『有耶無耶』は、「義務の有無」の問題ではなく、「可能か否か」の問題なんだよ。

それこそ、あなたの決め付けでしょう?
あなたの文章には、私に対する偏見があります。
「君は〜な人間だ」っていうね。

>「愚問」だな。私は前からハッキリと書いているはずだ。「愛する者が殺されそうになっていたら、相手を殺してでも止める」と。
>私は、君のような「スーパーマン」ではないから、「絶対」人殺しはしない、なんて言えないよ。拷問されれば兵隊にも行くかも知れないし、家族を人質に取られたら、まず折れるだろうな。兵隊に行ったら「殺しません」では済まないだろう。だから、仕方なしに人殺しをするかも知れない。……だから、そうならないように、いまのうちに「戦争反対」を叫び、言論の力でなんとかしようと考えるんだ。

今回、喩えを間違えた「あだ討ち」にしても、「正当防衛」にしても、
あなたが、相手を殺すことには、何ら変わりはないわけです。
あとは、この前に書いた反論と同じです。

ここで、あなたに質問します。

>「愛する者が殺されそうになっていたら、相手を殺してでも止める」

相手を殺してから…さて、あなたはどういう対処をするつもりなんですか?
正当防衛と過剰防衛の違いを認識してください。
私は、仮に愛するものが殺されそうになっても、相手を殺そうとは考えません。
喩えそれが「女神様」だったとしてでもです。
何故なら、殺した後のことを考えると、その重圧に耐えられないと思うからです。
正当防衛であろうと、殺人は殺人。
そんな十字架を背負うほど、私は強い人間ではありませんから。
勿論、傍観するわけではないですよ。
殺人以外の手段で、守ろうと考えるわけです。

>例えば、私は中井英夫を心底「問題の多い」「困った爺さん」だと思っているけど、それでも中井英夫が「好き」だ。同様、君はどうしょうもなく「勇気に欠ける(情けない)」男だけど、決して「悪いやつではない」し「可愛げのある」男だと思っている。それに私が「父性愛」の強い人間だというのは、君も知っているだろう。私は「頼りない奴」が嫌いではない。だが、今の君みたいに「力も無い癖に威張るやつ」が嫌いなんだ。

あなたの言う「力」って何なんですか?
私を「力が無い癖に威張るやつ」と書かれていますけれど、
私が、いつ威張ったというのですか?
私は、自分の考えを述べたに過ぎず、それを「威張って」と受け取るほうが可笑しいのでは?



>「かまわない」と言いながら、他所で「泣き言」を書くのが、君の「これまでのパターン」じゃないか。

今回のことで、他で「泣き言」を書きましたか?
書いているというのなら、具体的に指摘してくださいな。

>「反省」することが、『自尊心』を損ねるとは、何とも薄っぺらな『自尊心』じゃないか。そんなことだから『「法月綸太郎の笠井潔」「芦辺拓の二階堂黎人」』なんて喩えが出てくるんだよ。

あなたは、何かというと「反省」だとか「無自覚」だとか仰いますけどね。
自分が悪いと思わなければ、反省のしようもないわけですよ。

>なぜあんなことをやったのか、その理由をしっかり説明して「反省」してもらいたいな。

答えは単純です。
あなたが、私のサイトを見ていると勘違いしたからです。
だから、自分のサイトの日記に反論を書いたのです。

あの文章は、あの閉鎖から、これまでに私が考えていたことです。
それを妄言と云われるなら、私には何も云うことはありません。

それだけです。


THE END!


戦争は終った?(下) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)18時31分27秒


 あらためて現実を直視してみれば、アフガニスタンとイラクで証明されたのは、少なくとも武力においてはアメリカは圧倒的に強いという事実です。
 戦争には大義の貫徹と人命や資産の消費という矛盾する二つの側面があります。大量 殺戮に近い一方的な戦闘経過を見れば、イラク側が抵抗を放棄したのは、あるいは賢明だったのかもしれません。
 武力においてはアメリカは強かった。アメリカ政府は今回も武力のみに依存した。世界の人々の声を無視し、国際法を無視し、国連を無視して、ひたすら武力に頼った。勝ってしまえばすべては正当化される。

 言い換えれば、負けたのはイラクではない。
 世界の人々と国際法と国連が、アメリカの武力に敗北した。
 言葉と武器の戦いにおいて、今回は言葉が負けた。

 なんとかこの戦争を始めさせないようにと努力してきたぼくたちは徒労感に襲われがちです。あんなにがんばったのに、戦争ではない方法でイラクの問題を解決しようとしたのに、戦車の前進を止められなかった。子供たちを含むたくさんの死者を出した。落胆するのは当然とも言えます。

 しかし、ぼくはここに書いたほど広い意味で「ぼくたち」という言葉を使ったことがありません。今、この世界でイラクからの報道に接することができる世界の人々の大半、国連に加盟する各国政府の多く、ジャーナリストと知識人たちの大半が、この「ぼくたち」に含まれます。武器ではなく言葉に頼る人々が武力ではない解決法を提案し、支持してきたのです。一千万人のデモを実現してきたのです。武力がことを決める世界にはしたくないと表明してきたのです。

 これからは勝ちに乗じた嘘の言葉が彼らの武器になるでしょう。これに向けた言葉を「ぼくたち」は用意しなければなりません。銃ではなく論理がことを決める世界のために、もう一度最初から、言葉の準備をはじめなければならない。

 戦争は終わった?

 実は何も終わっていない。武力と言葉の戦いは終わっていません。
 イラク国内は混乱し、秩序が乱れ、食料と水と安全の確保がむずかしくなるでしょう。サダム・フセインに背を向けて国外に出たイラク人の中に、今後のイラクを指導できる人材がいるとは思えません。パーレビが去ってホメイニが戻ったイラン革命のような展開はとても期待できない。今のアフガニスタンのような軍閥の抗争ということにもなりかねない。外からの武力が社会秩序の軸を引き抜いてしまったのですから、あとは混乱が残るばかり。

 メディアを通して流された戦闘終結のニュースにはまだまだ疑いの余地があります。
 終わったといえば、世界の関心は他に向かう。アフガニスタンで起こったことです。だから終わったことにしておいて、メディアがいないところでしたい放題をする。今の段階での幕引きにはどうもそういう意図が見えます。

 ここで目を放してはいけない。この先イラクで起きることをしっかりと見続けること、まだわれわれはイラクに強い関心を持っていると表明し続けることが、大事です。



              (池澤夏樹 2003−04−13)


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          転送は自由です。


『イラクの小さな橋を渡って』(光文社刊)
  文・池澤夏樹、写真・本橋成一
 

―――食べる物は充分にあったし、質も申し分ない。


 [無料ダウンロード]

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  池澤夏樹公式サイト「カフェ・インパラ」


                 発行:有限会社インパラ



=============(引用終り)===============


http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


戦争は終った?(中) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)18時30分34秒


 話を最初に戻せば、今回の戦争のはじまりはイラクと9・11のテロリストの結びつきでした。しかしこれはどうやっても証明できなかった。イラクとアルカイダは無関係でした。
 次に大量破壊兵器をイラクが持っているのではないかという疑惑が正面に出てきた。イラクがそれを他の国に向けて使うという事態が一方的に想定され、被害を防ぐためと称して先制攻撃が企画された。

 疑惑は査察で解決できます。少なくとも国連に加盟する大半の国は査察の実効性を認めていた。
 イラクは査察に協力し、制限を超える能力を持ったミサイルの廃棄にも応じた。にも関わらずアメリカとイギリスは順調に進んでいた査察を中断させて、武力行使を開始した。
 ミサイルについて言えば、「銃を捨てろ」と言って、すなおに銃を捨てた相手を撃った、ということになります。

 大量破壊兵器は今もって見つかっていません。というよりも、イラクが大量 破壊兵器を持っていたか否かはもう問題ではなくなった。なぜならば、今後アメリカ側がイラクの国内で何を見つけたと言っても、アメリカ軍とイギリス軍が大量 の軍需物資と共にイラク国内に侵攻した後では、その報告には何の信憑性もないから。彼ら自身が持ち込んだ疑惑がどこまでもついてまわるから。中立を保つ国連の査察団だからこそ、調査報告に意味があったのです。

 査察の結果を待っていると、暑い季節になって戦争ができなくなる。そこで、次の理由として、サダム・フセインの圧政からイラク国民を解放するという欺瞞が登場しました。
 それに、査察が順調に進めば、戦争の必要がなくなってしまう。ともかく、何がなんでも戦争がしたい。理由などどうでもいいし、勝ってしまえば反対の声など消えるだろう。これがブッシュ政権の本音だったようです。

 勝ち組の嘘は通りやすい。

 ミサイルで市場を撃って民間人をたくさん殺した後で、そのミサイルはイラク側が撃ったものだと言い抜けようとする。ミサイルの破片にアメリカ製を示すコードがついていてもまだ認めない。アメリカの戦闘機がこれを発射したという記録もあるのですが。
 あるいは、ジャーナリストが使っているホテルを戦車砲で攻撃して死者を出した。撃たれたから撃ったとアメリカ側は弁明したけれど、現場にいたジャーナリストたちはそんな事実はないと言っています。これは意図的な報道妨害です。アメリカは見られては困ることをあのカメラの前でしようとしていた。だからジャーナリストを殺した。
 残念ながらアルジャジーラはバグダッド支局から記者を引き上げました。戦車砲に立ち向かえるジャーナリストはいません。しかし、アラブ全域に深い恨みは残るでしょう。





( 以下は「戦争は終った?(下)」につづく)


戦争は終った?(上) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)18時29分24秒

みなさま、絵に描いたような「非対称」戦争たる「イラク戦争」が、アメリカ軍の圧倒的戦力の前に、いちおうの終結を迎えました。しかし、「イラクの惨劇」はこれからも続きます。それはアメリカの「イラク攻撃」を支援した、この日本の歩みも、今のままで止まるわけではない、というのと同じことでございます。
統一地方選挙の結果は、無所属候補の健闘が見られ、情勢分析としては「さらなる政治離れが進んだ」とのことでございます。ですが、国民が政治に関わらなければ、喜ぶのは為政者でございます。「政治離れ」は、決して「批判」としては機能せず、為政者たちが反省することは絶えてございません。「政治離れ」とは、まさしく「逃げ」以外の何ものでもなく、それで「批判の意志を示したつもり」になるための、つまり「自己慰撫」のための、文字どおり「逃避」なのだと存じます。
「では、何がやれるというのか?」と問われれば、私は「子供か、おまえは? 自分で探せよ、その気があるのなら」と答えましょう。

本日はひさしぶり、池澤夏樹さまのメールマガジン[Cafe Impala News]「新世紀へようこそ」の最新号をご紹介したいと存じます。

 

=============(以下引用)===============


 ━━━━━━━ [Cafe Impala News] ━━━━━━━

 
「新世紀へようこそ」 099  

 

 戦争は終わった?

 

 サダム・フセインの政権は組織的な戦闘を停止しました(というよりは消えてしまったらしい)。テレビと新聞を見ているかぎり、戦争はアメリカとイギリスの勝利に終わったように見えます。
 
 ジャンケンから核戦争まで、すべての戦い、すべての勝負に共通する原理があります──すなわち「勝つことは快感である」。勝つことが快感だから、勝った側はファンを増やすことができる。勝利の快感のおすそわけに預かろうという人々が日和見の立場から一歩前に出て、勝ちチームに拍手を送る。そのため、戦いは結果 論になりがちです。
 勝てば官軍。侵攻した異国の軍隊でさえ、官軍になってしまう。

 実際には、今イラクで起こっているのは一つの安定した社会組織の崩壊という現象です。
 国というものに求められる最も基本的な機能は、国民が暮らすための基盤を用意すること。水と食糧と安全が行き渡り、人々が安楽にその日その日を送れるためのシステムを作って維持する。それが政府と官僚たちの最も大事な任務です。

 ぼくが見たかぎり、去年の11月にはイラクの社会は安定していました。普通 の人々は普通に暮らしていました。サダム・フセインの政権には問題があっただろうけれど、しかし全体としてイラクは暮らしやすい国に見えた。地方都市の小さなレストランでうまい料理が食べられた。大人は客を歓迎し、子供たちは笑いながら街路を走り回っていた。

 戦闘は終わり、アメリカとイギリスは勝ち組になりました。
 これからは、消滅したサダム・フセイン政権に対する不満の声がイラク国内からも報じられるでしょう。負けた者は批判しやすいし、尻馬に乗る者も出る。それが勝ち組効果 というものです。

 イラクの社会にはさまざまな問題があったかもしれない。政治に不満を抱く人がいたかもしれない。だが、それはまずもってその国の問題です。主権国家の政治的課題を解決するのはその国の国民の責務です。他の国がそれを目的に武力を用いるというのは欺瞞でしかないし、常識的にはこの種の行為は侵略と呼ばれます。





( 以下は「戦争は終った?(中)」につづく)


♪夢よ叫べ 投稿者:AOI  投稿日: 4月14日(月)09時28分12秒

☆inoさま

「夢よ叫べ」(by 遠藤賢司)は失意のうちにある友への静かな応援歌です。
友人を励まし、自分をも奮い立たせる歌です。
先ずは、お試しに、レンタルショップで借りて聴いてみてくださいませ。
園主さまが「夢よ叫べ」を気に入られたのは、おそらく

>その「怒り」と「憎悪」を腹の底に秘めて、終わることのない「世界への抵抗戦」のエネルギー源にしなければならない。

と言われていることと無縁ではないのではと。

 まるでこの世の何もかも いやになっちまったのかい
 そんな目をして又ひとつ 溜息ばかり
 どうしたんだよあの夢は 欠片(かけら)も瞬かぬ
 そんな〜夜に負けるな友よ 夢よ叫べ  (詞:遠藤賢司)

そういえば、「現代詩手帖4月号」は友部正人特集ですね♪


議論する心(12) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時23分01秒


 ホランド
仕事が一段落した。本当は今月いっぱい忙しいはずだったんだが、関わっていたプロジェクトが一夜にして潰された。鶴の一声だ。残念と言えば残念だが、私はもともと仕事が好きな方ではないから、閑になる(旧に服する)のはイヤではない。それに私には何の実害もないことだしな。ただ、チーフがずいぶん荒れていた。あの人は一生懸命だったから当然だろう。プロジェクトが潰れたことそのものよりも、チーフの落胆ぶりの方が、私にはつらかった。だが、会社というものはこういうものなんだろうな。いや、大は「国家」から小は「会社」まで、……組織とは、だいたいこういうものなんだろう。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


議論する心(11) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時22分17秒


 賢ちゃん
> しかし結果は…話にならない…ですか…
> はっきり云って、それじゃ再反論をする気にもなりません。

話になるような意見だったら、そもそも批判してないよ。君が「どっちにしろ」再反論したくない、というのは初めからわかっていることじゃないか。それに今回に限らず、君が戦うだけ戦って「けじめをつけた」ことが、かつて一度でもあったか? 君はいつだって「有耶無耶」のうちにトンズラかましてきたじゃないか。

今回のサイトだってそうだ。『Soccer DE Nacchi!』っていうのは、明らかに「サッカー」と「なっち」のサイトだが、ここからはきれいに「批評」という要素が拭いさられている。
君はいぜん、私の「サッカーファン批判」に「いつか必ず反論を書く」とか言ったが、この調子ではもうその気も無いんじゃないか? あれを書くとかこれを書くとか『絶対』だなんて言ってみても、それは「勢い」で言っているだけで、時間の経過とともにいつも「有耶無耶」だし、それを詫びることもしない。「つもり」はあると言っても、一度も実現させたことが無いんでは、信じろと言う方が図々しいとは思わないか?

それは今回も同じだ。「有耶無耶にする気は無い」「反論は書く」を約束しても、その舌の根も乾かぬ うちにもう『再反論をする気にもなりません』とくる。そういうことは、まともな反論を書き、約束を守る人間の言うことだろう。少しは恥を知ってもらいたいものだ。

> 自分の書いたものを「妄言」とまで云われてしまうとはね…

べつに君だけが「例外」ではないよ。『「妄言」とまで云われてしまう』人にとっては、それはいつでも『自分』の問題なんだから。
君だって人の作品を『ゴミ』だとか『愚作』だとか『ゼロに何を掛けてもゼロだ』なんて言ったことがあるはずだ。君にそう言われた人たちだって、今の君のように「自分の書いたものを「ゴミ」とまで云われてしまうとはね…」なんて思ったことだろう。おまえには言われたくないって。

> まず(3)に付いては、こちらの落度であったことは認めます。すみません。

素直に「謝る」のは大いに結構。しかし「反省」する気があるんなら、なぜあんなことをやったのか、その理由をしっかり説明して「反省」してもらいたいな。君がああいうことをやるのは「いつものパターン」なんだから、形ばかりの「謝罪」だけでは、必ず同じ「過ち」を繰り返すだろうし、「謝罪」が「無反省」の隠蔽工作にもなりかねないからな。食中毒を出した「雪印乳業」の幹部みたいな「形ばかりの謝罪」では意味がない。

> (1)と(2)に付いては残念ながら、認めることが出来ません。

どうして認められないんだ? どうして「認められない」理由が示せない? こんな返事で済まそうとする態度を「有耶無耶」と言うんじゃなかったかな?

意地でも理屈抜きでも「有耶無耶」にしてでも「自分の過ち」を認めたくないくせに、『残念ながら』認められません、なんていうのは、君の「不誠実」の証だろう。私は本気で「残念」に思うよ。

> 3月26日付けの批判って、どっちに書いたものですか?
>『BRIGHTON ROCK』には、なかったから『花園』の方ですよね?

> では、確認してから再度反論します。

失礼しました。これは「3月27日付け」の間違いです。『BRIGHTON ROCK』への文章のことです。訂正してお詫びします。どうぞ、ご反論下さい。

ちなみに「なぜ間違えたのか」を自分なりに説明しておくと、「勘違いした」「記憶力が弱い」といったことになると思います。

じっさい、今の君をいくら非難しても説得しても、無駄だろうことは目に見えてる。君はこれまで、あまりにも「甘やかされてきた」。そのつけが最近の「小児病」的な退行現象に表れている。その意味で、私の徒労感は正直拭えない。これがほかの見知らぬ 他人なら、遠に嘲笑って切り捨てていることだろう。だが、君は私の友達だからね、そう簡単には見捨てはしない。見捨てられた方が、君も清々することだろうが、そういうことはやらないよ。私は私にやれる限りのことをやるつもりだ。君もそのつもりで身の処し方を考えてくれ。





( 以下は「議論する心(12)」につづく)


議論する心(10) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時21分28秒


 野茶坊 さま
ようこそいらっしゃいました。お待ち申し上げておりました。心より歓迎させていただきます。

>園主さまと「同時代」掲示板で知り合い、園主さまがあちらを「退散」なさるとおっしゃるので、「待て〜」と、こちらへ押し掛けて参った次第です・・・。しかし、私のこちらへの到着が遅れている間に園主さまはあちらに再び登場しておられるようですね、予想はしていましたが・・・。

本当でございますかあ……(-_- )(<疑いの目)

> 人間の一念は刻々と変化するものです。信仰体験をもとに熱っぽく「確信」を語る人が、いつのまにか退転の隘路に迷い込んでいく姿を少なからず見て参りました。(あの山崎正友も、それなりの信仰体験はあったと聞いています)。また、「確信」を得て、信心・組織活動をがんばるようになり、役職があがるにつれて鼻持ちならぬ 傲慢な本性を露わにする幹部の情けない姿もあります。これも「退転と紙一重」だと私は冷ややかに見ています。「確信を得た!」と思った瞬間から、油断が始まります。「確信を得た」自分は他の人より「エライ!」と思ってしまいます。そこに落とし穴があります。

これは、とても大切なことをおっしゃっていると存じます。
京極夏彦のミステリ長編『鉄鼠の檻』(講談社文庫)は、「禅」をテーマにした哲学的なミステリでございますが、この中にも「豁然大悟」(だったかな?)は「魔境」であることがある、という主旨の「禅」の教えが紹介されておりました。すなわち「一瞬にしての悟り」というのは、しばしば「真の悟り」ではなくて「魔境(魔に魅入られた境地)」である場合が多いから、「悟り」には、よくよく気をつけなくてはいけない、という教えでございます。

> 一方でまた、「確信をつかめない」とおっしゃって信仰をやめながら、なお創価学会員であることはやめず、学会に熱いまなざしを向け続ける園主さまのような人もおられる。私は園主さまを「退転者」とは思っていません。まじめすぎる(?)正直な求道者と思っています。

恐縮でございます。たしかに、ご指摘のとおり私が求めている「確信」とは、上に言う「悟り」のように「いったん掴んだら、二度とゆるがない境地」を意味しております。でも、それは「間違い」なのかも知れないと、今ふと思いました。「確信」とは「揺らぎながら」も「継続されていかれるべきもの」なのかも知れません。

すでにお気づきでしょうが、私は本質的には「真面目」な人間でございます。むしろ「真面 目過ぎ」「潔癖過ぎ」て、「寛容さに欠ける」という欠点がございましょう。危険な「革命家」「テロリスト」というのは、しばしば「くそ真面 目」で「潔癖」で「純粋」な「独身者(童貞)」でございますからね。私の隠すべくもない攻撃性も、そうしたものだと理解しております。……が、理解しているだけでは、それを乗りこえられない、というのも、まったく仏法の教えるとおりでございます。

> ただ、私のような小心で気弱な人間でも、「何があっても必ず乗り越えていける、変毒為薬していける」といった自信のようなものが胸の奥に息づいていることだけは確かだと思います。これまで生きてきた中で、自分の力ではどうしようもないような壁にぶち当たった時、うろたえるよりも、「さあ、勝負だ!」と強気で御本尊に向かうという行動が、自然のうちになされてきました。これからも、そうしていくと思います。

これは私もたいへんよくわかります。「この信心は妄想かも知れない」と思う反面 、まだどこかに「見守られている」という安心感はございますからね。「仏」は、学会活動をしないからといって、「迷える衆生」を見捨てたりはいたしません。今世ではついに結ばれない縁であったとしても、「仏」が実在するのならば、三世の彼方で、きっと私を待っていてくれると思っております。

ともあれ、これで貴方さまも「夢野式創価学会世界」では「悪の枢軸」でございます。
今後とも悪人どうし、仲良くいたしましょう。よろしくお願いいたします(笑)。





( 以下は「議論する心(11)」につづく)


議論する心(9) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時20分13秒


 AOI さま
> というわけで、「神聖喜劇」読み終わりました(笑)。今は、「終わってしまった」という感じです。先を急ぎたいという衝動から引用がもどかしく感じたこともあり、十分に理解しないまま進んでしまったところもあってちょっと後悔。それでも、これだけ時間がかかってしまったというのは、私の読書能力とあいまって、一気に読み進むことができなかったということでもあります。

私が驚いたのは『引用』というよりも、その「反復」の多さでございました。『神聖喜劇』の作者は、前に語ったことについて言及する場合、その文章をそのまま「自己引用」してくる。ですから読者は「まったく同じ文章」を何度もくりかえして読まされることになるのでございます。これはとても顕著な大西巨人の特徴であり、「さくさく読める」ことが大きな価値となる現代エンターティンメントとは、およそ対称的な特徴だと申せましょう。しかし、大西巨人は「読みにくい」「難解な」文章(小説)に価値をおくような作家ではございません。むしろその逆で、「面 白い」作品であることに自負を持っている作家なのでございます。

ですからこそ、この「くどいくらいに繰り返される自己引用」は、大西巨人の「主語を絶対に略さない」という大きな特徴にも直接関連するものだと申せましょう。つまり、一般 には「これ」「それ」などの代名詞で済ませるところを、大西は決して略さないのでございます。そしてそうした特徴から立ち上がってくるのは、「曖昧さの排除」「明晰性」「厳格性」「徹底性」という大西巨人の個性なのでございます。
つまり埴谷雄高が

『大西巨人の精神構造は、吾国に珍しい種類《超几帳面 型》である。彼の思考は、一、二、三、四、五…といった整数の上をその一つをもゆるがせにせず歩一歩と着実に歩むばかりではなく、一から二までのあいだの1・00001から1・00002といった微細な空間にも触れずばやまない《微視論理癖》をもっている。それは、宇宙の中の原子を一つ一つ拾ってきて白紙の上に並べる作業にも似ている。『神聖喜劇』と題された、この作品は、ダンテふうに、現代の地獄と煉獄と天国をくまなく描きつくすつもりであろうから、刮目してその展開を見まもりたいと思う。』
 (カッパノベルス版『神聖喜劇』第一部「混沌の章(下)」に寄せた推薦文)

と語ったとおり、「微細」なところまで揺るがせにしない大西巨人の特徴が「くどいくらいに繰り返される自己引用」というところにも表れており、一般 に「煩い」と取られてしまうこの個性があったればこそ、大西巨人は、他の誰もがその「大雑把な目」で見落としてしまう問題点を、しっかりと救い上げるうるのでございます。そしてそうした「眼力」が最大限に発揮された作品が、大西巨人の代表作である『神聖喜劇』だと、私は斯様に評価しているのでございます。

>>「この、恥さらし!」と叫び相手を足蹴にするような、問題原因の所在を自分から切り離しそれを排斥するようなことではありません。(<杉澤鷹里さま)

> マイケル・ムーアがアカデミー賞の受賞でブッシュを批判して叫んだことを思い出しましたけれど、そのことの批判でもありますか?

私が察するところ『恥じ』という言葉の出所は、『虚無への供物』の作者中井英夫ではございませんでしょうか?
「恥」は、中井英夫の最重要のキーワードで、例えばそれは、

  まぎれなき 角二つあり
   山羊の蹄
   もてるおのこの 醜さ故に

といった歌にも明らかでございましょう。これは中井英夫個人としての「出来損ない」意識(裏返しの「選民意識」でもある)と、そんな彼を疎外する「地上の人間」に対する「出来損ないの醜い生き物」という評価(愛憎)が重なっております。

したがいまして、杉澤さまは、特にマイケル・ムーアを意識なさってはいませんでしょうが、私が指摘いたしましたとおり、ムーアのように「血みどろの戦い」をする人間を、どう評価するかという点では、関連のある、とても重要な質問をなさっていると存じます。

>>> (モジモジ)・・・恐縮です。

>>これに騙されてはなりませんよ。

>との園主さまのお言葉。
> 成る程。
> 了解しました!(笑)

せっかく杉澤さまが乗って下さってるんですから、これにもちゃんと突っ込まなきゃダメじゃございませんか(厳重注意)。





( 以下は「議論する心(10)」につづく)


議論する心(8) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時19分23秒


 杉澤鷹里 さま(つづき)

岬にての物語・・・竹本健治『クレシェンド』ノート

>> 46.世界と個人の境界が「ゆるい世界」において、作品だけが個別の輪郭を堅固に保持していてはおかしい

> 全く同感です。

この点について、すこし注釈をつけさせていただきましょう。まず、杉澤さまが上に引用されている一節の全文は、つぎのとおりでございます。

>> 46・  しかし、竹本健治という物語は終わらないだろう。この人の作品群を読んできて、ますます明らかになっていくのは、ひとつの作品というものの持つ意味が、他の多くの作家とは、ずいぶん異なるということである。世界と個人の境界が「ゆるい世界」において、作品だけが個別 の輪郭を堅固に保持していてはおかしいだろう。竹本健治としては、自然な創作方法である。

つまり杉澤さまが引用なさった部分だけでは、楽古堂さまが「一般論」としてあのように主張されているかのように受け取られそうなのでございますが、全文を見れば明らかなとおり、楽古堂さまは『竹本健治としては』つまり「竹本健治という作家に限っては」という話をなさっているのでございます。
したがって、ここでは、その手法的特徴を作家の個人的な世界観から語っているだけで、その手法が「一般 的」に優れているか否かという「価値判断」を語っているわけではない、ということをまず押さえてかなければなりません。

そこで、私が問題といたしました、

> 私が気になるのは、どうして作家は晩年に近づくと、作品の『「全体小説」化』を謀ろうとするのか、ということであり、いろんな作品をリンクさせていく形での『「全体小説」化』というものは、はたして評価に値することなのか否か、ということでございます。

が問題となります。
「作品個別の輪郭が堅固ではない」というのは、たしかに近年の竹本健治作品の顕著な特徴だと申せましょう。しかし、そうした特徴は、小説家の晩年に見られがちな傾向のように、私には思えます。もちろん、竹本健治には、その特徴の萌芽が、ごく初期から見られたというのも事実でしょうが、それがこの時期(時代・年齢)になって露骨に展開し始めたということの意味も、決して軽視できないと思うのでございます。つまり「全体化の希求」の問題については、「竹本健治個人」と「作家一般 」の両面で考えていく必要があるのではないかと、私は斯様に考えるのでございます。





( 以下は「議論する心(9)」につづく)


議論する心(7) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時18分42秒


 杉澤鷹里 さま(つづき)

つまり、私がこの「十界互具」論を高く評価するのは、「憎悪」や「怒り」といった「煩悩」を解脱すべきものとして、その「存在自体」を否定するのではなく、それは人間が生きている限り、消えて無くなりはしない属性だと(現実的に)承認した上で、それをいかに「仏知」のなかに『昇華』するかを、わかりやすく説明しているからなのでございます。

ですから、「十界互具」論の観点からいたしますと、「非暴力主義」と「愛」と「赦し」を語った『ガンジー、(マーチン・ルーサー・)キング』のなかにも、「戦争」や「人権侵害」や「差別 」に対する打ち消し難い「憎悪」や「怒り」は必ずあったと思うのでございます。ですが、彼らはそれに身を任せることなく(基調とすることなく)、それを「聖なる戦い」の原動力へと昇華させていった。ここが素晴らしいと思うのでございますね。

私やinoさまの言う

>その「怒り」と「憎悪」を腹の底に秘めて、終わることのない「世界への抵抗戦」のエネルギー源にしなければならない

> 私が梁石日、姜尚中、岡庭昇、チョムスキーを読むのは、「怒り」「憎悪」を共有したいからです。またそれを思想化したい。今回のことも、親を目の前で殺されたイラクの少女のそれを、胸に刻みます。自分自身がいかなる場所に立つのか、今ほど問われているときはないと思います。

とは、そういうことなのでございます。

そして私は、杉澤さまの若者らしい「理想主義」に好感を憶えつつも、人間の属性を否定するかのような「論理」は、矢吹 駆が『バイバイ、エンジェル』の犯人を告発した際に申しておりました「観念(の魔)」に非常に近く、ある種の「危険性(「二乗」の罠)」を孕んでいると思うのでございます。そして、その「危険性」は『バイバイ、エンジェル』の犯人のような「極端な形」はとらなくとも、それとなく現実から目を背けるという「陰微な形」での形象化につながるのではないかと危惧するのでございます。





( 以下は「議論する心(8)」につづく)


議論する心(6) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時17分50秒


 杉澤鷹里 さま(つづき)

>>「憎悪」の問題

> 非常に難しい問題です。
> 私自身は、「怒り」や「憎悪」を駆動力として成立するような行為は、それ自体が新たなる「怒り」や「憎悪」を喚起するものであると考えています。世界の種々の出来事に伴う衝撃を「恥じ」として感覚すること、が私の立場です。

おっしゃるとおり、この問題はたいへんな難問でございます。ご存じのとおり、『バイバイ、エンジェル』の犯人もまた、この「罠」に囚われた一人でございましたからね。
私も、若い頃は貴方さまと同じように考えました。ですから、貴方さまの「目指されている境地」はそれなりに理解できるつもりでございます。しかし、inoさまが

> 私が書いた「怒り」「憎悪」は、人を手段にして目的を遂げるという「権力」という「魔性」に向けられます。この「怒り」「憎悪」は当事者以外忘れやすいものと思うのです。そういう意味で、アレクセイさんの言葉をお借りし、思いを書きました。極悪に対し有効な行動が、憎悪の行動に限定されるとは思いません。ガンジー、キングの行動はそれを昇華していたのですから。

と書かれておられますように、現実に存在する悲劇を直視するならば、自分に「自分を恥じ、心を痛めて、ただ涙を流しているだけ」というような境地を許すわけにはいかないと感じるのでございます。この平和な日本にいて、おおむね人権も保証され、おおむね豊かな生活ができているという「現実」は、そうした「自分を恥じ、心を痛めて、ただ涙を流しているだけ」みたいな人によって作られたものではなく、多くの先達の「血みどろの戦い」があったればこそだと思うからでございます。ですから、私は「ただ人間の愚かしさを、我がことととらえ、それを恥じ入るばかり」という境地、つまりイワン・カラマーゾフが批判した「罪もない子供達の犠牲のうえに築かれた天国」を目指すことは止めにしたのでございます。

inoさまのおっしゃるとおり、「憎悪」の有効性を肯定することは、そのまま『憎悪の行動』を承認することではございません。これは先般 話題に登りました(「仏法」における「生命観」である)「十界互具」論にわかりやすいのではないかと存じます。
「十界互具」論の詳しい説明は、ログをご参照いただくとして、仏法では人間の「生命(=存在)の状態」を、汚れた(悪に染まった)状態から、清らかな状態にむけて十に分類します。「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」の「十界」でございます。そして、さらに、このそれぞれは、それぞれの中に「十界」を含み持つ「入れ子構造」を持つ、と説明します。これが「十界互具」論でございます。
で、先般書きましたとおり、ひとまず私が目指すのは、「菩薩界を基調とした修羅界」の生命状態だということでございます。言い換えれば「他者の幸せのために、悪を憎み、これと戦う」という生命状態でございますね。一方、この「十界互具」論で申しますと『バイバイ、エンジェル』の犯人は「修羅界を基調とした声聞界の人」であり、作者の笠井潔も近年の臆面 もない「政治性」を見れば、同じ「修羅界を基調とした声聞界の人」としか申せません。一方、ライバル(笑)竹本健治はと申しますと、彼は「縁覚界を基調とした人界の人」だと私は思うのでございます。





( 以下は「議論する心(7)」につづく)


議論する心(5) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時15分17秒


 杉澤鷹里 さま
> まあ、本当に「非闘争的な小市民」が「花園」を訪れたりはしません(笑)。殻というよりは「筒」として、私の「一歩退く」態度はあります。つまり、そこに全力を叩き込むべき本当の目標以外の、余計な夾雑物を避けるという意味合いで、すぐに譲歩するところはあるようです。
> とはいえ──アレクセイさまの嗜好もそうだと思うのですけど──全体としては破綻しているけれど、他にはないスゴミを宿している、というものへの欲求は、強いほうですから、今後「筒」はじける「暴発」した投稿もさせていただきたいと思います。

期待に違わぬお返事、まことにうれしゅうございます。ありがとうございます。やはり、若者はこうでなくては(笑)。

では、さっそく細かくツッコミを入れさせていただきます(笑)。

まず問題となるのは「問題の軽重判断の適切性」でございましょう。すなわち、何を『全力を叩き込むべき本当の目標』と考え、何を『余計な夾雑物』として排除するのか、その「基準」でございます。と申しますのも、「知識人」を自認する多くの人にも、この点について、しばしば「価値観の倒錯」が見られるからでございます。
すなわち「世間受けのする仕事」を『全力を叩き込むべき本当の目標』と考え、地味だけれども「人間として避けえない仕事」を『余計な夾雑物』として排除する人が決して少なくない、ということでございます。
具体的に申しますと、清涼院流水の「小説」は批判できるけれども、笠井潔の「文壇政治」には口をつぐむ「探偵小説研究会」の「評論家」たちなどが、これにあたります。人間はえてして自分を「専門家」と規定し、そのことにより「人間」としての当然の義務から、目を背けようといたします。そしてこの問題は、プロアマにかかわりなく、普遍的に見られる問題なのでございます。

> これまで、恬淡とした態度が理想であったのですが……。

『恬淡とした態度が理想であった』というのは、じつはかつての私もそうでございました。仙人みたいな境地に憧れたりしたのでございます(笑)。
しかし、私はやはり「イワン・カラマーゾフの嘆き」から逃れられる人間ではございませんでした。私の「アレクセイ」というハンドルネームは、そうした憧れの記憶でございます。

> 最近、急に抑制が利かなくなってしまった、と自分自身思います。それは、私が「破壊者の幻想譜」はじめるそのきっかけになった人物の影響が強いと思うのですが、それは余計な話ですね。

いいえ、とても気になります。誰の、どのような影響によって、どうして、『急に抑制が利かなくなってしまった』のかは、貴方さまを知る上で、重要なポイントでございましょう。

> 出鱈目で無根拠で思いもしないことで、ヒトを褒めても、褒められるヒトも周りのヒトもそして何より自分自身が面 白くない、というのが私の考えです。

まったくそのとおりでございます。ですが、プロのミステリ評論家による「文庫解説」にも見られますとおり、「意図的に、長所だけをクローズアップし、欠点についてはそ知らぬ 顔を決め込む」という「欺瞞」もございます。これは『出鱈目で無根拠で思いもしないことで、ヒトを褒め』ることではございませんが、「重要情報の意図的隠匿」という「ペテン的な技法」だとは申せましょう。

> まして、相手が「アレクセイ」ともなれば、その思いはなおさらです。ですので「お世辞」を述べるつもりは・述べているつもりはありませんから、ご心配なく。

貴方さまがこれまでに書いて下さった2つの評価、

> 『ウロボロスの基礎論』での奇人ぶりよりも、むしろ、ここでの怪人ぶり、そのとてつもない迫力にこそ圧倒されました。

> 自分で掲示板を運営するようになって、園主さまの怪人ぶりをより切実なものとして感じるようになりました。ただひたすらに敬服しています。

つまり「怪人(=非凡)」だという評価は、素直にうれしく受け取らせていただいております。ですから、私が申しました『私に「お世辞」は通 用いたしません』というのは「私に向けてのお世辞」という意味ではなく「あらゆるお世辞」について申し上げたものなのでございます。すなわち、貴方さまが『全力を叩き込むべき本当の目標』ではないとして「軽く流す」という意味で書いた「お世辞」も、私は見逃しませんよ、という意味でございます(笑)。むろん私は「いつも本音で書け」と申し上げているわけではございませんが、「使い分け」というのは、案外「恐るべき罠」であることが少なくない、ということは知っておいていただきたいということなのでございます。





( 以下は「議論する心(6)」につづく)


議論する心(4) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時14分12秒


 Keen さま
>>『「全体小説」化』

> 一番最初にこれをやったのは、バルザックの『人間喜劇』でしょう(他には、ゾラも有名ですが)。もちろん、ダンテへの挑戦です。園主さまイチ推しの大西巨人『神聖喜劇』が、『神曲』の原題の直訳ですから。
> 中井さんもバルザックにはかなりの影響を受けてますが、この手法が、「その時代・社会の雄大かつ精密なフレスコ」を描くのに有効である、という考えから来ているのでしょうね。
> それが成功するかどうかは、個々の作家の力量次第、というところでは。
> 中井さんは、『虚無への供物』一冊きりで、これをなし遂げてしまったんじゃないかと思います。]

『その時代・社会の雄大かつ精密なフレスコ』としての「全体小説」。言い換えれば「全体小説」とは「小説の形をとった、世界(の縮小)模型」だということでございます。ですから、私の理解しておりますところで申しますと、基本的には「一編の小説作品」として完成したものが「全体小説」であり、ある作家の作品をすべて(あるいは、いくつかを)ひっくるめたものを「全体小説」とは呼べないと存じます。基本的に別 々の作品を「横に繋いでいく」という形をとったとしても、それは単にそのような手法において、作者が作品による「全体化」を目指しているとは申せましても、そこで目指されているものを「全体小説」と呼ぶのは不適当だと考えるからでございます。
つまり「全体小説」とは『一冊きり』のものとして作られるもの(この場合『失われた時を求めて』全十巻も「一冊」という意味でございます)を言い、「ゲーム三部作」『風刃迷宮』『闇に用いる力学 赤気篇』『クレシェンド』などを横につないで「世界(の縮小)模型」としようとしたとしても、それらを「全体小説」と呼ぶのは不適当だと存じます。
なぜならば「世界(の縮小)模型」の「全体小説」の意義は、「一冊」のなかに「世界が凝縮されている」という点にあるのでございますから、境界をどんどん外に拡げゆき、その結果 として「世界と重なる模造品」となることは、この場合、あまり意味のないことだからでございます。

> ところで、泡坂妻夫さんの『「全体小説」化』って、私は知らないのですが、まさか、「亜愛一郎の歴史と生涯」みたいなのが……?(ドキドキ☆ワクワク♪)

と申しますか、それぞれに独立した「べつべつのシリーズ」として書かれていたものの登場人物が、交錯して登場するような作品が、(記憶が正しければ)いくつか書かれているということでございます。


 ino さま
> 私が梁石日、姜尚中、岡庭昇、チョムスキーを読むのは、「怒り」「憎悪」を共有したいからです。またそれを思想化したい。今回のことも、親を目の前で殺されたイラクの少女のそれを、胸に刻みます。自分自身がいかなる場所に立つのか、今ほど問われているときはないと思います。

同感でございます。この点については、杉澤さまのレスで詳しく書かせていただきたいと存じます。

>野茶坊さま

> あてずっぽその2.ひょっとしてある本に体験がのっていた潮風の方ですか?違っていたらごめんなさい。

これはどなたのことでしょうか? 私には思い当たりませんでした。

> 師弟論

じっくりと書いて下さいまし。楽しみにしております。





( 以下は「議論する心(5)」につづく)


議論する心(3) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時13分09秒


(3)について。したがって、アメリカが自己の「空爆」による「民間人犠牲者の発生」について、臆面 もなく「誤爆」を主張するのは、「故意」が立証されない限り、『「国際法違反」であり「戦争犯罪行為」』として訴追できないからでございます。
もちろん私が先に指摘いたしましたとおり、常識的に言えば『「誤り(過失)」も繰り返されれば「誤り(過失)」だとは申せません。すでにその「誤り」は「あらかじめ織り込み済み」のもの、つまり「空爆」は「民間人犠牲者の発生」することを「承知の上」でなされた行為だとしか評価しえないのでございます。つまり、そこには「未必の故意」が認めら、いくら「ピンポイント攻撃」を謳ってみても、もはや「空爆」は「民間人虐殺」の故意犯(戦争犯罪)であることは否定しえないのでございます。』が、国際法上の問題として裁く場合、個々の事例を「誤爆(過失)」ということで積み重ねていけば、「全体としての故意」を実証的に立証することは極めて困難だということなのでございます。つまり、明確な「第三者証言」や「物的証拠」が無いかぎりは、当事者の「自供」無しには(状況証拠だけでは)、犯人を公に訴追し断罪することはできないということなのでございます。
すなわち、アメリカの狙っているのは、アメリカが現在おこなっている空爆は「法的には無罪(有罪にはできない)」……これなのでございます。

このような「構図」がハッキリ見えてきたのは、最初にご紹介いたしました加藤尚武の『戦争倫理学』のおかげでございます。著者加藤は「まえがき」に下のごとく記しております。私も、まったく同感でございます。

『 戦争について意見を持ち、討論をし、合意を作り出す上で、どうしても知っておく必要のある基本的な論点(argment)を、しっかり集約して示しておきたいと思う。
 「戦争はきらいだ、自分はどんな力の行使にも反対だ」という人に対しては、「目の前であなたの友人が外国の工作員によって、誘拐されようとしているとき、あなたは実力で救い出してはならないと考えますか」と問いかけなくてはならない。「自分は戦争をやりたいと思う。略奪も強姦も虐殺もあらゆる暴力が承認された状態が戦争であって、戦時の人権侵害を禁止すべきではない。それは人間の根源的な暴力性の解放の祝祭である」とうそぶく人がいたら、「あらゆる犯罪を許容することと、どこが違うのか」と問いかけなくてはならない。そういう一見無駄 で、ばかばかしくて、白々しいような応答の訓練をし、準備しておかなくてはならない。
 どんな問題でも、特に戦争については、そういうまやかしの議論が横行している。
 たとえば、「日本軍が南京で三〇万人の中国人を殺害したはずがないから、南京事件はでっちあげだ」とか、「東京裁判では戦争が終ってから一方的に裁く側でつくった法律をもとにして裁いたから、日本は無罪だ」とか、こういう問題について論争すると、どうしても感情的になってしまうが、冷静な論争の方法と習慣を作っておかないと、まやかしの議論に引きずられてしまう。
 一見簡単な問題でも本格的な議論をするには、とても長い時間が必要になる。そこで人類の歴史のなかから、戦争について考える上で必要な論点を、すべて示したつもりであるから、この本で討論の訓練をして欲しいと思う。(以下略)』





( 以下は「議論する心(4)」につづく)


議論する心(2) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時12分02秒


(1)について申しますと、「ゲルニカ村の惨劇」は、まだ「空爆」という「戦法」が一般 的ではなかった時期に行なわれた、最初の「無差別爆撃」、つまり「民間人をも巻き込み空爆事件」だったからでございます。
戦争の歴史を繙けば、もともと戦争とは「騎士」や「傭兵」といった専門的戦闘員の間で行なわれるものであり、民間人は巻き込まないというのが、常識でございました。ですから、「空爆」も初期にはその攻撃目標が、敵方の「政治軍事関連施設、兵器兵員」に限定されておりました。ところが、「ゲルニカ村の惨劇」では、種々の要因が重なった結果 の「誤爆」による、非「政治・軍事関連施設」たる一般村落にたいする爆撃行為となり、民間人犠牲者を多数出すにいたって、国際世論の厳しい指弾をうけた、そんな「歴史的な事件」だったのでございます(しかし、ご存じのとおり、この「戦争のモラル(倫理)」は、戦争の拡大によって無効化されていきます)。

(2)について。正確に申しますと、「空爆」そのものは「国際法違反」でも「戦争犯罪行為」でもございません。問題は「民間人を巻き込むか否か」なのでございます。したがいまして「長崎・広島への原爆投下」「東京大空襲」「ベトナムでの北爆」「アフガン空爆」「イラク戦争での空爆」は、民間人の居住する「市街地」をも標的にしたという点で、明らかに「国際法違反」であり「戦争犯罪行為」でございます。

しかし、それらが「国際法違反」であり「戦争犯罪行為」として裁かれなかったのは、

(A) 「空爆」を行なったのが、「戦勝国」であり、世界一強い国「アメリカ」であったから、であり、
(B) それなりに「言い訳(正当化)」がなされたから、でございます。

(B)の「言い訳(正当化)」についてご説明いたしますと、例えば「長崎・広島への原爆投下」「東京大空襲」「ベトナムでの北爆」などは「早期に戦争を集結させて、戦死者の増大を防ぐため」というものでございました(もちろん、ここで問題とされている戦死者とは、正義の殉教者たる「アメリカ兵」のことでございます)。
また「アフガン空爆」「イラク戦争での空爆」など、近年のものについては、「ピンポイント攻撃」などの技術革新により「たとえ市街地を爆撃しても、基本的には民間人を巻き込まないで済む」という「建て前」があり、「民間人犠牲者の発生」はあくまでも「偶発的なもの」であり「故意によらない誤り(過失)」だというものでございます。





( 以下は「議論する心(3)」につづく)


議論する心(1) 投稿者:園主  投稿日: 4月14日(月)01時11分08秒

みなさま、本日は最近読んだ『戦争倫理学』(加藤尚武・ちくま新書)をご紹介させていただきます。

この本を読んで、今までぼんやりと疑問に思っていたことが、いくつかはっきりいたしました。その疑問とは、

(1) ピカソの『ゲルニカ』は、第二次大戦下での「ゲルニカ村の惨劇」を描いた「反戦画」として有名な作品でございますが、この「ゲルニカ村の惨劇」は、どのような点で「特筆すべき」虐殺事件だったのか?
……それがわからなかったのでございます。つまり、大戦中には多数の虐殺が行なわれた中で、なぜ「ゲルニカ村の惨劇」なのか、ということなのでございます。もちろん、ゲルニカ村がピカソの故郷だったということはございますが、ただそれだけなのか? それ以上に特筆すべき意味がなかったのか? ということなのでございます。

(2) 「空爆」は、なぜ国際法に反する「戦争犯罪行為」なのか?
「空爆」は、最近の「アフガン空爆」や「イラク戦争」に限らず、先の大戦時においてもいくらでも行なわれたことだというのは、「長崎・広島への原爆投下」や「東京大空襲」などを体験している日本人なら、誰でも知っていることでございます。つまり「空爆」は先の大戦においてもありふれた「戦法」として、連合軍が何度も採用したものなのでございますが、それが「戦争犯罪」として裁かれることはございませんでした。なのに、どうして今ではその「空爆」が『国際法に反する「戦争犯罪行為」』なのか? ということでございます。

(3) アメリカ軍は「アフガン空爆」でも「イラク戦争」でも、その「空爆」による「民間人犠牲者の発生」については、「誤爆」ということを繰り返し主張してまいりました。しかし、「誤り(過失)」も繰り返されれば「誤り(過失)」だとは申せません。すでにその「誤り」は「あらかじめ織り込み済み」のもの、つまり「空爆」は「民間人犠牲者の発生」することを「承知の上」でなされた行為だとしか評価しえないのでございます。つまり、そこには「未必の故意」が認めら、いくら「ピンポイント攻撃」を謳ってみても、もはや「空爆」は「民間人虐殺」の故意犯行(戦争犯罪)であることは否定しえないのでございます。……なのに、なぜ臆面 もなく「誤爆」を主張し続けるのか? ということでございます。





( 以下は「議論する心(2)」につづく)


Re.「過去・現在・未来(7) 投稿者:ino  投稿日: 4月13日(日)23時23分20秒

園主さま

先日4月3日の、園主さまの問いに対し、何も表現しないことが気を重くさせていますので、少しづつになるかもしれませんが、私の考えを書かせて頂こうと思います。

>創価学会員とて人間である以上、「一色」ではございません。ですからこそ「桜梅桃李」という言葉も、意味を持つのでございましょう。「師の選択」において「桜梅桃李」がないというのは、やはり疑ってしかるべき状況なのでございます。
>さて、今回も厳しいツッコミをいたしましたが、創価学会の「信仰」の問題を考える場合、池田大作氏の「特別 な存在性」は避けては通れないところでございます。しかし、またそこが、一方で「池田教であってはならない」と考える「学会員のジレンマ」でもあり、「タブー」ともなっていることでございます。
>この問題提起には、一朝一夕で応えられるものではございませんでしょうが、学会内では金輪際、つき付けられることのない「本質的な難問」として、じっくり検討していただければ幸いと存じます。(以上の引用は連続した文章です。)

この問いに対して、私の、あくまでも私の心にある「なぜ池田大作氏は私の師匠なのか」を語ることにします。また園主さまのもうひとつの疑問=過去・現在・未来(6)の

>『池田氏が事実それほどすぐれた人であるのならば、なぜ学会組織はそれをあえて煽るのか?』

というところを園主さまと意見交換したいと存じます。
 今回は園主さまの問いに対して私の意見を述べます。
 ホランドさまに先日私の考えを述べさせていただきましたが、それは私の「信じる」という心の状態は、経験に基づいています。この信仰の基本姿勢に「信」「行」「学」があります。さきの経験にはこれが含まれています。園主さまの「師弟」をinoが心に入れているのはいかなる理由か、「文証」「理証」を述べよという質問に以前即答できなかったことがそれらがないということではないのかという園主さまの声に、不十分かもしれませんがお答えしたいのです。
 おかしいと思われるかもしれませんが、まず「仏教哲学大辞典」(聖教新聞社編)を開きました。

『 師弟:師匠と弟子のこと。師匠は規範となって人を導く者をいい、弟子は師の教えを受けて行ずる者をいう。仏法では師弟不二をもって真の弟子のあり方としている。御義口伝に「法とは諸法なり 師とは諸法が直ちに師となるなり 森羅三千の諸法が直ちに師となり弟子となるべきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり(遺文p736)と述べられている。
 宇宙の森羅万象のあらゆる諸法に通達された日蓮大聖人こそ真の師匠であり、日蓮大聖人の仏法を信受し実践するものが正しい弟子となる。』(仏教哲学大辞典:P797)

以上は大聖人在世の弟子たちに口伝しそれを記述したものです。
『御義口伝に云く・・・師とは師匠授くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法 吼とは師弟共に唱える所の音声なり」(遺文P748)
この大聖人在世の弟子に語られたものが今の師弟とどう繋がるのかについては大分先です。
次回は私の理解している広宣流布に情熱を傾けたのは誰だったかを書きます。ではまた。


つっこみわすれ(笑) 投稿者:AOI  投稿日: 4月13日(日)22時47分12秒

☆園主さま

>> 『愛に関する短いフィルム』は孤独な青年の愛の物語です。
>おお、まさにこれは、私のための、私の物語!

なんでやねん(笑)!
真に受けて、同情したりしないようにー>みなさま
トメクはアリョーシャにあらず。

☆杉澤鷹里さま

「クレシェンド」をまだ、読んでいないので、杉澤さまの「『岬にての物語』につい
て」も読むのを控えていますけれど、それとは離れてちょっと、シツモンを。

>「この、恥さらし!」と叫び相手を足蹴にするような、問題原因の所在を自分から
切り離しそれを排斥するようなことではありません。

マイケル・ムーアがアカデミー賞の受賞でブッシュを批判して叫んだことを思い出し
ましたけれど、そのことの批判でもありますか?


*もしかして、似たような書き込みを送信しているかもしれませんが、こちらをお願いします。m(__)m  


 投稿者:ino  投稿日: 4月13日(日)21時55分17秒

杉澤鷹里さま

レスありがとうございました。了解いたしました。

AOIさま

>「夢を叫べ」のことちょこっと教えていただけませんか。えんけん体験者、inoより。


 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月13日(日)20時27分16秒

>楽古堂主人
 つづきます、と書きましたが、この陽気に誘われてうとうとしてるうちに時間を失ってしまいました。つづきは、しばらく後になります。申し訳ありません。

 なるべく、見解の差の大きいと思われる事柄を優先して書きました。投稿したものは、つづきを前提にした「部分」なので、中途半端で、ごつごつした印象を与えるかと懼れています。早いところ全体を俯瞰したり包括したりするような意見を加え、収まりをつけたいと思ってます。

>inoさま

>「恥じ」とは世界に無関係ではありえない「自分」をも「恥じる」と理解してよろしいですか?

 inoさんの解釈のとおりです。「この、恥さらし!」と叫び相手を足蹴にするような、問題原因の所在を自分から切り離しそれを排斥するようなことではありません。
 

http://www4.rocketbbs.com/141/ouro.html


「岬にての物語」について 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月13日(日)10時44分42秒

 楽古堂主人の(「主人」と「さま」って重複している気がするので、こう書かせていただきます)「岬にての物語」(『クレシェンド』ノート)を読まさせていただきました。その感想・それに触発されて『クレシェンド』について思ったこと・その周辺のことなどを、書きたいと思います。

 したがって、『クレシェンド』「フォア・フォーズの素数」「白の果 てへの扉」ネタバレ警報、を発しておきます。

まず。
>43.僕は、真壁岬の物語として『クレシェンド』を読んだ。

 私は、矢木沢の物語として読みました。楽古堂主人の感想は、ビックリするくらい矢木沢について淡白であった、という印象が強いです。矢木沢に対し冷たい、というより、ほとんどモノとして扱っているような感じさえしました。

 竹本健治作品の一つの魅力は、「冴えない男」の「鬱屈した視界」が描かれている点である、というのが私の考えです。『ウロボロスの偽書』の杉田耕一、『ウロボロスの基礎論』の僕、「パーミリオンのネコ」シリーズのノイズ、『鏡面 のクー』のシブキ、『闇に用いる力学』の矢狩芳夫……。

 矢木沢はこの「冴えない男」の系譜に属していて、それが私にとっては魅力の一つでした。また矢木沢という人間への同調が、幻覚を見・幻聴を聴くことを可能にし、クレシェンドの味わいを深めるものだとも思います。

>2.友人を亡くした後

 楽古堂主人に指摘されるまで、私にはこの観点が欠落しておりました。「フォア・フォーズの素数」でも「白の果 てへの扉」でも、私は「友の死」という事態を、ありえたかもしれない「私」の可能な状態というものとして扱っていました。
 丁度それは楽古堂主人が
>37.「裂けた若木」は、彼女の姿であったかもしれないのだ。
 と指摘されているのと、同じ構造を見ていたわけです。「裂けた若木」と「友の死」が同値だったのでした。

 楽古堂主人の繰り返しの指摘によって、友人を亡くした後、という観点は重要だと知らされました。

>46.世界と個人の境界が「ゆるい世界」において、作品だけが個別の輪郭を堅固に保持していてはおかしい

 全く同感です。さらに

>47.彼は黒や白の碁石のように、大局を読みながら作品を置いていくのである。

 という考察もそのとおりだと思います。そのため、楽古堂主人に是非とも、未読の作品群を読んでもらいたいです。特に、『緑衣の牙』は「真壁岬」を読み解く上で必須の作品です。私には、この『緑衣の牙』の結論が、そしてそれに続く展開が決して快いものではありませんでした。

>17.矢木沢という謎に、果敢に挑戦していく
>18.これは、「このまま自分自身のなかにつぶれこんでしまえれば。すべてを拒否して自分自身の無限の奥底へとつぶれこんでしまえれば。」とは、対極にある生き方である。

 志として対極にあっても、実際のところ両者を隔てる距離は非常にわずかだと、志はどうあれいつでも容易につぶれこんでしまうものだと、感じています。

>8.竹本の女性ヒロインは、「世界との総力戦」を戦う。

 これはあえて、女性ヒロインと限定する意味はないと思います。また、ネコ、クー、牧場典子、岬の戦い方(戦い方といよりは「世界の巨大さ」との関わり方、というように私は捉えています)は一様でないとも思います。牧場典子は矢木沢に近く、世界の巨大さに「曝される」側面 が強いかと思いますし、岬は牧場智久に近く、「読み解こう」とする側面(そしてその行為は圧倒的に無力であるわけですけど)が強いかと思います。

 とりあえず、ここで投稿したいと思います。
 つづきます。

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おはようございます。PS 投稿者:ino  投稿日: 4月13日(日)08時30分51秒

>野茶坊さま

あてずっぽその2.ひょっとしてある本に体験がのっていた潮風の方ですか?違っていたらごめんなさい。


おはようございます。 投稿者:ino  投稿日: 4月13日(日)08時25分45秒

野茶坊さま

>私は誰でしょう・・・?
ひょっとしてお花の名前のつく方ですか?眠い頭で考えました。間違っていたらごめんなさい。


反論を読みました。 投稿者:賢ちゃん  投稿日: 4月13日(日)07時01分49秒

しかし結果は…話にならない…ですか…
はっきり云って、それじゃ再反論をする気にもなりません。

自分の書いたものを「妄言」とまで云われてしまうとはね…

自分は冷静だし、「あだ討ち」を「正当防衛」に置き換えても、
充分に意味は通るでしょ?

>(1)「信念」を語ったものではない(どこに信念が語られていると言うのか?)。
>(2)「根源的認識の差」を語ったものではない。
   つまり、赤色が好きか嫌いかというレベルまで突き詰めたものではない(単なる「イチャモン」)。
>(3)『某所』『呼称した方』などと、誰の何に反論しているのかも明白にせず「有耶無耶」のうちに他人を批判するのは、「非論理的」「でたらめ」を云々する以前に、まず「卑怯」であり「未練がましい」。反論を書いたのなら(こっそり書いたわけではない、と言うのなら)通 知くらいしてしかるべきである。

まず(3)に付いては、こちらの落度であったことは認めます。すみません。

(1)と(2)に付いては残念ながら、認めることが出来ません。

>出来るものなら私の「3月26日付けの批判」に対して、ひとつひとつ「具体的に反論」してごらんなさい。

3月26日付けの批判って、どっちに書いたものですか?
『BRIGHTON ROCK』には、なかったから『花園』の方ですよね?

では、確認してから再度反論します。


「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(6) 投稿者:園主  投稿日: 4月13日(日)03時04分39秒


 賢ちゃん
というわけで、読ませてもらったが、ぜんぜん進歩もしていないし、『冷静』だとも言えない。ぜんぜん頭を冷やせてはいない、ということだ。
私がこないだ『疲れているんなら、半年でも一年でも休むといい。「書く」ことに逃避していては、自分を直視することはできないぞ。』と書いたら、

> ああ、休むさ。
> 天の岩度にでも、閉じこもってみようかね。

と、3月26日に書いていたよな。ところが、実際には4月1日には、サイトの衣替えだけをして『マタ〜リ』とやろうなどと呼び掛けている。要するに、新しい「逃避場所」を作ってんだから、頭を冷やせなかったのは当然のことだ。

もう一度いうが、こんな誤魔化しではなく、本当に「独り」になって自分を直視することだ。人は、君に気をつかって「貴方は悪くないんだけど、ここはこうした方が良いよ」というような言い方をするだろう。しかし、そんな言い方しかしてもらえないということ自体が、大問題だということに気づくべきだ。要するにそれは「この人は率直に語っても理解してくれないだろう(だから、嘘でも抱き合わせにフォローが必要だ)」と思われているということなんだよ。それなのに、君がそんな状態に甘んじているのは、気をつかってくれている友人に対しても、その期待と友情を裏切っているということなのだ。

ともあれ『信念』だとか『絶交』だとか『永遠』だとか『自尊心』だとか、そんな勇ましい言葉を濫発する前に、出来るものなら私の「3月26日付けの批判」に対して、ひとつひとつ「具体的に反論」してごらんなさい。
今回の『私信。』は、そうした「批判への反論」からすべて逃げたうえで、私が君を『スーパーマン』と言ったという「誤認」と、「正当防衛」を「あだ討ち」と同一視するという「錯誤」を前提にしてなされた、誰が見てもそれとわかる(君に助言してくれた人にだってわかった)「盲(妄)論」だということだ。

> 私が、あなたに伝えたいことはこれだけです。
> それでも、あなたが納得いかないというのであれば、
> あなたとは、根本的に理解し合えないと判断し、
> 絶交もやむをえないでしょう。

私個人が『納得いかない』のではない。こんな「盲(妄)論」、誰だって『納得いかないという』ことだ。……つまり、 君がここで、率直に「自分の過ち」を認めずに「開きなおる」と言うのなら、君は「頭の正常な人すべて」と『絶交』しなければならないということだ。だが、むろん君に、そんな覚悟はない。

「泣き言」も「強がり」も「ハッタリ」もいらない。偉そうに『信念』とやらを云々するのなら、逃げ腰でゴチャゴチャ言うんじゃなくて、正々堂々理路整然と反論してみろ。
私と絶交したって「あの人がいるさ」みたいな「甘え」や「依存」や「逃げ」を前提にして、ものを言うような「自立できない人間」が、一人前の口を叩くんじゃない。……だから、私は「独りになってみろ」と言うんだ。そうすれば、君がいかに「友人に(一方的に)甘えている(依存している)」かがわかるはずだ。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(5) 投稿者:園主  投稿日: 4月13日(日)03時03分40秒

賢ちゃんは、

> 某所にて、私を「スーパーマン」と呼称した方へ。

と書いておりますが、見てのとおり、私はそんなことは書いておりません。私が書いたのは、

> 結論を言うと、君は「世間の常識」からすると「自分は(いざとなれば)スーパーマンだ」と言っているに等しいんだが、私は君を「並の人」だと思っている。

つまり『並の人』だと書いたのでございます。

ことほど左様に、賢ちゃんの『私信。』は、本人曰く『冷静に書いたつもり』だそうですが、それが「つもり(非事実的主観)」でしかないことは、「事実に照らして明らか」でございましょう。
言うまでもなく、賢ちゃんの『私信。』は、

(1)「信念」を語ったものではない(どこに信念が語られていると言うのか?)。
(2)「根源的認識の差」を語ったものではない。
   つまり、赤色が好きか嫌いかというレベルまで突き詰めたものではない(単なる「イチャモン」)。
(3)『某所』『呼称した方』などと、誰の何に反論しているのかも明白にせず「有耶無耶」のうちに他人を批判するのは、「非論理的」「でたらめ」を云々する以前に、まず「卑怯」であり「未練がましい」。反論を書いたのなら(こっそり書いたわけではない、と言うのなら)通 知くらいしてしかるべきである。

と言って良いものでございましょう。

また、賢ちゃんは、この『私信。』について、『(ある人から個人的に)比喩が適切でないという助言をもらいましたが、その点については確かにそのとおりだったと思います。でも、論旨自体に誤りはないと思っています』と言っていたのでございますが、この『比喩』とは、いったい何を指すのでございましょうか?
……たぶん、これは『あだ討ち』を指すのでございましょう。

しかし、賢ちゃんの意見は、「正当防衛 イコール あだ討ち」という「認識」を前提に展開されたものなのでございますから、この場合『あだ討ち』が「正当防衛」の『比喩』などではない(「同じ」と「似ている」は、同じではない)というのは理の当然でございます。たぶんその助言者は、賢ちゃんに(心情的に)受け入れられ易いように、『比喩が適切でない』と無理を承知で「耳障りよく言い換えた」のでございましょうが、実質的には「正当防衛とあだ討ちを同一視するのは間違いである」と言っているのでございます。そして、その「助言」を認めた賢ちゃんが、私のこの(主旨の同じ)反論を認めないとしたら、それは賢ちゃんが、「同じ内容」であっても「耳障りの良い言葉」なら認めるが「剥きつけの事実を語った言葉」は認められない(反・論理的)状態にある、という事実を証していると申せましょう。こんな彼だからこそ私は、

> 結論を言うと、君は「世間の常識」からすると「自分は(いざとなれば)スーパーマンだ」と言っているに等しいんだが、私は君を「並の人」だと思っている。

と言うのですし、

> 人に同情を乞うのは止めて、人に甘えるのも止めて、自分と闘うべきだ。「慰め」られてばかりじゃなくて、たまには人を「慰め」られる強い男になれ。君の敵は、私じゃあない。君自身の「弱さ」だ。

と言うのでございます。





( 以下は「「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(6)」につづく)


「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(4) 投稿者:園主  投稿日: 4月13日(日)03時02分48秒

> 戦争に参加して、人を殺すくらいなら、
>憲兵に捕まる前に、自害する。

いまの君なら「いざとなったら、空でも飛んでみせる。否定できるか?」と言うだろうな。なにしろ「絶対」ということは言えないんだから(笑)。

それにしても『人質』の話はどうなったんだ? 「家族」や「女神」さまが、人質に取られても殺されても、君はそれに堪えて、人殺しはしないと言うんだな?
まあ、歴史的偉人のなかにはそれを実行した人もいるから、まかり間違って、君が実行できないとも言えない。極端に蓋然性が低いとは言え、「絶対にありえない」と断言はできないだろうな。ともあれ、立派な志だ。私もできれば真似したいよ。

>それぐらいの時間的余裕は、あるはずだるろう?
>違うかね?

『時間的余裕』だけど、それは無いかも知れないな。なにしろ歴史を顧みれば、さっさと自害した人より、なぶり殺しにされた人の方が圧倒的に多いし、さらに言うと、拷問に屈した人の数はもっと多いだろう。

なぜかと言うと、人は「悪い結果」を予想するのは嫌だから、なかなか「踏ん切りがつかない」からだ。もうすこし我慢すれば、何とかなるかもしれないと儚い期待をしてしまい、気がついた時には「猿轡」をかまされて、舌を噛み切ることもままならなくなっているという寸法だ。

ドラマじゃあるまいし、自殺なんて、しようと思って、そうそうできるものじゃない。精神的に追い詰められた結果 「してしまう」ものなんだよ、大概は。……現実的に考えれば、そういうことだということだ。

結論を言うと、君は「世間の常識」からすると「自分は(いざとなれば)スーパーマンだ」と言っているに等しいんだが、私は君を「並の人」だと思っている。
君を知っている人は、ご家族を含めて全員が、きっと私の意見に賛同するだろう。黒鱒師さんも、君がスーパーマンだとは言わないだろう。

人に同情を乞うのは止めて、人に甘えるのも止めて、自分と闘うべきだ。「慰め」られてばかりじゃなくて、たまには人を「慰め」られる強い男になれ。君の敵は、私じゃあない。君自身の「弱さ」だ。

  (同掲示板より・アレクセイ - 2003/03/27 )

-----------------------(引用終り)----------------------


これへの「反論」が、上に引用した『私信。』でございます(※ 詳しい経緯については、掲示板『BRIGHTON ROCK』のログの3月下旬分(3/20〜3/27)をご参照下さい)。





( 以下は「「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(5)」につづく)


「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(3) 投稿者:園主  投稿日: 4月13日(日)03時01分45秒


見てのとおり、結論から申しますと、話にならない「論理破綻」を来した「言い掛かり」でございます。

「正当防衛」を『あだ討ち』と同一視しての立論など、話にもなりません。

さらに申しますと、この議論は

> それとも、何ですか?これは復讐(あだ討ち)だから良いとでもお考えなのですか?

> 「あだ討ち」を是と考えるあなたが

という手前勝手な「独り決め」の上に成立しているのでございます。私の返事を待たずに、勝手な「思い込み」が「事実」に擦り変わっているのでは、「妄想」を相手に「独り対話」をしているのと何ら変りはないと申せましょう。

ちなみに、賢ちゃんは、私が彼を『スーパーマン』だと言ったと書いていますが、これも賢ちゃんの「妄想」でございます。その経緯は、概ね以下のとおり(『某所』とは、下の掲示板『BRIGHTON ROCK』のこと)。

-----------------------(以下引用)----------------------

あ、それからもし「戦争」が日本で行われたならば、
私は、躊躇なく逃げることに決めています。
いくら「戦争」だからといって、人殺しの手伝いをするのは
真っ平ごめんですから。
敵に背中を向けて逃亡することを、私は恥とは考えていません。
  (掲示板『BRIGHTON ROCK』より・ ナイ@管理人 - 2003/03/22 )
--------------------------------------------------------

「戦争」から逃げられはしませんよ。それができるんなら、だれも苦労はしません。「恥」云々以前の常識です。
それに「戦争」から逃げる、最大の努力が「平和運動」なんですよ。「戦争反対」と言うことすらできない人が、「戦争」から逃げられるわけがない。「こんなに辛い思いをするくらいなら、兵隊になって人殺しをした方が楽だ」という目に合わせてくれることでしょう。それが「戦時下権力」というものです。
  (同掲示板より・アレクセイ - 2003/03/22 )
--------------------------------------------------------

今回の件は、私の自尊心の問題でもある。
そうそう、いつもいつも引き下がってばかりはいられないってわけさ。

繰り返し書いておくが、

どんなに無知だと誹られようが、
どんなに傲慢だと思われようが、
どんなに自惚れだとくさされようが、
私は戦争に参加しない。無意味に人を殺さない。
私は、いつだって間違っているのかも知れない。
あなたは、いつだって正しいのかもしれない。
でも、この意思だけは変わらない。
誰にも変えられない。永遠にだ!!

戦争に参加して、人を殺すくらいなら、
憲兵に捕まる前に、自害する。
それぐらいの時間的余裕は、あるはずだるろう?
違うかね?
  (同掲示板より・ナイ@管理人 - 2003/03/26)
--------------------------------------------------------




( 以下は「「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(4)」につづく)


「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(2) 投稿者:園主  投稿日: 4月13日(日)03時00分56秒


大要このような経過の後、確認した賢ちゃんの「意見」とは、次のようなものでございました(全文引用)。

=============(以下引用)=============

2003年4月11日(金) 20時55分01秒 くもり/雨
私信。


本日の日記は、解る人にしか解らない内容ですので、
読み飛ばしていただいても結構かと思われます。

某所にて、私を「スーパーマン」と呼称した方へ。

あなたは、以前某所に

「愚問」だな。私は前からハッキリと書いているはずだ。
「愛する者が殺されそうになっていたら、相手を殺してでも止める」と。
私は、君のような「スーパーマン」ではないから、
「絶対」人殺しはしない、なんて言えないよ。
拷問されれば兵隊にも行くかも知れないし、
家族を人質に取られたら、まず折れるだろうな。
兵隊に行ったら「殺しません」では済まないだろう。
だから、仕方なしに人殺しをするかも知れない。
……だから、そうならないように、いまのうちに「戦争反対」を叫び、
言論の力でなんとかしようと考えるんだ。


と書いて、私が「日本が戦争になったら、逃げる。憲兵に捕まる前に自殺する。」
という意見を否定されましたよね。

つまり、あなたは、「愛する者が殺されそうになっていたら、相手を殺してでも止める」
と断言する以上、殺人を容認するということですよね?違いますか??
それでは、あなたに質問します。
「相手を殺して」から、あなたはどうするつもりなんでしょうか?
簡単に「相手を殺す」と云いますけどね。殺人なんてそうそう簡単に出来るものじゃないですよ。
そこには、自ずと自制力が働くものなのです。
それとも、何ですか?これは復讐(あだ討ち)だから良いとでもお考えなのですか?
確かに、昔日本には「あだ討ち」という制度が成立していた時期があります。
では、その制度は何故廃止されたのでしょうか?
仮に、あなたが「あだ討ち」をした相手に子供がいたとしましょう。
あなたの言に従うならば、あばたは、その子供の「あだ討ち」の標的にされても
仕方がないことになるのですよ。
そうして、「あだ討ち」の連鎖は延々と続き、収拾がつかなくなってしまう。
それに、人を殺した後、あなたは平静でいられると、お思いですか?
私には、とても「人殺し」の重みを一生背負っていくだけの自信もないし、
それだけの度胸もありません。
私から言わせて貰うなら、あなたの方が「スーパーマン」ですよ。

「あだ討ち」を是と考えるあなたが

「……だから、そうならないように、いまのうちに「戦争反対」を叫び、
言論の力でなんとかしようと考えるんだ。」

とは、矛盾も甚だしい話じゃないですか?
そとも、何ですか?1人を殺すことと、大勢の人を殺すことは違うとでも?
確か、あなたはどこかでそういった主張をしておられた記憶があるのですが…

戦争になったら、人を殺すかもしれないから、
そうならないように今のうちに「戦争反対」を叫ぶ。

一見まともな論理に思えますけれど、
「あだ討ち」を是とする考えの方が仰られることとは思えませんね。残念ながら。

じゃあ、あなたの愛する者が戦争で殺されたなら、あなたは誰に対して「あだ討ち」をするのですか?
あなたの愛する者を殺した兵隊ですか?もし、それが空爆だったら?ミサイルだったら?
戦争は、1人の力でおこせるものではありません。国家間の問題ですからね。
ならば、あなたは国を相手に闘うのでしょうか?
それこそ「スーパーマン」ですよ……

私が、あなたに伝えたいことはこれだけです。
それでも、あなたが納得いかないというのであれば、
あなたとは、根本的に理解し合えないと判断し、
絶交もやむをえないでしょう。

それだけです。では。

=============(引用終り)=============





( 以下は「「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(3)」につづく)


「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(1) 投稿者:園主  投稿日: 4月13日(日)02時59分55秒

みなさま、こちらでは「賢ちゃん」でお馴染みの彼(別 HN「ナイ」)が、サイト『鬼神降臨』を閉鎖して、4月1日から新サイト『Soccer DE Nacchi!』を立ち上げていたらしゅうございます。連絡がございませんでしたので知らなかったのでございますが、本日電話をいたしましたところ、その事実を初めて知らされました。それと、この3月末ごろに私が書きました、彼への「批判」に対して、昨日(4/10)、同サイトの「日記」ページである「Soccer DE Nacchi Diary」に、彼が「自分の考えを書いたから、反論があれば書いてもらって結構です」との話がございました。

ただし、私がそれに「反論」を書いても、それへの再反論については
「しばらくは時間をおこうと思っている」ということでしたので、
「どうして私の反論も読まないうちから、再反論は止めると決めているんだ? それでは「書き逃げ」だとしか思えないだろう」と追求いたしますと、
「あれには自分の信念というか、そういうところを書いたので、それを否定されたら最早議論は成り立たないからです」ということでございました。
そこで私は「信念を語るのは良いけれど、もともとの議論について有耶無耶にはなっていないのか? 君の戦争に関する意見が、その信念から必然的に出てきたように書かれているのか? 君の言い方を聞いていると、初めから逃げることばかり考えているとしか思えない。自分が説得力のある意見を書いたと思うんなら、議論しても仕方が無いなんてことを言う必要ないだろう。ともかく、君の意見が変わっていないというのなら、当然私は反論を書くだろうから、君も私の意見が間違っていると思うのなら、それを論破すべきだ。赤色が好きか嫌いか、つまり、根源的な感じ方の差というところまで議論が進んだのならばともかく、そうでなければ議論の一方的打ち切りは有耶無耶でしかない。それから、私が読んでいるかどうかもわからないところに書くのもどうかと思うし、だいいち私はどこに反論を書くんだ? また全文引用して、うちの掲示板で反論を書くのか? 私に反論するんだったら、うちの掲示板に書いてくれ。ひとまず、今回は読ませてもらって、反論があれば書くから、君もそれを読んで、うちの掲示板に書いてくれ」と申しますと
「わかりました。反論があれば書きます」ということでしたので、私はさらに
「反論が無いということは、納得して自分の過ちを認めたということなのか、単に沈黙しているだけなのか区別 がつかないので、その点についてはハッキリと書き込んでくれ」と申しますと
「わかりました」との返事でございました。





( 以下は「「有耶無耶にはしない」と公言した君へ(2)」につづく)


はじめまして! 投稿者:野茶坊  投稿日: 4月13日(日)00時14分01秒

みなさま、はじめまして! 楽しい論議と雑談(?)に加わらせてくださいまし。もっとも、私の性格上、「独り言」が多くなるかもしれません。ご容赦のほどを・・・。

園主さまと「同時代」掲示板で知り合い、園主さまがあちらを「退散」なさるとおっしゃるので、「待て〜」と、こちらへ押し掛けて参った次第です・・・。しかし、私のこちらへの到着が遅れている間に園主さまはあちらに再び登場しておられるようですね、予想はしていましたが・・・。 

inoさま、こんばんは。私は誰でしょう・・・?

yuaさま、はじめまして。私も学会二世です。壮年部ですが・・・。私の子どもたちは学会三世、時代は移りますね・・・。「確信」についてのyuaさまと園主さまとの語らい、興味深く読ませていただきました。信仰への「確信」を本当に得たら「成仏」しちゃいますよ・・・。私もそれなりの信仰体験は持っていますが(少なくとも主観的には)、そのときに掴んだはずの「確信」も、「遠ざかりぬ れば捨つる心あり」、人間の一念は刻々と変化するものです。信仰体験をもとに熱っぽく「確信」を語る人が、いつのまにか退転の隘路に迷い込んでいく姿を少なからず見て参りました。(あの山崎正友も、それなりの信仰体験はあったと聞いています)。また、「確信」を得て、信心・組織活動をがんばるようになり、役職があがるにつれて鼻持ちならぬ 傲慢な本性を露わにする幹部の情けない姿もあります。これも「退転と紙一重」だと私は冷ややかに見ています。「確信を得た!」と思った瞬間から、油断が始まります。「確信を得た」自分は他の人より「エライ!」と思ってしまいます。そこに落とし穴があります。信仰体験は大事ですが、信仰体験だけにもたれかかっていては、結果 的に「確信」は遠ざかると思います。一方でまた、「確信をつかめない」とおっしゃって信仰をやめながら、なお創価学会員であることはやめず、学会に熱いまなざしを向け続ける園主さまのような人もおられる。私は園主さまを「退転者」とは思っていません。まじめすぎる(?)正直な求道者と思っています。私のように、「確信」があるのかないのか自分でもよくわからぬ 状態でも、信仰をやめないのは、不まじめでいい加減だからだと思いますが、とりあえずその不まじめさを大事にしていこうと思っています(私の場合、「水の流れるような信心」といった立派なものではありません)。もちろん、不真面 目さだけではどうしようもありませんが・・・。ただ、私のような小心で気弱な人間でも、「何があっても必ず乗り越えていける、変毒為薬していける」といった自信のようなものが胸の奥に息づいていることだけは確かだと思います。これまで生きてきた中で、自分の力ではどうしようもないような壁にぶち当たった時、うろたえるよりも、「さあ、勝負だ!」と強気で御本尊に向かうという行動が、自然のうちになされてきました。これからも、そうしていくと思います。ただ、「日常への埋没」の中で、どう「確信」を深めていくのかが課題なんですが・・・。

・・・では、また雑談しに参ります。おやすみなさい。 


いつかどこかで(下) 投稿者:AOI  投稿日: 4月12日(土)18時15分08秒

☆影姫青夜さま

「殺人に関する短いフィルム」観ました。(以下ネタバレ)
ワルシャワの陰鬱な光景。ヤチェックが、影姫さまに見えてきていました。
ところで、影姫さまが10回もご覧になったのは、どこに惹かれてのことことなので
しょうか?最後の絞首刑になるところ?もしかして、これはMの影姫さまを限りなく
エクスタシーに誘うのでしょうか?それとも、運転手を絞殺するところ?肉体の断末
魔をリアルに描いていますが。


☆ユウくん

>アッ・・・こんなこと言っちゃった!影姫様ごめんなさい!
>ダダッ!!(逃走)

もう、行っちゃうのー!?

☆Keenさま

>温室に落ちたウサギ
>それって、もしかして、いきなり「シークレット」なんじゃないですか?

そうでしたの?ラッキー!!(嬉)
「アリスのティーパーティー2」は「温室に落ちたウサギ」「編み物をする羊」「思い悩むアリス」「大工」「セイウチ」と今のところ順調なのね。
でも、「思い悩むアリス」は泣きべそかいてて×。前回のおばさん顔のアリスといい不満。ちょっと、要求が高すぎるかな?
セイウチの足元にあるのは、二枚貝だけど牡蠣ではないような・・・。
「タイムスリップグリコ」のウルトラマンシリーズはどうも出目が悪いくて。
園主さまの洞察はあたっているのかも・・・。

グリコはん、あこぎなことしてまへん?

>赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』は、私のフェイバリットでございます♪

私も好きなんですけどね。
読んだ時に、既視感を感じたのはなぜだろう?と。
どうも、思い出せない。(思い悩むAOI)

☆杉澤鷹里さま

>まあ、本当に「非闘争的な小市民」が「花園」を訪れたりはしません(笑)。

おお、楽しみですね(笑)>園主さま
それにしても、「花園」って、やっぱりこわいところということでしょか?(笑)。


いつかどこかで(上) 投稿者:AOI  投稿日: 4月12日(土)18時10分43秒

☆楽古堂さま

>・ 同じことを繰り返していても、進歩は望めません。
>・ 自分のHPを持つというよりは、『天酒房』を解体させていきます。

「解体」するというのは並大抵でできることではないと思います。楽古堂さまなら、
「解体」し「再生」なさるでしょう。原稿を発表された折には、是非お知らせくださ
いね。
それから、お願いですが、アレクセイ、ホランド論をいつか書いていただきたいと思
います。
「神聖喜劇」ようやく読み終わりました。
「神聖喜劇」はいつか読みたいと思っていましたが、直接のきっかけになったのは、
園主さまの強力御奨めということに加え、楽古堂さまが、「神聖喜劇」を例にとっ
て、アレクセイ、ホランド論(と思われること)に触れられていたことでもありまし
た。それが、一体どういう意味なのか。
はたして、それがどういうことを意味していたのか、もう少し時間をかけて考えてみ
たいと思います。
それから、楽古堂さまの青春論(?)でもあるはずの、「寺山修司」も期待していま
すわ(笑)
これからも、よろしくお願いいたします。

☆園主さま

というわけで、「神聖喜劇」読み終わりました(笑)。今は、「終わってしまった」
という感じです。先を急ぎたいという衝動から引用がもどかしく感じたこともあり、十分に理解しないまま進んでしまったところもあってちょっと後悔。それでも、これだけ時間がかかってしまったというのは、私の読書能力とあいまって、一気に読み進むことができなかったということでもあります。
先日、「読書にあせりは禁物。じっくり読むことですよ」と言われていましたが、実感ですね(苦笑)。
心の深く沈潜したこの物語の言葉が折にふれ、いろいろなことを思い出させてくれるはずですね。そうでなかったら、この物語を読んだことにはならないと思います。

もはやそれは新しい物語り、−我流虚無主義の我流揚棄、「私は、この戦争に死すべ
きである」から、「私は、この戦争を生き抜くべきである」へ具体的な転心、「人間
としての偸安と 怯 懦と卑屈と」にたいするいっそうの本格的な把握、「一匹の犬」
から「一個の人間」へ実践的な回生、・・・・・・そのような物事のため全力的な精
神の物語、・・・・・・別 の長い物語でならなければならない。(「神聖喜劇第5巻」
末尾)

>表面的『うんざりするくらい平和で変化のない町』、表面的には「優等生」ぞろいの学生たち。しかし、その裏側で「息がつまりそうな不安と恐怖」が彼らの中に蟠っていた。
……12人の生徒と1人の教師の命を奪ったコロンバイン高校銃乱射事件の町リトルトンは、そんな「ツイン・ピークス」そっくりな町だったのでございます。

リトルトンと「ツインピークスの町」、とてもよく分かります。
私も、町を想像していました。
町は、眩しいほどの光に満たされていて、それでもそこに生きる人々が、光に満たされているとは限らない。残酷な光に照らされているということも。光に罪はないけれど。


>未だに新作二泊三日が500円もするのでございますから……(-_-;)。

あんまりですね。

>私は『夢よ叫べ』がとても気に入りました。……予想どおりなのではございませんか?(笑)

気に入っていただけてよかった!
エンケンの昔ファンのinoさまにもおすすめ!
もちろん、みなさまにもね。


憎悪 投稿者:ino  投稿日: 4月12日(土)07時25分49秒

杉澤鷹里さま

はじめまして。レスありがとうございます。

>私自身は「怒り」や「憎悪」を駆動力として成立するような行為は、それ自体が新たな「怒り」や「憎悪を」喚起するものであると考えています。世界の種々の出来事に伴う衝撃を「恥じ」として感覚することが、私の立場です。

『「恥じ」として感覚する』、初めて体験する言語体験です。おっしゃている「恥じ」とは世界に無関係ではありえない「自分」をも「恥じる」と理解してよろしいですか?

私が書いた「怒り」「憎悪」は、人を手段にして目的を遂げるという「権力」という「魔性」に向けられます。この「怒り」「憎悪」は当事者以外忘れやすいものと思うのです。そういう意味で、アレクセイさんの言葉をお借りし、思いを書きました。極悪に対し有効な行動が、憎悪の行動に限定されるとは思いません。ガンジー、キングの行動はそれを昇華していたのですから。


難問 投稿者:杉澤鷹里  投稿日: 4月11日(金)23時22分08秒

☆アレクセイさま
>> 非闘争的な小市民ですから。ただ。ちょっとだけ、イタズラ心が旺盛なだけです。
>というような文章を書いていると、貴方の成長はこの「安全圏」の中でこじんまりとまとまってしまうことでございましょう。

 まあ、本当に「非闘争的な小市民」が「花園」を訪れたりはしません(笑)。殻というよりは「筒」として、私の「一歩退く」態度はあります。つまり、そこに全力を叩き込むべき本当の目標以外の、余計な夾雑物を避けるという意味合いで、すぐに譲歩するところはあるようです。
 とはいえ──アレクセイさまの嗜好もそうだと思うのですけど──全体としては破綻しているけれど、他にはないスゴミを宿している、というものへの欲求は、強いほうですから、今後「筒」はじける「暴発」した投稿もさせていただきたいと思います。

>「自己顕示欲」も感じられますし
 これまで、恬淡とした態度が理想であったのですが……。
 最近、急に抑制が利かなくなってしまった、と自分自身思います。それは、私が「破壊者の幻想譜」はじめるそのきっかけになった人物の影響が強いと思うのですが、それは余計な話ですね。

>私に「お世辞」は通用いたしません
 出鱈目で無根拠で思いもしないことで、ヒトを褒めても、褒められるヒトも周りのヒトもそして何より自分自身が面 白くない、というのが私の考えです。まして、相手が「アレクセイ」ともなれば、その思いはなおさらです。ですので「お世辞」を述べるつもりは・述べているつもりはありませんから、ご心配なく。

☆楽古堂主人さま
 『クレシェンド』ノート、興味深くよまさせていただいてます。近日中に、その感想を提出いたしたいと思います。

☆ホランドさま
>では、Keenさまのどういうところを、そこまで慕われているのか、その説明をぜひお願いします(笑)。

 えっ。なんでだろう? ……うーん、うーん。困ったなあ。すごい難問です。しばらく、お時間をください(笑)

☆Keen姉さん
>「Keen姉(姐)さん論」もいずれ書いてくれるってこと?楽しみにしてるわね♪

 うーん、うーん。

☆ユウさま
 はじめまして。

 影姫様に「よろしければ、うちにも小説を投稿ください」とお伝えください。「「日向クン」じゃなかったかしら」ともお伝えください。


☆AOIさま

>> (モジモジ)・・・恐縮です。
>これに騙されてはなりませんよ。
との園主さまのお言葉。
 成る程。
 了解しました!(笑)

☆inoさま
 はじめまして

>「怒り」「憎悪」を共有したいからです
 非常に難しい問題です。
 私自身は、「怒り」や「憎悪」を駆動力として成立するような行為は、それ自体が新たなる「怒り」や「憎悪」を喚起するものであると考えています。世界の種々の出来事に伴う衝撃を「恥じ」として感覚すること、が私の立場です。


Re.恐怖の研究(中) 投稿者:ino  投稿日: 4月11日(金)21時28分28秒

ホランドさま

返答になっているかどうか解りません。そうでなければ申し訳ありません。
私の考えでは、「信じる」という心の状態に至るには、信じるに値する体験が不可欠であろう、ということです。少なくとも私の経験ではそうです。
 私の息子は中2になりますが、問題解決のために、祈って、その結果問題を解決し、信仰を深めていくと言う経験はないようです。今は親のいうように勤行・唱題をしていますが。私としては困難に対し、祈り、解決する体験を深めて欲しいと願っています。


若葉 投稿者:ino  投稿日: 4月11日(金)21時12分50秒

園主さま

>我々はついその「後ろめたさ」から大仰にそれを嘆くポーズを取りがちでございます。ですがそんなことをしても、その「嘆き」がろくすっぽ持続しないような薄っぺらなものであったなら、そんなポーズには何の意味もございません。

>その「怒り」と「憎悪」を腹の底に秘めて、終わることのない「世界への抵抗戦」のエネルギー源にしなければならないと言うのでございます。

この二点は、非常に重要なことをおっしゃっていると思います。私が梁石日、姜尚中、岡庭昇、チョムスキーを読むのは、「怒り」「憎悪」を共有したいからです。またそれを思想化したい。今回のことも、親を目の前で殺されたイラクの少女のそれを、胸に刻みます。自分自身がいかなる場所に立つのか、今ほど問われているときはないと思います。


今日はちょっとだけ。 投稿者:Keen  投稿日: 4月11日(金)17時25分26秒

☆楽古堂さま

……ショック☆
これから、計画的なファイル保存に努めねば……
書きたいことはいろいろありますが、今は言葉になりません。
いずれまた。

赤江瀑『殺し蜜狂い蜜』は、私のフェイバリットでございます♪
園主さま情報によると、ハルキ文庫から『ニジンスキーの手』が復刊されており、そこに入っているはずです。赤江さんの、最も初期の作品ではなかったかと記憶しています。
竹本さんの『狂狂』とともに、名作ですので、ぜひお読み下さいませ。
(※『狂狂』は絶版ですが……/泣)

☆園主さま

「セイウチ」が欲しいよー(泣)。
足元の、牡蠣が気になってます。実物はどうですか?
11個買って、7個でました。あとは「セイウチ」と「羊」です。

>『「全体小説」化』

一番最初にこれをやったのは、バルザックの『人間喜劇』でしょう(他には、ゾラも有名ですが)。もちろん、ダンテへの挑戦です。園主さまイチ推しの大西巨人『神聖喜劇』が、『神曲』の原題の直訳ですから。
中井さんもバルザックにはかなりの影響を受けてますが、この手法が、「その時代・社会の雄大かつ精密なフレスコ」を描くのに有効である、という考えから来ているのでしょうね。
それが成功するかどうかは、個々の作家の力量次第、というところでは。
中井さんは、『虚無への供物』一冊きりで、これをなし遂げてしまったんじゃないかと思います。

ところで、泡坂妻夫さんの『「全体小説」化』って、私は知らないのですが、まさか、「亜愛一郎の歴史と生涯」みたいなのが……?(ドキドキ☆ワクワク♪)

本日はこれにて。



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