●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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けむりが目に沁みる。 投稿者:AOI  投稿日: 5月20日(火)00時54分04秒

inoさまに「大先輩」なんて言われてしまいましたが、そういえば、楽古堂さまも影姫@カンノンサマ(せどり公爵)さまも最近とんとお見えではないですね。
扶宮さまがたま〜に顔出ししてくださっていますが、このところ、私が一番の古株ということ?
みなさま、見守ってくださっているのでしょうけれど・・・。

☆Keenさま

>思ったことには、ナンダ、これは「ロック・コンサート」ではないか、ということでした。

おお!同感!
『カストラート』は『ベルベット・ゴールドマイン』の次に見たのでした。ので、なおのこと(笑)。
また、また『ベルベット・ゴールドマイン』が観たくなりましたわ!

☆園主さま

>八尾の猫さまがお好きな『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のアン・ライス
にも、カストラートを主人公に据えた「耽美(やおい)小説」があったと記憶しま
す。

原作は読んでいませんが、映画『インタヴュー・ウィズ・バンパイア』は、泣けましたね。
ブラピ、麗わし〜。微熱のある、ちょっとむくんだような顔がなんとも・・・(目が
ハート)。俳優を辞めようかと悩んでいたらしいですけど(笑)。

>ところで、『♪〜カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは〜〜〜』という、ク
マのぬいぐるみがラインダンスをするCMは、聞くところによると、相当に有名なものであるはずですのに、テレビっ子であった私には、それを見た記憶が、とんとございません。このCM、関西では流れていなかったのでございましょうか?

そうかもしれません。私も、大阪にいるときには見た記憶がないですもの。
はじめて見た時には「あり〜、これがー!」
今もやっていますよ。最近見た記憶あり。
クマのぬいぐるみのラインダンスも今なら、もっとリアルに創れるでしょうに
(笑)。
クマのぬいぐるみ4匹座ってるの私のお茶碗に(笑)。


>それにしても『『バルタン星人』(\500)と『ペギラ』(\800)』をお求めになる
ようでは、かなり病気が進行しておりますね(笑)。

ウルトラマンより怪獣ね(笑)。
龍の出てくる衝撃をジオラマにするっていうのは、どう?
これら怪獣をみていたら、龍があっても不思議じゃないわ。竹本さん、大儲け(笑)。

 

Re「実証はここにあり(5)(6)」 投稿者:ino  投稿日: 5月19日(月)00時21分27秒

アレクセイさま

レスありがとうございました。

>つまり私がinoさまをはじめ「信仰者」の方に求めているのは、もともと持っていたはずの「非信仰者」としての目の確保なのでございます。〜「独りよがりな盲信への埋没」を防ぎうる・・。

 「非信仰者」と「信仰者」の対話の姿勢としてそこまで考えておられたのですね。ある意味要求のみをしてしまうことが多々あります。心したいと思います。

>あえて「自分を批判にさらすこと」は誰にでもできることではございません。その意味で、貴方はもっと、自信を持ってよいのでございます。

 正直なところ、「同時代を考える掲示板」にあのような様式でアレクセイさんへの返答とすることが、正しいことなのか、分かりませんでした。かつアレクセイさんの厳しい批判・批評を大げさかも知れませんが覚悟していました。この言葉素直に受け止めさせていただきます。確かに私の欠点は自信をもてないことです。それゆえ心に入れさせていただきます。ありがとうございます。
 ただし、あのイラク攻撃になぜ私の師匠は提言のみではなくはっきりとご自身からと、党への反対をされなかったのかという問いは難問ですので、今も私の心の中で続いています。

>そして「嘆く自分」を克服して成長していくためには、今回、マルメラードフさまになすったように「他者を励ます」という行為をなさることでございます。そうすれば、自己を「嘆く」だけではすまないし「嘆いているばかりいる」閑もなくなり「まず自分が強くならねば」と思えるようになるからでございます。

 マルメラードフさんには個人的な恩があります。無意識のうちにその恩返しをしたいと思ったからかもしれません。環境的に学会でいう「家庭訪問」、自主的な対話を、体調も良くなりつつありますのでして行こうと思います。

短くてすみません。


実証はここにあり(15) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時34分18秒


 マルメラードフ さま(つづき)

>> いずれ「カラオケ対決」をいたしましょう。

> ええ受けて立ちますぞ!レパートリーの少ない僕は
> 専ら懐かしの懐かしのアニメメドレー、太鼓持ちタンバリンですが♪♪

『受けて立ちます』と言った以上は、『太鼓持ちタンバリン』は許されませんぞ。全力で懸かってまいられませ(笑)。

しかし、勝負は見えておりましょう。なにしろ『懐かしの懐かしのアニメメドレー』は、私の本領中の本領。私は『アニメージュ』誌を、創刊号から100号まで揃いで持っている「往年のアニメファン」(当時はまだ「オタク」という呼称はございませんでした)。高校生時代には、マンガ部の副部長をつとめた「その道の猛者」でございますからね(笑)。
ほんの二ヶ月ほど前にも、「現役のアニメオタク」を自称する十ほど年下の同僚と、差しで「アニメ・特撮オンリーのカラオケ対決」をし、7時間にわたって歌いつづけた挙げ句、「さすがですねえー。参りました」と彼に言わしめたのでございますから(自慢/笑)。

まあ、私と対決するまでに、しっかり「訓練」をつんで下さいまし。レパートリーが少ないと嘆くだけではダメでございますよ(笑)。私など、どんどん新曲を開発しているのでございますから。つまり……「♪ これも修行ぞ 苦は愉し」でございます(笑)。


 Keen さま
> 感想やレス、書きたいことはいろいろありますが、今週はサッカーで体力が尽きてしまいました……
> いずれまた☆

了解。ゆっくりなさって下さいまし(^-^)。


 ホランド
なかなかビデオ・DVD上映会の機会が持てなくて申し訳ない。もうすこし待ってくれ。
たぶん、その前に『あずみ』か『Xメン 2』にお誘いすることになるだろう。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


実証はここにあり(14) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時33分28秒


 マルメラードフ さま(つづき)

> 僕の書き込みがこの掲示板の価値を下げてしまうことを申し訳なく思います。

そんなことはございませんよ。どんな書き込みも、この掲示板の価値を下げることはできません。「掲示板荒らし」の書き込みでさえ、結果 としては、私と「花園」の評判を高めたのでございますからね(笑)。
もっとも、自分を高めようという(反省の)意志のない輩、つまり進歩のない輩を相手にするのは、「(マンネリの座談会同様)時間の無駄 」でございますから、適当に切り捨ててはおりますが、貴方さまはそういう輩とは違い、「自分を高めよう」と願い、「反省」し、それ故に苦しんでおられるのでございましょう? ならば、inoさまが身をもって示されましたとおり、貴方さまも必ず「進歩」いたします。だからこそ、私も、喜んでおつき合いさせていただいているのでございます(笑)。

> 個人的なことですが、園主さまの大聖人観に興味があります。
> 普通日蓮信仰者は日蓮を「大聖人」、宗派によりましては「日蓮聖人」という尊称で、
> 非日蓮信仰者においては往々にして「日蓮」とで言い表します。
> 信仰そのものの実効性に疑問を抱かれていらっしゃる非信仰者の園主さまが
> 「大聖人」と表記されるとき、些かの違和感を感じているのです。

これはとても面白い着眼点でございます。と申しますのも、学会員の皆様からすれば、この点については、私に対し、貴方さま同様の疑問を感じるのは当然だと、私自身も思うからでございます。

端的に申しますと、私が「日蓮大聖人」と呼称するのは、それに「慣れており」それが「自然だから」でございます。
例えば、私は、学生時代の恩師に会えば、彼のことを全然尊敬していなくても「○○先生」と呼ぶことでございましょう。この「先生」をいうのは、本来「尊称」なのでしょうが、日常的習慣的に使われる過程でその意味を失い、ある種の「職業呼称」でしかなくなっております。つまり私が、その「教師」を「○○先生」と呼ぼうが「○○さん」と呼ぼうが、その人に対する私の「人間評価」内実は、すこしも変わらないのでございます。しかし、だからと言って、ことさらその「習慣」に反する呼び方すると、無用の「誤解を招くだけ」ですので、私は便宜的に、彼を「○○先生」と呼ぶわけなのでございです。

それに比べると、私は日蓮大聖人を、積極的に尊敬しております。ですから、「日蓮」と呼び捨てにするよりも「日蓮大聖人」と呼ぶ方が、私の気持ちに適っております(「日蓮聖人」という呼称は、慣れてもいないし、気持ちに添ってもいないので使いません)。しかし、私が「心の師」と仰ぐ大西巨人の場合のように、個人的に会えば「先生」とか「大西さん」と呼んではいても、公の場で、彼を客観的に論じる時は「大西巨人」と呼び捨てにいたします。これは評論などを書く時に、作者の名を呼び捨てにするのと同じことで、これは大聖人についても同様でございます。つまり、客観性を問われる場合には「日蓮」と書く、ということでございます。ですが、通 常は自分の気持ちを優先して「日蓮大聖人」あるいは「大聖人」と書くのでございます。また「大聖人」という呼称は「何も創価学会の専売特許でも、独占物でもないだろう。そう呼びたい者が、そう呼んだら良いのだ」という気持ちがあるのも事実でございます。

ついでに申しますと、私が池田大作氏を「池田先生」と呼ばないのは、池田氏が、私の「学校教師」でもなければ、「信仰上の師匠」だと思ったこともないからでございます。私にとっての池田氏は、あくまでも「創価学会の優れたリーダー」でしかございませんでした。それを不本意にも、「師」と考えろと指導され、「池田先生」と呼ぶことを自明の前提として押しつけられたと考えますから、そこから自由になった今、私は自分の実感に則して、決して「池田先生」とは呼ばないことにしたのでございます。





( 以下は「実証はここにあり(15)」につづく)


実証はここにあり(13) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時32分40秒


 マルメラードフ さま(つづき)

つまり、今までは『軽度の精神疾患』を口実にサボっていた会合について、次からは「気が進まないから」行かないと言うのでございます。
当然、相手は納得しないでしょうが、「イヤなものはイヤなんです。強制するんですか? 無理にでも引っ張っていきますか?」と抵抗した上で「気が向いたら、参加しますから、今はそっとしておいて下さい」とでも言うのです。そして、つぎは「会合がつまらないから、行きたくありません」とハッキリ言う。そして何がつまらないんだと問われれば、「毎回お馴染みの内容では、退屈するのは当然です。工夫を忘れ、歓喜を忘れて、マンネリ化した会合に、義理で参加する時間が合ったら、私は家で題目をあげておきます。面 白い、中味のある会合が企画できたら、また誘いに来て下さい」と言うのでございます。

これはひとつの例として示したものですから「二段階」ですが、実際にはもっと段階を踏んでもかまいません。ですが、要は「すこしづつ、本音を言うように努力する」ということなのでございますね。

端的に申しまして、貴方さまの「罪悪感」は、「嘘をついている」という認識に発したものであり、「会合をサボっている」ことが問題なのではございません。ですから、貴方さま自身も「納得できるような(正直な)理由」をはっきりと口にできるようになれば、貴方さまの「罪悪感」も消え失せることでございましょう。
じっさい「会合がつまらないから、行きたくありません」「毎回お馴染みの内容では、退屈するのは当然です。工夫を忘れ、歓喜を忘れて、マンネリ化した会合に、義理で参加する時間が合ったら、私は家で題目をあげておきます。面 白い、中味のある会合が企画できたら、また誘いに来て下さい」と言われて、反論できるような地区幹部がどれほどいましょう? じっさい「そんなことはない。うちの会合に出席すれば、歓喜百倍です」とハッタリではなく言い切れるような会合なら、貴方さまだって逃げ回ったりはいたしますまい。

私も、貴方さまと同じような経験を経て、最後には「私には読みたい本が山ほどあり、やりたいことが山ほどあります。なのに、その貴重な時間を、代わり映えのしない会合に参加して、潰すわけにはいかないんですよ。いつもとは違うぞ、というほどの会合が企画できたなら、また誘いに来て下さい。でも、それに参加して、失望したら、私は貴方の言うことを二度と信用しないし、二度と会合には参加しないでしょう」と言ったのでした。それ以来、会合のお誘いは、とんと無くなりましたよ(笑)。

ともあれ、ここまで言うには相当な「勇気」が必要で、決していきなりできることではございません。ですから、今すぐにできなくても構わないのでございます。訓練しないで、プロレスのリングに上がることは出来ない、というのは「当然のこと」なのでございますよ(笑)。

ともあれ、大切なことは「できないことを嘆く」のではなく、「できる自分に成長する」ことなのでございます。貴方さまが「本音」を語れるようになれば、貴方さまの参加した会合も、きっとそれまでのマンネリを脱して、刺激的なものになることでございましょう。貴方さまが成長することは、学会組織のためにもなるのでございます(笑)。





( 以下は「実証はここにあり(14)」につづく)


実証はここにあり(12) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時31分44秒


 マルメラードフ さま
> レスが慢性的に遅れてしまうことをどうかご容赦ください。

ええ。よたろうさまと同様でございます。レスを焦る必要はございません(笑)。

>> 「悪口を言われたくない」とか「憎まれたくない」といった気持ち
>>「発言すること」を怖れぬ勇気であり「覚悟」(<ホランドくん)

> このホランドさまの言葉は僕のネット上での卑怯な立ち回りを言い表しています。
> inoさまと出会ったサイトでは個人情報を共有した緊密な付き合いが
> なされていますので内に秘めた疑念を隠し、弟子であるかのように振る舞い、
> 某掲示板においてはHNを変え本音をぶちまけるためのガス抜きに利用しているという欺瞞。
> そこにございますのは個人的に慕う者たちから拒絶、集団から排除されることへの恐れ。
> 地元組織においても、選挙、会合のたびに軽度の精神疾患を口実に逃げ回るという有様です。
> これでは大聖人の弟子を自認することもできません。

そこまで、ご自分をお責めになる必要はございません。ホランドくんが書いたのは、私の「非凡性」なのでございます。ですから、その真似ができないのも、「当然」なのでございますよ(笑)。

よろしいですか。「理想」を高く持つのは、好ましいことです。しかし、そのために「自虐的」になって畏縮したのでは、本末転倒でございましょう。
貴方さまが「すべきこと」「考えるべきこと」は、「できない私は情けない」という「自虐」ではなく、「どうすれば、少しでもできるようになるか」を考え、それを少しづつ、実行に移すことなのでございます。





( 以下は「実証はここにあり(13)」につづく)


実証はここにあり(11) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時30分09秒


 よたろう さま(つづき)

> 私にはどうも自分が何かを思いついた時点で、それを結論だと決めつけてしまうという性急さ、怠惰さがあったようです。

そのようですね。今回のお返事に見られる「性急な禁欲主義」も、その現れでございましょう(笑)。
ですから、確かにそうした「極端さ」は、一種の「欠点」ではございます。ですがまた、そうした「性急さ」「禁欲主義」は、若者には必要な「美点」でもございましょう。
いつまでも「練れていない」それに終ってしまっては困りますが、だからこそ、それらの「美点」を、「青年の美点」に終らせず、「人間としての美点」にまで練り上げることが、貴方さまの今後の課題なのでございましょう。

このことは、AOIさまが、

> 人間は多かれ少なかれ、自己顕示欲というものはあると思うし、「被崇拝願望」があるからこそ、人から尊敬を得ようと努力しようとするわけで、その向上心は決して否定されることではないと思う。

とお書きになられていることと、まったく同じことでございます。つまり、問題は「自己顕示欲」でも「被崇拝願望」でも「性急さ」でも「禁欲主義」でもございません。それらの「存在」自体は、問題ではない。
真の問題。……それは、それらに「捕らわれてしまうこと」なのでございます。

> 出直すとか、修業し直すと言った大げさな意味ではありませんが、今しばらくは日常生活の中で自分の方法を改めるための時間を取りたいと考え、しばらくは発言を控えようと思います。無論、こちらの花園は常に読まさせていただきますし、また疑問に思ったことなどがあったら、それらには質問させていただきたいと考えています。

ええ。「性急に」返事を下さる必要はございません。おつきあいは末長いのでございますから(笑)。





( 以下は「実証はここにあり(12)」につづく)


実証はここにあり(10) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時29分20秒


 よたろう さま(つづき)

> 実際にはまず最後の結論部分を思いつき、それをゴールと思い込んで、そこに向かって自分の都合よく肯定的に論を重ねていたということが判りました。これはゲリマンダー的な方法で、卑怯なやり方ですね。自分の最初の「思いつき」をゴールにしてしまっては、思考はそこで停止してしまい、発展もなければ、自己批判もなくなってしまいます。それに自分の文章を読んだ人に対して、無責任な態度だと気付きました。

そこまでおっしゃる必要はございません。ある程度、目的地を設定して、考えを進めていくのは、「便宜的に有効な手段」なのでございます。
問題なのは、その「便宜的手段(目的地)」を「絶対化」することなのでございますよ。

例えば、私も評論を書く場合、ある程度の「見通し」や「結論」を念頭において書きはじめます。しかし、出発点から「論理的」に議論を進めていけば、当初の予定とは違ったところに到達することも、ままございます。でも、それは「細かい検討を経た結果 」なのですから、「細かい検討を経る以前の予測」と違っても、何ら問題はございません。私は当然のことながら、「検討の結果 」を選ぶのでございます。

> 自分の発言を解体してみたとき、自分がいかに自分の言葉に対して「不誠実」であったかを思い知る結果 となりました。何故なら、自分の考えた理屈を小説に当てはめて考えた場合、結局「不正確な描写 は、許されるべきだ」と言っているのだということに思い至ったためです。小説においては、不正確な描写 は作者がどのように誠実であろうとも、許されるものではありません。何故なら、読者は作者の隠された誠実さなどまったく忖度できないからです。しかし、自分の心の中を表出する際には、それは許されると考えることは、実は無責任であり、甘えた考えであり、やはり不誠実にしかならないのですね。

貴方さまの「禁欲的」な考えも、悪くはございません。しかし、現実を無視した「禁欲主義」は、単なる「教条主義」となって、「思考の論理性」を歪める結果 ともなることを、決して忘れてはなりません。

人は「できることしか、できない」。それで「評価(理解)されなければ、仕方がない」。これは動かし得ない「事実」でございます。もちろん「やるだけのことをやったんだから、評価(理解)されなくてもいい」という「事実」を盾に、「やるだけのことを、やらない」のは間違いでございます。ですから、「小説」であろうと何であろうと、結論は「人事を尽くして、天命を待つ」。……人間には、これ以上のことは、したくてもできないのでございますよ。

これは、inoさまがおっしゃった、

>  迷いや多面的であることそのものは、人間として自然なことと思います。ただ多面 的であることがダブルスタンダードに陥ったり三枚舌に陥ったりすることは、自戒すべきものと思います。こう言いながらも、自分自身のことにはなかなか気づけないものだと思います。それゆえ自分を批判にさらすことは大切なことだと思います。

と、まったく同じことなのでございます。

ともあれ、貴方さまの、

> 下手なレトリックなど使わずに『己の曖昧な思考を誠実な姿勢で語る』と言えばよかったのです。無論、『杉澤様の問題』とはまったく無関係になってしまいますが。

というのは、正解でございましょう。『レトリック』というのは、「他人に仕掛ける」ものばかりではなく、じつは、より以上に「自分にも仕掛けてしまう」ものなのだということを、今回の例から学ばれると良いのではないでしょうか。





( 以下は「実証はここにあり(11)」につづく)


実証はここにあり(9) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時28分15秒


 よたろう さま(つづき)

> 例えが悪いかもしれませんが、「ゴキブリの羽のように黒いアレ」と置き換えられたものが、実は「漆塗りの茶碗」だったという場合、これは『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』したとは言えませんでしょうか。

「漆塗りの茶碗」を「ゴキブリの羽のように黒いアレ」と「言い切る」彼にとっては、「それ」は、「漆塗りの茶碗」ではなく、「ゴキブリの羽のように黒いアレ」そのものでございます。
つまり、この時の彼の内面では、確かに「表現においては、誠実」でございますが、その一方「認識においても、明瞭」だということになります。したがって、これを『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』した実例だ、とすることはできません。主観的には、彼には「曖昧」な点など無いのでございますからね。

またもし、彼が「それ」を「ゴキブリの羽のように黒いアレ」ではなく、「ゴキブリの羽のように黒いアレとしか形容のしようがないんだけど、どうもその形容は不適切であり、たぶんそれは他の人から見たら外れた形容で、だから他に色々と形容を重ねていくと………という感じの、アレ」と認識しており、その彼が充分に『誠実』なのであれば、彼は「ゴキブリの羽のように黒いアレとしか形容のしようがないんだけど、どうもその形容は不適切であり、たぶんそれは外の人から見たら外れた形容で、だから外に色々と形容を重ねていくと………という感じの、アレ」と『誠実に』語ることによって、自分の「認識の限界」まで「漆塗りの茶碗」に近づけて見せることでございましょう。
したがって、「漆塗りの茶碗」を「ゴキブリの羽のように黒いアレとしか形容のしようがないんだけど、どうもその形容は不適切であり、たぶんそれは外の人から見たら外れた形容で、だから外に色々と形容を重ねていくと………という感じの、アレ」と認識しているのに、彼がそれを横着にも「ゴキブリの羽のように黒いアレ」と表現したのなら、それは『誠実』だとは言えないのでございますよ。

このようなわけで、やはり『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することは不可能であり、貴方の示された事例では、私の認識を覆しえないと考えます。

> 手持ちのレゴブロックには大きなものしかない。それを使ってどうにか象の形を作ったとき、それを見た人間は「そんなものは象ではない」と言うかもしれない。しかし、送り手側としては、とにかく自分のイメージする象を手持ちのレゴブロックで作り上げたのだから、その「二位 の誠実さ」は責められるべきではないと思うのです。

そのとおりでございます。彼が『誠実』に、「漆塗りの茶碗」を「ゴキブリの羽のように黒いアレ」としか形容できないのなら、そのこと自体は責められるべきではない。しかし、その「ゴキブリの羽のように黒いアレ」という形容が「不適切」だという事実は指摘されるべきですし、そのような不適切な形容に止まっている、彼の怠惰(ブロックの細分化への努力不足)とその現状は、非難されてしかるべきでございましょう。





( 以下は「実証はここにあり(10)」につづく)


実証はここにあり(8) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時27分07秒


 よたろう さま(つづき)
> 「誠実さ」

> 「手持ちの材料がないので作れない」と答えることを「一位の誠実さ」と便宜上呼ぶことにします。これは「判らないことは言わない」という誠実さです。

> 「判らないなりに真剣に考えよう」と思うこと、つまりレゴブロックで象を作れと言われたときに、手持ちのレゴブロックで何とか象の形を作ろうとすることの誠実さ、語るという姿勢においての誠実さを「二位 の誠実さ」と便宜上呼ぶことにします。これは語る動機において「一位の誠実さ」よりも純粋ではないからです。

貴方さまのおっしゃりたいことは、よくわかります。しかし、私は、一位と二位 が「逆」だと存じます。

と申しますのも、人はいつでも「決定的な正解」を認識することができず、自ずと可能なのは「その時点での、精一杯の解答」だからでございます。ですから、貴方さまが「ニ位 」で示されていることが基本であり、「一位」で示されていることは「例外」に過ぎない。で、どういう場合の「例外」かと申しますと、それは貴方が示された「二位 」の解答を、相手がどうしても「二位」の解答だと理解できず、「一位」的に「絶対的な解答」だと誤解する可能性が高く、そうなると色々と弊害の出ることが予想されるような場合でございます。
なぜ、このように『判らないことは言わない』を「例外」扱いにしますかと申しますと、このテーゼを「正しい」とした場合、頭の良い、ものの見えた人間ほど「言わない」こととなり、世界は「思い込み」だけで語る者の「暗愚の言葉」に満たされてしまうからでございます。

> 「曖昧さ」

> 『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することは、果たして可能なのか。それは原理上は不可能である。何故なら、思考している以上、それは曖昧ではない。感じたことやイメージなどを思考した瞬間、つまり言語に置き換えた瞬間から、それは曖昧ではなくなる。それは園主様の仰る通 りです。それが言語の役割とも言えます。

「自己の内面においては」そうだということでございます。

> しかし、曖昧な言説というものは存在します。その中には、考えが言語に置き換えられる際に、語彙の問題が起こるからだと思われるものがあります。つまり語彙が乏しいがために、置き換えの際に自分の考えと近似にならない、故に曖昧になるという場合です。

おっしゃりたいことはわかります。つまり、「微妙なニュアンス」を伝える「言葉がみつからない」場合が現実にある、というのでございましょう。
しかし、所詮それは、「曖昧」を「曖昧」という言葉以外には置き換えられないという話であり、すでに議論は済んでいるものと存じます。つまり、曖昧について可能なことは、面 倒でも「周囲を固めること」でしかないのでございます。





( 以下は「実証はここにあり(9)」につづく)


実証はここにあり(7) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時26分11秒


 よたろう さま
丁寧なご意見を下さり、まことにありがとうございました。

ご意見に触発されて考えたことを、以下に記させていただきます。

> まず、言語のイメージとして、私は
> -----------------------------
> 個人は大小様々なレゴブロックを所有しており、それを組み立てて形にすることで考えていることを表出する。
最小のブロックは単語であり、より大きなブロックとして定型文とか慣用句などがある。
> 例えば象をレゴブロックで作る場合、すべて最小ブロックで作成するのが一番心の中の象のイメージに近くなるが、やはりそれは心の中の象その物ではなく、やはりモザイクのかかったようなブロックの象に過ぎない。
> つまり、考えたことを言葉に置き換えて表現する際には、常に近似値である。
> ------------------------------
> このように捕らえています。

これは面白い「思考・認識モデル」でございますね。

私はこの『大小様々なレゴブロック』という発想から、そもそも「それはどこから来たものか?」と考えました。そして、それは「幼時が世界を分節化する中で得た、世界の断片(構成要素)だと考えました。
つまり、発達心理学が示すとおり、幼時の最初の認識は「分節化」以前の「渾沌=無意味」でございます。それが「観察=思考」によって、「動いている部分と動いていない部分」あるいは「刺激ありと無し」といった、ごく単純な区別 から「分節化」が始まり、やがてそれは「明るい部分と暗い部分」が「白っぽい部分と黒っぽい部分」になり「色が多様化」していき、またその一方で「動いている部分と動いていない部分」が「よく動く部分と、あまり動かない部分」を経て「よく動く細長い部分とその近くのあまり動かない丸い部分」といった具合に「分節化」が進行してゆき、その間に子供の中には「明るい」「暗い」「白い」「黒い」「中間くらい」「動く」「動かない」「近い」「遠い」「細い」「太い」「長い」「丸い」「四角い」「嫌な」「好ましい」などのブロックがどんどん増えてゆき、やがてそれらが一定の量 に達すると、彼らは、私たち大人が見て「象」と認識しているものを、同様に「象」として認識し、「象」という大きなブロックを手に入れるにいたるのでございましょう。

しかし「象」という大きなブロックが、じつは細かなブロックによって構成されているという事実を忘れ、細かいブロックの観察を忘れてしまうと、細かいブロックは「癒着」して、「象」という分解不可能な、一つの大きなブロックなってしまいます。で、そうなってしまうと、彼には「アフリカ象」と「インド象」の区別 がつかない、ということになるのでございますね。

つまり、「思考要素としてのブロック」というのは、ある一定のものが、皆に同じように与えられているのではなく、それぞれがそれぞれに手作りしたものなのでございます。ですから、物事をよく「観察」し、その「意味を思考(=分節化)」する人は、小さな(繊細な)ブロックを手に入れることが出来、世界をより繊細に把握(=描く)ことが可能となりますが、小さなブロックで構成された大きなブロックの「簡便さ」に寄り掛かって、自ら「観察=思考」することをしなくなった人の場合は、小さなブロックが、大きなブロックレベルで癒着して、結局は大きなブロックしか持たなくなり、自ずと世界を大雑把に(歪に)しか描けなくなるのでございます。

ですから、各種の学者や専門家が、その並外れた観察眼によって把握した「微細な現象=ブロック」を表現するために、そのブロックに新たに与えた名前が、いわゆる「専門用語」だとも申せましょう。ところが、世間にはこの「名前」だけをありがたがって、微細なブロックの存在そのものを観察しようとはなさらない方が大勢おられます。そのため、世間には、難し気なことを語りながら、じつは何も考えていない(わかっていない)という方も大勢おられるのでございます。

ともあれ、「思考要素としてのブロック」は固定的に存在するものではなく、個人の努力によって「大雑把なものにでもなれば、繊細なものにもなりうる」のだというのが、私の「思考モデル」の要諦でございます。





( 以下は「実証はここにあり(8)」につづく)


実証はここにあり(6) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時25分22秒


 ino さま(つづき)

そうした意味で、マルメラードフさまへの、

>  迷いや多面的であることそのものは、人間として自然なことと思います。ただ多面 的であることがダブルスタンダードに陥ったり三枚舌に陥ったりすることは、自戒すべきものと思います。こう言いながらも、自分自身のことにはなかなか気づけないものだと思います。それゆえ自分を批判にさらすことは大切なことだと思います。

というお言葉は、「非・信仰者」にも充分に説得力をもつものとなっております。これは、AOIさまが、貴方さまに、

> 言ってくださった純粋一途、価値あるよう、コントロールしていきたいです。

という貴方さまの願いが、実現しはじめている証拠だと申せましょう。

>> つまり、私が「花園」の「父性」であり、ホランドが「母性」を象徴するということでございますね(笑)

> そこまではっきりとは、母性とは申し上げてはおりませんが・・・。私はフォロウに弱いのです。

そうでございます。誰でも『フォロウ』には弱い。しかし、そのことを自覚して、あえて『自分を批判にさらすこと』ことは、誰にでもできることではございません。その意味で、貴方さまは、もっと自信を持って良いのでございます。

そして、「嘆く自分」を克服して成長していくためには、今回、マルメラードフさまになすったように、「他者を励ます」という行為をなさることでございます。そうすれば、自己を「嘆く」だけでは済まされないし「嘆いてばかりいる」閑もなくなり、「まず自分が強くならねば」と思えるようになるからでございます。

他者を救おうとする努力によって、自己も成長することができる。これこそが本来の「信仰」のあり方であり、菩薩道というものなのではございませんでしょうか。





( 以下は「実証はここにあり(7)」につづく)


実証はここにあり(5) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時24分06秒


 ino さま
> 「類は友を呼ぶ(7)」に園主さまがわたしがAOIさまに、おもわずお詫びした訳をお書きになっています。私の気持ちは、「無理に宗教の話題に付き合わせてしまったのだ、と思ったから」です。AOIさまのことを良く存じ上げないうちに・・・。このことを園主さまはご指摘になったのだと思いました。

ちょっと違います。まだ読み込みが充分ではございませんね(笑)。

> 例えば、ある人が外人さんと知り合い親しくなったので、彼を自宅に招いて、手料理のご馳走をしてあげたといたします。彼は、それを美味しく食べて、たいへん喜んだのでございますが、じつはその料理に「ある動物の肉」が、一見してそれとはわからないかたちで使われていたことが後で判明すると、彼はとつぜん恐慌くぉきたして激しく嘔吐をはじめます。じつは、彼の信仰している宗教では、その動物は神聖な存在であり、食することなど、とうてい許されることではなかったのでございますね。
> つまり、善かれと思って為した「常識的な善行」も、「宗教」が絡むと、このようにトンデモない悲惨事となりかねません。

> もうすこし交流が深まった後ならば、それが「完全な冗談」なのか「本気半分」なのかは伝わりましょう。しかし、この段階で、同じ「信仰者」相手に言うような「冗談」を「非・信仰者」に向けて言うのは、不用意であり、相手に対して無配慮だと申せましょう。

> ですから、私が言いたいのは『信仰に関することでのおふざけ』はいけない、ということではなく、「相手の立場に立って考えてから、ものは言わなければならない」ということなのでございます。そしてこれは「信仰者」にありがちな「個人的な確信(思い込み)を、一方的に他者に押しつけがち」という問題にも関係してくるのでございます。

私がこのように書いて、inoさまにお伝えしたかったことは、「相手のことをよくわかってからでないと、冗談を言ってはいけない」ということではなく、「冗談を言う前に、その前提を、きちんと説明しなくてはならない」ということでございます。つまり「相手に対する自己の理解の深まり」を待つのではなく、自分から積極的に「自己の特異性の説明をしなければならない」ということなのでございますよ。

と申しますのも、「信仰」をもたないAOIさまが、inoさまの「信仰者的発想」を慮るのは困難でございますが、inoさまの場合は、もともとは「非・信仰者」であり、そこに「信仰的確信」が醸成されたのですから、もともとの「非・信仰者」の立場に立ち戻って、そこから「信仰的確信」を語ることも、充分に可能だからでございます。

つまり、私がinoさまをはじめ「信仰者」の方に求めているのは、もともと持っていたはずの「非・信仰者としての目」の確保なのでございます。自分の中に「非・信仰者としての目=客観的な第三者の目」を持つことで、「独りよがりな盲信への埋没」を防ぎうるということなのでございます。

そのためにも、inoさまに求められているのは、自己の「信仰者」としての立場を、「非・信仰者の言葉」に翻訳して(考え)語る、という営為なのでございます。これは決して、信仰に反することではないはずでございます。





( 以下は「実証はここにあり(6)」につづく)


実証はここにあり(4) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時23分15秒


 AOI さま(つづき)

> ♪〜カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは〜〜〜
> な〜んて、お二階でホランドさまとラインダンスしちゃだめよ〜!
> 神野さまには、「案外、家はしっかり出来ているものでございますよ(悪魔の囁き)」なんていってたけど、ただでさえ重いんだから。(心配)

ご心配にもかかわらず、見てのとおり、着々と本どもは増殖を続けております……。

ところで、『♪〜カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは〜〜〜』という、クマのぬ いぐるみがラインダンスをするCMは、聞くところによると、相当に有名なものであるはずですのに、テレビっ子であった私には、それを見た記憶が、とんとございません。このCM、関西では流れていなかったのでございましょうか?

> 今日、おもちゃ屋さんで開封ものの『バルタン星人』(\500)と『ペギラ』(\800)買いました。(笑)園主さまの言っていた値段よりかなりおやすいでしょ?そういえば、蒸気機関車(冬)は\2000ですって!なかなか良いできなのよね。ラッキー!

まあ、私がご紹介したのは(話題性も意識して)、かなり「高い例」でございましたからね。それに珍しいうちは高くても、出回ってくると、だんだん値は下がるものでございますから(笑)。
それでも『蒸気機関車(冬)』はシークレットですから、それほど値下がりはいたしませんでしょう。良いものをお当てになったと存じます。

それにしても『『バルタン星人』(\500)と『ペギラ』(\800)』をお求めになるようでは、かなり病気が進行しておりますね(笑)。





( 以下は「実証はここにあり(5)」につづく)


実証はここにあり(3) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時22分04秒


 AOI さま
>「笠井潔が、真にのぞんだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性」についての短い感想。

> 人間は多かれ少なかれ、自己顕示欲というものはあると思うし、「被崇拝願望」があるからこそ、人から尊敬を得ようと努力しようとするわけで、その向上心は決して否定されることではないと思う。

まったく、そのとおりでございますね。

> 連合赤軍事件を実感した笠井さんにとって、その問題と直面せざるおえなかったというのは想像がつく。
> 笠井さんが「駆」を冷徹なまでにストイックな人物設定にしたというのは、自身のうちに「被願望崇拝」「権力指向」が根強くあるということを十分熟知していて、過剰な自己顕示欲、被願望崇拝、を畏れていたからでもあるのではないか?書くと言う行為によって抑制し、コントロールしようとしていたのでは?

これも、そのとおりだと存じます。

> けれども、生来の権力指向が残されてしまったのか?

そうだと存じます。

> 意識的であったはずの笠井さんが、いつしか現実の中であるべきではない姿に自らなってしまったということに、(あるいは、意識的ではあっても執着を捨てなければいけないものとは思ってはいなかったのか)現実とフィクションを書くという作家としての行為との大変難しい問題があるように思う。

そのとおりでございましょう。つまり「意識的である」ということと、「乗り越えた」あるいは「乗り越えうる」というのとは、まったく別 ものだということなのでございます。そして、この「混同」されがちな認識を、明晰に切り取ってみせた仏法の言葉が『二乗不作仏』なのでございます。

> 「書く」ということで自身の権力指向を克服したかのように錯覚したのか、あるいはもともと乗り越えようとする意図などなく、ナルシストの笠井さんが書くことでアリバイ証明をしてみせただけなのか?

ですから、基本的には、前者でございましょう。ですが、「意図」というものは、時間の経過とともに「変容」いたします。つまり、当初は「乗りこえよう」と本気で考えていたのが、いつの間にか「乗り越えてますよ」というアピールに変わってしまった。
しかし、それでは、これが「笠井潔の変容」かと言えば、そうとも言えない。つまり、笠井潔が「連合赤軍」の末路に多大なショックを受けて、本気の「反省」を強いられたのは事実でございましょう。しかし、その程度のことでは、笠井潔の「本来の性向」は変わらなかった、ビクともしなかったということなのでございます。

つまり、過去にも何度か書きましたとおり、人間(の意識)というものは、「無限循環的多層構造」を持っております。すなわち「自身の悪を素直に反省する私」「を見て、私は立派だと思っている私」「を見て、自己の本質的な無反省を反省する私」「を見て、自分の真摯さを誇る私……」という具合でございます。つまり、人間というものは、

> 「書く」ということで自身の権力指向を克服したかのように錯覚したのか、あるいはもともと乗り越えようとする意図などなく、ナルシストの笠井さんが書くことでアリバイ証明をしてみせただけなのか?

というような「二者択一」的に一面的な存在ではなく、その双方を併せ持つ存在なのでございましょう。
ですからこそ、大切なのは、自分をその「どちらかだと決めて、安心を得よう」とするのではなく、「無限循環の葛藤を、自分に科し続ける」ことなのでございます。つまり「自分は立派だ」も「自分はダメなやつだ」も、ともにダメだということなのでございます。

笠井潔の場合は、基本的には「自分は立派だ」という方に着地してしまった。これは、彼の本来の「性向(=欲望)」に「理性が蹂躙された」ということを意味するのでございます。そしてこのことは、もちろん笠井潔に限ったことではなく、私たち一人ひとりが、胸に刻まなくてはならない、普遍的な「人間的(弱さの)問題」なのでございましょう。

> 作家の人間としての堕落を見てしまったような気がします。 ご本人は「生涯一ガキ」と言われていますが。(苦笑)

そして彼は、その望みどおり「ガキ大将」という「御山の大将」になったのでございます(笑)。





( 以下は「実証はここにあり(4)」につづく)


実証はここにあり(2) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時21分19秒


(3)『中東のゲットーから』重信メイ・ウエイツ(750円+税)

表紙の紹介文に曰く『歴史は皮肉だ。有史以来、流浪とゲットー暮らしの辛酸をなめてきたユダヤ人はイスラエルという国をつくるや、パレスチナ人をゲットーに押し込めた。土地も、水も、移動の自由さえ奪われた中東のゲットー。
人種、宗教が違うから泥沼の戦争が続くのではない。徹底した差別と弾圧で人々の尊厳を奪い、武力で土地を奪うイスラエルの意図が無くならない限り、戦争は続く。
同時多発テロ以来、「パレスチナ=テロの温床」といった誤ったイメージが世界を駆けめぐっている。アメリカはもちろん、日本でも……。しかし、真実は?
重信メイは、パレスチナの現状を冷静に世界に伝えようとしている。メディアを妄信して疑わない日本人にも、パレスチナと日本をつなぐ熱い思いを伝えようとしている。』

著者は、昨年、日本で逮捕された日本赤軍のリーダー重信房子とパレスチナ人の父との間の娘で、無国籍のままアラブ社会に育っております。暴力的な手段による革命を是とした母に対し、娘は「言葉」に何を託そうとしたのでございましょう。本書は、パレスチナの現実を知ると共に、「思想」と「現実」、「言論」と「行動」の関係を考えるうえでも、たいへん興味深いテキストだと申せましょう。


(4)『吉田司対談集 聖賤記』吉田司・パロル舎(3200円+税)

帯に曰く『T厄災Uの書『下下戦記』から16年――』『〈賤性〉の下の下を舐めつくし、「宮澤賢治」「沖縄ひめゆり」の〈聖性〉を斬った吉田司が各界の論客たちと奏でる次なる舞台=新たな〈物語〉とは――?』『〈聖戦〉の時代に楔を打つダークサイド対談集 世紀末→'03』。

対談のお相手は、石毛博道、島寛征、宮崎学、坪内祐三、中曽根康弘、大田昌秀、森永卓郎、宮台真司、佐高信、赤坂憲雄、川端裕人、佐野真一、吉岡忍。見てのとおり「左」から「右」、「運動家」から「政治家」、「批評家」から「学者」、そして「ノンフィクション・ライター」となかなか幅広い面 子となっております。したがって、ひとつ一つ対談の中味もさることながら、吉田が、まったく立場の異なるそれぞれの対談相手に対し、どのような身振りで接するかも見どころでございましょう。これは「毒気の人」吉田司の本質を探る上でも、見過ござない一書なのではございませんでしょうか。





( 以下は「実証はここにあり(3)」につづく)


実証はここにあり(1) 投稿者:園主  投稿日: 5月18日(日)22時20分35秒

みなさま、本日も、おもしろそうな新刊をご紹介いたしましょう。

(1)『いま、抗暴のときに』辺見庸・毎日新聞社(1400円+税)

帯に曰く『どこまでも抗う言葉がここに!』『イラク侵略戦争、武装化する日本、迫りくる「次の戦争」……人倫も根源から告発するいま最も熱いテキスト!!』『話題の「反時代のパンセ」(『サンデー毎日』連載)単行本化第2弾』

ご存じ、『永遠の不服従のために』の続編でございます。


(2)『日朝関係の克服 ―― なぜ国交正常化交渉が必要なのか』
                   姜尚中・集英社新書(680円+税)

帯に曰く『ジョン・ダワー氏、キャロル・グラッグ氏、酒井直樹氏、絶賛!!』『動きを誤れば、日本と北東アジア全域に破滅が訪れる!』『ジョン・ダワー氏「危機にあるアジアの平和。そこに姜尚中教授は、理性と情熱の声を投げかける。」、キャロル・グラッグ氏「日朝の過去と希望の未来「北東アジア共同の家」への有益な指標。」、酒井直樹氏「その議論は現実的で、その歴史的な説明は実に簡潔に、2003年5月という現在に焦点を合わしている。まさに時事的な書物であることによって、『日朝関係の克服』は15年戦争後の日朝関係に関する教科書的な一般 性をもちえたのである。」』。

「拉致問題」を持ち出せば、「鬼畜北朝鮮」という結論が、問答無用に通用するとでも思っているかのような「マスコミ世論」。けれども「拉致」程度のことは、アメリカCIAの例を持ち出すまでもなく、世界各国の多くでは、なかば公然と行なわれてきたことであり、何も北朝鮮だけが「極悪国家」だというわけではございません。今回は、被害者が日本人であったから大騒ぎしているわけでございますが、これは裏を返せば、日本人がこれまで、世界の悲惨事にたいして、いかに無関心であり、冷淡であったかを示す事実だとも申せましょう。
もとより、国家による「拉致」「監禁」「拷問」「洗脳」などの人権を無視した悪辣な行為が許されるわけもございません。ですが、それがわかっているのであれば、問題が北朝鮮一国にあるのではないことも、また明白なことでございましょう。北朝鮮にすれば、国家の安寧とその存在を脅かす「侵略国家アメリカ」の「一の子分 日本」にたいして、「自衛のための諜報活動」を展開するのは「国として当然のことだ」……と、日本のナショナリストそっくりな主張を、きっと本気ですることでございましょう。つまり、大切なのは、北朝鮮だけを「悪の国家」と見て攻撃することではなく、世界の「敵対的な緊張関係」を和らげることなのでございます。アメリカの思惑に易々と乗って、近隣同志で潰し合いをすれば、その後にやってきて「アジアの平和を回復する」などと言っては、儲けオンリーの占領政策を展開するというのは、アメリカのお馴染みの手口なのでございますから。

アジアの現実、なかんずく日朝関係の「現実」を、未来に向けて思考するつもりがあるのであれば、長年この問題を我が事として、真摯に思考し抜いてきた姜尚中の提言は、決して無視のできないものでございましょう。





( 以下は「実証はここにあり(2)」につづく)


思い。 投稿者:ino  投稿日: 5月17日(土)21時12分40秒

☆ホランドさま

「黒孔庵(ブラックホール)さまVSホランドさま」の対話があるんですね。ミステリーには縁遠い私ですが興味があります。いつかみせていただけることを期待申し上げます。

☆keenさま

「レディオヘッド」借りてきました。まだ聴いていないんですが、ネット検索でザ・スミスと「同列」で論じている人もいて楽しみです。

☆マルメラードフさま

 アレクセイさんの問いに答えるには、あのような様式でしか書けませんでした。「矛盾」「依存」その他アレクセイさんにはおっしゃりたいことが山ほどおありではなかったかと思います。
 手紙は今日投函してきました。アレクセイさんが以前おっしゃった「嘆くだけ」という信仰の「不誠実さ」ではいけないという思いがありました。
 迷いや多面的であることそのものは、人間として自然なことと思います。ただ多面 的であることがダブルスタンダードに陥ったり三枚舌に陥ったりすることは、自戒すべきものと思います。こう言いながらも、自分自身のことにはなかなか気づけないものだと思います。それゆえ自分を批判にさらすことは大切なことだと思います。

☆AOIさま

花園の大先輩に、またメッセージをば送らせて頂くやも知れません。そのときはまたお付き合いいただけると幸いです。


疲労☆ 投稿者:Keen  投稿日: 5月17日(土)17時11分29秒

ビデオ録画してあった『カストラート』と『TAXI』、やっと見ました(ヘンな取り合わせ〜/笑)。

『カストラート』、AOIさまが書かれていた通り、ファリネッリがヘンデルを歌う場面 では、震えがきました!
で、思ったことには、ナンダ、これは「ロック・コンサート」ではないか、ということでした。
当時の最新流行・トップスターの舞台、失神する観客、投げ込まれる花束、グルーピーたち……変わってないんだなあ。

全然違うけど、故・フレディ・マーキュリー氏を思い出しました。生前に、ライブで聴いてみたかったな〜……(遠い目)

感想やレス、書きたいことはいろいろありますが、今週はサッカーで体力が尽きてしまいました……
いずれまた☆


シュールな想像 投稿者:AOI  投稿日: 5月17日(土)11時53分40秒

訂正:動物化する世界に中で思うこと→動物化する世界の中で思うこと

書き込みに脱落部分もあって分かり難い感想になってしまいました。すみません。
言いたかったのは、「書く」ということで自身の権力指向を克服したかのように錯覚したのか、あるいはもともと乗り越えようとする意図などなく、ナルシストの笠井さんが書くことでアリバイ証明をしてみせただけなのか?
作家の人間としての堕落を見てしまったような気がします。 ご本人は「生涯一ガキ」と言われていますが。(苦笑)

☆inoさま

>一説によると、自分自身を闘牛でしとめられた牛に見立てていたのではないかとのことです。その闘牛の風習とは、マタドールが自分のしとめた牛の耳を切り取り、恋人に捧げるというものです。ゴッホは自分で自分をしとめてしまった・・・・。

なるほど。自罰的行為だったのでしょうか。ゴッホの心のありようははかりようもありませんが。
結果、すっかり、まわりを恐れさせることになってしまったようですね。
『ゴッホの手紙』(小林秀雄著)読んだはずなのにすっかり忘れてる。(園主・ホランド症候群/苦笑)
「耳を切り取った男」(小林秀樹著)というノンフィクションもあるようですね。

>某西九州の思案橋あたりを夜な夜なはだしで走り回って、乗り越えたようです。

柔道着とか剣道着とかを着て裸足で走っている人をときどき見かけたりしますけど・・・・・ゼンゼン違いますね。

>20代前半はホントに明るい月の夜には、当てもなく彷徨ったものです。

明るい月の夜にはオオカミが・・・。

シッツレイしましたー。(下手より逃走)


(無題) 投稿者:マルメラードフ  投稿日: 5月17日(土)05時54分54秒

レスが慢性的に遅れてしまうことをどうかご容赦ください。

★ホランドさま

>「悪口を言われたくない」とか「憎まれたくない」といった気持ち
>「発言すること」を怖れぬ勇気であり「覚悟」

このホランドさまの言葉は僕のネット上での卑怯な立ち回りを言い表しています。
inoさまと出会ったサイトでは個人情報を共有した緊密な付き合いが
なされていますので内に秘めた疑念を隠し、弟子であるかのように振る舞い、
某掲示板においてはHNを変え本音をぶちまけるためのガス抜きに利用しているという欺瞞。
そこにございますのは個人的に慕う者たちから拒絶、集団から排除されることへの恐れ。
地元組織においても、選挙、会合のたびに軽度の精神疾患を口実に逃げ回るという有様です。
これでは大聖人の弟子を自認することもできません。

>ところで、『(カラン♪コロン♪)』って???

僕の内実の乏しさを音響的に表現したものです^^

★園主さま

僕の書き込みがこの掲示板の価値を下げてしまうことを申し訳なく思います。

個人的なことですが、園主さまの大聖人観に興味があります。
普通日蓮信仰者は日蓮を「大聖人」、宗派によりましては「日蓮聖人」という尊称で、
非日蓮信仰者においては往々にして「日蓮」とで言い表します。
信仰そのものの実効性に疑問を抱かれていらっしゃる非信仰者の園主さまが
「大聖人」と表記されるとき、些かの違和感を感じているのです。

>いずれ「カラオケ対決」をいたしましょう。

ええ受けて立ちますぞ!レパートリーの少ない僕は
専ら懐かしの懐かしのアニメメドレー、太鼓持ちタンバリンですが♪♪

★inoさま
>お気持ちや意見を軽蔑するわけがありません。
言葉足らずで申し訳ございません。
僕が自身で軽蔑に値すると申しましたのは、
ホランドさまへレスにあるような僕の欺瞞なのです。
胸に抱えた疑念をその当事者にぶつけることをせず、
第三者に回答を求める僕の姿勢を言ったものです。

僕がinoさまの名誉会長に宛てた書簡に、感激をもって読みましたのは、
弟子が師に向かう本来在るべき姿勢を見たからです。


動物化する世界に中で思うこと 投稿者:AOI  投稿日: 5月16日(金)22時58分53秒

☆inoさま

>私の気持ちは、「無理に宗教の話題に付き合わせてしまったのだ、と思ったから」です。

とくに、宗教のお話としては聞きませんでしたわ(笑)。
でも、ちょっぴり、どっきりしましたけど。

☆園主さま

♪〜カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは〜〜〜
な〜んて、お二階でホランドさまとラインダンスしちゃだめよ〜!
神野さまには、「案外、家はしっかり出来ているものでございますよ(悪魔の囁き)」なんていってたけど、ただでさえ重いんだから。(心配)
こちらではこのところ地震が多いのです。(ひやひや)

>「笠井潔が、真にのぞんだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性」についての短い感想。

>若手から「笠井さんは、スキーでもしてて下さい」と言われる日も、そう遠くないのかも知れない。

この一文に尽きますわね(笑)。
笠井さんに往復書簡から今ここの現実ー『動物化する世界』ーを切り結んで行こうとする姿勢はまるで感じられない。東さんから、「二十歳以上年下の僕が聞き手の役割を担うのも仕方のないこととしても、・・・」とトホホなことまで言われるまで、昔話やアリバイ証明をしているような感じ。
『動物化する世界の中で』の最後第16信で笠井さんは

>僕は最初から最後まで、自分のことだけを書いてきたような気がします。
>東君には「”私が正しい、私を判って”って意見」ばかりを並べた「”下品な文
章」という印象をあたえたかもしれません。

と自ら書いていますけど(笑)。
これも欺瞞的な弁解に聞こえる。書いておきたい気持ちは分るけど(笑)。

>貴方は決して「変節」などしていない。貴方の一貫した主張とスタンス。それは「私だけが戦っている。ほかの奴らは、みんな不徹底である」という身も蓋もない「被崇拝願望」であり、それに由来する「権力指向」である。

長い間、笠井さんの著作を読み、共鳴し、現実の言動や行動を知っている園主さまだからこそ断言できることなのでしょう。

人間は多かれ少なかれ、自己顕示欲というものはあると思うし、「被崇拝願望」があるからこそ、人から尊敬を得ようと努力しようとするわけで、その向上心は決して否定されることではないと思う。
連合赤軍事件を実感した笠井さんにとって、その問題と直面せざるおえなかったというのは想像がつく。
笠井さんが「駆」を冷徹なまでにストイックな人物設定にしたというのは、自身のうちに「被願望崇拝」「権力指向」が根強くあるということを十分熟知していて、過剰な自己顕示欲、被願望崇拝、を畏れていたからでもあるのではないか?書くと言う行為によって抑制し、コントロールしようとしていたのでは?
けれども、生来の権力指向が残されてしまったのか?
意識的であったはずの笠井さんが、いつしか現実の中であるべきではない姿に自らなってしまったということに、(あるいは、意識的ではあっても執着を捨てなければいけないものとは思ってはいなかったのか)現実とフィクションを書くという作家としての行為との大変難しい問題があるように思う。


似るということ。 投稿者:ino  投稿日: 5月16日(金)22時36分37秒

☆AOIさま

追記です。

>似ていると思うのは純粋一途なところで、狂気についてではないですので(笑)

過分なお褒めをいただきありがとうございます。どこかを訳もなく攻撃したり(自分に向けることも含め)することは、おかげさまで某西九州の思案橋あたりを夜な夜なはだしで走り回って、乗り越えたようです。20代前半はホントに明るい月の夜には、当てもなく彷徨ったものです。今は普通 になってきて良かった良かった(笑)。
 言ってくださった純粋一途、価値あるよう、コントロールしていきたいです。


 投稿者:ino  投稿日: 5月16日(金)18時48分43秒

☆AOIさま

一説によると、自分自身を闘牛でしとめられた牛に見立てていたのではないかとのことです。その闘牛の風習とは、マタドールが自分のしとめた牛の耳を切り取り、恋人に捧げるというものです。ゴッホは自分で自分をしとめてしまった・・・・。


遅れて申し訳ありません 投稿者:よたろう  投稿日: 5月16日(金)15時50分11秒

>アーニャ様
 初めまして。園主様の質問に答えることで手一杯だったもので、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。
 >別の場所でニアミスしてるはずですけど
 あちらの方はすべて完結した模様ですよ。
 >(よたろうさまなら、このギャグご理解頂けますわね?/笑)。
 さしずめアーニャ様はミスターXでしょうか。

>ホランド様
 >ようこそ、いらっしゃいました!
 ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。
 >じゃあ、ボクのことも、よくご存じですよね(笑)。
 存じ上げております。
 >よたろうさまの率直な態度は、むしろ人並み以上に、立派だと思いましたよ。
 とんでもないです。今回も自分の意見を訂正することになりましたので、日和見主義とか思われないか心配です。

それでは、失礼します。


園主様への返答(後) 投稿者:よたろう  投稿日: 5月16日(金)14時23分56秒

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以上、段階を追ってみましたが、実際にはまず最後の結論部分を思いつき、それをゴールと思い込んで、そこに向かって自分の都合よく肯定的に論を重ねていたということが判りました。これはゲリマンダー的な方法で、卑怯なやり方ですね。自分の最初の「思いつき」をゴールにしてしまっては、思考はそこで停止してしまい、発展もなければ、自己批判もなくなってしまいます。それに自分の文章を読んだ人に対して、無責任な態度だと気付きました。

また、自分の発言を解体してみたとき、自分がいかに自分の言葉に対して「不誠実」であったかを思い知る結果 となりました。何故なら、自分の考えた理屈を小説に当てはめて考えた場合、結局「不正確な描写 は、許されるべきだ」と言っているのだということに思い至ったためです。小説においては、不正確な描写 は作者がどのように誠実であろうとも、許されるものではありません。何故なら、読者は作者の隠された誠実さなどまったく忖度できないからです。しかし、自分の心の中を表出する際には、それは許されると考えることは、実は無責任であり、甘えた考えであり、やはり不誠実にしかならないのですね。

このまま、結論を述べずに終わるのは卑怯だと思いますので、以下記します。

・『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することは、言葉を使うという原理上不可能である。(この問題はさらに突き詰めると、言葉で表現できないものは、存在しないのか? ということに突き当たることが判りました)
・私の考えていたレベルでの『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』するという場合でも、それは実は受け手にすれば不誠実に映る(し、受け手はそれを問いただすことが出来、送り手側はそれに答える義務がある)。

ということになり、私の『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述する』という発言は、間違いであったということになります。このような下手なレトリックなど使わずに『己の曖昧な思考を誠実な姿勢で語る』と言えばよかったのです。無論、『杉澤様の問題』とはまったく無関係になってしまいますが。

私にはどうも自分が何かを思いついた時点で、それを結論だと決めつけてしまうという性急さ、怠惰さがあったようです。少しでもそこから突き詰めれば、今回のような結論はすぐに得られただろうことは、まったく明らかです。中学の国語の作文の時間に、教師から「自分の判ることを書く」「自分の判る言葉で書く」と言われたことを思い出しましたが、これは実はとても難しいことなのだと今更ながら思い知りました。私に自分を大きく見せたい、偉ぶりたいという気持ちがある以上、決して「自分の判ることを書く」「自分の判る言葉で書く」は実践できないでしょう。

今回は、自分のこうした態度と向き直す機会をいただいたことに感謝しています。出直すとか、修業し直すと言った大げさな意味ではありませんが、今しばらくは日常生活の中で自分の方法を改めるための時間を取りたいと考え、しばらくは発言を控えようと思います。無論、こちらの花園は常に読まさせていただきますし、また疑問に思ったことなどがあったら、それらには質問させていただきたいと考えています。

読みにくい長文で失礼しました。


園主様への返答(前) 投稿者:よたろう  投稿日: 5月16日(金)14時22分43秒

「記述の問題」について

「杉澤さまの問題」を離れてのことと理解します。

以下は自分の考えを自分で追った過程ですが、結果として自分自身猛烈に反省することになったと言うことと、前出の発言を訂正したい旨をまず記しておきます。

まず、言語のイメージとして、私は
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個人は大小様々なレゴブロックを所有しており、それを組み立てて形にすることで考えていることを表出する。
最小のブロックは単語であり、より大きなブロックとして定型文とか慣用句などがある。
例えば象をレゴブロックで作る場合、すべて最小ブロックで作成するのが一番心の中の象のイメージに近くなるが、やはりそれは心の中の象その物ではなく、やはりモザイクのかかったようなブロックの象に過ぎない。
つまり、考えたことを言葉に置き換えて表現する際には、常に近似値である。
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このように捕らえています。

「誠実さ」
自分が十全に考えが及んでいないことに対して語るように言われたときに、「それについてはまだ考えが確立していないので答えられない」と答えること、つまりレゴブロックで象を作れと言われたときに、「手持ちの材料がないので作れない」と答えることを「一位 の誠実さ」と便宜上呼ぶことにします。これは「判らないことは言わない」という誠実さです。

しかし次に、学校や会社など外部からの要請や、死期が近いとかやむにやまれぬ 情熱などの私的要請で、十全に思考が及んでいないことを(身の丈を越えて)語らなければならない場合があり、その際に「判らないなりに真剣に考えよう」と思うこと、つまりレゴブロックで象を作れと言われたときに、手持ちのレゴブロックで何とか象の形を作ろうとすることの誠実さ、語るという姿勢においての誠実さを「二位 の誠実さ」と便宜上呼ぶことにします。これは語る動機において「一位の誠実さ」よりも純粋ではないからです。

「曖昧さ」
『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することは、果たして可能なのか。それは原理上は不可能である。何故なら、思考している以上、それは曖昧ではない。感じたことやイメージなどを思考した瞬間、つまり言語に置き換えた瞬間から、それは曖昧ではなくなる。それは園主様の仰る通 りです。それが言語の役割とも言えます。

しかし、曖昧な言説というものは存在します。その中には、考えが言語に置き換えられる際に、語彙の問題が起こるからだと思われるものがあります。つまり語彙が乏しいがために、置き換えの際に自分の考えと近似にならない、故に曖昧になるという場合です。例えが悪いかもしれませんが、「ゴキブリの羽のように黒いアレ」と置き換えられたものが、実は「漆塗りの茶碗」だったという場合、これは『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』したとは言えませんでしょうか。

つまり、手持ちのレゴブロックには大きなものしかない。それを使ってどうにか象の形を作ったとき、それを見た人間は「そんなものは象ではない」と言うかもしれない。しかし、送り手側としては、とにかく自分のイメージする象を手持ちのレゴブロックで作り上げたのだから、その「二位 の誠実さ」は責められるべきではないと思うのです。

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園主様への返信 投稿者:よたろう  投稿日: 5月16日(金)14時16分13秒

長文の補足説明をありがとうございました。
特に、
>> 本質的にこれは「お互いさま」なのでございます。
>この部分を補足したいと存じます。
から以下の説明は、「では、あなたは何に基づいて批評できるのか?」という私の引っ掛かりについて、そして園主様の現在の考えについて、とても理解のいくものでした。園主様の考えの背景には「人間を肯定する」という意志があるのではなかろうとか、愚見いたしましたが、いかがでしょうか。

園主様の『「私の人間探求」の部分』すべてについて生かじりの状態で返信するわけにはいきませんが、ひとつの質問と、ひとつの感想を述べさせていただきます。

>人が「全能感の回復」を求めて生きるというのは、言い換えれば、人は「死の夢想」を生きるとも言えるのではないでしょうか?

質問:
これは「全能感の回復」を求めるタイプの人間は、「死の夢想」に囚われやすいということでしょうか? つまり「全能感」というものが過去(この世に生まれる前)に存在したのではないかと考えているという理解でいいのでしょうか。人間は「死の夢想」と同じように「死の恐怖」というものも持っていますが、これとの関連はどうなっているのでしょうか。「全能感の回復」を求めるタイプの人間は「死の恐怖」には囚われないか、比較にならないくらい小さいと言うことなのでしょうか。

>『自殺』『自傷行為』の問題

感想:
これは自殺者や自傷者との距離が近ければ近いほど、受ける傷は大きくなりますね。実際にこうした問題は私の周囲にもあります。近しい人、愛しい人が自ら命を絶ったり、傷つけたりすることで、自分も傷を受ける。という二者間の状態を見ているだけで(両方ともが友人なので)、こちらも悲しくなります。自分には何も出来ない、という思いだけが募ります。「命は、誰のものか?」 心情的には自分だけのものではないと思いたいですが、自らの意志で死ぬ ことが最後の自由というような状況も想定できますので、とても難しい問題です。


ご指摘になっとくします。Re.良かれ悪しかれ類は友を呼ぶ(7) 投稿者:ino  投稿日: 5月15日(木)22時45分41秒

☆アレクセイさま

>私が言いたいのは『信仰に関することでのおふざけ』はいけないということではなく「相手の立場に立って考えてから、ものは言わなければならない」ということなのでございます。

このまえに言われたことの意味が分かりました。ありがとうございます。

>つまり、私が「花園」の「父性」であり、ホランドが「母性」を象徴するということでございますね(笑)

そこまではっきりとは、母性とは申し上げてはおりませんが・・・。私はフォロウに弱いのです。

☆AOIさま

「類は友を呼ぶ(7)」に園主さまがわたしがAOIさまに、おもわずお詫びした訳をお書きになっています。私の気持ちは、「無理に宗教の話題に付き合わせてしまったのだ、と思ったから」です。AOIさまのことを良く存じ上げないうちに・・・。このことを園主さまはご指摘になったのだと思いました。


感想も書きたいんだけどね(笑) 投稿者:AOI   投稿日: 5月15日(木)21時28分50秒

☆マルメラードフさま

いらっしゃいませ。
「夜のカフェテラス」、ありがとうございました。
ゴッホの孤独と優しさが伝わってきますね。
よろしくおねがいします。

☆inoさま

>「みずゑ」という美術雑誌で合田佐和子氏が「ゴッホに興味はあるけど、お付き合いはできない」というようなことを言っていたように思います。なんか分かりますね。

私も、間違いなく「変人好き」ですわ。
似ていると思うのは純粋一途なところで、狂気についてではないですので(笑)。

>書店の店員に雇われたけど、ゴッホの嫌いな本を買おうとする人に、そんな本を読んじゃいけないというところや

いかにもゴッホですね。

>自分の絵を理論的に批判したゴーギャンにかみそりで切りかかり、しかられて、自室で自分の片耳を切り、それを封筒にいれ、一番好きだった女性のところに持っていったことなどです。

ゴーギャンへの複雑な気持ちがあったようで、彼には理解してほしかったのでしょうか。切り落とされた耳ってどんなかなあ?なぜ、耳?

>スラヴァはカウンターテノールと呼んでいいのですか?

失礼しました。
カウンターテナーというのが正しいようですね。
シューマンの「レクイエム」でソプラノのソリストとしてデビューということがあっ
たので、メールソプラノと紹介しましたが。女性のアルト(男性テノールより高い)からバリトンまで。

カウンターテナーよりも高い音域の世界で5・6人と言われるメールソプラノのひとりオレグ・リャーベツを加古隆さんのコンサートで聴いたことがありますが、スラヴァのような声のパワーはかんじられませんでした。美しいだけでなく、力強さがあるところがスラヴァの魅力ではないでしょうか。

>信仰や生活と歌は密接に結びついていたのでしょうね。

人間の歴史と信仰とは切り離せないものなのですね。
祈りも歌も原初的に人間の自然な感情の表出だったはずですね。

☆ホランドさま

>平山監督による『魔界転生』ですね。率直に言って、どうでした? 

(ネタバレ)
冒頭の「島原の乱」のシーンはリアリティーありました。いかにキリシタンを弾圧したか。それに続く妖術使いとなった天草四郎が荒木又衛門を魔界転生させ、柳生家十兵衛に挑むシーンまではなかなかよかったです。ただ、ここまででこの作品の80%くらい見てしまったという感じで、あとは少々長かったという印象が(笑)。

>『2対3』というのは、おまけの種類の比率でしょ? でも、それで出てくるんなら、園主さまが紹介しておられた値段はつかなかったでしょうね。

今日、おもちゃ屋さんで開封ものの『バルタン星人』(\500)と『ペギラ』(\800)
買いました。(笑)園主さまの言っていた値段よりかなりおやすいでしょ?そういえば、蒸気機関車(冬)は\2000ですって!なかなか良いできなのよね。ラッキー!


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(10) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時08分21秒


 アーニャ
>> 杉澤さまについても、貴方さまについても、厳しく批判を加えましたが、それは身も知らぬ 貴方がた個人が、憎くて書いたわけではありません。(>よたろうさま)

> アリョーシャったら〜、こんなところでまで「幸の君」しなくっていいのよ〜☆
> 「身も知らぬ貴方がた」……「変換の妙技」、というべきかしらね(爆笑)。

なるほど。二回は読み返して推敲したんだが、完全に見落としていたなあ(苦笑)。

>> 最後にホランドくんは、私の顔をマジマジと見て「貴方はだれ?」とカマシてくれましたので、私は「何語なんだ、今の言葉は?」と返しておきました(笑)。

> うーん、このオチも悪くないけど、やはり古典的に「ここはどこ?」「私は誰?」も捨てがたいわね〜。(^0^*

いや、やっぱり、そのパターンはなあー……。ホランドが「記憶をうしなった美少年」みたいな美味しい役柄を選んだから、私はそれをSF的なパターンで「お笑い」に相対化したんだよ。その点で『「ここはどこ?」「私は誰?」』では、ホランドのを受けた「単なる連想」反応になってしまうから、私としては不満だな。やっぱり「切り返し」をしないと、そのまま受けたのでは「負け」だよ。あれは、記憶力の無さの「自慢し合いっこ」という、勝負だったんだから(笑)。

>>> 『シャドー・オブ・ザ・バンパイア』
>>> ……デフォーさまっ♪
>>> 断末魔のシーン、サイコーですっ♪♪

>> なんだかなあー……。(^-^;)

> え〜?なんでよお〜!
> バンパイアの「演技」としての断末魔と、ラストの「本物」とを比較すれば、デフォーさまの演技力が歴然とわかるじゃないのー!それに、ジョン・マルコビッチ演ずる「ムルナウ監督」の冷徹な目とセリフまわしが、すごくイイと思ったわ♪オープニングの妖しげな雰囲気といい、なかなかの出来ばえ。「原作」の『ノスフェラトゥ』とあわせて観るのがお薦めね。

単に「悶え苦しむ姿を見るのが好き」なのかと思ったんだよ(笑)。

もちろんそれは、私が「原作」の『ノスフェラトゥ』を観ていなかったからなんだけどな(笑)。


 ホランド
笠井潔が、真にのぞんだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性

> ボクがいちばん「あーあ」って思ったのは、法月さんの『法月綸太郎の功績』の書影でした。

> 『と断じ(※ て、文学賞の政治性を)批判した貴方(※ 笠井潔)が、今ではミステリの公募新人賞である「鮎川哲也賞」の選考委員をつとめ、かつては批判していた「日本推理作家協会賞」を受けては、今度はその選考委員となって山田正紀や法月綸太郎という「手ゴマ」の受賞の後押しをし』

> という文章の横に、『日本推理作家協会賞受賞!』と大書された帯を巻いた書影が置かれてるんですからね。・・・それに、なんといっても、本のタイトルが皮肉です。これじゃまるで「法月綸太郎の(笠井潔への)功績」により「日本推理作家協会賞受賞!」みたいですもんね。・・・もちろん、偶然なんですが(^-^;)。

ああ、あれに気づいてくれたか(笑)。じつは、あれは、たくまずして得た結果 なんだ。でも、今度はひとつ、たくらんでいることがあるので、楽しみにしといてくれ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(9) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時07分37秒


 マルメラードフ さま
ようこそいらっしゃいました。心より歓迎させていただきます(笑)。

> 実は結構ロムってました。少々怖いのですが、お邪魔してみます。

怖がることはございませんよ(笑)。

> 花園に立ち入るには相応しくない京都の四畳半貧乏学生です。

いいえ、「花園」に立ち入るのに「身分」は関係ございません。もちろん「入園カード」にサインをする必要もございませんし、会紙の講読を強制されることもありません(笑)。

> 知識・経験ともに乏しく、引き出しの少ない人間ですが、

私の半分しか生きていないのですから、それは当然のことでございますよ。それに、じっさいのところ、単なる博識(知識オタク)など無意味でございます。

> 世界中の雑多な音楽の話はできるかもしれません(かなり歪な嗜好性です・・)

私は、「音楽」についてはまったくの無知でございますが、カラオケについては、それなりに自信をもっております。お嫌いではなければ、京都と大阪なら近うございますし、いずれ「カラオケ対決」をいたしましょう。これなら「年齢差」も関係ございますまい(笑)。

> 園主様はやはりイワン的な雰囲気が御座いますね。

そういう部分はございます。ですが、それだけではございませんよ。なにしろ私は「トリックスター」ですから、基本的には「反・イワン」的な「明るく・活動的」な人間でございます。

> 他にもイロイロあるのですが、きりがありませんので、これまでに。

これから、いろんなことをどんどん書いて下さいまし。そして、学会の仲間とも、学校の仲間とも、アルバイトの仲間とも違う、新たな仲間をここで作って下さいまし。ここでしか得られない「視点」を、きっと得ることが適いましょう。

ともあれ、以後よろしくおつきあいのほど、お願いいたします。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(10)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(8) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時06分27秒


 Keen さま
> ◆本格ミステリ大賞に乙一さんら

> 第3回本格ミステリ大賞(本格ミステリ作家クラブ主催)は13日、小説部門に乙一(おついち)さん(24)の「GOTH」(角川書店)、評論・研究部門に笠井潔さん(54)の「探偵小説論序説」(光文社)が選ばれた。

> 園主さま、これが「実利」でございますね。

ホランドくんも書いているとおり、笠井潔自身はこの結果を『実利』とは感じないことでございましょう。つまり、むしろ逆に「公正さの証」だと主張しかねない、ということでございますね(笑)。

【最終候補作品】
   ● 小説部門
    『オイディプス症候群』笠井潔
    『GOTH』乙一
    『法月綸太郎の功績』法月綸太郎
    『マレー鉄道の謎』有栖川有栖
    『聯愁殺』西澤保彦

   ● 評論・研究部門
    『怪奇幻想ミステリ150選』千街晶之
    『殺す・集める・読む』高山宏
    『探偵小説論序説』笠井潔
    『迷宮逍遥』有栖川有栖

> でも、この「最終候補作品」じゃあ、笠井さんが『評論・研究部門』を受賞するのは当然だから、笠井さん自身としては、『オイディプス症候群』で受賞できなかったことの方が大きいんじゃないでしょうか?

> これはたぶん、同賞の「評論・研究部門」を、笠井さんの『探偵小説論序説』(光文社)が受賞したせいだと思うんですが、みなさんはどう見ますか?(<ホランドくん)

ホランドくんは、こう書いておりますが、厳密にいえば『「評論・研究部門」を、笠井さんの『探偵小説論序説』(光文社)が受賞したせい』ではなく、「『探偵小説論序説』を「評論・研究部門」の候補作としてしまったせい」と言うべきでございましょうね。

つまり、候補作選定の段階で、予選委員の我孫子武丸・山田正紀・円堂都司昭・末國善己・野間美由紀は、笠井潔の『オイディプス症候群』と『探偵小説論序説』を、それぞれに候補作として挙げざるをえなかった。しかし、この両作品により、両部門で笠井が「第3回本格ミステリ大賞」を独占すれば、その主催団体である「本格ミステリ作家クラブ」が「笠井潔の意のままになる御用団体」だという批判を裏づけることになり、かえって、そうした「好ましからざるイメージ」を広めることにもなりかねません。事実が、それほどのものでなくとも、なにしろ「本格ミステリ作家クラブ」の出自(創立経緯)が出自だけに、それを否定しさることは実質的に不可能でございましょう。

一方、『2003 本格ミステリ・ベスト10』(「探偵小説研究会」編著・原書房)のように、「小説」しか選考の対象でなかった場合、笠井潔に義理のある者や、笠井潔の傘下に加わりたい者は、選択の余地なく『オイディプス症候群』を推したことでございましょう。
ところが、今回は「小説部門」と「評論・研究部門」の二つがあった。ということは、「笠井潔に投票する」としても「両方ともに投票する」と「どちらか一方に投票する」という二種類の選択肢が発生いたします。そしてこの場合、前者だといかにも「笠井潔の子分」という印象を第三者に与えますが、後者ならその心配はございません。まして、(『GOTH』と『オイディプス症候群』で)評価のわかれる「小説部門」とは違い、「評論・研究部門」の方では、笠井潔の優位 は客観的な事実でございますから、『探偵小説論序説』に投票して、とやかく言われる心配はない。斯くして、笠井潔シンパを含めた多くの人が、後者の選択、つまり「評論・研究部門」では、笠井潔の『探偵小説論序説』に投票する一方、「小説部門」では『GOTH』に投票して、無難に、保身的「バランス」を取り、「義理」を果 たした結果、笠井潔のお膝元とも言える「本格ミステリ作家クラブ」で、笠井潔の渾身の大作である『オイディプス症候群』が、受賞を逸するという事態に立ち至ったのだ……と、私は斯様に推察するのでございます。

つまり、この結果が示すのは「笠井潔の政治性の不在」ではなく、「笠井潔の政治性の存在が、裏目に出た結果 」であると斯様に思うのでございます。さて、この読み、いかがでございましょうか?(<みなさま)

それにしても笠井潔は、この推論をも『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。』とでもおっしゃるのでございましょうか?(笑)





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(9)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(7) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時05分35秒


 ino さま
> 誤解を招くような物言いを致しまして申し訳ありませんでした。私は見知らぬ 浄土真宗の寺院の住職や、見知らぬ信者の方相手に法論は致しません。が、友人とは法論を致します。信仰に関することでのおふざけを今後致しません。

問題提起をしただけでございますから、謝っていただく必要はございません。それが「謝罪すべきこと」なのか「感謝すべきこと」なのかを見極めようとする姿勢こそが、私の求めている「考える」ということなのでございます。

ちなみに、今回の貴方さまの『おふざけ』の問題点は、『おふざけ』や「冗談」「ジョーク」といったものが、「常識」を共有しない者の間では成立しないということについて、貴方さまがあまりに無頓着だった点にございます。つまり『信仰に関することでのおふざけ』自体がいけないのではなく、それが通 用しない相手に、それを言ったのでは「おふざけ」にはならない、ということなのでございます。

一般の「非・信仰者」にとって、信仰者の「信仰的確信」というのは、理解を越えたものでございます。ですからこそ、真摯な「非・信仰者」は、「信仰」について安易に「私見」を述べることはいたしません。まるで「理解の外」だから、そもそも「私見」というほどのものが、「信仰」に関しては持ち得ないのでございますね。ですから、真摯な「非・信仰者」が「信仰者」と、「信仰」にかんすることを話す場合は、とても気を使うのでございます。
例えば、ある人が外人さんと知り合い親しくなったので、彼を自宅に招いて、手料理のご馳走をしてあげたといたします。彼は、それを美味しく食べて、たいへん喜んだのでございますが、じつはその料理に「ある動物の肉」が、一見してそれとはわからないかたちで使われていたことが後で判明すると、彼はとつぜん恐慌くぉきたして激しく嘔吐をはじめます。じつは、彼の信仰している宗教では、その動物は神聖な存在であり、食することなど、とうてい許されることではなかったのでございますね。
つまり、善かれと思って為した「常識的な善行」も、「宗教」が絡むと、このようにトンデモない悲惨事となりかねません。ですから「非・信仰者」は「信仰者」と話す場合、「常識が通 用しない場合がある」という前提で「身構える」場合が少なくないのでございます。そんな時に、

>「あーこの音につつまれ、はやくあの世に行きたい」とおもわせる音楽です。AOIさまご紹介の音がそうでないことを(笑)願っています。

と「信仰者」が「非・信仰者」に向けて書いて、それが「冗談」と理解されるか否か、なのでございますよ。

もうすこし交流が深まった後ならば、それが「完全な冗談」なのか「本気半分」なのかは伝わりましょう。しかし、この段階で、同じ「信仰者」相手に言うような「冗談」を「非・信仰者」に向けて言うのは、不用意であり、相手に対して無配慮だと申せましょう。

ですから、私が言いたいのは『信仰に関することでのおふざけ』はいけない、ということではなく、「相手の立場に立って考えてから、ものは言わなければならない」ということなのでございます。そしてこれは「信仰者」にありがちな「個人的な確信(思い込み)を、一方的に他者に押しつけがち」という問題にも関係してくるのでございます。
よたろうさまへのレスにも書きましたが、「対話」とは「独り言のぶつけ合い」ではございません。この問題は、単に「信仰の有無」にかかわる話ではないのでございます。

> アレクセイさんはCP(批判的大人の自我)の高い方〜これ私の独断ですが〜ですので、こちらに大きなものを要求されることがあるのを感じますが、それは感情ではなく理性なので何とかついていこうと思っています。私は「断片的思考」(アレクセイさんによると)の傾向が強いので、ガクットきたりすることが(ショックに近いかな)ありますが、自分のためになると現状(すみませんアレクセイさん)思っています。
> それに、同じく知的且つ受容的なホランドさんが、フォロウもしてくださるので、個性的な掲示板ですね。

つまり、私が「花園」の「父性」であり、ホランドが「母性」を象徴するということでございますね(笑)。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(8)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(6) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時04分54秒


 AOI さま
> ・「ホランドさま、園主さまも同様と思います」と書いたのは、おふたりともお忙しいと言う点では杉澤さまと同様だと思うという意味です。
> ・「ホランドさまのそのことは十分了解されている」というのは、杉澤さまがお忙しいということは十分了解されているはずという意味で書いたものです。

> おふたりも謝罪を受けられるはずだという主旨で書いたものではありませんでした。紛らわしい書き方でごめんなさい。一応お断りしておきますね。

全文、了解いたしました。

> *杉澤さまもあえて何を言われているのかきっとわかってくださるはずですね。

そうだと、よろしゅうございますが。

> 間違いだったのね(笑)。
> おかしいなあ。4万もへってるけど、カウントの方式を変えられたのかなと思ったり(ほか掲示板のカウントは別 にしたとか)

他の掲示板は、まったく「足し前」になりません(笑)。

今後「あれっ?」と思うことがございましたら、どうぞどんどんご指摘下さいまし。

> 87000が踏めなかったっていうことです(笑)。85000、86000、87000で3れんちゃん。47000は一瞬のタイムスリップですね。

85000、86000の後に、47000を踏むというのは 、87000を踏むことよりも「稀有な体験」であることは疑いございませんでしょう(笑)。

> ま、いずれにしても100000は、わたくしめがいただきよ!
> オーッホッホ♪!

なんといっても「100000」は記念すべきカウントでございますから、ライバルも当然出てまいりましょう。宣言したからには、しっかりお願いいたしますよ(笑)。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(7)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(5) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時02分35秒


 よたろう さま(つづき)

さて、次は「記述」の問題。

> 『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』は、それが可能なことであれば、もちろん許されます。

と、前回、書き流した点でございます。つまり『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することは、果 たして可能なのか、という問題でございます。

よたろうさまは『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することが「自明に可能な行為」であるかのように書かれておりましたが、はたして本当にそうなのか?
よたろうさまのお言葉は、たしかに言葉(字面)としては論理的でございます。しかし、現実的に考えてまいりますと、それほど簡単なことでも、自明なことでもないように思えてまいります。

> 曖昧な思考しかできない人は、自己の曖昧な思考を、曖昧だとは認識し得ない

例えば、私が、いまひとつよくわかっていないこと(曖昧にしか認識していないこと)について、「誠実」に書こうとした場合、もちろん「わかったふり」はできないわけでございますが、だからと言って『曖昧なまま』書くわけでもないように存じます。つまり、具体的に言えば、「よくわかっていないこと」について「誠実」に書こうとすれば、私は「ぎりぎりわかっているところまで、誠実に、明確に書く」ことで「曖昧な部分」の「輪郭」を、できるかぎり「明確」に示そうとすると思うのでございますよ。

「曖昧な部分」というのは、「分節化できない」から「曖昧」なのでございますね。つまり「言葉に置き換えることができない」状態でございます。しかし「言葉に置き換えることができない」状態とは、すなわち「説明できない状態」つまり「よくわかっていない=曖昧」ということなのではございませんでしょうか。
ですから「己の曖昧な思考を「不誠実に」曖昧なまま記述」することは出来ても、『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』することは、原理的に不可能なように、私には思えるのでございます。

ともあれ、「曖昧」だというのは「読み手(受け手)」の問題であって、「書き手」の問題ではないのではないか。書き手が「己の曖昧な思考を「誠実に」できるかぎり明瞭に記述」しようとした結果 が、読者に「曖昧だ」と映ることはあっても、書き手の自覚の問題として『己の曖昧な思考を「誠実に」曖昧なまま記述』する、などというスタンスは、「誠実」なものとしては、ありえないのではないかと考えるのでございます。

ご意見をお聞かせ下さいまし。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(6)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(4) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)19時01分06秒


 よたろう さま(つづき)

さて、それとの関連で、

> 笠井潔は「権力を握り」「人の上に君臨すること」で、自己の欲望が満たされる、つまり「気持ちよくなれる」と感じている人間なのでございます。

> 本当にもたらされるものならば、『精神的な充足感だけ』で充分なのでございますよ。……しかし、笠井潔のようなやり方では、最終的には、そうしたものは得られないだろう、と私は考えるのでございます。また、だからこそ私は、笠井潔やその取り巻きたちと同じようなことをしようなどとは考えないのでございます。

> 本質的にこれは「お互いさま」なのでございます。

この部分を補足したいと存じます。

どのような生き方であろうと、それが自己の「嗜好」に基づいてなされる「個人的な快楽追求」であることに変わりはない。その意味では『お互いさま』だということになるのでございますが、それではそのような「世界観」において「批評」の占める位 置とは、いったいどのようなものなのでございましょう。

> 他人の行為を批判する時、自分の価値観で一方的に相手を裁いても、何の意味もございません。大切なのは、相手も共有できる「共通 の価値観」において断罪し、反省を促すことなのでございます。

これが、私の「現在の立場」でございます。つまり、「快楽取得手段の個々の有効性」については「個人差」があるものの、それでも「共通 項」はあるだろう。だから、それを基底として、批評は可能である、という考え方でございます。
しかし、ほとんど「普通の常識」が通用しない「個人的で極端に限定的な快楽原則」に生きる人間を相手にする場合は、どうなのか? 例えば、「殺人」に無上の快楽を覚え、人間的・動物的な「当たり前の感覚」に何の共感も覚えない人間、つまり「共通 項が無い人間」が「存在したとしたら」、我々はどうすればいいのか? 論理的には、これはもう「批評の言葉」は無力でございましょう。しかし、ですからこそ逆に、そのように「見える」場合でも、安易に彼を「共通 項が無い人間」として切り捨てるのではなく、「共通項が見えにくい人間」と措定して、「批評の言葉」の可能性を精一杯探るべきなのではございませんでしょうか。すくなくとも私は、そう考えるのでございます。当然、それを「現実逃避」とする批判も出てまいりましょうが、「現実」とは所詮「解釈」の産物でございますから、「批評の言葉」に生きる者が、その可能性を信じて放棄しないというのは、私は、当然のことだと存じます。

それと、「快楽取得手段の個々の有効性」について「個人差」があるのは事実ですから、自己の「快楽の嗜好」にしたがって他者を批判するのは、客観的公正さに欠けるとしても、それでは、それで問題がすべて「相対化」されて、他者を批判できない(批判してはいけない)ということになるのか、と申しますと、そんなことでもないと存じます。
例えば、同じ「快楽取得手段」であっても、『世界平和を願う』『慈善運動をする』『子供を育てる』『仕事をする』のように「自分以外にも益する手段」もあれば、『食事をする』『睡眠を取る』『哲学書を読む』のような「単純に個人的な手段」もあり、『人を馬鹿にする』『犯罪をおかす』など「他者の被害を前提とした手段」もございます。
つまり「快楽取得手段」を批評の対象とするならば、その手段がもたらす「自他にわたる(客観的)快楽量 」を問題にするという「功利主義的倫理」の問題にも関連してまいりましょう。つまりこれは「正義とは何か?(悪とは何か?)」という難問への取り組みであり、ここでもまだ、私には最終的な答は出ていない、ということなのでございます。

また上記の問題と関連して、『自殺』『自傷行為』の問題も出てまいりましょう。主観的には「快楽取得行為」であり、物理的には「他者」に迷惑をかけない行為であるにもかかわらず、客観的には自己を害し、他者にも「心理的な加害行為」となりがちなこの種の行為を、「選択・決定・行動の個人的自由」との関係でどう評価すべきなのか。
これは『国家民営化論』で「命の自己決定権」を主張した笠井潔に対し、『死は共鳴する』という立場からこれに反論した小松美彦の(自殺)問題意識や、最近、なし崩し的に容認されつつある「臓器移植問題」というかたちで表面 化した、「命は、誰のものか?」を中心テーマとした、現実的な問題大系を構成しております。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(5)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(3) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)18時59分24秒


 よたろう さま
> 「笠井潔の件」について

> これは私がこのように納得をしたということであって、園主様の本意とはまた別 のものなのかもしれませんが、とにかくそのように納得いたしました。

その理解で結構でございます。

> 「杉澤鷹里さまの件」について

> 恐らく求められているものは事なかれ的な謝罪などではないと思われます。自分自身の愚かさを認めることだけが求められているのだと思います。ですから、

> 私は私の愚かさを認めます。

これも、このとおりで結構でございます。ご理解いただけて、本当にうれしく存じます(笑)。

さて、それでは、前回、話題がそれる怖れがあったために、あえて書かなかった、「私の人間探求」の部分について、補足的に書かせいただきたいと存じます。

> 人はこの世に生まれた瞬間から「欠落感(=不満感=不快感)」を持っており、それを埋めようとする本能が、そのまま「生きる力」ともなっているのでございます。そのような意味で、人が生きることの「究極の目標」は、平易に言えば「気持ちよくなること」。ちょっと硬い言い方をすれば「全能感の回復」なのでございます。

この考え方を突き詰めてまいりますと、当然「では、完全な満足感が得られたら、どうなるのか?」という疑問が出てまいります。私は、前回、このことについて、

> 人は、もし「何をしなくても(何を得なくても)」幸福感(気持ち良さ)に満たされるのであれば、あえて行動は起こさないものなのでございます。

と簡単に書きましたが、このことを突き詰めて言うと、「死ぬ」ということになるのではないでしょうか?
人は「生まれでた瞬間(正確には、生まれた瞬間)」から欠落感に捕らわれます。ということは、「完全な全能感」というのは、人間が体験したことのない「夢想」であり、それが存在するとすれば、それは「生」のなかにではなく、「死」のなかにこそ存在することになりましょう。したがって、人が「全能感の回復」を求めて生きるというのは、言い換えれば、人は「死の夢想」を生きるとも言えるのではないでしょうか? つまり「死の(快楽の)夢想」というのは、何も自殺志願者に限ったことではない、ということでございます。そして、思うにこれが、ジョルジュ・バタイユのいった「エロスの絶頂における恍惚とは、一瞬の死である」ということの意味なのではないでしょうか。私は、まだバタイユを読んでおりませんので、聞き齧った範囲での想像に過ぎないのですが、そのように思いました。

しかし、このことを言い換えれば、「人は死ぬために生きる」という何やら矛盾めいた結論に辿り着いてしまいます。ですが、だとすれば、生きることにいったい何の意味があるのか? ……これが、私にとって、まだ答の出ていない、考察テーマのひとつでございます。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(4)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(2) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)18時58分06秒


(3)『ダマされるな! 目からウロコの政治経済学』
              金子勝・丸川珠代・ダイヤモンド社(1400円+税)

帯に曰く『この国をダメにしたのは誰だ!? 庶民派女子アナの疑問に応えて、頑固系経済学者が痛快にニッポンを斬る』『小泉&竹中「改革」から日米関係まで』『意義あり!』。

金子は『小泉&竹中「改革」』批判の急先鋒。『〈癒し〉のナショナリズム』の小熊英二と同じ慶応義塾大学の、経済学教授でございます。
なにしろ数字にはまったく疎い私ですので、これまで「経済」の話は敬遠してきたのでございますが、『天才 柳沢教授の生活』(山下和美)の主人公で、私のもうひとりの「心の師」でもある柳沢教授も「経済学は、人間学です」と言ったおりましたし、そろそろ少しは勉強しておこうかと手に取ったのが、読みやすそうな本書だったのでございます(笑)。


(4)『文明の内なる衝突 テロ後の世界を考える』
               大澤真幸・NHKブックス(970円+税)

帯に曰く『アメリカの内なる欲望が、9.11テロを引き起こした』『現代社会の盲点をつく、待望の書き下ろし!』。

昨年(2002年)6月の刊行。拙稿 笠井潔が、真にのぞんだこと。―― 往復書簡『動物化する世界の中で』に見る、笠井潔の欺瞞性のなかでご紹介いたしました、東浩紀との対談集『自由を考える 9.11以降の現代思想』(NHKブックス)でも、たびたび言及されている、大澤の前著でございます。

ちなみに、大澤には、金子勝との共著『見たくない思想的現実を見る』(岩波書店)もございます。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(3)」につづく)


善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(1) 投稿者:園主  投稿日: 5月15日(木)18時56分46秒

みなさま、本日は、おもしろそうな新刊(と、旧刊一点)をご紹介いたしましょう。


(1)『「心」と戦争』 高橋哲哉・晶文社(1400円+税)

帯に曰く『いま、「こころ総動員法」前夜。』『教育基本法改正、『心のノート』、愛国心通 知表…… / わたしたちの「心」に、国家が侵入しようとしている。静かに、ひそかに、やさしさを装いながら。戦争をする準備に向かう日本。』。

……本書は、先日AOIさまのなさった「教育現場の管理化」の話をうけて、ホランドくんが、

> 『動物化する時代の中で』でも、笠井さんが「高橋哲哉とは違ったかたちで、加藤典洋の『敗戦後論』には異論がある」というようなことを書いていた、東浩紀さんの指導教官の一人でもある高橋哲哉さんが、最近そのあたりの問題にかんする本を出されていましたよね。

と紹介していたものでございます。これも「有事法制」に関わる重要問題を扱っていると申せましょう。国家が、国民に対し「母国の命運がかかった戦いには、個人の自由を制限してでも、協力してもらう」とするのが「有事法制」であれば、ここで扱われているのは「進んで、協力してもらう」ための、国家の国内戦略の問題でございます。


(2)『〈癒し〉のナショナリズム 草の根保守運動の実証研究』
            小熊英二・上野陽子・慶応義塾大学出版会(1800円+税)

帯に曰く『「新しい歴史教科書をつくる会」とは何だったのか』『「つくる会」につどう自称〈普通 の市民〉たちのメンタリティを実証的に分析し、現代日本の行方を問う。』。

日本の右傾化を「庶民レベル」で下支えするかのような形で、社会に一定の影響を与えてきた「新しい歴史教科書をつくる会」とそのシンパたち。「草の根保守」とは、アメリカで言えば、現ブッシュ大統領が、これに分類されることを忘れてはなりません。
最近、よく耳にする「ネオコン(ネオ・コンサーバティブ)」は、「新しい保守主義」と説明される「攻撃的な保守主義」で、元来「保守」とは、その名のとおり「積極的でも攻撃的でもない」はずなのでございますが、彼らは「自己は変わらず、他者を変えることには積極的」なのでございます。ブッシュに代表される「旧来の保守」に、新しい「保守の過激派」と言ってよい「ネオコン」一派が結びついた結果 が、今日のアメリカの覇権的一国主義だと申せましょう。
「新しい歴史教科書をつくる会」は、形態的こそ確かに「草の根保守運動」でございますが、思想的には「日本のネオコン」とも呼ぶべきものでございましょう。彼らの「戦死者賛美」は、その文脈において理解されるべき、覇権への「積極的な意図」を秘めたものなのでございます。

ともあれ、「国家」に帰属し、「国家」という「巨大なペニス」と一体化して、「自我」を肥大させることにより、今日的な「不安」から逃れ「癒され」ようとする人々。そして、そうした人々の「弱さ(貧弱さ)」につけこむ形で展開されているのが、「新しい歴史教科書をつくる会」に代表される、今日の日本の「草の根保守運動」なのではないかと、私は考えております。

なお、著者の小熊英二は、『単一民族神話の起源』『〈日本人〉の境界』『〈民主〉と〈愛国〉』などで、斯界の注目をあびた気鋭の研究者。東京大学出身で、現在は慶応義塾大学総合政策学部教員。共著者の上野陽子は、同学部卒業生。





( 以下は「善かれ悪しかれ、類は友を呼ぶ(2)」につづく)



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