●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2003年9月下
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天然。 投稿者:Keen  投稿日: 9月29日(月)18時51分59秒

☆ホランドくんへ

>>> 園主さま、エスコートして下さる?(笑)
>> 杏子が焼き餅を焼くといけないので……(笑)。(<園主さま)
>いきなり躱されてましたね。やっぱり人妻はダメでしょう。なにしろ『鉄壁』だから(笑)。

え?ひょっとして、ナンパだと思われてたの?(汗)
……お子ちゃまに、そんな器用なマネできるわけないでしょ〜☆
それに、私はクラウス兄との「兄妹愛」一筋よっ♪(^0^*


初おでんでごきげん 投稿者:芙宮  投稿日: 9月29日(月)03時20分09秒

園主さま
>それにしても、直接対面したことのない、ネット上のおつきあいというのは面 白いものだよなあ。
>……でも、アーニャは知らないだろうけど、反抗期の頃の「わが娘」には、なかなかどうしてこの私も手こずらかされたんだぞ(笑)。

いやだぁ。そんな…芙宮は今もこれからも面倒な生き物よ(微笑)。

ホランドさま
>ボクも反抗期の芙宮さまの怖さは知ってるから、最近、芙宮さまがよく使われる『(微笑)』についても、「信じても大丈夫かな?」なんて、つい身構えてしまいます。・・・なんて言ったら、怒ります?(笑)

「別に…。それじゃさよなら。」って言って消えたでしょうね。反抗期なら。
ただ、微笑…は重い話を茶化す目的で使っているから深くとらないでくれればよろしいかと(微笑)。怒って欲しいのなら、そういっていただければそうしてさしあげましょう。
おやすみなさい


議論なきところの「修羅」(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月29日(月)00時34分23秒


 AOIさま(続き)

> 園主さまのおっしゃることはわかります。
> 「退路を断った」形式というのは、やはり、正邪の徹底的な検証ということですね。
> 園主さまの論理性徹底性からして頷けます。
> ディベートもこの方法になりますね。二元論からいうと、有効な方法だと思いますが、二元論では還元できないものがそぎ落とされてしまうというリスクを伴うと思いますが如何ですか?
> つまり、曖昧なものをどちらかに仮定する時点で削がれてしまうものがあると思う。
> そがれるものは必ずしも「世俗的な憶見(=常識=価値観)」とはかぎらない。
> たとえば、演繹と帰納とのちがいほどに、「正しいかも知れないし間違っているかも知れないもの=曖昧なもの」も、曖昧なまま出すことによって検証していくという方法が一方にあると思います。曖昧なものも曖昧だということで意味があるととらえれば、確信のもてるもの、確信のもてないもの、それらすべてを出し合って検証するという共同模索のほうが、リスクが少ないと思うんですね。

 これは、さっき言った「誤解」に基づいた「誤った議論」です。すなわち「論理的に明晰に語る努力が『二元論』になる」という「誤った議論」です。

 AOIさまは『「正しいかも知れないし間違っているかも知れないもの=曖昧なもの」も、曖昧なまま出すこと』という表現をなさってますが、これは「見えないものを見ろ」というのと同じで、現実には不可能なことです。『曖昧なもの』とは単に「曖昧なもの」に過ぎず、それ以上の意味はありません。しかし、一般 に「曖昧にしか分かっていないもの」であっても、その一部は「分かっている」からこそ「ぜんぜん判らないもの」ではなく『曖昧なもの』と表現されるんですよね。したがって、ボクや園主さまがAOIさまに求めたのは、「分かっている」部分をすべて議論の庭に提出せよ、ということであって、『曖昧なもの』に無理に形を与えよ、ということではないんですよ。

 「全体としては曖昧」でも、「部分的にはハッキリと見えているところもある」からこそ、人はそこからそれを「仮説」として立てることができるんです。だから、「こう思う」と言う時には、必ず人は「なぜならこういう事実があるからだ」という程度の根拠は持っているし、それは提出できるはずだということなんですよ。

> もちろん、そうですね。
>>「それは違います。私があのような不用意な表現をした背景には云々」と反論

> されるのであれば、「チ○チ○」表記の正否を問う議論に戻りますね。
> だからこそ、マムさま、inoさまの意見が優先されるべきであり、いらっしゃらない今は限界があるといったのだし。
> 「チ○チ○ついてんのか!」表記は好ましくなかったという前提でのホランドさまと私とのやりとりでのことを言ったものです。

 そうですね。もちろん、「マムさまの問題」はマムさま以外には持てません。ボクたちの議論は、あくまでも「マムさまの問題」というタイトルのついた、「ボクの問題」であり「AOIさまの問題」なんだと思います。


 アーニャ
> 初めまして……だったかしら?「お父上」邸の住猫、アーニャよ。(>芙宮さま)

 アーニャもときどき姿を暗ますけど、芙宮さんほどの長期間じゃないよね。でも、その期間中もときどき「花園」を覗いては下さってるようだから、立ち寄られはしないまでも、塀の外から中を覗いていくって感じではあるのかな?(笑)


 園主さま
> 鹿児島県内をバスで移動している時も、市街地に入れば、気になったのは「古本屋」だった。でも結局、帰りに一軒見かけただけだった。集団行動なので立ち寄ることはできなかったけれど、バスの車中から通 りすがりに見た感じでは、マンガと文庫本中心の新しい小型店鋪で、ほとんど未練はなかった。

 もちろん鹿児島にだって、探せば立派な古本屋さんもあるんだろうけど、九州以外の他府県から来てもらえるような場所じゃないし、そもそも県内に入ってくる新刊の種類や量 が少ないというのは、古本屋としても致命的な弱みだよね。また、もちろん鹿児島にも本好きや古書コレクターはいるんだろうけど、きっとボクらが想像も出来ないような苦労をなさってるんでしょうね。さしたる苦労もなく、読みたい本が手に入るという環境は、ホントに恵まれたものなんでしょうね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


議論なきところの「修羅」(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月29日(月)00時33分07秒


 AOIさま(続き)

> また、『自分が信じてもいない意見を自信満々にぶつけてみせる』というのは、少なくとも、信じていない意見をじぶんがあたかも信じているようにつまり、確信があるように振舞うということです。
> その意見に対し振る舞いであるとしても本人の意見として責任をもって発語しているからこそ「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」と言えるはずです。
> つまり、「知的操作」としてのものでも「退路を断った」という時点で、確信が伴うということです。
> 信じていなくても自分の意見として発語したならば、自分の発言には責任が伴うわけですが、そのあたりはどう考えられますか?信じていない意見でも自分の意見として責任がもてるというのがどういうことなのかちょっと想像できないんですね。
> 責任の伴った意見の交換だからこそ議論が成立するわけですが、実験としての振舞いであれば前もっての場の合意がなければ誠実とは言えないのではないでしょうか。

 ここも、どうも前半部の意味が取りにくいですね。
 ともあれ、ご質問の、

> 信じていなくても自分の意見として発語したならば、自分の発言には責任が伴うわけですが、そのあたりはどう考えられますか?信じていない意見でも自分の意見として責任がもてるというのがどういうことなのかちょっと想像できないんですね。

については、簡単にお答えできます。

 『自分が信じてもいない意見を自信満々にぶつけてみせる』というのは、一種の思考実験ですから、それは「自分の意見」として言うのではなく、「自分が後に否定する意見」として言うのです。つまり、あたかも自分の意見であるかのように語って、相手の反応を見た後、その意見を否定して見せるんですよ。これで責任は取れます(笑)。

 つまり、議論というのは「相手の意見が正しいのか、自分の意見が正しいのか」ではなく「何が正しい意見なのか」というものですから、提出される意見は2つに限定されるわけではありません。二人の意見の他にも検討されるべき意見は当然あるでしょうし、それは当事者二人の意見ではないからといって、あらかじめ軽んぜられて良いものでもありません。それらの意見もそれ相応に尊重され語られる必要があります。そうした意味で、そうした意見を「さも信じているかのような」形で説得的に語るというのは必要なことであり、そのことをして、自己の立場(意見)に対して「不誠実」だと言うこともできないと思います。

 たとえば、ボクが「Aという仮説」を支持し、AOIさまは「Bという仮説」を支持して議論するのですが、議論は『確信』の壁につきあたってしまい行き詰まったとしましょう。この場合、ボクがあえて「Cという仮説」を持ち出してきて、この仮説に対する優位 度において、「Aという仮説」の「Bという仮説」に対する優位性を証明するというやり方もありますよね。
 この際、ボクは一見したところ「Cという仮説」が「Bという仮説」を補強するものであるかのように説得的な紹介して、AOIさまの支持を取り付けた後、一気にこの「Cという仮説」を論理的に否定して、そのままその延長線上で「Bという仮説」をも否定するでしょう。・・・議論を論理的に進めようとすれば、これくらい工夫はとうぜん必要なんですが、こういう工夫がなぜ必要なのかと言えば、人は往々にして「無自覚な確信」を持って、それに固執するものだからなんです。

> 責任の伴った意見の交換だからこそ議論が成立するわけですが、実験としての振舞いであれば前もっての場の合意がなければ誠実とは言えないのではないでしょうか。

 したがって、議論の上での『誠実さ』というのは、何も自分の意見だけを唱え続けるというような「頑なポーズ」によって保証されるわけではありません。ですから、論理的に議論を進めるための「方便」として『自分が信じてもいない意見を自信満々にぶつけてみせる』というような手法も、優れて「論理的な」議論の進め方であり、教条的にその『誠実』を云々されるような不正な行為ではないんですよ。





( 以下は「議論なきところの「修羅」(4)」につづく)


議論なきところの「修羅」(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月29日(月)00時32分06秒


 AOIさま
> 「議論における確信の意味」について

> やはり、『確信』『議論』という意味がホランドさまのいわれているのとは違いますね。
> 私が確信と言っているのはもっと、主観的なことです。客観的に正しいか否かではなく、主観的に自分の意見として責任がもてるかどうかという自己認識。
> この意見は自分が実感として感じたことから導き出されたものとして発語できるということ。
> だから、もちろん、個人的には確信なんて関係ないということもできるでしょう。
> わたしにとってはそうだということ。

 う〜ん、どうもご説明が、わかりにくいですねえ。自分の意見が『主観的』だと意識できた段階で、すでにその意見に『確信』はなく、「相対的に正しいであろう仮説である」というほどの「自信」があるだけなんじゃないかなあ。そういう「自信」を『確信』とまで言っちゃうのは、言葉の使い方として適切だとは思えない。

> 思ったことは率直に言うということを心がけるとしても、すごく主観的なので正邪、正否の二元論では表せないことのほうが多い。

 これも議論がズレてると思います。明晰に論理的に語るということは『正邪、正否の二元論』で語るということではないと思いますが、そのへんで混乱があるように見えますよ。

> 宗教の原理主義のような完璧な『確信』などではおよそないですよ。

 それはそうでしょうけど、『確信』ということの危険性は、『確信』を『確信』だと思わないことだ、とも言えます。
 つまり「自分は冷静で客観的に語っているつもり」であり「原理主義的に意固地にはなっていないつもり」なんだけど、客観的に見れば「意固地になっている」としか評価のしようのない態度というのが往々にしてあって、そういう態度の人は、基本的に「知的」に議論ができないんですよね。そして、なにもこれは「宗教」の問題には限らなくて、たとえば「人生観」や「恋愛観」や「子育て観」に関する議論といった場面 でも、無自覚に頻出している問題ですよね。

>>『確信』が無くても、相手に「意見」をぶつけてみることは出来ると思います。
>>「私は、今のところ、こう思います。こうとしか思えないんですが、貴方はこの意見について、どう思われますか」というのは普通 になされていること(=一種の実験)で、自分が「意見」が正しいという『確信』が無ければ、その「意見」を相手にぶつけられないということは、ぜんぜんないと思います。
>> 実際、自分が信じてもいない意見を、自信満々にぶつけてみせるということすら可能なんですからね。

> ということについてですが、これってちょっと矛盾していると思います。
> 『私は今のところこう思います』というのは、言わなくっても今現在の意見であるのは自明の前提なわけで、こういう断り書きはホランドさまの「知的操作」ということからすると必要のないものです。それに、この場合、『こうしか思えない』というのは現時点の確信です。

 『言わなくっても今現在の意見であるのは自明の前提』とのことですが、そんなことはないと思いますよ。けっこうみんな、自分で「うまくは説明できないけど、私は物事の本質を把握している」なんて『確信』してるとは思いませんか? だから実質的に論破されても、「あいつは口がうまい」「私は口下手だから」なんて話になって、内心の『確信』は(「議論」では)まったく揺るがない・・・なんてのはありふれたことだと思いますよ。
 そうした意味で、自分の意見が「過渡的なもの」だと自覚しているというのは、稀有に知的なことだと思いますし、そういう人が少ないからこそ、議論はしばしば「ケンカ」に堕してしまうんだろうし、『豹変』できるのは「君子とぺてん師」に限定されるんだと思います。

 ですから、「知的」な人同士の議論なら、もちろんおっしゃられるとおり『こういう断わり書き』は『必要のないもの』なのでしょうが、実際にはしばしば「あえて言わなければ伝わらないもの」として必要なんじゃないでしょうか?

 いずれにしろ、常識的に言って、『こうしか思えない』というのが『現時点の確信』だと思えるのなら、それはもう『確信』ではないと思いますよ。





( 以下は「議論なきところの「修羅」(3)」につづく)


議論なきところの「修羅」(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月29日(月)00時31分21秒

 みなさん、こんばんは! 読売巨人軍の原監督の退陣が正式に決定し、記者会見で離任の挨拶をしていましたね。新聞なんかを見ていると、監督自身はぜんぜん辞めるつもりなんかなかったようですけど、読売グループのトップである渡辺恒雄オーナーなんかは、原監督を辞めさせたかったみたいで、結局は「上の意のまま」という結果 になったようです。
 「巨人は勝つことを宿命づけられている」とか、それを監督に要求できるだけの戦力の補強はしている(金は出してる)とか言いますし、それは事実そのとおりなんでしょうけど、昨年の優勝監督を、今年一年ぱっとした成績をあげられなかったからって、いきなり変えちゃうなんて、やっぱりどうかと思います。戦力の補強は、お金さえ使えばすぐにでも何とかなるでしょうけど、人間相手の監督の仕事ってそんな単純なものじゃない。第一、「お金で戦力を整えてやってるんだから、勝て」「勝てるはずだろう」と言うんだったら、監督なんて誰でも良いということにはならないでしょうか?
 長嶋前監督が愛弟子を助けてやろうと、オーナーに話を通したみたいだけど、その効果 はなかったようです。長嶋は国民的な有名人だから、オーナー側もそれなりに丁重には扱うんでしょうけど、たぶん心の中では「野球バカのくせに、黙ってろ」くらいのことは思っているのかな、なんて思います。なにしろ、金力と政治力に生き、有無を言わさず他人を従わせてきた人にとって、「野球選手としての権威」なんか、実際のところ、あって無きがごときものでしょうからね。





 影姫さま
> 1>埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』
> ハッキリ言って難しすぎて頭が痛くなりました。日本ではめずらしいアフ
> ォリズム集なのです。就寝前にちょっと頭をひねってみたい人向けだと思
> います。しかしこれが『死霊』の原点だそうなので埴谷雄高を読みたい人
> は入門書として必読でしょう。

 埴谷雄高って「難解」だということで有名ですが、その頭が痛くなるような『不合理ゆえに吾信ず』が入門書だったら、本丸の『死霊』はいったいどうなるんでしょう?(^-^;) ・・・園主さまもだいぶ手こずったみたいだし、やっぱりかなりのもののようですね。

> 1>『赤目四十谷瀧心中未遂』>これは観たい!!(・∀・)ノしか
> し例によって東京の単館上映。東京遠征の時でも観るしかないです。
> (;;)

 地方のつらいところですよね。ビデオ待ちでしょうか・・・。


 Keenさま
>> 「中井英夫没後10年 アンチ・ミステリーへの誘い『虚無への供物』展」(仮称)
>> 絶対!行きたいっっっ!!!

>> 園主さま、エスコートして下さる?(笑)

> 杏子が焼き餅を焼くといけないので……(笑)。(<園主さま)

 いきなり躱されてましたね。やっぱり人妻はダメでしょう。なにしろ『鉄壁』だから(笑)。


 芙宮さま
>> わかりませんよー。ボクに振らないで下さい(-_-;)。
 
> えっえっ!何故ですかぁ?

 ノーコメント!

> ……でも、アーニャは知らないだろうけど、反抗期の頃の「わが娘」には、なかなかどうしてこの私も手こずらかされたんだぞ(笑)。(<園主さま)

 ボクも反抗期の芙宮さまの怖さは知ってるから、最近、芙宮さまがよく使われる『(微笑)』についても、「信じても大丈夫かな?」なんて、つい身構えてしまいます。・・・なんて言ったら、怒ります?(笑)





( 以下は「議論なきところの「修羅」(2)」につづく)


「知覧特攻平和会館」に思う(5) 投稿者:園主  投稿日: 9月28日(日)20時27分14秒


 影姫さま
> ☆読書>佐藤ラギ『ギニョル』(日本ホラー・サスペンス大賞受賞)
> 読了。さえないSM作家が「ギニョル」という美少年娼婦と出会い、倒錯の
> 世界へ堕ちてゆく・・・という話のはずがあまりにもヤワな描写の連続で
> ガックリ。

気にはなったものの、まったく評判になりませんでしたので「大したことはないんだろう」と手を出さなかった本でございます。ご感想を聞き、やはり「取りこぼし」でなかったことが確認できて、安心いたしました(笑)。

> ☆古本の収穫
> 1>埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』(成瀬書房・二重函・内箱ビロード
> 2>町田町蔵『壊色』(リトルモア・カバ帯)
> 3>ハロルド・ビンダー『ソロ・セックス』(パルコ出版・カバ帯)

順調にコレクションを増やしておられるようでございますねえ。私の場合、コレクションの守備範囲が影姫さまほど広くはございませんので、ご報告するほどの目新しいものを、最近は買ってはおりません。本当に欲しい本は、なかなか出ないのでございます。


 Keenさま
> 「中井英夫没後10年 アンチ・ミステリーへの誘い『虚無への供物』展」(仮称)
> 絶対!行きたいっっっ!!!

> 園主さま、エスコートして下さる?(笑)

杏子が焼き餅を焼くといけないので……(笑)。

> オフ会も、できるとイイのにね♪

そういえば、最近は「手近なところでのオフ会」も、ぜんぜんやっておりませんなあー(笑)。


 芙宮さま
> 生きるのにも色んな面で慣れが必要なのかなっ。
> 日々に感情を埋没させることで今までは痛みをこらえてきたから、時に鬱がきたのだろうけど、痛みは胸に据えてそれを微笑みに変えようと・・(微笑)

そうでございますね。『慣れ』とは『必要』に応じて出来るというようなものではなく、もともと「否応なく」そうなるものでございますから、貴女さまの場合、無理に「慣れ」ようとすべきではないのかも知れません。同じ意味で『日々に感情を埋没させることで今までは痛みをこらえてきた』という行為にも、無理があったのでございましょう。

私の『痛み』は「他人の痛み」でもございます。『痛み』を感ずればこそ、手当てが必要な場所もわかる。『痛み』に対する感受性は、貴女さまにあたえた「天賦の才」なのかも知れません。ですから、その「アンテナ」を大切にしていただければと存じます。


 AOIさま
> (※ 竹本健治殺しの)じゃ、ホシは私だけ?(笑)。

そういうことになりますね(笑)。

> 「こまったちゃん」だってー!?

なにしろ、唯一の「竹本健治殺しのホシ」でございますから(笑)。

> 「竹本教」かあ?「竹本狂」にはなれるんだけどな(笑)。
> それにしても、一クセも二クセもある信者たち(?)。教祖は竹本さんしか務まりませんね。って当たり前(笑)

竹本さまの場合、大きな頭を振りながら「トホホ……」の一言(?)で済みますからね(笑)。


 アーニャ
> ところが、私も言われてみて思い当たったのですが、私が「杏子さん」を造形した時モデルとした人物群の中に、芙宮さまも入っていたのではないかと思うのです。
> 高校を卒業したばかりとうら若く、ずっと年長の「幸一さん」にベタ惚れして結婚した「杏子さん」……性格は芙宮さまとは異なるようですが、意識としては、あったような。

それにしても、直接対面したことのない、ネット上のおつきあいというのは面 白いものだよなあ。……でも、アーニャは知らないだろうけど、反抗期の頃の「わが娘」には、なかなかどうしてこの私も手こずらかされたんだぞ(笑)。


 ホランド
鹿児島県内をバスで移動している時も、市街地に入れば、気になったのは「古本屋」だった。でも結局、帰りに一軒見かけただけだった。集団行動なので立ち寄ることはできなかったけれど、バスの車中から通 りすがりに見た感じでは、マンガと文庫本中心の新しい小型店鋪で、ほとんど未練はなかった。

南国沖縄は、現地の人も認めるとおり、読書文化の薄い土地柄だったが、鹿児島にもその傾向があるのかも知れないな。気候が良いので「家に籠って本なんぞ読んでられない」というのは、自然な傾向だと思う。しかし、私個人としては、今となっては「専門書、少部数出版物の入手が困難」で「古本屋が少ない」ような土地には、とうてい住めそうもない(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「知覧特攻平和会館」に思う(4) 投稿者:園主  投稿日: 9月28日(日)20時26分12秒


 (2) 『特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、
    今日の平和日本がある』という「誤魔化しの追認」

これは前述の通り「嘘」でございます。特攻隊員の「死」は、『崇高な犠牲』ではなく、現実には「無意味な死」であったという意味で「悲惨な死=犬死に」でございました。
先の戦争の末期に「特攻」があろうとなかろうと、日本が敗戦したことは間違いございませんし、その後の『国の繁栄』も『今日の平和日本』も、「特攻」という歴史とは基本的に無関係なのでございます。

彼ら特攻隊員の死を、本当の意味で『崇高な犠牲』としたいのであれば、我々はその「無意味な死」の悲惨な現実を直視し、それを胸に刻んで「二度とこのような愚行は、くり返さないし、許さない」と誓わなければなりません。
しかし、その「悲惨な過去」の直視を避けて、美辞麗句の煙幕を通してしか、それを見ることが出来ないとすれば、我々は、彼ら特攻隊員の死を必ずや見誤まり、その死を無駄 にして、もう一度彼らを「犬死に」させることになりましょう。

 (3) 『雄々しく大空に散華された隊員』の「散華」という
     「誤魔化しの追認」

特攻隊員のそれぞれの複雑な思いを、『雄々しく』という一言で括り「きれいごと」の中で語ってしまう神経が、彼ら一人一人の「思い」を蔑ろにして、「崇高な使命を強いる」思想を支えるのでございます。
「国家に強いられた、人間爆弾攻撃による犬死に」を『散華』と言い換える態度が、悲惨な現実としての「戦争」を美化するのでございます。

 (4) 『恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ』
    という言葉の薄っぺらさ

特攻隊員の遺書に涙を流すことが、そのまま「平和への意志の証し」ではないように、「記念館」を作って、「戦死者」を誉めたたえ、お題目のように「平和」を唱えるのが、そのまま『特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたこと』であるという『この国に平和と繁栄』に資することだとは、必ずしも申せませんでしょう。なぜならば、真の意味で「平和」を求める心とは、「戦争の美化」を峻拒する心だからでございます。

そうした意味で、僭越ながら「特攻に死んだ若者たちの霊」になりかわり、はっきり申し上げておきますと、今の「知覧特攻平和会館」は「戦争」をネタにした「観光名所」の域を、まったく一歩も出てはおりません。
入場券の裏に、うれしげに『北白川房子さま(元妃殿下)』の歌を刷り込んでいるようなでは、お話にもならない。『恒久の平和を祈念すること』とは、そんな「あまっちょろい」ことではないのでございます。

そして、私がここでも思い出しますのは、大西巨人がエッセイ籠れる冬は久しかりにしに、中野重治の『国民の側の弱さ、足りなさ、不充分さ』という言葉を引いて指摘した『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』の、戦後日本における「不充分さ」ということでございます。
わが日本国民は、かつても、そして今も、「戦争と平和」についての「認識」や「覚悟」の『弱さ、足りなさ、不充分さ』を充分には自覚しておらず、『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』をついぞ充分になしえなかったという事実が、ここ「知覧特攻平和会館」にも厳然と示されていたのでございます。





( 以下は「「知覧特攻平和会館」に思う(5)」に思う)


「知覧特攻平和会館」に思う(3) 投稿者:園主  投稿日: 9月28日(日)20時25分25秒


 (1) 『特攻という人類史上類のない作戦』とのみ書いて、
    その「非人間性」には触れない誤魔化し

『特攻』を「人間爆弾=自爆」攻撃だと考えれば、これは決して『人類史上類のない作戦』ではございません。古くから「一人一殺」のテロリストたちは、ナイフや爆弾を手に、自ら退路を絶った「決死」の攻撃をおこなってまいりました。また、先の「9.11」の旅客機による自爆テロや、パレスチナにおける「自爆テロ=殉教攻撃」が、海外で日本の「(神風)特攻」と類比的に語られるのも、決して故なきことではないのでございます。
しかし、日本の「特攻」を『人類史上類のない』ものとしているのは、それが「国家レベル」で立案され、国家元首である「天皇裕仁」に聖断を経て、公式に遂行された作戦だという点にございます。それまでの人類史のなかで、「負け戦」の確定した後に、「守るべき自国民(赤子)」に、生還の可能性のない「自爆」攻撃を公然と強いた「非常識な国家および国家元首」など、かつて無かったのでございます。

なお、日本の「特攻」は、特攻隊員自身にとっては、限りなく理不尽なものではございましたが、標的が敵国の兵器軍人に限定されていた点で、今日の「民間人をも標的にした、自爆テロ」とは区別 されるものでございましょう。そうした意味で日本の「特攻」は、決して「テロ」ではなく、間違いなく「戦争行為」でございました。しかしまた、「特攻」は、「国家の、自国民に対するテロ」も同然だったのでございます。

結局、日本の「特攻」は、徹頭徹尾「馬鹿馬鹿しい作戦行動」であり「人類史に冠たる非人間的愚行」だったのでございます。ですから『再び日本に特攻隊をつくってはならない』と本気で思うのであれば、まずは「特攻」のそうした「馬鹿馬鹿しさ」「非人間性」を強調すべきなのでございますが、「知覧特攻平和会館」の「設立主旨」にあるのは、「特攻」の『人類史上類のない』という「特異性」への言及のみで、価値判断については無難に回避してしまっているのでございます。

たぶんこれは、「特攻」を『徹頭徹尾「馬鹿馬鹿しい作戦行動」であり「世界史に冠たる非人間的愚行」』などと評すると、元軍人や右翼のなかでも特に頭の悪い部類の人間が「特攻隊員の死を冒涜するのか」などとお門違いなこと言い出すから、それを怖れて明言を避けたということなのでございましょう。
しかし、「己が命を捨てるだけで、何のメリットもない作戦行動を、国に強いられて死んだ」という意味で、文字どおり「犬死に」と言ってよい若者たちの悲惨な「死」を、それでも「犬死に」と言わせない人々というのは、「国家の明白な愚行」と「それを強いられて死んだ、被害者の止むに止まれぬ 行動」との区別がつかない、前記のような大馬鹿者か、あるいは意図的にそれを混同させて、国家の愚行を「きれいごと」のうちに誤魔化そうとする人かの、いずれかだと申せましょう。

ともあれ、「知覧特攻平和会館」の設立主旨が『恒久の平和を祈念すること』にあるのであれば、是々非々で「それは愚行だ。それは止むに止まれぬ 行為だ」と、勇気を持って、厳格な態度で「現実に向き合う」べきでございましょう。しかし、この「設立主旨」には、そんな「覚悟」など微塵も見られないのでございます。





( 以下は「「知覧特攻平和会館」に思う(4)」に思う)


「知覧特攻平和会館」に思う(2) 投稿者:園主  投稿日: 9月28日(日)20時24分41秒


私は、この「設立主旨」を読んで、憮然といたしました。より正確に言えば、腹が立ったのでございます。
何に腹が立ったのかと申しますと、「平和への意志と覚悟」をまったく感じさせない、その「ぬ るい言葉づかい」にでございます。具体的に申しますと、

 (1) 『特攻という人類史上類のない作戦』とのみ書いて、
    その「非人間性」には
触れない誤魔化し
 (2) 『特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、
    今
日の平和日本がある』という「誤魔化しの追認」
 (3) 『雄々しく大空に散華された隊員』の「散華」思想という
     「誤魔化しの追認」
 (4) 『恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ』
    という言葉の
薄っぺらさ

といったところでございましょう。

言うまでもなく、連合軍が沖縄上陸作戦を決定した段階では、すでに戦争の帰趨は決しておりました。つまり、日本の負け戦は、すでに決定的となっていたのでございます。ですから、「特攻」の現実とは、国家レベルで見れば「悪あがき」以外の何ものでもなく、多くの若者に犠牲を強いることになったその攻撃によって「救われた命など存在しない」という哀しい現実において、「特攻」した(させられた)若者たちの死は、まさに「犬死に」だったのでございます。

もちろん彼ら一人ひとりは、純粋に「国の掲げる皇国イデオロギー」を信じ、それに殉じたのかも知れません。しかし、元来それは、彼らとて「最初から望んだこと」ではない、ということも決して忘れてはならないのでございます。いったい誰が、故郷に妻を子を両親を恋人を残したまま、「死にたい」などと望むことでございましょう。……しかし、国家総動員体制のなかで「天皇陛下の下命」に背くことは、限りなく不可能に近いことでございましたから、多くの若者が、せめて自らの「死」に、何らかの(崇高な)意味(=観念)を見い出そうとしたのも、人間の感情としてやむを得ざるところだったのでございます。そして、そうした「人の弱み」につけ込んだのが、まさに「英霊」だの「散華」だのといった「美辞麗句」だったのであり、またそんな「空疎な言葉」にさえ縋らなければならなかったのが、「無意味な死」を強いられた彼ら「特攻」の若者たちの「悲惨な現実=残酷な運命」だったのでございます。

こうした「当たり前の前提」を確認したうえで、上に揚げた4点について検討してまいりましょう。





( 以下は「「知覧特攻平和会館」に思う(3)」に思う)


「知覧特攻平和会館」に思う(1) 投稿者:園主  投稿日: 9月28日(日)20時23分46秒

みなさま、私、一昨日・昨日と会社の慰安旅行で、鹿児島県指宿温泉に行ってまいりました。いつも申しておりますとおり、私は基本的には「旅行」というものに興味はなく、まして「観光」や「温泉」などには、とんと興味がございませんので、今回の旅行も「おつきあい」として参加しただけでございます。
観光スポットとして、旅行代理店業者が組んだコースには、お土産を買わせるために立ち寄る「かるかん・さつまあげ工場」のほかに「知覧特攻平和会館」「武家屋敷群」「池田湖」「長崎鼻」などがございましたが、私が興味を持てたのは、ご想像のとおり、知覧特攻平和会館だけでございました。

鹿児島県知覧町は、終戦の年、昭和20年に、沖縄決戦のための特攻隊基地がおかれた街で、この基地に全国から集った一千数百人もの若者が、国家的に組織された「自爆」攻撃の肉弾となって、時の国家に殉じたのでございます。そして「知覧特攻平和会館」は、そうした若者たちの記録を後世につたえて、恒久平和の実現を願って、設立された記念資料館なのでございます。

一昨年でしたか、この「知覧特攻平和会館」を訪れた小泉首相が、展示されている特攻隊員の遺書などに涙を流すシーンが、テレビニュースなどで大きく報じられたのは、まだ記憶に新しいところでございますが、元来、平和実現のために設立された記念館が、「自衛隊の海外派兵」を実現し、「有事関連三法案」を成立させたような、時の権力者のプロパガンダに、いとも簡単に利用されてしまうというこの事実ひとつ取ってみても、日本人の先の戦争についての「反省意識の希薄さ」と「平和認識の浅薄さ」が、ここにも如実に、象徴的に表れていると申せましょう。

「知覧特攻平和会館」に入ると、正面には「特攻隊員を天国にいざなう天女たち」を描いた絵が飾られており、その下には『特攻平和会館について』と題された、特攻平和会館の設立主旨を記したプレートが設置されております。以下が、その全文でございます。

『 この特攻平和会館は太平洋戦争の末期、沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。
 私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご協カ、ご支援で展示しています。
 特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。』





( 以下は「「知覧特攻平和会館」に思う(2)」に思う)


お気に召すまま(下) 投稿者:AOI  投稿日: 9月28日(日)11時36分25秒

(ホランドさまつづき)

>> ボクとしては、こうした「安易な表記」は、単純にマスコミの悪影響なんではないか思います。で、ホントに問題なのは、そんな影響を「無自覚に受け入れてしまう」というところにあるんじゃないか、つまり、一見「軽く」見える事柄についての「懐疑」が不充分なんじゃないか、というようなことです。

>そうでしょうか? 仮令ば、上のボクの意見に対し、マムさまが「それは違います。私があのような不用意な表現をした背景には云々」と反論されることだって当然あるでしょうし、その場合、これはどこからみても『議論』なんじゃないですか? 
なにも口泡飛ばしての激論だけが『議論』ではないと思いますよ。

もちろん、そうですね。
>「それは違います。私があのような不用意な表現をした背景には云々」と反論

されるのであれば、「チ○チ○」表記の正否を問う議論に戻りますね。
だからこそ、マムさま、inoさまの意見が優先されるべきであり、いらっしゃらない今は限界があるといったのだし。
「チ○チ○ついてんのか!」表記は好ましくなかったという前提でのホランドさまと私とのやりとりでのことを言ったものです。


お気に召すまま(中) 投稿者:AOI  投稿日: 9月28日(日)11時33分42秒

(ホランドさまつづき)
で、
>『確信』が無くても、相手に「意見」をぶつけてみることは出来ると思います。
「私は、今のところ、こう思います。こうとしか思えないんですが、貴方はこの意見について、どう思われますか」というのは普通 になされていること(=一種の実験)で、自分が「意見」が正しいという『確信』が無ければ、その「意見」を相手にぶつけられないということは、ぜんぜんないと思います。
 実際、自分が信じてもいない意見を、自信満々にぶつけてみせるということすら可能なんですからね。

ということについてですが、これってちょっと矛盾していると思います。
『私は今のところこう思います』というのは、言わなくっても今現在の意見であるのは自明の前提なわけで、こういう断り書きはホランドさまの「知的操作」ということからすると必要のないものです。それに、この場合、『こうしか思えない』というのは現時点の確信です。
また、『自分が信じてもいない意見を自信満々にぶつけてみせる』というのは、少なくとも、信じていない意見をじぶんがあたかも信じているようにつまり、確信があるように振舞うということです。
その意見に対し振る舞いであるとしても本人の意見として責任をもって発語しているからこそ
「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」と言えるはずです。
つまり、「知的操作」としてのものでも「退路を断った」という時点で、確信が伴うということです。
信じていなくても自分の意見として発語したならば、自分の発言には責任が伴うわけですが、そのあたりはどう考えられますか?信じていない意見でも自分の意見として責任がもてるというのがどういうことなのかちょっと想像できないんですね。
責任の伴った意見の交換だからこそ議論が成立するわけですが、実験としての振舞いであれば前もっての場の合意がなければ誠実とは言えないのではないでしょうか。


>たとえ完璧な確信の持てない現時点での「仮説」だとしても、その「仮説」の正邪について検証する場合には、それが「正しいかも知れないし間違っているかも知れないもの=曖昧なもの」として提出されるのではなく、それが「正しいもの」として「仮定」され、一部の矛盾も見出せないものとして「退路を絶った」形式で提出され、その上で徹底的に検証されるべきである、というようなことをおっしゃってるんじゃないでしょうか。つまり、園主さまが要求しているのは、『確信』ではなく、もっと方法的な「知的操作」なんですよ。

園主さまのおっしゃることはわかります。
「退路を断った」形式というのは、やはり、正邪の徹底的な検証ということですね。
園主さまの論理性徹底性からして頷けます。
ディベートもこの方法になりますね。二元論からいうと、有効な方法だと思いますが、二元論では還元できないものがそぎ落とされてしまうというリスクを伴うと思いますが如何ですか?
つまり、曖昧なものをどちらかに仮定する時点で削がれてしまうものがあると思う。
そがれるものは必ずしも「世俗的な憶見(=常識=価値観)」とはかぎらない。
たとえば、演繹と帰納とのちがいほどに、「正しいかも知れないし間違っているかも知れないもの=曖昧なもの」も、曖昧なまま出すことによって検証していくという方法が一方にあると思います。曖昧なものも曖昧だということで意味があるととらえれば、確信のもてるもの、確信のもてないもの、それらすべてを出し合って検証するという共同模索のほうが、リスクが少ないと思うんですね。

 

お気に召すまま(上) 投稿者:AOI  投稿日: 9月28日(日)11時17分08秒

☆園主さま

>笠井さまは、竹本さまを殺したことがございましたっけ?
『天啓の宴』(双葉文庫)で、例によっての「自己賛美」にともなう、つまらない貶め方をなさっていたことは記憶しておりますが。

失礼しました。m(_ _)m>笠井さま
『天啓の宴』を読んでいないで、みなさまのお話から殺されたのかと早合点していました。

じゃ、ホシは私だけ?(笑)。

>同じ「乙女座」と言っても、情緒変化の激しい中井英夫と、ほとんど激することがない(生き仏の)ような竹本健治では、ずいぶんタイプが違うようでございますね。
>で、どちらかと言うと、AOIさまは「中井英夫タイプ」ではないかと(笑)。

「こまったちゃん」だってー!?
「生き仏」って言われてるんですよ!!(嘘)

☆Keenさま

>>いいなあー。私も(竹本さんに)殺されたーい(笑)!

>以下、同文(笑)。

殺し方は“AS YOU LIKE IT!”魑魅魍魎ゆるす。

>しかし「竹本教」信者は、なかなか増えなくて……(嬉しいような、悲しいような?/笑)

「竹本教」かあ?「竹本狂」にはなれるんだけどな(笑)。
それにしても、一クセも二クセもある信者たち(?)。教祖は竹本さんしか務まりませんね。って当たり前(笑)


☆ホランドさま

> お返事、遅くなってすみませんでした。前回の「議論における確信の意味」という
議題について書かせていただきます。

こちらこそ、いつもおそくなってすみません。
なんかいろいろ考えなければいけないことが多くって。


>> 絶対の「確信」ということになれば、たしかに「根源的懐疑」を欠いていることになるのだと思うけれど、「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」と議論で主張するためには「現時点での仮説」に対してであっても自分なりの確信をもっていなければいえないと思う。あとは一番最初に書いたところにもどるので略。

> ここで言うと『自分なりの確信』というのは、すでにして『確信』じゃないということです。それは「正しい認識である可能性の高い(と、個人的には思える)」ということに過ぎないでしょ? AOIさまのご意見だと「可能性の相対的な高低」で言い方が変るのは当然だということになりますが、これは「知的な共同模索」の捉え方として「おかしい」と思います。

> もちろん、それは「一般的な感情」としてはそれもわからないでもないですけど、『議論』を「知的」な「共同模索」と考えるのなら、それは「おかしい」んじゃないですか? 「あらゆる可能性を検証する」「いかなる意見(可能性)も、憶見(ドグマ)によって排除することなく、つぶさに公正に検証する」というのが、「知的」な「検証作業」なのではないでしょうか。


>くり返しになりますが、「知的な共同模索」としての「議論」において大切なのは、
「だれの意見が最終的に正しかったか」ではなく、「最終的に正しいと考えられる意見は、何であったか」なんです。だから、みんなで「あらゆる意見」を提出しあって、それを検証し、あらゆる可能性をひとつひとつ潰していかなければなりません。
その際、誰かが「可能性の低い意見」を提出しなければ、その議論の完全性はそこで損なわれるんですね。だって、小数意見や非常識な意見が正しかったなんてことは、歴史上いくらでもあったことなんですから。


やはり、『確信』『議論』という意味がホランドさまのいわれているのとは違いますね。
私が確信と言っているのはもっと、主観的なことです。客観的に正しいか否かではなく、主観的に自分の意見として責任がもてるかどうかという自己認識。
この意見は自分が実感として感じたことから導き出されたものとして発語できるということ。
だから、もちろん、個人的には確信なんて関係ないということもできるでしょう。
わたしにとってはそうだということ。
思ったことは率直に言うということを心がけるとしても、すごく主観的なので正邪、正否の二元論では表せないことのほうが多い。
宗教の原理主義のような完璧な『確信』などではおよそないですよ。


銀の糸・銀杏色 投稿者:芙宮  投稿日: 9月27日(土)03時53分07秒

ホランドさま
>わかりませんよー。ボクに振らないで下さい(-_-;)。
 
えっえっ!何故ですかぁ?

アーニャさま
 お声をかけていただき、ありがとうございます。お家に留まっている性質ではない芙宮ですので、殆んど初めましてですね。一方的には存じておりましたけれど。

古くからある路地裏の珈琲屋さんで、すだちジャムを添えたスコーンと甘い香りの珈琲を頂きながら、ふとお店の雰囲気に誘われて見た白昼夢のような(解りにくいお話ですが、そう感じてしまったのです…)美しいお話でした。
杏子さんは、芙宮とは性格もさることながら、高校を卒業したての若さから結構遠くにきてしまったように思いますし、結婚する相手がいるわけでないので「妻」という立場に身近なものも感じませんでしたので、わたくしの中で両者がリンクすることが全くなかったので、そのお話にはただただ驚きです。わたくし、ずいぶん丈夫な箱に入って育ったようで、‘恋愛’感覚がいまだに掴めなくて、代わりに、幼少から父がそうであったように私の精神的窮地に光をくれるお父さんみたいな方への憧れに似た感情が園主さまをお慕いせしめているのでしょうけれど…そのせいか「娘」としてお父さんをとられたように思って杏子さんには嫉妬しちゃいました。というところでしょうか。それに、園主さま達はご存知ですよ。芙宮は、大好きな人たちには自然の摂理に逆らってでも芙宮より長生きして欲しい、芙宮を残して先立つなんて許せない!っていうわがままを。とても杏子さんのような「妻」にはなれそうもありません。ふふ。
これから辛い時期にはいるので、現実逃避の最中にきっとお邪魔しますので、猫狂いの芙宮と仲良くしていただけたら幸いです。

園主さま
 生きるのにも色んな面で慣れが必要なのかなっ。
日々に感情を埋没させることで今までは痛みをこらえてきたから、時に鬱がきたのだろうけど、痛みは胸に据えてそれを微笑みに変えようと・・(微笑)


娘か妻か? 投稿者:アーニャ  投稿日: 9月26日(金)11時21分03秒

☆芙宮さま

初めまして……だったかしら?「お父上」邸の住猫、アーニャよ。

「杏子さん」は、私が書いた短編小説の登場人物なのだけど、その後、時々出没してます(※詳細は、私の8月9日投稿の書き込みを、過去ログでご参照下さいませ)。
「幸一さん」のお嬢様としては、いかにも、複雑な心境でございましょうね……

ところが、私も言われてみて思い当たったのですが、私が「杏子さん」を造形した時モデルとした人物群の中に、芙宮さまも入っていたのではないかと思うのです。
高校を卒業したばかりとうら若く、ずっと年長の「幸一さん」にベタ惚れして結婚した「杏子さん」……性格は芙宮さまとは異なるようですが、意識としては、あったような。

「娘」と「妻」では大違いですが、さて、ご感想は……?(^0^*

最後になりましたが、ご進学、おめでとうございます。ホランドくんも言ってますが、たまには遊びにいらして下さいませ。
にゃあ〜♪


絶対!行きたいっっっ!!! 投稿者:Keen@コーフン☆  投稿日: 9月25日(木)10時22分13秒

>☆ 中井英夫関連展覧会
   ・ 「中井英夫没後10年 アンチ・ミステリーへの誘い『虚無への供物』展」(仮称)
   ・ 本多正一写真展『彗星との日々 ―中井英夫との四年半―』


小樽はさすがに無理としても、東京は何とかして……!
園主さま、エスコートして下さる?(笑)
オフ会も、できるとイイのにね♪


花闇・祇園島原男女郎苦界草紙 投稿者:影姫  投稿日: 9月25日(木)02時39分04秒

こんばんは。影姫です。

☆読書>佐藤ラギ『ギニョル』(日本ホラー・サスペンス大賞受賞)
読了。さえないSM作家が「ギニョル」という美少年娼婦と出会い、倒錯の
世界へ堕ちてゆく・・・という話のはずがあまりにもヤワな描写の連続で
ガックリ。作者はフランス書院文庫やマドンナメイトをもっと熟読してそ
の筋の世界を勉強なさい。

☆古本の収穫
1>埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』(成瀬書房・二重函・内箱ビロード
装・丸背上製背革平に題名入金属プレートはめ込み・私家本17部・毛筆
署名入り)

ハッキリ言って難しすぎて頭が痛くなりました。日本ではめずらしいアフ
ォリズム集なのです。就寝前にちょっと頭をひねってみたい人向けだと思
います。しかしこれが『死霊』の原点だそうなので埴谷雄高を読みたい人
は入門書として必読でしょう。

2>町田町蔵『壊色』(リトルモア・カバ帯)

あのあまりにも有名な『くっすん大黒』以前の町田康の本では最も入手し
ずらい本。ちなみに新装版も存在しているので御注意。内容はエッセイと
も詩ともつかない妙ちきりんな本。ユーモアと悪意の微妙なブレンド具合
を楽しみましょう。

3>ハロルド・ビンダー『ソロ・セックス』(パルコ出版・カバ帯)

あの『ひとりぼっちの性生活』以来ひさびさにでた男性向けオナニー
教本。この本では特に男性の長時間オーガズム(女性に見られる)や
サイキック・オーガズム(一切の物理的刺激を用いないで射精する高
等テクニック)のやり方が事細かに書かれています。ヒマな独身男性
向け。

☆映像

1>『赤目四十谷瀧心中未遂』>これは観たい!!(・∀・)ノしか
し例によって東京の単館上映。東京遠征の時でも観るしかないです。
(;;)

2>ドラマ版『ウォーターボーイズ』終了。映画以上の傑作で感動。
シンクロよりもむしろ「幅広い年齢層の人に楽しんでもらうため」
(監督談)現代風俗は一切排除したそうです。ゆえに携帯電話もで
ないし登場少年の服装は制服のみ。こういう細かい配慮が重要だと
痛感。

以上。
ごきげんよう。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


ご案内 投稿者:園主  投稿日: 9月25日(木)01時23分55秒

 みなさま

INFORMATIONに、

 ☆ 中井英夫関連展覧会
   ・ 中井英夫没後10年 アンチ・ミステリーへの誘い『虚無への供物』展(仮称)
   ・ 本多正一写真展『彗星との日々 ―中井英夫との四年半―』

 ☆ 広河隆一関連展覧会等
   ・ 広河隆一写真展
       人間の戦場 2003 ―イラク、パレスチナ、アフガニスタン、チェルノブイリ
   ・ スライド講演会イラク戦争の現場とメディアの課題

の案内をアップいたしました。ぜひご確認下さいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


確信と懐疑(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月24日(水)16時30分54秒

 AOIさま(続き)

 くり返しになりますが、「知的な共同模索」としての「議論」において大切なのは、「だれの意見が最終的に正しかったか」ではなく、「最終的に正しいと考えられる意見は、何であったか」なんです。だから、みんなで「あらゆる意見」を提出しあって、それを検証し、あらゆる可能性をひとつひとつ潰していかなければなりません。その際、誰かが「可能性の低い意見」を提出しなければ、その議論の完全性はそこで損なわれるんですね。だって、小数意見や非常識な意見が正しかったなんてことは、歴史上いくらでもあったことなんですから。
 だからこそ、小数意見や異端的な意見というのは「知的な共同模索」においては「堂々と、臆することなく」提出されるべきなんです。たとえ「潰されるために」提出されるような意見であるように見えても、きちんと「対等」に提出され、検証されるべきなんですね。だから、そうした意見を「誰が」出したかなんて問題じゃないんです。所詮それは、「議論」全体のなかでの「配役(=役割分担)」に過ぎないんですから。

 つまり、あらかじめ「世俗的な憶見(=常識=価値観)」を持ち込まないというのが、「知的」作業の本義というものなのではないでしょうか。


 Keenさま
>>『でも、当時!』ってフォローされても、Keenさまに直接お会いしたことのないボクの頭の中には、フクスケのイメージが刷り込まれちゃいましたよー。・・・みんなも、そうなんじゃないかな?(笑)

> ……「お子ちゃま」ですからね〜☆でも、ちょんまげは結ってないわよっ!それに、裃も着てないっ!!

 イメージ形成って、理屈じゃないからなあー(笑)。

> 泉鏡花賞のリンクは、こちら↓
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bungaku/kyouka/kyouka.htm

 なるほど、そういえばあれが取ってたな、と。

 でも、「この人に「泉鏡花賞」を進呈することに、いったい何の意味があるのだろう?」って人も少なくないですよね。柳美里とか笙野頼子とか。べつに作家として評価しないわけじゃないけど、「泉鏡花賞」じゃないだろうと思うんですよ。また、「今ごろ」種村季弘や野坂昭如の「過去の文業」に対し、むりやり賞を与えるというのもどうかな。

 どうも、こういう賞の与え方には「権威主義」の臭いがしてなりません。ちゃんと探せば、無名だけれども、もっと「泉鏡花賞」にぴったりな作家、「泉鏡花賞」が顕彰すべき作品は、いくらでも存在すると思うんですよね。なのに、そういう人や作品を探す努力はせずに、下選考者(がいるとすれば)も選考委員も「手近なところでお茶を濁している」という印象しか受けません。選考委員をつとめる有名作家なんて、どうせそれほど広く本を読んでいる暇もその気もないのはわかっているんですから、本来なら下選考をする人がもっと広く目配りすべきなんですが、今の状態じゃ、選考委員の有名性に枕を預けちゃってるって感じですよね。『泉鏡花の文学の世界に通 ずるロマンの薫り高い作品を対象としています。』なんて謳っているけど、はっきり言ってこんなん(こんな結果 )じゃ、その「本気」と「やる気」を疑わざるをえないですよ。


 芙宮さま
 おかえりなさい! 園主さまの、『慰め』と言うよりは、「励まし」が効を奏したようで、ホントに良かったー(^-^)。

> ちょくちょく覗いてはいるつもりだったけれど、あまりにご無沙汰しているうちに、お父さんが麗しい(感じがする)伴侶を得たこととなっているではないですか…娘、複雑な心境…嫉妬?かなぁ?ふふっ。何となくわかりません?ホランドさま

 わかりませんよー。ボクに振らないで下さい(-_-;)。

 それにしても、手に入れた瞬間から伴侶は「彼岸の人」だった・・・というのは、いかにも園主さまらしい展開ですよね(笑)。

> 来年も私はかの地におります。試験が通ったから更に進学することになりましたの。ご報告までに。

 ご進学、おめでとうございます。

 また、たまにはお顔を見せに来て下さいね(^-^)。


 園主さま
> 喜んでいいのではないかな。疑問を持つのは「本屋の倉庫」っぽくなってからでも遅くはない。……いや、遅いか?(笑)

 やっぱり、そうか・・・(^-^;)。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


確信と懐疑(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月24日(水)16時24分36秒

 AOIさま(続き)

> 私が言いたいのは、「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」という努力はするとして、また、そのように言えるときには言って来ましたが、そこに至るまでの段階があるのではということですね。つまり、たとえこのように言えないとしても(確信がもてないとしても)意見の交換というものが当然可能であって、そのなかでの共同模索があるのじゃないかということです。それは議論の成立前段階なのかもしれないし、議論のあとにあるものかもしれない。議論の中でなされるものかもしれない。

 ですから、『努力はするとして、また、そのように言えるときには言って来ましたが、そこに至るまでの段階があるのではということですね。つまり、たとえこのように言えないとしても(確信がもてないとしても)意見の交換というものが当然可能』というのは、そのとおりですが、ボクや園主さまがAOIさまに求めているのは「(現時点での)自分の意見の明示」なんですよね。それを伏せておいて「問うだけ」なのは好ましくない、ということなんです。だから『私はこう思います。なぜなら、こうこうだから』という説明まではできなくても、最低『私はこう思います』と言う必要はあるし、完璧ではないにしても、「こう思う」には思うなりの「理路」があるはずですから、それを検証の庭に出すべきだということなんですよ。つまり、自分だけ無難に「手持ちのカード」を伏せておいたのでは、本当の「共同模索」は望めないということです。

>> ボクとしては、こうした「安易な表記」は、単純にマスコミの悪影響なんではないか思います。で、ホントに問題なのは、そんな影響を「無自覚に受け入れてしまう」というところにあるんじゃないか、つまり、一見「軽く」見える事柄についての「懐疑」が不充分なんじゃないか、というようなことです。

> と書かれていたホランドさまの仮説は意見交換による共同模索であって、議論という性質のものとはちょっと違うように思うんですよ。

 そうでしょうか? 仮令ば、上のボクの意見に対し、マムさまが「それは違います。私があのような不用意な表現をした背景には云々」と反論されることだって当然あるでしょうし、その場合、これはどこからみても『議論』なんじゃないですか? なにも口泡飛ばしての激論だけが『議論』ではないと思いますよ。

> 絶対の「確信」ということになれば、たしかに「根源的懐疑」を欠いていることになるのだと思うけれど、「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」と議論で主張するためには「現時点での仮説」に対してであっても自分なりの確信をもっていなければいえないと思う。あとは一番最初に書いたところにもどるので略。

 ここで言うと『自分なりの確信』というのは、すでにして『確信』じゃないということです。それは「正しい認識である可能性の高い(と、個人的には思える)」ということに過ぎないでしょ? AOIさまのご意見だと「可能性の相対的な高低」で言い方が変るのは当然だということになりますが、これは「知的な共同模索」の捉え方として「おかしい」と思います。

 もちろん、それは「一般的な感情」としてはそれもわからないでもないですけど、『議論』を「知的」な「共同模索」と考えるのなら、それは「おかしい」んじゃないですか? 「あらゆる可能性を検証する」「いかなる意見(可能性)も、憶見(ドグマ)によって排除することなく、つぶさに公正に検証する」というのが、「知的」な「検証作業」なのではないでしょうか。





( 以下は「確信と懐疑(下)」につづく)


確信と懐疑(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月24日(水)16時21分07秒

 みなさん、こんにちは! 今、外では強い雨が降っています。ここ数日すっかり涼しくなりましたが、こうして一雨ごとに秋が深まっていくんでしょうね。

 今日、『サンデー毎日』を立ち読みしたら、中野翠が連載の映画エッセーで、北野武の『座頭市』はイマイチだって書いてました。・・・人気者の作品は、誰でも彼でも「一斉に」誉めたたえるというのが「世の習い」ですから、こうした反時代的な「個人的評価」には、とても説得力を感じてしまい、やや『座頭市』の魅力が色褪せたのは事実です。やっぱり、ビデオでいいかなあー。
 一方、その中野翠が絶賛していたのは、車谷長吉の原作を忠実に映画化したという同名映画『赤目四十八瀧心中未遂』。この映画の原作は、以前、影姫さまが絶賛していた直木賞受賞作品なんだけど、影姫さま、気になるんじゃないかな?(笑)





 AOIさま
 お返事、遅くなってすみませんでした。前回の「議論における確信の意味」という議題について書かせていただきます。

> たしかに確信の有無が正否ではありません。でも、少なくとも「現時点での仮説」について、自分なりの『確信』があればこそ徹底的にぶつけ合えるのではないですか?

 これは違うと思いますよ。『確信』が無くても、相手に「意見」をぶつけてみることは出来ると思います。「私は、今のところ、こう思います。こうとしか思えないんですが、貴方はこの意見について、どう思われますか」というのは普通 になされていること(=一種の実験)で、自分が「意見」が正しいという『確信』が無ければ、その「意見」を相手にぶつけられないということは、ぜんぜんないと思います。
 実際、自分が信じてもいない意見を、自信満々にぶつけてみせるということすら可能なんですからね。

> なぜ、
>>> 確信できれば当然言えるわけだけど、結果としての相手の意見の否定なのであって、どれだけ確信できるかと言うことじゃないかと思う。

> と言ったかというと、園主さまが私にこのように言われたからですね。

>> 「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」という形式での「リスクを背負った」意見表明でございましょう。(>園主さま)

> 自分の意見は正しい、貴方は間違っているというには、「現時点での仮説」に対して、確信していなければいえないと思います。

 園主さまは『という形式での「リスクを背負った」意見表明』と書いておられますが、この『形式』という言葉の意味に注目すべきでしょう。
 つまり、園主さまは、たとえ完璧な確信の持てない現時点での「仮説」だとしても、その「仮説」の正邪について検証する場合には、それが「正しいかも知れないし間違っているかも知れないもの=曖昧なもの」として提出されるのではなく、それが「正しいもの」として「仮定」され、一部の矛盾も見出せないものとして「退路を絶った」形式で提出され、その上で徹底的に検証されるべきである、というようなことをおっしゃってるんじゃないでしょうか。つまり、園主さまが要求しているのは、『確信』ではなく、もっと方法的な「知的操作」なんですよ。

 言い換えれば「知的操作」によってなされる方法的な「仮構としての確信的論述」というのは、自分の「意見」が間違っていると「知的=論理的」に了解された時には、簡単にこれを撤回することができるんですよね。なにしろ、扱っていることの本質が「知的な問題」なんですから。

 しかし、問題が『確信』を基盤としたものとなると、そういうことにはなりません。その典型的な例が、異教徒の原理主義者同士の「議論」です。両者にはそれぞれ「自分の側の教義が、絶対的に正しい」という『確信』があります。ですから、相手が「論理的に正しい」意見を述べたとしても、それはその「論理的に正しい」という一般 了解そのものが間違っているのだ、ということになってしまいます。
 結局、完璧な『確信』の前には「正邪・善悪・正誤」というのは「自明の前提」であり、「議論」とは「言葉による教化」以外の何ものでもなくなり、世間でいうところの「相互検証としての議論」などではありえなくなるんですよね。

 このようなわけで、「確信がなければ徹した議論ができない」というAOIさまのご意見は、現実に反しているし、前回も書きましたとおり、「議論」とは本質的に『確信』においてなされるものではないんだと思いますよ。





( 以下は「確信と懐疑(中)」につづく)


泣いてばかりいては 投稿者:芙宮  投稿日: 9月24日(水)03時45分32秒

ご飯が美味しく食べられないからね。ふふ。

園主さま
どこかの魔女の少女ではないけれど…まだ時々落ち込むこともあるけれど私は元気です。
お父さん達からもらった言葉が話のアプローチの仕方こそ違えど、あんまり似ているから少し可笑しかったの。月日を数える毎に世間ずれしてゆけば、お父さん達くらいになったら芙宮も同じことをいうのかもなって思います。

>使命
こんな嫌らしさの中で生きているのだから、私が傷つくように、まわりの大切な人たちの誰かが傷ついていることがあって、そんな時に私に光を与えてくれる人々もいるのだから、微弱ではあるけれどその誰かに対して暖かな若芽色の風であれたらと思いながら生きています。戦うには芙宮は臆病すぎて、せめて戦う人や傷を負った人にネスト(巣)みたいな暖かなものとして存在できたらって思うんです。また変なこといっちゃった。はは…

ちょくちょく覗いてはいるつもりだったけれど、あまりにご無沙汰しているうちに、お父さんが麗しい(感じがする)伴侶を得たこととなっているではないですか…娘、複雑な心境…嫉妬?かなぁ?ふふっ。何となくわかりません?ホランドさま

ラジオ体操に向かう子供の声で起こされ、寝ぼけ眼をこすりつつ牛乳を買いにいこうと外に出た途端に、子供が落としていったものか、セミのぬ けがらを踏み潰してしまった。その出来事に夏を感じたくらいで、今年はそうめんも麦茶も食さないうちに夏がすぎてしまった。夏が過ぎると一年は駆け足だ。来年も私はかの地におります。試験が通 ったから更に進学することになりましたの。ご報告までに。


それぞれの天命(6) 投稿者:園主  投稿日: 9月24日(水)00時46分25秒


 芙宮さま(つづき)

ザ・ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN』では、『栄光に向かって走る あの列車』と『列車』を希望の象徴として描いているようでございますが、私はこの歌詞から、どうしても、かのナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅収容所への「護送列車」を連想せずにはおれません。

その絶滅収容所の代表であるアウシュビッツ強制収容所に収容された経験を持つ心理学者V・E・フランクルは、すべてが「存在の無明」に埋没してしまう収容所体験を通 じて「生きることの意味」を問い続けた人でございますが、このフランクルについて、解剖学者の養老孟司は次のように語っております(『バカの壁』新潮新書)。

『 フランクルは、強制収容所といういつ殺されるかもわからない状況下で「生きるとはどういうことか」という意味について考えてきた。そして彼の人生の意味は「他人が人生の意味を考える手伝いをする」ことでした。
 ガンの末期で寝たきりになった患者にとっての生きる意味を彼は問います。医者によっては、そういう人にはもはや生きる意味は無い、と判断するかもしれません。しかし、フランクルはこう考えました。「その人が運命を知ったうえで取る態度によって、周囲の他人が力づけられる」という意味があるのだ、と。』

私たちはそういう先人を多く持っており、それによって励まされて生きております。彼らが直面 した現実に比較すれば、我々が嘆いている現実など、いったい何ほどのことなのかと。

私は、貴女さまに、私と同じように戦えとは申しません。傷つきやすい貴女さまには、貴女さまなりの「使命」があると思うのでございます。つまりそれは、傷つきやすい者であるからこそ、傷つきやすい人たちを励ませるということなのでございます。

嘆いても、甘えてもかまいません。しかし、最後はそこから、今回のように立上がって下さいまし。それが父の望みなのでございます(笑)。

> もうすぐ、園主さまのお誕生日よね?いつもここにくるときは、私はものすごく鬱とか怒ってたり、普通 じゃないときばっかりでごめんなさいね。慣れっこですよね?ふふ。少し落ち着いてきました。最近お気に入りの一冊、毎月新聞でも読みながら眠ります。ピタゴラの生みの親ファンとしてはうふふな本です。おやすみなさい。。。

ぐっすりとおやすみなさいまし。眠りは何よりの癒しでございます。


 ホランド
> しかし・・・最近はボクの部屋まで、けっこう「蔵書家の書斎」っぽくなってきました。喜んでいいんだろうか?

喜んでいいのではないかな。疑問を持つのは「本屋の倉庫」っぽくなってからでも遅くはない。……いや、遅いか?(笑)





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


それぞれの天命(5) 投稿者:園主  投稿日: 9月24日(水)00時45分26秒


 芙宮さま
> 落涙。。。
> 慰めて、園主さま。

おひさしぶりでございます。また、お外で泣かされて帰ってこられましたね(笑)。

> とうとうけいさつの理不尽にひっかかっちゃった。絶対的自信を持って、一時停止したし、巻き込み確認だっていつもどおりしてたのに、違反だって。あまりに理解できない台詞だった。

> 園主さま、また人間怖い病がでちゃいそうだよう。交通で簡単に冤罪つくれるなら、窃盗だの殺人だっていつ冤罪かけられるかわかんないじゃん。ここの国はまじめに生きていてはだめなの?

> せっかく大人の世界に対して少しずつ鈍くなってきてたのに、また情緒不安な過敏さに逆戻りだよ。

そうでございますか……。貴女さまの「世の理不尽」を嘆くお気持ちは、私にも大変よくわかりますよ。しかし、我々の期待に反して、世の中にはもっともっと多くの理不尽が存在しております。……なにも私は、こんなことを書いて、貴女さまをさらに人間不信の深みに落としこもうというのではございません。私が貴女さまに期待したいのは、そういう汚い部分が多い世界だからこそ、貴女さまにはその世界に負けない人であって欲しいし、貴女さまと同様に、この世界の汚さに傷つき嘆いている人々の「希望の光」となって欲しい、ということなのでございます。

ザ・ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN』(作詞:真島昌利)の歌詞の前半は、

  栄光に向かって走る あの列車に乗って行こう
  はだしのままで飛び出して あの列車に乗って行こう
  弱い者達が夕暮れ さらに弱いものをたたく
  その音が響きわたれば ブルースは加速して行く
  見えない自由がほしくて
  見えない銃を撃ちまくる
  本当の声を聞かせておくれよ

  ここは天国じゃないんだ かといって地獄でもない
  いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない
  ロマンチックな星空に あなたを抱きしめていたい
  南風に吹かれながら シュールな夢を見ていたい

  見えない自由がほしくて
  見えない銃を撃ちまくる
  本当の声を聞かせておくれよ

  TRAIN-TRAIN 走って行く TRAIN-TRAIN どこまでも
  TRAIN-TRAIN 走って行く TRAIN-TRAIN どこまでも

  世界中に定められた どんな記念日なんかより
  あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう
  世界中に立てられてる どんな記念碑なんかより
  あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう

  見えない自由がほしくて
  見えない銃を撃ちまくる
  本当の声を聞かせておくれよ

というものでございますが、とくに冒頭には、貴女さまの見られている「世界の嫌らしさ」がよく描かれていると存じます。
実際、貴女さまに交通切符を切った警察官は、間違いなく警察という組織の末端の「弱い者」であり、上司に業務管理をされ「たたかれている人」でございましょう。そんな彼ならば(サディストでもない限り)女性を泣かせてまで、何も好きこのんで交通 切符を切ろうとは思わないはずだと存じます。にもかかわらず、無理を通してまでも、あえてそれをするというのは、たぶん『弱い者達が夕暮れ さらに弱いものをたたく』ということなのでございましょうね。そうした意味で、この世は弱者どうしでさえ助け合えない、救いのない世界なのでございます。

しかし『ここは天国じゃないんだ かといって地獄でもない/いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない』というのも事実でございましょう。少なくとも私は、貴女さまにとっては『いい奴』なのではございませんか? ですから私は、貴女さまにも「誰かにとっての、いい奴」になっていただきたいのでございます。それも、より多くの人にとっての。ですから、「汚い世界」に苛められて負けてしまうのではなく、苛められても負けない人であって欲しいのでございます。『世界中に定められた どんな記念日なんかより/あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう』……「あの人がいるから私も頑張れる」という、そんな人であって欲しいのでございます。





( 以下は「それぞれの天命(6)」につづく)


それぞれの天命(4) 投稿者:園主  投稿日: 9月24日(水)00時43分07秒


 Keenさま(つづき)

> そーだ!竹本さんにふさわしい賞がないんなら、逆に作っちゃえ♪

> 「竹本健治賞」、賞金:なし(むしろ、払わなければならない?)。賞品:竹本健治氏による、似顔絵入りサイン色紙。選者:竹本健治、田中幸一、碧川蘭、大内史夫(他「花園」関係者)。
> なお、受賞者には、もれなく田中幸一氏による作品批評がつきます。(なんちて☆)

> ……一体、誰の、どんな作品が受賞するんだろうか……?

冗談ではなくて、私も、何の権威もない「リブラ出版文化賞」は考えたのでございますよ。その年に私が読んだ新旧の本から、優れた本を推奨する賞でございます。……いまのところ「考えただけ」ではございますが(笑)。

上記の「竹本健治賞」については、賞を文学賞に限定してしまうと、竹本さまご本人は選考委員になれません。なにしろ、年間に一冊も小説を読まないことがしばしばだという方でございますから(笑)。
そのかわり「囲碁の本」はたくさん読んでおられるので、「囲碁関連出版部門」に限定すれば、喜んで選考委員に就任して下さることでございましょう。

ちなみに、私が小説部門の選考委員を勤めれば、竹本さまの作品には、さらに辛くなってしまうでしょうね(笑)。

>> 竹本健治作品の海外への翻訳紹介について

> 翻訳可能なんだろうか?という疑問はさておき、実は、私の好きな英国のバンド「レディオヘッド」のトム・ヨークが、新作に関するインタビューで、村上春樹の影響も大きいって言ってるんです。8月19日の読売新聞から引用すると、「テロや戦争が相次ぐ、昨今の世界の状況に対する個人的な不安感が底流にあった。さらに、曲作りをしている時期に、たまたま読んでいた村上春樹の小説『ねじまき鳥クロニクル』からの影響も大きい。ものすごく大きな邪悪なエネルギーによって、物語が動いていく。その時僕が抱いていた強迫観念と響きあってしまったんだ」

> ……この人が竹本作品読んだら、どんな曲書いてくれるんだろうって、ワクワクしちゃいますっ♪

『翻訳』は可能だと存じます。と申しますのも、『翻訳』というのは「元のままではない」という意味も含んでおりますからね。

例えば「本を読む」「話をする」という行為も、基本的には「相手の思いを、言葉を介して、翻訳理解する」ということでございましょう。つまり、同じ竹本健治の小説を日本語で読んでも、その理解は人それぞれであり、別 の人と「同じように感じた」としても、それは「同じように感じた(部分もあった)」ということに過ぎないのだと存じます。また、そうでなければ、

> しかし「竹本教」信者は、なかなか増えなくて……(嬉しいような、悲しいような?/笑)

というようなことにもならないと存じます。

思うに、竹本健治のものに限らず、作品とは、「日本語原文」の中にあるのではなく、「日本語原文」や「翻訳文」によって喚起された「読者の内部」に存在する「個々のイメージ」の「総体」なのではないでしょうか。

ですから、作者としては「せっかくこだわった日本語が」という部分はあるにせよ、日本語原文で読んでも伝わらない人には伝わらないし、翻訳文で読んでも伝わる人には伝わるようなものなのではないか、とも存じます。





( 以下は「それぞれの天命(5)」につづく)


それぞれの天命(3) 投稿者:園主  投稿日: 9月24日(水)00時42分05秒


 Keenさま
>> をとめ座さま、どうしてるかしらん?

> たまにはロムくらいしてて下さるとイイなあ、とは思いますが、をとめざさまのことですから、きっぱりとお断ちになったのではないでしょうか。なまじロムしたら、書き込みたくなっちゃうでしょうからね。でも、きっとお元気ですよねー♪

をとめざさまは「残された人生を、自分のしたいことに賭けたい」とおっしゃった方でございますから、今もそちらの活動をなさっていることでございましょう。

当時の私の興味の中心は「文学・芸術」といったもので、をとめざさまが活動なさっていた「政治」方面 にはほとんど興味がございませんでした。しかし、お別れした後に、いつの間にか興味の重なる部分が出てきたようでございますね。私はこれで良いのだと存じます。

>> 競売ナンバー49の叫び

> って?

『競売ナンバー49の叫び』とは、アメリカのポストモダン小説家トマス・ピンチョンの作品名でございます。たぶん、竹本さまの年齢と、特殊な「現代作家」というところで掛けたのでございましょう。

> ヨカナーン!(爆笑)

笠井潔の文学的「死に水」は、私が取る。……と申しておきましょう。なにしろ私は、最初の「笠井潔葬送派」でございますからね(笑)。

> 泉鏡花賞で検索したら、中井英夫ファンの宮澤さんって方のHP見つけました。……あれ、「SRの会」の方だ。もしかして、園主さまのお友達(or 仇敵/笑)でしょうか?
> 中井さんへの追悼のページのリンク、部分欠け(頭のhttp: //抜き)にして、↓貼っておきますね。
> homepage3.nifty.com/DS_page/nakai/tuitou.htm

もう十年も前、私がまだSRの会の全国大会にしばしば参加していた頃に、宮澤さまとは何度か直接お会いしておりますし、宮澤さまのサイトはネットを始めた頃に何度か覗かせていただいており、そのテキストの多さに圧倒された記憶がございます。

十年前の私は、現在よりもさらに戦闘的であり、『SRマンスリー』誌上でも論争的なことをやっておりましたが、宮澤さまはいたって穏健な方でしたから、直接対決になったという記憶はございません。
それに、ああいうサークルの会誌ですと、「匿名」というようなことが基本的にはございませんから、なかなか論争にはならないのでございますね(笑)。





( 以下は「それぞれの天命(4)」につづく)


それぞれの天命(2) 投稿者:園主  投稿日: 9月24日(水)00時39分04秒


 AOIさま
> それは分かります。ただ、「私の問題」として検証するというのは個的なものであっていいと思います。
> 前回書いた5点と曖昧になってしまった説明とで、私なりに検証したということなのです。

ご自分なりに満足のいく検証をなさったのであれば、私はそれでかまいません。私が申し上げたかったのは「違和感を無理に呑み込んで納得するようなことはしない方が良い」というほどのことに過ぎないのでございます。

> もしも、それでは不十分だと思われるのであれば、どういう点でそう思われるのかご指摘ください。

ご意見についての私の意見・感想は、すでに申し上げているはずですので、それについて特に思うところ(発言したいこと)が無いのであれば、私としてはこれ以上べつに何も申し上げることはございません。

>>>「チンチン」ではなく「チ○チ○」となっていたことで、そこに幾ばくかの揶揄を感じた。(AOI)

> と書いたのは、うまく表現出来てはいませんが、『揶揄』とは言いきれないんだけど、疑わせるものを感じるということをいいたかったんですね。だから、何度も「マムさまの気持ちはわかるんだけど」と言ってしまったわけです。
> それで、ホランドさまの書かれているものを読んで、なるほどそういうことかもしれないと思いました。マムさまの気持ちにひっかかったというより、言葉の選択の真剣味を疑わせる書き方にひっかかったということではと。

ここでわかるのは、「理解」や「意見」といったものは、畢竟「適切な言葉の選択」にかかわる問題なんだということでございましょう。曖昧な「感じ」に如何に「適切な表現を与える」か。その表現によって、自己もその「感じ」の意味を理解(意味化)できるし、他者にも適切に自分の「感じ」ていることを伝えること(意見)ができる、ということでございましょう。

> どうせ、これじゃだめ!っていうんだろうな(ぶつぶつ)

ははは。そう言わないと、逆に物足りなくて、寂しいのではございませんか?(笑)

> いいなあー。私も殺されたーい(笑)!
> その代わりにころしちゃった!
> あの笠井潔のほかに竹本健治を殺したのはAOI!だけ!?(エッヘン!)

笠井さまは、竹本さまを殺したことがございましたっけ?
『天啓の宴』(双葉文庫)で、例によっての「自己賛美」にともなう、つまらない貶め方をなさっていたことは記憶しておりますが。

> 心しておくように!(テヘッ)
> って、天秤座さんには、危なっかしくってほっておけないのよね?きっと。(あ〜あ!)

同じ「乙女座」と言っても、情緒変化の激しい中井英夫と、ほとんど激することがない(生き仏の)ような竹本健治では、ずいぶんタイプが違うようでございますね。

で、どちらかと言うと、AOIさまは「中井英夫タイプ」ではないかと(笑)。
ホランドくんが「AOIさまは怒りんぼだよね」と申しておりましたが、AOIさまは、怒るだけではなく、よく泣かれますものね(笑)。……中井英夫の助手であった本多正一さまが、中井さまについて『困ったじいさん』という表現を使っておられましたが、これは「世話のやけるじいさん」という意味でもございましょう。その意味では、AOIさまも「世話のやける」方なのでございましょうが、それでも世話をやいてもらえるというのは、やはり愛されているからなのでございましょう(笑)。





( 以下は「それぞれの天命(3)」につづく)


それぞれの天命(1) 投稿者:園主  投稿日: 9月24日(水)00時36分53秒

みなさま、本日は「秋分の日」。日中もすっかり過ごしやすくなりましたし、朝夕は寒いくらいでございますね。季節の変わり目は、疲れも出やすく体調を崩しがちでございますので、みなさん、くれぐれも健康にはお気をつけ下さいまし。

さて、今月の『IN・POCKET』誌(2003.9・講談社)に、京極夏彦と保阪正康(ノンフィクション作家)の「歴史」対談『「妖怪」がわかれば「戦後」もわかる』が掲載されておりますが、ここにたいへん興味深い報告がございましたので、その部分をご紹介したいと存じます。

保阪 こんなこともありました。口ではいろんなことを言うけれども心のなかで、ものすごく傷ついている人がいるんです。口では「日本軍国主義、何もそんなひどいことしてねえ」とか言うんですよ。だけど、「あなたはそう言うけれども、やっぱり日本もとんでもないことをしたんじゃないですか」みたいに話してたら、そのうち「君にだけ話したい」と言って、日をあらためて来いという元軍人もいました。
京極 それはどんな方ですか。
保阪 戦後はある会社の社長さんです。行ったら、ポケットから数珠を出すわけね。そして、いつも電車のなかで四、五歳の子どもを見たらこれで手を合わせてるというんです。それで、孫を自分は抱けなかったというんです。なぜかといったら、やっぱり中国で三光作戦をやって四、五歳の子どもを殺した体験をもっていたんですよ。家に火をつけると子どもが逃げ出してくるでしょう。上官に「どうしますか」ときくと、「始末しろ」と言われたっていうんです。心のなかはガタガタになっているんです。だから、逆に強く出るんです。
京極 うーん。
保阪 自分は孫が抱けない、数珠を手放せない。社長さんですよ。「キミ、日本は悪くないんだ」なんて言ってるんだけれども、ちょっと裏返しになると本当にシューンとしちゃうんですね。彼は口ではまさに軍国主義的なことを言いますよ。だけど、そんな人間のうしろに贖罪意識が隠されている。やっぱりそういうことをきちっと、僕は次の世代として聞いておかなければと感じてるんですね。
京極 個人個人では、ものすごく贖罪の意識があるんですね。自分も傷ついているわけですしね。でも、それが全体として、国家として贖罪したかっていうことになると、これはどうもはっきりしないうちに済んだことにされている。結局、後始末が個人に押しつけられているんですね。
保阪 そうなんですよ。それでね、僕は医学システムの評論やレポートなんかも書くから医者からよく相談されるんですけど、八十代で死にそうなおじいさんがいるというんです。
京極 ほう。
保阪 四十代の医者が僕のところにきて、もう動けないはずの患者が、突如立ち上がって廊下を走り出すというんですよ。そして、訳わかんないことを言って、土下座してしきりにあやまるというんです。そういう人たちには共通 のものがある。僕はこう言うんです。「どの部隊がどこにいって戦ったかというのを、だいたいは僕はわかるから、患者の家族に所属部隊を聞いてごらん」。みんな中国へ行ってますよ。医者はびっくりします。
京極 ひどいことをしてきたのをひた隠しにして生きて来られたんですね。
保阪 それを日本はまだ解決していない。
京極 戦後、個人におっかぶさったものってすごく大きいと思うんです。
保阪 そういう意味で、日本の社会はある種の二重構造をもっているという気がする。それに気づくと、昭和史を調べていてもしんどいですよ。僕はべつに恥部を暴くという意味でやるわけじゃないんですけど。そういう話を聞くことが多いんです。

以前、ご紹介いたしました『日本鬼子 リーベンクイズ』は、そうした「中国における日本軍兵士の残虐行為を、その当人が語る」という形で残した、記録映画でございました。
「私は文字どおりの鬼であった。じつに憎むべき私であります」と語った人と、その事実を墓場まで持っていこうとした人。その生き方に大きな違いはあるにせよ、いずれもが「戦争」と「国家」の犠牲者であったことに変わりはないのでございます。





( 以下は「それぞれの天命(2)」につづく)


落涙…。。。 投稿者:芙宮  投稿日: 9月23日(火)02時02分01秒

慰めて、園主さま。
 とうとうけいさつの理不尽にひっかかっちゃった。絶対的自信を持って、一時停止したし、巻き込み確認だっていつもどおりしてたのに、違反だって。あまりに理解できない台詞だった。友人たちにあれは運だ。止められたらあきらめて手続きするのが一番だって聞いていたから、あまりに理不尽なことだけど、手続きをしていた最中、悔しさのあまりにこらえていた涙がこぼれてしまった。ぼろぼろ止まらなかった。前後に車がいない時は(いる時は円滑な交通 を阻害しない程度)、警察ですら守らない制限速度を守るような私なのに何故?運転がそう上手くない自覚があるだけに、交通 に関してまじめすぎる程に生きているのに…。って悔しくて悔しくて。

園主さま、また人間怖い病がでちゃいそうだよう。交通で簡単に冤罪つくれるなら、窃盗だの殺人だっていつ冤罪かけられるかわかんないじゃん。ここの国はまじめに生きていてはだめなの?あーしかも取り締まりに複数人がいるのは、多数決の法則なのね、きっと。万引きを軽犯罪だから許せとか、私はそんな風景みたことないけどカンニングとか、理解できないことがいっぱいだよう。世界は理不尽のかたまりかたまりなんて確認できても納得できるかっっ!!(いつもどおりなんか思考がぐちゃぐちゃ要らない項まで巻き込んでいる…ごめんなさい)精神を病んでしまいそうで怖いと思うことが良くある。

せっかく大人の世界に対して少しずつ鈍くなってきてたのに、また情緒不安な過敏さに逆戻りだよ。

もうすぐ、園主さまのお誕生日よね?いつもここにくるときは、私はものすごく鬱とか怒ってたり、普通 じゃないときばっかりでごめんなさいね。慣れっこですよね?ふふ。少し落ち着いてきました。最近お気に入りの一冊、毎月新聞でも読みながら眠ります。ピタゴラの生みの親ファンとしてはうふふな本です。おやすみなさい。。。


リンク失敗☆ 投稿者:Keen  投稿日: 9月22日(月)14時07分18秒

園主さまの早業UPで、ミスに気づきました。
泉鏡花賞のリンクは、こちら↓
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bungaku/kyouka/kyouka.htm

今度は、うまくいきますように……☆


Win. XP メンテナンスでへろへろ☆(下) 投稿者:Keen  投稿日: 9月22日(月)13時57分14秒

☆ホランドくん

>競売ナンバー49の叫び

って?

>『でも、当時!』ってフォローされても、Keenさまに直接お会いしたことのないボクの頭の中には、フクスケのイメージが刷り込まれちゃいましたよー。・・・みんなも、そうなんじゃないかな?(笑)

……「お子ちゃま」ですからね〜☆でも、ちょんまげは結ってないわよっ!それに、裃も着てないっ!!

>仕事の中味はとにかく、これからの超高齢化社会では、竹本さんも笠井さんを見習って、まだまだしっかり、商売になる仕事をしてもらわんとな」なーんてことを言っておられました。ホントに心底、笠井さんを愛しているんですねえー(笑)。

ヨカナーン!(爆笑)

>ボクも、いまさら「泉鏡花賞」っていうのもどうかな、っていう感じはあります。だって、最近の受賞者っていえば、五年も前の京極さんくらいまで遡ってしまい、それ以降の人がぜんぜん思い出せないんだもん。

じゃ、ご参考までに。↓
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bungaku/kyouka/kyouka.htm

>だから、どうせ竹本さんが貰うんなら、みんながびっくりするような、印象に残る賞でなきゃあね。

そーだ!竹本さんにふさわしい賞がないんなら、逆に作っちゃえ♪

「竹本健治賞」、賞金:なし(むしろ、払わなければならない?)。賞品:竹本健治氏による、似顔絵入りサイン色紙。選者:竹本健治、田中幸一、碧川蘭、大内史夫(他「花園」関係者)。
なお、受賞者には、もれなく田中幸一氏による作品批評がつきます。(なんちて☆)

……一体、誰の、どんな作品が受賞するんだろうか……?

>園主さまが、竹本さんが本当にしっかりと再評価されるには『海外』しかないだろうというようなことを書かれていましたけど、これはたしかにそうだと思います。海外なら、竹本さんの作品は「異色推理小説」ではなく「現代文学」として評価されるでしょうからね。
>誰か上手に翻訳して、海外に紹介してくれないかなあー。すっごいブレイクして、遠い存在になっちゃったりしても、ボク泣かないから・・・。(<けなげ)

翻訳可能なんだろうか?という疑問はさておき、実は、私の好きな英国のバンド「レディオヘッド」のトム・ヨークが、新作に関するインタビューで、村上春樹の影響も大きいって言ってるんです。8月19日の読売新聞から引用すると、「テロや戦争が相次ぐ、昨今の世界の状況に対する個人的な不安感が底流にあった。さらに、曲作りをしている時期に、たまたま読んでいた村上春樹の小説『ねじまき鳥クロニクル』からの影響も大きい。ものすごく大きな邪悪なエネルギーによって、物語が動いていく。その時僕が抱いていた強迫観念と響きあってしまったんだ」

……この人が竹本作品読んだら、どんな曲書いてくれるんだろうって、ワクワクしちゃいますっ♪

☆園主さま

泉鏡花賞で検索したら、中井英夫ファンの宮澤さんって方のHP見つけました。……あれ、「SRの会」の方だ。もしかして、園主さまのお友達(or 仇敵/笑)でしょうか?
中井さんへの追悼のページのリンク、部分欠け(頭のhttp://抜き)にして、↓貼っておきますね。
homepage3.nifty.com/DS_page/nakai/tuitou.htm

(イイのかなあー?/汗)


Win. XP メンテナンスでへろへろ☆(上) 投稿者:Keen  投稿日: 9月22日(月)13時53分23秒

☆AOIさま(横レス混じり)

>いいなあー。私も(竹本さんに)殺されたーい(笑)!

以下、同文(笑)。

>その代わりにころしちゃった!
>あの笠井潔のほかに竹本健治を殺したのはAOI!だけ!?(エッヘン!)

>(竹本さんが)生き仏みたいだから・・・(笑)。

おお、これはお見事〜!(ぱちぱちぱち)
ちなみにアーニャは、あの竹本健治に続いて、「田中幸一」を殺した「二人目(もしくは、初ネコ)」ということになりましょうか?(^0^*
しかし「竹本教」信者は、なかなか増えなくて……(嬉しいような、悲しいような?/笑)

>をとめ座さま、どうしてるかしらん?

たまにはロムくらいしてて下さるとイイなあ、とは思いますが、をとめざさまのことですから、きっぱりとお断ちになったのではないでしょうか。なまじロムしたら、書き込みたくなっちゃうでしょうからね。でも、きっとお元気ですよねー♪

>>羽根木仕込みの「アボカドのイクラのせ」、「メロンと生ハム」、ローズティ
>たいへんおいしゅうございましたわ。色彩も鮮やかに。
>ローズティーの香りがいつまでも残ってましてよ。

おそれいります♪

>一瞬、雲間に薄絹の君が・・・。
>月の光に射抜かれて・・・ほの白く美しい姿態が・・・フフ。

そういや、AOIさまはお酒がダメな方でしたわね。それじゃ、彗星より帰還したら、純生の美少年を供物に……(キャー♪)

>>天秤座と乙女座は、相性が良いようでございますね(^-^)。(<園主さま)

天秤座と射手座も相性いいんだな、これが……フフフ。
おっ、KeenとAOIの間に火花が飛び散るのか!?
……いいえ、私たち、男なんかどっかにやって、女同士の絆を深めますの。ほほほ。
(出典:『ウロボロスの基礎論』作中の小野不由美さんの割込マンガより)

(「Win. XP メンテナンスでへろへろ☆(下)」に続く)

 

競売ナンバー49の叫び(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月22日(月)00時35分34秒


 Keenさま
>> ちなみに、綾辻行人さんが竹本さんの本に寄せた文章のなかに「竹本健治は頭がでかい」というのがありましたよね。もしかすると、山口雅也さんの「フクスケ」は、竹本健治の影?

> ふ〜ん、それは面白い説ですね。

 そうでしょう(笑)。これを使って評論でも書けないかな?

> ところで、某BBSにも書いたのですが、「フクスケ」について補足します☆
> 私の学生時代、何かの景品の缶バッジで、妙につぶらな瞳におちょぼ口のフクスケが描かれていて、それが私に似ている、という故につけられたニックネームでした。
> 頬ぺたについては……弁解しません(←でも、当時!)。

 『でも、当時!』ってフォローされても、Keenさまに直接お会いしたことのないボクの頭の中には、フクスケのイメージが刷り込まれちゃいましたよー。・・・みんなも、そうなんじゃないかな?(笑)

>> たしか竹本さんは、二十歳の頃に中井さんの推輓を得て、『幻影城』誌にいきなり『匣の中の失楽』の連載を始めたのが作家デビューですよね。あれから二十数年、いまお幾つになられたんでしたっけ?

> 49才になられたご様子。4949……って、泣いてらっしゃいました(笑)。

 園主さま、昨日も笠井さんについて『晩節を汚す』とか、なにげにきっつーいことを書いてましたけど、今日ボクが「竹本さん、49歳なんだね」って言うと、そくざに「笠井さんは以前、50歳で作家を引退してスキーインストラクターになるとか何とか言ってたと思うんだが、それについてはいつもどおりの前言撤回で、しぶとく作家活動を続けたからこその、本格ミステリ大賞ダブル受賞だ。今度はまた矢吹シリーズの新作を書くとか言ってるらしいしな。仕事の中味はとにかく、これからの超高齢化社会では、竹本さんも笠井さんを見習って、まだまだしっかり、商売になる仕事をしてもらわんとな」なーんてことを言っておられました。ホントに心底、笠井さんを愛しているんですねえー(笑)。

> 言われてみれば、そうですね。でも、竹本さんにふさわしい文学賞って、あるかしら?私には、「泉鏡花賞」しか思いつかないのよね(他にあんまり知らないってのもあるけど)。で、『クレシェンド』(及び、過去の業績に対して)が、今年の泉鏡花賞に選ばれたらイイなあ、って……中井さんも受賞してるし。
> そしたら、金沢での授賞式に、花束抱えてとんでくわよっ♪フフフ♪♪

 ボクも、いまさら「泉鏡花賞」っていうのもどうかな、っていう感じはあります。だって、最近の受賞者っていえば、五年も前の京極さんくらいまで遡ってしまい、それ以降の人がぜんぜん思い出せないんだもん。だから、どうせ竹本さんが貰うんなら、みんながびっくりするような、印象に残る賞でなきゃあね。

 園主さまが、竹本さんが本当にしっかりと再評価されるには『海外』しかないだろうというようなことを書かれていましたけど、これはたしかにそうだと思います。海外なら、竹本さんの作品は「異色推理小説」ではなく「現代文学」として評価されるでしょうからね。

 誰か上手に翻訳して、海外に紹介してくれないかなあー。すっごいブレイクして、遠い存在になっちゃったりしても、ボク泣かないから・・・。(<けなげ)


 AOIさま
 さあ、書き込みを・・・と思ったら、書き込みなさっているのを発見しました。今夜は遅くなるので、詳しいレスはまた次回ということで、ご勘弁下さい。

 でも、ざっと読んだ感じでは、『確信』とか『議論』といった言葉の「定義の問題」になっている部分もあるようですね。


 園主さま
 今日はごくろうさまでした。
 しかし・・・最近はボクの部屋まで、けっこう「蔵書家の書斎」っぽくなってきました。喜んでいいんだろうか?





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


競売ナンバー49の叫び(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 9月22日(月)00時31分39秒

 みなさん、こんばんは! 今日は園主さまのお宅で、部屋の片づけのお手伝いをしてきました。日頃、いろいろ本を貸していただいたりしていますので、これくらいのことをするのは当然ですし、園主さまのお宅の場合、部屋の片づけと言っても、やっぱり本の整理が中心になるので、本好きの僕にはそれなりに楽しみでもあるんです。
 今日、片づけをした園主さまのお部屋は、最近買った本が床から平積みになっているんですが、やっぱりこのところの興味を反映して「戦争」「政治」「ナショナリズム」「イラク」「アメリカ」関係の本がたくさんありました。ハードカバーも多くて「ぜんぶ読むのは大変だね」と言うと「そこにあるのは、まだ読んでいないやつだからなあー。時間さえあれば、どうにでもなるんだけど、それにしても読むスピードより買うスピードの方が圧倒的に早いから、溜まる一方だ。これでもそれなりに選んで買ってるつもりなんだけどなあー」と園主さまはため息をつくことしきりでした。

 そういった本の横に積まれている最近買った文庫本は、書店のカバーが掛かったのは新刊の文庫で、そのままなのはほとんどが古本のようです。ボクにとって面 白いのは古本文庫の方で、お馴染みなのや懐かしい本がたくさん交じっています。例えば、河出文庫の稲垣足穂で、建石修志さんが装丁した新装版カバーの帯付きとか、福武文庫の澁澤訳、コクトーの『大股びらき』の帯付きとか。園主さまがコレクション用に買ってきたものですが、たぶんこのあたりはぜんぶ新刊時に買って持っておられるはずです。このへんの本なら、まだそんなに古い本でも無いんだけど、始終古本屋で見かけるような本じゃないし、出てても帯が無かったり、あまりきれいじゃなかったりするんで、ひさしぶりに新刊同様なのを見ると、コレクターでもないボクも、つい「おっ」と思って懐かしくなったりしますし、園主さまってもともとはこのあたりのコレクターだったんだよなーなんて思ったりもします。そして、同じ本が三冊も出てきたりすると、思わず「いいなあーこれ、ここに三冊もあるよ。他にもあるんだろうなー。いいなあー」なんて聞こえよがしに言ってしまったりします(笑)。

 そして今日も、片づけのお手伝いをした礼として、むりやり本を押しつけられて帰ってきました。園主さまのお宅の場合、本を少しでも減らすのが、片づけの決め手ですから、これも致し方のないことなんですよね(笑)。





( 以下は「競売ナンバー49の叫び(下)」につづく)


雨の日、あのね(下) 投稿者:AOI  投稿日: 9月22日(月)00時13分38秒

☆ホランドさま

>> 当然否定せざるおえないことはあるでしょうし、また、「双方の感じ方の根本的な違い」ということをあらかじめ予想できれば、「私はこう思うけど、こういうことではないか?」という問いかけにもなるでしょう。対立する意見だったとしても否定出来るとは限らないわけですね。
>> 確信できれば当然言えるわけだけど、結果としての相手の意見の否定なのであって、どれだけ確信できるかと言うことじゃないかと思う。

>これが違うと思います。問題は『確信』の有無じゃないんですよ。

>『確信』があったって結果として間違っている時はあるし、『確信』が無くたって結果 として正しい場合もあります。ですから、議論というのは『確信』の有無でなされるものなのではなく、「現時点での仮説」を徹底してぶつけあい検証することで達成されるものなんです。

たしかに確信の有無が正否ではありません。でも、少なくとも「現時点での仮説」について、自分なりの『確信』があればこそ徹底的にぶつけ合えるのではないですか?

なぜ、
>> 確信できれば当然言えるわけだけど、結果としての相手の意見の否定なのであって、どれだけ確信できるかと言うことじゃないかと思う。

と言ったかというと、園主さまが私にこのように言われたからですね。

>「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。
したがって貴方の意見は、ここが間違っています」という形式での「リスクを背負った」意見表明でございましょう。(>園主さま)

自分の意見は正しい、貴方は間違っているというには、「現時点での仮説」に対して、確信していなければいえないと思います。
ですから、

私が言いたいのは、「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」という努力はするとして、また、そのように言えるときには言って来ましたが、そこに至るまでの段階があるのではということですね。つまり、たとえこのように言えないとしても(確信がもてないとしても)意見の交換というものが当然可能であって、そのなかでの共同模索があるのじゃないかということです。それは議論の成立前段階なのかもしれないし、議論のあとにあるものかもしれない。議論の中でなされるものかもしれない。

たとえば、

> ボクとしては、こうした「安易な表記」は、単純にマスコミの悪影響なんではないか思います。で、ホントに問題なのは、そんな影響を「無自覚に受け入れてしまう」というところにあるんじゃないか、つまり、一見「軽く」見える事柄についての「懐疑」が不充分なんじゃないか、というようなことです。

と書かれていたホランドさまの仮説は意見交換による共同模索であって、議論という性質のものとはちょっと違うように思うんですよ。

> 言い換えれば、絶対の『確信』があるから「自信をもって主張できる」というような人は、「根源的懐疑」を欠いているから、議論ができない。
>他人の意見を真摯に検討することが(前提的に)できない、ということです。逆に『確信』がないから、ハッキリ言わない(言えない)という姿勢も、自分の意見が「仮説」に過ぎないということを理解していないという点では、絶対の『確信』家と本質的には同じ誤謬に陥っていると言えるんです。

絶対の「確信」ということになれば、たしかに「根源的懐疑」を欠いていることになるのだと思うけれど、「私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています」と議論で主張するためには「現時点での仮説」に対してであっても自分なりの確信をもっていなければいえないと思う。あとは一番最初に書いたところにもどるので略。


>「バスに乗り遅れるな!」と誰かが叫ぶ

私はあるき。歩くのいちばん!
バスはきらい。車もきらい。酔うんだもの。耳のせいね。



☆Keenさま

>> でも、AOIさまー、竹本さんは、ご存命ですよおー。(^0^*

生き仏みたいだから・・・(笑)。

>そういや、AOIさまも乙女座ではなかったですか?それに、をとめざさまの分も、一緒にお祝いということで♪

そうです!乙女座!!(強調)
なんか、他人のような気がしなかったのですよね〜。そういえば(うんうん)。
をとめ座さま、どうしてるかしらん?

>羽根木仕込みの「アボカドのイクラのせ」、「メロンと生ハム」、ローズティ

たいへんおいしゅうございましたわ。色彩も鮮やかに。
ローズティーの香りがいつまでも残ってましてよ。

一瞬、雲間に薄絹の君が・・・。
月の光に射抜かれて・・・ほの白く美しい姿態が・・・フフ。


雨の日、あのね。(上) 投稿者:AOI  投稿日: 9月21日(日)23時59分17秒

☆園主さま

>私の申したいのは、それが『許容範囲』内の些細な『ひっかかり』であろうと、それは「私の問題」として大切に検証すべきである、というようなことでございます。

それは分かります。ただ、「私の問題」として検証するというのは個的なものであっていいと思います。
前回書いた5点と曖昧になってしまった説明とで、私なりに検証したということなのです。

もしも、それでは不十分だと思われるのであれば、どういう点でそう思われるのかご指摘ください。

>>マムさまは、演技ではなく、根っからのああいうさっぱりした個性の方だから、ある種の「冗談っぽい言い方」というのも、許容範囲だと思うんです。ただ、こういう中途半端な言い方は、言葉の選択の真剣味を疑わせるものではありますよね。

>> ボクとしては、こうした「安易な表記」は、単純にマスコミの悪影響なんではないか思います。で、ホントに問題なのは、そんな影響を「無自覚に受け入れてしまう」というところにあるんじゃないか、つまり、一見「軽く」見える事柄についての「懐疑」が不充分なんじゃないか、というようなことです。(ホランドさま)

たとえば、上記のことについていえば、

>>「チンチン」ではなく「チ○チ○」となっていたことで、そこに幾ばくかの揶揄を感じた。(AOI)

と書いたのは、うまく表現出来てはいませんが、『揶揄』とは言いきれないんだけど、疑わせるものを感じるということをいいたかったんですね。だから、何度も「マムさまの気持ちはわかるんだけど」と言ってしまったわけです。
それで、ホランドさまの書かれているものを読んで、なるほどそういうことかもしれないと思いました。マムさまの気持ちにひっかかったというより、言葉の選択の真剣味を疑わせる書き方にひっかかったということではと。

だから、そのことをあえては書かなかったけれど、

> 今回の場合は、園主さまも言われるように、inoさまへのマムさまの親近感が言わせたものでしょうし、inoさまも肯定しているので私の取り越し苦労だったのだと思います。

という結論にもなったのですよ。


どうせ、これじゃだめ!っていうんだろうな(ぶつぶつ)

>創価学会員は、自分たちが、法華経に描かれた「末法流布の誓願をたてた地涌の菩薩」であるとの自負を持って布教活動をしているのでございますが、この『地涌の菩薩』というのは一人ではなく、上行菩薩に率いられた大勢の菩薩のことを指すのでございます。つまり、この段階で、創価学会には「組織」のイメージが抜き難くあり、たぶんAOIさまが考えておられるような「個人が個人としての信仰生活の中で宗教的な解脱にいたる」というような他の宗教や「小乗仏教」的なイメージとは、だいぶ違うのでございます。

>つまり、創価学会員の場合『組織のありようと個々人の信仰心というのはまた別 のもの』ということにはならず、むしろそれは「不可分」なものなのでございます。
ですからこそ彼らは、「組織」の堕落をたいへん嘆き憤慨するのでございますが、その一方でそれは「わが組織だから」という枠にも縛られたものなのでもございます。
彼らがすでに「イラクの子供たち」の現在にはほとんど言及しなくなり、ひたすら「組織」が本来の姿ではない(彼らを見殺しにしたという)ことについてのみ憤り続けるというのは、こういうことなのでございます。

少し分かったような気がします。
ご説明ありがとうございました。


>> でも、AOIさまー、竹本さんは、ご存命ですよおー。(^0^*(<Keenさま)

>かまいませんよ。竹本さまも知人をおおぜい殺しておりますし、かく言う私もその「被害者」の一人なのでございますから。
もっとも、竹本健治の筆で殺されるのなら、それは「どのような殺され方」であれ、光栄なことだと存じます。……いや、ほんと、心の底から申します(笑)。

いいなあー。私も殺されたーい(笑)!
その代わりにころしちゃった!
あの笠井潔のほかに竹本健治を殺したのはAOI!だけ!?(エッヘン!)


>> 中井さまも竹本さまもおとめ座なのね。(親近感)

>天秤座と乙女座は、相性が良いようでございますね(^-^)。

心しておくように!(テヘッ)
って、天秤座さんには、危なっかしくってほっておけないのよね?きっと。(あ〜あ!)



文学賞という枠(下) 投稿者:園主  投稿日: 9月21日(日)01時53分04秒


 Keenさま(つづき)

このようなわけで、たしかに今、竹本健治が受賞するにふさわしく、その可能性があるのは「泉鏡花賞」ということになりましょうし、竹本さまご自身「くれるものなら、有難く頂戴します」と笑っておっしゃられることでしょうが、私としましては、いまさらこんな中途半端な賞をもらうよりは「無冠の王」であった方が、よほどカッコイイのではないかと存じます。
実際のところ、「泉鏡花賞」というのは、マイナーな賞でございますから、本の売り上げにもつながらなければ、権威的肩書きとして効力も薄うございます。たしかに、初期には中井英夫・澁澤龍彦・森茉莉・赤