●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2003年10月下
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6時間 投稿者:園主  投稿日:10月30日(木)21時34分42秒

みなさま、本日は私、以前にもこちらでご報告させていただきましたことのございます、アニメマニアの会社の後輩と、ひさしぶりにカラオケに行ってまいりました。アニメ特撮オンリーで6時間。ボイスチェンジャーのない部屋でしたので、女性歌手の歌が制限されて、あとの方は選曲に苦しみました。
カラオケのせいというわけではございませんが、本日は少々疲れておりますので、レスは明後日以降ということでご勘弁下さいまし。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


ザ・監禁〜性獣の檻〜 投稿者:影姫  投稿日:10月30日(木)07時14分33秒

♪枯葉散る〜〜〜〜夕暮れは〜〜〜〜(五輪真弓)

と深まりゆく秋に涙しつつそれでもしっかり古本蒐集だけは怠りない
影姫です。しかし冬・・・こちらではもうイヤというほど雪が降るの
です。当然湿気がむんむん。古本に悪影響を及ぼさないか今から心配
なのです。

☆園主様・ホランド様>『NUBA』はアフリカの原住民を撮った写真集
です。通常このテの本は人気がないのですがこのNUBAだけはあのレニ
が撮ったというだけで物好きな古本マニアの人気本となりプレミアも
付いているのです。

しかし・・・うおー!!年末古本商戦ではイイ本をゲットしまくるぞ
〜〜〜!!!オーーー!!!

『呪怨2』全然怖くないぞ〜〜〜!!!製作者カネ返せ〜〜〜!!!
ゴルア!!!ゝ(`▽′)ノ~~~~~~~~~~~~~

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


タランティーノのマゾヒズム(下) 投稿者:ホランド  投稿日:10月29日(水)20時26分06秒

 AOIさま
 う〜ん・・・。レニ・リーフェンシュタールに関する園主さまとの議論、どうもボクとの議論の時と同じく「おうむ返しに反応しているだけ」ってパターンに入ってきたようですねえー。例えば、

> そうではないですよ。非凡であると言う点ですでに「私と同じ、ただの人」ではありません。その非凡さに見合うだけの生への鋭敏さや感受性を持ち合わせていなかったことに同情したのです。
> レニがその点で凡庸だったのはなぜなのか。
> 差別意識は長い歴史の中で醸成され、個人の中へ流れ込み、緊張の時代その感情は沸点に達し、憎悪がむきだしになる。差別 意識がそういう時代をつくるともいえる。それに抗うための力「生への鋭敏さや感受性」はどのように培われるものなのか。
> なぜ、レニは「生への鋭敏さや感受性」を働かせることが出来なかったのか。
> レニを教訓にしなければと思えたのです。

という、この文章なんか、『そうではないですよ。』という「否定の意志」以外、何も中味が無いですもん。

> AOIさまは、なぜレニ・リーフェンシュタールに「同情」したのでございましょう? 
> それはレニを「同じ人間」として見、評価したからでございます。

という園主さまに対し、AOIさまは、

> そうではないですよ。非凡であると言う点ですでに「私と同じ、ただの人」ではありません。その非凡さに見合うだけの生への鋭敏さや感受性を持ち合わせていなかったことに同情したのです。

と返してるんですが、これが反論や論理的否定になっていないことは、AOIさま以外の人には明らかでしょう。・・・だって、園主さまは、AOIさまがレニの(「非凡」なところではなく)『凡庸』なところに「私と同じ、ただの人」を見て「同情」したのだろう、と書いておられるのに、AOIさまはそれをまったく理解なさっていないんですから。

 それに園主さまは、

> 「私にも差別心があるのはわかっています」「私も戦争協力がいけないことはわかっています」と簡単に言ってしまえるというのは、本質的には全然「わかっていない」証拠だと申せましょう。なぜなら、それらは「わかっている」だけでは済まず、血まみれの摘出手術が、例外なく(=自分にも)必要な難病だということを全然わかっていないからこそ、お気楽に「わかっています」などと口走りうるからなのでございます。

と書いて、「問題」を「我がこと」として考えなくてはならない、我が胸を引き裂いて「深淵」に潜むものを剔抉しなくちゃならない、とおっしゃってるのに、それへのレスが、

> レニがその点で凡庸だったのはなぜなのか。
> 差別意識は長い歴史の中で醸成され、個人の中へ流れ込み、緊張の時代その感情は沸点に達し、憎悪がむきだしになる。差別 意識がそういう時代をつくるともいえる。それに抗うための力「生への鋭敏さや感受性」はどのように培われるものなのか。
> なぜ、レニは「生への鋭敏さや感受性」を働かせることが出来なかったのか。

という「自分」とは無縁の「紋切り型」議論(一般論)と、「自分の考え」を少しも示さない、(レニに)否定的な「疑問の提示」だけ。さらに、それに続く言葉も、

> レニを教訓にしなければと思えたのです。

というもので、園主さまが、

> 『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』とは、言うまでもなく『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』をしなければならないという「お題目」を唱えることではございません。

と否定した「お題目」であり「紋切り型」になってしまっているんですから・・・。

 後の部分も基本的には、みんな同じ。「そうではない」という「否定の意志」ははっきりしていますが、後はほとんど意味のない「おうむ返し」です。

 「私にも差別意識はある」と明言したのに、それを腑分けする方向には決して進もうとはしない。だから・・・。これこそが、レニにも当て嵌まる「答」のように、ボクには思えました。


 園主さま
 今日はありがとうございました。『キル・ビル』、期待以上に楽しめましたよ。・・・それにしても、ユサ・サーマンの、あの仮にも「美しい」とは言えない「足指」を、そのまま撮ったというは、どういうことなんでしょうね。やっぱりタランティーノ監督は、絵に描いたような美しい足指よりも、ああいう「粗野な感じ」に惹かれたということなのでしょうか?





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


タランティーノのマゾヒズム(上) 投稿者:ホランド  投稿日:10月29日(水)20時23分18秒

 みなさん、こんばんは! 今日は園主さまと『キル・ビル』(クエンティン・タランティーノ監督)を観てきました。しか〜し! タイトルをよく見ると、右下の方に小さく「Part.1」とあるではないですか! 予告編やポスターに、そんなこと書いてあったかあー?!!! ・・・と思うんですけど、確認はしていません(^-^;)。隅っこに、ちょこっとくらいは書いてあったのかも知れませんね。で、やっぱり、完結はしておらず「Part.2」に続く、になってました。でも、面 白かったですよ(^-^)。ちょうど、こないだ観た『スパイダー・パニック』と同じで、監督が好きなものを好きなように好きなところだけ撮ったような映画。だから、ストーリーにはリアリティーなんて欠片も無いんだけど、ディティールで楽しめるっていう感じかな。

 園主さまがおっしゃってたとおり、キャストには「ゲスト出演」として千葉真一さんが大きな文字で『Sonny Chiba』って出てましたし、たしかに美味しい役をやってましたね。役柄は、武士の心に通 じた伝説の刀匠『ハットリハンゾウ』。しかも、千葉さんの弟子みたいな感じで横に控えている坊主頭の男性は、きっと『服部半蔵 陰の軍団』で参謀役をやってたジャパン・アクション・クラブの俳優さんですよね。ボクは、以前再放送でちらっと見ただけだからお名前とかは存じ上げないんですけど、たしか「宇宙刑事もの」の主演もなさった方じゃなかったかな? ・・・ま、とにかくそういう小憎らしい気配りのある作品なんですよね。

 それと、映画の後半は、ユサ・サーマン演じる女主人公がハットリハンゾウに造ってもらった刀で、怨敵を殺すために、敵の子分たちを斬って斬って斬りまくるんですが、このシーン、とにかく手が飛ぶ、足が飛ぶ、首が舞うという血まみれアクションで、たぶんこのせいで「15禁」になっちゃったんでしょうね。でも、そのなかでも特に面 白かった、と言うと語弊があるけど、・・・興味深かったのは、ジュリー・ドレフィスさんが演じていた悪の幹部に対する、主人公の仕打ち。
 この映画に登場する女性は、どちらかと言うと、みんな暴力的な個性派で、およそ女らしさが希薄なんですが、それに対しジュリー・ドレフィスさんだけは、唯一の知性派で、アクションは一切ありません。その見るからに女らしい雰囲気をふりまく整った美形の彼女が、主人公に、いきなり片腕を肩からバッサリ切り落とされて、血の海の中で悶え苦しむんですが、でも、それでいて、きれいな顔だけは決して血で汚れたりしないんですよね。しかも、なかなか死なないと思ったら、後で彼女の口から悪の親玉 の情報を取るために、あえて生かしておかれたということだったんです。で、女主人公は、彼女に情報を吐かせるために、もう片方の腕も一刀のもとに切り落とした上で、悪の親玉 への自分のメッセージを託して、彼女を生かして還すんですね。つまり、きれいなジュリー・ドレフィスさんは肩から両腕が切り落とされた姿で、生きて解放されてしまうというわけです。
 このあたりが、いかにも「嗜虐的」な妖しい雰囲気を漂わせていて、ボクにはとても印象的だったんですが、ここからボクは「タランティー監督って、マゾっ気のある人なんだろうな」という印象をうけました。つまり、監督は、ちょっと暴力的なまでに「強い女」に惹かれる(=暴力的に扱われることを望む)傾向があると思うんですよ。だから、ジュリー・ドレフィスさんの演じた役(=例外的な「女性らしい女性」)っていうのは、監督自身のナルシシズムとマゾヒズムを投影した、願望充足的なキャラクターだったんじゃないかって思ったんです。
 あっ、そう言えば、映画の中でジュリー・ドレフィスさんは携帯電話ばかりかけてましたけど、昔、タランティーノ監督が日本のテレビに登場して、憧れの千葉真一さんと共演したのも、携帯電話のCMだったと思います(「しゃべりタランティーノ」)。つまり、ジュリー・ドレフィスさんの役柄は、タランティーノ監督ご本人の投影であるという印が、この「携帯電話」だったのではないでしょうか?

 いずれにしろ、オチで評価が変るようなタイプの映画だとは思わないんですが、でも続きはぜひ観てみたいものですね。心配はいらないとは思うんですが、下手にまとめようなんてしないで、この好き勝手のボルテージを下げることなく、同じようなノリで続編を作ってもらいたいものです。





( 以下は「タランティーノのマゾヒズム(下)」につづく)

俳優名等の事実誤認について訂正しています。――管理人11/9)


許すのではなく 投稿者:AOI  投稿日:10月29日(水)09時52分49秒

先日はこんなカウンターでした。110011(笑)
111111も近いですね。

>「批評」という行為

う〜む。
批判は甘んじて受けますが、映画の感想だったんですが、「社会的な問題」にはありえないということですか?

>AOIさまは、なぜレニ・リーフェンシュタールに「同情」したのでございましょう? 
それはレニを「同じ人間」として見、評価したからでございます。つまり、「才能」があったとは言え、それ以外は「私と同じ、ただの人」であったレニが、「時代」に翻弄されて、祖国の人たちから『魔女』呼ばわりにされるまでになった、その運命を「私だって、レニのような才能があったら、同じことをしたかも知れない」と考え、彼女の「選択の普通 さ(一般性)」を「一般に、避けがたい(やむを得ない)」ものとして、その情において容認したのでございましょう。

そうではないですよ。非凡であると言う点ですでに「私と同じ、ただの人」ではありません。その非凡さに見合うだけの生への鋭敏さや感受性を持ち合わせていなかったことに同情したのです。
レニがその点で凡庸だったのはなぜなのか。
差別意識は長い歴史の中で醸成され、個人の中へ流れ込み、緊張の時代その感情は沸点に達し、憎悪がむきだしになる。差別 意識がそういう時代をつくるともいえる。それに抗うための力「生への鋭敏さや感受性」はどのように培われるものなのか。
なぜ、レニは「生への鋭敏さや感受性」を働かせることが出来なかったのか。
レニを教訓にしなければと思えたのです。

『意志の勝利』『オリンピア』に対しての当然の批判を『差別』と言ったのでもないです。それについては大いに語られるべきでしょう。
戦時には同じようにナチズムに反対しなかった人が、レニをスケープゴートとしたことに同情したのです。
ナチ協力者、ナチ同調者のなかでも、とりわけ『女』、『美人』であったレニにとって戦争責任者として以上の誹謗中傷があったということは指摘されていることです。
自業自得だとは、思えないのです。
罪がない、責任がないと思っている未熟な人にとって、自分の罪を引き受けるには、それ相応の情況が必要だろうと思うということです。
過去を切り捨てようと思っても切り捨てることなどできるものではないのですから。

>自分が「レニと大差のない、弱い人間」だと思うのならば、道を誤ったレニに「同情」して彼女を「肯定」するのではなく、彼女の過ちを「自己の過ち」として厳格に処断し、彼女と同じ轍を踏まないようにしなければならないのでございます。
彼女と同じだから「同情し」「許す(赦す)」のではなく、彼女と同じだから「絶対に許し(赦し)てはならない」のでございます。

『彼女と同じだから「同情し」「許す(赦す)」』というのではありません。
『許す』ことなど、それこそ私に出来ることではないです。
彼女が自分の罪を引き受け、責任を感ずることを「期待し」「願う」気持ちです。
同情することは『同化する』こととは違うと思う。
それは人間の可能性でも、私の可能性でもあり、そうでなければ、救われないと思います。


同じ人間だからこそ(5) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(月)20時05分43秒


 AOIさま(つづく)

そして私がこのようにしてなした「批評」こそが、大西巨人の言う『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』であり、中野重治の言う『国民の側の弱さ、足りなさ、不充分さ』という現実を、剔抉していくことなのでございます。つまり、『籠れる冬』を剔抉することなのでございます。

『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』とは、言うまでもなく『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』をしなければならないという「お題目」を唱えることではございません。レニ・リーフェンシュタールの中にも、AOIさまの中にも、そして私の中にも存在する「それ」を、剔りに抉ぐる(えぐるにえぐる)ことなのでございます。ですから、悲鳴もあがれば、血も涙も流れましょう。しかし、それを怖れたり厭うたりしていては、『「深遠としての人間・民衆」を剔抉すること』など到底出来ようはずもございません。
「戦争」という『籠れる冬』、「差別」「偏見」という『籠れる冬』は、「人間・民衆の深遠」に深く根を下ろしております。それを剔抉する手術が、生半なもので済まないのは、決まったことなのでございます。

「私にも差別心があるのはわかっています」「私も戦争協力がいけないことはわかっています」と簡単に言ってしまえるというのは、本質的には全然「わかっていない」証拠だと申せましょう。なぜなら、それらは「わかっている」だけでは済まず、血まみれの摘出手術が、例外なく(=自分にも)必要な難病だということを全然わかっていないからこそ、お気楽に「わかっています」などと口走りうるからなのでございます。

AOIさまがレニ・リーフェンシュタールに『同情』し、私がレニ・リーフェンシュタールに同情しなかったのは、私たちがレニを「同じ弱い人間」だと同じように見ながらも、AOIさまが「だから、同情した」のに対し、私は「だから、許すわけにはいかないと考えた」からなのでございます。

「批評」という行為は、「他者」をその対象としてはいても、本質的に「自己」批評を内在させているものでございます。そのことを、くれぐれもお忘れにならないようになさって下さいまし。


 ホランド
> でも、自分ではヒーローになれない弱い人たちが、心のどこかで「強く正しく美しい」ヒーローを求めているというのも、いつの時代にも変らないことだと思います。その心に、どうすれば訴えかけることができるのか。・・・難しいことだけど、まったく不可能というわけでもないように思いますよ。

そうだろうな。
私が思うに、人びとの中に眠る「ヒーローに憧れる気持ち」に働きかけるには、本物のヒーローの実在を訴えるしかないと思うんだ。多くの人は、ヒーローなど所詮は絵空事だというニヒリズムに囚われ、理想を見失っている。だが、ごく小数とは言え「強く正しく美しい」ヒーローが実在するのは事実だから、我々はそれを多くの人に伝えなければならない。それと同時に、その事実を確信している一人としての我々は、そのヒーローに近づく努力を、自分の態度で示してみせなければならないんだろうな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


同じ人間だからこそ(4) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(月)20時04分37秒


 AOIさま(つづく)

何度も申しておりますように、「世に出る」ということは、自己の選択であり、その責任は自身に掛かってくるものなのでございます。その覚悟や意識のない者は、それ相応の扱いをうけてショックをうけ、傷つくことにもなりましょうが、それは自業自得なのでございます。

レニ・リーフェンシュタールが『美に対するこだわり』においては非凡なものを持ちながら、それに『見合うだけの生への鋭敏さと感受性』を持ち合わせぬ ままに「世に出」て、「世に働きかけた」のならば、その責任は、本人が引き受けなければなりません。
「狭い(美の)世界」でその才能を評価されて、自分という人間の限界を知らないまま世に出た「子供」が、自己責任の問われる「大人の世界」で、いい気になって手に余る大きな仕事をして失敗し、その結果 、情け容赦なくその責任を取らされて泣くことになったとしても、それは仕方のないことなのでございます。「世に出る」以上は、「無知な子供」だったから「仕方がない」ではすみません。「無知な子供」でしかなかった人物が、一人前の仕事に手を出したところに問題があるのでございます。レニ・リーフェンシュタールの、責任を引き受けない「無責任さ」、他者に責任を転化しようとする「自己中心性」は、「僕は何も悪いことはしていないのに、みんながいじめる」と主張する「子供」のそれと同じ「無自覚」に他ならないなのでございます。

ですから、レニ・リーフェンシュタールについて公に語る場合は、まず彼女の「公」に対する「公人=大人」としての功罪について、きちんと評価しなければなりません。それを抜きにしての「個人的な感想(=同情)」を「公」にするというのは、自分の「公人」としての立場を弁えない「子供」の態度なのでございます。

しかし、無論その場合にも「それでも、彼女には責任がある。」といったような「紋切り型」は、「自己」の責任においてなされる「批評」の名には値しません。それでは「公」に批評したことにはならない、と言うことでございます。
「紋切り型」は「考えずに済ますため」の道具であり、自分の頭で考えた人間の意見というものは、自ずと「紋切り型」を脱するものなのでございます。

つまり、AOIさまのレニ・リーフェンシュタール評価の問題点とは、レニの問題点を「自分の頭」で「我がこととして」考えずに(「紋切り型」批判に満足して、そこで思考を放棄し)、その上で安易にレニ「個人」に同化してしまった点にございます。
「レニに問題があったのはわかっている」で済ませてしまう人間の大半は、「日本の戦争に問題があったことは理解している」という人のそれと同様、根本的には「わかっていない」のでございますね。その証拠に、彼らはその問題点について、「自分の言葉(=責任)」で、その対象を、徹して批判することは遂にないだろうからでございます。

「レニ・リーフェンシュタールの問題」は、「個人的な問題」ではなく「社会的な問題」でございます。ですから、「彼女のレベル」つまり「ナチスに抗しえず、それに加担してしまった」というレベルに同化してはなりません。
今の自分が、もし「レニと大差のない、弱い人間」だと思うのならば、レニに「同情」して彼女の選択を避けえないものだったと容認するのではなく、彼女が「すべきであったこと」を探し、それを指摘し、それを自身に課さなければならない。自分が「レニと大差のない、弱い人間」だと思うのならば、道を誤ったレニに「同情」して彼女を「肯定」するのではなく、彼女の過ちを「自己の過ち」として厳格に処断し、彼女と同じ轍を踏まないようにしなければならないのでございます。
彼女と同じだから「同情し」「許す(赦す)」のではなく、彼女と同じだから「絶対に許し(赦し)てはならない」のでございます。





( 以下は「同じ人間だからこそ(5)」につづく)


同じ人間だからこそ(3) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(月)19時58分06秒

 AOIさま(つづき)
                      
> 美に対するこだわりに見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもちあわせていれば過ちを犯すことはなかった。『意志の勝利』『オリンピア』を創ることもなかった。
> 非凡であったことがレニの不幸にも、ドイツの不幸にもなった。
> そういう意味で彼女は特別な存在でもあり、魔女として差別されます。
> 彼女が美に対して非凡でなかったら特別な存在になることも、魔女と差別 されることもなかった。

AOIさまのこのような「感情」は、ごく「一般的」なものとして「自然」なものでございましょう。世間の大半は、AOIさまのレニ・リーフェンシュタールへの「同情」に対し「共感」し、その「当たり前な同情」を酷評されたことに対しても「同情」してくれることでございましょう。
ですが、私は、ここで言う「一般的な感情」が、「既に誤っている」と批判しているのでございます。AOIさまが公に向けて、故人であるレニに「個人的な同情を(無責任に)示す」ことが誤りなら、その感情に共感する人の共感も誤りだし、誤った同情を批判されたAOIさまに同情するのも誤りだ、というのでございます。

AOIさまは、なぜレニ・リーフェンシュタールに「同情」したのでございましょう? それはレニを「同じ人間」として見、評価したからでございます。つまり、「才能」があったとは言え、それ以外は「私と同じ、ただの人」であったレニが、「時代」に翻弄されて、祖国の人たちから『魔女』呼ばわりにされるまでになった、その運命を「私だって、レニのような才能があったら、同じことをしたかも知れない」と考え、彼女の「選択の普通 さ(一般性)」を「一般に、避けがたい(やむを得ない)」ものとして、その情において容認したのでございましょう。・・・もとより「レニの選択」が、「特別 個人的に」悪質なものであったならば、誰も(AOIさまも)彼女に『同情』などしないのでございます。

しかし「レニ・リーフェンシュタールの問題」とは、「一般人の問題」ではございません。「才能ある者の責任」「社会的影響力を行使できる者の責任」にかんする問題なのでございます。
もしもレニが、何の才能もない人だったなら、彼女が社会に大きく働きかけることなど、好むと好まざるとにかかわらず、出来はいたしませんでした。しかし、彼女には現にその能力があり、その能力を現に行使したのでございます。だから「才能ある者の責任」「社会的影響力を行使できる者の責任」を厳しく問われ、「才能を悪用」した『魔女』として、厳しく糾弾されたのでございます。

AOIさまは、彼女を『魔女』と糾弾する人たちのことを、レニ・リーフェンシュタールという「一人の人間」を「一人の人間(ありのままのレニ)」として評価しないで、「ナチス協力者」というレッテルで評価して『差別 』した、とお感じなのでございましょう。だから、非難を込めた『差別』という言葉をお使いになられたわけでございますが、レニ・リーフェンシュタールを厳しく糾弾した人たちは、意識的にレニを「才能ある者」「社会的影響力を行使した者」として評価したのでございます。意識的に「ただの人」としては評価しなかったのでございます。なぜならば、レニ・リーフェンシュタールという「一人の人間」の行動において、問題となったのは、「才能ある者」「社会的影響力を行使できる者」として側面 であり、その責任だったからでございます。

つまり彼らは、ナチスドイツ時代の「作家」であり「有力者」であるレニ・リーフェンシュタールを、「平和を望む民衆」の立場から「批評」したのでございます。それは、批評家が「読者」の立場から「小説作品」を批評し、「作家個人」の立場から「お友達批評」や「同類相庇いあう批評」をしない、というのと同じことでございます。

言い換えれば、AOIさまは、駄作を書いた作家に浴びせかけられた「無能作家」という冷徹な評価に対し、「誰だって傑作ばかりは書けない」と抗弁し、「なまじ彼女に才能があったばかりに、このように差別 されるんだ」と言って「同情」したようなものなのでございます。





( 以下は「同じ人間だからこそ(4)」につづく)


同じ人間だからこそ(2) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(月)19時55分58秒

 AOIさま
> レニ・リーフェンシュタール評価にかんして

本日は、AOIさまの「レニ・リーフェンシュタール評価」にかんして、私が「何をなぜ批判しているのか」というおおもとのところについて、ご説明させていただきます。

まず、「批評」という行為は、「他者」をその対象としてはいても、本質的に「自己」批評を内在させているものでございます。つまり、「批評主体」が無ければ、「批評客体」としての「対象」もありえません。

例えば、「小説」作品を批評する際、「評者・批評主体」がその作品について、「自分にも書けるか」という立場で批評すれば、それがありきたりの凡作であっても、否定的な評価は容易にはいたしかねます。一方、「批評主体」としての自身の位 置を「多くの面白い作品を、対価を払って読んできた、一般読者」の位置に設定すれば、同じ作品でも、プロの作品にあるまじき(対価に釣り合わない)愚作と酷評することも可能となりましょう。つまり前者の場合は、「批評客体」である「作品」に「自己の作品」を対置し、「批評客体」である「作家」に対しは、自身も「作家」の位 置に立ったということであり、後者は「作品=商品」に対しては「消費者」の立場を、「作家」に対しては「一般 読者」としての立場を対置したからこそ、それらを酷評することも容易に可能になったのでございます。ですから「作家」が(「作家」のまま)「作家」の作品を評価すれば、それはだいたいは「甘く」なりがちでございますし、「業界内」評論家と「業界外」評論家では、前者の評価が一般 に「甘く」なるというのは、「事の是非は別にして」、言わば理の当然なのでございます。
つまり、「批評対象」が同じであったとしても、「批評主体」の「位置設定」によって、結果 としての「評価」は、いくらでも変ってしまうということでございます。

しかし、「批評家」の批評が、このようなものであった場合、それは批判されてしかるべきだと申せましょう。なぜならば、批評家には本質的で絶対的な「(読者の一人である自身は)読者の側に立って、作家に媚びることなく、公正な評価を下さなければならない」という「使命」があるからでございます。ですから、それができないということであれば、それはその者が「批評家」失格であるということになりますし、彼の批評は「お友達批評」であり「同類相庇いあう批評」でしかないということにもなるのでございます。

ただ、ここで本当に大切なことは、そうした「使命」云々であるよりもむしろ、「自分は今どのような立場に立って発言し、発言しなければならないのか」という自分の位 置設定の適否に対する自覚なのでございます。なぜなら、それが間違っていては、いくら誠実に評価したとしても、その評価は客観的には不適切なものにしかなりえないからなのでございます。しかし、この自覚認識というものを適切に持っている者は、プロの評論家の中でさえ稀有なのでございますから、ましてアマチュアの批評では、ほとんど無自覚の野放し状態だと言っても、決して過言ではございません。例えば、 AOIさまは、

> 『レニ』については、映画で知りえたレニという人に個人的な思いを込めて書いたものです。

と、繰り返しご自分の書かれたものが『個人的な思いを込めて書いたもの』に過ぎないとおっしゃっています。これはたしかに「事実」ではございましょうが、しかしそれで、その「発言」の正しさが保障されるわけでもなければ、その「発言」が免責されるわけでもございません。本人の意図にかかわりなく、公に向けて発せられた「表現」は、公の一部を形成するものなのでございますから、それは『個人的』な問題であるから「好き勝手なもので良い」ということにはならないのでございます。

そして、そうした意味で、AOIさまのこの種のご発言は、レニ・リーフェンシュタールのそれと同様、「嘘」ではないにしろ、無益な「言い訳」に過ぎないのでございます。
自分が、いったいどの位置にいて発言しているのか、自らの位置設定に無自覚であった結果 、「情」に流されて「批評の倫理」を欠くこととなってしまったのでございます。





( 以下は「同じ人間だからこそ(3)」につづく)


同じ人間だからこそ(1) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(月)19時54分40秒

みなさま、以前、ここ「花園」にいらしてくださった井上陽水ファンの「SAKAMOTO」こと坂本千夏さまから、先日、陽水のかんする私設図書室「気まぐれ」を、東京都武蔵野市の自宅に開設したとのご連絡をうけましたので、ここでご紹介させていただきます。

図書室「気まぐれ」は、坂本さまが井上陽水にかんして個人的に蒐集された図書資料の公開を目的とし、井上陽水氏ご本人や関連の事務所とは一切の関係ない、あくまでも私的な資料室であるとのことでございます。
定期開室日は、毎月第2日曜の12時から17時。ご自宅での開設ということで、ここには住所を記しませんが、ご興味のある方は、直接坂本さままでメールでお問い合わせ下さいまし。





( 以下は「同じ人間だからこそ(2)」につづく)


リメンバー、ヒーローズ!(下) 投稿者:ホランド  投稿日:10月27日(月)01時10分35秒


 AOIさま(続き)

 ちなみに今後、こうした路線で映画化される可能性のある作品としては、手塚治虫だと『マグマ大使』『不思議なメルモ』『どろろ』、永井豪なら『デビルマン』、横山光輝なら『バビル2世』、石ノ森章太郎はもともと実写 ものが多いから、かえって思いつかないなあー。藤子不二夫も絵柄があれだから、実写 向きじゃないし・・・。あと、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』などの「妖怪もの」は十分に可能性あり。最近でも、あえて「着ぐるみ」にこだわって作られた特撮妖怪映画の佳作(『さくや妖怪伝』ほか)がありますけど、CGで本格的に妖怪映画が撮られるのは、時間の問題でしょうね。・・・あっ、それから日本版『トワイライト・ゾーン』ということで、円谷プロの『ウルトラQ』が再映画化されるかも。『ウルトラQ』は、以前に実相寺明雄が伝統的な手法で新作を撮って、転けてますよね。

 ここでは古い作品ばかり挙げましたけど、これは原作の知名度が高く、広い客層を期待できるものということで、たぶんこのあたりから選ばれるだろうと予測をしたからです。そうでもなきゃ、いまさら『鉄人28号』でもないですからね。
 で、まあ、このあたりがひととおり映画化された後で、いよいよ『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『超時空要塞マクロス』あたりが出てくるんじゃないかなあー。

 これらのなかで、ボクが個人的にいちばんやって欲しいのは、『どろろ』です。時代劇プラス妖怪、寡黙で陰のある百鬼丸と愛嬌のあるどろろ。このあたりをうまく表現できたらなあーと思います。特に、百鬼丸の前腕がすっぽり抜けて、その下から仕込み刀が出てくるところなんか、壮絶です。この作品は、身障者差別 のからみがあって再放送されないという話を聞きましたが、百鬼丸の腕にかんして言えば、『コブラ』(原作・寺沢武一)と同じなんじゃないかな? ・・・そう言えば、原作は義手を抜いたけど、テレビアニメ版(『スペースコブラ』)は、腕がサイコガンに変身してたようにも思うなあー。

 ちなみに、この『どろろ』や『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』『ウルトラQ』なんてレトロっぽいのは、あえてモノクロで作ってみるのも面 白いかも知れないですね。


 園主さま
> 「巨大グモ」に殺されるよりも理不尽だったりするのが、人間世界の現実だ。映画では、モンスターは退治されるが、現実のモンスターは権力者となってのうのうと生き残り、自己正当化をし、言い訳の機会を与えられ、時に尊敬され、同情され、チヤホヤされて、大往生を遂げていく。……これは、否定できない歴史的事実だろう。

 そうでしょうね。でも、自分ではヒーローになれない弱い人たちが、心のどこかで「強く正しく美しい」ヒーローを求めているというのも、いつの時代にも変らないことだと思います。その心に、どうすれば訴えかけることができるのか。・・・難しいことだけど、まったく不可能というわけでもないように思いますよ。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


リメンバー、ヒーローズ!(上) 投稿者:ホランド  投稿日:10月27日(月)01時06分13秒

 みなさん、こんばんは! 今日、本屋さんで「中井英夫全集」(創元ライブラリ)の新刊、日記編の『月蝕領崩壊』(第9巻)が出ているのを発見、さっそく購入しました。
 収録作品は、『月蝕領宣言』『RA BATTEE』『流薔園変幻』『月蝕領崩壊』の、後期の日記4册。解説は、気鋭の評論家 高原英理。こないだ園主さまが感想を書いてらした『無垢の力 〈少年〉表象文学論』(講談社)の著者で、かつて中井さんが選考委員をつとめた「〈幻想文学〉新人賞」の受賞者です。帯裏にはINFORMATIONでご案内ずみの「中井英夫関連記念イベント」の紹介もなされています。
 定価は2000円とちょっと高いですが、単行本4冊分ですし、元本はそれぞれ2000円を超える値段で、初版本古書はそれよりも高い。・・・ということで、お買得な一冊ですので、みなさんもひとまず買っておかれてはいかがでしょうか?(^-^;)





 AOIさま
> そういえば、ハリウッドで映画化されるとか。ドラゴンボール!!

 こないだレス漏れしてたんですが、そうなんですよね、『ドラゴンボール!』が実写 映画化されるという話。でも、今あれを実写化しても、ぜんぜん面白くないんじゃないないかな。CGで見せられたってなあー、という感じ。
 このほかに、ハリウッド版『ルパン三世』という話もあるそうですよ。ルパンは、ずいぶん前から話はあったそうなんですが、実現しなかった。でも、そろそろという雰囲気はありますよね。もちろん問題は、配役とシナリオです。

 いっぽう、国内では「巨乳グラビア美女軍団 イエローキャブ」の佐藤江梨子の主演で、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が監督する『キューティーハニー』(原作・永井豪)が話題になっていますし、『鉄人28号』(原作・横山光輝)の製作も進んでいるようです。またタツノコプロのテレビアニメ『新造人間キャシャーン』を原作に、実写 映画『CASSHERN(キャシャーン)』も製作されている模様。・・・実写版の『新世紀エヴァンゲリオン』は、国内作品だったかな?

 ここ15年は、ハリウッドが往年の人気テレビ番組やアメコミの映画化や再映画化で、映画の人気をつないできましたが、『リターナー』などにも見られるように、日本でも本格的なCG映画が撮れるようになってきたので、ここに来て、ハリウッド同様、かつての人気マンガやアニメの実写 化で、無難にヒットを狙おうとしているようですね。・・・たしかに興味はそそられるけど、「過去の遺産の食いつぶし」という感じもして、素直には喜べない気分です。





( 以下は「リメンバー、ヒーローズ!(下)」につづく)


遊んできましたー☆ 投稿者:AOI   投稿日:10月26日(日)00時42分10秒

お久しぶりのライヴです(笑)。
中山ラビさんの。ゲストは泉谷しげる。
開場前に並んだのに、お立ち見。やっぱりね。混むかと思って早くきたのになあ。
中山ラビはカルメンマキ、りりぃ、淺川マキなどと同時期のフォークソングブームのころ、「女ボブディラン」「ライヴハウスの女王」といわれた知る人ぞ知る名シンガーなのです。
TVにまるで出ることがなかったのでご存知の方は多くないでしょうね。ラジオのパーソナリティーはやっていました。
私も、活動を再開したここ数年聞くように。心に沁みる歌です。
近年はすっかり俳優の活躍が多く、歌手だと言うことも知らない人も多い泉谷しげるが聴ける!というので。お得なライヴ(ラビさん曰く/笑)。
あーーあ、それにしても、あんなにお客をクソミソにして喜ばれるなんて・・・キャラクターっていうかなんていうか、泉谷さん!!
「来てやったぞー!!」「ありがたく思え!」「乗るんじゃねえー!静かにきけ!!ぶっ殺すぞ!てめえら!!」「金返せー!!」「さっさと、帰りやがれ!!」etc。とんがってましたねえ。
しかし、さすがでしたねえ。その歌の力、詩の力、ギター。リズム感、圧倒的な迫力。
♪のーに来たー、のーに来たー、のーに来た〜〜なんて脳梅の歌も歌っていましたけど(苦笑)。
「春夏秋冬」はラビさんと。
「そんな、押し倒されても文句いえねえようなカッコしてどうしちまったんだ!ラビ!おまえ、フォークしてたんじゃなかったのか?」
「不良になりたかったの。むかしっから」
ラビさんのカッコは、やまんばヘアーにストリートガール。
赤いハイヒール。黒の網タイツ。タンクトップに赤のラメ入りホットパンツでした。
「こんな時代なので、メッセージをはっきりもってる人をと思って、お願いしたの。私が聞きたかっただけなんだけど」
・・・刺激的なライヴでした。

☆園主さま

また、こんど。&(^-^)&


鏡をのぞいて 投稿者:AOI   投稿日:10月24日(金)23時53分15秒

☆園主さま
『レニ』については、映画で知りえたレニという人に個人的な思いを込めて書いたものです。

>> 「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても」というのは歴史上の事実です。
>> 「レニならば気づいたにちがいないのだから」は話者としての私の仮定、願望です。

>そのとおりでございます。レニが、『ドイツ人の多く』と同様に、ナチに加担したのも『歴史上の事実』でございます。そうして貴女さまは、レニだけを「特別 扱い」にし、同じことをしたその他の『ドイツ人の多く』を「その他扱い」にし「継子扱い」にしたのでございます。それが「差別 」でございます。

『ドイツ人の多く』の中にはレニも入ります。歴史上の事実をいっているのですから。
そうでなかったことのありえない私の願望を書いたものです。
『レニならば』のレニは生への鋭敏さや感受性とを働かせたレニですから、想像上のレニにすぎません。現実のレニが投影されていますが。

>「ナチスの悪に気づけなかったこと」への残念さは、何もレニ対してのものと限ったことではなく、言わば「自明の前提」なのでございますよ。
貴女さまは、レニに同情したあまり、全体感を見失い、レニを『ドイツ人の多く』から切り離す一方、『ドイツ人の多く』をレニの「背景」扱いにしてしまったのでございます。

「ナチスの悪に気づけなかったこと」への残念さはレニに限ったことではないのは全くそのとおり。
レニだけに残念さをもっているのでもありません。
現実の中にレニも入っているので、レニを切り離してはいませんが、レニを主体に書いたので、『レニならば』と強調したのは、過剰な思い入れだというのはよく分かっています。


「レニ」という鏡(5) 投稿者:園主  投稿日:10月24日(金)18時42分40秒


 AOIさま(つづき)

> 『アフリカへの想い』というドキュメンタリー(監督レイ・ミュラー)

> これはレニ・リーフェンシュタールがヌバへの長年の想いをもって、98歳でスーダンを再訪した時のものです。

> 彼女がヌバに魅かれたのは独自の美意識でした。それは『オリエンタリズム』の域を抜け出ないものだったでしょう。けれども、生活を共にすることによって、祖国では魔女として排除される自分をあるがままに受け入れ、何ものをも持たず土と共に生きるヌバから学んだことは多かったのではないかと思います。

ここで問題となるのは、『あるがまま(の自分)』とは、レニ本人にとっての都合の良い、「過去の彼女」を切り捨てた(隠蔽した)、「今(だけ)の自分」でしかない、ということでございます。

言うまでもなく、人は「歴史」を生きる存在であり、「過去」を切り離した「今」だけの自分は、もはや同じ人物ではございません。つまり、ヌバに生きた彼女はレニ・リーフェンシュタールではないし、ヌバの人たちが接したのはレニ・リーフェンシュタールではない人間だということでございます。したがって、ヌバの人たちの接し方が、祖国ドイツの人たちと違うのは当然のこと。それを、「素朴なアフリカ人だから(偏見がないんだ)」と考えるのは、レニにせよ、AOIさまにせよ、間違いなく「オリエンタリズム」であり「差別 意識」の所以でございましょう。

言うまでもなく「オリエンタリズム」というものは、西欧人固有のものではなく、西欧化された日本人にもあるものなのでございます。

> 低空飛行をしていた帰路のヘリコプターは墜落し、奇跡的にひとりの死者もありませんでしたが肋骨を折ったレニは動けぬ ベッドで、インタヴューに応えて、最後の方で語っています。記憶のみで、意味としてはこんな感じだったでしょうか。
> (前略)
> レニ「ヒトラーに会ったことは今でもときどき夢にみます」
> レイ「今あったら、どうしますか?」
> レニ「今あったら、殺したい。殺すでしょう。それは母親が息子を殺すようなものです」
> レイ「思い残すことはありますか?」
> レニ「あります。第三帝国で仕事をしてしまったこと。悔やんでいます。犠牲になった人のことを思うとほんとうに」

> たぶん、今まで公には口にしないできたことをはじめて口にしたのではないでしょうか。
> カメラに向かってのポーズとは私には思えませんでした。

たしかに『ポーズ』ではなかったでしょう。だからこそ悲惨なのでございます。

彼女が、真に「悔いるべきことを悔いている」のであれば、彼女が殺したいと考えるのは、『ヒトラー』でも『第三帝国』でもなく、それらに「自己の行いの責任」まで転化しようとする「変らない(責任を引き受けない)彼女自身」のはずだからでございます。

なぜ、私がここまで頑に、レニに同情しないとお考えでしょうか? それは、我々自身が今この時にも、レニになりかねない「弱い」存在だからでございます。つまり、我々は彼女に同情するような、そんなご立派な立場にはないということなのでございます。レニ・リーフェンシュタールへの同情とは、我々の現在おかれている位 置に対する認識の甘さであり無自覚であると、そう思うからなのでございます。

>>> 野坂如之原作・高畑勲監督『火垂るの墓』
>>> プロローグで、駅舎の柱に凭れて清太が糞尿まみれで死に絶え

>> プロローグの方はすっかり失念しておりました。

> 『ウロボロスの基礎論』田中氏糞尿死って、何か関係が?(笑)

もちろんでございます。つまり、現実の世界では、罪もない多く子供たちが(その才能を発揮する機会も与えられず)汚辱にまみれた死を強いられ、そんな子供たちに加勢する者もまた、同じ運命をたどらねばならない場合が多い、ということでございます。

リアリスト高畑勲の「予言」は、アフガニスタンでもイラクでも、みごとに適中しているではございませんか。


 影姫さま
> 『NUBA』(カバ・帯・初版)持ってますよ。( ̄ー ̄)・・・

> と言われても、その本はぜんぜん知りません。(<ホランドくん)

私も存じ上げません。どうぞご説明下さいまし。


 ホランド
「巨大グモ」に殺されるよりも理不尽だったりするのが、人間世界の現実だ。映画では、モンスターは退治されるが、現実のモンスターは権力者となってのうのうと生き残り、自己正当化をし、言い訳の機会を与えられ、時に尊敬され、同情され、チヤホヤされて、大往生を遂げていく。……これは、否定できない歴史的事実だろう。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「レニ」という鏡(4) 投稿者:園主  投稿日:10月24日(金)18時41分32秒


 AOIさま(つづき)

> レニは

>>『人間の生の尊厳』と「当たり前の責任意識」について、「愚鈍な人間」

> でした。犯してしまった過ちをどのように抗弁しても責任があります。

そのとおりでございます。AOIさまや私が、個人的に同情して済む問題ではないのでございます。

> レニの美に対するこだわりが非凡だったから可能性を見たと言うのはちょっと違います。
> 美に対するこだわりに見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもちあわせていれば過ちを犯すことはなかった。『意志の勝利』『オリンピア』を創ることもなかった。
> 非凡であったことがレニの不幸にも、ドイツの不幸にもなった。
> そういう意味で彼女は特別な存在でもあり、魔女として差別されます。
> 彼女が美に対して非凡でなかったら特別な存在になることも、魔女と差別 されることもなかった。

レニが『差別』されたというのは、レニ個人の立場に立った、客観性のない「一方的な評価」でございましょう。

また、「才能が彼女を不幸にした」……これも間違いでございます。

「才能」があっても、それを発揮しなければ、それが切っ掛けで『差別』されることも「不幸」になることもございませんでした。彼女は、自身の才能を、自ら望んで発揮した。その結果 、不幸になったのでございますから、その結果は自身で引き受けざるを得ないのでございます。

例えば、AOIさまに「社会的な問題意識」や「他人に対する同情心」といったもの(一種の才能)が欠片もなかったら、AOIさまはここでこのように批判されることもございませんでした。しかし、この「批判」を『差別 』と呼び、「不幸」と呼ぶのなら、その『差別』や「不幸」は、AOIさまが自ら選んだ行動によって、つまり自らが責任を担って選んだ行動によって、因果 応報にもたらされたものなのでございます。何もしなかったのに、『差別』されたり「批判」されたというわけではないのでございますよ。

ですから、「才能が彼女を不幸にした」というのは間違いでございます。正確には「彼女自身が彼女を不幸にした」……ただそれだけのことであり、「他人」の責任ではないのでございます。

> 彼女が美に対するこだわりと同じくらいに生への鋭敏さ、感受性とを働かせていてくれていたらと願い「レニならば」というのは差別 ですか?
> 彼女が芸術家だから生にたいする鋭敏さと感受性と働かせてほしかったというのではありません。過ちを犯したレニ個人、ナチ同調者としてのレニに対して、この映画を見た観客である私がシンパシーを感じたから願ったのです。

すでに説明済みでございます。ご自身の発した、

> ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。

という断言(『ちがいない』)の重みを噛み締めていただきたいと存じます。

そして『ドイツ人の多く』になりかわって言わせていただきますならば、「レニ・リーフェンシュタールが気づく程度のことならば、多くのドイツ人も気づいていたにちがいない」ということでございます。

> もちろん、私の中に差別感と言えるものが一切ないとはいえません。

なぜ、このような「当たり前のこと」を言わなければならないのかをお考え下さいまし。

これは「今ここ」で問題になっている「差別意識」から、話を逸らそうとするものにほかなりません。私は「一般 論」をお話しているのではなく、貴女さまの「今ここ」での発言に現れた「差別 意識」を問題にしているのでございます。

> でも、レニが芸術家だから期待したのではなく、他の人でも、同じように期待をするのです。

そう主張するのは可能ですが、それを貴女さまの発言が、現に裏切っていたことが問題なのでございますよ。

「現実の政治においては、これくらいの公約違反は問題ではない」と言った人間が、後で「私は嘘をつかない」と本気で断言しても、そんな断言には何の意味もないのと同じことなのでございます。





( 以下は「「レニ」という鏡(5)」につづく)


「レニ」という鏡(3) 投稿者:園主  投稿日:10月24日(金)18時40分33秒


 AOIさま(つづき)

> 「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても」というのは歴史上の事実です。
> 「レニならば気づいたにちがいないのだから」は話者としての私の仮定、願望です。

そのとおりでございます。レニが、『ドイツ人の多く』と同様に、ナチに加担したのも『歴史上の事実』でございます。そうして貴女さまは、レニだけを「特別 扱い」にし、同じことをしたその他の『ドイツ人の多く』を「その他扱い」にし「継子扱い」にしたのでございます。それが「差別 」でございます。

> そうですね。誰だって美に対するこだわりを持っています。
> そして、美に対するこだわりが生への鋭敏さ感受性と必ずしもリンクしないのも事実です。
> でも、その非凡さをを間違ったことに使ってほしくなかった。

『非凡さ』であろうと「平凡さ」であろうと、それを『間違ったことに使ってほしく』ないというのは当たり前のことでございます。
つまり、貴女さまは「同じ過ち」を犯した人間に対し、片方が「芸術的感性において非凡であった」という事実をして、その片方だけに同情しているのでございます。その『非凡さ』が「間違いを犯すこと」とは何も関係もないというのに。……ご自分が、同情されなかった方の立場に立って、考えてご覧なさいまし。そんな理不尽が納得できますでしょうか?

> よしんば、レニの美に対するこだわりに見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、レニならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。
> 彼女が生の尊厳への鋭敏さや感受性が凡庸でありながら、『美に対するこだわり』が非凡であったからこそレニに同情したのです。

「よしんば、彼がその美しい容貌に見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

「よしんば、彼がその育ちに見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

「よしんば、彼がその社会的地位に見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

「よしんば、彼がその教養に見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

「よしんば、彼がその財産に見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

「よしんば、彼がその身長に見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

「よしんば、彼がその体重に見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、彼ならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。」

すべて同じことでございます。完全に「無根拠な個人的同情」の「筋違いの引き立て役」にされるのは、傍迷惑というものでございましょう。
「天皇陛下は育ちが良い」と言うのは勝手でございます。しかし、「アレクセイに比べたら、天皇陛下は育ちが良い」と言ったら、私は当然「貴女は何を根拠に、私の『育ち』というものを云々するのか?」と問うことでございましょう。





( 以下は「「レニ」という鏡(4)」につづく)


「レニ」という鏡(2) 投稿者:園主  投稿日:10月24日(金)18時39分21秒


 AOIさま
> ホランドさまのご忠告もあるし送信しないでおこうと思ったんだけど、因果 なのよね(笑)

『因果』には『応報』ということになりましょうか?(笑)

>> 私はこういう「想像」こそ、他人事的だと存じます。たしかに当時のドイツ人には『忌まわしい強制収容所』の歴史体験はございませんでしたが、当時は当時でそれなりに「大戦における大量 死」体験や、「差別」の体験は持っているのでございます。
>> つまり、AOIさまがお考えになるほど、当時のドイツ人は、今のドイツ人と比較しても、決して「無知」ではなかった、ということなのでございます。

> 確かに数字ほど当てにならないものはありませんね。
> 90%という数字をあげたのは軽率でした。
> 北朝鮮にしても100%体制を支持しているなんて到底思えないですものね。

私の申し上げたいのは、数字の問題ではございません。例えば「気づかなかった」という意見の中味を、もっと問わなければならない。つまり、もっとその「内実」を見極めなければならない、ということなのでございます。

> 言いたかったことは、一人の人の中でも、『意志の勝利』を見たときに感ずる鉤十字から連想するものは当時と戦争体験のあと(自身の体験か聞いたかの如何に関わらず)ではおのずと違うだろうと言うことだったのですが、個々の意識の生への鋭敏さや感受性はどのように形成されるものなのでしょうか?
> 「生への鋭敏さ感受性が必要だ!」といくら叫んでみても形成されるものではないですね。個々の意識の中にある、あるいは眠っている意識を目覚めさせるには。

当然、全員に当て嵌まるような答はございませんし、もしかすると、そんなもの(解決法としての答)は存在しないのかも知れません。つまり歴史に学ぶ人は、放っておいても学ぶし、学ばない人は傍の者が何をどのようにしても学ばないという可能性も、大いにあるのでございます。しかし、それが現実だとしても、放っておくわけにはいかないと思える者が、こうして徒労を覚悟で声をあげ、批判を続けるのでございましょう。

>>>> しかし、やはりレニに責任があったというべきだ。レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。

>> 「美」に対して鋭敏な「芸術家」なら『人間の生の尊厳』についても鋭敏でありえたはずだ、などというのは、「芸術家」たりえない「一般 人」が『人間の生の尊厳』にも、相対的に愚鈍であっても仕方がない(むべなるかな)と言っているも同然なのでございます。

> 言っているも同然ではないと思います。

>> 「美」に対して鋭敏な「芸術家」なら『人間の生の尊厳』についても鋭敏でありえたはずだ、

> ではなく、

>> 美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、

> です。そうでないことが残念なのです。

いいえ、違います。私は、貴女さまの「つもり」を問題にしているのではございません。貴女さまが「現実に何を言ったか」を問題にしているのでございます。

ですから、私は貴女さまのおっしゃった『ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいない』の『ならば』という限定句について、何度も強調しているのでございます。

貴女さまのおっしゃっていることは、レニが「ナチスに協力したつもりはなかった」と言っているのと、まったく同質の「言い訳」でございましょう。
「ナチスの悪に気づけなかったこと」への残念さは、何もレニ対してのものと限ったことではなく、言わば「自明の前提」なのでございますよ。貴女さまは、レニに同情したあまり、全体感を見失い、レニを『ドイツ人の多く』から切り離す一方、『ドイツ人の多く』をレニの「背景」扱いにしてしまったのでございます。





( 以下は「「レニ」という鏡(3)」につづく)


「レニ」という鏡(1) 投稿者:園主  投稿日:10月24日(金)18時38分10秒

みなさま、すでにホランドくんがご報告いたしましたとおり、昨日は当家にて「ビデオ上映会」を行ない、前々から観たいと思っていた3本を鑑賞いたしました。ホランドくん風に点数をつけますと、『スパイダー・パニック』が90点、『マトリックス・リローデッド』が80点、『アフリクション 白い刻印』が65点といったところでございましょうか。『スパイダー・パニック』と『マトリックス・リローデッド』が、それぞれにほぼ期待どおりの出来で、『アフリクション 白い刻印』は残念ながら期待外れでございました。また『アフリクション 白い刻印』では、ひさびさに常識人を演じたウィレム・デフォーでございましたが、登場シーンはすくなく、姿を見せたのはせいぜい10分間くらいでございました。


さて、話は変りますが、先日の産経新聞に、東京都の教育委員会が、「日の丸・君が代」の徹底に関してさらに詳細な規定を定め、これに従わない教員は「懲戒処分」の対象にするという方針を打ち出した、との記事がございました。さる8月10日、東京都国立市では、「日の丸・君が代」に絡んで小学校の教員17名の懲戒処分が決定されており、今回の動きは、この処分をバックアップし、「日の丸・君が代」強制の流れを一気に押し進めるためになされたものとも思われます。

ともあれ、さすがは軍国政治家 石原慎太郎知事が治める「日本の都」だと申せましょう。たしか「日の丸・君が代」を「国旗・国家」として法制化する段階では、「強制はしない」という約束だったはずでございますが、「既成事実を重ねてゆき、建て前をなし崩しにしていく」というのは、右翼政治の典型的なパターンだと申せましょう。

先日より、AOIさまとの議論で、先の大戦時におけるナチスの台頭と「ドイツ国民の無関心(無自覚)の実際」ということが問題となっておりますが、今回の東京の問題に何の危機感も感じないとしたら、その方はナチスの台頭に鈍感だった、かつてのドイツ国民を笑う権利など、どこにもないものと存じます。
まあ、そうしたみなさまのためにも、次の「戦後」は「(国の右傾化=戦時体制化)気がつかなかった」と言い訳をしないでいいように、・・・せいぜい汚い戦争に勝つことを祈らせていただきたいと存じます。





( 以下は「「レニ」という鏡(2)」につづく)


キネマの夜(下) 投稿者:ホランド  投稿日:10月24日(金)14時12分28秒

 AOIさま(つづき)

> ますます送信できなくなっちゃいそう。(^_^;)とか言いながら因果だから送信しちゃう(爆)。

 仕方ないですよ。でも、それにつき合うのが、ボクらの友情の証でもあるんですから(笑)。

>> って文章には、園主さまのAOIさまへの「愛」を感じるなあー。・・・お蝶夫人の岡ひろみへの「愛」(笑)。

> お蝶夫人も岡ひろみも知らないの。
> ビシッ!バシッ!鞭が飛ぶ!?(あ〜〜れ〜)

 力石徹の矢吹丈への「友情」って言ってもいいかな。つまり、自分を追ってくる者に対しては、全力でこれに応じ、決して手抜きをして喜ばせたりはしないということ。全力で対決することが、相手への「愛と友情と信頼」の証だという態度です。・・・古風ですよねえー(笑)。


 影姫さま
> 『NUBA』(カバ・帯・初版)持ってますよ。( ̄ー ̄)・・・

と言われても、その本はぜんぜん知りません。説明が無いということは、それはAOIさまが、

> 先日、レイトショウで、『アフリカへの想い』というドキュメンタリー(監督レイ・ミュラー)を観てきました。
> これはレニ・リーフェンシュタールがヌバへの長年の想いをもって、98歳でスーダンを再訪した時のものです。

とお書きになられている『ヌバ』に関する本なのでしょうか?


 園主さま
 昨日はごくろうさまでした。
 これで『マトリックス・レボリューションズ』も観られるし、この秋は「映画の秋」になりそうですね。『キル・ビル』は明日が封切りです。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


キネマの夜(中) 投稿者:ホランド  投稿日:10月24日(金)14時11分26秒

 『アフリクション 白い刻印』(監督ポール・シュナイダー)は、酒浸りの粗野な老父をジェームズ・コバーン、その長男で本編の主人公をニック・ノルティー、映画の語り手となるその弟がウィレム・デフォーという、それらしくかつ魅力的な配役(みんな、面 長で、はんぶん悪党面の個性派/笑)。監督は良く知らない人だけど、配役だけで嫌が上にも期待してしまう映画です。園主さまによると、この映画の原作は、ラッセル・バンクスの『狩猟期』(早川書房)という小説で、園主さまがお好きな高村 薫さんが「好きな小説」として何度もその名を挙げていた作品だそうです。
 結果から言うと、これだけの配役にもかかわらず話題にならなかっただけのことはあって、悪い作品ではないんですが、ぱっとしない作品という感じ。主人公は、どうしようもない父親に「いくじなしめ」と罵られながら成長した男で、現在は妻とも離婚し、最愛の娘にも嫌われ、親権も別 れた妻に取られています。町の権力者に取り入って警官をするかたわら、便利屋のようにこきつかわれて、町の人たちからも内心バカにされている中年男。その憂さを、現在は町を出て、大学教授をしている弟への深夜の電話でまぎらわせているんですが、町の有力者の狩猟中の事故死を謀殺ではないかと疑ったことから、男をめぐる情況が動きだし、最後はすべてを失った男が、殺人を犯して失踪するところで終る物語です。つまり、うまくいかない日常に鬱屈した男が、だんだんと追い込まれていき、最後には破綻してしまう姿を描いた作品なんですが、全体に単調で型通 り、切れ味に欠けるという印象なんですね。以前、読んだ高村 薫さんの『照柿』を連想させる作品で、なるほどこの映画の原作なら高村さんが好きそうだとは思いましたが、映画としては、そのあたりの描写 にイマイチ成功していなかったと思います。面白い配役だっただけに、ちょっと残念な作品でした。





 AOIさま
> ビデオ上映会はいかがでした?

 感想は前記のとおりです。『マトリックス』に関しては、最終的には完結編を観てからでないと評価できませんけどね。

> 「マトリックス・リローテッド」はだいぶ前に観ましたよ。(以下ネタばれ)
> 空間移動、格闘シーンなど、やはり前作どうよう日本アニメの影響が強いのでは?
> 「ドラゴンボール!」(鳥山明著)と思いましたよ。そういえば、ハリウッドで映画化されるとか。ドラゴンボール!!

 それは間違いないと思います。監督兄弟の片方は、そうとうな日本アニメオタクだそうですから、当然『ドラゴンボール!』も観ているはずです。
 作品世界は、園主さまが今お読みになられているウイリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に始まるサイバーパンクSFそのままなんですが、そちらからの直接的な影響ではなく、アメリカでも大評判になった押井守監督の『ゴースト・イン・ザ・シェル 甲殻機動隊』を介しての影響である可能性も十分に考えられます。
 また、「予言者」への案内人(護衛係)である中国人風男性とカンフーアクションをくりひろげる際、ネオが「かかってきなさい」という手招きのポーズするんですが、たしかこれは、かつてブルース・リーがやったものだと思います。つまり、この映画も、今度観る予定の『キル・ビル』同様、オタクがつくった「引用映画」という側面 があると思いますよ。

> 印象に残っている箇所はトリニティーがエージェント・スミスに撃たれて失墜していくスローモーション。夢の中でこの失楽感もとい失落感をよく経験するんです。キャリー=アン・モスの虚空を見つめている表情がいいですね。体感しているのでこの感覚すごく分かるわ。

 このシーンは、エージェント・スミスじゃなかったように思いますよ。
 たしかに「夢」の感じは、よく出てましたね。

 ちなみに噂の「100人(?)のスミス」との格闘シーンは、
  (1)よく似た体格の俳優に、スミスのメイクをして撮ったカット
  (2)合成して人数を増やしたカット
  (3)完全CGによる多人数アクションのカット
を組み合わせたものでしたね。
 (1)は、手前に本物の役者さんがいて、その向うで増殖スミスが走っているようなカット。(2)は、格闘が終った後、スミスが歩いて去っていくような、動きのおとなしい誤魔化しきかないカット。(3)は、ネオと大勢のスミスが派手にたちまわる、人間では不可能な派手な動きをするカットです。
 つまり、アップもふくめて、ぜんぶCGで再現したというわけではなかったようですね。また、このシーンの舞台の作り物っぽさは、完全CGカットを考慮してのものだったと思います。





( 以下は「キネマの夜(下)」につづく)


キネマの夜(上) 投稿者:ホランド  投稿日:10月24日(金)14時10分07秒

 みなさん、こんにちは! 昨日ご報告しましたとおり、昨夜は園主さまのお屋敷(笑)で開催された「ビデオ・DVD上映会」に行ってきました。上映作品は、今回メインの『マトリックス・リローデッド』のほかに、『スパイダー・パニック』と『アフリクション 白い刻印』の、全3本。

 『マトリックス・リローデッド』は、この11月5日から公開される三部作完結編『マトリックス・レボリューションズ』を観るために観た、三部作の2作目。全体としては、完結編へのつなぎという印象のぬ ぐいきれない作品でした。お話としてとして面白かったのは、救世主が現れて人間を機械から救済するという「予言」も、じつはあらかじめ「マトリックス」世界のプログラムの一部に組み込まれていたものだった、という設定ですね。つまり今までにも何人かのネオのような救世主が現れたんですが、現実に目覚めた者たちの国ザイオンを、結局は救えなかったという歴史がくりかえされてきた(つまり、これまでにもザイオンは何度も滅ぼされている)、という事実が明かされるところです。それだけに、作品世界は当初の楽観的な雰囲気を否定されて緊張感に満ちてくるわけですが、さてネオはこのプログラムをどのようにして乗り越え、真の(革命的な)救済者たりえるのか、というのが完結編でのお楽しみというわけです。

 『スパイダー・パニック』は、園主さまが前々から観たいとおっしゃっていた「モンスターパニックもの」。要するに、たくさんの巨大化した蜘蛛(CG)が襲ってくるというだけのお話。
 で、感心したのが、作っている方も、それだけを面白く見せればいいんだと割り切って作っているところなんですね。例えば、映画の冒頭は、早朝の田舎道をドラム缶 を積んだトラックだ走っていて、運転手が半分居眠り運転をしてるんです。で、急に飛び出した野うさぎを避けようとしてハンドルを切った拍子にトラックが横転して、ドラム缶 の一つが近くの沼に落ちてしまう。それから一週間後、村はずれで蜘蛛を育て、それを商っている変人の男が、その沼のそばで、いつもどおり蜘蛛の餌になるコオロギのような虫を採取するんですが、それを与えた蜘蛛がどんどん大きくなりはじめるんです。これで金儲けができるぞと喜んでいた男は、逃げ出した蜘蛛にさされてあえなく急死。男のところから逃げ出したたくさんの蜘蛛はさらに巨大化して、町を襲いはじめる、という展開です。・・・で、面 白いのが、最初のドラム缶に入ってた薬品について、何の説明もないところなんです。ただ単に「薬の影響で巨大化した」というだけで、それ以上の説明などしようとしない。これは、この種の映画を観る人は、そんな説明なんか求めてはいないということを、作り手の方も承知している証拠なんですよね。下手にリアリティーなんか持たせようとはしないで、「怪物もの」としていかに面 白く見せるかしか考えていないから、内容はゼロだけど、ひとまず観てて楽しいんです。ポップコーンを食べながら観る娯楽映画ってコレなんだなと感心しました。
 ちなみに園主さまによると、この映画はアメリカ版『ゴジラ』を撮ったスタッフの作品で、なまじ真面 目に怪獣映画を撮った結果、ゴジラファンから不評を買ってしまったので、この映画では原点にかえって面 白い映画をめざしたという話です。そして、どうやらその狙いは外さなかったようですね。





( 以下は「キネマの夜(中)」につづく)


全裸緊縛!!麗子22歳奴隷洗礼の儀式 投稿者:影姫  投稿日:10月24日(金)06時54分14秒

『NUBA』(カバ・帯・初版)持ってますよ。( ̄ー ̄)・・・

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


フィルム(下) 投稿者:AOI   投稿日:10月24日(金)01時57分52秒

(園主さまつづき)

>つまり、AOIさまがレニに可能性を見たのは、単に彼女が『美に対するこだわり』を持っていたからではなく、彼女の『美に対するこだわり』が「非凡=人並み以上」な「芸術家」だったからなのでございます。

>ですから、AOIさまのレニに対する期待は「特別」なものとして『ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。』という明らかに「特別 扱い=差別」の評価となってしまったのでございます。

レニの美に対するこだわりが非凡だったから可能性を見たと言うのはちょっと違います。
美に対するこだわりに見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもちあわせていれば過ちを犯すことはなかった。『意志の勝利』『オリンピア』を創ることもなかった。
非凡であったことがレニの不幸にも、ドイツの不幸にもなった。
そういう意味で彼女は特別な存在でもあり、魔女として差別されます。
彼女が美に対して非凡でなかったら特別な存在になることも、魔女と差別されることもなかった。
彼女が美に対するこだわりと同じくらいに生への鋭敏さ、感受性とを働かせていてくれていたらと願い「レニならば」というのは差別 ですか?
彼女が芸術家だから生にたいする鋭敏さと感受性と働かせてほしかったというのではありません。過ちを犯したレニ個人、ナチ同調者としてのレニに対して、この映画を見た観客である私がシンパシーを感じたから願ったのです。

もちろん、私の中に差別感と言えるものが一切ないとはいえません。
でも、レニが芸術家だから期待したのではなく、他の人でも、同じように期待をするのです。

先日、レイトショウで、『アフリカへの想い』というドキュメンタリー(監督レイ・ミュラー)を観てきました。

これはレニ・リーフェンシュタールがヌバへの長年の想いをもって、98歳でスーダンを再訪した時のものです。
60歳で何度かヌバをおとづれて以来、スーダンでは紛争が絶えず、ヌバの住む地域も虐殺などによる多くの犠牲をだした危険地帯でした。ヌバの世界的な紹介によって、レニに
恩恵を感じているスーダン政府による護衛団のついたものです。
この映画からも彼女のわがままぶりがうかがわれます(笑)。

30年以上の時の経過と紛争によりヌバはすっかり変わっていました。ヌバは住むところを奪われ、イスラム教に改宗され、服を着て、靴を履いていました。都会に住むヌバはボロをまとい、観光客に格闘を披露して何がしかのお金を手に入れています。かつて生活していた地域には行けず、多くのかつての友人が虐殺によって死んだことを知りました。
彼女がヌバに魅かれたのは独自の美意識でした。それは『オリエンタリズム』の域を抜け出ないものだったでしょう。けれども、生活を共にすることによって、祖国では魔女として排除される自分をあるがままに受け入れ、何ものをも持たず土と共に生きるヌバから学んだことは多かったのではないかと思います。
変わってしまったヌバに彼女は満足出来なかったと思います。
低空飛行をしていた帰路のヘリコプターは墜落し、奇跡的にひとりの死者もありませんでしたが肋骨を折ったレニは動けぬ ベッドで、インタヴューに応えて、最後の方で語っています。記憶のみで、意味としてはこんな感じだったでしょうか。
(前略)
レニ「ヒトラーに会ったことは今でもときどき夢にみます」
レイ「今あったら、どうしますか?」
レニ「今あったら、殺したい。殺すでしょう。それは母親が息子を殺すようなものです」
レイ「思い残すことはありますか?」
レニ「あります。第三帝国で仕事をしてしまったこと。悔やんでいます。犠牲になっ
た人のことを思うとほんとうに」

たぶん、今まで公には口にしないできたことをはじめて口にしたのではないでしょうか。
カメラに向かってのポーズとは私には思えませんでした。


フィルム(中) 投稿者:AOI  投稿日:10月24日(金)01時42分53秒

(園主さまつづき)

>>> このおっしゃり方も問題がございます。つまり『レニならば』気づいたにちがいないという言い方は、芸術家に対する「贔屓の引き倒し」的「逆差別 」だと申せましょう。現に、「美」に対して鋭い感性をもっていたはずのレニ・リーフェンシュタールは、『人間の生の尊厳』と「当たり前の責任意識」について、「愚鈍な人間」でございました。

>> これについてはレニを『芸術家』としてみて書いたものではなく、ひとりのドイツ人レニとして書いたものです。一人の人間として美に対するこだわりをもつのならば、人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを同じように働かせてほしかった。
出来ないはずはなかったと言いたかったのです。
過大な期待というべきですか。差別ではないと思います。

>> 芸術家と一般人ということでいったものではありません。
>> 『ドイツ人の多く』とは反対しなかった人です。そのなかには、とうぜん芸術家も含まれます。芸術家もいるし、文学者もいるし、教師もいるし、運転手もいるし、八百屋もいるし、政治家もいるし、女もいるし、男もいるという意味で、『ドイツ人の多く』といったのですよ。
> >表現として誤解されるかもとは思ってはいたんだけど。

>そのようには読めません。レニと対比的に語られた『ドイツ人の多く』が、おっしゃるとおり『反対しなかった人』のことを指すのであれば、レニはまさにその中に一人に過ぎず、その場合『ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。』と対比的に語ることは不可能だからでございます。

「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても」というのは歴史上の事実です。
「レニならば気づいたにちがいないのだから」は話者としての私の仮定、願望です。

>つまり、レニが「特別な人」ではなかったとおっしゃるのなら、「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしたら、レニもヒトラーを指導者とみなしたとしても仕方がない。」となるか「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなさなかったとしたら、レニもヒトラーを指導者とみなさなかったであろう。」ということにしかならないのでございます。『レニならば』と「限定句」を付けておいて、特別 扱い指定なかったとおっしゃっても、それは無理というものでございます。

>ちなみにAOIさまは『レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら』と、レニに可能性を見い出した根拠として、その『美に対するこだわり』を上げておられますが、言うまでもなく誰だって皆『美に対するこだわり』は持っているのでございますよ。ただ、それがレニのレベルには、遠く及ばないだけの話で。

そうですね。誰だって美に対するこだわりを持っています。
そして、美に対するこだわりが生への鋭敏さ感受性と必ずしもリンクしないのも事実です。
でも、その非凡さをを間違ったことに使ってほしくなかった。
よしんば、レニの美に対するこだわりに見合うだけの生への鋭敏さと感受性とをもっていたなら、レニならばドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしてもその危険性に気づき、反対のための意思的な執拗なまでの行動をとったのではないか。そう思えたのです。
彼女が生の尊厳への鋭敏さや感受性が凡庸でありながら、『美に対するこだわり』が非凡であったからこそレニに同情したのです。

レニは
>『人間の生の尊厳』と「当たり前の責任意識」について、「愚鈍な人間」

でした。犯してしまった過ちをどのように抗弁しても責任があります。



フィルム(上) 投稿者:AOI   投稿日:10月24日(金)01時33分19秒

水曜日半額デーだったので、ビデオショップに『オリンピア』を探しに行きました。やっぱり、なーい。でも『レニ』は置いてありました。ビデオになっていますので、よかったら探してみてくださいね。3時間。ちょっと長いですけれど、見る価値はあると思います。>みなさま

☆園主さま

ホランドさまのご忠告もあるし送信しないでおこうと思ったんだけど、因果 なのよね(笑)

>> 過ぎ去った過去を巻き戻してみるからこそ、私たちは、鍵十字から、忌まわしい強制収容所を連想し、嫌悪しますが、ナチ台頭のころの90%のドイツ人にとっては、そういう感覚ではなかったわけですね。

>私はこういう「想像」こそ、他人事的だと存じます。たしかに当時のドイツ人には『忌まわしい強制収容所』の歴史体験はございませんでしたが、当時は当時でそれなりに「大戦における大量 死」体験や、「差別」の体験は持っているのでございます。
つまり、AOIさまがお考えになるほど、当時のドイツ人は、今のドイツ人と比較しても、決して「無知」ではなかった、ということなのでございます。

確かに数字ほど当てにならないものはありませんね。
90%という数字をあげたのは軽率でした。
北朝鮮にしても100%体制を支持しているなんて到底思えないですものね。

>「当時のドイツ人は、『忌まわしい強制収容所』が持たないから、ナチス運動の行く末にたいして鈍感だったのだろう」という理解は、後世に生きるものの「傲慢」だと申せましょう。問題は、ここでも「時代」ではございません。個々の意識だったのでございます。

言いたかったことは、一人の人の中でも、『意志の勝利』を見たときに感ずる鉤十字から連想するものは当時と戦争体験のあと(自身の体験か聞いたかの如何に関わらず)ではおのずと違うだろうと言うことだったのですが、個々の意識の生への鋭敏さや感受性はどのように形成されるものなのでしょうか?
「生への鋭敏さ感受性が必要だ!」といくら叫んでみても形成されるものではないですね。個々の意識の中にある、あるいは眠っている意識を目覚めさせるには。

>>> しかし、やはりレニに責任があったというべきだ。レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。

>「美」に対して鋭敏な「芸術家」なら『人間の生の尊厳』についても鋭敏でありえたはずだ、などというのは、「芸術家」たりえない「一般 人」が『人間の生の尊厳』にも、相対的に愚鈍であっても仕方がない(むべなるかな)と言っているも同然なのでございます。

言っているも同然ではないと思います。
>「美」に対して鋭敏な「芸術家」なら『人間の生の尊厳』についても鋭敏でありえたはずだ、

ではなく、
>美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、

です。そうでないことが残念なのです。


因果のはて 投稿者:AOI   投稿日:10月24日(金)01時08分05秒

☆ホランドさま

ビデオ上映会はいかがでした?
「マトリックス・リローテッド」はだいぶ前に観ましたよ。(以下ネタばれ)
空間移動、格闘シーンなど、やはり前作どうよう日本アニメの影響が強いのでは?
「ドラゴンボール!」(鳥山明著)と思いましたよ。そういえば、ハリウッドで映画化されるとか。ドラゴンボール!!

印象に残っている箇所はトリニティーがエージェント・スミスに撃たれて失墜していくスローモーション。夢の中でこの失楽感もとい失落感をよく経験するんです。キャリー=アン・モスの虚空を見つめている表情がいいですね。体感しているのでこの感覚すごく分かるわ。

>どうぞ、ボクへのレスの方はお気づかいなく。余裕のある時にじっくりと考えてから、ご意見をお聞かせ下さいね。つまり「早きが手際には非ず」ということで(笑)。

ますます送信できなくなっちゃいそう。(^_^;)とか言いながら因果だから送信しちゃう(爆)。

>って文章には、園主さまのAOIさまへの「愛」を感じるなあー。・・・お蝶夫人の岡ひろみへの「愛」(笑)。

お蝶夫人も岡ひろみも知らないの。
ビシッ!バシッ!鞭が飛ぶ!?(あ〜〜れ〜)

☆園主さま

> 野坂如之原作・高畑勲監督『火垂るの墓』
>>プロローグで、駅舎の柱に凭れて清太が糞尿まみれで死に絶え

>プロローグの方はすっかり失念しておりました。

『ウロボロスの基礎論』田中氏糞尿死って、何か関係が?(笑)


リローデッド 投稿者:ホランド  投稿日:10月23日(木)18時17分16秒

 みなさん、こんばんは! さっき園主さまから『マトリックス・リローデッド』のビデオが借りられたので、今夜、好例の「ビデオ・DVD上映会」を開催するという連絡が入りました。この書き込みを送信したら行ってまいります。
 『マトリックス・リローデッド』のほかにも2本あるそうですが、いまのところは内緒ですって(笑)。まあ、3本も名前を挙げたら、必ず1本は当てられると思うんですが、せっかくですから、開けてのお楽しみということにしておきたいと思います(^-^)。・・・ということで、映画の感想は、また後日報告させていただきます。





 AOIさま
> レスは、また、こんど(はーと)

 今度は『レニ』のことで、園主さまから厳しいツッコミを入れられてますね、ごくろうさま(笑)。

 どうぞ、ボクへのレスの方はお気づかいなく。余裕のある時にじっくりと考えてから、ご意見をお聞かせ下さいね。つまり「早きが手際には非ず」ということで(笑)。
 それにしても、

> 私が「普通の人」であったなら、私は「ユダヤ人」や「朝鮮人」などの弱者・少数者をみんなと一緒になって差別 し、政治に関心のない無党派でありながら「小泉は何かやってくれそうだ」などと言って小泉首相を支持し、戦争で子供たちが死ぬ のも止む無しと考え、笠井潔におべんちゃらを言って「探偵小説研究会」に潜り込み、解説の仕事などもらって提灯持ち原稿を書き、平和に暮したことでございましょう。……もちろん、AOIさまにも、もっと優しかったものと存じます(笑)。(< 園主さま)

って文章には、園主さまのAOIさまへの「愛」を感じるなあー。・・・お蝶夫人の岡ひろみへの「愛」(笑)。

 そう言えば、こないだジュースの自動販売機の商品に『お腸夫人』というのがあって、笑っちゃいました。きっとビフィズス菌とかがたくさん入っている「身体の内側からキレイになろう」系の胃腸に良い乳酸菌飲料なんでしょうけど、ボクは無用な教養のせいで、海野十三の「生きている腸」というグロテスクな小説を思い浮かべてしまいました(^-^;)。


 園主さま
 それでは、これからお邪魔いたしまーす!





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


生きて護国の鬼となる(5) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)21時46分09秒


 AOIさま(つづき)

ちなみにAOIさまは『レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら』と、レニに可能性を見い出した根拠として、その『美に対するこだわり』を上げておられますが、言うまでもなく誰だって皆『美に対するこだわり』は持っているのでございますよ。ただ、それがレニのレベルには、遠く及ばないだけの話で。
つまり、AOIさまがレニに可能性を見たのは、単に彼女が『美に対するこだわり』を持っていたからではなく、彼女の『美に対するこだわり』が「非凡=人並み以上」な「芸術家」だったからなのでございます。ですから、AOIさまのレニに対する期待は「特別 」なものとして『ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。』という明らかに「特別 扱い=差別」の評価となってしまったのでございます。

言うまでもなく、「差別」というのは、ほとんど自覚されないものなのでございます。「差別 」を指摘された多くの人は、たいてい「わかっていたよ。私は確信犯的に差別 したんだ」とは申しません。「そんなつもりはなかった」とか「あれは差別 とは言わないだろう」と抗弁するものなのでございます。

> 表現として誤解されるかもとは思ってはいたんだけど。

如上のようなわけで、私は『誤解』はしておりません。正しく解釈した結果 が、AOIさまの意に沿わなかっただけなのでございます。むしろ『誤解』は、AOIさまの内面 にあるのではございませんでしょうか。

> 鬼だー!!(いまさらながら)

私が「普通の人」であったなら、私は「ユダヤ人」や「朝鮮人」などの弱者・少数者をみんなと一緒になって差別 し、政治に関心のない無党派でありながら「小泉は何かやってくれそうだ」などと言って小泉首相を支持し、戦争で子供たちが死ぬ のも止む無しと考え、笠井潔におべんちゃらを言って「探偵小説研究会」に潜り込み、解説の仕事などもらって提灯持ち原稿を書き、平和に暮したことでございましょう。……もちろん、AOIさまにも、もっと優しかったものと存じます(笑)。

>>> この前こんなカウンターでした(笑)108801

>> ははは。これは左右対称というやつでございますね(^-^)。

> 読みがあさい(笑)『煩悩の多い日々』よ(笑)。108

なるほど。そういう意味でございましたか(笑)。


 ホランド
今日は雨だったので、ビデオ屋は覗かなかったよ。それでもやることには事欠かなくて、こんな時間になってしまったけどな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


生きて護国の鬼となる(4) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)21時44分43秒


 AOIさま(つづき)

>>「アーリア人の優秀性」という「プロパガンダ」に、ドイツの美術界がこぞって協力したのはよく知られたところで、レニ・リーフェンシュタールも、そういう差別 的でうさん臭い「優勢学的思想」に同調し、それに「加担」した一人であったことを忘れてはなりません。

> 『意志の勝利』『オリンピア』を断片でしか観てはいないので『「優勢学的思想」に同調』というのが今ひとつよく分かりません。白人の一般 的な優越感以上のものを持っていたということでしょうか?

もちろん、そうです。レニの美意識は、『白人の一般的な優越感』のレベルには止まらず、ナチスの「金髪碧眼で、たくましい肉体をもつ白人(の源流であるアーリア人)」という「思想」と共鳴しながら展開されたものだと申せましょう。

前回も「差別」の話として書きましたとおり、彼女がどのような「肉体」に理想をおくかは、もとより自由でございます。しかし、現に「ユダヤ人」が劣等民族として排斥されているなかで、その民族的身体特徴まで否定するような、特定の「優等民族の身体優秀性」を賞揚する運動に加担することは、現実問題として、民族差別 への加担以外の何ものでもないのでございますね。

> スーザン・ソンダクはアフリカのヌバ族の写真もファシズムだと言っているようですが。

ソンダクがどのような文脈でそう言ったのかは存じませんが、紋切り型の「アポロン的美」を抜け出られなかったレニならば、『アフリカのヌバ族』の裸体にたいする評価も、無自覚な、一種の「オリエンタリズム」だったのではないかと推測されます。「自己中心性」の強いレニは、どこまでも「西洋の眼」で評価するということを疑えなかったのではないでしょうか? つまり他者には「他者の目」があって、それは「自己の目」とは別 物なんだということがわからなかったのではないかと存じます。

>>> しかし、やはりレニに責任があったというべきだ。レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。

>> このおっしゃり方も問題がございます。つまり『レニならば』気づいたにちがいないという言い方は、芸術家に対する「贔屓の引き倒し」的「逆差別 」だと申せましょう。現に、「美」に対して鋭い感性をもっていたはずのレニ・リーフェンシュタールは、『人間の生の尊厳』と「当たり前の責任意識」について、「愚鈍な人間」でございました。

> これについてはレニを『芸術家』としてみて書いたものではなく、ひとりのドイツ人レニとして書いたものです。一人の人間として美に対するこだわりをもつのならば、人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを同じように働かせてほしかった。出来ないはずはなかったと言いたかったのです。
過大な期待というべきですか。差別ではないと思います。

> 芸術家と一般人ということでいったものではありません。
> 『ドイツ人の多く』とは反対しなかった人です。そのなかには、とうぜん芸術家も含まれます。芸術家もいるし、文学者もいるし、教師もいるし、運転手もいるし、八百屋もいるし、政治家もいるし、女もいるし、男もいるという意味で、『ドイツ人の多く』といったのですよ。
> 表現として誤解されるかもとは思ってはいたんだけど。

そのようには読めません。レニと対比的に語られた『ドイツ人の多く』が、おっしゃるとおり『反対しなかった人』のことを指すのであれば、レニはまさにその中に一人に過ぎず、その場合『ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。』と対比的に語ることは不可能だからでございます。
つまり、レニが「特別な人」ではなかったとおっしゃるのなら、「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしたら、レニもヒトラーを指導者とみなしたとしても仕方がない。」となるか「ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなさなかったとしたら、レニもヒトラーを指導者とみなさなかったであろう。」ということにしかならないのでございます。『レニならば』と「限定句」を付けておいて、特別 扱い指定なかったとおっしゃっても、それは無理というものでございます。





( 以下は「生きて護国の鬼となる(5)」につづく)


生きて護国の鬼となる(3) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)21時43分08秒


 AOIさま(つづき)

> ヒトラーの忠実な部下であり、プロパガンダ全国責任者だったゲッペルスの日記にレニがヒトラーとの会食に何度か同席していたことが書かれていますが、この日記自体がでたらめだとレニは主張しています。ゲッペルスはレニを「男なら階段から突き落としていた」と言っていたそうですが、どちらが真実なのかはわかりませんが、レニはひたすらナチとの関わりを否定したい。多くの犠牲者を出した忌まわしい事実を自分の責任と思いたくない。現実から目をそむけ、美を求めるという己の快楽で、本来人間としてもつべき生への感受性をないがしろにしてしまった。そして、未だに過去の自分の不十分さに固執している。そういう姿がとても哀れに思われたのですね。
> 犠牲となった人を思えば、そんなこといえるわけはないというのも十分承知の上で。
> そして、このことはとても教訓的でした。

ゲッペルスとレニの意見の対立は、所詮「水掛け論」でございましょう。しかし、レニが『拒否できなかった』と言ったとしても、現に小数ながら、ナチスに抵抗した人びとはいたわけで、彼女が『拒否できなかった』理由は、その当時として相対的に「恵まれていた地位 」を手放すことができなかったという程度のことではなかったのでしょうか? 必ずしも「断ったら生きていけなかった」というような話ではなかったはずでございます。『拒否できなかった』というのは、「ナチスの側の要求の厳しさ」ゆえとは限らず、彼女の「自己中心的な性格」からすれば、「彼女個人の都合」によって『拒否できなかった』ということも十分に考えられるものと存じます。
(例えば「法月綸太郎は、なぜ笠井潔の無理な要求を、毅然と断れないのか?」というのと同じでございます。言い訳が多い人の場合、大抵は、相手も相手だが、断れない本人も本人なのでございます)

> 過ぎ去った過去を巻き戻してみるからこそ、私たちは、鍵十字から、忌まわしい強制収容所を連想し、嫌悪しますが、ナチ台頭のころの90%のドイツ人にとっては、そういう感覚ではなかったわけですね。

私はこういう「想像」こそ、他人事的だと存じます。たしかに当時のドイツ人には『忌まわしい強制収容所』の歴史体験はございませんでしたが、当時は当時でそれなりに「大戦における大量 死」体験や、「差別」の体験は持っているのでございます。つまり、AOIさまがお考えになるほど、当時のドイツ人は、今のドイツ人と比較しても、決して「無知」ではなかった、ということなのでございます。

例えば我が国でも、先の大戦時の日本人は、「現人神」を信じ「特攻」をするような「前近代的な民族」の様相を呈しており、外国人からすれば、それ以前の大正や明治の日本人など、「近代文明」とは無縁の「野蛮人」だと想像されてもやむを得ないところでございましょう。しかし、実態は左に非ず。昭和前期の日本人よりも、大正・明治の日本人の方が、よほど開明的であり近代的であったというのが、歴史の現実なのでございます。

同様に「当時のドイツ人は、『忌まわしい強制収容所』が持たないから、ナチス運動の行く末にたいして鈍感だったのだろう」という理解は、後世に生きるものの「傲慢」だと申せましょう。問題は、ここでも「時代」ではございません。個々の意識だったのでございます。





( 以下は「生きて護国の鬼となる(4)」につづく)


生きて護国の鬼となる(2) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)21時40分46秒


 AOIさま
> 書き込みはレニに対して、ある種のシンパシー(同情)を感じて書いたものです。

それは承知しております。

> 『意志の勝利』『オリンピア』は映画の中の断片としてしか観ていないので、彼女の言い分に重点が置かれたものになっていたかもしれません。そういう意味で不十分だったかと思います。
> ただ、今でも、レニはプロパガンダとしてドイツではタブーであり、魔女といわれているようですが、彼女の犯したことは私たちにとっても決して無縁ではなく、レニをただ、忌まわしい存在として描いているのでないこのドキュメンタリーに共感を覚えました。
> つまり、ナチズムはじまりにその危険性に気づいたドイツ人はわずかだった。そのことは、ただ、レニを魔女として嫌悪して済む問題ではないというドイツの戦争犯罪についての冷静な反省が描かれているからです。

レニ・リーフェンシュタールその人や彼女の作品を、『タブー』として排斥するという態度が、反省として不十分なものであるのは論を待ちません。ですから、彼女を冷静に評価しようとした『レニ』という映画は、評価に値するものだと存じます。

しかし、その映画を見て、彼女に同情し、『冷静』ではない評価、つまり『同情(=感情)』的な評価をしてしまったのでは、元も子もございません。『同情』というのは、当然あってしかるべきものだとは存じますが、それを評価に絡めてはなりません。評価はあくまでも厳正になされるべきであり、『同情』とはその後に示されるか、あるいは個人的に示すべきものなのでございましょう。

> ナチズムはじまりにその危険性に気づいたドイツ人はわずかだった。

> ナチ台頭のころの90%のドイツ人にとっては、そういう感覚ではなかったわけですね。

私は、この「歴史認識」に疑問を覚えます。「それは本当か?」と。
なぜなら、『風呂』の譬えと同じく、「最初はわからなかった(=わからなくても仕方のないものだった)」という言い方は、第二次大戦を経験した多くの「平均的なドイツ人」にとって、非常に都合の良い「合意」にほかならないからでございます。

どの時期までを『はじまり』とか『台頭のころ』と呼ぶのかという問題がありますが、ナチスがユダヤ人排斥を打ち出し、不買運動をなどを始めたのは、絶滅収容所政策を開始した頃と比較すれば、「はじめの頃」と言うことが出来ましょう。つまり、後期の露骨な行為に比較すれば、たしかに初期の政策はまだしも「微温的」だったかも知れません。しかし、その段階でも、現実を直視する勇気を持っていたならば、決して気づき得ない「変化」ではなかったのではないか、と私はそう思うのでございます。

『風呂』の譬えと同じく、幸いまだその頃は「周囲のみんな」も沈黙していたものだから、後になって責任を問われだすと「だってあの頃は、大半の人間には気づきえないものだったよねー」「そうだよねー」などと口裏を合わせることができます。しかし、大半の人間が「気づいたという意思表示をしていなかった」ことと、彼らが「気づいていなかった」ということは、決して同じではないのでございますよ。

そういう意味で、私は、今の日本人の鈍感さを批判するのと同じレベルで、当時のドイツ国民全般 のこうした言い分を鵜呑みにする気はないのでございます。彼らのこうした言い分を鵜呑みにすることは、今の日本人の鈍感さを「仕方がない」と容認するも同然なのでございますからね。
身近な人間の鈍感さには腹が立つが、遠くの人間の鈍感さには寛容になれるというのは、一種の無自覚な「不公正」だと私は考えます。今の日本人を批判するのならば、当時のドイツ人の無自覚を容認するのは片手落ちというものでございましょう。





( 以下は「生きて護国の鬼となる(3)」につづく)


生きて護国の鬼となる(1) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)21時39分26秒

みなさま、本日はリンク集のページに、画家 佃 喜翔さまのサイト『gallery 喜翔ろまん館』を加えさせていただきました。

喜翔さまについては、一昨年だったか、大阪「ギャラリー アクシズ」での個展をご紹介したことがございますが、今回、『物語の表現』展記念パーティーで、思いがけず初めてお目文字賜ることが出来ました。
リンク集での紹介文にも『喜翔さんには2つの顔(作風)あり、サイトの中ではメインコンテンツであるギャラリーが「gallery 大正ろまん」と「gallery 幻想ろまん」の2つに分けられていることからも、そのことがうかがえます。簡単に言えば、前者が表看板の「綺麗で可愛くて乙女ちっく」な「大正ろまん」の世界、後者が「耽美とエロティシズム」に彩 られた「幻想ろまん」の世界だと言えましょう。』と書いたとおりで、もちろん私は後者に惹かれるのでございますが、ご本人は「gallery 幻想ろまん」のページのコメントとして『歌舞伎、泉鏡花、伊藤若冲、橘小夢、クラナッハ、仏画・・・・・の世界が好きです。少しあぶない感じに惹かれていますが、画家本人はそれほどの趣味人ではありません。』と書いておられるところが、人柄を忍ばせて微笑ましいと申せましょう(笑)。
なお、同ページに収められた10点のうち『双』と『清姫』は、「ギャラリー アクシズ」での個展の際に、私が購入して所蔵している作品でございます。本当ならば、この時展示されていた『葛の葉』か『弁天小僧菊之助』が欲しかったのでございますが、こちらはかなりの大作であり、それ相応に値も張りましたので、手が出せなかった作品なのでございます。今回、初めて拝見した『八百屋お七』にもたいへん惹かれましたが、残念ながらこちらは売却済み。ですから、いずれ近い将来は『葛の葉』か『弁天小僧菊之助』をと狙っているところでございます(笑)。





( 以下は「生きて護国の鬼となる(2)」につづく)


鬼だー!(下) 投稿者:AOI  投稿日:10月21日(火)15時10分36秒

(園主さまつづき)

>> しかし、やはりレニに責任があったというべきだ。レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。

>このおっしゃり方も問題がございます。つまり『レニならば』気づいたにちがいないという言い方は、芸術家に対する「贔屓の引き倒し」的「逆差別 」だと申せましょう。現に、「美」に対して鋭い感性をもっていたはずのレニ・リーフェンシュタールは、『人間の生の尊厳』と「当たり前の責任意識」について、「愚鈍な人間」でございました。

これについてはレニを『芸術家』としてみて書いたものではなく、ひとりのドイツ人レニとして書いたものです。一人の人間として美に対するこだわりをもつのならば、人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを同じように働かせてほしかった。出来ないはずはなかったと言いたかったのです。
過大な期待というべきですか。差別ではないと思います。

>つまり、あることに秀でた人間は、別のことにも鋭敏であるなどというのは、「一般 論」としてはまったく成立しない「俗論」に過ぎず、「美」に対して鋭敏な「芸術家」なら『人間の生の尊厳』についても鋭敏でありえたはずだ、などというのは、「芸術家」たりえない「一般 人」が『人間の生の尊厳』にも、相対的に愚鈍であっても仕方がない(むべなるかな)と言っているも同然なのでございます。事実AOIさまは『ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても』などいう差別 的比較をしてしまっているのでございますが、もとよりレニは、間違いなく最初から『ドイツ人の多く』に一人でしかなかったのでございます。

芸術家と一般人ということでいったものではありません。
『ドイツ人の多く』とは反対しなかった人です。そのなかには、とうぜん芸術家も含まれます。芸術家もいるし、文学者もいるし、教師もいるし、運転手もいるし、八百屋もいるし、政治家もいるし、女もいるし、男もいるという意味で、『ドイツ人の多く』といったのですよ。
表現として誤解されるかもとは思ってはいたんだけど。

>> この前こんなカウンターでした(笑)108801

>ははは。これは左右対称というやつでございますね(^-^)。


読みがあさい(笑)『煩悩の多い日々』よ(笑)。108


>だめ(笑)。・・・手拍子だけの方なら、世の中には掃いて捨てるほどいらっしゃ
いますからね(と、世間をチクリ/笑)。

>ボロボロになりながらも頑張るところが、素敵なのでございますよ。


鬼だー!!(いまさらながら)



☆ホランドさま


レスは、また、こんど(はーと)


鬼だー!(上) 投稿者:AOI  投稿日:10月21日(火)15時05分49秒

☆園主さま

>如上のような意味において、AOIさまが『レニ』から読み取った『レニの真実』は、再検討されるべきだと存じます。そして、そこに問題があったとすれば、それは『レニ』という「作品」に問題があったのか、「鑑賞者」としてのAOIさまにいたらなさがあったのか、そこを厳格に見極める必要がございましょう。

書き込みはレニに対して、ある種のシンパシー(同情)を感じて書いたものです。
『意志の勝利』『オリンピア』は映画の中の断片としてしか観ていないので、彼女の言い分に重点が置かれたものになっていたかもしれません。そういう意味で不十分だったかと思います。
ただ、今でも、レニはプロパガンダとしてドイツではタブーであり、魔女といわれているようですが、彼女の犯したことは私たちにとっても決して無縁ではなく、レニをただ、忌まわしい存在として描いているのでないこのドキュメンタリーに共感を覚えました。
つまり、ナチズムはじまりにその危険性に気づいたドイツ人はわずかだった。そのことは、ただ、レニを魔女として嫌悪して済む問題ではないというドイツの戦争犯罪についての冷静な反省が描かれているからです。
つまり、映画の意図自体は園主さまとどうよう

>レニが強制され、嫌々ながら撮ったというのならばともかく、その自由意志において、このような作品を撮ったのであれば、この作品にはヒトラーやナチスに肯定的な、彼女の「政治意識」がそのまま反映されたのであり、そうした意味でこの映画は立派に、ヒトラー・ナチスのプロパガンダ映画

とするものです。
レニは拒否できなかったと言っていますが。

> 作中、監督のレイ・ミュラーは何度もレニのナチとの関わり、責任についての質問をする。それに対してのレニの態度は頑なとも思えるものである。

ヒトラーの忠実な部下であり、プロパガンダ全国責任者だったゲッペルスの日記にレニがヒトラーとの会食に何度か同席していたことが書かれていますが、この日記自体がでたらめだとレニは主張しています。ゲッペルスはレニを「男なら階段から突き落としていた」と言っていたそうですが、どちらが真実なのかはわかりませんが、レニはひたすらナチとの関わりを否定したい。多くの犠牲者を出した忌まわしい事実を自分の責任と思いたくない。現実から目をそむけ、美を求めるという己の快楽で、本来人間としてもつべき生への感受性をないがしろにしてしまった。そして、未だに過去の自分の不十分さに固執している。そういう姿がとても哀れに思われたのですね。
犠牲となった人を思えば、そんなこといえるわけはないというのも十分承知の上で。
そして、このことはとても教訓的でした。
過ぎ去った過去を巻き戻してみるからこそ、私たちは、鍵十字から、忌まわしい強制収容所を連想し、嫌悪しますが、ナチ台頭のころの90%のドイツ人にとっては、そういう感覚ではなかったわけですね。
それはそのまま、日本の現実にも言えるし、日の丸をみて、忌まわしさを思う人もいるということです。
レニにならないというには、相応の自覚が必要です。

>・・・彼女には『政治的な関心』がなかったのではございません。単に、彼女の『政治的な関心』が凡庸であり、そのために誤った「加担」をした、と言うべきなのだと存じます。

これは正しい記述です。同感です。


>「アーリア人の優秀性」という「プロパガンダ」に、ドイツの美術界がこぞって協力したのはよく知られたところで、レニ・リーフェンシュタールも、そういう差別 的でうさん臭い「優勢学的思想」に同調し、それに「加担」した一人であったことを忘れてはなりません。


『意志の勝利』『オリンピア』を断片でしか観てはいないので『「優勢学的思想」に同調』というのが今ひとつよく分かりません。白人の一般 的な優越感以上のものを持っていたということでしょうか?
スーザン・ソンダクはアフリカのヌバ族の写真もファシズムだと言っているようですが。



作者と作品の関係(7) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)02時55分01秒


 影姫さま
> 先日の旅行では福島の猪苗代湖でアヒルの船(『電波少年』のロッコツマニアが乗っていた)でチャプちゃプ泳ぎ、その近くで身長50メートル!!の巨大観音様を発見し感動のあまり号泣!!!(≧▽≦)ノ(園主様、わたしが仏像フェチであることはとっくの昔にご存知でしょう。( ̄ー ̄)・・・

『アヒルの船』というと、あの足こぎの船でございますか? あれなら私もぜひ乗ってみたいものでございます(笑)。ちなみに、ほとんどテレビを見ない私には『『電波少年』のロッコツマニアが乗っていた』という説明の方が、さらに理解不能でございました(笑)。

ところで、巨大仏像というのは、新興宗教が好んで建てたりいたしましたので、けっこうあちこちに存在するようでございますね。
フィクションの世界ではございますが、日本推理作家協会賞を受賞した山口雅也の『日本殺人事件』に描かれた横浜だったかには、湾に望んで巨大な観音像が、自由の女神のごとく立っていることになっております。小林信彦の『ちはやふる奥の細道』にも通 じる作品で、外人さんの頭の中だけに存在する勘違いされた日本、「パラレル日本」を舞台にした傑作短編集でございます。帯には『カンノンさまも見ているぞ!』とございますし、ぜひご一読下さいまし。

> さて次の日は仙台の古本屋めぐり、といっても総じて枯れぎみ、ようやく『慄然の書』一冊を発見し安堵のため息。この『慄然の書』日本初の米国パルプマガジンの怪奇小説アンソロジーなのです。

一冊でも収穫があって良うございましたね(^-^)。


 ホランド
> 映画も楽しみなのが続きますね。ひとまずタランティーノ監督の『キル・ビル』も面 白そうだし、そのあとには『マトリックス』『ロード・オブ・ザ・リング』の二大完結編が控えてますから。でも、『マトリックス』の方は、その前に『リローデッド』のビデオを観とかないとね。

どう考えても『キル・ビル』で主演のユサ・サーマンの着る黄色いアクションスーツは、ブルース・リーへのオマージュだろうし、それは日本(風)家屋での対決シーンにも明らかだろう。また昔からファンだったというソニー千葉(千葉真一)や、テレビドラマ『燃えよ、カンフー!』で一世を風靡したデビット・キャラダインの器用も、同じ意図でなされたものに違いない。要するにこの映画は、クエンティン・タランティーノが、その「愛したものたちへの思い」を込めた、一大オマージュ作品なんだと思う。だから、予告編から感じられるのは「楽しんでいる」という雰囲気なんだろうな(笑)。

ちなみに一昨日と今日、ビデオ屋を覗いてみたが、やっぱり『マトリック・リローデッド』はすべてレンタル中だった。明日でも借りられれば連絡はするが、どうなるかな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


作者と作品の関係(6) 投稿者:園主  投稿日:10月21日(火)02時54分10秒

 AOIさま(つづき)

> そして、このことをこそ私たちの教訓とすべきである。
> もっと鋭敏に、生に対して考えなければ。
> かえるはいきなり熱湯に入れればあわてて飛び出すが、湯の温度をだんだんと上げていくと熱いはずの温度にも気づかず浸かっているとか(笑)。って、このお話は園主さまがされたのだったかしら?

結論には、まったく賛成でございます。しかし、『もっと鋭敏に、生に対して考え』るためには、より自他に「厳格な精神」が必要だということを、心しなければならないと存じます。

『このお話』は、私がしたものではございません。むしろ、この『話』は「気づかなかった」ことの正当化(責任転嫁)にこそ利用されやすいものでございますから、大切なことは、ホランドくんが、

> 大切なのは『鋭敏さ』よりも、感じた違和感を声にする『勇気』だと思います。あとで「私もそれは感じてたんだけどねー」なんてことを言う人は、イヤになるほどいるんですからね。

> ボクが『情況の認識』ということについて大切だと思っているは、「情況」そのものに対する感受性よりも、「情況」に対する自身の心の動きに関する感受性だと思います。自身が感じていることを、そのまま「感じている」と認識できる能力が重要だと思います。

と書いているところなのだと存じます。

すなわち、湯の温度が上がってきて、「これは変だ」感じた時に、「熱くなってきたぞ! ど