●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2003年10月中
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『フレディーVS.ジェイスン』 投稿者:ホランド  投稿日:10月19日(日)01時18分04秒

 みなさん、こんばんは! 今日は予定どおり、園主さまと映画『フレディーVS.ジェイスン』見て、『物語の表現』展の記念パーティーに行ってきましたよ。園主さまはパーティーの後、画家のみなさんと二次会に行かれましたが、ボクはこのところの出費が嵩んでいたことと、こないだ飲みに行ったばかりだし、ということで、二次会は遠慮して先に帰らせていただくことにしました。ホントは画家のみなさんから色んなお話を聞かせていただきたかったのですが、そうそう園主さまにぶら下がってばかりもいられませんしねー(T_T)。

 というわけで、『フレディーVS.ジェイスン』の方は、85点というところかな。とにかく相反する個性と、無関係な来歴をもつ「2大ホラースター」を共演させた作品としては、非常によくできていました。つまり「つじつま」を合わせていて目につく破綻はなかったし、それぞれに見せ場を用意して、それぞれのファンにきちんとサービスして、それなりにストーリーにも工夫がなされていました。ただ、やっぱりスターが二人いるというのは、映画としてはしんどくて、突っ走れない部分があったのは事実です。かなり厳しい縛りの中でホントによくまとめて、それなりに楽しめる作品に仕上げたというのが、85点の意味だとご理解下さい。
 ジェイソンの『13日の金曜日』シリーズの方はよく知らないので、確かなことは言えませんが、ただボクの印象としては、この対決ではフレディーの方がトクをしていたように思います。なにしろジェイソンの方は行動がシンプルだから、ストーリーはどうしてもフレディー中心になってしまいます。だから印象としては「悪玉 」はフレディーの方で、どうもジェイソンは憎めないキャラクターになってしまって、本来の魅力が半減したんじゃないかという気がしました。でも、「2大キャラクター対決」ものとしては、ホントにちゃんと作ったよなーと感心してしまう意味で、及第点をあげたい作品でした。両シリーズのファンの人は、ぜひ観て下さいね(笑)。





 影姫さま
> 小伝馬女牢無残伝

 影姫さまのご旅行も「フルコース」で、ずいぶん楽しまれたようですね。文章から「楽しかったー!」という声が響いてくるようですよ(^-^)。・・・ちなみにボクが笑っちゃったのは、

> メンバーの「萌え話」の怪気炎にタジタジしつつ、ここは硬派な仮面ライダーファンとしてひとつ、と「555」の「原点回帰」について一席ぶとうとしましたが誰も聞いておらずヾ(●;▽;●)ノ

> カラオケタイムに突入!!!約3時間アニソン・特撮ソンを絶叫し、途中でわたしが中島みゆきを歌ったら当然のごとく引かれ(;;)

の二ケ所。同じマニアの間でも、すこしずつハズしてみせるところは、さすが濃ゆい影姫さまと感心しました(笑)。


 園主さま
 もう帰られたかな? まだかな? もしかして、もう寝ちゃってたりして(笑)。

 また二次会でのこと、お話し下さいね。
 それから、映画も楽しみなのが続きますね。ひとまずタランティーノ監督の『キル・ビル』も面 白そうだし、そのあとには『マトリックス』『ロード・オブ・ザ・リング』の二大完結編が控えてますから。でも、『マトリックス』の方は、その前に『リローデッド』のビデオを観とかないとね。
 ともあれ、今日はありがとうございました(^-^)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


ひさしぶりのフルコース(9) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)14時00分05秒


 AOIさま(続き)

> やっぱり・・・m(_ _)m 誤字、脱字、脱落多くてスミマセン!

> 実をいうとレイトショーに行こうとあせった(汗)
> 何とか行く前に送信したくて(^_^;)
> 結局間に合わなくなってしまってやめました。

 すみません。ボクへのレスのためにレイトショーを諦めさせてしまって。もう見に行かれましたか?

> ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『さすらいの二人』。
> ご覧になった方はいます?
> ジャック・ニコルソンとマリア・シュナイダー主演。
> アントニオーニのベスト!心動かされた一作です。

 知らない映画だなあー。マイナーなんでしょうか?
 機会があれば見たいけど、近くのビデオ屋さんには無さそうだなあー。

> 『レニ』。監督:レイ・ミュラー。独、ベルギー合作1993年。182分。
> レニ・リーフェンシュタール

 レニ・リーフェンシュタールのことは、テレビの「評伝番組」で見て、だいたいのことは知っています。

> しかし、やはりレニに責任があったというべきだ。

> 映画の製作という影響を与える存在だからこそ、それだけの責任を課せられてもいるはずだった。

 ボクもそう思います。園主さまがよくおっしゃるように「公的言論発表者」としての自覚が無いのは、本人の過ちなのだから、その責任が問われるのは仕方がありません。まして芸術家だから、社会的なことは無知でいいなんてことは、絶対にありませんよね。それを言うんだったら、八百屋さんは野菜のことしかわからないから、私に責任はありません、なんてことになって、すべては一部政治家の責任ということになるでしょう。でも、その政治家を選んだのは、国民(成人)なんだから、職業の如何を問わず、国家に対し、大人には一定の責任があるんだと思います。その意味でも「責任はない」というレニの姿勢には、認識の大甘さが感じられます。そしてこれは、「時代」の問題ではないんだと思います。

> そして、このことをこそ私たちの教訓とすべきである。
> もっと鋭敏に、生に対して考えなければ。

 これは楽古堂さまへのレスにも通じることですが。大切なのは『鋭敏さ』よりも、感じた違和感を声にする『勇気』だと思います。あとで「私もそれは感じてたんだけどねー」なんてことを言う人は、イヤになるほどいるんですからね。


 楽古堂主人さま
> ・ 誕生日のプレゼントに、十年前の教え子から、竹本健治さんの『トランプ殺人事件』(CBSソニー出版・1981年8月25日初版)を、期日指定の宅急便で頂きました。
> ・ 嬉しいです。

 よかったですね(^-^)。
 CBSソニー版『トランプ殺人事件』の最大の特徴は、作中に収められた「コントラクト・ブリッジ用語表」が、作品の冒頭に置かれているという点です。作者の意図はわかるんですが、あれだと「用語がわからないと読めない作品」なんじゃないかと思われ、敬遠されるということもあったでしょうね。その意味では「用語表」を中盤に置いた、現行の形がベストなんじゃないかと思います。

> ・ 「非凡な平凡」を追求なさってください。
> ・ 情況の認識力が、非常に重要になりますね。

 ありがとうございます。がんばります!

 ボクが『情況の認識』ということについて大切だと思っているは、「情況」そのものに対する感受性よりも、「情況」に対する自身の心の動きに関する感受性だと思います。自身が感じていることを、そのまま「感じている」と認識できる能力が重要だと思います。



 影姫さま
 今から出掛けます。レスはまた後ということで、お許し下さい。


 園主さま
 では、あとで! 『フレディー&ジェイスン』も見られるといいんだけど(^-^)。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


ひさしぶりのフルコース(8) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時59分15秒


 AOIさま(続き)

> 十分な論理説明ができるものはいい。でも、不十分さからも思考を促すものはある。
> 論理的な説明がないからこそ、思考を促すということも。と私は考えます。

 これはほとんど無自覚な「レトリック」のみで、実体は無いんじゃないですか? 少なくとも「大西巨人的なもの」の対極にある自堕落な「曖昧さの追認」に見えます。つまり「俗情との結託」のように思えます。

 『十分な論理説明ができるものはいい。』・・・何がどういいのか、ぜんぜんわかりません。
 『でも、不十分さからも思考を促すものはある。』・・・『でも』で繋いでいると言うことは『十分な論理説明ができるもの』は『思考を促すもの』が無い(少ない)のに対し、『不十分さ』には『思考を促すもの』がある(多い)、という意味なのでしょうか?
 『論理的な説明がないからこそ、思考を促すということも。と私は考えます。』・・・要するにこれは「謎が多いほど、人は興味(思考)を掻き立てられる」という意味なのでしょうか?

 でも、これと「議論における否定疑問の適切性」と、どう関係があるのでしょうか? もしかするとこれは、「否定疑問」のみを発する人のように「自己の意見を表明しない相手」の方が、議論の相手は思考を掻き立てられて、議論が深まる・・・とこうおっしゃりたいのでしょうか?

 でも、そうだとすると、これはもう「議論」でも「意見交換」でもなく、一種の「カウンセリング」でしょう。すなわち、一方(カウンセラー)は一方(被カウンセラー)の意見を「一方的」に引き出すためだけに存在する「契機」であって、真理に対する「対等の共同模索者」ではないということです。

 どうも、AOIさまのご意見は「場当たり」的で、一貫性に乏しいと思います。その時々、相手の言った意見を取り込んでレスするので、相手の意見をいちおう理解しているように見えるんですが、その結果 、ご自分の意見がぜんぜん明確にならない。この議論を読んでいる第三者で、AOIさまが何を言いたいのか、はっきりと理解できる人がいるのかどうか?

 話がどんどん逸れていくので、もう一度ボクの意見を書いておくと、「議論を行なう上で、否定疑問の多用は不適切である。議論は意見交換による相互作業だから、できるかぎり自分の意見は論理的に相手に伝え、議論に供するべきである」とまあ、こういうことです。

 で、ボクがAOIさまのご意見に感じるのは、要は「私はこういう人間なのです。それ以外にはなれないのです」という感情(主観)です。それはそのとおり。つまり、人は誰しも「私はこういう人間なのです。それ以外にはなれないのです」ということであり、その意味でそれは「自明の前提」なんですが、でも、その一方、それを承知で、それを乗り越えるために「他者」との「議論」がなされ、「他者の目」を内面 化するという作業がなされるのではないでしょうか?

 つまり「内面化された他人の目としての客観も、所詮は主観でしかない、としても、人は客観的であろうとする努力は、放棄するわけにはいかない」というのと同じで、「私は私であり、あなたのようにはいかない、というのは事実だとしても、それでも人は自分の既成の枠に止まることを善しとするわけにはいかない」ということなのではないでしょうか。「自己肯定と自己否定」は一対表裏のものであり、どちらかだけではダメだと思うし、どちらかに決めてしまえないところが、堪えねばならない現実の困難さなんだとボクは思います。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(9)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(7) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時58分19秒


 AOIさま(続き)

> ただ、マムさまが「感性の問題」といわれたことについて考えることが先決だと思っていたし、「三位 一体の神話」を読むように、早きに手際にあらずということだったので、読んでからでないと書けないと思っていたのですね。

 「意見」というのは、「考える」前にあるのではありません。AOIさまだって、マムさんの意見に何かを思ったから、意見が出てきたんでしょう?
 明確なものではないにしろ、何かを考えた結果として「意見」が出てきたはずだから、ボクはその「意見」の生成過程を語って下さい、と言っているのであって、これから考えることについて「先に語れ」と言っているんではないんです。AOIさまのご意見は、前後関係に混乱があるように思います。

> 否定疑問が思考を促すものにはならないというご意見なのでしょうね。
> 否定疑問は思考の糸口だとおもいます。
> それを糸口にして、異なった意見を交わすための手段です。

 『否定疑問が思考を促すものにはならない』とは思いません。たしかに『否定疑問は思考の糸口』にはなりえると思います。・・・ですが、それは「あまり望ましいやり方ではない」し、「もっと適切なやり方がある」と言いたいんですね。つまり「可能」ではあるけれど、「可能性が極めて低い方法」であり「好ましくない」ということです。

> 特に今回の場合、あらかじめ正否(邪)ではなく、感じ方の相違ということが予想できたから、お互いの意見を交わすための糸口にしたかったんです。

 この『予想』の出所が不明です。それに、ひとまず「議論」というのは、『正否(邪)』で突き詰めてみて、結果 として『感じ方の相違』というところに落ち着くのならいいのですが、あらかじめ『感じ方の相違』という曖昧なところに憶見をおいて、話を議論を進めるのは、かえって混乱のもとなのではないでしょうか?

> それも、前もっての価値判断のないゼロのところに戻して、お互いに考えるという共同模索として。

 これもよくわかりません。これは「否定疑問」が語り手の「具体的な意見を出さない」ことにおいて『価値判断のないゼロのところ』から議論を始めるものだ、という意味なのでしょうか? でも、そうだとすれば、その「否定疑問」を出される契機となった意見がその前にあるんだから、それはゼロに戻すというよりも、「否定疑問」が個人の意見としてゼロに近く、ただ相手方に一方的に加算要求(議論推進要求)をしているようなものなんじゃないでしょうか? また、そうした意味でボクは、否定疑問は『お互いに考えるという共同模索として』適切ではない、と思うのですが。

> だから、園主さまの言われるように、自分で反省してくれることを望んで否定疑問をしていたのではなんです。

 それはそうだったのかも知れませんね。

> だれの意見が正しいということではなく、どの意見が正しいのかということのはずなのですから。

 どうもこの結論に至るには飛躍があると思います。

 「私」として責任のもてない主観的な意見は言えないから、ひとまず「ゼロ」の「否定疑問」で議論を始めてみる、というような、「私の正しさ」にこだわった議論形式から、どうしてこの結論になるのか、筋が通 りません。『だれの意見が正しい』ということに固執しないのであれば、自分の不十分な「客観」意見も、否定されることを承知のうえで、議論の素材に供することはできると思うんですよ。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(8)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(6) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時57分19秒


 AOIさま(続き)

> それに、お金の多寡とマナーとはなんの相関関係もないですね。比喩としておかしいし、すでに自明の前提として言ったことを言われていたからきっとお疲れなんだろうと思ったのですよ。

 これもトンデモない誤解ですよ。ボクがAOIさまのご意見について、

> この理屈は「貴方は金持ちだからマナーを守れるんでしょうけど、私は貧乏だから守らなくていいの」というようなそれと、大差ないんじゃないですか?

と書いたのは、この『貴方は金持ちだからマナーを守れるんでしょうけど、私は貧乏だから守らなくていいの』という意見が『相関関係』のないものを結びつけながら、『相関関係』があるかのように誤解した上で語られた「誤った意見」だというのが大前提です。
 つまり、AOIさまがここで『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』を持ち出すのは、『相関関係』のない「筋違い」であり、この『貴方は金持ちだからマナーを守れるんでしょうけど、私は貧乏だから守らなくていいの』という意見と「同種の誤った議論」だ、ということなんですよ。

 だから『お金の多寡とマナーとはなんの相関関係もないですね。比喩としておかしい』と、この意見の間違いを、ボクの間違いだと考えるのは、議論のレベルの混同でしかありません。つまり「作中人物の意見」を「作者の意見」と同一視するのと同じ誤りを犯しておられるんですよ。ですから、

> それに、お金の多寡とマナーとはなんの相関関係もないですね。比喩としておかしいし、すでに自明の前提として言ったことを言われていたからきっとお疲れなんだろうと思ったのですよ。

という推論は間違いで、たまたま「まぐれ当たり」しただけだということになります。

>> だから、今回の「議論」は、その『不十分』さを明確にするためになされたとも言えますし、その意味で大切なのは、今後における『不十分』さの自覚的な是正なんだと思います。

> 不十分というのは他者から見てそう見えるということですね。

 そうです。「そう見える」ということ(他人の目)を、内面化しないかぎり、主観的な『確信』をふりまわすに止まり、対話的な議論が出来ないですよ、と言いたいんです。結果 として、他人の意見を否定するにしても、まずはそれを内面化して理解しないかぎり、それを有効に否定することはできないんですから。

> 言い訳がましくなるし、言いたくなかったけど、私は「こう思います」ということは最初に言っているし、曖昧になったことについては書きましたが、どういうふうに言えば、根拠説明になるのか、客観的な意見でなければいけないと思っていたし、主観的に話すということでいいのかどうか。でも、それしかないので最終的にはそれを語るしかないと思っていました。

 すこし分かりにくい部分ですが、『客観的な意見でなければいけないと思っていたし、主観的に話すということでいいのかどうか。』という部分からも明らかなとおり、ここでは「主観と客観」が主観的に絶対化されているのがわかります。

 さっきも言ったとおり、自分の意見を相対化しておれば、「客観的に語る」という行為は、最終的には「客観性の保証にはならず」、ただ「客観的に語る努力をする」ということでしかないというのがわかるはずです。だから、その場合には『主観的に話すということでいいのかどうか。』などという疑問は初めから出てきません。

 「内面化された他人の目」を「客観」として固定的に捉える(主観化する)からこそ、「客観的に語りうる」という誤解が生じ、それが面 倒そう(自分には出来なさそう)なら『最終的にはそれ(※ 主観)を語るしかない』という話にもなる。でも、どんなに客観的であろうとしても、意見は、意見として内面 化された段階で「主観」とならざるをえないのだとわかっていれば(自己の客観を相対化しておれば)、自分にできることは自ずと「できるかぎり客観的に語ることしかない」んだということもわかるはずなんです。そしてその場合には、「主観しかない」という大雑把な開き直り方はできないはずなんです。
 そしてこれが、ボクが最初から求めていたことなんですよね。「できるだけ論理的に説明するようにしなければならない」「自分の思考過程を語るようにしなければならない」というのは、そういうことなんです。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(7)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(5) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時55分32秒


 AOIさま(続き)

> それから、人は何らかの影響なくして生きてはいないのだから、「借り物」ってこともあるとおもいます。

 これも、断片的な議論としては正しいと思います。ただし、必要な突き詰めがなされていません。
 『人は何らかの影響なくして生きてはいないのだから』・・・人の意見というのは『「借り物」ってこともある』のではなく、本質的には「全ては借り物である」というのが正しいんです。そして「全てが借り物」ならば、「全てはオリジナルである」というのもまた「真」である、ということです。
 つまり、この議論でも大切なのは『ってこともあるとおもいます。』というようなところで思考をストップさせないで、『人は何らかの影響なくして生きてはいない』という事実を突き詰め、「独自性」とはいったい何なのか、と突き詰めてみることなんです。そうすれば「借り物」と「オリジナル」は別 物ではなく、見掛け上の「程度の差」でしかないというのがわかるはずなんです。そして、この議論はそのまま、「主観と客観」の問題ともつながってくるんです。

 つまり、同じようにして「内面化された他人の目(客観)は、すでに主観である」ということが理解できるし、そうであれば、その人は「内面 化された他人の目」を「さらに相対化するという永久運動」の必要性を理解できるんですよね。それをしないと、「内面 化された他人の目」は「客観の仮面を被った主観」となり、結果としては「主観」に全権を与えてしまうことになるんです。言い換えれば「わかったつもりでわかっていない」状態に、『確信』を置いてしまうことになるんですよ。

>> ですから、自分の視点を「絶対化」して、一部の人にある種のレッテルを貼り、特別 な責任を負わすというのは「不公正」なやり方だとボクは思います。議論の場では、力量 に差はあっても、「責任」や「権利」は対等なのではないでしょうか?

> ということでは全然ないんです。
> 私と比較して「相対的」に『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』と言ったものではなく、正しく論理的で客観的な事実をいったまでです。
> 意見の確信の有無は議論に関係ないというホランドさまの発言をうけたものなんですもの。
> つまりは、ホランドさまも言うように自明の前提(発言することに個人的な確信は誰でもがもっている)のところ(レベル)にしかいないから私は「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもないんです。
> それは他の人がどのように評価するかは関係のない事実です。

 例えばここでAOIさまは、平然と『私と比較して「相対的」に『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』と言ったものではなく、正しく論理的で客観的な事実をいったまでです。』と書かれていますが、言うまでもなく「批評家」「論争家」「トリックスター」「一流」というものは、『正しく論理的で客観的な事実』として存在しているのではありません。常に他者との相対性(関係性)のなかで比較の問題として存在しているんです。これは難しい話ではないと思うのですが、いかがでしょうか?

 ともあれ、したがって、AOIさまの「自分は『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』と言ったものない」といういうご意見は、ボクの意見から出てくるものではなく、ボクの意見に対する無理解から出てくるのだと思います。

 AOIさまがここで語られているのは「私は、誰が何と言おうとも『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』と言ったものではない。それは他人の評価とは関係のない事実です」といった「主観=確信」的断言に過ぎません。そしてここには、ボクが最初から求めてる「そうは言っても、他の人は、AOIさんを論客だと見てるかも知れませんよ。少なくとも、そうした他人の目を内面 化しないかぎり、他人とは実りある意見交換はできず、確信のぶつけ合いになるんじゃないですか?」という提案に戻らざるをえない事態が、堂々回りに現れてきているんです。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(6)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(4) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時54分01秒


 AOIさま(続き)

> とりあえずはなしか

 さて、議論の続きです。今回のご意見を通読させていただいてボクが感じたのは、やはりAOIさまのご意見は「細部を曖昧にしたまま、全体としては連想的に言葉を転がしている」という感じが強いということです。

 まず、ボクが書いた、

>> これはこれでわからないこともありませんが、突き放して言えば、誰だって自分の意見が「借り物」だなんて思ってはいないから、その意味では誰だってそういう『確信』は「自明の前提」として持っているんじゃないでしょうか。

という意見について、

> このことは、議論の最初のころに私の言ったことでもあるんですよ。
> だれでもが『確信』が有るからこそ発言できるのではないかと。
> つまり、こういう自明の前提のところ(レベル)にいる私だから、「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもないといったんですね。

と、つまり「それはわかっている」と書かれているわけですが、ここが違います。

 ボクが言いたいのは、『誰だってそういう『確信』は「自明の前提」として持っている』ということではなく、『確信』とはことほど左様に不確かなものだから、それを乗りこえなければならない。つまり『確信』とは、「客観的な正しさ」とは無縁のものだからこそ、それを胆に銘じて、その『確信』をカッコに入れて(相対化して)議論をしなければいけない、ということなんです。
 ですから、AOIさまがそれを「自覚」なさっているのなら、それは相対化されねばならないし、すでに半分は相対化されているはずなんです。ところが、それが『こういう自明の前提のところ(レベル)にいる私だから、「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもない』と考えるというのは、結局のところ、ご自分の「位 置」についての『確信』を、少しも相対化していないということなんですよね。

 私の「現在位置」に執着する『確信』は、「他人の目」を内面化することによって、初めて相対化されます。しかし、「内面 化された、他人の目」はすでに「主観的な確信」でもありますから、それをも相対化しなくてはなりません。つまり「他人の目から見れば、そうなるということは、わかっている」という発想は、自分の現在位 置についての『確信』を補強するために、「他人の目」というものを都合よく利用しただけのものであって、本来の相対化にはなっていないんです。『こういう自明の前提のところ(レベル)にいる私』(AOIさま)は、『「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもない』私ではなく、単に『確信』を相対化せず、『確信』を相対化しえない私、に過ぎないんだと思います。

 言い換えれば、「批評家」「論争家」「トリックスター」「一流」といった「特別 なもの」を、ここで「比較の対象」として持ち出すのは、間違いだということです。単に「私は自己の『確信』に盲従する普通 の人だ」ということを認めるだけなのに、なぜこんな大仰な比較対照物が必要なのか? 「私はただの人です」と言うのに、私は「キムタク」でも「イチロー」でも「ボブ・サップ」でもない、なんて普通 は言わないでしょう?

 で、話を戻すと、問題は「わかっている」ということではないんです。「わかっているなら、違ってくるはずだ」ということなんですよね。
 実際「差別(不健康な生活.etc)がいけないことはわかっているが、差別 (不健康な生活.etc)はしている」というのが、「わかっている」という言葉を安易につかう人によくあるパターンなんですから。つまり、ボクが今さら「自明の前提」を繰り返すのは、AOIさまが今でもそれが「わかっていない」、つまり内面 化できていないということなんですよ。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(5)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(3) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時53分00秒


 AOIさま
>>でも、このサイト、ホントに素敵ですね。・・・で、ボクへのバースデー・プレゼントは?(冗談)

> わすれていたわけじゃないの。ほんと。
> 遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます!
> いくつになったんだっけ?なんてことは聞きません(笑)。永遠の少年よねっ♪
> ホランドさまには海月が陸にあがって・・・こちら!かわいいでしょ!?

 ありがとうございます! ボクもキノコ類好きですよ。

> 大竹さんにも教えてさしあげたいわね!!(笑)。

 展覧会場で、園主さまがご紹介してましたよ。大竹さんは「キノコのサイトは、たいてい見ているはずです。リンク集がありますからね」とおっしゃってました。『くらげ水族館』の方には、「フラッシュアニメのバーチャルくらげ」ということで、興味をもたれたご様子でした。きっとご覧になると思いますよ。

> 私の想像では(笑)・・・パレスチナの現状を知られていないという日本の現実についての岡さんの批判が問題意識の有る、なしとして特権的に語られたから?

 園主さまから説明がなかったので、ボクの理解した範囲で、ちょっとだけ説明させていただきます。

 まず、ご指摘のような「特権的批判」を岡さんがなさったという事実はありません。岡さんは『シャヒード展』の「意義」を語られただけで、今回は直接「パレスチナ問題」を語られはしませんでした。

 でも、その「『シャヒード展』の「意義」」についての「解説」が『特権的』であったとは言えると思います。そして、それが園主さまの逆鱗に触れたというのは、事実でしょうね。

 簡単に言えば、岡さんは『シャヒード展』という「美術展」について、主催者の語った意図を代弁する形で「こういう風に鑑賞しなければならない」という風に語ったんですね。例えば『この展覧会を観た人のなかには、ポートレートと展示されている遺品だけではなく、説明の文章をつけて欲しかったという意見があったのですが、この展覧会は血まみれの服だとかいった、それ自体説明的なものを展示してパレスチナの問題を直接的に訴えるというものではなく、シャヒードのひとりひとりが日常使っていたものをポートレートとともに展示することで、日常を生きた彼らという人間のひとりひとりを感じてもらおうとしたものなのです。ですから、説明をもとめるのではなく、作品と向き合い、想像力を働かせることによって、そこからシャヒードたちの声を聞き取ってほしいんですね』とまあ、だいたいこういうようなこともおっしゃってたんですが、芸術や美術にたいして「趣味人」として、さらに「批評家」として関わってきた園主さまとしては、この「解説は必要ではないという解説。想像せよと言いながら、解釈を限定する解説」がとても欺瞞的なものに映ったようですね。実際、通 常の展覧会では、作品の意図など語られることはないし、作品を鑑賞するのに「想像力を働かせよ」なんて、わざわざ言ったりはしません。それは当たり前のことだし、また見る者の想像力をかき立てるような作品でなければ、それはそれまでの作品だったのだとも言えますからね。ところが、岡さんは『シャヒード展』の主催者と緊密な関係にあり、しかもパレスチナの現状に詳しいというだけのことで、まるで自分の作品鑑賞が自明に正しいかのように「解説」してしまっているんですね。そこに園主さまは「お門違いの特権意識」を見て、『作品理解に関する過剰な解説など、プロパガンダとどこに違いがあるというのでしょう。岡先生に正しい鑑賞法を説かれて、それを鵜呑みにするような人には、想像力など欠片も無いと断じてもよい。解説者や推薦者の言葉がすべて真実なら、この世につまらない本など1冊も無くなってしまう。まったくうんざりです。』と批判することになったんですね。

 ま、これが園主さまの言いたいことの全てではないと思いますが、無自覚になされる「お抱え評論家」みたいな口ぶりが、癇にさわったというのは確かなようですね。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(4)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(2) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時52分13秒


 『座頭市』は、80点くらいの作品でした。はっきり言って、外国の映画祭でグランプリを取るような作品ではないと思います。それなりに楽しめたけど、それまでと言えばそれまで。映画として特にすごいとは思いませんでした。娯楽映画として及第点といったところじゃないのかな。
 殺陣は迫力がありましたよ。「おいらの居合いは早すぎるからカメラに映らない」と言っていただけはあって、たしかに無駄 のない目にも止まらぬ居合い斬りで、リアルな迫力がありました。さらに言うと、殺陣のシーンでCGをとてもうまく使っていましたね。CGに馴れていない人なら気がつかないような、ポイントを押さえた使い方で、立ち回りシーンの迫力アップに貢献していました。一方、噂のタップは、予備知識があったということもありましたが、それほどどうとも思いませんでした。やっぱり、騒ぎ過ぎだと思いますよ、この程度のものなら。ストーリーもこれといったものがなく、個々のシーンをつなげているだけ、と言ってもいいくらい。何の意外性もありませんでした。ただ特筆すべきは、大楠道代(だったかな?)というベテラン女優さんが、いい味を出していたということ。たしかこの人、『赤目四十八瀧心中未遂』にも出てると思うんだけど、ブレイクするかも知れませんね。

 で、じつは今日も園主さまと『物語の表現』展へ行ってきます。今日は展覧会開催の記念パーティーがあって、それに招かれたからです。たしか一昨年の『旅の表現』展の時はナイルズがお供したはずで、今回はボクがくっついていくことになりました。そんでもって、今日は『フレディーVSジェイスン』の初日でもあるので、極端に混んでいなければ観てこようという話になっています(笑)。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(3)」につづく)


ひさしぶりのフルコース(1) 投稿者:ホランド  投稿日:10月18日(土)13時51分09秒

 みなさん、こんにちは! こないだ(15日)は、ひさしぶりに園主さまと「フルコース」を廻ってきました(笑)。
 最初は西天満のギャラリーベルンアートでこの日から始まった『物語の表現』展へ行き、近くの古本屋さんに寄った後、天保山のサントリーミュージアムで行なわれていた『フリーダ・カーロとその時代』展を見、続いて心斎橋の古本屋さんを覗く予定が、電話を入れてみると休みのようだったので、そのまま梅田に取って返して、映画を見ることにしました。当初、映画は予定に入っていなかったのですが、まだ『フレディーVSジェイスン』は始まっていなかったので、食事をしながらしばし相談の結果 、北野武監督の『座頭市』を観ることにしました。映画のあとは、ひさしぶりのカラオケで3時間軽く歌って(笑)お腹を空かせた後、居酒屋に行って食事とお酒で遅くまで語らい、終電車で帰途について午前さまをしてしまいました(笑)。

 『物語の表現』展は、生駒泰充・市川伸彦・大竹茂夫・水野恵理の四人による新作展でしたが、園主さまがくINFORMATIONで『いずれも私が近年注目している作家であり、ちょっと冗談めかして書くことをお許し願えれば、これはアレクセイ版『幻想の画廊から』展とでも呼びたい贅沢な展覧会である。』と評しているとおり、「花園」では既にご紹介済みの画家さんばかり。園主さまが廊主に「東京の青木画廊、大阪のベルンアート、として頑張ってほしい」とおっしゃっていたのが、いみじくもこの展覧会の性格を伝える言葉だったと思います。

 『フリーダ・カーロとその時代』展は、今回、その生涯を描いた映画が作られたこともあってメインに据えられたフリーダ・カーロのほかに、同時代の女流前衛画家であったレメディオス・バロ、レオノーラ・キャリントン、アリス・ラオンなどの作品も展示されました。当初、園主さまは「フリーダ・カーロには興味はない」ということで、この展覧会にはまったく興味がなかったそうなんですが、後になって以前から好きだったバロの作品も展示されているのを知り、見に行くことにしたそうです。ボクは、どの画家もよく知らないんで順番にゆっくり観ていったんですが、園主さまは例によって、好みでない絵の前はほとんど素通 りに近くて、今回のメインであるフリーダ・カーロのコーナーは、あっという間に通 り過ぎたようです。バロの前でしばらくねばった後、いったん最後までひととおり流してから、ふたたびバロのコーナーに戻ってきて、じっくり鑑賞するという、いつものパターンだったようですね。
 ちなみに、園主さまが、なぜバロをお好きなのはわりとわかりやすいと思います。まずバロは、この4人のなかではキャリントンとならんで、タッチが緻密です。それに比べると、カーロは大味な感じがするんですね、いかにも南国の人って感じで。ラオンは具象ではないので、園主さまの守備範囲ではなかったようです。バロとキャリントンを比較すると、バロの方が構築性が強く、画面 構成が男性的といえるかもしれません。園主さまの好みからすると、キャリントンは女性的に柔らかすぎるのかもしれません。それにバロの絵は、誰が見てもそれとわかる、ハッキリした物語性があって、親しみやすいんでしょうね。ボクも気に入った絵があったので、絵葉書を買おうと思ったんですが、絵葉書の印刷があまりにも見劣りがしたので、結局は買いませんでした。園主さまはいつも、絵は実物を見なくてはダメだと言うようなことをおっしゃってますが、それはそのとおりだとしても、バロの絵は特にその傾向があるように思いました。





( 以下は「ひさしぶりのフルコース(2)」につづく)


小伝馬女牢無残伝 投稿者:影姫  投稿日:10月18日(土)13時33分33秒

みなさんこんにちは。

先日の旅行では福島の猪苗代湖でアヒルの船(『電波少年』のロッコツマニアが
乗っていた)でチャプちゃプ泳ぎ、その近くで身長50メートル!!の巨大観音
様を発見し感動のあまり号泣!!!(≧▽≦)ノ(園主様、わたしが仏像フェチ
であることはとっくの昔にご存知でしょう。( ̄ー ̄)・・・さらに仙台に赴き
特撮サイトのメンバーに合流しました。さらに石巻に向かい電車に乗り込み、メ
ンバーの「萌え話」の怪気炎にタジタジしつつ、ここは硬派な仮面ライダーファ
ンとしてひとつ、と「555」の「原点回帰」について一席ぶとうとしましたが
誰も聞いておらずヾ(●;▽;●)ノやがて石巻につくとなんと町全体がパラレ
ル石巻ワールド!!駅前の巨大仮面ライダーブロンズ像に圧倒され商店街のロボ
コンをなでなでし場末の「ボンボン」像(知ってる人当然いますよねえ・・ふふ)
に涙し・・・目当ての石ノ森章太郎記念館に到着、訳1時間の見学を終え、さっそ
く仙台に引き返し、うどんをすすり上げカラオケタイムに突入!!!約3時間ア
ニソン・特撮ソンを絶叫し、途中でわたしが中島みゆきを歌ったら当然のごとく引
かれ(;;)なにわともあれ楽しいオフ会は終了!!!来年もやろうと友情を確
認しあった感動的な場面も。

さて次の日は仙台の古本屋めぐり、といっても総じて枯れぎみ、ようやく『慄然の
書』一冊を発見し安堵のため息。この『慄然の書』日本初の米国パルプマガジンの
怪奇小説アンソロジーなのです。すなわち名も知られていない群小作家ながらあの
御大・H・P・ラグクラフトに影響を与えたいわば「米国怪奇小説創世記の作家」た
ちなのです。尚、この本の書影はALIさんのHPにアップされていますので興味にある
方はそちらをどうぞ。気持ち悪いですよ。ふふ。
と夕方高速バスに乗り仙台を後にしたのでした!!!さらば仙台!!!また会う日
まで!!!!!

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


『レニ』 投稿者:AOI  投稿日:10月18日(土)01時40分46秒

今日は、渋谷ユーロスペースでドキュメンタリー映画『レニ』を観てきました。
監督:レイ・ミュラー。独、ベルギー合作1993年。182分。

レニ・リーフェンシュタールは1902年ベルリンに生まれる。
ダンサーから女優を経て、監督となり、彼女の芸術的な才能の開花はナチズム台頭と期を一にしているといえる。
1934年に製作した党大会の記録映画『意志の勝利』、1938年ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』がナチのプロパガンダとして、戦後、拘禁生活を余儀なくされる。
レニに政治的な関心などなかったというのは真実にちがいない。ナチスの台頭し始めた当時のごく一般 のドイツ人と同様、ヒトラーをドイツの指導者としてみていたにすぎないのだろう。
『意志に勝利』は「ヒトラーと国民」という記録映画であり、プロパガンダなら、大衆を
鼓舞するためのナレーションをいれたものになったはずだと語る。
『オリンピア』はいまだに映画史上ベスト10に選ばれ続ける名作であり、後世の映像技術に多大な影響を与えたが、ドイツ人の優秀性を描いているというわけではなく、ヒトラーにとっては関心を持たれるものではなかったようだ。

「一体どう考えたらいいのです?どこに私の罪が?『意志の勝利』を作ったのが残念で。あの時代に生きたことも。残念です。でも、どうにもならない。決して反ユダヤ的だったことはないし、だから入党もしなかった。言ってください、どこに私の罪が?私は原爆も落とさず、誰をも排斥しなかった・・・」

彼女は芸術を求め、肉体の美を求めていたに過ぎないのだろう。
『オリンピア』の飛び込みのシーンの繋ぎ合わせたショットをみていると、江戸川乱歩が『パノラマ島奇談』で女の肉体の断片をオブジェとして描いていたことを思い出させる。
戦後、アフリカのヌバ族の格闘と踊りとを膨大なフィルムに収めたのも「肉体の美」へのこだわりだったといえる。
しかし、やはりレニに責任があったというべきだ。レニが美に対するこだわりと同じくらいに人間の生の尊厳に対しての鋭敏さと感受性とを働かせていたら、ドイツ人の多くがヒトラーを指導者とみなしたとしても、レニならば気づいたにちがいないのだから。
映画の製作という影響を与える存在だからこそ、それだけの責任を課せられてもいるはずだった。
作中、監督のレイ・ミュラーは何度もレニのナチとの関わり、責任についての質問をする。それに対してのレニの態度は頑なとも思えるものである。しかし、そのようなやりとりが率直に描かれているからこそ、レニの真実があり、このドキュメンタリーの価値があるのだと思う。

そして、このことをこそ私たちの教訓とすべきである。
もっと鋭敏に、生に対して考えなければ。
かえるはいきなり熱湯に入れればあわてて飛び出すが、湯の温度をだんだんと上げていくと熱いはずの温度にも気づかず浸かっているとか(笑)。って、このお話は園主さまがされたのだったかしら?

90歳を過ぎてなお、海底に潜り海の生物を撮り続けるレニの姿は、美を求めつづける快楽に生きた執念と安らぎとを同時に感じさせた。

*9月8日ドイツ・バイエルン州の自宅で101歳のまるで眠るような死を迎えたそうです。


とりあえずはなしか(上) 投稿者:AOI  投稿日:10月16日(木)20時13分47秒

*読みずらいと思いますので、脱落のある(上)の差し替えとして送信します。大変お手数おかけして申し訳ありません。差し替えるかどうかの判断はお任せいたします。

☆ホランドさま

>> お疲れのようですね。レスはまた、こんどね。(^_^)

って言ったきりでは、ナットクしないでしょ?(笑)。
だから、遅ればせながら説明します。

>これはこれでわからないこともありませんが、突き放して言えば、誰だって自分の意見が「借り物」だなんて思ってはいないから、その意味では誰だってそういう『確信』は「自明の前提」として持っているんじゃないでしょうか。

このことは、議論の最初のころに私の言ったことでもあるんですよ。
だれでもが『確信』が有るからこそ発言できるのではないかと。
つまり、こういう自明の前提のところ(レベル)にいる私だから、「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもないといったんですね。
それから、人は何らかの影響なくして生きてはいないのだから、「借り物」ってこともあるとおもいます。

>「この場合の『確信』は、意見の客観的『正しさ』とは無縁である」

もちろん、客観的正しい方がいいし、そうありたいとも思ってる。でも、必ずしも客観的に正しいとは限らないということ。
だから、あくまで自覚の問題として、自分のことについていったものであり

>> 批評家でも論争家でもトリックスターでも一流でもない私のレベルでいえば、『私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています』という発言に責任を持つには

>こういう書き方は、すごく良くないと思います。
この理屈は「貴方は金持ちだからマナーを守れるんでしょうけど、私は貧乏だから守らなくていいの」というようなそれと、大差ないんじゃないですか?

>ですから、自分の視点を「絶対化」して、一部の人にある種のレッテルを貼り、特別 な責任を負わすというのは「不公正」なやり方だとボクは思います。議論の場では、力量 に差はあっても、「責任」や「権利」は対等なのではないでしょうか?

ということでは全然ないんです。
私と比較して「相対的」に『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』と言ったものではなく、正しく論理的で客観的な事実をいったまでです。
意見の確信の有無は議論に関係ないというホランドさまの発言をうけたものなんですもの。
つまりは、ホランドさまも言うように自明の前提(発言することに個人的な確信は誰でもがもっている)のところ(レベル)にしかいないから私は「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもないんです。
それは他の人がどのように評価するかは関係のない事実です。
それに、お金の多寡とマナーとはなんの相関関係もないですね。比喩としておかしいし、すでに自明の前提として言ったことを言われていたからきっとお疲れなんだろうと思ったのですよ。

>だから、今回の「議論」は、その『不十分』さを明確にするためになされたとも言えますし、その意味で大切なのは、今後における『不十分』さの自覚的な是正なんだと思います。

不十分というのは他者から見てそう見えるということですね。
言い訳がましくなるし、言いたくなかったけど、私は「こう思います」ということは最初に言っているし、曖昧になったことについては書きましたが、どういうふうに言えば、根拠説明になるのか、客観的な意見でなければいけないと思っていたし、主観的に話すということでいいのかどうか。でも、それしかないので最終的にはそれを語るしかないと思っていました。
ただ、マムさまが「感性の問題」といわれたことについて考えることが先決だと思っていたし、「三位 一体の神話」を読むように、早きに手際にあらずということだったので、読んでからでないと書けないと思っていたのですね。


煩悩の多い日々 投稿者:AOI   投稿日:10月15日(水)20時55分33秒

この前こんなカウンターでした(笑)108801

やっぱり・・・m(_ _)m 誤字、脱字、脱落多くてスミマセン!

実をいうとレイトショーに行こうとあせった(汗)
何とか行く前に送信したくて(^_^;)
結局間に合わなくなってしまってやめました。
今週で終わってしまう・・・。何とか金曜日までに行きます。
ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『さすらいの二人』。
ご覧になった方はいます?
ジャック・ニコルソンとマリア・シュナイダー主演。
アントニオーニのベスト!心動かされた一作です。

>私のダンスはのんびりした「海月ダンス」から、いきなり激しいステップのダンスに切り替わります。なにしろ、かつて私は自身を『論理舞踏(武闘)派』と名乗ったくらいでございますからね(笑)。……それでも、『一緒に踊ってくださる方、みつかる』まで、お相手いただけますでしょうか?(笑)

う〜む・・・いきなり激しいステップ!?私はついていけるのでしょうか?
手拍子ならできるけど(だめ?)
足はもつれて、膝はガクガク、息切れゼーハァーゼーハァー、足手まといってやつ・・・「海月ダンス」なら、自信ありますよ〜ん。


とりあえずはなしか(下) 投稿者:AOI  投稿日:10月15日(水)20時08分51秒

(ホランドさまつづき)

>>> 「自分の意見」として言うのでないなら、もちろん、わかりますよ。
>> 否定疑問も思考実験だし。

>どちらも『思考実験』だとしても、『自分が信じてもいない意見を自信満々にぶつけてみせる』という方には、それなりの「論理的な説明」が「相手の思考を促すもの」として提供されていました。その有無が、今回の問題だったのではなかったでしょうか?

否定疑問が思考を促すものにはならないというご意見なのでしょうね。
否定疑問は思考の糸口だとおもいます。
それを糸口にして、異なった意見を交わすための手段です。
特に今回の場合、あらかじめ正否(邪)ではなく、感じ方の相違ということが予想で
きたから、お互いの意見を交わすための糸口にしたかったんです。
それも、前もっての価値判断のないゼロのところに戻して、お互いに考えるという共同模索として。
だから、園主さまの言われるように、自分で反省してくれることを望んで否定疑問をしていたのではなんです。
だれの意見が正しいということではなく、どの意見が正しいのかということのはずなのですから。
十分な論理説明ができるものはいい。でも、不十分さからも思考を促すものはある。
論理的な説明がないからこそ、思考を促すということも。と私は考えます。

☆園主さま

>ラストシーンの「幻想」場面では、兄と死んだ妹が蛍の舞い飛ぶ野原で仲良く立っ
ているんだが、カメラが退くと、彼らの立っている野原の彼方に「現代の神戸のきら
びやかな夜景」が覘き、その夜景を兄妹が見おろしているところで、この映画は終わ
る。つまり、高畑勲は、この兄妹の悲劇を「戦争悲劇」として描くつもりはなかった
ということなのだろう。

ラストシーンはほんとうに衝撃的でした。そして、この映画自体が過去と現在、死と生、始まりと終わりとを円還した構成になっていました。
以前にも話しましたが、プロローグで、駅舎の柱に凭れて清太が糞尿まみれで死に絶え、そばに転がっていたドロップの缶 を外の暗闇にほおリ投げると、節子の骨が蓋の取れた缶から転がって、叢の蛍が舞う。清太と節子の霊が駅から誰もいない神戸の町を行く電車に乗ります。二人が外を見ると、神戸の町。そこからお話が始まるのですが、このプロローグは始まりであるとともに終わりでもあったのだと最後になって分かりました。


とりあえずはなしか(上) 投稿者:AOI  投稿日:10月15日(水)20時07分01秒

☆ホランドさま

>> お疲れのようですね。レスはまた、こんどね。(^_^)

って言ったきりでは、ナットクしないでしょ?(笑)。
だから、遅ればせながら説明します。

>これはこれでわからないこともありませんが、突き放して言えば、誰だって自分の意見が「借り物」だなんて思ってはいないから、その意味では誰だってそういう『確信』は「自明の前提」として持っているんじゃないでしょうか。

このことは、議論の最初のころに私の言ったことでもあるんですよ。
だれでもが『確信』が有るからこそ発言できるのではないかと。
つまり、こういう自明の前提のところ(レベル)にいる私だから、「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもないといったんですよ。
それから、私のことで言えば、人は何らかの影響なくして生きてはいないのだから、「借り物」ってこともあるとおもう。

>「この場合の『確信』は、意見の客観的『正しさ』とは無縁である」

もちろん、客観的正しい方がいいし、そうありたいとも思ってる。でも、必ずしも客観的に正しいとは限らないということなんですよ。
だから、あくまで自覚の問題として、自分のことについていったものであり

>> 批評家でも論争家でもトリックスターでも一流でもない私のレベルでいえば、『私はこう思います。なぜなら、こうこうだから、そうあるのが正しいからです。したがって貴方の意見は、ここが間違っています』という発言に責任を持つには

>こういう書き方は、すごく良くないと思います。
この理屈は「貴方は金持ちだからマナーを守れるんでしょうけど、私は貧乏だから守らなくていいの」というようなそれと、大差ないんじゃないですか?

>ですから、自分の視点を「絶対化」して、一部の人にある種のレッテルを貼り、特別 な責任を負わすというのは「不公正」なやり方だとボクは思います。議論の場では、力量 に差はあっても、「責任」や「権利」は対等なのではないでしょうか?

ということでは全然ないんです。
私と比較して「相対的」に『批評家』『論争家』『トリックスタ』『一流』と言ったものではなく、正しく論理的で客観的な事実をいったまでです。
意見の確信の有無は議論に関係ないというホランドさまの発言をうけたものなんですから。
でもがもっている)のところ(レベル)にしかいないから私は「批評家」でも「論争家」でも「トリックスター」でも「一流」でもないんです。
それは他の人がどのように評価するかは関係のない事実ですよ。
それに、お金の多寡とマナーとはなんの相関関係はないでしょ。おかしな比喩だったり、すでに自明の前提として言ったことを言われていたからきっとお疲れなんだろうと思ったのですよ。

>だから、今回の「議論」は、その『不十分』さを明確にするためになされたとも言えますし、その意味で大切なのは、今後における『不十分』さの自覚的な是正なんだと思います。

不十分というのは他者から見てそう見えるということですね。
言い訳がましくなるし、言いたくなかったんだけど、私は「こう思います」ということは最初に言っているし、曖昧になったことについては書きましたが、どういうふうに言えば、根拠説明になるのかよくどうか。でも、それしかないので最終的にはそれを語るしかないと思っていました。
ただ、マムさまが「感性の問題」といわれたことについて考えることが先決だと思っていたし、「三位 一体の神話」を読むように、早きに手際にあらずということだったので、読んでからでないと書けないと思っていたのですね。


「今」の私の立ち位 置(5) 投稿者:園主  投稿日:10月14日(火)15時13分28秒


 アーニャ(つづき)

この問題は「近ごろの若いもん」に限らない問題として、重要なものだ。メロドラマの「泣き」や、アクション映画の「痛快」しか求めえない感性は、いつの時代にも「主流派」だったという事実を、まずは踏まえておかねばなるまい。

『火垂るの墓』については、私も以前に評論を書いたことがある。そこで語った私の評価は、この作品には「生活派リアリズムの巨匠 高畑勲」の、現実にたいする「怨念」が込められている、というようなものだった。

『火垂るの墓』のあらすじは、戦災孤児となった幼い兄妹が、敗戦で荒んだ、あるいは敗戦でむき出しになった人間の冷たさにさらされ、やがて妹は兄の腕の中で蛍のように儚く死んでいく、というものだ。この残酷な物語を、高畑勲は可愛らしいキャラクターを使いながら、どこまでもリアルに、情け容赦なく描いていく。彼らをこの残酷な運命に追い込んだものは、「戦争」などという漠然としたものではない、最後は自分さえ良ければいいという、大人たちのエゴが、彼らにこのような運命を強いたのだ……というのが、監督の主張だったのだと思う。
そしてラストシーンの「幻想」場面では、兄と死んだ妹が蛍の舞い飛ぶ野原で仲良く立っているんだが、カメラが退くと、彼らの立っている野原の彼方に「現代の神戸のきらびやかな夜景」が覘き、その夜景を兄妹が見おろしているところで、この映画は終わる。つまり、高畑勲は、この兄妹の悲劇を「戦争悲劇」として描くつもりはなかったということなのだろう。兄妹をこのような運命に追いやった「人の心」は、「今」も変らずに生き続けており、彼らはそんな我々を遠くから見守り続けているのだ、という「観客への告発」映画。さながら、作中人物がくるりと振り返って、観客(読者)を指差し「真犯人は貴方だ!」と告発する態の物語、それがアニメ版『火垂るの墓』という作品だった。

しかし、この観客を騙し討ちにするかのような監督の「怨念」も、「かわいそう」といって「泣く」だけの相手には、まったく通 用しない。この強固な心理的シールド(=盲目)を破るにはどうすればいいのか。それが我々に与えられた、たいへん困難な課題だと言えるんだろうな。
だからそうした意味で、パレスチナの、アフガンの子供たちの問題も、決してこれと関係のない話ではないのだと思う。「かわいそう」といって涙を流し、幾ばくかの募金でもして「ああ私は、なんてイイ人」だと思うような人の中にも、剔抉すべきこうした問題(人間の深淵)は確実に生きているのだから。

> 神仏ならぬ、凡夫の身ですもの。それより、ヘンに枯れちゃあ、イヤよ〜☆(笑)

枯れたふりはしたい方だが、すぐに尻尾を出してしまうだろうな。一昨々日の行動だって、そうだから(笑)。それに、たぶん私は、枯れて「悟りすました」ような境地というのが、心底嫌いなんだと思う。だから決して枯れることはできないだろうな。


 ホランド
>  熱は下がりましたか? どうしても下がらない場合は、寝て忘れましょう(笑)。

ああ、おかげさまで熱は下がったようだ。もちろん、それは感情的な怒りが削ぎ落とされて、静かな怒りに研ぎ澄まされたということだ(笑)。

まもなく『物語の表現』展と、映画『フレディーVSジェイスン』が始まるな。楽しみだ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「今」の私の立ち位 置(4) 投稿者:園主  投稿日:10月14日(火)15時12分29秒


 アーニャ
>> 読みやすい入門書が氾濫すれば、それで満足してしまって、それ以上深めようとはしない人も当然出てくるだろう。そうすると、本陣(本来読まれるべき傑作)の方が、ますます寂れてしまうという可能性もないとは言えない。

> いかにも。
> その点、時を同じくして、映画『ロード・オブ・ザ・リング』が出来たのはよかったわね♪

ああ、あの映画は、きちんと作られた、本当に素晴らしい作品だと思う。適うことならば、多くの子供たちに、フロドの葛藤や、友情と義に生きる勇士たちの姿から、人間としての「美しさ」を学んでほしいものだ。

ただ不安はある。例えば、こないだ紹介した『若者はなぜ怒らなくなったのか 団塊と団塊ジュニアの溝
の中で、著者荷宮和子は、こんなことを紹介している。

『 ではなぜ「近ごろの若いもん」は、漫画や活字を読むと頭が痛くなるのだろうか。
 「読み取るべき情報量が多すぎるから」
 こういうことではないのか、と私は思う。
 では、「読み取るべき情報量が多すぎるコンテンツ」に接した場合、どういう対処法が取られるのか。
 (1)関わらない。
 (2)コンテンツの意味を単純化させ、限られた情報のみを受け取る。
という二つの方法を選択したのである。
 では、(2)の方法の具体例としては、どんなものがあるだろう。このことについて考えた時、私の頭に思い浮かぶのは、スタジオジブリ作品の一つ、『火垂るの墓』である。
 『火垂るの墓』は、戦災孤児だった野坂昭如の体験に基づいた小説をアニメ化した作品である。ゆえにその作品は、ただ単に「かわいそう」という感情を抱くだけではすまないと思える、そんな内容の映画だった。おそらく作り手は、観客にさまざまなことをいやでも考えさせようとしていたはずである。そうであるからこそ、受け手の側としても、「泣く」以前に諸々のことを考えてしまい、結局涙はひっこんでしまうものだった。
 とまあ、こんなふうに私は思っていたのである。ところが。
 最近よく聞くのが、「泣きたい時は『火垂るの墓』を見る」、という声である。どうやら、とある世代以降、『火垂るの墓』は涙をふきださせるためのツールと化したらしいのだ。
 いや、より正確に言えば、とある世代以降、「涙をふきださせるツール」が、日常生活を送る上での必須アイテムとなった、と言うべきか。「なぜ、そんなに泣くのか?」と言えば、「思いっきり泣くことは気持ちのいいことだから」、ということになるのだろう。「気持ちいいこと」は、「近ごろの若いもん」にとって、最優先すべき項目の一つである。
 こういった必要にかられ(いやしかし、本当に必要なのか?)、「近ごろの若いもん」は、『火垂るの墓』という映画から、諸々の意味を削ぎ落とし、「かわいそう」という意味のみを読み取ることにしたらしい。すなわち、(2)の「コンテンツの意味を単純化させ、限られた情報のみを受け取る」、である。
「戦災孤児になって最後は餓死してしまうなんてかわいそう」、以上。
 これこそ、「近ごろの若いもん」が、『火垂るの墓』の中に見い出した意味のすべてなのである。
 それ以上の「意味」を見出してしまえば、もはや、『火垂るの墓』で泣くことは叶わなくなる。
「それでは困る」
 自分で書いていてなんだか、「何がどう困るのか」、私のほうこそはっきりさせてほしい、といった気分である。ともあれ、これこそ、「今どきの若いもん」の読み取り方なのである。
  (中略)
「『火垂るの墓』は何度でも泣ける」を筆頭に、彼らの受け取り方は、私の世代とは明らかに違っている。私のような「レンタルビデオ第一世代=借りてきたビデオはダビングしないと損をしたような気分になる」にしてみれば、「同じものを何度も見ていれば、最初は気付かなかったことにも気付いて、見る度に新たな発見がありそうなものなのに……」という思いがあるため、「近ごろの若いもん」の映画鑑賞術には、随分と違和感を覚えたのである。
 が、最近ようやく私は気付いた。ああそうか、「近ごろの若いもん」は、「何度も同じ感情を味わいたい」からこそ、同じソフトを何度も見るのだ、ということに。
 つまり、「近ごろの若いもん」は、「見直す度に新たな発見がある喜び」を味わうためにリピートするのではなく、「一度見ただけですべてが了解できてしまう類の『わかりやすい面 白さ』」を何度も味わうためにリピートしているのである。アニメであれ、映画であれ、テレビドラマであれ。「あの気持ちよさをもう一度」、というわけだ。』




( 以下は「「今」の私の立ち位置(5)」につづく)


「今」の私の立ち位 置(3) 投稿者:園主  投稿日:10月14日(火)15時11分35秒


 楽古堂主人さま
遅ればせながら、お誕生日、おめでとうございます。

> ・ いろいろと、ネットに書き込みをしています。
> ・ 烏鷺堀酒造売店の、小品を乗せるための「酒肴集」に、マンガ家中里春平氏(現在のSM挿し絵画家、姫神龍人氏)の「花いちもんめ」考を掲載。
> ・ 十年に一度の傑作です。
> ・ ある出版関係者の方から、ユズキカズ氏の『水街』(青林工藝舎)の刊行には、拙文の影響もあっただろうという言葉を頂きました。

舞台はかわっても、相変わらずご活躍のご様子で安心いたしました。

影姫さまへのレスとも関係いたしますが、『ガロ』系のマイナーまんが文化も、専門書と同様に、いつの時代にも危機に瀕しているジャンルだと申せましょう。そうした意味で、楽古堂さまの啓蒙的でありながら啓蒙臭さのない批評の存在は、たいへんに貴重なものだと存じます。私自身は、そちらの方面 は苦手でございますが、その分、楽古堂さまのご活躍に期待したいと存じます。

> ・ 頭が良いと思われたいとか、感覚が鋭いところを見せたいとかいう欲望のためです。
> ・ 総じて、自己顕示欲と言われるものです。
> ・ 田中幸一君は、その欲望から自由な数少ない批評家。
> ・ 勉強をさせて頂きました。
> ・ そのことへの感謝の気持ちを、述べておくべきだと思いました。
> ・ 小生に、アーサー・C・クラーク、宮澤賢治、道元論の構想があるように、田中君の胸中には、中井英夫、大西巨人、日蓮がいると思います。
> ・ 十年計画で、努力してまいりましょう。

過分なるお言葉、恐縮にございます。

しかし、言うまでもなく、私とて『自己顕示欲』から自由なわけではございません。いいえ、むしろ私の「天邪鬼さ」の根源にあるのは、まさにこの自己顕示欲でございましょう。しかしまた、私の強い自己顕示欲は、並外れた「自負」に支えられたものでございますから、浅薄な自己顕示行動を好しとはしないどころか、むしろそれを「凡庸」な「恥ずかしい」ものとして排斥する傾向が強いのでございますね。ですから、私は見えやすい浅薄な自己顕示行動はしないのでございます。

これまで何度か書いたことでございますが、私が「かっこいい」と思うのは、「禁欲的な生き方」であり「(幻想としての)古風な日本人の(東洋の)美学」とでもいうものでございましょう。つまり、すごいことをしていても、それを自ら喧伝するようなことは一切しないとか、大変な努力をしているのに、それを表には出さずに淡々とした姿勢を崩さない……そんな態度に強く惹かれるのでございます。しかし、欲望も煩悩も人一倍強く、好きなことしかできない、堪え性のない私でございますから、もちろんそのような境地には程遠く、ですからこそ、せめて「見掛け」だけは、そんな「かっこよさ」を身につけたいと考えているのでございます。
その理想から言えば、今の私など話にならないほど未熟な存在ではございますが、理想とは所詮「目指すべきもの」だとも考えますし、その過程で、たまさか今回のようなお言葉をいただけたのは、誠にうれしく、これを励みにさらに精進してまいりたいものと存じます。

私の目指すものは「強く優しく、激しくも静かな武人」っといったものなのではないかと存じます。





( 以下は「「今」の私の立ち位置(4)」につづく)


「今」の私の立ち位 置(2) 投稿者:園主  投稿日:10月14日(火)15時10分52秒


 AOIさま
> パレスチナではテロリストになることを夢見ている少年がたくさんいるのかなぁ?哀しいですね。

パレスチナを取り巻く情勢は、さらに悪化しているようでございますね。今はただ、状況を見守るしかない立場を、噛み締めております。

> 「海月ダンス」をしている園主さま、想像するのって愉快よ(笑)。
> はやく、一緒に踊ってくださる方、みつかるといいですねぇ〜。
> それまで、お相手しましょ!

何もかも忘れてリラックスすることは重要でございましょう。朝(あした)戦うために、深い眠りが必要なように。

ですから、私のダンスはのんびりした「海月ダンス」から、いきなり激しいステップのダンスに切り替わります。なにしろ、かつて私は自身を『論理舞踏(武闘)派』と名乗ったくらいでございますからね(笑)。……それでも、『一緒に踊ってくださる方、みつかる』まで、お相手いただけますでしょうか?(笑)


 影姫さま
> 明日から4日ほど福島・宮城・岩手を周遊してきます。古本屋をみたいのもあるのですが、やはりたまには地元を離れて大自然や名所・仏閣を鑑賞したいと思っているのです。仙台では特撮サイトのメンバーと合流してオフ会にも参加します。きっと楽しい旅になるでしょう。

ご旅行、楽しんでこられましたでしょうか? 何か成果(古本)はございましたか? 特撮サイトのオフ会では、どんなことが話題となったのでございましょうか?

> 私の場合、『読む本』はブックオフの100円均一でしか買いません。ですから本代はほとんど古本に回せます。

私も現在は、古本屋で200円で買った、ウィリアム・ギブスンの『ニュー・ロマンサー』(早川文庫)を読んでおります。こういうのを、今さら定価で買うのは惜しゅうございますからね。

しかし、「100円均一」というのは、どうしてもベストセラー小説が中心となり、文庫になることのない地味な専門書などは、まったく読むことができません。そうした意味で、「100円均一」の便利さは、読書にとっては補助的なものとなってしまいますし、よく売れた(儲けた)本は「100円均一」でもよろしゅうございましょうが、売れない専門書(の良書)は、日本の出版文化を守るためにも、ある程度の対価は支払うべきでございましょう。そうでないと、出版文化もやがては「うければ善し」の利潤第一主義の貧困に陥ってしまいましょう。出版文化のハリウッド化は、何としても防がなければならないものだと存じます。





( 以下は「「今」の私の立ち位置(3)」につづく)


「今」の私の立ち位 置(1) 投稿者:園主  投稿日:10月14日(火)15時07分51秒

みなさま、本日は、私が「最近買ったお薦め品」についてご紹介させていただきます。まずは、一昨々日ホランドくんが言及しておりました『広河隆一さん総編集の写 真集叢書『世界の戦場から』(岩波書店)の第3回配本2冊』でございます。
『イラク 爆撃と占領の日々』(豊田直己)の、帯文は『劣化ウラン弾で大地は汚染され, 空爆と経済制裁で市民は疲弊しきっていた. イラクの人びとは嘆く――「サダムも米軍もいらない」.』。とにかく印象的あるいは衝撃的な写 真が多く、いちいち説明はいたしかねます。ひとまずは買わずとも、書店で手に取り、ぜひご自身の目でお確かめ下さいまし。
『ハイチ圧政を生き抜く人々』(佐藤文則)の帯文は『カリブ海に浮かぶ黒人共和国で, 民主政権の復活を夢見て闘い, 逞しく生きるスラム街の人びとの生活を十数年に渉って追った記録. 』。この叢書の企画に出会うまで、日本では『十数年』間、写真集として刊行する機会がなかったということでなのございましょう。つまり、豊かな日本、あるいは西欧諸国から完全に見放された小さな黒人国での、民主主義的な自由を求める「民衆の戦いの記録」でございます。もちろん、平凡な日本人の一人でしかない私も、ハイチについてはまったく無知であり、どこにある国なのかもまったく存じませんでした。この写 真集をきっかけに、我々が看過し看過させられてきた現実を、少しずつでも学んでいきたいと存じます。

つぎはがらりと変って、可愛いフィギュアでございます。イラストエッセイ『いつでもどこでもネコ町物語 ナーゴの子猫たち』『いつでもどこでもネコ町物語…ナーゴ』(モーリーあざみ野・NHK出版)は、最近、ネコ好きの間でベストセラーになった本でございますが、このイラストを忠実にフィギュア化したのが、今回ご紹介いたしますいつでもどこでもネコ町物語 ナーゴコレクション』(バンダイ・250円)でございます。ただし、今回発売されたのは、その「2」つまり第2弾でございまして、残念ながら私、第1弾を見逃しておりました。全12種類の『ナーゴコレクション2』は、精悍なネコから、可愛い子ネコまで個性的なキャラクターが揃っております。その中でも私が好きなのは、ナンバー7のクルド。「虫をつかまえた子猫」でございます。……こう書きましても、実物をご覧になれないみなさまには、何のことやらといった話でしょうが、機会がございましたら、ぜひ商品を手にとって外箱裏の「コレクション一覧」をご覧下さいまし。きっと欲しいと思うネコがいるはずでございますよ(笑)。

一方のぜんぜん可愛くないフィギュア(笑)は、前第1弾がその飛び抜けたクオリティーで評判になった『ウルトラマンイマジネーション』(バンダイ)の第2弾。ラインナップは『復活の宇宙忍者(バルタン星人)』『多々良島の死闘(レッドキング・チャンドラー)』『アントラー来襲(アントラー)』『ウルトラマンの最後(ウルトラマン・ゼットン)』の四種。前回同様、テレビの「着ぐるみ」の忠実な際限ではなく、生物としてのリアルさが独自の解釈で加えられた造形でございます。しかし、AOIさまを怯えさせた第1弾に比べますと、今回はやや「グロテスク」さが押さえられており、テレビのイメージに近づいていると申せましょう。やはり前回は「やりすぎた」と思える反応が少なくなかったのでございましょうね。とはいえ、今回も抜群のクオリティーで、高い期待を裏切らぬ 出来となっております。とくに『復活の宇宙忍者(バルタン星人)』は、数万円もするガレージキットまで含め、くりかえし何度の造形化されてきたバルタン星人のなかで、もっともユニークかつ最高の作品になっていると存じます。クリア素材と卓抜な彩 色によって実現したこの作品は、恐るべきレベルを誇る現今の食玩フィギュアのなかでも、新たな最高到達点を示すものだと申せましょう。





( 以下は「「今」の私の立ち位置(2)」につづく)


感謝とともに。 投稿者:楽古堂主人  投稿日:10月13日(月)13時24分16秒

皆様へ。
・ 誕生日のプレゼントに、十年前の教え子から、竹本健治さんの『トランプ殺人事件』(CBSソニー出版・1981年8月25日初版)を、期日指定の宅急便で頂きました。
・ 嬉しいです。
・ ネット・サーフィンをしていて、小生の名前を偶然に見付けたとのこと。
・ ありがとうございました。
・ 入手不可能だろうと、思っていた単行本です。
・ 旧知の方との再会は、嬉しいものです。
・ 奇縁を与えてくれた『花園』に感謝します。
・ 「地縁」でも「血縁」でもない、ネット上の関係である「通縁」の不思議も、ここにこなければ体験できなかったもの。
・ 新しい出会いもたくさんありました。
・ あらためて感謝いたします。


ホランド様へ。
・ 「非凡な平凡」を追求なさってください。
・ 情況の認識力が、非常に重要になりますね。


  楽古堂・大内史夫拝

  2003年10月12日(日)


おまじない 投稿者:AOI  投稿日:10月13日(月)11時49分08秒

☆楽古堂さま

〜こんなところでわたしの乳に触れたがるおまへと笹の舟に乗らうか〜
辰巳泰子さんのこの歌を目にした時、楽古堂さまの「花いちもんめ」考を思い出しました。



☆ホランドさま

> ・・・で、問題はここからです。岡さんの話を聞きながら園主さまの表情がだんだん険しくなってきて、傍目にもわかるくらいイライラしはじめ、岡さんの講演の途中で、いきなり入場の際にわたされた感想用紙にペンを走らせだしたのです。それを横から覗き込んで、園主さまが何に苛立ったのかが、ボクにもハッキリわかったのですが、そこに書かれていたのは、いかにも評論家田中幸一らしい、身も蓋もない正論による酷評でした。

何があったのかなぁ・・・(笑)?
私の想像では(笑)・・・パレスチナの現状を知られていないという日本の現実についての岡さんの批判が問題意識の有る、なしとして特権的に語られたから?

>こないだは、確かにちょっと疲れてたんですけど、どうしてそれがわかったんですかー!?

そりゃあー、ホランドさまのことなら、なんでも・・・ではないけど、だいたいわかるわよ(笑)。


>それにどうしてボクが疲れてたら、レスしてくれないんですかー!? レスがあった方が元気でるのにー!

疲れさせちゃうようなレスになっちゃうからよ。ホランドの逆鱗とか・・・ね(笑)。

>> 『くらげ水族館』

>でも、このサイト、ホントに素敵ですね。・・・で、ボクへのバースデー・プレゼントは?(冗談)

わすれていたわけじゃないの。ほんと。
遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます!
いくつになったんだっけ?なんてことは聞きません(笑)。永遠の少年よねっ♪
ホランドさまには海月が陸にあがって・・・こちら!かわいいでしょ!?大竹さんにも教えてさしあげたいわね!!(笑)。

http://www.kct.ne.jp/~bird/2003-kinoko-1.htm

ほんとは、翠ぼしさまのようにホランドさまのために十万一秒物語〜〇〇〇編〜なんていうのを書きたかったんだけど、どうもイマイチなの(汗)。
いつかかけるかな?待ってて!


園主さまの逆鱗(下) 投稿者:ホランド  投稿日:10月11日(土)23時44分03秒


 楽古堂主人さま
 お誕生日、おめでとうございます! 

 それにしても、楽古堂さまが48歳で、園主さまが41歳なんて信じられません。みなさん、文章を読んでるかぎり、十は確実にお若いですよ。・・・ボクの場合は、もっとかも知れませんけど(-_-;)。

> ・ いまAmazonにレビューを書いています。
> ・ レビューの書き方は、『花園』で学んだものです。
> ・ 書評もありますが、特にホランド君の映画評の影響でしょう。
> ・ 感想は、平凡でも良いのだということ。
> ・ 平凡というのは、みんなと同じ意見だということ。
> ・ それを隠す必要は、何もないのだということ。
> ・ 大多数の意見と、自分のそれが同じならば、臆すことなく書くべきだということ。
> ・ この単純なことが、できませんでした。

 『平凡』かあー(笑)。平凡と言えば、たしかに平凡ですよね。自分でも、当たり前のことしか書いてない、とは思ってますから。それにしても、・・・ボクが楽古堂さまに影響を与えたなんて、恐れ多いです(笑)。

 ただ、ボクとしては『自己顕示欲』とはべつのところで、「非凡な平凡」ではあるつもりですよ。つまりそれは、平凡な(当たり前の)意見も、それが語られる「状況」しだいでは「非凡」なものになる、ということです。例えば、平時に「反戦平和」を語るのは容易なことですし、そうした意味でそれは「平凡」な意見だと言えるでしょう。でも、世界がキナ臭くなってきて、世間に好戦的な空気が瀰漫し始めた時に、その世論に抗して「反戦平和」を語るのは容易なことではなく、それは自ずと「非凡」な意見になるでしょう。

 それと同じで、世間や周囲が求めている意見をなぞる態の意見は、それがいかに表面 上ユニークなものであっても、所詮は周囲と同レベルの「平凡」な意見でしかないし、逆にそうした世間や周囲の期待の裏に隠されているものを切り裂いて提示してみせるような意見というのは、たとえ結果 としては「ごく当たり前の指摘」であったとしても、周囲とは一線を画した見地に立つものとして「非凡」な意見と言えるでしょう。

 つまり、ボクが目指すのは、そういう「非凡な平凡」という「玄人好み」なんです(笑)。


 園主さま
 熱は下がりましたか? どうしても下がらない場合は、寝て忘れましょう(笑)。




 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


園主さまの逆鱗(中) 投稿者:ホランド  投稿日:10月11日(土)23時43分06秒


 AOIさま
>> 『正直な気持ちを話そう イスラエル、パレスチナ 45人のリアル・ライフ』(八木健次・たちばな出版)

> 早速、ご紹介の本↑をチェックしたいと思って書店へGO!
> 最近売り場を拡張したのできっとあるはず。
> ところが、店頭にない!カウンターで検索してもらうと、7冊入荷とのこと。さて、どこにあるのかな?
> 新刊コーナーにも、社会一般にも、写真集の棚にもどこにも置かれた形跡がないとのことで、奥の倉庫を探してもらう。待つことしばし、
> 「申し訳ございません。返品したようで・・・」
> 「え!?入荷したばかりなんでしょ?どこにも出すことなく返品したの!?」
> 「売れない本などは・・・」
> まだあどけない女子店員がひたすら申し訳なさそうに謝る。
> 「お取り寄せもいたしますが・・・」
> 「入荷したばかりの新刊を店頭にも出さずに返品したの?(ぶつくさぶつくさ)・・・」
> 「・・・・」
> 「内容を見てから買いたいので、ほかをさがします。紀伊国屋がこれじゃあ困るわねぇ!」
> なんて捨て台詞を残して帰ってきてしまったんだけど、担当者の認識しだいということなんでしょうね。
> 書店の社会的認識を考えてもらいたいのひとことぐらい言ってくるんだったな。

 けしからんですねー! でも、AOIさまの怒り方も、園主さま同様、ちょっと大人気ない、っぽいですね(笑)。

 ところで、今日、『シャヒード展』へ行く前に立ち寄った、共産党関係の人がやってると思しき新刊書店(ほかでは目にしない、党関係の本がいっぱいあるからわかる)に、こないだから園主さまが紹介していた、広河隆一さん総編集の写 真集叢書『世界の戦場から』(岩波書店)の第3回配本2冊が並んでいる見かけました。それで、その後合流した園主さまにそのことを報告すると「荷物になるから帰りに買おう」ということになりました。で、『シャヒード展』の後、紀伊国屋書店の大阪本店に寄ると、さっき紹介した中型書店では平積みになっていた写 真集が、2冊とも見当たりません。「新刊」の棚にも、「国際情勢」の棚にもない。「国際情勢」の棚には、第1回配本の2冊は置かれているのに、新刊分が一冊も置かれていないんです。で、カウンターでコンピュータ検索してもらったら、「写 真集」の棚に置かれていることが判明。書店のいちばん奥の「写真集」の棚の、そのいちばん奥のところに『世界の戦場から』の新刊2冊は置かれていたんですが、その周囲に置かれている写 真集といったら、山とか花とか犬とかネコとか自然とかを映した写真集がばかりで、およそ場違いなこと甚だしく、ここにおいてあったんじゃ、もとから探している人以外には売れないだろうなと思いました(ちなみに「写 真集」の棚のいちばん手前に置かれているのは、映画・タレント・ヌードの写 真集でした)。

> お疲れのようですね。レスはまた、こんどね。(^_^)

 こないだは、確かにちょっと疲れてたんですけど、どうしてそれがわかったんですかー!?

 それにどうしてボクが疲れてたら、レスしてくれないんですかー!? レスがあった方が元気でるのにー!

『くらげ水族館』

 でも、このサイト、ホントに素敵ですね。・・・で、ボクへのバースデー・プレゼントは?(冗談)





( 以下は「園主さまの逆鱗(下)」につづく)


園主さまの逆鱗(上) 投稿者:ホランド  投稿日:10月11日(土)23時42分08秒

 みなさん、こんばんは! こないだ園主さまが書いていらしたとおり、今日は二人でシャヒード展』に行ってきました。大阪での会場となった「大阪人権博物館 リバティ大阪」では、『シャヒード展』とは別に『安部清明の虚像と実像』展も同時開催されていて、こちらも興味深く見学してきました。
 今日は園主さまに午前中の仕事があったため、ボクたちが会場に着いたのは、大阪展開催記念のイベント「パレスチナとつながってみよう!」が始まる午後2時直前でした。このイベントは、閉館の5時ぎりぎりまでの予定だったので、イベント終了後では展示が見れないから、ボクたちは『シャヒード展』と『安部清明の虚像と実像』展を先に見ることにしました。どちらもわりあい小規模な展示だったので、両方を見てもそれほど時間はかからなかったのですが、それにしても園主さまが『シャヒード展』会場にいたのは、せいぜい5分ほど。はっきり言って、ざっと流しただけという感じでした。『安部清明の虚像と実像』展の方もそれほど熱心には見ていなかったようですが、ボクがこっちの展示物に興味を持ってねばったせいか、すこしだけこっちにいた時間の方が長かったようです。

 後ろのドアからイベント会場(会議室)に入ると、すでに主催者の挨拶は終っており、京都大学で現代アラブ文学を講じておられる岡真理さんが、『シャヒード展』の意義について話しておられました。
 ・・・で、問題はここからです。岡さんの話を聞きながら園主さまの表情がだんだん険しくなってきて、傍目にもわかるくらいイライラしはじめ、岡さんの講演の途中で、いきなり入場の際にわたされた感想用紙にペンを走らせだしたのです。それを横から覗き込んで、園主さまが何に苛立ったのかが、ボクにもハッキリわかったのですが、そこに書かれていたのは、いかにも評論家田中幸一らしい、身も蓋もない正論による酷評でした。そのあと、5分間の休憩に入ると、園主さまはやおら席をたって岡さんに近づくと、何かひとこと声をかけて、さっきの感想用紙を直接手渡してしまいました。「ああ、またやったな」と思ったけど、すべては後の祭り。ボクが席に帰ってくる園主さまに目配せをすると、園主さまは苦笑いを浮かべていました。

 そのあとは、インターネット電話で直接パレスチナの人たちと話をしようというメインイベントだったのですが、会場には50人ほどの参加者がおり、ひとりひとりが話すのは到底無理なので、四班にわかれて、それぞれ質問を検討し、代表者が直接話すという形になりました。しかし、その頃には園主さまもすっかり気持ちが退いちゃってる様子で、ボクもそっちの方が気になってたような体たらく。でも、会場役員の人が、参加者を四分して、意見の検討が始まりました。ボクは園主さまとは別 の班になったので、園主さまがどうしてたのか詳らかではないのですが、ボクに関していうと、女性メンバーに積極的な方が多かったので、もともと門外漢のボクは、簡単な自己紹介以外、ほとんど黙ったままでした。四つの班の打ち合わせが終り、いよいよ電話交流が始まると、最初のほうは代表質問者の要領が悪くて、短気な園主さまの様子はをうかがってみると、案の定またイライラしだしているのが窺え、ボクは園主さまがそのうち切れるんじゃないかと、ハラハラしどうしでした。でも、電話交流が予定より長引いて、閉会の挨拶もそこそこに解散となると、役員の人が掲げるカンパの紙袋も無視して、園主さまは怒ったように、さっさと会場を後にしてしまいました。

 で、帰り道に、園主さまが難しい顔をして言った言葉が「今日は書き込みはしないでおく」という一言でした。ボクもそれが正解なんじゃないかと思ったので、特に返事はしませんでした。

 ところで、このイベントでボクの印象に残ったのは、電話交流の時にイスラム大学(だったかな?)に通 う、あちらの学生さんが、こちらからの「日本人をどう思うか?」という質問に、「日本には好感を持っています。アメリカはイスラエル寄りだけれど」と答えたことでした。
 ・・・果たして、この人は、日本がアメリカの第一の子分であり、「対テロ戦争」にも多くのお金を出しているという事実を承知のうえで、このような区別 をしたのでしょうか? どうもボクには、そのようには思えなかったのですが・・・。





( 以下は「園主さまの逆鱗(中)」につづく)


レビューについて。 投稿者:楽古堂主人  投稿日:10月11日(土)18時53分00秒

皆様へ。
・ おはようございます。
・ 小生、今日で48歳。
「仮名手本 子に教えるつつ 歩む道 高きみ空に きんぽうげ咲く」
・ 前回、時間不足で書けなかったことの補足。
・ 10月9日は、ジョン・レノンの誕生日でした。
・ ひとり『イマジン』を聞いてお祝いをしました。
・ モーツァルトやバッハの独奏のヴァイオリン曲が好きだった、S.Nが 「なんと透明な!」と激賞した曲。
・ おそらく生涯に唯一、好きだったポップス。
・ 手塚治虫、宮澤賢治、アーサー・C・クラークとともに、思春期までの楽古堂に、もっとも影響を与えたのがジョン・レノンでした。
・ いまAmazonにレビューを書いています。
・ レビューの書き方は、『花園』で学んだものです。
・ 書評もありますが、特にホランド君の映画評の影響でしょう。
・ 感想は、平凡でも良いのだということ。
・ 平凡というのは、みんなと同じ意見だということ。
・ それを隠す必要は、何もないのだということ。
・ 大多数の意見と、自分のそれが同じならば、臆すことなく書くべきだということ。
・ この単純なことが、できませんでした。
・ 同じならば、沈黙していれば良いのだと考えていました。
・ しかし、沈黙は表現ではありません。
・ 言わなければ、他者には分からないのです。
・ 頭が良いと思われたいとか、感覚が鋭いところを見せたいとかいう欲望のためです。
・ 総じて、自己顕示欲と言われるものです。
・ 田中幸一君は、その欲望から自由な数少ない批評家。
・ 勉強をさせて頂きました。
・ そのことへの感謝の気持ちを、述べておくべきだと思いました。
・ 小生に、アーサー・C・クラーク、宮澤賢治、道元論の構想があるように、田中君の胸中には、中井英夫、大西巨人、日蓮がいると思います。
・ 十年計画で、努力してまいりましょう。


AOI様へ。
・ お読み頂き、ありがとうございます。
・ 「姉や」がいた時代を知らない方には、この微妙なエロスは、なかなか実感できないだろうと思っておりました。
・ 嬉しいです。



  楽古堂・大内史夫拝

  2003年10月11日(土)
  



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