●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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続・三浦しをんの秘密 投稿者:アーニャ  投稿日: 1月20日(火)23時30分27秒

アリョーシャ説の、ウラがとれたわよ〜♪
http://www.creatorsworld.net/archive/tokushu/index.html
まずは、ご覧遊ばせ。
にゃあ〜♪


ご参考 投稿者:アーニャ  投稿日: 1月20日(火)11時07分10秒

『エースをねらえ!』のTV朝日公式HPのリンク↓に貼っておくわね。
http://www.tv-asahi.co.jp/ace/
一応、主要登場人物の顔は見られるわよ。

内野聖陽さんって、1968年9月16日生まれの乙女座。
中井さん&竹本さんのお誕生日(9/17)と1日違い、惜しいっ!(笑)

それでは皆さま、ごきげんよう。
にゃあ〜♪


繰り返し(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月19日(月)17時06分56秒


 アーニャ
> 三浦しをん『格闘する者に○』(草思社)

>> 中田薔薇彦
>> 三浦しをんの「年上好み」は、かなりの筋金入り

> ……言葉もないわねー。
> Keenさまの「渋好み」は知っての通りだし(アラゴルンよりガンダルフが趣味、など)。
> アリョーシャもKeenさまも、きっとしをんさまとはいいお友達になれると思うわ。
> 後のことは、神のみぞ知る、ってトコね。

 園主さまによると、三浦さんの小説第2作『月魚』(角川書店)にも、二十歳ぐらいで七十歳くらいの老人と純愛のすえに結ばれたという女性が出てくるそうだよ。ここまでくると「年上好み」というよりも、Keenさまと同じ「老け専」・・・じゃなくてえー「老人好み」(笑)。

> あ、実写版『エースをねらえ!』は、なかなか良かったわよ〜♪
> 「宗方仁」に内野聖陽という配役もけっこうハマってたし、ゴエモンの黒猫も悪くなかったわ(笑)。

 けっこう真面目に、力を入れて作られてるみたいだね。上戸綾の「岡ひろみ」って、まあ無理はないなあーと思ってたんだけど、内野聖陽さんを調べてみて、「う〜ん、たしかに宗方仁にぴったりな雰囲気」と感心しちゃった。他のキャストの画像は見つけられなかったんだけど、とくに「お蝶夫人」なんて、気になるなあー。


 園主さま
> 2月末から開催予定の永遠の薔薇 ― 中井英夫へ捧げるオマージュに、当サイトでもお馴染みの銅版画家 多賀新さんの参加も決ったそうだ。いよいよ賑やかになってきたな(笑)。

 なんだかすごいことになってきましたね。
 ボクの書き込みもお役にたったようで、INFORMATIONの紹介記事も改訂されたようなので、みなさんにももう一度チェックしていただきたいです。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


繰り返し(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月19日(月)17時05分3秒


 AOIさま(続き)

> 予算や手間のかかることでは決してないと思います。

 そうかも知れませんが、「戦争」を描く、しかも「ベトナム戦争」を描くということは、それにさしたる意味を感じていなかったであろうアラン・パーカーにとっては、それ自体が手間で面 倒なことなんだと思いますよ。いくら正しいことだって、興味がなければ、人は動きませんからね。

> 「戦争の被害者」という側面だけの映画はごまんとあります。

 先例が『ごまん』とあっても、「自分もやりたい」ってことも多いでしょう。「恋愛小説」で「純愛」という側面 だけの小説を書きたい人が引きも切らせず、そんな人に「汚い部分」も描くべきだって言っても、なかなか納得はされないと思うんです。

> それは「大義名分の押し付け」ではなく、むしろ、制作者サイドが「政治的に」、カットしたのではないかと思えたから気になっているのです。

 ボクはそこまでは感じませんでした。どのあたりから、そうお感じになったんでしょうか?

> そう、「ベトナム症候群」は「小道具」なんですよね。
> そして、「小道具」なみの扱い方だと思うんだけど、その扱いが雑だと思う。
> 小道具は小道具としてもっとていねいに扱うべきで作品としてのバランスはよくなることはあってもわるくなることはないと思います。

 それはそのとおりです。でも、「すべて」の小道具を丁寧にという要求は、ほとんど実現不可能な理想でしょう。人間って、そういう風にはできていません。どんな立派な人でも、どこかが抜けてたり弱かったりするものです。

> 『ラスト・サムライ』の感想としては、私も同感です。
> でも、先住民族の虐殺が物語の背景にあることを描かなければ、あの映画は成り立たなかったですね。

 そうは思いません。主人公のトラウマは、別の体験でも代替可能だったでしょう。ただ、あれが一番わかりやすかったというだけです。その意味で『バーディー』の「ベトナム戦争」と同じです。

> 先住民に対しての迫害、差別にしても、人種差別にしても映画に描かれるようになるには社会一般 にその認識が形成されてからというのが、エンターテインメントとしての映画であればしかたないことなのかもしれません。
> それを社会的認識が形成される以前に描けるはずではないものかというのが今回言いたかったことです。

 お気持ちはわかりますが、難しいでしょうね。エンターティンメントというのは、基本的に「現状追認」という「大衆の心情」を反映したものですから、先走ればエンターティンメントたりえません。後に「早すぎた名作」と言われることはあっても。

> そうですね。不遜といわれようと、巨匠アラン・パーカーさまに失礼だといわれようと、分を弁えないと言われようと感じたことはいうということ(笑)。

 そのとおりです。「意見」の表明以前の、『分』なんてものは「差別意識」以外の何物でもないですよ。「有能・凡庸・無能」というのは厳然とあるでしょう。しかし「意見表明権」は、その誰にでもあるんですよ。無能な人間がお粗末な意見を表明して笑い者になる「権利」は、絶対に守らなければならない。これは「私は、君の意見に同意しない。けれども、君が意見を言う権利は、命がけで守る」というのと同じことなんです。

> ひよこ買って帰ったのはホランドさまだったの?
> ひよこが売られている露台をうらやましげに見ていたのが私です(笑)。

 ひよこは何度か買って(飼って)、たいていは死なせてしまいました。その時は可哀想だったけど、でもピヨピヨ鳴いてるひよこはとってもカワイイから、死なせたことなんて忘れて、また買っちゃうんですよね。

 そのうち、ある一羽がりっぱなニワトリに育ったんですが、そうなると獰猛で怖いくらいで、ちっともカワイくないんです。朝鳴きはするしカワイくないしで学校に寄贈したら、すぐにイタチかなんかに殺されてしまいました。なんだかそれが申し訳なくって、それ以来、ひよこは買わなく(飼わなく)なったんです。・・・でも、それもこれも、体験としては貴重だったと思いますよ。





( 以下は「繰り返し(4)」につづく)


繰り返し(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月19日(月)17時04分8秒


 Keenさま
> 今日、久しぶりにメールでつながった友人に、ここを紹介しました。そのうち、遊びに来てくれると嬉しいな。(^0^*

 書き込みをしてくださると、うれしいんだけどなあー。


 AOIさま
>> かつての政治にかかわりなかったベトナムの農民たちは、「無知」のゆえに政治にかかわらず、それゆえ「殺される理由」もないのにアメリカ兵に殺されたから、純粋な意味での「被害者」って言ったんです。

> う〜む。ここはおかしいと思うんだけど。私の読解不足ですか?
> 『「無知」ゆえに政治にかかわらず』というのは、わかるけれど、それゆえ『殺される理由』もないのにアメリカ兵に殺された』というのがわからんちん。
> なぜ、『それゆえ』でつながるのですか?
> 『アメリカ兵に殺された』主たる要因は『政治にかかわらなかった』ということではないと思います。

 説明不足だったようです。
 『『殺される理由』もないのにアメリカ兵に殺された』』というのは、「政治的知識があって政治にかかわり、アメリカと敵対した」わけでもないのに、つまり『殺される理由』もないのに殺された「農民」なんかが、ここでは『純粋な意味での「被害者」』として意識されているわけですよ。

 園主さまも書いてたけど、戦争の大義がどうであれ、戦場では敵対した者どおしが殺しあうのは当然です。目の前に「戦士としての敵」がいる以上、やらなければやられるわけですから。その意味で、政治意識を持ちアメリカと敵対した人たちが、戦場でアメリカ兵に殺されるというのは『殺される理由』はあるわけなんですが、アメリカと敵対する意思すらなかった「農民」たちは、ただ惨殺されたわけでしょ。それをボクは、ああいう風に書いたんです。つまり「政治にかかわらなかったから、殺された」ではなく「政治にもかかわってないのに、殺された」という意味。『それゆえ』は『「殺される理由」もない』に掛かっていて、『アメリカ兵に殺された』に掛かっているんじゃないんですよ。

> 映画『バーディー』

> 「戦争をきちんと描くべきである」と言っているのではないですね。
> 背景となっているベトナム症候群の「本質」を描くべきだったといっているだけ。
> つまり、ベトナム戦争が「自由のため」という大義名分の絶対善の戦いであり、その大前提がゆらいだからこそベトナム症候群があったということ。アルやバーディーの癒しがたい傷も。

 こないだも書きましたけど、ボクは、『バーディー』では「ベトナム戦争」は描かれていないし、描くつもりもなかった、と思っています。たしかに「ベトナム戦争」だという「設定」にはなっているけど、あれは「インパクトの強い、最近の戦争」として「ベトナム戦争」名義にしただけで、「ベトナム戦争」の固有性はまったく描かれていません。その意味で、あれは単に「悲劇の背景」としての「戦争」を描いただけだと思っているんです。

 じじつ、バーディーの戦場回想シーンでも、アルの戦場回想シーンでも、ジャングルと降雨という状況以外、特に「ベトナム」を思わせる「固有性」「特別 性」は描かれていません。つまり「ベトナム」であったからこそ『アルやバーディーの癒しがたい傷』が残ったという描写 ではなく、あれは単に「戦場で悲惨な体験をした」というだけの(説明)描写 なんですね。
 では、なぜアラン・パーカーは、そんな抽象的な「戦争」や「戦場」しか描けなかったのかというと、それは彼の描きたかったもの、つまり「主題」が、「戦争」にあるのではなく、「現実に生きていくことの意味」にあったからではないかと思うんです。つまりバーディーとアルが体験する「現実の汚らしさ・生きるに値しなささ」は、「戦争」ではなく「交通 事故」でも「幼児虐待」でも何でも良かったんだと思います。ただ、それをわかりやすく、しかも「絵になる」ように観客に伝えるには「戦争」が手っ取り早かったということだろうし、「戦争」のなかでも「ベトナム戦争」がわかりやすかった、という程度のことだったと思うんですよ。

 ですから、映画『バーディー』にかんして言うと、「ベトナム戦争」をきちんと描くべきだという考え方は「遠すぎる」という意味でハズしていると思うんですね。せめて「戦争」をきちんと描くべきだと言うのが、関の山なんじゃないかと。





( 以下は「繰り返し(3)」につづく)


繰り返し(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月19日(月)17時02分48秒

 みなさん、こんにちは! ・・・とうとう陸上自衛隊本隊が、イラクに向けて出発しました。新聞によると小泉政権の支持率が、43パーセントに持ち直したとか。国民の半数近くが、こんな小泉政権を支持しているのかと思うと、暗澹たる気分になります。結局、戦争へと傾いていく国に、危険な臭いを嗅ぎとり警鐘を鳴らすことができるのは、ごく一部の人であり、大半の人は危険自体に気がつかないか、気づいても何も出来ないんでしょうね。

 「国際平和協力活動」なんてきれいごと(建て前)は、第二次世界大戦時における日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」というきれいごと(建て前)とぜんぜん違わないと思います。主権者たる国民は、政府が言ってる「建前」を鵜呑みにするんじゃなくて、その奥に隠された「本音」を見抜かなければなりません。主権者として、主体的に賢明でなくてはならない。しかし、大半の人は「生活水にも困っているイラクの人たちを助けに行って、何が悪い」とか「自衛隊しかできない活動なんだから、自衛隊が行くのが当然だろう」なんて、投げ与えられた「建前」を、さも「自分の考え」ででもあるかのように鵜呑みにして、信じ込んでしまうようです。結局これは、多くの日本人が、戦後の平和な日本のなかでノホホンと生きてきたが故の、「国家」や「権力」というものにたいする警戒心の無さということなんでしょう。ひところ流行った言葉で言えば「平和ボケ」。「権力」というものが、いかに「国民」を蔑ろにするものかは、内外の歴史を見れば明らかなのに、そうした歴史的現実を、知的に内面 化していない人が多いから「まさか日本政府がそんなことはしないだろう」と安易に思ってしまうんですよね。

 でも、今の日本で起こっていることは、10年前なら想像も出来なかったことなんですよ。
 70年前、日本が戦争に傾いていった時も、国民の大半は、まさか国土の多くを焼尽するような戦争に、日本が突入するとは思っていなかったでしょう。戦争になっても「日本は米英帝国主義からアジアの自由を守るためにやむなく戦うんだ」から仕方ないと納得し、まさか日本がそのアジアの国々で残虐行為をするとは、夢にも思わなかった。

 「まさか、そこまでは・・・」と思っているうちに、事態はどんどんと後戻りの出来ないところまで進行していって、気がついた時には、国民は政府のやり方に疑義を挟めないような状況になってしまうんでしょう。そして「召集令状」が届けば、それを喜んで受けなければならず、家族も泣く泣く「バンザイ!」といって戦場へ送りださなければならなくなる、のかも知れない。少なくともこれは、ドラマの中だけのことではなく、ほんの70年前に日本で現実にあったことなんです。・・・そして、今の日本人が、70年前の日本人より賢いとは、お世辞にも言えないんです。
 だから、帝国アメリカへの追従を「やむを得ない」と考える人が大勢いる以上、日本はアメリカの都合で、どのようなことでもやることになるでしょう。戦争だって例外ではありません。ただ、それを「戦争」とは呼ばないだけなんだと思います。

 もしかすると、これは最悪のシナリオなのかも知れません。しかし、巨大な権力というものに対しては、それくらい警戒してかからなければならない。「ああ、まずいことになってきたぞ」と思った時には、もう遅い。すでに、今の段階で、すでにそうなのかも知れないくらいなんです。

 なんとなく「そうならないと、いいなー」なんて思っているだけだったら、力のある者は遠慮なんかしないんだから、自分の好きなようにやるでしょう。抵抗が無ければ「当然やる。やらなきゃ損だ」と彼らは考えるでしょうね。それでも、嫌なことは「そのうち誰かが何とかしてくれるだろう」という感覚に染まり切った日本国民は、お茶の間で「平和ボケ」の日々(という幻想)にしがみつこうとするのでしょう。たとえ、イラクで自衛官が殺されても、弔い合戦だという雰囲気が醸成され、今度は「戦闘部隊としての自衛隊」がイラクに派遣されることになっても、そして自衛隊とゲリラとの戦いが本格化し、中東イスラム社会から日本が「アメリカの一の子分」だと嫌悪を持ってみなされ、やがて国内でもテロが勃発し、日本政府によって「有事」宣言がされ、国民の各種自由(例えば、「言論表現」「思想信条」の自由)が制限されるようなことになっても、・・・それでも、たぶん「そのうち何とかなるだろう」なんて考えるんでしょうね。





( 以下は「繰り返し(2)」につづく)


ひよこの温かさ(下) 投稿者:AOI  投稿日: 1月18日(日)07時10分21秒

☆園主さま

>中井英夫や大西巨人や『愛と誠』に比べると、高村薫はメジャー過ぎて、共通 点としては弱いと思い、特に言及しなかったのでございます。

遠慮することはないぞ。どんどんエニシを探すのじゃ。

>その直感は当っていたようでございますね。Keenさまのご指摘で知ったのでございま
すが、「しをんのしおり」のバックナンバーには『お母さんの身代わりになって、お
父さんに愛されたい。そんな私は変態ですか。 』というタイトルの回(第49回)も
あるくらいでございますから。

ふふ〜む、そうであったか。やはり。勘はあたっていたか。喜ばしいことじゃのう。
これでこの縁も十中八九決まったようなものではないか。
いやー!これはめでたい!めでたい!
おっ!そうじゃ、酒をもってまいれ!酒を!前祝じゃ!!前祝の酒を!
そちも、もそっと近く寄って、飲め!飲むのじゃ!

ところで、毛剃りだけはおこたるでないぞ。わーはっは!!

お父上もことのほかお喜びのようで(^0^)/

>この論理展開はおかしゅうございます。おわかりでしょうか? なぜなら、この言
い方では、『勝つ』ためには『無垢な被害者』でなかったことも「やむを得ない」と
言っているも同然なのでございますよ。そしてそうだとすれば、この理屈は、今のア
メリカをも正当化してしまいます。「自分を守るためには、力が必要であり、力を振
るおうと思えば、無垢ではいられない。しかし、無垢な被害者にならないために、
我々は無垢を捨てて、現実的な暴力を選ぶ」という具合でございます。

違うと思います。『勝つ』ということと『負けない』『守る』ということは。
自国を戦場に変えてでも、守らなければいけない戦いと他国を侵犯して『勝つ』ため
に戦う戦争は一緒に出来ません。わたしは。

>おっしゃりたいことはわかります。つまり「映画」のなかでも、「アメリカ人の悲
劇」を描くだけではなく、その背景となった「ベトナム人の悲劇」も同等に描くべき
である、とおっしゃりたいのでございましょう?

同等に予算や手間をかけるべきだというのではなく、同等に考える視点で描くべきだ
ということです。

>むしろ我々が要求すべきは、「一人のアメリカ人青年の悲劇」を描くことで、象徴
的に「全人類の悲劇」を描く作品を目指すべきである、と助言することなのでござい
ます。

>単純な「公平主義」的要求では、作家はその要求を「いかにも政治的なもの」とし
か受け取れず、納得することはございませんでしょう。我々は彼らに何か要求する場
合、自己満足的に、自己の「文法」「方法論」を押しつけようとするのではなく、彼
らの「文法」や「方法論」を理解し、それに沿ったうえで、説得的な要求をするべき
なのだと存じます。

私が不満なのは『バーディー』は「同等に考える視点」があるはずなのに、「政治的
な配慮」によって、その視点をぼやかしてしまっているとおもえることにあります。
このように感じるのは私だけなのかもしれませんね。
『バーディー』が1984年の作品であることを考えれば致しかたないことなのかも。


>ベトナムは、北と南に分裂していた以上に、もっと複雑であり、いろんな考えや立場
の人たちがいたはずで、それをアメリカの前に立たせて、ひとしなみに『同情される
べき「無垢な被害者」』だと括ってしまうのは、あまりに第三者的で、かえって無責
任なように思えるのでございます。

私が言いたかったのは、前回でも書きましたように単にアメリカ人がいて、ベトナム人がいるというだけのこと。『同情される「無垢な被害者」』ということではありません。
それでも、「ベトナム人」というと『同情される「無垢な被害者」』と受け取られるというのは、やはり、潜在的に加害者意識があるということなのだと思います。
その潜在的加害者意識を表出させてほしかったということにすぎないんですけれどね。


ひよこの温かさ(上) 投稿者:AOI  投稿日: 1月18日(日)07時05分4秒

☆ホランドさま

>かつての政治にかかわりなかったベトナムの農民たちは、「無知」のゆえに政治にかかわらず、それゆえ「殺される理由」もないのにアメリカ兵に殺されたから、純粋な意味での「被害者」って言ったんです。

う〜む。ここはおかしいと思うんだけど。私の読解不足ですか?
『「無知」ゆえに政治にかかわらず』というのは、わかるけれど、それゆえ『殺される理由』もないのにアメリカ兵に殺された』というのがわからんちん。
なぜ、『それゆえ』でつながるのですか?
『アメリカ兵に殺された』主たる要因は『政治にかかわらなかった』ということではないと思います。

>「戦争をきちんと描くべきである」という場合、「なぜ戦争というテーマに優先権があるのか」という点についての説得的な説明が必要でしょう。それがないと「大義名分の押しつけ」、たとえば「革命的な映画を撮りなさい」と強制する中国共産党政権みたいになってしまいますからね(チャン・イーモウの『活きる』は、いまだに中国本国での上映は許されていません)。

「戦争をきちんと描くべきである」と言っているのではないですね。
背景となっているベトナム症候群の「本質」を描くべきだったといっているだけ。
つまり、ベトナム戦争が「自由のため」という大義名分の絶対善の戦いであり、その大前提がゆらいだからこそベトナム症候群があったということ。アルやバーディーの癒しがたい傷も。
予算や手間のかかることでは決してないと思います。
「戦争の被害者」という側面だけの映画はごまんとあります。
それは「大義名分の押し付け」ではなく、むしろ、制作者サイドが「政治的に」、カットしたのではないかと思えたから気になっているのです。

>ボクが言いたいのは、映画『バーディー』にとっての「ベトナム症候群」は、「小道具」でしかなかったということです。「小道具」には「小道具」なみの予算の掛け方、手間の掛け方があって、それを誤ると作品としてのバランスが崩れます。

そう、「ベトナム症候群」は「小道具」なんですよね。
そして、「小道具」なみの扱い方だと思うんだけど、その扱いが雑だと思う。
小道具は小道具としてもっとていねいに扱うべきで作品としてのバランスはよくなることはあってもわるくなることはないと思います。

>『ラスト・サムライ』の先住民虐殺描写だって、「理想化されたサムライ描写 」と同じく「紋切り型」だと思いますよ。その意味で、あれを決して『ちゃんと』した描写 だと言えるのかどうか。あれは一種の「反動形成」なんじゃないですか? それに、あの描写 は、あとで「理想化されたサムライ」を描くための「小道具(伏線=前振り)」に過ぎないとも言えます。つまり、ホントにどれだけああした歴史の重みを感じているかは、いささか疑わしい、ということです。その(表層意識としての)善意は疑わないとしても、同じ映画に感動できる人が「イラク戦争」を支持できるという現実も、決して忘れてはならないと思います。

『ラスト・サムライ』の感想としては、私も同感です。
でも、先住民族の虐殺が物語の背景にあることを描かなければ、あの映画は成り立たなかったですね。
先住民に対しての迫害、差別にしても、人種差別にしても映画に描かれるようになるには社会一般 にその認識が形成されてからというのが、エンターテインメントとしての映画であればしかたないことなのかもしれません。
それを社会的認識が形成される以前に描けるはずではないものかというのが今回言いたかったことです。

>> アラン・パーカーは優れた映画作家だとは思いますが、彼の作品でさえ有色人種への優等意識があるように私には思えます。

>それはあるでしょうね。ボクたちが不遜にも、巨匠アラン・パーカーに対して、認識的優位 意識を持っているように(笑)。

そうですね。不遜といわれようと、巨匠アラン・パーカーさまに失礼だといわれようと、分を弁えないと言われようと感じたことはいうということ(笑)。

なお、『有色人種への優等意識』と言ったのはアラン・パーカー個人ではなく彼の『作
品』についてですので、念のため。

>昔、縁日で買って帰ってきた、ひよこの温かさが、掌によみがえってきたよ(笑)。

ひよこ買って帰ったのはホランドさまだったの?
ひよこが売られている露台をうらやましげに見ていたのが私です(笑)。


やっぱり「生き別 れの妹」! 投稿者:アーニャ  投稿日: 1月18日(日)00時24分56秒

☆アリョーシャ

>中田薔薇彦
>三浦しをんの「年上好み」は、かなりの筋金入り

……言葉もないわねー。
Keenさまの「渋好み」は知っての通りだし(アラゴルンよりガンダルフが趣味、など)。
アリョーシャもKeenさまも、きっとしをんさまとはいいお友達になれると思うわ。
後のことは、神のみぞ知る、ってトコね。

あ、実写版『エースをねらえ!』は、なかなか良かったわよ〜♪
「宗方仁」に内野聖陽という配役もけっこうハマってたし、ゴエモンの黒猫も悪くなかったわ(笑)。

アリョーシャ、私もう眠いから、先に休ませてもらうわね。
それでは皆さま、良い夢を。にゃあ〜♪


三浦しをんの秘密(9) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時41分22秒


 Keenさま
> 『バーディ』について、「ベトナム戦争」という視点からの議論が続いてますね。私もまだ書き足りないことありますが、実は『バーディ』って、超一級のコメディでもあると思うんですよね〜(少年時代の回想の部分)。これについては、また改めて。

たしかに笑えるシーンはございましたが、『超一級のコメディ』とまで言えるかどうかは、いささか疑問でございます。私的には、「鳥になりたい」と願い、現実と折り合いのつけられなかったバーディーが、あまりに痛ましく思えたからでございましょう。……そう、ある意味でバーディーは、中井英夫と同じだったと言えるかも知れません。
ともあれ、お暇なおりに、Keenさまのご意見をお聞かせ下さいまし。

> 今日、久しぶりにメールでつながった友人に、ここを紹介しました。そのうち、遊びに来てくれると嬉しいな。(^0^*

本当にそうでございますね。しかし、またこのような長文に退かれてしまうのでございましょうか?(T_T)


 アーニャ
> アリョーシャが以前にここでご紹介してた、海洋堂のフィギュア+読み物(こういうのって、何ていうの?食玩じゃないし☆)『週刊わたしのおにいちゃん』の、公式HPがオーンしたようなので、リンク↓に貼っておくわね。

http://www.wata-oni.net/

> ナルホド、入魂の力作、というだけのことはあるわね〜。
> でも、アリョーシャ的には「男の子バージョン」希望!じゃないの?フフフ♪

> ボクは「図星」と見た(笑)。(<ホランドくん)

むむむ……(-_-;)。

しかし、星崎龍さんのデニムとディアのフィギュアが、このクオリティーで作られたら、私は一生、海洋堂の方に足を向けて寝たりはしないと誓うんだがなあー。


 ホランド
中井英夫情報をひとつ。

2月末から開催予定の永遠の薔薇 ― 中井英夫へ捧げるオマージュに、当サイトでもお馴染みの銅版画家 多賀新さんの参加も決ったそうだ。いよいよ賑やかになってきたな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


三浦しをんの秘密(8) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時40分39秒


 AOIさま(つづき)

> ベトナム戦争は冷戦構造の中で起こったことで『「ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」ではない』にしても明らかに圧倒的な被害者であると思っています。そして、無垢な被害者でなければアメリカ人であれ、ベトナム人であれ血を流し、死んでもいいとも思わないし、それでベトナムを「絶対善」の権威にしているとは思いません。
> アメリカ人の命もベトナム人(有色人種)の命も同等に考えよといいたいだけ。
> 批判する際のことについては、わかりますが。

おっしゃりたいことはわかります。つまり「映画」のなかでも、「アメリカ人の悲劇」を描くだけではなく、その背景となった「ベトナム人の悲劇」も同等に描くべきである、とおっしゃりたいのでございましょう? それは間違ってはおりません。しかし、娯楽映画などで描かれる「悲劇」は、ドキュメンタリー映画とは違って、全体を描くものではございません。観客が感情移入しやすいように「個人の悲劇」が描かれ、そこから観客は「悲劇」の大きさを想像的に敷衍することを期待されているのでございます。つまり「一人のアメリカ兵の悲劇」を描いた映画は、単に「彼個人の悲劇」を描いたのではなく、ベトナムへ行ったアメリカ人兵士すべての悲劇を「象徴的」に描いたものなのだと申せましょう。

ですから、AOIさまが要求しておられるような「具体的に、もっとベトナム人側も描くべき」というような考え方は、作家のやり方にはまったく沿わないものなのでございます。それは、絵描きに「芸術は、画像に止まるものではないから、音も考慮した作品を作るべき」と要求するようなものでございます。それよりも、むしろ我々が要求すべきは、「一人のアメリカ人青年の悲劇」を描くことで、象徴的に「全人類の悲劇」を描く作品を目指すべきである、と助言することなのでございます。

たしかにアメリカ映画は、その射程が国内に止まりがちであるのは否定できませんが、かと言って、単純な「公平主義」的要求では、作家はその要求を「いかにも政治的なもの」としか受け取れず、納得することはございませんでしょう。我々は彼らに何か要求する場合、自己満足的に、自己の「文法」「方法論」を押しつけようとするのではなく、彼らの「文法」や「方法論」を理解し、それに沿ったうえで、説得的な要求をするべきなのだと存じます。

> 園主さまが『「ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」でしかなかったのかと言えば、そんなことはありえませんでしょう。そうした現実認識に立って・・・』と言われた意味が私にはよくわかりません。もう少し、お聞かせ願えませんか?

そのままでございます。ベトナム戦争を『冷戦構造の中で起こったこと』であるという側面 からのみ捉えれば、「アメリカが加害者で、ベトナムが被害者である」という単純な図式が成立いたします。
しかし、一国の歴史と政争の現実というものは、そんなに単純なものでも単層的なものでもない、と私は考えるのでございます。ですから、そうした現実認識に立てば、『「ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」でしかなかったのかと言えば、そんなことはありえません』ということになるのでございます。ベトナムは、北と南に分裂していた以上に、もっと複雑であり、いろんな考えや立場の人たちがいたはずで、それをアメリカの前に立たせて、ひとしなみに『同情されるべき「無垢な被害者」』だと括ってしまうのは、あまりに第三者的で、かえって無責任なように思えるのでございます。





( 以下は「三浦しをんの秘密(9)」につづく)


三浦しをんの秘密(7) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時39分57秒


 AOIさま
>> やっぱり「父親としての愛」という立場しかないのか……。そこまでの年齢差はないんだがなー(-_-;)。

> そうがっかりすることも・・・(笑)。
> 書店で『妄想炸裂』立ち読みしました。三分の一くらいかな?
> 大爆笑〜〜。
> またまた、タニシ、もといエニシ発見!!高村薫ファン。よかったね〜〜。

中井英夫や大西巨人や『愛と誠』に比べると、高村薫はメジャー過ぎて、共通 点としては弱いと思い、特に言及しなかったのでございます。ですが、読みどころに共通 点はございましょう。私も高村については、そのデビュー作から、意外な「やおい」臭を嗅ぎ取っておりましたから(笑)。

> それから、ちょっと、しをんさまってファザコンぽいような・・・(直感/笑)?
> だから、「父親としての愛」って微妙かも〜!?希望はある!!???

その直感は当っていたようでございますね。Keenさまのご指摘で知ったのでございますが、しをんのしおりのバックナンバーには『お母さんの身代わりになって、お父さんに愛されたい。そんな私は変態ですか。 』というタイトルの回(第49回)もあるくらいでございますから。

> エッセイの中から一冊買おうと思うんですけど、一番のおすすめは?

う〜ん、どれも面白いのですが、さすがに文章力はアップしてきておりますから、あえて申しますならば、最新の『夢のような幸福』でございましょうか。

> 映画『バーディー』について

> そうですね。アルやバーディー個人をを責めるために『たしかに彼は戦争の被害者だ。しかし、彼はベトナム戦争の加害者だ』といったわけではありません。これはあくまで、映画の中のドラマにすぎないんですから。映画の可能性を問いたかったんですよ。

と申しますか、私が言いたかったのは、批判者の「拠って立つところ」の問題であり、批判の対象が「現実の戦争」か「映画」か、あるいは「現実の人間」か「作中人物」かといったことではないのでございます。

> 『「ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」でしかなかったのかと』ということになれば、もちろん「無垢な被害者」ではなかったでしょう。無垢な被害者であれば、圧倒的な軍事力をもつアメリカに勝てるわけはないですからね。

この論理展開はおかしゅうございます。おわかりでしょうか? なぜなら、この言い方では、『勝つ』ためには『無垢な被害者』でなかったことも「やむを得ない」と言っているも同然なのでございますよ。そしてそうだとすれば、この理屈は、今のアメリカをも正当化してしまいます。「自分を守るためには、力が必要であり、力を振るおうと思えば、無垢ではいられない。しかし、無垢な被害者にならないために、我々は無垢を捨てて、現実的な暴力を選ぶ」という具合でございます。

もちろん、AOIさまにこんな理屈を肯定する気はなかったでしょうが、結果としてこうなってしまったのは、ベトナムを肯定することを大前提として、理屈を構築してしまったからだと思われます。





( 以下は「三浦しをんの秘密(8)」につづく)


三浦しをんの秘密(6) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時36分0秒


このようなわけで、この小説からは、三浦の「エッセイには出てこない部分」、ある意味では「意図的に伏せられている部分」を読み取ることができて、ファンとしてはたまらないのでございますね。きっと三浦は、本作でここまで書いてしまったために、エッセイでは「出版社の面 接をうけた」という事実を伏せたのでございましょう。「あれはあくまでもフィクションだ」という建て前を破綻させないために。

そしてこうした「裏読み」の後に、現時点での三浦の著作が、

  『格闘する者に○』(草思社)
  『極め道』(光文社)
  『妄想炸裂!』(新書館)
  『月魚』(角川書店)
  『白蛇島』(角川書店)
  『しをんのしおり』(新潮社)
  『秘密の花園』(マガジンハウス)
  『人生激場』(新潮社)
  『恋愛小説の七日間』(角川書店)
  『夢のような幸福』(大和書房)

となっており、「講談社」からは1冊も出ていない事実に、面白く気づかされるのでございます。そう言えば、前掲の「K談社の面 接シーン」で、主人公可奈子が面接のブースから出てきた後のところに、つぎのような描写 がございました。

『学生たちにトイレの場所を教えたり、面 接官に飲み物を運んだりと、会場全体に気を配っていた人事のおじさんが、ニコニコと声をかけてきた。
「どうでした。うまくいきましたか」
 エレベーターを待っているのは、ちょうど私一人だった。
「いいえ。もう二度とここには来られないと思いますし、来ないと思います」
 開いたエレベーターの中に滑り込み、私は真面目に働いているおじさんに頭を下げた。閉まる扉の間から、言葉もなく立ちすくんでいおじさんが見えた。あの人に言うべきことでもなかったと、後悔と改めて沸き上がる怒りに、私はエレベーターの中でずっと唇を噛んで、階数表示を見つめていた。』(P168〜169)

ここまで書かれているのですから、講談社の責任者は、それが事実無根だと思うのなら、三浦に対し謝罪を求め、本の絶版、書き換えくらいは要請しても良うございましょう。もちろん、事実としてそのようなことがあったと思うのならば、三浦がこの先、有名作家になる前に、きちんと謝罪しておくべきだと、私は考えます。どうせ、バカ編集者本人は心から反省することなどないでしょうから、せめて上司が会社の不名誉を濯ぐためにも、進んで謝罪すべきだと、私は斯様に考えるのでございます。

ちなみに、前掲のとおり、三浦が角川書店をオチョくるようなことを書きながら、同社から重用されているというのは、三浦がおちょくったのが、現社長に追い出された前社長角川春樹の個性だったからでございましょう。「背景読み」は斯様に面 白いものなのでございます(笑)。

さて、最後に付け加えておきますと、私が三浦しをんを紹介した友人たちからは、すでに「三浦はファザコンの傾向あり」とか「ずいぶん年上が好みみたい」という指摘がなされているのでございますが、なんとこの作品では、主人公可奈子の恋人は、『六十五〜七十歳といったところ』の『書道家』で「脚フェチ」の心優しい『老人』なのでございます。そして、可奈子は真面 目にこの老人を愛し慕っており、その男女関係の特殊性については、とくに何の説明も加えられてはいないのでございます。つまり、作者には「女子大生の主人公の恋人が老人であったって、特別 な説明の必要などない」という感覚なり確信なりがあったということなのでございましょう。したがいまして、作者三浦しをんの「年上好み」は、かなりの筋金入りだと言えそうなのでございます。





( 以下は「三浦しをんの秘密(7)」につづく)


三浦しをんの秘密(5) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時35分7秒


次は、S英社の面接シーン。

『私は大部屋を出ると、女性社員の後について会議室の中の一つの前に立った。目で促され、
「失礼します」
 と声をかけて入室すると、大きな窓を背にして、横一列に五人の面接官が座っていた。彼らは立ち上がって、私が名乗り、「よろしくお願いします」と立ち読みしたマニュアルどおり挨拶するのを受け、
「まあおかけください」
 と部屋の真ん中に一つ置かれた椅子を、手で示した。そして私が座るのを確認して、また腰をおろす。何百人もいる学生たちに対して、それぞれの部屋でこれをしているのかと思い、ずいぶん会社によって毛色が違うものだなと感心した。』(P170〜171)

見てのとおりでございます。
『K談社』や『S英社』と表記されているのを見て、「講談社」と「集英社」が連想できないような人は、たぶん三浦の本など読むことはございませんでしょう。したがいまして、いちおう伏せ字にしてあるとはいうものの、作者とて、読者の大半に、作中の出版社の「モデル」がどこであるのか、それが伝わることくらいは承知のうえで、あえて確信犯的にこのような表記を選んだのでございましょう。
このようなことから、私は、ここに書かれていることは、「ほぼ実話」なのではないかと推察いたします。そうでなければ、これらの描写 は、少なくとも「角川春樹社長時代の角川書店」や「講談社」にたいする隠微な「誹謗中傷」と非難されても仕方ございませんし、それくらいのことは作者とて承知の上だろうからでございます。

じっさい、ここ「花園」をご覧のみなさまなら、作中で言及される『中田薔薇彦』のモデルが「中井英夫」であることは容易に推察できますし、であるならば、主人公が『「御社から一冊だけ文庫が出ているはずですけど」』と指摘し、同社の編集者が『「はははー。未だに残ってんだ。すぐ絶版だろ。読んだことないけど」』と受けた本のモデルが『虚無への供物』であることも、容易に推測できましょう。そこで実際、作者の三浦しをん(か、その友人か)が、講談社の面 接でこのような体験をしなかったなどということが考えうるものでございましょうか? すべてが三浦の作りごとである、などということがありうるのか? そんなことはまずありえますまい。なぜならば、作りごとでこんなことを書けば、これは現実の講談社と講談社の編集者への「無根拠な誹謗中傷」以外の何物でもなくなるからなのでございます。例えば、本書のタイトルにも使われた、「該当」という感じを「カクトウ」と読んで『「カクトウするものに丸をしてください」』といった 『K談社の男』の実在も、三浦が大学を卒業する前年、つまり1998年の講談社の採用試験会場を知る者なら「ああ、そういうのがいたなあ」と思うでしょうし、何より本人が「俺のことだ」と思い当たることでございましょう。私の会社の上司が、先日「他人の財物をあずかった場合は、どんなことがあっても責任をもって保管しなければならない」という主旨の話をした時、実際にはこんな風に申したのでございます。「われわれのテチューに入ったものは、絶対に責任をもって保管しなければなりません」……「テチュー」という言葉は二、三度繰り返されましたが、これはもちろん「手中(しゅちゅう)」のことでございます。で、この例からもわかりますとおり、こういう笑える思いこみというのは、図らずも露呈するものであり、意識的に創作するのは案外困難なものだということなのでございます。ですから『カクトウするものに丸』というのも、ほぼ間違いなく実話だと、私は推測するのでございます。





( 以下は「三浦しをんの秘密(6)」につづく)


三浦しをんの秘密(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時34分21秒


そして次が、問題の「K談社での面接」シーン。

『割と早く名前を呼ばれた。やれやれ良かったと、指示されたブースの前まで行くと、ついたての向こうで面 接官同士が何やら楽しげに話しているのが聞こえた。声をかけていいものか迷っていると、人事のおじさんが、行け行けと合図する。仕方なく、間抜けだと思いながらもついたてをノックして、「失礼します」と顔を覗かせた。
「ああ、もう来ちゃったよ」
 とニヤニヤしながら一人が言う。(中略)狭いスペースには、三人の男が並んでひしめき合って座っていた。(中略)彼らの前には長机があり、私の提出したエントリーシートや試験の結果 の資料らしきものなどが載っていた。太っている男は真面目な面持ちで、真ん中の、先ほど心ない発言で私の小さな胸を痛め付けた男は相変わらずニヤニヤと、それぞれ私と手元の資料を見比べる。向かって右手の最後の男は、てんで興味がないらしく、資料も私もチラとも見ずに、煙草の煙を宙に吐き出していた。
  (中略)
「君さあ、運動とかする? 出版社は体力だからね」
「運動はあまりしません」
 私は極度の運動音痴である。しかし、また否定的な事を言ってしまったとやや焦り、フォローを考えた。
「でも、日常の生活はちゃんと送れるぐらいに健康ですし、風邪も滅多にひきません」
 ニヤけた男は鼻で笑い、
「女の子相手にうかつなことを言うと、今はセクハラだなんてうるさいから、やりにくいねえ」
 と突然、煙草を消して退屈そうに頬杖をついていた第三の男に話しかけた。煙草男はその時になって初めて私をちょっと見て、フフンと肩をすくめた。さすがに、ここに来て頭の血管に血が大量 に流れ込んだ。この人たちは一体どういうつもりなんだろう。そういうことを言う時点でセクハラというか、十分性差別 的な自分をさらけ出してしまっていると思うのだが、それを恥ずかしいとも感じないのだろうか。こういうことに目くじらを立てると、「扱いづらい女」と思われて敬遠されるのかもしれないが、こんなあからさまに失礼な態度を取られたことは初めてだったので、怒りよりも戸惑いが勝った。
  (中略)
 太った男が、モゾモゾと尻を浮かせてハンカチを取り出し、額の汗を拭った。なんだか彼は気疲れしているようだ。ちょっと可哀想になったし、こんなスカした男たちを怒鳴っても馬鹿らしいと思い、次の質問を待った。
「本は、どんなものを読んでいますか」
 あくまでも出版社らしい質問をしようと、太った男は心を砕いている。(中略)汗を流しながら必死に面 接の体裁を取り繕おうと努力している人間がいる。彼がいるかぎりは、私もその努力に誠意で報いることを放棄するわけにはいかない。
「はい、日本の小説が多いです。最近では中田薔薇彦を読んでいます」
「売れないなあ」
 探偵小説界にその名を残し、孤独の中で真摯に自分の美的世界を表出しようとあがき続けた偉大な小説家を、横合いから口を挟んだニヤけた野郎は一言で片付けた。絵に描いたような俗物ぶりに、この人は面 接においてそういうキャラクターを演じる役目を割り振られたのかなあと、真剣に考えてしまう。売れる売れないだけで物事を論じて、よくも出版社で働いていられるものだ。
「御社から一冊だけ文庫が出ているはずですけど」
「はははー。未だに残ってんだ。すぐ絶版だろ。読んだことないけど」
 そうだろうとも。今まで経験したことのないほどの軽蔑を覚えた。(中略)私は編集という職についている人に対する幻想や憧れが崩れたことを感じた。この誠意のかけらも知性の残り香もうかがえない、ポーズだけの人間は何だろう。そんなに面 接が面倒なら、僕は会社のための新入社員獲得には興味がありませんと、はっきり辞退でもしたらどうだ。ただの給料泥棒ではないか。相手が下手に出るしかない立場なのをわかって、こういう人も無げな振る舞いをする輩が、本当に存在するとは。
「はい、もういいよ」
 手で追い払うように退出を命じられて、私は椅子から立上がり、きちんと頭を下げながら礼を言った。ニヤけ男と煙草男は、すぐにまた大きな声で、会話を始めていた。太った男だけが、軽く会釈して私を見送った。』(P161〜168)





( 以下は「三浦しをんの秘密(5)」につづく)


三浦しをんの秘密(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時32分46秒


つぎは、対称的に描かれる2大マンガ出版社としての『K談社』と『S英社』。つまり、講談社と集英社でございます。

まずはK談社の筆記試験会場でのこと。

『 一体何千人いるんだ。会場に入った私と仁木君は、愕然とした。体育館をいくつもいくつもくっつけたぐらい大きなスペースに、びっしりと机が並べられ、一番前で説明をしている社員の姿は、小指の先ほどにしか見えない。もちろんマイクを使っている。(中略)
「この何千人の中から、最終的にK談社に入社できるのは……」
「だいたい毎年二十人ちょっと。編集にいたっては十五人前後。女性は五、六人」
  (中略)
 私たちは、並ぶ机の列の中に足を踏み入れた。受験票と照らし合わせて、自分の席を探すのも一苦労だ。もう名前の記入法などの説明に入っている。ちょっと焦って、キョロキョロと席を探した。すると、前方で説明していたK談社の男が、
「カクトウするものに丸をしてください」
 と言った。なんのことだろうと私は思ったが、仁木君がすかさずツッコミを入れた。
「ガイトウだろ」
 ああ、「該当」のことかとわかって、なんだか力が抜けた。
 K談社の男は、はるか彼方で「カクトウ、カクトウ」と繰り返している。
「これは僕たち、案外受かるかもしれないよ」
 仁木君はいつもどおりの仁木君に戻って皮肉っぽく言うと、じゃあねと軽く手をあげて、見つけた自分の席へと向かって行った。私もさらに辺りを見回して、ようやく席についた。』(P130〜132)





( 以下は「三浦しをんの秘密(4)」につづく)


三浦しをんの秘密(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時30分37秒


そんなわけで、エッセイでは三浦が「古本屋でアルバイトをした」ということは書かれていても、「出版社に就職活動をした」ということは書かれておりません。三浦のエッセイ集5冊のうち、現時点で読んでいないのは『極め道』のみなのでございますが、そこにそうしたことが書かれている可能性も、かなり低いと思われます。と申しますのも、かなりの部分、現実体験を下敷きにしたであろう本書『格闘する者に○』において、三浦は、はっきりと現存の出版社をモデルにしたと考えていい作中の出版社を、かなり批判的に扱っているからなのでございます。

例えば、角川書店をモデルにした『丸川書店』は、

『 言われたとおり、大通りから一本脇道に入ると、右手に大きなキンピカの建物があった。
「すっ、すごいねーニキちゃん。新興宗教の建物みたいだよ」
 仁木君もあんぐりと口をあけて、二人でしばし呆然としていた。
「ホントにこれなのか」
 ちょっと嫌そうに仁木君はつぶやく。たしかに建物に趣味は悪いとしか言いようがなかった。
「うん。だってホラ」
 大きな玄関の自動扉の上には、これまた金色に輝く、シンボルマークのウサギがはめ込まれている。
「噂どおり、神がかってるな」
 諦めたのか、仁木君はスタスタと建物に入って行った。私も慌てて後を追う。
 玄関ホールが、これまた曼陀羅のような意匠のタイル張りで、なぜか隅には甲冑がおいてある。
「な、なにあれ。出版社なのに」
「映画で使ったんじゃないか?」
 ボソボソと言っていると、ものすごく化粧の濃い受付のお姉さんが、
「エントリーシートですね、どうぞ」
 と渡してくれた。どうやらサッサと出ていけということらしかったので、礼を言ってそそくさと退散することにした。
 新興宗教御殿から出ると、わずかの間に雨は本降りになってしまっていた。
「タタリじゃあ」
 などと馬鹿な事を言いつつ、駅前まで走って戻る。なんだか疲れたので、適当な店に入ることにした。』(P39〜41)

ご承知のとおり、角川書店第2代社長の角川春樹は、「神憑かり」で有名なワンマン社長でございました。『祟りじゃあー! 八つ墓の祟りじゃあー!』で有名な横溝正史原作の『八つ墓村』など「名探偵金田一耕助」ものの映画を大ヒットさせ、「角川映画」をブランドとして打ち立てた後は、春樹自らが監督をつとめた歴史映画大作『天と地と』などを作って話題となったのでございます。しかし、春樹は大麻事件で逮捕されたり、その独自のカリスマ性の反面 、そのワンマンぶりに反感を抱く者も少なくなく、結局は角川書店社長の座を、実弟の歴彦現社長に逐われるのでございます。





( 以下は「三浦しをんの秘密(3)」につづく)


三浦しをんの秘密(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月16日(金)23時29分47秒

みなさま、私、昨日、三浦しをんのデビュー作『格闘する者に○(まる)』(草思社)を読了いたしました。初版刊行日は『2000年4月14日』で、著者略歴には『1999年春、早稲田大学第一文学部卒業。本書は書き下ろし長編小説の第一作になる。Boiled Eggs Online(http://www.boiledeggs.com)にて、読書エッセイ「しをんのしおり」を毎週連載中。』とございますから、本書は、大学卒業後1年にして刊行した「書き下ろし長編小説」というわけでございます。
さて、結論から申すと、この作品は、小説としてはまだまだ拙いと申しますか、著者の若さをそのまま反映して「幼い」という印象がございます。その意味で、客観的には決して高くは評価できないのでございますが、そこで扱われている題材が特殊であるために、その点で可能な「物語の背景」への深読みが、たいへん興味深く面 白い作品となっているのでございます。

主人公の藤崎可奈子は、現在就職活動中の大学4回生。趣味はマンガを読むことで、町で古本屋を見かけるとついフラフラと立ち寄ってしまいます。運動神経は鈍いのですが、マンガには一家言あって、マンガ編集者になることを夢見て、出版社へエントリーシートを提出。採用試験の内容に首を捻ったり、面 接官の態度に憤りを感じたり、という日々を送っております。
家族は、父と後添いの義母と腹違いの弟の4人家族。父は政治家で、ほとんど家には不在。実質的には義母と弟の3人家族。もともとは可奈子の実母の父親、つまり祖父が政治家で、父は入り婿となって祖父の地盤をついでおり、今度はその父の後継者をどうするかという厄介な話が、うるさい親戚 筋、後援会筋から出てきているところなのでございます。義母はそんな家に後添いとして嫁いできたせいで、今ではどこか屈折をかかえ、そのため弟は母よりも姉に懐いて育ったという始末。その弟は、姉とはちがって、カリスマ性のある、できた弟。でも、姉と同様、父の仕事を継ぐ気はなく、彼を後継者に推し立てようと画策する人たちを、迷惑に感じております。
変わり者の可奈子の友人は、美人だけれどやっぱり浮世ばなれしたした変わり者の砂子と、いつでも本を読んでいるこちらも変わり者の仁木君の二人。
こんな可奈子が、家庭のごたごたを乗り越えて、希望の就職が果たせるのか……という感じで物語は進んでいくのでございます。

三浦のエッセイを読んでいるファンがこの設定を読めば、この小説はかなりの部分が、作者三浦自身の現実や体験をそのまま反映しているのであろうと妥当に推測することは、想像に難くございません。じっさい、三浦のエッセイには、母と弟は始終登場するのに、父親の影はいたって薄うございます(と申しますか、ほとんど登場いたしません)。小説とは違って、母がとくに頑なだとか、弟にとくに人望があるとかいったドラマチックな要素は無いようでございますが、可奈子の趣味は、そのまま作者を反映したものだと申せますし、ユニークな友人たちというのも、エッセイではお馴染みのところでございます。
また実際、この作品執筆時の作者の年齢を考えれば、作者が、自身とは縁も所縁もない「完全な虚構世界の構築」に、技術以前の問題として、不安を覚えたのではないか、という推測も十分に可能でございましょう。つまり、いきなり「マンガみたいな作品を書いたら、世間から顧みられなくなるのではないか。まだ、読者をねじ伏せて、その世界に酔わせる程の自信はないし……。なら、自分の体験と実感を反映した小説にしよう。それならば、今しか書けないし、同世代に共感してもらえる可能性は高い」と、こんな具合に考えた可能性も充分にあると、私は斯様に考えるのでございます。つまり、処女作だからこそ「手堅く」攻めたということでございます。





( 以下は「三浦しをんの秘密(2)」につづく)


寒いので、ちょっとだけ☆ 投稿者:Keen  投稿日: 1月16日(金)01時39分44秒

『バーディ』について、「ベトナム戦争」という視点からの議論が続いてますね。私もまだ書き足りないことありますが、実は『バーディ』って、超一級のコメディでもあると思うんですよね〜(少年時代の回想の部分)。これについては、また改めて。

今日、久しぶりにメールでつながった友人に、ここを紹介しました。そのうち、遊びに来てくれると嬉しいな。(^0^*

では皆さま、お休みなさい。良い夢を……


寒い季節(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月15日(木)23時44分47秒


 アーニャ
> お待たせ。ホランドくんの膝の方がアリョーシャより面積が狭い分、私を落とさないように気をつけてよね。
> うーん、ぬくぬく……(^0^*

 こないだはアリガト。でも、やっぱり生き物の温もりっていいよね。昔、縁日で買って帰ってきた、ひよこの温かさが、掌によみがえってきたよ(笑)。

> 『週刊わたしのおにいちゃん』

> ナルホド、入魂の力作、というだけのことはあるわね〜。
> でも、アリョーシャ的には「男の子バージョン」希望!じゃないの?フフフ♪

 ボクは「図星」と見た(笑)。


 園主さま
 どうやら第130回芥川賞・直木賞は、

・ 芥川賞が、金原ひとみ「蛇にピアス」、綿矢りさ「蹴りたい背中」の2作
・ 直木賞が、江国香織『号泣する準備はできていた』、京極夏彦『後巷説百物語』の2作

に決ったようだね。

 芥川賞の選考委員である村上龍が、

選考委員を代表して会見し、2人の作品は「年齢ではなく作品本意で評価された。共に過半数の支持を得て、すんなり決まった」と強調した。
 そのうえで、金原さんの作品については「エキセントリックな世界を描きながら、今を生きる女の子の心情が伝わってくる」と評価。綿矢さんの作品については「文章が正確で好感が持てる。作品全体からポジティブな香りを感じた」と授賞理由を語った。

そうで、おおむね園主さまの、

> 異例の若手揃いが話題となっている「芥川賞」候補作でございますが、出版界はいつでも「最年少受賞者」の出現を「天才幻想(希求)」を背景に、大騒ぎしたがるものなのでございますが、私の知る範囲で申しますと、この手の作家の多くは、まず大成はいたしません。才能があるから、そこそこまではいくのですが、三島由紀夫のような例は、例外中の例外なのでございます。
> いずれの作家も読んだことがないので確たることは申せませんが、蓋然的に申しますならば、今回の候補作は、「新しい才気(と素材)」によって支えられた作品が中心とならざるをえない、つまり骨太な作品のほとんど存在しない、現在の純文学状況を反映したものだと申せましょう。したがいまして「たしかに新しい。だが、どうした?」となってしまう可能性が高いということでございます。

という指摘を裏づけてましたね。村上龍が『年齢ではなく作品本意で評価された』点を強調したのは、逆に「若さ」に頼らざるを得ない「忸怩たる純文学状況」を、それほど痛感してたってことだと思いますよ。

 直木賞の方も、園主さまとしては、面白味に欠ける結果だったんでしょうね、きっと。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


寒い季節(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月15日(木)23時43分37秒


 AOIさま(続き)

> 連休中に『ラスト・サムライ』を観ました。あの中で先住民族への虐殺があったこと。その加害性が映画の重要なファクターになっていますね。そういう歴史的な事実を映画の中でちゃんと描くようになってどのくらいになるのでしょう?それには、それ相応の時間が必要だったということなのでしょう。

 でも、『ラスト・サムライ』の先住民虐殺描写だって、「理想化されたサムライ描写 」と同じく「紋切り型」だと思いますよ。その意味で、あれを『ちゃんと』した描写 だと言えるのかどうか。あれは一種の「反動形成」なんじゃないですか? それに、あの描写 は、あとで「理想化されたサムライ」を描くための「小道具(伏線=前振り)」に過ぎないとも言えます。つまり、ホントにどれだけああした歴史の重みを感じているかは、いささか疑わしい、ということです。その(表層意識としての)善意は疑わないとしても、同じ映画に感動できる人が「イラク戦争」を支持できるという現実も、決して忘れてはならないと思います。

> 今、アメリカの介入によるベトナム戦争の加害者性を、ちゃんと伝えている映画が、どれだけあるのか。また、そのことが歴史的な事実として描かれることが一般 的になるのはいつなのか。

 『ちゃんと』というのが「誰にとっての『ちゃんと』」なのかが問題だと思います。そうでないかぎり、次の『どれだけ』という問いは意味がありません。ですから、まず大切なのは、人が『ちゃんと』『歴史的事実』を知ろうとすることなんですね。その結果 、歪んだ認識を『ちゃんと』した認識だと考えたり、間違った「歴史認識」を『歴史的事実』だと思いこむことになったとしても、です。なぜなら『ちゃんと』した認識を求められるというのは、ボクたちだって例外ではないからです。自分の認識を自明の前提にしてたら、違う認識をもつ人たちとの議論は、永遠に成立しないでしょうし、そうなれば「力の強い方が勝ち」とならざるをえないからです。

> 「昔の戦争には英雄がいた。それがどうだ? 俺たちはジョン・ウェインに騙されたんだ。いいカモだったんだ!」というのがせめてものメッセージだったということなのかもしれません。わかる人にしかわからないです(笑)。
> アラン・パーカーは優れた映画作家だとは思いますが、彼の作品でさえ有色人種への優等意識があるように私には思えます。

 それはあるでしょうね。ボクたちが不遜にも、巨匠アラン・パーカーに対して、認識的優位 意識を持っているように(笑)。

> 「フルメタル・ジャケット」「プラトーン」と観たから、欠落感がなかったということはありませんか?

 そういうことではないと思います。





( 以下は「寒い季節(6)」につづく)


寒い季節(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月15日(木)23時42分30秒


 AOIさま(続き)

>>> 一本の映画で描くことの限界はたしかにあるでしょう。しかし、描かなければいけないこともたしかにあるはずだと思います。

>> この映画は「戦争映画」ではないんじゃないかと思うんで、ベトナムのこと(加害問題)を描く「必要」があったかどうかは疑問です。

> 「戦争映画」かどうかというジャンルに分ける必要があるとも思えませんし、「バーディー」が戦争映画であるかどうかそれほど重要だとも思いません。
> 描かれた中で各々が解釈するだけのことですね。

 ボクも「ジャンル分け」を問題としたんじゃありません。『バーディー』で監督の「描きたかったことは何か」・・・それは「戦争」じゃなかったんじゃないか、ということを言ったんですよ。

>> ベトナム人の犠牲のうえに『バーディー』という映画があっても良いと思います。

> そう。あってもいいし、現にほとんどの映画はそうですから。

 『ほとんど』がそうであるのは仕方がないでしょう。「理想」とは、いつだって『ほとんど』実現されてはいないものなんですから、そのことを責めてもしかたがない。
 「戦争」をきちんと描くことは大切ですが、Keenさまのおっしゃるとおり、すべてのテーマを一作の中に込めるのは不可能です。ですから「戦争をきちんと描くべきである」という場合、「なぜ戦争というテーマに優先権があるのか」という点についての説得的な説明が必要でしょう。それがないと「大義名分の押しつけ」、たとえば「革命的な映画を撮りなさい」と強制する中国共産党政権みたいになってしまいますからね(チャン・イーモウの『活きる』は、いまだに中国本国での上映は許されていません)。

> ただ、「ベトナム症候群」が題材で、そのことの本質をちゃんと描こうと思えば描くことがむしろ当然ではないかと私は思います。描いていないことの方が不思議なくらい。避けられないように思いますけれどね。

 ボクが言いたいのは、映画『バーディー』にとっての「ベトナム症候群」は、「小道具」でしかなかったということです。「小道具」には「小道具」なみの予算の掛け方、手間の掛け方があって、それを誤ると作品としてのバランスが崩れます。
 例えば、園主さまのような戦車マニアは、たいていの戦争映画に出てくる戦車には「不満」をおぼえるでしょう。「もう少し、それらしく作りこめよ」って。また現役の高校生が、成人タレントの演じる学園ドラマを見たら「なにこれ!?」って笑ってしまうでしょう。・・・つまり人は、自分の興味の置き場所によって、映画のいろんな「部分」に否応なく注目してしまいがちです。そして、そこで出される個々の要求は、「理想」としては決して間違ったものではありません。ただ、すべて満足させることは不可能だというだけです。

> 「この汚い現実に、はたして生きる意味があるのか?」というテーマと向き合うためにも必要なことだとも思えます。

 ボクはそうは思いません。「戦争」について考えるのは、重要なことです。でも、ほかにも同様に重要なことはたくさんあって、それをすべて満足に考えている人はいないと思います。つまり、この場合、「必要」と言うよりも、「ひとつのアプローチとして考慮して良いもの」と言うに止まると思います。

> つまり、そのことを描いていないということはハリウッド映画としての興行的な意味合いが多分にあったのではないかと思えてしまうんですよ。

 それは疑いない事実でしょう。興行的成功に重点を置くか、それを犠牲にしてでもメッセージ性を優先するかは、作り手の選択に委ねられ、その選択の責任も作り手が負っているのだと思います。

> 製作者側にその視点があるのならば、映画の中で観客にわかるように伝えてほしかったということです。

 はっきり言って、ボクはアラン・パーカーに、ベトナム戦争やベトナム症候群に対する「人並み以上」の興味があったとは思いません。その点で、アラン・パーカーを擁護するつもりなんて、ぜんぜんないですよ。だから、ボクはAOIさまほど期待はしないんだと思います。





( 以下は「寒い季節(5)」につづく)


寒い季節(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月15日(木)23時41分19秒


 AOIさま
> 『たしかに彼は戦争の被害者だ。しかし、彼はベトナム戦争の加害者だ』というのは『彼は(アメリカの介入による)ベトナム戦争の加害者だ』と言う意味です。
> それと、『一般のベトナム農民たちは、「政治」に「無知」であったからこそ、北ベトナムにも南ベトナムにも加担することなく、ただ一方的な被害者になった』というのは、ほんとうにそうだろうかなと思います。
> たしかに情報は少なかったと思いますが、フランスに統治されていた植民地時代より、村落共同体が崩壊させられていく過程で、その抵抗運動があったと聞いています。為政者に対する抵抗意識はあったのではないか。
> 『「政治」に「無知」であったから、北ベトナムにも南ベトナムにも加担することなく』というより、政治体制にかかわりなく、肥沃なメコンデルタで農業をしていれば生活が成り立ったわけですから、政治体制に関わることに消極的だったのではないかと思えます。戦争は農業を疲弊させますからね。
> 生活に根ざした選択だったのでは。つまり、「無知」ということなのではなく、消極的に戦争を忌避していたのではないかと思うんですけれどね。
> どう思われますか?

 そういう人もいたでしょうけど、やっぱり北(ベトナム)にも南(ベトナム)にも加担しなかった民衆(農民)の大半は、『政治体制にかかわりなく、肥沃なメコンデルタで農業をしていれば生活が成り立った』からこそ、「無知」を選びえた人たちだったんだと思いますよ。
 やっぱり、「天下国家」に興味をもっていたら、ことの良し悪しはべつにして、どうしたってどちらかに何らかの形で協力したと思うし、それが自然な感情だと思いますからね。日本人が「政治」に興味が薄いのだって、ある意味では『生活に根ざした選択』だと言えるかも知れません。だって「政治」って嘘ばっかりなんですから、イヤになって当然ですよ。でも、だからって、そうしたモラトリアム状態を「無知ではない」と言えるかというと、ボクはそうは言えないと思います。『肥沃なメコンデルタで農業をしていれば生活が成り立った』ベトナムの農民たちも、基本的には豊かな生活が保障されている今の日本人も、その恵まれた状況のゆえに「無知」であることに安住し、やがて「被害者」になるんだろうと思います。

> ですから、『「加害者」と「被害者」の違いはあるけれど、どちらも「無知」ゆえに「戦争」の被害者になったという点では同じだとも言えます』といってしまうことは、性急に思えますね。

 つまり、ベトナムへ行ったアメリカ人や、これからの日本人は、その「無知」ゆえに「意にそわない人殺し」を強制(された)されるという意味での「被害者」であり、かつての政治にかかわりなかったベトナムの農民たちは、「無知」のゆえに政治にかかわらず、それゆえ「殺される理由」もないのにアメリカ兵に殺されたから、純粋な意味での「被害者」って言ったんです。
 ボクは農民を装って戦ったベトコン(ベトナム共産ゲリラ)は、基本的には志願した兵隊だと思っているから、彼らを単なる「アメリカの被害者」だとは位 置づけません。アメリカが来なければってこともあるでしょうけど、ボクは彼らの主体性とその責任(引き受け能力)を認めたいとも思うんです(※ なお「ベトコン」は、ヴェトナム・コン・サン(ベトナム共産主義者)に由来する「自由主義陣営」から常用された蔑称です)。

> 「無知」であろうと、「無知」でなかろうと「戦争」の被害者になることはある。それには必ず加害者がいる。だから、せめて自分や親しい人が「無知」ゆえの加害者になるようなことがないように、手遅れにならないうちに考えなければいけない。加害者が減れば被害者は少しでも減るはずなんだから。

 そうですね。ボクが言いたかったのも「絶対的な加害者や被害者は、ごく少ない」から「そうした論理だけで割り切ろうとするのは危険だ」ということなんです。「戦争」状況においては「被害」と「加害」は容易に反転します。神出鬼没のベトコンゲリラを、ノイローゼになるくらい恐れたからこそ、アメリカ兵は農民をベトコンの偽装なのではないかと疑い、時に虐殺事件をおこしました。「加害されることを恐れるあまり、加害者になる」というのは、まさに今のアメリカそのものですよね。日本がアメリカに追従するのだって、アメリカから「加害」されるのを恐れて、「加害」の戦列に加わっているということでしょうし。





( 以下は「寒い季節(4)」につづく)


寒い季節(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月15日(木)23時40分34秒


 さま
>> でも、そんなんじゃ女の子とつきあっても大変なんじゃないですか?
>> なーんて勝手に想像を膨らませてしまいますが

> ・・・図星で御座いますぞー
> 現在独り身ですが、一昨年から去年にかけてバイト先で知り合った
> かなり年上の人妻と不倫関係に落ちちゃいまして、
> その方、演劇、絵画、音楽に深い造詣をお持ちでらっしゃるんですね。、
> もう僕そういうのってホロホロに弱いんですよ。
> 男性であれ女性であれ、自分に無い世界を持つ人に限りない尊崇の念を抱くんですね。

 『年上の人妻と不倫』……うふふ。そうですね、淳さまって、年上の女性の保護欲をかきたてて可愛がられるタイプかも知んない(^-^)。

 まあ、(かなり本気な)冗談はさておいて、『自分に無い世界を持つ人に限りない尊崇の念を抱く』っていうのは、園主さまのおっしゃってた「過剰な(負の)自己認識」のせいでしょうね。淳さまって、充分に個性的だし、魅力もあるのに、なんだか他人に対し、必要のない劣等感を感じておられるように思います。もちろん、自分に無いものに憧れたり、それを身につけたいと願うことは悪いことじゃないんですけど、でも、ボクとしては、もっと今のご自身に自信をもっていただきたいですね。そこが揺らいでいたら、自分に無いものを求める気持ちも、単なる「此処でないどこか」を求めるだけのものになってしまうし、そこが「ピーターパン症候群」だってことにもなってしまうからです。

> 浮いてるといいましょうか・・場違いと申しましょうか・・・
> 「ヨネスケのとなりの晩御飯」バリの迷惑千万な、珍入者と申しましょうか・・・

 そんなことないですよー。そんなこと言ったら、何かと園主さまの立つ瀬がないじゃないですか(笑)。

> それでは、一月闘争(試験)に参ります。

 がんばってくださいね。朗報をお待ちしております!





( 以下は「寒い季節(3)」につづく)


寒い季節(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月15日(木)23時39分15秒

 みなさん、こんばんは! ここのところ寒い日が続きますね。とうとう関西でも雪が降りましたよ。大阪では、雪の方はぜんぜん大したことはなかったんですけど、寒さの方は本格的になってきました。
 「寒い」と言えば、昨日『読売新聞』の「社説」(2004.1.14)を読んでて、やっぱり「読売の言論」ってお寒いかぎりだな、って思いました。内容は、民主党の菅代表が党大会で『国連による平和協力活動に参加するため、自衛隊とは別 組織の「国連待機部隊」を創設することを提唱した。』ことについて、何をいまさらっていう批判なんです。ボクだって、民主党っていうのもあんまり信用していないから、今ごろ『「国連待機部隊」を創設することを提唱した。』ってことについては、「なに言ってんだよ。その前に言うべきことがあるだろ」って感じはあります。でも、この「社説」は、そうしたボクとは正反対の立場から、民主党の中途半端さを批判していたんです。「社説」には、こういう文言がありました。

『PKOであれ、多国籍軍であれ、国際平和協力活動への参加は、憲法が禁じている国権の発動としての「武力行使」であるはずがない。憲法九条と関係づけること自体が筋違いだ。 』

 「おいおい、読売の「社説」って、そのレベルの議論なのかい?」ってツッコミを入れてしまいました。文字どおりの『国際平和協力活動への参加』なら、大いに結構です。それが「文字どおり」そのとおりなら、たしかに『憲法が禁じている国権の発動としての「武力行使」であるはずがない。憲法九条と関係づけること自体が筋違いだ。』と言えるでしょう。そもそも関係づけようなんて人もいないはずです。
 問題は、「9.11」に端を発した「アフガン空爆」「イラク攻撃」を経ての「占領」「復興」という「一連の行為」が、ホントに『国際平和協力活動』だなんて言えるのか、ということなんです。・・・もちろん、そんなこと言えませんよ。そう言いたいのは、まずは「独善(ネオコン)」帝国アメリカであり、日本のような「親分のおっしゃるとおり! カラスは白い」と言える国であり、それらの暴力団「国家」に逆らえない国々なんです。アメリカが、アフガニスタンでイラクで、どれほど多くの罪もない人びとを殺しました? 日本がそれに、どれほど加担(資金援助)しました? まだ、それを忘れるのは早すぎます。「バカ殿」国家アメリカは論外としても、それに隷従する日本は、「サムライ」の心を捨てた「強きを助け、弱きを挫く」ことを恥じない「外道」国家ですよ。自分の意気地なさや矜持のなさに由来する非道な暴力行為を、臆面 もなく『国際平和協力活動』だなんて言いつのる「国」、そして「新聞」。・・・でも、こんな臆面 もない「ジャイアン(『ドラえもん』)なみの理屈」が「社説」として通 るというのも、あのナベツネ(渡辺恒夫)がトップに君臨している「営利企業」なら、むしろ当然のことなのかも知れません。今の『読売新聞』じゃ、まともに自分の意見を言う記者には、発言の機会そのものが与えられないんでしょうね。





( 以下は「寒い季節(2)」につづく)


ちょっとしたニュース 投稿者:アーニャ  投稿日: 1月14日(水)12時51分29秒

アリョーシャが以前にここでご紹介してた、海洋堂のフィギュア+読み物(こういうのって、何ていうの?食玩じゃないし☆)『週刊わたしのおにいちゃん』の、公式HPがオーンしたようなので、リンク↓に貼っておくわね。
http://www.wata-oni.net/

ナルホド、入魂の力作、というだけのことはあるわね〜。
でも、アリョーシャ的には「男の子バージョン」希望!じゃないの?フフフ♪

にゃあ〜♪


陣中お見舞いもうしあげます。 投稿者:AOI  投稿日: 1月13日(火)21時24分43秒

☆淳さま

グッと低音の巻き舌にしびればびれ・・・(笑)!
ステキな詩ですね。ありがとうございました!!
私も、好きな詩を陣中お見舞いにお送りしますね。
ちょっと、長いです。間違いがあったら添削してくださいね。
かつて聞いてとっても気に入った歌の詞なのです。
今ははどんな歌だったかすっかり忘れてしまっているんですけれどね(苦笑)。
詞だけは今も手元にあって。

CANCION PARA UN ESPEJISMO

Morena de sol y yodo,
blanca de sal y de olvido,
te vi pasar por la playa
junto al mar,frente a mi sitio.
Yo estaba solo en la arena,
un libro y un y un cigarrillo,
una soledad de anos
y una experiencia de siglos.
Despues me fui a la ribera,
busco lo que necesito,
y en una esquina del mundo
olvide que te habia visto.
Morena de sol y yodo,
blanca de sal y de olvido.
donde hay arena es posible
sufrir de sed y espejismo.

Jamas sabra el viejo mozo
que copa le hube pedido,
ni porqe grite tu nombre,
ni porqe llore aturdido.
Tal vez por haberte visto
o no te vi,que es lo mismo,
morena de sol y yodo,
blanca de sal y de olvido.

蜃気楼の歌

太陽とヨードの褐色のむすめ
塩と忘却で白いむすめ
きみは浜を通りすぎた
海のそばを、私の前を
わたしは砂の上にひとり
本が一冊 タバコを一本
年経た孤独がひとつ
世紀を重ねた経験がひとつ
それから、わたしは岸へ行った
求めているものを探す
そして、世界のとある街角で
きみを見たことを忘れてしまった
太陽とヨードの褐色のむすめ
塩と忘却で白いむすめ
砂のあるところではたぶん
渇きと蜃気楼に苦しめられるだろう

あの老いた給仕は
わたしが何を頼んだか知りはしないだろう
わたしがなぜきみの名を叫んだのか
なぜ心を乱して泣き出したのか
たぶん、きみを見たせいだろう
それとも見なかったのか、どちらでも同じ
太陽とヨードの褐色のむすめ
塩と忘却で白いむすめ

>バンドネオン
>状態によりけりですが、100万〜50万が相場なんですね・・そこを・・(涙)

・・・男の色香で・・・?(キャッ)

>・ギドン・クレーメル&キースジャレット 『TABULA LASA』★★★★★

これ、ほし〜い!!
ギドン・クレーメルの「ピアソラへのオマージュ」「エル・タンゴ〜ピアソラへのオマージュ」は愛聴版なんです。

>一噌幸弘は吉凶部隊でジョン・ゾーンの発明した「コブラ」をやってるわけですが、これって面 白い!

「コブラ」について説明くださってありがとう!
やはり、ライヴですね。ライヴ!

一月闘争、勝利!!


今日も小雪の降りかかる(3) 投稿者:AOI  投稿日: 1月13日(火)21時14分37秒

(園主さま、つづき)

>「ベトナム」の側を一面的に「善」と捉えてもなりません。もちろん、このようなことは承知の上で、AOIさまは「被害者としてのベトナム人」像を仮構なさったのでございましょうが、あのように典型化されると、アメリカ人側の気持ちを問答無用で切り捨てることにもなりかねないと危惧されるのでございます。

そうですね。アルやバーディー個人をを責めるために『たしかに彼は戦争の被害者だ。しかし、彼はベトナム戦争の加害者だ』といったわけではありません。これはあくまで、映画の中のドラマにすぎないんですから。映画の可能性を問いたかったんですよ。

>アメリカは批判されるべき「加害者」であった。けれども、では「ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」でしかなかったのかと言えば、そんなことはありえませんでしょう。そうした現実認識に立って考えなければならないというのは、誰かを批判する際に「絶対善」の権威をふりまわしてはいけない、ということなのだと存じます。少なくともわれわれは、アメリカの側に立って、アメリカを批判すべきだと、私はそう考えるのでございます。

『「ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」でしかなかったのかと』ということになれば、もちろん「無垢な被害者」ではなかったでしょう。無垢な被害者であれば、圧倒的な軍事力をもつアメリカに勝てるわけはないですからね。
ベトナム戦争は冷戦構造の中で起こったことで『「ベトナム」は一方的に同情されるべき
「無垢な被害者」ではない』にしても明らかに圧倒的な被害者であると思っています。そして、無垢な被害者でなければアメリカ人であれ、ベトナム人であれ血を流し、死んでもいいとも思わないし、それでベトナムを「絶対善」の権威にしているとは思いません。
アメリカ人の命もベトナム人(有色人種)の命も同等に考えよといいたいだけ。
批判する際のことについては、わかりますが。
園主さまが『ベトナム」は一方的に同情されるべき「無垢な被害者」でしかなかったのかと言えば、そんなことはありえませんでしょう。そうした現実認識に立って・・・』と言われた意味が私にはよくわかりません。もう少し、お聞かせ願えませんか?


今日も小雪の降りかかる(2) 投稿者:AOI  投稿日: 1月13日(火)21時05分59秒

(ホランドさまつづき)

ただ、「ベトナム症候群」が題材で、そのことの本質をちゃんと描こうと思えば描くことがむしろ当然ではないかと私は思います。描いていないことの方が不思議なくらい。避けられないように思いますけれどね。
「この汚い現実に、はたして生きる意味があるのか?」というテーマと向き合うためにも必要なことだとも思えます。
つまり、そのことを描いていないということはハリウッド映画としての興行的な意味合いが多分にあったのではないかと思えてしまうんですよ。
製作者側にその視点があるのならば、映画の中で観客にわかるように伝えてほしかったということです。
連休中に『ラスト・サムライ』を観ました。あの中で先住民族への虐殺があったこと。その加害性が映画の重要なファクターになっていますね。そういう歴史的な事実を映画の中でちゃんと描くようになってどのくらいになるのでしょう?それには、それ相応の時間が必要だったということなのでしょう。
今、アメリカの介入によるベトナム戦争の加害者性を、ちゃんと伝えている映画が、どれだけあるのか。また、そのことが歴史的な事実として描かれることが一般 的になるのはいつなのか。
「昔の戦争には英雄がいた。それがどうだ? 俺たちはジョン・ウェインに騙されたんだ。いいカモだったんだ!」というのがせめてものメッセージだったということなのかもしれません。わかる人にしかわからないです(笑)。
アラン・パーカーは優れた映画作家だとは思いますが、彼の作品でさえ有色人種への優等意識があるように私には思えます。

「フルメタル・ジャケット」「プラトーン」と観たから、欠落感がなかったということはありませんか?

☆園主さま

>その歌、存じ上げません。歌を聞けば思い出すかも知れませんが、すくなくとも歌詞だけでは憶えがない。……それに、出だしが『♪る−るるるる−』でなければ、『イントロ』クイズにならないのでは?(-_-;)

チェリッシュのデビュー曲のようですね。
私も記憶にあるのって
♪なのに、あなたは京都に行くの〜
京都の町はそんなにいいの〜
この私の愛よりもぅ〜〜〜♪
のフレーズだけなんです。
京都っていうと、この曲が口からついて出てきちゃうんです。
『♪る−るるるる−』はイントロ(出だし)にもあります。

>やっぱり「父親としての愛」という立場しかないのか……。そこまでの年齢差はないんだがなー(-_-;)。

そうがっかりすることも・・・(笑)。
書店で『妄想炸裂』立ち読みしました。三分の一くらいかな?
大爆笑〜〜。
またまた、タニシ、もといエニシ発見!!高村薫ファン。よかったね〜〜。
それから、ちょっと、しをんさまってファザコンぽいような・・・(直感/笑)?
だから、「父親としての愛」って微妙かも〜!?希望はある!!???
エッセイの中から一冊買おうと思うんですけど、一番のおすすめは?


今日も小雪が降りかかる。(1) 投稿者:AOI  投稿日: 1月13日(火)21時03分0秒

☆ホランドさま

>アメリカは明らかに「加害者」でした。でも、ベトナムやベトナム人を、単なる「被害者」と捉えるのもどうでしょう。たしかに政治体制に縁のなかった一般 のベトナム人は、北ベトナム人であれ南ベトナム人であれ「戦争」の被害者だったかも知れません。でも、そうした一般 人も「政治」や「国」や「体制」について、「無知」であり縁遠かったからこそ、「戦争」にかかわらなかったのかも知れません。つまりバーディーの逆パターンです。バーディーはその「無知」ゆえに戦場へ行きましたが、一般 のベトナム農民たちは、「政治」に「無知」であったからこそ、北ベトナムにも南ベトナムにも加担することなく、ただ一方的な被害者になった。「加害者」と「被害者」の違いはあるけれど、どちらも「無知」ゆえに「戦争」の被害者になったという点では同じだとも言えます。ベトナムの大きな被害は、大半アメリカにもたらされたのは事実ですが、でも、ベトナム人どうしの政治体制をめぐる内戦であった事実も忘れてはなりません。アメリカが介入しなければ、被害はここまで拡大しなかったでしょうが、アメリカが介入しなくても「戦争(殺し合い)」はあったということは押さえておくべきだと思います。

『たしかに彼は戦争の被害者だ。しかし、彼はベトナム戦争の加害者だ』というのは『彼は(アメリカの介入による)ベトナム戦争の加害者だ』と言う意味です。
それと、『一般のベトナム農民たちは、「政治」に「無知」であったからこそ、北ベトナムにも南ベトナムにも加担することなく、ただ一方的な被害者になった』というのは、ほんとうにそうだろうかなと思います。
たしかに情報は少なかったと思いますが、フランスに統治されていた植民地時代より、村落共同体が崩壊させられていく過程で、その抵抗運動があったと聞いています。為政者に対する抵抗意識はあったのではないか。
『「政治」に「無知」であったから、北ベトナムにも南ベトナムにも加担することなく』というより、政治体制にかかわりなく、肥沃なメコンデルタで農業をしていれば生活が成り立ったわけですから、政治体制に関わることに消極的だったのではないかと思えます。戦争は農業を疲弊させますからね。
生活に根ざした選択だったのでは。つまり、「無知」ということなのではなく、消極的に
戦争を忌避していたのではないかと思うんですけれどね。
どう思われますか?
ですから、『「加害者」と「被害者」の違いはあるけれど、どちらも「無知」ゆえに「戦争」の被害者になったという点では同じだとも言えます』といってしまうことは、性急に思えますね。
「無知」であろうと、「無知」でなかろうと「戦争」の被害者になることはある。それには必ず加害者がいる。だから、せめて自分や親しい人が「無知」ゆえの加害者になるようなことがないように、手遅れにならないうちに考えなければいけない。加害者が減れば被害者は少しでも減るはずなんだから。

>>一本の映画で描くことの限界はたしかにあるでしょう。しかし、描かなければいけないこともたしかにあるはずだと思います。

>この映画は「戦争映画」ではないんじゃないかと思うんで、ベトナムのこと(加害問題)を描く「必要」があったかどうかは疑問です。

「戦争映画」かどうかというジャンルに分ける必要があるとも思えませんし、「バーディー」が戦争映画であるかどうかそれほど重要だとも思いません。
描かれた中で各々が解釈するだけのことですね。

>ベトナム人の犠牲のうえに『バーディー』という映画があっても良いと思います。

そう。あってもいいし、現にほとんどの映画はそうですから。


「芥川賞・直木賞」という試金石(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月13日(火)19時22分16秒


 さま
> 僕も参加した派兵反対署名運動が朝日のネットで記事になりました。
> 先遣隊は派兵され、不可逆的であることは間違いありませんが、
> この署名運動は、行き過ぎた政策に、一定の圧力をかけるという
> 意味でも無意味だったとは思いません。

http://www.asahi.com/national/update/0110/016.html

あなた方のなさったことは決して無駄ではございません。たとえその効果が小さかろうと、その小さな力を馬鹿にする者は、いずれ身にそわない「大きな力=権力」へと引き寄せられていくのでございます。「小さな力としての信仰」を捨てて、「大きな力としての政治権力」を選んだ、公明党のように。
我々にできることは「敵を粉砕する」ことではなく「悪に抵抗する」ことなのでございましょう。前者が「力の論理」なら、後者は「理性の論理」だと申せましょう。

> 「おかしいものは、おかしい」と主張できる学会へ目指していきたいです。

創価学会が正しくある必要もございますが、その前に大切なのはひとり一人が正しくあろうとすることでございましょう。「平和団体としての創価学会」の地に墜ちた名声を取り戻すために、創価学会員が創価学会員として「方便としての平和運動」をしているようではダメでございます。まずは、一人の人間として「おかしいものはおかしい」と言えなければなりません。そうした「一人立つ」精神を失った時から、創価学会と公明党の堕落は始まったのでございます。そしてわれわれは、断じて同じことを繰り返してはならないのでございます。

> しかし最も恐るべきは、これで自己満足に陥ることと自己陶酔でしょう。

内心、自己満足に陥る人は大勢いるはずでございます。私はそれを創価学会員との二度にわたる議論において痛感させられました。しかし、そんな人たちも平和運動の「数」のうちには入っておりましょう。「数」という「力」は、そういうものなのでございます。

ともあれ、他人はどうであれ、自分は自分として正しいと思えることをやる。できることをやる。……これしかないのでございます。


 アーニャ
>> ミャウリンガル

> 私とKeenさまの間では、文字通り「必要ない」ものだから、見たこともないわ。
> 実際にお買いになった方がおっしゃることなら、それが実態なんでしょうね。
> 賢ちゃんも、「興味はあるけど、別に必要ないからなー」って言ってたわよ。

ま、それにしてもネコやイヌの本音が完璧にわかったら、それはそれで困る場合も多いんじゃないかな。だいたいはわかるけど、正確にはわからないからこそ、人間は自分の都合の良いように「理解」して満足しているって側面 はあるだろうからね(笑)。


 ホランド
マイ・ブームである「三浦しをん」ブームも来るところまで来た。新本古本をふくめて、最後の1冊であるエッセイ集『極め道』(光文社知恵の森文庫)を入手すれば、コンプリートというわけだ。

しかし、小説の方の評価は、2冊しか読んでいない現時点で言うと「イマイチ」というものに止まっている。人柄の良さを反映した、感じの良い小説ではあるのだが、それをつきぬ ける「毒」がない。エッセイストとしては評価できるのだが、それだけでは三浦も不満だろう。善かれ悪しかれ「イイ人」である三浦が、どこでその殻を打ち破ることができるか。三浦の今後は、それにかかっているとも言えるだろう。

ところで、三浦しをんのファンサイトを見つけた。ミウラシヲンファンサイト ミナゾコを紹介しておこう。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「芥川賞・直木賞」という試金石(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月13日(火)19時21分2秒


ちなみに「芥川賞・直木賞」の最大の意味は、その「営業的影響力」にあるということを押さえておく必要がございます。平たく申しますと、「直木賞受賞作家」「直木賞受賞作家」という「肩書」がつくと、世間的には「あの人は小説家らしい」と言われるような存在が「有名な作家先生」に変るのでございます。業界的にも「席次」が高くなり「原稿料」がアップし、「講演会」などのお座敷がかかる機会も増えれば「謝礼金」のケタも違ってくる。つまり、あまり良い「商売」だとは言えない小説家を専業として喰っていくためには、「芥川賞・直木賞」は喉から手が出るくらい欲しい賞、『その昔太宰治が芥川賞欲しさに作品を作り、川端康成にしつこく手紙を書き、菊池寛に怒られた』というくらい(他の「栄誉のみ」の文学賞とは違って)「実益」の大きな賞であって、なかにはそうした本音を公然と語る作家すらいるというのが、「芥川賞・直木賞」なのでございます。(なお、作家菊池寛は「芥川賞・直木賞」の創設者であり、その勧進元である文芸春秋社の創業者。日本文学振興会は、文芸春秋社の下部団体と考えてよい)

長い「芥川賞・直木賞」のなかでは、受賞を拒否した作家も何人かおりますが、これは「業界タブー」として、ほとんど語られることはございません。しかも本来ならば、相手に賞を受ける気があろうと無かろうと、「良い作品」「良い仕事をした作家」に与えようとしてしかるべき文学賞が、「賞の権威」に固執するあまり、「受賞拒否」をおそれて、候補段階で「賞に選ばれたら、受賞しますか?」と内々に問い合わせをし、内諾を与えた作家の作品だけを「候補作」として発表しているという事実があるのでございます。つまり「本来の候補作」と「公式の候補作」とが違う場合があるのでございますね。もちろん、近年、文学賞の受賞を拒否するような反骨心のある作家は、ほとんどいないのでしょうが、またそれが日本の文芸出版界の偽らざる実相だとも言えるのでございます。





( 以下は「「芥川賞・直木賞」という試金石(4)」につづく)


「芥川賞・直木賞」という試金石(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月13日(火)19時20分4秒


さて、ここからは個人的な感想となります。

異例の若手揃いが話題となっている「芥川賞」候補作でございますが、出版界はいつでも「最年少受賞者」の出現を「天才幻想(希求)」を背景に、大騒ぎしたがるものなのでございますが、私の知る範囲で申しますと、この手の作家の多くは、まず大成はいたしません。才能があるから、そこそこまではいくのですが、三島由紀夫のような例は、例外中の例外なのでございます。
いずれの作家も読んだことがないので確たることは申せませんが、蓋然的に申しますならば、今回の候補作は、「新しい才気(と素材)」によって支えられた作品が中心とならざるをえない、つまり骨太な作品のほとんど存在しない、現在の純文学状況を反映したものだと申せましょう。したがいまして「たしかに新しい。だが、どうした?」となってしまう可能性が高いということでございます。

「直木賞」の方は、お馴染みの面子でございます。

「二世作家」である江国香織は恋愛小説・児童文学系の作家で、私はまだ読んだことがございません。いわゆる「イイ話」や「感動できる小説」を書ける人のようでございますが、だからこそ読めばそれなりに評価できるとわかってはおりますものの、あえて読む気にもなれなかった「無難そうな」作家の一人なのでございます。

京極夏彦『後巷説百物語』は、時代ミステリのシリーズものの最終巻(三巻目)と目される連作短編集。京極夏彦はデビュー作から追っている作家でございますが、正直申しまして、最盛期は過ぎたと感じております。また、私が評価いたします「京極堂シリーズ」に比べますと、このシリーズは「無難にまとまっている」という印象があり、シリーズ1冊目の『巷説百物語』を読むに止まっております。
大きな賞というのは、得てして最盛期を過ぎた頃(評価が定まった後)にもらうことが多いのでございますが、京極夏彦もそのパターンになりそうでございます。読んでない段階で言うのもなんでございますが、今回この作品で「直木賞」を受賞した場合、その結果 この作品が、世間的には「京極夏彦の代表作」になってしまうというのは、残念な事態だと存じます。

朱川湊人の『都市伝説セピア』(文芸春秋)は、デビュー2冊目でございます。まだ読んではいませんが、今回の候補作のなかでは、最大の注目作でございましょう。1冊目の『白い部屋で月の歌を』(角川ホラ−文庫)は「第十回 日本ホラー小説大賞短編賞」受賞作の表題作を収めた短編集。それに続く今回の候補作は、「オール読み物推理小説新人賞」を受賞した「フクロウ男」を含む、都市伝説をテーマにしたホラー短編集でございます。
ちなみに、候補作中もっとも完成度が高かったと評された朱川の「白い部屋で月の歌を」を制して「第十回 日本ホラー小説大賞」の大賞を受賞した遠藤徹の異形の短篇「姉飼」が、短編集『姉飼』(角川書店)となって、先日刊行されました。こちらについては近日中に感想を書きたいと思っております。

馳星周は、私の苦手な「犯罪・冒険・暗黒街」系小説の作家で、デビュー作から次々と「大衆文学・エンターティンメント」系の文学賞を受賞して、注目された作家でございます。デビュー後の大躍進の後、しばらく鳴りをひそめておりましたが、今回は何度目かの「本命」チャレンジでございます。これまで、私が読んでもその面 白さは理解できないだろうと敬遠してまいりましたが、今回受賞したとしても、やはり私には縁のない作家でございましょう。

姫野カオルコは、なかなかユニークな「毒のある恋愛小説」を書く作家で、一時期、私と賢ちゃんのあいだでちょっとしたブームとなりました。その当時は「こんな暗い屈折をかかえた作家の恋愛小説なんて、絶対売れないだろうなあー」と言いながら、そこを楽しんでいたのでございますが、そんなファンが離れた頃になって、やっと姫野もその力量 を文壇で認められ、「直木賞」の候補にもなるようになったようでございます。今回の候補作の『ツ、イ、ラ、ク』(角川書店)は、オシャレな装丁の上に巻かれた帯に「今年度最強の恋愛文学」とあるとおり、どこから見てもかつてのあった「おどろおどろさ」をそこに窺うことは出来ません。営業的な配慮から、あえてそうした面 を隠しているのか、あるいは事実そうしたものが無くなってしまっているのかはわかりませんが、たぶん、私が読んでいた当時よりは「毒」がうすまったからこそ「直木賞」の候補にもなれたのだろうと考えております。つまり私的には、姫野カオルコも(ある意味では)最盛期を越えたのではないかと感じるのでございます。





( 以下は「「芥川賞・直木賞」という試金石(3)」につづく)


「芥川賞・直木賞」という試金石(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月13日(火)19時19分9秒

みなさま、年に2回の文壇最大のイベントである芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催・文芸春秋)の候補作が、今月8日に発表されました。第130回となる今回は、芥川賞の方では候補者の若さ(5人のうち綿矢りさは19歳、島本理生、金原ひとみは20歳)が話題になる一方、直木賞の5人はこれまでに何度か候補に名前の挙がったことのあるお馴染みのメンバーとなりました(Kyoto Shimbun 2004.01.08 News)。

 【芥川賞】
  ・ 絲山秋子「海の仙人」(新潮12月号)
  ・ 金原ひとみ「蛇にピアス」(すばる11月号)
  ・ 島本理生「生まれる森」(群像10月号)
  ・ 中村航「ぐるぐるまわるすべり台」(文学界12月号)
  ・ 綿矢りさ「蹴りたい背中」(文芸秋号)

 【直木賞】
  ・ 江国香織『号泣する準備はできていた』(新潮社)
  ・ 京極夏彦『後巷説百物語』(角川書店)
  ・ 朱川湊人『都市伝説セピア』(文芸春秋)
  ・ 馳星周『生誕祭』(文芸春秋)
  ・ 姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』(角川書店)

「芥川(龍之介)賞・直木(三十五)賞」について、よくご存じでない方のために、簡単に解説をしておきましょう。まずこの賞は「公募新人賞」ではなく、既存の作家の既存の小説作品の中から選ばれる「奨励賞」でございます。現在この種の賞は他にもいくつかございますが、そうした文学賞の先駆けとなった「芥川賞・直木賞」は、その歴史と知名度によって、現在でも圧倒的な影響力を誇る賞でございます。
「芥川賞」は、いわゆる「純文学」に分類される作品に、「直木賞」は、ミステリ・ホラー・時代小説・恋愛小説など(その他の)昔で言うところの「大衆小説」(今風に言えば、エンターティンメント)に与えられる賞で、公然とこうした分類が生きているのは、「芥川賞・直木賞」の歴史の長さ故でもございましょうし、「芥川賞・直木賞」を真似た(わりあい新しい)賞である「三島(由紀夫)賞・山本(周五郎)賞」(新潮社主催)が同じ分類を踏襲しているところを見ると、基本的には文壇の保守的な体質が露呈しているのだとも申せましょう。

『既存の作家の既存の小説作品の中から選ばれる』『現在でも圧倒的な影響力を誇る賞』であるところから、 「芥川賞・直木賞」が「その年の最高傑作」に与えられる賞だという思い違いをなさっている方も多いようでございますが、これは賞の主旨からしても、明らかに間違いでございます。
「芥川賞・直木賞」は、「デビュー後しばらく経った、ある程度実績を残した若手・中堅の作家に対し、その貢献とさらなる飛躍を促すために設けられた賞」でございますから、基本的には新人作家のデビュー作や、著書が多数あったり、新人文学賞以外の文学賞をいくつも受賞しているようなベテラン作家の作品は、その対象とはされません。現実には、新人のデビュー作が受賞したり、賞に縁のうすかったベテラン作家が受賞したりという例外もあるにはあるのでございますが、基本的には新人作家やベテラン作家の作品を対象には含めていないため、「その年の最高傑作に与えられる賞」だとは言えないのでございます。

「直木賞」は、短篇を対象とすることが多く、単行本化までに時間が掛かることの多いせいか、雑誌掲載の段階で候補作になる場合が大半でございます。したがいまして、単行本化は受賞後となり、初版本に「受賞」帯を巻いて派手に売り出すことが多く、このためコレクターには稀少価値が少ないと見られたりいたします。その反面 、「売れない純文学」の若手作家の本であるがゆえに、初版を少部数で刊行した後に受賞したりいたしますと、これが高値(古書価)をつけたりする、といったこともあるのでございます。この代表例が、多和田洋子の『犬婿入り』(第108回 芥川賞 受賞作)でございましょう。





( 以下は「「芥川賞・直木賞」という試金石(2)」につづく)



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