●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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レスだけで長くなってしまいました 投稿者:FIVEPLACES  投稿日: 2月29日(日)01時31分35秒

○園主さま

直木賞の件、確かに「バランスの取れた物の見方」なのかもしれません。
園主さまの言われるように現役の推理作家で賞を辞退すると思われるのは島田荘司位 (直木賞に関しては横山秀夫が訣別宣言を出しましたね)のような気もしますし、出版元が文藝春秋という時点でそのような勘繰りは充分可能なのかなと少し思い直しました。直木賞・芥川賞にその手の裏事情は色々あるようですし(もっとも政治の働かない賞というのもなかなかないように思いますが)。

ただ、最初に私が「深読みし過ぎかな」と思ったのは、笠井潔自身が直木賞が欲しいかどうかといえばYESかもしれないけれど、「本格ミステリで直木賞が欲しいか」と言えばどうかなと感じたからでした。
私は笠井作品では矢吹三部作+『哲学者の密室』と『天啓の宴』『天啓の器』しか読んでいませんが、作者はそれほど本格に拘っていなかったように思えました(この感想には異論もあるかと思います)。「本格評論を書くこと」には熱心だと思われますが。
また、本格ミステリに賞を与えるには選考委員の壁が厚すぎるようにも思いました。もし本当に直木賞が欲しいのであれば直木賞向きの作品を書くのが近道ではないかなあと。

しかし、『葉桜〜』がこれほどの評判になった理由の一つに、本格ミステリ・マスターズで刊行されたというのがあると思います。他社で単発の作品として出されていたら、今ほど多くの人には読まれず、「このミス」でも確か僅差で2位 だった『終戦のローレライ』に抜かれて1位が取れなかった可能性もあるかと。
その点を取ってみても、本格ミステリ・マスターズが「本格の地位向上」に一役買ったといえるのかもしれませんね。

ちなみに、歌野晶午の最新作『ジェシカが駆け抜けた七年間について』をつい最近読みましたが、私はこちらの方が楽しく読めました。大評判の『葉桜〜』に続いてこれだけの作品を出すと、ますます歌野人気は高まるでしょう。

○ホランド様

『ミステリ百科事典』、読み物としてもミステリ本としても面白いですので、もし発掘出来たら読んでみて下さいね。ネタバレの嵐ですが(笑)、ネタバレの数が多すぎて不思議と実作を読むときの弊害は少ないと思いますので。近いうちに当サイトでも特集を組む予定です。

>……そうそう、この文庫の装画・挿画を描かれていたのが、
>『永遠の薔薇 ― 中井英夫へ捧げるオマージュ』展にも出品なさっている、渡辺東さんでしたよね。

そうですね。式貴士作品の雑誌掲載イラストも描かれていますし、縁の深い方ですね。
展覧会も機会があったら行ってみようと思います。

>結城昌治は、「スパイ・冒険小説」系の人という印象があったので、読んだことはないんです。
>『夜の終る時』『ゴメスの名はゴメス』なんかが、ミステリの世界では代表作とされていましたが、やはり直木賞受賞作である軍隊小説『軍旗はためく下に』が有名なようです。

その辺りの作品が有名ですし面白いと思いますが、私的には結城昌治は短篇がオススメです。
ユーモア溢れた作品や切れ味鋭い作品が目白押しですよ。また、『斬に処す―甲州遊侠伝―』などの時代小説や『志ん生一代』のような評伝小説も素晴らしいです。

好きな作家として挙げた方達にも共通しますが、幅広い作風を持っている作家は私の好みです。

>ところで、島田荘司の『ネジ式ザゼツキー』は、ひさびさにミステリマニアにも評判が良いみたいなので、ちょっと気になっています。

私は島田氏の、物語の語り口というか筆力が好きなのでミステリマニア的にどれほど優れているかはうまく説明出来ませんが(本格ミステリ・マスターズの『魔神の遊戯』も良かったと思っていますから)、奇想天外な状況作りと解決の力技ぶりは楽しめますよ。新書で安いですし、是非読んでみて下さい。

>そう言えば、島田さん、最近は「冤罪事件」「死刑制度」「日本人論」の本を出さなくなりましたね。

表立ってはいませんが、秋好事件の支援など精力的に行っているようです。
社会評論や社会問題をテーマとした作品も今後どんどん書いていくのではないですかね。

御手洗ファンの友人はそうした傾向を「初期の純粋な本格作品が読みたい」と歓迎していませんでしたが、私は社会問題と本格を両輪に精力的に執筆を続ける氏を応援したいです。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/siki/


ここにも、もう一人。 投稿者:アーニャ  投稿日: 2月29日(日)00時08分51秒

ハムちゃま、お久しぶりね。
影姫さまがご機嫌ななめだったようだけど、実はKeenさまも「永遠の薔薇」展を見に行けないからって、フテ寝してるのよね。
まあ、今日は竹本健治『囲碁殺人事件』(創元推理文庫)が手に入ったから、少し持ち直したようだけど……ホント、仕様がないわよねー(笑)。でもこれ、私が思うに、アニメの『ヒカ碁』放映中に出版した方が、よく売れたんじゃないかしらねえ……「おっ?囲碁のミステリか。どれ、読んでみようかな」って、新規の読者層の目を引いたかもしれないな、と。今さら遅いけど。

そうそう、アリョーシャの書き込みにあった、「ミステリとミステリーの区別 」なんて、存在自体知らなかったわ!私とKeenさまは、所謂「探偵小説」を「ミステリ」と理解してたのだけど、もしかして違ってたのかしら?


>> おまえだって『オヤジ化が進行』してるから、Keenさまのくすぐりに反応しなくなったんだろうが(笑)。(アリョーシャ)

>ボクは「オトナ」になっただけ。「オトナ」になるのと、「オヤジ」化するのとは、まったく別 問題ですよ(笑)。(ホランドくん)

私から見ると、「五十歩百歩」ね(笑)。

ともあれ、アリョーシャ、気をつけて行ってらっしゃい。
展覧会とオープニング・パーティの様子も、帰ってからレポートよろしくね。Keenさまも皆さまも、お喜びになるでしょうし。

それでは皆さま、お休みなさい。良い夢を。
にゃあ〜♪


ひさびさとおじお 投稿者:ハムちゃま  投稿日: 2月28日(土)08時27分1秒

はむは〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!

ハムちゃ魔ひさびさとおじお!!!
昨夜はまたセーヤがヒステリー起こしたようで!!!にゃんとも「黒猫館ファミリー」
の一員としてはじゅかちいでちゅ!!!
ムフ・・・
しかしなぜセーヤがヤケになっているのか?実はちゃんと理由あるんでちゅよ!!!
にゃんでも東京で買った詩集のカドがリックサックのなかで「1センチ」ほど折れた
とか!!!まったく古本マニヤっていうのはそこまで神経質にならなきゃいかんので
ちゅかね〜〜〜〜!!!

ウム??セーヤの机ににゃにやら大きな本が!!!をを!!!ゝ(@▽@)ノ

辻邦生『西行花伝』(特装版・二重函・柄沢斎の彩色版画一様入・新潮社刊)

くきーーーー!!!セーヤのやつまたこんな豪華な本買って!!!
ムフ・・・しかしここだけの話でちゅがセーヤのやつ「辻邦生」の隠れファン
にゃんでちゅよ!!!第一作『廻廊にて』読んで泣いたとか!?ムフムフ・・
この小説実は日本ではめずらしいレズビアン小説の傑作なんでちゅよ!!!
むふーーーーーーーん!!!

とはい〜〜〜〜〜〜え!!!花園の諸君、これからも女・古本・バカ一代
・セーヤの面倒見てあげてくだちゃい!!!

そりでははむは〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


失礼いたしました。 投稿者:園主  投稿日: 2月28日(土)03時08分44秒

 影姫さま
> 園主様に無視されてしまったわたしは、もうこの掲示板で必要とされていないのかもしれませんね。

これは失礼いたしました。レスを洩しておりましたね。

しかし、一度レスを洩したくらいで、そんな恨み言をおっしゃるものではございませんよ。影姫さまこそ、私が振ったネタの数多くを聞き流してこられたではございませんか(笑)。

まあ、特撮オフで盛り上がり過ぎたので、その反動が来たのでございましょう。私は気にいたしませんので、ゆっくりとお休みになられて、気分転換をなさいまし。いつも書き込みが遅い時間でございますが、寝不足はよろしゅうございませんよ。

あっ、それから、約束なさったはずの「収穫」のご報告がございませんでしたね。今回は、古本屋めぐりができなかったのでしょうか? それとも空振りだったので、その反動が来たということなのでございましょうか?(笑)


それでは、影姫さま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


そろそろ潮時かも。 投稿者:影姫  投稿日: 2月28日(土)01時55分47秒

園主様に無視されてしまったわたしはもうこの掲示板で
必要とされていないのかもしれませんね。


存在しないものを見てしまう目(10) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時49分45秒


 芙宮さま(つづき)

> やられるくらいなら、相手をつぶして自分達をまもろう。っていうのを国レベルでするってことが既に理解できないの。それに、戦争って、別 段個人的に怨恨を持っているわけでもない人を殺しちゃったりするんでしょう?国のため、ひいては自分のためにって。トランス状態っていうか、何かの宗教であった精神操作?あーもー無理だぁ。私は戦争の渦中に居たことがない世代だけれど、戦争について考えようとすると、途中で気分が悪くなるの。理解できないことだらけで。知識を得ようと思って、本を読むにしても、扇情的だったり、真逆のお話があったりで、どこに私の正義を重ねて良いかわからなくて、理解できなくて、ぐるぐるめぐって気分が悪くなっちゃうの。その後に残るのは、感情に痛みを訴える状況の描写 等だけだったりするし。いつもに増して、言葉がとっても稚拙でごめんなさい。

「戦争」を肯定する人というのは、「国(国家)」という「観念」であり「制度」でしかないものを「擬人化」して、その「生存権」ばかりを重視し、「個人(国民)」の視点を蔑ろにする人たちだと申せましょう。つまり「外国から攻められたら、反撃するのは当然だ」という主張。しかし、その反撃に狩り出されるのは、いつでもその社会で下層におかれた人たち(平民)であり、「国を守るために、戦争をすべきだ」と主張する人たちは、決して自ら最前線の戦場に銃を持って立つことはないのでございます。だからこそ、戦争で馬鹿を見るのは、いつでも庶民であると言われるのでございます。

つまり、「国(国家)」の重要性ばかりを口にする人というのは、その国の「現体制」から美味しい汁を吸っている人たちであり、そうでもないのに(つまり、自身、平民であるにもかかわらず)「国(国家)」を「個人」より重要視して「戦争」を肯定する人というのは、自分が「便利に使い捨てにされる駒」でしかないことを忘れて、「身にそわない抽象的観念に酔わされている愚か者」なのだと申せましょう。

> 私は戦争の渦中に居たことがない世代だけれど、戦争について考えようとすると、途中で気分が悪くなるの。理解できないことだらけで。知識を得ようと思って、本を読むにしても、扇情的だったり、真逆のお話があったりで、どこに私の正義を重ねて良いかわからなくて、理解できなくて、ぐるぐるめぐって気分が悪くなっちゃうの。その後に残るのは、感情に痛みを訴える状況の描写 等だけだったりするし。いつもに増して、言葉がとっても稚拙でごめんなさい。

貴女さまが、まず大切にしなくてはならないのは、「戦争」というものに対する、その「不快感」であり「嫌悪感」なのでございます。そんなものを無理強いされるのは真っ平御免だという、その気持ちなのでございます。

そこから、それを強いようとする「敵」の本性を、少しずつ凝視し見極めていくべきなのでございます。

ま、とにかく、私も以前は、貴女さまにたいそう鍛えていただきましたから、今度は私がその恩返しに鍛えさせていただきたいと存じます(笑)。そのためにも、また時々遊びにおいで下さいまし(笑)。


 ホランド
>  ボクは「オトナ」になっただけ。「オトナ」になるのと、「オヤジ」化するのとは、まったく別 問題ですよ(笑)。

だがな、世阿弥曰く、若衆の美は『時分の花』――だそうだぞ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


存在しないものを見てしまう目(9) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時48分53秒


 芙宮さま
> 疑問符が氾濫しています

> 金ベタの階級章って、研究者が研究を称えられてもらう賞みたいなものですよね?それって、軍事関係に従事する人は何を称えられるの?人を傷つけた数?それとも?


『金ベタの階級章』とは、軍隊や警察などの「階級社会」における、上層幹部を指す言葉でございます。

つまり「陸上自衛隊」ならば、一番下の「三等陸士」から「二等陸士」「一等陸士」「陸士長」「三等陸曹」「二等陸曹」「一等陸曹」「陸曹長」「准陸尉」「三等陸尉」「二等陸尉」「一等陸尉」「三等陸佐」「一等陸佐」「陸将補」「陸将」とあり、その上に文民である「防衛庁長官」がいて、トップが「内閣総理大臣」という具合になっており、それぞれの「階級」を区別 するための「階級章」は、「軍隊」でも「自衛隊」でも「警察」でも、たいていは「黒地」に「銀」や「金」のモール(ひも飾り)や星や桜の紋章が増えていくことで差異化されているのでございます。
ですから、下っ端の階級章は、だいたい黒地に一本銀線が入っているだけとか、銀の星や桜が一個だけポツンと置かれているのでございますが、階級的に偉い人のそれは、金地に金の紋章がたくさんあしらわれていて『金ベタの階級章』ということになるのでございます。

つまり私が、前回、

> 将来、日本に兵役が布かれるようなことになった場合、一般兵の若者たちの前に、「金ベタの階級章」をつけた小泉の息子が、上級将校として登場し訓示でも垂れたとしたら、いったいどのようにお感じになられますでしょうか? 私は、そんな演説を歯ぎしりしながら拝聴しなければならない若者たちを生み出さないためにも、ささやかながら日本の現状に警鐘を鳴らしているのでございます。

という話で言いたかったのは、戦時(有事)になれば、一般人(昔で言えば「平民」)の子弟は、下っ端の「一兵卒」として軍隊入りして前線に送られ、命の危険に曝されるのに対し、権力者の子弟というものは、若干の例外を除けば、たいがいは最初から「幹部候補」の「キャリア」として軍隊入りし、最後まで弾の飛んでこない所(参謀本部など)で戦時を過ごす、という不公正な特権に浴するものなのだ、ということだったのでございます。

ですから、彼らの『金ベタの階級章』は、「自らの手」で『人を傷つけた数』によってもらうわけではございません。最初は「親の七光り」で、後は「他人に人殺しを強いた、その成果 」によって、彼らの『金ベタの階級章』は購われるのでございます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(10)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(8) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時46分3秒


 AOIさま(つづき)

同様に、AOIさまは「戦争映画」だとか「具体的・抽象的」といった概念を、しごく曖昧な形でしか使っておられません。そのため、その時々、その言葉の意味するところが少しずつズレてしまい、すこしも議論が深まらず、堂々回りに陥ってしまうのでございます。

ですから、AOIさまの場合、『戦争の具体性』などと「具体性」や「現実」の重要さを主張しながらも、その議論自体が、「具体性」や「自身との現実的なつながり」を欠いて、「抽象的」なのでございますね。

またそれゆえ、私と同じように楽古堂さまの論文をお読みになられても、そこに「具体性欠除」の問題を見い出すことがない。つまり、「具体性は大切だ、という抽象議論」は出来ても「具体物を扱う具体論」はできない、ということになるのでございます。そして、その良い例が、

> 「自己との責任関係」が「発見」されるためには、戦争の具体性が必要だということを言うことです。
> そして、どの戦争も「断片的な情報」以上のものではなく、それは「自己との責任関係」が「発見」されないからということはあると思うけれど、そうした、知識などに関わりなく、一番の難問は、本源的に人間が持っているはずの人間としての感受性や想像力というものが麻痺的状況になってしまうことにあるように思います。
> 自己保存能力でもあるのだろうけれど、自分の生活を守るということが本来持っているはずの感受性や想像力を無意識に遮断してしまう。
> 自分の能力を超えているということで無意識に遮断してしまうのか。
> 人間としての共感や平等感、その場にいるのだという現実性がその麻痺的状況を克服する唯一の原動力なのだろうと思うのだけれど。

といった、「誰の話なんだかわからないけど、ひとまず一般論としては、なるほどね」で終ってしまう「一通 りの抽象論」なのでございます。

大切なのは「具体」だけでもなければ「抽象」だけどもございません。大切なのは、両者を往還する豊かな運動性なのでございます。つまり、時には「抽象にまで突き詰め」、また時には「具体的な事象にこだわり抜く」そうした態度が、相補的・弁証法的に一人の態度の中に生きていることが大切なのだと存じますし、その振幅の力強さが、AOIさまにはまだまだ欠けているように思うのでございます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(9)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(7) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時44分54秒


 本多正一さま
> 『永遠の薔薇 ― 中井英夫へ捧げるオマージュ展』

ご開催、まことにおめでとうございます。
明後日は、お邪魔はいたしますが、お騒がせはいたしませんので、どうぞよろしくお願いいたします(笑)。


 AOIさま
『ふぁみ〜ゆ』をお送りいただき、まことにありがとうございました。見てのとおり、たいへん裨益されるところが多ございました。

さて、次はAOIさまご自身の書き込みについてでございますが、どうもこちらは関心いたしません(笑)。いつも、どこか話が漠然としており、ピントがズレているという印象がございます。だから、いわゆる「正論」を書かれても、説得力(重み)に欠けて、「紋切り型」という印象をうけるのでございましょう。例えば、

> 私が「戦争映画」という場合、戦争という題材を通して、人間の本源を描くものだと考えます。「青春映画」、「恋愛映画」、「ミステリー映画」etcしかり。
> 題材になるものはさまざまあるとしても、本質的には人間を描くものだと考えています。そういう意味で、私にとってはジャンル(枠)はほとんど意味のないものなのですね。

> 私にはジャンルは関係ないんですよね(笑)。
> 江戸川乱歩をずいぶんたって「あ、そうか!?これをミステリっていうのか?」と思ったくらいなもんで(笑)。

といったご主張も、上滑りしているという印象が否めません。つまり、AOIさまにとって『ジャンル(枠)』は『ほとんど意味のないもの』であるということではなく、単に『ジャンル(枠)』に無知であり、無自覚なだけだとしか見えないのでございますね。

例えば、上の乱歩の例で申しますと、『これをミステリっていうのか?』と感じた際に、『これ』の中味を十分に検討してはいない、としか思えないのでございます。だから「思考の枠」としての「ジャンル」という「観念」が理解できない。そして理解できないものだから、つい「関係ない」と言って済ませてしまっている……という感じでございます。

じっさい「ジャンル」観念というものは、一般に考えられるよりもずっと難しいものでございます。にもかかわらず、それについて考えたことのない人ほど、簡単に(粗雑に)それを片づけてしまいがちだというのは、一般 人が「ミステリー」と「ミステリ」の区別も知らないで、平気でそれを同一視しているという事実や、プロのミステリ作家までが「アンチ・ミステリー」という概念の意味も分からないまま、それを不適切に使っている等の事実などからも、そうした現実がご理解いただけようかと存じます(※ 拙論『「アンチ・ミステリー」とは何か』参照)。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(8)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(6) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時42分15秒


神秘主義に毒されていた「ナチス・ドイツ」と、思想的に対決した思想家シモーヌ・ヴェイユは、自ら工場労働に身を投じて、その肉体を過酷な現実に曝しました。そんな彼女は、「根をもつこと」の重要さを説いた思想家でございます。

「飛翔する人」と「根づく人」というタイプ論で、私は、アニメ作家宮崎駿が好きな楽古堂さまと、同じくアニメ作家で宮崎の盟友でもある高畑勲が好きな私を、対比いたしました。しかし、私はそこで、後者が前者に優れていると主張したわけではございません。両者が両輪のごとく揃ってこそ、ものごとは健全に(堂々回りすることなく)前進していくのだということを主張したのでございます。つまり、今の宮崎駿があるのは、その横に高畑勲という筋金入りのリアリストがいたからだと、私は主張したのでございます。

ですから、私は今回も楽古堂さま(の個性の危険性)を厳しく糾弾いたしましたが、これは、楽古堂さまそのものを否定したいからではなく、宮崎駿の高畑勲のように、友人として横にいるからこそ、その人が輝くという形を、楽古堂さまについて、私なりに実現したかったからなのでございます。国や国の行く末に苦言を呈する者は、大勢おりましょう。しかし、楽古堂さまに苦言を呈する者が、私以外におりましょうか? それを考えれば、私は友人として、それをしないのは裏切りであるとさえ考えたのでございます。

「愛すればこそ批判する」――それがお国に刃向かう「非国民」という「愛国者」の真情であり、小沢牧子さんもまたきっと、「心理学」というものを愛すればこそ、その健全な運用の実現のために、今の臨床心理学の政治的なあり方を、批判しなければならなかったのでございましょう。



※ 『ふぁみ〜ゆ』がほしい、挿し絵を確認したいという方は、私までご連絡下さいまし。AOIさまの提供で、本体無料、送料のみのご負担でお送りさせていただきます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(7)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(5) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時41分23秒


こういう「当りの柔らかな」危険性を、小沢牧子さんは講演の後半で、『心のノート』の図像分析をとおし、見事に摘出しております。

『 このノートは本当にパステルカラーを使ってきれいに作られていて、描いてあるものがあまり現実的ではなく、うっとりするような、美化され現実離れした雰囲気をもっています。

 例えば、子どもが描いてあるんだけれど、小学校一・二年生用の表紙なんかもそうなんだけど、二人とも目をつぶっちゃって現実は見ていない。(下段図)(笑)空中に浮いちゃっている。なぜ浮いちゃっているかというと、足が風船になってしまっているので、浮かざるをえない。それで地面 は遠くの遠くにありまして、風船と一緒に子どもが浮かび上がっている。目を閉じて、どこへ行くんだろう、こわいなっていう感じが私はする。空中に浮いているものが多くて、地面 が軽視されていますよ。三・四年生用の表紙だって、空中を走っていく汽車が描かれています。ロケットもある。地球が下の方にあり、木が生えているんだけど、それがまた宙に浮いているというように、美化されて空中に浮いているのが多い。非現実的な作りです。

 地面に立っている子どもが描いてあるなと思うと、これが必ず空を見上げておりまして、足が描いてないのです。中学の『心のノート』の中のさし絵なのですが、子どもが一人でひざをついて(※ 両手を広げ)空を仰いでいるんです。そして「生きる喜びとは何だろう」とある。(上段図)これ宗教のパンフレットみたいね、って言った人がいたんですが。
 足がたまに描いてあると、これがまた不自然です。(中段図)二つの考え方を(※ 両手で)てんびんにかけているんですよね。片方は義務を果たし、片方が他人の権利の尊重なんですが、これは論理がおかしい。もう片方は自分の権利の主張、でないと意味が通 らない。足がでっかく描いてあるのはこれだけなのですが、何か不自然に気負っている。
 他にはほとんど浮いているもの。雲、星、タンポポの綿毛があって、「さあ出かけよう、自分探しの旅へ。自分作りの旅へ。地図がなくても夢というコンパスがあるから」って、本当に抽象的なんですよね。

 具体的な現実に則して事実とか生活に則してしっかりものを見つめていくというところが奪われていく。目をつぶって空に浮いていれば大丈夫だよーって言っていて、気がついたら皆一網打尽、戦場に連れていかれたら大変だなと、私はこの美しい作りをおそろしいものに思ってしまいます。

 空中のもののさし絵が多くて現実離れしている雰囲気は、戦前の教科書に似ているねと言った方もありました。戦前の教科書をよく知っている北村小夜さんという元教員のかたです。戦前の教科書も、例えば紀元節の歌があって、「雲にそびえる高千穂の」という歌詞のさし絵がやっぱり山と雲で、『心のノート』の雲の多さとそっくりなのです。(右図)
 つまり畏敬の念を強調して現実を見せない。うっとりと空を見上げて心酔するような国民、操作しやすい大衆を作りたいのでしょう。そのにおいを私は『心のノート』に嗅ぎました。私は戦争を知る最後の世代として教育勅語に支配された当時の学校が思い出されてきます。』(※ 引用者が適宜改行)





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(6)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(4) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時40分33秒


しかし、何よりも危険なのは、そうしたもの(逃避的耽溺)が「弱い人たち」にとっては、主観的に「都合が良く」て「魅力的」だということなのでございますね。

たとえば河合隼雄は、「道徳教育」や『心のノート』をめぐっての新聞記者の取材に、次のように応じております。

『――道徳教育には「価値観の押しつけ」と反発もあります。
 「反対があるのは当たり前。僕だって昔、『修身』は大嫌いでした。でも、今の道徳は修身とは違う。私の地元の京都では、親や地元の人に道徳の授業を公開し、子供も大人もわーわー言いながら一緒に考えている。子供たちはその中で、いろんな価値観があることを学ぶ。昨年、文部科学省が配布した『心のノート』も、人間として大切なことをなどを、子供と大人が家庭で一緒に考えるきっかけになればと思って、作ったのです。」
 ――効果を疑問視する声もあります。
 「批判も含め、大いに議論してほしい。『心の教育』の重要性を、まずは大人が真剣に考える必要がある。『具体的にどうすればいいの』と戸惑う親は少なくない。だから端緒として『心のノート』を利用してみてほしい。押しつけるような書き方は一切していません。」』

                  (『北海道新聞』2003年3月17日づけ)

最初の質問に対して、『私の地元』での「特別 な事例」を持ち出すというのは、日本の「文化庁長官」の見解としては、何とも的外れな「はぐらかし」だと申せましょう。また後の質問にたいする『批判も含め、大いに議論してほしい。』などという言い種は、小泉首相の答弁そっくりだと申せましょう。つまり『批判も含め、大いに議論してほしい。』、しかし『『心の教育』の重要性』は自明の大前提であり、既定の路線でもあるから、議論の結果 がどうなろうと、そんなことは関係はない――ということなのでございますね。

しかし、ここで本当に問題なのは、河合隼雄の「いかにも臨床心理学者」らしい「当りの柔らかさ」なのである。つまり、表面 上は何も誰も「否定しない」「反論しない」。「それも結構でしょう」「そういう考え方もある」と、大変ものわかりよく受け入れてしまう。だから、自分の意見が実際のところどのようなレベルのものであろうと、ひとまず「受け入れてほしい」「癒されたい」と思っている「弱い人たち」は、河合のような「物腰の柔らかさ」にイチコロとなり、何が正しいのかといった現実的な問題意識は、そこで消滅解消させられてしまうのでございます。――つまり、ここには「何でも併呑してしまう国家神道」的な「危険な寛容」があるのでございます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(5)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(3) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時38分48秒


もちろん、楽古堂さまは「国家主義者」ではないでしょうし、ことさらな「愛国主義者(ナショナリスト)」でもございませんでしょう。しかし、ユング派的な「深層心理学」や「象徴心理学」、あるいは「日本人の精神的古層」の研究だとされる「民俗学」といったものに惹かれる楽古堂さまの精神傾向には、「天皇」を「国の起源」と結びつける「神話的発想」と、たいへんに親和的であるという事実は、たぶん楽古堂さまご自身も否定なさらないのではないでしょうか? 

言うまでもなく、天皇家を特別視する人たちは、現にそこに生きて動いている(ウンコもすれば、セックスもする)人間を見ているわけではなく、「その先にあるとされる、悠久の歴史」という「神話」を見ているのでございます。
そうでなければ、現在の「天皇家」というのは、所詮は「大昔に権力をにぎった地方豪族が、貴族化の果 てに武士に実権を奪われた後、武士に民衆統治のための象徴的(神秘主義的・宗教的)権威として利用されたもの、の末裔」という、いたって散文的な存在でしかないはずなのでございます。にもかかわらず、それに「過剰な意味」を見い出しうるのは、それそのものに先験的意味が存在するからではなく、読み手の側に「描かれてはいないもの」までも読み取りたいという「過剰解釈の欲望」があるからに他ならないのでございます。

このことについて、小沢牧子さんは、次のように語っておられます。

『 そして(※ 文部省によって解体された)社会科に代わるものは道徳という時間。社会科教育の力を弱めて、道徳教育を学校に入れたいという動きは早くから始まっています。そして戦後十数年して、五十八年(※ 1958年)のことですが、学校に道徳の時間が特設されました。六十年代になると、「期待される人間像」というものが出てきて、ここで愛国心とか天皇への敬愛という言葉が復活する。それから、今回の教育基本法改正や『心のノート』の中にもあるんですが、宗教的情操とか、畏敬の念というのが強調されるんです。『心のノート』の中にも畏敬の念というものが出てくる。畏敬の念って何だろうと思うんだけど。どうやら理屈なしに崇高なものにひれ伏す心のことのようです。たとえば、日の丸の旗を見たら血が躍るといったような情念もそうなんでしょう。ものごとを筋道立てて考えるんじゃなくて。社会科っていうのは筋道立てて物事を考える力を養ったわけです。なぜ私たちは差別 してはならないのか、とか、社会のしくみはどうなっているのかとか。生活の中の問題であれ、世界の様相であれ、論理的に物事を考えていこうとする姿勢を育てようとした。畏敬の念というのは必ずしもそうではなくて、とにかく国は理屈ぬ きに愛するんだ、天皇を敬愛するのも当然なんだというような畏敬の念。上に置かれたものにひれ伏す心を持たせていきたいという意向だったわけです。』

つまり、前述のように、『生活の中の問題であれ、世界の様相であれ』、もちろん「文学」の問題であれ、思考検討対象(批評対象)の現実を直視し、それを『筋道立てて』『論理的に』考えていこうとする姿勢が弱まったところでは、「直観」や「相似連想(アナロジー)」を偏重する「神秘的思考」が幅をきかせることになり、やがては「現実世界」との関係をも断って専門めかした「ジャンル評論」の「無難な枠組み」の中に自足しようという、安易な態度が表面 化し始めるのでございます。

先日、私が楽古堂さまに向けて「それでも私たちの世代は兵隊に取られることもないからいいけれど、子供さんをお持ちの楽古堂さまにとっては、今の日本の現実は決して無視できないものでしょう」という主旨のことを書いて「現実の直視」を迫ったのも、「直観」や「相似連想(アナロジー)」といったアプローチも重要だとは言え、事ここにいたっても、そこに耽溺するだけでは、それは態のいい「逃避」でしかない、と考えたからなのでございます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(4)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(2) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時37分27秒


竹本健治の『風刃迷宮』は、作中で提示された事件の謎が、完全に合理的な形では解決されていない「推理小説」でございます。竹本のデビュー作『匣の中の失楽』はもとより、その祖型となった中井英夫の『虚無への供物』などを持ち出すまでもなく、「完全には解決をみないミステリ」の系譜は、ミステリの世界にも昔から小数ながら確実に存在しております。ですが、そうした作品は「完全に決着しないという形式において、作品としては完成品」である作品なのであって、決して「未完成」「不完全」な作品ということではございません。ところが、『風刃迷宮』の場合は、「完全に決着しないという形式において、作品としては完成品」であるというよりも、むしろその「飛躍した、唐突な結末」において「未完成・不完全な作品」という印象を、私に与えたのでございました。

この点について、楽古堂さまは「竹本健治の作品は、その大半が、いろんなレベル(位 相)で関連しており、全体でひとつの世界観を示すというような作られ方をしている。だから、ある作品で説明されないことも、別 の作品で説明されるということがあるので、個々の作品のレベルで、その作品に説明されていない部分があるからといって、それでその作品を未完成・不完全な作品だと評価するのは違うのではないか」という主旨のご意見をお持ちでした。

それに対し、私と同意見のホランドくんは「最初から長編の一部であることが提示されているような作品であるのならばともかく、一応は単品として提出した作品が、その作品の枠内で未完成であるという事実は、その作品の評価においては未完成・不完全な作品という評価を避け得るものではない。じっさい、他の作品で将来的に書かれる(補足される)かも知れないので、この作品を未完成だとか失敗作だとか言えないとするならば、作品評価は原理的に不可能になってしまう」というような主旨の主張をいたしました。それが次のような、楽古堂さまへのレスでございます。

『 要は「どこで切るか」ということなんだと思います。楽古堂さまのようなお考えも決して間違えではないと思いますが、そういう考え方は「評価」を無限に先送りすることで、「今ここ」には存在しない「期待(願望)」をあたかも「未来に約束されたもの」であるかのように語るという陥穽に陥りがちです。たとえば、ある一個の完結した作品を、その作家の全作品の一部分だと評価したとします。すると、その作品はその「作家が死ぬ まで評価が定まらない」どころか、「書かれるはずだった作品」を読者が夢想することによって「永遠に評価が定まらない」といった事態に陥ってしまうのです。ですから「評価」を語るとすれば、「どこで切るか」が問題になってくるんです。切らなきゃ「評者の夢想」を語る以外なく、「作品評価」が出来なくなるからなんですね。もちろん、はじめから「大長編の一部」として明記されているものなら、それはそういう位 置付けで評価すれば良いでしょう。でも、そうでないものまで、そのような扱いをすることは、その作品の「自立性」を蔑ろにすることにもなると思うんですよ。・・・譬えれば「君は君自体として評価されない。君は親の一部であるから、君の行動の評価も、親の保護責任に照らした上でしか評価されえないのだ」というような態度に近いと思えるんです。ボクはその「君」の行動は、その「君」の行動として、評価されるべきだと思うんですよ。少なくともその重要性を忘れてはならないと思うんです。』(2002年4月5日づけ、BBS『アレクセイの花園』への書き込みより)

私は、このホランド君の意見にまったく同感でなのでございますが、問題はここで、いみじくも「自立性」の問題が問議されている、という点なのでございますね。

つまり「愛国心・郷土愛・公共心」といったことを強調するというのは、「国・郷土・地域社会」との「つながり」の強調であり、「あなたは、その中の一部でしかないのだ」ということを強調する思想なのでございます。「国があっての国民なのだから、国を守るためには命をもなげうて」という発想でございますね。つまり「全体」のなかで初めて位 置づけられ、初めて意味を持ちうる「個」という発想は、それが「国家と国民」の問題であれ「全作品と個々の作品」の問題であれ、言うまでもなく「国家」の側、あるいは「全作品」つまり「作家」の側に都合のよい、「個」の自立責任を曖昧にする「解釈」を生み出すものなのでございます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(3)」につづく)


存在しないものを見てしまう目(1) 投稿者:園主  投稿日: 2月27日(金)23時35分34秒

みなさま、先日、AOIさまから、ご自身も参画しておられるという「本多公民館自主グループ」発行の小冊子『ふぁみ〜ゆ』(vol.1 2003.12)を送っていただきました。創刊号ということで、同冊子が刊行されるまでの経緯などが紹介されておりますが、本号のメインは、『『心のノート』を読み解く』(かもがわ出版)、『『心の専門家』はいらない』などの著書を持つ、臨床心理学研究家 小沢牧子さんの講演会記録「「心のノート」を考える」でございます。

この講演では、現在実施準備が着々と進められている「教育基本法改正」の問題と、それを先取りする形で既に全国の公立小中学校に配布・利用されている『心のノート』の問題、そしてそうした問題の背後に伏在する河合隼雄 文化庁長官(ユング派心理学者)が代表をつとめる「心理臨床学会」の政府とのつながりの問題が、三位 一体のものとして、非常にわかりやすく紹介されております。

小沢さんの講演内容を要約いたしますと、

(1) 現行の「教育基本法」は、「天皇の赤子」であれと教えた「教育勅語」への反省から出発して、自分の頭で考えることのできる「主体性のある子供」「世界平和に資する人間」を育てようとして、その基本理念を定めたものである。

(2) しかし、敗戦後まもなくから早くも「国のために死ねる国民」への回帰をめざす流れは出てきており、それが中曽根康弘首相当時の「臨時教育審議会」答申による「道徳教育の強調」という形で、政治の世界にも復活してくる。

(3) そうした時期に、臨床心理学者の活動の場を拡げようとロビー活動を展開していた「心理臨床学会」の代表でユング派心理学者の河合隼雄が、学校に「心の相談員」をと、臨床心理学者を「カウンセラー」として学校に配置すべしという提案をし、やがてこれが実現する。

(4) 現在進められようとしている「教育基本法改正」の眼目は「愛国心・公共心」の学校教育現場での育成ということであり、それを先取りするかたちで、すでに文部省の発行した『心のノート』が全国の公立小中学校に配布され、その活用がなされ始めている。

(5) 言うまでもなく『心のノート』の背後には、河合隼雄 文化庁長官の存在があるのだが、『心のノート』に見られる「心理主義」「情操主義」の危険性については、すでにあちこちで批判されているとおりで、具体的に言うならば、『心のノート』の「心理主義」「情操主義」の危険性とは、物事の見方が「内面 偏重」となりがちで、社会現実との具体的なかかわりの中で自己の位置を見定めるという「客観的な物の見方や考え方」を軽視し弱めてしまうという傾向にある。これは「国のために死ねる国民」となるべき「主体性のない(その他大勢の)子供」を期待する、現在の国の方針にみごとに一致している。

(6) また『心のノート』の「心理主義」「情操主義」の危険性とは、「教育勅語」のようなあからさまな押しつけではなく、心理学臨床におけるカウンセリングにみられるような、カウンセラーが被カウンセラーに対し「自分で答を見つけるように、誘導する」という、その「誘導性」、平たくいえば「心理的な操り」の問題にあると言える。つまり、『心のノート』では、見掛け上は「自分で答をみつける」という「当りの柔らかい形式(=カウンセリング形式)」が採用されているのだが、それが学校に提出され、先生に読まれ、「日の丸・君が代」を推奨をしているような学習指導要綱に基づいて「採点」される以上、「正解」は自ずとあらかじめ決まっている。にもかかわらず、その「正解」を伏せておき、それぞれがその「正解」を「自主的」に発見し選んだかのような形式的偽装をこらして、その選択結果 については「自己責任」を課そうというのが『心のノート』の問題点なのだ。

と、まあ、大要こんなところでございましょうか。

私は、この講演記録を読んで、これまで心のなかでもやもやしていたことに、ハッキリとした形が与えられる気がいたしました。それは何かと申しますと、竹本健治の『風刃迷宮』(光文社文庫)の評価をめぐって、楽古堂主人 大内史夫さまとの議論でも論点となった「描かれてはいないものを読む」という態度。つまり「過剰解釈」の問題なのでございます。





( 以下は「存在しないものを見てしまう目(2)」につづく)


疑問符が氾濫しています 投稿者:芙宮  投稿日: 2月27日(金)01時51分5秒

園主さま
 初夏>あの日は気温が22度もあったんですもの。
金ベタの階級章って、研究者が研究を称えられてもらう賞みたいなものですよね?それって、軍事関係に従事する人は何を称えられるの?人を傷つけた数?それとも?
やられるくらいなら、相手をつぶして自分達をまもろう。っていうのを国レベルでするってことが既に理解できないの。それに、戦争って、別 段個人的に怨恨を持っているわけでもない人を殺しちゃったりするんでしょう?国のため、ひいては自分のためにって。トランス状態っていうか、何かの宗教であった精神操作?あーもー無理だぁ。私は戦争の渦中に居たことがない世代だけれど、戦争について考えようとすると、途中で気分が悪くなるの。理解できないことだらけで。知識を得ようと思って、本を読むにしても、扇情的だったり、真逆のお話があったりで、どこに私の正義を重ねて良いかわからなくて、理解できなくて、ぐるぐるめぐって気分が悪くなっちゃうの。その後に残るのは、感情に痛みを訴える状況の描写 等だけだったりするし。いつもに増して、言葉がとっても稚拙でごめんなさい。
 5年も経ちましたからね・・・意外と芙宮はしたたかかもしれないよ?ふふ。冗談、最近歳をまたひとつ重ねましたものの、まだ小娘でございますよ。あ、それと、大切な芙宮さまだなんて・・嬉し恥ずかしいわっ・・(くすり)。園主さまは、芙宮の敬愛するお父さんですから光栄ですわ。ではまた、ふらりと来ます。


なにかと大変な時代(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月27日(金)01時31分4秒


 AOIさま
>>アフガニスタンで医療奉仕をしているの中村哲先生

>「ペシャワールの会」です。
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/

 ご指摘、ありがとうございました。何度も目にしているのに、いつも「黙読」だから、最初の思い込みのまま誤読していたようですね。気をつけなくちゃ。

> その地に住む人とともにあり、人としてするべきことをし、ほんとうに必要なものはなにか静かに語る中村哲さん。中村さんと同じように活動する無名の人たち。
> ほんとうに頭が下がります。

 ホントにすごい活動をなさってますよね。誰だって、まずは自分が可愛いから、なかなか出来ることではない。

 ただ、ひとつ気になったのは、ご教示いただいた「ペシャワールの会」ウェブサイトのトップページの「ペシャワールの会」というタイトルの下に、下線付きの太字で、

> 「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」

と書いちゃってること。

 実際そのとおりのことをなさってるんでしょうけど、こういう書き方が、それができない多くの人に対し、どういう印象を与えるかということについて、ちょっと無頓着なように思われます。つまり、「何かをしなくてはと思いながらも、何も出来ていない多くの人」に対して、こうした言い方は、「(自慢げで)鼻持ちならない」という印象を与え、ことによると反発さえ招きかねない、ということがわかっておられないように思うんです。
 まあ、こういうサイトを覗く人の大半は、AOIさまと同様、こうしたボランティア的活動に好意的な人たちでしょうから、問題が表面 化することはほとんどないんでしょうけど、良いことであれ悪いことであれ、人並みはずれて「目立ったこと」をする人間は「羨望の的になるか、憎悪の的になるかしかない」、という大衆心理は、弁えておいて良いことだと思いました。


 影姫さま
> 8時間の高速バスに揺られ東京、行ってまいりました。
> 今回のオフ会は総勢30人前後、北は秋田から南は宮崎まで、また年齢層も10代から40代までと多彩 。昼間からビールを飲みながらビンゴ大会、物まねゲーム、やたらと盛り上がる萌え話と正に疾風怒涛のオフ会であったのでした。う〜〜〜む 疲れた・・・ムニャムニャ。

 ずいぶん楽しまれたようですね。年齢層が広いのは良いことだと思います(笑)。

> ☆デカレンジャー続報>第二話において驚くべき展開が待ち受けていたのでありました。なんとこの番組では怪人を倒すまえに「裁判」をやるのです。まずデカレッドが「宇宙連邦裁判所」に怪人の罪状を報告します。するとなんと2秒程度で判決が帰ってきます。(たいてい死刑になる模様)そしてデカレン5人が同時に「ジャッジメント!!」という掛け声とともに必殺技を放ち、怪人は爆発します。なんと逮捕から死刑執行まで5秒あまり。なんともスサマジイ世界なのです。

 なるほど。いちおう警察だから、犯人を「裁判」にかけるという手続きを踏むんですね。たとえ『2秒程度』とは言え、それはとても大切なことだと思います。
 ただ問題なのは、はたしてこの裁判では「無罪になることもあるのか?」ということですよね。それから「有罪の場合、控訴の機会は与えられているのか?」「冤罪事件はありえないのか?」ということ(笑)。

 もっとも、アメリカみたいに「国際法」も「国際刑事裁判所」も「くそくらえ」で済ませちゃう国が、世界を仕切っているという今の『スサマジイ』現実からすれば、まだ『デカレンジャー』の世界の方がマシなのかも知れませんよ(笑)。


 園主さま
> おまえだって『オヤジ化が進行』してるから、Keenさまのくすぐりに反応しなくなったんだろうが(笑)。

 ボクは「オトナ」になっただけ。「オトナ」になるのと、「オヤジ」化するのとは、まったく別 問題ですよ(笑)。




 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


なにかと大変な時代(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月27日(金)01時30分20秒


 芙宮さま
> 初夏の風とともに飛ばされてきました。おひさしぶりです。

 ホントにおひさしぶり。おいでいただけて、うれしいです!

> 垣根の外から中をちょくちょく覗いている芙宮です。(←やっぱりこの表現は変質者が彷彿とされますよ。ホランドさま)

 そんなことないですよ。芙宮さんのイメージって偏ってると思う。ボクのイメージとしては「装飾的な意匠の凝らされた鉄柵に囲まれた洋館。その前庭の花壇で水やりをしているうつくしい令嬢に、ふと目を奪われている青年」とか、そういうロマンティックなイメージです(笑)。

 そう言えば、チャン・イーモウ監督の傑作『初恋のきた道』でも、都会から来た青年教師に憧れる村娘が、子供たちに詩の朗読を聞かせている青年教師の声を聞きたくて、わざわざ遠回りをして学校の側を通 って水汲みに行くというシーンがありました。
 そうした行動を、すぐに「変質者」的だとか「ストーカー」的だと印象してしまう現代日本というのは、やっぱり病んでいると思うなあー。べつに芙宮さま個人が、どうこうと言うんではなくって。

>  先日、やけに人生経験の豊富な友人お勧めの日記サイトを訪れたのですが、3日分ほど読んだところで、背中と手の甲に痒みが・・・。私には未知の世界かつ、青年の妄想のようなモノローグに何だか、拒絶反応が・・・ジンマシンが出てしまいました(笑)。友人達の爆笑を誘ったのはいうまでもないことです。

 さすがは「父娘」。そういうとこ、園主さまと似てますよね(笑)。こないだの園主さまの、田中 洌さまへの反論の、↓

> そんな「悲劇の主人公」めいたことを恥ずかしげもなく書いては、他人の気を引こうとなさるのでございましょう。『くりごとを語るしか行動様式をもたない僕たちの悲哀』『思考停止を蒙った僕たちの絶滅の表現』などという文章は、三〇歳以上ではとても恥ずかしくて書けない

 これなんか、まさにそういうところがよく出てると思います(笑)。

 園主さまは「自己の立ち位置の自覚」ということをよくおっしゃいますが、これは「自己客観視」ということだろうし、これの反対が「独りよがり」であり「自己陶酔」ってことだから、そういうものに強い嫌悪をお感じになるんでしょうね。そしてそれが、園主さまの場合には「怒り」「苛立ち」となって表現されるんだけど、芙宮さまの場合は、いったん内攻した後に「じんましん」という形で表面 化するんだと思います(笑)。

 こんど来ていただけるのは……「秋風」に乗って、7月頃になるんでしょうか?(笑)


 本多正一さま
>  以前もお知らせいたしましたが『虚無への供物』刊行40年記念企画として、来る2月29日より「永遠の薔薇ー中井英夫へ捧げるオマージュ展」を開催する運びとなりました。先週あたりから素晴らしい作品が続々搬入されております。お近くにおでかけの際には是非お立ち寄りください。

 いよいよ近づいてきましたね!

 園主さまは、お招きにあずかりオープニングパーティに参加なさるそうですが、ボクも豪華メンバーによる展覧会は、ぜひとも拝見したいと思っています。とっても楽しみです☆





( 以下は「なにかと大変な時代(4)」につづく)


なにかと大変な時代(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月27日(金)01時29分37秒


 FIVEPLACESさま
> 私は普段の読書ではどちらかというとミステリ畑なんですよ。むしろSFの方が式貴士絡みで昔のSFを少し読んでいる位 で暗いと思います。挙げていただいた『SFが読みたい! 2004年度版』の中でも一作も読んでいませんし。

 そうだったんですか。じつはボクもこないだは『SFが読みたい! 2004年度版』の国内編をご紹介いたしましたが、興味があるのは、むしろ海外の方なんですよね。とくに第1位 のテッド・チャン『あなたの人生の処方箋』とか、第2位のグレッグ・イーガン『しあわせの理由』なんかのような「選りすぐりの短編集」、しかも「文庫」ってとこらあたりが、うれしいんですよねえー(笑)。

> 式貴士には、間羊太郎名義で『ミステリ百科事典』という古今東西のミステリーを紹介した名著がありまして、最近はそこで紹介された作品を読むことが多いです。結城昌治はこの本で知って一時期かなりはまっていました。

 ボクもこれでけっこう古いミステリファンですから、もちろんそのあたりは承知していますよ(笑)。

 間羊太郎の『ミステリ百科事典』は、昔、買ったんだけど読んでなくって……どこかにあるはずなんですけどねー(^-^;)。
 あの本は、絶版になっただけじゃなくて、現代教養文庫そのものがなくなっちゃったから、今となってはなかなか読めない本ですよね。……そうそう、この文庫の装画・挿画を描かれていたのが、『永遠の薔薇 ― 中井英夫へ捧げるオマージュ』展にも出品なさっている、渡辺東さんでしたよね。

 結城昌治は、「スパイ・冒険小説」系の人という印象があったので、読んだことはないんです。『夜の終る時』『ゴメスの名はゴメス』なんかが、ミステリの世界では代表作とされていましたが、やはり直木賞受賞作である軍隊小説『軍旗はためく下に』が有名なようです。……このあたりも、昔、文庫本で買ったんだけどなあー(^-^;)。

> 現役の作家だと、割と雑食状態で読んでいるので、コレといえる作家はなかなかいませんが、島田荘司、歌野晶午、奥田英朗、楡周平らの作品はほとんど読んでいて好きですね。
> 島田荘司は今でも『ネジ式ザゼツキー』のような作品をキッチリ書くエネルギッシュぶりがスゴイと思います。

 「一癖ある作家」がお好きみたいですね(笑)。

 ところで、島田荘司の『ネジ式ザゼツキー』は、ひさびさにミステリマニアにも評判が良いみたいなので、ちょっと気になっています。

 そう言えば、島田さん、最近は「冤罪事件」「死刑制度」「日本人論」の本を出さなくなりましたね。キナ臭い今だからこそ、島田さんのご意見を聞いてみたい気がするんですが、たとえば「イラク派兵」とか「有事法制」だとか「教育基本法改正」だとか「北朝鮮問題」だとかを、島田さんはどう思っているのかなあー?





( 以下は「なにかと大変な時代(3)」につづく)


なにかと大変な時代(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月27日(金)01時28分4秒

 みなさん、こんばんは! こないだ園主さまが、芥川賞受賞作がベストセラーになっているということを書いておられましたが、たしかに綿矢りさの『蹴りたい背中』と金原ひとみの『蛇にピアス』の2册は、全国的によく売れているみたいですね。今回の芥川賞候補者の年齢がむやみに若かった(綿矢が19歳、金原が20歳)のは、それだけ純文学に骨太な作品の枯渇があり、そのため「若さ」から来る「新しさ」に頼らざるを得ない状況があったからだろうと、園主さまはとても厳しい現状分析をされていたんですが、その後の状況は、どうやら「若さ」の問題から「アイドル性」の問題へと移ってきたみたいです。つまり、身も蓋もなく言っちゃうと、今回の受賞者はお二人とも若くって可愛かったから、その点でマスコミも騒いだし、その結果 、日頃「純文学」には縁のないベストセラー購買層が、今回の芥川賞受賞作をベストセラーにまで押し上げてしまった――というのが、今回のベストセラー現象の主因だと思うんです。

 前から思ってたんですけど、昔の歌手って「ルックス(顔)」は関係なかったようで、人気歌手だからといって、必ずしも「美男・美女」だとは限らないんですよね。ボクたちは「歌手」っていうと、芸能人なんだから、当然「ルックス」も良くなくちゃならないんだと思っているけど、昔の歌手はそうでもない。結局、昔は「歌手」っていうと、文字どおり「歌い手」つまり「歌う人」だから、歌さえうまければ良かった。ところが、時代がラジオからテレビに変り、ビジュアル面 に重点が移ってゆくと、やっぱり「見栄えのする方がいい」ということになって、一時は「歌は下手だけど、ルックスはいい歌手」なんて珍妙な存在も登場し、そして現在では、それなりに両方兼ね備えていなくては人気歌手になれなくなってきたようです(特に、ソロの場合は)。

 で、これからは「文学」も、だんだんそうなっていくんじゃないかって気が、ボクにはするんです。だって、小説における個性的魅力というの、なかなか伝えにくい。「筋立てがうまくて話がおもしろい」「キャラクターが今風、かつ生き生きと描けてる」みたいなことなら、ある程度、書評なんかでも伝えられるけど、文体からにじみ出す「個性」なんて、そう簡単には説明できませんからね。それに、そうでなくても書評は「どれもこれも誉めてばかり」だから、消費者は「何を信じたらいいのか」「何を選んだらいいのか」がますますわからなくなっています。そんななかで一番わかりやすい指標が――「ルックス」なんだと思うんですよ。

 今回「直木賞」を受賞した京極夏彦さんなんかも「ルックス」の演出に配慮している今どきの作家ですけど、その京極さんが「内容」だけではなく「版面 」の印象というものを強調した作家であったことは、思い出しておくべきでしょうね。「内容」というのは、ある程度じっさいに読まないことには判断のしようがない。でも、「版面 」は本を開いた瞬間に、ある程度の印象を消費者(=未「読者」)に与えますからね。つまり、京極夏彦さんがこだわった「版面 」とは、「装丁(本のルックス)」とはまた別の「文章のルックス」なんだと思うんです。

 今や作家も「文の学者」や「文の芸術家」「文の職人」では済まされず、「ルックス」まで必要になってきたんだとしたら、……なんだか、大変な時代ですねよえー。





( 以下は「なにかと大変な時代(2)」につづく)


女隷哀哭 投稿者:影姫  投稿日: 2月26日(木)01時22分15秒

どうも影姫です。

8時間の高速バスに揺られ東京、行ってまいりました。
今回のオフ会は総勢30人前後、北は秋田から南は宮崎まで、また年齢層も10代
から40代までと多彩。昼間からビールを飲みながらビンゴ大会、物まねゲーム、
やたらと盛り上がる萌え話と正に疾風怒涛のオフ会であったのでした。う〜〜〜む
疲れた・・・ムニャムニャ。

☆デカレンジャー続報>第二話において驚くべき展開が待ち受けていたのでありま
した。なんとこの番組では怪人を倒すまえに「裁判」をやるのです。まずデカレッ
ドが「宇宙連邦裁判所」に怪人の罪状を報告します。するとなんと2秒程度で判決
が帰ってきます。(たいてい死刑になる模様)そしてデカレン5人が同時に「ジャ
ッジメント!!」という掛け声とともに必殺技を放ち、怪人は爆発します。なんと
逮捕から死刑執行まで5秒あまり。なんともスサマジイ世界なのです。

☆『乱歩R』>日テレ系春のドラマ>なんとあの小林少年が「小林老人」になって
登場するという驚愕の推理ドラマです。明智小五郎はなんと3代目だそうです。文
代夫人は出てきません。どこいったんでしょうか?作品のセレクトは「人間椅子」
「地獄の道化師」などまあ無難なトコロ。わたしとしては「芋虫」の勇気ある本格
映像化を望みたいのですがPTAの圧力で無理でしょう。ぐすん。とはいっても乱歩
ファンとして初期短編ばかりが評価される昨今、「蜘蛛男」→「魔術師」→「吸血
鬼」路線の痛快娯楽探偵活劇の復活を切に望むものであります。アーメン。

それではおしまいです。寝ます。ムニャムニャ。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


花粉に色が(下) 投稿者:AOI  投稿日: 2月25日(水)10時20分51秒

(園主さまつづき)
>抽象的な「戦争」はもとより個々の「具体的な戦争」にすら興味のない人間にとっては、どの戦争も「断片的な情報」以上のものではなく、実質的には「テレビドラマ」と大差のないものなのでございます。なぜそうなのかといえば、それはその「情報」が思考・検討されることなく受け流されるので、どこまで行っても「自己との責任関係」が「発見」されないからなのでございます。

「自己との責任関係」が「発見」されるためには、戦争の具体性が必要だということを言うことです。
そして、どの戦争も「断片的な情報」以上のものではなく、それは「自己との責任関係」が「発見」されないからということはあると思うけれど、そうした、知識などに関わりなく、一番の難問は、本源的に人間が持っているはずの人間としての感受性や想像力というものが麻痺的状況になってしまうことにあるように思います。
自己保存能力でもあるのだろうけれど、自分の生活を守るということが本来持っているはずの感受性や想像力を無意識に遮断してしまう。
自分の能力を超えているということで無意識に遮断してしまうのか。
人間としての共感や平等感、その場にいるのだという現実性がその麻痺的状況を克服する唯一の原動力なのだろうと思うのだけれど。

>『闇のなかの赤い馬』における「現実部分」は、一般的な意味で、非常に「マンガ的」だからでございます。その意味で『リアリティー』が無い。しかし、その「マンガ」っぽさに、Keenさまなどは惹かれるのでございましょう。

>ですから、ここで問題となるのは「マンガっぽいこと、そのもの」ではなく「マンガっぽいものとしての完成度」つまり「マンガっぽい世界としてのリアリティーの達成度」なのだと存じます。そして『闇のなかの赤い馬』は、そうした意味での達成度に、問題があったのではないかと、私は評価するのでございます。

まんがやSFにリアリティーがないとは思わないですよ。
作品にリアリティーを感じられなかったということ。

今は、ともだち(苦笑)の強力お勧め「20世紀少年」(浦沢直樹著)を読んでいます。

>あの自他共に認める傑作短篇「銀の砂時計が止まるまで」と比較されるのは、竹本さまとしても辛いのではないかと存じます(笑)。

・・・辛いのに耐えるのが「スキ」ではなかった(笑)?

>「SF世界でのみ成立可能な、それでいて論理的(本格ミステリ的にロジカル)なトリック」に尽きるのではないかと存じますが、……本当に、ものの見方や好みというのは、人それぞれでございますね。

私にはジャンルは関係ないんですよね(笑)。
江戸川乱歩をずいぶんたって「あ、そうか!?これをミステリっていうのか?」と思ったくらいなもんで(笑)。
ネコは竹本版おんな“駆”というかんじですね。
駆が無傷なように感じられるのにくらべて満身創痍。痛々しい。
でも、どちらもあんまり読んでいるわけじゃないのでちょっと読んだだけの印象ですけれど(無責任/爆)

☆ホランドさま

>アフガニスタンで医療奉仕をしている「ペルシャワールの会」の中村哲先生

「ペシャワールの会」です。
http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/

その地に住む人とともにあり、人としてするべきことをし、ほんとうに必要なものはなにか静かに語る中村哲さん。中村さんと同じように活動する無名の人たち。
ほんとうに頭が下がります。


花粉に色が(中) 投稿者:AOI  投稿日: 2月25日(水)10時09分53秒

>これは「自明の前提」ではなく、「見解の相違」が表面 化した部分でございましたね。

ん?ほんと?

>傍目にそう見えることが『しょうがない』では済みません。それで済ませないために「議論」があるのでございます。たとえば、「戦場における正当防衛」が『傍目』には「人殺し」に見えるのは『しようがない』で済むでしょうか? 「戦場における正当防衛」で「人殺し」をした人は、そのように主張して済ませようとするでしょうが、私は、結果 としてそれを「人殺し」と呼ぶのが適切か否かにかかわりなく、『しようがない』では済まされないこととして「議論」の必要を感じるのでございます。……そもそも「考えたって、しかたない」「議論したって、しようがない」という現実があるのを承知で、「議論」というのは「あえて」なされるのでございます。

「考えたって、しかたない」「議論したって、しようがない」とはいっていないし、思いませんよ。では、
>> むしろ、そうした側面からの議論がすでにされて、それですむのであれば、私が議論に加わることはありません。

と言ったことについてはどう思われますか?
「いや!そんなことはないAOIさまなら『そうした側面からの議論に満足して、それに加わるだけだろう」とやはりおもわれるということですか?

>ここでは『現実』とか『具体的』ということの特権性が強調されております。そしてこれは、AOIさまの「抽象的な戦争よりは、ベトナム戦争の方が、具体的である(だから、考えやすい)」というご主張を支える論理(現実認識)でございます。

>しかし、『具体的』であることが、そのまま『現実』的だと言えるのか? あるいは、『具体的』であるということが、そのまま「考えやすい」と言えるのか、という根本的な問題がここでは看過され、「抽象的なものは難解だ」という俗論と、その俗論を支持する俗情との結託が、ここには無自覚に露呈していると申せましょう。

「抽象的な戦争よりは、ベトナム戦争の方が、具体的である(だから、考えやすい)」な〜〜んていっていませんよ。
漠然と、一般論で語っても意味はないと言っているだけです。抽象的な戦争が導き出されるのは具体性(断片的な情報を含めて)を通 して導かれるものだといっただけ。
チョムスキーが戦争を語る場合に具体的にかたることの重要性を言っていますが、それについてはどう思われますか?

>ほとんど無知な「ルワンダ」だの「インドネシア」だの「チェチェン」だのといった場所での戦争や殺戮に関しては、調べれば「責任関係」を見出せるであろうという予測はあっても、

幼子以外は、誰しもあらゆる戦争に責任がある(自明の前提)といっていらしたはず。


花粉に色が(上) 投稿者:AOI  投稿日: 2月25日(水)10時04分10秒

微量ながら花粉が舞い始めたようですね。

☆園主さま

>これは、私の「思考実験」の答になっておりません。私が上の「仮説」で言っているのは、『例えば、『地獄の黙示録』』が「戦争映画」でありながら、その「枠」を超える部分を持っていたとしたら、AOIさまはそこに気づきうるか否か、ということなのでございますね。つまり「戦争映画」という、とても大きな「枠」の設定に満足して、他の「枠」の設定の必要性を感じないのではないか、という「問い」なのでございます。

>言うまでもなく、私は『地獄の黙示録』を『戦争をテーマとした映画』として「あたりまえ」に論じることを、構うとか『構わない』とかいったレベルの議論をしているのでもなければ、そうした問いを発したのでもないのでございます。

思考実験ならば、『例えば、『地獄の黙示録』』が「戦争映画」でありながら、その枠」を超える部分を持っていたとしたら』という仮定は重要なのですから、それを書かなければデメよ(笑)。

そして、その質問に対する私の考えは前回下記のように書いています。

>>もし、私が『そうした議論ばかりを目の当りにして「それだけでなく、『地獄の黙示録』に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか」と疑問を持ち、もっと違った側面 から作品を語ることの必要性を、現実問題として、感じ主張しうる』という場合は、作品のなかに、「戦争」ということだけで集約できないものが描かれ、それが作品として無視できないものであると感じ、そのことが語られていないという場合です。

私が「戦争映画」という場合、戦争という題材を通して、人間の本源を描くものだと考えます。「青春映画」、「恋愛映画」、「ミステリー映画」etcしかり。
題材になるものはさまざまあるとしても、本質的には人間を描くものだと考えています。そういう意味で、私にとってはジャンル(枠)はほとんど意味のないものなのですね。ですから、

>「戦争」というのは「人間の本源的な難問」でございますから、「戦争映画」として評価するだけで、その映画を「人間の万象」を描いた映画として評価することも可能だ、という風に考えることが可能でございます。通 常「戦争映画」という「枠」は、「人間の万象」に文字どおり「枠」を課するものでしかなく、それを「人間の万象」とイコールで結ぶという言い方には無理がございます。ということは、例えば『地獄の黙示録』の「ような、優れた映画」には、当然「戦争映画」という枠を超えた部分があるのでございますね。だからこそ私は、『もっと違った側面 から作品を語ることの必要性』を『現実問題として、感じ主張しうるか』と問うたのでございますよ。

と言われたことについては、「戦争映画」というもの(枠)が私にはほとんど問題ではないけれど、『例えば『地獄の黙示録』の「ような、優れた映画」には、当然「戦争映画」という枠を超えた部分があるのでございますね』という前提に立てば、当然、戦争という題材だけでは捉えられないと感じ、それ以外の側面 から作品を観ることの必要性を主張すると思いますよ。どのような作品であれ、私にとってはそういう見方が自然なことです。
但し、それは、一般的な評価とは必ずしも合致しないということはいえますが。


(無題) 投稿者:本多正一  投稿日: 2月25日(水)09時40分7秒

 ご無沙汰しています。
 以前もお知らせいたしましたが『虚無への供物』刊行40年記念企画として、来る2月29日より「永遠の薔薇ー中井英夫へ捧げるオマージュ展」を開催する運びとなりました。先週あたりから素晴らしい作品が続々搬入されております。お近くにおでかけの際には是非お立ち寄りください。
 なお初日午後6時ごろよりオープニングパーティを催します。

(会期)2004年2月29日(日)〜3月10日(水) 午前11:30〜午後6:30
(第一会場)ギャラリー・オキュルス 港区高輪3-10-7 03-3445-5088
(第二会場)古書啓祐堂 港区高輪3-9-8 03-3473-3255
(参加作家)石塚公昭、梅木英治、喜国雅彦、今道子、佐中由紀枝、多賀新、竹本健治、建石修志、司修、楢橋朝子、畑農照雄、板東壮一、藤田新策、本多正一、間村俊一、森山大道、山下陽子、山本美智代、渡辺東



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