●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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愛と誠 投稿者:Keen  投稿日: 2月20日(金)11時00分10秒

昨日、WOWOWで30年前の劇場版『愛と誠』(主演・西条秀樹&早乙女愛)やってました。
「ロード・オブ・ザ・リング」と同じ、三部作のようですね。昨日のは第1作で、「名門・青葉台学園篇」といったところでしょうか。
もうね、こてこての少年マンガパターンしてて、シビれましたよ〜!(妄想の余地なし/笑)
当時、大まかな展開は知っていたものの、原作もとびとびにしか読んでないし、そもそもの愛と誠の運命の出会いを知らなかったので、「あ、そういうわけだったのか」と、やっと腑に落ちたのでした。
それにつけても、ああ、岩清水くんっっっ!!!
キミの本物のプラトニック・ラブには、やられたぜ!
園主さま、三浦しをんさん、私もどうやらお仲間のようですわ。(^0^*


男を飼う 投稿者:影姫  投稿日: 2月19日(木)02時04分13秒

明日から特撮サイトのオフ会に参加すべく首都圏に旅発ちます。もちろん古本屋も。
(これは基本)帰ってきたら収穫を発表いたします。お楽しみに。

園主様>ボクシングの基本は瞬発力とパワーです。故にわたしのような動きのトロ
イ人間にはあまり合わないようです。それに対してグレーシー柔術はもともと「力
なき者のための格闘技」といわれるように相手のパワーを利用して逆に相手をねじ
伏せるタイプの格闘技なのです。故にナチュラルなパワーもスピードも不足してい
るわたしのような人間にはこちらのほうが合っているというわけです。

『特捜戦隊デカレンジャー』>今特撮界で最も話題なのがこの新戦隊です。これは
なんと司令官が「犬」です。五人は犬の手先というわけです。正に文字通り「K察
の犬」の特撮番組なのです。

『砂の器』>TBS日9からのドラマです。おなじみ松本清張の同名小説のドラマ化
です。お涙頂戴シーンもたっぷり。正に『NHK大河ドラマ』に対抗できる大型ドラ
マなのです。そういえば園主様はこういった清張に代表される「社会派ミステリ」
はお好きなのでしょうか?

ではおしまいです。ムニャムニャ。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


田中 洌さまに。 投稿者:園主  投稿日: 2月19日(木)00時33分6秒

 田中 洌さま
じつに貴重な批判的ご意見、誠にありがとうございます。

本日は酔っぱらって帰宅したところでございますので、ご論説に見合う私見は述べられませんが、さらに、多くの大西巨人ファンをねじ伏せる類の論説、心よりお待ちしております。匿名性に寄り掛かった、言い捨てでない覚悟の言論、何とぞよろしくお願いいたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


大西巨人/「深淵」 投稿者:田中 洌  投稿日: 2月18日(水)17時28分45秒

これはなんだ?
やたら大袈裟な措辞によって、衒学趣味の同義反復によって、拾い集めたこけおどしの引用によって一見人目を引く装いを凝らし、麗々しい羊頭を掲げるだけは掲げたが、売るべき狗肉はさっぱり見当たらない。
生存の根源的問題だって?
虚空の彼方の城だって?
生存の、現に今あるがままの問題はどこに消えたのか。
まるで、事実の集積に微妙な嘘を事実のように紛れ込ませて記述された犯罪調書を読まされているみたいだ。真実は最初から想定されているが、真実味はどこにもない。ただし、ここでは嘘のかわりに使い古された観念が、真実のかわりに濡れ衣の謎解きが提起される。
なぜそんなことに?
おおかた、作者は何か書かなくてはならなかったので権力を向こうにまわして観念のゲームを組み立てることにしたのだ。
その結果が権力を忌み嫌うものたちの、牧歌と真摯、正しさのもっともなコンミューンだ。
誠意と学識の披瀝、伸びきったゴム紐のごとき知的パズルだ。
記憶喪失との熾烈な戦いが権力の暴虐を見事に駆逐した、というわけか。
かててくわえて闇が薄らぐはるかな未来を予感させるとでも?
それが「面白くもあり値打ちもある作品」というわけか。
そこにはくりごとを語るしか行動様式をもたない僕たちの悲哀の表現すらない。
思考停止を蒙った僕たちの絶滅の表現すらない。あるのは、回れ右をした人間の叱責と趣向、正しさをまとった鎧のごとき空白の、どこか嫌味が漂う床の間のアリバイ調書だ。


もうすぐ春ですね♪(下) 投稿者:Keen  投稿日: 2月18日(水)12時37分24秒

☆ホランドくん

>いきなり強烈なのを紹介して寝込まれても困るし、かと言って、さほど怖くないホラーなんて、それこそ読む価値がないしなあー(笑)。

参考資料。綾辻行人『眼球綺譚』(集英社文庫)所収の短編「特別料理」を読んだ後、寝込みはしないけど、かなり「来た」記憶があります。それからしばらく、食事の量 が大分減ったかと……(ゾクゾク☆)あ、でも、その他の短編については、特別 「コワイ」とは思いませんでしたが。
他にもまた思いついたら、お知らせしますね。

>>『バーディ』

>鳥装束を着たまま、病院の待ち合い室で、バーディーの診察が終るのを待っているアルは良かったですよね。もちろん「なんで脱がないんだよ!」というツッコミは避けられませんでしたけど(笑)。

バーディが心配で、それどころじゃなかったのっ!(笑)

>アルを演じたニコラス・ケイジって、どこか「おじさんくさい」という印象があって、映画前半のハイティーン時代にはちょっと無理を感じました。反面 、人がよさそうで、カッコつけるわりにはどこかドジっぽいその雰囲気が、笑わせたり泣かせたりという演技の際には有効なんだろうなとも思いました。

お言葉ですが、映画の公開が'84年だから、'64年生まれのケイジは撮影当時19才くらいだったと思われ、決して「無理」な年齢ではなかった「ハズ」なのです。一方、'59年生まれのマシュー・モディンは24才くらいで……老け顔って、ソンなのね〜(泣)。でも、二人とも大好きな俳優です♪(^0^*

>> 「こいつは、俺がついてなくちゃダメなんだ」と思ってたのに、結局いつもバーディのペースに乗せられてたアル。実は少年時代からずっと、むしろアルの方がバーディを必要としていたのだ。守るべきものがある時、人は強くあれるから。
>いかにもKeenさまらしいと言うか……「やおい妄想」っぽいというか(笑)。

なによー、もっと決定的なセリフ「He's part of my goddamn life!(=彼は俺の一部だぞ!)」だってあるわよ〜!それに、バーディを連れて逃げる時、直前までメソメソ泣いてたくせに俄然パワー全開、見事な一本背負いに始まり、屈強な看護士数名をものともせずブッ飛ばすアル。確か足にもケガしてたはずなのに、その強いこと強いこと♪さぞや戦場でもこの調子で大暴れしたんだろうな〜、と察せられます(この場合、「加害者」云々は全くヌキです)。でも、

>いいえ、もちろん、『バーディー』解釈としては正しいと思うんですけどね(^-^)。

わかっているなら、ヨロシイ。(^0^*

☆AOIさま

>「ただせい」(=忠星)

こっちの方が「いかにも」って感じですね。アレクセイとの脚韻もありますけど、「(姿勢を)正せい!」ってな具合に(笑)。しかし、殺人事件を書くのは苦手ですね〜、怖がりだから(苦笑)。

☆影姫さま

>エロマンガ島にエロマンガはない

亀レス失礼。聞くところによると、ロシア系大富豪の「アレクセイ・エロマンガスキー」という影の大物が、この島を拠点として全世界に展開する「エロマンガ帝国」の建設を企てているとか、いないとか……


おや、もうお昼ですね。ご飯を頂くことにしましょうか。


もうすぐ春ですね♪(上) 投稿者:Keen  投稿日: 2月18日(水)12時35分20秒

園主さまの書き込みを読んで、『王の帰還』が観たい!という欲望がメラメラと萌え……もとい、燃えた今朝でしたが、いやいやまだ公開が始まったばかりではないか、三浦しをんの轍を踏んではならない(※今週の「しをんのしおり」参照)、とはやる心を落ち着かせ、書き込みをしております(笑)。
というのも、昨日、ビデオ録画したきりになっていた『ボニー&クライド/俺たちに明日はない』を見たので、映画づいていたのですね。『闇のなかの赤い馬』の「ウォーレン神父」で連想したついでに……という動機でしたが、もうフェイ・ダナウェイ&ウォーレン・ビーティ(※近年は「ベイティ」と発音するようですが、どうもなじめません)がカッコよくって、カワイくて、た・たまらんっっっ!!!……という、萌え萌え状態♪(ミーハー全開!)画面 やストーリー展開、結末などは、ナルホド「往年の名作」だなあと、まずは素直に感心したのでした。いやむしろ、昨今の流血ドバー、爆発ドカーンのハリウッドものを見慣れた目には、「地味でおとなしい上品な映画」と映ることでしょう。公開当時は、大変な「衝撃の問題作」だったそうですが。もっとも、これはフィクションでなく、実話に基づいて作られているとのことですので、なおのこと「犯罪者の描き方」としてどうか、ということも考える必要があるでしょう(主観的に萌えつつも、客観的に/笑)。
蛇足。クライド(ウォーレン・ビーティ)は、どうやらまだ純潔だったようなので、神父の名前と関係があるとしたら、ココかな〜、なんて……(妄想炸裂☆)

☆園主さま

>「立ち位置」の問題

ミステリについての知識・理解におけるレベルの差はさておき、私の「立ち位 置」も園主さまに似ていると思います。「本格」ファンではないけれど「変格(?)」は好きだから、ミステリのことちょっとはわかるんだも〜ん、というくらいの「見栄」はあったわけですね(笑)。

>やはり『美しい死体』という言葉に引っ掛かってしまいます。
>一般には、この「美しい」は(想定された)ホランドの身体の「形態的」美しさ(美しい←→不細工)を指しているのでございましょうが、「あのような殺され方」をした私といたしましては、そういう意味ではなく、「美しい(清潔)←→汚れている(不潔)」というような意味で「美しい」を捉えてしまうのでございます(※ 竹本健治『ウロボロスの基礎論』参照)。

園主さまの客観&主観的感想ですね。しかし、書き手である私の脳裏にあったのは、……な洞人之介の遺体をかき抱き号泣する忠星という「(中略)さえいなければ、それは美しい光景だった。いや、(中略)てなお、充分以上に美しかったといえるかも知れない。」(※ 竹本健治『ウロボロスの基礎論』より引用)とまあ、このような「美しさ」だったのです。ウフフ……♪

>>「邪兄図(じゃにいず)一座」
>この当て字には感心しました。

恐れ入ります(笑)。


「立ち位置」の問題(11) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時38分3秒


 アーニャ
> アリョーシャ&ホランドくんへのプレゼントは、ちょっと遅くなってもいいかしら?
> 別にアリョーシャの年賀状が遅れたからってわけじゃないわよ(笑)。

お気づかい、ありがとう。
でも、あれは「寒中見舞い」だから『遅れたってわけじゃない』(笑)。でも、もうすこし遅くなっていたら「立春」に引っ掛かってしまい、本当に出し遅れの「寒中見舞い」になっていたところだ(^-^;)。


 ホランド
昨日(16日)はご苦労さまでした。『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』は、3時間半という長さを感じさせないという意味では、優れた娯楽作品だったけれど、完結編ということでイヤが上にも高まっていた期待からすると、やや期待外れだったかな。不満だったゴラムの扱いなどは、原作を読んでいれば、あるいは納得できたのかも知れないけど、そもそも原作を読まなければ理解できないというのでは、独立した作品である映画としては失敗だろう。あれだけの原作長編を3部作にまとめた力量 は大いに評価できるけれど、それでもやっぱり「無理もあった(完璧ではありえなかった)」という事実は否定できないところだろうな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「立ち位置」の問題(10) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時37分5秒


 AOIさま(つづき)

>>「闇の中の赤い馬」

> 期待していただけにちょっとがっかりしてしまいました。
> 赤い馬の出てくるシーンは竹本さんらしくてよかったけれど。
> 赤い馬は夢の中のシーンですがむしろ、このシーンにリアリティーを感じ、それ以外が夢の中のシーンのような感じがしました。

なるほど。これはかなり一般的な実感ではないかと存じます。なぜならば『闇のなかの赤い馬』における「現実部分」は、一般 的な意味で、非常に「マンガ的」だからでございます。その意味で『リアリティー』が無い。しかし、その「マンガ」っぽさに、Keenさまなどは惹かれるのでございましょう。

ですから、ここで問題となるのは「マンガっぽいこと、そのもの」ではなく「マンガっぽいものとしての完成度」つまり「マンガっぽい世界としてのリアリティーの達成度」なのだと存じます。そして『闇のなかの赤い馬』は、そうした意味での達成度に、問題があったのではないかと、私は評価するのでございます。

> 神父が焼死するというのは、作者の意識下に爆撃による死があるからなのではとちょっと思ったりします。

当っているか否かは、別にして、これはかなり特異な連想であり、いかにもAOIさまらしい連想だと存じます。

> 短編集「フォアフォーズの素数」の中に収められている「銀の砂時計が止まるまで」がとても気にいって、こういうのをまた読みたいなと思っていたら、運良く、古書店で「殺戮のための超・絶・技・巧」を見つけました。おもしろかったです。特に、前半が好き。後半の地下水道のシーンは、アンジェイ・ワイダの『地下水道』を思い出しました。竹本さんも観てると思うな。きっと。

あの自他共に認める傑作短篇「銀の砂時計が止まるまで」と比較されるのは、竹本さまとしても辛いのではないかと存じます(笑)。

それにしても『殺戮のための超・絶・技・巧』という作品は、ミステリファンにとっては、あの「SF世界でのみ成立可能な、それでいて論理的(本格ミステリ的にロジカル)なトリック」に尽きるのではないかと存じますが、……本当に、ものの見方や好みというのは、人それぞれでございますね。





( 以下は「「立ち位置」の問題(11)」につづく)


「立ち位置」の問題(9) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時36分26秒


 AOIさま(つづき)

したがいまして、「近い」戦争だから「具体的」であり「考えやすい」というのは誤りでございます。それは「戦争当事者」が、「その戦争」を相対化できないという多くの実例(「大東亜戦争は、列強からのアジア開放の戦争だ」を信じた事実など)に明らかでございましょう。むしろ「近い」から「具体的」だから、その本質が見えなくなるということが、しばしばあるのでございます。

つまり「抽象的思考」というのは、そういう弊害を排除するためにあるのでございますね。個々の「表面 的意匠(=具体的な現実)」に惑わされることなく、ことの本質に到ろうというのが「抽象的思考」なのでございます。ですから「戦争」に関しても、「戦争」ということの本質をしっかり考え抜いておけば、個々の「表面 的意匠」に惑わされることはございません。したがって「この戦争だけは、正義の戦争だ」とか「この派兵は、武器を携帯していても、軍事行動ではない」などといった詭弁に惑わされることもないのでございます。

このように「具体的」に考える方が「理解が容易だ」というようなAOIさまの立論は、じっさいには無根拠なのでございますね。たまたまAOIさまは、そのようなところから「戦争」を考えるようになられたから、その実感としてそのようにご主張なさるのでしょうが、抽象的な「戦争」はもとより個々の「具体的な戦争」にすら興味のない人間にとっては、どの戦争も「断片的な情報」以上のものではなく、実質的には「テレビドラマ」と大差のないものなのでございます。なぜそうなのかといえば、それはその「情報」が思考・検討されることなく受け流されるので、どこまで行っても「自己との責任関係」が「発見」されないからなのでございます。

つまり、私のこの議論のポイントは、一般人にとっては「いかなる戦争も、具体的ではない」ということ(現実)なのでございます。「ある戦争」が「具体的である」と感じる人がいるというのは、それはその人が個人的にその戦争を個的に内面 化したからにほかなりません。ということは、その個人的な実感に基づいて、他者に対し「(個人的に)具体的」なものの「わかりやすさ」を言うのは錯誤でしかない、ということなのでございます。

こうした「他者」にたいする(言い換えれば、「自己」にたいする)理解が、AOIさまには欠けており、そのためにしばしば、その意見が「紋切り型」になったり、説明不足になったりするのではないか。私が言いたいのは、こうした弱点は、単に外形的なものに止まらず、AOIさまの「自己認識(不足)」に由来しているのだということなのでございます。





( 以下は「「立ち位置」の問題(10)」につづく)


「立ち位置」の問題(8) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時35分9秒


 AOIさま(つづき)

> 私はむしろ『戦争というもの』と言うかたちで、一般論(漠然と)で戦争を語ったつもりになってしまうことの方に危険を感じます。
> 「アレよりはコレの方に責任がある」というよりもむしろ、「アレもコレも責任がある」というようなことを言えば、「戦争のことよりも、現実の子どものことに責任があって、私はそちらで手一杯だ」ということなってしまうんですよ。
> その現実の子どものことは、今ここにある(同時代にある)戦争と不可分ではないということ。それが最低限の責任であり、責任能力のもちうるものなのではないでしょうか。
> 具体的な戦争を通して『戦争というもの』を考え、『戦争というもの』から具体的な戦争を考えるという往還性を前提に。

ここでは『現実』とか『具体的』ということの特権性が強調されております。そしてこれは、AOIさまの「抽象的な戦争よりは、ベトナム戦争の方が、具体的である(だから、考えやすい)」というご主張を支える論理(現実認識)でございます。
しかし、『具体的』であることが、そのまま『現実』的だと言えるのか? あるいは、『具体的』であるということが、そのまま「考えやすい」と言えるのか、という根本的な問題がここでは看過され、「抽象的なものは難解だ」という俗論と、その俗論を支持する俗情との結託が、ここには無自覚に露呈していると申せましょう。

すなわち「戦争」とは「自分が直接体験した戦争」以外は、すべて「抽象的」なものでしかなく、「同時代」か否か(時間的接近性)とか、「相対的な距離(空間的接近性)」などは、まったく本質的ではないのでございます。
たとえば、AOIさまよりも年上で、「ベトナム戦争」の時期に日本社会を支えた(壮年期を迎えたような)世代の人でも、仕事や趣味ばかりにかまけて生きていたならば、「ベトナム戦争」など無いにひとしい「出来事」でしかございません。「ベトナム戦争」に「責任」を感じる人というのは(世代に関わりなく)、積極的に「ベトナム戦争」を知ろうとして「情報」を集め、その中から「自己との関連」を「見い出した」人に限られるのでございます。つまり「同時代人としての責任」というのも、そうしたところで「発見された(ひとつの)観念」であって、物理的・無前提的・先験的に存在するものではございません。ですから、「同時代人としての責任」において「ベトナム戦争」を相対的に重視するというのは、「ベトナム戦争」自体にその具体的な根拠があるのではなく、AOIさまには相対的に「スターリングラード攻防戦」にたいする「興味が無かった」という事実を示すものでしかないのでございます。

もちろん、私はそんなことでAOIさまを責めているのではございません。言うまでもなく、人間は「すべてのこと」に興味を持つことはできず、その結果 「持つべき責任」のすべて持つことができない存在なのでございます。それは、私が「太平洋戦争」や「ベトナム戦争」「朝鮮戦争」「アフガン空爆(戦争)」や「イラク戦争」には責任を感じ得ても、ほとんど無知な「ルワンダ」だの「インドネシア」だの「チェチェン」だのといった場所での戦争や殺戮に関しては、調べれば「責任関係」を見出せるであろうという予測はあっても、実際にはそれができておらず、その結果 「適切に責任を負っていない」という現状がある、という事実からも自覚できる、明らかな現実なのでございます。

つまり「自分が直接体験した戦争」以外は「観念」でしかございません(厳密に言えば「自分が直接体験した戦争」も例外ではない)。だから、個々の「戦争」そのものには「具体性」は無いのでございます。あるとすれば、それはその「情報」に接する「機会の多さの差」なのでございます。





( 以下は「「立ち位置」の問題(9)」につづく)


「立ち位置」の問題(7) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時33分54秒


 AOIさま(つづき)

> 個人的にいえば、「自分の好きな見方」というのとは、違いますね。
> 自分にとっての必然性如何ということであって。
> いろんな側面からの評価と「自分の見方」にどのように必然性があるかだと思います。
> あとは、他の見方をどのように受け入れ、理解し、内面化してゆくかということなのだと思うけど。
> 対象化してみるという作業が必要になってくるのでしょうね。

これは「原則論」を語っているに過ぎず、今回の場合、ほとんど意味はございません。

例えば、私はしばしば「自己の立場の自覚」という問題設定をしますが、これは『自分にとっての必然性如何』に止まらず、大抵の場合「客観的な必要性」がある問題設定でございましょう。しかし、では、こうした問題設定の仕方が「自分の好きな見方」とは無縁かと言えば、そんなことはございません。これは明らかに「私好みの見方」に発する問題設定なのですね。
ですから私は、自分の問題設定の「客観的な必要性」を訴えつつも、だからと言って、他人の「問題設定」を相対的に軽視するということは、できるかぎり意識的に避けようとしております。ですから、『バーディー』の評価についても、Keenさまの視点とAOIさまの視点を等価に扱い、片方をお義理的に扱うというようなことはしていないのでございます(私が、どちらの側面 の評価も、等価に対処しているというのは、どちらのご意見にも「安易な同意・共感を示して(終らせて)いない」という点に明らかでございましょう)。

ともあれ「人殺しは悪だ」ということが「わかっている」人でも、「戦争」は「支持する」という場合が少なくございません。なぜこのようなことが「矛盾」とされないのかと言えば、多くの人は「わかっていること=思考」と「(『支持する』などの)行動」の間の「大きな径庭」を埋める努力を十分にしていないからなのでございますね。だから、両者は「矛盾」することなく、一人の人間の中に併存しうるのでございます。
ですから同様に、ここでは「原則認識」は問題ではありません。それが「わかっている」かどうかは問題ではない。問題は、その「思考」が「行動」にまで適切に反映されるよう、意識的な努力がなされているか否か、なのでございます。

> 『自分が好きな見方が一般になされている時には「それ以外の見方もしなきゃ」とは、まず言わないし気づきもしない』ということについていえば、あらゆるものを多面 的に観るというオールマイティーな立場というのは、ほとんど不可能なのだから、気づかないのであれば、仕方ないことでもあるし、多面 的な見方の必然性があるのであれば、気づいたものが、言うしかないのだと思います。

これも意味のない「議論を拒絶するための極論」でございますね。

すなわち『あらゆるものを多面的に観るというオールマイティーな立場というのは、ほとんど不可能なのだから、気づかないのであれば、仕方ない』というのは、ごく単純な「オール・オワ・ナッシング(すべてか無か)」でございます。これはブッシュ米大統領の「われわれ(自由と民主主義の陣営)の見方か、それともテロリストの見方か」という有名な「二者択一」と同レベルの「非・理性的」な主張だと申せましょう。

『多面的な見方の必然性があるのであれば、気づいたものが、言うしかない』については、もちろん「現実的」にはそのとおりであり「議論しても、しようがない」ということになるのですが、しかしその一方「現実」問題として「気づいた者だけが、声を上げればよい」というだけで済まないというのも、日本の現状を見れば明らかでございましょう。私がやっているのは「君も早く気づきたまえ」という作業なのでございます。

> 私が「責任能力」といっているものは、「軽重」を設定するものではありません。
> それは個人の現実の中で否応なくでてくるもの。
> ですから「責任」「客観的な責任の比重」ではなく、「責任能力」と言っているのです。
> あらゆる戦争を「自己の問題」として内面化するということを前提として。

問題は、他者との「議論」の段階で、すでに『個人の現実の中』の問題では済まなくなっているということでございますね。つまり「つもり」だけでは済まされない。だから、他人に伝わるように(最初から)書かなければ意味がない、と助言したのでございますよ。





( 以下は「「立ち位置」の問題(8)」につづく)


「立ち位置」の問題(6) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時32分57秒


 AOIさま(つづき)

>>で、傍目には「たぶんそのようなことはないだろう。AOIさんなら、そうした側面 からの議論に満足して、それに加わるだけだろう」と見える、ということなのでございます。

> ですから、『・・・と見える』のはしょうがないとしても、これは違いますね。
> むしろ、そうした側面からの議論がすでにされて、それですむのであれば、私が議論に加わることはありません。

傍目にそう見えることが『しょうがない』では済みません。それで済ませないために「議論」があるのでございます。たとえば、「戦場における正当防衛」が『傍目』には「人殺し」に見えるのは『しようがない』で済むでしょうか? 「戦場における正当防衛」で「人殺し」をした人は、そのように主張して済ませようとするでしょうが、私は、結果 としてそれを「人殺し」と呼ぶのが適切か否かにかかわりなく、『しようがない』では済まされないこととして「議論」の必要を感じるのでございます。……そもそも「考えたって、しかたない」「議論したって、しようがない」という現実があるのを承知で、「議論」というのは「あえて」なされるのでございます。

> 作品に対しての評価と人物に対しての評価は別にするべきだと思います。

この言い方も、二つのレベル(論理階層)の混同がございます。

すなわち

 (1) 作家と作品は区別されるべきだ(=短絡させてはいけない)。
 (2) 作家と作品は深く結びついている。

の混同でございます。

(1)は、例えば「冷酷な殺人鬼が快楽殺人を続けるような小説ばかりを書く作家は、自身も快楽殺人を犯しかねない人間だ」というような「短絡発想」を戒めるものでございます。
ここには、Keenさまのレスでも書いた「思考=実行」という誤った短絡があり、その間に存在する「大きな径庭」の見落としがございます。すなわち、その作家が心底「快楽殺人」に憧れ、それを肯定していたとしても、彼が「快楽殺人」を実行するとは限らないのでございますね。なぜなら「空想したり」「作品化したり」ということと「実際に殺人を犯す」ということの間には、「大きな径庭」があり、多くの人はこれを乗り越えられないからでございます。

しかし、では「冷酷な殺人鬼が快楽殺人を続けるような小説を書く作家」は、そうした「作品内容」とは「まったく無縁」な人間なのかと言えば、もちろんそんなことはございません。ですから、作品を論じる場合に、作者の「属性」がしばしば引き合いに出され、またそれでいて、そうした手法が「不当」なものだとは看做されないのでございます。
また、それが「当たり前」のことだからこそ、AOIさまも「アラン・パーカーならば」というような論理を持ち出されるのでございましょう。

したがって、私が「AOIさまならば」というような論理を持ち出すのも、べつだん「AOIさま以外の読者」には何の違和感もない論理展開でございましょう。では、なぜ当人にだけ違和感があったのか? ――それは私の問題としているものが、「自覚の有無」だからなのでございます。





( 以下は「「立ち位置」の問題(7)」につづく)


「立ち位置」の問題(5) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時31分45秒


 AOIさま(つづき)

>> 例えば、『地獄の黙示録』は「戦争映画」として見られ議論されることの多い映画でございますが、AOIさまはそうした議論ばかりを目の当りにして「それだけでなく、『地獄の黙示録』に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか」と疑問を持ち、もっと違った側面 から作品を語ることの必要性を、現実問題として、感じ主張しうるか、ということなのですね。

> 『地獄の黙示録』は戦争をテーマとした映画なのですから、その文脈で議論されるのはべつに構わないと思います。
> もし、私が『そうした議論ばかりを目の当りにして「それだけでなく、『地獄の黙示録』に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか」と疑問を持ち、もっと違った側面 から作品を語ることの必要性を、現実問題として、感じ主張しうる』という場合は、作品のなかに、「戦争」ということだけで集約できないものが描かれ、それが作品として無視できないものであると感じ、そのことが語られていないという場合です。
『地獄の黙示録』が「戦争」というタームなしで考えられないものであれば、『もっと違った側面 から作品を語ることの必要性』は特には感じないと思いますね。
あくまで、作品として語るわけですから。

これは、私の「思考実験」の答になっておりません。私が上の「仮説」で言っているのは、『例えば、『地獄の黙示録』』が「戦争映画」でありながら、その「枠」を超える部分を持っていたとしたら、AOIさまはそこに気づきうるか否か、ということなのでございますね。つまり「戦争映画」という、とても大きな「枠」の設定に満足して、他の「枠」の設定の必要性を感じないのではないか、という「問い」なのでございます。

「戦争」というのは「人間の本源的な難問」でございますから、「戦争映画」として評価するだけで、その映画を「人間の万象」を描いた映画として評価することも可能だ、という風に考えることが可能でございます。しかし、通 常「戦争映画」という「枠」は、「人間の万象」に文字どおり「枠」を課するものでしかなく、それを「人間の万象」とイコールで結ぶという言い方には無理がございます。ということは、例えば『地獄の黙示録』の「ような、優れた映画」には、当然「戦争映画」という枠を超えた部分があるのでございますね。だからこそ私は、『もっと違った側面 から作品を語ることの必要性』を『現実問題として、感じ主張しうるか』と問うたのでございますよ。
そうした意味で言うと、AOIさまの今回の、

> 『地獄の黙示録』は戦争をテーマとした映画なのですから、その文脈で議論されるのはべつに構わないと思います。

というお答えは、『もっと違った側面から作品を語ることの必要性』を『現実問題として、感じ主張し』えないという事実を示していると申せましょう。

言うまでもなく、私は『地獄の黙示録』を『戦争をテーマとした映画』として「あたりまえ」に論じることを、構うとか『構わない』とかいったレベルの議論をしているのでもなければ、そうした問いを発したのでもないのでございます。

> 「バーディー」をベトナム戦争という側面から語ったのは、単なる設定だけではなく内容と絡み合ってベトナム戦争があったからですよ(笑)。

これは「自明の前提」ではなく、「見解の相違」が表面化した部分でございましたね。

> 自己主張のために言っているのだと思われているようですけれど、あのままでは、「バーディー」について語ったことにはならず、気持ち悪いからですよ。(念のため)

『バーディー』については、それでいいのでございます。私が問題としているのは、そうした立場がいかなる時にも一貫できるほどの「自己の立ち位 置」についての自覚があるのか、ということなのでございますね。





( 以下は「「立ち位置」の問題(6)」につづく)


「立ち位置」の問題(4) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時30分16秒


 AOIさま
>> 東京の某古書店のショーウインドーに「三島由紀夫宛、塔晶夫署名入り」の『虚無への供物』が並んだそうでございます。

> 友人が¥85000の「虚無への供物」を見たと言っていました。このことかしら?

別件でございましょう。『虚無への供物』の完本は、署名が無くても7万円前後いたしますから、保存状態が良ければ、そのくらいの値段にもなろうかと存じます。署名が入っておれば、まず間違いなく10万円は越しますし、「無名の被献呈者宛ての署名入り」なら署名無しと同じくらいの値段、逆に著名人宛てのものならば、単なる署名本よりも高くなり、その値段は相手の知名度(と権威)によって大きく差が出てくるものと存じます。ですから、三島宛ての署名本は、『虚無への供物』の献呈署名本の中でも最高ランクのものとなり、たぶん20万円は下らないのではないかと存じます。そして、三島へのそれより高い値がつけられるのは、江戸川乱歩、松本清張、寺山修司宛てと、せいぜい澁澤龍彦宛てくらいなのではないかと存じます。
ちなみに私は、このクラスの次か、その少し下位にくる献呈署名本2冊を所蔵しておりますが、誰宛てかは、ここではナイショでございます(笑)。ヒントとしては、ひとつは「日本を代表する現代詩人」宛て。もう一方は、『虚無への供物』が「江戸川乱歩賞」に落選した時の「選考委員」の一人宛て、でございます。





( 以下は「「立ち位置」の問題(5)」につづく)


「立ち位置」の問題(3) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時28分33秒


 Keenさま
>> ともあれ、Keenさまの真摯な思考努力に敬意を評したいと存じます。そうやって考えていくことが大切であり、また誰にでもできるものではないのでございます。

> ありがとうございます。
> 実は、ついでに(←と、言ってしまうところがすでにいけないのですが……)部屋の片付け&掃除もし始めました(笑)。
> 自覚して、精一杯誠実に「実行」しないと、キレイになりませんよね〜☆

そうでございますね。往年のテレビCMで、主演の西田敏行が発する「今やろうと思っていたのに、言うんだものなあ〜」というセリフは、「思考」と「実行(行動)」の間の「大きな径庭」の存在をよく示したものでございましょう。そしての「径庭」の本性は、「意思」とか「克己心」とか「勇気」といったもの(の有無)なのではないでしょうか。すなわち「思う」だけなら誰でもできるけれども、それを実行することができるのは、しばしばごく限られた人でしかない、ということなのでございます。

そしてこの「大きな径庭」の存在を、人がしばしば忘れてしまうのは、人間が便利な文明社会の中でどんどん「脳化」されてしまい、「自然」としての「身体性」を失っているからなのでございましょう。ですから「行動」の困難とその重要性を「体感」することができず、「思考」即「行動」だと短絡的に認識されてしまうのでございます。
そして、その「身体性喪失」の先にあるのが、笠井潔が『バイバイ、エンジェル』(創元文庫)などに描いた、「連合赤軍(総括殺人)事件」などに見られる、「観念的倒錯」なのでございましょう。あの事件は、「身体性」を失って暴走した「観念」が、「革命」の身体性を求めた結果 、「観念」の拠り所となる「己が身体」を軽視した末に起こった事件だとも言えるのでございます。卑近な例で言えば、「思考=行動」という錯誤は、「テクスト=本」といった誤った認識と同じようなものだと申せましょう。

なお、誤解されては困るので、最後に付け加えておきますが、私は「思考の行動性」を否定するものではございません。ですからこそ、Keenさまの『真摯な思考努力』を評価したのでございます。つまり言うなれば、「気づこうとすること」は「行動(=思考努力)」であり、「気づいていること」は単たる「思考(=観念)」だというようなことでございます。

> これはやっぱり「江戸時代篇」で、洞人之介(ほらんどのすけ)くんのことですよね?ああ、今度は洞人之介くんの美しい死体を、忠星さまが抱きしめて涙する番ですわね〜、ワクワク♪(^0^*

やはり『美しい死体』という言葉に引っ掛かってしまいます。
一般には、この「美しい」は(想定された)ホランドの身体の「形態的」美しさ(美しい←→不細工)を指しているのでございましょうが、「あのような殺され方」をした私といたしましては、そういう意味ではなく、「美しい(清潔)←→汚れている(不潔)」というような意味で「美しい」を捉えてしまうのでございます(※ 竹本健治『ウロボロスの基礎論』参照)。

> ところで、洞人之介くんの所属は、「邪兄図(じゃにいず)一座」なんでしょうか?(妄想炸裂☆)

この当て字には感心しました。
ジャニーズ事務所の、ある種の実態(?)を突いている(?)。すなわち、この芸能プロダクションには、「邪悪なお兄さん(?)」がいて、入社してくる少年たちを次々とその毒牙に……という「噂」の存在が、この当て字には、的確に暗示されていますものね(笑)。





( 以下は「「立ち位置」の問題(4)」につづく)


「立ち位置」の問題(2) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時27分54秒


さて、ここで私個人の評価にもどりますと、『葉桜の季節に君を想うということ』は私にとっては、じつは「どうでもよい」作品なのでございます。なぜなら、それは私の立場が、「素朴に驚ける一般 読者」でもなければ「技術的巧緻に満足できるミステリマニア」というものでもないからでございます。
たしかに「良く出来た作品」だとは思うので、作品を責めるつもりは毛頭ございません。しかし、今の私は「単なるミステリ」にはあまり興味がないのでございます。私が求めているのは「ミステリとして優れており」かつ「プラスアルファ」のある「過剰な作品」だと申せましょう。そして、「その期待は大きすぎるから、どちらかを選べ」と言われれば、私は後者つまり「プラスアルファ」を選んでしまいますし、そこが私の「非・ミステリマニア」性なのでございます(ですから、私は本作よりも、舞城王太郎の野心作『九十九十九』を「面 白い」と感じます)。しかし、その一方、「プラスアルファ」の方を重視するのであれば、なにもミステリにそれを期待しなくてもよいではないか、という意見も至当に出てまいりましょう。ですから、私がミステリを読む場合は、「一般 読者」と同様に、せめて単純に「驚かせてほしい」のでございますが、今回はそれが適わず、「良く出来た作品」だと批評的に感心するに止まらざるを得なかったのでございます。

結局、なぜこのようなことになってしまったのかと考えてみますと、その主たる原因は、私の「特異な立ち位 置」にあるのだと考えられましょう。つまり「一般読者」と「ミステリマニア」の「境界」に、私は立っているのでございます。知識的には「ミステリマニア」に属しながら、心情的には「一般 読者」に近い。だから私には「技術的な問題をも評価しなくてはならない」という「同業者的意識」は無く、まず「楽しませてほしい」「楽しませてもらって、なんぼ」という意識が強固にあるのでございます。

ですから、そんな私の立場から本書『葉桜の季節に君を想うということ』を紹介するとすれば、ミステリを左程たくさん読んでいるわけでもなく、ましてやミステリの技法を考察したこともないような「素朴に驚ける一般 読者」と、驚かせることを目的とした作品に驚けなくても「技術的巧緻に満足できるミステリマニア」には、本書をお薦めしたいと存じますが、私と同様「単なるミステリ」では物足りないという読者には「べつに読まなくてもいいですよ」と言い、さらに「これは、たいへん良く出来た、単なるミステリに過ぎない作品」ですからと「作者の狙い」を補足することになるのでございます。





( 以下は「「立ち位置」の問題(3)」につづく)


「立ち位置」の問題(1) 投稿者:園主  投稿日: 2月18日(水)02時26分58秒

みなさま、私、『2004 本格ミステリ・ベスト10』や『2004年度版 このミステリーがすごい!』で、国内作品第1位 に輝いた歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』(文芸春秋)を、先日読み終えましたので、その感想を書かせていただきます。

まず、なにより私にとってこの作品は「良く出来た作品」でございました。その意味で、「世評」ほど「面 白かった」とは申しません。これは、この作品のトリックにかかわることなので、そのまま明け透けに書くことは出来ないのでございますが、書ける範囲でご説明いたしましょう

本作は、本格ミステリの「ある系譜」に属する作品で、それ以外の「読みどころ」(を含むすべて)は、この作品におけるトリックを成立させるための「従たるもの」に過ぎず、内容的にそれほど深いものではないと存じます。すなわち、この作品で扱われている「すぐれて現代的な社会問題」という要素は、それそのものとしては左程のものとは言えず、そこを評価するのは「ミステリがわかっていない」証拠だとも言えるのでございます。
このようなパターンの別の作例をご紹介いたしますと、山口雅也の傑作『生ける屍の死』(創元文庫)がございます。この作品は「死者が次々と甦るという状況下で、殺人を犯すことの必然性」という問題設定をした、前衛的かつ古典的な本格ミステリでございます。この作品では、古今東西の「死の思想」が百科全書的に紹介されたのでございますが、作品が大傑作であったこともあり、勢いその「ペダントリー」自体を「深い」などと評してしまうミステリマニアやミステリ評論家もいたのでございます。ですが、これはその種の専門書を読んだこともなければ、その種の問題を思索したこともないであろう人間(ミステリマニア)の意見であって、決して世間一般 に通ずるものだとは思いません。この作品で、こうした「ペダントリー」が語られるのは、この作品の「本格ミステリ」としての構成的要請に他ならず、それ以上でもそれ以下でもないというのが、この傑作ミステリへの適切な評価なのだと存じます。
ともあれ、同様の「本格ミステリ的要請」から『葉桜の季節に君を想うということ』にも、「すぐれて現代的な社会問題」が扱われているのでございます。ですから、これを、そうした意味を踏まえないで「単体として切り出して評価する」のはお門違いであり、そうした意味で本作は「ただ単に本格ミステリとして優れた作品」だと評価するが正しいのだと、私は斯様に考えるのでございます。

さて、問題の「トリック」でございますが、これは「一般読者」には気づきえないものだとしても、ミステリマニアならば「目次の章立て」を見ただけでも、おおよそ検討のついてしまう種類のものでございます。その意味で本作は、「一般 読者」にとっては「ビックリさせられる作品」でございますが、マニアにとっては「良く出来た作品」ということになってしまうのでございます。つまり、マニアは早々に「あのパターンのミステリだな」と見抜いてしまうため、ラストの「どんでん返し」に驚かされることはなく、ただその「どんでん返し」がどれだけ「フェア」に「巧緻」に行なわれたか、すなわち「伏線」などがいかにキチンと敷かれていたか、そのあたりの「技術的な側面 」を問題にする(せざるをえない)のでございますね。そして、そういう視点からすると、本作は非常に巧緻を極めた「そのパターン」の傑作ミステリだと評価できるのでございます。
例えば、発表時、まあまあの評価だったにもかかわらず、その文庫本が一昨年あたりから爆発的なベストセラーになった貫井徳郎のデビュー作『慟哭』(創元文庫)も「そのパターン」のミステリであり、「一般 読者」が「ビックリさせられる」という意味では『葉桜の季節に君を想うということ』と同じなのでございますが、マニアの目からいたしますと、『葉桜の季節に君を想うということ』の方が、技術的にずいぶん優れていると評価できるのでございます。





( 以下は「「立ち位置」の問題(2)」につづく)


美しき死体・・・ 投稿者:AOI  投稿日: 2月17日(火)20時07分7秒

☆Keenさま

>これはやっぱり「江戸時代篇」で、洞人之介(ほらんどのすけ)くんのことですよね?ああ、今度は洞人之介くんの美しい死体を、忠星さまが抱きしめて涙する番ですわね〜、ワクワク♪(^0^*
>ところで、洞人之介くんの所属は、「邪兄図(じゃにいず)一座」なんでしょうか?(妄想炸裂☆)

もう、物語があふれだしていますね〜。どうぞ、私にご遠慮なさらずに書いてくださいな。期待していますよ〜♪フフフ・・・

>PS.「忠星」は、なんと読むのでしょうか?「ただほし」?

う〜む。「ただせい」のつもりだったんですけど、お気に召すまま(^-^)


期待♪(^0^* 投稿者:Keen  投稿日: 2月17日(火)12時12分20秒

☆AOIさま

>アイドル殺人事件?

これはやっぱり「江戸時代篇」で、洞人之介(ほらんどのすけ)くんのことですよね?ああ、今度は洞人之介くんの美しい死体を、忠星さまが抱きしめて涙する番ですわね〜、ワクワク♪(^0^*

ところで、洞人之介くんの所属は、「邪兄図(じゃにいず)一座」なんでしょうか?(妄想炸裂☆)
AOIさま、ぜひお書き下さいねっ!

PS.「忠星」は、なんと読むのでしょうか?「ただほし」?


アイドル殺人事件?(下) 投稿者:AOI  投稿日: 2月16日(月)22時49分54秒

(園主さまつづき)

>しかし「責任意識」の存在そのものがあやしい現状で、「アレよりはコレの方に責任がある」というようなことを言えば、「戦争のことよりも、子供のことに責任があって、私はそちらで手一杯だ」というような議論になるであろうということは、より「具体的」「現実的」な問題として考慮すべきなのだと存じます。

私はむしろ『戦争というもの』と言うかたちで、一般論(漠然と)で戦争を語ったつもりになってしまうことの方に危険を感じます。
「アレよりはコレの方に責任がある」というよりもむしろ、「アレもコレも責任がある」というようなことを言えば、「戦争のことよりも、現実の子どものことに責任があって、
私はそちらで手一杯だ」ということなってしまうんですよ。
その現実の子どものことは、今ここにある(同時代にある)戦争と不可分ではないということ。それが最低限の責任であり、責任能力のもちうるものなのではないでしょうか。
具体的な戦争を通して『戦争というもの』を考え、『戦争というもの』から具体的な戦争を考えるという往還性を前提に。

>「闇の中の赤い馬」

期待していただけにちょっとがっかりしてしまいました。
赤い馬の出てくるシーンは竹本さんらしくてよかったけれど。
赤い馬は夢の中のシーンですがむしろ、このシーンにリアリティーを感じ、それ以外が夢の中のシーンのような感じがしました。
合田佐和子さんの個展で「悩める馬」というとても魅かれた絵があって、ずっと心に残っているのですが、その馬が突然出てきたような不思議な気持ちがしました。
赤い馬ではなく、白い蒼ざめた馬なんですけれどね。
何か通じるものが・・・(笑)。
神父が焼死するというのは、作者の意識下に爆撃による死があるからなのではとちょっと思ったりします。
短編集「フォアフォーズの素数」の中に収められている「銀の砂時計が止まるまで」がとても気にいって、こういうのをまた読みたいなと思っていたら、運良く、古書店で「殺戮のための超・絶・技・巧」を見つけました。おもしろかったです。特に、前半が好き。後半の地下水道のシーンは、アンジェイ・ワイダの『地下水道』を思い出しました。竹本さんも観てると思うな。きっと。


アイドル殺人事件?(中) 投稿者:AOI  投稿日: 2月16日(月)22時45分17秒

(園主さまつづき)

>で、傍目には「たぶんそのようなことはないだろう。AOIさんなら、そうした側面 からの議論に満足して、それに加わるだけだろう」と見える、ということなのでございます。

ですから、『・・・と見える』のはしょうがないとしても、これは違いますね。
むしろ、そうした側面からの議論がすでにされて、それですむのであれば、私が議論に加わることはありません。

作品に対しての評価と人物に対しての評価は別にするべきだと思います。


>つまり、「映画」に限らずあらゆる事象は、いろんな側面から評価しうるし、またそういう多面 性は認識されるべきでございましょう。つまり一面的になるべきではない、ということでございますね。しかし、人はえてして「自分の好きな見方」でしかものを見ません。多くの人が自分と違う見方をしていれば「そういう見方もあるけど、こういう見方もしなきゃ」と言うけれども、自分が好きな見方が一般 になされている時には「それ以外の見方もしなきゃ」とは、まず言わないし気づきもしないものなのでございます。

個人的にいえば、「自分の好きな見方」というのとは、違いますね。
自分にとっての必然性如何ということであって。
いろんな側面からの評価と「自分の見方」にどのように必然性があるかだと思います。
あとは、他の見方をどのように受け入れ、理解し、内面化してゆくかということなのだと思うけど。
対象化してみるという作業が必要になってくるのでしょうね。
『自分が好きな見方が一般になされている時には「それ以外の見方もしなきゃ」とは、まず言わないし気づきもしない』ということについていえば、あらゆるものを多面 的に観るというオールマイティーな立場というのは、ほとんど不可能なのだから、気づかないのであれば、仕方ないことでもあるし、多面 的な見方の必然性があるのであれば、気づいたものが、言うしかないのだと思います。

>> 「スターリングラード攻防戦」と「ベトナム戦争」とでは戦争としての悲惨さはおなじように感じるけれど、具体的な責任能力において違うということです。

>「スターリングラード攻防戦」と「ベトナム戦争」に関する「個人的な責任」について、このような「軽重」を設定する考え方を、私は基本的に認めません。
たしかに「客観的な責任の比重」ということで言えば、こうした「軽重」の存在は否定できないところでございましょう。しかし、それをそのまま「内面 化」すれば、多くの日本人にとっては「スターリングラード攻防戦」はおろか、「第二次世界大戦」も「ベトナム戦争」も「朝鮮戦争」も「アフガニスタン」も「イラク」も「遠い異国」での「実感の持てない戦争」でございましょう。つまり、今の日本人が遠い「過去」の日本の戦争や、遠い「異国」での戦争に「責任」を感じうるのは、その人が客観的「時空の隔たり」の大きさにかかわりなく、それを「自己の問題」として内面 化するからなのでございます。それができなければ、仮にいま沖縄がアメリカに占領されようと、本土の人間はそれを他人事のように見て、責任を感じないというようなことも「ごく自然に」ありうるのでございます。

私が「責任能力」といっているものは、「軽重」を設定するものではありません。
それは個人の現実の中で否応なくでてくるもの。
ですから「責任」「客観的な責任の比重」ではなく、「責任能力」と言っているのです。
あらゆる戦争を「自己の問題」として内面化するということを前提として。


アイドル殺人事件?(上) 投稿者:AOI  投稿日: 2月16日(月)22時40分46秒

乞ご期待。そのうちね。。。(笑)

☆ホランドさま@アイドル

レス、ほしい(笑)?

☆園主さま

>東京の某古書店のショーウインドーに「三島由紀夫宛、塔晶夫署名入り」の『虚無への供物』が並んだそうでございます。

友人が¥85000の「虚無への供物」を見たと言っていました。このことかしら?

>例えば、『地獄の黙示録』は「戦争映画」として見られ議論されることの多い映画でございますが、AOIさまはそうした議論ばかりを目の当りにして「それだけでなく、『地獄の黙示録』に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか」と疑問を持ち、もっと違った側面 から作品を語ることの必要性を、現実問題として、感じ主張しうるか、ということなのですね。

前にも言いましたが、『地獄の黙示録』は観てはいますが、内容的にはほとんど憶えていないんですね。思い出すシーンはいくつかあるもののプロローグの何百(?)というヘリがワグナーの曲とともに舞い降りてくるシーン以外はそれも定かではなく。
戦争映画はあまり観たくないし、観ても記憶があやしい。他の戦争映画との混同もあるみたいですし。
ご覧になったんでしたっけ?完全版を観てみようかな。

『地獄の黙示録』は戦争をテーマとした映画なのですから、その文脈で議論されるのはべつに構わないと思います。
もし、私が『そうした議論ばかりを目の当りにして「それだけでなく、『地獄の黙示録』に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか」と疑問を持ち、もっと違った側面 から作品を語ることの必要性を、現実問題として、感じ主張しうる』という場合は、作品のなかに、「戦争」ということだけで集約できないものが描かれ、それが作品として無視できないものであると感じ、そのことが語られていないという場合です。
『地獄の黙示録』が「戦争」というタームなしで考えられないものであれば、『もっと違った側面 から作品を語ることの必要性』は特には感じないと思いますね。
あくまで、作品として語るわけですから。
「バーディー」をベトナム戦争という側面から語ったのは、単なる設定だけではなく内容と絡み合ってベトナム戦争があったからですよ(笑)。
自己主張のために言っているのだと思われているようですけれど、あのままでは、「バーディー」について語ったことにはならず、気持ち悪いからですよ。(念のため)


春一番、『王の帰還』せし、バレンタイン・デー(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月14日(土)21時47分5秒


 園主さま
> そうそう、『深淵』では、主人公が『国家権力とマス・メディアの権力』に対する不信・警戒の念をたびたび意識にのぼらせる。特に今回、大西巨人作品として、これまでになく目についたのは「マス・メディアの権力に対する不信・警戒」という問題だ。これは同作中でも語られているとおりで、一見、反権力的なポーズを採りながらも、いざとなると権力に迎合してその意のままになり、時には個人の人権を無視して、その横暴な権力性をむき出しにするマスコミというものに対する、作者大西巨人の嫌悪感を率直に反映したものだと思うんだ。同作中にも暗示的に示されているとおり、マスコミが本来的な原理原則を無視し、世間の「俗情」と無節操に結託する危険な醜態は、「オウム真理教事件」にかんする一連の報道を見ても既に明らかだったろうし、それが先般 の「北朝鮮による日本人拉致事件」にかかわって「俗情としてのナショナリズム」に裏づけられた「北朝鮮バッシング報道」にもつながっていったんだろうと思う。

 そうですね。『深淵』のなかでも、「庶民の側に立ちながらも、庶民の俗情とは結託しない孤高の姿勢」の重要性が語られていますけど、「反権力」の側だけではなく、「権力」の側もしばしば「俗情との結託」によって、自らの不正・非合理な行いを正当化しようとしますよね。その一例が、オウム真理教信者に対する転入届受け取り(住民登録)拒否だとか、オウム真理教信者子弟に対する就学・編入拒否なんだと思います。「住民のみなさんもこう言っている」という御旗を振りかざして、少数者・弱者への人権侵害を正当化するんです。そして、こういう横暴を「権力」に許すのは、園主さまもおっしゃるとおり「相手の立場に立って考える」ことができないから「自分の権利さえ守られれば良い」と考えてしまう人たちの利己主義。そして「自分の権利の保護を、すべて権力に委ねてしまい、その結果 として権力そのものは野放しにしてしまう」人たちの怠惰なんだと思います。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


春一番、『王の帰還』せし、バレンタイン・デー(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月14日(土)21時46分10秒

 Keenさま(続き)

>>『バーディ』

> 例えば、野犬狩りのシーン。目をキラキラさせて、「さあ、捕まえてやるぞー!」とやる気満々のバーディに対し、少し後ろから遅れて、「噛みつかれないかな……」とへっぴり腰のアル。バーディが工場の屋根から落ちるシーン。「絶対イヤだ」と言ってたのに、結局鳥装束着せられたアルは、屋根の高さが怖くて、腰が引けてる。そして、悠々と「飛んで(=落ちて)」みせたバーディを、泣きながら抱擁する。病院では、たまたま椅子で隣り合ったオバサンの、無言の視線がよかった。劇場が、何度爆笑の渦に包まれたことか。

 鳥装束を着たまま、病院の待ち合い室で、バーディーの診察が終るのを待っているアルは良かったですよね。もちろん「なんで脱がないんだよ!」というツッコミは避けられませんでしたけど(笑)。
 ボクは、アルを演じたニコラス・ケイジって、どこか「おじさんくさい」という印象があって、映画前半のハイティーン時代にはちょっと無理を感じました。反面 、人がよさそうで、カッコつけるわりにはどこかドジっぽいその雰囲気が、笑わせたり泣かせたりという演技の際には有効なんだろうなとも思いました。

> 「こいつは、俺がついてなくちゃダメなんだ」と思ってたのに、結局いつもバーディのペースに乗せられてたアル。実は少年時代からずっと、むしろアルの方がバーディを必要としていたのだ。守るべきものがある時、人は強くあれるから。

 いかにもKeenさまらしいと言うか……「やおい妄想」っぽいというか(笑)。いいえ、もちろん、『バーディー』解釈としては正しいと思うんですけどね(^-^)。


 アーニャ
> アリョーシャ&ホランドくんへのプレゼントは、ちょっと遅くなってもいいかしら?
> 別にアリョーシャの年賀状が遅れたからってわけじゃないわよ(笑)。

 お気づかいありがとう。でも、ボクたちはみんなのアイドルだから……なんちゃって(笑)。

 あ、ちなみに『天才 柳沢教授の生活』の最新第22巻が、1月23日づけで刊行されているよ。巻末の予告によると、どうやら現在の「戦後焼跡編」(仮称)は、次巻完結のようだね。





( 以下は「春一番、『王の帰還』せし、バレンタイン・デー(下)」につづく)


春一番、『王の帰還』せし、バレンタイン・デー(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月14日(土)21時44分51秒

 みなさん、こんばんは! 昨夜はひさしぶりに雨が振り、今日は天気予報どおりに「春一番」が吹きました。また今日から映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の掉尾を飾る『王の帰還』の公開が始まりましたが、バレンタイン・デーだということもあって、映画館の前にはアベックが列をなしていたようですね。ちなみに、昨日は「13の金曜日」だったのですが、一夜明けて何となくおめでたい今日は、みなさんにとって、どんな一日だったのでしょうか?(^-^)





 Keenさま
>>(刺青してる人の)むだ毛剃り

> 爆笑!

 ウケたみたいですね(笑)。でも、ホントに気になるんだけどなあー。「2ちゃんねる」で調べるほどじゃないんだけど(笑)。

> ところで、洞人之介くんの印象とかは書いてくれないの?前に、「つるんつるん」を小説で具体的に描写 してみせろってリクエストされたから、頑張って書いたのに〜!あ、

 園主さまのおっしゃってたとおり、とっても達者になられたなあーと思いましたよ。ただ、その分、恥ずかしさは感じなくなりましたし、それにボク自身、ネタされるのに馴れてしまったのかも知れませんね。わりと客観的に評価できるようになりました。……でも、照れてもらえないのは残念なんでしょうね、きっと(笑)。
 園主さまには、小さい子供をからかって、その初心な反応を楽しむという、いかにも「おじさん」的な趣味があるんですが、Keenさまもボクにそういうのを期待したんじゃないでしょうか。でも、ボクだって、もう子供じゃないんだし、さすがにそろそろ馴れてきますよ。――どうもお生憎様でした(笑)。

> 「気味」どころか、暴走そのものです。だから、映画などのハッキリした視覚的恐怖よりも、小説の方がコワイです。自分でどんどん妄想炸裂しちゃうから。あと、ドキュメンタリーも苦手☆本物の迫力に弱いんです。

 わかります。やっぱり本物の迫力って、曰く言いがたいものがありますものね。

 そう言えば、書評なんかでも取り上げられて結構評判になっている『ぼくの見た戦争 2003年イラク』(高橋邦典・ポプラ社)という写 文集があります。これは写真家の高橋邦典さんが、ご自分が撮られたイラク戦争の写 真に、ご自分で文章を添えられた「子供向け」の本です。ですから、活字は大きく、文章は平易で、全体としては「絵本」の体裁で造られています。だから版元も「児童文学」の出版社として知られるポプラ社なんですね。

 でも、この写文集で驚かされるのは、死人・死体・ケガ人などの写真が、かなりストレートに掲載されている点です。従来なら、子供向けとしては「残酷すぎる」とか「刺激が強すぎる」ということで掲載されなかったような写 真(具体的に言えば、26ページの黒焦げ死体、27ページの砲弾の直撃を受けて、胴体からちぎれた頭が、肩のあたりに後ろ向けに転がっているアメリカ兵の死体など)が、この本では、間違いなく意識的に掲載されているんです。実際これらの写 真は、大人のボクらでもドキリとしますから、Keenさまなら直視に堪えないでしょうし、感受性の強い子供だと夢に見てうなされちゃうかも知れません。

 それでも、高橋さんがこれらの写真を「子供向け」の本にあえて掲載したのは、ここに映し出されている現実が、いかに厭わしいものであろうと、目を背けてばかりはいられない、日本の子供たちにも決して無縁ではありえない、現実だからなんでしょうね。だから、高橋さんはあえてそうした写 真を子供たちに見せることも厭わなかったのでしょうし、子供を「厭うべき現実」から隔離することだけに腐心し、その結果 、自分自身もそうした現実から目を背けてしまっている日本の親たち(特に女親)にも、こうしたかたちで現実を直視させようとしたんだと思います。その証拠に、高橋さんは同書の中で、こんなふうに書かれています。

 『いつの時代にも戦争でいちばんの被害を受けるのは、弱い女性と子供たちだ。』

> これ(※ 『闇のなかの赤い馬』とその怖さ)を比較する実験用に、何かお薦め本ありますか?この間、影姫さまが言及されてた本とかがいいでしょうか……(ドキドキ☆)

 いっぱいあるとは思うけど、いきなり強烈なのを紹介して寝込まれても困るし、かと言って、さほど怖くないホラーなんて、それこそ読む価値がないしなあー(笑)。





( 以下は「春一番、『王の帰還』せし、バレンタイン・デー(中)」につづく)


プレゼント 投稿者:アーニャ  投稿日: 2月13日(金)12時22分47秒

皆さまお久しぶり、アーニャよ。
Keenさまが何やら急に動き始めたと思ったら、そういうわけだったのね(笑)。

ところで私、明日のバレンタイン・デイには書き込みできないと思うので、早めに書いておくわね。

「花園」へお越しの皆さま、いつもご贔屓頂き、ありがとうございます。
お礼に、私の「肉球スタンプ」を差し上げますわ。そのぷにぷに感が癒し効果 抜群、と好評ですのよ。
ロムの方々も、ご遠慮なく。いずれお気が向かれましたら、書き込み下さると嬉しいですわ。

では……ぺた。

アリョーシャ&ホランドくんへのプレゼントは、ちょっと遅くなってもいいかしら?
別にアリョーシャの年賀状が遅れたからってわけじゃないわよ(笑)。

それでは皆さま、ごきげんよう。
にゃあ〜♪




応用もききます!(^0^* 投稿者:Keen  投稿日: 2月12日(木)14時23分11秒

☆園主さま

>ともあれ、Keenさまの真摯な思考努力に敬意を表したいと存じます。そうやって考えていくことが大切であり、また誰にでもできるものではないのでございます。

ありがとうございます。
実は、ついでに(←と、言ってしまうところがすでにいけないのですが……)部屋の片付け&掃除もし始めました(笑)。
自覚して、精一杯誠実に「実行」しないと、キレイになりませんよね〜☆


「自覚」という罠(補足) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時26分15秒


 Keenさま
> では、どうしてそんなに「妄想せずにはいられない」のか考えてみました。もちろん趣味もありますが(笑)、著者が収まりのいいところまで連れて行ってくれないからだ、と気づきました。心配で、コワイままでは気持ち悪いから、なんとかして落ち着きたい。作品のそういう結末を私は面 白いと思うのだけど、客観的評価として(例えば、人に薦める時)は、低く採点することになるでしょう。(←やっと出た、結論?)
> あ、それと、私は園主さまたちにお会いするまで、竹本作品についてひとと語り合った経験がほとんどありません。それで気づかなかったのですが、一般 的には、登場人物たちの「その後」をあれこれ想像(妄想)したりしないものなんでしょうか?もちろん個人差はあるでしょうが、私は、それをしないなら、何のために読書するのかってくらいなもので……(苦笑)

問題はここでも「作者の手際」なのでございます。つまり「すべてを最後までハッキリとは描いてしまわず、そのことにより読者の想像力を触発する」という手法は、ごくありふれたものなのでございますね。ですから、ここで問題となるのは、その「手法」の採用にかかわる「作者の手際」なのでございますね。私は、その「手際」が、Keenさまのお感じになられたほどではないと評価するのでございます。

ともあれ、Keenさまの真摯な思考努力に敬意を表したいと存じます。そうやって考えていくことが大切であり、また誰にでもできるものではないのでございます。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「自覚」という罠(11) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時25分16秒


 ホランド
> ご心配をおかけしました。おかげさまで、もう大丈夫ですし、『深淵』や『闇のなかの赤い馬』も読むことができました。この2作については、近日中に自分で購入するつもりですが、またいろいろとお貸し下さいね。

そうそう、『深淵』では、主人公が『国家権力とマス・メディアの権力』に対する不信・警戒の念をたびたび意識にのぼらせる。特に今回、大西巨人作品として、これまでになく目についたのは「マス・メディアの権力に対する不信・警戒」という問題だ。これは同作中でも語られているとおりで、一見、反権力的なポーズを採りながらも、いざとなると権力に迎合してその意のままになり、時には個人の人権を無視して、その横暴な権力性をむき出しにするマスコミというものに対する、作者大西巨人の嫌悪感を率直に反映したものだと思うんだ。同作中にも暗示的に示されているとおり、マスコミが本来的な原理原則を無視し、世間の「俗情」と無節操に結託する危険な醜態は、「オウム真理教事件」にかんする一連の報道を見ても既に明らかだったろうし、それが先般 の「北朝鮮による日本人拉致事件」にかかわって「俗情としてのナショナリズム」に裏づけられた「北朝鮮バッシング報道」にもつながっていったんだろうと思う。

そうした意味では、『A』『A2』などのドキュメンタリー映画で、オウムの側からの視点を紹介した森達也の仕事の先見性は、もっと注目されていいと思う。今の日本人には「相手の側に立って考える」ということが、まったく出来なくなっている証拠だろうな。これは「相手のことなんか考えたら損だ」というのが、今の日本人の「卑しい素顔(=俗情)」だということを指し示しているんだと思う。





それでは、みなさま、本日はこれにて失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「自覚」という罠(10) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時24分7秒


 AOIさま(つづき)

> そういう意味で、ホランドさまが上記のようなレスをされたのだというのは、私にもよくわかります。
> ベトナム戦争を知らないから「バーディー」を正しく理解できないなんていうつもりはありません。
> 同時代に生きていた、責任の問われる戦争であるということが、「バーディー」を手放しでいい映画として賞賛できないという面 はあるのだけれど、それだけでなく、「バーディー」に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのかということで、私は書いてきたつもりなんですね。
> ベトナム戦争は歴史的な事実であり、その事実が前提にあり、内容と絡み合っているのだから。ということで。
> この辺の認識については、合意できないままで残念ですが。

『それだけでなく、「バーディー」に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか』というスタンスは正しいと存じます。つまり『バーディー』という作品は「ベトナム戦争」とのかかわりの中でも(誉めるにしろ貶すにしろ)評価されるべき(側面 をもった)作品だと存じます。

しかし、問題は、そうした問題意識が現実の議論のなかで、どれだけ公正に語り得ているか、という点でございましょう。例えば、『地獄の黙示録』は「戦争映画」として見られ議論されることの多い映画でございますが、AOIさまはそうした議論ばかりを目の当りにして「それだけでなく、『地獄の黙示録』に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか」と疑問を持ち、もっと違った側面 から作品を語ることの必要性を、現実問題として、感じ主張しうるか、ということなのですね。

で、傍目には「たぶんそのようなことはないだろう。AOIさんなら、そうした側面 からの議論に満足して、それに加わるだけだろう」と見える、ということなのでございます。

つまり、「映画」に限らずあらゆる事象は、いろんな側面から評価しうるし、またそういう多面 性は認識されるべきでございましょう。つまり一面的になるべきではない、ということでございますね。しかし、人はえてして「自分の好きな見方」でしかものを見ません。多くの人が自分と違う見方をしていれば「そういう見方もあるけど、こういう見方もしなきゃ」と言うけれども、自分が好きな見方が一般 になされている時には「それ以外の見方もしなきゃ」とは、まず言わないし気づきもしないものなのでございます。

で、ホランドくんが、AOIさまの口ぶりに感じたのも、そういうものだと思うのでございますよ。なるほど『それだけでなく、「バーディー」に対しての評価は、ほんとうにそれだけでいいのか』というのは正しい。しかし、その「正論」を自分好みのシチュエーションが主流をなす場合にも、そのように主張されるのか。つまり、ご都合主義的な「正論」になってはいないか、という点で、手前味噌になりがちな「知識・教養」の問題もからんで、疑問を感じたのでございましょう。

> そうですね。言葉が決定的に足りないのだというのはよく分かりました。

ですから、Keenさまの場合と同様に、ここでも真に問題なのは「単なる言葉不足」ではなく、もう一段奥の「自覚」の問題なのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(11)」につづく)


「自覚」という罠(9) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時23分27秒


 AOIさま(つづき)

そんなわけで、私は「知っていなければ、わからない」式の「知識」偏重は基本的に認めておりません。それは所詮、「自分の知識」を偏重する近視眼的な意見でしかないからでございます。

このことを説明するために、もうひとつ例を挙げておきましょう。私が、ミステリマニアの「教養主義」の欺瞞を批判する場合によく示した「思考実験」でございます。

ミステリマニアは、しばしば「クイーンも読まないで」とか「カーも読んでなくて」、本格を語ることは出来ない、などと言いたがります。つまり「新本格以降の作家しか読んでいないような奴が、本格を語るな」というマニア特有の選民意識が、かつては(今もか?)かなり強かったのでございますね。しかし、こうした「教養主義」もすこし突き詰めれば、その無根拠さをあっさり露呈いたします。
たとえば、カー、クイーンあたりまで読んでおれば、それで本当に十分なのか? たとえば、人によっては「ミステリの創始者はポーなんだから、ポーまでは読まないと、本格はおろかミステリそのものを語れないだろう」と主張するでしょうし、「ポーを創始者とするのなら、そのポーがどういう文学環境の中で育ってきたのか、それを押さえないかぎり、ポーを正しく理解したとは言えない」などと言う人も出てまいりましょう。また、その「知識」「教養」の範囲は、何も「文学」に限定される謂れはございません。「ポーが生きた時代」「カーやクイーンが生きたアメリカという国」それを知らずして……などと言い出したら切りがないのでございますね。

つまり「知識」「教養」を云々する人の多くは、そうした突き詰めがなく、ただ漠然と自分を基準にして「最低限の知識がないと」などと言うのでございます。

そして、如上の議論は、「戦争」にかんする「知識」とその議論の問題にも、そのままからんでまいります。だから、難しい。「知らなくても議論はできるし、知っているから正しく認識しているとは限らない」――これが、原則。であるにもかかわらず、私たちは、こと「戦争」などの「現実問題」については、「やはり最低限の知識は必要では」と思ってしまいますし、その考えを否定することはできません。しかし、私たちはここで「ご都合主義」になるわけにもまいりません。そこに真の「難問」があるのでございます。

私たち「知識」のある者は、ここでその立場に自覚的でなくてはなりません。「私の知識なんて最低限のもの」だなどと謙虚ぶって誤魔化してはならない。私たちは、私たちの「知識」の水準に従って、無知な人々の無自覚を歯がゆく思っている、というのは事実なのでございます。ですかこそ、私たちは、私たちのこうした立ち位 置に自覚と責任をもって、その主張をなさねばなりません。「無知」を、無知だと無前提に断罪するのではなく、無知がいかなる過ちをもたらすものなのか、それを「有知」の者の責任として、懇切に語っていかねばならないのでございます。

そしてそのような視点から、「ベトナム戦争」の同時代に生まれたことにどれほどの意味があるのか、それを考えなくてはなりません。たしかにそこには大きな意味がございます。しかし、それは「人があらゆる戦争に負う責任」より重いものではない、という点を忘れずに押さえておいた上での話でございましょう。それがあるからこそ、「同時代の戦争責任」も問題となりうるのだ、という基本理解がまずは重要なのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(10)」につづく)


「自覚」という罠(8) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時22分14秒


 AOIさま(つづき)

私は先の『風刃迷宮』をめぐる議論において、「この作品ではあえて書かれていないものが、別 の作品では書かれるだろうから、この作品だけをもって未完成だというは評価は妥当ではない」といった評価のし方を、「神秘主義的な態度に近い」と書いたと記憶いたしますが、この意見は今も変ってはおりません。「今・ここ」の作品には存在しないもので(つまり無根拠に)、「この先には解決があるだろうから、これは『今・ここ』の現実だけで評価すべきではない」というような評価(理解)は、「最後の審判」や「死後の極楽浄土往き」によって「今・ここ」での現実を隠蔽した「阿片としての宗教(の教え)」と、どこに選ぶところがあるのでございましょう。

ですから、私は基本的に「今・ここ」での精一杯可能な判断が基本なのであって、「(今・ここに無い)知識があれば、より正しい判断ができるだろう」あるいは「知識がなくては、正しい判断はできない」、言い換えれば「特権的な知識を持つ者だけに、真の判断権がある」といった発想を是認し得ないのでございます。

では、『ウロボロスの偽書』『ウロボロスの基礎論』『ウロボロスの純正音律』のような「実名小説」は、どうなるのでございましょうか。たしかに、これは登場人物の「モデル」(と言うよりは「実物」)を知っていれば、余計に楽しめるという部分がございましょう。それを前提条件としたネタが多ございますからね。しかし、ではまったくの白紙な読者には楽しめないのかと言えば、これは必ずしもそうとは申せません。その場合にはその場合なりの楽しみ方があり、それは必ずしも「知識」のある者の楽しみに及ばないとは言い切れないのでございます。

例えば『ウロボロスの基礎論』に登場する「田中幸一」を虚構の人物だと思って読んでいた人もいるでしょう。事実「田中幸一というのは、千街晶之さんの別 のペンネームだと思っていました」と言った人も実在いたします。こうした人はこうした人なりの楽しみ方をしたでしょうし、あらかじめ無知であったからこそ、後で事実を知って「面 白がれた」という部分もございましょう。そして、あえて「実在の人物」と「虚構の人物」を混在させた「ウロボロス三部作」は、読者のこうした「無知」をも見込んで、その効果 を狙っていたとも言えるのでございますね。
ですから、このシリーズの場合は「知識が無くては、楽しめない」ということはなく、「知識があれば、また別 の楽しみ方ができる」というように作られており、その意味でこれは「自己完結」しているのでございます。そして、ここが『風刃迷宮』との大きな違いなのでございます。

『風刃迷宮』がそれ単体としても一定以上の完成度を見せておれば、たとえその作品内で完結しない部分、いわば「余剰」部分が残ったとしたも、私はこの作品を「完成度の低い作品」だとはしなかったでございましょう。『風刃迷宮』の問題は、その部分以外これといって特に見るべきものがなかったからこそ、その「余剰」部分の評価が争点になってしまったということなのでございます(もちろん、「文章がいい」とか、「キャラがいい」とかいった、竹本健治ならば当然の部分は問題としておりません。あくまでも「作品固有の魅力」を問題としているのでございます)。





( 以下は「「自覚」という罠(9)」につづく)


「自覚」という罠(7) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時21分15秒


 AOIさま(つづき)

> そのことについては、ちょっと、違う側面から、私もかねがね感じていることです。
たとえば、ある小説について、この小説はすでにある小説を踏まえたものであり、その小説を読んでいないから、あるいは、知らないから、ここに描かれていることが充分理解できないのだ。という言い方がしばしばされます。
> たしかに、どのような形であれ、何らかの影響は必ず受けているわけで小説を書く場合に、踏まえた小説というものはあるでしょうし、具体的に知っていたらより楽しめたり作者の意図を理解できたりするということはあると思います。しかし、それはあくまで当該小説の評価とは一線を隔したところでの楽しみであって、それを混同させてしまうと、知っているがためにその小説の本質を見誤るということにもなりかねないのだと思います。むしろ、知っていることが邪魔をしてしまうということにもなりかねない。知っている。読んでいる。ということは、当該小説を正しく理解するということには必ずしもならないのだと思います。
> そして、「知っていないから理解できない」という言い方は、踏まえられた小説を読んでいないものを議論の外に追いやりかねないということにもなってしまうんですね。

このご意見については、ほぼ賛成でございます。完全に賛成だと言わないのは、判断の微妙な問題もあると考えるからで、具体的に異論があるからではございません。

例えば、この問題で私がAOIさまのご意見に強く同意するのは、竹本健治の『風刃迷宮』の評価をめぐっての、楽古堂さまとの議論などにもかかわってまいりましょう。

私は『風刃迷宮』を「完成度の低い作品」だと評価いたしました。それは、この作品の「自己完結性が、いたって低い」と考えるからでございます。楽古堂さまはこの点について、竹本健治の作品は「全作品でひとつの世界(作品)を構築するという傾向があるから、こうしたものもそれとして評価しうるのではないか」という主旨の見解を示されました。そして事実、竹本健治自身も、最近刊行されましたミステリ系「人気作家30人へのインタビュー」集である『ミステリ・ジャムセッション』(村上貴史・早川書房)所収のインタビューで「その作品の中で説明され完結していなくても、その部分が別 の作品で説明され、大きなところで完結しているような書き方をしている」という主旨のことを話しております。

しかし、竹本健治の狙いがどうあれ、『風刃迷宮』が「完成度の低い作品」だという私の評価に変わりはございません。と申しますのも、他の作品を読まなくては、その世界が完成しない作品など「未完成」以外の何ものでもない、と私は斯様に考えるからでございます。もちろん、好きな人は全作品を読んで、そういう「仕掛け」を楽しめば良い。個々の作品がそれほどのものでなくても、全部読むことで得られる「特権的な楽しみ」には、また格別 の喜びがございましょう。
しかし、『風刃迷宮』を読む読者の大半は、そういう読者ではないのでございます。「なんだこれ!」と怒って本を投げ捨てる読者がいても、それは責められるべきではないと言うよりも、それが「当たり前」の反応なのでございます。

そうした普通の読者の存在を無視して、すべてにつき合う「信者のような読者」にだけ分かる(評価されうる)ような作品を「それでよし」として書くことが本当に正しいのか、そんなものを評価してまで特権的な喜びに浴することが正しいことだと言えるのか。私はこうしたものに「否」としか言えないのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(8)」につづく)


「自覚」という罠(6) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時20分25秒


 AOIさま
> つまり、生まれていなかった第二次世界大戦は末裔としての責任なんですね。
> そして「スターリングラード攻防戦」は日本の動きと無関係でないにしても、私の責任能力を超えているということです。
> (先日NHKでスターリングラード攻防戦について、3夜連続で放映していましたね。ごらんになりましたか?)
> ベトナム戦争について言えば、当時、当事者意識は薄かったけれど、体験したものとしての責任のある戦争なのですね。
> ですから、上記の「責任能力の範囲」は、ほかの人の責任能力の範囲とを対比していったものではなく。私個人について考えた場合の責任能力についてです。
> その時代に生きていたかどうかということで私個人では責任能力は違ってくるということを言ったものです。
> 「スターリングラード攻防戦」と「ベトナム戦争」とでは戦争としての悲惨さはおなじように感じるけれど、具体的な責任能力において違うということです。

「スターリングラード攻防戦」と「ベトナム戦争」に関する「個人的な責任」について、このような「軽重」を設定する考え方を、私は基本的に認めません。
たしかに「客観的な責任の比重」ということで言えば、こうした「軽重」の存在は否定できないところでございましょう。しかし、それをそのまま「内面 化」すれば、多くの日本人にとっては「スターリングラード攻防戦」はおろか、「第二次世界大戦」も「ベトナム戦争」も「朝鮮戦争」も「アフガニスタン」も「イラク」も「遠い異国」での「実感の持てない戦争」でございましょう。つまり、今の日本人が遠い「過去」の日本の戦争や、遠い「異国」での戦争に「責任」を感じうるのは、その人が客観的「時空の隔たり」の大きさにかかわりなく、それを「自己の問題」として内面 化するからなのでございます。それができなければ、仮にいま沖縄がアメリカに占領されようと、本土の人間はそれを他人事のように見て、責任を感じないというようなことも「ごく自然に」ありうるのでございます。

つまり、AOIさまがおっしゃるように、

> 「スターリングラード攻防戦」と「ベトナム戦争」とでは戦争としての悲惨さはおなじように感じるけれど、具体的な責任能力において違うということです。

ということはたしかにございましょう。しかし、そこで『具体的な』と形容されるものは、AOIさまにあっては「100対50」であるのが、他の人には「0.1対0.05」でしかなかったりするような、いたって『観念的な』ものでしかないのでございます。ですから、そうした「差異の絶対性」を強調することは、より重要な「責任存在の絶対性」を逆に疎外軽視させかねないのでございます。

皆が皆、AOIさまのような「責任意識」を持っておれば、そうした「小異」を問題にすることもできましょう。しかし「責任意識」の存在そのものがあやしい現状で、「アレよりはコレの方に責任がある」というようなことを言えば、「戦争のことよりも、子供のことに責任があって、私はそちらで手一杯だ」というような議論になるであろうということは、より「具体的」「現実的」な問題として考慮すべきなのだと存じます。





( 以下は「「自覚」という罠(7)」につづく)


「自覚」という罠(5) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時18分8秒


 Keenさま(つづき)

> それが著者の本意なのかはわかりません。あるいは、そんなことはミステリ界では常識?また、「そういうところがイヤだ」という人もいるでしょう。でも私は、そうやって遊んでみたいのです。迷惑ですか?竹本さん。

と、もっともらしく書いた時、しかしKeenさまは、竹本健治がそれを嫌がるような人でないことを承知の上で、いわば「出来レース」でそれを書いたのだとはお思いになりませんか? 本当にそういうことを嫌がるような作家の前で、はたして今回のようなことが書けたでしょうか? もちろん私なら書けますが、私の知りうる限り大半の方にはそんな真似はできません。その厳然たる事実に則して、ご自身の言動の「本質」を見極めるべきでございましょう。それが真の「自覚」に到る道なのでございます。

> ……ゴメンナサイ☆私のは、もっとレベルの低い話なんです。要するに、「ツバサくん、萌え〜」といった、「動物化」した反応ですね。またそれが、もう少し自分の中で鎮静するまで待てばよかったものを、ゴチャゴチャ状態で書きなぐったために、ああいう妄想炸裂丸出しになってしまったのだと……(恥)

べつにこれはこれで良いのでございますよ。問題は自分のそうした立ち位置をしっかりと自覚し、それに正直に語るということが大切なのでございます。

> ハイ、通い慣れた「花園」だから、という甘えもありました。それと、ネタばれしないように、と思うと、説明的には書きにくいということも。いずれにせよ、まとまった意見を書くには、まだ私の中で未熟成なのです。

これも同じ。未熟であるかどうかは問題ではありません。未熟であることを自覚して、その範囲で精一杯誠実に語ったか否かが問題なのでございます。

> 『バーディ』で私が一番感心しているのは、主演二人(と、さりげない端役も)の演技力の高さなのです。現在ではすっかり実力派として知られていますが、当時からこれだけ細部まできっちり演じていたことは、賞賛に値すると思います。また、そのように計算してキャスティング&撮影したアラン・パーカーも。
 (中略)
> また、バーディも、病院での初めの虚ろな表情・仕草から、アルに再会した当初の怯え、そして少しずつ霧が晴れて行く様子が見て取れます。少年時代も、独特のナイーブさと意外な強さが同居している性格を、モディンはよく体現していると思います。
> ルナルディがいつも鼻唄なんぞ唄いながら、ひょうひょうとしているのも対照的でイイ。
> そんなわけで、私は『バーディ』を「すばらしい映画だ!」と言いたいのです。

この『バーディー』評は、たいへん良かったと存じます。と申しますのも、「テーマ性とその実現度」をめぐってAOIさま・ホランドくん・私の三者で激しく議論が交わされている最中に、それとは全く懸け離れた意見を、このように「自分の立ち位 置」をハッキリと示して、きちんと語るということは、なかなかできることではないからでございます。
それがどれくらい困難なことかと申しますと、アマチャアあるいは二流の世界では「甲論乙駁」というものが絶えて無い(=馴れ合いばかりである)という現実に、それが端的なかたちで示されておりましょう。つまり「誉めるやつは誉めるやつで群れ、貶すやつは貶すやつで群れる」ということなのでございますね。要するにこれは、作品そのものを誉めたいとか貶したいという以前に「自分の立場を、すこしでも否定されたくない、認めてもらいたい」ということなのでございます。他人のことは(誉めるにしろ貶すにしろ)とやかく言いたいくせに、自分のことだけは他人にとやかく言われたくないという身勝手な「甘え」。だからこそ、私はそうした覚悟のない批評は「誉めるにしろ、貶すにしろ」、本質的にダメだというのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(6)」につづく)


「自覚」という罠(4) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時17分2秒


 Keenさま(つづき)

もうすこし身近な実例をご紹介しましょう。東京創元社が主催した「創元推理倶楽部」というミステリファンサークルが作られて間もない頃、その会誌で「理解できないミステリ」みたいな企画投稿を会誌に募ったところ、東京創元社の編集者だか周辺人物だったかが、「理解できない作品」として竹本健治『匣の中の失楽』を挙げ、おおむね次のような主旨のことを書きました。

「私は『匣の中の失楽』の良さがぜんぜんわからない。みんな、すごいすごいと言っているけれど、本当にわかって言っているのだろうか。本当は、みんなが誉めるし、ひとまず竹本健治の博識に圧倒されて、いわば周囲の雰囲気に流されて、主体性もなく騒いでいるだけなんじゃないか」

私はこれを読んで激怒し、たしか「SRマンスリー」に激越な批判文をしたため、さらにその文章のコピーを東京創元社気付で本人に送りつけました。後日、本人は、言い訳のような謝罪のような文章を公にしたと記憶いたしますが、詳細は憶えておりません(しかし記録はすべて残してあるので、いずれそれを公開することもございましょう)。

ともあれ、彼の文章が私の逆鱗にふれた理由は、『匣の中の失楽』を貶したからでもなければ、他人を無根拠に貶めたからでもございません。私が、彼に向けて書いた批判のポイントは「自分がそうだからといって、他人もそうだと思うなよ」ということなのでございます。

つまり、彼は長らく『匣の中の失楽』のような作品が理解できない「正統派の本格ミステリマニア」だったのでございます。しかし、当時すでに『匣の中の失楽』の評価は定まっておりましたから、彼には、そうした評価に真正面 から異を唱えるだけの理論的根拠もなければ、度胸もございませんでした。

ところが、当時、笠井潔の後押しで法月綸太郎が評論家デビューし、力作評論を発表して業界の耳目を集めた結果 、先程の「創元推理倶楽部会報」に「今年最大の事件」として「法月綸太郎の評論家デビュー」を挙げるような人も出てきていたのでございますが、その(「正統派の本格ミステリマニア」でもある)法月綸太郎が「アンチ・ミステリー」について「思わせぶりでありながら、じつは内容空疎」というようなことを口の端にのせ始めていたのでございますね(※ この問題については、竹本健治『ウロボロスの基礎論』所掲の拙論をご参照下さい)。

つまり、彼は長らく「周囲の顔色をうかがいながら」自分の本音を隠蔽してきた。ところが、「最近、評論家として注目を集めはじめた法月綸太郎」が自分と同じような考えを、公然と語り始めた。そこで彼は「そうそう、私も前からそう思ってたんだよ」とばかりに前記のような「本音」を語り始めたのでございます。

たしかに、彼の指摘するとおり、また事実「彼自身がそうであった」ように、よくもわからないくせに「周囲の顔色をうかがいながら」『匣の中の失楽』をすごいと言っている読者も、それなりにいるでございましょう。それは『虚無への供物』でも『黒死館殺人事件』でも『ドグラ・マグラ』でも同じなのでございます。つまり、むしろこうした「先鋭」な作品が、「一般 受け」する方が不思議なのでございます。だから、彼の指摘は、必ずしも間違っていたわけではなかった。
しかし、真の問題は、そんな「凡庸な指摘」にあるのではなく、「自分を棚上げにしながら、自分だけはわかっているつもり」になってしまうという、その「無自覚」であり「凡庸さ」にこそあったのでございます。

ですから、今回、私が問題としているのも、「本格ミステリが理解できているか否か」「竹本健治を本当に評かしているか否か」といった「瑣末な問題」ではなく、「自分がわかって、言っているのか」ということなのでございます。

言うまでもなく、こうした「自覚」は、「学力」や「才能」といった意味での「頭の良さ」には無関係ございます。あらゆる分野で「鋭い洞察」や「閃き」を見せる人も、自分自身のことについてはおよそ「魯鈍」である場合が珍しくございません。その良い例が、笠井潔であり、その取り巻きの存在でございましょう。私が、彼らの「才能」を認めつつも、基本的には評価しないのは、彼らが「人間として」、もう一段奥の部分での「自覚」に決定的に欠けているからなのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(5)」につづく)


「自覚」という罠(3) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時16分15秒


 Keenさま(つづき)

> よーく考えてみましたが、私は「竹本健治至上主義者」じゃないです。竹本作品ならなんでもかんでも「すばらしい!」とは思ってませんもん。
> (ご本人の目を気にしつつ)思い切って書きますが、『入神』を「すばらしいマンガだ!」とは思いませんし、実はあの『匣の中の失楽』でさえ、私の中での評価は、『トランプ殺人事件』『狂い壁狂い窓』より低いのです。

> それが著者の本意なのかはわかりません。あるいは、そんなことはミステリ界では常識?また、「そういうところがイヤだ」という人もいるでしょう。でも私は、そうやって遊んでみたいのです。迷惑ですか?竹本さん。

で、ここで問題となるのは「『匣』をそこまで評価しない」というような「自覚」ではないのでございます。私はそのようなレベルで「竹本健治至上主義者」であるか否かということを問題にしているのではございません。問題なのは、なぜそのような自覚がありながら、そのあたりの評価が自然に語られないのか、という点なのでございます。つまり私が言いたいのは、そうした点が「意識的に抑圧・隠蔽」されることによって、その人は(私の指すところの)「竹本健治至上主義者」になっている、ということなのでございます。

では、なぜ「否定評価」が抑圧・隠蔽されてしまうのでしょうか。その理由は、『ご本人の目を気にしつつ』『迷惑ですか?竹本さん。』という言葉に端的に現われておりましょう。つまり、この場合は作家本人でございますが、要は「他者の目」を意識するが故に、ある種の評価を抑圧している。抑圧することによって「(他者の)自己に対する評価」を良くしよう、あるいは無難なものにしようとしている、ということなのでございますね。

例えば、戦時中は祖国による戦争を「人並みに肯定している」かのようだった人(の多く)が、敗戦後に「だから私も、この戦争は間違っていると思ってたんだよ」などと言いはじめる現象がございます。たしかに「当時は言える雰囲気ではなかった」という「言い訳」もわからないではございません。しかし、おかしいことを「おかしい」とも言わず、その流れのなかに加わっていた人間が、戦後になって、いきなり「他人事」のように言うのは「恥知らず」というものでございましょう。しかし、その本人としては、当時も今も「全肯定者」ではなかったと思っているから、このようなことがヌケヌケと言えるのでございますね。つまり、しばしば「戦後、声高に」などと言われるのは、戦中は客観的に見て「肯定者」「協力者」であった人たちが、その個々の「自覚(無自覚)」において、戦後「私も間違っていると思っていた」などと「正直に」言い出した結果 が、「戦後、声高に」の実態なのでございます。
そしてこうした「無自覚」が、今は「やはり国益が大切」とか「愛国心は必要でしょう」などと言った薄っぺらな言説となって噴出しているのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(4)」につづく)


「自覚」という罠(2) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時14分41秒


 Keenさま
> 私は「本格ミステリ」と言われる、謎解きがメインの作品(※この定義自体、怪しいのですが)は、多分、ほとんど読んでいません。「面 白くない」「興味ない」のです。だから、「私はミステリファンではない」と考えています。
> 「ミステリとしての面白さ」は、私にはわからないのだと思います。
> これは、やけになって居直っているのでも、ひねくれて卑屈になっているのでもありません。そもそも、ミステリを評価する土俵に上がるだけの素養がない、という自覚です。
> 例えば、私はホームズもの、ポアロものが好きですが、それは作中の古い欧州的背景が好きなのであって、「ミステリだから」好き、というのとは違うと思います。エリス・ピーターズの「修道士カドフェルシリーズ」も同様。

私は、Keenさまがご自身、決して本格ミステリマニアではないということを、かなりハッキリとご自覚なさっているものと思っておりました。ですから、今さら「わかると思われたい」というような見栄をお持ちだとは思ってもおりませんでした。

よく誤解する方がいらっしゃるのですが、私は「ある種の能力」の「有無」など、さほど問題にはいたしません。具体的に言えば、「本格ミステリの魅力」であれ「竹本健治の魅力」あれ、それがわかるか否かということ自体には、さほど重きを置いていないのでございます。

では、私が重要視するものとは何なのか。それは、

 ・ 自分の長所と弱点を自覚しているか否か。

であり、さらに、

 ・ その自覚に立って、適切な行動を選び得ているか。

ということなのでございます。

つまり、私が問題とするのは、所詮「人それぞれ」でしかない個々の「ある種の能力」ではなく、「人間としての基本的なあり方」の部分なのですね。ですから、私は、たとえKeenさまよりも「本格ミステリの魅力」を理解しえていたとしても、それを自慢にする気など毛頭ございませんし、「SRの会」などでつきあいのある「本格の鬼」たちほどにはそれへの理解がなくとも、それに引け目は感じることもございません。「君らにはそれしかないんだろう?」くらいの不遜さを持っているのでございます(笑)。

ですから、私が「竹本健治崇拝者」なり「竹本健治全肯定者」なり「竹本健治の取り巻き」なりを問題にする場合も、彼らの「理解の程度」を問題にするわけではなく、彼らにどれだけの「自覚」があって、客観的に見れば「偏頗」と言って良いような言動を採るのか、そこを問うのでございます。

前回も書きましたとおり、「中途半端に頭が良い」人にかぎって、「自覚」というものを往々勘違いなさりがちでございます。つまり「自分はわかっていて、あえてそうした言動を選んでいるのだ」と考えがちなのでございます。しかし、そうした自覚の影には「だから、自分の偏頗な言動も許容されるべき範囲にある」という「言い訳」が潜んでいるのでございますね。で、私の問う「自覚」というのは、この「言い訳」の部分。つまり、「表向きの自覚」によって、自己の表層意識から隠蔽された(自己欺瞞された)「意識」についての自覚なのでございます。言い換えれば、もう一段奥の「意識」についての「自覚」なのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(3)」につづく)


「自覚」という罠(1) 投稿者:園主  投稿日: 2月12日(木)13時13分43秒

みなさま、先日来、陸海空の自衛隊本隊がぞくぞくとイラク入りしており、もはや一般 にはそのことの是非は「既成事実」として問題にならなくなっているような雰囲気でございますね。しかし、日本のマスコミがいかに報道をひかえようと、イラクが危険な戦闘地域であることに今も変わりはございません。状況は「一段落」したのではなく、今も着々と進行中なのでございます。

昨年成立した「有事関連三法案」の中核をなす「武力攻撃事態対処法」(正式名称:武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律)の〈第一章〉総則のなかで、この法律の「目的」を記したその第1条は、次のようなものでございます。

『この法律は、武力攻撃事態等(武力攻撃事態及び武力攻撃予測事態をいう。以下同じ)への対処について、基本理念、国、地方公共団体の義務、国民の協力その他の基本となる事項を定めることにより、武力攻撃事態等への対処のための態勢を整備し、併せて武力攻撃事態等への対処に関して必要となる法制の整備に関する事項を定め、もって我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的とする。』

問題は、最後の『もって我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的とする。』という部分の「順番」でございます。つまり、この順番は思いつきのデタラメではなく、重要と考えられる順位 がここで示されていると理解すべきなのでございます。

『この法律』つまり「武力攻撃事態対処法」が、何を重視し「何を守ろう」としたものなのか、それがここには示されております。つまり、まず大切なのは「我が国の平和」その次が「我が国の独立」、次いで「国の安全」の確保、そして最後が「国民の安全」の確保だ、ということなのでございます。

まず「我が国の平和」が大切なのはわかります。国が「平和」であれば、その「独立」が脅かされているということなどありえませんし、「国の安全」や「国民の安全」 の確保ができていない状態であることも考えられません。「国の独立」や「国の安全」「国民の安全」が確保されている状態をして、初めて「国が平和」な状態と呼ぶのですから、これは自明なことでございましょう。ですから問題は、その次からなのでございます。

「国の平和」の次に重要視されているのは「国の独立」でございます。つまり「国の独立」は、「国の安全」「国民の安全」に優先するという「国家意思」が、ここに示されております。「国の独立」を守るためならば、「国民の安全」はもとよりその「命」をも犠牲に供する。すなわち「兵隊」に行ってもらう、ということでございます。たとえ国民の半分が死ぬ ことになっても、「国の独立」だけは守り通さなければならない。「国家主権の確保」「国体の護持」が第一であり、「国民」の安全・平和とは、その上(その後)に築かれるものである、ということでございますね。ですから、ここには「国民の安全」を守るために「国の独立」を放棄する、というような発想は存在しません。すなわち「国民」を守るために「降伏」して、「国家主権」を放棄(し、「国体」を危うく)することなどありえない。まず「国」ありきなのだ、ということが示されているのでございます。

つまり、この法律は「国民を守るために、国が何をなすのかを定めた法律」ではなく、「国を守るために、国家機関や国民のなすべきことを定めた法律」なのでございます。ですから、「有事法制」によって、我々が守られるのだと思ったら、それは大きな間違いでございます。この法律では、「国」は、我々を守る「制度」なのではなく、我々を「国民」として規定する「上位 概念」なのでございます。だから「国」あっての「国民」だというわけなのでございますね。

したがいまして、「国」の中枢部、例えば有事に総指揮官となる「総理大臣の安全」については「国」は全力を傾けるけれども、「国の独立」に直接影響しない「国民(個々)の安全」については、それ相応のことしかいたしません。あくまでも「国」の行動は「国」というレベルでなされ、それ以下の存在は「国の独立」に資するものでしかないのでございます。すなわち「国民の安全」の確保とは、「国の独立」が磐石に保証された場合にのみ、その余力を傾ける対象でしかない、ということ。それまでは「国民」の方が「国の独立」を守るために、命を賭しての『協力』が要求される、ということなのでございます。





( 以下は「「自覚」という罠(2)」につづく)


もう一夜明けて 投稿者:Keen  投稿日: 2月12日(木)12時32分57秒

では、どうしてそんなに「妄想せずにはいられない」のか考えてみました。もちろん趣味もありますが(笑)、著者が収まりのいいところまで連れて行ってくれないからだ、と気づきました。心配で、コワイままでは気持ち悪いから、なんとかして落ち着きたい。作品のそういう結末を私は面 白いと思うのだけど、客観的評価として(例えば、人に薦める時)は、低く採点することになるでしょう。(←やっと出た、結論?)
あ、それと、私は園主さまたちにお会いするまで、竹本作品についてひとと語り合った経験がほとんどありません。それで気づかなかったのですが、一般 的には、登場人物たちの「その後」をあれこれ想像(妄想)したりしないものなんでしょうか?もちろん個人差はあるでしょうが、私は、それをしないなら、何のために読書するのかってくらいなもので……(苦笑)                                                   


一夜明けて 投稿者:Keen  投稿日: 2月11日(水)14時48分43秒

よーく考えてみましたが、私は「竹本健治至上主義者」じゃないです。竹本作品ならなんでもかんでも「すばらしい!」とは思ってませんもん。
(ご本人の目を気にしつつ)思い切って書きますが、『入神』を「すばらしいマンガだ!」とは思いませんし、実はあの『匣の中の失楽』でさえ、私の中での評価は、『トランプ殺人事件』『狂い壁狂い窓』より低いのです。
ミステリのことよくわからない私が言うのは僣越ですが、『匣』という作品の出現自体がミステリ界に与えた衝撃・影響は(世間でよく言われるように)すごく大きかったのでしょうね。私も19才くらいの頃に読んで、クラクラ眩暈がしそうでした。そういう意味で偉大な作品だとは思うし、舞台装置としてはもちろん最高、それに冒頭と最後の霧の風景や作中に散りばめられたペダントリ、ギャグなんかは大好きですけど、個人的総合評価では「そこまで」なのです。「キャラ萌え」もないですし(強いて言えば、曳間さん推しですが/笑)。これは、「ツボにはまるかどうか」ということでしょうから、これ以上説明のしようがないのですが……

で、『闇のなかの赤い馬』ですが、これはまだ味わい尽くしてない、という段階ですので、個人的にどの辺の位 置に入るかは、まだわかりません。何しろ私は、シツコイ読み手なのです。まあ、少なくとも、『匣』より上に行くことはないでしょうが(笑)。

竹本作品の最大の魅力は、その「割り切れなさ」かもしれないな、と思うようになりました。誤読・珍読・奇読をいくらでも許してしまう懐の深さ。「テクストで遊ぼ♪」と呼びかけてくれる余裕。私のような妄想炸裂者には、恰好の獲物……フフフ♪実は今、『闇馬』でとんでもない「大どんでん返し」を企てているところ。「ぐけんにはしを」とシバかれること間違いなしですが(苦笑)。
それが著者の本意なのかはわかりません。あるいは、そんなことはミステリ界では常識?また、「そういうところがイヤだ」という人もいるでしょう。でも私は、そうやって遊んでみたいのです。迷惑ですか?竹本さん。



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