●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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明かされた情報と伏せられた情報(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月31日(水)02時23分8秒


 アーニャ
> オンライン書店bk1で、面白そうな本が紹介されてるわ。

> 大森望・豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』(PARCO出版)
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3cc90d5451dd80102480?aid=02atnifty0001&bibid=02416690

> もっとも、アリョーシャならこの本自体を「メッタ斬り」しそうだけど(笑)。

 また、煽ったりしてえー(笑)。

 ところで、園主さまからは、北海道でのこと、まだ詳しく聞いてないんだけど、今日(3/30)の書き込みを見ると、あんまり詳しくは報告されていないところが、かえってどうも怪しいよね。しをんのしおり(#269 札幌・小樽紀行)も、そのあたりにはまったく触れていないんだけど、触れていないからこそ書けないようなことがあったんじゃないかと、ちょっと心配。これは思い過ごしなのかなあー……。


 園主さま
 お帰りなさい! ずいぶん楽しんできたようですね(笑)。
 古本の収穫はなかったそうですけど、そこまで望むのは贅沢というものですよ。それに中井さんのサイン本を買ったんでしょ。すでに持ってるとはいうものの、そんな貴重な本を買っておいて、収穫がなかったなんて言っちゃあ、マズイですよ(笑)。まあ、園主さまとしては「俺の通 った後には、草木一本残さない」というようなつもりなのかも知れませんが……(^-^;)。

佐藤武 銅版画

 紹介されている絵、すてきですね。あの絵を買ったわけじゃないってことですけど、それは買った絵が、あれ以上に素敵だったってことですから、実物を拝見できるのが今からとっても楽しみです。 

 でも、こっちでも展覧会を開いてもらえないものかなあー。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


明かされた情報と伏せられた情報(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月31日(水)02時22分3秒


 ところで、先日「イラクのテロリストが、お金で子供を雇って、人間爆弾に仕立てた」というニュースが、(当然のことながら、アメリカ占領軍側からの情報として)世界に向けて報じられましたが、これは「いかにもアメリカ的だなあー」というのが、ボクの第一印象でした。きっと、同じように感じた人も少なくなかったことでしょう。もちろん、そういうことは絶対にありえないとまでは言わないけれど、その気のない子供を騙して「人間爆弾」にしたりすれば、同胞からの非難は免れないし、何より「正義の味方づらがしたいアメリカ」を喜ばせて「敵に利する」だけなんだから、ふつうはそんな「間抜けな作戦」立てたりはしないと、ボクは思うんです。
 でも、こんな、いかにも「お涙ちょうだい」のニュースを鵜呑みにして、「やっぱりテロリストは許せない!」なんて、単純に悲憤慷慨する人もいるんだろうなあー。やれやれ……。




 北の国から。さま
 はじめまして、ようこそいらっしゃいました!
 ボクはこのサイトで、園主さまの助手をつとめます、「ホランド」と申します。以後、よろしくお願いしますね(^-^)。

> 小樽文学館のイベント、昼食会、古本屋めぐり、楽しかったです。本多さんも三浦さんも気さくな方で、いろいろお話ができ、こころに残りました。残念ながら所用で中座しましたが、また機会がありましたら、お会いしてお話したいですね。

 小樽文学館のイベントだけじゃなくて、昼食会や古本屋めぐりまであったんですね。それには本多正一さんや三浦しをんまで、ご一緒だったとか。羨ましいかぎりです。

 でも、しをんさんは元古本屋店員だということで、うちの園主さまはベテランの古本マニアとして、しをんさんをなにやらライバル視(?)してたみたいですけど、古本屋めぐりが無事済んだようなので安心いたしました。掘り出し物は無かったようですけど、ボクにとっては、何も無かったことが何よりでした(笑)。 

 園主さまもご案内しておりましたとおり、うちのサイトもこの掲示板「アレクセイの花園」も特にテーマは設けず、「何でもあり」ですので、中井英夫や中城ふみ子の話題はもとより、古本自慢でも世間話でも何でも結構ですから、また気楽に書き込みに来てくださいね。お待ちしております!


 本多正一さま
> 3月28日を持ちまして北海道小樽市立小樽文学館で開催いたしておりました写 真展「彗星との日々-中井英夫との四年半-」を無事終了しました。(中略)これ以上はないかたちで昨年からの展覧会を閉じることができたと思いました。

 展覧会の成功、まことにおめでとうございました。この成果は、もちろん第一には中井さん生前のお仕事に帰するものなのでしょうが、でも、本多さまの頑張りが無ければ、今回のような形での成果 が得られなかったというのも、間違いのない事実だと思います。
 これからも、ボクたちが愛する中井英夫のためにご尽力下さいますよう、くれぐれもよろしくお願いいたします。





( 以下は「明かされた情報と伏せられた情報(下)」につづく)


明かされた情報と伏せられた情報(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月31日(水)02時21分20秒

 みなさん、こんばんは! 3月19日付け『読売新聞』の「編集手帳」が、あんまり「穴だらけ」かつ「手前味噌」な文章だったので、見かねてボクが朱を入れたのが、次の文章です。黒字の部分が、そのまま原文の全文ですので、読み比べてみてくださいね。

『テロ組織と対決するにあたってブッシュ大統領が側近に語った言葉を、米国の新聞記者、ボブ・ウッドワード氏が「ブッシュの戦争」(日本経済新聞社)に書き留めている◆「ある時点で(脱落せず)残っているのは我々のみかも知れない。それも結構。我々はアメリカだ」。その独善を個人的に笑うのは容易だが、ひとつだけ、はっきりしている。わが日本は米国の子分なのだから、米国がいかに道理にあわない独善を語ったとしても、我々はそれを笑える立場にはないということだ。むろん米国は独りでもイラク戦争を遂行していただろうが、そう断言することで、わが日本の選択を正当化することはできない日本が米国の立場に不支持を表明していたら、世界はどう変わっていたか。戦争の過程も終結の姿も、おそらくは何ひとつ変わっていない。」と断言したところで、日本の米国隷従が正当化されるわけでもない。日本が米国に従わなかった場合の変化といえば、日米間に生じる不信の溝だけはたしかであったろう。しかしそれは、正当な自己主張にともなう避けられないものだったはずなのだ◆米国に同調しなければテロの脅威はもっと小さかったかも知れないという推測は当っている。「傍若無人な米国を支援したばかりに、中東の人たちに憎まれてしまった…」と今さら嘆くのは、いささか情けない話だが、そこで間違いに気づくのは重要なことだ。しかし、米国追従を賛美してきた新聞などは、そうした反省を「テロリストの顔色をうかがい、命ごいをするにも等しい無益な繰り言だ」などと言うだろう。今や反省の必要が明らかになった過ちを、自分たちがこれまで正当化してきたという事実を認めたくないのだから、これは当然のことである◆核をもてあそぶ隣人がいる。それをにらみつけ、暴発を封じているのは、劣化ウラン弾など核廃棄物を仕組んだ爆弾や小型核兵器をイラクで実戦投入して、多くの人々を今も死にいたらしめている米国である。この笑うべき偽善。イラク戦争で小泉首相は米国との強調を選び、防衛を固める道を選んだ。その選択には、いかなる道義もなく、あるのは敗戦以来の飼い犬根性だけである。「大量 破壊兵器が未発見のいま顧みても、ほかの選択肢は浮んでこない」というのは、道義の無さを恥じない人間の言い種だが、こんな輩が今の日本人なのだろうかだれしも平和がいいに決まっている。罪もない子供が巻き添えで死ぬ 戦争を、好きこのんで支持する人などいない。」というのは、事実ではない。戦争になった方が金儲けができる。そのためにはよその国の子供の死などものの数ではない、という人間は確実に存在する。そんな輩がいなくならないからこそ、この世に戦争は絶えないのだ。独裁政権が倒されて、平和な民主国家がとうに築かれているはずだったイラクでは、今日も自爆テロが敢行され、まるで第2のパレスチナと化したかのようだ。開戦から、明日で一年になる。』






( 以下は「明かされた情報と伏せられた情報(中)」につづく)


(無題) 投稿者:本多正一  投稿日: 3月31日(水)01時34分57秒


 札幌と小樽へ行ってきた。札幌で働いている友人Iちゃんに会うためと、小樽文学館で三月二十八日まで開催されていた「本多正一写 真展 彗星との日々――中井英夫との四年半」を見るためである。(略)
 こうして着いた小樽は、古い建物がたくさん残るすごく素敵な街だった。写 真展は小樽文学館で開催されていたのだが、最終日のこの日は、本多正一さんの講演があるとあって、中井英夫の熱心なファンがずいぶん集まっていた。あたたかくいい雰囲気のなか、みんなで没後十年になる偉大な作家をしのぶ。小樽文学館は、常設展示物も丁寧な内容だし、古本交流コーナーや、コーヒーを飲んでゆっくりできるスペースもあった。本好きの観光客には、とてもおすすめの場所だ。
                   (三浦しをん「しをんのしおり」)

 3月28日を持ちまして北海道小樽市立小樽文学館で開催いたしておりました写 真展「彗星との日々-中井英夫との四年半-」を無事終了しました。最終日には中井英夫の生涯を映像で紹介、私と中井英夫の関わりを簡略ながらお話しし、さらに10年前の「中城ふみ子展」の際に発見されたふみ子の肉声が残されたテープを流すことができました。地元の結社同人たちとの座談会が記録されていて私もはじめて中城の肉声を耳にしたのですが、声の調子から発言の重みまでひとり格違いのふみ子の女王の吐息のような声が印象に残りました。
 また驚いたことに最終日には、中城ふみ子の孫にあたります厚美陽子さんが東京からひとりでおでかけくださいました。陽子さんによれば、昨夏急逝されたお母さま(厚美雪子さん)は、生前、ふみ子の話をすることはほとんどなく、今回はじめて『黒衣の短歌史』を手にしていろんなことを知ったのだそうです。ふみ子と中井英夫のやりとりを紹介したビデオの映像、中井中城の往復書簡が展示されたコーナーなどを眼を真っ赤にして熱心に見入ってくださっているまだ若い二十代の女の子の後ろ姿を見て、私もこれ以上はないかたちで昨年からの展覧会を閉じることができたと思いました。
 この場をお借りして今回の写真展「彗星との日々」「中井英夫・中城ふみ子往復書簡展」に全国各地からご来場くださいました多くの皆さま、最終日のトークショーの際、無理矢理指名してお話しいただいた三浦しをんさん、それから今回の企画を推進してくださいました小樽文学館の玉 川薫さんに心から御礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
 しをんさんも書いていますが、小樽文学館はとても素晴らしい文学館です。小樽を訪れる際には是非ともお立ち寄りください。


静寂の光、神秘の声 投稿者:園主  投稿日: 3月30日(火)22時10分53秒

 みなさま
本日の書き込みでご紹介いたしました佐藤武 銅版画のご案内を、INFORMATIONの方へアップさせていただきました。細密な銅版画ゆえ、案内ハガキからスキャナーで取り込んだ画像では、とうてい本物の繊細さは伝わらないものの、雰囲気くらいは感じていただけるのではないかと存じます。

会期が短うございますので、お近くの方はぜひ早めにお運び下さいまし。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


OTAKUに非ず、OTARUにて(5) 投稿者:園主  投稿日: 3月30日(火)17時37分3秒


 ホランド
>  園主さまの最初の本格的な論文『偉大なる夢への儚き抵抗 ――江戸川乱歩と戦争』が「いざという時に、知識人は信頼できるのか?」という問題意識に発して書かれたものであるということを考えたら、しをんさんの『ヘタレ』ぶり、あるいは「内心での自己の倫理観への嫌悪」とその「表明」という「不徹底」ぶり(覚悟のなさ)を、園主さまが肯定的にとらえるわけなんてないことは、容易にわかることですからね。

三浦しをんさんについての、おまえの評価には、おおむね同感だ。でも、

> (※ 三浦しをんの文章に対する)「評価を交えない分析」は、たぶん島田荘司さんに対する評価と大差のない「本音(評価)」から出たものなんだと思います。

というのは、かならずしも、そうとばかりは言えないと思う。

というのも、島田荘司は当初から「私は孤高だ」ということを(私と同様に)自身ハッキリと誇示している。なのに、実際にはそれが充分には為しえていないから、私はその「言行不一致」において、島田を厳しく評価するんだけれど、三浦しをんの場合は、自身を「厳格な倫理の持ち主」だと積極的に誇示しているわけではないから、その責めを負わなければならないというほどのことではないだろう。
無論、おまえも指摘しているように、倫理的であることを匂わせながら、しかしそれをハッキリを示さないというのは、一種の「逃げ腰」であり、その意味で狡いとも言えるだろう。そしてそうした「覚悟の無さ」という問題が、三浦しをんにはたしかに存在するとは思うけれども、そうした問題と、明白な言行不一致の問題とは決して同じではない。だから、私としては、そういう「弱さ」を指摘しつつも、若い三浦しをんには少しずつ強くなっていって欲しいと期待するんだ。――厳しいことも言うけれど、それは決して『「何も期待していない」「切り捨て、見放した」ということ』ではなく、宗方コーチの岡ひろみに対する「厳愛」のようなものだと思ってくれればいいだろう(笑)。

27、28日と、ご本人と会い、話もさせていただいたが、しをんさんは思っていたとおりの、小心で内気な、しかし真面 目で可愛い女性だった。だからこそ、「へたれ」ぶりを売り物にするような作家ではなく、もっと芯のしっかりした、本物の作家に成長してほしいとも思うんだ。エッセイを書いているだけなら、このままでも何とかなるだろうけれど、一流の作家に成長してもらうためには、やっぱり人間としての成長が欠かせないと、私は思っている。三浦しをんは、見掛けによらず不器用な人間なんだろうが、だからこそ人間として見るべきものがあるし、期待もして良いというのが、私の現時点での評価なんだよ。

> ここだけ読むと、なんだか園主さまって、案外モテるんじゃないかという印象を受けるんですけど、ホントのところ、どうなんでしょうか? ボクの知りうる範囲では、どうも……。
> じつは、どさくさに紛れて、ちょっとした自慢話をしてただけだったりして(笑)。

そりゃあ、私にも恋多き時代は存在した。例えば、幼稚園時代は、おなじ桜組の真理子ちゃんと恭子ちゃんの2人を同時に好きになってしまい、ちいさな胸を痛めたりもしたし、小学生時代には担任の好子先生を好きになったんだけど、先生はすでに既婚者だったんだ……。





それでは、みなさま、本日はこのへんで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


OTAKUに非ず、OTARUにて(4) 投稿者:園主  投稿日: 3月30日(火)17時36分12秒


 アーニャ
> さすがはアリョーシャ、『妄想炸裂』『月魚』『ロマンス小説の七日間』の3冊しか読んでない私やKeenさまとは圧倒的に情報量 が違う上に、よくぞここまで、というほどの読み取りね〜。

なにもかも……愛ゆえだよ、愛。

> まあ、アリョーシャったら、私にもナイショの「恋物語」があるのねー。よかったわ♪(^0^*

ぜんぜん無いとでも思ったのか!?

> フフ、甘いわね。
> このテーマについては、以前にも私とアリョーシャで「賢ちゃん恋物語シリーズ」で議論したことがあったけど、身体的構造からいっても、むしろ女性の方が「複数OK」なのよ。ただ、それを表に「見せない」だけよ。殿方は、バカ正直にバレバレですからねえ〜(笑)。

うん。まあ、ホランドの書いてたとおり、単純に「女性は男性とは違って云々」とは思っていない。でも、個別 の問題ではなく、一般的な「性別による心理的傾向性の違い」というのはあるんじゃないかと思っているんだよ。だから、その場合『身体的構造』というのは、あまり関係ないんだな。それに……『まあ、アリョーシャったら、私にもナイショの「恋物語」があるのねー。』なんて言ってるやつが、『殿方は、バカ正直にバレバレですからねえ〜(笑)。』なんていうのも、どうかと思うぞ(笑)。

> 結局、人は自分にないものに惹かれるわけだから、あるいは……(以下、自主規制)

残念だが、おまえの期待したようなことは何もなかったよ、当然のことだがな……。なにしろ、あちらはがぜん注目を集めている人気若手作家であり、他方こちらは名もなく貧しく美しい、一介の文学青年に過ぎないんだから。遠くから三浦さんの姿を、ため息をつきながら眺めていることしかできなかった。――ああ、身分の違いがうらめしい!!(と、日記には書いておこう/古っ……)

> 大森望・豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』(PARCO出版)
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3cc90d5451dd80102480?aid=02atnifty0001&bibid=02416690

なかなか面白そうな本だな。近いうちに買うことにするよ。

ちなみに『メッタ斬り』というのは、いささか疑わしいんだけれども、いずれにしろ、こんな本が出せたというのは、大森望が基本的には、一般 文学賞にもっとも縁のうすい「SF」の関係者だったからだろうな(それはジャンルこそ違え、共著者の豊崎由美も、基本的には同じ)。だから、この本で注目すべきは、大森がSF関係の賞をどんな風に評価するかだ。たとえば、2、3回に一度は、SFプロパー以外の作家のSF的話題作(井上ひさし『吉里吉里人』、大友克洋『童夢』(漫画)、荒俣宏『帝都物語』、椎名誠『アド・バード』、金子修介『ガメラ2』(映画)、宮部みゆき『蒲生邸事件』、庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(アニメ)、古川日出男『アラビアの夜の種族』)に賞をあたえ、世間の注目と賞の権威を確保しようとしてきた日本SF大賞を、どのようにどこまで語るかは、注目していいポイントだろうな。

> もっとも、アリョーシャならこの本自体を「メッタ斬り」しそうだけど(笑)。

大森が、公正な評価をしていれば、つまり「身内びいき」をしていなければ、いまさら『メッタ斬り』にすることもないだろう。なにしろ大森望については、ずっと前から「もっとも信用のならない(すぐに絶賛する)推薦者」だという評価を与えているんだから(笑)。





( 以下は「OTAKUに非ず、OTARUにて(5)」につづく)


OTAKUに非ず、OTARUにて(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月30日(火)17時35分10秒


 北の国から。さま
> 小樽文学館のイベント、昼食会、古本屋めぐり、楽しかったです。本多さんも三浦さんも気さくな方で、いろいろお話ができ、こころに残りました。残念ながら所用で中座しましたが、また機会がありましたら、お会いしてお話したいですね。

本当にみなさまとの交流の時間が持てたことは、私もたいへんうれしゅうございました。本多さまや三浦さまのようなプロ作家の方とお話できるのは、もちろん貴重なことなのでございますが、こういう機会でもなければ交流することもなかったであろう遠方のみなさまの、それぞれに熱心な思いをお聞かせいただけたのは、とても貴重な体験であり、なにやら心が暖まるような思いがいたしました。

> 札幌の古本屋のおすすめ、マニアックなところではケルン書房(北区北8西5)ではないか、と思います。駅の北口から近いので、時間があれば寄ってみてください。

行ってまいりました。たいへん品揃えがよく、本も整理されていて、店に入った瞬間「おお!」と声をあげたくらいでございます(笑)。しかし、前述しましたとおり、ここ(北海道)まで来た甲斐があったという程の珍しい本や掘り出し物はなく、でも、せっかく来たのだからと、『中井英夫作品集』(サイン入り)と『薔薇幻視』、それに読むための本として中野美代子の旧著『中国人の思考様式』、さらに『薔薇の名前』(ジャン=ジャック・アノー監督)の中古ビデオを購入いたしました(笑)。

本当に、また機会があれば、ぜひお会いしてお話したいものでございます。北海道は当分無理にしても、東京までなら年に2、3回は出掛けますので、その折りにでもご一緒できれば幸いでございます。連絡先の交換をうっかり失念しておりましたが、ぜひこちらまでご連絡下さいまし。

ともあれ、このサイトと掲示板は見てのとおり、テーマの限定は設けておりませんので、どんなことでも結構でございますから、気楽に書き込みにお出でいただければ幸いでございます。

またのお出でを心よりお待ちしております。今後ともよろしくお願いいたします。





( 以下は「OTAKUに非ず、OTARUにて(4)」につづく)


OTAKUに非ず、OTARUにて(2) 投稿者:園主  投稿日: 3月30日(火)17時33分45秒


小樽に着いてからは、憧れの三浦しをんさまにお会いすることも出来、サインをいただくことも出来て、たいへん楽しい時間を過ごすことができました。
すでにご報告いたしましたとおり、翌28日の小樽文学館における『彗星との日々 ― 中井英夫との四年半』本多正一写真展・閉幕イベントも、大勢のファンが集まって、アットホームな楽しいものとなりましたし、文学館の展示は、今回の写 真展はもとより、小林多喜二や伊藤整を中心とした地元作家に関する常設展も、地方の公設文学館とは思えない充実した内容で、文学館スタッフのこだわりをひしひし感じさせる、たいへん素晴らしいものでございました。また文学館と同じ建物に入っております小樽美術館もなかなか楽しい展示内容で、思い掛けない眼の保養をさせていただきました(特に、ポール・デルボーを思わせる小平るり子の作品と、白江正夫の風景画が、個人的には面 白うございました)。みなさまも小樽にお立ち寄りのおりには、ぜひ小樽文学館および美術館にお立ち寄りくださいまし。

さて、初日、2日目と文句無しの内容でございましたが、ゆいいつ残念だったのが「古本の収穫」でございました。2日目にまわった小樽では、古本屋自体がすくないとあって、収穫はなくとも致し方ないという感じだったのでございますが、昨(29)日は(時間がなくて、琴似と札幌・北大前の古本屋しかまわれなかったものの)7軒ほどの古本屋をまわり、品揃えのわるくない本屋も3軒ほどありながら、これといった収穫がなかったのは、何とも無念でございました。何か一冊でも「おおこれは!」というようなものがあれば良かったのでございますが。

しかしその一方、小樽文学館に置かれていた案内状に惹かれて、たまたま昨日から開催されていた、未見の画家 佐藤武の展覧会(銅版画展)に行きましたところ、その「静謐な幻想性」にいきなり魅了されてしまい、その場で版画を一枚購入できたのは、思わぬ 収穫でございました。
この画家、本来はアクリル作品を描くそうなのでございますが、今回は版画作品のみでしたので、絵を郵送してもらうのに併せて、各種資料も送っていただく手はずとなっております。画廊に掲示されていた経歴は、その絵の魅力や画家の年齢からすると、いささか不当におとなしいもののようございましたが、逆に言えば、これはまだまだメジャーとはいえない才能ある作家を、自分の眼だけで見つけてのだ、とも(主観的にはそう)申せましょう。
今回の銅版画作品は、西欧の塔やオリエンタルな城館と空をモチーフにしており、その「静謐な幻想性」を言葉にすることは困難でございますが、たとえばこの版画を本の装丁に使うとすれば、小川国夫あたりにぴったりなのではないかという、そんな画風でございました。

ともあれ、総じて言えば、2泊3日の短い旅行とは言え、内容は豊富で充分に楽しんでくることができました。三浦しをんさまは、前掲のエッセイに、今回の旅を『楽しくて内容の濃い旅だった』と書かれておりましたが、それは私もまったく同感でございました。





( 以下は「OTAKUに非ず、OTARUにて(3)」につづく)


OTAKUに非ず、OTARUにて(1) 投稿者:園主  投稿日: 3月30日(火)17時32分49秒

みなさま、私、昨夜無事に帰阪いたしました。
ご存じのとおり、私が出発したのは27日の午後。初めて自分一人で飛行機に乗りましたので、「これで日本全国、どこへでも行けるぞ」と心を強くしたものでございます(笑)。なにしろ、無類の面 倒くさがり屋である私は、興味のない新しいことには、めったなことでは手をつけられず、飛行機に乗るための手続きも、おのずとたいへん面 倒に感じていたのでございます。頭では「国際線は、電車と一緒らしいから、大したことはないだろう」と理解していながら、切符を買えばどの電車にでも乗れる(間違って反対方向へ向かう電車に乗っても、途中で適当に引き返して来れる)電車とは違って、飛行機は基本的に乗り遅れや乗り間違いが出来そうにないので、なんとなく「面 倒だなあ」と思っていたのでございます。

飛行機のなかでは、再読中だったウンベルト・エーコの『エーコの読みと深読み』(岩波書店)をずっと読んでおりました。先般 、取り上げた「存在しないものを見てしまう眼」の問題をさらに検討すべく、古本屋で見つけたのを好機として、十年くらい前に読んだこの本を再読したのでございます。

新千歳空港からJRで小樽へ向かう間も、ひたすら読書に没頭。旅行中の車内・機内でも「本を読んでいるか、寝ているか」という私は、途中、車窓から見た景色にも「さすがに雪が残っているんだな」とか「空が広いなあ」とか「建物に年代物が多いなあ」というのを確認した程度でございました。線路の右側に「海らしきもの」が開けた時も「これは海だろうか? 湖なんだろうか?」などと考えました。

このあたりの風景について、お馴染みの三浦しをんさまはしをんのしおり(#269 札幌・小樽紀行)のなかで、次のように描写しておられます。

『 札幌から小樽へ向かう函館本線の車窓で最大の見どころは、突然右手に大海原が開けるところだろう。たとえば江ノ電も、民家のあいだから唐突に海沿いへと出る。以前から、「狙ったわけではないだろうあ、見事な演出効果 だなあ」と感心、感動しきりだったのだが、函館本線の場合は、より激しく魂を揺さぶられる。見えるのが冬の日本海で、しかも線路と海とのあいだに、江ノ電みたいに大きな国道が走っているわけでもないからだ。電車のすぐ横が、もう広大な海なのだ。
 白いカモメが強風に乗り、灰色の空と緑灰色の海のあいだを漂っている。波は荒い。水平線まで、鋭い波濤がうねっている。遠くの波頭は小さいから、その細い白が飛んでいるカモメのようにも見える。空と海はまじりあい、反転し、その狭間を電車は走っていく。
 私は一人で、「うおー」「ひゃー」などと感嘆した。観光客まるだしの反応だ。』

たぶん、三浦さまが私と同じ列車に乗っていたならば、私はさぞや「落ち着き払った、地元の乗客」と映ったことでございましょう。しかし、どちらがまともな反応であるかは、もはや論を待ちません。なにしろ私は『海のある奈良に死す』の作者に「奈良に、海って無かったでしたっけ?」などと訪ねる地理オンチの関西人でございますから、当然、新千歳が北海道のどのあたりにあり、小樽がどのあたり・どの方向に位 置しているのかまったく理解しておらず、さらに小樽が海運にかかわって発展した街だということも知らなければ、なんとなく「北海道は海の国」という大雑把な印象しか持っていなかったのでございます。
したがいまして、「空港は都心から離れた端っこの方にあり、電車は街に向かって走っていくのだから、海に出るのではなく内陸に向かっているはずだ。したがってこれは琵琶湖と同様の、内陸の大きな湖ではないか? 屈斜路湖とか?」などと漠然と考えていたのでございます。しかし、「北海道は海の国」であれば、街は港として栄え、空港が置かれるべき「端っこ」とは、理の当然として内陸部であるはずなのでございます。ですから、論理的に考えれば、内陸部から海沿いにむかって走っているとわかったはずなのでございますが、そこはそれ。「興味のないことには、指一本動かせない」私でございますから、そうした思考も見事にまったく働かなかったのでございます(^-^;)。




( 以下は「OTAKUに非ず、OTARUにて(2)」につづく)


楽しうございました。 投稿者:北の国から。  投稿日: 3月28日(日)22時29分2秒

 小樽文学館のイベント、昼食会、古本屋めぐり、楽しかったです。本多さんも三浦さんも気さくな方で、いろいろお話ができ、こころに残りました。残念ながら所用で中座しましたが、また機会がありましたら、お会いしてお話したいですね。札幌の古本屋のおすすめ、マニアックなところではケルン書房(北区北8西5)ではないか、と思います。駅の北口から近いので、時間があれば寄ってみてください。ではでは。


ただいま小樽文学館 投稿者:園主  投稿日: 3月28日(日)17時40分2秒

 みなさま
ここ小樽文学館で開催されておりました『彗星との日々 ― 中井英夫との四年半 ―』本多正一写真展が、本日さきほど終了いたしました。
本日午前10時30分から行われた閉幕イベントには、大勢のファンに交じって、中井英夫ファンの若手作家 三浦しをんさんや、中井が見い出した歌人中城ふみ子のお孫さんもお出でになり、たいへんアットホームな楽しいイベントになりました。

私、その後は小樽の古本屋を素見して、さきほどこちらへ舞い戻ったところでございます。古本については特に収穫というほどのものはございませんでしたが、明日は本命(?)の札幌を攻略の予定でございます(笑)。





それでは、みなさま、帰阪いたしましたら、またご報告をさせていただきますので、本日はこのあたりで失礼いたします。





ちょっとしたニュース速報。 投稿者:アーニャ  投稿日: 3月26日(金)11時20分33秒

オンライン書店bk1で、面 白そうな本が紹介されてるわ。

大森望・豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』(PARCO出版)
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3cc90d5451dd80102480?aid=02atnifty0001&bibid=02416690

もっとも、アリョーシャならこの本自体を「メッタ斬り」しそうだけど(笑)。

なお、bk1トップの「今日のオススメ」には、あさのあつこ『バッテリー』(角川文庫)が紹介されてるわよ♪
ここには以前にも、三浦しをん『妄想炸裂』(新書館ウイングス文庫)が出てたことがあって、もしかしたらアリョーシャが担当してるんじゃないかと疑ってみたり(笑)。
ま、それだけ話題の本ってことよね〜。

それでは皆さま、ごきげんよう。にゃあ〜♪


倫理の拠り所(7) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時41分26秒


 アーニャ
> まあ、アリョーシャったら、私にもナイショの「恋物語」があるのねー。よかったわ♪(^0^*
> ホランドくんがどう思うかは、知らないけど☆(含笑)

 ボクが焼きもちでも妬くと思った? 小説の読み過ぎだよ(笑)。

> フフ、甘いわね。
> このテーマについては、以前にも私とアリョーシャで「賢ちゃん恋物語シリーズ」で議論したことがあったけど、身体的構造からいっても、むしろ女性の方が「複数OK」なのよ。ただ、それを表に「見せない」だけよ。殿方は、バカ正直にバレバレですからねえ〜(笑)。

 どうかなあー。園主さまも「本質的には、男女に差異はない」と考えつつも、決定的な証拠がない以上は、ひとまずフェミニストとして、女性を「男性よりは倫理的な存在」であると、意図的に持ち上げているんじゃないかな。少なくとも「浮気女」がいないなんて「非現実的な認識」は持っていないと思うよ。ただ、そうしたいくつかの事例をもって、「男も女も同じだ」と乱暴に論じることは、男性批評家として慎重に避けているということなんじゃないかな。

> 結局、人は自分にないものに惹かれるわけだから、あるいは……(以下、自主規制)
> 出発がもうすぐね、気をつけて行ってらっしゃい!(^0^*

 ボクもそう思うよ(笑)。しをんさんって、媚びない相手に案外……(以下、自主規制)。だって、『ブタさん』なんて呼ぶ弟さんを、たいそう可愛がっているみたいだし(笑)。


 園主さま
> 例えば私は、「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」なんてことをしたけれども、じつは自分でも同じようなことをやっている。もちろん、頭ではそれはいけないことだと考えつつ、つい欲望に流されてしまう。相手が嫌がっているのなら、あえてそれを追っかけるような不様な真似は、私の高すぎるプライドがそれを許さないけれど、相手が好きこのんで近づいてきて、しかも私自身、相手を憎からず思っていれば、私は倫理的な理由だけでそれを拒絶することが、必ずしも完全にはなし得ないんだ。つまり、平たく言ってしまうと、私は二人とでも三人とでも恋愛関係を結ぶことができるし、人妻でも相手と状況次第ではそうなることもあるだろう。そうした意味で、私はとても「凡庸な男」なんだ。

 ここだけ読むと、なんだか園主さまって、案外モテるんじゃないかという印象を受けるんですけど、ホントのところ、どうなんでしょうか? ボクの知りうる範囲では、どうも……。
 じつは、どさくさに紛れて、ちょっとした自慢話をしてただけだったりして(笑)。

 明後日が、北海道旅行への出発日ですよね。気をつけていってらっしゃい!
 しをんさんによろしくね!(笑)





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


倫理の拠り所(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時40分37秒


 もちろん、プロの作家であり続けること、周囲の期待を裏切らないでおこうとすることは、とっても大変なことだとは思います。でも、「小説」であれ「エッセイ」であれ、それが『天帝に捧げる果 物、一行でも腐っていてはいけない。』という中井英夫の言葉をまじめに考えるのなら、「周囲の期待」の故に「自己を曲げる」ことの責任を、自分のこととして、もっと真剣に考えるべきだと思うんですよね。その同じことを、園主さまは、FIVEPLACESさまへのレスに、こう書かれています。

>> 島田荘司が直木賞候補になっているのは承知していました。これは自分のためというより担当編集者のためだったと私は解釈したいのですが(出版社のことを考えて、吉敷シリーズを立ち上げたという過去もありましたし)、これはファンの贔屓目かもしれません。(<FIVEPLACESさま)

> そうでございますね。たしかにこれから売り出そうという作家が、個人的な信念だけで、世話になった編集者や出版社の期待を裏切るというのは、大変に困難なことだと存じます。
> しかし、もともと、「孤高」であろうとすることは、時に「非人情」であり「不義理」だと映るくらいの覚悟が無くては、到底できないことなのでございますね。

 この『「孤高」であろうとすること』を「倫理的であろうとすること」と置き換えれば、三浦しをんさんの場合(の「ジレンマ」)にも当て嵌まるでしょう。

 ともあれ、園主さまの、

> しをんさんは「非人間的」「非人情」であることを『むなしい』『つまらない』とした。だが、「非凡」でありたい私としては、「世俗的な情や欲望」に流される態の「人間的」だの「人情」だのは、まったくつまらない。だから、そうしたものを顧慮しないからといって、「不義理」だ『卑怯者』だ『偽善的』だと言われても、ほとんど痛痒は感じない。私は意志して、そういうレベルを踏み越えようとしてきたんだからな。

 こうした言い切り方のなかには「泣いて馬謖を切る」的な、「反・人間的」であることに対する「悲愴な覚悟」が表れていると思いますし、それは自身「天帝に捧げられた供物」たらんとする者の「覚悟の表明」であり、……「強がり」なんだと思います。

 以前、園主さまは、竹本健治さんの『ウロボロスの基礎論』に登場する、「(ニールス・ボーアの姿を借りて登場した)人間に関与しない神」という存在に言及して「私は現実的には無信仰者であり唯物論者であるけれども、遠くで見守っているだけの神というようなものは、あるいは信じているのかもしれない」というようなことを書かれていました。
 何をしてくれるわけでもないけれど、ただその人の生きざまを見守ってくれているような存在を感じることで、園主さまの「倫理」は、「孤高」であることを支えられているんでしょう。これが矛盾した表現であることはボクも承知しているんですが、人間とは「弱い」存在であり、弱い存在が強くあるためには、そういう「個人的な、倫理の拠り所」はあっても良いと、ボクは思います。そういう愛すべき「個人的な、倫理の拠り所」のために、自身を『一行でも腐って』はいない「天帝に捧げられた供物」たらんとするのなら、それは少しも偽善的ではないんじゃないか。むしろ、本来「倫理的」であるということは、そういう「見返りを与えない、愛すべきもの」への「献身精神」を言うのかも知れないなと、ボクはそう思うんです。





( 以下は「倫理の拠り所(7)」につづく)


倫理の拠り所(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時39分35秒


 ここからはボクの意見なんですけど、例えば、しをんさんは5年以上しをんのしおりを書かれているんですが、そのなかで「政治」の問題を取り上げたことがあるんでしょうか? サイトにアップされたものをぜんぶ読んだわけじゃないから確かなことは言えませんけど、少なくとも単行本に収録されたものには、そういうものは、基本的になかった。あったとしても、ことのついでにちょこっと言及した程度で、それが主題となるものは一つもなかったと思います。

 しをんさんの「倫理的」な発想からすれば、これはとても不自然なことでしょう。「9.11」以降、国内外共にいろんな問題が噴出しているというのに、それに気がつかないわけがないし、気がついていれば一家言ないわけがありません。なのに、現実にはそれらしい意見表明がないのは、なぜか? ――たぶんそれは、しをんさん自身の「配慮」か、しをんさんのエージェントである「ボイルド・エッグス」サイドの意志が働いているかだと思います。つまり「三浦しをんの読者は、三浦に政治的な発言なんか期待してはいない。むしろ、そうした現実から逃避するための、平和でオタクなお気楽なお話を期待している。だから、三浦の既成イメージをを揺るがす、政治問題への関与はタブーである」というようなことですね。

 もちろん、しをんさんが『「9.11」以降、国内外共にいろんな問題』の存在に「まったく気づいていない」とか、「気づいてはいても、それについて考え発言する必要性を感じていない」というのなら、それは三浦しをんという人間が「それまでのものであった」、しをんさんは自分が嫌悪し抜いたあの「K談社の面 接官の編集者」、つまり中井英夫を読まずに、

『「売れないなあ」
 探偵小説界にその名を残し、孤独の中で真摯に自分の美的世界を表出しようとしてあがき続けた偉大な小説家を、横合いから口を挟んだニヤけた野郎は一言で片づけた。絵に描いたような俗物ぶり(中略)。売れる売れないだけで物事を論じて、よくも出版社で働いていられるものだ。』

と『格闘する者に○』の作者に評された、無知で問題意識のない『売れる売れないだけで物事を論じ』る『俗物』と「大差ない」ということで、チョンでしょう。

 でも、しをんさんは大西巨人さんの『深淵』を取り上げて、真摯に思考し抜くことの大切さを賞揚するような人なんですから、本来そうであるわけはないんです。
 ボクは、しをんさんの「倫理性」は決して演技などではなく、本物だと思っています。でも、それは「人並みに、弱い」んだとも思います。だから、「書きたい」と思っても、読者やエージェントの意向を顧慮して、筆を止め、無理をしてでも「面 白おかしい」話を書いてしまう。

 でも、こういうことをやっていれば、もともと「倫理的」なしをんさんは、ご自身に「偽善性」を感じないではいられないでしょう。だから、最近は「シンプルに倫理的であること」ができず、むしろご自分の惰弱な倫理性を責めることとなり、それが嵩じて、財前の「自己中心的」な「自由さ」に惹かれるなんてことにもなったんだと思います。

 でも、財前の「自己中心的」な「自由さ」なんてものは、決して憧れを感じるようなレベルのものでないことは、明らかだと思います。だって、ああいうのを肯定できるんだったら、しをんさんは「欲しいものは、どんな手を使ってでも手に入れ、他人の痛みなど顧みない」アメリカ帝国にだって憧れられるでしょうからね。

 しをんさんが本来そういう人でないことは、園主さまだって、みなさんだってわかっていると思います。なのに、しをんさんは、現実のまえに屈従を強いられているからこそ、おかしな倒錯的願望に捕われるんだと、ボクは思うんです。





( 以下は「倫理の拠り所(6)」につづく)


倫理の拠り所(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時37分0秒


 園主さまは、FIVEPLACESさまへのレスに、

> その意味で、島田荘司は「普通の人」でございました。しかし、それは杜子春と同様、決して責められるべきことではないのでございます。

と、一見自分も島田荘司を「容認している」かのようなことを書いておられましたけど、ホントはこれは、すっごく厳しい言い方だということが、ボクにはハッキリわかります。
 つまり、園主さまがここでおっしゃってるのは「君も所詮は俗物なんだよ。だから、それを俗物どもが責める権利はないし、じじつ責めることもないだろう。だから安心したまえ。君にはそのような位 置が、分相応なんだから」ということなんですね。つまり「何も期待していない」「切り捨て、見放した」ということなんです。

 だから、三浦しをんさんに対する、

> (※ 三浦しをんさんご本人は、倫理的な里見に否定的感情を持つその理由を)『結局、里見先生の偽善的な潔白さに、ちょっと自分のありように通 じるものを感じるから』だろうと分析している。逆に言えば、しをんさんが「自己中心的」な財前に惹かれるのは、自分にはない「自由さ」を、彼に感じるからなんだろうな。

という「評価を交えない分析」は、たぶん島田荘司さんに対する評価と大差のない「本音(評価)」から出たものなんだと思います。そしてそうした評価が、

> そんなわけで、しをんさまの立ち場は(いかにも女性的に)佐枝子の投影された「人に愛されたい者の立ち場」だと言えるだろうが、私の立ち場は(いかにも男性的に)「天に愛されたい者の立ち場」だと言えるだろう。そうした意味で、私としをんさんとの恋愛感は、似ているようで、じつは対称的だと言ってもいい。また、こうした根本姿勢の違いが、Keenさまのレスにも書いたとおり、私の「残酷さ」と、しをんさんの「ヘタレ」ぶりに、対称的に顕われているんだと思う。

という結語に表れているんでしょうね。
 園主さまの最初の本格的な論文『偉大なる夢への儚き抵抗 ――江戸川乱歩と戦争』が「いざという時に、知識人は信頼できるのか?」という問題意識に発して書かれたものであるということを考えたら、しをんさんの『ヘタレ』ぶり、あるいは「内心での自己の倫理観への嫌悪」とその「表明」という「不徹底」ぶり(覚悟のなさ)を、園主さまが肯定的にとらえるわけなんてないことは、容易にわかることですからね。





( 以下は「倫理の拠り所(5)」につづく)


倫理の拠り所(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時36分23秒


 ここでは「平凡な男の発想」を例に取りましたけど、でもこれは、何も「男」に限ったことではないんですよね。「平凡な人間」というものは、男女を問わず、自分に課すべき「倫理」を「周囲を見回して」設定するものなんです。で、そうした「自分の責任を自分で担おうとはしない、言い訳がましさ」が、園主さまには我慢ならないんでしょう。―― 自分一人で決めたことなら、自分一人で責任を負わなければならない。でも、みんなと同じことをやっておれば、たとえそれが「間違ったこと」であっても、「みんなやってるじゃないか」と言い訳ができるし、また「同類」からの「同情」も得られるであろう――という種類の発想が、園主さまには我慢ならないんでしょう。

 そうした意味で、たぶん園主さまは、三浦しをんさんの、

> 「里見の佐枝子に対する態度(選択)」を、どう評価するか、ということだ。しをんさんはこれを『むなしい』『つまらない』『卑怯者』『偽善的』だから『嫌い』だと評価した上で、その理由は『結局、里見先生の偽善的な潔白さに、ちょっと自分のありように通 じるものを感じるから』だろうと分析している。

という評価について、とっても批判的なんだと思います。
 里美の「倫理的な選択」をさんざ否定した上で、しかしその理由を「自分に似ているからだろう」という説明は、園主さまの基準から言えば、二重に「言い訳がましい」ということになるんだと思います。

 つまり、里美の「倫理的な選択」に対するこのような否定は、「俗情」にそったものだと言えるでしょう。その意味でこれは、園主さまにとっては、まず「ダメ」な発想です。しかし、それだけだったなら「所詮はその程度のもの」で済むんですが、しをんさんの場合は、その「俗情との結託」を「自己の倫理観の裏返し」だと自分で書くことによって、自分を「俗物」と同一視されないように「言い訳」してしまってるんです。だから「質が悪い」んですね。

 「他人の倫理性」を非難すれば、その人は「反・倫理的」な人間と評価されてしまい、一定の責任を負わされます。つまり、自分が他人から「反・倫理的」な仕打ちをうけても文句が言えなくなる、ということですね。ところが、しをんさんは「自分の倫理性に嫌悪を示す」という形式で「倫理的であること批判している」から、「自己に厳しい」という「倫理的な人」だと「好意的」に理解(誤解)されてしまいがちなんです。でも、これは園主さまに言わせれば、たぶん、単に「言い訳がましい」だけであり、「自分の発言の責任を、自分で担う覚悟がない」ということになってしまうんですね。





( 以下は「倫理の拠り所(4)」につづく)


倫理の拠り所(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時34分31秒

 では、園主さまは、どうしてそこまで「平凡に人間的であること」「人間的な弱さに安住すること(それを自己容認してしまうこと)」を拒絶するのでしょうか。その理由のひとつは、園主さまの『高すぎるプライド』の存在ということに求められると思います。

 この言葉は、一見すると自己のプライドを否定的に見ているかのようですが、決してそうではありません。これは「平凡」である「平均」や「一般 」に比較すれば、自己のプライドが、明らかに「高い」ものであるし、それが「平凡」「平均」「一般 」の側から見れば『高すぎる』と映るんだろうな、ということ言っているだけなんですね。つまり自己「否定的」なのではなく、相手の視点まで見越した上での「客観的」な評価なんです。

 では、園主さまが持ち得ない「普通のプライド」っていうのは、どういうものなんでしょうか? それは「平凡な人間にできないことなら、自分ができなくても、それを恥じない」逆に言えば「多くの人がやっていることなら、それを自分に許す。あえて自制する必要を認めない」と考える人の「プライド」です。
 つまり男性なら「二股をかけるくらい、当たり前だ」「不倫だって、バレなければ良い」「欲しいものは力ずくで手にいれろ。その際、他人を泣かせることになっても、そいつは負け犬なんだから顧みるには値しない」というような考えを持つ『普通 の人』「普通の男」の「プライド」です。
 建て前はともかく「本音」で言えば、「普通の人」たち、特に「普通の男」は、こういう発想を否定しません。それどころか、自分が「泣かされる側」にまわる怖れがない限りは、こうした発想を積極的に自己に許してしまうでしょう。だから、こうした発想は、「世俗的な」レベルでは、その存在を許されないほどに徹底して糾弾されることは、まずないんです。

 でも、園主さまは『高すぎるプライド』を持っているから、「他の人」がどうだから「自分も」それで良いんだ、という種類の発想は好みません。「あいつらと同じでは嫌だ」と考えるから、自ずとその意見は、

> つまり、私は徹底したエゴイストなのだろう。問題は「何が、私にとって、最良の(正しい)選択なのか」であり、他人がそれをどう思うかではないんだ。

ということになるんだと思います。





( 以下は「倫理の拠り所(3)」につづく)


倫理の拠り所(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月25日(木)19時31分35秒

 みなさん、こんばんは! 園主さまが書かれていた『人間的と反・人間的』(3/22)を読みながら、ニヤニヤしたり苦笑したりしていました。こう言っちゃあなんだけど、こんな「露悪的」な文章もひさしぶりなんじゃないかなあー? 長年つき合っている友人としては、園主さまのおっしゃりたいことは、よくわかるんですが、あの文章はなかなか伝わりにくいもののように思います。例えば、園主さまは、

> しをんさんは「非人間的」「非人情」であることを『むなしい』『つまらない』とした。だが、「非凡」でありたい私としては、「世俗的な情や欲望」に流される態の「人間的」だの「人情」だのは、まったくつまらない。だから、そうしたものを顧慮しないからといって、「不義理」だ『卑怯者』だ『偽善的』だと言われても、ほとんど痛痒は感じない。私は意志して、そういうレベルを踏み越えようとしてきたんだからな。

と、かなり厳しく「平凡に人間的であること」を拒絶していますよね。
 ここだけ読むと、なんだかすっごく厳格で怖いような印象を受けるんだけど、でもこれは園主さまの現在がそうだから、「そうだ」と言っているわけではないんですよね。たぶん、そこらあたりが誤解されやすいんじゃないかな。

 たしかに園主さまは「平凡に人間的であること」を拒絶したいんだと思います。でも、現実には「平凡に人間的であること」をなかなか乗り越えられない。その事実として、

> 私は、「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」なんてことをしたけれども、じつは自分でも同じようなことをやっている。もちろん、頭ではそれはいけないことだと考えつつ、つい欲望に流されてしまう。相手が嫌がっているのなら、あえてそれを追っかけるような不様な真似は、私の高すぎるプライドがそれを許さないけれど、相手が好きこのんで近づいてきて、しかも私自身、相手を憎からず思っていれば、私は倫理的な理由だけでそれを拒絶することが、必ずしも完全にはなし得ないんだ。つまり、平たく言ってしまうと、私は二人とでも三人とでも恋愛関係を結ぶことができるし、人妻でも相手と状況次第ではそうなることもあるだろう。そうした意味で、私はとても「凡庸な男」なんだ。

という告白をしています。でも、それを好しとはしない。「平凡に人間的であること」つまり「人間的な弱さに安住すること(それを自己容認してしまうこと)」を好しとはしていない。だから、

> そんな私だからこそ、意志的・倫理的に厳格で、それが非凡なまでに徹底している大西巨人に惹かれるんだ。自分には不足している部分がそこにあるからこそ、私は大西巨人に惹かれるんだ。そしてそれは大西巨人自身も同じで、大西は、あるエッセイの中で「公の場所で泥棒はいけないと書けば、自分が泥棒をするわけにはいかなくなる。だから私は自戒の意味も込めて、あえてそれを人前で公言するんだ」という主旨のことを書いている。つまり、大西巨人は「人間的な弱さ」を乗り越えんがために、自らに『意志的・倫理的に厳格で、それが非凡なまでに徹底している』という苦役を課した「先達」なんだ。そして、その大西があそこまでやっているんだから、私だってそこまでは頑張りたい。「非凡」でありたい、と願うんだよ。

ということになるんでしょう。





( 以下は「倫理の拠り所(2)」につづく)


誠くん、見事な分析だ! 投稿者:アーニャ  投稿日: 3月25日(木)16時04分29秒

さすがはアリョーシャ、『妄想炸裂』『月魚』『ロマンス小説の七日間』の3冊しか読んでない私やKeenさまとは圧倒的に情報量 が違う上に、よくぞここまで、というほどの読み取りね〜。
それに私は、「つねに妄想一筋」なのは、むしろKeenさまの方だと思うわよ(笑)。

>例えば私は、「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」なんてことをしたけれども、じつは自分でも同じようなことをやっている。もちろん、頭ではそれはいけないことだと考えつつ、つい欲望に流されてしまう。相手が嫌がっているのなら、あえてそれを追っかけるような不様な真似は、私の高すぎるプライドがそれを許さないけれど、相手が好きこのんで近づいてきて、しかも私自身、相手を憎からず思っていれば、私は倫理的な理由だけでそれを拒絶することが、必ずしも完全にはなし得ないんだ。つまり、平たく言ってしまうと、私は二人とでも三人とでも恋愛関係を結ぶことができるし、人妻でも相手と状況次第ではそうなることもあるだろう。そうした意味で、私はとても「凡庸な男」なんだ。

まあ、アリョーシャったら、私にもナイショの「恋物語」があるのねー。よかったわ♪(^0^*
ホランドくんがどう思うかは、知らないけど☆(含笑)

>よく女性の側から「どうして男の人は、同時に複数の女性を好きになったりすることできるのだろう」と非難をこめての疑問を呈されることがあるけれど、私の実感からすれば、それは現実として認めざるをえない事実だと思う。そして逆に、私は、女性のこうした物言いから「多くの女性にはそれが不可能なんだろうな。男と女とは、やっぱり造りが違うんだろうな」と考えるんだ。

フフ、甘いわね。
このテーマについては、以前にも私とアリョーシャで「賢ちゃん恋物語シリーズ」で議論したことがあったけど、身体的構造からいっても、むしろ女性の方が「複数OK」なのよ。ただ、それを表に「見せない」だけよ。殿方は、バカ正直にバレバレですからねえ〜(笑)。

>そんなわけで、しをんさまの立ち場は(いかにも女性的に)佐枝子の投影された「人に愛されたい者の立ち場」だと言えるだろうが、私の立ち場は(いかにも男性的に)「天に愛されたい者の立ち場」だと言えるだろう。そうした意味で、私としをんさんとの恋愛感は、似ているようで、じつは対称的だと言ってもいい。また、こうした根本姿勢の違いが、Keenさまのレスにも書いたとおり、私の「残酷さ」と、しをんさんの「ヘタレ」ぶりに、対称的に顕われているんだと思う。

結局、人は自分にないものに惹かれるわけだから、あるいは……(以下、自主規制)
出発がもうすぐね、気をつけて行ってらっしゃい!(^0^*

それでは皆さま、ごきげんよう。にゃあ〜♪


人間的と反・人間的(7) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時41分9秒


 ホランド
> 最近すっかり「フジ・産経・正論」系のイデオローグになっちゃってる、乱歩賞作家の井沢元彦さん

ふと思ったんだが、最近「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーをはじめとする「愛国・右寄りイデオローグ」たちの影が、薄くなってきてるんじゃないだろうか?
と言うのも、最近はこうした人たちの発言よりも、日本政府の推進している現実の政策の方が、よほど過激に「右旋回」であり、理論屋たちはすっかりその影に隠されてしまったような印象を受けるんだ。

なかには、小林よしのりのように、政府(の自衛隊にたいする扱い=イラク派兵)を批判する側に回ってしまったりする者も出てきており、今さらながら、彼らは自分たちのナイーブなナショナリズムが、時の権力者たちによって良いように利用されたこと、用済みの後は、あっさりと捨て去られようとしている現状に、気づきはじめているのではないだろうか?
彼らは、善かれ悪しかれ本気で「愛国」ということを語ったのかもしれないけれど、権力者たちの語る「愛国」とは、「彼らの権力の源泉としての国、を愛する」ということであって、「日本国民全体のための国、を愛する」ということではなかった、ということに、彼らも遅まきながら気づきはじめたんじゃないかなあ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


人間的と反・人間的(6) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時40分29秒


 アーニャ(つづき)

つまり私はもともと、財前的に「凡庸な、欲望に忠実な人間」なんだ。ただ財前よりもその欲望が「過剰」だから、「世俗的権威」に満足ができないんだよ。つまり私にとっての財前とは、たかだか「白い巨塔」の最高位 に上り詰めようとしただけの「凡庸な俗物」に過ぎないんだ。同様に、私が笠井潔をあざ笑うのも、笠井の「権威」好きが「世俗的な欲望」を一歩もでない「凡庸」なものだからだ。――たかだか日本のミステリ文壇に登り詰めたからといって、さらに日本の文芸文壇や思想界の最高位 を目指しているからといって、それがどれほどのものだというのだ。そんな「権威」など、所詮は「同時代的」で「地域限定」のものでしかなく、しかも所詮、実質の伴わない権威は、本人の死後、すぐさま雲散霧消して果 てるだろう。俺ならそんな虚しいものは求めない。俺なら歴史を超えて輝く、天に愛された永遠の栄光をもとめるだろう。だから、目先の権威などという、そんなちっぽけなものに惑わされたりはしないのだよ。――ということなんだ。

だから私は、里見的な『むなしい』さ、『つまらない』さ、『卑怯』さ、『偽善』を肯定する。たとえ、その結果 として、佐枝子を傷つけても構わない。その覚悟なくして、どうして「非凡」たりえるだろう。だから、私は、こないだこう書いたんだよ。

> 例えば、芥川龍之介の「杜子春」では、仙人に弟子入りを願う青年 杜子春が、仙人から「何があっても声を出してはならぬ 」出したら仙人になれないぞ、と言われた後、恐ろしい幻を見せられるという試練を与えられます。青年は、仙人になりたい一心で必至にその試練に堪えるのでございますが、最後の最後に、地獄の獄卒に引き据えられる母親の、それでも息子を思い「声を出してはいけません」と諭す言葉を聞かされ、彼は思わず「お母さん!」と叫んでしまいます。

> この話は、「孤高」であるということが、時に「非人情」であり「不義理」そのものだということ、少なくとも客観的には、そのように映るくらいの覚悟が無ければ、とうてい立ち得ない立場なのだということを示しております。

> その意味で、島田荘司は「普通の人」でございました。しかし、それは杜子春と同様、決して責められるべきことではないのでございます。

つまり、私は徹底したエゴイストなのだろう。問題は「何が、私にとって、最良の(正しい)選択なのか」であり、他人がそれをどう思うかではないんだ。

しをんさんは「非人間的」「非人情」であることを『むなしい』『つまらない』とした。だが、「非凡」でありたい私としては、「世俗的な情や欲望」に流される態の「人間的」だの「人情」だのは、まったくつまらない。だから、そうしたものを顧慮しないからといって、「不義理」だ『卑怯者』だ『偽善的』だと言われても、ほとんど痛痒を感じない。私は意志して、そういうレベルを踏み越えようとしてきたんだからな。

そんなわけで、しをんさまの立ち場は(いかにも女性的に)佐枝子の投影された「人に愛されたい者の立ち場」だと言えるだろうが、私の立ち場は(いかにも男性的に)「天に愛されたい者の立ち場」だと言えるだろう。そうした意味で、私としをんさんとの恋愛感は、似ているようで、じつは対称的だと言ってもいい。また、こうした根本姿勢の違いが、Keenさまのレスにも書いたとおり、私の「残酷さ」と、しをんさんの「ヘタレ」ぶりに、対称的に顕われているんだと思う。

> しをんさんへのご忠告。
> 今時「ニャンニャンする」なんて、ネコでも使わないわよお〜(昭和バブル前用語/爆

う〜む、たしかにこれは古い言葉だ。私もすっかり忘れていた。
……そういえば昔『夕焼けニャンニャン』とテレビ番組があったけれど、あれが語源だったかな? 私はほとんど観たことがなかったが、タレントの使い方が、いかにも「バブル前」だったよな。

あっ、それから、今月末の北海道行にむけて、彼の地の古本屋について調べてみたところ、

> 小樽古書籍商組合
> 047-0024 小樽市花園2-4-6 岩田書店方 0134-27-3048

というのに行き当たった。小樽の『古書籍商組合』の責任者をつとめる岩田書店さんも、彼の地の「花園」にお住まいだそうだ。笑ってしまったよ(^-^)。





( 以下は「人間的と反・人間的(7)」につづく)


人間的と反・人間的(5) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時39分39秒


 アーニャ(つづき)

つまり「里見の佐枝子に対する態度(選択)」を、どう評価するか、ということだ。しをんさんはこれを『むなしい』『つまらない』『卑怯者』『偽善的』だから『嫌い』だと評価した上で、その理由は『結局、里見先生の偽善的な潔白さに、ちょっと自分のありように通 じるものを感じるから』だろうと分析している。逆に言えば、しをんさんが「自己中心的」な財前に惹かれるのは、自分にはない「自由さ」を、彼に感じるからなんだろうな。

だが、私はこれとは正反対だ。私は、どちらかと言うと、本質的には財前に近いと思う。こないだは「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」なんてことをしたし、日頃の発言から、とても倫理的で自制心に富んだ人間であるかのようにイメージされてるかもしれないが、私の本質は「過剰な欲望に忠実な人間」だと思っている。その証拠が、私の「独占欲の強い、徹底した蒐集癖」であるし、「敵は徹底的に叩き潰すという、情け容赦のなさ」だと思う。

例えば私は、「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」なんてことをしたけれども、じつは自分でも同じようなことをやっている。もちろん、頭ではそれはいけないことだと考えつつ、つい欲望に流されてしまう。相手が嫌がっているのなら、あえてそれを追っかけるような不様な真似は、私の高すぎるプライドがそれを許さないけれど、相手が好きこのんで近づいてきて、しかも私自身、相手を憎からず思っていれば、私は倫理的な理由だけでそれを拒絶することが、必ずしも完全にはなし得ないんだ。つまり、平たく言ってしまうと、私は二人とでも三人とでも恋愛関係を結ぶことができるし、人妻でも相手と状況次第ではそうなることもあるだろう。そうした意味で、私はとても「凡庸な男」なんだ。

よく女性の側から「どうして男の人は、同時に複数の女性を好きになったりすることできるのだろう」と非難をこめての疑問を呈されることがあるけれど、私の実感からすれば、それは現実として認めざるをえない事実だと思う。そして逆に、私は、女性のこうした物言いから「多くの女性にはそれが不可能なんだろうな。男と女とは、やっぱり造りが違うんだろうな」と考えるんだ。
で、事実、しをんさんは「そういう女性」らしく、本質的に「潔癖」であり、だからこそ逆に「欲望に忠実な=だらしない」財前に好感(憧れ)を持ってしまう。

だが、私の場合は、財前の『野心まんまんなところも、肝心なときに詰めが甘いところも、「困るね、きみ」なんて言いつつ女性に振り回されてご満悦なところ』も、好感を持つことなど到底できない。なぜならそれは私自身の「弱さ=意志と理性で律しきれない部分」をそのままに映す鏡だからだ。自分の「凡庸さ」を映す鏡に他ならないからなんだ。

そんな私だからこそ、意志的・倫理的に厳格で、それが非凡なまでに徹底している大西巨人に惹かれるんだ。自分には不足している部分がそこにあるからこそ、私は大西巨人に惹かれるんだ。そしてそれは大西巨人自身も同じで、大西は、あるエッセイの中で「公の場所で泥棒はいけないと書けば、自分が泥棒をするわけにはいかなくなる。だから私は自戒の意味も込めて、あえてそれを人前で公言するんだ」という主旨のことを書いている。つまり、大西巨人は「人間的な弱さ」を乗り越えんがために、自らに『意志的・倫理的に厳格で、それが非凡なまでに徹底している』という苦役を課した「先達」なんだ。そして、その大西があそこまでやっているんだから、私だってそこまでは頑張りたい。「非凡」でありたい、と願うんだよ。





( 以下は「人間的と反・人間的(6)」につづく)


人間的と反・人間的(4) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時38分24秒


 アーニャ(つづき)

結論から言うと、私としをんさんの恋愛感は、似ているようで似ていない、と思う。そしてそれは、「恋愛感」以前の「体質」に由来するもののように思うんだ。そこで問題となるのは、しをんさんの次のような文章だろう。

『このドラマを見ると、きっとだれでも、「財前君と里見先生なら、どっちとつきあいたいか」を一度は考えてみると思うのだが(え、考えない?)、私は断然、財前君に軍配を揚げる。財前君のことを、散々「イヤなやつ」と言ってきたが、しかし実はすごく好みなのだ。野心まんまんなところも、肝心なときに詰めが甘いところも、「困るね、きみ」なんて言いつつ女性に振り回されてご満悦なところも、なかなかよろしい。
 対するに、里見先生はどうか。最終回の一回前に、佐枝子お嬢さまはついに里見先生に告白した。そしたら里見先生ったら、「はっ」と「腹が痛かったことに初めて気づいたような顔」をし、「あなたは妻の友だちです」と、これ以上なくきっぱり言って、逃げ去ってしまったのだ!(中略)
 さささ里見先生のニブチン! 唐変木! 私はハンケチを噛み切る勢いで、佐枝子お嬢さまに同情したのだった。里見先生の崇高な精神が、私はどうも苦手だ。飲んでも飲んでも渇きを覚える水のような、むなしさを感じずにはいられない。
 里見先生は、自分の妻への愛情のために、佐枝子さんの告白を退けたのかというと、決してそうではないはずだ。里見先生にとっての「妻」というのは、愛や執着ではなく、「早いもの順で埋まる座席」のようなものであって、「もう僕には妻がいるから、ごめんね」ってだけのことなのだ。それなら、「欲しいものは欲しいもんね」と、差しだされたものは両手で鷲掴みにしようとする財前君のほうが、愛するに足る人物のように私には思える。
 このときも一緒にテレビを見ていた母は、「なんで佐枝子じゃダメなんだ〜。だれがどう考えたって、水野真紀より矢田亜希子のほうがいいだろ〜(そういう問題ではない)」と憤る私に、「でも、里見先生みたいにきっぱり言えるのって、偉いわよ。これが男の優しさってものじゃないかしらねえ」と言った。そうかしらねえ。あれが優しさなのだとしたら、優しさとはなんと退屈なものなのだろうか。いや、私もホントはわかってる。共に暮らしていくのなら、里見先生のような人を選べば間違いはないのだ、と。だけど、つまらないよな……。
 佐枝子さんを振り切って家に帰った里見先生はきっと、「僕も佐枝子さんのことは憎からず思っていた。いやむしろ、積極的にラブだった。しかし、僕はその誘惑に屈するわけにはいかなかったのだ」などと、出迎えた妻や、眠ってる息子を見ながら、若干の満足を覚えつつ考えたに違いないのだ。その「満足」の内訳は、「俺も久方ぶりに恋の高揚感を味わった」二割、「苦しみつつも、無事に誘惑を乗り越え、道を踏み外さなかった人格者な俺」八割、といったところだろうか。そのうえ、ほぼ断言できると思うのだが、里見先生は近日中(もしかすると告白のあったその夜)に妻とニャンニャンし、最中に浮かぶ佐枝子さんの面 影を必死に振り払ったに違いないのだ。くぅぅ、腹立つやっちゃなあ、里見! 
        あんたは卑怯者だ!
 なんで私、勝手に里見先生の内心をシミュレーションして、こんなに怒ってるんだ?
 結局、里見先生の偽善的な潔白さに、ちょっと自分のありように通じるものを感じるから、私は彼が嫌いなのだろう。』





( 以下は「人間的と反・人間的(5)」につづく)


人間的と反・人間的(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時36分52秒


 Keenさま
>>>「しをんのしおり」
>>『たまに夢見がち』

> これは、『つねに妄想一筋』の謙譲語です(きっぱり)。

そうでしょうか? と申しますのも、私が見たところ、しをんさまには『妄想』家であることを、最後の最後で恥じている部分があるように思えるのでございます。

アーニャへのレスで詳しく論じる予定でございますが、私と違って、しをんさまには「確信犯」的な強さがございません。それがいろんな局面 での『詰めの弱さ』を結果し、くり返し自身の『ヘタレ』ぶりを語らなければならないことにもなっているのだと存じます。
無論、そうした「弱さ」、言い換えれば「人間らしさ」こそが、しをんさまの魅力(親近感)に他ならないのでございますが、だからこそ私は『たまに夢見がち』という表現を、確信とその余裕にもとづく『謙譲語』だとは思えないのでございます。たとえそれが「冗談めかした表現」であるにしても、でございます。


 アーニャ
> 今週も引き続き、「しをんのしおり」は必読よ〜!しをんさんの恋愛観が、かなり詳細にうかがえる内容だわ。
> 私は、ドラマ『白い巨塔』は見てなかったんだけど、話の内容は知ってるの。Keenさまが子供のころ、「田宮二郎版」が大好きで、家族全員で見てたそうだから(笑)。で、ここでアリョーシャの「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」(※『バッテリー』を読め!(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月12日(金)23時14分29秒)を参照すると、なんだかやっぱり、二人の考え方が似てるような気がするんだけどな。ただ、違うのは「若さゆえの夢と情熱」だけ?(笑)


読んだよ(笑)。私は、『白い巨塔』のテレビドラマを新旧ともに観てないし、原作も読んではいないんだが、しをんさんの「涙でかすむホワイト・タワー」だけを読んだ感想として、以下に書かせてもらおう。





( 以下は「人間的と反・人間的(4)」につづく)


人間的と反・人間的(2) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時35分16秒


つぎも「政治」からみで、戸田徹『マルクス葬送』(五月社)。1984年4月初版刊行本でございます。タイトルからもお分かりのとおり、この本は、私のライフワークである「笠井潔葬送」についての参考資料として購入したものでございます(笑)。
本書第一部「マルクス葬送」には、『第三文明』誌の1979年12月号に掲載された、座談会「マルクスを葬送する」が収録されており、この座談会の参加者は、本書の著者戸田徹のほか、笠井潔、津村喬、長崎浩、小阪修平となっております。1979年12月といえば、まさに笠井が亡命(?)先であるフランスから帰国して、文壇デビューした月、つまりデビュー作『バイバイ、エンジェル』を『野生時代』誌に掲載した月でもございました。
当時、笠井潔は31歳になったばかりでございますが、この座談会をぱらぱらと眺めてみますと、笠井は、当時の「マルクス(思想)の『延命』をはかろうとした人々」を、厳しく批判しているようでございます。……で、私は、
「そう言えば、私が初めて直接会った時も、笠井さんは『延命』という言葉を使っていたし、笠井さんの初期の評論には、この『延命』という言葉が、キーワードとして多用されていたよなあー。……それが今じゃ、そのご本人が自らの『延命』に奔走なさっているというんだから、なんとも皮肉な話だ。以前『50になったら、作家を引退してスキーインストラクターになる』ともおっしゃっていたようだが、その笠井さんもまもなく還暦なんだから、私だけでも赤いちゃんちゃんこでお祝いをしてあげないとなあー」
などと考えたのでございます(笑)。

最後は、以前、これも私に批判された人気思想解説者、内田樹の『女は何を欲望するのか?』(径書房)と、同じく内田の角川文庫版『ためらいの倫理学』の2冊でございます。どちらも定価で買うのは惜しいので、古本が出るの待っていた本でございます。ことに後者は、元の冬弓社版を持っておりますので、購入目的はもっぱら、巻末に付された「高橋源一郎による解説」でございました。
『女は何を欲望するのか?』を読了後に、併せて、この「高橋の解説」も論じることになりましょうが、この「解説」がどのような意味で興味深いのかを簡単にご説明しておきますと、それはこの解説の体現しているのが「精神的に弱っている者は、対象を厳密に知的に凝視する気力に欠けて、当りの柔らかいものに安易に縋り盲信しがちである。これは不良やヤクザだった者が、ある挫折をきっかけに、回心して温和な宗教家に一変してしまうのと、同じ心理に基づいている」ということなのでございます。――立ち読みでも結構ですので、ぜひご確認下さいまし。





( 以下は「人間的と反・人間的(3)」につづく)


人間的と反・人間的(1) 投稿者:園主  投稿日: 3月22日(月)17時34分22秒

みなさま、私、このところ古本づいております。しばらく古本屋めぐりをしておりませんでしたので、先日来ひさしぶりに定例のコースを3本くらい流したのでございますが、その度に本を鞄いっぱいに(単行本・文庫本含めて15、6册)を購入し、またタイミングよくその後の18日と昨日に、友だちに古本屋めぐりに誘われて、喜んでつき合ってきたのでございます(笑)。もちろん、これだけの冊数を購入したのでございますから、それなりに収穫はございましたが、買い込むだけ(コレクション)の「いつもの収穫」については既に忘却の淵に沈んでおり、いま直ぐここでご紹介できるのは、読むために、まだ手近においてある本のいくつかでございます。

まずは、三浦しをんの既刊本で、ゆいいつ未入手(絶版)であった『極め道』(光文社・知恵の森文庫)を、やっと入手しいたしました。これはしをんのしおりをまとめた最初の本でございますが、やはり現在ほどの達者さはなく、なにげなく書いているような最近のエッセイも、じつは技術的な裏づけによって支えられたものだというのが、本書所収のエッセイをいくつか拾い読みしただけでも、それと窺えるのでございました。
なお、この古本、すでに帯は無くなっており、頁の角やカバーの見返しなどに折った跡が醜く残っていて、古本としては決して「よい状態」とは申せません。したがいまして、今回のものは「読み用」とし、以降はコレクション用の完本を探す所存でございます。――斯様、コンプリートへの道は、まだ遠いのでございます(笑)。

つぎは、姜尚中が「私の一冊」として、どこかに紹介していました、イギリスの歴史家E・H・カーの名著『危機の二十年』(岩波文庫)でございます。もちろん、この岩波文庫版が初訳本ではございません。読むために探していたので、ひとまずこれで良かったのでございますが、これがけっこう手こずらかされてしまいました。そもそも最近では、岩波文庫の「法律・政治」を表わす「白(灰)帯」本が、新刊書店頭からはほとんど姿を消しているのでございます。たしかに、私もほんの少し前までは、まったく興味を示さなかったジャンルでございますから、他人に偉そうなことは言えませんが、こうした避けて通 れない問題に、人々が興味を失って久しいからこそ、現在の日本には「新たなる危機」が訪れたのだ、とも言えるのではないかと存じます。





( 以下は「人間的と反・人間的(2)」につづく)


誠くん、必ず読みたまえっ! 投稿者:アーニャ  投稿日: 3月22日(月)08時35分18秒

今週も引き続き、「しをんのしおり」は必読よ〜!しをんさんの恋愛観が、かなり詳細にうかがえる内容だわ。
私は、ドラマ『白い巨塔』は見てなかったんだけど、話の内容は知ってるの。Keenさまが子供のころ、「田宮二郎版」が大好きで、家族全員で見てたそうだから(笑)。で、ここでアリョーシャの「エオウィンに対するアラゴルンの態度批判」(※『バッテリー』を読め!(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月12日(金)23時14分29秒)を参照すると、なんだかやっぱり、二人の考え方が似てるような気がするんだけどな。ただ、違うのは「若さゆえの夢と情熱」だけ?(笑)

しをんさんへのご忠告。
今時「ニャンニャンする」なんて、ネコでも使わないわよお〜(昭和バブル前用語/爆笑)。編集者チェックは、なかったのかしら……

それでは皆さま、ごきげんよう。にゃあ〜♪

PS.Keenさまが『王の帰還』のサントラCDを買ってしまったわ!(笑)



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