●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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正当派という「異端」(下) 投稿者:園主  投稿日: 3月10日(水)23時54分8秒


 ホランド
> たしか(二次元)アニメにCGを初めて本格的に使ったのは、日本では劇場版の『ゴルゴ13』(出崎統監督)ではないかと思うんですが、それ以来十数年をけみして技術的にはとても進歩しているにもかかわらず、手書きの絵との違和はまだまだ解消されそうにないですね。

ああ、『ゴルゴ13』では、戦闘ヘリが3DCGで描かれていたけど、ものすごくちゃちで浮きまくってたよなあ。ま、あの映画自体「出崎統・杉野昭夫コンビは、アクションものが得意」だという誤解の上に作られた失敗作だから、CGの問題なんか、小さなことだったんだが。

ちなみに、大塚英志が新著『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(講談社現代新書)で、出崎・杉野コンビについての達見を披露している。

大塚は日本の『戦後まんが史』を『「ビルドゥングスロマン」の不成立をめぐる歴史』と捉え、その象徴的なエピソードとして、『鉄腕アトム』の第一話「アトム大使」のラストで、アトムが宇宙人から「君もいつまでも子どもではいけない。今度会う時は、大人の顔で会おう」と「大人の顔」のパーツを与えられるというエピソードを、後に手塚治虫が削ってしまったということを紹介し、その他にも『戦後まんが史』における「成熟の失敗」の事例をたくさん紹介しているんだ。その上で、

『無論、戦後まんが史においてはビルドゥングスロマンが不成立だったわけではない。例えば「あしたのジョ−」の結末を希望に満ちたトーンに修正した出崎統・杉野昭夫のコンビは一貫して主人公にビルドゥングスロマンを完遂させ続けたアニメ作家であったし、八〇年代には紡木たく「ホットロード」やあだち充「タッチ」といった典型的なビルドゥングスロマンが大ヒットしている。しかしそれらは戦後まんが史の中では異端であり、少数派であった。戦後まんが史はビルドゥングスロマンの不成立を身をもって示すことで成立してきた側面 があり、八〇年代的なものの終結ないし総決算として登場した「新世紀エヴァンゲリオン」は、それを最も徹底して生きることになってしまった作品として記憶されるべきだ、と思う。』(P404)

この意見は、出崎・杉野コンビの「正当派的な作品」が、『戦後まんが史』においては『異端』になってしまうという「逆説」を指摘して、じつに意外なものだった。

けれども、もともと出崎・杉野コンビは「虫プロ」のアニメーション部にありながら、手塚作品以外のアニメ化を手掛けた、言わば「異端」的な出自をもっているし、「八〇年代的な、アニメの爛熟」がそのまま「オタク的なるもの」を生み出したとするならば、出崎・杉野コンビの作品は同じ「テレビアニメ」でありながら「オタク的なるもの」からは「遠い」という点において、たしかに『異端』だったと思う。

――そしてこれは、出崎・杉野コンビの作品に強く惹かれる私が、アニメであれミステリであれ、なぜかオタク的になることを「体質的に好しとしない」点を説明するものとして、とても説得的だと思うんだ。だから私も『異端』でしかありえなかったのだと……。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


正当派という「異端」(中) 投稿者:園主  投稿日: 3月10日(水)23時53分20秒


 影姫さま
> ☆さらばオシイマ>『イノセンス』わたしは観にいきません。といってもわたし『うる星やつら』時代からの押井守の大ファンなのです。もともと宮崎駿夫にもあまり興味のないわたしにとって押井守は唯一のアニメ界の好きな監督なのです。『バルばら』『おにいさまへ・・・』(←keen様出番ですよ。)の出崎統は別 格。
> しかし『パトレイバー2』では「?」、『攻殻機動隊』では「???」という感じでもはやオシイマの「イイタイコト」とわたしの「カンガエテイルコト」が完全に接触しなくなったようです。おそらく『イノセンス』では「?????」となることでしょう。そこでもうわたしはオシイマと完全訣別 することにしました。
> 「さらばオシイマ、素敵な夢をありがとう!!」

そうでございますか。それは残念でございます。

しかし、押井守の趣味は、どう考えても一般受けするものとは思えませんし、こんなのがアメリカのオタクに受けたとも思えず、もっぱら絵面 のかっこよさや東洋趣味が受けたのではないかと邪推したりしております。

「現実とは何なのか?」「生命とは何なのか?」「人間とは何なのか?」「心とは何なのか?」と問い続けた果 てに、今回のバトーのセリフ「多くの犠牲が出るってことを考えなかったのか!」があるのだと思います。

人間を救うための多くの犠牲……。サイボーグ化の果てに人間に残された「人間的要素」は「意識=魂=心」つまり実体不明の「ゴースト」だけということになってしまいます。しかし、人に認知できるものだけが、果 たして「ゴースト」だと言えるでしょうか? 人間が人形になりたくないように、人形だって人間なんかにはなりたくないのかも知れない。ただ、そんな人形の「ゴースト」は、人間には認知できない。しかし、人間に認知できないから、それが存在しないと言えるのか? ――問題が「心」へと収斂 されていく時、そこには人間の特権性など存在しえなくなってしまうのかも知れません。


 asakoさま
> こんにちは、前にこちらで中井さんの写真集を購入の時にお世話になったものです。
> たまにくるととても充実していて、決して追いつけない状態に・・。

ようこそお出で下さいました。

自慢するわけではございませんが、ここ「花園」の特徴は、他の多くの掲示板のような「単発の感想」の積み重ねではなく、「議論」に代表される「連続性」にあると存じます。ですから、途中からではなかなか取っ付きにくい。例えば、私が先日書きました『「革命家としての笠井潔」の本質』もそれ以前の自他の書き込みを受けて書かれたものですので、これだけではピンと来にくいものとなっております。
もちろん「過去ログ」をご確認いただければ良いのでございますが、できれば今後は、こまめにチェックしていただけるとそれに越したことはなく、私としても嬉しゅうございます(笑)。

> 中井さんのための何かが今日まであったようですね。いきたかった〜。

ずいぶん前から告知していたのですが、残念でございます。

中井英夫関連イベントでは、後は小樽文学館での「彗星との日々」写真展を残すのみ。もしも北海道にお住いでしたら、ぜひそちらをお覗き下さい。さる筋からの情報に寄りますと、写 真展の最終日(3月28日)には、中井英夫ファンで、最近人気沸騰の若手作家 三浦しをんによる記念講演が予定されているとか。一見(一聴)の価値はあろうかと存じます。
――なお、三浦しをんについても、過去ログをぜひご確認下さいまし(笑)。

> またきます(^.^)

心よりお待ちしております(^-^)。





( 以下は「正当派という「異端」(下)」につづく)


正当派という「異端」(上) 投稿者:園主  投稿日: 3月10日(水)23時52分30秒

みなさま、本日は、こちらに以前書きました文章2本をアレクセイ掌編集の方へ収録させていただきました。
今回収録いたしましたのは、昨年成立した「有事三法」のうちのひとつ「武力攻撃事態対処法」の「隠された怖さ」を論じた文章と、遠藤徹の「第10回 日本ホラー大賞」受賞作『姉飼』(角川書店)を論じた文章でございます。――収録にあたっては文章に手を入れておりますので、この機会にご再読いただければ幸いと存じます。





 Keenさま
> 兄ぃ登場(続続・「悪の花園」篇)

> アレクセイの鋭い眼光をまともに受けたホランドは、一瞬頬を染めた。

キチンと「美少年キラー」のバンコラン少佐(魔夜峰央『パタリロ!』)を押さえておられますね。大いにけっこうでございます(笑)。

> フフン、と鼻で笑うアレクセイの額には深い傷跡があり、それが人を恐れさせてもいたのだが、真相は、愛猫の阿若に引っ掻かれたものだった。

ちゃんと笑わせるところもございます(笑)。

> 「危険を楽しむ男・アレクセイ」とも言われる誠と、清楚な令嬢「紫苑 愛」との運命の出会いは、まだ先のことになる。

しかし「紫苑 愛」と誠との出会いは、「雪の蓼科高原」ではなく「春の小樽」となる模様。しかし、新千歳空港と小樽の中継地点たる札幌は、面 白い古本屋のあることで知られる町(ちなみに小樽にも、立ち寄ってみるべき古本屋が2、3軒あるとの、友人からの情報もあり)。ですから、元古本屋店員である古本マニア「紫苑 愛」と、アマチュアながら20年のコレクター歴を誇る誠との間には、(本に関しては)譲れない一線もあろうかと存じます。例えば、

 二人は仲良く連れ立って、古本屋に入った。しかし、店内ではそれぞれに一心に棚を眺める。
 ふと愛が、誠の前の棚に目をやったのと、誠がその本を見つけたのは、ほぼ同時だった。
 ――あっ、大西巨人の『天路の奈落』! それ、持ってない!
 愛は心のなかで叫んだが、もちろん誠は何事もなかったように、それを棚から引き抜いた。
 本の状態を確かめている誠に、
「それ、珍しいですよね」
 愛が何気なく、探りをいれると、誠はにっこりと笑って、
「ええ、これは大西巨人のなかでは『精神の氷点』の次に入手しづらい本でしょう。さすがは元古本屋さん、よくご存じですね」
 そんな誠の返事にも諦めきれず、愛はつい、
「私、まだそれを読んだことがないんですよ。手に入れられなくて……」
 すると誠は、
「『精神の氷点』も復刊しましたし、『天路の奈落』もネットの復刊サイトで取り上げられていますから、そのうちきっと復刊されますよ。これ、私は『神聖喜劇』の次に好きな作品なんです」
と、愛の言いたいこと、つまり「持っているんなら、私に譲ってよ」という気持ちに、まるで気づかないかのような様子でそう言って、誠はもう棚に目を戻してしまった。
 愛の、誠へのわだかまりは、この時に初めて芽生えたのだった。

> 園主兄ぃ、アタシの気が変わったんだ。
> 過去ログ収録時に、「花園のお蘭」というホランドの通り名を、「弾丸ナイフのお蘭」に訂正してくれるかい?
お手数かけてすまないが、ヨロシク頼むよ。

了解いたしました。

> 兄ぃ、お蘭、この話気に入ってくれたかい?(ニヤリ)

ええ、けっこう(笑)。

> 「黄桜団」で脱力★あれは、ギャグではなかったのです……(懐)
> 何しろ原作は知らず、映画のセリフで聞いただけでしたので、てっきりそう思い込んでたのですね〜。記憶の相互作用(←そんな用語あるのか?/笑)。
> というわけで、↓のような短編ができてしまいましたとさ。(^0^*

> 「続きは君が書いてくれ、アレクセイ」(ニヤリ)

パロディーは苦手ですので、上の「春の札幌・古本屋の対決篇」でご勘弁下さいまし(笑)。





( 以下は「正当派という「異端」(中)」につづく)


たまに拝見すると 投稿者:asako  投稿日: 3月10日(水)18時10分59秒

こんにちは、前にこちらで中井さんの写 真集を購入の時にお世話になったものです。
たまにくるととても充実していて、決して追いつけない状態に・・。

中井さんのための何かが今日まであったようですね。いきたかった〜。

またきます(^.^)


薔薇の心もて、薔薇を見よ(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月10日(水)16時36分8秒


 AOIさま(続き)

> つまり、指輪を捨てることによって、悪が死に絶え、世界の様相が一変してしまうということがあれば、めでたしめでたしということなんだけれど・・・。
> 物語世界では、指輪は捨てられたのですから、悪のはびこる世界はもうないわけですね。
> フロドもビルボもエルフの国に行く必要がないように思うんだけれど。
> 悪に魅入られなかった神に近い存在としてエルフの国いりするってことなのかな。

 でも、「指輪」は、ホビットも含めたすべての人々(種族)のなかに、多かれ少なかれ「元から」存在する「悪」を「増幅」するものなんじゃないでしょうか? そう考えないと、AOIさまのおっしゃるとおり「フロドたちのエルフの国入り」が説明不能です。「指輪」は滅んでも、「人の心の中の悪」は完全に消滅しはしない。つまり「指輪=すべての悪」ではない、「悪は、指輪に先んじて存在する」ということなんじゃないでしょうか。

> サムも指輪を手にして躊躇するシーンがありましたが、サムはどうしてエルフの国に行かないのでしょう。

だから、サムでさえも「指輪」の影響を(ちょっとだけ)うけたってことじゃないのかな?

> サムは善の(担い手であったフロドの)忠実な僕(しもべ)であった。
> 忠実な僕(しもべ)であった者が現世の書き手となる。ということなのでしょう。

 これはボクにもよくわかりません。なぜフロドではいけないのか?
 もしかして「悪」に(本格的に)魅入られたことのある者には「ファンタジー」は書けない、ということなのでしょうか? でも、そうだとしたら、むしろそれは反対で、「現実の汚らしさ」や「自分の内面 の悪」を直視しうる者こそが、「ファンタジー」を書くべきなのではないでしょうか。でないと、「ファンタジー」は単なる「お子さま向け」の「きれいごと」を連ねた「お伽話」になってしまいますからね。


 影姫さま
> H氏賞カウントダウン>いよいよわたしの古本コレクションが一大山場を迎えております。なんとあの昭和24年から始まった「詩の芥川賞」とも言われている「H氏賞」受賞詩集が残り「1冊」で「コンプリート蒐集」となります。この偉業をわたしは絶対に完遂する予定であります。そこでこの偉業を成し遂げた暁に
はわたしはこう呟くことでありましょう。

> 「野望を成し遂げた俺の前に広がるのは豊穣な大地なのか?それとも茫漠とした荒野なのか?」
>  雁屋哲『野望の王国』最終巻(第二十八巻)最終ページ・主人公橘征五郎の独白より。・・・・(ニヤリ)

 あと1冊って、誰の何っていう詩集ですか? あっ、それから、そもそも『H氏』って誰のことなんでしょうか?
 ボクが知っていることと言ったら、(最近はめっきり見かけなくなった)ミステリ評論家の郷原宏さんが、H氏賞私人だったということくらいです。

 ちなみに、コンプリートしちゃったら、次は何を蒐る予定なんでしょうか?


 園主さま
 こないだは『イノセンス』をご一緒させていただきありがとうございました。

 いかにも押井守という感じで、新しさはありませんでしたが、その分よくまとまっていたんじゃないかと思います。
 ボクも、CGに引っ掛かってしまうシーンがいくつかありましたね。
 たしか(二次元)アニメにCGを初めて本格的に使ったのは、日本では劇場版の『ゴルゴ13』(出崎統監督)ではないかと思うんですが、それ以来十数年をけみして技術的にはとても進歩しているにもかかわらず、手書きの絵との違和はまだまだ解消されそうにないですね。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


薔薇の心もて、薔薇を見よ(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月10日(水)16時35分29秒


 AOIさま(続き)

>『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』

>> ゴラムを切ることは物語の一種のカタルシス』になるとも、ボクは思えません。だから、あの扱いは何だったんだ、という疑問がそのまま残っています。

> 観客としてはいつゴラムが隙を見て指輪を奪うかとひやひやしているわけですね。ゴラムに疑いを持つサムをフロドは排除するということにもなってしまった。そういう意味でゴラムに疑いをもつ観客(読者)にとっては、フロドのナイーヴさに苛立ちを覚えていたわけで、ゴラムが最後のところできられることにカタルシスを感じるんじゃないのかな?私は疑問だけが残ちゃうんだけれど。

 そのとおりだと思います。たしかに「そのレベル」で納得しちゃう観客もいるというのが現実なんでしょうが、ボクとしては、そんな観客ですら、ゴラムのあの扱いには「どこかでひっかかりを覚えるんじゃないか」と思いたかったんですね。
 でも、現にアメリカの大統領が「我々、自由と正義の側につくか、テロリストの側につくか」なんて「幼稚きわまりない二元論」を口にする世界なんですから、多くの人が「そのレベル」であると考える方が(悲しいことですけど)現実的なのかも知れません。

> しかし、ゴラムは、絶対悪ではなく二面性を持った存在として描かれてもいるのですね。
> 悪に魅入られたものは、決して後戻りできないし、切捨てられるものだということを描いているようで疑問なのです。

 そのとおりだと思います。たしかに『二つの塔』では、ゴラムは「善悪に引き裂かれた、人間的な存在」として描かれていました。そんなゴラムを、フロドは信じ、サムは疑った。たしかにフロドの信じ方はナイーブ過ぎるとは言え、そこは「物語」であり「物語は象徴」でしかないんですから、ここで問われるべきなのは「信じること」への評価なんですよね。

 で、結局あのラストでは、ゴラムの中の「善」が「悪(=欲望)」に呑み込まれただけではなく、フロドさえも同じ道を歩んでしまった。さらに、そのことによって「信じること」の肯定性が、このラストでは否定されたも同然なんですよね。「現実的に疑った、サムが正しかった」ということになってしまったいる。でも、これでは「まずい」んじゃないか? トールキンの書いた小説はそんな内容じゃなかったはずだ、とボクは思ったんです。つまり、それがAOIさまの予想なさっていた、

> ですから、善的な人物は必ず救いの手が現れ(除:兵士一般人)、悪に魅入られた者は滅びる。
> 私が期待していた旅は悪に魅入られ,長い長い時間を指輪とともに生きてきたゴラムがフロドとサムと指輪を捨てる旅をすることによって、どのように変貌するのか(2では、そういう期待を抱かせたのですが)指輪を手にする前の姿をどのように取り戻してゆくのかということであり、疑い続けるサムと最後まで信じようとするフロドとの三人が旅を通 して成長してゆく姿だったのです。

ということなんですね。だから、あの指輪を捨てるシーンには、ボクも、

> そういう意味で期待は裏切られました。





( 以下は「薔薇の心もて、薔薇を見よ(5)」につづく)


薔薇の心もて、薔薇を見よ(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月10日(水)16時34分47秒


 AOIさま(続き)

 では、なぜAOIさまがこのようなことに気づかなかったのかと言えば、

 (1) 「ペシャワールの会」を高く評価したいという「感情(=主観)」に流された。

というのが、一点。
 じっさい「ペシャワールの会」は大変に意義のある活動をなさっているんですから、それを高く評価したいという気持ちは当然のものなんですが、でも、だからといって彼らの「言動の無神経さ」までが肯定されるべきではありません(むしろ、それを批判的に指摘してあげることが、彼らのためになることです)。つまり、園主さまがいつもおっしゃるとおり、ものごとは是々非々で評価しなければならない、「党派性の陥穽」はそんなところにある、ということです。

 次の問題点は、園主さまが、

> 言葉に関して相応の注意力をもった人ならば、『UFOもネッシーも超能力』も「ミステリー」なら『推理小説』も「ミステリー」だ、というのは「変だ」という程度の感想は持つことでございましょう。そして、そうした問題意識があれば、「ミステリ」という言葉の「特殊限定性」にも、自ずと気づきうるはずなのでございます。なのに、それを平気で混用できるというのは、その人が「言葉」というものに対し、いたって「無神経」な証拠だということなのでございますね。

とおっしゃっている点にかかわる、

 (2) 言葉にたいする粗雑さ。

の問題です。つまり、すでに指摘したとおり、「(他者について)客観的に語っている者は、(自己についても)客観的である」という「(間違った)内容」を、「客観的」という言葉の共通 性によりかかって「客観的に語っている者は、客観的である」と(単なる同語反復であるかのように)語ってしまうというのは、「言葉」について無神経すぎるということなんですよ。そして、このようなことがあるからこそ、ボクは、念入りに、

>> 他山の石として、ボクたちはそこから学ぶべきなんだと思います。

と書いたんです。





( 以下は「薔薇の心もて、薔薇を見よ(4)」につづく)


薔薇の心もて、薔薇を見よ(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月10日(水)16時33分7秒


 AOIさま
> 「ペシャワールの会」ホームページのトップに掲げられた『誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする』という標語について。

>> すこし視点を変えれば、人並み以上に盲目になっている部分があるもの。

> 確かに鼻持ちならないと思う人はいるのは分かるけれども、客観的に言えば事実なのだから、「人並み以上に盲目」だとは思わないですよ。

 そんなことはないと思いますよ。「自慢話はみっともないし、他人を鼻白ませる」ということくらいは『人並み』の認識なんですから。

 AOIさまはここで『客観的』ということをおっしゃっていますが、それにもかかわらず、それが「自己への客観性」を欠いているという点において、『誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする』と書いてしまった「ペシャワールの会」の人たちの「盲目性」と、AOIさまご自身の同様の「盲目性」の存在を、それは二重に示していると思います。

 つまり、中村哲さんその人が『誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする』というのは「客観的事実」です。だから、その「評価」も「客観的には」間違っていません。しかし、世間から見れば、明らかに中村さんの仲間である「ペシャワールの会」の人たちが、このように書けば、世間の人たちはそれを「自慢」であると(妥当に)感じてしまう、というのも、AOIさまの認めた「客観的事実」です。ですから「ペシャワールの会」の人たちが、自分たちの「主観」である「中村哲さんへの客観評価」だけに捕われることなく、世間(客観的第三者)が自分たちの言動をどう感じるか(どう評価するか)を考えるだけの「(自己に対する)客観性」を持っていたならば、「ペシャワールの会」の人たちだって、わざわざこんな鼻白まれるような「標語」を掲げたりはしなかっただろう、ということなんですね。

 同じことを簡単にいえば、「ペシャワールの会」の人たちは、「中村哲さんの行動」については「客観的に評価し得た」けれども、「自分たちの言動」については「客観的に評価し得なかった」。「客観的評価を語ることが、客観的に何を意味するのか」ということについて「主観的にしか考えられなかった(=盲目であった)」ということ。つまりこれが、ボクのいった、

>> 何か大切なことをきちんと見ている人も、すこし視点を変えれば、人並み以上に盲目になっている部分があるもの。それが、完璧ではありえない「人間」という生き物の宿命なんだということを、他山の石として、ボクたちはそこから学ぶべきなんだと思います。

ということなんです。
 で、今回のAOIさまのご意見も、これに類したもので「他者について客観的評価」と、それを語る「自己についての客観的評価」が混同されているんですよね。「客観的に語っている者は、客観的である」という具合に。でもこれは「主語の混乱」なんです。
 つまり「客観的に語っている者は、客観的である」という言葉は「(他者について)客観的に語っている者は、(自己についても)客観的である」という意味でしかなく、これは「明らかな誤謬」なんです。





( 以下は「薔薇の心もて、薔薇を見よ(3)」につづく)


薔薇の心もて、薔薇を見よ(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 3月10日(水)16時32分26秒

 みなさん、こんにちは! 先月末より開催されておりました『永遠の薔薇 ― 中井英夫へ捧げるオマージュ展』が本日でおしまいです。お近くの方は、ぜひ覗いてみて下さいね!

 なお、次のようなページで、この展覧会の様子が紹介されていますので、先日の園主さまのご報告とあわせて、ご参考になさってください。

 http://cherubim-tateishi.site.ne.jp/diary/diary6.html
 http://cherubim-tateishi.site.ne.jp/news/news.html
 http://cherubim-tateishi.site.ne.jp/news/04nakai_group.html
 http://www.kimiaki.net/e-zatu-new.htm
 http://homepage3.nifty.com/DS_page/dokusho/0402.htm#29
 http://haruka.pos.to/cgi/bbs2/light.cgi
 http://www3.azaq.net/d/04/nekomata.html?1071573029
 http://melten.com/m/6906.html





 Keenさま
> 続・「悪の花園」篇

> かのように見えたが、

 ずるいよー! これなら何だってひっくり返せるじゃない!

> 兄ぃ登場(続続・「悪の花園」篇)

 でも、可愛く描けているので、けっこう気に入ってます(笑)。

>> でもボクは、サムの顔を見ながら、いつも「(阪神タイガースの)伊良部に似てるなあー」なんて思ってたんです、じつは(「♪ ごはんがごはんがススム君」も/笑)。

> うわあぁぁぁ〜〜〜、気づいてなかったけど、似てる、似てる!!!

 やった〜〜っ!!! ウケた、ウケた!(^O^)


 浮世渡郎さま
> 『愛と誠』ですか・・・やはりあっしとしましては「バンドしぶき浪の花」がなんとも・・・イヤ・・わからんでもいいんですそんなもん。(汗)

 浮世渡郎さまも、同時代で読んだ世代なんですか?





( 以下は「薔薇の心もて、薔薇を見よ(2)」につづく)


そういえば…… 投稿者:Keen  投稿日: 3月 9日(火)21時54分13秒

今日、オスカー授賞式のビデオ見てて思い出しました。
『王の帰還』観に行った日は体調があまり良くなかったので、上映時間3時間半+CM等でかなり参ってしまい、映画のラスト1時間くらいは頭痛で朦朧としてたのでした。クライマックスの印象がやけに薄いというのも、そのせいかもしれません。
というわけで、いずれDVD等で再確認するまでは、あまり断定的な意見・感想を述べるのは控えた方がいいのではないかと思いました。
あるいは、どうせロングランになるだろうから、5月頃にまた観に行くかもしれませんが……(^0^*

☆園主さま

「黄桜団」で脱力★あれは、ギャグではなかったのです……(懐)
何しろ原作は知らず、映画のセリフで聞いただけでしたので、てっきりそう思い込んでたのですね〜。記憶の相互作用(←そんな用語あるのか?/笑)。
というわけで、↓のような短編ができてしまいましたとさ。(^0^*

「続きは君が書いてくれ、アレクセイ」(ニヤリ)

☆影姫さま

>下着は黒い下着しか許さん!!

ガム子さんのことですね?(^0^*
拙作に浮世渡郎さまを、勝手に出演させてしまいました。ヨロシクお伝え下さいませ(ぺこり)。

PS.TV朝日系『エースをねらえ!』は、今週が最終回の模様です。


下着は黒い下着しか許さん!! 投稿者:影姫  投稿日: 3月 9日(火)02時05分15秒

どうも影姫です。

H氏賞カウントダウン>いよいよわたしの古本コレクションが一大山場を迎えて
おります。なんとあの昭和24年から始まった「詩の芥川賞」とも言われている
「H氏賞」受賞詩集が残り「1冊」で「コンプリート蒐集」となります。この偉
業をわたしは絶対に完遂する予定であります。そこでこの偉業を成し遂げた暁に
はわたしはこう呟くことでありましょう。

「野望を成し遂げた俺の前に広がるのは豊穣な大地なのか?それとも茫漠とした
荒野なのか?」雁屋哲『野望の王国』最終巻(第二十八巻)最終ページ・主人公
橘征五郎の独白より。・・・・(ニヤリ)

☆さらばオシイマ>『イノセンス』わたしは観にいきません。といってもわたし
『うる星やつら』時代からの押井守の大ファンなのです。もともと宮崎駿夫にも
あまり興味のないわたしにとって押井守は唯一のアニメ界の好きな監督なのです。
『バルばら』『おにいさまへ・・・』(←keen様出番ですよ。)の出崎統は別 格。
しかし『パトレイバー2』では「?」、『攻殻機動隊』では「???」という感
じでもはやオシイマの「イイタイコト」とわたしの「カンガエテイルコト」が完
全に接触しなくなったようです。おそらく『イノセンス』では「?????」と
なることでしょう。そこでもうわたしはオシイマと完全訣別することにしました。
「さらばオシイマ、素敵な夢をありがとう!!」

では終わりです。書きたいことは山とあれど体力がついていかないので御仕舞で
す。ムニャムニャ。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


訂正☆ 投稿者:おKeen姐さん  投稿日: 3月 8日(月)14時31分39秒

園主兄ぃ、アタシの気が変わったんだ。
過去ログ収録時に、「花園のお蘭」というホランドの通り名を、「弾丸ナイフのお蘭」に訂正してくれるかい?
お手数かけてすまないが、ヨロシク頼むよ。

兄ぃ、お蘭、この話気に入ってくれたかい?(ニヤリ)


兄ぃ登場(続続・「悪の花園」篇) 投稿者:おKeen姐さん  投稿日: 3月 8日(月)11時45分37秒

「何かあったのか」

「いや、ホランドと遊んでただけだよ」

Keenがニヤリと笑う。フラリと教室に現れたのは、「悪の花園」を取り仕切る「園主兄ぃ」こと有礼句 誠(あれく・まこと)、人呼んで「鬼神のアレクセイ」だった。

「さっき兄ぃと入れ違いに浮世渡郎が来てたんだが、渡郎の情報によると、「邪兄図(じゃにいず)団」の奴らが、またウチにちょっかい出そうとしてるらしいよ。今回は「黄桜団」を使ってもめごとを起こさせた隙に、漁夫の利を狙ってるらしいんだがね」

「またか……懲りない連中だぜ。なあ、ホランド」

アレクセイの鋭い眼光をまともに受けたホランドは、一瞬頬を染めた。その実力とともに絶世の美貌で名高いホランドは「花園のお蘭」と呼ばれ、あちこちのグループが引き抜こうと、虎視眈々としているのだ。だが、アレクセイと強い絆で結ばれたホランドが、そのような誘いにのるはずもない。従って、腕ずくでも、とけしかけて来る者どもが後を絶たないのだった。しかしそれは皮肉にも、どんな強敵も撃破する「悪の花園」の名を高める結果 になってしまうのだが。

「「黄桜団」っていうと、あの、全員カッパ頭にした激ダサの奴らだろ。あんなの、ボク一人で充分だよ。アリョーシャが出るまでもないさ」

「俺の楽しみを奪うつもりか?」

ホランドの隣の机に腰掛けたアレクセイを見て、Keenは猫の阿若(アーニャ)を連れて、さりげなく教室を出て行った。

「お前にゃ、指一本ふれさせねえ……」

ぐいと肩を抱き寄せ、強く唇を吸う。軽く抗いながらも、それに応えるホランド。しかしふいに身を離すと、少し怒ったようにいった。

「あんまり子供扱いしないでくれる?ボクだって、降りかかる火の粉ぐらい払えるさ」

「お前には、傷をつけたくないんでな」

フフン、と鼻で笑うアレクセイの額には深い傷跡があり、それが人を恐れさせてもいたのだが、真相は、愛猫の阿若に引っ掻かれたものだった。

「危険を楽しむ男・アレクセイ」とも言われる誠と、清楚な令嬢「紫苑 愛」との運命の出会いは、まだ先のことになる。


「革命家としての笠井潔」の本質(13) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時50分0秒


 浮世渡郎さま
おひさしぶりでございます。

> 『愛と誠』ですか・・・やはりあっしとしましては「バンドしぶき浪の花」
> がなんとも・・・イヤ・・わからんでもいいんですそんなもん。(汗)

さすがは「黒猫館」のお仲間、きっちり「そういうところ」を押さえておられますね(笑)。

ちなみに、小学生時代に『愛と誠』を読んだ私は、当時はたぶん『浪の花』が「塩」を指す言葉だとは知らず、妙なネーミングだと、漠然と感じていたのではないかと存じます(笑)。


 アーニャ
> ともあれ、アリョーシャ、気をつけて行ってらっしゃい。

遅くなったが、見送りありがとう。おかげさまで、存分に楽しんできたよ(笑)。

> アリョーシャっ、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』が、作品賞はじめ、ノミネート11部門完全制覇したわっっっ!!!
> まあ、三部作の集大成、ということでしょうね。
> ともあれ、私も、嬉しくってよ。

うん。たしかに『王の帰還』だけでは弱いけれど、三部作全体を通して言えば、やはり立派な作品だったと私も思うよ。


 ホランド
> 押井守『イノセンス』

昨日はごくろうさま。正直なところ、それほど期待していなかったんだが、私個人としてはかなり満足のできる作品になっていた。ネタばらしになってしまうので、どこが気に入ったのかは言えないけれど。

ただ、すこし気になったのは「効果的とは言いがたい、CGの多用」だ。「車のボディーへの、景色の移り込み」など、地味に効果 をあげていた部分もあるけれど、これ見よがしの「CG背景」などは、しばしば手書きの人物と、齟齬を来たしていたように思うな。そうした点で、逆に手書きの良さを感じさせられるところも少なくなかったよ。

ちなみに初日(土曜)の2回目(PM11:45より)の上映にしては、客の入りが7割程度と、やはり「世界の押井守」も、日本ではまだまだマニア受けだな、と感じさせられたよな。でも、あの「作品世界」の過剰な「東洋趣味(オリエンタリズム)」や、「人形」の「日本趣味」は、「市場としてのアメリカ」を強く意識したものだったんだろうな。つまり、日本でそれほど稼げなくても、アメリカを中心とした海外で稼げるように、あの作品は作られていたんだと思う。――ま、それも致し方ないとは言え、ちょっと鼻についたのは事実なんだが……。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「革命家としての笠井潔」の本質(12) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時49分4秒


 Keenさま(つづき)

>> ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』

> 内面の演技では、ファラミアが『二つの塔』に続いて、お気に入りです♪(^0^*
> 「父に認められたい次男」という設定が、いかにも私好み、ということもありますが(苦笑)、そういう内面 の葛藤をよく表現していると思うのです。『二つの塔』では、フロドたちを解放するシーン。『王の帰還』では、父に拒絶されるシーンでの、クロース・アップの表情。……泣きました(T-T)。時間の都合もあるでしょうが、もうちょっと活躍してほしかったなあ〜☆(<Keenさま)

> 同感です! 園主さまも、ファラミアが死を覚悟して出撃するシーンに、ウルウルしてたみたいですよ(笑)。(<ホランドくん)

私が、ファラミアに強く感情移入してしまったのは、彼の悲劇が、父親に愛されない「子ども」の悲劇であり悲哀であったからでございましょう。つまり、ファラミアはすでに立派な大人ではございましたが、あのシーンで感じさせた「弱さ」は、「子ども」のそれであった。だから「あんなバカ親に愛されなくても良いではないか」と思いつつも、やはり彼に同情してしまったのだと存じます。

> よかったですね。兄をひたすら思慕する父に認められたいファラミア(だった?すっかり、名前忘れてる。パンフレットも買ってないし/笑)、死を覚悟で出陣する姿、その悲壮感がひとりの人間としての葛藤をあらわしていました。
> ただ、兵士を率いる長として、勝ち目のないと分かっている戦い。「おいおい、気持ちはわかるけど、私情だけでは勝てないわよー。一緒に戦う兵士(頭ごろんになっちゃった)のことも考えなくっちゃ!」とつっこみいれたくなりましたけれど。(<AOIさま)

> 同感。だからファラミアは好きだけど、あの出陣シーンでは、私は泣けませんでした。(<Keenさま)

これは私も同感。あんなどう考えても「自殺行為」でしかない突撃に、人柄の好さそうなファラミアが(いくら父に拒まれて、ショックを受けた後だとは言え)部下を伴おうと考えるわけがございません。

もちろん、あのシーンでは「決死の突撃」によって「ファラミアの悲しみの深さ」を表現しようとしたわけですから、部下を伴う突撃シーンそのものが問題なのではございません。「ファラミアの人柄」と「決死の突撃に部下を伴うという行動」の「矛盾」を、観客に感じさせてしまったことが(作劇上の)ミスなのでございます。

つまり、例えば「父に拒まれ、独りで突撃しようとするファラミア」に対し、彼の部下たちが、

「たとえ死の定められた突撃でも、貴方さまとともにあろうというのが、我々の意思でございます。我々は命令されたから貴方さまの下で闘ってきたのではございません。貴方さまになら命を預けられると信じて、自ら選んで貴方さまの下にあったのです。ですから止めだては無駄 でございます。我々はその死の瞬間まで、貴方さまと共にあるつもりでございます」

とでも言うシーンをちょっと付け加えておけば、あの突撃シーン(の矛盾)に対する観客の違和感はなかったのに、と考えるのでございます。

> ゴラムの扱いの問題

これについては、AOIさまのご意見に同感いたします。つまり、私の期待したのも、

> 私が期待していた旅は悪に魅入られ,長い長い時間を指輪とともに生きてきたゴラムがフロドとサムと指輪を捨てる旅をすることによって、どのように変貌するのか(2では、そういう期待を抱かせたのですが)指輪を手にする前の姿をどのように取り戻してゆくのかということであり、疑い続けるサムと最後まで信じようとするフロドとの三人が旅を通 して成長してゆく姿だったのです。
> そういう意味で期待は裏切られました。

ということだったのでございますね。

そして、こうした感想を持った者は決して少なくなかったのではないかと存じますし、ですからこそ私はそこに、「ファラミア隊の突撃」に見られた「作劇上の不手際」があったのではないかと考えるのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(13)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(11) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時48分2秒


 Keenさま
> さて、しつこくも竹本健治『闇のなかの赤い馬』についてですが、「少年回廊」の常連で、以前にこちらにも書き込みして下さったよたろうさまが、面 白いご意見を発表されました。これは園主さまはじめ、皆さまにもご紹介したいなあと思いリンクを打診したところ、↓のようなメッセージを添えての許可を頂きましたので、同書を既読の方はご覧下さいませ。なお、ネタばれしてますので、未読の方はご注意願います。

>             ※

http://www.geocities.jp/nanshiki_mystery_club/index.html

ご紹介、ありがとうございました。

よたろうさまの「「赤い馬」考」は、『闇のなかの赤い馬』の「可能性を開示するもの」であるよりも、むしろ結果 として、その「作品的不完全性を暴露する」態の、「確信犯的」な「補足的・続編」だと感じました。

すなわち、『闇のなかの赤い馬』の不完全性とは、作品が「前座探偵の推理」までで終っており、「名探偵の推理(=真の解決)」部分が脱落した『ユダの窓』の落丁本(であったが故に、中井英夫に過剰な妄想を抱かさしめた)のごときものだと感じたのでございます。

>  でも「軟式」なんて無責任な態度だなんて言われないかな?
>  (↑誰を想像してビクビクしてるかは内緒(笑))

よたろうさまのご期待どおりに、

「『軟式』を名乗ることが問題なのではございません。『軟式』を『硬式』に比して「容易なもの」「お手軽なもの」と位 置づけることが、『軟式』という独自の立場・思想にたいして、失敬なことなのでございます」

と言っておきましょう(笑)。

『愛と誠』

ずいぶん気に入っていただけたようで、私も嬉しゅうございます。

> 「黄桜団のシュン」

『黄桜』は「♪ カッパパー、ルンパッパ」の日本酒。砂土屋峻が組織していたのは緋桜団でございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(12)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(10) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時46分40秒


 AOIさま(つづき)

>> 一般人が「ミステリー」と「ミステリ」の区別も知らないで、平気でそれを同一視しているという事実

> これについては、『専門的(業界的)には』使いかたは違うのだろうとは思っていました。しかし、実際には不分明なのでは。というより、使いかたのコンセンサスがとれていないのでは?
> 例えば、「ミステリ」を辞書機能で検索してみると「ミステリー」と表示され
> 和英辞典では、
> [小説など]a mystery (novel, etc.).
> 大辞林では
> (1) 神秘的なこと。不可思議。なぞ。
> (2) 怪奇・幻想小説を含む、広い意味での推理小説。

> と出てきます。
> 辞書的には、あきらかに「ミステリ」と「ミステリー」とは同一のものなのですね。
> で、私見では、「ミステリー」とは(1) 神秘的なこと。不可思議。なぞ。を指し、「ミステリ」は
> (2) 怪奇・幻想小説を含む、広い意味での推理小説。
> を業界的にはいうのではないかと理解していますが。

私が問題としているのは、いかに「言葉が曖昧なままに、いい加減に使われているか」ということであって、 「辞書に、どう書かれているか」ということが問題なのではございません。なぜなら「辞書」の意味とは、現実の用法の後追いして、如何様にも変化していくものであり、決して特権的な「本来の意味」を示すものではないからでございます。

現に「推理小説」という言葉も、戦後の1946年に雄鳥社が「推理小説叢書」を発刊した際の、監修者の木々高太郎による命名に発する「たいへん新しい言葉(造語)」であり、英語の『mystery』とは比較すべくもな(く、新し)いものなのでございます。

たしかに『辞書的には、あきらかに「ミステリ」と「ミステリー」とは同一のもの』でございます。しかし、少なくとも出版業界・読書界では、「ミステリ」という言葉は、「ミステリー」というあまりにも広い範囲をカバーしてしまう言葉から、「推理小説」を区別 すべく「意図的に使われだした、後発の言葉(=専門用語・ジャーゴン)」であって、「ミステリー」の単なる発音違いなどではございません。それが「現実」なのでございます。ですからこそ、出版界では『UFO』や『ネッシー』や『超能力』に関する著作を、『ミステリ』と呼ぶような人はまずおりません。しかしその一方で、「ミステリ」という専門用語が作られるまでは、「推理小説」も「ミステリー」の範疇でしたから、いまだに「推理小説」を「ミステリー」と呼ぶことも認められておりますし、そのような状況下だからこそ、言葉の混乱が存在するのでございます。

しかし、たとえそうだとしても、言葉に関して相応の注意力をもった人ならば、『UFOもネッシーも超能力』も「ミステリー」なら『推理小説』も「ミステリー」だ、というのは「変だ」という程度の感想は持つことでございましょう。そして、そうした問題意識があれば、「ミステリ」という言葉の「特殊限定性」にも、自ずと気づきうるはずなのでございます。なのに、それを平気で混用できるというのは、その人が「言葉」というものに対し、いたって「無神経」な証拠だということなのでございますね。

ですから、私が『「ミステリー」と「ミステリ」』の「無神経な混用」という実例で示したかったことは、「専門用語の特権性」というようなことではなく、「言葉にたいする、一般 の無神経さの存在」ということだったのでございます。したがって、この問題は、AOIさまのおっしゃる、

> これについては、『専門的(業界的)には』使いかたは違うのだろうとは思っていました。しかし、実際には不分明なのでは。というより、使いかたのコンセンサスがとれていないのでは?

というものでもないのでございます。

誰にも(専門家にも)、特殊な専門用語を「一般人に強いる」ことはできません。つまり「コンセンサス」がとれているとかいないとかが問題ではない。問題なのは、専門家・非専門家を問わない「言葉にたいする、誠実さ」なのでございますよ。

そうした言葉に対する感性を持った人間ならば、その時々、使う言葉の「意味」が揺らいだりすることはありえない。逆に、一般 的に見られるような「言葉に対する、無神経さ」の持ち主ならば、その時々、言葉の意味が揺らぐために、いくら議論を重ねても、いっこうに議論が深まらないという事態を招くことも、十二分にありえるだろう、ということなのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(11)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(9) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時45分46秒


 AOIさま
> 『ジャンル(枠)』は『ほとんど意味のないもの』と言ったのは、映画・文学を鑑賞するにあったのことです。
> 「思考の枠」としてのジャンルは鑑賞の後に来るものではないでしょうか。
> 私には「戦争映画」は「戦争という題材を通して、人間の本源を描くもの」という以上には必要でなかったということです。

『「思考の枠」としてのジャンル』は『鑑賞の後に来るもの』ではなく、「鑑賞」という行為とともにあるものだと存じます。ただ、それが「鑑賞」時には明確に「言語化」され「意識化」されていないので、気がつかないだけだと存じます。言い換えれば、「思考の枠」というものは、(「時代」レベルの「パラダイム」を持ち出すまでもなく)本来的に、自覚(=認識)の困難なものなのでございましょう。したがって、

> 「ジャンル」を必要としているのは、分類しなければならない専門家であったり、批評家であって、あとは、ジャンルについて思考する場合や議論を他者と交わす場合でしょう。
> 「戦争映画」というジャンルという観念がなくても『バーディー』や『地獄の黙示録』は観れるし、語れる。

というご意見は、人が一般に、いかに「レッテル」に縛られ、かつ、それに「依存している」かという事実に、無自覚なご意見だと存じます。

> 「戦争映画」というジャンルの観念がなければ語れないということでしたら、また、「戦争映画」は「戦争という題材を通 して、人間の本源を描くもの」ということに疑義があるのであれば、まずは、「戦争映画」というのジャンルの定義を園主さまが出されるべきではないでしょうか。

私が言っているのは、「誰もが皆、それぞれ」に『ジャンルの観念』を持っており、それに依存し(ひとつの「物差し」とし)て、対象を測っているという事実でございます。そこでは、私の「個人的な定義」など何の意味もございません。

問題は、それぞれが多くの場合「自分の定義」(の存在)に無自覚であり、ただ「自分は何ものからも自由であり、客観的である」などという誤解に捕われている、ということなのでございます。(例えば、『人間の本源を描くもの』というのも、「思考の枠」としてのジャンル観念だと申せましょう)





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(10)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(8) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時44分26秒


 ハムちゃまさま
> 昨夜はまたセーヤがヒステリー起こしたようで!!!にゃんとも「黒猫館ファミリー」
> の一員としてはじゅかちいでちゅ!!!
> ムフ・・・
> しかしなぜセーヤがヤケになっているのか?実はちゃんと理由あるんでちゅよ!!!
> にゃんでも東京で買った詩集のカドがリックサックのなかで「1センチ」ほど折れた
> とか!!!まったく古本マニヤっていうのはそこまで神経質にならなきゃいかんので
> ちゅかね〜〜〜〜!!!

『古本マニヤ』というのは、そういうものでございますよ。――もっとも、『カド』が折れるような本を、無造作にリュックサックに入れてしまった、影姫さまの『古本マニヤ』としての「気の緩み」は、反省されてしかるべきものだと申せましょう(笑)。


 FIVEPLACESさま
> ただ、最初に私が「深読みし過ぎかな」と思ったのは、笠井潔自身が直木賞が欲しいかどうかといえばYESかもしれないけれど、「本格ミステリで直木賞が欲しいか」と言えばどうかなと感じたからでした。
> 私は笠井作品では矢吹三部作+『哲学者の密室』と『天啓の宴』『天啓の器』しか読んでいませんが、作者はそれほど本格に拘っていなかったように思えました(この感想には異論もあるかと思います)。「本格評論を書くこと」には熱心だと思われますが。

この点に関しては、「前説」に詳述したとおりでございます。つまり、FIVEPLACESさまのお感じになられてことは、正しかったということでございます。

> また、本格ミステリに賞を与えるには選考委員の壁が厚すぎるようにも思いました。もし本当に直木賞が欲しいのであれば直木賞向きの作品を書くのが近道ではないかなあと。

ですからこそ笠井潔は、文藝春秋の「本格ミステリ・マスターズ」叢書に、「ハードボイルド」形式の「連作短篇集」である『魔』を投じたのではないでしょうか。
つまり「矢吹駆シリーズ」のような「名探偵」や「館」の登場する、見るからに「本格ミステリ」というような作品では、「現時点では」直木賞の受賞は不可能だと考えていたからこそ、「本格ミステリ」の結構をもちながらも、「見るからに本格ミステリ」というわけではない『「ハードボイルド」形式の「連作短篇集」』という形式の作品を、わざわざ文藝春秋の「本格ミステリ・マスターズ」叢書に投じたのではないかと、私は斯様に考えるのでございます。

> しかし、『葉桜〜』がこれほどの評判になった理由の一つに、本格ミステリ・マスターズで刊行されたというのがあると思います。他社で単発の作品として出されていたら、今ほど多くの人には読まれず、「このミス」でも確か僅差で2位 だった『終戦のローレライ』に抜かれて1位が取れなかった可能性もあるかと。
> その点を取ってみても、本格ミステリ・マスターズが「本格の地位向上」に一役買ったといえるのかもしれませんね。

そのとおりでございます。笠井潔はそこまで考えて、「戦略的」に行動しているのでございますよ。たとえ「本格ミステリ」での直木賞を受賞が実現できなくても、それへの努力という「功績」が買われて、自分の株が上がることは間違いない、と考えての行動なのでございます。

> 直木賞の件、確かに「バランスの取れた物の見方」なのかもしれません。
> 園主さまの言われるように現役の推理作家で賞を辞退すると思われるのは島田荘司位 (直木賞に関しては横山秀夫が訣別宣言を出しましたね)のような気もしますし、出版元が文藝春秋という時点でそのような勘繰りは充分可能なのかなと少し思い直しました。直木賞・芥川賞にその手の裏事情は色々あるようですし

直木賞候補として声がかからなくなった今ならいざ知らず、かつての島田荘司は「直木賞候補」にその名を列ねることを同意した(『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』、『夏、19歳の肖像』)のですから、島田荘司が「賞の権威と利益」から自由な作家だとは申せません。
たしかに「江戸川乱歩賞」を落とされた経験などから「日本推理作家協会賞」の候補になることを拒否したという「過去」はあるようでございますが、それは今回の横山秀夫と同様、すでにその程度の賞などもらわなくても良いくらいの「プロの作家としての地位 」が確立されていたからだと申せましょう。

> (もっとも政治の働かない賞というのもなかなかないように思いますが)。

そのとおりでございます。

だからこそ、その政治性を「考慮しても仕方ない」と考えるのではなく、常にその政治性を「考慮しなければならない」のでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(9)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(7) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時43分29秒


幼い頃から抱え持っていた「世界への憎悪」を、時代の最先端を行く、過激な「新左翼の思想的リーダー」(の一人)というかたちで解消できると思ったかつての笠井潔は、しかし「連合赤軍事件」という思わぬ 陥穽に落ち込んで「海外逃亡」を余儀なくされ、『全共闘世代負け落ち組』の一人となってしまいます。
しかし、そんな笠井が海外で「雄伏」を余儀なくされている間に、日本では「その生温い「非本質的」日和見主義の故に、「連合赤軍事件」に責任を負おうとせず、それに距離を取ることで延命した、糸井重里・坂本龍一・高橋源一郎ら『全共闘勝ち残り組』が、欺瞞的に『若者たちの神々』として君臨している」と笠井に理解される状況を目の当りにした時、笠井潔の胸に去来した「感情」がどのようなものであったかは、容易に推察ができましょう。

笠井は「本来自分が占めるべき位置(=若者たちの神々)」に、糸井重里・坂本龍一・高橋源一郎ら『全共闘勝ち残り組』がついてしまったことを『欺瞞的』と感じて激しく「憎悪」し、笠井はその「失地回復」を行なうことによって、自身の考える「本来性」を回復しようとしたのでございます。
そして、その手段として「最終的に選ばれた」のが、「本格ミステリ」だったのでございます。

しかし、笠井潔の「本格ミステリ」利用は、いかにも「政治的」であり「欺瞞的」だと申せましょう。笠井潔は自身語っておりますとおり、彼は決して「本格ミステリ」だけが好きな人間ではなく、「ハードボイルド」も「冒険小説」も「SF」も「純文学」も同様に好きであり、もちろんそうした「小説」だけではなく「思想」「批評」についても強く惹かれた人間でございます。

一方、笠井潔の著作を読んでおればわかることでございますが、彼は自分と立場を異にする人間に対しては決して「寛容」ではございません。つまり、笠井潔の「非寛容」とは、笠井が憎悪する『八〇年代ポストモダニスト』が広めた『ヨコナラビの差異においては選択基準を説明しなくてもよい』という思想、すなわち平たく言えば「それが好きかこれが好きかの違いはあっても、それとこれに上下の区別 はありえない」という思想(日本的悪平等・相対主義)の対極にある「それとこれの差異は厳格に問われ評価され、その結果 にしたがって適切に位置づけられなくてはならない。無論、その場合には、その位 置付けの論理的根拠は厳密に問われてしかるべきである」というものなのでございます。
もちろん、この考え方自体はいたって「正しい」ものなのでございますが、笠井潔の場合に問題となるのは、いつでもこうした「厳格さ」を、他人には課しても自分には課さない、という点なのでございます。

ともあれこのような「非寛容」の故に、笠井潔は、元来、ミステリばかり読んでいる「ミステリ・マニア」という存在を、決して「肯定」的にとらえるような人間ではないのでございます(オタク嫌い)。なのに、そんな彼が「ミステリ・マニア」出身の「本格ミステリ」作家と手を組み、「ミステリ・マニア」出身の若い評論家を結集して「探偵小説研究会」を設立するというのは、ひとえにそうした行動が、笠井潔個人にとっては「本格ミステリの地位 向上」が目的なのではなく、個人的な「二十数年来の失地回復」が目的だからなのでございます。

「左翼理論家」として『神々』の位置につきたかった笠井潔は、苦い挫折を経験したあと、今度は本来自分が批判してきた『八〇年代ポストモダニスト』と同じ「私は君たちと同じ、仲間だ」という甘言を弄することで「本格ミステリ・マニア」たちに取り入り、その勢力を利用して、再度「天」に攻め上ろうとしているのでございます。

つまり、革命のルシファー(堕天使)は、「公平な評価を」と願う凡庸な人々(本格ミステリ作家)の望みにつけ込み、彼らを誑かして利用することで、復讐心に彩 られた「緋色の革命」の成就を、ふたたび目指しているのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(8)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(6) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時42分33秒


笠井潔は、今でこそ「本格ミステリ」の代表的「イデオローグ(党派理論家)」におさまっておりますが、決して最初からそれを目指していたというわけではございません。笠井は、ミステリである『バイバイ、エンジェル』と、左翼思想の観念性の乗り越えを目論んだ思想・評論書『テロルの現象学』でデビューしたことからも明らかなとおり、まずは小説家か思想家として、世に「復帰」したかったのでございます。
しかし、当時、笠井潔の「ミステリ」は黙殺され、笠井は失望にまみれて当時流行していた「SF・伝奇アクション」の方へと転向いたします。それと同時に当時の笠井は、左翼批判一辺倒から、サブカルチャー評論や当時の流行であったコリン・ウィルソンに代表される「オカルト」方面 にも、その批評対象を拡げてまいります。
また「SF・伝奇アクション」ブームが一段落した後は、「本格SF」や「冒険小説」「ハードボイルド」にも挑戦いたしますが、これらはことごとく失敗して、結局「小説家としての笠井潔」に残されたのは、その原点であった『バイバイ、エンジェル』に始まる「矢吹駆シリーズ」に代表される「本格ミステリ」ということになったのでございます。

当然のことながら、笠井潔にも「全共闘世代」の友人は存在しており、その代表的な人物が、角川文庫版『バイバイ、エンジェル』の解説者である竹田青嗣でございます。こうした方面 からの強い「党派的プッシュ」もあって、「評論家としての笠井潔」は日本の評論界のなかでは、「ユニークな存在」として「一定の位 置」を与えられてはおります。
しかし、かつて笠井潔が、ながらく「思想・批評界の中心人物」であった柄谷行人を高く評価する(好意的な)姿勢を示して見せても、柄谷は、笠井の嫌いな『ポスト・モダニスト』の代表格である浅田彰との関係を重視する姿勢を堅持して、ついに笠井になびくことはなく、自ずと笠井は日本の「思想・批評界」において「主流」が加わることは適いませんでしたし、また、そうなれる可能性もほとんど断たれてしまいました(後には、「柄谷行人への接近」を、法月綸太郎が再演いたします)。

ですから、笠井潔が「自分に見合った位置(=階級)」に属するためには、結果 としては、彼に残された「ミステリ」の世界から「成り上がる」しかなかったのでございます。

前述したように、笠井潔は決して「本格ミステリ」だけに固執してきた人間ではなく、むしろ「流行」には敏感に対応してきた人間で、その意味では、FIVEPLACESさまの、

> 笠井潔自身が直木賞が欲しいかどうかといえばYESかもしれないけれど、「本格ミステリで直木賞が欲しいか」と言えばどうかなと感じたからでした。
> 私は笠井作品では矢吹三部作+『哲学者の密室』と『天啓の宴』『天啓の器』しか読んでいませんが、作者はそれほど本格に拘っていなかったように思えました(この感想には異論もあるかと思います)。「本格評論を書くこと」には熱心だと思われますが。

というご感想は、まったく正しいのでございます。

つまり、笠井潔が、近年「本格ミステリ」に固執してきたのは、ここ15年来の「新本格ミステリ」ブームに便乗するのが、「戦略的」に一番「有効」だったからであり、決して「本格ミステリ」そのものが「特別 に好きだから(固執しているから)」ではないのでございます。

笠井潔が「目指しているもの」は、「本格ミステリの地位向上」などではなく、それを「手段」とした「自らの失地回復」なのでございますね。だからこそ妥当に、笠井潔個人は『それほど本格に拘っていなかったように』見えもすれば、その反面 、笠井が依存する「本格ミステリ」を権威づけるべく『「本格(※ ミステリ)評論を書くこと」には熱心だ』とも見えるのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(7)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(5) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時41分11秒


しかし、なにしろ笠井潔は「戦略的政治家」でございますから、「大衆」を敵にまわすような露骨な表現は謹んでその本音を隠蔽し、時には自身を(自身が嫌悪する)「戦後民主主義的」平等主義者であるかのように「擬態」することすらも否みません。

その何よりの証拠が、笠井潔が実質的リーダーをつとめる「ミステリ界の前衛党」たる「探偵小説研究会」において、ずっと自身が「リーダーであることを隠蔽」し続けている事実でございましょう。

例えば、「探偵小説研究会」の「編著」になる『2004 本格ミステリ・ベスト10』(原書房)では、「探偵小説研究会」は(奥付のページで)次のように紹介されております。

『1995年に創元推理評論賞の選考委員と受賞者らを中心に結成。おもに探偵小説に関する多面 的な研究、評論活動を行なっている。編著に『本格ミステリ・ベスト100 1975 〜1994』(東京創元社)、『本格ミステリ・クロニクル300』(原書房)などのほか、各メンバーが各紙誌書評、評論活動などで活動している。
2003年末現在のメンバーは、市川尚吾・岩松正洋・円堂都司昭・大森滋樹・笠井潔・佳多山大地・小松史生子・小森健太朗・笹川吉晴・椎谷健吾・末國善己・千街晶之・鷹城宏・竹内彰・巽昌章・田中博・つずみ綾・蔓葉信博・戸川安宣・中辻理夫・濤岡寿子・並木士郎・法月綸太郎・波多野健・廣澤吉泰・諸岡卓真・柳川貴之・横井司』

言うまでもなく『創元推理評論賞の選考委員』だったのは、笠井潔・巽昌章・法月綸太郎の3人であり、『受賞者』は千街晶之・鷹城宏・濤岡寿子・佳多山大地などでございます。そして、あえて付け加えておくならば、戸川安宣は『創元推理評論賞』の勧進元である東京創元社の、当時の社長(編集者)でございます。

われわれ一般人の常識からすれば、こうしたグループのなかには、自ずと非公然的な「階級」が存在するものだと申せましょう。
しかし、この「紹介文」には、誰が『創元推理評論賞の選考委員』も書かれていませんし、現会員の名も「戦後民主主義的」、つまり「見掛け上の、平等強調主義的」、言い換えれば『日本型悪平等』的に「50音順」
となっており、事情を知らない読者は、彼ら28人が『すべては均質化してのっぺりとした平面 を……っていうんじゃないのね。そうじゃなくて差異の歴然とした(!)項を暴力的に並列するという極めてダイナミックな』関係にあるかのように「錯覚されられてしまう」のでございます。

例えば、歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』(文藝春秋「本格ミステリ・マスターズ」)に「歌野晶午論」を書いた、「探偵小説研究会」の柳川貴之が(大塚英志いうところの)『何者でもない』『素人』であることは、柳川の「歌野晶午論」とやらを読んでいただくだけで容易にご理解いただけましょうが、いずれにしろ柳川のような『素人』が、公募評論賞の『選考委員』をつとめうる「批評家として、プロの力量 を持つ」笠井潔・巽昌章・法月綸太郎の3人と、「50音順」で「平等」に紹介されているところが、露骨に『八〇年代ポストモダニスト』的(「ヘンタイよいこ新聞」投稿欄・的)「欺瞞」であり、さらに悪質だと言いうるのは、「探偵小説研究会」における「平等」の欺瞞(=演出)は、自己(笠井潔)が批判している相手である『八〇年代ポストモダニスト』への「擬態」的な瞞着である、という点なのでございます。(しかし、「探偵小説研究会」という「笠井潔の趣味」を露骨に反映したサークル名が、そうした欺瞞をハッキリと裏切っておりましょう)

つまり、笠井潔の行動というのは、徹頭徹尾「政治的」なものであり、決して「評論家」的に「首尾一貫した(誠実な)ものではない」のでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(6)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(4) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時40分12秒


『八〇年代』に『ヨコナラビ』の思想を普及しようとした 『ポストモダニスト』たちは、大塚英志の書いているとおり『全共闘世代勝ち残り組』でございます。それに対し、笠井潔は、六〇年代において過激な暴力革命をめざす「新左翼」の一グループに「党派理論家」として加担し、同じ方向性をもっていた「連合赤軍」の「仲間殺しによる自滅(=総括殺人)」を目の当りにすることで、自らの方向性の誤りに直面 して、単身パリに「逃亡」せざるを得なかった――という事実は、本人がくり返し語っているとおりでございます。 つまり笠井潔は、自業自得による、歴然たる「全共闘世代負け落ち組」の一人だったのでございます。

しかし、笠井潔が、糸井重里・坂本龍一・田中康夫ら「軽やかなポストモダニスト」を「憎悪」する理由は、単に彼らの思想の「お手軽さ」や「無責任さ」にあるのではございません。笠井潔自身「党派理論家」として「多くの仲間を、誤った方向に導いたこと」については「一度も謝罪したことはない」のですから、他人の「同じような過ち(=無責任)」をなじることなど、本来できることではないはずなのでございます。

なのに、笠井潔はなぜ、自分の責任は棚上げにしてでも、『八〇年代ポストモダニスト』を批判したがるのか? 「全共闘世代負け落ち組」の「ルサンチマンの発露」でしかないと冷笑されないためにもと、東浩紀ら「団塊ジュニア」と結んでまで、『八〇年代』『ポストモダニスト』を批判したがるのか? ――それは、笠井潔が(糸井重里らとは対称的に)本質的・生理的に「『ヨコナラビ』の思想」つまり『日本型悪平等』を嫌悪する「反・日本」的、「反・戦後民主主義」的な「階級主義者」だからに他ならないのでございます。「東京が一面 焼け野原になった光景を、高台から見おろしてみたい」という「戦後民主主義的日本への破壊願望」を、(その初期には)何度の語らなければならなかったような、「真っ黒なルサンチマン」に満ちた心性の持ち主だったからなのでございます。

つまり、笠井潔は単に「本格ミステリで直木賞が取れないのは不公平だ」と考えて「ジャンル的平等」を目指すような人物では、金輪際ございません。笠井が「本格ミステリで直木賞を取ろう」と画策するのは、直木賞が「大衆文学」をその対象とした本質的に「大衆指向」のある賞であり、それが「本格ミステリ」という「知的エリート指向」の強いジャンルを疎外しているという事実が、「全共闘世代」における「勝ち残り組」と「負け落ち組」(である自己)との関係を連想させて、我慢ならないからなのでございます。

つまり、笠井としては「本当に優れた人間が評価され、高い位置につき、大衆をリードしていくのは、当然のことである」という感覚なのでございますね。なのに「やつら(『八〇年代ポストモダニスト』や、現行の「直木賞」主流派の大衆作家)は、大衆に迎合し、その歴然たる階級的(知的)差異(=優劣)を隠蔽することによって、自己の地位 を確保しているのだ」と考えているのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(5)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(3) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時39分2秒


では、笠井潔が憎悪した『八〇年代』『ポストモダニスト』の活動(運動)とはどのようなものであったのでございましょうか。

笠井潔や糸井重里らの『全共闘世代(=団塊世代)』と東浩紀ら「団塊ジュニア」に挟まれた、「狭間の世代」に属する大塚英志は、新著『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(講談社現代新書)のなかで、それを次のように説明しております。

『糸井重里はいかなる勘違いを若者たちにさせることで「後期新人類」を誕生させたのか、そして、そもそもそれはいかなる目的であったのか。誰もが時代の仕掛人と勝手に称すことができた八〇年代にあって(中略)、けれども糸井重里を含む何人かの人間は八〇年代という実像の成立に確信犯的に関わっている。ぼくにはそれが全共闘世代勝ち残り組によるある種の(仮想の、と形容していいかもしれない)左翼革命であったように思えてならない。(中略)
 それでは八〇年代初頭の「革命」とは何だったのだろう。例えば、単行本にまとめられた「ヘンタイよいこ新聞」に目を通 して気づくのは、読者投稿の中に細野晴臣や南伸坊といった人々が「素人」たちに混って掲載されていることだ。今となっては珍しくない事態だが、「ヘンタイよいこ新聞」は投書欄という場を介して、意図的にプロと素人の差を喪失させようとしていた感がある。同じことは(※ 糸井重里が司会をつとめた、NHKの若者討論番組である)「YOU」にもいえるのではないか。』

『団塊世代の送り手たち(※ 全共闘世代の勝ち残り組)は何故、自らと一世代下の素人たちの差異を無いもの、としようとしたのだろう。「素人」たちをかくも甘やかしたのだろう。いずれにせよ、そのおかげで「新人類」たちはすっかり勘違いをして、例えば以下のように屈託なく語るに至るのだが。
〈全てが等価だっていうのはあるよね。(※ 田中)康夫ちゃんもいってるけどね。すべては均質化してのっぺりとした平面 を……っていうんじゃないのね。そうじゃなくて差異の歴然とした(!)項を暴力的に並列するという極めてダイナミックな運動なんだよね〉(田口賢司の『週刊本28 卒業』における発言)
 すべてが「等価」であることの演出のために、何者でもなかった彼らがメディアの中で語ることを許されているのだという自覚は、この時点の田口にはない。』

『(※ 糸井重里の)「おいしい生活」(※ という、時代を象徴する傑作コピー)を支持した時点での上野(※ 千鶴子)が、同時に支持していた事態がいかなるものであったかをうかがい知ることができる。それは、消費というふるまいにおいて、上下間の差異の根拠をただの記号上の差異とみなすことで「階層」を消滅させようというもくろみのように思う。ヨコナラビの差異においては選択基準を説明しなくてもよいと八二年の時点で上野は語るが、こういった意味の放棄という「暴力」が水平化には必要だった。それはいわば消費による「階級」の解体であり、ぼくが、八〇年代初頭の消費社会の担い手たちの行動を革命と形容するのはそれゆえである。だからこそ団塊世代の神々(※ 糸井重里・坂本龍一・田中康夫らは、当時『朝日ジャーナル』誌の連載インタビューのタイトルを受けて、『若者たちの神々』と呼ばれた)は「新人類」という素人と自らの階級差はない、と説いた。何者でもない彼らを引き上げることで、「階級」を支える意味の秩序を解体しようとしたのである。』

つまり、笠井潔が「憎悪」した『八〇年代ポストモダニスト』の運動とは、『ヨコナラビ』の思想の普及であり、これを笠井潔風にいい変えれば『日本型悪平等』思想の普及だったのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(4)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(2) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時38分5秒


では、「なぜ笠井潔が、単純に「直木賞の公平な分配」を目指すだけの人間だとは考えられないのか?」と申しますと、それは笠井が『日本型悪平等起源論』(島田荘司との共著・光文社文庫)という著書を持つほど、日本的な「横並びの平等」を嫌悪する人間だからなのでございます。つまり、彼は「本格ミステリで直木賞が取れないのは不公平だ」などと、単純に言ってのけられるような「戦後民主主義的」な人間では、決してないのでございます。

例えば、東浩紀は、笠井潔との往復書簡集『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)で

『確かに、笠井さんが指摘されたように、八〇年代、マスコミで若手知識人=ポストモダニストとして取り沙汰された人々のなかには、六〇年代の運動の総括という点では非倫理的だった方がいたかもしれません。それを弾劾しなければならない立場があるのも理解できます。
 しかし、あえて率直に言わせていただきますが、僕はその問題にほとんど関心をもつことができない。というのも、僕には、そこで行なわれた「転向」や「闘争」なるものは、一部論壇あるいは運動業界(そういうものがある、と僕の友人の市民活動家からはウンザリした表情で愚痴られたことがあるのですが)内部の、しかも特定の世代だけが関わった小さなエピソードにしか思われないからです。
 実際、糸井重里や高橋源一郎が「一九六九年を前後する断層についての徹底的な思考を回避し、連合赤軍事件の共犯者としての政治世代には避けることのできないマルクス主義との闘争に日和見を決め込ん」でいたのだとしても(おそらくそのとおりなのでしょうが)、そんな事情が、糸井のコピーにつられてセゾングループになけなしの小遣いを注ぎ込み、高橋が登場するワープロのポスター(あれは八〇年代でしたか?)を呆然と見上げていた当時の僕に何の関係があったでしょう。糸井や高橋の言葉は、笠井さんが指摘した「闘争」の場所を単純に迂回し、消費社会が用意した新しい回路を通 って高校生の僕に届いてしまっていた。ポストモダニズムの流行も同じことです。その働きに全共闘の総括は関係ありません。マルクス主義も関係ない。』

『かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験をもつ僕としては、とにかく、この往復書簡が、団塊と団塊ジュニアが野合していまさら新人類批判を行なっている、と捉えられるのがもっとも不愉快でした。その理由は、第五信でも書いたとおり、そもそも僕は、個人的な記憶をもたない六〇年代や七〇年代より、八〇年代のほうにはるかに強い親近感を抱いているし、また、抱かざるをえないからです。一九七一年に生まれた僕としては、全共闘世代から「一緒に八〇年代(※ ポスト・モダンの時代)を批判しよう」と言われても、「それはそちらで勝手にやって下さい」としか答えようがない。』

と書いて、笠井潔が未だに『糸井重里や高橋源一郎』(あるいは、坂本龍一) といった、笠井と同じ『全共闘世代』の『ポストモダニスト』の、『八〇年代』における活動を憎悪している事実を指摘しております。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(3)」につづく)


「革命家としての笠井潔」の本質(1) 投稿者:園主  投稿日: 3月 8日(月)00時36分43秒

みなさま、レスが遅れてしまい、たいへん失礼いたしました。
さて、本日は、FIVEPLACESさまがご提起下さいました「笠井潔の問題」について、詳しく論じてみたいと存じます。


FIVEPLACESさまは、私の「笠井潔は、本格ミステリで直木賞が取れるようにと、いろいろ画策している」という見解について、次のような疑義を呈されてのでございます。

> ただ、最初に私が「深読みし過ぎかな」と思ったのは、笠井潔自身が直木賞が欲しいかどうかといえばYESかもしれないけれど、「本格ミステリで直木賞が欲しいか」と言えばどうかなと感じたからでした。
> 私は笠井作品では矢吹三部作+『哲学者の密室』と『天啓の宴』『天啓の器』しか読んでいませんが、作者はそれほど本格に拘っていなかったように思えました(この感想には異論もあるかと思います)。「本格評論を書くこと」には熱心だと思われますが。
> また、本格ミステリに賞を与えるには選考委員の壁が厚すぎるようにも思いました。もし本当に直木賞が欲しいのであれば直木賞向きの作品を書くのが近道ではないかなあと。(2004年2月29日)

FIVEPLACESさまのおっしゃる、

> 笠井潔自身が直木賞が欲しいかどうかといえばYESかもしれないけれど、「本格ミステリで直木賞が欲しいか」と言えばどうかな

という疑問は、正しいと存じます。そして、それは『笠井潔が「直木賞の、本格ミステリによる、受賞」まで射程に入れて『本格ミステリ・マスターズ』を企画し、その編纂にかかわった』という「私の読み」と、決して矛盾するものではございません。すなわち、

(1) 笠井潔自身は、「本格ミステリ」での直木賞受賞に固執するつもりはない。

しかし、

(2) 「本格ミステリ」で直木賞が受賞できる道をつける、または道をつけることに大きく貢献したと「業界関係者から評価される」ことは、笠井潔の「本格ミステリ業界」での「地位 」をさらに確かなものにする。

ということなのでございますね。
つまり、問題は、実際に「本格ミステリで、直木賞が取れるようになる」ことであるよりも、むしろそのような「業界への貢献を示すこと」が重要なのでございます。そうすれば、笠井潔の考え方には異論のある本格ミステリ作家でも「ひとまず感謝」しなければなりませんし、本当に誰かが「本格ミステリ」で受賞することにでもなれば、それは「笠井潔の貢献」によるものだ認めざるを得なくなるからでございます。

ですから、笠井自身としては「自分が受賞できるに越したことはない」けれども、たとえそれが適わなくて他の本格ミステリ作家が受賞したとしても、「本格ミステリ業界」内ではその受賞の「半分」は「笠井潔の功績」だと評価されましょうから、それはそれでさらに業界内での地位 を強化できるというメリットあるのでございます。また実際の受賞には至らなくても、それに向けての笠井の貢献は、当然評価されるのでございますね。つまり、いずれにせよ笠井潔にとって、そうした活動は「結果 はどうあれ、自分の業界内での地位を強化することができる」ものだということなのでございます。

――そしてこれが「戦略的思考」というものなのでございます。

ですから、笠井潔が「本格ミステリでの直木賞受賞の実現」を目指したとしても、それは単に「自分の所属する業界への利益誘導」ということではございません。実際、自分の所属している業界への利益誘導が達成されれば、それは自分の利益にもなるのですから、その達成に吝かではないにしろ、たとえそれが達成できなくても、それをやっているというパフォーマンスもまた、決して自己に無益なものではないのでございます。

これを分かりやすく譬え話にいたしますと、自分の「選挙基盤」の土地に新幹線の駅を(あるいは、空港を)作るという活動をすることは、それが達成されようとされまいと、彼のに結びつく、ということなのでございます。
つまり、今回の場合、笠井潔はこのような「地元利益誘導型の政治家」であり、「本格ミステリ業界」はそういう「政治家」をありがたがる「田舎(=地方)の選挙民たち」だということなのでございます。





( 以下は「「革命家としての笠井潔」の本質(2)」につづく)



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