●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2004年5月下
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憎むべき日本人(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月30日(日)16時29分17秒

 Keenさま
> 八甲田山対策に、今日、病院へ行ってきました。抗アレルギー薬出してもらったので、これで治まるといいのですが。それと、先日の血液検査の結果 が出てて、久しぶりに全項目が正常域に入ってました〜!(^0^*
> 精進したかいがありました。これで心置きなく、やおいに励めますわ。フフフ♪

 花粉症が良くなるのはいいけど、また早速『やおい』かい・・・(-_-;)。

> 私は緑が好きである。(<クラウスさま)

 竹本さんもそうだけど、中井(英夫)さんもそうですよね。ピーマンの偽物っぽい緑はきらいだけど、自然な緑は好きだと書いていたと思います。


 AOIさま
> ちょっと、気になったのでお見舞い(笑)。

 Keenさま、園主さまへのお見舞い、ありがとうございました。

 園主さまは、病院に行くこと自体に抵抗はないみたいなんだけど、わざわざそのために遠くまで出向くのが面 倒なようですね。基本的に、趣味のこと以外は、面倒くさがり屋だから(笑)。

> 園主さまも花粉症かどうか不明とのことですが、耳鼻科でアレルゲンは簡単に調べられますのでお勧めします。

 様子を見て、ボクからも耳鼻科へ検査に行くように勧めたいと思います。ご助言ありがとうございました。

 ところで、何かとお忙しいんでしょうけど、またお暇を見て書き込みに来て下さいね。お待ちしております(^-^)。


 園主さま
> みなさま、先日来、Keenさまが八甲田山の雪中行軍(花粉症との戦い)中だったことはご承知のとおりでございますが、じつは私も一週間ほど前から八甲田山の雪中に踏み迷い、昨日などはたいへん苦しい行軍を強いられていたのでございます。

 この十日間ほどはぜんぜん雨が降らず好天つづきでしたから、花粉症の人には良くなかったんでしょうね。その前一週間ほどは、梅雨かというくらいに毎日雨ばっかり降ってたのに、うまくいかないものですねー。


 ところで、先般の「イラク拉致被害者および家族バッシング」に続いて、今度は「北朝鮮拉致被害者家族バッシング」があったようですね。

 今回の場合、自国内で他国の工作員に拉致された被害者たちの「自己責任」を問うことはほとんど不可能だし、その意味で国民を守れなかった政府が、被害者の救出の責任を全面 的に負わされるのも当然のことです。だから北朝鮮による拉致被害者の家族をバッシングするような合理的な根拠は、どこにも見あたらない。にもかかわらず、被害者家族へのバッシングがなされたのは、それが、拉致被害者家族の政府にたいする「物言い」が「偉そう」だとか「政治家気取り」だとかいった、感情的な反感に由来するものだからなんでしょうね。でも、北朝鮮拉致被害者家族の「物言い」がそのようなものになったというのは、ひとつには「北朝鮮への(差別 的)反感」と「弱腰外交だった日本政府への反感」の発露として、日本国民の多くが、過剰に拉致被害者家族を「持ち上げた」せいでもあるんだと思います。

 つまり多くの日本人は、北朝鮮拉致被害者およびその家族に同情したから、彼らを支持したのではなかった。単に「北朝鮮への(差別 的)反感」と「弱腰外交だった日本政府への反感」の代弁者として、彼らを支持したに過ぎないんです。だから、彼らの「物言い」が勘に触りはじめると、今度は彼らのおかれた境遇を思うこともなく、手の平を返したようにバッシングすることになったのでしょう。

 いずれにしろ、こんなことができるのは、彼らが基本的には「その他大勢」に身を潜める「無責任」な「匿名」者だからでしょう。物かげから、数に任せて、弱い者イジメをする、しか芸がないなんて――まったく、情けない日本人どもです。「日本の恥」とは、彼らのような存在のためにある言葉だと、ボクはむしょうに腹がたって仕方がありません。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


憎むべき日本人(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月30日(日)16時28分21秒

 みなさん、こんにちは! とうとうイラクでは日本人ジャーナリスト2名が殺害されてしまいました。公にされている範囲では、民間日本人の殺害は今回が初めてです。アメリカ追従の日本政府の方針に、必ずしも同調しない民間日本人が殺害されたというのは、人の命に軽重はないとは言え、日本人外交官が殺されたのとは、その意味するところに大きな違いがあります。

 つまり、外交官なら一応は日本政府の立場を是認(追認)していると理解されても仕方のない立場なんですが、民間人はそうとは言えない。事実、先般 、イラクで拉致され解放された民間人については「日本政府の方針と考えを同じくする人たちではないということが確認できたので解放した」と拉致グループは声明を出していました。しかし、今回の襲撃では、襲撃目標がどういう考えの持ち主かを問うこともなく、問答無用で殺害した模様です。犯行グループが、襲撃した車に乗っていたのが日本人のジャーナリスト(民間人)だとハッキリ認識していたかどうかはまだ断定できないところでしょうけど、わかっていたとしたら、彼らは「日本人」を、「政府関係者」と「民間人」との区別 なく、「敵」視したことを意味します。つまりこれは、イラクにいる日本人は、その目的や身分の如何にかかわらず、生命の危険にさらされた状態にある、ということです。

 イラクの人々のためにボランティアとしてイラク入りする人も、イラク占領の真実(占領軍の欺瞞)を世界に伝えるためにイラク入りするジャーナリストも、国籍が「日本」であるというだけで、イラクの一部の人たちから殺害されるほどに憎まれてしまっているという現実。しかし、この非合理な現実を「すべからく日本人は敵である」と考える「一部イラク人」の責任に帰することはできないでしょう。なぜなら、ボクたち日本人は、その考えの如何にかかわらず、自国に対して一定の責任を負っているからです。
 もちろん殺されなければならないほどの責任を負っているわけではないですけれど、そうした議論は国内的なものでしかなく、現にアメリカ軍によって罪もない民間人を多数虐殺され、今も虐殺されているイラクの人々にとっては、そのアメリカに追従する日本は「敵」以外の何者でもないからです。理性的に考えれば、日本人にも色んな人がいて、いろんな考えの持ち主がいるということはわかるんですが、現在のイラクは、日々ひとの命がやりとりさせる極限状況にある「戦場」なのですから、そんなところで命がけの抵抗戦を戦っている人たち一人ひとりに、完全に理性的な判断を求めるのは無理というものでしょう。

 一方、このような状況にもかかわらず、日本政府は自衛隊の多国籍軍参加のために動き始めているとか。まさに火に油を注ぐ所業だと言えるでしょうね。今回もその活動を「後方支援」に限定されるよう、米英に働きかけをおこなっているとのことですけど、毎度のことながら露骨に欺瞞的なやり方だと思います。「後方支援」という言い訳さえ確保できれば、「参加」後は「既成事実」を積み重ねていけるし、そうなれば、これまで自衛隊の活動を制限していた各種の縛りを、さらに「なし崩し」にしていける。政府の考えていることはそれ以外にないのですが、痴呆状態にある今の日本人は「後方支援くらいはすべき」だとか「人道支援なら当然すべき」だと、投げ与えられた餌に跳びついて、額面 どおりの評価しかできなくなっています。

 今後ますます、イラクに入る人たち、イラクに残る人たちの活動は、文字どおり「命がけの活動」となるでしょう。「命」という最大の対価を賭けた上での彼らの活動に、「自己責任」の不在を見るような人間は、文字どおり「平和ボケ」の痴呆としか言い様がないのではないかと思います。





( 以下は「憎むべき日本人(下)」につづく)


鬼の攪乱? 投稿者:AOI  投稿日: 5月30日(日)12時03分42秒

こんにちは。
ちょっと、気になったのでお見舞い(笑)。

>抗アレルギー薬出してもらったので、これで治まるといいのですが。(Keenさま)

>医師の簡単な問診の結果も誘因が花粉とは限らないものの何らかのアレルギー症状であろうとのことでございました。(園主さま)

文面を読んだ限りでは、Keenさまが花粉症だったのかどうかわからないし、園主さまも花粉症かどうか不明とのことですが、耳鼻科でアレルゲンは簡単に調べられますのでお勧めします。今後のためにもアレルギー症状を引き起こすものが何なのか知っておいた方がいいと思いますよ。
花粉症の場合、粘膜などが刺激に対して過敏になっているので、本来アレルゲンでなくても、ハウスダストでくしゃみ、鼻水などの花粉症状を引き起こしてしまいます。ご用心!!
花粉症なのに吹雪のようなホコリを浴びるなんて無謀です(笑)。
また、アレルゲンで意外に多いのがハウスダストです。
友人が絹の下着をつけると痒くなるので、調べてみたら、やっぱり!
パジャマも下着(未使用)もいただいっちゃったことありますけど(笑)
ご自愛くださいませ。

>時に「ここ大丈夫なのかな?」と思わないでもないのでございますが、まあ四十年間お世話になり、大過なくすごさせていただいているのでございますから、特別 な異状でもないかぎりは(家からも近いことだし)「ここでいいか」と思っているのでございます(笑)。

医師がネットワークをもっていて、連携できるかということが町医者には必要なのでしょうね。

母が長くかかっている内科医も、80歳になったということで点滴をすることもやめました。
名医という評判もあり、医師会の会長などもしていた方だったのですが、徐々に診療からはなれようとされているのが伺えます。しかし、さすがに必要だとなると、検査などの可能な病院を迅速に紹介します。そういうこともあって母の癌も早期に発見できました。
かかりつけ医の利点は長い付き合いの中で常態や体質を熟知していて、そういう安心感が医療には大切なのだと思いますが、自院でできないのであれば、どれだけ他の医療機関と連携できるか、迅速な対応ができるかということが医師として力量 にかかっているのでしょうね。

厄年だったかしら?
くれぐれもお大事にね!



雪中行軍と新刊案内(6) 投稿者:園主  投稿日: 5月29日(土)23時38分19秒


 ホランド
>  「誉めたい」という気持ちもホントなんだなんだから、ここまで言っちゃうと、やや酷かなという感じもしないではないですけど、・・・でも誰かが指摘して釘をさしておかないと、際限なく「ごますり推薦文」が跋扈すること(=ごますり合戦)にもなりかねないからなあー。

「推薦文」が、「推薦の意志」をもって書かれているというのは、誰にでもわかることだ。その意志が窺えないような文章は「推薦文」とは言えないからな。

でも「推薦文」の背後にあるのは、決して

 (1) 推薦の意志

だけではない。それは何より、しばしば、

 (2) 原稿料をもらって書く売文

であるし、さらに言うと、私が指摘した、

 (3) 賛嘆(推薦)する側の権威づけ(箔付け)

でもあったりする。
つまり「推薦文」とは、しばしばこの3つの要素に支えられて書かれるんだが、一般 読者は(2)や(3)には思いが及ばないし、文筆業界にあるていど通じている人間でも、(2)までなら意識していても、(3)に対する認識はいたって曖昧だ。だから(3)は、指摘するに値することなんだよ。

ある事象を一面的にとらえても、それは正しい理解とは言えない。例えば、イラクへの自衛隊の派遣は「人道支援」であるという説明は、ごく限られた一面 でしかなく、現実の正確な理解には、ほど遠いものだ。同様に、「推薦文」をただ「推薦の意志」のみによって書かれたものだと考えるのなら、それは正しい現実理解だとは、とうてい言えない。正しい現実理解には、「建て前」だけではなく、しばしば隠蔽されて見えにくい側面 や裏面に関する理解が必要なんだ。そして、その隠された部分を洞察し、提示するのが「批評家の役目」なんだよ。……たとえ現実の批評家が「現実を隠蔽する側」に加担していたとしてもだ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


雪中行軍と新刊案内(5) 投稿者:園主  投稿日: 5月29日(土)23時37分12秒


 Keenさま(つづき)

最後に、もう1冊ご紹介を。

 ・ 光原百合『星月夜の夢がたり』(文藝春秋)

日本推理作家協会賞受賞作家で、私(および賢ちゃん)とは、推理作家としてデビューする以前から旧知の、光原百合による掌編(ファンタジー)作品集。
鯰江光二によるたいへんきれいな挿絵がふんだんにあしらわれ、絵本にちかい趣のある一冊で、私にとっては個人的にたいへん懐かしい作品が収録されてもおります。

本書には、『別冊 文藝春秋』への連載作品を中心に、他の雑誌に発表したもの2編、さらに書き下ろしをくわえて、全32編がおさめられております。そのなかで、私に思い出ぶかい作品とは、『別 冊 文藝春秋』247号に掲載された「海から来るモクリコクリ」。――しかし、私がこの作品に接したのは、そのずっと以前、大阪大学推理小説研究会(ミステリ研究会だったか?)の会誌に掲載された、未見のアマチュア作家による「海から来るモクリコクリ」でございました。

 ――いい子にせんと、海からモクリコクリが来るデ

この掌編は、知らずに死に接近する孤独な少年の精神世界を、民俗学的伝承(補陀落渡海)の薄暗い世界を援用することによって、実に見事に描出しております。
十年も前、私はこの作品にすっかり感心してしまい、感想文をしたためて会誌の編集者に送りました。たしかそれがきっかけで、光原百合と出会うことになったのではないかと記憶いたします。

私は、その後の光原の作品を必ずしも誉めたわけではなく、むしろ「海から来るモクリコクリ」の達成からしての不満ばかりを述べていたようにも思います。しかし、それはこの掌編がそれだけ素晴らしいものである証拠だとも申せましょう。
光原百合という作家は、「優しさ」や「善良さ」を全面に押し出し過ぎて、一般 に悪意をもたれない作風ではあるものの、文学作品としてはしばしば「大甘」だという印象を与えます。これはひとえに作者の、良く言えば「人の良さ」、厳しく言えば「人間としての弱さ」に起因するものでございましょう(対蹠的な作家として、桐野夏生の名を挙げておきましょう)。その点「海から来るモクリコクリ」は、人間の「暗い部分」をきちんと描いて、味わい深い作品になっていたのでございます。

ほかの作品はまだ読んでおりませんので、全体の評価はいたしかねますが、「海から来るモクリコクリ」1作でも、本書は購入するに値するものと、広くみなさまにお薦めしたいと存じます。





( 以下は「雪中行軍と新刊案内(6)」につづく)


雪中行軍と新刊案内(4) 投稿者:園主  投稿日: 5月29日(土)23時36分13秒


 Keenさま(つづき)

さて、さらに新刊情報。

 ・ 竹本健治『将棋殺人事件』(創元推理文庫)

今回の「解説」者は『ミステリ評論家であり、英米文学研究家であり、当代では五指にはいる詰将棋作家である若島正』でございます(前回の角川文庫版は、千街晶之)。

若島の解説は、主に「詰将棋とミステリの相似性」という側面から語られており、なぜ若島が竹本健治という作家に惹かれるのかを語ったものでございます。その意味ではたいへんオーソドックスな解説だと言えるのでございますが、さすがは非プロパーのミステリ評論家。おもしろい注文もつけております。

『本当に凄い詰将棋というものは、限りなく狂気に近い理性の産物である。高度なテクニックを身につけていることは、詰将棋作家をはかる物差しではない。途方もない夢想をすること、それが詰将棋作家の真価である。その夢想というか妄想の果 てにあるものは、ナボコフの言葉を借りれば、「明晰な狂気」としか呼べないものだろう。理性と論理のみが支配する世界に満足するのではなく、理性の届かない狂気の世界を、かすかな理性の光で探究しようとする方向性、それと似たものを、わたしは竹本健治にも感じるのだ。竹本作品の刻印は、「沈み込む霧」であり、「粘りつく闇」である。ほとんど強迫観念に近い、こうした渾沌あるいは狂気としての霧や闇は、身体的な手触りをともなって、つねに竹本作品の背景を成している。ときには、それが作品の論理的構成とそぐわない印象を与えることすらあるのは、やむをえないことかもしれない。わたしが竹本健治に期待するのは、明晰な狂気でその闇の世界を照らし出すような小説であり、もしそれが実現したら、とんでもない大傑作になることは間違いない。そういう思いで、わたしは竹本健治の新作を読まずにはいられないのだ。』

ここからは、若島が竹本健治のある種の作品に不満を憶えているというのが、はっきりと窺えます。そして、その不満とは『明晰な狂気でその闇の世界を照らし出す』という方向性とは逆の、『渾沌あるいは狂気としての霧や闇』に淫し耽溺する、という方向性なのではないかと存じます。
竹本健治の魅力なり強さが「凝り固まらない」という点にあるのは確かなことでございましょう。しかし、それは反面 「自堕落に流される」という危険をも内包しているのでございます。理性と狂気、明晰と混沌がぎりぎりのところで切り結ぶ境地に、竹本健治という特異な作家の立つべき位 置があるというのは、私も若島も、そして笠井潔にも共通な認識なのではないかと考えるのでございます。





( 以下は「雪中行軍と新刊案内(5)」につづく)


雪中行軍と新刊案内(3) 投稿者:園主  投稿日: 5月29日(土)23時35分10秒


 Keenさま(つづき)

一方、文庫化された『月魚』には、書き下ろしの掌編小説「名前のないもの」と、三浦しをんが解説を書いた『バッテリー』(角川文庫)の作者あさのあつこによる、たいへん力の籠った解説「月魚によせて」が付録しております。

ここでは、あさのあつこが「解説」で触れている点について、少々私見を述べさせていただきます。

『 ――その細い道の先に、オレンジ色の明かりが灯った。
 古書店『無窮堂』の外灯だ。瀬名垣太一は立ち止まり、煙草に火をつけた。夕闇が迫っている。道の両側は、都心からの距離を考えれば今どき珍しい、濃縮された闇を貯蔵する雑木林だ。外灯はあるが、それも木々に覆い隠されている。瀬名垣の訪れを予知したかのごとく、『無窮堂』の灯りは薄暗い道を淡い光で照らした――
 坂の上にぽつんと灯る明かり。夜の始まり。闇の気配。何気なく読みはじめる最初のページから、読み手はすでに、誘い込まれる。罪を抱え、想いを抱き、坂を一歩一歩登っていく瀬名垣とともに、美しい若者と古書の謎の待つ物語世界に、否応なく引きずり込まれる。最初のこの数行が、緻密な計算によるのか、感性のままに現れ出でたのか、わたしなどには計りしれない。計算であれば怖じるべき、感性であればさらに畏怖すべき、力技だ。』

端的に申しますと、私はこの『月魚』の冒頭部分に、京極夏彦『姑獲鳥の夏』の端的な影響を感じます。ご承知のとおり、『姑獲鳥の夏』にはじまる京極夏彦の「京極堂(妖怪)シリーズ」は、古書店「京極堂」を営む中禅寺秋彦を主人公したミステリでございます。

『 どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが目指す京極堂である。梅雨も明けようかという夏の陽射しは、あまり清々しいとはいい難い。坂の途中に樹木など日除けになる類のものは何ひとつとしてない。ただただ白茶けた油土塀らしきものが延々と続いている。この塀の中にあるのが民家なのか、寺院や療養所のようなものなのか、私は知らない。あるいは公園か庭園のようなものなのかもしれない。冷静に考えれば、建物を囲うにしては面 積が広すぎるから、やはり庭園か何かなのだとも思う。
 坂に名前はなかった。
 いや、あるのだろうが知らない、というのが正確なところである。月に一度、いやときには二度、三度とこの坂道を登り、京極堂に通 うようになってもう二年が過ぎようとしている。幾度この道を通ったか知れない。しかしおかしなことに、私の家からその坂道に至るまでの町並みも、途中にあるあらゆるものの様相の記憶も私には曖昧である。坂道の名前はおろか、このあたりの地名住所の類までも私ははっきりとは知らない。いわんや塀の中に何があろうと私には興味がなかった。
 急に陽が陰った。気温は変わらない。坂の七分目あたりで私は息を吐(つ)いた。』(新書初版『姑獲鳥の夏』より)

もちろん、描かれた時間帯や景色や、三人称か一人称かという語りの違いはございます。また前者『月魚』が基本的には恋愛小説なのに対し、『姑獲鳥の夏』では、この鬱気味の語り手が、この後、たいへん猟奇的な殺人事件に遭遇するのでございますから、前者の静けさに比較して、後者が暑苦しく不穏で朦朧たる雰囲気を漂わせているのは、当然の違いでございましょう。

しかし、両者は、一本道の坂道を登り詰めたところに目指す場所があり、まさにそこから「物語が始まる」のだという導入において、たいへん近しいと言わねばなりません。三浦しをんが京極夏彦を読んでいたか否かは、にわかには思い出せませんが、本好きで古書店勤めの経験もある三浦であれば、京極夏彦を読んでいないなどということは、まず考えられないものと存じます。

もちろん私は、だからと『月魚』の出だしが猿真似に過ぎないなどと言いたいのではございません。これはこれでひとつの完成をみた、独自に消化し昇華された描写 であると存じますが、私はその描写の生まれでる出自の一端を、ここで指摘しておいても、けっして無駄 ではないと考えたのでございます。





( 以下は「雪中行軍と新刊案内(4)」につづく)


雪中行軍と新刊案内(2) 投稿者:園主  投稿日: 5月29日(土)23時34分13秒


 Keenさま
たびたびの書き込み、ありがとうございました。

> 八甲田山対策に、今日、病院へ行ってきました。抗アレルギー薬出してもらったので、これで治まるといいのですが。それと、先日の血液検査の結果 が出てて、久しぶりに全項目が正常域に入ってました〜!(^0^*
> 精進したかいがありました。これで心置きなく、やおいに励めますわ。フフフ♪

体調が戻られてきたようで、何よりでございます(笑)。

> つまり私が思う通りに書くと、自然と「しをん的」になってしまうのだ。これは由々しき問題である。自分らしくあることと、ひとの影響から抜け出しさらにそれを越えようとすることの困難さは、竹本健治で証明済みだ(※竹本健治は、中井英夫『虚無への供物』に呪われた作家としても有名)。

ということで、三浦しをん情報を。

 ・ 『私が語りはじめた彼は』(新潮社)
 ・ 『月魚』(角川文庫)

の2冊が刊行されました。

新刊単行本の『私が語りはじめた彼は』は、私も現段階では未読ですので作品評価はいたしかねますが、ひとつだけ助言をさせていだきますと、この本、装丁自体はたいへん美しいものなのでございますが、いかんせんカバーにコーティングが施されていないため、とても汚れやすいものとなっているのでございます(単行本『月魚』以上にに汚れやすい)。私は、出たばかりの本書を書店頭で手にしたのでございますが、完全に満足がいくほど完璧にきれいなものは1冊もなく、新刊にはあるまじき妥協を強いられたのでございました。そんなわけで、美しい本が欲しいのであれば、古本落ちを待つのではなく、平積みになっている今のうちに購入すべきでございましょう。





( 以下は「雪中行軍と新刊案内(3)」につづく)


雪中行軍と新刊案内(1) 投稿者:園主  投稿日: 5月29日(土)23時32分30秒

みなさま、先日来、Keenさまが八甲田山の雪中行軍(花粉症との戦い)中だったことはご承知のとおりでございますが、じつは私も一週間ほど前から八甲田山の雪中に踏み迷い、昨日などはたいへん苦しい行軍を強いられていたのでございます。しかしどうやらそれも快方へと向かっているようで、あと三日もすればこの難関を踏破できそうな感じとなってまいりました。――いや、今回の雪中行軍はかなり厳しゅうございました。

最初は喉がいがらっぽくなり、風邪の初期症状に近かったのでございますが、これから病状が悪化しそうな感じがございましたので、子供の頃より通 いなれている近所の町医者に行くことにいたしました。この段階ですでに私もこの症状が風邪ではなくアレルギー性の喉頭炎だろうと思っておりましたし、医師の簡単な問診の結果 も誘因が花粉とは限らないものの何らかのアレルギー症状であろうとのことでございました。そして処方された薬は3種類。2種類は食後直ぐ、残りの1つは就寝前に服用するものだったのでございますが、最初の2種は風邪の時に処方されるのと同じものでございました。医師の話によると「眠気を催すことがあるので、車を運転する場合は呑まないように」とのことで、これもいつもどおりの説明。つまり、アレルギーとは誘因物質にたいする身体の過剰拒否反応のことでございますから(たぶん)、これを鈍らせるとともに、睡眠をとらせ身体を休めることによって体力の回復を期し、それによって治癒しようとする薬なのではないかと、私は処方された薬の性格にあたりをつけたのでございます。

予想どおり、薬を呑んでも顕著な回復は見られず、それどころか一昨日くらいには声を出すのも苦痛なほどまで悪化したのでございます。ところが、昨日にはこの症状が上方にむかって移動してまいりました。すなわち、喉の痛みは軽減したものの、炎症が目や鼻の周辺に移動し、上顎の歯茎や頬骨辺、前額部や目の奥のあたりに圧迫されるような不快感を覚えるようになり、両目の白目の部分が炎症をおこして透明なゼリーを塗ったような浮き上がった状態となり、鼻孔内にも炎症にともなう違和感が生じてきたのでございます。なかでも『上顎の歯茎や頬骨辺、前額部や目の奥のあたりに圧迫されるような不快感』は軽い頭痛にも似たもので、堪えられないほどのものではないにしろ、ものを書くような気力を失わせるには充分なものでございました。

で、本日に入りますと、今度は炎症が右耳(内部)にもいたりました。私は幼時より耳が弱く慢性の中耳炎と診断され、しばしば医師にかかったのでございますが、特に右耳の方が弱いようで、今回もその弱い部分に影響が出たようでございます。
かようなわけで、本日は先程までは、本をすこし読んでは眠り読んでは眠りということを繰り返していたのでございますが、右耳の炎症はまだ残っておりますものの、どうやら『上顎の歯茎や頬骨辺、前額部や目の奥のあたりに圧迫されるような不快感』が薄らいできたようなので、こうして書き込みをすることにしたのでございます。

ちなみに、私が利用しているこの町医者では、検査のために尿を採られることなど絶えてございませんし、注射をうたれることもございません。会社の同僚などはしばしば「ちょっとした風邪なら、病院へ行って栄養注射を一本うってもらったら一発だよ」などと申すのでございますが、私は風邪で注射などうったことがないのでございます。
なぜこの小さな町医者では尿検査や注射をしないのか。老医師が、ある治療方針をもって意識的にそういうことをしないのか、それとも単に面 倒なだけなのか? もちろんそのあたりのことは私にはよくわかりませんから、時に「ここ大丈夫なのかな?」と思わないでもないのでございますが、まあ四十年間お世話になり、大過なくすごさせていただいているのでございますから、特別 な異状でもないかぎりは(家からも近いことだし)「ここでいいか」と思っているのでございます(笑)。





( 以下は「雪中行軍と新刊案内(2)」につづく)


サッカー便り 投稿者:Keen  投稿日: 5月29日(土)15時20分37秒

☆アイルランド、キーンが2年ぶりの代表復帰(ロイター)

 [ダブリン 27日 ロイター] サッカーのアイルランド代表は27日、当地でルーマニア代表と国際親善試合を行い、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会の開幕前に代表を離脱していたロイ・キーンが復帰を果 たした。

 2年前、当時のマッカーシー監督との確執で代表チームから飛び出したキーンだったが、この日は、4万2000人以上の大観衆が代表復帰した英雄に声援を送った。

 試合は、アイルランドが残り5分、ホランドのゴールで1―0の勝利を飾った。

[ロイター:2004/05/28 11:04]

(※Sports@niftyより転載)

うーん、キーン&ホランドのナイスコンビネーションだったんでしょうね〜。(^0^*
来る6/12には、欧州選手権(ユーロ2004)が開幕します。残念ながらアイルランドは予選落ちで出場できないのですが、4年に一度、W杯に匹敵するサッカーの祭典!私は再び賢ちゃんちへ出奔してしまうでしょうが、ご心配なく。(^0^*

八甲田山対策に、今日、病院へ行ってきました。抗アレルギー薬出してもらったので、これで治まるといいのですが。それと、先日の血液検査の結果 が出てて、久しぶりに全項目が正常域に入ってました〜!(^0^*
精進したかいがありました。これで心置きなく、やおいに励めますわ。フフフ♪


八甲田山便り(下) 投稿者:Keen  投稿日: 5月28日(金)13時40分29秒

 序にかえて

私は緑が好きである。何故かはわからない。気づくとそうだった。あるいは、まだ好きではないのかもしれぬ 。好きだとただ思い込んでいるのかもしれぬ。あるいは、ひょっとして、昔はもっと好きだったのかもしれぬ 。それを長い間忘れていて、ひょんなことから思い出したにすぎないのかもしれぬ 。とすると、いやはや、わしももうろくしたもんじゃ。へへへ。そう、実はわしは生まれながらにして、大変なじじいだったんじゃ。老いたる少年、とでも言っておこうかいな。だからあるときは赤ん坊、あるときはじじい、怪人20面 相も真っ青、怪盗ルパンも真っ赤っ赤、熱い思いに若き心をたぎらせ、冒険から冒険へと神出鬼没、ム、神が出て鬼が没する、そうか鬼は、神と同列に置かれていたのか。しかし、没というのはいささか気に入らぬ が、日出づるところの天子、日没するところの天子にと、中国三千年ならぬ 日本2600年の歴史にもあるとおり、どうもイメージが悪い。鬼のイメージが悪いのは、あるところでは仕方あるまいて。なんせ"鬼"だからのう、老(じい)さんや。そうじゃのう、のう、能。まあ理解されんくても、全部の人がわかってくれるわけやないし、そうそう、全部の人の賞賛を得れば、即ち、自らの賞賛を捨つるなるべしという故事もある。ほんまかいな。ほんまやで、ちゃーんと、辞書に出ておったさかいに。へー、ほんまでっか。でもな、自分で自分にうそつくようになったらしまいや。それは何も皆をいいかげんに扱えいうとるんやない。自分を大切にせいやいうとるんや。それで人といざこざしても、それはある程度しゃあないんやて。むしろ、人はそれぐらいのいざこざがあった方が、そん人のこと思ってくれるんや。だからいいかげんな自分をつくったらあかん。自分を甘やかさず、でも大事にせなな。ほやけどそれは難しいわなあ。そやそや、難しいからこそがんばってせなあかん。そうすれば結果 よくなくとも、誰か一人ぐらいは理解してくれる人がおるもんや。そんなんかなあ。そやそや。さっきの鬼やてそうや、皆鬼が悪い思うてるわけやない。そりゃふつうはそやけど、鬼やて人の子や、かわいいもんやいな。そんなでっか。そや。ほんで、いったいおまえさん何が言いたいんどす。まだわからんか。わかりまへんなあ。ほな、教えたろか。へえ、お願いしますう。わしはなあ、緑が好きなんや。

            '87 9.23 (クラウス署名)


※引用者注:本文中の「故事」は、怪しいので信用せぬよう願いたい。
      クラウス兄は大真面目にネタを振るのが得意技だ。

そういえば、竹本健治も緑が好きだったな。


八甲田山便り(上) 投稿者:Keen  投稿日: 5月28日(金)13時28分10秒

山の天候は気まぐれだ。ここ2日は落ち着いていたのに、今日は再び荒れ模様。しかし吹雪を避けて岩影の洞に閉じ籠もっているうち、糧食も尽きてきた。食べる物を確保しないと、今度は餓死の危険もある。もはや私と隊長の二人だけになってしまった我らが小隊(プラトーン)だが、何とか生き延びる手だてを工面 しなくては……!

>三浦しをんの影響

今週の「しをんのしおり」#277「終わらない旅」を読んで、自分の現状が彼女のそれと非常に似ていると思い、「Keenバージョン」のつもりで書いたのが前回の「花粉襲来」だった。大体この生き別 れの妹(嘘)は、やおい好きに始まり、発想から妄想へと至る飛躍の仕方までことごとく私と共通 するところがある。そもそも私が三浦しをんに興味を持ったのも「あなたに似た作家がいる」と言われたからだ。彼女の作品を読了後「三浦しをんという作家がこの世にすでに存在するのに、今さらまだ私の書くことが残っているのだろうか?」と言ったら、毒舌批評で知られる某A氏は「何を『虚無への供物』読んだミステリ作家みたいこと言うてるんですか」と笑った。実はコレも狙っていたのだ、フフフ。

つまり私が思う通りに書くと、自然と「しをん的」になってしまうのだ。これは由々しき問題である。自分らしくあることと、ひとの影響から抜け出しさらにそれを越えようとすることの困難さは、竹本健治で証明済みだ(※竹本健治は、中井英夫『虚無への供物』に呪われた作家としても有名)。卑小な問題を壮大な話にすり替えて誤魔化しているような気もするが、当面 の問題は八甲田山越えだ。前回「本の整理」と書いたが、実は未だその段階ではない。まずは物置→書斎に変身!させてからでないと、「本の整理」は始まらないのだ。ゴミと必要なモノを分別 し(※ゴミも当然、分別する)、必要なモノは然るべき場所に収納する。そうなると、必然的に押入れにも手をつけざるを得ない。かくして私は掃除機片手に家中を渡り歩くことになり、行動範囲の拡大と共に、吹雪も容赦なく襲いかかる。時にくじけそうになる美青年兵は、老練な隊長に叱咤されつつ雪をかき分け、次々と戦友の遺品を発掘した。

もっとも古いものは母子手帳であった。続いて、幼稚園年少組のお絵描き帳、小学校のガリ版刷りの文集、卒業時の寄せ書き(※デスラーイラスト入り)、各年代の卒業証書&アルバム等々、いずれも戦友の思い出が一杯詰まった品であり、涙なくしては見られない。試しに小学校の文集を開くと、現在とほとんど変わらない筆致の文章が綴られており、新たな涙がこみ上げる。人間は、本質において変わらないものなのだ。
さらに、クラウス兄の随筆も出土した。それは少女密偵団0003が密命を帯びて渡仏する時に携行した、新しいノートの見返しに「序にかえて」と題して記されている。本人の了解を得たので、ここに紹介しよう。

(八甲田山便り(下)に続く)


ロンド(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月27日(木)15時23分28秒


 アーニャ
> このコラムには、面白いことにホランドくんと正反対のことが書かれてるのよ。

 レスが遅くなってゴメンね。
 上の件に関しては、園主さまの説明に言い尽くされていて、ボクがつけ加えることは特にないなあ。

> 「受賞作「カタコンベ」は、地底湖のある洞窟に閉じ込められたダイバーが、決死の脱出を計る冒険小説。」

 ボクは冒険小説にはぜんぜん興味がないんだけど・・・今ふと思ったんだけどね、今のミステリ界って、案外「本格」作家ってデビューしやすいんじゃないかな。例えば、講談社へ送れば、年に何作でも与えられる「メフィスト賞」の対象になるし、最近は光文社も「本格」の新人賞を始めたみたいだし、もちろん「鮎川哲也賞」も「本格」色の強い賞だし。
 つまり、賞金数百万をもらって世間的に派手にデビューしようと思わなければ、「本格」はかえって応募先が多いんじゃないかな。でも、そちらへ「本格」が散ってしまうということは、冒険小説やハードボイルドなども集まる「江戸川乱歩賞」への「本格」の応募作が減って、ますます「乱歩賞」の方は「本格」離れが進むってことなんじゃないかなあー。でも、これが「本格」や「乱歩賞」にどういう影響を与えるのかは、よくわかんないんだけど。

> 『蹴りたい背中』を読んで、私は中島らも『白いメリーさん』(講談社文庫)の表題作を思い出したのよね。同じ女子高生ネタでも、綿矢りささんが描こうとしたこととは異なるんだけど、らもさんの筆の方が簡潔な分よけいに、乙女心の切なさが胸にググッときたわ〜。(T-T)

 『白いメリーさん』は、M.Uさまがネット・ゼミナール・楽古堂の第4回であつかう作品として挙げてらした本だよね。買ってはあるんだけど、読まなくちゃ。


 園主さま
> いまさら言うまでもないことなんだが、「人気者」や「傑作」にたいする賛嘆という行為は、必ずしも賛嘆される「人気者」や「傑作」のためのものではなく、しばしば「賛嘆する側の権威づけ(箔付け)のため」になされるもの

 なるほどね。それは何となくわかってはいることなんだけど、ほとんど誰も指摘した人はいないんじゃないかな。なにしろ自分に返ってくる言葉だから(笑)。

 「誉めたい」という気持ちもホントなんだなんだから、ここまで言っちゃうと、やや酷かなという感じもしないではないですけど、・・・でも誰かが指摘して釘をさしておかないと、際限なく「ごますり推薦文」が跋扈すること(=ごますり合戦)にもなりかねないからなあー。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


ロンド(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月27日(木)15時21分44秒


 三毛猫室長さま
> 自分、今度黒猫館に来た三毛猫室長という者です。
> 今後は書影コンテンツ「月光書影閲覧室」に勤務することになりました。
> みなさんよろしくお願いします。

 はじめまして。こちらこそよろしくお願いいたします。

 珍しい本を展示なさっている「月光書影閲覧室」ですが、どんな珍奇な本が紹介されるのか、楽しみにしておりますので頑張って下さいね。・・・といっても、本を蒐るのは影姫さまのお仕事でしょうが(笑)。


 内田慶一さま
> はじめまして。
> 以前にこのBBSで、道浦母都子の「無援の抒情」(雁書館)も手に入れたという記事を読んだことがありますが、この1年私も探していますが、入手できません。
> どこかで見かけたとかいう情報があったら是非教えて頂きたいのですが。

 はじめまして。

 影姫さまの情報、お役にたつと良いのですが。
 やっぱり処女出版って手に入れにくいようですね。とくに歌集なんか部数が少ないだろうし。でも、蒐集は執念と根気だといいますから、あせらずに頑張って下さいね。


 影姫さま
> どこで見つかりそうかアドヴァイスさせていただくならばこの本は神保町より早稲田のほうで見つかる確率が高いです。

 どうしてなんだろう? さすがですね、門外漢にはぜんぜんわからない部分です。


 Keenさま
> 花粉襲来

> まあいいさ、「始めることが肝心だ。始めれば、いつかは終わる」と映画『アレクセイと泉』で村の老人が言っていた。蓋し、名言と。

 花粉症と本の整理とやおいの三題話で、型どおりの内容ではあるんだけど、とっても上手に読ませる文章になっておりますね。でも、三浦しをんの影響がはっきりとうかがえ過ぎて、ややオリジナリティーに欠けるという印象もあります。書ける人だからこそ、独自の境地を開かれんことを期待したいと思います(公募新人賞選考委員風)。

 ―― Keenさまも、わざと真似たんでしょうけどね(笑)。





( 以下は「ロンド(下)」につづく)


ロンド(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月27日(木)15時20分46秒

 みなさん、こんにちは! 版画家柄澤齊の『ロンド』(東京創元社)を読み終えました。この作品は一昨年刊行され、『2003年度版 このミステリーがすごい!』では堂々の8位にランクされた作品です。

 内容は、この作者らしく美術の世界を扱っており、語り手の主人公は美術館に勤務する学芸員。小さな展覧会で一度だけ公開されて以来、行方不明になってしまった、文字どおり幻の幻想画「ロンド」をめぐって、主人公の周辺に発生する「連続名画見立て殺人」。名画に見立てて殺人現場を構成し、それを並外れた筆力で描いた作品を公開しようとする正体不明の狂気の画家による、猟奇的な殺人事件のロンド(輪舞)を描いた作品で、雰囲気としては10年ほど前に流行った『沙粧妙子・最後の事件』なんかを彷佛とさせる作品でした。

 いちおう「本格」なんだけど、さすがにプロパー作家的な斬新なトリックやロジックは無くて、どちらかと言えばサスペンスと猟奇趣味で引っ張っていく作品。その意味で「本格」としてはやや弱く、『2003 本格ミステリ・ベスト10』の方では、27位に止まりました。

 でも、この作品は、笠井(潔)さんがけっこう高く評価したようで、読んでみるとなるほど笠井さんの『梟の大いなる黄昏』とか、そういった作品を連想させる部分があります。つまり、絵画とか小説(書物)とか詩とか、そういった芸術作品に「人間を狂わせてしまう魔性を秘めた、幻の作品」が存在して、それを巡り、それに支配されるようにして連続殺人事件が起こる、というような系譜の作品なんです。

 ボクが思い出せる範囲で言えば、川又千秋の『幻詩狩り』なんかがその典型的な作例だし、綾辻行人の『水車館の殺人』とか島田荘司の『暗闇坂の人喰いの木』なんかも、それにちかい嗜好のあった作品です。思い出せないんだけど、こういう作品はけっこうあって、これは「論理的・合理的」であらねばならないジャンルの作家が、その一方で惹かれる非合理的な「超常的予言性」とか「宿命」とかいった部分にかかわって書かれる作品なんじゃないかと思います。

 そうした作例の中では、今回の『ロンド』はなかなか良くできた部類の作品だと思うんですが、ただ一段組640ページは長過ぎて、冗漫な印象は否めませんでした。個々の描写 はとてもしっかりしてるんだけど、もうすこし大所高所的な見地からの刈込みが必要だったんじゃないかな。





( 以下は「ロンド(中)」につづく)


花粉襲来 投稿者:Keen@へっくしん☆  投稿日: 5月25日(火)18時05分23秒

今や日本の国民病に近い感のある「スギ花粉症」の皆さまがやっと落ち着かれた頃、私はクシャミ、ハナミズ、ナミダに見舞われる。この時期は、イネ科の植物のシーズンだそうだ。去年は無事だったような気がするのだが……本体の性格のみならず、発症も気まぐれだ。
特に今日はいけない。晴天、強風、乾燥の三拍子揃い踏みだ。まして最近体調が良くなってきた私は、ついにKeen家の魔窟こと書斎、否、物置の片付けと掃除を始めたのだ。うずたかく積もったホコリが花粉症に追い打ちをかけ、気分は八甲田山の雪中行軍。

「隊長、自分はもうダメですっ、目がかすんでもう前が見えません……」
「ばかもの!ここで諦めてどうする、さあ立て、そして一歩でも先に進むんだ。そうすればいつかきっと吹雪の外へ出られるぞ!」
「隊長……!」
若き美青年兵は、隊長の歴戦をくぐり抜けてきた逞しい腕に引き起こされ、渾身の力をふりしぼって歩き続けるのだった。(続く)

続いてどうするんだろう。しかし、本の整理ほどはかどらないものはない。ついうっかり表紙やタイトルが目に入ると……作業はおよそ1時間の中断となる。今日もすでにタイムリミットだ。まあいいさ、「始めることが肝心だ。始めれば、いつかは終わる」と映画『アレクセイと泉』で村の老人が言っていた。蓋し、名言と。

Keenの八甲田山は、いつ終わるのだろうか。(へっくしん☆)


ミステリ業界の密室犯罪学教程(7) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時32分13秒


 ホランド(つづき)

そんなわけで『天城一の密室犯罪学教程』は、「本格ミステリ大賞」の権威を高めるためにも大変好都合な作品なんだ。だから、これがノミネートされる可能性はかなり高い。新作書き下ろしではないということで「栄誉賞」みたいな方向にずらされる怖れはあるけれど、いずれにしろ何らかのかたちでのノミネートのは確実だろう。

私のこの「見込み」が、おおよそ「事の本質」を突いているであろうことは、本書の推薦者を見てもわかる。

『二十世紀に成し遂げられるべきであった重要な宿題が、やっと今、果 たされた!(喜国雅彦)』

『密室トリックの奥義を極め、その秘密を解き放った伝説の男――逆説と風刺にみちたロジックの一閃が、現世の壁に奇跡の扉を切り開く、時代を超えた輝くを放つ、純本格の至宝。(法月綸太郎)』

漫画家の喜国雅彦が、なぜ推薦者なのか? それは彼が、日本でも指折りの「探偵小説コレクター」だからに他ならない。また、なぜ法月綸太郎なのかと言えば、それは法月が「新本格」作家のなかでも特に「ロジック」重視の『純本格』(=非・コード型本格)の位 置を占めようとしている作家だからに他ならないんだ。

つまり彼らは、天城一という『伝説の』作家を誉めたたえることによって、自身がその「理解者」として、それぞれの位 置で、逆に権威づけられているんだな。

で、いまさら言うまでもないことなんだが、「人気者」や「傑作」にたいする賛嘆という行為は、必ずしも賛嘆される「人気者」や「傑作」のためのものではなく、しばしば「賛嘆する側の権威づけ(箔付け)のため」になされるものだということなんだ。――だから「本格ミステリ大賞」にとって、『天城一の密室犯罪学教程』は、綾辻行人や法月綸太郎の作品以上に「顕彰するに値する作品」だと言えるんだな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


ミステリ業界の密室犯罪学教程(6) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時31分26秒


 ホランド(つづき)

あと、「本格ミステリ大賞」なら、

 ・ 天城一『天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)

がノミネートされる可能性が充分にあるだろう。

おまえは知っているけど、ミステリマニア以外の人のために一寸説明しておくと、天城一は、この本の帯にもあるとおり、いわゆる『幻の探偵作家』の一人だ。デビューは1947(昭和22)年、短篇「不思議の国の犯罪」(『宝石』誌掲載)。本職は「数学」教授で日本でも有数のその道のエキスパートだから、当然ただものではない。デビュー以来、天城は質の高い作品を書き続けたが、極端に寡作であったことと、時代にそぐわない「本格ミステリ」を書いたために、今回の『天城一の密室犯罪学教程』まで、ついにミステリの著書を持つことができなかった、ある意味では不遇の人だ。だが、「本格ミステリ・冬の時代」にも「本格一筋」に生きた故 鮎川哲也が、折りにふれて天城一を推奨し、アンソロジーに入れるなどしたため、一部マニアの間では知られる存在だった。

しかし天城のミステリは、その独自の美学(論理の文学として、贅肉を一切削ぎ落とす)のために、必ずしも「一般 的な意味での、優れた小説」とはなっておらず、ミステリマニアの中でもごく限られたファンしかもたなかった。ところが、ここ十年くらい、「新本格」ブームの延長として、『幻の探偵作家』のなかでも「本格」色の濃い天城作品の再評価が進んだ。天城の作品を発掘紹介する少部数同人誌(手塚本や『別 冊シャレード 天城一特集』など)が連続的に刊行され、ミステリ研究家の山前譲が天城の私家版刊行の労をとったりしたことがきっかけとなり、天城は俄然注目され、先の私家版がネットオークションで、コレクター的な性格の強い一部ミステリマニアたちによって、とんでもない値段にまで吊り上げられたりした。そうしたことからもここ数年「天城は、知る人ぞ知る、玄人受けする本格ミステリ作家」だという評価が、かなり広範に醸成されてきたんだ。

だからこそ、今回の作品集も『密室犯罪学教程』ではなく『天城一の密室犯罪学教程』となっている。ふつう「誰某の」という名前がタイトルにつけられる場合、その「誰某」は知名度の高い人物だ。つまり、その高い知名度をさらに強調して売り上げを伸ばそうと、こういうタイトルがつけられるんだな。ところが、天城一は一般 的にはまったく無名の作家だと言っていい。なのにどうして『天城一の密室犯罪学教程』としたのかと言えば、それはまずこの本が「マニア」を当て込んで刊行されたものだからに他ならない。版元がこれまでミステリとは無縁だった「日本評論社」という出版社だという事実や2800円という定価にも、それは明らかだろう。つまり、「まずマニアに売れなければならない」。その上でマニアが「我こそは理解者だ」とばかりに騒ぎ、それが『このミステリーがすごい!』や『本格ミステリ・ベスト10』といったものの結果 に結びついていけば、さらに広範な一般購買者の取込みも見込めるだろうという目論みが、刊行者の側(特に、編者の日下三蔵)にはあったのだろうと推測される。





( 以下は「ミステリ業界の密室犯罪学教程(7)」につづく)


ミステリ業界の密室犯罪学教程(5) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時30分3秒


 ホランド
> 「第57回日本推理作家協会賞」

> 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』と千街晶之『水面の星座 水底の宝石』が「本格ミステリ大賞」とのダブル受賞。

これについては前回、

> 歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』は大方の認めるとおり、たいへん良くできた作品だと存じますし、千街晶之の『水面 の星座 水底の宝石』も、日本のミステリ評論界の水準からして、受賞は当然の結果 であったと存じます。

> 千街晶之が批評家として「片輪」であったとしても、彼の著書『水面の星座 水底の宝石』が、「ミステリ界(内部)」で評価される限りにおいては「受賞に値する、水準以上の」「受賞に異存のでない」作品ということにもなるのでございます。

と書いたとおりだ。

>  ほかの3人はまだぜんぜん読んだことがないから、内容についてはボクはなんとも言えないんだけど、たぶん垣根涼介さんは「本格」畑の人じゃないと思うし、多田茂治さんはプロパーのミステリ評論家ではないはずだよ。伊坂幸太郎は、今もっとも注目されていると言って良い若手のミステリ作家だけど、この人も「本格」畑ではないみたい。

つまり、これは「日本推理作家協会」が、台頭してきた「本格ミステリ作家クラブ」勢力とのバランスをとろうとした、ということでもあるんだろうな。そっちの顔を立てながら、従来の方向性も堅持するといったような、いわば「八方美人」的な選択だ。

>  伊坂さんはこないだ『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社)で「第25回吉川英治文学新人賞」を受賞したばかりだけど、その時の同時受賞作が垣根さんの『ワイルド・ソウル』。つまり「日本推理作家協会賞」としては、長編部門を3作同時受賞にはしたくなかったんで、長短器用に書きこなす伊坂さんを短篇部門にまわしちゃった、っていう可能性が大。文学賞の濫立で、タイミング的には後出しになっちゃった老舗の「日本推理作家協会賞」が、わりを喰い、新味に欠ける受賞作になってしまったというようなところだね。――それにしても、賞の数ほど「傑作」は無いわけで、ちょっと皮肉な現象だと言えるだろうね。

そのとおり。だから受賞作が一作に搾りきれなくなる。かつての自民党の派閥政治に近いものがある。組閣に際しては、最大派閥の○○派から何名、その次に大きい××派から何名……というやつだ(笑)。

ちなみにここで、来年の「第5回本格ミステリ大賞」の(小説部門)候補作の予想を書いておこう。
まず、まちがいなくノミネートされるのが、

 ・ 法月綸太郎『生首に聞いてみろ』(集英社)
 ・ 綾辻行人『暗黒館の殺人』(講談社ノベルス)

の2作だ。この2作はまだ刊行されていないし、私も雑誌連載を読んでいないから、どの程度の作品か、内容的にはまったくわからない。だが、「本格ミステリ作家クラブ」の設立メンバーの中でも、中心的な人物である二人が、本当にひさびさに刊行する長編作品なんだから、「本格ミステリ作家クラブ」としては、この二人の作品を「本格ミステリ大賞」にノミネートせざるをえないだろうな。でないと「義理が立たない」だろうから(笑)。





( 以下は「ミステリ業界の密室犯罪学教程(6)」につづく)


ミステリ業界の密室犯罪学教程(4) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時26分3秒


 アーニャ(つづき)

で、逢坂剛の「まずは人生経験を積め」というアドバイスも、それは受賞者が「本格ミステリ作家」ではなく、「冒険小説作家」であったからに他ならないし、近年、冒険(謀略)小説の方に力点を移しているとは言え、「本格」も「非本格(冒険小説など)」も両方書ける逢坂としては「一生、プロのエンターティンメント作家としてやっていくつもりなのなら、純文学作家のように同じようなことばかりは書いてはいられないので、人間としての幅をひろげ、引き出しをたくさん持たなければいけない」というようなことを言いたかったんだろうな。

つまり佐藤記者の記事の『エンターテインメント小説には年季が要る。乱歩賞も三十、四十代の受賞者が大半だった』というのは、「本格ミステリ」のことを指して言っているのではない。それ以外の、「冒険小説」だとか「ハードボイルド」だとか「本格の骨子を借りた情報小説や風俗小説」といったものを、書き続けていくためには「人生経験の乏しさ」は弱点だよと言っているに過ぎないんだな。

だから、この「すれ違い」で問題となるのは、

 ・ 本格か非本格か。

であるとともに、

 ・ 突出した一本の傑作か、プロ作家としての安定か。

ということでもあるんだ。
ホランドが念頭においているのは(1)と(2)のそれぞれ前者であり、逢坂剛の念頭にあるのは(1)と(2)のそれぞれ後者ということになる。これは一般 読者(消費者)であるホランドと、職業作家である逢坂剛との、立場の違いからきたズレと考えても良いだろう。

ちなみに、佐藤記者の記事が「エンターティンメント小説とは違い、純文学には人生経験は必要ない」という意味にも取れるのは、私が以前指摘したように、最近の純文学が「若い感性の新しさ」に頼るしかない貧困な状況にあったことの反映だと言えるだろう。

だが、こうした現象は、大西巨人が、「新しい文学の登場」としてジャーナリズム的にもてはやされた石原慎太郎の『太陽の季節』の出現に際し、文学において「単なる新しいもの好きは無価値である」という視点から同作品を否定して以来、――と言うか、「単なる(風俗的な)新しいもの好き」は、決して文学に「真の新しさ(画期)」をもたらしえないというのは、文学史においては、そうとう昔に証明済みの事項なんじゃないかと私は思う。

> どちらかというと『蛇にピアス』の方が読みやすかったんだけど、三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)所収の短編「月」(※戦後'50年代の「ビート族」の頃)から、何も変わってないのねってところ。『蹴りたい背中』も同じで、描写 が妙に古めかしい、近代日本純文学調で、特に目新しいモノはなかったわ。両作品とも、扱ってる題材(スプリット・タンやアイドルオタク)が今風なだけで、作者が若いわりに内容はむしろ古典回帰してるんじゃないかしらね?

つまりそれは『古典回帰』というよりも、「十年一日」で「新しい風俗を描いて、新しい文学だと思い違いする作家(評論家・読者)が後を断たない」ということなんだろう。当然そんなものは、単に「古く」なるだけで『古典』にはならないんだよ。『古典』とは「古い作品」のことではないんだからな。





( 以下は「ミステリ業界の密室犯罪学教程(5)」につづく)


ミステリ業界の密室犯罪学教程(3) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時24分41秒


 アーニャ
>> 昔は「純文学は人間を書くものだから、それ相応に人生経験を積んでいないと書けないけれど、ミステリは斬新なアイデアが命だから、むしろ若い方が面 白いものが書ける」なんてことを言ったけど、今はその純文学が低年齢化してきてるようだね。(<ホランドくん)

> このコラムには、面白いことにホランドくんと正反対のことが書かれてるのよ。

> 「エンターテインメント小説には年季が要る。乱歩賞も三十、四十代の受賞者が大半だった。純文学の芥川賞が最年少受賞で話題を集める中、ミステリー界も若い息吹が主役を担っていきそうだ。作家への"就職試験"に合格し、逢坂(※剛)さんから「まずは人生経験を積め」とアドバイスを受けたという。 (文化部 佐藤 憲一)」(※は引用者)

これは面白い倒錯(認識)現象だな。でも、ここで言われていることは、決して『正反対』じゃない。ここでも問題となるのは「ミステリ」をどう認識するかなんだ。

この佐藤記者の記事は、主語を『エンターテインメント小説』としている。これは「ミステリ」を当然「エンターテインメント小説」一般 に含まれるものと考えた上で、ミステリも書くのに『年季が要る』だろうという理路なんだ。で、逢坂剛も同様の立場から『「まずは人生経験を積め」とアドバイス』したわけだが、こうした立場と、ホランドが『昔は』と限定した上で語った言葉の中での『斬新なアイデアが命』の「ミステリ」とは、別 物なんだな。つまり、ホランドがその前の部分で、

>  ほかの3人はまだぜんぜん読んだことがないから、内容についてはボクはなんとも言えないんだけど、たぶん垣根涼介さんは「本格」畑の人じゃないと思うし、多田茂治さんはプロパーのミステリ評論家ではないはずだよ。伊坂幸太郎は、今もっとも注目されていると言って良い若手のミステリ作家だけど、この人も「本格」畑ではないみたい。

と書いて問題にしているように、同じ「ミステリ」も「本格か否か」でその性質が大きく違ってくるということだ。

つまり、ホランドが「ミステリ」と書いた時、その力点は「本格」に置かれており「本格ミステリとその他のミステリ」というニュアンスが強い。だから、どうしても『斬新なアイデアが命』ということにもなる。事実、昔は「本格」という言葉がハッキリと示しているように、「本格」が『ミステリの王道』(山口雅也)という考え方が支配的だった。しかし、斬新なアイデアの枯渇が見られるようになり、いわゆる「針と糸の密室」のような「ちまちました本格」が増えた結果 、ミステリ界は「本格は古い」という方向にだんだん傾いていったんだ。

で、江戸川乱歩賞の歴史も、まさにそういう日本のミステリの「本格中心主義(乱歩の意向)」と「本格離れ」のせめぎ合いの歴史なんだな。江戸川乱歩は、いわゆる「本格ミステリ」を志向しながら、最終的には「変格」の人だった。だからこそ彼は、自身の影響をうけて一時繁栄した「変格ミステリ」ではなく「米英に多く作例の見られるような理知の探偵小説が、日本にももっと育たなければならない」と主張したんだ。だから、乱歩賞もその意向を反映して基本的には「本格」の賞なんだけれども、時代は「本格は古い」という方向に動きだしていたから、乱歩賞の受賞作もそのせめぎ合いのなかで「本格を骨子としながらも、時代風俗を反映したエンターティンメント小説」という折衷的な方向で進んで行き、近年は「本格」とは無縁な「冒険小説」にも賞を与えるようになっていたんだ。

つまり「江戸川乱歩賞」の受賞者が『三十、四十代の受賞者が大半だった』というのは、乱歩賞が求めていたのは「古いミステリ」ではなく「時代にマッチしたミステリ」だったからにほかならない。単に「アイデアが斬新」なだけではダメだし、「古めかしい意匠」はかえって忌避されたんだ。その結果 、中井英夫の『虚無への供物』、島田荘司の『占星術殺人事件』、綾辻行人の『十角館の殺人』などといった、今となっては時代を画する傑作が、乱歩賞を逸することになった。つまり、『三十、四十代の受賞者が大半だった』というのは、「江戸川乱歩賞」の受賞者に求められていたのは、「時代や社会を見据えた大人の良識」であり、「時代錯誤の探偵小説」を書くような「稚気」ではなかった、むしろそれは忌避されていた、ということなんだ。





( 以下は「ミステリ業界の密室犯罪学教程(4)」につづく)


ミステリ業界の密室犯罪学教程(2) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時23分38秒


 三毛猫室長さま
> 自分、今度黒猫館に来た三毛猫室長という者です。
> 今後は書影コンテンツ「月光書影閲覧室」に勤務することになりました。
> みなさんよろしくお願いします。

はじめまして。以後よろしくおつきあい下さいまし。

マニアックな「月光書影閲覧室」を担当なさるそうでございますが、ご自身は古本マニアではないのでございますね。それではなにかと大変でしょうが、どうぞ頑張って下さいまし。

それにしても「黒猫館」の方では、元気なハムスターのハムちゃまさまとネコの三毛猫室長さまの「トム&ジェリー」コンビができたわけでございますよね。そちらの展開も楽しみにしております(笑)。


 内田慶市さま
> はじめまして。
> 以前にこのBBSで、道浦母都子の「無援の抒情」(雁書館)も手に入れたという記事を読んだことがありますが、この1年私も探していますが、入手できません。
> どこかで見かけたとかいう情報があったら是非教えて頂きたいのですが。

はじめまして。ようこそいらっしゃいました。

その書き込みは、たぶん、詩歌を中心とした古書コレクター影姫さまの書き込みだと存じます。すでに影姫さまの方から書き込みがございましたので、私から付け加えることはございません。
私も気にかけておき、見かけたらメールを差し上げたいと存じます。


 影姫さま
さっそくのフォロー、ありがとうございました。





( 以下は「ミステリ業界の密室犯罪学教程(3)」につづく)


ミステリ業界の密室犯罪学教程(1) 投稿者:園主  投稿日: 5月23日(日)20時22分50秒

みなさま、私、昨日は『成田朱希展』に行ってまいりました。成田さんの大阪での展覧会は、おなじ「ベルンアート」で2年前に行われて以来の2回目で、成田さんとは前回もすこしお話をさせていただきましたが、今回はかなりじっくりとお話しさせていただき、成田さんの個性的な絵柄の出自を探らせていただいたのでございます(笑)。

『ガロ』誌にマンガを発表なさったり『SMスナイパー』誌で挿絵の仕事をなさっていることからもわかるとおり、成田さんの絵柄はかなり個性的なもので、ほとんど人物画しか描かれないにもかかわらず、かならずしもリアルな人物画というわけではございません。一般 に画面は暗く、裸(に近い姿)の少女なり若い女性が(たいがいは)1名描かれております。成田さんの描く女性の特徴は、その「切れ長の目」と「底光りする肌の色」と「生けるがごとき髪」にございましょう。……目は独特の妖しい光を放ち、肌は緑黒く(あおぐろく)底光りのする白い肌で、髪は植物の根にも似て生けるがごとき生命力を示しております。そしてそんな女たちは、時に「箱詰め」にされ、時に「縛られ」、時に「纏足」にされており、およそ運動というものがございません。つまり、暗く閉ざされた場所で、妖しい生気(エロティシズム)を放つ女たちが、じっとしている。それが成田朱希の絵なのでございます。

ところで、成田さんはなかなかの読書家で、小説を中心としたいろんな書物から、作品のテーマを採られている場合が少なくございません(『眼球譚』など)。で、その作風からして、当然、江戸川乱歩や夢野久作は読んでいるだろうと当りをつけていたのでございますが、今回は私は、この秋、同画廊で行われるグループ展に成田さんが出品される6作品の一つに「夢野久作」というお題を出そうと考えたのでございます(江戸川乱歩では、ありふれておりますから)。

で、成田さんに「夢野久作は読まれてますよね?」とお尋ねしたところ、「たくさんは読んでいませんけれど『ドグラ・マグラ』は読んでますよ。でも一番好きなのは『犬神博士』なんですけど」とのうれしいお返事。私にとって『ドグラ・マグラ』は別 格の作品でございますが、『犬神博士』はまぎれもなくその次に大好きな作品でございます。夢野久作本来の「狂気」をテーマとした作品ではなく「両性具有的少年神」の浮浪児チイが大活躍する、とても楽しい作品なのでございます。この他、映画『ドグラ・マグラ』が良かったということでも、私たちは意気投合し、成田さんは「今まであの映画が良かったって言うと、たいがい、あんなのは全然ダメだ、お前は『ドグラ・マグラ』がわかってない、なんてバカにされて、どうせわかっていませんよって、そっぽ向いてたんです」などと嬉しそうにおっしゃっておられました。

成田さんはご自身おっしゃっているとおり、まだ夢野久作の短篇(「瓶詰めの地獄」「押絵の奇跡」など)を読まれてはいなかったので、まずはそちらを読まれることをお薦めし、その上で画題は、作品を限定せず「夢野久作のイメージで」とお願いしたのでございます。

この他、別の画家には画題として『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)を、またべつの画家には「中井英夫」をお願いしようと画策しております。――斯様ここに、私の絵画趣味が新たな展開を見せようとしているのでございます。





( 以下は「ミステリ業界の密室犯罪学教程(2)」につづく)


無援の抒情の初版について 投稿者:影姫  投稿日: 5月23日(日)14時34分18秒

内田慶一様>
『無援の抒情』の初版は一年程度の探求では到底入手不可能な稀こう本です。
わたしは7〜8年探して入手しました。
どこで見つかりそうかアドヴァイスさせていただくならばこの本は神保町
より早稲田のほうで見つかる確率が高いです。
それではご検討をお祈りします。

PS わたしのHP[黒猫館」に『無援の抒情』初版本の書影掲載しております。
黒いリンクバナー「月光書影閲覧室」から書影コンテンツに
はいれます。お暇でしたら遊びにきてくださいませ。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


無援の抒情(初版) 投稿者:内田慶市  投稿日: 5月23日(日)10時44分24秒

はじめまして。
以前にこのBBSで、道浦母都子の「無援の抒情」(雁書館)も手に入れたという記事を読んだことがありますが、この1年私も探していますが、入手できません。
どこかで見かけたとかいう情報があったら是非教えて頂きたいのですが。


追記 投稿者:アーニャ  投稿日: 5月23日(日)08時40分22秒

あら、三毛猫室長さま、初めまして。
猫仲間が増えて、嬉しいわ。これから仲よくしてね。黒猫館の皆さまにもよろしくお伝え下さいませ。

さて、昨日の書き込み「最年少乱歩賞」にちょっと補足です。
『蹴りたい背中』を読んで、私は中島らも『白いメリーさん』(講談社文庫)の表題作を思い出したのよね。同じ女子高生ネタでも、綿矢りささんが描こうとしたこととは異なるんだけど、らもさんの筆の方が簡潔な分よけいに、乙女心の切なさが胸にググッときたわ〜。(T-T)

三毛猫さま、確か、黒猫さまが「綿矢りさの背中を蹴りたい」って、ボソッと書かれたことがあったわよね。その気持ち、私にもわかるように思うわ……
お口直しに、『白いメリーさん』オススメよ♪

それでは皆さま、良い一日を。
にゃあ〜♪


ども、始めまして。 投稿者:三毛猫室長  投稿日: 5月23日(日)02時38分4秒

あ、ども・・・始めまして。
・・・あ、スミマセン。なんか緊張しちゃってるようで・・・

自分、今度黒猫館に来た三毛猫室長という者です。
今後は書影コンテンツ「月光書影閲覧室」に勤務することになりました。
みなさんよろしくお願いします。

あ、でも司書といってもそれほど本読んでないです。(汗)
服とか集めてるほうが好きなもんで・・・

イヤ・・・なんともこれではもろにモラトリアム青年ですね。(汗)
まっとうな社会人として生きていきたいと思ってますのでご指導お願いします。

とりあえず今後は月光書影閲覧室に常駐しているのでみなさん遊びにきてください。
あ、しかし今日、本の「天・地・小口・見返し・扉・中扉・遊び紙・のど」
について館長に教わったんですがこんなに本の各部分に名前がついているとは知り
ませんでした。まっとうな司書になるため今後も精進します。(なんとなく汗)

ではまた。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/index.html


最年少乱歩賞 投稿者:アーニャ  投稿日: 5月22日(土)15時15分52秒

☆ホランドくん

昨日の読売新聞の2面のコラム「顔」が、24才3カ月で受賞なさった神山裕右さんだったわ。名古屋在住の方なので、中部版では第一報から特に大きく取り上げられてるのかもしれないけど。

「受賞作「カタコンベ」は、地底湖のある洞窟に閉じ込められたダイバーが、決死の脱出を計る冒険小説。」

だそうよ。

>綾辻行人さんたち「新本格」第一世代は、二十歳前後でデビューしているから、いまさら24歳で『最年少』と言われたって、だからどうなのって感じだよね。

>昔は「純文学は人間を書くものだから、それ相応に人生経験を積んでいないと書けないけれど、ミステリは斬新なアイデアが命だから、むしろ若い方が面 白いものが書ける」なんてことを言ったけど、今はその純文学が低年齢化してきてるようだね。

このコラムには、面白いことにホランドくんと正反対のことが書かれてるのよ。

「エンターテインメント小説には年季が要る。乱歩賞も三十、四十代の受賞者が大半だった。純文学の芥川賞が最年少受賞で話題を集める中、ミステリー界も若い息吹が主役を担っていきそうだ。作家への"就職試験"に合格し、逢坂(※剛)さんから「まずは人生経験を積め」とアドバイスを受けたという。 (文化部 佐藤 憲一)」(※は引用者)

この佐藤さんて方、きっと「新本格」第一世代の皆さまやミステリ界の事情について、あまり詳しくないのね(笑)。

>で、総じて言えるのは、読者(消費者)は、人間の深淵や暗部みたいなものにはまったく興味が無くて、泣いたり驚いたり感動したりするものを求めているということ。もちろん、それ自身は悪いことではないんだろうけど、問題はその受容の仕方が「刹那」的で、深くしぶとく探求しようとするような意志がまったく感じられないことなんだと思う。

とりあえず、てっとりばやく共感できればイイってことなのかしら。
最近になってやっと「最年少芥川賞」の2作を読み終えたんだけど、ちょうどこういう印象だったのよね。それぞれ、描いている世界の微妙な空気をよく伝えているとは思うのだけど、それ以上のものが感じられなくて。
どちらかというと『蛇にピアス』の方が読みやすかったんだけど、三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)所収の短編「月」(※戦後'50年代の「ビート族」の頃)から、何も変わってないのねってところ。『蹴りたい背中』も同じで、描写 が妙に古めかしい、近代日本純文学調で、特に目新しいモノはなかったわ。両作品とも、扱ってる題材(スプリット・タンやアイドルオタク)が今風なだけで、作者が若いわりに内容はむしろ古典回帰してるんじゃないかしらね?

以上、「猫が読んだ話題作」でした(笑)。
それでは皆さま、ごきげんよう。にゃあ〜♪


プロフェッショナルの自負(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月21日(金)15時56分19秒


 園主さま
> ま、その意味では、日本のアニメクリエーターの多くも「世界の真相を知ってしまうことを恐れ」、出来合いの正義や理想や希望を語ることによって、現実から目をそらしている、と言っても、けっして言い過ぎではないだろう。

 厳しい意見だね。でもまあ、信仰の問題であれ、ミステリ評論家の問題であれ、その根底にあるのは「自分に不都合な現実」については、それがいかにあからさまなものであろうと、そこから目を逸らし、さらにその「回避」を屁理屈をこねて正当化(観念的自己回復)してしまう「人間の弱さ」だからなあ。

 「信仰者は、ひたすら信じていれば良い(自己の理性的判断は必要ない)」「ミステリ評論家は、ミステリ作品を論じていれば良い(ほかのことには、無知無責任で良い)」「科学者は、学術的研究に専心しておれば、その研究成果 がどうなろうと気にすることはない(学者バカで良い)」「アニメ作家は、面 白いアニメを作っていればそれで良い(アニメばかで良い)」等・・・。

 みんな、自分が「一個の人間」であることの重みに堪えかねて、「専門」性による特権的地位 を得、それに安住しようとするんだよね。でも、その一方で、その「専門」性を鼻にかけて「突き詰めなければ、真実は見えない」みたいなことを平気で言う。つまり、自分は目を瞑ったままで「目を開け、直視せよ」なんて言っているのが、園主さま風に言うと「片輪としての専門家」なんですね。

 ですから、そうした観点からすると、SF作家エドモンド・ハミルトンは、人間としてとても誠実な人だったというのが良くわかるし、園主さまが、ボクのハミルトン論に夢に安住できなかった男というタイトルをつけて下さったのは、ハミルトンにたいする最大のオマージュになったんじゃないかと思います。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


プロフェッショナルの自負(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月21日(金)15時55分44秒


 アーニャ
> せっかく力作を書き上げたばかりで悪いけど、今日の読売新聞に「日本推理作家協会賞」の結果 も載ってたから、追加情報としてお知らせしておくわね。「本格ミステリ大賞」と同じようなものだけど、全部で5作受賞してるから、他3作の評価はどうかというところかしら。

 「第57回日本推理作家協会賞」の結果は、次のとおり。

  【長編および連作短編集部門】

    歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(文芸春秋)
    垣根涼介『ワイルド・ソウル』(幻冬舎)

  【短編部門】

    伊坂幸太郎「死神の精度」(『オール読物』12月号)

  【評論その他部門】

    千街晶之『水面の星座 水底の宝石』(光文社)
    多田茂治『夢野久作読本』(弦書房)

 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』と千街晶之『水面の星座 水底の宝石』が「本格ミステリ大賞」とのダブル受賞。
 ほかの3人はまだぜんぜん読んだことがないから、内容についてはボクはなんとも言えないんだけど、たぶん垣根涼介さんは「本格」畑の人じゃないと思うし、多田茂治さんはプロパーのミステリ評論家ではないはずだよ。伊坂幸太郎は、今もっとも注目されていると言って良い若手のミステリ作家だけど、この人も「本格」畑ではないみたい。

 伊坂さんはこないだ『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社)で「第25回吉川英治文学新人賞」を受賞したばかりだけど、その時の同時受賞作が垣根さんの『ワイルド・ソウル』。つまり「日本推理作家協会賞」としては、長編部門を3作同時受賞にはしたくなかったんで、長短器用に書きこなす伊坂さんを短篇部門にまわしちゃった、っていう可能性が大。文学賞の濫立で、タイミング的には後出しになっちゃった老舗の「日本推理作家協会賞」が、わりを喰い、新味に欠ける受賞作になってしまったというようなところだね。――それにしても、賞の数ほど「傑作」は無いわけで、ちょっと皮肉な現象だと言えるだろうね。

 伊坂さんについては、読んでみたいと思ってるんだけど、さていつのことになるやら・・・。 いま読んでいるのは、一昨年刊行されて、けっこう評判のよかった、版画家 柄澤齊さんの書かれたミステリ『ロンド』(東京創元社)だよ。

> 乱歩賞も24才の最年少受賞だとか。何だか流行りモノみたいに見えちゃうから、本当にイイ作品書いてても、逆に「ああ、またか」扱いされる恐れもあるかも?

 綾辻行人さんたち「新本格」第一世代は、二十歳前後でデビューしているから、いまさら24歳で『最年少』と言われたって、だからどうなのって感じだよね。

 昔は「純文学は人間を書くものだから、それ相応に人生経験を積んでいないと書けないけれど、ミステリは斬新なアイデアが命だから、むしろ若い方が面 白いものが書ける」なんてことを言ったけど、今はその純文学が低年齢化してきてるようだね。で、総じて言えるのは、読者(消費者)は、人間の深淵や暗部みたいなものにはまったく興味が無くて、泣いたり驚いたり感動したりするものを求めているということ。もちろん、それ自身は悪いことではないんだろうけど、問題はその受容の仕方が「刹那」的で、深くしぶとく探求しようとするような意志がまったく感じられないことなんだと思う。





( 以下は「プロフェッショナルの自負(4)」につづく)


プロフェッショナルの自負(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月21日(金)15時54分50秒


 影姫さま
> 昨年12月クリスマス、黒猫館大広間で優の旅発ちを祝福する大パーティが開かれました。優の最後の挨拶の言葉はこうです。「ボクをあのゴミ箱のようなニューヨークのスラムから拾ってくださった影姫様、そし
てボクに学問する喜びを教えてくださった館長様、時にはケンカ相手、時には遊び相手になってくれたハムちゃま、そして黒猫館の外から暖かくみまもってくれた園主様、ホランド様、可愛がってくださったkeen様、AOI様、みんな本当にありがとうございます。ボクはまたいつの日か帰ってくるからその時はまたよろしくお願いします。」

 ボクもそんなこととはつゆ知らず、失礼しました。

 いつもおどおどしたところのあった優くんでしたけど、今度お会いした時は大人に成長した姿を見せてほしいと思います。学問とは、世界を学び問うという作業の中で、真の自分を見い出しいていく作業だと思いますから。


 芙宮さま
> 素敵な詩をありがとうございました。そうかもしれません。うたがもつ感情を、芙宮の胸のうちで、何だろう・・鮮明に再現できるというか。感覚を共有できる詩って自分の中にはいってくると、何だかどきどきしません?そんな風になれたっていうことは、私がその真っ只中にいるからかもしれません。もっとも、私がうまれたのは、かたい服に覆われた幼い希望に想いを寄せて、雪ウサギに光る南天の赤に手をのばす、ような季節だから、五月には多分に憧れもあるせいか、すごく瑞々しく感じました。きっとこの詩に出会うべき時だったのね。どんなに素敵なものでも自分の中の時が合わないと心に入ってこないものね。

 そうですね。この詩は傑作中の傑作ですから、その意味では誰でも感心することができますが、そこに「今の自分」を見い出すことは、誰にでもできることじゃありません。人生の五月に立つ芙宮さまだからこそ、感じうるものが、きっとあったんだと思いますよ(笑)。

> ホランドさまが、小粋な紳士に見えました(笑)。

 じゃあ、今まではどう見えてたのかなあー?(笑)





( 以下は「プロフェッショナルの自負(3)」につづく)


プロフェッショナルの自負(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 5月21日(金)15時53分49秒

 みなさん、こんにちは! こないだNHKで、本放映を見てなかった、ゲストが庵野秀明の回の『トップランナー』が再放送されているのを見ました。庵野さんについては、ある程度の予備知識もあったので、特に発見というほどのものはなかったんですが、再確認的な意味では、けっこうおもしろい発言をいくつか聞くことができました。

 まず庵野さんは 、代表作『新世紀エヴァンゲリオン』の物議を醸したラストについて、次のように語りました(以下、庵野秀明の発言は、ボクの記憶に基づきます)。

「僕はお客さんを楽しませるために作品を作ります。『エヴァ』が受けたのは、あの当時、多くの人が自分の内面 みたいなものに興味を持っていたからではないかと思います。あのラストについては、いろいろ物議も醸しましたが、僕としては『エヴァ』がお客さんに対してあまりにも「心地よい場所」になり過ぎているという感じがあり、このままではマズイと思ったんですね。で、お客さんに水を浴びせかけるようなことをやった。でも、あれはあれで僕にとってはお客さんに対するサービスだったわけです。ああやって、目を覚まさせるのも、すべてお客さんのためだったんですね」

 庵野さんは、作品を「自分のため」に作るのではなく、「お客さんのため」に作るのだと明言しています。その意味では、庵野さんは自身を「芸術家」ではなく「サービス業者(エンターティナー)」だと規定しています。でも、庵野さんにとっての「サービス」は「媚びる」ことと同じではありません。ボクはここに、クリエーターとしての庵野秀明の気骨を見ました。

「『(風の谷の)ナウシカ』の巨神兵のシーン(の作画)は、みなさんから大変お誉めいただいたんですが、僕としてはあれは失敗作なんです。巨神兵の同体が腐れ落ちるタイミングが早すぎるんですよね。僕はあそこを中5(原画と原画の間に、動画を5枚はさむ)にしようと思ったんですが、宮さん(監督の宮崎駿)が中3でいいと言うので、その言葉を信じて中3にしたんだけど、出来上がったフィルムを見て、ずいぶん落ち込みましたよ。やっぱり中5にするんだったって。まあ、そのおかげで、それ以来、宮さんの言うことは聞かなくなりましたけどね(笑)」

 ここにも、クリエーターとしての妥協をゆるさない自負を感じます。

「僕が自慢できるのは、師匠と呼べるのが、板野一郎さんと宮崎駿さんの二人だということです。この組み合わせは僕だけでしょう。僕はこのお二人から、ものを作るということの基本を教えてもらいました。妥協しない物作り。そのためにはこんなことまで許されるんだ、みたいなことを学びました」

 たぶん、ここで語られているのは、作品作りのためなら「鬼」になるという、「物作り(クリエーター)」の精神のことでしょう。「人」が中心に据えられる「民主」的な「職場」と、「作品」が主(あるじ)となる「物作りの現場」とは、同じではない。後者ではしばしば、「人」は「作品」への供物に供されることもある、という事実を語っているんでしょうね。

「『キューティーハニ−』で伝えたいのは、現場の勢いですね。現場にみなぎっているスタッフの熱気が、画面 を通してそのまま観客に伝わるような作品にしたい」

 ここにも、作品に持てるものをすべて注ぎ込む、クリエーターの自負と自信を感じます。

「たしかに僕は昔、作家は結婚したらダメになると言いましたが、自身が結婚して思うのは、昔とは違ったものが作れるはずだということです。『エヴァ』は独身男の、寂しいよお、つらいよお、っていう思いをそのまま叩き込んだ結果 、できた作品で、今の僕にはもうああいうものは作れない。でも、今なら今しか作れないものもあると信じてるし、またその結果 を出していくつもりです。もちろん、昔のボクの作品が好きだという人は、庵野はダメになったと言うでしょうが、それは仕方がありません。ただ僕としては、結婚してダメになった人たちの二の舞いになるつもりはありません。今後、僕の作品から、そうした心意気を感じていただければ嬉しいです」

 庵野さんの発言にみなぎっているのは、まぎれもなく「作家=クリエーター=職人」としての強烈な「自負」なんだと思います。





( 以下は「プロフェッショナルの自負(2)」につづく)



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