●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(5) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)20時34分17秒

 AOIさま(つづき)

ちなみに、過日「国民年金未納議員」として名前のあがった、元創価学会関西男子部長の山下栄一が、来る参院選の候補者を紹介する新聞記事の中で、次のようなことを申しております。

『 教壇が原点政策に反映  山下栄一さん 56 公明現

 関西創価中学・高校の社会科教師を十七年間勤めた。「クマさん」「クマ五郎」と、慕われた無精ひげの先生の永田町暮らしはもう十二年になる。
 きちんと、ひげをそるようになった今も、政治家としての原点は教壇にある。
 だから、国会活動を問われ、一番に挙げるのは、いじめや不登校を解決するために提唱したスクールカウンセラーの導入だ。
 「十一年前、野党時代に声を上げた。今年度も増え計八千五百校に配置される」と胸を張る。
 「きまじめな性格」。しかし、今は「抜けていたところがあった」と、痛感する。
 初当選後、九年九ヶ月間も国民年金を未納。「不注意だった。信頼の破壊は一瞬だが、回復は大変。おわびはしたが、今も、すっきりしないという支持者はいる」と、悔やみきれない思いを抱いて、三選に挑む。
 党が半世紀近く守ってきた議席。「庶民の祈りがこもっている。負けたら取り返しがつかない」
                  ◇
 大阪市出身。妻と一男二女、愛犬は「メイ」。坂口厚労相の娘二人も教え子。好きなカラオケのおはこは、「男はつらいよ」。』

(『読売新聞』大阪版 2004年6月27日付掲載「参院選 候補者はこんな人(下)」から、山下の部分全文)

もちろん、ここで注目すべきは、山下が『教師』出身でありながら『スクールカウンセラーの導入』推進派議員であるという点でございます。

すなわち、

「東京都」→「君が代・日の丸の強制」→「教師」→「創価学会」→「公明党」→「山下栄一」→「スクールカウンセラーの導入」→「心理学者河合隼雄」→「心のノート」→「祖国を愛する心」→「臨教審」→「中曽根康弘」→「石原慎太郎」→「東京都」

と、現在の日本の「政治と教育」をめぐるキナ臭い動きは、みごとに「閉じた輪」を形成しているということなのでございます。



 ホランド
>> ――まあ、近いうちにDVD上映会をやろう。

> 楽しみにしてます!(^-^)

DVDの『テロリストは誰?』も楽しみだが、カンヌ映画祭で最優秀作品賞であるパルムドール賞を受賞したマイケル・ムーア監督の最新作『華氏911』も楽しみだな。

なにしろ、徹底的にブッシュ米大統領を批判した政治色鮮明な作品が、アカデミー賞の「ドキュメンタリー」部門を受賞した前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』をはるかにしのぐ大ヒットを見せているのだから、11月に大統領選挙をひかえて、アメリカはさぞや賑やかなことだろう(笑)。

『 ブッシュ米政権を痛烈に批判したマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「華氏911」が、北米公開後27日までの先週末3日間で2390万ドル(約26億円)の興行収入をあげ、劇映画も含めた全米ランキングのトップに躍り出た。映画調査会社が28日、集計結果 を発表した。
 ムーア監督はこの結果に「度肝を抜かれた」と漏らしたと、AP通信は伝えた。上映館数が868と他の人気作品の3分の1に過ぎない「華氏」が売り上げトップに躍り出たことに、米メディアも驚きを示している。
 ドキュメンタリー映画の興行収入でも過去最高を記録。これまで最高だった02年の同監督のアカデミー賞受賞作「ボウリング・フォー・コロンバイン」が9カ月間であげた2160万ドル(音楽映画などを除く)を、「華氏」はたった3日間で抜いた。 (06/29 11:11) 』(asahi.comより)




それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

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天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(4) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)20時24分9秒


 AOIさま(つづき)

> 世界中がみんな創価学会になれば、平和になるという。たしかに。
> 創価学会はそのために世界に向けて活動しているという。
> まずは、ブッシュを創価学会員にしてほしい。
> 批判してばかりしていてはだめ。ものごとを否定的に考えるのではなく信じることだと。
> 世界中がみんな創価学会になるまで、イラクで子どもが殺されてゆくのもしかたがないということらしいのです。南無妙法蓮華経。

あえて申しますが、『世界中がみんな創価学会になれば、平和になる』ということはございませんでしょう。なぜなら、宗祖日蓮が申しましたように「間違った宗教が権力と結べば、国が乱れ、民衆は塗炭の苦しみにあえぐことになる。これは仏法の哲理に照らして明らかなこと」だからでございます。――つまり、今の創価学会に「正法正義」はない、のでございます。ですから、創価学会が世界に広がっても、「民衆救済の仏法」が広がった(広宣流布した)ことにはならず、おのずと世界は平和にならないのでございます。

もちろん、だからと言って、創価学会を批判する側に「正法正義」があるということではございません。ただ、学会員の姿に表われてはっきりしているのは、今の創価学会は、宗祖日蓮の「破邪顕正」の厳格さ、つまり「理非曲直」を問う厳格さを失った、「現実逃避」の宗教であり、マルクスの言った「阿片」そのものだということなのでございます。

> ちょっと、不思議なことを聞きました。
> 東京の教育現場が「今や戦時下」と言われるように、君が代の起立、斉唱に関して教師の大量 処分を行っています。口パクもチェックの対象で、君が代斉唱の声量を各校ごとに調査したりしているところもあるくらい(笑)。
> 教師にとどまらず、起立、斉唱をしない生徒に対しひとりひとり指導と称して訓告。
> また、生徒が歌わないと教師の指導不足ということで処分の対象。だから、校長や教頭は、「みんなが歌わないと君たちの先生が処分されるから歌うように」と脅迫まがいのことをいうことさえ。
> そういう現状なのですが、今年東京都で教師として新任で採用された人の半数は創価学会員だということです。
> 私の認識では宗教的に創価学会は君が代、日の丸の強制に反対してきたとおもっていたのです。教育現場がこれだけ強制しているにもかかわらず創価学会員が新任で相当数採用されるということは現在創価学会は君が代、日の丸の強制に対し、反対していないということではないかと推測するのです。


> 東京の教育現場

については、私も『緊急報告 教育基本法「改正」に抗して 全国各地からの声』(高橋哲哉、大内裕和、三宅晶子、小森陽一 編・岩波ブックレットNo.626)等で、ある程度は知っております。そのうえで申しますと、

> 今年東京都で教師として新任で採用された人の半数は創価学会員だということです。

というのは、残念ながら充分にありえることでございましょうし、石原慎太郎都知事の立場に立ってみれば、これは「妙案」だとも申せましょう。

> 私の認識では宗教的に創価学会は君が代、日の丸の強制に反対してきたとおもっていたのです。

たしかに『君が代、日の丸の強制』には反対でございましょうが、先にも申しましたとおり、形式的に『強制』するものでなければ、これに積極的に「問題意識をもったり、反対したり」することもないのでございます。組織が「これは戦争国家への反動的布石であるから、反対すべきである」という明確な方針を打ち出さないかぎり、優等生的性格の強い創価学会員(教師)は「現状追認」をくりかえすばかりでございましょう。
ですから、こうした「問題意識の希薄な人たち」を教師に雇うというのは、新保守的な「新・管理教育」を目指していると言える東京都にとっては、妙案以外の何ものでもないのでございます。

> 現在創価学会は君が代、日の丸の強制に対し、反対していないということではないか

との批判に対しては、創価学会員の教師は「強制は存在していない。ただ任意を前提とした上で、推奨している、という程度のことはあるだろう。戦争と日の丸・君が代は、必ずしも一体のものではないと考えるからである」くらいの返事をするものと思われます。





( 以下は「天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(5)」につづく)


天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(3) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)20時23分3秒


 AOIさま(つづき)

> 週に2・3回投函される聖教新聞をちゃんと読んでいるわけではないけれど、世界平和、恒久平和を訴え、訪問先では必ず勲章を授与されている池田大作SGI会長。
> 聖教新聞を薦める戦争反対のお向かいさん、数年前にクリスチャンから改宗した友人、選挙に際してTELしてくる知人たちがいうことは、創価学会は戦争反対だけれど、政治の世界にはいろいろなやむおえない外交上の事情(北朝鮮問題、安保問題)があってしかたがないのだそうな。そういう政治的にやむおえないことはさておき、生活に密着した、私たちに欠かせない問題にいかに取り組んでいるかをみてほしい。新しい年金法では受給率50〜55%を保障するというウソのビデオもみせてもらった。
> 読売新聞の記事とともに、自衛隊はイラクの国民が歓迎している。国際貢献のための人道支援をしているのであって軍事活動はしていないという。
> たしかに、TVでは物資を現地調達するすがた。給水活動の姿ばかりを放映している。
> 武装したアメリカ兵を輸送する自衛隊。放射能汚染のひどいサマワにいる自衛隊については語らない。自衛隊員を危険に晒していることは考えない。
> ブッシュはひどすぎる。やめてもらわなければと。それでも、子ども、市民700人以上が虐殺されたファルージャをテロへの戦いだと言って憚らない小泉首相を批判しない。
> 異教徒は殺されるのもしかたないのか、子どもがころされることも運が悪いからしかたないのか、創価学会からみて、イラクでの現状では戦争ではないということらしい。

結局、学会員は、現実について「無知」なのでございますよ。

毎日配達される『聖教新聞』をひととおり読み、毎月発行される『大白連華』を読み、年に数冊刊行される池田大作名誉会長の著作を読み、そのほかに刊行される学会関係の書物を読み、人によっては『潮』や『第三文明』まで読む。
つまり、まじめに活動している人であるばあるほど、学会がらみではない本(情報)に接する「時間」など、まったく取れないのでございますね。彼らの知識は、イヤが上にも、それらから得られたものでしかありえないのでございます。

さらに申しますと、島田裕巳が『創価学会』で書いておりますとおり、学会は学会として自己完結した「住み良い村」であり、そのことに窮屈さを感じない人は、そこにあえて疑問を覚える必要はなく、むしろ疑問をもつことは、わざわざ自身で不安を呼び込むようなことでしかないのですから、進んで疑問を持ったりはしないのでございます。つまり、学会組織とは、敵対者が悪意をもって描くような「淫祠邪教」の世界ではなく、いたって凡庸な庶民的「ぬ るま湯」の世界なのでございます。

ですからこそ『そういう政治的にやむおえないことはさておき、生活に密着した、私たちに欠かせない問題にいかに取り組んでいるかをみてほしい。』などと、まずそうなことからは、さっさと目をそらして(逃避して)しまうのでございますね。

時に彼らが、声高なまでに『世界平和、恒久平和』などの大義を訴えたところで、それは九官鳥のそれと同様、自分たちに「居場所」をあたえてくれる「池田先生」や「学会組織」の口まねに過ぎず、彼ら自身の「考え」でもなければ、まして「信念」でなどありえないのでございます。ですから、組織の方針が変われば、彼らは「自身の安穏」のために、組織の言うがままに、あっさりと方針転換し、それを恥じようともしないのでございます。

つまり、一言でいえば、創価学会員は(世間並みに)「弱い」のでございます。「世間」の人が、その「弱さ」を埋めるべく「金儲け」や「趣味」に走る代わりに、彼らは「信仰」に、というよりもむしろ「創価学会という村への帰属」に走ったのでございます。





( 以下は「天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(4)」につづく)


天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(2) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)20時20分46秒


 AOIさま
> 島田さんが言われるように、創価学会の会員は身近にいながら、宗教原理も歴史的なことも内部事情も知らない私は「客観的」であるなどとはおよそ思わないけれど、内部の事情に詳しい人、創価学会員があまたある創価学会批判のひとつでもあるにちがいない『創価学会―21世紀のカルト』、「落選運動」を、この時期どう思われるか、訊いてみたい気がしたのですよ。

ホランドくんも書いておりますとおり、大切なのは、批判すべき相手を、きちんと批判することなのでございますね。そのためには、相手をある程度は知っておくべきであり、知らないのなら、批判の範囲を、知っている範囲にきびしく限定すべきなのでございます。

ところが、たいていの人には、これができません。まず、批判のために勉強をしようとはせず、ただ自分の意に適う意見だけを追認して、全体感を持とうとはいたしませんし、全体感がないからこそ、自分に批判が可能な範囲の見定めができず、夜郎自大になってしまうのでございます。

> そうですね。
宗教団体としての「創価学会」ではなく、「公明党」の支持基盤である「創価学会」(政治的な部分)を問題としているわけですね。
> 創価学会員たらしめている、宗教にかかわる内面の部分は触れません。
> 以下、認識不足で書いているところも多々あるでしょうけれど。

> 現世利益の宗教である創価学会が政治に参画するというのはある意味、ごく自然なことでもあると思う。キリスト教をはじめ、あらゆる宗教が政治的でないなどとということはなく、歴史的にも、今現在も証明されていることでもあります。
> 政教分離といいながらも、創価学会の会員のほぼすべてが公明党を支持し、政治的にも活動しているわけで、公明党から創価学会をみることも、創価学会員の公明党への政治活動からみることも間違いではないと思う。

もちろん、そうでございましょう。宗教団体が好きこのんで世事にかかわる以上は、その側面 からの批判にもきちんと応えなければならない。その際に、手前味噌な「宗教の論理」だけでそれに応じることはできない、というのは当然のことでございます。

ちなみに、創価学会の「建て前」としては、「政治運動」への参加は「自由(=強制されない)」でございますし、「公明党の支持」も「自由」で、「どの党へ投票するか」ももちろん「自由」ということになっております。
しかし、これはあくまでも「建て前」であり、「無言の圧力」は当然ございます。しかし、それはあくまでも「無言」だからこそ「強制されない」ということになっているのでございます。
これは創価学会の「財務」を支えている「広布基金」についても言えることでございます。

選挙前に創価学会の各種会合に行けば、聞かされる話の大半は「選挙」の話でございますし、候補者が挨拶をする場合も少なくなく、これなど時には選挙違反の「事前運動」にも問われてかねないものだと申せましょう。また「財務」の前に各種会合に行けば、「広布のために必要な財務」「まごころの財務」などという話をイヤというほど聞かされることになります。しかし、それはあくまでも「勧め」であって「強制」ではないということなのでございますね。

私は、学会活動をしなくなる5年ほど前から、ハッキリと「選挙運動はしない。財務にも参加しない」と公言したうえで、会合に出ておりました。たしかに、こうした私を非難する人は一人もおりませんでしたが、「した方がいいんじゃないか」と善意から奨める人は時々おりましたし、その度に「いいえ、せっかくですけど、私はしません」ときっぱり断るのは、かなり心理的負担のかかることでございました。
したがいまして、余程の覚悟がないかぎり、学会組織から離れないでいて、「選挙」や「財務」から自由になることはできないのでございます。当然、普通 の人、つまり大半の学会員には、そんなことは実質的に不可能なのでございます。





( 以下は「天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(3)」につづく)


天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(1) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)20時19分49秒

みなさま、本日は、いつもの「前説」に当る、先の拙文父の子の帰還 ―― 追悼 春日井建と、以下のレスの部分に、別々のタイトルを付させていただきました。なぜかと申しますと、私としては、去りゆく人を送る時の顔とは全然違う、現世に立ち向かう時の顔を、去りゆく人に見せたくはなかったからでございます。





 影姫さま
> 苦労に苦労を重ね、一晩かかって以前からお約束の「あの本」の書影アップしました。

『せどり男爵数奇譚』の愛蔵限定版でございますか、私もあの作品は好きで、初版本は何冊かもっております(笑)。

ホランドくんも書いておりましたが、最近は古本にかんする本がたくさん出ておりますね。しかし、私個人としては、「恥じらい」のない垂れ流しの自慢話というのは、どうにも我慢ならないものでございまして、その種の本については書く方も読む方も、ともに敬遠したいところなのでございます。
もちろん、それが悪いことだとは申しませんが、「かってにやってて下さい」という気分を押さることもできません。私は基本的に、自己を相対視する目を欠いた人、つまり単なるナルシストが心底嫌いなのでございましょう。

『せどり男爵数奇譚』という小説も、そういう意味では「古書コレクター」というものを、相対視して描いた作品であると申せましょう。あれは「古本讃歌」の本ではなく、「古本コレクターの悲喜劇」を通 して「人間の業」を剔抉した作品なのでございますから。





( 以下は「天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ(2)」につづく)


父の子の帰還 ―― 追悼 春日井建(下) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)18時18分6秒


しかし、ものの考え方とは、人それぞれでございます。私も基本的には、中井英夫の狷介な考え方が好きなのではございますが、あえて「変節」した春日井建の生き方もまた、ひとつの覚悟にたった、人の生き方なのでございましょう。

『 二十二歳、モダンダンスの脚本を書く。やがてテレビ、ラジオ、舞台が表現の場になった。三十一歳、第二歌集『行け帰ることなく』刊行。「歌への別 れをはっきり言ってなかったのでまとめた。歌は二十三歳のときのもので、気持ちの上ではもっと前に別 れていたんです」。なぜ別れたのか。「『未青年』で達成感があった。短距離走者が走り終わった後のようでした」
 「幼いころから死生観をもっていた。いま、やすらかに生きられることに通 じている」
 「若いということは茂った木、悩みも多く、つらすぎる。事件を起こした少年の心の底を推し量 ると、自分の若いころと通じたものがあると思う。老いるとさっぱりした木になる。若い人は暗い。年を取ると明るくなる」 』

小畑一成歌人 春日井 建さん ――“とき”を歌い続ける『短歌』編集発行人 ・年を取った者は明るいより)

明るく軽く生きることが間違いであろうはずがない。才能に殉ずることだけが、人の生き方ではない。春日井建は、中井英夫の憎悪の言葉を、直接間接にその背にうけとめながら、自らの信じる生き方を生きたのでございましょう。そして、誰よりも彼を愛し、誰よりも彼を憎悪した中井英夫の死を、春日井建は静かに見送ったのでございます。

『 その折りだったか日常における中井英夫のワガママぶりに話が及んだ。三人が顔を合わせたのは葬儀の数刻ばかりだったけれど、私と春日井さんの会話のなかにもうひとりが親しく顔をのぞかせていた。戦後短歌の名編集者と『虚無への供物』の作家の駄 々っ子ぶりに閉口したあれやこれやの笑い話となって、思えばいい供養だった。こんな話をしてると中井さん、化けて出てきちゃいそうですねえ。
「いやあ僕、中井さんだったら枕許に出てきてもらってもいいなあ。もう一度お会いしたいですよ」
 春日井さんは楽しそうに笑われた。』(本多正一「われにも五月を」より)

たぶん、春日井も、中井英夫の彼への憎悪が、何よりも彼への深い愛情に発したものであったことを、理解していたのでございましょう。また、だからこそ「生きておられるうちは、中井さんに許してもらうことはできないかも知れない。でも……」と思っていたのではないでしょうか。

ですからこそ私には、 そんな春日井が五月に死んだという事実に、やり場のない切なさを感じるのでございます。それはまるで、ある時から大好きな父に見返られなくなったおとなしい子供が、その気を惹くためにした「寂しい最後の悪戯」のようではございませんか。

中井さん、それでも僕は貴方が大好きですよ。あの世でなら、貴方も僕を許してくれますよね?

『 この二月、春日井さんの妹さんより「春日井が中井さんについて書いたもののコピーを送っていただけないでしょうか」と連絡を受けたばかりだった。ご自身の病状を念頭に、なにかをおまとめなるおつもりだったかと思う。ほどなく訃報に接した。』(全同)


  きらめく季節に
  たれがあの帆を歌ったか
  つかのまの僕に
  過ぎてゆく時よ

  夏休みよ さようなら
  僕の少年よ さようなら
  ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
  雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち

    (中略)

  二十才 僕は五月に誕生した
  僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
  いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
  はにかみながら鳥たちへ
  手をあげてみる
  二十才 僕は五月に誕生した


                (寺山修司「五月の詩・序詞」より)





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父の子の帰還 ―― 追悼 春日井建(中) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)18時12分2秒


その春日井建が、デビュー歌集『未青年』で華々しく燃焼した後、歌壇を去った。きっと中井英夫は、この潔い才能を誰よりも愛おしみ、さらに深く愛したことでございましょう。

ところが、『行け帰ることなく』(第二歌集タイトル)として歌壇を去った、その若き天才が、四十づらを下げ、『中部短歌会の主宰者』として、歌壇に復帰したのでございます。
裏切られた。あいつは俺を裏切った!――中井英夫の心は、かつて溺愛した若き才能の変節に対し、真っ赤な憎悪に燃え上がったことでございましょう。

『 しかしながら、春日井建の作品は、デビューが華々しかったのと呼応するかのように、その輝きを失うのも急だった。『未青年』1卷でその魅力の全てを出し切ったかのように、その後は全く生彩 の無いものになってしまったのである。そして間もなく、氏は歌壇からも姿を消してしまった。
 その春日井建が突然歌壇に復帰したのは1980年(昭和50)、中部短歌会の主宰者だった父親が亡くなりその跡を継いでのことだった。若かった彼も40代になっていた。これに対して歌壇では、大歓迎する側と「甘すぎる」としてそれに反撥する側とがあったらしい。歌壇内部のことはどうでもいい、私にとって『未青年』1卷があればそれで十分だというのが、率直な感想である。』
                    (根本啓子水燿通 信112号

中井英夫がこの『「甘すぎる」としてそれに反撥する側』に立ったことは、容易に想像できましょう。以降、中井英夫は「春日井建は『未青年』で誕生し『未青年』のまま夭折した天才である。今の春日井建は、春日井建の仮面 をかぶった、何かほかの醜い生き物であり、俺が愛した春日井建ではない。だからこそ俺は、今は亡き春日井のためにも、あのニセモノを金輪際認めるわけにはいかないのだ」と考えたのではないでしょうか。





( 以下は「父の子の帰還 ―― 追悼 春日井建(下)」につづく)


父の子の帰還 ―― 追悼 春日井建(上) 投稿者:園主  投稿日: 6月29日(火)18時10分59秒


みなさま、中井英夫との縁深き『その人々』の一人が、また亡くなりました。去る5月22日のことでございます。


『 春日井 建氏(かすがい・けん=歌人)22日午後5時58分、中咽頭(いんとう)がんのため愛知県内の病院で死去、65歳。同県江南市出身。自宅は名古屋市千種区光が丘2の3の14。葬儀・告別 式は25日午後1時から千種区千種2の19の1、いちやなぎ中央斎場で。喪主は弟郁(いく)氏。

 19歳の時に発表した第一歌集「未青年」が三島由紀夫から「われわれは一人の若い定家を持った」と絶賛された。一時、歌壇を離れたが、2000年に歌集「友の書」「白雨」で、権威のある迢空賞を受賞した。』
                    (「四国新聞社」2004年5月32日付より)


昨日、本多正一さまからメールをいただきました。来月発売の『現代詩手帖』春日井建追悼特集号に追悼エッセイを書いたが、その中に『お名前出します』ので『よろしく』との内容だったのでございますが、世事にうとい私は、このメールで、初めて、春日井建氏の死去を知ったのでございます。

本多さまのエッセイのタイトルは「われにも五月を」で、これは『「われに五月を」とうたった寺山修司と
同じ若葉の季節、中井英夫に愛された青春の歌人がまたひとり永遠の輝きを放つことになった。』という奇縁(暗合)に由来してつけられたものでございます。

本多さまのエッセイに引用されている、塚本邦雄の文章(「還らざるべし ― 中井英夫『黄泉戸喫』書評」)に、

『 中城、寺山に続いて、中井英夫が登場させたのは、「短歌」昭和三十三年八月号の五十首詠「未青年」作者、当時二十歳の春日井建であった。二年後に上梓の同標題の処女歌集は三島由紀夫の序文を飾ってゐる。(略)これこそ、まさに中井英夫が求めつづけてゐた歌人ではなかつたらうか。否、春日井建自体が、中井英夫の創作品であつたと極言したいやうな気もする。今は、彼を創つた二人ながら、黄泉に居を移してしまつた。戸喫の料は一巻の歌集といふのも、故人の本懐であらう。』

とあるように、春日井建は、中井英夫に深く愛された、若き才能でございました。しかし、その春日井建が寺山修司と同じ五月に亡くなったというところに、私はなんとも切ないものを感じさせられたのでございます。

――と申しますのも、終生その才能を中井英夫に愛されつづけた寺山修司とはちがい、春日井建はある時期以降、中井英夫から激しい怒りを向けられる存在となってしまったからでございます。そして、その主たる原因というのは、一度は歌を捨てた春日井が、父親が主催していた結社を引き継いで、歌壇に復帰したというところにあったようでございます。

これは、中井英夫が短歌の世界で果たした仕事を思えば、容易に理解できるところでございましょう。中井が一介の編集者として中城ふみ子、寺山修司などの「真に新しい才能」を送りだした当時の短歌界は、結社の頂上に君臨する保守的な大御所歌人たちが、若手歌人の生殺与奪をにぎる、たいへん旧弊で閉鎖的な世界だったのでございます。つまり、そのような大御所連に理解できないような短歌は、黙殺の憂き目を見ることになりましたし、そもそもそういう人たちの主催する結社に所属しないかぎりは、個人として歌作を楽しむ趣味人ではありえても、「歌人」と名乗ることは決してできなかったのでございます。

しかし、中井英夫はそんな「歌壇」の閉鎖性を憎悪しぬいておりました。戦争が終り、我々の頭上を被っていた黒雲が払われたというのに、どうして歌壇はこうも閉鎖的であり、若者たちがその思いを素直に表現することを抑圧しようとするのか。なぜ、若き生命からほとばしり出る歌を、否定しようとするのであろうか――そんな中井英夫の思いの結晶が、中城ふみ子であり、寺山修司であり、そして春日井建だったのでございます。





( 以下は「父の子の帰還 ―― 追悼 春日井建(中)」につづく)


文芸出版界、その虚構と現実(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月29日(火)00時14分5秒


 Zephyranthesさま
>  でも仮面ライダー達は政府だの組織だのの助けは最初から当てにせず最初から自分達の力+協力者の援助で切り抜けていましたよ。少なくとも自分達の無力させいにしたりはしませんでした。その点ではあの3人は遠く及びません。

 はじめまして、ようこそ、いらっしゃいました!

 せっかくご感想を下さったのに、いきなり園主さまから、かまされていましたよね(^-^;)。・・・でも、反論や批判に対しても真摯に対応する、というのが言論の世界での「自己責任」の取り方だとも言えるでしょうから、どうか気を悪くなさらず、この経験から何かをつかんで下さいね。


 AOIさま
 おひさしぶりです! やっぱり、お忙しいんでしょうか?

> 落選運動に共感はしないけれど、創価学会を批判する気持ちは理解できるということです。

 そうなんですよね。結局、園主さまが言いたいのは、たとえ相手が批判すべき存在であっても、批判の仕方がアンフェアなものであってはいけない。「正しい目的のためなら、手段は正当化される」ということではないんだ、ということなんじゃないでしょうか。・・・考えてみれば、ナチスのユダヤ人虐殺だって、「最終的解決」のためだったんですからね。


 影姫さま
> 苦労に苦労を重ね、一晩かかって以前からお約束の「あの本」の書影アップしました。
> 題名はもうこの花園でなんども話題になったので皆さんお分かりになると思います。ヒントは「姦淫聖書」です。

 『せどり男爵数奇譚』(梶山季之)の限定版を入手されたんですね。まだだったのかと、むしろ意外でしたが、発行部数が50部なら、なかなか出ないんでしょうね。

 最近は古本ネタの本がたくさん出ていますけど、実録であれフィクションであれ、「ふるほん本」の古典になるような本は他にあるんでしょうか?


 園主さま
> ――まあ、近いうちにDVD上映会をやろう。

 楽しみにしてます!(^-^)




 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


文芸出版界、その虚構と現実(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月29日(火)00時13分7秒


 ほかに興味深い報告としては、エンターティンメント小説、とくにミステリの初版初刷の発行部数にかんする、大森望さんの次のような証言です。

『少数の人気作家を別にすると、エンターテインメント系の四六版単行本って、今はふつう初刷六千部から八千部くらい、それが返品率五割とかも珍しくない』(P150)

 これはかなりすごい数字だとは思いませんか? 以前、園主さまから「四六版単行本で刊行する場合、製作費をペイするには最低でも二千部なんだそうだけど、純文学作家なら大御所級でも、初刷二千部でそれっきりってのが珍しくないらしい」という話を聞かされて驚いたんですが、エンターティンメントが、まさかその3〜4倍程度だなんてびっくりです。
 こないだ園主さまは、

『同人出版でしかなかった『空の境界』の刊行に先立ち、少部数の「限定豪華版」を刊行して「話題作り」をしたなどというのも、じつに『文の商人』笠井潔らしい、巧みな戦略と申せましょう。
なにしろ「同人誌の世界」というのは、場合によっては、「本格ミステリの世界」と比較しても『本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実』があり、『市場のヤスリにかけられているかどうか』という点では『決定的な相違』があるとも言える世界で、そうした「同人誌の世界」から見れば、『本格ミステリの小世界』などという『タコツボ』世界における、たかだか1000部までの「限定本」など、屁でもない部数なのでございますから。』(2004年6月18日)

って書かれてましたよね。
 じっさい『空の境界』の「同人誌版」が万単位で売れたとまでは思わないけど、同人小説としてでも記録的に売れたというのなら、数千部程度は売れてるはずです。で、その数千人いるであろう同人時代からのファンが「私の持ってる『空の境界』が認められて、豪華限定本になった!」ってことで「限定本」を買うんだから、たったの1000部なんて(それ以外の人が一人も買わなくったって)絶対確実に捌ける数字なんですよね。それなのに、それが一瞬で売れたと報じれば、みんなが「(無名の新人作家なのに)すごい!」って思ってしまう。――これって立派に「マインドコントロール」ですよね。

 ともかく、こんな話からも、小説出版業界の驚くほどの「規模の小ささ」がうかがえるし、だからこそ『空の境界』現象なんてことも可能だったんでしょう。
 読者を楽しませることを主眼としたエンターティンメント小説においては、「うまい同人誌作家」と「売れないプロの作家」とでは、作家的力量 に大差がないばかりか、発行部数すらも大差がない。――ただ大差があるのは、ただその認知度(知名度)と、それにともなう「世間的権威」ということなんでしょうね。





( 以下は「文芸出版界、その虚構と現実(下)」につづく)


文芸出版界、その虚構と現実(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月29日(火)00時12分7秒

 みなさん、こんばんは! いま『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美/パルコ)を読んでるところなんですが、すっごく面 白いですよ。
 業界うら話的なことは、わりあい耳に入ってきている方だから、そういう面 ではそれほど驚く内容じゃあないんですが、予想を遥かにうわまわる、ホンネ爆発のオモシロ対談です。しかも、言ってることがことが、しごく真っ当だから・・・「質が悪い」んですよね(笑)。もちろん、お二人とも芸をお持ちですから、大真面 目に語るというんじゃありませんけど、そこで語られている内容は「正論」と言ってもいいもので、ここで批判されたり皮肉られたりオチョクられたりした文壇のお歴々も、公然とは反論しかねるんじゃないかと思います。

 特に豊崎由美さんは、園主さまと似たところのある人で、文壇大御所を真正面 からなぶり倒しています。たぶんこれは、豊崎さんが国内外のいろんなジャンルの本を、幅広く読んでおられるからなんでしょう。視野が広くて、比較対照すべき作品を「ジャンルの枠を超えて」たくさん知っておられるため、「ジャンル内的な権威」なんて「だからどうした」という感じで、ほとんど無視できるからなんだと思います。
 例えば、次のような発言も「超ジャンルの読書家」らしく、その意味で園主さまの日頃の発言とダブってきます。

『ただ地味は地味ですよね、うまいんだけど。受賞するのはかまわないけど、わたしが一般 読者だったら、読まないでいい小説だなあ。読んだからってなにか新しい発見があるわけでもなし、読んでる最中わくわくできるわけでもなし。読まないでも人生はそのまま過ぎてゆくよ、みたいな』(P139)

『でも、ガルシア=マルケスの本もイアン・マキューアンの本も日本の新人賞作家の本も、値段的にはさほど変わらないわけでしょ。わざわざリスクを背負わなくても、新しい面 白い文学を読みたいんだったら、海外の一線級の小説を読んでればいいと思っちゃうんですよね。身も蓋もない言いかたですけど』(P76)

 園主さまはこないだも、こんなこと言っておられました。

「ミステリマニアの友人に、最近ミステリをあんまり読んでいないって言ったら、その友人がどのくらい読むんだと訊くから、国内外あわせて年に6冊くらいかなって言ったんだ。そしたら、それじゃあミステリマニアとは言えませんねえーと言うんで、俺は、べつにミステリマニアだなんて言われなくてもいいんだけど、って答えたんだけどな。……まあ、その心は、ミステリマニアじゃないけど読書家です、みたいな感じかな。――ミステリなんか数読んだってハズレが多いし、エンターティンメント小説でハズレたら、もう後に何にも残らない。一方、ジャンルにこだわらなければ、世の中には、読めばなにがしか教えられるところのある書物や、定評のある傑作・古典的名作だのが、一生かかっても読めきれないくらい存在する。なのに、何を好きこのんで狭いジャンルのなかに止まり、凡作駄 作の類まで、わざわざ読み潰さなければならないんだ? そんなの、このジャンルについてはここまで読んでるんだぜっていうセコイ自己満足と、同類内での自慢話にしかならないじゃないか。とてもそれが、ジャンルへの愛の証だなんて思えないし、そんな風にも見えないよ、たいていの奴はね。じっさい、読んでる本の大半は凡作駄 作なのに、その数だけが自慢だなんて、そんな読書は、読書経歴にアイデンティティを求める、さもしさ以外の何ものでもない。そんな貧乏くさくって非・知的な読書は、御免こうむりたいんだな」

 ねっ、似てるでしょ?(笑)





( 以下は「文芸出版界、その虚構と現実(中)」につづく)


カルト(下) 投稿者:AOI  投稿日: 6月27日(日)11時53分35秒

(園主さまつづき)
週に2・3回投函される聖教新聞をちゃんと読んでいるわけではないけれど、世界平和、恒久平和を訴え、訪問先では必ず勲章を授与されている池田大作SGI会長。
聖教新聞を薦める戦争反対のお向かいさん、数年前にクリスチャンから改宗した友人、選挙に際してTELしてくる知人たちがいうことは、創価学会は戦争反対だけれど、政治の世界にはいろいろなやむおえない外交上の事情(北朝鮮問題、安保問題)があってしかたがないのだそうな。そういう政治的にやむおえないことはさておき、生活に密着した、私たちに欠かせない問題にいかに取り組んでいるかをみてほしい。新しい年金法では受給率50〜55%を保障するというウソのビデオもみせてもらった。
読売新聞の記事とともに、自衛隊はイラクの国民が歓迎している。国際貢献のための人道支援をしているのであって軍事活動はしていないという。
たしかに、TVでは物資を現地調達するすがた。給水活動の姿ばかりを放映している。
武装したアメリカ兵を輸送する自衛隊。放射能汚染のひどいサマワにいる自衛隊については語らない。自衛隊員を危険に晒していることは考えない。
ブッシュはひどすぎる。やめてもらわなければと。それでも、子ども、市民700人以上が虐殺されたファルージャをテロへの戦いだと言って憚らない小泉首相を批判しない。
異教徒は殺されるのもしかたないのか、子どもがころされることも運が悪いからしかたないのか、創価学会からみて、イラクでの現状では戦争ではないということらしい。

世界中がみんな創価学会になれば、平和になるという。たしかに。
創価学会はそのために世界に向けて活動しているという。
まずは、ブッシュを創価学会員にしてほしい。
批判してばかりしていてはだめ。ものごとを否定的に考えるのではなく信じることだと。
世界中がみんな創価学会になるまで、イラクで子どもが殺されてゆくのもしかたがないということらしいのです。南無妙法蓮華経。

>現在の創価学会は、首相の靖国神社参拝に反対の姿勢をとっているが、それは牧口以来一貫しているとは言えないのである。
 さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して、「感謝し奉る」と言い、昭和天皇を現人神として認めた上で、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる」とさえ述べている。
>つまり、たいていの創価学会員にとって、牧口初代会長が、「天皇」制を認めていたばかりか、「天皇への正しき帰一」などということを語っていたというのは、間違いなく「初耳」であるはずなのでございます。

ちょっと、不思議なことを聞きました。
東京の教育現場が「今や戦時下」と言われるように、君が代の起立、斉唱に関して教師の大量 処分を行っています。口パクもチェックの対象で、君が代斉唱の声量を各校ごとに調査したりしているところもあるくらい(笑)。
教師にとどまらず、起立、斉唱をしない生徒に対しひとりひとり指導と称して訓告。
また、生徒が歌わないと教師の指導不足ということで処分の対象。だから、校長や教頭は、「みんなが歌わないと君たちの先生が処分されるから歌うように」と脅迫まがいのことをいうことさえ。
そういう現状なのですが、今年東京都で教師として新任で採用された人の半数は創価学会員だということです。
私の認識では宗教的に創価学会は君が代、日の丸の強制に反対してきたとおもっていたのです。教育現場がこれだけ強制しているにもかかわらず創価学会員が新任で相当数採用されるということは現在創価学会は君が代、日の丸の強制に対し、反対していないということではないかと推測するのです。


『バッテリー』『月魚』『私の語り始めた彼は』読みましたよ。感想はまたね(笑)。
三浦しをん論楽しみにしていますよ〜。


カルト(上) 投稿者:AOI  投稿日: 6月27日(日)11時26分8秒

蒸し暑い今日このごろですね。みなさま、お元気ですか。

☆園主さま

>ちょうど良い「参考資料」を送って下さいました。ありがとうございます(笑)。

いえ、いえ、どういたしまして。
おやすいごようよ(笑)。
『「平和運動」というカルト』で書かれていたことは、おおよそ予想していたとおりでした(笑)。
落選運動サイトについても詳しく閲覧していませんがほぼ同意見です。
例えば、
>フランスは「哲学思想(近代知)の国」でございますから、創価学会に限らず、有力な「宗教」に反感と警戒心を持つのは、当たり前のことでございましょう。
>「落選運動」の、政治的な「党派性」から来る、創価学会にたいする「非・客観性」が、明確に読み取れるのでございます。
これは同サイトが引用紹介している「もう一つの記事」が「創価学会被害者の会 自由の砦」の会誌『慧妙』からであることにも、ハッキリしております。
>「政治的」に「敵の敵は味方」だという俗悪な論理に従って、「反・創価学会」の政治勢力や宗教勢力と「野合」してしまっている点にあるのでございます。
また、「潮」に寄稿している評論家はケシカランということなのでしょうが、プロの著作業であれば、与えられた掲載の場を自身の信念に基づいて書くというのは至極当然なことだと思います。書かれたものが自身の信念と異なり、雑誌に迎合する形でかかれたのであれば批判されて当然なのだけれど。
書かれたものによって評価されるべきで、創価学会系の『潮」だから問題だということにはならない。
むしろ、異なる読者の目に触れるということは執筆活動としては、有意義なことでもあるとおもう。
「潮」が書くということを保障しているからこそ、寄稿するということがいえるのだと思う。

>今や日本の政治、さらには日本の社会を左右するにまでいたった創価学会という宗教団体について知ろうとしても、案外それは難しい状況にある。(島田裕巳の新刊『創価学会』)

島田さんが言われるように、創価学会の会員は身近にいながら、宗教原理も歴史的なことも内部事情も知らない私は「客観的」であるなどとはおよそ思わないけれど、内部の事情に詳しい人、創価学会員があまたある創価学会批判のひとつでもあるにちがいない『創価学会―21世紀のカルト』、「落選運動」を、この時期どう思われるか、訊いてみたい気がしたのですよ。
落選運動に共感はしないけれど、創価学会を批判する気持ちは理解できるということです。

>この「落選運動」というサイトは、「平和運動」の一端として、「政権与党」となった「公明党」を批判するために、その支持母体である「創価学会」を批判しているのでございましょう。そうした側面 からも、「宗教」については、まったく無知であることがうかがえます。

そうですね。
宗教団体としての「創価学会」ではなく、「公明党」の支持基盤である「創価学会」(政治的な部分)を問題としているわけですね。
創価学会員たらしめている、宗教にかかわる内面の部分は触れません。
以下、認識不足で書いているところも多々あるでしょうけれど。
現世利益の宗教である創価学会が政治に参画するというのはある意味、ごく自然なことでもあると思う。キリスト教をはじめ、あらゆる宗教が政治的でないなどとということはなく、歴史的にも、今現在も証明されていることでもあります。
政教分離といいながらも、創価学会の会員のほぼすべてが公明党を支持し、政治的にも活動しているわけで、公明党から創価学会をみることも、創価学会員の公明党への政治活動からみることも間違いではないと思う。


ようやくアップ 投稿者:影姫  投稿日: 6月27日(日)03時55分20秒

苦労に苦労を重ね、一晩かかって以前からお約束の「あの本」
の書影アップしました。
「月光書影閲覧室」のURLを下に貼っておきます。
「日本文学」のまんなか辺にあの本はあります。
題名はもうこの花園でなんども話題になったので皆さんお分かり
になると思います。ヒントは「姦淫聖書」です。

もう寝ます。どた・・・。

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/newpage100.html


「平和運動」というカルト(下) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)15時12分22秒

 AOIさま(つづき)

この落選運動というサイトは、「平和運動」の一端として、「政権与党」となった「公明党」を批判するために、その支持母体である「創価学会」を批判しているのでございましょう。そうした側面 からも、「宗教」については、まったく無知であることがうかがえます。

ですが、問題の本質は、自身が「無知」であるという事実について「謙虚な自己認識」が皆無だという点にはなく、「政治的」に「敵の敵は味方」だという俗悪な論理に従って、「反・創価学会」の政治勢力や宗教勢力と「野合」してしまっている点にあるのでございます。

自分の信じる目的実現のためならば、相手の素性や本心を問うこともなく、持ちつ持たれつで「野合」してしまうというのは、じつは「公明党と自民党」の関係と何ら択ぶところのない「無節操」なものなのでございますね。そうした自身の「卑俗な精神性」が、「平和運動」という錦の御旗を掲げ、「自らの正しさ」を毫も疑うことを知らない「非・知的」な彼らには、まったく見えていないのでございます。

言うまでもなく、創価学会ほどの組織になれば、敵対勢力が存在するのは自明なことで、そうした勢力が創価学会に打撃を与えようと、日夜「あることないこと」騒ぎ立てるのも自明なことでございましょう。まして、もともと創価学会は、日蓮の邪宗破折を実践していた先鋭的な宗教団体だったのですから、怨み骨髄という敵対者が大勢いるのはハッキリしたことなのでございます。

たとえば、私のような無名の人間でさえ、このように厳格な批評を実践しておれば、論破されたことを怨みに思い、わざわざ私を誹謗中傷するページをつくってネットに公開する、奇特な御仁も複数存在するのでございます。ましてや、創価学会の規模ともなれば、そうした人々の存在しないという方が、むしろ不自然なのではないでしょうか。

つまり、我々がこの落選運動という「平和運動」のサイトから学ぶべきことは、「平和運動」もまた往々にして『カルト』なのだという事実でございます。
『カルト』とは、「時代の常識(大勢的世界観)」からしばしば逸脱した「独自の世界観(理想)」をもち、その「理想」実現のために、「時代の常識」に挑戦していく思想運動団体のことなのでございます。





本日はこれにて失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「平和運動」というカルト(中) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)15時11分21秒

 AOIさま(つづき)

言うまでもなく、フランスは「哲学思想(近代知)の国」でございますから、創価学会に限らず、有力な「宗教」に反感と警戒心を持つのは、当たり前のことでございましょう。そもそも「創価学会は、カルトだからダメだ」と言う、その『カルト』が具体的に何を指すのかと申しますと、

『ヨーロッパではカルト基本法などによって、カルトの要件として、精神操作および精神の不安定化、肉体の健全さを損なう、周囲との断絶、信者の自由の制限、教祖(グル)が活動を主導する、子供のバランスのとれた発育を損なう、金銭活動の重視、集中した改宗勧誘……などが定められている。』

ということなのですが、すべからく「宗教」がこのような「危険性」を内包するものであるというのは、キリスト教の例を待つまでもなく、宗教学的には「当たり前のこと」なのでございます。ですから、この「カルト基本法」で想定されている「非・カルト」とは所詮、「非・信仰者」の目障りにならない「毒にも薬にもならない信仰」のことに他ならないのでございますね。

当然のことながら、『ヨーロッパ』の多くの国では、創価学会は『カルト』だとは認定されておりません。されておれば、もっと大きな騒ぎになって、『週刊ポスト』や『週刊新潮』『週刊文春』などの「反・創価学会」の「スキャンダル・ジャーナリズム週刊誌」ばかりか、一般 の新聞各誌が、こぞってこれを大々的に報道したことでございましょう。

それに、この(日本語)紹介文は、明らかに「オウム真理教」を意識したものであり、創価学会にオウム真理教(の一般 的イメージ)を擦りつけようとする意図(悪意)が、ハッキリとうかがえます。

つまり、普通に見ても「公正さに欠ける」のがハッキリしているこの種の情報を、そのまま引用して、垂れ流してしまうところに、ご紹介下さったサイト落選運動の、政治的な「党派性」から来る、創価学会にたいする「非・客観性」が、明確に読み取れるのでございます。

これは同サイトが引用紹介している「もう一つの記事」が創価学会被害者の会 自由の砦の会誌『慧妙』からであることにも、ハッキリしております。
この団体は「創価学会被害者の会」を名乗り『支持政党や思想の違い等を超え、創価学会問題を直視してください。』と、その「中立・客観性」を誇示しておりますが、私が見たところ『慧妙』という会誌名には、ハッキリと「仏教」臭が漂っており、この団体の背後に「反・創価学会」の仏教教団・団体の存在することがうかがえるのでございます。





(以下は「「平和運動」というカルト(下)」につづく)


「平和運動」というカルト(上) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)15時09分39秒

 AOIさま
> 参考資料ということで。

> たまたま友人から送られてきたメールです。

> フランス国営放送が製作の『創価学会―21世紀のカルト』をインターネットで放送しています。
> フランス語ですが(^_^;)

http://nvc.halsnet.com/jhattori/rakusen/AntiSouka/Video.htm

ちょうど良い「参考資料」を送って下さいました。ありがとうございます(笑)。

先にご紹介いたしました、宗教学者島田裕巳による『創価学会』の「序章」の「学会研究の難しさ」の節は、次のように書き出されております。

『 創価学会については、これまで数多くの書物が刊行されている。その動向が、週刊誌などで取り上げられることも少なくない。しかし、その多くは、創価学会のスキャンダルを暴こうとするもので、客観的な立場から創価学会についての情報を提供するものにはなっていない。とくに、創価学会=公明党が言論弾圧事件を起こした一九七〇年以降、その傾向は強くなった。読者が、創価学会とは何かを知ろうとしても、中立的な立場から書かれた書物は手近に存在しないのである。』

つまり、ここに紹介されている、「非・客観的」「党派的」な創価学会批判のスタイルを典型的に示しているのが、今回AOIさまがご紹介くださった、フランス国営放送が製作の『創価学会―21世紀のカルト』であり、この番組を紹介しているサイト落選運動だと申せましょう。

落選運動のこの紹介ページに引用されている『週刊ポストの「創価学会はカルト教団」−−フランス国営放送の特番Weeklyポスト ドットコム)』にも、

『国によって物差しが違うのは当然としても、フランスほど創価学会に対して厳しい態度をとる国はないだろう。96年には日本の衆議院にあたる国民議会が報告書の中で「創価学会はカルト(フランス語ではセクト)だ」と認定しているほどだ。』

とございますとおり、世界に大きく広がり、信徒を増やしている創価学会に対して、批判的な国があるのは当然のことであり、そうしたなかでの「一例に過ぎないフランスの例」をこれほどまでにフレームアップするのは、むしろ、そうした例が、海外にあっては少数例外でしかないことを、逆に証していると申せます。

同様に、十年近く前の1996年に『日本の衆議院にあたる国民議会が報告書の中で「創価学会はカルト(フランス語ではセクト)だ」と認定している』というのが、いったいどれ『ほど』の意味を持つのでしょうか。それ以前それ以降には、フランスを含むどこの国でも、そんな『報告』は一度もなされておらず、これは「フランスにあってさえ、一時的で、例外的な事例」に過ぎない、ということなのでしょうか。(※ 『フランス語で』『セクト』と書かれているものを、わざわざ『カルト』と意訳し、後の『カルト基本法』と結びつける「あざとい手つき」も注目すべきでございましょう)





(以下は「「平和運動」というカルト(中)」につづく)


参考資料ということで。 投稿者:AOI  投稿日: 6月26日(土)10時30分19秒

たまたま友人から送られてきたメールです。

フランス国営放送が製作の『創価学会―21世紀のカルト』をインターネットで放送しています。
フランス語ですが(^_^;)

http://nvc.halsnet.com/jhattori/rakusen/AntiSouka/Video.htm

また、あらためて(笑)。


客観的な意志と観察眼と思考(9) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時49分4秒


 ホランド
今日(6/25)、AOIさまお薦めのドキュメンタリー映画『テロリストは誰?』が届いたよ。
そのほかに、今日はDVDを3枚も買ってきた。期間限定の廉価版が出てたからなんだが、そのラインナップは、『ガンジー』(リチャード・アッテンボロー監督)、『戦場にかける橋』(デビッド・リーン監督)、『火垂るの墓』(高畑勲監督)と、私のオールタイムベストに入る作品ばかりだ。特に『火垂るの墓』は、ビデオになった時にも買ってて、しかもそれをまだ一度も観ていないんだよなあ……(^-^;)。
――まあ、近いうちにDVD上映会をやろう。

それから新刊情報を3つ。まず、三浦しをんのエッセイ集『乙女なげやり』(太田出版)が刊行された。これも、今までのエッセイ集と同様、サイト『Boiled Eggs Online』で連載されている「しをんのしおり」をまとめたものだ。――どうも三浦しをんの本は、かため撃ちで刊行される傾向があるようだな。例の「三浦しをん論」を書く前で、ちょうど良かった。

つぎは文庫化作品で、あさのあつこ『バッテリー‖』米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』が、ともに角川文庫入りした。
『バッテリー‖』の表紙は、私が大好きな「青波」ということで、跳びつくようにして買ったし(笑)、米原さんの方は「イラク・邦人人質事件被害者バッシング事件」の際に、さんざ文章を引用させていただいたので、連載中で未刊行の『発明マニア』の「3冊購入公約」とは別 に、今回の文庫も買わせていただいた。ちなみにこの本は、一昨年(第33回)、かの大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した傑作だから、読んで損のない可能性は高いし、なにしろ「アーニャ」という名前は無視しがたいものがあるからな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


客観的な意志と観察眼と思考(8) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時48分11秒


 Zephyranthesさま(つづき)

>  ……あ、でも一文字隼人は滝が操られてた時に
> 「滝を操るショッカーめ、俺が許さん!」
> と戦闘員の首を絞めて八つ当たりしてたな(汗)。まぁヒーローとて人間という事で……ダメ?

ヒーローが『人間』的であることは、おおいに結構なことなのでございますが、『人間』的であるということが「努力を怠って、欠点だらけで良い」ということを意味するのなら、それは間違いでございましょう。人間には、他の動物にはない「高度な知能」があるのですから、専門的で高度な理屈は理解できなくても、当たり前に考えればわかることは、最低限の人間的努力として思考しなければなりません。それを「人間だもの(しかたがない)」と相田みつを風に(笑)逃げてはいけないのでございます。

この一文字隼人の事例も、論理的に考えれば、これが『八つ当たり』などではないのは明白でございましょう。
例えば、ショッカーの「組織的方針」に反対している戦闘員がいて、それを一文字も承知しているのに、彼がショッカーに所属しているというだけで、彼(戦闘員)の首を絞めるのなら、それは弱い者イジメの『八つ当たり』ということになりましょう。しかし『仮面 ライダー』の世界における「戦闘員」は、皆、「悪の組織の方針」に心から完全に従っているものと「前提(設定)」されているのですから、その戦闘員が、組織の活動の責任を、分担的に担い、問われるのは当然のことなのでございます。そうでなければ、仮面 ライダーが敵のアジトに乗り込んで、ただ警備に立っていただけの戦闘員を殴り倒すといったことの正当性は、担保できませんからね。

つまり、貴方さまの「作品鑑賞」の問題点は、「作品世界」独自の「暗黙の了解」部分を正しく認識できていないところなのでございます。だから、そうしたものと「現実」とを安易に比較して、間違った結論を引き出してしまうのでございますよ。

我々には、仮面ライダーのような超人的な能力はございませんが、普通の人間としての能力はおおむね備わっております。ですから、我々がしなくてはならないのは、その範囲で精一杯努力することなのでございます。仮面 ライダーは、少年ライダー隊員が人質になっても、「子供が危険な場所にしゃしゃり出てくるからだ。勝手に殺されてしまえ」とは申しません。子供が子供なりに「世界の平和」に貢献したいと思って頑張っているのなら、それを陰ながら支えてやろうというのが「仮面 ライダーSPIRITS」というものなのでございます。





( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(9)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(7) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時47分26秒


 Zephyranthesさま(つづき)

次に『少なくとも自分達の無力さを他の誰かのせいにしたりはしませんでした。その点ではあの3人は遠く及びません。』というのも、貴方さまが「個人」と「公的機関」たる『「政府」や「自衛隊」や「警察」』を混同した上での、見当違いだと申せましょう。

仮面ライダーが偉いのは、「世界の平和と人々の幸せを守る」のが彼の「仕事(営利活動)」ではないのに、ボランティアで、それをしているからでございます。仮面 ライダーが、国民の税金で雇われた「傭兵」だったなら、仮面ライダーは「子供たちのヒーロー」にはなりえなかったでしょう。「無償の善行」というところが、重要なのでございますよ。

ですから、日本人が(人質など)犯罪被害者となった場合、「国民の税金」で雇われて「国の平和と国民の生命・身体・財産を守る」のを「仕事」としている『「政府」や「自衛隊」や「警察」』が、その職務を果 たさないのは、「職務怠慢」であり「税金泥棒」以外の何ものでもないのでございますね。
したがって、人質たちが「仕事」をしない『「政府」や「自衛隊」や「警察」』を批判するのは「当然のこと」であって、それは『自分達の無力さを他の誰かのせいにしたり』することではないのでございますよ。

たとえば、貴方さまの家が、始終、空き巣に入られたとします。それで、警察に見回りの強化を頼みに行ったら「警察はそれほど暇ではない。自分の家くらい自分で守れ」と一蹴されました。貴方さまは、それで納得なさいますか? また、そう言われて「じゃあ仕方ない」と引き下がり、「警備員」を雇ったら、それでも泥棒に入られたので文句を言うと、「貴方の家は特別 に空き巣に狙われているんですから、他のお宅と同じ警備費で完全に守れるわけないでしょう。我々も警戒はしますが、それは泥棒を完璧に封じるということではなく、あくまでも警戒するということに過ぎません。そこまで言うんだったら、貴方自身、自分の力だけで、自分の家を完璧に守ってごらんなさいよ。それもできない癖に、偉そうなことを言うんじゃない」と言われて、貴方はまた「お説ごもっとも」と泣き寝入りするのでしょうか? それが「自己責任」を取るということだとお考えなのでしょうか?

仮面ライダーが『自分達の無力さを他の誰かのせいにしたり』しないのは、そもそもその『誰か』にあたる『「政府」や「自衛隊」や「警察」』が、あの世界には存在しないも同然だからなのでございます。

現実の世界には、「国の平和と国民の生命・身体・財産を守る」べき『「政府」や「自衛隊」や「警察」』が存在しますが、仮面 ライダーの世界には、それが実質的に存在しておりません。この違いを、貴方さまは正しく認識しておられないから、両者を混同して、

> 少なくとも自分達の無力さを他の誰かのせいにしたりはしませんでした。その点ではあの3人は遠く及びません。

などと、見当違いの比較をしてしまうのでございます。





( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(8)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(6) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時46分45秒


 Zephyranthesさま
仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂

>  読みました。

はじめまして。やっと、知り合い以外の方からのご感想がいただけて、たいへんうれしゅうございます。心より御礼申し上げます。

>  でも仮面ライダー達は政府だの組織だのの助けは最初から当てにせず最初から自分達の力+協力者の援助で切り抜けていましたよ。少なくとも自分達の無力さを他の誰かのせいにしたりはしませんでした。その点ではあの3人は遠く及びません。

さて、ご意見について、忌憚なく感想を書かせていただきますと、『仮面ライダー達は政府だの組織だのの助けは最初から当てにせず』というのは、事実誤認ではないかと存じます。つまり、最初から『当て』にしなかったのではなく、「当てにならなかった」ので「当てにしなかった」というのが、正しいのではございませんでしょうか。

じっさい『仮面ライダー』の世界では、あんなにド派手な怪人が暴れ回っているのに、「政府」も「自衛隊」も「警察」も何にもしてませんでしたからね(笑)。つまり、「政府」や「自衛隊」や「警察」が、市民を守るためにきちんと働いてくれるのだったら、ライダーとて、これらと共闘するのにやぶさかではなかったのでしょうが、とにかく彼ら(「政府」や「自衛隊」や「警察」)は、「悪の組織」についての認識が低く、実際のところ、ものの役には立たないし、たぶん無理に働かせても足手まといになるだけだったと思われます。ですから、ライダーとしては、彼らを「当て」にせず、心ある有志とのみ共闘して、「(ショッカーなどの)悪の組織」と対峙しなければならなかったのでございます。

無論、これは『「政府」や「自衛隊」や「警察」』が、まともに「ショッカーなどの悪の組織」と対峙したのでは、仮面 ライダーの出る幕が無くなるというのが、本当のところでございましょう。つまり「作劇上の要請」というやつでございますね。
例えば、『仮面ライダー』と同じく石ノ森章太郎を原作者とする『サイボーグ009』がそうであるように、「巨大な悪」と戦うのは、「孤独な(少人数の)ヒーロー」でなければなりません。そうでないと、ドラマが盛り上がらない。ヒーローの側に、アメリカ軍がついて、「悪の組織」のアジトに、片っ端から核爆弾を落としたり、ピンポイント攻撃をしかけたりしては、「ヒーローもの」は成立しないのでございます。
ですから、本来、市民を守るべき立場の『「政府」や「自衛隊」や「警察」』は、「無力」か「無認識」、あるいは「悪とつながっている」という設定になっているのでございますよ。

ですから、意図的にそのように設定された「虚構世界」の、その「隠された演出」の部分を無視して、『仮面 ライダー達は政府だの組織だのの助けは最初から当てにせず最初から自分達の力+協力者の援助で切り抜けていました』というのは、貴方さまの見当違いなのでございます。





( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(7)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(5) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時45分59秒


客観的な『資料』にもとづいてなされたこの「事実」の指摘は、多くの創価学会員にとってショッキングなもののはずでございます。

と申しますのも、創価学会では、こうした事実を、

「初代会長牧口常三郎先生は、戦時国家の宗教統制政策の一環として押し進められていた、伊勢神宮から配られる皇太神宮の神札「神宮大麻」を拝むことを、邪教である国家神道に屈し、宗祖日蓮大聖人の教えに背く謗法であるとして、その受け取り拒否し、さらにはそれを焼却させた。国家からの弾圧を恐れた宗門は、牧口先生ら創価教育学会の幹部を本山に呼びつけ、神宮大麻の受け入れを強要しようとして、創価教育学会員の大石寺への参詣を禁止するという暴挙にでたが、牧口先生は、宗門の保身的な勧告を断固拒否して、大聖人の教えを最後まで守りとおされた。その結果 、牧口先生は、国家に逆らう「不敬」な思想の持ち主として「治安維持法」によって検挙され、下獄したまま還らぬ 人となられたのである」

という風に教えていたからでございます。

つまり、たいていの創価学会員にとって、牧口初代会長が、「天皇」制を認めていたばかりか、「天皇への正しき帰一」などということを語っていたというのは、間違いなく「初耳」であるはずなのでございます。

そして、この点ひとつ採ってみても、末端の創価学会員には「無謬」的に語られることの多い「創価学会の歴史」にも「隠蔽された影の部分」があるという事実は、否定できなくなるのでございましょう。
しかし、私は「だから創価学会は、うさん臭い宗教団体だ」と言いたいのではございません。私が言いたいのは「現実を直視して、過ちは過ちだと認め、これを反省した上で、また正しき道を模索して進んでいけば良い(良かったのだ)」という、ただそれだけのことなのでございます。

その意味で、現在の創価学会の、そして創価学会員の最大の問題点は「無謬性に固執するという本質的な弱さ」にあると申せましょう。その事実を私は、自身、現役の創価学会活動家たちとの対話のなかで、確認できたと考えるのでございます。――そして、そんな私の胸に去来するのは、かつて歌った『同志の歌』の、次のような一節なのでございます。


   我 今仏の 旨をうけ 
   妙法流布の 大願を
   高く掲げて 一人立つ 
   味方は少なし 敵多し





( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(6)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(4) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時20分49秒


なお、本書を読んで初めて知らされた、「驚くべき事実」がございました。それは、創価学会初代会長牧口常三郎が「天皇制」を否定していなかった、という事実でございます。

『 ところが、戦時体制のもとで宗教団体への統制や規制が強化されるなか、創価教育学会もその対象となっていく。牧口は、国家の宗教統制政策として押し進められていた宗派の合同によって日蓮正宗が日蓮宗と合同することに反対した。また、伊勢神宮から配られる皇太神宮の神札、「神宮大麻」を拝むことを拒否し、さらにはそれを焼却させた。
 日蓮正宗では、入信に際して、他宗教や他宗派の本尊や神札、神棚、祠、経典、護符などを取り払い、それを焼き払う「謗法払い」が行われており、牧口はその教えに従って神宮大麻を焼却させたかのように見える。
 しかし牧口は、戦前の体制のもとで、宗教にあらずとして一般の宗教とは区別 された「敬神崇祖」の道を、日蓮仏法に背く「謗法」としてすべて否定したわけではない。第五回総会での全員座談会において、牧口は、靖国神社へ参拝する意義を説き、それがご利益を得るためのものではなく、感謝のこころをあらわすものである点を強調した。現在の創価学会は、首相の靖国神社参拝に反対の姿勢をとっているが、それは牧口以来一貫しているとは言えないのである。
 さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して、「感謝し奉る」と言い、昭和天皇を現人神として認めた上で、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる」とさえ述べている。では、なぜ神宮大麻を拝むことを拒否するかと言えば、それは、天皇とともに天照大神を祀ることは二元的になり、天皇に帰一したことにならないからだというのである。
 牧口は、現人神としての天皇を崇拝するという当時の風潮を否定しておらず、むしろ純粋な天皇崇拝を確立するために、神宮大麻を焼却したのだった。彼は、その行為が皇室を冒涜するものになるとは考えなかった。ところが、日蓮正宗の宗門の側では、牧口らを本山に呼び、神宮大麻を受け入れることを勧め、創価教育学会員の大石寺への参詣を禁止したが、牧口はその勧告を受け入れなかった。』




( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(5)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(3) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時19分18秒


つまり、島田が言いたいのは、

・ 創価学会員に向けては「新潮社は創価学会批判本を書けとは言わなかったし、私もそのようなものは書いていないつもりであるから、どうか冷静に中味を確認してほしい」

ということであり、

・ 世間(および事情通)に向けては「私は今も昔も、学者としての良心にしたがって、研究対象には可能なかぎり客観的に対してきたつもりである。もちろん反省すべき点は反省するけれども、私は何者にも、つまり特定宗教団体にも、出版社にも、世間にも、学者としての魂を売って迎合したりはしない」

ということなのでございましょう。

で、このような「島田の覚悟表明」を踏まえつつ本書を読んだ私の評価はと申しますと、「客観的」であるという点においては、本書は充分に及第点を与えられるものとなっており、「創価学会に関する入門書」としては価値のある本になっていると存じます。

もちろん、新書版191ページの片々たる本では、「研究書」として物足りないのは致し方のないところでございましょう。ですが、現在の日本に対する影響力という点では、かつてのオウム真理教をも遥かに凌ぐ(政治的に・危険な)存在で、世間的にも関心度(愛憎度)の高い、この巨大宗教団体について、「かつて、学者としての良心にしたがって発言した結果 、世間からの手酷いバッシングにあい、地位も名誉も失いかけた男」が、いったいどこまでやれるものなのか、それが個人的には、本書の最大の読みどころだったのでございます。

そうした意味で、私が「現かつ元・創価学会員」であるということは、今回の場合、さほど大きな意味はございません。ただ、島田の論説を「世間」と「学会員」の双方向から評価できる立場にある、というに過ぎないのでございます。そして、そうした意味では、私の立場は、今の島田と案外近い位 置にあるのかも知れません。





( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(4)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(2) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時18分28秒


「序章」で、わざわざこのような「断わり書き」をするのは、現代日本において創価学会を評価することが、それほどまでに難しい作業だということを意味しているのでございましょう。島田は「創価学会を客観的に評価することの困難さ」ということについて、主に、

(1) 創価学会の閉鎖性(自己完結性)に由来する、実態理解の困難さ。

という点から語っておりますが、私が見たところ、その困難性には、次の2つの要素の微妙に絡んできているものと存じます。すなわち、

(2) 本書版元の新潮社は、その週刊誌等で「創価学会批判キャンペーン」を張っており、学会側から「訴訟攻勢および反批判キャンペーン」をうけている(版元と創価学会の敵対関係)。

(3) 著者の島田には、オウム真理教(現・ア−レフ)のひき起した地下鉄サリン事件に関連して、事件前、同教団を好意的に評価していた宗教学者として(中沢新一らと共に)厳しい社会的糾弾を受け、一時はその学者生命を断たれかけた「過去」がある(この件で、島田は日本女子大学教授の地位 を追われている)。

という二点でございます。つまり、島田には「色眼鏡で見られる」要素がいろいろとあるのでございますね。例えば、

・ (2)のゆえに、創価学会員からは本書が「新潮社の御用学者による御用本に違いない」と見られる可能性が高く、そのために創価学会員には読まれない可能性が高いばかりか、読まれても「粗探し」的にしか読まれない可能性がある。

・ (3)のゆえに、世間からは「オウムを評価したような非常識な宗教学者だから、きっと今度も客観的とか言いながら、創価学会を好意的に評価しているんだろう」と見られる可能性が高く、「客観的」であること自体が「すでに擁護的」と取られてしまう怖れがある。

・ また(3)のゆえに、事情通からは「オウムに懲りて、島田は世間に評判のよろしくない宗教団体・教団に対しては無難な距離を置くようになったのではないか。その意味では、世間に迎合する、つまらない学者になっているのではないか」と勘繰られる可能性も充分にあり、それために読まれない怖れも充分にある。

というようなことでございます。このような点についても、島田は充分に自覚的であり、こうした点に関しては、あとがきにあたる「おわりに」の後半部で、次のように言及しております。

『 一九九五年に起こったオウム真理教の事件を通 して、筆者が専門とする宗教学のあり方が問われた。とくに、研究対象との距離の取り方が問題となった。現実に存在する生きた宗教に対していかなる距離を取るのかは難しい問題で、その距離が近すぎれば教団よりと見なされ、逆に遠すぎれば、本質をとらえることが困難になってくる。
 本書は、その困難な問題に対する一つの回答の試みでもある。けっきょくは、客観的であることをつねに意識しながら、対象に果 敢に肉迫していくしかないのではないだろうか。
 本書は書き下ろしだが、筆者がこれまで創価学会について書いたいくつかの文章がもとになっている。そうした文章を書く機会を与えてくれた「別 冊宝島」「福神」「寺門興隆」「週刊新潮」の各誌に感謝したい。また、前著『相性が悪い!』に引き続いて、新たな試みへの機会を与えてくれた新潮新書編集部にも感謝したい。あくまでも客観的な創価学会論をという編集部の要望に答えることができているなら幸いである。なお、文中では敬称は省略しました。』




( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(3)」につづく)


客観的な意志と観察眼と思考(1) 投稿者:園主  投稿日: 6月26日(土)02時17分20秒

みなさま、本日は、宗教学者島田裕巳の新刊『創価学会』(新潮新書)について書かせていただきす。

島田裕巳は「序章」で、本書執筆にあたっての自己のスタンスを、次のように語っております。

『 そうしたこともあって、創価学会とは何かを教えてくれる、客観的な立場から書かれた書物を見つけることは難しい。別 冊宝島『となりの創価学会』、アエラ編集部『創価学会解剖』などは、七〇年代以降では珍しく客観的な立場から創価学会をあつかったものだが、佐高信・テリ−伊藤『お笑い創価学会』(光文社・知恵の森文庫)などは、創価学会をもっぱら批判することを目的とした類書とほとんど変わらない本になっている。今や日本の政治、さらには日本の社会を左右するにまでいたった創価学会という宗教団体について知ろうとしても、案外それは難しい状況にある。
 本書は、そうした現状を踏まえ、創価学会とは何かを明らかにすることを目的としている。創価学会や池田大作のスキャンダルを暴くことを目的としたものではないことはもちろん、創価学会批判を意図したものでもない。逆に、創価学会を擁護することを目的としたものでもないし、その信仰を称揚しようとするものでもない。あくまでも客観的な資料にもとづいて、創価学会の歴史を追い、それがいかなる性格をもつ組織であるのかを明らかにしようとするものである。
 ただし、客観的であることを意図した記述が、創価学会の組織にとって必ずしも都合のいいものにならない可能性はある。
 創価学会は、今でもアクティブに活動している生きた組織であり、その存在は、創価学会員以外の国民全体に影響をおよぼす可能性をもっている。その点で、創価学会のあり方について、一般 国民の立場から批判を展開しなければならない場合も出てくるであろう。創価学会とは何かを述べるということは、その問題を指摘することにも通 じていくのである。』




( 以下は「客観的な意志と観察眼と思考(2)」につづく)


感想 投稿者:Zephyranthes  投稿日: 6月25日(金)19時20分49秒

> アレクセイさん
 読みました。
 でも仮面ライダー達は政府だの組織だのの助けは最初から当てにせず最初から自分達の力+協力者の援助で切り抜けていましたよ。少なくとも自分達の無力さを他の誰かのせいにしたりはしませんでした。その点ではあの3人は遠く及びません。
 ……あ、でも一文字隼人は滝が操られてた時に
「滝を操るショッカーめ、俺が許さん!」
と戦闘員の首を絞めて八つ当たりしてたな(汗)。まぁヒーローとて人間という事で……ダメ?


「討論・笠井潔をめぐって」をアップ。 投稿者:園主  投稿日: 6月23日(水)19時38分23秒


みなさま、本日は、先日来黒猫掲示板の方で、随時なされておりました「笠井潔をめぐる討論」について、現時点までの書き込みをまとめたページを、

 ・ 討論・笠井潔をめぐって

として、アップさせていただきました。
「黒猫掲示板」から関連する書き込みだけを抜粋し、時制順に並びかえ、目次も付しておりますので、議論の流れが一目瞭然となっております。

当該討論は「黒猫掲示板」で現在も進行中ですので、最新のものはそちらをチェックしていただかなくてはなりませんが、随時このページにも補足してゆきたいと存じます。

今後の展開を、どうぞお楽しみに(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


人それぞれとは言うものの(5) 投稿者:園主  投稿日: 6月23日(水)01時03分9秒


 ホランド
>  「日垣隆」批判、興味深く読ませていただきました。ひさしぶりに本格的な「田中幸一節」を聞かされたって感じ。つまり「一寸刻み五分試し」とか「なますに切り刻む」というやつですよね(^-^;)。

というわけで、文学賞にジタバタ ―― フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合としてアップしておいたよ。

まったくタイプの違う作家の「隠された権威渇望」の事実を紹介することで、たいていの文学者がその「口ぶり」に反して、本当は「作家も人の子、普通 は「金も地位も名誉も権力も」みんな欲しい」ものだというのが、さらによくわかってもらえるようになったんじゃないかと思う。

私は、「権威」を求めること自体を批判する気はない。そういうのは、個人的には好きではないけれども、間違ったことだと断罪できることでもないと思うからだ。しかし、本当は権威好きで、裏ではそのためにいろいろ画策したり活動したりしているくせに、表では「無欲」の仮面 をかぶって世間を欺いているような輩が、私は我慢ならないんだよ。

作家なんて、多かれ少なかれ、その文章の中で「ご立派なこと」を書いている。なのにその本人が、それに反することをするのは、倫理的に許されることではない。だから、私は、その化けの皮を剥いでやりたくなるんだ。そして「先生先生と祭り上げられて、勘違いをするなよ。(倫理的には凡人以下でしかない)身のほどを知れ」と言ってやりたいんだな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


人それぞれとは言うものの(4) 投稿者:園主  投稿日: 6月23日(水)01時02分5秒


 影姫さま
> 黒猫館館長の正体?

> さてわたしが大胆な推測をするならば黒猫館館長とはオルフェウス教の神から啓示を受け取る司祭であり「地下迷宮」とはその最深部にそのような神と接触できる霊場が存在しているのではないか?・・・このように推測できるわけです。それではその目的は・また館長はいったいどんな啓示を受け取っているのか?・・・それだけはさすがのわたしもあまりの恐ろしさに書くことができません。ただ地球人類の今後・・・いや太陽系、いやこの宇宙そのものの運命に対するなんらかの啓示をうけとっているのではないか。。。

うーむ、なんだか大変なことになっておりますねえ……。
ホランドくんは冗談半分と、K2(ごく一部で使われた略称/笑)への揶揄から、「吸血鬼」説だの「サンジェルマン伯爵」説だのを打ち出しておりましたが、そうなってくると私も当たり前の意見は出しにくい。で、いささか定番ではございますが、黒猫館館長さまは「クトゥルー」の一族なのではないか、との推理をここで提供しておきたいと存じます。……やはり「古の神」と言えば、これは外せませんでしょう。


 イマムラさま
先日の名古屋・古本屋めぐり、たいへん楽しゅうございましたね。

> あれから畸人教で十二時前まで飲んでいました。二日酔いは大丈夫なんですが、歩きすぎたせいか、ケツが痛くて仕方がありません。

前夜から当日の朝4時までお酒を飲まれ、数時間の睡眠後、午前10時の集合に遅れずお出でになり、さらに名古屋から戻った後の午後10時ごろからまた2時間近く飲んでも二日酔いにならないというのは、お酒の強さはもちろんのこと、やはり若さなのでございましょうね。

しかし、あれしきのことで『ケツが痛』いというのは、やはり運動不足でございましょう(笑)。そう言えば、古本屋めぐりにおいては、Kさん(この人もK2/笑)や私が元気なのに比べ、20代の貴方さまや八尾の猫さまがへばり気味なのは、いったいどうしたことでございましょう? 昔もよく言われたことですが、おじさんの方が元気、ということなのでしょうか? うむむ……。

> セイントセイヤのプラモは残念でした。やはり買っておけばよかったです。車でいっていれば、少なくとも十二個は買えていただろうと思います。次回お声をかけていただけるときには、是非とも車でいきましょう。

だから申し上げましたでしょう(笑)。――それにしても、ああいう「町の模型屋さん」が残っているのは、私のような世代のプラモ者には、何ともうれしいことでございます。また、二十数年ぶりに購入いたしました『タミヤカタログ』も、たいへん懐かしゅうございました(しみじみ)。

次回は車を出して下さるとのこと。今度は丸一日遠出をいたしましょう。

また、今度書き込みにお出でになられた時は、お好きな松本清張のお話や、最近読まれた本の話などもお聞かせ下さいまし。楽しみに、お待ちしております。





( 以下は「人それぞれとは言うものの(5)」につづく)


人それぞれとは言うものの(3) 投稿者:園主  投稿日: 6月23日(水)01時01分17秒


ちなみに『アナーキズム』の冒頭には、「アナーキズムの背理」を象徴するものとして、星新一の「マイ国家」から、次のような一節が紹介されております。

『「あなたは、無政府主義者とかいうものなのですか」
「そうではないな。主義をふりまわして他人を動かそうとは、思っていない。第一、そんなことを言うと、政府がすぐに弾圧するにきまっている。当たり前のことだ。製薬会社の前でビタミン無用論をぶつようなもので、営業妨害ということになる。いつの時代でもどこの国でも、危険人物に仕立てられ、つかまることになっている。もっとも、おれも無政府主義党を作って、合法的に政権を取ろうかと考えたことはあった。しかし、この計画、どことなく変なものだ」
「お説の通りです」』

無政府主義者の彼にも『無政府主義党を作って、合法的に政権を取ろうかと考えたことはあった。しかし、この計画、どことなく変なものだ』ということに気がついて、「党」を作るのをやめました。

しかし、我らが笠井潔は、いつでも「党」を組織するのが好きな人で、およそ政治運動には縁のなさそうなミステリ作家になってからも、やっぱり探偵小説研究会本格ミステリ作家クラブという自身の「党」を作らずにはいられなかった、たいへん業の深い人なのでございます。


なお、先日こちらに書きました文章に加筆修正を加え、

 ・ 文学賞にジタバタ ―― フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合

として、本日(6/22)アップさせていただきました。
ついでながら、この拙論で批判されている日垣隆が、浅羽通 明の『ナショナリズム』の方を誉めているという事実を、最後に申し添えておきたいと存じます。





( 以下は「人それぞれとは言うものの(4)」につづく)


人それぞれとは言うものの(2) 投稿者:園主  投稿日: 6月23日(水)01時00分29秒


では、浅羽は、笠井のそうした「現実」を知らず、もっぱらその著書に語られていることだけで判断して、笠井潔を「個人」指向の人、反「組織」指向の人間だと評価したのでございましょうか。――いいえ、そんなことはございません。たしかに浅羽は、本書の中で『笠井潔流国家民営化論の根底にある真意』を示すものとして、笠井の『「自業自得の潔さ」というフレーズ』に注目し、それが笠井潔の思想の根幹をなすものであるかのごとく扱っております。しかし、笠井潔がそのような「潔さ」からは縁遠い「ルサンチマン(恨みつらみ)」の人であることは、笠井潔の軌跡を追ってみれば、あまりに明白なことでございましょう(※現在黒猫掲示板に連載中の、はらぴょん氏による「笠井潔と<天使>のアポリア」が、こうした点を、思想史という側面 から跡づけていて、大変わかりやすい)し、笠井潔が(唯一、原稿料なしで)原稿を書くこともある左翼思想誌『前衛』までチェックしている浅羽であれば、笠井潔の現実や笠井の日本思想界における位 置を、知らないわけがないのでございます。なのになぜ浅羽は、これほどまでに笠井潔を、『国家民営化論』を持ち上げるのでございましょうか?

私は、本書にその「2つの理由」を見い出します。それは、

(1) 浅羽自身、笠井潔と同じく、日本思想界では顧みられることのない傍流的存在であることからの共感。

(2) 『ナショナリズム』と読み比べてみればよくわかりますが、浅羽は「ナショナリズム」を「虚構だけれども必然性のある、重要なもの」だと擁護的に論ずる一方、「アナーキズム」については「魅力的ではあるが現実的ではない、個人的な情念」と評価しております。したがって、そうした基準からすれば、笠井潔の『国家民営化論』というトンデモ本が、いかにも日本の「アナーキズム」を代表するものとも評価できる。

ということでございます。

ですから、通常の「思想史」から言えば、笠井潔の『国家民営化論』が「アナーキズムの代表的な名著」ということにはなりませんが、浅羽の思想的立場からすれば、笠井の『国家民営化論』は、その「非現実的夢想性」において「アナーキズム」的だということになるのでございましょう。

まあ、浅羽のような見方も、もちろんありなのではございますが、これが当たり前のものだと思われては、アナーキストも迷惑でございましょう。いくら誉めてるとは言え、笠井潔の『国家民営化論』をアナーキズムの代表的作とされたのでは、ホメ殺しも同然だからでございます。





( 以下は「人それぞれとは言うものの(3)」につづく)


人それぞれとは言うものの(1) 投稿者:園主  投稿日: 6月23日(水)00時59分13秒

みなさま、私、なかなか興味ぶかい本を読みました。浅羽通 明の『アナーキズム』(ちくま新書)でございます。
この本、同じ著者の『ナショナリズム』と共に「名著でたどる日本思想入門」シリーズの1冊として、先月刊行されたばかりの日本思想の案内書でございまして、すでに2刷も出ており、なかなか好評のようでございます。

しかし、内容について言えば、私はあまり高くは評価しかねるのでございます。ではなぜ、この『アナーキズム』が『なかなか興味ぶかい』のかと言えば、それは、著者の浅羽が「日本のアナーキズム思想の名著10冊」のうちの1冊として、我らが笠井潔の『国家民営化論』(光文社文庫)を紹介しているからでございます(笑)。

笠井潔の著書のなかでも、そのキテレツさにおいて際立っている『国家民営化論』(「キテレツ」本、第2位 は『スキー的思考』か?)を、「アナーキズム」思想の名著だと位置づける浅羽の思想史的センスとは、いったい如何なるものなのでございましょうか。
例えば、本書『アナーキズム』の序章には「アナーキズム関係人物座標図」が挙げられております。縦軸上方が「個人」指向で、下方が「共同体」指向。横軸右方が「行動(反逆)」指向で、左方が「夢想(ユートピア)」指向となっているのでございますが、みなさまは、笠井潔がどのあたりに位 置づけられているとお考えになりますか?

私ならば、笠井潔を左斜め(横軸より少し)下あたりに位置づけると思うのですが、浅羽はなんと笠井潔を左上端に位 置づけたのでございます。

笠井潔近年の特徴的な動きである、探偵小説研究会本格ミステリ作家クラブの設立、その組織力を背景とした政治的な業界権力奪取活動を知っておれば、とても笠井潔が「個人」指向の思想家だなどとは思えませんし、たとえそれを知らなかったとしても、笠井潔が昔から終始一貫して「組織の人」であることを知っていれば、このような的外れの評価は、到底できないものと存じます。





( 以下は「人それぞれとは言うものの(2)」につづく)


台風一過せし、雨降らぬ 梅雨(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月22日(火)15時38分7秒


 イマムラさま
 はじめまして、ようこそお出で下さいました!
 ボクはここ「アレクセイの花園」で、園主さまの助手をつとめますホランドと申します。以後、よろしくお願いいたします。

 こないだ園主さまと名古屋の古本屋めぐりをしたお仲間の方ですね。収穫はありましたか?

> セイントセイヤのプラモは残念でした。やはり買っておけばよかったです。車でいっていれば、少なくとも十二個は買えていただろうと思います。

 プラモショップにも寄ったんですね。園主さまも好きだからなあー。
 園主さまは「コレクションは一期一会。迷ったら買え」と言っておられますが、買え買えって煽られませんでしたか? 園主さま、そういうこと言うの好きだからなー(笑)。「貴方も一緒に、コレクション地獄に落ちましょう」ということのようですけど(^-^;)。


 アーニャ
>  三浦しをん『私が語りはじめた彼は』(新潮社)

> あちこちで高く評価されてるようね〜♪(^0^*

 ボクも読んだよ。世評どおり、とにかく「うまいなあー」という感じ。実際、とっても面 白かったし、これまでの作品とは比較にならないほどの水準に達しているって、ボクも思った。園主さまも「直木賞に値する作品だ」って言ってましたけど、でも園主さまの場合、これは必ずしも褒め言葉ではないんだよね。詳しいことは論文で書くからって、ハッキリとは話してくれないんだけど・・・(^-^;)。

> 昨日に引き続き、今日の読売新聞朝刊の、石田汗太記者の記事をご紹介するわね。
> タイトルはズバリ、ミステリー界 なぜか似通 う 賞の結果!(笑)

 これから例の『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美/パルコ)を読むんだ。面 白いことが書かれてたら報告するね(笑)。


 園主さま
> 文学賞にあたふた

> つまり「私は、そんなみっともない真似はしなかったぞ。その意味で私は、こいつらと同類ではない」と言いたいのでございましょう。しかし、こういうのを世間では「五十歩百歩」とか「目くそ、鼻くそを嗤う」と言うのでございます。

 「日垣隆」批判、興味深く読ませていただきました。ひさしぶりに本格的な「田中幸一節」を聞かされたって感じ。つまり「一寸刻み五分試し」とか「なますに切り刻む」というやつですよね(^-^;)。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


台風一過せし、雨降らぬ 梅雨(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月22日(火)15時37分35秒


 nasuさま(続き)

 ちなみに『ヴァンパイヤー戦争』の装丁画は、最初の角川ノベルズ版が平井和正の『幻魔大戦』や「ウルフガイ・シリーズ」で知られる生頼範義。次の角川文庫版が菊池秀行の『吸血鬼ハンターD』シリーズを手掛けた天野喜孝。そして作品社の「笠井潔伝奇小説集成」版は「セクシーロボット」などで知られる空山基(※ 空山作品は、描きおろしに非ず。既成作品を装丁に使用)。

 この三者の画風と、今回の武内崇にはハッキリとした違いがあります。それは、後者は、前三者とは違って、基本的に「カワイイ」絵だ、ということです。で、どちらが笠井潔の小説の雰囲気を正しく伝えているかは、もはや言うまでもないでしょう。

 これまで笠井さんは、自分の作風にあった「人気イラストレーター」を使ってきました。しかし、「それだけでは売れない」ということがハッキリしてきたので、今回は自分の作風とは合わないのを承知の上で、旬の「人気イラストレーター」を使ったんですね。その意味では、厳しく言っちゃうと、これは購入者に対する意図的な「ペテン」だと言えるでしょうね。


 影姫さま
> 「亭主元気で留守がよい」とはよく言ったものですが只今黒猫館館長が留守の間に黒猫館の秘密の一端をお話しようと思います。

> さてまったくあけっぴろげで秘密などなにもないわたしに比べて黒猫館館長という人物の不可思議さを感じているひとも多いと思います。それもそのはず「黒猫館館長」とは固有名詞ではなく「役職の名前」だからです。
> さて現在の黒猫館が成立したのは14世紀、神聖ローマ帝国、オットー大帝の御代だそうです。その時期に「初代黒猫館館長」が誕生しました。現在の黒猫館館長は27代目だそうです。

> さて長くなりました。わたしの今夜の話はここまでです。これは本当の話かもしれないしただの憶測にすぎないかもしれません。しかしわたしは不安なのです。館長の真の目的、そして温厚な仮面 の下で時折みせるぞっとするほどの冷徹な笑み・・・これは正に妻であるわたしにとってはあまりにも見過ごすことのできないなにかの前兆に思えるのです。。。では。

 わかりました、黒猫館館長さまの正体! 27代目というのは表向きのことで、実際には14世紀の誕生以来ずっと生き続けている――「不滅のヴァンパイヤー」あるいは「不死身の錬金術師」なのではないでしょうか? 黒猫館館長さまの謎めいた紳士ぶりは、どこか吸血鬼や錬金術師的だし、黒猫館のゴシックぶりは、ドラキュラであれサンジェルマンであれ「伯爵の館」にふさわしい。そうは思いませんか?





( 以下は「台風一過せし、雨降らぬ梅雨(5)」につづく)


台風一過せし、雨降らぬ 梅雨(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月22日(火)15時36分34秒


 nasuさま
> 最近話題の「空の境界(上・下)」(奈須きのこ 講談社ノベルス)をつい先日読了

 『空の境界』、とっても売れているようですね。刊行後1ヶ月を待たず、上下とも2刷が出ていました。ひとまず「笠井潔の販促作戦」の第1段階は成功というところでしょうか。問題は、作戦の第2段階で、『空の境界』の作者の推薦文を帯に付し、『空の境界』と同じイラストレーターを装丁画に使った、講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』が売れるかどうかってことですよね(笑)。

 ちなみに、今月の『IN・POCKET』(2004.6)に笠井さんがヴァンパイヤーは甦るか?というエッセイを書いています。その後半で笠井さんは、

『 40歳で完結したあと、長いこと忘れていた『ヴァンパイヤー戦争』だが、あらためて思い出したのは、たまたまノベルゲーム「月姫」をプレイしたからだ。オタクたちのあいだで旋風を巻き起こしている「月姫」は、まさにヴァンパイヤーをめぐる物語ではないか。しかもシナリオ担当の奈須きのこ氏は、熱心な笠井読者だという。
 判型を変えて幾度か再刊されてきた『ヴァンパイヤー戦争』だが「月姫」イラスト担当の武内崇氏に装幀装画をお願いし、もう一度講談社文庫から出してみることにした。「月姫」の物語に熱狂した10代、20代であれば、作者が『ヴァンパイヤー戦争』に込めたものも、時代を超え世代を超えて奇跡のように伝わる可能性はある……。
 わたしは長いこと、顔の見える読者を対象として小説を書いてきたように思う。しかし今回は、未知の読者の前に作品を投げかけるわけで、回転するルーレット盤を前にしたような、新鮮な興奮と戦慄を感じる。まるで主人公、九鬼鴻三郎のように。』

としているんですが、・・・笠井さんには笑いけど、正直いくつか失笑を禁じえない部分がありました。
 例えば『オタクたちのあいだで旋風を巻き起こしている「月姫」は、まさにヴァンパイヤーをめぐる物語ではないか。』って書いてるけど、「吸血鬼」を扱ったものなんて、決して珍しくはないしょう。たしかに今は「陰陽師」が一番人気で、最近は「錬金術師」なんてパターンもあるけど、「吸血鬼」というのはドラキュラ伯爵の「昔から」人気のあるキャラクターですからね。

 それから『しかもシナリオ担当の奈須きのこ氏は、熱心な笠井読者だという。』という書き方も、いかにも「ノベルゲームの傑作『月姫』は、笠井潔直系のヴァンパイヤーストーリーであった」と言いたげで、みっともない。nasuさまもご指摘のとおり「奈須きのこは、竹本健治の影響もうけている」人で、その意味では笠井さんのエッセイがイメージさせるような「笠井潔直系の作家」ということではないようです。また、それを承知していながら、自分で『奈須きのこ氏は、熱心な笠井読者だという。』なんて書いてしまうところが、かなりいじましいですよね。――ちょうど小泉首相人気に便乗しようという地方議員が、小泉首相と握手している選挙ポスターを使ったのと、まったく同じパターンなんですから(最近は、安部晋三と握手のパターンもあります)。で、

> 判型を変えて幾度か再刊されてきた『ヴァンパイヤー戦争』だが「月姫」イラスト担当の武内崇氏に装幀装画をお願いし、もう一度講談社文庫から出してみることにした。「月姫」の物語に熱狂した10代、20代であれば、作者が『ヴァンパイヤー戦争』に込めたものも、時代を超え世代を超えて奇跡のように伝わる可能性はある……。

って、そこまで「他力本願」でいいのかな? 仮にそれで多少は売れたとしても、それは『奇跡のよう』なことではなく、いたって「世俗的で人為的なもの」だと思うんだけど。
 同様に、

> 今回は、未知の読者の前に作品を投げかけるわけで、回転するルーレット盤を前にしたような、新鮮な興奮と戦慄を感じる。まるで主人公、九鬼鴻三郎のように。

という「かっこいい比喩」も適切ではありません。だって、これだけ「周囲をかためておいて」仕掛けた勝負を、『ルーレット』に喩えるのは的外れでしょう。九鬼鴻三郎って、実力だけで敵と戦ったんじゃなくて、いろんなコネを駆使して、「競争者よりも、ずっと有利な条件」で戦った「ヒーロー」なんでしょうか?





( 以下は「台風一過せし、雨降らぬ梅雨(4)」につづく)


台風一過せし、雨降らぬ 梅雨(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月22日(火)15時35分0秒


 Keenさま
>「ユーロ2004」

> ちなみに、日本時間の今朝は「フランス×イングランド」という好カードでした。
> 前回優勝のフランスとサッカーの母国であるイングランド、クラブではチームメイトのジダンとベッカム、など見どころ満載。そして結果 も、期待に違わぬ劇的なものでした!

 PKを、ジダンが決める一方ベッカムがはずして、イングランドが勝っていた試合をみすみす逃した、というような話ですね。ボクはスポーツ新聞の見出しを見ただけなんですが、『戦犯ベッカム』ってデカデカと書かれてました。
 そういえばベッカムって、昔それでずいぶん叩かれたんですよね。それを知ってて、こういう見出しをつけるんだから、ホントに意地悪だと思いました。相手だって超一流なんだから、そうそううまくはいくわけないのは、わかっているくせに!

 ところで、さすがにこのところ、日本でのベッカム人気も一段落したようですね。――やっぱり、「ヨンさま」人気のせいかな(笑)。


 東野 響さま
 はじめまして。ここ「アレクセイの花園」で園主さまの助手をつとめます、ホランドと申します。

> 何故この様なことを長々お話しているのかと言いますと、以前このサイトに迷い込んできた際に、管理人御二方の十二国記に関する文章を読ませていただいたことがあったからです。

> この転機に関しまして、一方的ながらどうしても御二方に感謝の言葉を申したいと、そう思った次第です。

選択の表裏 ――『黒祠の島』と『十二国記』

 お礼を言っていただくようなことは何もしておりませんけど、何かを考えるきっかけにしていただけたのなら、とてもうれしく思います。あれを書いた当時は、そんな人が出てくるなんて、本気では期待できないくらいに、絶望感(と言っては大げさですけど)を感じていましたからね。

 でも、だからといって、『十二国記』を悪者に扱いにしてはならないと思います。あれは確かにすぐれたエンターティンメントで、問題はその受容のされ方にあるんですから。

 このあたり問題は、園主さまが縷々書かれておりましたから、繰り返すことはしません。ただ、園主さまがおっしゃりたかったのも「いま目先の問題としては、ひとまず受験勉強も大切なことだろうけれど、生きていく上で大切なことは、他にもたくさんある」ということなんだと思います。つまりそれは、「受験勉強」然り『十二国記』も然り「ミステリ」もまた然り、ってことなんです。それぞれはそれぞれに価値のあるものだけど、個々に凝り固まって、多様な価値に目を閉ざすのはいけない、ってことを忘れないで欲しい。だって、人間は歳を取るほど、自己防衛的に「自分の今持っているもの」に固執し、その権威づけにばかり奔走して、謙虚に世界を拡げようとはしなくなるものだからです。だから、東野さまも勉強の気分転換くらいになら、読書もなさって下さい。もしもその自制が困難なようでしたら、大学に入ってから思う存分、読書をしてくださいね(笑)。

 これで最後なんて言わずに、またお出で下さい。心からお待ちしています(^-^)。





( 以下は「台風一過せし、雨降らぬ梅雨(3)」につづく)


台風一過せし、雨降らぬ 梅雨(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 6月22日(火)15時34分10秒

 みなさん、こんにちは! 台風一過、今日はとっても良いお天気です。でも、このところサボりがちなボクとしては、今日こそ書き込みをしないと!

 最近読んだ本では、光原百合の『十八の夏』(双葉文庫)が、とっても良かったですよ。表題作は日本推理作家協会賞(短篇部門)を受賞した作品なんですが、この作品集は粒ぞろいで、どれも水準以上の作品になっています。
 園主さまは光原さんの作品について、よく「甘い」とおっしゃいますし、事実ボクが過去に読んだ長編『時計を忘れて森へ行こう』(東京創元社)や連作短篇『遠い約束』(創元推理文庫)には、そういう小説としての甘さを感じました。リアリティーに欠ける、悪い意味での「少女マンガ」的な弱点のある作品だと思ったんです。でも、『十八の夏』では、どの作品にも「ホロ苦さ」があって、「甘ったるい」という印象はなく、とても好感のもてるものとなっていました。皆さんにも是非お薦めしたいと思います。

 いま読んでいるのは、『影武者 徳川家康』や『一夢庵風流記』などで一世を風靡した、「気持ちのいい男