●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2004年8月下
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自己完結の貧困さ(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時20分45秒


 Keenさま
> 「花園」で田中幸一にケンカを学ぶ

>> ――かなり園主さま的なテクニックを身につけてきましたね(笑)。
>> うん。やっぱり、かなり影響うけてるみたいです。良かったのかどうかは別 にして(笑)。

> そりゃあもう。近頃、つらつらとよその掲示板ロムしてて、荒らしっぽい書き込みやケンカを見かけても、
> 「フッ、まだまだだね。論理が穴だらけだぜ」
> なんて思うようになりましたから(笑)。
> いやね、もともと(議論好きな)おフランス仕込みの下地はありましたから、これも成長の証と言えるでしょう。だって私、小心者なんだもん。(;^_^A

 そうかあー、かなりのもんですね(笑)。

 でも、園主さまから一番学ぶべきことは「不動心」というやつなんじゃないかな。「デビルマン・不動明の心」ということじゃなくて(笑)、相手に「呪」に毒されない「確固とした自己」の構築ということです。

 世の中には、頭の良い人は大勢いると思うんですよ。でも、そういう人も、園主さまにかかると、意外なほどに「脆い」ところを見せてしまう。なぜなのかというと、彼や彼女は、たしかに頭は良いのかもしれないけど、人間的な部分で(園主さま言うところの)「弱さ」を持っているから、結局はその「良い頭」に立脚した意見を持てないでいるんですね。だから、そこを園主さまに突かれると、人間的な「弱さ」の部分が堰を切って噴出し、頭の良さをさらに麻痺させて、本来の頭の良さにはまったく見合わない「感情的な醜態」を曝すことになってしまうんだと思います。

 だから、大切なことは、他人がどうとかいうことよりも、「自分の実際」を冷静に知って、そこに立脚することなんだと思いますよ。自分を、過大評価もしなければ、卑下もしない。そこが大切なんです。

 例えば、笠井さんのように自分を過大評価しちゃうと、まさにその評価に見合わない実態の部分を突かれるし、真面 目な人にありがちな卑下は、しばしばその人が受けるに値しない非難まで不当に受け入れることとなって、相手の間違いを野放しに容認しちゃうという結果 になる。

 良きにつけ悪しきにつけ、自分をしっかりと把握しておれば、他人に何を言われても動じることがありません。
 相手の批判的指摘が当たっていれば「御説ごもっとも。それが私の課題です。ところで、私がここで問題としたいのは、そういう貴方自身、それに気がついているのかということなんですね」と当たり前に切り返せるし、相手の批判がはずれていれば「そう思いますか? 私としては、それはまったくの的はずれだと思いますが、貴方の独自なご意見として、ありがたく拝聴しておきましょう。」と聞き流すことも出来ます。

 自分に、「自信」というよりも、「確固たる自己認識」がなければ、相手の批判的指摘にいちいち動揺しなければならないから、本来の力までが発揮できなくなるんです。――自分の輪郭を把握する(自分を、過大評価もしなければ、卑下もしない)というのは、とっても困難なことなんでしょうが、それが他者と意見を交わす場合、何より大切なことなんだと思いますよ。



 園主さま
> 「『華氏911』オフィシャルサイト」の掲示板『華氏911』異論反論! BBS

 また「掲示板あらし」イジメをやってますね。よくやるなあー、まったく・・・(-_-;)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


自己完結の貧困さ(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時19分7秒


 はらぴょんさま(続き)

 つまり、笠井潔の思想の根底には「私はすごいぞ。だから賞讃せよ」という、度しがたい自己顕示欲だけが渦巻いているんです。で、そんな笠井さんにとっては、他人ことなんかどうでもよくて、他人はつねに「自分のすごさ」の証明に奉仕する「道具」でしかない、ということにもなるんですよ。

 その意味でも、『(※ 奈須きのこの)『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない』という園主さまの指摘は正しいと思うし、「他人を道具につかう」という行動は、笠井さんが『哲学者の密室』で、自身批判してみせた「人間の道具化(尊厳の収奪)」に毒されたものだと言えるんでしょうね。

 また、そんな笠井さんが、本格ミステリの側に立って「ミステリは、死者の尊厳を回復する文学だ」と主張すること自体矛盾してて、いかにも胡散くささが漂ってきますし、その点を舞城王太郎さんが『九十九十九』(講談社ノベルス)の中で、

『世界大戦中に発生した大量死への反発が<特権的な死を死ぬ >ための装置としての推理小説の隆盛を呼んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。本物の特権的な死というものは皆に惜しまれて死ぬ 死であり病苦に耐えて生命の活力を全て使い果たした挙句にやってくる死であり家族や友人や多くの知らない人たちに看取られる死であり死にたくて死にたい方法で死にたいときに死ぬ 死であり死ぬべくして死ぬ死である。特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。』

と作中人物に指摘させているのは、はらぴょんさまのご紹介どおり、舞城さんが安直な「体制順応派」などではなく、「人間の道具化」に反発する、真っ当な感性をもった人だということの証なんでしょうね。





( 以下は「自己完結の貧困さ(4)」につづく)


自己完結の貧困さ(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時18分11秒


 はらぴょんさま
異議申し立ての思想

こうして、笠井はマルクスの全的否定に至るわけですが、それに代る代案として提出しているのは、実現不可能な電光石火革命論や、警察や裁判所に至るまで国家を民営化せよとするアナルコ・キャピタリズムのみです。
> では、笠井が思想的に敵対するポストモダニズムは、この問題に対し、どのような態度を示してきたでしょうか。ポストモダニズムもまた、ヘーゲル的な全体知に反対します。しかし、笠井がこれを破壊(ディストラクション)する代わりに、ポストモダニズムはこれを脱構築(ディコンストラクション)するわけです。

 こないだも指摘しましたが、小松美彦さんが『自己決定権は幻想である!』で、

私が、自分の主張を、「呼びかけ」や「願い」として語ってきたつもりであることは、これまでにも述べてきました。この気持ちの底には、一般 化や抽象化は決してすまいという気持ちがあるわけですが、そのために、実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。

と書いているところの対極に、笠井さんはいるんですよね。

 つまり、小松さんは個々の事例や人を大切にしたいと考え、それに配慮するから、派手な理論は打ち立てにくい。そこからこぼれ落ちるものに配慮するから、わかりやすい「単調なもの言い」がどうしてもできない。だから『実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。』ということにもなります。
 その点、笠井さんは「個々の事例や人」なんてことはどうでもよくて、要は「自分の理論」が首尾一貫して矛盾がなく、そうした意味で弱点が少なく「強い」ということが大切なんでしょう。だから、笠井さんは簡単に『マルクスの全的否定』もできるし、『実現不可能な電光石火革命論や、警察や裁判所に至るまで国家を民営化せよとするアナルコ・キャピタリズム』なんてことも平然と唱えることができるんです。

 結局のところ、笠井さんには「現実の問題」に対する「責任感」が、決定的に欠落しているんですよ。マルクスの思想を批判する代わりに「それが担ってきたものを、自分が担おう」なんて気はさらさら無くて、ただ敵の欠点を上げつらうことで、「自分の方が賢い」ということを示せたつもりになっているし、誰の苦しみをも引き受ける気がないから「実現不可能な面 白い空論」を弄んでは、「自分の独自さ」を示せたつもりになって、独り悦にいることができるんですね。





( 以下は「自己完結の貧困さ(3)」につづく)


自己完結の貧困さ(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月31日(火)22時15分28秒

 みなさん、こんばんは! 『華氏911』のマイケル・ムーア監督が、またやっているようです(笑)。

『  「敵陣」取材のムーア監督に大ブーイング 米共和党大会

 「フセイン政権下のイラクが平和のオアシスだったと信じさせようとした不誠実な映画監督」――共和党全国党大会初日の30日、ベトナム戦争の英雄、マケイン上院議員がブッシュ大統領に対する応援演説のなかでドキュメンタリー映画「華氏911」のマイケル・ムーア監督を激しく批判、ムーア氏が会場から退席する場面 があった。
 ブッシュ批判を続けるムーア氏は今回、米紙のコラムニストとして「敵陣」を取材。マケイン氏が演説している時は、記者席にいた。マケイン氏の批判をきっかけに、会場の参加者がいっせいにムーア氏に向かってブーイングを浴びせ、「(ブッシュ大統領に)あと4年」と連呼すると、ムーア氏は両手を挙げ、笑顔で「(現政権は)あと2カ月」と言い返すと、席を立って会場から出た。
 ムーア氏は取り囲んだ記者団に対し、「共和党を助けたいなら、僕の映画に触れるべきじゃなかった。さらに多くの人が見に行くだけだ」とマケイン氏の批判に反撃。イラク戦争を正当化し続けるブッシュ氏については「戻ってきた兵士のひつぎをみて、人々は何のために死んだと思うだろう。ブッシュはこの大会でその疑問に答えることはできない」と断言した。 (08/31 19:16) 』(asahi.comより

 『華氏911』を観た人にとって、「フセイン政権下のイラクが平和のオアシスだったと信じさせようとした不誠実な映画監督」なんて批判は、なんとも的外れです。なぜって、ムーアは、フセインを「パパブッシュのお友達」だった人で、アメリカが細菌兵器や毒ガス兵器まで提供してバックアップし、イラン攻撃の手先として利用した「好ましい独裁者」だった、って言ってるんですからね。
 フセインの「独裁者」性が、アメリカで言あげされはじめたのは、フセインがアメリカの言うことを聞かなくなってからなんです。それまでは、フセインが毒ガスでクルド人を殺したって、アメリカはそれを非難しようとはしなかったし、第一、現在でも世界中に、アメリカに支援されている「独裁者」が大勢いる、という事実を忘れてはなりません。むしろアメリカは、「国民の利益」を顧みず「自分一人の利益」に固執する「独裁者」の方が好きなんです。なぜって、彼らの方が御しやすいからですよ。――「悪代官」が「越前屋」とつるむみたいなものですからね(笑)。

 ま、この程度の的はずれな批判しかできないというのは、このマケイン上院議員自身はもちろん、共和党議員・支持者の大半が、『華氏911』を観ていないという証拠なんでしょう。
 ムーアの言うとおり、感情的な批判では、その場は身内でもり上がれるだろうけど、結果 としては映画の宣伝に加担することになる。その意味では、この『ベトナム戦争の英雄』さんは、ムーアの「挑発」にまんまと引っ掛かってしまったということなんだと思います。つまり、これが「ベトナムの戦場」だったら、彼はブービートラップに引っ掛かって「戦死」していたところだ、ということです。





( 以下は「自己完結の貧困さ(2)」につづく)


異議申し立ての思想(5) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)22時14分45秒

しかしながら、異議申し立ての思想には、テロリズムとの切断をいかに図るかという難問が、付き纏います。
笠井潔の『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機に、マルクス主義を総括し、これを葬送する目的で書かれた評論です。

連合赤軍事件については、以下を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D

ところで、『テロルの現象学』第六章では、東アジア反日武装戦線による「個人的準備=ゲリラ兵士としての配慮」や、「“狼”通 信第一号」が批評の対象となっています。笠井潔の活動家時代も、マルクス葬送派への転向後も、太田竜(龍)がいたわけですが、この太田がかつて東アジア反日武装戦線の爆弾教祖であったことを考え合わせると、『テロルの現象学』がまず第一に切断しようとしたのは、自分の似たところのある太田竜の革命思想であったのではないか、ということが伺えます。
『テロルの現象学』は、マルクス主義を弁証法的権力として、全体知に基づいて人間を抑圧し、自由を剥奪するものとして把握します。笠井の分類では、テロリズムは「デカルト型テロリズム」と「ヘーゲル型マルクス主義」に分類され、マルクス主義は弁証法に基づく「ヘーゲル型テロリズム」とされます。(柄谷行人との対談『ポスト・モダニズム批判〜拠点から虚点へ』作品社参照)こうして、いかにマルクス主義を始末するかという問題に対し、笠井は反弁証法が必要だと考えるわけです。バタイユの普遍経済学とフッサールの現象学は、「ヘーゲル型テロリズム」を否定するための笠井の基盤となります。
こうして、笠井はマルクスの全的否定に至るわけですが、それに代る代案として提出しているのは、実現不可能な電光石火革命論や、警察や裁判所に至るまで国家を民営化せよとするアナルコ・キャピタリズムのみです。
では、笠井が思想的に敵対するポストモダニズムは、この問題に対し、どのような態度を示してきたでしょうか。ポストモダニズムもまた、ヘーゲル的な全体知に反対します。しかし、笠井がこれを破壊(ディストラクション)する代わりに、ポストモダニズムはこれを脱構築(ディコンストラクション)するわけです。ポストモダニズムは、マルクスのテクストを聖典としてではなく、多様な読み取りが可能なものとして、解釈の上でこれを開き、さらに実践の上でも差異の解放を革命として看做します。
ポストモダニズムの特徴として、権力の脱中心化が挙げられます。フーコーにおいては、一望監視装置(パノプティコン)批判として、ドゥルーズ=ガタリにおいては、リゾーム(根茎)状のネットワークと、社会的マイノリティーの擁護のための革命的戦争機械の称揚として現れます。彼らの目的は、権力からの逃走線を引くことにあるのです。
つまり、笠井はテロルの切断のために異議申し立ての思想を一切切り捨てているのに対し、ポストモダニズムは異議申し立ての思想であり続けているということです。

笠井潔の『バイバイ、エンジェル』や『テロルの現象学』を初めて読んだころ、笠井のマルクス葬送派への転向から、椎名麟三や埴谷雄高の転向を想起しました。例えば、椎名麟三は、治安維持法違反で逮捕され、獄中でニーチェを読み、マルクス主義者から実存主義者となり、晩年にはさらにキリスト者になります。
埴谷雄高もまた、獄中でカントを読み、脱党します。
しかしながら、笠井の場合、最後まで知識人としての覇権を確保し、同時代の精神的指導者となるという欲望と手を切っていないし、その実現のためにミステリ批評に批評の主軸を移したと考えられます。精神的指導者として人心を支配したいという欲望が顕在化していることが、笠井の転向の特異な点であると思います。


異議申し立ての思想(4) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時47分59秒

さて、このフランシス・ジャンソンですが、ジャン=リュック・ゴダール監督の『中国女』に出演しています。『中国女』は、ヴァカンスに知人宅が留守になったのを利用して、5人の男女が毛沢東思想を学習するという話で、フランシス・ジャンソンは、テロを決意したアンヌ・ヴィアゼムスキー演ずるヒロインを説得して思いとどまらせようとする哲学教師として登場します。ジャンソンは、誰かを演じているわけではなく、ジャンソン本人として発言しているので、カミュとの論争で「テロもやむなし」とする人かと思っていたものですから、認識が変わりました。
ちなみにゴダールには、アルジェリア戦争を批判した「小さな兵隊」、軍人を嘲弄した「カラビニエ」、未来の全体主義社会を批判した「アルファビル」などがありますので、ご関心のある方はチェックされるとよろしいでしょう。
このジャンソンが、アルジェリア戦争当時に組織していたのが<ジャンソン機関>です。この機関はアルジェリア独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支援したり、良心的徴兵忌避者の逃亡補助などを行っていました。その後、この地下組織は当局に発覚し、メンバーの何人かが逮捕され、ジャンソンは国外逃亡をします。
<ジャンソン機関>の裁判の際に、ディオニス・マスコロ(マルグリット・デュラスの当時の夫)。ジャン・シュステル(シュルレアリスト)、モーリス・ブランショが、以下のような宣言文(アルジェリア戦争における不服従の権利にかんする宣言)を起草します。
1.われわれはアルジェリア人民に対して武器をとることの拒否を尊敬し、正当と見なす。
2.われわれは、フランス人民の名で抑圧されているアルジェリア人に援助と庇護を与えることを自分の義務と考えるフランス人の行為を尊敬し、正当と考える。
3.植民地体制の崩壊に決定的な貢献をしているアルジェリア人民の事業は、すべての自由人の事業である
これには、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・ブルトン、クロード・ランズマン、アラン・レネ、マルグリット・デュラス、ロブ=グリエ、ナタリー・サロートらが署名をし、その署名者の人数から「一二一人宣言」と言われるようになります。

現在必要なことは、われわれがこうした先人たちから不服従と連帯の精神を学び、それを生かさないならば、事態はより悪化する可能性があるということです。(現在の戦時協力体制は、徴兵制の復活と言論統制に行き着く危険性をはらんでいます。)


異議申し立ての思想(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時44分18秒

(注)カミュVSサルトル論争に続いて起きたのは、メルロ=ポンティVSサルトル論争です。現象学者モーリス・メルロ=ポンティは、当初『ヒューマニズムとテロル』(現代思潮社)で精錬されたスターリン主義擁護をしていましたが、『弁証法の冒険』(みすず書房)で非共産党系左翼に転向し、ソ連の公式マルクス主義もサルトルの思想も、ともに弁証法を失ったウルトラ・ボルシェヴィズムであると断じました。これに対し、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「メルロ=ポンティと似非サルトル主義」という反論を書きます。このことは、サルトルが『弁証法的理性批判』(人文書院)という大著を書く契機となります。
サルトルの『弁証法的理性批判』に対する批判は、構造人類学者クロード・レヴィ=ストロースによる『野生の思考(パンセ・ソヴァージュ、野性の三色スミレの意味も持つ)』(みすず書房)によって為されます。この本は、巻末でサルトルが『弁証法的理性批判』で描いたようにはフランス革命は起きなかったとし、サルトルは西欧中心主義的なコギトにこだわっているが、人間の思考は構造に縛られており、自由に歴史を変えられるわけではないと書いています。意味深長なことに、この本の献辞はメルロ=ポンティに捧ぐとなっています。


異議申し立ての思想(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時38分11秒

「戦時下」において、反戦を貫くということで、昔、フランシス・ジャンソンが組織した<ジャンソン機関>を思い起こしました。
フランシス・ジャンソンは、哲学者で、ジャン=ポール・サルトルの主宰する『ル・タン・モデルヌ』で活躍していた人であり、『伝記サルトル』(筑摩書房)の著者でもあります。私が、この人の名を初めて知ったのは、カミュVSサルトル論争の火付け役として、でした。(カミュ/サルトル/ジャンソン『革命か反抗か』新潮文庫参照。)
カミュVSサルトル論争は、カミュが『反抗的人間』を刊行したことに始まります。サルトルは「唯物論と革命」の頃は、現代のマルクス主義は機械論的唯物論に陥っているといういいかたで、マルクス主義を非難しますが、共産主義者がフランス当局のでっちあげで逮捕される事件(デュクロ事件)を契機に左傾化し、「共産主義者と平和」を書きます。これはマルクス主義陣営は、平和勢力であるというものです。これに対し、カミュの『反抗的人間』は、マルクス主義は歴史を神格化する歴史主義であり、歴史主義的な美徳によって際限のないテロリズムや強制収容所を生み出すような全体主義に帰結するというものであり、カミュはマルクス主義ではなく、中庸を守った人間中心主義的な連帯に基づく反抗に留まろうとします。カミュの示した反抗の思想は、「シュルレアリスム第二宣言」以降のアンドレ・ブルトンや、「共産主義者と平和」を書いたサルトルらの思想と対立することは明らかで、彼らとの間に論戦が起こりました。
カミュの『反抗的人間』を好ましく思っていなかったサルトルは、フランシス・ジャンソンに『ル・タン・モデルヌ』で『反抗的人間』を書評してくれないかと依頼します。これに対し、カミュは「『ル・タン・モデルヌ』編集長への手紙」を書き、『ル・タン・モデルヌ』編集長ジャン=ポール・サルトルとの直接対決に発展します。カミュのマルクス主義批判に対するサルトルの反論のポイントは、人間は歴史的状況にどっぷりと漬かっており、歴史的状況に入ろうかどうか思案しているカミュの思考は、観念的であるということです。
現在の観点からすると、サルトルのマルクス主義陣営は、平和勢力であるという考えはナイーヴすぎる見方であり、全体主義的な権力の一形態とみるべきだと考えます。しかし、カミュの中庸や正午の思想というものも曖昧な部分が多く、サルトルの批判はそこをついたものだと思われます。


異議申し立ての思想(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月30日(月)10時37分0秒

エルネスト・チェ・ゲバラに関しては、『チェ・ゲバラ モーターサイクル・ダイアリーズ』(棚橋加奈江訳、角川文庫)が、来月25日に刊行予定です。これは23歳当時のゲバラが、中古のバイクで南米大陸を横断した際の旅日記です。
>『打撃は、絶間なく与えねばならぬ』(ゲバラ)
この言葉から、毛沢東の『持久戦論』を想起しました。彼らの考えたゲリラの戦術は、どちらも長期戦なのですね。毛沢東の持久戦は、実際のところは広大な中国大陸を逃走しつつ遊撃戦を繰り返すというものでしたが、最終的にはロングスパンで勝利を得たわけです。
チェ・ゲバラに関心が行くというのは、この時代の閉塞感に風穴を開けたいということだと考えます。閉塞感とは、否応なしにアメリカ主導のグローバリズムに我々が巻き込まれているということと、現在「戦時下」であり、わが国の政府が日本を戦時協力体制にシフトさせる選択をしたことに由来すると考えます。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_search.php?pcd=200407000173


チェ・ゲバラの遺した難問(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時07分22秒


 はらぴょんさま
> 『ユリイカ9月臨時増刊号 特集 西尾維新』(青土社、近刊)
> 執筆者 西尾維新、東浩紀、笠井潔ら
> 刊行状況については、以下のURLでご確認ください。

http://www.seidosha.co.jp/

情報提供、ありがとうございました。
笠井潔がらみの「ヤバイ記事」があると嬉しいのでございますが、……たぶん、無いのでございましょうねえ(笑)。

もちろん、私も購入して、チェックを入れたいと存じます。はらぴょんさまも、このところ書き込みが激減しておりますが、ゾンビハンターの使命を全うするには、まだまだこれからでございますので、しっかりネタを仕入れて、頑張ってくださいまし(笑)。

エルネスト・チェ・ゲバラも、その著書『ゲリラ戦争 キューバ革命軍の戦略と戦術』(中公文庫)のなかで申しております。

 『打撃は、絶間なく与えねばならぬ』

つまり、小さな攻撃でもいいから絶間なくくり返し、敵に休む暇、安心して眠る余裕を与えずに、精神的にじわじわ追い込んでいくという「心理戦」が、巨大な戦力(影響力)をもたない我々ゲリラにとって、もっとも有効な戦術だ、ということなのでございます。――ちなみに、これは私の「オリジナル解説」でございます(笑)。



 ホランド
> つまりデーブの意見は、武器も人員も少ないゲリラに、巨大なアメリカの正規軍と「正面 から正々堂々と戦え、卑怯だぞ!」と言っているようなものなんですね。だから『御用評論家』だと言うんです。

ゲリラにとって「奇襲」や「罠」は、決して卑怯な手ではない。

例えば、アブラハム重戦車で民間人の家を押しつぶしながら正面から攻めてくるイスラエル軍と、物陰からパチンコで石をぶつけてくるパレスチナの子供たちと、どっちが卑怯か、ということだな。

『チェ・ゲバラ伝』を読んだら、『ゲリラ戦争』も貸してやるよ。前に買っておいた『ゲバラ日記』も掘り出しておかないとな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


チェ・ゲバラの遺した難問(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時06分11秒


 Keenさま
『春日井建の世界』(思潮社)が、発売になったようですね。「現代詩手帖永久保存版」だそうですから、本多さんが寄稿された本は、きっとこれでしょう。書店巡りしないとな〜。

そうでございますね。――正直なところ、春日井建にはさほど興味はないのでございますが、中井英夫への言及があるものも、いくつかはございましょうから、買っておきたいと存じます。で、ついでに宣伝(笑)。

 ・ 父の子の帰還 ―― 追悼・春日井建


> 京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)

> 純情といえば、京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)の木場修の旦那!関くんを抑えて、堂々の下克上でしたねー♪関くんも相変わらずでしたが、2作目とあって、キャラがそれぞれ動き始めたようですね。(^0^*

「俺は、一度だって、あのどうしようもない駄目人間の、下に立ったことなんてないと思うがな」

と木場修なら眉間に皺を寄せ、獰猛な表情で、そう吐き捨てたところでございましょう(笑)。

まあ、中禅寺はメインシリーズの主人公で、関口はメインシリーズの「何が起ってもおかしくない世界」を構築するためのフィルターで、共に動かせない大切な存在。ただ『魍魎の匣』の場合は、物語に動きをもたせるために、木場が大活躍したわけでございますが、どうやらそれは例外的なことのようで、その後はどうも冷や飯を食わされ、あまり活躍の機会を与えてもらっていないようでございます。――もっとも、木場ならば、

「あんな訳のわからんクソみたいな事件には、二度とかかわりたくもねえぜ!」

ということになるのでしょうが。

ちなみに、メインシリーズでは「一服の清涼剤(?)」的な役どころの、我が榎木津礼二郎でございますが、清涼剤は一服だから良いのであって、服用し過ぎると、あのメインシリーズの世界を、破綻させかねない危険な存在でもございます。しかしまた、あれだけの個性でございますから、いつまでも脇に押し込めておくわけにもいかず、彼がメインとなる中編シリーズ『百器徒然袋』(薔薇十字探偵シリーズ)は、自ずと構想されたのでございましょう。

つまり、中禅寺・関口・木場・榎木津のメイン四人のうちで、もっとも冷や飯を食わされているのは、やっぱり木場という感じでございますね(笑)。

「だから、それが俺の望むところだって、言ってるだろうが!」





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(7)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時04分16秒


ですからこそ、私は、チェ・ゲバラの『自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だ』という信念を、心底、否定し去ることが出来ません。所詮、私の「言論」主義とは、「人殺しは、醜いことだし、できればしたくはない」という、個人的な「実感」や「美学」に由来するものでしかございませんし、「私は私なりに精一杯やれば、世界の虐げられた人々の責任までは、担えなくても仕方がなかろう」という現実的な判断の拠ったものでしかないのでございます。
つまり私の「言論だけでは、暴力に勝てないかもしれない。けれども、私は私の美意識を貫くだけだ」という考え方は、所詮、「私は私一個の美意識に忠実に生きられれば、それで充分だろう」というものでしかないのでございます。ですから、チェが「知識人」には期待しなかったという事実に対して、有効な反論はまったく思いつかなかったのでございます。

『 このラテン・アメリカのきびしい現実を前にして、わたし(※ 著者、三好徹)はつぎのエピソードを頭にうかべずにはいられない。
 あるラテン・アメリカの知識人が、ある日チェにたずねた。
「わたしは国の革命のために、どうしたら貢献できるでしょうか」
 チェは問いかえした。
「失礼ですが、あなたはどんなお仕事をなさっていますか」
「わたしは著述家です」
「ああ! わたしも医者でした」
 とだけ、チェはいった。』(P367)


このはぐらかしは、何と残酷な思いやりによるものだったのでございましょう……。

たぶん、私はこれからも「暴力の行使には、できるかぎり反対して、言論の及ぶ範囲で、人々の幸せに貢献したい」というような立場に立ち続けることでございましょう。しかしそれは、本当に過酷な現実を前にして、銃をとらざるを得ない人々(例えば、パレスチナの殉教攻撃者)まで、「紋切り型の平和主義理論」でもって、否定し去りうるものではないのでございます。

『自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だ』という信念との葛藤は、安易な否定も肯定も許さない、たぶん私一生の仮題となるのでございましょう。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(6)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時03分25秒


チェ・ゲバラが私に突きつける難問は、何と言っても『自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だ』という信念の問題でございます。
圧倒的な経済力と暴力を所有するアメリカ帝国資本に対しては、生半なことでは対抗できないし、ましてや収奪された権利を取り戻すことなどできない。それを取り戻すためには武装闘争しかない、というゲバラに対し、この平和な日本にうまれ育った私が、「暴力は憎しみしか生まない」とか「暴力は絶対悪である。暴力に正義も悪もない」などといった「聞きかじり」の「口まね」を語ることなど、恥ずかしくて、とてもできるものではございません。もちろん、ゲバラとて、暴力が好ましいものでないことくらいは、百も承知していたのでございます。

彼がキューバの外交使節団の代表として日本を訪れた際、彼らは、訪問を希望していたにもかかわらず、一向に案内しようとしない日本政府の対応に業を煮やし、日程を変更してまで、広島を訪れました。

『 チェは二時すぎに、新広島ホテルに到着した。このホテルは、慰霊碑から僅かの距離である。チェはそこで花束(千五百円だった)を受けとり、慰霊碑にささげ死者の霊をとむらった。
 それから、一行は資料館に入った。約一時間かかったというから、長い方である。(同館での平均の見学時間は三、四十分)
 チェは、館内のさまざまな原爆による被害の陳列品を見るうちに、見口氏に英語でいった。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされ、腹がたたないのか」
 それまで、見口氏はもっぱら大使と話すだけで、チェやフェルナンデスとは、ほとんど口をきいていなかった。それまで無口だったチェがこのとき不意に語りかけ、原爆の惨禍の凄じさに同情と怒りをみせたのである。見口氏はいう。
「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのことをいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別 れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持としては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした」』(P236〜237)

『 チェの日本訪問が、かれ自身にいかなる内面的影響を及ぼしたかは、今後の研究仮題だろう。しかし、かれのその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる。そして、かれがボリビアに新しい戦場を求めて潜入してから送った「世界の人民にあてたメッセージ」中でも、広島、長崎の原爆にふれている。それをみると、日本でうけた最大の感銘は、どうやら広島にあったらしいのである。』(P244)


それはそうでございましょう。ゲバラは、庶民の苦しみに敏感な人間でございましたし、兵士として自ら進んで危険に身をさらして戦った男でございますから、原爆という兵器の残虐さと卑劣さは、普通 の政治家になど想像もできないほど、いや、私を含む今の日本人の大半が想像できないほどのものとして、生々しく感じとっていたことでございましょう。
また、ですから、このようなことを二度と許してはならないと思ったでしょうし、このような行為をなした者が決して赦されてはならないと、心底怒りを覚えたのでございましょう。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(5)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月29日(日)00時00分56秒



当時、キューバは1962年のいわゆる「キューバ危機」を脱したところでございました。キューバ革命は、アメリカ帝国資本によって虐げられていた農民たちの支持によって達成された革命でございます。ですから、カストロたちは、その期待に応えるべく、キューバの土地を押さえていたアメリカ現地企業の有償接収を断行したのでございますが、もちろんアメリカがこれを快く思うはずはございません。CIAの指導の下、亡命キューバ人を組織して、逆革命を画策するなどの陰謀がございましたが、それらはぎりぎりのところで、なんとかしのがれたのでございます。
しかし、当時、農業国キューバの最大の輸出品は砂糖であり、その最大の輸出先はアメリカでございましたから、アメリカの制裁的禁輸に対し、キューバは早急な対応を迫られていたのでございます。

そこへ助け舟を出したのが、アメリカのライバルであった、ソ連なのでございますが、無論、ソ連は好意でキューバを助けたわけではございません。キューバを、社会主義の衛生国家とすべく、功利的な主従関係を結ぼうととしたのでございます。それでも、アメリカとソ連が対立している間は、まだよかったのでございますが、アメリカとソ連の「雪解け」が言われ出すと、ソ連は大国のエゴを露骨に示しはじめたのでございました。そこで、キューバの外交にも深くかかわっていたゲバラは、名指しこそしなかったものの、アメリカとソ連を、二つながらに「大国のエゴ」と糾弾する演説を何度となく行い、ついにソ連に睨まれるにいたっていたのでございます。

つまりゲバラは、キューバを第二の故郷として愛し、離れがたい気持ちを抱いてはいたのでございますが、彼が自身の信念を貫こうとすれば、盟友のカストロを苦しめ、革命を危険に曝すことにもなりかねなかったのでございます。それに、若き日の放浪において自らの眼で確かめたように、南米にはまだまだ、アメリカの帝国資本に搾取され、塗炭の苦しみにあえいでいる人々が大勢いたのでございます。ならば――。
このようにして、チェ・ゲバラはふたたび一人の兵士として、異国のジャングルに入っていったのでございます。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(4)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月28日(土)23時59分12秒


『 カストロは偉大な現実主義者であった。キューバ革命の最高責任者として、かれはチェのように率直に振舞うわけにはいかなかった。ソ連が援助が打ち切られれば、キューバ革命がどれほどの困難をかかえこむか、かれはそれを計算しなければならなかった。
 チェの、理想のために誰とでも戦うし、不正に対する批判を腹蔵しておく必要はないという考え方は、もとより盟友カストロにはよくわかっていた。ふたりの間に、徹底的な意見の交換があったことは、想像にかたくない。カストロはおそらくチェをなだめたであろう。だが、チェのような男にとって、自分を偽って生きることは不可能でだった。自分の信念に忠実に生きる生き方しか、かれにはできなかった。
 バチスタの圧政から解放されたキューバ革命の基礎は多くの問題をかかえているにしてもほぼ固まっている。その点については、じゅうぶんに役割を果 たしたのだ。しかし、かつてのキューバのように、圧政や不正に苦しんでいる国民がいる。それは、自分の存在がキューバの立場を苦しくすること以上に、かれの心を惹きつける。となれば、かれに残された道は、キューバを去って、新しい戦場に向かうことしかなかった。
 この場合、革命の指導者ならば、自分を屈してもキューバに居残って、カストロに協力すべきだという批判も成り立つかもしれないし、さらには現実問題として、カストロに従ってさえいれば、チェはキューバのナンバー2でいられるのだ。かれはいわば革命の元勲であり、元勲として生涯を終えることもできたであろう。困苦にみちた流浪の生活にあえて身を投ずることもないであろう。だが、かれはあえて困難な道を選んだのである。
 歴史は多くの革命家をもったが、いったん権力を手にした革命家がみずからその地位 を放棄して、困苦にみちた新たな戦列に加わったという例はかつてない。
 チェがそれをなした史上最初の革命家であった。もしかすると、ドン・キホーテになりかねないその生き方がこの稀有の革命家に天があたえた道なのかもしれなかった。
 もとより、チェ自身それはよくわかっていることであった。かれは、カストロあての手紙を書きあげると、両親あてにも手紙を遺した。

 ――もう一度わたしは足の下にロシナンテの肋骨を感じています。盾をたずさえて、再びわたしは旅をはじめるのです。
 十年ほど前、わたしはもうひとつの別れの手紙を書きました。想い出すけれど、わたしは自分が立派な兵士でもよい医師でもないことを残念がっていました。いまはよい医師になろうとは決して考えていませんが、兵士としては悪い方ではありません。
 わたしがより自覚的な人間になったことを除けば、本質的に変わったことは何もありません。わたしのマルキシズムは深まり、純粋になりました。わたしは、自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だと信じていますし、この確信に従って行動するのです。
 多くの人は、わたしのことを冒険家というでしょう。わたしはそうなのです。しかし、違った種類の――自分の信念を証明するために命をも賭ける人間なのです。もしかすると、これが最後になるかもしれません。自分が望んでいるわけではないが、論理的にはそうなる可能性があります。もしそうなら、あなた方に最後の抱擁をおくります。
 わたしは、あなた方を心から愛していました。ただ、その愛情をどうして表現したらよいのかを知らなかっただけです。わたしは自分の行動に極端な厳格さをもっているので、理解してもらえなかったことがあったと思います。わたしを理解していただくのは容易ではないのですが、いまは、わたしを信じてほしいのです。
 芸術家のような喜びをもって完成を目指してきたわたしの意思が、なまってしまった脚と疲れた肺を支えてくれるでしょう。わたしはそれをやるつもりです。
 この二十世紀の小さな外人部隊長をときどき想い出してください。セリヤ、ロベルト、ファン=マルティン、ポトティン、ベアトリス、そして皆さんにキスを送ります。
 そしてあなた方には、おふたりの強情な放蕩息子から大きな抱擁を送ります。
                                  エルネスト

 なんという手紙であろう! 革命家チェ・ゲバラとしてではなく、エルネストとして書いたこの手紙には、恐ろしいまでの正確な予見がうかがえる。ロシナンテは、いうまでもなく、ドン・キホーテの愛馬の名前なのだ。そして、かれの文章が美しければ美しいほど、キューバを去って行くチェの悲劇的な象がうき上がってくる。』(P291〜294)



( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(3)」につづく)


チェ・ゲバラの遺した難問(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月28日(土)23時57分58秒

みなさま、先日ご報告いたしました『チェ・ゲバラ伝』(三好徹・文春文庫 絶版)を、過日読み終えました。感想としては、「ああ、この人は、私が思っていたよりもロマンチストであり、自己の美意識に厳格な人だったんだな」ということでございます。

ところで、先日私は、『自己決定権は幻想である!』の著者である小松美彦が、同著の中で、

私はたしかに負けるだろうとは思っていますが、生きている限り自分の主張をし続けていこうと少なくともいまは思っていますし、その意気込みだけはあると思うので、ドン・キホーテではないにしろ、ニヒリストとはむしろ反対だと思うのです。

と書いているのをご紹介した上で、

小松美彦もまた、中井英夫や大西巨人や斎藤貴男と同じ『生き方がバカ正直で、へたくそな』男なのでございます。本人は謙遜なさっていますが、彼は、私が『ドン・キホーテ』と呼んだ、不利な戦いに自分を賭ける「バカの戦列」に加わった、同志の一人なのでございます。

と書きましたが、驚くことに今回も、

こうした「出会い」や「つながり」というものは、決して「偶然」の産物なのではなく、「必然」によってもたらされたものだ

と、前回書いたのと同様の『必然』から、「ドン・キホーテ」が三たび登場してまいりました。

かなり長くになりますが、『チェ・ゲバラ伝』から、エルネスト・チェ・ゲバラという人物をよく語った部分を、引用させていただきます。





( 以下は「チェ・ゲバラの遺した難問(2)」につづく)


「花園」で田中幸一にケンカを学ぶ 投稿者:Keen  投稿日: 8月28日(土)23時33分11秒

☆ホランドくん

>――かなり園主さま的なテクニックを身につけてきましたね(笑)。
>うん。やっぱり、かなり影響うけてるみたいです。良かったのかどうかは別 にして(笑)。

そりゃあもう。近頃、つらつらとよその掲示板ロムしてて、荒らしっぽい書き込みやケンカを見かけても、
「フッ、まだまだだね。論理が穴だらけだぜ」
なんて思うようになりましたから(笑)。
いやね、もともと(議論好きな)おフランス仕込みの下地はありましたから、これも成長の証と言えるでしょう。だって私、小心者なんだもん。(;^_^A

フランス映画の『アメリ』は未見ですが、『北野勇作どうぶつ図鑑』で「カメリ」読んだら、見たくなりました。『アメリ』のあのスチール写 真は、確かに「Mr.ビーン」のキメポーズですよね〜(笑)。


課題図書 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月28日(土)21時34分51秒

『ユリイカ9月臨時増刊号 特集 西尾維新』(青土社、近刊)
執筆者 西尾維新、東浩紀、笠井潔ら
刊行状況については、以下のURLでご確認ください。

http://www.seidosha.co.jp/


ゲリラの栄光(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時54分57秒


 Keenさま

主よ、心弱きユダの子にその憐れみを垂れたまえ ―― 三浦しをん批判

 この評論について、前から共通の話題として語られていた『愛と誠』の図式に当てはめるとか、園主さまの「年齢忘れ」に榎木津を引用するとか、ボクのネタ振りに『「乙女なげやり」化』と最新のネタでやりかえすとか、――かなり園主さま的なテクニックを身につけてきましたね(笑)。

> 『美少年』は、懐かしいなあ(※MENUの「ネットゼミナール楽古堂」参照)。初読時はひっくりかえりそうになりましたが、今はヘーキです。団さんらしい表現やオチのつけ方に、笑ったりしてます。「花園」に通 ううちに、耐久力ついたんでしょうか(笑)。

 うん。やっぱり、かなり影響うけてるみたいです。良かったのかどうかは別 にして(笑)。



 園主さま

私が、自分の主張を、「呼びかけ」や「願い」として語ってきたつもりであることは、これまでにも述べてきました。この気持ちの底には、一般 化や抽象化は決してすまいという気持ちがあるわけですが、そのために、実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。(小松美彦『自己決定権は幻想である!』より)

 さっきボクは、笠井さんについて、

笠井潔は負ける喧嘩はしたことがない人だ

って書きましたが、それは小松美彦さんのこのような性格とも 、『たいへんな好対照、雲泥の差』だということなんでしょうね。

 小松さんは、個々の人間を置き去りにして、自分一個の高みに駆け昇ってしまうという『抽象化による思考の停止』を恐れ、それを峻拒しました。
 それに対し、笠井さんは「観念による観念批判」というスタイルからもわかるとおり、骨がらみの「観念」主義者であり、だから逆に「置き去りにしがちな現実」については、『信念』も何もなく、ひどく俗物的な損得打算的動きしか取れなくなるんでしょうね。
 また、そうしたことを含めて園主さまは、それを『永遠の「観念の俘囚」』と表現したんだと思います。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


ゲリラの栄光(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時52分29秒


 時雨さま

東浩紀『波状言論臨時増刊 美少女ゲームの臨界点』134Pより

> 確かにTYPE-MOONが抱える資産は大きいと思う。けれども、太田さん(※ 『ファウスト』編集長)も笠井さんも美少女ゲームのユーザーじゃない。今だから言うけど、彼らに『月姫』や奈須さんの名前を教えたのは僕と佐藤君(注2)です。しかも笠井さんは、僕との往復書簡『動物化する世界の中で』で、1980年代の自分の伝奇小説について、あれは「退却」だったとはっきり書いている。むしろ僕の方が、再評価してほしいと書いているぐらいなんです。それがわずか二年でこうでしょう。いろいろ考えがあるんでしょうけど、往復書簡の相手としては愉快なわけがない。笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。

 かなりハッキリした「証言」だと言えるでしょうね、これは。

 もちろん、笠井さんやその周辺は、例によって「知らん顔」を決め込むんでしょうね。――かつて、長谷部史親や縄田一男を批判した時のようなことは、もう起らない。なぜなら、笠井潔は負ける喧嘩はしたことがない人だから、ということなんでしょう。『文の商人』は、「赤字覚悟のご奉仕セール」を謳ってみせても、決して本当に赤字になるような「商売」はしませんからね(笑)。


> ・・・とまあ、なんだか園主様がご覧になったら「それ見たことか!」とおっしゃりそうなことになっています。どうもこれを読む限り、以前僕が賛成しかねると発言した奈須きのこのデビューに関する園主様の推測は、かなり真相に迫っているようですね。

 これは、園主さまが書かれていた、

 つまり、このことを言い換えると、『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない、ということなのだ。
>  笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。つまり、奈須きのことは、でっち上げてでも「新時代のスター」になってもらわなければならない存在だった。ちょうどそれは、鳴り物入りで行われた新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」みたいなものだったのである。

 したがって、「新伝綺」に、時代的必然があるというのは「嘘」である。たしかに「ジャンルX」全体の流行傾向には時代的必然はあろうが、その中でも、今回特に「伝奇」小説をクローズアップしてみせたのは、そこに「特別 な時代的要請」があったということではなく、「笠井潔の個人的都合」があったというに過ぎないのである。
>  実際、大した前兆現象もなく、新人作家のデビュー作ただ1作だけをとらえて「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」と言われても、たいていの人には、ピンと来なかったはずだ。それもそのはず、「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」という断言の内実は、じつのところ「ここから、伝奇小説ブームをふたたび巻き起こそう。巻き起こってもらわなければ困る」ということに過ぎなかったのである。

ということですよね。それを東浩紀さんは、

> 笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。

と婉曲に表現したんだと思います。

 でも、……そう、うまくいくかなあー? 『空の境界』の売り上げは、そろそろ頭打ちになってるようだし、園主さまが書かれていた内容では、あの小説をまともに誉め上げるような書評は、名のある人からは出てこないでしょう。次作が出た時に見込めるのは、結局、奈須きのこの作品なら「なんでも買い揃える」というTYPE-MOONのファンだけ、ってことになるんじゃないかなあー。

 それに、その意味では、もう便乗(寄生)商法の効果も薄れているだろうから、『ヴァンパイヤー戦争』の第3巻以降は、増刷(2刷)も困難だと思いますよ。





( 以下は「ゲリラの栄光(4)」につづく)


ゲリラの栄光(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時51分4秒


 これは、園主さまがお好きな(ボクも好きだけど)『A』『A2』の森達也監督にも言えることです。

 森監督は、世間がこぞって評価している(らしい)、ムーアや『華氏911』について、

  『あまり明解なものを出されちゃうと、僕はちょっとアレルギーがある』

と、世間がこぞって敵視し排除しようとしたオウム真理教の視点に立って見せた、反骨人の面 目躍如たるところを見せています。でも、インタビューアーに『もし、森さんがブッシュを描くとしたら?』と問われて、

『頭はあんまりよくないだろうけど、基本的に彼は善意の人だと思うんです。正義を遂行するという使命感に酔ってもいますね。だから彼は、イラクの人を救おうと思っているのに、なんで俺はこんなに批判されるんだろうって、きっと本気で思ってますよ。善意や正義が世界を壊すんです。僕ならそういうブッシュを描きたいと思う。ブッシュの孤独とかね。『華氏911』では徹底的にブッシュを嘲笑の対象にしているらしいけれど、少なくともそんな貧しい撮り方はしたくないな。それはブッシュの浅薄さとなんら変わらないもの』

なんて答えています。

 ブッシュ政権の現実を、少しでも勉強して知っている人にとっては、森さんの意見は、なんとも救いがたく『浅薄』で「独りよがり」なものでしかありません。『善意や正義が世界を壊す』なんて陳腐な図式は、ネオコンの論客ロバート・ケーガンの書いた論文、例えば邦訳タイトル『ネオコンの論理』(光文社)なんかを読んだら、瞬時に消し飛んでしまうくらい、あまっちょろいものですし、第一、『『華氏911』では徹底的にブッシュを嘲笑の対象にしているらしいけれど』って、森さんは映画を観ないで『そんな貧しい撮り方はしたくない』とか言ってるんですよね。自分も、同じ映画監督なのに。

 それに、さっきも書いたとおり、よく知りもしないのに「世間とは違って、私だけはものの本質がわかっている」という、森さんの「自惚れ」は、ブッシュに対する『頭はあんまりよくないだろうけど』とか『それはブッシュの浅薄さとなんら変わらない』とかいった評価にも表われています。ブッシュをよく研究してて「ブッシュは頭が良くない」とか「浅薄だ」と言うのならいいんだけど、勉強していないからこそ、自分のイメージだけで『頭はあんまりよくないだろう』なんて言ってしまう。そして、そうした曖昧な印象だけで『ブッシュの浅薄さ』なんてことまで言い出してしまう。

 園主さまが先日ご紹介なさっていた、小松美彦さんの言葉を借ると、結局これは『有体に言って、いい気になっていたと言わざるを得ない。』ということなんですよね。でなきゃ、こんな無責任なコメントは出来ませんからね。
 森さんのコメント(利いた風な口)は、ムーアに対してはもちろん、ブッシュに対しても失礼な、高慢きわまりないものだと思います。

 ちなみに、この『マイケル・ムーアがよくわかる本』では紹介されていないはずだけど、森達也監督とデーブ・スぺクタ−は、共に元テレビディレクターだったということから「旧知の仲」なんで、デーブから刷り込まれた印象で、観てもいない『華氏911』を論じちゃった、てこともあったのかも知れません。デーブ同様、森さんも『電波少年』を擁護してましたしね。





( 以下は「ゲリラの栄光(3)」につづく)


ゲリラの栄光(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月28日(土)16時49分36秒

 みなさん、こんにちは! いま映画『華氏911』で話題のマイケル・ムーアに関する読本、『マイケル・ムーアがよくわかる本』(宝島社)が刊行されました。まだ、パラパラと見ただけで、全部きっちりと読んだわけではないんですが、いくつか引っ掛かった部分について書かせていただきます。

 まず、テレビでお馴染みの辛口コメンテーター、デーブ・スぺクタ−さんが『ムーアは確信犯的に開き直っている/重要なところをわざとカット/これはもう捏造ですよ!』(見出し)という主旨の批判をしています。で、デーブさんは、ムーアのそうしたやり口を批判した本やサイトを紹介してるんですが、ボクは「これはもう、御用評論家の仕事でしかないな」と思いました。

 デーブさんの指摘していることが、全部事実だと仮定しても、ムーアはそれを文字どおり『確信犯的に』やっているんです。つまり、世界各国で多くの罪なき人々を虐殺し、アメリカを金持ちのためだけの「悪の帝国」にしてしまったブッシュを、ムーアは自分に与えられたあらゆる手段をつかって、葬り去ろうとしているんです。つまり、ムーアにとって映画は、きれいごとではなく「テロの手段」なんですね。だからムーアも正直に、この映画はブッシュを打倒するためにつくった映画だ、つまり「プロパガンダ映画」だと認めているんですよ。

 で、それを「やってはいけないこと」だとするデーブさんは、その一方で『日テレでやってた『電波少年』もちょっとウソっぽいところあったけど、あれはユーモアでやってたからまだいい。』なんて言っちゃってます。「ムーアと『電波少年』では、背負っているものが違うだろう」と思うのですが、デーブさんの意見は、あくまでも「恣意的」で「身内に甘い」。

 つまりデーブの意見は、武器も人員も少ないゲリラに、巨大なアメリカの正規軍と「正面 から正々堂々と戦え、卑怯だぞ!」と言っているようなものなんですね。だから『御用評論家』だと言うんです。

 もちろん、デーブが日頃から、ブッシュや歴代アメリカ大統領が、世界規模で流してきた「デマ(プロパガンダ)」を、チョムスキーみたいに徹底的に批判しているとか、身体を張って、それ相応のことをやった上で、ムーアのやり口を好ましくない、と言っているのなら、ボクもわからないではないんです。でも、この人が日頃やってることは、所詮、暇つぶしのテレビ鑑賞者に向けた、無為に消費されるだけのコメントの送信でしかない。ブッシュ批判だろうとなんだろうと、その域を一歩も出ようとはしてません。つまり、彼のやっていることは、所詮は、商業ベースに乗った、自分の金儲けだけが目的の、無難な「娯楽の垂れ流し」に過ぎないんです。また、だからこそ彼は、巨大な権力への抵抗者であるムーアを批判することは出来ても、商売に直結する『電波少年』みたいなものは擁護してしまうんですよね。





( 以下は「ゲリラの栄光(2)」につづく)


リンクミス☆ 投稿者:Keen  投稿日: 8月28日(土)12時06分11秒

『春日井建の世界』(思潮社)

今度は、成功してますように。


新聞広告 投稿者:Keen  投稿日: 8月28日(土)01時00分24秒

『春日井建の世界』(思潮社)が、発売になったようですね。「現代詩手帖永久保存版」だそうですから、本多さんが寄稿された本は、きっとこれでしょう。書店巡りしないとな〜。

今日のじゃないけど、同じく新聞でひろったネタひとつ。「倫子」さんという女性の投書で、名前の漢字を説明するのに、かつては「倫理」でよかったのが、最近は「不倫」でないと通 じないんだそうです。なんともお気の毒な話です……☆
そのうち、「純子」さんも「純情」や「純粋」ではなく「不純」になってしまうんでしょうか?

純情といえば、京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)の木場修の旦那!関くんを抑えて、堂々の下克上でしたねー♪関くんも相変わらずでしたが、2作目とあって、キャラがそれぞれ動き始めたようですね。(^0^*
『姑獲鳥の夏』で免疫がついたのか、今度はけっこう楽しめました。今回確信を持ちましたが、京極さんって本歌取りの名手なんですね。ネタバレしそうですが、出だしからいきなり江戸川乱歩「押絵と旅する男」、中井英夫『悪夢の骨牌』の「ヨカナーンの夜」の口上で始まったように感じたのです。名作を下敷きにしつつも、きちんと自分の世界を構築して、読者を一気に引き込んでしまう手際が鮮やかでした。他にももっと沢山あるのでしょうが、これらはマニアックなおまけ、というところでしょうか(笑)。
例によってすごーくフェアなので、クライマックスが長丁場すぎて、緊張感が続かないようにも思いました。もちろん、面 白かったんですけども。

で、続きも買ってあるんですが、あんまり続けて読むと妖怪あたり(笑)しそうなので、ちょっと休憩してかわいく『北野勇作どうぶつ図鑑』シリーズ(ハヤカワ文庫)や、団鬼六『美少年』(新潮文庫)など読んでます。(^0^*
『美少年』は、懐かしいなあ(※MENUの「ネットゼミナール楽古堂」参照)。初読時はひっくりかえりそうになりましたが、今はヘーキです。団さんらしい表現やオチのつけ方に、笑ったりしてます。「花園」に通 ううちに、耐久力ついたんでしょうか(笑)。

憑き物が落ちて以来、暗合が起こらなくなったようです。とか安心してたら、いきなりデカいのが来たりして。
では、お休みなさい。


「自己決定権」の罠(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時18分2秒


 時雨さま

・・・とまあ、なんだか園主様がご覧になったら「それ見たことか!」とおっしゃりそうなことになっています。

 それ見たことか!

> 東浩紀『波状言論臨時増刊 美少女ゲームの臨界点』134Pより

> それがわずか二年でこうでしょう。いろいろ考えがあるんでしょうけど、往復書簡の相手としては愉快なわけがない。笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。

東さまなら、笠井潔に「そのようなもの(=信念)」の無いことくらい、重々承知しているはずなのに、……わざと、ボケておられるのでございましょうな(笑)。

> 『ファウスト』そのものには期待しているけど、舞城さんと佐藤さんと西尾さんの一人でも『ファウスト』に掲載されないようになったら、僕も書かなくなるでしょう。こういう発言が多少はカウンターとして効けばいいんでしょうけど、まあ、二十万部(『空の境界』の公称売り上げ)の前では蟷螂の斧か(笑)。

私は、『蟷螂の斧』であることを気にいたしません。それはちょうど、いま読んでいる『チェ・ゲバラ伝』(三好徹・文春文庫 絶版)で紹介されている、カストロの次のような宣言に近い、確信を持っているからでございます。

  『「私を断罪せよ。それは問題ではない。歴史は私に無罪を宣告するだろう!」』(P95)

つまり、――私のことを無名だと思って、その批判を所詮は『蟷螂の斧』だと、無視したり鼻で笑ったりするがいい。しかし、歴史は私の「笠井潔批判」が正しかったことを、近い将来、かならず宣告することになるだろう――ということでございます。

> ちょうど現在「新伝綺」の考察と、その続編として『空の境界』解説の論考を含めた笠井潔と「新伝綺」の関係考察を考えておりましたので(なんだかこんな事ばっかり言ってる気がする・・・、園主様、はらぴょん様、遅筆でごめんなさい!)、今回の内容は大きく活かせると思います。


期待しております。頑張ってくださいまし。



 ホランド

> それと予告編でやっていた『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』(エロール・モリス監督)も気になりますよね。

うん。それも気になるけど、同じく予告編でやっていた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督)の方が気になって、やっと今ごろ『チェ・ゲバラ伝』なんか読んでるんだ。

言うまでもなく、この映画は、他国キューバの革命に身を投じ、革命を成功に導いて、高い地位 を得ながらも、その地位を捨てて、また別の国の虐げられた民衆を助けるため、再びゲリラ戦にその身を投じ、革命家として生き、革命家のまま死んでいった、『世界で最も美しい革命家』エルネスト・チェ・ゲバラの、若き日の旅行を描いた作品だ。

この映画にも描かれているとおり、ゲバラは幼い頃から放浪の旅を好み、その過程で、イギリスやアメリカなどの帝国資本に虐げられて生きる、南米各国の貧しい庶民の悲惨な生活をつぶさに見、時にはその身に体験したんだ。つまり、後の「革命家チェ・ゲバラ」の原点となった体験が、この映画には描かれている。

私もこの歳になると、「如何に生きるか」ということよりも、「如何に死ぬ か」ということの方が、気になりだしてきた。その意味で、ゲバラの「ゲリラとして、その屍をジャングルに曝す」という死に方は、なんとも憧れを感じるんだよ。それに、私はもう、ゲバラが没した年齢を超えてるんだからな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「自己決定権」の罠(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時17分24秒


 Keenさま

>> 主よ、心弱きユダの子にその憐れみを垂れたまえ ―― 三浦しをん批判

> かの愛の名作『愛と誠』(原作・梶原一騎、作画・ながやす巧/講談社)で早乙女愛が、ぐれてしまった「現在の誠」の中に、少年時代に命懸けで自分を救ってくれた「白馬の騎士」としての誠が今もまだ生きている、と信じて尽くし、愛し続ける姿がここにあります。

不覚にも私は、その「連想」を思いつきませんでしたが、過分な「解説」を、誠にありがとうございました(笑)。

> ところで園主さま、

>> その証拠に42歳の今も独身である。

> あれ?まだ8月ですよ、1つ多めにサバ読んでるんじゃあ……?
> なーんて尋ねたら、

>  榎木津は紅茶を一気に飲み干して、
>  「馬鹿者。覚えている訳ないだろうが」
>  と云った。
>  (京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)より引用)

> という展開になるんでしょうね(笑)。

正解でございます。――今年は「厄年」だということしか念頭になく、自分が何歳だったのかは、ハッキリ覚えてなかったのでございますね。計算するのは面 倒だし(笑)。

ちなみに、常連さま以外の方のために、ご説明しておきますと、これは「加齢による記憶力の減退」などではなく、昔からの私の特徴なのでございます。つまり「興味のないことは、まったく覚えられない」のが、私なのでございます。そんなわけで、

>  「馬鹿者。覚えている訳ないだろうが」

なのでございます(笑)。

ま、ともあれ、私の指摘が正しいか否かは、この先の三浦しをんの仕事ぶりでハッキリいたしましょう。もちろん私は、三浦しをんのファンとして、私の危惧のはずれることを、心から願っているのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(7)」につづく)


「自己決定権」の罠(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時15分24秒


なお、驚いたことに――と言っても「必然」なのでございますが(笑)、小松美彦は、私が斎藤貴男の『機会不平等』を論じて(「見たくない現実」との戦い)書いたのと、そっくりな言葉を、『自己決定権は幻想である!』の終盤に、次のように記しております。

『 私が、自分の主張を、「呼びかけ」や「願い」として語ってきたつもりであることは、これまでにも述べてきました。この気持ちの底には、一般 化や抽象化は決してすまいという気持ちがあるわけですが、そのために、実際の議論の場や先端医療の場では、普遍化され抽象化された議論のもつ勢いに、いたしかたなく押されている一面 もあります。議論だけではなく、実際の脳死・臓器移植も私の批判とは反対の方向に進んでいますし、その他の先端医療の問題にしても同じような側面 があるわけです。
 私はそのことを踏まえて、私は負けるかもしれないとか、いずれは負けるだろうということを、これまで随所で言ってきました。これは、自分としては負けるかもしれないけれど言い続けていくという、私なりの決意表明のつもりですが、これをニヒリズムではないか、敗北主義ではないかと捉える人がいます。しかし、私の考え方はニヒリズムなどではありません。
 ニヒリズムというのは、本来、ニヒルに構えて何もしない態度のことを指して言う言葉です。どうせ駄 目だからと、斜に構え、腕を組んで、含み笑いをしながら、達観を装う態度のことです。
 私はたしかに負けるだろうとは思っていますが、生きている限り自分の主張をし続けていこうと少なくともいまは思っていますし、その意気込みだけはあると思うので、ドン・キホーテではないにしろ、ニヒリストとはむしろ反対だと思うのです。その意味では(※ 『高瀬舟』で、安楽死を美しく肯定的に描いた)森鴎外の方が、よほどニヒリズムを隠しもっているような気がする。
 最近、私なりの反ニヒリズムを歌ってくれているような詩を発見したので紹介します。抵抗の詩人と言われた、故・金子光晴の作品です。


        *

     反対

  僕は少年の頃
  学校に反対だつた。
  僕は、いままた
  働くことに反対だ。

  僕は第一、健康とか
  正義とかが大きらひなのだ。
  健康で正しいほど
  人間を無情にするものはない。

  むろん、やまと魂は反対だ。
  義理人情もへどが出る。
  いつの政府にも反対であり、
  文壇画壇にも尻を向けてゐる。

  何しに生まれてきたと問はるれば、
  躊躇なく答えよう。反対しにと。

  (※ 中略)

  人がいやがるものこそ、僕の好物。
  とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。

  僕は信じる。反対こそ、人生で
  唯一つ立派なことだと。
  反対こそ、生きてることだ。
  反対こそ、じぶんをつかむことだ。

     ――初期詩篇、『金子光晴抄』(冨山房百科文庫49、一九九五年)より』(P191〜195)

つまり、小松美彦もまた、中井英夫や大西巨人や斎藤貴男と同じ『生き方がバカ正直で、へたくそな』男なのでございます。本人は謙遜なさっていますが、彼は、私が『ドン・キホーテ』と呼んだ、不利な戦いに自分を賭ける「バカの戦列」に加わった、同志の一人なのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(6)」につづく)


「自己決定権」の罠(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時14分17秒


また言うまでもなく、私が小松美彦の立場に対し共感する一方、笠井潔を葬送しようとまでするのも、決して故なきことではない。つまり、〈「反・新自由主義」「反・新保守主義」→斎藤貴男→小松美彦→中井英夫(反世界)→私→「反・新自由主義」「反・新保守主義」〉という系(=輪)と、〈「自己決定権」「自己責任」→笠井潔→「エリート主義」「権威主義」→「新自由主義」「新保守主義」→「自己決定権」「自己責任」〉という系(=輪)とは、根本的に対立しており、まったくの別 系統を為している、ということなのでございます。だからこそ、私はこんな意外なところで思いもかけず、中井英夫の賞讃者に、ばったり出会ったりすることも可能だったのでございます。つまり、こうした「出会い」や「つながり」というものは、決して「偶然」の産物なのではなく、「必然」によってもたらされたものだ、ということなのでございます。

ともあれ、このようなわけで、「自己責任」「実力主義」を標榜する笠井潔の本質が、案外、「自己責任」や「実力主義」「結果 主義」を表看板にして、弱者を切り捨てようとする、エリート主義の「新自由主義」者、つまり今のアメリカや我が国の支配者層に近いものである、という事実は、知っておいた方が良うございましょう。

例えば、彼らはこう言って、きっと自己の責任逃れを謀ることでございましょう。曰く、

「たしかに私は、奈須きのこの『空の境界』の解説を書いて、この小説の持つ意味を語り、その部分を賞揚した。しかし、この作品が、すべての読者を楽しませるようなものだと、保証した憶えはない。その本を買うか買わないかは、消費者の自己決定権に任されているのだから、自分に合わない作品を買ったのだとしたら、それは購入者本人の自己責任の範疇であり、解説者の私には関係のない話だ。貴方に、買えと言った憶えは、私にはない。貴方が、自由に買ったのだ」

「自己決定」は事実行為でございますが、「自己決定権」は幻想であり、それは現状において、本来一定の責任を担うべき立場の者の「責任逃れ」の道具にされております。ですから、「自己決定=自己責任」という欺瞞の論理に欺かれることなく、私たちは「生きる上での、当然の営為」としての「自己決定」をなさなければなりません。それは他者を「免責」させるものではなく、誰もが否応なく引き受けていかなければならない、自明の大前提的営為でしかないのでございます。

ともあれ、私たちは賢明でなければなりません。そして、人々の生を不当に搾取する者たちの欺瞞を鋭く見抜き、それを告発しなければならない。それは我々の自衛手段であり、避けられない営為なのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(5)」につづく)


「自己決定権」の罠(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時13分27秒


その証拠に、小松美彦は、この『自己決定権は幻想である!』で、人間の「死の問題」を論じて、そのひとつの答を、中井英夫の言葉のなかに見い出すのでございます。

『 ある日、テレビのスイッチをつけたときのことです。『人は死んではならない』で、後に「〈死者との連帯〉」へ』という語り下ろしの対談をお願いすることになる、歌人の福島泰樹氏が、スタジオで、ある亡くなった女性の思い出話をしていました。
 そのときに、これも亡くなってしまった作家の中井英夫の逸話が出たのです。かつて、中井は自分の文学上の盟友の今際に駆けつけたとき、衰弱した盟友に、「人は死んだらどこへ行くのか」と聞かれ、答えることができなかった。盟友が亡くなった後もずっとそのことを悩み続け、答を見つめられないまま、やがては自分の番がやってくる。そして、病床で、自分に寄り添ってかいがいしく世話をする人に向かって、ほとんど遺言のように、「わかった。人は死んだら、残された者の心の中に行くんだ」と言ったというのです。
 私はこの言葉に衝撃をうけました。私は浄土真宗の檀家の一人ですが、それまで死んだら極楽や地獄へ行くと思ったことはありませんし、また神のもとに行くと思ったこともありません。「土に帰る」と言われれば「ああ、そうか」と思うけれども、それで納得していたわけでもありませんでした。しかし、そのときにはじめて、なるほどと思いました。「死は共鳴する」という、自分が作り出したいささか戦略的な言葉と、「人は死んだらどこへ行くのだろう」という年来の恐怖とが、一挙につながったと感じたのです。ですから、手元にあった紙を手繰り寄せ、私は、大急ぎで中井英夫の言葉を書きつけました。「人は死んだら、残された者の心の中に行く」と。私は「死は共鳴する」という自分の言葉が、誰かが死んだら残された者の心の中に行くという、たったそれだけのことを言っているに過ぎないということに、いまさらのように気がついたわけです。
「死は共鳴する」という言葉には、近代化され、抽象化され、生理学化されてしまった死とその認識に対して、それは過ちだということを指摘する、キャッチ・コピーという面 があります。ところが、それを訴えてきた当の本人が、まさにそのことによって、自分の思考の深まりを停止させ、自分が最も嫌う、抽象化による思考の停止をひき起していたわけです。有体に言って、いい気になっていたと言わざるを得ない。私は、福島さんが語った中井の言葉に感激しただけではなく、そのことにも大きな衝撃を受けていたのだと思います。』(P171〜172)

中井英夫の、素朴と言えば素朴な「死」観を、小松はここまで深く謙虚に受けとめております。そしてこれは、老いさらばえた中井英夫の姿にショックをうけて、健康のためにスキーを始めた笠井潔とは、たいへんな好対照、雲泥の差だと申せましょう。

たしかに笠井潔も、『哲学者の密室』で、レヴィナスの思想を援用して、「死に先駆」しようとしたハイデガ−の思想を乗り越えようといたしました(そして、乗り越えたつもりでございました)。つまり、「私の死」は、私の所有物ではないということは、頭では理解できていたはずなのでございます。しかし、笠井は、自身を、「自己責任」主義者であり、自己責任の引き受け得る人間だ、と勘違いするような蒙昧さを持っておりましたから、ついつい「自己責任権」を振り回し、「自殺権」などということを、むしろ自慢げに口走ったりしたのでございます。つまり、そうした心性は、自らが批判して見せたハイデガ−にそっくりな、現実性のない(身の程を知らない)、幼いヒロイズムでしかなかったのでございますね。

そんなわけで、こうした笠井潔と小松美彦とが対立するのも当然なら、中井英夫に縁の深かった笠井潔が、中井の死後、その評価を下方修正する一方、面 識のなかった小松の方が中井英夫を絶賛したというのも、決して故なきことではないのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(4)」につづく)


「自己決定権」の罠(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時12分12秒


ともあれ、ご存じのとおり、笠井潔は、

  
  『自分と、自分が生きているこの時代を直接的に描いてみたい。
   そんなモチーフから、私立探偵飛鳥井をめぐる物語が構想された。
   作者と同年齢に設定せれている飛鳥井は、
   「自業自得の潔さ」において生きるという個人主義的信条においても、
   作者の現在が投影されたキャラクターといえるだろう。
                               笠井潔』

       (笠井潔『道〈ジェルソミーナ〉 私立探偵飛鳥井の事件簿
           初版単行本(1996年10月30日 第一刷発行)・帯文全文)



などという自慢話をしたがる、自称「自己責任」主義者なのでございますが、それは私が、拙論笠井潔が、真に望んだこと。で実証いたしましたとおり、無根拠な自家宣伝に過ぎないのでございますね。
例えば笠井潔は、自分が「文学賞」に無縁な立場にある時は、「身内で持ち回りするような文学賞」を否定批判しておりましたが、自分が関われそうになってくると、平然と「身内で持ち回りするような文学賞」を運営し、あるいは受賞する側に回ってみせた、典型的な「言行不一致の無責任言論人」なのでございます。
――まあ、それはおくとして、笠井潔のこうした「自己責任」主義者ぶりに目をつけて、対談をしたのが、小松美彦その人だったのでございます。

この対談は、後に小松の対談集『対論 人は死んではならない』(春秋社)に収められますが、私の知る限り、笠井潔の著作には未だ収められていない模様でございます。

しかし、残念なことに、私は小松の『死は共鳴する』も、この『対論 人は死んではならない』も、刊行当時に購入しておりながら、未読であり、かつ本が見あたらないのでございます。したがって、笠井潔と小松美彦との『対論』の内容は、両者の立場の相違から推測するしかないのでございますが、この対論は、十中八九、小松の側から仕掛けられた、批判的・論争的なものだったのでございましょう。それは『自己決定権は幻想である!』の内容からも、容易に推しはかれることなのでございます。

さて、ここまででわかることは、元「左翼」として「反体制」的なポーズを採りながらも、「自己責任」「実力主義」を標榜する笠井潔の本質は、案外、「自己責任」や「実力主義」「結果 主義」を表看板にして、弱者を切り捨てようとする、エリート主義の「新自由主義」に近いものである、ということでございますね。

言うまでもなく、「新自由主義」は、国家による「関税」などの規制を撤廃して、「自由」で「実力主義」的な世界市場を実現しようと訴える「グローバリズム(経済)」理論と繋がっており、この「強者に都合の良い、自由(=反・弱者保護)」は、「力がすべてである」と訴えるアメリカの「新保守主義」、つまり「ネオコン(=ネオ・コンサーバティブ)」とも、思想的に繋がっているのでございます。そして、笠井潔が『文の商人』を強調することや、ネオコンの論客たちが そもそも「転向左翼(=挫折した、元・左翼)」であったことなどを考えあわせれば、笠井潔とネオコンの思想家たちの共通 点は、なんら不思議なものではなくなってくるのでございます。

つまり、私が「今のアメリカ(の新保守主義)」や「グローバリズム」や「戦争」や、日本をも席巻している「新自由主義」に抵抗する心性と、笠井潔を批判し「葬送」しようとする心性とは、根底的には同じものだということなのでございますね。





( 以下は「「自己決定権」の罠(3)」につづく)


「自己決定権」の罠(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月25日(水)21時10分37秒

みなさま、過日、私は、斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読みましたが、それに続いて読んだのは、小松美彦の『自己決定権は幻想である!』(洋泉社新書)でございました。
どういう流れかと申しますと、――斎藤貴男の『機会不平等』で問題視されているのは、ひとつには、「新自由主義」政策下での「自己責任」の欺瞞でございます。では、その「自己責任」を問う場合の前提となる、「自己決定」の問題をどう考えれば良いのだろうか、と私は斯様に考えたのでございます。

小松美彦の意見は、いたってシンプルかつ本質的なものでございました。つまり、タイトルにもございますとおり、――『自己決定権は幻想である』、現実にあるのは、人間が生きていく上で、避けえずなされる「自己決定」であり、それは本来「権利」と呼ぶような「外から保証されるもの」などではない。したがって「自己決定権は認めよう。自由にやりなさい。しかし、その責任は自分で取りなさい」という今の日本政府の考え方は、人々の当然の営為たる「自己決定」を権力の介入から守るために「言あげ」した「自己決定権」を、逆手に取った、不当なものなのである。つまり政府は、個人の行動が自己決定に基づくものだからといって、その(政府の)責任を放棄したり、本人に押しつけたりすることはできない。政府は、すべての国民を(税金未納者も犯罪者も)守る義務があるのだ。だから、国民の方も、「自己決定権」を逆手に取った、政府のレトリックに引っ掛かってはならない。今どき「自己決定権」が云々される場合は、その裏にまったく別 の「思惑」のあることを慮るべきであろう。―― という主旨の内容でございました。

小松の意見については、私もまったく賛成でございますから、これに特に付け加えるべきことはないのでございますが、ただ「面 白いつながり」が、私と小松美彦の間にございましたので、その点について、少々書かせていただきましょう。

私が、小松美彦の存在を知ったのは、「脳死・臓器移植」問題が世間の耳目を集めていた頃でございます。「自己決定権」という美名に流され、世間が「臓器移植」に都合のよい「脳死を、人の死とする」意見に、傾きかけていた当時、小松はその著書『死は共鳴する ――脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房)で、そうした流れに、敢然と「否」を叩きつけていたのでございます。

ご存じのとおり、わが笠井潔は、その著書(でありトンデモな)『国家民営化論』(光文社 知恵の森文庫)で、――国家は文化指導一切せず、倫理は各個人に完全に委ねられ、安楽死も自殺も「自己決定権」の行使として自由であり、売春も性サービス業として認められ、犯罪被害者およびその遺族には、加害者への「決闘権」が認められる、――というような、笠井潔流の「国家民営化論」を展開いたしました。

架空の話としては「なかなか面白い」のでございますが、 この国家論がトンデモであるというのは、そもそもこれが、「国家」というものの本質からはずれた立論であり、現実性皆無の「与太ばなし」に過ぎないからなのでございます。言うまでもなく、国家とは、善かれ悪しかれ「国民」をコントロールし、管理しようとするものなのでございますね。それが「教育」などの『文化指導』を手放すことなど、絶対にありえないのでございます。





( 以下は「「自己決定権」の罠(2)」につづく)


訂正 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)01時58分39秒

ミスしました。
0時21分投稿の「木の葉と扉の鍵」はその次の「木の葉と扉の鍵(2)」に投稿内容がかぶっています。
無視して次の書き込みを読んでください。
正確なナンバリングは0時37分の投稿が(1)になります。
園主様、いつもお手間をかけて申し訳ありません。

※ 本件は訂正済みです。2004.9.3管理人


木の葉と扉の鍵(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)01時15分19秒

以上、『波状言論臨時増刊 美少女ゲームの臨界点』134Pより

・・・とまあ、なんだか園主様がご覧になったら「それ見たことか!」とおっしゃりそうなことになっています。どうもこれを読む限り、以前僕が賛成しかねると発言した奈須きのこのデビューに関する園主様の推測は、かなり真相に迫っているようですね。
これから『ファウスト』はどこへ向かうのか・・・ジャンル?の一読者として、興味深く見守らせていただきますか。
ちょうど現在「新伝綺」の考察と、その続編として『空の境界』解説の論考を含めた笠井潔と「新伝綺」の関係考察を考えておりましたので(なんだかこんな事ばっかり言ってる気がする・・・、園主様、はらぴょん様、遅筆でごめんなさい!)、今回の内容は大きく活かせると思います。

それでは皆様、良い夜を。


木の葉と扉の鍵(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)01時00分38秒

(続き)

東:確かにTYPE-MOONが抱える資産は大きいと思う。けれども、太田さんも笠井さんも美少女ゲームのユーザーじゃない。今だから言うけど、彼らに『月姫』や奈須さんの名前を教えたのは僕と佐藤君(注2)です。しかも笠井さんは、僕との往復書簡『動物化する世界の中で』で、1980年代の自分の伝奇小説について、あれは「退却」だったとはっきり書いている。むしろ僕の方が、再評価してほしいと書いているぐらいなんです。それがわずか二年でこうでしょう。いろいろ考えがあるんでしょうけど、往復書簡の相手としては愉快なわけがない。笠井さんと太田さんは、これからがんがん「新伝綺」を盛り上げて、『ファウスト』の部数を倍増させていくつもりなのかもしれないけど、その背景に信念があるようには見えない。
『ファウスト』そのものには期待しているけど、舞城さんと佐藤さんと西尾さんの一人でも『ファウスト』に掲載されないようになったら、僕も書かなくなるでしょう。こういう発言が多少はカウンターとして効けばいいんでしょうけど、まあ、二十万部(『空の境界』の公称売り上げ)の前では蟷螂の斧か(笑)。更科さんのおっしゃる通 りですよ。
(以下略)

注1:編集者兼ライターの更科修一郎氏。詳細はttp://d.hatena.ne.jp/cuteplus/000000
注2:小説家の佐藤友哉ではなくこの座談会の参加者でもあるライター・佐藤心氏のこと。
詳細はttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%ba%b4%c6%a3%bf%b4


木の葉と扉の鍵(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月24日(火)00時37分36秒

どうも、ご無沙汰しておりました。
さて、今日になって以前少し言及した東浩紀さんの同人誌が手に入りました。
内容は美少女ゲームへの評論や関係者へのインタビューなどで本来こことは関係のないものですが、最近の笠井潔とファウストに言及した箇所がありなかなか興味深い内容だったので転載させていただきます。座談会の中での発言になります。ちなみに()内は僕の補足です。

(ファウストは厳しい方針選択を迫られている、という東の発言を受け)
更科(注1):SFが嫌いでミステリも苦手なんだけど、伝奇は好きだから「新伝綺」という方針自体はありがたいと思っています。
(中略)
ただ『空の境界』の笠井潔さんの論だけだと、どうしてもスポイルされているものが出てきてしまうんです。だからどこかでカウンターを当てていかないと、そろそろ危険な感じはしますよ。
東:同感ですね。このところの笠井さんの動きはおかしいし、それに乗っちゃう(ファウストの)太田編集長の動きにも疑問がある。この座談会が活字になる頃には出てるはずだけど(座談会は7月4日に行われた)、『ファウスト』第三号は、第二特集が「新伝綺」で、そのあおりで舞城さんも左藤さんも滝本さんも表紙に名前が載ってない。しかも、元長さんや原田さんの作品は伝奇というわけでもなくて、「新伝綺」という名称は奈須さん一人のために作られたものです。これは太田さんも言っている。つまり、奈須さん一人のために舞城や佐藤を表紙から追い出したわけだけど、これはつい一年前、太田さんが「この雑誌は舞城と佐藤と西尾のものですから」といっていたのを知る僕からすると、ちょっと考えられない方針転換なんですよ。


逆転する愛と誠! 投稿者:Keen  投稿日: 8月23日(月)17時16分6秒

>「主よ、心弱きユダの子にその憐れみを垂れたまえ ―― 三浦しをん批判」

ぬおおおぉぉぉっ!出たあ〜!アレクセイの愛の鞭!!

>だから、私は単に「『ビック』になった、今の三浦しをん」を裏切り者として責めたいのではない。むしろ今の彼女が「痛ましい」のだ。

かの愛の名作『愛と誠』(原作・梶原一騎、作画・ながやす巧/講談社)で早乙女愛が、ぐれてしまった「現在の誠」の中に、少年時代に命懸けで自分を救ってくれた「白馬の騎士」としての誠が今もまだ生きている、と信じて尽くし、愛し続ける姿がここにあります。
誠の場合、ぐれるに至るまでの様々な事情があったため、まあ意識的に「ぐれた」のだけれど、三浦しをんに関して言えば、園主さまの指摘する「裏切り」について、本人は無意識である可能性が高いように思います。あるいは一読して、「こんなの言いがかりよ!」と否定したくなるかもしれませんね。
しかしそこで立ち止まって自らを省みるかどうかは本人次第。時間とともに、人間は善くも悪くも変化します。「人柄が魅力的」というのは、その人が自分に正直に生きていることの証でしょう。そしてそれはしをんさんだけの話ではなく、大人になるにつれてかつての自分を裏切っている部分は、誰にでも多かれ少なかれあるのではないでしょうか。気づいていないだけで。

ところで園主さま、

>その証拠に42歳の今も独身である。

あれ?まだ8月ですよ、1つ多めにサバ読んでるんじゃあ……?
なーんて尋ねたら、

  榎木津は紅茶を一気に飲み干して、
  「馬鹿者。覚えている訳ないだろうが」
  と云った。
  (京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫)より引用)

という展開になるんでしょうね(笑)。
京極さんの感想は、いずれまた。

☆ホランドくん

>そういう露骨なことを平気で口にできるというのは、Keenさまが「おばちゃん」化している証拠ですよ(笑)。

これをまたは「乙女なげやり」化とも?(笑)


文体 投稿者:園主  投稿日: 8月22日(日)22時48分27秒

みなさま、本日は、書き下ろしの論文をアップさせていただきました。タイトルは、

 ・ 主よ、心弱きユダの子にその憐れみを垂れたまえ ―― 三浦しをん批判

でございます。
ちなみに、本論文の締めくくりの言葉は、

『この文章は「三浦しをん批判」であると同時に、三浦しをんへの「最大のオマージュ」なのである。』

というもの。つまり、かなり厳しい批判が展開されているということでございます。

ですが、もちろん、ただ単に、いやな気分になる批判論文とはなっていないものと存じますので、三浦しをんの読者であるなしにかかわらず、多くの方に「自分の問題」として、お読みいただければ幸いでございます。





 Keenさま
> 私も、よく「見えてない」ことあるんですけどね(笑)。だから『姑獲鳥』は、他人事ですまないところがあって……

何度も推敲した文章に、後になってから、単純な誤字脱字なんかを見つけますと、本当に「見えてない」んだということを、痛感いたしますよね。「あれだけ読み返したのに、どうしてこれを見落としたんだ?」と、愕然といたします。



 ホランド
> みなさん、こんばんは! 今日(8/21)は園主さまと『華氏911』(マイケル・ムーア監督)を見てきました。

私は、昨夜から今日にかけて、上にリンクの張ってある「『華氏911』オフィシャルサイト」の掲示板『華氏911』異論反論! BBSで、とても楽しく議論させてもらったよ(笑)。

この掲示板の書き込みを、いろいろ読ませてもらって感じたのは、「主張内容」よりも、むしろ「文体(語り口)」にこそ、その意見の真価がよく表われているとことだ。つまり、誉めるにしろ貶すにしろ、中味のない意見には「文体」が無く、ただ「紋切り型」と「断言」があるだけだ、というのが、とてもよくわかった。

「文は人なり」という言葉は、ややもすると「文章の内容が人柄を表わしている」という意味に取られがちだけど、この言葉の真意は、やはり「文体は人柄の反映である」というところにあるんだろう。つまり「中味」だけではダメだし、それでいて「文体」は誤魔化せない、ということなんだろうな。――自戒しなくては(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


「啓蒙」は過去のものではない(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月22日(日)00時34分53秒


 園主さま
 今日はありがとうございました。『華氏911』、日本でもヒットしてくれるといいですね。

 それと予告編でやっていた『フォッグ・オブ・ウォー/マクナマラ元米国防長官の告白』(エロール・モリス監督)も気になりますよね。ケネディとジョンソン政権下で国防長官などをつとめ、キューバ危機やベトナム戦争に深くかかわった、ロバート・S・マクナマラ。

 この映画は、「アメリカがベトナムに介入したのは間違いだった」という主旨のことが書かれていて、刊行当時、アメリカ本国で大変な話題を巻き起こした『マクナマラ回想録 ベトナムの悲劇と教訓』(共同通 信社)を下敷きにして作られた映画なんでしょう。
 でも、この本については、ノーム・チョムスキーが、辺見庸さんとの対談で言っていましたよね。

『タカ派の人びとは、マクナマラを裏切り者と批判した。ハト派の知識人たちは、喝采した。なぜならマクナマラが最終的に、ハト派正当性を認めた、と言っているからです。しかし、ハト派が自らの正しさを認めてもらえた、と感じたその本にマクナマラはいったい何を書いていたのか。彼はアメリカの人民に対して謝罪しました。だが、ヴェトナム人民に対しては? 何もなしです。彼はアメリカ国民に謝罪した。それは、あれが多大な犠牲を払う戦争になることを、然るべき段階で発表せず、そのために、国民に苦痛をもたらしたからです。こういうことならナチの将軍にだって書ける。スターリングラ−ド包囲のあとで、戦争はコストがかかることを早く言わなかったから、とドイツ国民に向かって謝罪するようなものだ。あるいは日本軍の将官が、「真珠湾攻撃などするんではなかった。ああいう結果 招くとは」と言うようなものです。マクナマラの謝罪は、そういう類い謝罪なのです。
 しかしおもしろいことに、鳩派の知識人達はこれで自分達の正当性が証明されたと感じた。ハト派の知識人というのがどういう者たちだったか、これでよくわかるでしょう。彼らは決して戦争そのものに反対していたわけではなかった。戦争の進め方にコストの面 で異論を唱えていただけなんです。まさに衝撃的ですよ。民衆は(知識人と考えが)違っていたのです。』
           (『メディア・コントロール』(集英社新書)所収
                「インタビュー 根源的な反戦・平和を語る」より)

 こういう視点も忘れないようにして、この映画の「立ち位 置」をチェックしてみたいですね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


「啓蒙」は過去のものではない(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月22日(日)00時23分27秒


 Keenさま
> あ、ゴメンゴメン、もっと直截に『受けキャラ』って言った方がよかった?それとも『攻め』がお好みかしら?ほほほ。

 そういう露骨なことを平気で口にできるというのは、Keenさまが「おばちゃん」化している証拠ですよ(笑)。

 ちなみに、似たような言い回しで、こんなのがありましたね。

 『この国にも警察があってね…もっとも、より優雅に衛士と呼んでいるがね』
               (宮崎駿監督『ルパン三世 カリオストロの城』より)


>>『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)

>「年の功」で、語られている内容自体は私にはさほど目新しくなかったのですが、関くんの反応がいちいちカワイイんですよ〜(笑)。

 たしか『姑獲鳥の夏』の前振りは、「量子力学的世界像」がらみでしたから、もろに竹本健治の守備範囲ですよね。「そのくらいで、いちいち驚くなよ」って、竹本ファンなら、つい思っちゃう(笑)。



 アマデウス耿乃介さま
>> それにこの人は『アマデウス』で(笠井潔、じゃなくて)サリエリを好演した人でもあります。名優なんですねー。

>  おーっと、違いますよホランド氏♪
>  『アマデウス』でサリエリをやったのは、F・マーリー・エイブラハムという人です♪
>  こちらは『薔薇の名前』なんかにも出てますな♪
>  名優です♪

>  ベン・キングズレーの他の代表作は、有名なとこでは『シンドラーのリスト』、あとはポランスキーの『死と処女』なんかでしょうか♪
>  『スニーカーズ』『デーヴ』なんかも好きですが♪

 ひゃあー、どうしてあんな勘違いしたんだろう?! はずかしいーっ!

 とにかく、ご指摘ありがとうございました。
 指摘された後で考えてみると、ベン・キングズレーとF・マーリー・エイブラハムって、顔つきがかなり違いますよね。それなのに、思い込みが先行していたときは「役者って、化粧で別 人になっちゃうからなあー」なんて、認識の修正をしていました。

 どうして、この二人を混同したのかを、つらつら考えてみましたところ、

(1) ボクの個人的な印象として、どちらも「しぶい英国人俳優」というイメージがあった(事実は知りません)。

(2) ベン・キングズレーは『ガンジー』でガンジー役、つまり「坊さん」のかっこうをした「実在の人物」を演じ、『サンダ−バード』では「坊主頭の悪人」を演じた。一方、F・マーリー・エイブラハムは『アマデウス』でサリエリという「実在」の人物を演じ、『薔薇の名前』でもベルナール・ギーという実在の異端審問官、つまり「実在」の「坊さん」の悪役を演じた。

というようなことに気がつきました。

 つまり、このような共通点から、なんとなく二人を混同したのではないかというのが、ボクの自己分析による仮説なんですが、――どうでしょうか?(笑)



 はらぴょんさま
> 認識のシャットアウト現象について

> コリン・ウイルソンの『SFと神秘主義』(サンリオ文庫)のあとがき「霊的進化の視座」で、訳者の大瀧啓裕は次のような極端な例をあげて<認識のシャットアウト現象>の説明をしています。ローレンス・ブレアの『超自然学』によると1520年に、世界周航をめざすマゼラン率いるスペインの大型帆船四隻が、フエゴ島に辿りついたとき、フエゴ島民は当然視界に入っているはずなのに、これが見えなかったというのです。最初に気付いたのはシャーマンであり、シャーマンが注意を促すと、初めて島民は彼らの常識では考えられないものが、そこにあることに気付いたというのです。

 これは『認識のシャットアウト』、つまり「認識の完全遮断」で「見えない」という結果 をひきおこした事例ですが、ボクの「混同」の事例は、「思い込み」や「先入観」による、「認識の一部遮断と、その分の誤った補正」ということになるんでしょうね。





( 以下は「「啓蒙」は過去のものではない(4)」につづく)


「啓蒙」は過去のものではない(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月22日(日)00時22分11秒


 でも、もちろん、そんな「当たり前のドキュメンタリー」映画が、日米の「当たり前の市民(庶民)」には、とてもショッキングな内容になるのだろうなとは、容易に理解できました。
 例えば、ボクたちは、イラク戦争で両手両足を失ったアメリカ兵の「その後」はおろか、そういう兵隊がいることすら知らされていません。だから、その姿を剥きつけに見せられると、にわかに「戦争の現実」が立ち上がってきて、「ああ、やっぱり」と思わずにはいられないんでしょう。いくら大勢のアメリカ兵の死が知らされおり、したがって、それに倍する負傷者の存在を推測するのは「理の当然」だと言っても、そんな悲惨な負傷兵の姿は、やっぱり衝撃的です。
 こうした部分を、ブッシュ政権を擁護する側は「悲惨さをことさらに強調したものだ」なんて非難するんでしょうが、負傷兵の「現実」が衝撃性を持ち得るのは、まず彼らがそれを「報道管制」で、徹底して隠蔽したからに他ならないんですよね。
 それは、この映画の「泣かせ」の部分とも言われる「一人息子をイラク戦争で亡くした、(アメリカ人の)母親の嘆き」のシーンについても言えることでしょう。そういう人(遺族)がいるのは当然で、特に驚くほどの事実ではないはずなのに、その存在を隠蔽した結果 、それが明るみに曳き出されてしまうと、その「当たり前」の事象が、かえってショッキングなものとなってしまう。

 これは、この映画の最後におかれる「アメリカ連邦議会議員の子弟をイラクへ」のシーンにも言えます。
 ムーアは訴えます。「貧しい人たちの子弟が、さしたる見返りもなく、祖国のためにとイラクへ狩り出されるのに、連邦議会議員のなかで、子弟をイラクに送りだしているのは、たった一人だけだ」――たしか、連邦議会の議員数は150数名だったと思うのですが、たった一人の例外を除いて、誰も自分の息子や娘をイラクの戦場に送り出していないんです。そこで、マイケル・ムーアは、連邦議会の表で、出てくる議員にむかって「連邦議会議員が率先して、子弟をイラクへ送りだしましょう」と訴えるのですが、当然のことながら、誰一人として、それに同意する議員はいませんでした。
 これだって「当たり前のこと」であり、「戦争の常識」なんですよね。「戦争」を決定し指揮する人たちは、いつだって安全な本土に残り、地位 も財産もない一般庶民の子弟が兵卒として前線へと狩り出される。これは、近代の戦争においては、国を問わない歴史的な「常識」なんです。でも、そういうことを考えたこともなく、「テロリストを許すな!」とか「日本も、お金だけではなく、身体を張って国際貢献する必要がある」などという勇ましげな政治家の言葉に、自分の立場も忘れて熱狂するような「愚かな庶民」は、この映画で「偉い人たちの本音」を突きつけられて、ショックをうけることになるのです。

 さっきも紹介した「一人息子をイラク戦争で亡くした(アメリカ人の)母親」が、映画のなかで「なんて、みんな、無知なんだろう」と嘆くシーンがありましたけど、この映画が問題作扱いされるというのは、それだけ日米ともに「戦争というものの実態」に無知な人が多いということなんでしょう。ムーアがねらった客層は、まちがいなく、そういう「一般 大衆」だったのでしょうね。つまり、この映画は、文字どおりの「啓蒙映画」であり、そこにこそ、この映画の今日的な存在価値があるんだと思います。





( 以下は「「啓蒙」は過去のものではない(3)」につづく)


「啓蒙」は過去のものではない(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月22日(日)00時21分6秒

 みなさん、こんばんは! 今日(8/21)は園主さまと『華氏911』(マイケル・ムーア監督)を見てきました。初日なんで、それなりに入るだろうとは思ってたんですが、午前10時50分からの第1回の上映にあわせて、30分前に映画館へ行ったところ、なんとすでに立ち見券しかありませんでした。
 もともと110席とキャパは小さかったんですが、それでもまさか立ち見まで出るとは思わなかったので、「読みが甘かったなあ」とちょっと後悔。園主さまが「立ち見までは、したくない」と愛想のないことを言うので、けっきょく午後1時20分からの第2回の整理券つき鑑賞券を購入し、2時間半を書店の冷やかしと昼食で潰すことにしました。で、指定された上映20分前に映画館へ戻ったところ、やっぱりすでに第2回も立ち見しかなくなっており、ボクらが予想したよりも多くのお客さんが集まっていたようでした。

 で、肝心の内容はと言いますと、最後まで観おわって、「え、もうこれでお終い?」と、ちょっと意外の感にうたれました。前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』よりも、ずっと過激な内容だって聞いていたので、どんなことをしてくれるんだろうと期待していたんですが、ボクの印象では、いたってオーソドックスな「ブッシュ批判ドキュメンタリー」で、特に新しい内容も驚くような内容もなかったし、さらに言うと、ムーアらしいオチョクリも多少はありましたが、前作ほどムーアが全面 には出てこず、全体としては「徹底して集められた資料映像を、たいへん手堅くまとめたドキュメンタリー映画」という印象でした。

 でも、だからと言って、ボクはこの映画がつまらなかったと言いたいのではありません。たぶん、ボクがこのように感じたのは、前作を観て以降、「9.11」や「ブッシュ大統領(政権)」や「イラク戦争」や「イラク問題」等について、読書を通 してそれなりの知識を得ていたから、『新しい内容も驚くような内容もなかった』、むしろ「当たり前の事ばかり」で、特に過激でもなんでもないじゃないか、って感じたんだと思います。





( 以下は「「啓蒙」は過去のものではない(2)」につづく)



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