●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2004年8月中
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サリエリ、おかしいと思った(笑) 投稿者:Keen  投稿日: 8月20日(金)12時09分52秒

>見えないもの

私も、よく「見えてない」ことあるんですけどね(笑)。だから『姑獲鳥』は、他人事ですまないところがあって……

>「『虚無への供物』を語る」という特別番組が、「番組ピックアップ」の枠で流されるそうで、この番組には、綾辻行人や三浦しをんなどのほか、宇山日出臣や東雅夫といった、中井英夫に縁の深い人々が登場して、それぞれに『虚無への供物』への思いを語るそうでございます。

うわー、それ見たあ〜いっ!でも、ウチもCSないのねん。(T-T)
ご覧になった方は、内容ご紹介下さいませ。m(._.)m

>>『ジャーロ』
>『噴飯モノ』でございますか。それはとても気になりますなあー。まあ、単行本になるまでは読みませんが。

と、こう書いてしまうと先入観がつくので、きっと「噴飯」なさらないでしょう(笑)。でも、不満は持たれることと存じます。まあ、あと4回ありますから、まだわかりませんが。

>『萌える英単語もえたん』(三才ブックス)
>やおい系の『恋する英単語(恋たん)』(三修社)

う〜ん、「マンガで覚える世界史」とか、単なる語呂合わせの年代・単語暗記法は私も利用しましたからね〜。つまらない受験勉強を少しでも楽しくする方便としては、悪くない……カモ???それ以前に、勉強目的で買う人はいるのか???
それにしても、商魂逞しいですなー☆

あー、もうお昼だあー。チャオ♪


見えないもの(下) 投稿者:園主  投稿日: 8月20日(金)00時06分15秒


 はらぴょんさま
> 『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)

> おそらく、京極堂は、呪いの風習が根拠のない迷信であるように、祓いの風習もまた根拠のない迷信と考えているのでしょうが、いったん社会・心理的に、呪いの効果 が出るようになってしまった場合、これを鎮めるものは、逆の方向性を持つ迷信しかないと考えているのではないでしょうか。

おおよそ、そのとおりでございましょうね。ただ『これを鎮めるものは、逆の方向性を持つ迷信しかない』というのが、正解かどうかは、にわかに難しい問題でございます。

たしかに、それが「一番手っ取り早い方法」なのでございましょうが、「呪い―祓い」という系自体を全否定するやり方もございます。――と申しますか、それが「ごく一般 的なやり方」なのでございますね。つまり「そういう考え方自体が、非科学的だ」というような「言い方」でございます。
しかし、この「言い方」の問題は、この言い方の依拠してるもの(科学)への信憑それ自体が、しばしば如何わしいという点にございます。つまり、信じているもの、信憑しているものが違うだけで、その信じ方、信憑の置き方の「いい加減さ」に、大差のない場合が少なくないのでございます。
例えば、多くの人は、オウム信者の若者について「教団に洗脳された」と言い、この若者たちに対し「洗脳はずし」を試みました。しかし、「洗脳はずし」とは所詮「逆洗脳」のことであり、洗脳の依拠するもの、その方向性が違うだけなのでございますね。

つまり、話を「呪い―祓い」という系の中でおさめている限り、話が大事には到りませんが、なまじ「真理」や「現実」の方向へ解体しようなどとすると、「真理とは(現実とは)何か?」という泥沼にはまってしまう可能性が大きい。ならば、どうせ人は「いい加減な信憑」の上で平穏な生活を送っているんだから、それが嘘であれ何であれ、落ち着くところに落ち着けば良いではないか、というのが、「現実主義者(リアリスト)」である京極堂中禅寺秋彦の考え方なのでございましょう。

> コリン・ウイルソンの『SFと神秘主義』(サンリオ文庫)のあとがき「霊的進化の視座」で、訳者の大瀧啓裕は次のような極端な例をあげて<認識のシャットアウト現象>の説明をしています。ローレンス・ブレアの『超自然学』によると1520年に、世界周航をめざすマゼラン率いるスペインの大型帆船四隻が、フエゴ島に辿りついたとき、フエゴ島民は当然視界に入っているはずなのに、これが見えなかったというのです。最初に気付いたのはシャーマンであり、シャーマンが注意を促すと、初めて島民は彼らの常識では考えられないものが、そこにあることに気付いたというのです。

ちなみに、この逸話には、過剰解釈に耽りがちなオカルチスト大瀧啓裕らしい問題点がございます。その問題点とは、「見えない」ことと「見えないも同然(見えてはいるが、認識できていない)」を混同している点でございます。
前者は主に視覚的物理現象としての「見える・見えない」を問題としているのに対し、後者は認識論的事実としての「見える・見えない」を問題としております。このレベルの違う話を混同することによって、このように「魔法のような不思議な絵」を描くこともできるのでございますが、現実はそう「絵に描いたように鮮やかなもの」ではなかったと存じます。なぜなら、大瀧の挙げたこの事例には、「話を面 白くしよう」とする人間の欲望が、無意識のうちに働いており、それが両者を同列に論じる「レトリック」を呼び込んでいるのではないかと、私は斯様に思えるからでございます。



 アマデウス耿乃介さま
おひさしぶりでございます。ロムしていて下さったのでございますね(笑)。

> おーっと、違いますよホランド氏♪
> 『アマデウス』でサリエリをやったのは、F・マーリー・エイブラハムという人です♪

どうやらホランドくんも、「物語の欲望」つまり「話を面白くつくり過ぎる」欲望に囚われていたようでございますね(笑)。ご教示、ありがとうございました。



 ホランド
>  まもなく、マイケル・ムーア監督の『華氏911』が、大阪でも公開されます。日本では、どのくらいヒットするんでしょうね?

では、明後日の初日に、さっそく観に行こう!





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


見えないもの(上) 投稿者:園主  投稿日: 8月20日(金)00時05分29秒

みなさま、本日は、過日こちらに書かせていただきました斎藤貴男『機会不平等』の書評を、文体を改めた上で、

 ・ 「見たくない現実」との対決 ―― 斎藤貴男『機会不平等』

として、アレクセイ掌編集の方へ収めさせていただきました。「再度この文章を」とは言わず、ぜひこの機会に『機会不平等』をお読み下さい、と申し上げておきたいと存じます(笑)。


以前、NHKで放送された『薔薇の殺意〜虚無への供物』(中井英夫原作、深津絵里、仲村トオル他出演)が、「ミステリチャンネル」というCS放送で、9月に放送されるそうでございます。また、この放送にちなんで「『虚無への供物』を語る」という特別 番組が、「番組ピックアップ」の枠で流されるそうで、この番組には、綾辻行人や三浦しをんなどのほか、宇山日出臣や東雅夫といった、中井英夫に縁の深い人々が登場して、それぞれに『虚無への供物』への思いを語るそうでございます。

私のうちは、『スカパー!』とか「ケーブルテレビ」といったものを導入しておらず、残念ながら見ることはできないのでございますが、可能な方は、この機会にどうぞご覧になってくださいまし。





 Keenさま
> 『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)

> でも、導入部分(※やたらと長いのはお約束?/笑)のペダンチックな部分は、すんごおぉぉく面 白かったのです。それに、『薔薇迷宮』当時の「京極堂が楽古堂さまで、鬱持ちの関口が賢ちゃん、榎木津が園主さま」という刷り込みがあるせいで、必然的・不可避にその配役で読んでしまい、楽しさ倍増!だったんですう〜(爆笑)。

そうでございましょう。さらに続編まで読み進めていただければ、いかに私が「実在する榎木津礼二郎」であるかが、ご理解いただけるものと存じます(笑)。

>> 竹本健治周辺ではわりあい好意的に見守られている『ジャーロ』連載作品への著者自身による「挿絵」

> アレねえ……本文と挿絵の〆切が別々だったらいいのかもしれませんが(笑)。
> 「好意的に」というのは、絵の完成度にははなっから期待せず、ただただ「どんな風に描いてくれるのか」を見たい、ということなのではないでしょうか(残酷)。

私の場合、身も蓋もなく言ってしまえば、下手なもの(面白くもないもの)にかかずらわっている暇はない、といったところでございましょうか。

> 園主さまはまだ本文を読んでないと思いますが、私個人としてはある理由で、これは園主さまには噴飯モノだろうな〜、と予測しております(含笑)。

『噴飯モノ』でございますか。それはとても気になりますなあー。まあ、単行本になるまでは読みませんが。

> 実は先日『姑獲鳥の夏』を買った書店で、すんごい本を発見してしまいました。
> 表紙を見ただけですが、タイトルはモロ、

> 『ボーイズラブ小説の書き方 「萌え」の伝え方、教えます。』

私も見かけて手に取り、「おお、CDロムまで付いているではないか。なになに、投稿用のフォーマットがこれで一発。…う〜む」という感じでございました。

ちなみに、私はこの本よりも、ベストセラーになった『萌える英単語もえたん』(三才ブックス)にあやかろうとして刊行されたらしい、やおい系の『恋する英単語(恋たん)』(三修社)に呆れてしまいました。感想としては「なんだかなあー」といったところでございます。ハア…。





( 以下は「見えないもの(下)」につづく)


魔笛の調べに乗って 投稿者:アマデウス耿乃介  投稿日: 8月19日(木)23時50分8秒

>それにこの人は『アマデウス』で(笠井潔、じゃなくて)サリエリを好演した人でもあります。名優なんですねー。

 おーっと、違いますよホランド氏♪
 『アマデウス』でサリエリをやったのは、F・マーリー・エイブラハムという人です♪
 こちらは『薔薇の名前』なんかにも出てますな♪
 名優です♪

 ベン・キングズレーの他の代表作は、有名なとこでは『シンドラーのリスト』、あとはポランスキーの『死と処女』なんかでしょうか♪
 『スニーカーズ』『デーヴ』なんかも好きですが♪

 チャオ♪

http://www.ne.jp/asahi/chateaudif/toki0504/


正誤表 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月19日(木)23時37分21秒

只今の投稿の表題に誤りがありました。謹んでお詫びいたします。
(誤)認識のシャトアウト現象について 
(正)認識のシャットアウト現象について 


認識のシャトアウト現象について 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月19日(木)21時57分52秒

コリン・ウイルソンの『SFと神秘主義』(サンリオ文庫)のあとがき「霊的進化の視座」で、訳者の大瀧啓裕は次のような極端な例をあげて<認識のシャットアウト現象>の説明をしています。ローレンス・ブレアの『超自然学』によると1520年に、世界周航をめざすマゼラン率いるスペインの大型帆船四隻が、フエゴ島に辿りついたとき、フエゴ島民は当然視界に入っているはずなのに、これが見えなかったというのです。最初に気付いたのはシャーマンであり、シャーマンが注意を促すと、初めて島民は彼らの常識では考えられないものが、そこにあることに気付いたというのです。
『姑獲鳥の夏』のトリックの解明部分は、<フエゴ島の事例があるからね。実現性に乏しいとは言い切れないよね。>と自分に言い聞かせながら、読んだものです。

<不思議なことなどなにもないのだよ>という京極堂は、無神論的な合理主義者でありつつ、呪いのメカニズムを知悉して、これを祓う必要があると考えます。この態度の背景には、小松和彦の仕事があるように思います。
四国に伝わる<いざなぎ流>などのフィールドワークを通して、小松和彦は呪いのメカニズムに肉薄し、『憑霊信仰論』(講談社学術文庫)、『日本の呪い〜「闇の心性」が生み出す文化とは』(光文社文庫)といった著作を書きました。
小松和彦の仕事を念頭に置きながら、呪いのシステムについて考えてみましょう。例えば、丑の刻参りなど人を呪う風習は、根拠のない迷信なのですが、たとえば貴方が、自分を呪って丑の刻参りをしている人がいるということを人づてに聞いたならば、心理的なダメージを受ける可能性があります。その後、貴方の身に悪いことが起きた場合、丑の刻参りとの関連性で考えてしまう可能性があります。貴方の周りに、良いことも、悪いことも起きているとしても、悪いことだけが印象を強化されて、丑の刻参りと関連されて記憶され、こうした経験が蓄積されて記憶されてしまう可能性があるのです。こうして、心理的に病むと、次に心因性の身体疾患に発展してゆきます。身体の抵抗力が落ち、自然治癒力が弱まり、身体の変調(湿疹・悪寒・頭痛……)が起きる可能性がでてきます。
当初、根拠のない迷信であったものが、社会的な回路を通じて、貴方に伝えられると、それが現実に効果 のあるものに変化する可能性があるのです。これは、人間の心というものが、それ自体として独立してあるものではなく、社会的諸関係を反映してあるということの証しでもあると考えます。
おそらく、京極堂は、呪いの風習が根拠のない迷信であるように、祓いの風習もまた根拠のない迷信と考えているのでしょうが、いったん社会・心理的に、呪いの効果 が出るようになってしまった場合、これを鎮めるものは、逆の方向性を持つ迷信しかないと考えているのではないでしょうか。


書店にて 投稿者:Keen  投稿日: 8月19日(木)12時13分52秒

実は先日『姑獲鳥の夏』を買った書店で、すんごい本を発見してしまいました。
表紙を見ただけですが、タイトルはモロ、

『ボーイズラブ小説の書き方 「萌え」の伝え方、教えます。』

いやはや、やおい界にも「文章読本」が出現したわけですねえ。ということは、それほどやおい人口が増加しており、単に消費するだけでは物足りなくなった人たちもやはり増加している、ということなんですね〜。PCの普及で、個人HPに萌え小説を発表したい、という需要が多いんでしょう。
しかし古参の私としては、マニュアル化されたやおいなんて……と、口惜しい気もします。bk1の紹介ページのリンクをここに貼っておきますが、はたして「なぜ、なにに対して萌えるのか」、「萌えによってなにを描出したいのか」というところまで突っ込んで書かれているのだろうか?(←書かれてたりして……)ただ「萌え」のみに留まるならば、これを「動物化」というのか……東浩紀さんは的確ですねー。

☆ホランドくん

>あのねー、いくらなんでも『お相手キャラ』って言い方はないんじゃないですか? いやンなっちゃうなあー、もう・・・(-_-;)。

あ、ゴメンゴメン、もっと直截に『受けキャラ』って言った方がよかった?それとも『攻め』がお好みかしら?ほほほ。

>>『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)
>たしかに、あのトリックは「ちょっと待ってよ」って感じが無きにしも非ずでしたよね。ただ、前振りや伏線は厭ってほど張ってあったから、アンフェアではないと思いますよ。
>でも、あのトリックの最大の難点は、傑作短篇の前例があって、それに比較しちゃうと「あの長さをひっぱるほどのトリックじゃあないよなー」って感じはします。・・・京極さんって、結局は「本格」の人というよりも、文字どおり「落し話」の人なんじゃないかなあー(笑)。

それそれ。『前振りや伏線は厭ってほど張って』あるから、読者はわりに早くから察しがついてしまうのに、それこそ厭ってほど引っ張るところがもどかしいんです。その引っ張り具合が「ズルイ」と感じるわけですよ。でもこういう引っ張り方って、『君の名は』に代表されるような、ある種のお約束かも……(笑)

>> でも、導入部分(※やたらと長いのはお約束?/笑)のペダンチックな部分は、すんごおぉぉく面 白かったのです。
>そうなんですか。あそこで引っ掛かって読めないというのが、一般の人のようなんですが、さすがは竹本健治ファンですね(笑)。

「年の功」で、語られている内容自体は私にはさほど目新しくなかったのですが、関くんの反応がいちいちカワイイんですよ〜(笑)。でも、関くんも京極堂も、一応妻帯者なんですよねえ……う〜ん、それぞれどういう家庭生活を営んでいるのか、想像がつかないなあ。
やはり続きを読まないといけないか。また書店へ出かけるとしよう。


名優(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月19日(木)02時01分11秒


 はらぴょんさま
◆ ホランドさま
> 『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目、P217)の記載を忠実に引用すると、「一九八○年代のはじめに『堕天使の冬』の続編を二作出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」となっています。
> 引用が不完全だったために、誤解を抱かせてしまったようで申し訳ありません。ここで書かれている『堕天使の冬』は『バイバイ、エンジェル』、続編二作は『サマー・アポカリプス』と『薔薇の女』ということで、つじつまが合うと考えます。

 そうですね。それでスッキリしました(笑)。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思

 今日、本屋さんで見たんですが、偶然にも、徳間書店から「偽史」に関する(ちょっといかがわしい感じの)叢書が刊行されはじめたようですね。第一回配本として2冊出ていましたが、その2冊目の方の帯に「天皇家の天孫降臨の神話もまた偽史である。正史が存在しないからこそ、人は偽史を欲してしまうのだ」みたいなことが書いてありました。ちゃんと読まなかったんで間違ってるかも知れませんが、だいたいそんな感じで、なるほどって思ったのでした。

 左翼の人たちは、「偽史」に「偽史」で対抗したわけですけど、結局それって、偽史に裏づけられた「天皇家の権威」を認めるも同然なんじゃないかなあー。精神性としては「同じ穴のむじな」的と言うか・・・。



 園主さま
 今日はありがとうございました。
 『サンダーバード』は、評判が左程でもなかったので、あまり期待していなかったんですが、それがかえって良かったのかも知れませんね。

 ところで、ザ・フッドを演じたベン・キングズレーって、園主さまのお好きな『ガンジー』でガンジー役をやった人ですよね。おなじ坊主頭の東洋人役でも、今回はその名のとおり典型的な「悪玉 」を演じて、ずいぶん違った感じでした。それにこの人は『アマデウス』で(笠井潔、じゃなくて)サリエリを好演した人でもあります。名優なんですねー。

 まもなく、マイケル・ムーア監督の『華氏911』が、大阪でも公開されます。日本では、どのくらいヒットするんでしょうね?





 ではでは、みなさん、おやすみなさい。


名優(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月19日(木)02時00分21秒


 Keenさま
> それにしても、どうも最近、憑き物が良い方も悪い方も落ちてしまったような感じで、指がキーボード上で踊りません。それってつまり、萌えないってことなんだけど、こちらの原因のうちのひとつも察してないことはない……ホランドくんのせいなんだからー!
> ちょっと前に、はらぴょんさんとの会話で「脱・美少年」宣言してたでしょー?それじゃあ、この「花園」からめっきり萌え要素が減っちゃうじゃないのよ〜(怨み節)。
> 「アレクセイ」のお相手キャラなんて、他に今さら……(ブツブツ)

 あのねー、いくらなんでも『お相手キャラ』って言い方はないんじゃないですか? いやンなっちゃうなあー、もう・・・(-_-;)。


> 『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)を買い、一泊二日で読みました。

> 面白いけど、つまらないっ!引きつけられるけど、浸れないっ!フェアだけど、ズルイっ!
> どう評価していいのか、定まりませ〜ん(泣)。

> 確かに文章は抜群にうまい。内容がするすると頭に入ってくるので、速読も可能(笑)。でも、文面 から香気(妖気?)が立ち上ってくるほどの迫力が……感じられなかったのは、これが京極さんのデビュー作だからなのか、単に私が『虚無への供物』等の初読時より「年寄り」になってしまったからなのか?(←この可能性、大/泣)。

 その可能性、大(笑)。
 たしかに、あのトリックは「ちょっと待ってよ」って感じが無きにしも非ずでしたよね。ただ、前振りや伏線は厭ってほど張ってあったから、アンフェアではないと思いますよ。
 でも、あのトリックの最大の難点は、傑作短篇の前例があって、それに比較しちゃうと「あの長さをひっぱるほどのトリックじゃあないよなー」って感じはします。・・・京極さんって、結局は「本格」の人というよりも、文字どおり「落し話」の人なんじゃないかなあー(笑)。

 文体は、浸れると思うんだけど、ボクが読んだのがノベルズ版だからなのかな? 京極さんは文庫化にあたっても、かなり手を入れているから、もしかするとノベルズ版より文章が新しい分、初期の濃厚さが薄れてしまっているのかも・・・。

> でも、導入部分(※やたらと長いのはお約束?/笑)のペダンチックな部分は、すんごおぉぉく面 白かったのです。

 そうなんですか。あそこで引っ掛かって読めないというのが、一般の人のようなんですが、さすがは竹本健治ファンですね(笑)。

> それに、『薔薇迷宮』当時の「京極堂が楽古堂さまで、鬱持ちの関口が賢ちゃん、榎木津が園主さま」という刷り込みがあるせいで、必然的・不可避にその配役で読んでしまい、楽しさ倍増!だったんですう〜(爆笑)。関くん、カワイイっ!京極堂と榎さんの二人は、賢ちゃんじゃなくって関くんを、心配してるんだかいたぶってるんだか(笑)。

 いたぶることで、可愛がってるんでしょうね(笑)。でも、そのへんでも楽しめるんだったら、『魍魎の匣』に止まらず、『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』『絡新婦の理』と読むべきでしょうね。『狂骨の夢』では大爆笑シーンがあるし、『鉄鼠の檻』ではシリーズ屈指の(カッコイイ)名場面 もありますよ。

> ともあれ、第2作『魍魎の匣』を読んでみないことには落ち着かないのかもしれません。
> でも、次はもっとグロいとも聞くので、また同じ気分を味わうのはイヤだ〜、とも思うし、レギュラー陣のやりとりをもっと見たい気もするし、さらに厚さが増すから手が疲れそうだし……苦苦苦☆

 なんのあれしき。笠井さんなんて、『アトポス』(島田荘司)の単行本を読んで、腱鞘炎になったくらいなんですから(笑)。

> まあ、次は「ミステリ」だと思わずに読むことにしよう。実は私、竹本さんも笠井さんも、「ミステリ」に期待して読んだことないのです。ああ、これって、一番酷い批判になるんだろうか?

 どうかなあー、この3人では、京極さんが一番、ミステリにこだわりがないように思うんだけど。

> ああ、それにしても、最近スンナリと感動でき難くなったように感じるのは、やっぱり年の功罪なんでしょうか。(T-T)

 その可能性、大(笑)。(←再録)





( 以下は「名優(下)」につづく)


名優(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月19日(木)01時55分0秒

 みなさん、こんばんは! 今日は園主さまと、映画『サンダーバード』(ジョナサン・フレイクス監督)を観てきました。全体にストレートな作りで、感じのいい作品になっていましたよ。

 トレーシー五兄弟の末っ子アランは、早くサンダーバードのメンバーとして活躍したいと、そればかり考えている高校生。ところが、父親のジェフは「高校を卒業するまでは駄 目だ。勉強に専念しろ」と子供扱い。アランはそんな父に不満をいだきます。
 その頃、かつて宝石盗掘現場での事故で、死亡したとの誤認から、たまたま救助されなかったことを怨みに思い、サンダーバードに復讐を誓うザ・フッドが、サンダーバード全滅作戦を開始する。石油コンビナートに爆発事故を仕掛け、救助にあらわれたサンダーバード1号に発信物体を付着させたザ・フッドらは、サンダーバードの秘密基地(トレーシー・アイランド)を確認すると、潜水艦からロケットミサイルを打ち上げ、宇宙基地であるサンダーバード5号を攻撃。大破した5号の緊急事態に、ただちに残りのサンダーバードのメンバー4人(ジェフと3人の兄 )が宇宙へと救助に向かうが、これは陽動作戦でもある罠で、その隙にザ・フッドたちはサンダーバードの秘密基地を占拠。サンダーバードの5人を乗せた5号を、遠隔操作で地球に落下するようにプログラムします。さらに、ザ・フッドたちはサンダーバード2号をつかって、ロンドン銀行の襲撃計画を進め、お金とサンダーバードの名誉失墜の一挙両得を狙います。はたしてアランは、父と兄たちを救い、ザ・フッドたちの悪だくみを挫くことができるのか?!

という、――ありがちなと言えばありがちなお話です。
 見てのとおり、サンダーバードのメンバー自体の活躍シーンが少な目で、メインはあくまでもアランたち子供3人。彼らが、チームとして協力して奮闘し、この困難を乗り越えるなかで、その成長する姿を描いた作品だと言えるでしょう。だから、メカアクションを期待していた人には、やや期待外れかも知れないんだけど、ボクとしては、作品全体に「古きよき時代」の「品の良さ」が感じられて、とても好感が持てました。

 ちなみに、『サンダーバード』って、もともとイギリスでつくられた作品なんですが、この映画は、設定こそほぼそのままなんですが、ノリの方はすっかりアメリカン(ハリウッド)・エンターティンメントになってました。でも、それがマイナスにはなっていませんでしたよ。

 「事故や災害などから人々を助けるために、世界各地で無償の活躍する謎の国際救助隊」という設定は、今のアメリカにはちょっと皮肉なものなのかも知れませんが、ボクがこの作品から感じたのは、アメリカの大半の人たちは、純粋にそういう存在でありたいと願っているのだろうな、ということでした。
 この映画のクライマックスで、アランに追い詰められ、絶体絶命の窮地に立たされたザ・フッドは、逆に「さあ、私を殺せ。おまえのおやじと同じことをしろ」とアランを挑発します。でも、アランは「お前なんか、助けたくはない! ・・・でも、僕たちの仕事は、救助することなんだ」と言って、ザ・フッドを助けてやり、父親のジェフも、その姿を見て満足の笑みを浮かべます。――このシーンに、アメリカ大衆の「斯くありたい」という想いを見るのは、はたして穿ちすぎなんでしょうか?





( 以下は「名優(中)」につづく)


追記 投稿者:Keen  投稿日: 8月19日(木)00時20分50秒

『メフィスト』にて連載中の竹本健治「ウロボロスの純正音律」には京極さんも出演していて、竹本さんとはかなり親しいようですね。京極さんは、竹本作品にかなり影響受けてるんじゃないかと思いました。『姑獲鳥の夏』は竹本さんの『狂い壁狂い窓』を連想させましたし、『魍魎の匣』はタイトルがズバリ「匣」ですしね。

では、お休みなさい。


スッキリしないっ! 投稿者:Keen  投稿日: 8月18日(水)16時09分47秒

直木賞の余韻か、京極夏彦の本が古書店にない(※直木賞以前はあったはず)ので、結局新刊で『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)を買い、一泊二日で読みました。

面白いけど、つまらないっ!引きつけられるけど、浸れないっ!フェアだけど、ズルイっ!
どう評価していいのか、定まりませ〜ん(泣)。

確かに文章は抜群にうまい。内容がするすると頭に入ってくるので、速読も可能(笑)。でも、文面 から香気(妖気?)が立ち上ってくるほどの迫力が……感じられなかったのは、これが京極さんのデビュー作だからなのか、単に私が『虚無への供物』等の初読時より「年寄り」になってしまったからなのか?(←この可能性、大/泣)。
一般的評価がすごく高いので、期待が大き過ぎたのかもしれないし、また、「妖怪系本格ミステリ」だという先入観もあった。ミステリファンではない私が言うのもなんですが、コレ、「本格」としての採点はどうなんでしょうか?ネタをわざと引っ張って引っ張って、っていう印象、つまり、クライマックスをドラマチックに演出するのための作者のご都合なんじゃないかって。ネタバレしてしまうので詳細には書けないけど、偶然の要素が多過ぎるようにも思えます。あと、これは好みの問題だろうけど、グロい……

でも、導入部分(※やたらと長いのはお約束?/笑)のペダンチックな部分は、すんごおぉぉく面 白かったのです。それに、『薔薇迷宮』当時の「京極堂が楽古堂さまで、鬱持ちの関口が賢ちゃん、榎木津が園主さま」という刷り込みがあるせいで、必然的・不可避にその配役で読んでしまい、楽しさ倍増!だったんですう〜(爆笑)。関くん、カワイイっ!京極堂と榎さんの二人は、賢ちゃんじゃなくって関くんを、心配してるんだかいたぶってるんだか(笑)。

ともあれ、第2作『魍魎の匣』を読んでみないことには落ち着かないのかもしれません。
でも、次はもっとグロいとも聞くので、また同じ気分を味わうのはイヤだ〜、とも思うし、レギュラー陣のやりとりをもっと見たい気もするし、さらに厚さが増すから手が疲れそうだし……苦苦苦☆
まあ、次は「ミステリ」だと思わずに読むことにしよう。実は私、竹本さんも笠井さんも、「ミステリ」に期待して読んだことないのです。ああ、これって、一番酷い批判になるんだろうか?

☆園主さま

>> 「事件も解けた(ジケンモトケタ)」
>このアナグラムは、随分以前に、竹本健治自身がどこかに書いていたように存じます。それで反応がなかったのではございませんでしょうか?

そうですね。私が思いつくことを、『トランプ殺人事件』の著者が気づかないはずないですね(笑)。

>竹本健治周辺ではわりあい好意的に見守られている『ジャーロ』連載作品への著者自身による「挿絵」

アレねえ……本文と挿絵の〆切が別々だったらいいのかもしれませんが(笑)。
「好意的に」というのは、絵の完成度にははなっから期待せず、ただただ「どんな風に描いてくれるのか」を見たい、ということなのではないでしょうか(残酷)。園主さまはまだ本文を読んでないと思いますが、私個人としてはある理由で、これは園主さまには噴飯モノだろうな〜、と予測しております(含笑)。

>焼きもちをを焼いてるのか?(笑) いいじゃないか、たまに浮気したって(笑)。
>(※ 以上は、つまらながっているKeenさま向けのネタだと思ってくれたまえ/笑)

お気遣い、ありがとうございます。萌え復活の暁には、しっかりネタに使わせて頂きますね。(^0^*

ああ、それにしても、最近スンナリと感動でき難くなったように感じるのは、やっぱり年の功罪なんでしょうか。(T-T)
ほげほげ。


終戦の日は、いまだ遠く(14) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時53分9秒


 Keenさま
> 世間は、お盆です。私たちの今回の湯治は、前回から日が浅かったこともあり、湯あたりせずに済みました。それで昨日は泳ぎに行ったりして、背中の日焼けがヒリヒリ〜。(^_^;でも、私は泳ぎはあまり得意ではないので、300m程度の平泳ぎで息が上がってしまいました。アーニャは猫かきで水と戯れたあと毛づくろいして、すましてましたけど(笑)。

おお、健康的な日々をおくられているご様子でございますね。私の方は、まったくいつもどおりの「書斎派」でございますが(笑)。

> 「事件も解けた(ジケンモトケタ)」
> これ、私が「少年回廊」で発表した「竹本健治」のアナグラムなんですが、ご本人も含めて反響がなかったので、再録しておきます。しかし、名前を裏切って「解けない事件」の小説ばっかり書いてらっしゃるあたりが、竹本さんらしさでしょうか(笑)。

このアナグラムは、随分以前に、竹本健治自身がどこかに書いていたように存じます。それで反応がなかったのではございませんでしょうか?

ちなみに、竹本健治周辺ではわりあい好意的に見守られている『ジャーロ』連載作品への著者自身による「挿絵」でございますが、先日、京都で会った友人たちは「あれは勘弁してほしい」とか「やはりプロの絵とは、だいぶ違いますね」とたいへん不評でございました。私がネタを振ったわけではないのに、こういうことが話題に昇るというのは、心底、その人があの「挿絵」を評価できないと思っていた証拠でございましょう。周りの人たちの反応も、おおむね彼の意見に賛同するもので、私もめずらしく、皆の意見に深く同意し、「アンチ」ぶりを発揮しなかったのでございます(笑)。



 ホランド
>  昨日の下鴨神社の古書祭りでは、そこそこ買うものもあったようですし、何よりひさしぶりにナイルズに会えたのが良かったですね。そんなことなら、ボクも行くんだったな。……ホントは、ナイルズが来るの、知ってたんじゃないですかー?

焼きもちをを焼いてるのか?(笑) いいじゃないか、たまに浮気したって(笑)。

(※ 以上は、つまらながっているKeenさま向けのネタだと思ってくれたまえ/笑)





それでは、みなさま、本日はこのへんで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


終戦の日は、いまだ遠く(13) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時52分30秒


 時雨さま(つづき)

空の境界のブームは、講談社や笠井潔が持ち上げていると言うこともあるでしょうが最大の要因は、奈須氏がシナリオライターとして所属するTYPE-MOONのファンがゲームの関連商品として買っているところが大きいのではないでしょうか。

『ブーム』に関しては、おおむねご指摘のとおりでございましょう。
『空の境界』の売り上げを支えたのは、まず「ゲームのシナリオライターとしての奈須きのこ」のファンでございましょう。たぶん、彼らの多くは、まず「ゲームのシナリオライターとしての奈須きのこ」のファンになり、その『ゲームの関連商品』として同人版『空の境界』を購入したのではないでしょうか。だからこそ「文章」が、さほど気にならなかった。なぜなら、彼らにはあらかじめ「奈須きのこはすごい作家だ」という意識が強く存在するとともに、「奈須きのこはゲームのシナリオ作家であって、専門の小説家ではない(から、多少文章が下手なのはしかたない)」という意識があったからではないでしょうか。

ついでに申しますと、「ゲームのシナリオライターとしての奈須きのこ」のファンとともに『ブーム』を支えたのは、「新しいもの好き」で「プロパガンダに弱く」「文章に鈍感な」、相対的に若いミステリファンでございましょう。


さて、今夜はこの辺でおいとましますが、これからは余裕が出来たので本格的な意見の作成をはじめます。
> とりあえず次は『空の境界』下巻の論考になるでしょうが・・・

楽しみに待たせていただきます(笑)。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(14)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(12) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時51分44秒


 時雨さま(つづき)

空虚に巣食う魔(17)でご紹介いたしました、笠井潔の岡島二人論「余は如何にしてミステリ作家となりしか」(『模倣における逸脱』所収)には、こんな指摘がございます。

『 シナリオライターはシナリオ「作家」ではあるが、むろんのこと映画「作家」ではない。他人が書いたシナリオを、不可欠の前提として映画を制作する監督でも、その映画「作品」にかんしては、唯一無二の「作家」という権利を主張しうる。というのは、おなじシナリオで映画を撮影しても、監督が違えば、完成された作品は異なるものとならざるをえないからだ。むろん、シナリオと映画を完璧に分離して考えるのには、現実問題として多少とも無理がある。その把握を前提にしても、映画からシナリオをマイナスして残る部分に、その作品の実質的な固有性があることまでは否定しえないだろう。小説にしても、事情はおなじなのだ。アイディアやストーリーはむろんのこと、「箱書き」にまで完成された形で手渡されたとしても、それを実際の小説の文として書いた者が「作者」である。というのは、ディテールを要約することは不可能であるし、そして作品の実質は、まさにディテールにこそあるのだから。』(P176)

つまり、奈須きのこは、『同人ゲーム』という「シナリオ」が最重要部分を占めるジャンルにおいては、「優れたシナリオ作家」かつ「優れたゲーム作家」でありえました。けれども、「小説」においては、「ゲーム作家」にはほとんど求められないであろう「小説的文章化能力」が、その最重要部分であるため、はらぴょんさんがおっしゃる『あらすじ』(つまり笠井潔のいうシナリオ的な『アイディアやストーリー』)の部分でいかに優れたものを創りだせようとも、それに「小説的文章化能力」がついていっていなければ、彼は「優れた小説家」とは呼べない、ということなのでございます。

したがいまして、『月姫』などの『同人ゲーム』で、奈須きのこがいかなる実績を持っていようとも、それは「小説家」としての力量 を何ら保証するものではございませんし、むろん、「小説家」としての実績ともなりません。いいかえれば、「小説家」としての奈須きのこが『空の境界』でプロデビューする段階で持ちえた実績とは、私の言う『「同人小説」としては例外的によく売れた』ということでしかないのでございます。ですから、その段階で、あの『空の境界』という「小説」の文章を読んでいた笠井潔や講談社の担当編集者が、奈須きのこを「小説家」として、あのように過剰に持ち上げるのは、不当である。つまり、あれは、

笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。

ということになるのでございますよ。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(13)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(11) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時50分57秒


 時雨さま(つづき)

>> 『空虚に巣食う魔』(7)〜(21)

ただ、空の境界が笠井潔と講談社の共謀によって祭り上げられてというくだりには全面 的には賛成しかねます。
> 数字のデータこそ提示されていませんが奈須氏がシナリオライターとして参加した同人ゲーム『月姫』が驚異的なヒットを記録したのは事実です。
> これは同人ゲームでありながらファンジン漫画のアンソロジーが10冊以上出版され(同人の同人というわけです!)、TVアニメ化(内容自体はお世辞にも出来がいいとは言えないものでしたが)まで果 たしたということからも伺えると思います。

たしかに、奈須きのこが『同人ゲーム』(『月姫』)の「シナリオライター」として、すでに一廉の人物であるのは事実なのかも知れません。しかし、私が問題としているのは、『「同人小説」としては例外的によく売れた、という実績しかない新人作家』でしかないを奈須きのこを、笠井潔と講談社が、「小説家」として、異常に『祭り上げ』ている、という点なのでございますね。つまり「ゲームのシナリオライター」としての力量 実績と、「小説家」としての力量実績を、混同させてはならない、それは別 物である、ということなのでございます。私が問題としているのは、あくまでも『空の境界』の著者である「小説家」としての奈須きのこなのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(12)」につづく)

 

終戦の日は、いまだ遠く(10) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時49分37秒


 時雨さま
僕も最初正直に申し上げれば嫌な気持ちになりましたが、だからといって感情的になって園主様に噛み付いてもそれは不毛な口論を生み出すだけで非生産的です。
> ならば、僕がとるべき最善の行動は園主様の批判を受け止めた上で、奈須きのこのファンの立場から「なぜ『空の境界』を魅力的だと感じたのか」を精一杯論理的に語ることだと考えたのです。
> というわけで、いずれここで自分なりの『空の境界』だけでなく『月姫』や『Fate/stay night』も含めた「奈須きのこ」論を現在構想中ですのでいずれ投下させていただきます。
> 僕なりの園主様の誠意への返答として。

まったくの正論でございます。しかし、私が貴方さまに感心いたしますのは、その「正論」を自身の行動に反映できている点でございます。

他人事ならば、だれでも『感情的になって(…)噛み付いてもそれは不毛な口論を生み出すだけで非生産的』と言えますが、事が自身に及ぶと、たいていの方は頭に血がのぼって、バカな発言をし、恥の上塗りをなさいます。そんな最近の実例が、市民運動家、その虚像と実像 ―― きくちゆみの場合の、きくちゆみでございましょう。

口先で、いくら「賢明そう」なことや「謙虚そう」なことを言ったところで、自身に「不適切な自惚れ」を抱いている人間(つまり、自信過剰で、自己懐疑の回路を絶った人間)は、他者からの批判を、不当な中傷としか思えませんので、冷静に対処できないものなのでございますよ。

貴方さまは以前、ご自身、

自分には卑屈なところがあると常々考えていました

と書かれておりましたが、それは『自己懐疑の回路』が正常に機能していることの反面 でもあったのでございましょう。――それにしても、「自信過剰」でも「卑屈」でもない、ちょうどよい「自己認識」というのは、誰にとっても、生涯の難問なのでございましょうね。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(11)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(9) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時34分22秒


 はらぴょんさま(つづき)

トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(1)〜(3)

それにしても、人はどうして「歴史」にその正当性の起源を求めようとするのでございましょうか。先日も私は、「戦争代替競技」としての「起源」が云々されることの多い、サッカーについて、

 問題は、人が「起源」や「出自」に囚われすぎるという点だろう。サッカーがどのような「起源」や「出自」を持っておろうと、それに縛られなければならない理由はない。大切なのは「如何にあるべきか」であり「これから先」のことなんだよ。

と書きましたが、問題の本質は同じだと存じます。

確かに「正義」というものは、「時代」や「立場」によって変化いたしますし、その意味では「相対的」なものでしかないとも申せましょう。しかし、だからといって、不確かな「歴史的起源」に正当(正統)性の根拠を求めようとするのは、安易でございましょう。もしかすると間違っているかも知れない、自己の「正義」や「愛」に、いつでも真摯に向き合い、懐疑しつつ、自身に可能な範囲で、それを実行に移していくことだけが、「全知」ならざる人間にできる「唯一のこと」なのではないでしょうか。仮構的な「起源」に、自身の根拠をゆだねるというのは、時間の彼方に自己の責任を放擲する、一種の「責任放棄」なのではないかと、私には感じられます。


> 例えば『巨人伝説』は百田というマルクス主義者を人喰いとして戯画化して描き

ご承知のとおり、この『百田』のモデルは、いいだももでございます。かつて、笠井潔の上部組織の理論的指導者だった人でございます。

……このような子供じみた、あるいは単なる「腹いせのイヤがらせ」めいた『戯画化』しかできないからこそ、笠井の新作『瀕死の王』にも、『あまり期待しない方が懸命だ』と考えざるをえないのでございます(笑)。


> 笠井潔はマルクス葬送派になった後も、すべてを破壊しつくす究極の革命への願望(それは度し難い権力意志の現われである)を放棄していないようだ。かつて反核平和運動に異議を唱え、自分なら核シェルター破壊運動を行うといったのも、常に思想によって人間を支配し、それによって尊敬を得たいと考えるのも、人並み外れた権力意志の現われではないかと思われる。

笠井潔は「誉め―貶し」の法則性は、ハッキリしております。
目上の場合、利用できそうな人物は「誉め」あげてお近づきになろうといたします(かつてのサルトル、吉本隆明、柄谷行人、中井英夫等)。一方、利用価値のない(なくなった)、むしろ「目の上のこぶ」のような人物については、たいへん精力的に「貶し」ます(サルトル、少し前の柄谷行人、かつてのいいだもも、死後の中井英夫等)。その批判は、自己顕示欲の強い子供そのままに「あれもこれも大したことないよ」という調子でございます。それはまるで、相手の欠点を指摘することで、自身が相手より上位 に立てるとでも思っているかのような様子だと申せましょう。
同輩、後輩についても、基本的には同様で、もはや実例を挙げるまでもないかと存じます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(10)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(8) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時33分10秒


 はらぴょんさま(つづき)

(C)でございますが、たとえ『少女たち』が『無意識』に死を願望していたとしても、『少女たち』の「墜落死」を『自殺』とは申し(え)ません。
彼女たちの死は、両義式による「巫条霧絵の意識体」斬り(殺し)にともなう、(式と霧絵、双方の)想定外の「巻き添え事故」死に過ぎないのでございます。

前述した「誘拐された子供の墜落死」という事例ならば、墜落死させた人物に「故意」が無くても、「重大な過失」があったとして「重過失致死罪」を問われる可能性がございますが、両義式の場合、「巫条霧絵の意識体」斬り(殺し)をすれば『少女たち』まで墜落死してしまう、とまでは予想できなかったでしょうから、式が罪に問われることは、基本的にはございません。それが「客観的現実」でございます。したがいまして、『少女たち』の死は、特異な事例ではあれ「不幸な事故死」としか言えないのでございますね。

つまり『少女たち』の「無意識」を忖度して言う『自殺』とは、正確には『自殺』ではなく『自殺のようなもの(だったのかもしれない)』という程度の話なのでございます。つまり、ここには私が笠井潔について語った、

笠井潔には、「比喩」と「現実」を混同する傾向があるようでございますね。つまり「○○と語りうるものは、○○である」と考える。しかし、これは「観念的事実」としての「実感」ではあっても、「事実」そのものではございません。

つまり、奈須きのこの『「飛び降り自殺」についての会話(P12)』が「非論理的」なのは、「現実的分類用語」と「比喩」という、まったく「論理レベルの異なったもの」を、混同して論じているからなのでございます。そして、はらぴょんさまも、その力場に引き込まれてしまっている、と申せましょう。

譬え話をいたしましょう。「うちの飼い犬ジョンは、大切な家族の一員です」という意見は、間違いではございません。しかし、「だから、ジョンも家族の一員として、戸籍に登載して下さい」と言えば、彼は「頭がおかしい」と思われても仕方ないのでございます。さらに申しますと、飼い犬ジョンを殺すと「器物損壊罪」に問われはしますが、決して「殺人罪」には問われません。たとえ飼い主にとってジョンが「人間同様」であったとしても、客観的にはジョンは「人間」ではない、のでございます。つまり、「自殺」と「自殺同様」とは同じではないのでございます。

したがいまして、奈須きのこの問題点は、『説明不足』にあるのではございません。「論理的思考能力の低さ」と、それに由来する「非論理的な文章」にこそ、奈須きのこの問題点があるのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(9)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時32分19秒


 はらぴょんさま(つづき)

『第一章の俯瞰風景のあらすじ』が、はらぴょんさまのご説明どおりであり、はらぴょんさまの「補足説明」が仮に存在したものと仮定して、話を進めましょう。

巫条ビルで発生した不審な「連続墜落死(自殺容疑)事件」は、じつは超能力者巫条霧絵の強烈な暗示によって空中浮遊を実現していた少女たちが、両義式による「巫条霧絵の意識体」斬り(殺し)によって、暗示が解けたことによる墜落事故死だった。巫条霧絵もまた、本体である意識体の死が引き金となり、墜落による自殺を遂げた」というものでございました。
この事件を、はらぴょんさまは、奈須きのこの意図に沿って「補足説明」を加えた上で、

> 少女たちの死は、巫条霧絵の関与による他殺であり、本人の意識に反する事故であり、本人たちの無意識に忠実な自殺であるという判断の難しい事例となります。

と説明なさいますが、ここには奈須きのこと同種の「言葉の濫用」が見られるのでございます。上の文章を、

 (A) 巫条霧絵の関与による他殺
 (B) 本人の意識に反する事故
 (C) 本人たちの無意識に忠実な自殺

に分解して、ご説明いたしましょう。

まず(A)でございますが、たしかに『少女たち』の「墜落死」に、巫条霧絵は深く『関与』しておりますが、霧絵がしたのは『少女たち』を浮遊させることであって、霧絵が「墜落」させたのではないのですから、『少女たち』の「墜落死」を巫条霧絵による『他殺』とするのは、間違いでございます。

例えば、誘拐犯人が誘拐した子供をビルの屋上の遊園地で遊ばせていたところ、べつの人物がその子供を誤ってビルから転落死させたしまったとします。この場合、最初の誘拐犯は決して「殺人罪」に問われることはことはなく、子供の死を、彼の『他殺』と呼ぶことはできません。これと同じことでございますね。

(B)は、『事故』という言葉についての誤認による、誤った理解でございます。前にも書きましたとおり、

「事故」とは『(多く「ことゆえなく」の形で)さしさわり』のこと

なのでございますね。したがいまして『本人の意識に反する事故』という文章は、「自家撞着」文だと申せましょう。つまり『事故』とは、『本人の意識に反する』も反しないも、もともとあらゆる『故』(故意、意図、理由など)の存在しないが故に『事故』なのでございますから、『本人の意識に反する事故』などという表現は「反論が許されない公正な討論」みたいなものなのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(8)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時30分59秒


 はらぴょんさま(つづき)

『空の境界』の分かりにくさについて(1)(2)

> 『空の境界』の分かりにくさについて
> (1) 『空の境界』は、過去→現在→未来という時系列に沿った描き方がなされていません。

> 読者の頭脳の中でジグソーパズルのように全体像が組み立てられるというのは、一種の「謎−解明」であり、物語をミステリアスにする効果 があります。

> この手法もありでしょうが、物語のあらすじがメインのエンターテイメントでは度を過ぎると、マイナスになってしまいます。

たしかに『時系列に沿った描き方』なされていない場合、わかりにくい(読みにくい)作品になる「可能性」が高まりはいたします。ですが、要はそうした「手法」を使いこなすだけの、作家の「技量 」の有無が問題なのだと存じます。つまり問題は、「手法」そのものではなく、「作家の力量 」であり、その「自覚の有無」なのではないしょうか。


(2) 『空の境界』の作者は、読者に対して、なにが起きているか分かりやすく伝える気がないようです。

> 第一章の俯瞰風景のあらすじを書くと、以下のようになります。
> 荒耶側の駒として、巫条霧絵が登場し、巫条霧絵は何人かの少女に対し「空を飛べる」という魔術的な催眠術を施した結果 、少女たちは能力を開花させ、宙に浮いた。巫条霧絵は、ひとつの人格で、通 常の体以外に、分離した意識体を有していた。両義式は、このうち巫条ビルで、空中を浮いていた意識体の巫条霧絵をナイフで斬った。少女たちを操っていた意識体の巫条霧絵が殺害されたことで、魔法が解け、落下した。巫条霧絵もまた、本体である意識体の死が引き金となり、墜落による自殺を遂げる。

> このあらすじは、第一章を読み通し、読者が頭の中でプロットの再構成をしないと分からないようになっています。しかも、説明不足であり、単に時系列にしただけでは、納得できない書き方がなされています。

> 私が作者ならば、(a)(中略)巫条霧絵の場合、腫瘍に侵された通常の自己から逃れるために別 の意識体をつくったという説明をし、巫条霧絵に影響を受けた少女たちにも現実逃避の自殺衝動を無意識のうちにかかえていたことにします。(b)そして魔術的な催眠術とは、相手の無意識に「空を飛べる」などのメッセージを刷り込み、意識にはその記憶が上ってこないようにして、密かに無意識の限界意識という足かせを外し、潜在能力を開放してしまうことだと説明し、催眠術というものは原理的に自殺の意思のないものを、自殺に導くことはできないと説明し、(c)少女たちの無意識下の「空を飛びたい」という願望の裏側には、「世界の果 てまで行きたい=現実嫌悪=自殺願望」があり、巫条霧絵の術でその潜在意識が顕在化したのだと説明します。これにより、少女たちの死は、巫条霧絵の関与による他殺であり、本人の意識に反する事故であり、本人たちの無意識に忠実な自殺であるという判断の難しい事例となります。
> ここまでインプットした上で、以下の記述を再読してみましょう。

つまり、「あらすじ」を理解でき、さらに、はらぴょんさまが考案されたような「補足説明」がなされれば、私が奈須きのこの文章力で、

> 二人が、何を議論しているのか、すぐには呑み込めなかった。が、要するに作者は、『事故』という言葉の意味を知らないのである。それを知らないでいて、『飛び降り自殺』は『事故』か否かという不毛な議論を、作中人物たちにさせているのである。

と断じた、『「飛び降り自殺」についての会話(P12)』についても理解できる、というお話なのでございますが、それでもこれは「違う」と存じます。つまり、作者の意図がどうあれ、それが日本語として正しく表現されていなければ、それを正しく理解することはできない。ただし、作者とおなじ「日本語誤解」をしておれば、作者の意図を理解することはできる、ということなのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(7)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時29分49秒


 はらぴょんさま
転向について(1)(2)

> 『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目)で、作家宗像冬樹は「『堕天使の冬』の続編を出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」とあり、「『鬼道伝』の第一巻が、現象学探偵シリーズの十倍という読者を獲得した」(P217)とある。
> ここで宗像冬樹は笠井潔、『堕天使の冬』、『鬼道伝』は『ヴァンパイヤー戦争』を指していると考えられる。
> 作家宗像冬樹は『鬼道伝』の最終巻を脱稿したあと、伝奇小説の新作『補陀落島秘録』の構想をまとめてみるが、「棚上げにしよう」とする。宗像冬樹は「なんだか気が抜けた」と感じており、伝奇小説ブームの終わりを予感しているようだ。(P217〜218)

> やる気をなくした宗像冬樹に、編集者は伝奇小説ブームの峠は過ぎたが、「伝奇というジャンルは残る」とし、「天啓教」を指し示す。「天啓教」は「『縄文の霊性で近代の超克を』というビラを配っており、「近代の超克」にはポストモダンというルビが振られていたとされる。編集者は『鬼道伝』を読んで「天啓教」に入ったものもいるかも知れないと宗像をおだてる。(P218)

以前、はらぴょんさまは「笠井潔は、思想評論界で行ったポスト・モダン思想批判を、そのままミステリ界で竹本健治批判としてくり返している」という主旨のことを書かれておりましたが、どうやら笠井は今度は、竹本健治批判の意味をも有した「天啓三部作」と同種の手法、つまり「フィクション形式で、現実を撃つ」という形式で、ポスト・モダン思想批判をしようとしているのかも知れませんね。

もちろん、こうした「手法」自体は、決して間違いではございません。「小説的象徴化」により、現実の事象を、より本源的なレベルで描出するというのは、小説家にとっては、むしろ正攻法だからでございます。――しかし、言うまでもなく、安易にこれをやると、その結果 は「単にフィクション形式で好き勝手を書いて、憂さ晴らし(の自己正当化)をしただけ」ということにもなってしまいます。

笠井潔の 『瀕死の王』が、どこまで「現実」を昇華しえているかは、作品の完成を待って評価したいところでございますが、ただ「天啓三部作」における天童某(=竹本健治もどき)の描写 を見るかぎり、あまり期待しない方が懸命なのだとは存じます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(6)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時28分24秒


しかしまた、本書がそうした「稀有に優れたレポート」であることをすら超えて「稀有な書物」となりえているのは、そうしたレポートを書いた著者の「崇高で不屈な精神」が、全編をおおって輝いているからなのでございます。だから「重苦しい現実の報告」も、単に重苦しいままでは終りません。そうしたものと対峙しながらも決して怯むことなく、人間としての優しさと強さの側に立って戦いぬ こうとする著者の気高い精神が、全編を貫いているからこそ、そこに示された「重苦しい現実」に対し、読者も「私だって負けるものか」と励まされるのでございます。

つまり、本書は二重の意味で「啓蒙書」なのだと申せましょう。ひとつは、政府によって「多くの国民の目に伏せられている現実」を明らかにするという意味での「啓蒙」であり、二つ目は、著者の自覚には関係なく、人々に人間精神の崇高な強さを示すことで、目をそらしていた現実を「直視する勇気を与える」という意味での「啓蒙」でございます。

ですから、本書を読み終えて感じるのは、最低な現状への絶望などではなく、むしろ「人間も捨てたものではない」という思いなのでございます。どうしようもない奴らが日本を動かそうとしている。それは事実だ。しかし、それに筆一本で抵抗しようとしているドン・キホーテが、ここに実在している。ドン・キホーテは勝てないかもしれない。けれども、彼がここにこうして実在する以上、きっと第二第三のドン・キホーテは現れるだろう。我々はその現実を本書に見、「損得勝敗ではなく、是非善悪のために、その生涯を賭する」人間の尊厳とその実在を信じることができるのでございます。

『機会不平等』の著者斎藤貴男もまた、おのれの才覚だけで、たったひとりで、巨大な暴力に抵抗する「東堂太郎の眷属」なのでございましょう。(※ 東堂太郎は、大西巨人『神聖喜劇』の主人公)


   果たして「勝てば官軍」か。
   果たして「政治論争」の決着・勝敗は、
   「もと正邪」にかかわるのか、
   それとも「もと強弱」にかかわるのか。

   私は、私の「運命の賭け」を、
   「もと正邪」の側に賭けよう。

                (大西巨人「運命の賭け」より)





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(5)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時27分35秒


第一章『「ゆとり教育」と「階層化社会」』では、「ゆとり教育」の名の下に、これまで誰にも平等に与えられていた「教育をうける権利(機会の平等)」を「優れた者にはより優れた教育を、劣った者には他の道を」と差別 化しようとしている現実が語られております。

第二章『派遣OLはなぜセクハラを我慢するのか』では、「改正労働者派遣事業法」によってさらに拡大した「企業に都合のよい、使い捨て労働力としての派遣労働者」の現実を扱っております。

第三章『労組はあなたを守ってくれない』では、リストラが横行し、労働者の権利が蔑ろにされだした現状に比例して、いかに現在の労働組合が無力化しているかを紹介しております。

第四章『市場化される老人と子供』では、「十兆円市場としての高齢者介護」という認識のもと、企業が老人問題をいかに非人間的に商売化しようとしているかの現状が語られ、その一方、商品にならないとされた「学童保育」を取り巻く状況の悪化も紹介されております。

第五章『不平等を正当化する人々』では、上記4章で語られた問題の背後に伏在する「分相応の合理的差別 社会」を目指す「社会ダーウィニズム」を、理論的に支えた竹中平蔵(現・経済財政政策担当相)など日本の経済学者たちの、その主張と生い立ちが紹介されます。

終章『優性学の復権と機会不平等』で語られるのは、自らを「優等民族」と規定し、ユダヤ人を「世界に徒なす劣等民族」と決めつけることで、ホロコーストを敢行したナチスドイツが、その理論的根拠としたがため、戦後は「悪魔の疑似科学」として廃棄されたはずの「優性学」が、どのような形を採ることで、今ごろ復活してきたのか。また、その復活普及(「自己責任」「結果 主義」等)によって我が国で拡大しつつある「機会の不平等」の先にあるもの何なのか、という問題でございます。


ごく簡単に内容をご紹介させていただきましたが、本書で語られていることは、「気が重くなる」だけでは済まされない、なんとも「重苦しい現実」でございます。
この大雑把な内容紹介を読まれた方のなかには「また、極端に悲観的な現状論が語られた本なんじゃないか」と思った方も、きっといらっしゃることでございましょう。しかし、本書が優れているのは、そうした「見たくない現実」(『極端に悲観的な現状論』とでも思っておかないと救われない現実)を、主義主張によって批評的に批判するのではなく、「事実」をして語らしめて、有無を言わせないまでに、その「存在事実」を実証している点なのでございます。そしてそれこそが、類書の遠く及ばない、本書の強味である、「決定的な(不平等=差別 の)実例」であり「(不平等を助長する側の)文献資料」であり「(不平等を助長する側)当事者の証言」なのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(4)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時25分56秒


                  ○

アメリカの戦争、ネオコン、グリーバリズム、新自由主義経済……こうした問題の根幹にあるのが、昨今、勃興している「新しい優性学」としての「社会ダーウィニズム」でございます。「社会ダーウィニズム」とは、簡単に申しますと、――現在、社会的に有力な立場にある者(成功者)は、社会的淘汰のなかで、自らの優秀性を実際に証明した存在である。したがって、「勝ち組」とは、単に勝利を得ているグループを指すだけではなく、人間の質として根本的に優れた存在であることをも意味し、「劣った存在」としての「負け組」を自由にする当然の権利を有する存在なのだ。これを国家に適用すれば、世界一の経済力と軍事力をもつアメリカは、自国の国益のために、他国を自由にする権利を有する、特別 な選良国家だということになる。――と、おおむねこのような考え方を指すものでございます。
ダーウィンの進化論の「適者生存」の法則を、思いきり単純化して、人間社会をとらえる考え方であり、いささか幼稚な印象は否めないものの、実際に権力を握っている支配者階級にとっては、なんとも魅力的で都合のよい世界観だと申せましょう。

もちろん、このような手前みそな考え方が、露骨に語られる機会はそう多くはございませんが、前記の『アメリカの戦争、ネオコン、グリーバリズム、新自由主義経済』の周辺を洗っていきますと、そうした露骨な思想が露骨なままに語られている現実に度々ぶちあたって、愕然としたり呆然とさせられたりすることも、決して珍しくないのでございます。特にアメリカのネオコン(ネオ・コンサーバティブ=新保守主義)の思想家たちが語る言葉は、その際たるものだと申せましょう。
しかし、こうした悪魔の思想にかぶれている人たちは、決してアメリカ一国にとどまるわけではございません。じつは、私たちの国、日本の支配階級である富裕者層が、こうした思想に毒されており、いま現在、その意思にそって政府は「グローバリゼーションの競争原理を生き抜くために、国益を優先して痛みを分かち合う」という建て前の下、『ビンボーと弱者を固定化する新階級社会』をつくるための各種制度改革を進めているのでございます。

本書『機会不平等』は、そうした日本の実態を具体的に掘り起こして紹介した、衝撃的な告発の書なのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(3)」につづく)


終戦の日は、いまだ遠く(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(月)16時24分52秒

みなさま、私、一昨日、斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読みました。十年に一冊の名著と申せましょう。その証拠に、経済アナリストの森永卓郎は、同著の文庫解説を以下のように書き起しております。

『 斎藤貴男というジャーナリストが私は好きだ。権力に屈することなく、常に一般 市民の視点で、権力者のやろうとしていることを暴き続けているからである。
 ジャーナリストとしては当然のことだろうと思われるかもしれない。しかし、それは容易なことではないのだ。誘惑はいくつも潜んでいる。政府の審議会への登用、インサイダー情報、高額のギャラをもらえる講演会、安定した仕事の発注……。
 フリーランスで仕事をしていると、ついついそうしたものに目がくらんで、体制側の手先になってしまう。そうした例を私は飽きるほどみてきた。
 ところが、斎藤貴男は屈しない。きっとバカなのだと思う。彼くらいの才能があれば、金儲けをしようと思えば、いまごろ立派な御用評論家となって、社会的地位 と豊かな暮らしを手に入れていたはずだからだ。
 本を書くのに際しても、斎藤貴男のバカさ加減は現れている。もっと手を抜いて、「構造改革が必要だ」などと中味のないことを書いておけば、ずっと効率的にカネを稼げる。ところが、斎藤貴男は、常に膨大な資料を読みあさり、キーマンへのインタビューを敢行し、そして自分自身の頭で必死に考えるという手法を頑に守り続けている。作家業としてみれば、こんなに非効率的なことはないだろう。
 彼自身が明らかにしているように、屑鉄屋の息子に生まれ、身を以て差別 を体験してきたからこそ、彼のその信念があるのかもしれない。しかし、そうした環境に生まれたからこそ、権力にすり寄ってしまう人の方が多いことも、事実なのだ。
 生き方がバカ正直で、へたくそな斎藤貴男。誤解をおそれずに言えば、私は彼を愛している。こんな素敵なジャーナリストは日本の宝だと思う。』

この一文を読んで、不覚にも涙をこぼしてしまったことを、告白しておきましょう。

『ところが、斎藤貴男は屈しない。きっとバカなのだと思う。』――「絶賛」の言葉が大安売りされる日本の出版業界において、このように真情のこもった本物の絶賛を、生涯の内に一度でもうけることのできる物書きは、たぶん千人に一人もいないことでございましょう。こんな、共感と賛嘆と友情のこもった言葉を捧げられたならば、その人はそれだけで、たしかにどんな勲章よりもたしかな「生きた証」を、残しえたことになるのではございませんでしょうか。

私もこのような言葉を捧げられるような人間になりたい。そのためにも私は、斎藤貴男と同じ『バカ』の戦列に連なろうと、あらためて誓ったのでございます。


ともあれ、解説者森永卓郎は、先の文章に続けて、こう書いております。

『 数多い斎藤貴男の著作のなかで、ベストは何かと問われたら、私はやはりこの『機会不平等』を挙げたい。私がこの10年間に読んできた無数の本のなかでも、ベスト3には確実に入るだろう。』

本書はそのような、まぎれもない名著なのでございます。





( 以下は「終戦の日は、いまだ遠く(2)」につづく)


シンデレラは12時の鐘を聞いたか? 投稿者:Keen  投稿日: 8月16日(月)00時12分11秒

世間は、お盆です。私たちの今回の湯治は、前回から日が浅かったこともあり、湯あたりせずに済みました。それで昨日は泳ぎに行ったりして、背中の日焼けがヒリヒリ〜。(^_^;でも、私は泳ぎはあまり得意ではないので、300m程度の平泳ぎで息が上がってしまいました。アーニャは猫かきで水と戯れたあと毛づくろいして、すましてましたけど(笑)。

>ものわかりのよさの影(3)、(4)

ホランドくんが賢ちゃんにあえて厳しい意見を書いた理由は、ホントは察しがついてました。賢ちゃんとホランドくん、園主さまは長い長ーいおつきあいですもんね(笑)。それに実は、私がああいう風に書いたら、どういう返事がかえってくるかについても。私は、自分が感じ取ったことをホランドくんの言葉で、実際に確認したかったんだと思います。

それにしても、どうも最近、憑き物が良い方も悪い方も落ちてしまったような感じで、指がキーボード上で踊りません。それってつまり、萌えないってことなんだけど、こちらの原因のうちのひとつも察してないことはない……ホランドくんのせいなんだからー!
ちょっと前に、はらぴょんさんとの会話で「脱・美少年」宣言してたでしょー?それじゃあ、この「花園」からめっきり萌え要素が減っちゃうじゃないのよ〜(怨み節)。
「アレクセイ」のお相手キャラなんて、他に今さら……(ブツブツ)

「事件も解けた(ジケンモトケタ)」
これ、私が「少年回廊」で発表した「竹本健治」のアナグラムなんですが、ご本人も含めて反響がなかったので、再録しておきます。しかし、名前を裏切って「解けない事件」の小説ばっかり書いてらっしゃるあたりが、竹本さんらしさでしょうか(笑)。

しばらく、ほげほげしてますね。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)15時49分47秒

(注)笠井潔とJ=P・サルトル
竹内芳郎は、サルトルの『弁証法的理性批判』の訳者のひとりであり、笠井潔の発言にもサルトルの影響が伺える。
「座談会マルクス葬送の後に」では、笠井はマルクス主義のくそまじめ主義を批判している。
「笠井 私は、マルクス主義者と長いことつき合っていて、一番気にかかったことは、このくそまじめ主義なんですよ(笑)。」太田竜『マルクスを超えて』(P188)
このくそまじめ主義批判であるが、サルトルの『存在と無』にくそまじめの精神を批判した部分がある。
また「座談会没後100年 マルクスは甦るか」では、<集合性>や<溶解集団>という『弁証法的理性批判』の用語を笠井は使用している。

(注)アイヌ民族解放闘争と東アジア反日武装戦線
太田竜のアイヌ民族解放闘争の思想は、東アジア反日武装戦線に影響を与えたとされている。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/saitou.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%A5%A2%A5%B8%A5%A2%C8%BF%C6%FC%C9%F0%C1%F5%C0%EF%C0%FE
その後、太田竜は、家畜制度を批判し、動物実験に反対し、1992年に地球維新党を設立し、出雲帝国富士皇朝の万師露観とユダヤ陰謀論を展開している。要するに<トンデモ>である。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)15時46分47秒

太田竜の『マルクスを超えて』(風濤社、1986年)には、以下の二本の座談会の記録が収められている。
1.座談会マルクス葬送の後に(笠井潔、戸田徹、小阪修平、太田竜、西垣内堅佑)(初出「テーゼ」第3号、1982年3月、同時代思想編集委員会編集、風濤社)
2.座談会没後100年 マルクスは甦るか(竹内芳郎、太田竜、笠井潔、戸田徹、小阪修平、西垣内堅佑 )(「テーゼ」第4号、1983年6月、同時代思想編集委員会編集、風濤社)
これらの対談では、笠井潔は、太田竜、戸田徹、小阪修平、西垣内堅佑とともに「マルクス葬送派」としての発言を行っている。つまり、笠井潔と太田竜は、セットで転向組なのである。
その後、笠井潔は『巨人伝説』をはじめとするコムレ・サーガで、縄文民族=コムレ一族の闘争の歴史を描く。公式的には、「縄文民族解放小説」は、柳田國男の『遠野物語』と吉本隆明の『共同幻想論』の<山人><サンカ>であり、吉本隆明の「南島論」に出てくる天皇制の外部としての<南島>と同等の位 置を占めるものとされる。
しかし、太田竜の「アイヌ民族解放闘争」のアイヌと縄文民族を置き換えたという疑いを完全に払拭することはできない。ただし、「縄文民族解放小説」はマルクス葬送派の笠井潔の作品であり、マルクス主義者・黒木龍思の作品ではないから、反マルクス主義的な内容を持っている。(例えば『巨人伝説』は百田というマルクス主義者を人喰いとして戯画化して描き、『ヴァンパイヤー戦争』はKGBを敵として描く。)とはいえ、笠井潔はマルクス葬送派になった後も、すべてを破壊しつくす究極の革命への願望(それは度し難い権力意志の現われである)を放棄していないようだ。かつて反核平和運動に異議を唱え、自分なら核シェルター破壊運動を行うといったのも、常に思想によって人間を支配し、それによって尊敬を得たいと考えるのも、人並み外れた権力意志の現われではないかと思われる。


トンデモ史観の起源? 太田竜と黒木龍思(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)15時45分54秒

『両翼の騎士』(北宋社、1985年)に収録されている高取英の「縄文民族解放小説」は、黒木龍思(活動家時代の笠井潔のペンネーム)の「日本革命思想の転生」における太田竜の<原始共産制への復帰論>批判に注目する。しかし、高取は結末部分で、黒木による太田批判にもかかわらず、その後書かれた笠井潔の『巨人伝説』等の「縄文民族解放小説」と、太田竜の「アイヌ民族解放闘争」とが類似しているのではないかという疑問を投げかけている。
この評論を再確認していこう。黒木龍思は太田竜の<原始共産制への復帰論>について「そのケバケバしい反近代主義的装飾にもかかわらず、本質的に近代主義的時間意識の枠内における<ロマン的反動>にすぎない。」(『両翼の騎士』P118)と書いている。ここで、原典を確認すると「<ロマン的反動>の組織的思想である「戦士的共同体」論は、「原始回帰思想」=「原始共産制への復帰」論、「民族的責任論」とならんで六十年代新左翼の思想的解体の混沌から発生した」(『情況』昭和47年7月、情況出版、P89、黒木龍思「日本革命思想の転生」(上)(3))とある。ここで「戦士的共同体」論とあるのは、武士道や涅槃教に基いて「戦士的共同体」を築こうとする企てのことを指す。黒木龍思の「戦士的共同体」論批判は、後の『哲学者の密室』の主題となったハイデッガーの死の哲学とナチスの結びつきへの批判を想起させる。マルクス主義への肯定と否定という差異はあっても、その他の部分では似通 った論を展開しているのである。黒木龍思は、「戦士的共同体」論、「原始共産制への復帰」論、「民族的責任」論を<ロマン的反動>という概念で括り、<ロマン的反動>を日本的ファシズムと地続きの思想として排撃する。「「資本主義(−帝国主義)−近代主義」の、かかる本質的存在様式を総体として批判するのでなければ「世界共産主義」の革命綱領は獲得されえない。」(『両翼の騎士』P118)
しかしながら、第三世界革命論が座礁し、「世界共産主義」への信頼が崩壊すると、笠井潔は黒木龍思というペンネームを捨て、「マルクス葬送派」に転向する。


『空の境界』の分かりにくさについて(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)11時01分9秒

(2) 『空の境界』の作者は、読者に対して、なにが起きているか分かりやすく伝える気がないようです。例えば、各章の途中までを読むと、さっぱり分からない描き方がなされています。各章は、一章分読了し、プロットの再構成をしないと、なにが起きているか了解できないようになっているのです。
例えば、第一章の俯瞰風景のあらすじを書くと、以下のようになります。
荒耶側の駒として、巫条霧絵が登場し、巫条霧絵は何人かの少女に対し「空を飛べる」という魔術的な催眠術を施した結果 、少女たちは能力を開花させ、宙に浮いた。巫条霧絵は、ひとつの人格で、通 常の体以外に、分離した意識体を有していた。両義式は、このうち巫条ビルで、空中を浮いていた意識体の巫条霧絵をナイフで斬った。少女たちを操っていた意識体の巫条霧絵が殺害されたことで、魔法が解け、落下した。巫条霧絵もまた、本体である意識体の死が引き金となり、墜落による自殺を遂げる。
しかし、このあらすじは、第一章を読み通し、読者が頭の中でプロットの再構成をしないと分からないようになっています。しかも、説明不足であり、単に時系列にしただけでは、納得できない書き方がなされています。
説明不足と感ずるのは、次のような箇所です。(a)巫条霧絵が複数の体を持っていたことの説明、(b)巫条霧絵が少女たちに施した魔術的な催眠術の説明、(c)少女たちの落下に関する説明。
例えば、私が作者ならば、(a)魔術師が複数の体を持った事例があること(カスタネダの<ドン・ファン>シリーズに出てくるドン・ヘナロの分身の術や、ダイアン・フォーチュンが『心霊的自己防衛』で挙げている心霊攻撃の例があること)を示し、巫条霧絵の場合、腫瘍に侵された通 常の自己から逃れるために別の意識体をつくったという説明をし、巫条霧絵に影響を受けた少女たちにも現実逃避の自殺衝動を無意識のうちにかかえていたことにします。(b)そして魔術的な催眠術とは、相手の無意識に「空を飛べる」などのメッセージを刷り込み、意識にはその記憶が上ってこないようにして、密かに無意識の限界意識という足かせを外し、潜在能力を開放してしまうことだと説明し、催眠術というものは原理的に自殺の意思のないものを、自殺に導くことはできないと説明し、(c)少女たちの無意識下の「空を飛びたい」という願望の裏側には、「世界の果 てまで行きたい=現実嫌悪=自殺願望」があり、巫条霧絵の術でその潜在意識が顕在化したのだと説明します。これにより、少女たちの死は、巫条霧絵の関与による他殺であり、本人の意識に反する事故であり、本人たちの無意識に忠実な自殺であるという判断の難しい事例となります。
ここまでインプットした上で、以下の記述を再読してみましょう。

『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
 意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』(『空の境界』上巻P12)

私の場合、初読の時から『空の境界』を時系列に頭の中で再構成し、作者の説明不足を補いながら読んだのですが、これは通 常の読書では要求されない作業です。しかも、これだけ補正作業しても、「完全にわかった」とはなりません。どうも奈須きのこは、よく分からないところが残った方が、カルト的な人気が出るとでも思っているのでしょうか。とすれば、それは早々に捨て去るべき誤った考えです。


『空の境界』の分かりにくさについて(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月15日(日)10時59分52秒

◆ ホランドさま
『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回め、P217)の記載を忠実に引用すると、「一九八○年代のはじめに『堕天使の冬』の続編を二作出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」となっています。
引用が不完全だったために、誤解を抱かせてしまったようで申し訳ありません。ここで書かれている『堕天使の冬』は『バイバイ、エンジェル』、続編二作は『サマー・アポカリプス』と『薔薇の女』ということで、つじつまが合うと考えます。


『空の境界』の分かりにくさについて
(1) 『空の境界』は、過去→現在→未来という時系列に沿った描き方がなされていません。各章間の流れも、過去→現在→未来ではないし、章の中の流れも過去→現在→未来ではありません。
例えば、上遠野浩平の『ブギ―ポップは笑わない』は、過去→現在→未来の流れで書かれているのではなく、いくつかの断片的エピソードの積み重ねが綴られ、最終的に読者の頭脳の中でジグソーパズルのように全体像が組み立てられるという仕掛けになっていました。村井さだゆきらが脚本を手がけたそのアニメ版『ブギ―ポップは笑わない〜ブギーポップ・ファントム』も、この方法が踏襲されていました。
読者の頭脳の中でジグソーパズルのように全体像が組み立てられるというのは、一種の「謎−解明」であり、物語をミステリアスにする効果 があります。しかし『ブギ―ポップは眠らない』では、効果を挙げたこの方法も、『空の境界』のように各章間の流れも、章の中の流れも錯綜すると、読者にとって非常に呑み込みにくい話になります。
例えばジャン・ジュネの『泥棒日記』のような小説の場合、追憶のシーンが時系列に関係なく挿入されます。(新潮文庫版をお読みの方は、改版後のものでご確認ください。改版前は、読者に分かりやすいように時系列に修正されて翻訳されています。)このように物語のあらすじを二の次にした小説ならば、この手法もありでしょうが、物語のあらすじがメインのエンターテイメントでは度を過ぎると、マイナスになってしまいます。
『空の境界』は、ある程度、過去→現在→未来という時系列に沿った分かりやすい描き方をし、主題に沿って荒耶と式の対決をクライマックスに持ってくる方が、より成功を収めたのではないかと考えます。
聞くところによると、『空の境界』は、当初『空の境界式』としてWeb掲載されており、その際には荒耶と式の対決がメインになっていたようです。現在の『空の境界』は、『空の境界式』より大幅増補がなされており、荒耶と式の対決というクライマックスが中盤に描かれ、その後荒耶の影響を受けた小物(ザコ)との戦いが続く形になっています。


ものわかりのよさの影(7) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時26分2秒


 アーニャ
> ホランドくんの「政治とスポーツの混同」に対する抗議は、かのピクシーが常々口にしてたことだって、Keenさまが感動してたわよー。

 ボクが書いたことなんか、ちょっと前だったら誰もが口にした、当たり前の「人間主義」の言葉だったんだよね。ところが、人間「貧すれば鈍する」で、他人や他国の人たちを思いやる気持ちがなくなり、その結果 として「貧しい愛国主義」が強まっている。自分の国を愛するのは当然だけど、それなら他国の人々がそれぞれに自分の国を愛するのも当然のことなんだから、そうした人たちの想いも尊重しなければならない。それが真の愛国主義者なんだと思う。でも、今の愛国主義者は、単なる「自国中心主義」で、他者にたいする想像力の欠片もない「我利我利亡者」だ。――園主さまは、そういうナショナリストを「田舎者」と言って馬鹿にしているけれど、「他人が思いやれない」「世間が狭い」という意味で、彼らはたしかに悪い意味での「田舎者」なんだろうね。



 園主さま
 昨日の下鴨神社の古書祭りでは、そこそこ買うものもあったようですし、何よりひさしぶりにナイルズに会えたのが良かったですね。そんなことなら、ボクも行くんだったな。……ホントは、ナイルズが来るの、知ってたんじゃないですかー?





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。


ものわかりのよさの影(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時25分2秒


 はらぴょんさま
転向について(1)〜(2)

> 『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目)で、作家宗像冬樹は「『堕天使の冬』の続編を出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」とあり、「『鬼道伝』の第一巻が、現象学探偵シリーズの十倍という読者を獲得した」(P217)とある。
> ここで宗像冬樹は笠井潔、『堕天使の冬』、『鬼道伝』は『ヴァンパイヤー戦争』を指していると考えられる。

 『瀕死の王』を読んでいないので確かなことは言えませんが、作中の『堕天使の冬』のモデルは、たぶん『サマー・アポカリプス』のことだと思います。というのも、笠井さんが本格的に『ヴァンパイヤー戦争』に取りかかったのは、矢吹駆シリーズ第3作『薔薇の女』を書いてからですからね。つまり『『堕天使の冬』の続編を出してから』と語られる『続編』が現実には『薔薇の女』にあたるので、『堕天使の冬』は『サマー・アポカリプス』だと考えられるんです。もちろん、このタイトルには『サマー・アポカリプス』の「夏」と『バイバイ、エンジェル』の「(堕)天使」が、二重に響いているんでしょうけど。

 ちなみに、『堕天使の冬』にいちばん近いタイトルの作品は、矢吹駆シリーズの0号作『熾天使の夏』ですが、これはたしか『バイバイ、エンジェル』の前に書かれているはずだから、ここでの『堕天使の冬』のモデルにはならないと思います。

> 作家宗像冬樹は『鬼道伝』の最終巻を脱稿したあと、伝奇小説の新作『補陀落島秘録』の構想をまとめてみるが、「棚上げにしよう」とする。宗像冬樹は「なんだか気が抜けた」と感じており、伝奇小説ブームの終わりを予感しているようだ。(P217〜218)
> さて『補陀落島秘録』が何を示しているか。コムレ・サーガのうち未刊の『無底の王』ではないかと考えるが、どうだろう。

 『補陀落島秘録』については、ボクも見当がつきません。


『瀕死の王』の編集者は、「虚構と現実が混濁し、相互浸透するのがポストモダン」(P218)とし、「天啓教」を虚構と現実の区別 がなくなった連中とみる。

 このへんは、園主さまの、

結局のところ、「スキー的思考」とか「登山的思考」というのは「比喩」でしかなく、単なる「比喩」を「本質」的なものと取り違えるところに、混乱が発生するのでございましょう。笠井潔には、「比喩」と「現実」を混同する傾向があるようでございますね。つまり「○○と語りうるものは、○○である」と考える。しかし、これは「観念的事実」としての「実感」ではあっても、「事実」そのものではございません。

と、まるで「逆さま」な認識ですよね。だって、笠井さんは「反・ポストモダン」のはずなんですから。
 でも、こうした園主さまの笠井潔観からすれば、

では、現実はどうか。「天啓教」はオウム真理教のことである。そして、笠井潔はオウム真理教の獄中幹部から、自分は笠井のSF伝奇小説の読者であり、「自分にとってオウムとはコムレ教なのだ」と書かれた手紙を受け取ったことがあるという。(笠井潔・東浩紀往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書、P113)

という現実は、読者がその作品(『ヴァンパイヤー戦争』)から「作者の生理(オカルト嗜好)」まで正しく読み取り、それを受け入れるならば、それも「必然的な結果 だった」ということになるんですよね。その点では、はらぴょんさまが指摘なさっている、

しかし、自身の『ヴァンパイヤー戦争』を含めた「伝奇小説」の枠組みを、『空の境界』下巻の解説で山口の「中心−周縁」理論と関連付けて説明しているのはなぜか。つまり、「旧・伝奇小説」と山口のような「ポストモダニズム」が、オウム真理教の温床となったのであり、自分は早々と手を切ったといいたいのである。そのために、首尾一貫していないご都合主義的改ざんが行われていると考えられる。

という笠井さんの『首尾一貫していないご都合主義的改ざん』とは違い、園主さまの笠井潔観は『首尾一貫』したものだと言えるんでしょうね。





( 以下は「ものわかりのよさの影(7)」につづく)


ものわかりのよさの影(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時15分51秒


 時雨さま
>> へえー、東浩紀さんって、コミケ展開までしてるんですか、さすがは「おたく」を自負するだけのことはありますね(笑)。

それもあるのでしょうが東さんの場合出版業界に強いコネクションを持ってらっしゃらないことが最大の理由ではないでしょうか。

 なるほど、勉強になりました。
 昔、「職業詩人なんてやつは、みんなペテン師だ」というような言葉を読んだ記憶があります。これは「詩」では喰っていけないという意味であり、それなのにそれで喰っている人というのは、どこか「詩人」ではないところで喰っているのを誤魔化しているんだ、という意味だとボクは理解しました。それは「哲学」や「思想」や「批評」についても同じで、普通 こういうものでは喰っていけないから、たいていの「哲学者」「思想家」「批評家」は学校の先生をやっているんですよね。それで生活の糧を確保した上で、「哲学」や「思想」や「批評」をやっているんです。

 だから東浩紀さんの場合も、普通なら大学に働き口をみつければ、それで済むんでしょうが、

> そんな中で自分自身の言葉を表現する為に「おたく」であり「ポストモダン世代」である自分の思想の中から出した答えが、参加者と直接交流でき、自由に発言できるコミケへの参加であり有料のメールマガジンという形式なのだと思います。

という形式をあみだしたというのは、とても立派なことだと思います。

 笠井潔さんは、「作家」兼「批評家」として「独立採算」の『文の商人』であろうとして、結局は園主さまやはらぴょんさまから「その現実」を批判されています。
 たしかに「生活の糧」を他所で確保した上で、というのは、形としてはスマートではないかも知れませんけれど、「筆一本で身を立てる」というのは、あくまでも「作物が立派なものである」ということが大前提になるんですよね。肝心の「小説」や「批評」が「糧を得るため」ために歪められたものになるくらいなら、始めから「生活の糧」は別 のところで確保した方が、よほど潔いと言えるでしょう。

 東浩紀さんの場合は、この両立しにくいものを、新しい市場を再発見することでクリヤしたのかも知れません。だとすれば、それはそれ自体、注目し、評価してよいことなんだと思います。


>>『ファウスト』の読者に関する、こないだのボクの書き方は、ちょっと感情的すぎたかなって、反省してます。たしかにあの売り方は好きじゃないんですが、それは読者の責任じゃないですからね。――こないだのボクの文章を読んで、気を悪くなさった方がきっとおられたことでしょう。この場でお詫びしたいと思います。ホントにごめんなさい。

> すみません、こちらこそ言葉が足りませんでした!
> 『ファウスト』にハッタリじみたところがあるのは僕も同意見です。
> あの文章は「それでも売れていることが興味深い」といった意味で、ホランド様を非難する意味は含んでいません。

 いいえ、誤解です。ボクは時雨さまに非難されたなんて思っていませんよ。ただ純粋に、自分の書いたことが不適切であったと思ったからお詫びしただけで、時雨さまからの非難の有無は関係ないんです。非難されたって、納得しなければ、絶対に謝罪したりしませんしね(笑)。だから、そんなに気をつかわないで下さい。

 『ファウスト』が売れているというのは、ひとつにはあの「ハッタリがましい売り方」もあるんでしょうが、それだけではないのかも知れません。いずれにしろ、『ファウスト』を読んでいないボクは、そうした肯定的要因の存在を否定できる立場にはないんだから、あの「ハッタリがましい売り方」にみんなが騙されて売れているんだ、みたいな決めつけめいた言い方は、やっぱり不適切だったんだと思うんですよ。――ボクは、自分が「知りもしないことを決めつけるような馬鹿」でありたくはなかった。だから、自分のために、みなさんに謝罪しただけなんです(笑)。





( 以下は「ものわかりのよさの影(6)」につづく)


ものわかりのよさの影(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時14分50秒


 Keenさま(続き)

 もちろん、被害をうけた方が「あの人は病気だから仕方がない」と我慢するのは悪いことではないでしょう。けれども、それを「期待」するような気持ちが、病者自身や病者の側に立つ人間にあってはなりません。取るべき責任、取れる責任はとる。なぜなら、病者もまた「一個の社会人」だからです。

 こないだ、五十嵐太郎さんの『過防備都市』(中公新書ラクレ)が話題になりましたけれど、それだけ今の日本の社会は過防備的になってきており、「危険要素」を排除しようとする傾向が強まっていることを忘れてはなりません。「頭のおかしな奴は、何かやる前に病院へ放り込んでおけ」といった危険は意見をもつ小田晋のような精神科医も現にいて、危機意識(恐怖)に苛まれる人たちに、一定の影響力を与えているという事実を、決して忘れてはならない。「池田小学校児童殺害事件」などの犯人に向けられた「世間の目」の厳しさと怯えを、ボクたちは忘れてはならないんです。ボクたちは賢ちゃんの友達だから、あれは「例外中の例外」的事例であり、それとこれとはまったく違う(同日には論じられない)と思っているけど、あかの他人にとっては、賢ちゃん自身がいみじくも語ったように、どっちも『立派な精神病患者だ』ということにもなりかねない。だから、そういう世間に対する危機感はもっておくべきなんだと思うんです。

 社会が戦争に傾いていく時、社会的な弱者はかならず差別されます。「お国に貢献しない、戦争に役立たない、お荷物なだけのやつらを、一人前にあつかう必要はない」という理屈が、大手を振ってまかりとおるようになる。そうした危険が目前に迫り、現実化しつつある今この時に、「病者は、おしなべて責任無能力である」と自ら認めたり、またそれを当然のこととして安易に支持するようなことは、なによりも病者のためにならないんだということを、ボクたちは忘れるべきではないんです。

 ボクが、賢ちゃんの『もう立派な精神病患者だ』という自虐的な言葉に感じた危険とは、賢ちゃん個人の問題にとどまらない、現下日本の危険性だったんです。





( 以下は「ものわかりのよさの影(5)」につづく)


ものわかりのよさの影(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時13分43秒


 Keenさま
> 他人に対する配慮ができるくらいなら、そもそも入院しないでしょう。自分自身をコントロールしきれなくて、ワラにもすがるような思いで、吐き出した言葉だったんだと思います。

> まあ、ウツが進むと、好きだったものにも興味がわかなくなったり、ちょっとしたことでも面 倒でできなかったりするんで、そういうのもあるんでしょうか。

 鬱にかぎらず、肉体的・精神的に弱っている時の人間は、自己コントロール能力や能動性が低下しますよね。それはボクだって認識しています。

 でも、ボクがあえてああいう厳しいことを言ったのは、ひとつには賢ちゃんは決して「心神喪失」でも「心神耗弱」でもない、つまり「責任無能力者」ではない、と考えたからです。だから、自身が他者に及ぼした害悪については(事の大小にかかわりなく)、基本的に責任をとらねばならない、ということなんです。

 「責任」を問うというのは、逆に言えば、その相手を「一人前の社会人」だと認めるということなんです。もし、賢ちゃんが、病いによって責任をとれない状態になっているのだとしたら、賢ちゃんは「一人前の社会人」とは認められず、社会の側から、その社会的な権利を制限されても仕方がない、ということになります。その極端な例が「隔離」といったことですが、賢ちゃんの入院は、「隔離された」ということではなく、あくまでも「病いを癒す」ために、自分から選んだものなんですよ。だから、たしかに「病いによって弱っていた」ということはあるだろうけど、それは免責事項にはならないと思うし、すべきではないと思うんです。頭痛でも腹痛でも、それは充分に苦しい病いだし、それを患っている人も『自己コントロール能力や能動性が低下』します。しかし、彼らが、他人に何か害をなした時、「頭痛(腹痛)だったのだから仕方がない」では済まされないんですね。

 たしかに「鬱」は、頭痛や腹痛といった(一般に)一過性の病いとは違い、重大な結果 を患者にひきおこす場合があるでしょう。しかし、では「鬱」の人だけは、症状の軽い人から重い人まで、すべて「免責」すべきなのでしょうか。でも、これは不可能ですよね。さっきも書いたとおり、「免責」という優遇措置には、かならず「社会権の制限」というものがついて回るんだから、「免責」なんて、簡単に受け入れるべきものではないんです。

 もちろん、それでも、重度の「鬱」を患っている人の場合は、事実「自己コントロール能力」が失われるのだから、本人の意志にかかわりいなく、「自他のため」に「一定の強制措置」が採られるべきでしょう。その場合、その患者は、社会的に「免責」状態におかれる(「責任無能力」と認定される)んです。

 でも、賢ちゃんの場合は、こうした話ではないと思うんですね。たしかに病いを患っているんだから『自己コントロール能力や能動性が低下』しているのは間違いないでしょうけど、「泣き言」が多くて「他人に甘える」という傾向は、「病い」以前の「性格」に由来する部分の方が大きいと思うんですよ。

 たしかに「性格」の問題と「病い」の問題とを截然と分かつことはできませんけど、少なくともボクは、賢ちゃんがあのようなことを「書く」というのは、「性格」に由来する部分の方が大きいと判断したから、あのように「責任」を問うたんです。つまり、賢ちゃんなら、何か辛いことがあって、それが「他人の同情」をひき得ることなら、べつに入院の問題に限らず、ああした書き方をした可能性が高い、と思ったんですね。だから、ボクはそうした問題を、「病者の責任能力」の問題と、安易に結びつけてはいけないと思ったし、病者の側にも安易な「甘え」があってはならない、と思ったんです。なぜならそれは、「病者差別 」を正当化し、それを呼び込むものに他ならないからなんですよ。





( 以下は「ものわかりのよさの影(4)」につづく)


ものわかりのよさの影(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時12分26秒


 くり返しますが、関電の社長に「儂かてわからん男やないから、あんたを責めとうて責めとるわけやない。ただな、もう儂らみたいな悲しいめをみる人間が今後二度と出ないようにして欲しいんや。絶対に二度と事故を起さんと約束してほしい。それだけや」と訴えた男性は、それでホントに、今後の事故が防げると思ったのでしょうか? もしそう思ったのだとしたら、それはあまりにも無認識というもので、それでは死者が救われないでしょうし、訴えるだけでは事故は防げないと思うのなら、今後は関電側に実質的な対応を迫るような運動や働きかけなどして、現実的な圧力をかけていく必要があるでしょう。しかし、「儂かてわからん男やない」と自分で言ってしまう「ものわかりのよい」人間に、果 たしてそんなことができるのでしょうか? ――ボクは「できない」と思うんですね。

 結局、この種の「ものわかりのよさ」というものは、「謝罪されれば、それで納得してしまう」体のものなのではないでしょうか。誤りが正されるまで、しぶとく戦いつづけるといった気力のない、ただ「嫌なことは早く忘れて、静かで平穏な生活に戻りたい」とするような「弱さ」。

 もちろん、そうした気持ちもわからないわけではありません。しかし、そういう「ものわかりのよさ」の中に逃げ込もうとするかぎり、原発事故は無くならないどころか、実質的には「現状が追認される」のは間違いのないところでしょう。だから、ボクはこの男性の「ものわかりのよさ」は、事故死亡者家族のものとしては、あまりにも「きれいごと」に過ぎると思ったんです。ホントに原発事故を無くしたいと思っているのだったら、思いきり「ものわかり悪く」なって、嫌がられてでもしぶとく、実質的な牽制圧力運動をやるというのが、事故で家族をなくした者の、本気の行動であり、真の怒りの姿だと思うんです。

 結局ボクは、この「ものわかりのよさ」というものの中に、「現実」から逃避して「保身」に走る「小市民的な狡さ」しか感じられなかったのでした。

 だから、ボクがここで責任をもって断言できるのは、この男性が、家族を失い、涙ながらに何を訴えようと、原発事故は今後も発生するだろうし、事故死亡者も出て、彼と同じように悲しむ家族もかならず出てくるだろう、ということです。この現実の前には、彼の個人的な訴えなど、何の影響もないだろう、ということなのです。彼が、本気で、原発事故を無くしたいと願うのなら、まずこの認識に立たなければならないし、この認識に立てないようでは、彼の本気は、疑われてしかるべきものでしかない、ということなのです。





( 以下は「ものわかりのよさの影(3)」につづく)


ものわかりのよさの影(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月13日(金)16時11分26秒

 みなさん、こんにちは! 今月9日に関西電力美浜原発で発生した死亡事故について、一昨日だったか、関電の社長が事故死亡者家族に謝罪に回ったというニュースを、たまたまテレビで見かけました。家族の悲しみは察するにあまりあるものの、そのニュースの中での、ある家族の発言に、ボクはひっかかりを覚えました。

 途中からニュースを見たので正確なところはわからないんですが、それは事故死亡者の老父と思われる男性が、土下座するようにして頭を垂れたまま謝罪の言葉をくりかえす関電の社長に、泣きながら喰ってかかっている場面 でした。その老父と思しき喪服の男性は「家族を突然失った者の気持ちが、あんたにはわかるか!」というような非難の言葉を繰り返した後「儂かてわからん男やないから、あんたを責めとうて責めとるわけやない。ただな、もう儂らみたいな悲しいめをみる人間が、今後二度と出ないようにして欲しいんや。絶対に二度と事故を起さんと約束してほしい。それだけや」というようなことを言っていたんです。

 厳しい言い方になりますが、ボクがひっかかったのは、この「儂かてわからん男やない」という言葉です。この男性は、いったい何を「わかっている」と言いたかったのでしょうか。――ボクが思うに、この男性が言いたかったのは「自分は、会社に言いたい放題文句を言って、せいぜい慰謝料でもせしめてやろうとかいうような、そんな輩ではない。自分は、話せばわかる人間だ」という意味だったと思うんです。つまり「会社側には会社側の都合もあろうし、社長が現場をすべて把握するのも無理だろう。だから、あなただけを責めても仕方がないのは重々承知している」というようなことだったんでしょうね。でも、あえて言えば、これは「一般 論」としての「正論」でしかなく、事故死亡者の家族が言うことにしては、あまりにも「きれいごと」に過ぎるとボクは感じたんです。

 例えば、この男性は「もう儂らみたいな悲しいめをみる人間が今後二度と出ないようにして欲しいんや。絶対に二度と事故を起さんと約束してほしい。それだけや」と、本気でそんなことを言っているのでしょうか? そんなことを「遺族の切実な訴え」として語るだけで、原発事故が無くなると信じているのでしょうか? ――もちろん、それで事故が無くなるなんてことはありえません。そんなことで原発事故が無くなるくらいなら、今回の事故だって当然防げたはずです。なぜなら、原発の死亡事故というのは、なにも今回が初めてではないからなんですね。

 もちろん、会社側は「二度と事故を起さないように(全力で努力)します」と答えはするでしょう。しかし、彼らだって本音では「事故を完全に防ぐことは、不可能だ」と考えていることでしょう。なぜなら、人間が作り、人間が補修管理しなければならないような、つまり人間に依存せざるを得ないようなシステムでは、「完全」ということは、理論上でも実際にもありえないことだからです。

 でも、世界で唯一の被爆国(と一応は言われているが、実際はアフガンもイラクも被爆している)と言われている日本では、原子力発電に対する不信感が(かつては相当に)強かったものだから、原発政策を推進する上では、嘘を承知で「管理体制は万全です。事故はありえません。むしろ原子力は、クリーンなエネルギーです」なんてことを訴えなければならなかっただけなんです。

 で、こんなことは、普通の人間(非・エンジニア)でも、少し考えればわかることなんですね。
 ボクはここで、原発の是非を問うているのではありません。ボクが問うているのは、――原発にかぎらず、つまり原発をも例外にできず、――どんなシステムであれ、それが「無事故でありえる」などと信じることが、現実の問題に対して誠実な態度だと言えるのか、ということなんです。





( 以下は「ものわかりのよさの影(2)」につづく)


訂正 投稿者:時雨  投稿日: 8月12日(木)01時31分6秒

申し訳ありません、投稿の番号がおかしくなっていました。
投稿順に1,2,3,4,5です。


富士の湖畔より(4) 投稿者:時雨  投稿日: 8月12日(木)00時25分13秒

園主様(続き)

順番が前後してしまいますが・・・

>『空虚に巣食う魔』(7)〜(21)

大変興味深く拝見させていただきました。
特に『空の境界』上巻の解説の検証は80年代の事情を知らない僕のはとても有難いです。
これで僕も下巻の作品論の論考に集中できます。
ただ、空の境界が笠井潔と講談社の共謀によって祭り上げられてというくだりには全面 的には賛成しかねます。
数字のデータこそ提示されていませんが奈須氏がシナリオライターとして参加した同人ゲーム『月姫』が驚異的なヒットを記録したのは事実です。
これは同人ゲームでありながらファンジン漫画のアンソロジーが10冊以上出版され(同人の同人というわけです!)、TVアニメ化(内容自体はお世辞にも出来がいいとは言えないものでしたが)まで果 たしたということからも伺えると思います。
空の境界のブームは、講談社や笠井潔が持ち上げていると言うこともあるでしょうが最大の要因は、奈須氏がシナリオライターとして所属するTYPE-MOONのファンがゲームの関連商品として買っているところが大きいのではないでしょうか。
90年代後半に流行ったあかほりさとるのノベライズ小説のように。


さて、今夜はこの辺でおいとましますが、これからは余裕が出来たので本格的な意見の作成をはじめます。
とりあえず次は『空の境界』下巻の論考になるでしょうが・・・
それでは皆様、おやすみなさい。


富士の湖畔より(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時59分23秒

園主様

>凶鳥の黒影

>恐縮でございます。
しかし、私なら、好きな作品を「ひどい作品だ」と評価されれば、その批評がいかに理路整然と誠実に語られたものであろうとも、やはり気分的には辛うございましょうね。

僕も最初正直に申し上げれば嫌な気持ちになりましたが、だからといって感情的になって園主様に噛み付いてもそれは不毛な口論を生み出すだけで非生産的です。
ならば、僕がとるべき最善の行動は園主様の批判を受け止めた上で、奈須きのこのファンの立場から「なぜ『空の境界』を魅力的だと感じたのか」を精一杯論理的に語ることだと考えたのです。
というわけで、いずれここで自分なりの『空の境界』だけでなく『月姫』や『Fate/stay night』も含めた「奈須きのこ」論を現在構想中ですのでいずれ投下させていただきます。
僕なりの園主様の誠意への返答として。


富士の湖畔より(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時42分35秒

はらぴょん様

>『瀕死の王』、昭和の終わりに 

>ところで、笠井さんの趣味は、スキーの前は登山だったと記憶します。
で、『スキー的思考』になると「登山的思考」を批判しています。「スキー的思考」的創作観と、「登山的思考」的創作観の間に差異はないのでしょうか。どうも、そのあたりのところが不鮮明なのです。まぁ、「スキー的思考」などという<とんでも>に、クリアな理解をしようとする私が間違っているのかも知れませんが。

まだこの二つについての評論(『スキー的思考論』でしたっけ?)は未読なのですが、いつ聞いてもすごい言葉ですね。僕はスキーできませんからよくわからないですが・・・

>大切なことは、笠井潔の作品や振る舞いを通じて、笠井潔の教えを護教的に守るだけとか、笠井潔を罵倒するだけで終わるのではなく、なにがしかを学ぶことであるように考える。

全く同感です。これは笠井潔批判だけではなくすべてに適用できることですよね。


富士の湖畔より(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時33分22秒

ホランド様(続き)

>へえー、東浩紀さんって、コミケ展開までしてるんですか、さすがは「おたく」を自負するだけのことはありますね(笑)。

それもあるのでしょうが東さんの場合出版業界に強いコネクションを持ってらっしゃらないことが最大の理由ではないでしょうか。
同じように「ジャンルX」や「ライトノベル」に注目する評論家、たとえば笠井氏の場合は作家として、探偵小説研究会の主催者としての地位 をある程度確立しているので商業出版で評論はいくらでも出来る。
また大塚英志氏はもと編集者でメディアワークスの株主でもありますから
「金と責任は全部持つから角川から雑誌ださせて」
といえば後輩編集者に手伝わせて好き放題に評論や対談が出来る雑誌を立ち上げられます(『新現実』のことですが)。
でも東さんは思想評論の世界からこちらの世界にやってきたばかりの新参者ですからなかなか自由に動けない。
そんな中で自分自身の言葉を表現する為に「おたく」であり「ポストモダン世代」である自分の思想の中から出した答えが、参加者と直接交流でき、自由に発言できるコミケへの参加であり有料のメールマガジンという形式なのだと思います。

>『ファウスト』の読者に関する、こないだのボクの書き方は、ちょっと感情的すぎたかなって、反省してます。たしかにあの売り方は好きじゃないんですが、それは読者の責任じゃないですからね。――こないだのボクの文章を読んで、気を悪くなさった方がきっとおられたことでしょう。この場でお詫びしたいと思います。ホントにごめんなさい。

すみません、こちらこそ言葉が足りませんでした!
『ファウスト』にハッタリじみたところがあるのは僕も同意見です。
あの文章は「それでも売れていることが興味深い」といった意味で、ホランド様を非難する意味は含んでいません。


富士の湖畔より(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月11日(水)23時18分59秒

皆様、こんばんわ!
やっと合宿が終わりましたので書き込めます。

ホランド様

>信じる勇気

>若い世代」と言ったって、それは人それぞれで、みんながみんな「清涼院流水」や『ファウスト』や「ゼロの波」を無条件に信奉してるなんて思ってはいませんよ。ただ、どうであれ、時雨さまが「若い世代」に属するという事実は揺らがないし、その代わりはボクらにはできません。だから、「若い世代」の一人としてご参加いただけただけで、なかば期待に応えているってことなんですよ。

そういっていただけると有難いです。

>、「私」という個性を「世代」に回収されて、うれしい人なんて、あんまりいませんからね。でも、「その世代に属する」という事実の持つ意味は大きい、ということは言っておくべきだと思ったんです。――もちろん、あとは個人的に頑張っていただきたいんですが、頑張るというのは、笠井さんを苛烈に批判しろというようなことではなく、ご自分の意見をしっかりと語っていただきたいということなんです。

分かりました。若い世代として、自分の意見をしっかり持つようにします。

>――ただ、ボクは、「文学」が「超越の契機」であることを、完全に「幻想」だと思っているわけでもありません。ごく少数だとは言え、『虚無への供物』のような「恩寵」をうけたとしか思えない作品が実在する、というのも、また事実なんですからね。

「恩寵」ですか。どうも良く分かりませんね・・・
以前読んだ「ドグラマグラ」もなんだか良くわからなかったし。
そうですね、ちょうどいい機会ですからここらで「虚無への供物」を読んでみます。
『超越』か・・・どういったものなのでしょうね。


転向について(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月11日(水)23時01分25秒

『瀕死の王』の編集者は、「虚構と現実が混濁し、相互浸透するのがポストモダン」(P218)とし、「天啓教」を虚構と現実の区別 がなくなった連中とみる。
『瀕死の王』第四章では、「天啓教」と「伝奇小説」と「ポストモダニズム」が関連があるとされる。そして、「天啓教」に自身の「伝奇小説」が影響を及ぼしたかも知れないとする。(この点、彼は別 に嘆かわしいことだとは捉えていない。)そして、「最大の敵役」である天皇の死とともに、自身の「伝奇小説」の時期は終わるという。この結果 、自身は安全圏に脱出し、彼は、自身が脱退した「旧・伝奇小説」と「ポストモダニズム」に対し、「天啓教」の温床となった責任論を問う立場に飛び移ることになる。
ここで、重要なことは、かつて笠井潔は自身の「伝奇小説」と「ポストモダニズム」を対立関係で捉えていたのに、自身が抜けると「伝奇小説」と「ポストモダニズム」が「天啓教」の元凶として結び付けられるということである。
『空の境界』下巻の解説では、「「ニューアカ」を代表した山口昌男の文化理論」(P460)という記述がみられる。正確にいうと、ニューアカデミズムの中心は、浅田彰と中沢新一であり、山口昌男はその先駆者であった。浅田と中沢はポスト構造主義を主張し、山口昌男は記号論を代表していたのである。ここで、笠井が浅田・中沢でなく、山口を持ってきたのは、山口の「中心−周縁」理論の方が「伝奇小説」と関連づけやすいからである。もっと奇妙なことは、笠井潔はかねてから山口昌男は×、栗本慎一郎は○、蓮見重彦は×、柄谷行人は○といってきた人間である。笠井潔は、栗本の「過剰−蕩尽」理論を支持し、山口の「中心−周縁」理論の周縁には共同幻想の外部が入っていないからだめだといってきた。しかし、自身の『ヴァンパイヤー戦争』を含めた「伝奇小説」の枠組みを、『空の境界』下巻の解説で山口の「中心−周縁」理論と関連付けて説明しているのはなぜか。つまり、「旧・伝奇小説」と山口のような「ポストモダニズム」が、オウム真理教の温床となったのであり、自分は早々と手を切ったといいたいのである。そのために、首尾一貫していないご都合主義的改ざんが行われていると考えられる。
こうして、笠井潔の何度目かの転向が行われる。それはオウム真理教から離れて、終わりなき日常としての援交とブルセラを肯定せよと説く初期の宮台真司に似て、オウム真理教から離れて、終わりなき日常としてのゲーム、ライトノベル、新伝綺小説などを肯定せよと説く立場である。(それにしても、あまりいい転向先とはいえないですね。ぷぷい。)


転向について(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月11日(水)23時00分32秒

『瀕死の王』第四章(講談社「メフィスト」2004年9月、連載第七回目)で、作家宗像冬樹は「『堕天使の冬』の続編を出してから、中心的な仕事をSF伝奇小説に移した。」とあり、「『鬼道伝』の第一巻が、現象学探偵シリーズの十倍という読者を獲得した」(P217)とある。
ここで宗像冬樹は笠井潔、『堕天使の冬』、『鬼道伝』は『ヴァンパイヤー戦争』を指していると考えられる。
作家宗像冬樹は『鬼道伝』の最終巻を脱稿したあと、伝奇小説の新作『補陀落島秘録』の構想をまとめてみるが、「棚上げにしよう」とする。宗像冬樹は「なんだか気が抜けた」と感じており、伝奇小説ブームの終わりを予感しているようだ。(P217〜218)
さて『補陀落島秘録』が何を示しているか。コムレ・サーガのうち未刊の『無底の王』ではないかと考えるが、どうだろう。
やる気をなくした宗像冬樹に、編集者は伝奇小説ブームの峠は過ぎたが、「伝奇というジャンルは残る」とし、「天啓教」を指し示す。「天啓教」は「『縄文の霊性で近代の超克を』というビラを配っており、「近代の超克」にはポストモダンというルビが振られていたとされる。編集者は『鬼道伝』を読んで「天啓教」に入ったものもいるかも知れないと宗像をおだてる。(P218)
では、現実はどうか。「天啓教」はオウム真理教のことである。そして、笠井潔はオウム真理教の獄中幹部から、自分は笠井のSF伝奇小説の読者であり、「自分にとってオウムとはコムレ教なのだ」と書かれた手紙を受け取ったことがあるという。(笠井潔・東浩紀往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書、P113)
この後、『瀕死の王』第四章は、日本のポストモダニズムが、バブル的繁栄とリンクしており、ポストモダニズムの唱えた「差異化の時代」や「記号の時代」が、商業資本のスローガンとなったという見解が述べられる。(P218)これは、「浅田彰という装置」(『<戯れ>という制度』作品社に収録)での浅田ブームと「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が連動しているという見解と同一である。
確かに、浅田彰の『逃走論』には、商業広告におけるコピー文化を評価した軽めのエッセイが含まれていた。浅田の場合、自著が売れすぎたことを警戒し、自身を「隠れ左翼の優雅な論客」(蓮見重彦による浅田評)ではなく、単なる左翼であると宣言し、軌道修正を行うことになる。


凶鳥の黒影(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時35分1秒


 ホランド
> すでに報道のなされていますとおり、現在、中国で行われているサッカー・アジアカップで、中国人観客が露骨な反日感情を示し、ブーイングなどをおこなったことが、ちょっとした政治問題に発展しています。

サッカー・アジアカップは、日本の優勝で幕を閉じたようだが、相変わらず、ものの表面 しか見れない人も多いようだな。

例によって、日本を代表する極右の石原慎太郎東京都知事は、日本や自分の行いは棚上げにして、ブーイングを行った中国人観客について『中国は民度が低い』と、ことさら差別 的な発言をしたようだな。こんな石原を見て、中国人が「日本人は民度が低い」などと短絡思考しないことを祈るよ(笑)。

ちなみに、自分は「低くない」と思っているらしい石原慎太郎の、読書界での評判を紹介しておこう。
ご存じ『文学賞、メッタ斬り!』から、芥川賞選考委員 石原慎太郎の「選評」についてだ。

豊崎 シンちゃん(石原慎太郎)の特徴は、必ず時代の閉息とか日本社会の衰退とかを、文学に重ねるとこです。エラソーな、ごタイソーなことを言って候補作を否定していく御仁です。
大森 T私達の属する国家社会の衰退を感じさせる昨今だが、どうもこの国の文学の方も衰退の感を否めないUとか。
豊崎 でしょ? あるでしょ。もおっ、毎回そうなんですよ。例えば堀江敏幸さん(『熊の敷石』124回)がとった時なんかもすごいですよ。

 ……随筆に毛が生えたような程度の小説が人生への刺激たり得る訳もない。文学の衰退の一つの原因は、それでも良しとする作家側の倒錯にもあるようだ。

 文学と国家の衰退がこの人のクリシェです。小説とは、文学とは、と大上段に構えて高みから見下ろさないと気がすまないんですよ。
大森 国の将来を見据える政治家は言うことが違うと。
豊崎 そう。シンちゃんは、政治家なんだから選考委員は降りるべきなんですよ。せめて、話し方教室と書き方教室通 ってからもいっかい出直してほしい(笑)。だいたい言葉遣いからして間違ってる人ですからね。主語と述語がつながっていかない文章がものすごく多くて、ある種の文体実験を読まされているような気持ちにすらなってきます(笑)。これなんか意味取りにくいですよ、中村文則さんの「銃」(128回候補作)についてなにかいってるんですけど、

 この社会では非合法、故にも所持そのものが犯罪ともなる拳銃という凶器に対する人間の本能的なフェティシズムがやがては生活を支配してかかり、その実際の使用、発射殺戮への衝動が彼を呪縛していく。


 何回読んでもよくわからない。
大森 T人間の本能的なフェティシズムUねえ。独創的な言葉遣いです。
豊崎 受動と能動の使いかたをよく間違えるのも特徴的です。「銃」についての文章はTこの作家の力量 、というよりもそれ以前の、最後までドライブがかかり通すエネルギーは貴重で、Uと続いていくんだけど、これはTドライブをかけ通 すエネルギーUにしなきゃいけない。極めつきが、


 藤野千夜氏の「夏の約束」はホモという異常な世界を余儀なくする主人公たちのスケッチだが、これがまともなヘテロの人間世界だったら何の劇性もありはしまい。という批評は偏見に依るものだといわれても、私にはあくまで一人の読書として何の感興も湧いてこない。平凡な出来事の中で描いてホモを定着させることが新しい文学の所産とも一向に思わない。……


Tホモという異常な世界を余儀なくする主人公が……。Uって、なんだよそれ。TするUじゃないでしょ、T余儀なくUはTされるUんだよっ(笑)。編集者も手を入れてやればいいのに。Tホモという異常な世界Uとか、差別 的発言もひどい。さすが、女は生理があがったら社会として養う価値がない、生き物としての価値がないっていうご意見をもっておられる御仁ですね。こういう人には、下半身御意見番のジュンちゃん(※ 渡辺淳一)からTこの種のことを書くときはもう少し勉強して、真摯に書くべきだろうUって御注意をしていただきたい(笑)。
大森 たぶん、知事は言うことを聞かないと思うけど(笑)。』(P99〜101)

「奈須きのこVS石原慎太郎」の「日本語」対決というのも、なかなか面 白いかも知れないな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


凶鳥の黒影(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時34分10秒


 はらぴょんさま
『瀕死の王』、昭和の終わりに

> ところで、笠井さんの趣味は、スキーの前は登山だったと記憶します。
> で、『スキー的思考』になると「登山的思考」を批判しています。「スキー的思考」的創作観と、「登山的思考」的創作観の間に差異はないのでしょうか。どうも、そのあたりのところが不鮮明なのです。まぁ、「スキー的思考」などという<とんでも>に、クリアな理解をしようとする私が間違っているのかも知れませんが。

結局のところ、「スキー的思考」とか「登山的思考」というのは「比喩」でしかなく、単なる「比喩」を「本質」的なものと取り違えるところに、混乱が発生するのでございましょう。笠井潔には、「比喩」と「現実」を混同する傾向があるようでございますね。つまり「○○と語りうるものは、○○である」と考える。しかし、これは「観念的事実」としての「実感」ではあっても、「事実」そのものではございません。

結局のところ、笠井潔の理屈というものは、たいてい『中から湧くものだから駄 目(中略)中にあるものなんか何でもアリで面白くない』ということになるのでございますね、本物指向のある者には(笑)。


> 「……一九七〇年代以降の伝奇小説は、天皇を最大の敵役に祭りあげることで物語的な力を得てきた。天皇が死んだら、伝奇小説を支えてきた構図が土台から崩れてしまう。」
> 最近作『瀕死の王』で、笠井潔は自身をモデルとする宗像冬樹にそう言わしめている。(講談社「メフィスト」2004.9月号P213)

なんとかの「ひとつ憶え」でございますが、空虚に巣食う魔(9)で分析いたしましたとおり、笠井のこの「八〇年代伝奇小説」論は、かなり恣意的で胡散臭いものだと存じます。


> クロソウスキーは、ここで神を罵倒する者と、神の共犯関係を指摘している。
> この観点は、<笠井潔を罵倒し、その結果、笠井潔を存在させることになる>危険性も、同時に示すものである。
> 大切なことは、笠井潔の作品や振る舞いを通じて、笠井潔の教えを護教的に守るだけとか、笠井潔を罵倒するだけで終わるのではなく、なにがしかを学ぶことであるように考える。

笠井潔に学んだ最大のことは「いくら頭が良くても、思想・哲学の勉強をしてみても、それだけでは、自身の人間的「弱さ」を乗り越えることはできない。むしろ、人間の業は、そういうものをも体よく利用し、自身の弱さを正当化して、延命を図るものである」ということでございましょう。「二乗不作仏」ということを、イヤというほど見せつけてくれたのが、笠井潔なのでございます。



 アーニャ
> ホランドくんの「政治とスポーツの混同」に対する抗議は、かのピクシーが常々口にしてたことだって、Keenさまが感動してたわよー。
> 「サッカーは、国家間の諍いの因縁に影響され易いスポーツ」なんじゃないかしらね。
> もともと、サッカー発祥の地・ヨーロッパでは、村と村との争いごとの解決法として、サッカーの元になったゲームを利用してたり、村を上げての狂乱の祭り(ストレス解放)に、やっぱり前サッカー的ゲームを行ってたりしたようだから、現代の「戦争モドキ」や「フーリガン」の起源も、そこらへんに関係あるんでしょうね。

問題は、人が「起源」や「出自」に囚われすぎるという点だろう。サッカーがどのような「起源」や「出自」を持っておろうと、それに縛られなければならない理由はない。大切なのは「如何にあるべきか」であり「これから先」のことなんだよ。

> アリョーシャ、皆さま、Keenさまをまたちょっと温泉に連れてくわね。

今ごろはまだ温泉かな? まあ、3人と1匹で湯当りしておいで(笑)。





( 以下は「凶鳥の黒影(4)」につづく)


凶鳥の黒影(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時27分21秒


 時雨さま
わかりました。丁寧な説明痛み入ります。
> ですが僕には 『空虚に巣食う魔』に対する不快感はありません。
> 批判は論理的かつ適切なものでしたし、今回説明してくださったような考えに裏打ちされているのであれば何も言うことはありません。
> むしろ信者意見ばっかり聞いて茹だっていた頭がいいかんじに冷えたので感謝したいぐらいです。

恐縮でございます。
しかし、私なら、好きな作品を「ひどい作品だ」と評価されれば、その批評がいかに理路整然と誠実に語られたものであろうとも、やはり気分的には辛うございましょうね。

ちなみに、過日お読みいただいたのは、『空虚に巣食う魔』の前半(1)〜(6)であり、本日は後半の(7)〜(22)をアップさせていただきました。
この後半をお読みいただければ、私がどうして、さほどの興味もない『空の境界』の評価をあえて語らなければならなかったが、おわかりいただけようかと存じます。――お勉強の方が一段落してからで結構でございますから、ぜひご感想をお聞かせ下さいまし。


>>ここ「花園」は、テーマを限定しておりません。もとより『許し』など、必要ないのでございます。ですから、なんなりとお書き下されば結構でございますよ(笑)。

> ありがとうございます。それでは完成したら書き込ませていただきますので、忌憚のないご意見をお願いします。

どのようなものを読ませていただけるのか、楽しみに待たせていただきます(笑)。


>> 第一、プロのスキーヤーでも何でもなかった「ただのスキー大好きおじさん」が、還暦でインストラクターデビューして、いったい誰が教わるというのでございますか? いくら笠井潔でも、そんな大ボケをかましたりは、いたしませんでしょう(笑)。

> あ、その客を確保する為に「探偵小説研究会」を設立したのでは(笑)?

しかし「探偵小説研究会」のメンバーは、平均年齢も高く、基本的に書斎派でございますからね。それよりは新たに「伝奇小説研究会」を設立して、若いメンバーを募った方が賢明かと存じます。若者との交流は、私ども高齢者の「ボケ防止」にもなりますし(笑)。

> 金言ありがとうございます。一長一短というわけですね。

何かを得るということは、往々にして何かを失うことなのでございましょう。問題は、それに気づく方が少ないということなのでございます。



 Keenさま
「年寄り」と「若者」の一長一短、懐かしいですねー(笑)。
> 私18才、中井さん62才の当時、中井さんが若い頃に見たという映画やらシャンソンやらの話題に「ついて行けない」のがもどかしくて、片っ端から古いフランス映画見たりしたものでした(照)。何しろビデオもなかった(※ウチには)ので、名画座とかまわったりして……若かったんだなあ。今思うと、44年のキャリア差をそう簡単に埋められてたまるもんですかってなもんですが、当時は、自分がモノを知らないことが悔しく、恥ずかしかったんじゃないかなあ。

それが普通でございますよ。私などは未だに「一切智の夢」を棄てられない人間なのでございますから(笑)。――まあ、また、そういう性格だからこそ、「年寄りは、たくさん知ってて当たり前」なんて不遜なことを、若い頃から考えていたのでございましょうね(笑)。

> でも、園主さまとの電話のやりとりの様子はいかにも賢ちゃんらしくて、笑えますねー。(^0^*
> まあ、ウツが進むと、好きだったものにも興味がわかなくなったり、ちょっとしたことでも面 倒でできなかったりするんで、そういうのもあるんでしょうか。
> しかし「ケータイは禁止」っていうから、公衆電話もダメなのかと思ってましたが、そんなはずないですよね〜(笑)。

そのうちきっと、Keenさまのところへも電話を寄越すことでございましょう。鬱(の気分)を伝染させられないように、せいぜいご注意下さいまし(笑)。





( 以下は「凶鳥の黒影(3)」につづく)


凶鳥の黒影(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月11日(水)00時26分8秒

みなさま、いよいよ「中井英夫へのオマージュ集」の内容が、確定したようでございます。河出書房新社から2004年9月17日の刊行予定で、予価のみ2300〜2400円と未確定とのことでございます。


    凶鳥の黒影――中井英夫へ捧げるオマージュ

      L'ombre noire d'un oiseau sinistre
      ―― Hommage a HIDEO NAKAI


     【序文】
     鶴見俊輔:序文「中井英夫のこと」

     【短篇】
     赤江瀑「歌のわかれ」
     有栖川有栖「彼方にて」
     北森鴻「銀河・1984」
     倉阪鬼一郎「黒月物語」
     竹本健治「黒の検閲」
     獄本野ばら「流薔園の手品師」
     津原泰水「ピカルディの薔薇」
     皆川博子「影を買う店」
     森真沙子「墓地見晴亭」
     中井英夫「黄泉戸喫」

     【エッセイ】
     恩田陸「邂逅について」
     笠井潔 「中井さんと遇うまで」
     菊池秀行「彼は怒っているだろうか」
     北村薫「彗星との邂逅」
     長野まゆみ「蛻のから」
     三浦しをん「残酷な力に抗うために」
     山田正紀「『虚無への供物』への供物」

     【あとがきにかえて:短篇】
     本多正一「壁画と旅する男」

     【年譜】


おなじみの人から、「えっ、この人もファンだったの」という若手まで、個性的な顔ぶれの揃った、期待できる内容となっております。装丁も、光文社文庫版『神聖喜劇』や『江戸川乱歩全集』の間村俊一が担当し、ビジュアル面 でも凝った一冊となる模様でございます。

同書が刊行されましたら、また「INFORMATION」の方で書影を掲載してご案内いたしますが、それまではこれだけの情報で、あれこれ期待を膨らませて下さいまし。決して裏切られない一冊となっているはずでございます(笑)。


さて、本日(8/10)、過日話題にのぼりました京都のアスタルテ書房から「先日おっしゃっていた、山本タカトの新画集(『ファルマコンの蠱惑』)のサイン入りがはいりましたので、ご入り用でしたら、いつでもおいで下さい」との電話がございました。したがいまして、アスタルテ書房は山本タカトおよび版元のエディション・トレヴィルに無視されたわけではなく、山本タカトおよび版元のエディション・トレヴィルも義理を欠いたわけでもなかったようでございますね(笑)。――まさか、ここであのようなことを書いたから、山本タカトかエディション・トレヴィルが、慌ててサイン入り画集を送った、というようなこともございませんでしょうし(笑)。
ちなみに、関西で(しばらくの間は定価で )この画集をサイン入りであつかうのは、たぶんこのアスタルテ書房くらいしかないものと存じます。ご興味のある方は、ぜひこの機会に、(「裏で黒ミサをやっているんじゃないか」とか何かと)噂に高いアスタルテ書房にお運び下さいまし(笑)。





( 以下は「凶鳥の黒影(2)」につづく)



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