●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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永遠の「観念の俘囚」(18) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時49分11秒


> (6)ここまで見てきたように『九十九十九』は、舞城の創作観や、ミステリ観が剥き出しになった作品といえる。誤配もしくは遅配によるタイムスリップで、三人の「九十九十九」が誕生するが、ひとりめは「オリジナル」と呼ばれる「九十九十九」であり、この作品世界の創造主である「清涼院流水」を探し、単一の現実に到達しようとする。ふたりめは「コピー」と呼ばれる「九十九十九」であり、「オリジナル」の「九十九十九」が行っている真実さがしをナンセンスだと否定し、複数の虚構の中で生きようとする。そして、三人目はこのふたりの「九十九十九」を俯瞰的に見ている「九十九十九」である。推測するに、舞城本人はこの三人の「九十九十九」を抱え込んだ人間ではないか、と推測される。しかし、それは舞城ひとりだけの問題ではない。私たちにしても、単一の現実に向かおうとする「オリジナル」の部分と、複数の虚構の中で戯れようとする「コピー」の部分と、両者に没頭できない醒めた部分とが混在しているのではないか。とすれば、この小説は私たちの姿を映しだす鏡として機能するのではないか。

誰もが『三人の「九十九十九」を抱え込んだ』存在だというのは、まったくそのとおりでございましょう。しかし、これは非常に常識的で「リアルな人間観」なのでございます。

舞城王太郎は、こういう当たり前に「リアルな人間観」を持った作家であったからこそ、「本格ミステリ」の世界の「観念的倒錯」性を、本能的に見抜き、それに反発したのでございますね。
そうした意味で、舞城王太郎の『九十九十九』とは、笠井潔的な「本格ミステリ」を葬送する企て、笠井潔的な「本格ミステリ」の「墓碑銘」たらんとする「アンチ・ミステリ」としての企てだったのでございます。――ただし、その手際は、お世辞にも「鮮やか」だとは、言いかねるものだったのでございますが(笑)。



 ホランド
> きっと園主さまは「反時代的な頑固じじい」になりたいんでしょうね(笑)。

だって、頑固じじいは、カッコいいし、可愛いだろう(笑)。





それでは、みなさま、本日はこのへんで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


永遠の「観念の俘囚」(17) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時48分33秒


 はらぴょんさま(つづき)

(5)P516からP520の記述には、清涼院流水・島田荘司・笠井潔・京極夏彦・竹本健治らの名前がみられ、この作品が彼らを意識して書かれていることが伺われるが、P272からP274では、最近のミステリ評論の中の「大量 死理論」に対する反発の言葉がみられる。無論、「大量死理論」とは笠井潔の唱えた理論である。
> 「世界大戦中に発生した大量死への反発が<特権的な死を死ぬ>ための装置としての推理小説の隆盛を呼んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。本物の特権的な死というものは皆に惜しまれて死ぬ 死であり病苦に耐えて生命の活力を全て使い果たした挙句にやってくる死であり家族や友人や多くの知らない人たちに看取られる死であり死にたくて死にたい方法で死にたいときに死ぬ 死であり死ぬべくして死ぬ死である。特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。」
> 「九十九十九」は、『聖書』とかの見立てのために、自分が殺されることは望まないとし、そんな死は決して特権的な死ではない、と反発する。

つまり、笠井潔の「大量死理論」とは、「現実」には「多様な意味を持つ(意味を確定し得ない)、現実の死」に対し、それをあたかも「外部」から俯瞰するがごとき視線で「意味づけたもの」、つまり自身「内部の存在(人間)」でありながら、あたかも自分が「作者」や「神」のごとき「外部の存在(特権的存在)」であるかのような「誤った自己認識」に立って語られた、賢しらな「妄言」でしかない、という意味なのでございましょう。

そして、そうした意味では、笠井潔は「後期クイーン的問題」もしくはゲーデルの「不完全性原理」を正しく理解していない、と言えるのでございますね。
笠井潔の理解は、いつでも「観念的」であり、自身の「実在」がその認識に繰り込まれることは、絶えてないのでございます。ですから、笠井潔はつねに、自己認識を裏切る行動を繰り返さざるを得ないのでございましょう。

ついでに申しますと、法月綸太郎の「後期クイーン的問題」に関する「苦悩」などというのも、同種の「茶番」に過ぎません。
法月綸太郎は、自分がエラリー・クイーンの「正統な嫡子」であるとの誤認(じつは「単純な猿真似」でしかない)によって、自分はエラリィ(作中探偵)の「苦悩」を共有できる特権的存在であると「勘違い」しただけなのでございますね。つまり、法月のいかにも「観念的な苦悩」とは、幼児が特撮ヒーローになりきってしまうのと同様の、実に「幼稚な心性」に支えられていたのでございます。ですから、「番組」が終れば自ずと熱が冷めるように、法月綸太郎の「苦悩」とやらも、時間の経過とともに深まりを見せることはなく、何時の間にか雲散霧消して、後には「保守的な本格ミステリ作家」を残すに止まったのでございます。

したがいまして、舞城王太郎の反発とは、笠井潔や法月綸太郎に見られる「ウソ臭さ」に対するものなのでございます。リアルで常識的な「現実」認識からすれば、笠井潔らが「もっともらしく理論づける世界」こそ、逆に「ウソ臭い」ものでしかございません。また、そんな輩が、「清涼院流水の世界は破綻しており、何のリアリティーもない」と言うのですから、へそ曲がりな舞城王太郎は「ならば、その『何のリアリティーもない』清涼院流水の世界を使って、あなた方がリアリティーがあるとする、本格ミステリの世界の欺瞞性を暴いてやろう」と考えたのではないでしょうか。そうした感情が、

> 特権的な死とはあくまでも現実で日常にある、穏やかで威厳に溢れた死だ。誰もおかしなトリックを使われて殺されたいとは思わない。

という部分には、とてもよく現れていると存じます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(18)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(16) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時47分48秒


 はらぴょんさま(つづき)

(3)各章で起きる残忍な事件に対し「九十九十九」は推理をして解決を行うが、「九十九十九」は現場に着く前に推理を用意していたり、事件の黒幕が「九十九十九」であったりする。「九十九十九」の推理は、ミステリ・マニアの期待に応えるための意外性を帯びているが、その中身はこじつけの連鎖であり、「後期クイーン的問題」以降の探偵であることがわかる。「九十九十九」は、決して推理を持って真実を射抜くことができないということを、あたりまえの認識としている。

『「九十九十九」は、決して推理を持って真実を射抜くことができないということを、あたりまえの認識としている。』というのは、この場合、『「後期クイーン的問題」以降の探偵』と言うよりも、むしろ『九十九十九』という作品が「本格ミステリという予定調和の欺瞞的世界」に反発した「予定調和の存在しない世界のミステリ」つまり、真の意味での「アンチ・ミステリ」だということでございましょう。


> (4)『九十九十九』に登場する「清涼院流水」は創造主の如きポジションを得ているが、神としての「清涼院」に対して、容赦ない言葉が炸裂する。P143で、昔は<流水大説>を書いていたが、<述べる主>となり、<述べ足り内/述べ切れ内>となり、<脳辺那井>となり、<もうお前とは喋ってやんねー世>となり、現在<意味判らせてやらねー世>になっているというのだ。『九十九十九』において、神といえども絶対者ではないし、全知全能でもない。神もまた「後期クイーン的問題」もしくは「不完全性原理」に従う。

「作品世界」に取り込まれた作者とは、竹本健治の「ウロボロス」連作における「小文字の作者」であり、それはすでに本来の「作者」ではない、ということに過ぎません。つまり、「外部の作者」の権威も、作者自身が「作品の中」に取り込まれれば、失効せざるをえないということでございましょう。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(17)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(15) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時46分7秒


 はらぴょんさま(つづき)

では、矢吹駆の言う、名探偵はその答えを『「初めから知っていたのさ。」』とは、どういう意味なのか。それは、「作中の名探偵」は最初から「作品の外に存在する作者」から「正解」を与えられた特権的な存在である、という意味なのでございましょう。

つまり、この段階で、笠井潔は「経験」的に、「作中の名探偵」が「作中の事件」を『一度きりの企てで、真実を射抜く』 などということは、本来「不可能」であること、「作品の外の作者」が介入することにより、初めてその「不可能が可能になる」ということ、を知っていたのでございますよ。言い換えれば、この認識こそが、まさに『「ある無矛盾の公理系のなかには、Aも証明できないしAの否定も証明できない、というような命題Aが存在する」(第1不完全性定理)と、「公理系が無矛盾であるかぎり、公理系はおのれの無矛盾性を証明できない」(第2不完全性定理)』といったことなのでございます。つまり、「外部(上部審級)の介入」という「公理系の矛盾」を含まないかぎり、「絶対的証明」は不可能なのだ、ということなのでございますね。

ですから、笠井潔の『認識の変遷』と見えるものは、じつは「興味の変遷」に過ぎないのでございましょう。以前は「そんなこと(小説作法としては)当たり前だ」と思って見過ごしていた事実を、法月綸太郎が引っ掛かった「後期クイーン問題」をきっかけ、再考してみる気になった。その結果 、前からわかっていたことを、ことさらに『論理的に、探偵は唯一の真実に達することは「できない。」』と、ゲーデルや柄谷行人の口まねをして、重々しく語りたくなった、というだけのことなのでございます。

経験的に言えば、現実の複雑な事象を『一回きりの企てで正しく推論すること』など、どんな「技法」を持ってきたとしても、とうてい不可能なのでございます。「現実」という『無矛盾の公理系のなか』に存在する「人間」とは、仮構された「全知の悪魔(マックスウェルの悪魔)」でもなければ「世界創造の神」でもなく、無論、この世界の外部にいる「作者」でもないのでございますからね。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(16)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(14) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時45分13秒


 はらぴょんさま(つづき)

錯綜するリアル、複数化する自己[17]〜[20]

> 矢吹駆はナディアに、名探偵は幾多ある等価の仮説の中から「なぜ一回きりの企てで正しく推論することができたのだろう。」と問い、その答えを「初めから知っていたのさ。」とする。(『バイバイ、エンジェル』角川文庫版P41)一度きりの企てで、真実を射抜くことができるのは、現象学的本質直感だから、というわけである。
> ところが、最近の笠井潔は「論理的に、探偵は唯一の真実に達することは「できない。」」(『本格ミステリ これがベストだ! 2004』創元推理文庫P33)と書いている。この認識の変遷の影には、「後期クイーン的問題」がある。
> 法月綸太郎にとって問題化した「後期クイーン的問題」とは、エラリー・クイーンの後期の作品(たとえば『九尾の猫』)では、犯人が探偵の推理を推理して、その裏をかくという事が行われているという。その結果 、探偵は誤謬推理を行い、その誤謬のせいで死者が出て、煩悶することになる。
> これは、柄谷行人が『隠喩としての建築』で、問題にした「ゲーデル的問題」のミステリ版である。数学者クルト・ゲーデルの唱えた不完全性原理とは「ある無矛盾の公理系のなかには、Aも証明できないしAの否定も証明できない、というような命題Aが存在する」(第1不完全性定理)と、「公理系が無矛盾であるかぎり、公理系はおのれの無矛盾性を証明できない」(第2不完全性定理)というものである。柄谷は、あらゆる思考体系は形式化を突き詰めると「ゲーデル的問題」に至るとし、そこから脱構築の糸口をさぐろうと企てた。

笠井潔の『認識の変遷』と見えるものは、じつは変遷などではございません。

『一度きりの企てで、真実を射抜くことができるのは、現象学的本質直感だから』という説明は、「文学的な(ドラマチックな)誇張」でしかないことは、角川文庫版『バイバイ、エンジェル』の解説で竹田青嗣が、

『 ほんとうはT本質直観による推理Uとは、作者が読者(ひと)を食っているのだ、すこし注意すれば、矢吹駆のまた、歴代の著名な推理家たちと本質的に違った仕方で謎を解いているわけではないことがわかる。』

と書いているとおりで、このことは笠井潔自身も、自覚しているはずなのでございます。つまり『一度きりの企てで、真実を射抜くことができる』『現象学的本質直感』とは、原理的にはありえても、「現実の複雑な事象」にまで、それをそのままに適用できるようなものとしては存在しない、ということを、笠井潔も理解していたということなのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(15)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(13) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時43分26秒


 はらぴょんさま(つづき)

庚申堂をめぐって

> 本当は、ここに笠井氏本人が登場して、「あの意味はね……。」と語ってくれるのが望ましいのですが、無理でしょうね。

語ったとしても、本音は語らないでしょうね。なにしろ骨がらみの「政治屋」ですから(笑)。

それに『虚無なる『虚無への供物』の作者へ』という献辞の不明瞭さは、「本音を込めてはおきたいが、その本音を見透かされたくはない」という二律背反から生じているのだとも存じます。


> 「庚申堂」には、「見ざる、聞かざる、言わざる」がいますが、これはここで行われた話は秘密だということだそうです。「庚申堂」には、若者が集って、共同体を変革する話し合いとか、秘密にしないといけない良からぬ ことを話していたとか……。

「庚申信仰」とは、

『 中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としている。
 「庚申=かのえさる」の夜、人の体内に住む「三尸」という虫が、その人が熟睡している間に、天に上って、閻魔さまの眷属である「司命」(閻魔大王の眷属参照)に善悪の報告をするそうである。大きな罪は300日、小さな罪は3日いのちが奪われる、とされる。
 庚申の日ごとに常に徹夜をしていれば、三尸は天に上って司命に人の罪過を告げることができない。だから庚申の晩に身をつつしんで夜明かしをすれば、早死にを免れて長生きをすることができる。
 このような思想を「庚申信仰」と呼ぶ。
 平安から室町時代までは、徹夜の時間つぶしに詩歌管弦をはじめとする種々の遊びをしたが、室町中期より、青面 金剛など崇拝対象の前で勤行をするように変わった。このような行事を行うことを「庚申待(こうしんまち)」という。
 行事の主体が16世紀には、農民や町衆などにひろがっており、やがてこうした行事を行うグループが「庚申講」と呼ばれるようになる。』(参照ページ

というようなことのようでございますね。

つまり「庚申堂」のなかで話されたことは、誰にも「告げ口」できないよ、という意味なのでございましょう。そこで、この「庚申待」という制度を利用して、よからぬ ことの打ち合わせなどもなされたのでございましょうね。
つまり、「庚申堂」とは、「外部」と切れた「特権的空間」ということであり、その意味で「庚申堂」は、網野善彦のいう「無縁・公界・楽」に隣接した小空間だとも言えるのでございましょう。

ちなみに、「庚申信仰」が『天』と絡んでくるというのは、面白い偶然だと申せましょう。
笠井潔は、天から「天啓」の降ってくるのを待っているのでございますが、「笠井潔葬送派」という「三尸」の虫が、天に昇って「笠井潔は、こんなことやってまっせ、あんなせっこいこともやってまっせ」と報告するものでございますから、なかなか天は、笠井潔に「天啓」を降らせてくれません。で、笠井潔は「探偵小説研究会」という「庚申堂」に籠って、日夜陰謀をたくらんでいる――とまあ、こういう構図も成り立つのでございます(笑)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(14)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(12) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時42分9秒


 はらぴょんさま(つづき)

(7)笠井潔の「天啓の器」としての作家像は、彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とリンクしています。彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とは、スキーのように重力に逆らわず、堕ちるがままにすること、すなわち、すべてを受け入れることです。彼は、天啓は向こうから訪れるが、それを受ける準備をしていないと受け止めることができない、とします。

笠井潔が、中井英夫と「恩寵」の思想を結びつけたのは、何よりもまず、中井英夫自身が、しばしば「恩寵」や「神の手」「天帝」といったイメージを偏愛し、繰りかえして語っていたからでございましょう。もちろん、笠井潔の評価には、ヴェイユの「恩寵」思想も影響しているでしょうが、それがメインではないと存じます。


> (8)「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉は、一方で『虚無への供物』の作者という器には、天啓が注ぎ込まれることはない、という意味を持つと同時に、現在の私という器には天啓が満ち溢れているという意味があると考えます。

当時の笠井潔が、そういう充実感を感じていたのは、事実でございましょうね。しかし、『哲学者の密室』は「天啓に由来する作物」とまで言えるような作品ではないと存じます。あれはあくまでも、地上の人である笠井潔が、刻苦勉励したその成果 として、「努力賞」的に完成した、誉められてしかるべき「力作」なのだと存じます。


> (9)『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです。

つまり、笠井潔も当初は「初な作家」であったけれども、だんだん「別格の傑作」を書いて「別 格の作家」の仲間入りをしたいと考えるようになっていった、ということでございましょう。

しかし、なにしろ笠井潔は、本質的に「俗物」でございますから、『超越的なインスピレーション』を欲する反面 、世俗的な政治性を捨て切れません。『超越的なインスピレーション』とは、本来、欲して得られるものではなく、それはまさに「恩寵のごとく降る」ものなのですから、地上的な営為としての文壇政治にかまけている笠井潔に、そんな「恩寵」が与えられることはございませんし、たまさか降ったとしても、笠井潔はそれを捕えそこなうことでございましょう。――お金が落ちてないかと地面 ばかり見ている者の注意力は、とうてい上方にまではいたらないのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(13)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(11) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時41分8秒


 はらぴょんさま(つづき)

(5)…『天啓の器』では、作者とは天啓の器に過ぎず、創作の天啓は向こうから来るとします。笠井潔は、以前から『虚無への供物』を書いた作者と、『とらんぷ譚』の作者のキャラクター的不一致を感じていたようですが、ここでは創作ということで、多少名前は変えられてはいますが、『虚無への供物』を書いた塔晶夫と、『虚無への供物』に続く「アンチ・ミステリー」を書けずにいる中井英夫を別 人と見做し、後者が前者の作品を盗作したのではないかという妄想にまで至ります。

たしかに『妄想』的と申しましょうか、「願望充足的」と申しましょうか、そんな乱暴とも言える手法が『天啓の器』では採られております。しかしこれは、『虚無への供物』という怪物的な傑作の作者と、『とらんぷ譚』等の短篇に代表されるような「マイナー・ポエットの作家」が、同じ肉体に宿るものとして無理に理解するよりも、「むしろ分離して理解した方が、ことの本質に迫れるのではないか」という理解が、笠井潔にあった、ということではございませんでしょうか。

もちろん、私は、この考え方もまた、笠井潔の願望に由来する「謬見」でしかないと思うのでございますが、しかしこれを、『妄想』とまで単純化してしまうのも、いかがなものかと感じるのでございます。


(6)『天啓の器』は、評論では書けないような本音が語られてしまっています。『虚無への供物』を書いた後の中井英夫は、かつて天啓を受け止めた器であるが、いまや器のなかは虚無であり、空(から)であるということです。但し、これが笠井潔の創作観であり、彼の考える作家像ですから、これは中井英夫にとどまらず、古今のあらゆる偉大な作家にも適用される作家像と考えられます。

この要約は、やや粗雑に過ぎると存じます。「天啓の器」とは「天啓を必要とする飛び抜けた作品を生み出すための器」という意味であり、その天啓がなければ『空(から)である』ということではございません。
つまり、笠井潔は、中井英夫は「天啓」が無くても、「マイナー・ポエット」として評価できるような作品なら自然に書けた作家であり、中井英夫本来の姿はそこにある、と評価していたのでございます。
つまり、笠井潔の評価によっても、中井英夫は、二度と「天啓」が降らなくても、それなりの作品は書けた、ということであり、それが意味するのは「作家としてからっぽではない」ということなのでございます。ただ、中井英夫に「非本質的に」備わっていた「天啓の器」としての機能は、もはや働くなっている、というのが笠井潔の評価なのだと存じます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(12)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(10) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時39分26秒


 はらぴょんさま(つづき)

(3)『哲学者の密室』の冒頭には、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」と書かれています。まず、確認しておかねばならないのは、単行本刊行は1992年であり、中井英夫の死の前年に刊行されているということです。「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉が書かれていることからして、笠井潔にとってかなりの自信作であったと考えられます。

この『自信』は、この作品で、笠井潔が自身の「大量死」理論にもとづく「大戦間ミステリ論」を確立したという「自負」と、法月綸太郎によって指摘された「エラリー・クイーンとの共通 性」といった、「意味」や「意義」によって支えられたものだと存じます。

しかし、散文的に申しますならば、『哲学者の密室』は、「象徴としての密室」といったような「意味」付け「意義」付けのレベルにおいては、たしかに良く出来た(凝った)作品ではあるものの、「密室トリック」そのものなどは、あまりパッとしないものであったり無理のあるものだったりして、必ずしも良く出来ていたとは申せません。ですから、『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』での哲学談義が、その普遍性のゆえに容易には古びず、おのずと作品の価値も減じないのに対し、発表当時は独創的であった『哲学者の密室』の「意味」や「意義」の部分は、時間の経過とともに、だんだん有難味が薄れてきて、作品の価値も、それにともない徐々に減じてきている、という印象が私にはあるのでございます。

当時、竹本健治が、私に「『哲学者の密室』はすごい作品だと思いますよ。笠井さんの最高傑作でしょう」というような評価を語った記憶がございますが、私はその時「たしかに大変な力作だとは思いますけど、『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』より上だとは思えません。所詮『哲学者の密室』は、努力賞的な作品だと思いますよ」というような言葉を返したものと存じます。


> (4)笠井潔の中井英夫論には、『物語のウロボロス』に収録された「完全犯罪としての作品」、『模倣における逸脱』に収録された「戦後文学者としての中井英夫」と「二人の中井英夫」、『探偵小説論I』に収録された「戦後探偵小説の内破」、創元ライブラリ版『中井英夫全集[4]蒼白者の行進』解説があり、さらには小説形式の『天啓の器』があります。このうち、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」の意味を考えるためには、比較的新しい作品を参照する必要があるように思われます。

『このうち、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」の意味を考えるためには、比較的新しい作品を参照する必要があるように思われます。』という考え方は、恣意的なものに過ぎないと存じます。

AOIさまへのレスにも書きましたとおり、たしかに笠井潔の後年の意見から、『虚無なる『虚無への供物』の作者へ』という献辞の意味を推し量 るというのは、間違いではございませんでしょう。しかし、この献辞には、『虚無への供物』に衝撃をうけ、まだ中井英夫を尊敬していた当時の、若き笠井潔の想いも、必ずや込められているはずでございます。つまり、あの献辞には相矛盾する「想い」や「評価」が交錯するようにして、幾重にも塗り込められている、と考えるのが妥当だと、私は斯様に考えます。ですから、『比較的新しい』資料をという即物的な捕え方では、笠井潔に対する『虚無への供物』の呪縛の深さを、正確に理解するは、とうてい不可能だと考えるのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(11)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(9) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時35分36秒


 はらぴょんさま
笠井潔と中井英夫(1)〜(3)

> (2)竹本健治と笠井潔は、再び探偵小説の世界に帰ってきますが、その頃の中井英夫周辺の空気については、竹本健治著『トランプ殺人事件』(角川文庫、平成6年)の田中幸一氏の解説が資料になると考えます。ここでは、中井英夫の助手である本多正一から、「『匣の中の失楽』と『ウロボロスの偽書』しかよんでいないのだが、後者は評価できないという立場で「竹本さんにもそう言いました。」と」(P292)言われたことが書かれています。記憶は曖昧ですが、中井英夫は、変化球の『ウロボロスの偽書』よりも、直球勝負の『哲学者の密室』を好んだという記事をどこかで読んだ記憶があります。

本多正一の評価が、そのようなものであったことは事実でございます。
で、肝心の中井英夫の評価でございますが、はらぴょんさんも書かれているとおり、たしかに中井英夫は、竹本健治の『ウロボロスの偽書』よりも、笠井潔の『哲学者の密室』を、高く評価したようでございますね。しかし、それは『哲学者の密室』を手放しに高く評価したというようなことではございません。私の記憶により、私の責任で証言いたしますと、中井英夫は『哲学者の密室』を再読したおりに「それほどでもなかった」という評価を下したようでございますし、「とにかく長過ぎる」と身も蓋もない感想を漏らしたことも記憶いたします。つまり中井英夫の死後、『哲学者の密室』について「中井英夫が絶賛し、第4の巨峰と評価した」というような言われ方がなされましたが、これは中井英夫の言葉尻だけを捕えた憾みの強い、かなり誇張された表現だ、というのが私の意見なのでございます。

ちなみに、中井英夫は『ウロボロスの偽書』の「おふざけ」と映る部分に、引っ掛かったのではないかと存じます。あの頑固なスタイリストには、竹本健治のぐにゃぐにゃした魅力は、そのままでは理解できなかったのではないか、というのが私の見方でございます。――もっとも、私とて『ウロボロスの偽書』を絶賛したわけではございません。あのラストには大いに失望し、竹本さまにも直接不満を漏らしたものでございますから(笑)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(10)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(8) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時33分32秒


 AOIさま(つづき)

笠井潔『哲学者の密室』における「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という献辞の意味

無論、この言葉の解釈はどのようにでもできましょうし、笠井潔自身の解釈も、「建て前」的解釈と「本音」的解釈のアマルガムなのでございましょう。
その意味で、はらぴょんさまの、

> お前の中身は空っぽ(虚無)で、可能性は尽きているよな、なんていうのは、人として酷いとは思いませんか?

という後者に傾いた一面的な解釈に対する、

> 笠井さんは中井さんについてそういう意味で、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という献辞をされたのだろうかと疑問に思いました。
> 中井さんに対し個人的に屈折した感情をもたれていたというのは想像に難くありませんが、中井さんにとって『虚無』とは、すべてのものを包括する世界の様相(本質)そのものだった。
> それは笠井さんにとっても同じであり、世界の本質が『虚無』だからこそ、「ツーテービアン(すべてよし)」であり、「生は暗く、死もまた暗い」のであり、駆は虚無より遣われし者だったのではなかったのかと思います。
> 「虚無なる」というのは、お前の中身は空っぽという否定的な意味としてではなく、世界の様相(本質)と一体化した中井さんの存在そのものの表現ではないのか、むしろ「虚無への供物の作者」への最大のオマージュのように私には思えます。
> ですから、酷いとは思いません。

という疑義表明と、「建て前」的解釈の補足は、おおむね妥当なものであったと存じます。しかし、AOIさま自身、

> あるいは、『哲学者の密室』を読めば、はらぴょんさまの言われていることに容易に納得できるのかもしれませんし、どちらもあんまり読んでいるわけではないので、とんでもない勘違いィ〜〜!かもしれませんけれど(笑)。

と書かれているとおり、『哲学者の密室』はともかく、『天啓の器』(双葉文庫)を読めば、笠井潔の中井英夫評価が、「本音」のところでは、そんな「きれいごとではなかった」ということも、ハッキリするのでございますね。――そのくらい、あの「小説」における中井英夫と竹本健治の扱いは、「露骨な悪意」に満ちたものだったのでございます。
そして、そうした「露骨な悪意」は、中井英夫の死後、いきなり笠井潔の中に湧いて出たものだとは考えにくい。むしろ、それまで抑圧的に隠蔽してきたものが、中井英夫の死によって表面 化した、と考えた方が、よほど自然なのでございます。

となれば、『虚無なる『虚無への供物』の作者へ』という、中井英夫ヘの「何とでもとれる献辞」には、「露骨な悪意」つまり、はらぴょんさまのおっしゃる『お前の中身は空っぽ(虚無)で、可能性は尽きているよ』などという「思い」も込められていたのであろう、と見るのは、あながち間違いだとは言い切れないのでございますね。

なにしろ竹本健治の『ウロボロスの基礎論』にも描かれておりますとおり、笠井潔は、アル中でよぼよぼになった中井英夫の姿にショックをうけて、スキーを始めたというくらいなのですから、晩年の中井英夫を「単なる敗残者」視していた可能性は大いにあるのでございます。

われわれ一般読者にとっての中井英夫は、「アル中」になっても「キチガイじいさん」になっても、やはり中井英夫は中井英夫であり、あの『虚無への供物』を書いた不出世の作家なのでございます。
しかし、その晩年の姿を「なまじ」近くで見(齧っ)た笠井潔などには、晩年の中井英夫が、単なる見苦しい「死に損ない」と映ったとしても、何の不思議もないのでございます。

『天啓の器』は笠井さんの作家論を知るのに重要な作品のようですね。
> でも、(中略)なんだか読みたいという気にはなりませんけれど(笑)。

しかし、ここはやはり、乗りかかった舟として、『天啓の器』(双葉文庫)を読むべきではございませんでしょうか。この作品、たしかに笠井潔の心根の卑しさが鼻につきはいたしますが、メタ・ミステリとしては、なかなか良く出来た作品でございますよ(笑)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(9)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時32分34秒


 AOIさま
> 梅雨前に終わるはずだった屋根&外壁塗装が遅れて、幌をかけられすっぽり籠の鳥状態。
> 今日はとうとう、朝から雨戸まで閉められて『皆殺しの天使』(ルイス・ブニュエル)かって・・・(泣笑)。

それは大変そうでございますねえ。しかし、ものは考えようで、ただ(無料)でダイエットができるチャンスなのかも知れませんよ(笑)。

世の多くの女性は、大枚はたいてまでダイエットするのでございますから、家にいながらにして、特別 なこともせずに痩せられるのなら、これは万々歳というものでございます。――もっとも、AOIさまがスマート過ぎて困っておられるのなら、そうも申せないのでございますが、なにしろお会いしたことがないので、一般 論で書かせていただきました(笑)。


> 本屋で森達也のオサマ・ビンラディンへの手紙を立ち読みしていたら、「オサマ・ビンラディンを見るたびに、キリストって、オサマ・ビンラディンのような風貌だったんじゃないかと、いつも思う」と言っていた友人の言葉を思い出した。

なるほど。それにしても、だれが見たって、猿顔のブッシュよりは彫の深いビンラディンの方が、知性的だしカリスマ性もありそうだ、と思うのではございませんでしょうか(笑)。

> そういえば、誰もオサマ・ビンラディンについて語らなくなっちゃったわねえ。
> 地獄の釜をひっくり返したオサマ・ビンラディンをキリストの再来というつもりなどないけれど、アメリカが必死に探しているのだろうオサマ・ビンラディンが捕まることを願っている人は案外、少ないのじゃないだろうか?

ごく少ないと存じますよ、世界的に見れば。第一、彼を何の罪で逮捕し罰するというのでございましょう。たしかに彼は、アルカイーダという世界規模のテロ組織のトップなのでございましょう。しかし、彼が「9.11」に直接かかわったかどうかは未だにハッキリしておりませんし、組織のトップだということで、下部組織のやったことに全責任を負わなければならないとすれば、わが天皇裕仁はもとより、アメリカの歴代大統領の大半は、死刑に処されねばならないのではないでしょうか。

オサマ・ビンラディンが、「9.11」のテロを支持したというのは事実でございましょうが、事後における心情的「支持」表明と、実際の作戦「指示」とは、同じ「しじ」でも大違いなのだということを、我々は決して忘れてはなりません。
それに、彼を逮捕し処罰したいというアメリカの真意は、彼が「実際にやったかどうか」にはなく「象徴的な人物を処罰して、けじめをつけたい」というところにあるのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(8)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(6) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時31分45秒


 時雨さま(つづき)

個人的にも特撮ヒーローについてはいろいろ思うところがあるので、(お許しいただけるのであれば)そちらも含めて。

ここ「花園」は、テーマを限定しておりません。もとより『許し』など、必要ないのでございます。ですから、なんなりとお書き下されば結構でございますよ(笑)。


> そういえば笠井氏はどこかで「60になったら引退してスキーのインストラクターになる」といっていたような気がしましたが、どうなんでしょう。

私の記憶では、たしか「五十になったら」という話だったように記憶いたします。つまり、これもお得意の「公言違反」(「公約」とまでは言えないでしょうから/笑)。

第一、プロのスキーヤーでも何でもなかった「ただのスキー大好きおじさん」が、還暦でインストラクターデビューして、いったい誰が教わるというのでございますか? いくら笠井潔でも、そんな大ボケをかましたりは、いたしませんでしょう(笑)。


>> 若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。

> 全くです。そんなことをしても当の若者には嘲笑されるだけです。

そうでございましょう。しかしまた、若者に嘲笑されることを、恐れる必要もないのでございます。

たとえ世間が「若者文化」を文化の主流であるがごとく扱ったとしても、中味のない主流になど迎合する必要はございませんし、己の中味の無さに気づかず、ただ「若さ」ゆえの「主流」への帰属意識に、無内容な自信を持つようなバカ者などには、こちらから嘲笑を浴びせてやれば良いのでございます。

ただ「長く生きた」ということを自慢する「年寄りの愚かさ」と好対照を為すのが、ただ「若い」ということを自慢する「若者の愚かさ」なのでございます。利口な年寄りは、つねに自己の「経験の豊かさ」というものに懐疑するものでございますし、いっぽう利口な若者は、つねに自己の「若さ」に懐疑するものなのでございます。

それが、彼の若者の語った、

――認めたくないものだなあ。自分自身の、若さ故の過ちというものを。

という言葉の意味なのでございます(笑)。


> 今大学の方でかなりの修羅場を迎えております。
> そのためゆっくり本を読み込んだり評論を書いたりする余裕がなく、たぶん投下できるのはどんなに早くても終戦記念日を過ぎたあたりになりそうです。
> それまでは断片的な意見程度しか書き込めないと思います。

無理をなさる必要はございません。ここ「花園」は、少なくともここ数年は、消えてなくなることなどございませんでしょうし、なにしろ「笠井潔葬送」というテーマは、私のライフワークなのですから、いつでもスタンバっている状態なのでございますよ(笑)。

ですから、今は後悔しないように、学業の方に精一杯励んで下さいまし。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(7)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(5) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時30分38秒


 時雨さま(つづき)

そんなわけで、私は、たとえ、はらぴょんさまや時雨さまに嫌な思いをさせることになったとしても、私の文章を読むであろう見も知らぬ 読者のために、私の正直な評価を、率直に語らなければならなかったのでございます。本物の「批評家」たらんとする者は、自分一個の評価を責任をもって語ることにより、多くの敵をつくることを恐れてはなりません。身近なところで好かれようとする凡人など、所詮は「物書き」に不向きなのでございます。

『「あれはね、他人のことなんかどうでもいいと思っている代わりに、他人が自分をどう思っていようが関係ないとも思っている。そう云う肚の括り方をしているから、あれだけ傍若無人に振る舞えるんですよ。他人に好かれたいとか自分だけ好い子になろうと思ったら、あんな馬鹿な真似はできないでしょうに」
「ああ、まあ」
 そうかもしれない。
 我が儘な人間は得てして自分だけを可愛がるものだが、榎木津に限っては少し違うように思う。ぼこぼこに云われてもあまり肚が立たないのはその所為かもしれない。
「それに加えて、あれに云わせれば探偵と云うのは職業じゃないんだそうだしねえ。何だか知らないが探偵と云うのは称号だとか、そう云うことを口走るでしょう、あの男は。職業じゃないのなら、辞めようがないでしょうに」
 そう云えば僕もそんな風に威張っているところを見たことがあるような気がする。
「最初に云った通り、神無月の計算違いと云うのはそこにあるのです」
「計算違い――ですか?」
「そう。どうも神無月と云う男は、自分の価値観でしか他人を計れない、度量 の狭い男のようですね。自分が好きなものは他人も好きだろう、自分が嬉しいことは他人も嬉しいだろうと、そう固く思い込んでいる。自分の基準は絶対だと信じ切っていて、それを疑うことをしないんですね。だから自分が厭なこと、自分が困ることを基準にして計画を練ったのでしょうが――どうもないですね。そう云う手合は得てして金銭だとか名誉だとか、益体もないものに固執しがちですが、神無月もご多分に漏れずそうだったようですし。でもね、榎木津は金や名誉なんかには洟も引っ掛けませんよ。あれの基準は」
 面白いかどうかでしょうと中禅寺は云った。』

(『百器徒然袋 ― 風』、「雲外鏡 薔薇十字探偵の然疑」P310より)




( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(6)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(4) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時29分36秒


 時雨さま(つづき)

しかし、空虚に巣食う魔(1〜6)に書きかしたとおり、『空の境界』(および、奈須きのこ)の弱点は、単なる「文章の巧拙」にとどまらず、それに由来する「思考力」と「レトリック」にまでいたっていることが、冒頭30ページまで読むにいたり、否定しがたい事実として、私の目には映じたのでございます。

こうなれば、私も「批評家」として、自己の評価を責任をもって語らなくてはなりません。その結果 、お二人に嫌な思いをさせることになったとしても、私は私の評価を語ることによって、批評家としての責任を、まず果 たさなければならないのでございます。

そして、「差し障り」があるから「できれば語りたくない評価」も、必要とあれば、まっすぐに語ることができるか否か、――これが、批評家を「本物」と「偽物」に二分する、高い分水嶺なのでございます。

私が「およそミステリ評論家と呼ばれる人に、本物の批評家は存在しない」と断言できるのも、「ミステリ評論家」と呼ばれる人たちが、ほぼ例外なく、この嶺を乗り越えられないからでございます。

私に思い当たる「例外」と言えば、それは新保博久ただ一人でございましょう。彼は、その批評家的良心のゆえに、何度も筆禍を被っております。
一方、私の批判する笠井潔および「探偵小説研究会」の面々は、その私利私欲を優先した「党派性」によって、最初から「公正」さを放棄しているのでございますね。だからこそ私は、この「批評家の面 汚し」たちを断じて許さないのでございます。

つまり、私はアマチュアとは言え「批評家」を名乗るものとして、仮にも自身が確信を抱いた評価を、個人的な差し障りを恐れて「口をつぐむ」ことなど、断じてできなかったのでございます。それをすれば、私の存在意義は失われ、もはや笠井潔ら「二流」のあるいは「偽物」の評論家たちを、批判することができなくなってしまうのでございます。ですから、私は、批評の「最後の砦」を守るためとあれば、お二人に嫌な思いもしていただきますし、それで嫌なやつだと思われても良いと考えて、ああした評価を語りました。
もちろん、嫌な思いをさせるのであれば、誠意をつくしたその結果として、嫌な思いをしていただかねばならない。それが「批評家」の努めだと考えたからこそ、私は「具体的」に「事例」に則して、有無を言わさない批判を展開し、否定的評価の根拠を明示したのでございます。

しかし、批判される側にすれば、その批判が「誠実」なものであればあるほど、それを否定し拒絶する理由を失うのですから、余計につらい思いをさせられるものでございます。ならば、いっそ、否定評価は、バカで無責任な批評家の無根拠な批判の方が、よっぽど救われる、とも申せましょう。ですから、誠実な批評家の否定的評価というものは、批評家にとっても、批評される者にとっても、共につらいものとなりがちなのでございます。また、ですからこそ、そこに「馴れ合い」も生じがちなのでございますね。

とにかく誉めておけば、作家に嫌われることはございません。「作家にとって、良い批評家とは、誉めてくれる批評家のことである」という言葉は、たしかに一面 の真理で、誠実に否定・批判しても、作家や作家のファンから嫌われ、仕事を減らすだけで、損こそすれ何のメリットもない。となれば、お互い、嘘でも「誉めあい」をして気持ちよく「共存共栄」していこう、と考えるような批評家が出てくるのも、自然な成り行きなのでございます。

しかし、こうした評論家の目には、「その他の(沈黙する)一般読者」がまったく映っておりません。彼の目には、誉められて喜び、腐されて不満を露にする作家や、「売るのに都合が良い評価」を期待している編集者、人気作家に取り入って要領良く仕事を確保している同業者(批評家)といったものしか、目に入っていないのでございます。

だから、彼らには、作家や編集者に迎合したヌルい評価を読まされることにより、過剰な期待を抱いてその本を購入し、その結果 「どうしてこの程度の作品を、ここまで誉められるんだ」と怒り失望し落胆する、遠くの一般 読者の「被害」など、想像だにできないのでございます。

しかし、「批評家」であれ「作家」であれ、公の場所で意見を表明する文章家・言論人は、自分のそれが「すべての人に読まれる可能性」に配慮し、その責任を担って書く、というのが、「物書き」の本筋というものなのでございます。つまり、業界の狭い世界しか見えなくなった「視野狭窄」の評論家が「二流」であるというのは、論を待たないことなのでございます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(5)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(3) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時27分20秒


 時雨さま(つづき)

そして、自身の経験から申しますと、一般に年寄りよりも若者の方が、「作品」に想像力を触発されやすい傾向がございます。つまり、感動しやすい。すこしの要素(刺激)であっても、想像が膨らみ感動できる(触発されやすい)内的条件にある、ということでございますね。
で、これは一般に「擦れる」と呼ばれる現象にもかかわることなのでございましょう。加齢にともない、読書人は「人生」に「読書」に、擦れてまいります。ちょっとやそっとでは、感動できなくなる。これは一見「鈍感化」という「マイナス要素」のようにも思えますが、必ずしもそうとばかりは申せません。なぜ年配者が感動しにくくなるのかといえば、それは「経験」の蓄積により、作品などの「対象」を、客観的に観察し、その上で判断を下せるようになるからなのでございますね。つまり、たくさん経験を積んだ者は、その「対象」を吟味するための「比較対照物」をたくさん持っているから、安易にそれを鵜呑みにして肯定してしまわないだけの、慎重さを持ちうる、ということなのでございます。

これは、話を「読書」から、「一般的経験」にズラすとわかりやすうございましょう。例えば、ここにたいへん理想的で感動的な内容の演説をしている人がいたといたします。この場合、経験の少ない若者は、わりあい素直にこの演説に感動し、その弁士をすばらしい人物だと評価してしまいがちでございましょう。ところが、「擦れた」大人は、そういう人間には、心にもないことを平気で並べたてるペテン師も少なくない、という事実を経験的に知っておりますから、彼の演説に対し、一定の心理的距離を措き、その演説内容を子細に観察することで、その演説が「内実」のともなった本物か否かを確認することも、可能となるのでございます。

つまり、感動できるという点では、若者の方が得なように思えますが、その感動とは、若者の自覚とは裏腹に、外部に実在するものではなく、じつは「内部の願望の投影」でしかないことが多いのでございますね。したがって、若者はしばしば「騙されやすい」傾向を持ち、「現実をそのままに見ることができない」という傾向を持つのでございます。

また、ですからこそ私は、『空の境界』を本格的に否定評価するに先立ち、

なぜこの程度の作品を、笠井潔は持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者とって、『空の境界』の文章は、あまりにも酷すぎるのではないか。

と書いたのでございます。

この文章の眼目は『ある程度、小説を読んできた者とって』という付帯条件にあるのでございます。すなわち、私がここで言っているのは「この作品の文章的欠点について、若い読者が気づかないというのは、ある程度、仕方のないことなのだろう。しかし、笠井潔ほどの年齢の読書人が、それに気づかないのはおかしい。不自然だ」という意味なのでございます。

このように、「加齢と感動」の法則からいたしますと、お若い時雨さまが、私があれだけ引っ掛かった「文章」に引っ掛かることもなく、『空の境界』(および、奈須きのこ)に素直に感動(評価)できたというのも、理解の範疇にあることだと申せましょう。
つまり、私には、『空の境界』(および、奈須きのこ)を肯定評価できる若者の内的必然というものが、おおむね理解でき(たと思え)ました。ですから、その必要がなければ、時雨さまやはらぴょんさまが評価しておられる作品をわざわざ否定することなど、したくなかったのでございます。むしろ、できれば誉めたいとさえ思ったのでございますね。
そうした気持ちが、私の、

しかし、今回『空の境界』の冒頭を10ページほど読んでみて、私の意見はハッキリと「奈須きのこは、文章が下手である」という立場に落ち着いた。
> もちろん、これは「文章」にかぎった評価であり、『空の境界』という「作品の総合的な評価」でもなければ、奈須きのこという「作家の才能や将来性」まで云々するものでもない。

という当初の発言には、はっきりとにじんでいたものと存じます。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(4)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(2) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時26分3秒


 時雨さま
>> 空虚に巣食う魔

散々ですね。言われてみれば納得なのですが・・・
> 奈須きのこは結構好きなのでちょっとショックです。

申し訳ございません。しかし、それもある程度は予測し覚悟していた事態でなのございます。――これは「批評」の本質にかかわる問題でございますから、すこし詳しくご説明いたしましょう。


私は、はらぴょんさまが『空の境界』を、わりあい好意的に評価なすっていることを知っておりましたし、時雨さまが、笠井潔に批判的であったとしても、それは必ずしも『空の境界』(および、奈須きのこ)を評価していないということを意味するわけではない、ということも承知しておりました。むしろ、時雨さまの笠井潔評価の眼目は、

僕から見れば最近の笠井潔のジャンルX に対する反応(マンガ・ライトノベルへの批評、乙一やTYPE-MOONとの対談など)は「はぁ?なに言ってるんだこのおっさん、つうか話かみ合ってないじゃん」と思う

というところにあるのですから、時雨さまの立ち位置は、「ジャンルX」を同世代の読者として、それらを正しく理解している、というところにあったはずでなのございます。ということは、『空の境界』(および、奈須きのこ)についても、笠井潔とは違って「正しく理解している」という自負自認があり、そこから笠井潔の間違った理解に対して不満が生じたのであろう、というようなことは、容易に推測できるところだったのでございます。

また、「文章」へのこだわりというものは、一般に、加齢にしたがって強くなる傾向があるように存じます。つまり、若い人は「文章」そのものにはあまり拘泥せず(せいぜい「なんとなく読みやすい(読みにくい)」程度の感覚に止まり)、作品の醸し出す雰囲気やキャラクターや物語(プロット)といった部分に直截にアクセスする(できる)ようでございますね。これは良い悪いの問題ではなく、そういう傾向があるようだという仮説的なお話で、私はこうした法則性を、自身の経験と私の見聞きした読書人の傾向から敷衍したのでございます。

例えば、私はごく若い頃に読んだジュブナイルSFを後年読み返して、その印象のあまりの違いに、愕然とした経験がございます。最初に読んだ際、作品から読み取った「あの素晴らしい世界は何だったのか? あの感動はどこから来たものだったのか?」と、嫌でも考えなければならなかったのでございます。

客観的に見れば、その「作品そのもの」の出来は、後年の「凡作」という評価の方が、むしろ適切なものでしたでしょう。しかし、私がかつて、その作品から、たいへんな感銘をうけたというのも、否定できない事実なのでございます。
で、最終的に私のいたった結論とは「作品から受ける印象や感動というものは、もっぱら作品そのものに内在するというわけではなく、作品に対する読者の内的条件にも大きくかかわるものであり、その組み合わせの適否によって決定されるものである」というようなものでございました。つまり、ドストエフスキーを小学生が読んでも、感動することは困難でしょうし、『桃太郎』の絵本を青年が読んでも、わくわくさせられることはないだろう、とそういうことなのでございます。

作品と読者の間に発生する「印象」や「感動」というものは、「作品のつくり」と「読者の内的条件」の兼ね合いから発生するものである。だから、若い時に素晴らしいと感じた作品を、後年読み返してみた場合、ぜんぜん印象が違っていた、などという現象も起るのだ、と私は結論したのでございますね。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(3)」につづく)


永遠の「観念の俘囚」(1) 投稿者:園主  投稿日: 8月 4日(水)17時23分36秒

みなさま、過日ここ「花園」で展開いたしました「きくちゆみ批判」を、 昨日、

・ 市民運動家、その虚像と実像 ―― きくちゆみの場合

として、使用資料などの画像を加え、装いも新たにアップさせていただきました。どうぞ、是非ご覧になって下さいまし。

ちなみに、きくちゆみさまが支援をしておられた、先の参院選候補者で「みどりの会議」公認の小林イチロウ氏が、結局当選したのか落選したのか、それを知らないままの私でしたので、昨日それを確認しようと、きくちさまからの「推薦ハガキ」に刷られていた小林イチロウ氏の事務所である「小林イチロウと明るい未来計画」のホームページを覗こうといたしましたところ、すでにホームページは閉鎖されたのか、以前はたしかに閲覧できた「http://www1ro711.org/」のアドレスでは『指定されたサーバーが見つかりませんでした。』とのエラー表示が出るばかりでございました。
ところが、「Yahoo」で検索して出てきた同じアドレスだと、これが不思議に開けるのでございますね。たぶん「キャッシュ」という機能によって、すでに削除されたページが、どこか別 のサーバーに保存されているとか何とか、そのようなことなのでございましょうが、パソコンやネットにうとい私には、いま一つよくわからないのでございました(^-^;)。





( 以下は「永遠の「観念の俘囚」(2)」につづく)


ブラックホール 投稿者:AOI  投稿日: 8月 4日(水)11時46分55秒

☆はらぴょんさま

「笠井潔と中井英夫」、詳しく説明いただき、ありがとうございました。m(__)m
『天啓の器』は笠井さんの作家論を知るのに重要な作品のようですね。
でも、

8)「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉は、一方で『虚無への供物』の作者という器には、天啓が注ぎ込まれることはない、という意味を持つと同時に、現在の私という器には天啓が満ち溢れているという意味があると考えます。

ということからすると、なんだか読みたいという気にはなりませんけれど(笑)。

(5)『探偵小説論I』では、大量死理論に基づきながら、「アンチ・ミステリー」を、ミステリーの「ブラックホール」化現象として捉えます。現在の新本格派ブームを「第3の波」として捉え、その波の極地において「ブラックホール」が生まれる可能性があるとします。(逆に、竹本健治の『匣の中の失楽』などの『幻影城』の頃を、「2・5波」とします。笠井潔は「2・5波」を、小さな波であり、「ブラックホール」化は到底起きないと考えます。)

このあたりは気になるところですが、『「アンチ・ミステリー」を、ミステリーの「ブラックホール」化現象として捉えます』というのは、たしかに虚構世界としてのミステリーの「ブラックホール」であるのはたしかでしょうが、「アンチ・ミステリー」そのものが、「ミステリー」という領域を食い破っているのであって、「ミステリーの」ということに収まらないのじゃないかと思えます。
感覚的で、説明になっていませんね(笑)

いずれにしても、中井さんが評価したという『哲学者の密室』はいずれ読みたいと思います。

そういえば、黒孔餡もとい庵という人もいらしたわね(笑)。


庚申堂をめぐって 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)22時14分16秒

AOIさま>
はじめまして。
「笠井潔と中井英夫」について書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
あるいは、AOIさまの言われるように、笠井潔と中井英夫の主題の一致から書かれた献辞なのかもしれません。
本当は、ここに笠井氏本人が登場して、「あの意味はね……。」と語ってくれるのが望ましいのですが、無理でしょうね。

世代論が盛んなようですので、ひとこと。
故・丸山静(文芸評論家、クリステヴァやレヴィナスの初期の翻訳者。)は、「庚申堂」に関して、独自の考え方を持っていました。「庚申堂」には、「見ざる、聞かざる、言わざる」がいますが、これはここで行われた話は秘密だということだそうです。「庚申堂」には、若者が集って、共同体を変革する話し合いとか、秘密にしないといけない良からぬ ことを話していたとか……。民俗学に詳しくないので、なんともいえませんが、「庚申堂」は庚申信仰に基づくものであるとするのが一般 的なはずです。この説は、庚申信仰に基づく場に、実質的な変革の発生源を見ようとするもので、かなり異端の説ではないかと思います。これを聴いたのは、丸山静が最晩年の時ですが、「このおじいちゃんは、なんて若々しいのだろう。」と思ったものです。


笠井潔と中井英夫(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)21時54分23秒

(6)『天啓の器』は、評論では書けないような本音が語られてしまっています。『虚無への供物』を書いた後の中井英夫は、かつて天啓を受け止めた器であるが、いまや器のなかは虚無であり、空(から)であるということです。但し、これが笠井潔の創作観であり、彼の考える作家像ですから、これは中井英夫にとどまらず、古今のあらゆる偉大な作家にも適用される作家像と考えられます。
(7)笠井潔の「天啓の器」としての作家像は、彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とリンクしています。彼の考えるシモーヌ・ヴェイユの恩寵の思想とは、スキーのように重力に逆らわず、堕ちるがままにすること、すなわち、すべてを受け入れることです。彼は、天啓は向こうから訪れるが、それを受ける準備をしていないと受け止めることができない、とします。
(8)「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉は、一方で『虚無への供物』の作者という器には、天啓が注ぎ込まれることはない、という意味を持つと同時に、現在の私という器には天啓が満ち溢れているという意味があると考えます。
(9)『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです。


笠井潔と中井英夫(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)21時53分28秒

(3)『哲学者の密室』の冒頭には、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」と書かれています。まず、確認しておかねばならないのは、単行本刊行は1992年であり、中井英夫の死の前年に刊行されているということです。「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という言葉が書かれていることからして、笠井潔にとってかなりの自信作であったと考えられます。
(4)笠井潔の中井英夫論には、『物語のウロボロス』に収録された「完全犯罪としての作品」、『模倣における逸脱』に収録された「戦後文学者としての中井英夫」と「二人の中井英夫」、『探偵小説論I』に収録された「戦後探偵小説の内破」、創元ライブラリ版『中井英夫全集[4]蒼白者の行進』解説があり、さらには小説形式の『天啓の器』があります。このうち、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」の意味を考えるためには、比較的新しい作品を参照する必要があるように思われます。
(5)『探偵小説論I』では、大量死理論に基づきながら、「アンチ・ミステリー」を、ミステリーの「ブラックホール」化現象として捉えます。現在の新本格派ブームを「第3の波」として捉え、その波の極地において「ブラックホール」が生まれる可能性があるとします。(逆に、竹本健治の『匣の中の失楽』などの『幻影城』の頃を、「2・5波」とします。笠井潔は「2・5波」を、小さな波であり、「ブラックホール」化は到底起きないと考えます。)
『中井英夫全集[4]蒼白者の行進』解説で、笠井潔は中井英夫が『虚無への供物』に続く「アンチ・ミステリー」を書こうとして、『光のアダム』『蒼白者の行進』『他人の夢』といった作品を残したが、これらは『虚無への供物』の水準に達していないとしています。
『天啓の器』では、作者とは天啓の器に過ぎず、創作の天啓は向こうから来るとします。笠井潔は、以前から『虚無への供物』を書いた作者と、『とらんぷ譚』の作者のキャラクター的不一致を感じていたようですが、ここでは創作ということで、多少名前は変えられてはいますが、『虚無への供物』を書いた塔晶夫と、『虚無への供物』に続く「アンチ・ミステリー」を書けずにいる中井英夫を別 人と見做し、後者が前者の作品を盗作したのではないかという妄想にまで至ります。


笠井潔と中井英夫(1) 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 3日(火)21時52分17秒

(1)竹本健治著『囲碁殺人事件』(河出文庫、昭和60年)解説において、中井英夫は「竹本健治が「匣の中の失楽」で颯爽とデビューしたのは、若干二十一歳のときで、おそらくかれは年少時から、智久少年さながらの知能指数を誇っていたに違いない。しばらくの沈黙ののち、いきなりの「囲碁殺人事件」、そして「将棋殺人事件」と「トランプ殺人事件」を書きおろしで刊行したときは、若いミステリーファンの歓声はさらに昂まった。それは笠井潔の「バイバイ、エンジェル」から「サマーアポカリプス」、そして「薔薇の女」と続く、いずれ劣らぬ 力作が立て続けに刊行されたことと相俟て、探偵小説の新時代を予感させるに充分だった」(P239)と書いています。この解説では、このふたりが探偵小説を離れ、SFに転じたことを嘆く文章が続いています。
(2)竹本健治と笠井潔は、再び探偵小説の世界に帰ってきますが、その頃の中井英夫周辺の空気については、竹本健治著『トランプ殺人事件』(角川文庫、平成6年)の田中幸一氏の解説が資料になると考えます。ここでは、中井英夫の助手である本多正一から、「『匣の中の失楽』と『ウロボロスの偽書』しかよんでいないのだが、後者は評価できないという立場で「竹本さんにもそう言いました。」と」(P292)言われたことが書かれています。記憶は曖昧ですが、中井英夫は、変化球の『ウロボロスの偽書』よりも、直球勝負の『哲学者の密室』を好んだという記事をどこかで読んだ記憶があります。


熱く焼けた屋根を静かに歩く足音 投稿者:AOI  投稿日: 8月 3日(火)02時46分13秒

やっと8月。猛暑もあと1ヶ月は続くのでしょうか?
そういえば、高校の地理の先生が日本の気候は温帯ではなく、亜熱帯だと言っていたのを思い出します(笑)。
猛暑や台風も被害さえたいしたことがなければ、日本の夏だなあといってもいられるのだけれど・・・。

その上、息苦しくて窒息しそうなのです。
梅雨前に終わるはずだった屋根&外壁塗装が遅れて、幌をかけられすっぽり籠の鳥状態。
今日はとうとう、朝から雨戸まで閉められて『皆殺しの天使』(ルイス・ブニュエル)かって・・・(泣笑)。
炎天下の作業、職人さんたちのことを思えば、贅沢なこと言えないんですけれど・・・。

本屋で森達也のオサマ・ビンラディンへの手紙を立ち読みしていたら、「オサマ・ビンラディンを見るたびに、キリストって、オサマ・ビンラディンのような風貌だったんじゃないかと、いつも思う」と言っていた友人の言葉を思い出した。
そういえば、誰もオサマ・ビンラディンについて語らなくなっちゃったわねえ。
地獄の釜をひっくり返したオサマ・ビンラディンをキリストの再来というつもりなどないけれど、アメリカが必死に探しているのだろうオサマ・ビンラディンが捕まることを願っている人は案外、少ないのじゃないだろうか?


☆はらぴょんさま

はじめまして。
時雨さまも加わって、「笠井潔をめぐって」思想史的な側面など、分からないなりに興味深く読ませていただいています。
ところで、はらぴょんさまの薔薇十字制作BBSで書かれていた『哲学者の密室』の献辞について、花園にも書かれると思っていたのですが、削除してしまわれたようですが、ロムした時に気になっていたので簡単な感想として書かせていただきます。
削除されたものを引用していいものかどうかとは思いましたが、ご容赦くださいませ。

>『哲学者の密室』に書かれているか献辞「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」について

『哲学者の密室』は読んでいないのでその内容についてははらぴょんさまの書かれていたことから、想像しています。ただ、

>お前の中身は空っぽ(虚無)で、可能性は尽きているよな、なんていうのは、人として酷いとは思いませんか?

ということについていえば、笠井さんは中井さんについてそういう意味で、「虚無なる『虚無への供物』の作者へ」という献辞をされたのだろうかと疑問に思いました。
中井さんに対し個人的に屈折した感情をもたれていたというのは想像に難くありませんが、中井さんにとって『虚無』とは、すべてのものを包括する世界の様相(本質)そのも
のだった。
それは笠井さんにとっても同じであり、世界の本質が『虚無』だからこそ、「ツーテービアン(すべてよし)」であり、「生は暗く、死もまた暗い」のであり、駆は虚無より遣われし者だったのではなかったのかと思います。
「虚無なる」というのは、お前の中身は空っぽという否定的な意味としてではなく、世界の様相(本質)と一体化した中井さんの存在そのものの表現ではないのか、むしろ「虚無への供物の作者」への最大のオマージュのように私には思えます。
ですから、酷いとは思いません。
あるいは、『哲学者の密室』を読めば、はらぴょんさまの言われていることに容易に納得できるのかもしれませんし、どちらもあんまり読んでいるわけではないので、とんでもない勘違いィ〜〜!かもしれませんけれど(笑)。


☆ホランドさま

スチームボーイ観たんですね。
長すぎて眠っちゃったわ。
期待していたのに、ガッカリ・・・。

これから観たいと思っているのは、ベルナルト・ベルトルッチの『The Dreamers 』と、チャンイ・モーの『Lovers』です(笑)。

>これは「おたく」的なるものが、時代の必然として現れてきたものであり

ここのところ、もう少し説明してくださいません?

>おずおずと世代論を

どうして、おずおずなの(笑)?


おずおずと世代論を(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時09分27秒


 はらぴょんさま
どうも、こんにちは。<おたく>のはらぴょんです。
> <おたく>というのも、結構さまざまな場所にセンサーを張り巡らせておかねばならず、日々精進の賜物だったりします。

 うふふ・・・(^-^)。

 ――結局「おたく」だってことは、一種の「個性」であって、それそのものには、良いも悪いもないんですよね。ただ、「前・おたく」や「非・おたく」とは違った、長所もあれば欠点もあるというだけなんだと思います。

 最近は「口を謹む」ようになった笠井潔さんも、以前は「おたく」的なものを、すごく嫌悪し批判して、排撃しようとしてました。でも、結局は時代の趨勢に抗しきれず、なし崩し的に「おたく」的なものと馴れ合うしかありませんでした。これは「おたく」的なるものが、時代の必然として現れてきたものであり、笠井さんのような「全共闘」世代が「自己中心主義的な価値観」からそれを忌み嫌ったところで、廃滅してしまうことはとうてい不可能な「時代的要請」だったということなんでしょうね。



 園主さま
> 若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。

 よく、大岡昇平の、

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬ までいやなことをいって、くたばるつもりなり』(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

という言葉を引用しておられるところからもわかるとおり、きっと園主さまは「反時代的な頑固じじい」になりたいんでしょうね(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


おずおずと世代論を(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時08分53秒


 時雨さま(続き)

>> 作家を含む「本格ミステリ」マニアたちが、笠井潔に跳びついたのは、「主流コンプレックス」のわかりやすい表れなんですよ。上述のとおり、それは「国粋主義者が、日本文化をヨイショしてくれる外人学者を殊更ありがたがる」のとそっくりそのままで、その際、その学者が『外人』であることが重要なのであって、「学者としては二流」であることの方は問題にならない、というのも「笠井潔と本格ミステリ界」をめぐる問題と相似的なんですよね。

なるほど。とこでこのかたち、なんだか東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況と少し似ているような?

 そうかも知れませんね。ただ、東浩紀さんの場合は、単純に「自分の好きなもの」の持つ「時代的な意味」を語り、きちんと評価してもらいたいという「当たり前の願望」が大きいんじゃないでしょうか。
 園主さまも笠井潔が、真に望んだこと。等で指摘されているとおり、東さんは笠井さんとは違って、そうしたマイナージャンルに「憑依」しなければ生きていけないほどマイナーな人ではなく、むしろ笠井さんとは正反対に「知的エリート」として出発した人なんですからね。

 もちろん、そうした東さんのオタク的な行動に便乗し、その「権威」を利用して、「一旗揚げよう」とたくらむ「出版業界人」というのは大勢いると思いますよ。そうしたことから『東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況と少し似ている』というような「うさんくさい」印象が醸成されているんじゃないでしょうか。

 特に『ファウスト』の作りとか『空の境界』の売り方なんて、「アムウエイ」とか、ああいうのに近いうさん臭さがありますものね。派手に着飾って、思いっきりご大層なことを言うんだけど、醒めた目で見ると「おいおいちょっと待ってよ」言いたくなるような、上っ滑りで無責任な印象が否めない。つまり「誠実」さが希薄で「ハッタリがましい」という印象があるんです。――でも、そういうのに弱い人は多いですからね。ころりと引っ掛かって、本気で「素晴らしい!」なんて言い出したりする。でも、そんな人の顔って、どこか憑き物がついたような「こわばり」があるんです。

 これは印象だけで言うんですが、「こだわり」過剰なボクたちの世代と、それに比較すると「淡白」な印象を与える時雨さまや乙一さんの世代の「境界」には、そのギャップを体現するような「アンバランスな極端さ」が現出してしまうのかも知れません。それが誇大妄想的な「清涼院流水」であり、『東浩紀がライトノベルやらギャルゲーを理論付けて「新時代の文芸」だの「新伝奇」だのをでっち上げている今の『ファウスト』界隈の状況』といったものなんじゃないでしょうか。





( 以下は「おずおずと世代論を(5)」につづく)


おずおずと世代論を(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時05分16秒


 時雨さま(続き)

 はらぴょんさんが、乙一さんのことを『気苦労が多すぎる』、つまり「対等な作家どおしなんだから、先輩作家に、そんなに恐縮しなくても」と「若干の不満」を表明したのに対し、時雨さまは「それが普通 (の人)」なんだと、乙一さんを「普通の人」視することで「擁護」しています。でも、これは所謂「擁護」なのでしょうか?

 ボクが思うに、はらぴょんさまは「作家=芸術家」というものに、まだ幾ばくかの「期待」を寄せておられます。だからこそ「失望」も感じる。でも、時雨さまは、そもそも「作家=芸術家」という存在に「人間的な特別 性」を期待していないんじゃないでしょうか。だから、乙一さんの「普通っぽさ」に「失望」することもなく、否定の意図なしに「普通 ですよ」と言ってしまえるんだと思うんですよ。

 で、ここには「作家=芸術家」といった人たちを「どう見る(位置づける)のか」といった問題に対する「世代格差」だあるように思うんですね。つまり、園主さまやはらぴょんさまやボクなどの世代は、まだ「作家=芸術家」に対して「特別 な存在」であってほしいという「偶像願望」的な感覚があるんだけど、時雨さまや乙一さんの世代と言うか、「清涼院流水以後」の世代には、そういう「芸術家信仰」が薄れてきていると思うんですよね。

 だから、園主さまやはらぴょんさまやボクなどの世代が、笠井さんや法月さんたちを「普通 の人だ」と言えば、これは「批判」であり「否定」として機能し、笠井さんたちにもそのように受け取られたんですが、時雨さまや乙一さんの世代では「普通 の人だ」という評価は、肯定でも否定でもない、文字どおり「普通」だという意味合いしか持たなくなっているんだと思うんですよ。
 で、前者の世代に属するボクとしては、そういう「芸術」というものに対する「淡白」な評価というのは、ちょっと寂しい感じもするんですが、結論的にはそうした考え方の方が現実的であり正しいんじゃないかという気がするんですよね。

 ボクらの世代は「芸術」に「特別な何か」を期待しています。それが何なのかと言えば、たぶんそれは「超越」なんだと思うんです。人間が「人間の枠を超えたところのもの」を顕現し、一瞬なりともそれに到達しうる「契機」こそが「芸術」だと考え、そのように「期待」しているところが、ボクらにはある。
 また、だからこそ、園主さまと笠井さんとの間には「本物の芸術家か、否か」という問題が成立し、それをめぐっての敵対関係も成立するんですが、――そもそもそうした「超越の契機としての芸術」というものが「幻想」に過ぎないとなってしまえば、「本物の芸術家か、否か」なんてことは、問題として成立しなくなってしまうんですよね。

 で、はらぴょんさんが 気苦労が多すぎるで紹介しておられる『小生物語』における乙一さんの姿って、まさに「作家=芸術家」観念が存在しない場所でのお話、つまり時雨さまのおっしゃる『受験で親戚 の家に泊まったときやたら親切にしてもらって恐縮した』(心はアラゴン(1))という話と、まったく同一レベルで語られたものだと思うんです。

 ただ、乙一さんの場合は、そういうスタンスを自覚していて、過去のものとなりつつある「作家=芸術家」観念を、それとなくおちょくっている部分があるとは思うんですよね。というのも、「有名人である作家の仲間入りをしたというのは、もしかすると妄想なのではないか」という乙一さんのふざけ方は、じつは「作家=芸術家」観念それ自体がそもそも「妄想」に過ぎない、ということの批判的揶揄だと感じられるからなんです。





( 以下は「おずおずと世代論を(4)」につづく)


おずおずと世代論を(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時04分21秒


 時雨さま
>> 討論・笠井潔をめぐってにご参加くださるんですね。ホントにありがとうございます。
>> こないだボクは、はらぴょんさんに新たな参加者なんかそうそう期待できないんじゃないかって書かせていただいたんですが、その予想がはずれて良かったって思ってます

こちらこそ突然やってきた僕を信用して参加させていただいてうれしい限りです。
> 実はお二人のやり取りは拝見していました。
> そういう発言が出ている状況であれば自分が参加する事にも意義があるのではないかと思って。

 『そういう発言』も何も、すでにはっきりと「笠井潔葬送派」と認知されている二人とはまったく別 のところ、しかも「清涼院流水以後」の世代から、笠井潔(の権威)を否定する声があがるというのは、先の二人よりもむしろ、笠井潔およびその周辺にたいする心理的な影響が絶大だと思いますよ。その意味では、時雨さまのご参加は、アマチュアレベルでの「時代の風向きの変化」を象徴する、というものすごく大きな意義を持ったものなんです。

 笠井さんの「清涼院流水以後」の世代への接近(引き寄せ工作=オルグ)は、はっきり言って、「時代の風向き」が最早「新本格」周辺にはない、ということを見て取った、笠井さんの情勢判断にあると思います。

 法月綸太郎さんをはじめとする「新本格」の人たち(特に、ミス研出身の第一世代)は、もともと「本格ミステリ至上主義者(非本格は、そもそもミステリに非ず)」的なこだわりを持ってますから、時代の風向きがどっちを向こうと、自分たちは「本格あるのみ」ということで、「(新)本格ミステリ(の時代)」と心中することも辞さないと思うんです。

 でも、園主さまやはらぴょんさまが何度も指摘しているとおり、笠井さんは「流行の波間を泳いできた人」だから、「本格ミステリ」と心中する気なんか毛頭ありません(たぶん、これは「探偵小説研究会」の人たちも同じで、彼らも少しずつ批評対象(ジャンル)を広げてきており、「機を見て、乗り移る」先を確保しようとしてるんじゃないかな。――「新伝綺」ムーブメントなんて「乗るべき波」をでっち上げようとしているのも、そうした危機意識によるんじゃないかと、ボクは感じます)。
 だから、そんな笠井さんには「清涼院流水以後」の佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎といった世代の作家が、笠井さんが理論的に支えてきた「本格ミステリ至上主義」に対して、おおむね冷淡であり、一定の距離をおこうとしていることが、心配でならないのでしょうね。

 ちょっと「おじさんの若者論」みたいになりそうで心配なんですけど、最近の若者って、園主さまやはらぴょんさまやボクなどの世代とは違って、「敵意むき出しの抵抗」なんて野暮な態度は採らないように思うんです。相手がどういう人であろうと、自分がその人を内心どのように評価しておろうと、ひとまずその人が誉めてくれれば素直に「ありがとうございます」と礼を言うし、自分の欠点を指摘されれば「ごめんなさい」と素直に謝ってしまう。「おまえになんかにゃ言われたかねえよ」みたいな反抗的なポーズを見せるようなことは絶えてない。だから一見したところは、すごく素直で、こちらの思うまま、何でも言うとおりに聞き入れてくれ(操れ)そうな印象を与えるんですが、しかし、実際にはそうじゃない。――なにしろ、同じ「人間」ですからね。

 反抗も敵対もしないで、愛想良くニコニコと対応するんだけれど、自分に好ましくないところからは何時の間にか姿を消している、といった形で自己を通 してしまう「柔らかな強かさ」が、今の若者にはあるように思うんですよ。「嫌だな」と思っても、「嫌だ」とむきつけに言って拒絶するのではなく、それとなく遠ざかってしまうというような「柔らかな抵抗」のしかた。そんなスタンスを、ボクは、今の若者に感じるんです。
 で、それは、はらぴょんさんが注目した、乙一さんにも「そういうところ」が見られるんじゃないかなと思うんです。





( 以下は「おずおずと世代論を(3)」につづく)


おずおずと世代論を(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 3日(火)00時03分5秒

 みなさん、こんばんは! 今日(8/2)は園主さまと『スチーム・ボーイ』(大友克洋監督)を観てきました。感想としては、絵がとてもきれいで、活劇としてはなかなか面 白かった、といったところでしょうか。
 園主さまは、人間ドラマのところが弱いことに不満だったようですが、そのへんはこの作品にかぎらず、大友作品に共通 の性格なのかも知れませんね。

 大友さんというのは、人間の内面的葛藤を描く人ではなくて、特異な状況下にある人間がそれに対処する姿(様子)を描く人なんじゃないかな。で、作品の眼目は、むしろその「特殊状況」の描写 の方にある。例えば『AKIRA』では、人間臭さと機械化とがグロテスクに混在した「奇妙にリアル未来」に生きる少年たちの抵抗の物語だし、『老人Z』は暴走する機械とのドタバタアクション、『迷宮物語:工事中止命令』(眉村卓 原作)や『MEMORIES:大砲の街』は、『スチーム・ボーイ』に描かれたメカニカル・ゴシックな「スチーム城」に直結する、「機械化された迷宮都市」に翻弄される人間の姿を描いた作品だと言えるでしょう。
 大友さんは、こうした「(機械への愛憎に裏打ちされた)異様な舞台」を作りあげることにとても熱心で、それにものすごく手間をかけるんですが、そこで右往左往する人というのは、基本的には「まともな普通 の人」なんですよね。それに、けっこう類型的な「悪役」が絡む、という程度かな。だから、活劇として無難に出来てるんだけど、登場人物たちは、状況にふりまわされて右往左往するけれど、内面 的な葛藤というのはほとんどありません。そのへんのところが、「人間の内面 」重視の園主さまには、なんとももの足らなかったようで「やっぱり、大友克洋だなあ」と、にベもなく言っておられました(^-^;)。





( 以下は「おずおずと世代論を(2)」につづく)


心はアラゴン(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 1日(日)04時12分15秒

園主様

>将来を嘱望される若手作家を可愛がって子飼いにし、自身の「延命」を図ろうとするベテラン作家というのも、当然のごとく存在するのでございます(笑)。

そういえば笠井氏はどこかで「60になったら引退してスキーのインストラクターになる」といっていたような気がしましたが、どうなんでしょう。

>若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。

全くです。そんなことをしても当の若者には嘲笑されるだけです。

最後に蛇足。
今回のタイトル、アラゴンと言うのは中世のイベリア半島にあった王国のことで、僕の卒論テーマ(予定)です。
とりあえずいま頭がこの事でいっぱいなので、こういうタイトルを思いついてしまいました。


心はアラゴン(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 1日(日)04時03分10秒

園主様

訂正わざわざ申し訳ありません。

>空虚に巣食う魔
散々ですね。言われてみれば納得なのですが・・・
奈須きのこは結構好きなのでちょっとショックです。

>見る角度によって
京都・・・憧れの地です(現在神奈川在住)。
いつかいってみたいものです、京都にも、その書店にも。

>それではいずれ「仮面ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂」のご感想などもお聞かせ下さいまし

分かりました。個人的にも特撮ヒーローについてはいろいろ思うところがあるので、(お許しいただけるのであれば)そちらも含めて。

>なんだか私も「歴史の証人」みたいになってまいりましたねえー

ガンダムの本放送なんて、それこそ僕らの世代にとっては歴史的事件ですよ。

>というわけで、『空の境界』については、あえなく挫折いたしましたので、遠慮なくやって下さいまし(笑)。
そうしたいところなのですが、今大学の方でかなりの修羅場を迎えております。
そのためゆっくり本を読み込んだり評論を書いたりする余裕がなく、たぶん投下できるのはどんなに早くても終戦記念日を過ぎたあたりになりそうです。
それまでは断片的な意見程度しか書き込めないと思います。


心はアラゴン(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 1日(日)03時40分19秒

はらぴょん様
>気苦労が多すぎる
うーん、僕は現物を読んでないし乙一氏の作品は『GOTH』と短編を幾つか読んだだけなのでなんともいえませんが、ちょっと穿ち過ぎではありませんか?
乙一氏はあとがきなどから判断するに繊細な方のようです。そんな方が遠方の同業の先輩の家にわざわざ招かれた上に手厚くもてなされたら緊張しない方がおかしいですよ。
実際僕も受験で親戚の家に泊まったときやたら親切にしてもらって恐縮したおぼえがありますし。
どちらかといえば、出版社の応接室なりホテルなりでも済ませられる対談をわざわざ自宅に招待して行う笠井氏の方が気になります。
好意的に解釈したら『可愛い後輩を対談のついでに息抜きあるいは観光に連れ出す先輩のお節介』に思えなくもありませんが・・・


見る角度によって(下) 投稿者:園主  投稿日: 8月 1日(日)02時07分12秒


 はらぴょんさま
『ザ・コーポレーション』

> マイケル・ムーアやノーム・チョムスキーが出演しているドキュメンタリー映画『ザ・コーポレーション』を、アップリンクが配給するそうです。

ご教示、ありがとうございました。ぜひ、観てみたい映画でございます。

> ノーム・チョムスキーって人は、自分の中でバートランド・ラッセルのイメージと重複しています。

たしか、チョムスキーはバートランド・ラッセルを敬愛していて、MITの自室には、ラッセルのポスターを貼っていたと記憶いたします。

> 彼らの学問は<おたく>のセンサーにひっかからないのですが、彼らの反戦論は気になるのです。

その気持ちを大切になさって下さいまし。知的であるということは、現状に安住しない、ということなのでございますから。


気苦労が多すぎる

> 乙一の『小生物語』(幻冬舎)が刊行されました。

ご教示、ありがとうございました。

> これを読んで、なんだか普通の日本の会社の人間関係みたいな感覚を覚えました。文壇というのは、自由業者の集まりですから、もう少しラフであってもいいと思うのですが、「小生」の「笠井潔先生」への恐縮度を見ていると、新入社員が会社の役員とともに慰安旅行に行ったときの光景のように見えてくるのです。

「文壇」とて、実態はごく平凡な「世間」なのでございますよ。

『自由業者の集まり』だから「自由」だなどということはありえません。人が集まれば、そこにはおのずと「序列」や「暗黙の取り決め・しきたり」などができて、「不自由」で「安定」した「世間」が形作られるのでございます。
それに「自由人」というのは「個人」の属性の表れでしかなく、『自由業者』だから「自由人」であるなどということは、まったくないのでございます。

つまり「自由であるべき文学者」だから「自由なのだろう」というのは、誤認であり「幻想」にすぎません。「自由であるべき」だけれども、大半は「不自由人」だというのが、文学者の「ありのままの姿」なのでございます。

したがいまして、文壇的な力を持つベテラン作家に「スキー接待」をする若手・中堅作家もおれば、将来を嘱望される若手作家を可愛がって子飼いにし、自身の「延命」を図ろうとするベテラン作家というのも、当然のごとく存在するのでございます(笑)。

「乙一くん、今度みんなで、スキーをするんだが、君も来たまえよ」
「乙一くん、今度みんなで、書き下ろしアンソロジーを出すんだが、君も参加したまえよ」
「乙一くん、そろそろ君も「e-novels」に、何か書きまえよ」
  ・
  ・
  ・
「乙一くん、当然『GOTH』の文庫解説は僕が書いてあげるから、君は僕の新刊の推薦文を頼むよ」
  ・
  ・
  ・
「乙一くん、君、……僕のことをバカにしてないか。あれだけ面倒を見てやっているのに、……僕をなめたら、ただでは済まないよ」



 ホランド
>  それにしても、あと10年もしたら、冗談抜きで「大下らんぽ」とか「山野Q作」なんて若手作家が出てくるのかも知れません。そうなるとボクも「おじさん、ついていけないよ」って言いたくなるかも・・・。

べつに、無理してついていく必要はないよ(笑)。

若者や新しいものに興味を持つ「知的好奇心」は大切だけど、時代に取り残されまいとしての「知的若作り」なんて、「老醜」以外の何ものでもないからな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


見る角度によって(中) 投稿者:園主  投稿日: 8月 1日(日)02時06分4秒


 時雨さま
ここで以前話題に上った「仮面ライダーSPIRITS」なんかは集めてますし、「TRIGUN」とか「ヘルシング」とかが大好きです。

そうでございますか(笑)。それではいずれ仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂のご感想などもお聞かせ下さいまし。


>>『機動戦士ガンダム』の「初放映時の録音(カセット)テープ」を、今も持っているのでございます

すごい!そういう人がいるという話は聞いたことがありましたが・・・
> まさか本当に出会えるなんて!

う〜む。なんだか私も「歴史の証人」みたいになってまいりましたねえー……(-_-;)。


僕から見れば最近の笠井潔のジャンルX に対する反応(マンガ・ライトノベルへの批評、乙一やTYPE-MOONとの対談など)は「はぁ?なに言ってるんだこのおっさん、つうか話かみ合ってないじゃん」と思う反面 、「へぇ、そういう見方も出来るんだ」と思わせるところもあったりします。
> これについては「空の境界」の解説を対象にしていずれ。園主様が「空の境界」を読了されたあたりでこちらもまとめて投下したいと思います。

空虚に巣食う魔(1)〜(6)

というわけで、『空の境界』については、あえなく挫折いたしましたので、遠慮なくやって下さいまし(笑)。


訂正

討論・笠井潔をめぐってのページの方は、すでに訂正しております。
掲示板の方は、バックログの方で訂正してあります。どうぞ、ご確認下さいまし。





(以下は「見る角度によって(下)」につづく)


見る角度によって(上) 投稿者:園主  投稿日: 8月 1日(日)02時05分3秒

みなさま、本日(7/31)は京都まで、本の買い出しに行ってまいりました。主たる目的は、私の大好きな画家山本タカトの第3画集『ファルマコンの蠱惑』(エディシオン・トレヴィル)のサイン本の購入でございます。これまでは京都のアスタルテ書房が山本のサイン本(画集)をあつかっておりましたので、数百円のサイン代を加算されるかも知れないものの、どうせ買うのであればサイン本をと、古本屋めぐりを兼ねて、出かけてきたのでございます。
結論から申しますと、アスタルテ書房には『ファルマコンの蠱惑』のサイン本はおろか、画集そのものが入荷されておりませんでした。私が店主に「山本タカトの新しい画集のサイン本は、まだ入っていないんですか?」と尋ねますと、店主はすこし驚いた様子で「出たんですか?」と聞き返しました。
「ええ、まだ出たばっかりですけど、こちらならサイン本があると思ってきたんですが、まだなんですか?」
「ええ」
「入る予定はあるんでしょう?」
「わかりません」
――どうやら、何の連絡もなかった、ということらしい。私は、たぶん店主が版元にたいして気を悪くしているのだろうと思って、それ以上は追求せず、彼の「これならありますよ」と奨めた、
 『夕化粧』(石川貴一 作・山本タカト 装丁・沖積舎 刊・両者サイン入り)
を購入するに止めました。ほとんど無名なのであろう詩人による、半自費出版と思われる耽美小説集でございます。

目論見がはずれた私は、その後、京都では必ず立ち寄る「三月書房」に足を向けたのでございますが、ここでもこれといった収穫はなく、今日は空振りかと落胆しつつ、はらぴょんさまにご紹介いただきました乙一の新刊『小生物語』(幻冬舎)を購入すべく、河原町の新刊書店「ブックファースト」に寄りました。この店にはひさしぶりだったのでございますが、文芸書に力を入れているのがハッキリわかる充実の棚構成に感心。ですが、大西巨人の『深淵』をまだ平積みにしてくれていたり、文庫の棚でも『神聖喜劇』全5巻が平積みにしてあるのには、うれしいさを通 りこして、経営状況が心配になりさえいたしました(笑)。しかし、そのような店だからこそでございましょう、思いもかけない収穫がございました。

まず、多和田葉子の『容疑者の夜行列車』(伊藤整賞・谷崎賞受賞、2002年7月刊)と『球形時間』(ドゥマゴ文学賞受賞、2002年6月刊)の初版(初刷)本が、まだ残っていたのを発見。多和田は、文壇での評価は高いものの、決して売れっ子作家ではございませんから、初版の部数も少なめで、賞などとろうものなら、あっと言う間に版を重ね、初版が消えてしまう作家でございます。しかし、この種の玄人好みの賞の受賞作(初版本)では古書価がつくこともございません。ただ、めったに文庫になることのない作家の本を、単行本で購うとすれば、やはり初版で買いたいというのが、コレクターの性というものなのでございます。

つぎに、角川文庫版『バッテリー』1・2巻のサイン本がございました。色紙も掲示されておりましたので、たぶんサイン会をやったのだと存じますが、その残りがあったのでございます。残念ながら第1巻の方は第7刷でございましたが、青波が表紙に描かれている第2巻は第1刷でしたので、それで良しとすることにいたしました。

もちろん、この店で乙一の新刊『小生物語』を購入いたしました。
帰りの電車で、この本をぱらぱらとめくっておりますと、いきなり「アスタルテ書房」というゴシック文字が目に飛び込んでまいりました。

『ところで京都へ行った際、とある編集者の方に教えていただいたおすすめの古本屋にも行きました。定金先生と街をうろつきながらようやく探し当てた古本屋は、「アスタルテ書房」という名前の店でした。雰囲気も品揃えも僕好みでした。すごい店でした。店の奥で黒魔術をやっているような雰囲気でした。店員の女性は漫画『アウターゾーン』のミザリーみたいでした。』(P19)

『漫画『アウターゾーン』のミザリー』というのは良く存じませんが、だいたいの想像はつきます。と申しますのも、私もそれらしい、インパクトの強い服装をした、お人形さんのような女性店員を、二度ほど見かけたことがあるからでございます。――ですから、ここでスティーブン・キングの『ミザリー』を思い浮かべてはならないのでございます。

ま、何はともあれ、これだけ誉められているのでございますから「アスタルテ、頑張れよ!」――と思った私なのでございます。





(以下は「見る角度によって(中)」につづく)



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