●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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空虚に巣食う魔(22) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時27分59秒


 このことは、当然のことながら「小説」の評価にも当てはまるだろう。「優れた作品を優れた作品として妥当な評価し、楽しみたいのか。それとも、客観的には駄 作であろうと何だろうと、自分がそれを面白いと思えれば、それを傑作だと評価するのに吝かではない、という態度を選ぶのか」ということである。

 もちろん、私の立場は前者である。私は、自分が個人的に面白いと思っても、客観的に不出来な部分は不出来な部分として評価し、そうした点を含めて総合的に評価した結果 、その作品が客観的には「駄作」「失敗作」の部類だと思えば、そのように認めるのも吝かではない。ただ「駄 作」であろうと「失敗作」であろうと、「好き」なものは「好き」だという事実に変わりはない。つまり、「客観と主観」は区別 するし、「主観から逃れられない」というのは当然の前提として、だからこそ「客観を大切にしたい」し「そこにこそ価値がある」と考えるのである。

 このことを言い換えれば、次のようなことにもなろう。

『「前に聞いたことがあるんだな、私は。ウチの先生の談に依ると、予感てェのは中から湧くものだから駄 目だと。外から来なきゃ本当じゃないだろうと云う。善く解らないと云ったらですな、中にあるものなんか何でもアリで面 白くないだろうがと云って散散馬鹿にされたですよ。」
 寅吉は両手で湯飲みを包み込むようにしてふうふう吹いた。
 解るような。
 解らないような。
 いや、解らない。解るべきではない。
 榎木津の発言を難なく理解できるようになってしまったら、それはもう手遅れと云う感じがする。そうなってしまったら既に一般 人ではない。立派な一味だ。だから理解しようと努力する前に、解らないと放棄した方が、より普通 なのだ。
 サッパリ解りませんと云った。
「それで――」
 凡人は凡人らしくもっと朴訥に、普通に振る舞うべきなんだ。』

(京極夏彦『百器徒然袋 ― 風』所収、「雲外鏡 薔薇十字探偵の然疑」より)


 つまり、私が要求しているような理解は、「一般人」つまり、榎木津礼二郎の言う『下僕』たちには、困難なことなのかも知れない。「一般 人」は、自身の「内的衝動」にふりまわされて、「幻想」に執着しつづけるのが「分相応」なのかもしれない。つまり「一般 人」とは、「ペテン」の被害者であることに喜びを感じるような、「変態」なのかも知れない。
 ――だが、その「実像」、つまり「外」から来る「自身の肖像」を見た(見せられた)以上、人は純粋に『凡人は凡人らしくもっと朴訥に、普通 に振る舞う』ことはできない。いや、振る舞うことは可能だが、それで「幸福な痴愚」としての「一般 人」に立ち戻れはしない。だから、そういう人は、内と外の「境界」で立ち往生し、中味のない中途半端な存在として、ふらふらするしかない。彼は、自身、虚しい「空の境界」として「ペテン」の被害にあい、あるいは利用されるしかないのである。



  2004年8月10日





http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html


空虚に巣食う魔(21) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時26分44秒


 では、なぜ、笠井潔のこんな妄言を、少数とは言え、何となく納得してしまう人が出てくるのであろうか。――それは、私がその文章を検討することによって証明した、『空の境界』という作品の「中味のない朦朧性」のせいなのである。

 人間は「よくわからないこと」に対しては、どうしても「過大な幻想」を抱きがちである。素直な人間ほど「良くわからないけど、きっと、ものすごく深遠なことを語っているんだろうな」などと思ってしまう。それは、自分の理解能力の低さに対する「引け目」から、相手を過大評価してしまう、ということでもある。相手が桁外れの存在であれば、自身がそれを理解しえなくても、それは「当然」だ「普通 」なのだと、自身を慰めることができるからなのだ。

 また、人間のそうした「心理的弱点」を知り尽しているからこそ、ペテン師はそこを突いてくる。怪しげな健康食品を売り込むのに、「○○大学名誉教授」などといった肩書きをひけらかし、一般 人が理解できない数字を並べ立て、とんでもない価格の商品を売りつける。「教養」や「学歴」に劣等感をもっている者は、こういう手口に、あっけないほど簡単に引っ掛かる。「○○大学名誉教授」と実在の大学名を出す以上、「まさか偽者ではあるまい」と思い、「そんな偉い先生の出すデータならば信用できるのであろう」と考え、そしてそのデータからすれば「むしろ、その価格は安い」などと考えてしまう。

 たしかに「はったり」や「ペテン」というものは、「見るからに、根も葉もないデタラメ」ではまずい。けれども、それらしい形式さえ整っておれば、「空中楼閣」で充分なのである。つまり、「蓮見重彦東大教授」を騙るのは、バレる可能性が高いからまずいけれど、「○○大学名誉教授」を騙っても、まずはバレない。要は、その場で真偽を見抜かれるような、ハッキリとしたデータを提供せず、どうとでも取れる曖昧さ(朦朧)のなかで「幻想」を見せればよいというのが、ペテンの常道なのである。


 そうした意味で、『空の境界』(の「文章」)は「ペテン」の道具にピッタリだったのである。つまり、奈須きのこや『空の境界』は、単に「明晰さを欠いた」凡庸な作家であり作品なのであって、それを利用して「ペテン」をかましたのは、あくまでも笠井潔なのである。

 つまり、奈須きのこや『空の境界』は、「からっぽな器」であり「空虚な匣」に過ぎないのだが、そこに笠井潔という「魔」が巣食ったために、奈須きのこや『空の境界』は、新たな「伝奇小説」ブームに延命を賭ける笠井潔によって、


『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』


に祭り上げられた、というわけなのだ。



 何も無いところに「幻想」を充填することで、その「空虚な容れ物」に、もともと何か重大な意味があったかのように誤認させる「ペテン」。これは、たしかに、笠井潔独特の「意味」「意義」偏重(観念指向)から出てきたことなのだが、しかし、そんなものが一定の説得力を持つというのは、読者の側にもそういう意味づけを求める「欲望」があったからなのであろう。
 実際に、それが「価値のあるものかどうか」ではなく「価値のあるものと思えれば、実際なんてどうでもいい」という態度。これは、昔からある「どうせ私を騙すなら、死ぬ まで騙して欲しかった」という恋愛心理に近いものがある。所詮、現実とは「認識の総体」でしかないのだから、死ぬ まで騙されるのなら、少なくともその騙された本人にとってそれは「真実」になる――という考え方もある。しかし、こういう人は、そういう「騙されたい願望」に引き摺られて、一生「騙され」「裏切られ」「泣き言」を言わなければならないのではなかろうか。

 私は「宗教」というものを信じていないけれども、「宗教」に「実感」を持っている人たちが大勢いるという「事実」を否定しない。そして、間違った「実感」であろうとも、それが感じられる人間が、そうした「幻想」を信じ込んでしまうのも、なかばやむを得ないことだと思っている。しかし、事そこにいたる前に、人は自身の願望を直視するべきであろう。「自分は、信ずるに値するものを信じるのか。それとも、信じられるものでさえあれば、それで充分だ、というだけのことなのか?」と。





( 以下は「空虚に巣食う魔(22)」につづく)


空虚に巣食う魔(20) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時25分19秒


 笠井潔が岡島二人論で語ったとおり、「ネタ」は「小説」ではない。つまり、その「小説」にどのような「意義」や「意味」が込められておろうと、あるいは発見されようと、その「意義」や「意味」が十全に「文章化」され表現されていないかぎり、その小説は『「重要な主題をあつかった駄 作」であり「頭でっかちの失敗作」』でしかありえない。つまり、百歩譲って、笠井潔の発見が、単なる「恣意的な意味づけ」ではなく、それなりに根拠のあるもの(まったく無根拠でもないもの)だったとしても、


『「飛び降り」
「え―――? あ、ごめん、聞いてなかった」
「飛び降り自殺。アレは事故になるのか、幹也」
 意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻す。と、馬鹿正直にも今の問いを真剣に考えだした。
「うーん、そりゃあ事故には違いないけど……そうだね、たしかにあれって何なのかな。自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど、自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。ただ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから――――」
「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」』(『空の境界』上巻P12)

や、

『だから、それが関連性だ。いや共通点のほうが正しいか。八人中、大半が死亡者自ら飛び降りている現場を複数の人間に目撃されているし、彼女達の私生活にはなんの問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、怪しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての突発的な自殺であるのは疑いようがない。故に残しておきたい言葉は無く、警察もその共通 点を重要視していないんだろうね』(『空の境界』上巻P23)

や、

『 遺書がないのはなぜだろう。遺書がないのでは、人は自ら死なない。
 遺書とは、極論として未練だ。死を良しとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。
 遺書のない自殺。
 遺書を記す必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。
 そして、飛び降りは完全な自殺ではない。
 人目につく死はそれこそが遺書めいてしまう。残したい事、明らかにしたい事がある故の行為ではないのか。だとしたら、何らかの形で遺書は用意されているのが道理だ。
 ならばどうなのだろう。それでも遺書らしき痕跡さえないというのなら―――第三者が彼女達の遺書を持ち去ったのか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。
 ではなにか。考えられる理由は一つ。
 つまり、文字どおりソレは事故なのではないか。
 彼女達は初めから死ぬつもりなどなかった。それなら遺書を書く必要はない。』(『空の境界』上巻P24)


といった、「頭が悪い」としか言い様のない「議論」にしか「文章化」できない作者、つまり「適切な文章を選択する直観的能力」の欠落した作者の「小説」に、


『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』


などと、笠井潔が煽り立てるほどの「実質」がないのは、理の当然なのである。つまり、「小説」とは、そんな甘いものではない。それは笠井潔自身が、


『その無限に多様な選択肢から、作家はひとつの文章を選ばなければならないのだ。
 情報や意味や「ネタ」にまつわる客観性は、なんら選択の基準になりえない。作家は裸で、どんな客観的な理由もなしに、決死の飛躍を演じなければならない。それが主観性の無礼講であるなら、気楽なものだろう。自分は、それが「よい」と思った。だから、その文章を選んだのだと、もしも作家が弁明できるのなら。だが、それでも作品は客観的な存在なのである。客観的に価値あらねばならない存在だと、いうべきかもしれない。作者はどんな客観的な根拠もなしに、客観的に「よい」とされるものを主観的に選ばなければならないという、困難きわまりない、ほとんど不可能である立場を不断に強いられている。』


と語ったとおりなのだ。





( 以下は「空虚に巣食う魔(21)」につづく)


空虚に巣食う魔(19) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時24分19秒


 そこで話を『空の境界』へ戻すと、笠井潔は『空の境界』という作品の「意義」であり「存在価値」を、


『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』


という点に求め、そうした価値が、この作品の奈辺に存するのかを、次のように説明している。


『 (※「八〇年代伝奇小説」のような)「中心―周縁」論的な伝奇小説では、制度化され権力に支配された日常世界が敵である。都の権力にまつろわぬ 鬼や妖怪たちの物語として、伝奇小説は成立してきた。しかし『空の境界』では、古典的な伝奇小説の構図が逆転している。味方は日常、敵が非日常なのだ。八〇年代伝奇小説にとって最後の可能性だった、宗教的根源の探求者が最大の敵という役割を演じる。『空の境界』は半村、五木的な伝奇小説の構図を一気に裏返し、これまで誰も想像したことのない可能性を拓いた。
 しかし『空の境界』の達成を、「日常―非日常」や「中心―周縁」という図式の優位 項と劣位項の逆転に見るわけにはいかない。そもそも映画や小説のパニックものでは、平穏な日常に襲いかかる非日常の脅威という構図はありふれている。『空の境界』の独自性は、「日常―非日常」という対項図式それ自体を宙吊りにした点にある。
 「空の境界」としての式は、日常と非日常という二つの世界を往還する。日常的存在としての式に侵犯された非日常性を、荒耶宗蓮は人格的に体現している。根源を求める欲望は「悪」として否定される。宗教的根源ではない、「血」としての根源にしても同様だ。他方、非日常性としての式を容認することで、日常性もまた必然的に変容する。日常化された非日常と、非日常化された日常。中心化された周縁と、周縁化された中心。境界が空無化し、しかも「空の境界」として存在し続ける世界では、非日常も日常も根本的な変質をとげざるをえない。』(下巻P468)


 『空の境界』の「新しさ」とは、『「日常―非日常」という対項図式それ自体を宙吊りにした点にある。』と笠井潔は言う。『空の境界』という小説が『中心化された周縁と、周縁化された中心。境界が空無化し、しかも「空の境界」として存在し続ける世界』を描いている、と笠井潔は言うのである。

 しかし、そもそも山口昌男らの唱えた「中心―周縁」理論とて、「中心」と「周縁」が固定的なものとして捉えられていたわけではない。それらは、刺激しあい補い合う「二極」としてイメージされていただけで、その「中味」は、決して固定されていたわけではないのだ。
 例えば、山口昌男が愛用したのが「トリックスター」という概念である。「トリックスター」は、「日常―非日常」「中心―周縁」を往還して、双方を「掻き回し」、そのことによって固定し衰弱することが定めの「日常―非日常」「中心―周縁」を「生気返し」し「更新」する、「境界」的存在なのである。

 つまり、『空の境界』の主人公である両儀式の存在形式は、なんら新しくないのだ。

 山口昌男は、読者の側に立って「非日常の侵犯により、日常が活性化される」「周縁的なものの侵犯により、中心的なものが活性化され更新される」と語ったけれども、これは逆の言い方、つまり「日常との接触により、非日常が活性化される」「中心的なものとの接触により、周縁的なものが活性化され更新される」ということを否定するものではない。鬼や妖怪といった「それまで」は「非日常=周縁」の側に属すると認識されていたものが、「商業的消費」という日常性にさらされて「陳腐化」し、「日常=中心」の側に取り込まれる、というのは常識的な認識であろうし、その場合、「非日常=周縁」の側は、わかりやすい「鬼や妖怪」といった「反体制」の象徴ではなく、「ストーカー」や「理解不能なアンダー14」や「北朝鮮」等といった「新たな周縁」を見い出し、自ずと変化していくだろう。この程度のことは、山口昌男の昔に、すでに認識されていたことなのである。

 ところが笠井潔は、こうした先達の達成を、故意に図式化して「硬直した、ものの見方」であるかのように語り、その上で、特に新しくもないものを新しいと、「小説」家的「文章(レトリック)」を駆使して、大仰に語ってみせるのである。

 したがって、『空の境界』と作品に、笠井潔がいうような「中味(意義・意味)」はない。それは笠井潔が「ある」と語った段階で、読者の内部に発生した「幻想」でしかないのだ。そして、その「事実」を裏づける証拠とは、他でもない、『空の境界』のあの「下手くそな文章」なのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(20)」につづく)


空虚に巣食う魔(18) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時22分30秒


 「トリック」だけを取り出して、その「固有の面白さ」を論じることの可能な(そのような特異な習慣をもつ)ミステリマニアには理解しにくい話かも知れないが、笠井潔がここで語っている小説観は、非常に常識的であり真っ当なものである。

 つまり、「魅力的な女」というだけでは小説にはならないから「空手の達人で美人」だとするが、では具体的に「どんな風に戦うのか」「どんなふうに美人なのか」「性格は」「しゃべり方は」「服装は」ということが具体的に「小説の文章」とならないかぎり、それらはすべて「ネタ」にとどまり、「小説」にはならない。また、その時、主人公が「赤い服」を着ているか「紅い服」を着ているか、あるいは、主人公の通 りがかった場所に、たまたま立っていたのが「アベック」なのか「学生の二人連れ」なのか、といったことは、たいていの場合、『客観的な理由』はなく、作家の『主観性』(主観的選択)に委ねられている。

 だが、優れた小説作品においては、作家によって主観的に選ばれた要素が「計算し尽されたかのような(客観的)効果 」を担っている場合が少なくない。だから読者は、そこに「作者の計算」と「必然的(論理的)選択」見るのだが、往々にして作者は「そこまで考えてはいなかった」ということにもなるのである。つまり、こうした作家と読者の齟齬の存在は、作家の「文章選択」における「直観」のような部分にこそ、「作家的才能」の本体がある、という事実を示唆しているとも言えるのである。

 「同じトリック」「同じプロット」を使っても、別の作家が書けば、別の作品になって、おのずと作品としての出来不出来の差も生じてくる。同じようなキャラクター設定をしても、作家の文章力によって、そのキャラクターはまったくの別 物になってしまう。――小説は、そういうものなのである。

 つまり、たとえ大変「重要な意味」が語られていようとも、それが作家の直観によって適切に選択された文章によって表現され「肉化」されていないかぎり、その小説は「駄 作」であり「失敗作」だということなのだ。
 例えば、「人類愛」や「世界平和」というのは、重要な問題であり、重要な小説的主題ともなりうるけれど、それが小説として適切に文章化されないかぎり、それは「駄 作」であり「失敗作」となってしまう。「重要な主題をあつかった駄作」であり「頭でっかちの失敗作」ということになってしまうのだ。





( 以下は「空虚に巣食う魔(19)」につづく)


空虚に巣食う魔(17) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時21分18秒


 たしかに笠井潔は、小説の「意義」や「意味」にこだわる評論家である。しかし、それは「文章」を軽視するということと、同じではない。笠井自身、小説家である以上、小説とは「文章」化されて初めて「小説」になる、ということは十二分に理解しているし、そのことを自身語ってもいる。

 具体的に言えば、笠井の「岡島二人」論である。笠井の岡島二人論「余は如何にしてミステリ作家となりしか」(『模倣における逸脱』所収)は、岡島二人という「合作作家」を分析することで、普遍的な「小説家の誕生の秘密」に迫ろうとするものだが、「小説家の誕生の秘密」のもっとも重要な要因として、この評論で提示されるのが「小説の本体は、実際の文章化の中で顕現するものであり、プロットやアイデアや主題といったものは、小説のきっかけでしかなく、副次的な意味しか持ちえない」とする「文章化」の問題であった。


『 暗記するまでに練りあげられた「ストーリー」(作者はストーリーにプロットの意味を込めて使用しているが)であろうとも、小説作品はそれ自体とは等置されえない点で、それも一種のネタであるに過ぎない。そして繰り返すまでもないだろうが、「ネタと小説はまるで別 のものなのだ」。』(P166)


 文中の『作者』とは、 自伝的長編エッセイ『おかしな二人 岡島二人盛衰記』の作者である、岡島二人の片割れ、井上夢人のことである。ちなみに、井上は、笠井潔と同世代で、笠井の仲の良い友人でもある。


『(※ データを客観的に伝えることを目的とし、文章がネタに従属する「報道文」とは違い)小説の場合には、その論理が逆転せざるをえないだろう。トリックに対してストーリー、ストーリーに対してプロット、プロットに対してディテールなどなど、「語られる対象」は「語りの効果 」に従属しなければならないのだ。「この女は、どういう服装をしているのだろう」という自問を、作家に強いるだろうディテールでさえも、最終的な次元ではありえない。「赤い服を着ている女」という意味(ネタ)は、比喩の効果 において無限に多様な文に変奏されうる。その無限に多様な選択肢から、作家はひとつの文章を選ばなければならないのだ。
 情報や意味や「ネタ」にまつわる客観性は、なんら選択の基準になりえない。作家は裸で、どんな客観的な理由もなしに、決死の飛躍を演じなければならない。それが主観性の無礼講であるなら、気楽なものだろう。自分は、それが「よい」と思った。だから、その文章を選んだのだと、もしも作家が弁明できるのなら。だが、それでも作品は客観的な存在なのである。客観的に価値あらねばならない存在だと、いうべきかもしれない。作者はどんな客観的な根拠もなしに、客観的に「よい」とされるものを主観的に選ばなければならないという、困難きわまりない、ほとんど不可能である立場を不断に強いられている。それが報道文とは性格の異なる、小説を書くという行為に固有の意味である。データがあるのに「書けない」という理由で、度はずれな困難を味わう新聞記者や週刊誌記者は稀だろうが、おなじ理由で発狂したり自殺したり、そこまで行かないにしても筆を折ったような小説家は無数にいる。』(P167〜168)





( 以下は「空虚に巣食う魔(18)」につづく)


空虚に巣食う魔(16) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時19分17秒


 では、その「鞍替え」先は、いったいどこにすべきなのか? これは、生き残りを賭けた難問である。そこでまず、笠井潔の目に止まったのは、「本格ミステリ」との絡みで注目していた「ジャンルX」関連の「新世代」小説であった。
 しかし、いくらそのあたりが流行っているとはいっても、笠井潔の個性とは相容れない「セカイ系」小説や「恋愛」小説では、コミットしそこなうのは目に見えている。ならば、できるだけ自分の従来の守備範囲に近いところから「鞍替え」先を、と捜してみた場合、「ミステリ」はダメ、「スパイ・謀略小説」的なものもダメとなれば、おのずと残るのは「伝奇小説」あたり、ということだったのであろう。

 つまり、笠井潔は、自身が長文の「解説」を書き与えて、最大限の祝福をした新人作家奈須きのこに、自身の旧作の伝奇小説『ヴァンパイヤー戦争』の文庫に推薦文を書かせたり、『空の境界』と同じイラストレーターに『ヴァンパイヤー戦争』の装丁画を書かせたりしたことからもわかるように、自身いつまでも「新伝綺」小説の「よき理解者」や「イデオローグ」に止まるつもりはなく、いずれは「新伝綺」ブームを支える「現役」の「伝奇小説家」として活躍するつもりなのである。

 したがって、「新伝綺」に、時代的必然があるというのは「嘘」である。たしかに「ジャンルX」全体の流行傾向には時代的必然はあろうが、その中でも、今回特に「伝奇」小説をクローズアップしてみせたのは、そこに「特別 な時代的要請」があったということではなく、「笠井潔の個人的都合」があったというに過ぎないのである。
 実際、大した前兆現象もなく、新人作家のデビュー作ただ1作だけをとらえて「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」と言われても、たいていの人には、ピンと来なかったはずだ。それもそのはず、「ここから、伝奇小説ブームがふたたび巻き起こる」という断言の内実は、じつのところ「ここから、伝奇小説ブームをふたたび巻き起こそう。巻き起こってもらわなければ困る」ということに過ぎなかったのである。


 このあたりの「読み」が『邪推』でないということを証明する根拠を、もうひとつ挙げておこう。それは、私が『空の境界』の文章を検証した際に呈した、


『なぜこの程度の作品を、笠井潔は持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者とって、『空の境界』の文章は、あまりにも酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。』(空虚に巣食う魔」(1)


という「疑義」にかかわる。





( 以下は「空虚に巣食う魔(17)」につづく)


空虚に巣食う魔(15) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時16分34秒


 例えば、上記論文にも詳述したとおり、笠井潔は「新本格ミステリ」に「党派イデオローグ」としてとり憑くことで、作家として一定の位 置を占めるにいたった。しかし、笠井は「文学賞」というわかりやすい「勲章」を持たないに等しかったし、「売れない作家」であることに変わりはなかった。だからこそ、彼は「探偵小説研究会」を発展させて「本格ミステリ作家クラブ」を立ち上げ、さらにこの団体が主催する「文学賞」というかたちで「本格ミステリ大賞」を立ち上げ、自分の帰属する「本格ミステリ」業界の「ミステリー」文壇における覇権を強めるとともに、いずれは自分がその賞を取って、「名誉と売り上げ」を一気に手に入れようと画策したのである。

 しかし、時すでに遅し。「文学賞」が濫立し、年末の「年間ベストテン本」が氾濫する現状では、笠井の看板シリーズの新作であり、渾身の力作でもあった『オイディプス症候群』(光文社)が、笠井自身がリーダーである「探偵小説研究会」の編著になる『2003本格ミステリ・ベスト10』(原書房)で「第1位 」を勝ち取ってみても、さらにその延長線上で「本格ミステリ大賞」に選ばれてみても、せいぜい一度だけ版を重ねる程で、期待したほどの効果 は、まったく見られなかったのである。

 この厳しい現実は、翌年の「本格ミステリ大賞」受賞作である歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』(文藝春秋)の売り上げ部数に、如実に現れている。この作品は、刊行直後から評判が良く、書店などの推薦本として草の根レベルでたいへん評価の高い作品であったが、それが売り上げに結びつくことはなかった。しかし、その不遇な作品も、当初からマニアックなところで注目されていたおかげで、『2004年度版 このミステリーがすごい!』(宝島社)と『2004本格ミステリ・ベスト10』で堂々の第1位 に選ばれ、「本格ミステリ大賞」と「日本推理作家協会賞」の2賞まで獲得し、名実共にその年の「ベストミステリ」として方々に取りあげられ、一般 にも広く認知される作品となったのである。
 しかし、その結果それなりに版を重ねた、この傑作の売り上げが、たかだか11万部に止まっている(讀賣新聞2004年6月18日付ミステリー界 なぜか似通う 賞の結果)というのだから、知名度において圧倒的に劣る笠井潔の『オイディプス症候群』の売れ行きがどの程度のものであったかは、推して知るべしであろう(未確認だが『オイディプス症候群』は3刷まで。一方、『葉桜』は2004年5月30日現在で13刷)。

 つまり、笠井潔はこうした経験から、もはや「本格ミステリ」に拘泥、あるいは、義理立てしていたのでは、『文の商人』として生き残る(面 目を保つ)ことは不可能だ、という現実に直面したのであろう。ならば、どうするか? その答えは、これまでの経験からもおのずと明らかなとおり「有望なジャンルに鞍替えすることだ」ということだったのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(16)」につづく)


空虚に巣食う魔(14) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時14分50秒


 今や笠井潔は、「同人小説」としては例外的によく売れた、という実績しかない新人作家のデビュー作を持ち上げて、『空の境界』の上巻「解説」を、


『『空の境界』講談社ノベルス版の刊行は、注目に価する「事件」である。
 二〇〇〇年冬のコミックマーケットで公開されたノベルゲーム『月姫』の作者として、奈須きのこはわれわれの前に初登場した。質量 ともに同人ゲームの水準を超えた『月姫』が、コミケ的なオタクカルチャー界に巨大な旋風を巻き起こしたのは記憶に新しい。
 『月姫』公開以前、一九九八年から九九年にかけて奈須は、ホームページ「竹箒」に長編小説を分割掲載している。コミケで販売された結末部分を加え、長編としての結構を整えた『空の境界』は、二〇〇一年十二月に自費出版された。伝奇美少女ゲーム『月姫』に続いて新タイプの伝奇小説『空の境界』も、コミケや同人ショップでの自主販売という制約にもかかわらず、空前の大量 読者を獲得することになる。』(上巻P408)


と、思いきり大仰に語りはじめている。『事件』『巨大な旋風』『空前の大量 読者』と過剰な修辞は、「具体的な数字」を明示しないままに、これでもかとばかりに重ねられているる。――まさに、ペテン師ならではの口ぶりだと言えよう。

 とはいえ、ベテラン作家笠井潔が、ここまで新人作家を持ち上げる「根拠」とは、いったい何なのか? それは「数字」に他ならない。とにかく、笠井潔の著作よりも、ずっと「売れた」という事実において、奈須きのこは笠井潔より上だし、『空の境界』は『哲学者の密室』よりも上なのである。結局はそうとしか言い様のない「拝数主義」に笠井が囚われているからこそ、このような臆面 もない「ヨイショ」も可能となるのである。


 しかし、笠井潔ほどの実績を残した作家が、いまさらそこまで「数字」に拝跪するものだろうか、との疑問を持つ人も少なくなかろう。それは、当然の疑問である。

 けれどそれも、先に紹介した笠井潔が、真に望んだこと。に書いたとおりで、笠井潔が「売れない作家」として舐めてきた辛酸と、それに由来するトラウマというものを知っておれば、決して理解できないことではないのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(15)」につづく)


空虚に巣食う魔(13) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時09分43秒


 もちろん、笠井潔としては、東浩紀に指摘された時と同様、私のこのような読みを『邪推』だと否定することだろう。
 笠井潔は、東浩紀の「笠井潔=度しがたい党派人間」説が、『邪推』だとする根拠を、


『一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は「愕然」あるいは「呆然」とします。「かつて『批評空間』がらみで業界内の党派争いに巻き込まれた経験」の傷が、背景にあるのでしょうか。しかし、それは現代思想タコツボの不健全性が、他の小世界にも同じように瀰漫しているに違いないという、東君の無根拠な思い込みにすぎません。本格ミステリの小世界は、たとえば現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。この相違には、業界の構成者の品性や性格の問題というよりも、もう少し構造的なものがある。簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。市場のヤスリにかけられているかどうかは、決定的な相違ですから。プロとして顧客に商品を売って生活をしている以上、ほとんどが大学教授のアマチュア・ライターで占められている特殊な世界のように、「業界内の党派争い」で盛りあがっている余裕など、われわれにはあたえられていないのです。』

           (笠井潔・第一二信「言論的「禁治産者」の独り言」P163 より)

と、東浩紀が所属する『現代思想の小世界』の規模の小ささにおいて、東の見解を否定してみせた。
 しかし、「業界の規模」ということで言うのなら、私が先の笠井潔が、真に望んだこと。で、


『笠井は、かつて東の所属した「現代思想の小世界」を『タコツボ』と見下し、現在みずからが所属する「本格ミステリの小世界」を『現代思想の小世界と比較して、はるかに風通 しがいいと僕は感じています。』と言う。そして、その根拠が『簡単にいえば、本の売れ行きが一桁か、ある場合には二桁以上も違うという事実でしょう。』と言うのは、まさに世に言う「目くそ、鼻くそを笑う」であり、いかにも「文筆業という小世界=タコツボ」に生きる人間らしい「視野狭窄」だと言えよう。いったい笠井潔が、その知名度に比して、どれだけ「稼いでいる」と言うのであろうか?
 笠井本人は、現在、日本のエンターティンメント文学界の主流である「本格ミステリ」に属しており、しかも斯界の理論的リーダーだというのが自慢なのかも知れないが、京極夏彦や森博嗣、有栖川有栖といった、ごく限られた「売れっ子作家」を除けば、本格ミステリ作家の年収など、さほどのものでないというのは、文筆業界の現実を多少とも知る者にとっては「常識」の範疇に入る事実であろう。
 そうした自らの現実を棚上げにして、銭儲けにならない「現代思想(=批評)の小世界」を嗤うというのは、なんとも「党派的」で「厚顔無恥」に過ぎるのではなかろうか?
 さらに言えば、かつて笠井潔は、島田荘司との対談の中で、「ミステリ」から「SF・伝奇アクション」の方へと「転向」した理由は、彼の「ミステリ」作品に何の反響もなかったからだと言っている。『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』といった「初期の名作」は、さほど売れなかったし、反響もなかった。つまり、当時の笠井潔は『市場のヤスリにかけられて』いない「アマチャア作家」であり、その当時の『傷』が、今の「メジャー指向の文壇政治屋」としての彼をつくった、とも言えるのである。つまり、東浩紀にかんして、笠井潔は「自分がそうだから、人もそうだ」と思ったのであろう。
 ともあれ、実売部数において「エロマンガ」「エロ同人誌」の足下にも及ばない、ごく稀に一万部刷るか刷らぬ かというような(笠井潔の本は、大半が再刷されていない)「通俗作家(職業作家)」が、身の程知らずに「偉そうなことを言うな。このバカタレが」……というのが、私の正直な感想なのである。』


と嘲笑したとおりで、到底、人のことを言えた義理ではないのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(14)」につづく)


空虚に巣食う魔(12) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時08分40秒


 つまり、話を戻すと、『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』の解消装置としての「八〇年代伝奇小説」や、それをより完全化したものとして「新本格ミステリ」を、根本的に超えるものとして『空の境界』を捉える、という笠井潔の立論は、実際には、「新本格ミステリ」の衰退という事実をうけて、後からひねり出され虚構された、「青田刈り」的「後づけの理屈」に過ぎないのである。

 「八〇年代伝奇小説」から、上手に「新本格ミステリ」に乗り移った際に用いた「後づけのヨイショ」という手管を、今回は、過去の経験を生かして、ちょっと早めに使ってみた、というのが、奈須きのこの『空の境界』に対する過剰なまでのバックアップの、本当の意味なのである。


 つまり、このことを言い換えると、『空の境界』は「笠井潔の延命」に利用されたに過ぎない、ということなのだ。

 笠井潔の思惑と講談社ノベルスの営業戦略が『絶妙に交差』したところに、都合良く見い出されたのが「奈須きのこ」であり『空の境界』でしかない。つまり、奈須きのことは、でっち上げてでも「新時代のスター」になってもらわなければならない存在だった。ちょうどそれは、鳴り物入りで行われた新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」みたいなものだったのである。
 そこでピックアップされた若者は、たとえ彼がどれほどの器であろうとも、ひとまず周囲が最大限に騒ぎ立て、過剰な宣伝と演出と優遇で、世間に彼を「スター(の器)」として認知(または、誤認)させねばならなかった。「才能があるんだから、放っておいても頭角を現してくるよ」というのとは正反対に、「黒い鴉も白い」と思わせようとする、本人をなかば置き去りにしての「売り込み」こそが、奈須きのこのデビューにあたって採用された「無名の新人のデビュー作の限定豪華版を、普及版の刊行に先立って刊行する」とか、「ミステリ界の大御所的評論家である笠井潔に、上下巻にわたる異例に長文の解説書かせる」といった「奇妙な動き」の意味だったのである。

 これがうまくいけば、講談社は「新本格ミステリ」ブームの衰退傾向にともない傾きつつある講談社ノベルスを、「新伝綺」という新しいブランドで盛りかえすことができるだろうし、笠井潔は「先見の明のある優れた評論家」として、また「新世代の良き理解者」として、あるいは「新本格ミステリ」ブームで担ったのと同じ「党派理論家」としての立場を、「新伝綺」ブームにおいても担えると算段したのであろう。





( 以下は「空虚に巣食う魔(13)」につづく)


空虚に巣食う魔(11) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時07分38秒


 しかし、この一見もっともらしい「仮説」も、現実には「個人的延命」という姑息な意図に由来する、本末転倒した、つまり「因果 」を転倒させた「後づけの屁理屈」でしかないのは、笠井潔の動きを観察してきた者の目には、明らかなことであろう。

 すなわち、「新本格ミステリ」ブームの行き詰まりということは、『空の境界』の出現を待つまでもなく、ここ数年、多くの業界関係者の間で、実感をもって語られてきた既成の事実なのである。私はこのことを、笠井潔が、真に望んだこと。のなかで、


『(※ 笠井潔は)綾辻行人のデビュー以来の長らく続いた「本格ミステリ」の行き詰まりが囁かれる中、最近では舞城王太郎・西尾維新・佐藤友哉などの十代読者にも支持されている「新感覚」派の若手にも「理解という名の触手」を伸ばしており、「本格推理小説」の延命を図っている。』


と書いているし、おおよそその意味するところは、ホランドこと碧川蘭が、


『 笠井さんの「清涼院流水以後」の世代への接近(引き寄せ工作=オルグ)は、はっきり言って、「時代の風向き」が最早「新本格」周辺にはない、ということを見て取った、笠井さんの情勢判断にあると思います。

 法月綸太郎さんをはじめとする「新本格」の人たち(特に、ミス研出身の第一世代)は、もともと「本格ミステリ至上主義者(非本格は、そもそもミステリに非ず)」的なこだわりを持ってますから、時代の風向きがどっちを向こうと、自分たちは「本格あるのみ」ということで、「(新)本格ミステリ(の時代)」と心中することも辞さないと思うんです。

 でも、園主さまやはらぴょんさまが何度も指摘しているとおり、笠井さんは「流行の波間を泳いできた人」だから、「本格ミステリ」と心中する気なんか毛頭ありません(たぶん、これは「探偵小説研究会」の人たちも同じで、彼らも少しずつ批評対象(ジャンル)を広げてきており、「機を見て、乗り移る」先を確保しようとしてるんじゃないかな。――「新伝綺」ムーブメントなんて「乗るべき波」をでっち上げようとしているのも、そうした危機意識によるんじゃないかと、ボクは感じます)。
 だから、そんな笠井さんには「清涼院流水以後」の佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎といった世代の作家が、笠井さんが理論的に支えてきた「本格ミステリ至上主義」に対して、おおむね冷淡であり、一定の距離をおこうとしていることが、心配でならないのでしょうね。』(おずおずと世代論を(2)


と説明しているとおりなのである。

 ちなみに、今や私の認識は、上記論文笠井潔が、真に望んだこと。執筆時とは違い、後者碧川蘭の認識に近いものになっている。
 すなわち、笠井潔は『「本格推理小説」の延命』を図って、「清涼院流水以後」の若い世代の作家に接近しているのではなく、もはや「自分一個の延命」を図って、それをしているのだ、ということである。――つまり、笠井潔の内部では、すでに「新本格ミステリ」は、切り捨てられている可能性が高い、ということのだ。
 だからこそ、笠井潔は接近する若手作家の範囲を「ミステリ作家」に限定することを止めて、「ジャンルX」の若手作家全体にまで広げはじめたのではないか。そして、その結果 として必然的に出てきたのが、「新伝綺」作家だとして持ち上げられる、奈須きのこのデビュー作への、


『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』


という「過剰なまでの支援」なのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(12)」につづく)


空虚に巣食う魔(10) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時06分32秒


 また実際、この「新本格ミステリ」ブームが翳りを見せ始めると、笠井潔は『空の境界』の出現に、「伝奇」小説ブームの新たな到来を示唆的に予告し、その文章の中で、あれだけ口を極めて褒めちぎっていた「本格ミステリ」の意味を、


『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』


と、愛想も小想もなく語ってしまう。

 ここで語られている「本格ミステリ」の意義とは、「伝奇小説が昭和天皇の消滅により機能しなくなった時、その穴を埋めるものとして登場したのが、より完成度の高い、つまり自己完結性の高いオナニズム装置としての本格ミステリであった」ということでしかないのである。

 いったいなぜ、笠井潔の「本格ミステリ」への語り口は、こんなにも冷めてしまったのだろうか。――それは「新たに時代を制するもの」の出現を本格的に語るためには、「老いたる王」は廃棄されなければならないからである。つまり、「八〇年代伝奇小説」の衰退をうけて必然的に成り上がってきたのが「新本格ミステリ」であるのならば、その「次なる王者」である「新伝綺小説」の登場は、その登場の大前提として「老いたる王」としての「新本格ミステリ」の「過去」性が語られなければならないからである。

 もちろん、この『空の境界』の「解説」において、笠井潔は「新本格ミステリ」ブームの終焉を、直截に語ってはいない。しかし、「八〇年代伝奇小説」の『差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望』解消機能を、より完全化したものとして「新本格ミステリ」を捉えた場合、


『 八〇年代伝奇小説が描いた境界性には、この(※ 『空の境界』の)ような複雑きわまりない屈折は見られない。中心に対する周縁、日常に対する非日常の境界という具合に、境界性は明確なものとして把握されていた。キャラクターとして幾重にも境界的な要素を畳みこまれていたヒロインは、八〇年代「ニューアカ」を代表した山口昌男の文化理論から、決定的なまでに逸脱している。いまや探究されるべきは、境界論的な境界ではなく空無化された境界、つまり「空の境界」なのだ。』(下巻P460)


という笠井潔の現在の見地からすれば、「新本格ミステリ」は最早「過去のもの」と看做されなければならない、ということになるのである。





( 以下は「空虚に巣食う魔(11)」につづく)


空虚に巣食う魔(9) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時04分36秒


 笠井潔の、この立論は、3つの仮説によって構成されている。それは、

 (1) 八〇年代状況論
 (2) 「天皇の虚構的中心化」論
 (3) 「山人と偽史の想像力」の勃興論

である。
 私は、(1)と(3)については、おおむね承認できる。(1)は、その時代を生きた者として、実感的に承認しうるし、(3)については、笠井潔の「解説」にも引用される、山口昌男などの「文化人類学」などの成果 が象徴的に示したように、「豊かになり中心的な存在になったものは、逆に貧しきものや非中心的なものに、ある種の怖れを交えつつ、魅了される」という傾向があるからである。

 つまり、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった人たちは、心のどこかで『貧しきものや非中心的なもの』を恐れつつも、それに惹かれていたのではないか。そうしたものが、栄華を誇る自分たちに襲いかかるのを恐れる反面 、貧しくとも自由かつ個性的であり、そもそも「個性」などということに拘泥する必要もない彼らの生き方に、どこかで憧憬めいた感情をもっていたのではあるまいか(事実、『清貧の思想』という本が、ベストセラーになった)。だからこそ、『高度資本主義』社会の繁栄の真只中にあった八〇年代の小説読者が、「山人」などに象徴される「まつろわぬ 」人々と、心理的に「同一化」しようとしたことは、想像に難くない。「実生活」は『高度資本主義』社会の繁栄の真只中においたまま、「想像の世界」では、そこから自由な「野生(非社会)」の存在として、世界を自由に(越境的に)駆けめぐり、時にはそんな存在を捕えて「社会化」しようとする「敵(悪)」と戦い、これを粉砕するヒーローとなるのである。

 このように考えた場合、笠井潔の言う「天皇の虚構的中心化」というのは、八〇年代における伝奇小説ブームを説明する上で、ほとんど必然性を欠いてしまう。
 実際、特に「伝奇小説」ファンであったとは言えなくとも、若き読書人の端くれとして八〇年代を生き、荒俣宏の『帝都物語』の熱心な読者ではあった私には、当時「天皇」とは、ほとんど意識にのぼらない、日常的には「たいへん印象の希薄な存在」でしかなかったように思う。
 『帝都物語』でも描かれるとおり、「天皇」の存在が多くの日本国民の目にクローズアップされるのは、昭和天皇の病状が悪化し、日々その様態をつたえる「下血と輸血」報道が繰り返されるようになってからではなかったか。それまでの「天皇」は、一部「左翼」や「右翼」を除いた、多くの国民にとって「天皇と呼ばれる、人の好さそうな老人」としか映っておらず、善かれ悪しかれ「戦争の記憶」からは切断されて(「戦後は遠くなりにけり」で)、およそ「魔王」性を喚起するような存在ではなかったのではあるまいか。

 そうした意味で、私は笠井潔の主張する(2)の要素、つまり八〇年代において「天皇の虚構的中心化」がなされたという主張は、どうにも「疑わしい」し「話を作り過ぎている」としか思えない。

 たしかに(1)と(3)の要素だけでは、「絵(仮説)」としての中心性を欠いてしまい、お世辞にも「魅力的な仮説」とは言えなくなるだろう。しかし、我々がここで問題としているのは、「八〇年代伝奇小説」ブームというものの「現実的な意味内容」であって、後から付与される「魅力的な意味づけ」ではないのである。
 だが、私がこれまでに何度となく指摘してきたとおり、笠井潔は「小説家にしては批評家的に過ぎ、批評家としては小説家的に過ぎる」のである。つまり、「小説」においては、その「意義」「意味」を優先してしまうあまり、実質のともなわない「頭でっかちの小説」になってしまうし、現実的な「批評対象」の現実的な「内実」を剔抉すべき「批評」にあっては、その本分を放逐した「大向こうを唸らせる(大向こうに受ける)」ことだけを目的とした批評、すなわち「批評対象の現実」に忠実たらんとする初心を欠いた「エンターティンメント的批評(仮説)」の構築に腐心する傾向が顕著なのである。

 それはすでに、幾人かから批判の声のあがっている「大量死」理論に基づく「大戦間本格ミステリ論」と、現代における「本格ミステリ」の優越性という笠井の議論にも顕著である。たしかに、サブカルチャーの片隅におかれていた「ミステリ」を、それまでは無縁とも言えた「現代世界史」や「現代思想史」にからめて「意義づけ」れば、「ミステリ」ファンは大喜びをして、それを支持するだろう。しかし、笠井潔がそういう作業を開始したのは、「新本格ミステリ」ブームが定着した後なのだから、これはブームにコミットするための「恣意的なゴマスリ」であり「ウケ狙いの後づけの理屈」だという色合いは否定できない。





( 以下は「空虚に巣食う魔(10)」につづく)


空虚に巣食う魔(8) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時02分59秒


 笠井潔による、上下巻にわたる「解説」は、

  上巻解説 : 山人と偽史の想像力
  下巻解説 :「リアル」の変容と境界の空無化

と題され、先の引用文にもあるとおり、上巻解説は『『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証』した、笠井潔流の「八〇年代伝奇小説 概論」であり、『空の境界』の独自性が論じられるのは下巻解説においてである。

 笠井潔は「八〇年代伝奇小説 概論」たる「山人と偽史の想像力」において、「八〇年代伝奇小説」ブームを支えたものを、次のように説明してみせる。


『一九六〇年代に三島由紀夫が、続いて七〇年代に解体期左翼が準備したところの、天皇の想像的な再中心化というフィクションが、八〇年代的な消費者大衆の無意識的な渇望と絶妙に交差した。第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説が、未曾有のブームを巻き起こしたのも当然であろう。しかし伝奇小説のジャンル的繁栄は、八〇年代とともに終る。
 一九八九年一月、昭和天皇の死に直面した八〇年代伝奇小説は、急激な失速と空転の過程に入った。東アジアの占領地で大量 虐殺を繰り返した皇軍の大元帥という魔的なイメージが、伝奇小説的な想像力を裏側から支えていた。魔王としての昭和天皇の生物学的な消滅は、天皇を最大最兇の敵役に祭りあげていた伝奇小説的な想像力に、回復不能ともいえる深刻な打撃をもたらしたのだ。
 差異化と無差異化、中心化と脱中心化という自己矛盾的な欲望は、一九九〇年代にも高度消費社会の大衆を捉え続けた。都の権力と「まつろわぬ 民」をめぐる伝奇小説が失速して以降、「謎―解明」を骨子とする探偵小説が読者大衆の欲望を吸引することになる。中心性は犯人が提起する「謎」、探偵による「解明」が脱中心化である物語システムは、昭和天皇の死からはじまる十年間に、八〇年代伝奇小説をも超える大量 の読者を獲得していく。』(上巻P430〜431)


 なるほどよくできた「仮説」である。つまり、「物語」的に「よく描けた絵」だ、という意味である。
 たしかに、


『差異の解体を利潤に転化する資本主義の徹底化した高度資本主義は、上下の垂直的差異(階級社会)を横並びの水平的差異(総中流社会)に平準化する。八〇年代の高度資本主義は「消費する『階級』の解体」を促進し、総中流社会を実現した。しかし八〇年代の総中流社会とは、三島由紀夫が予見した無差異性の凡庸な地獄の完成でもある。他人と同じであるという凡庸性に、人間は耐え続けることができない。』(上巻P429)


という状況から、人々は「個性」を主張しようと、様々なものにものに憑依した。その多くは「ブランド」品と呼ばれるもので、ブランドの権威がそれを身に纏う者の「個性」を保証してくれるという「幻想」に、多くの人たちは賭けたのである。「オタク」という生存様式もまた、同様の心理から生み出されてきたものなのかも知れない。「物」であれ「情報」であれ、人並み優れて徹底的に「保有」することにより、他人との差異化を図ったというわけである。――無論、こうした「差異化の欲望」というものは、自身の「身の安全の保証」ということを大前提としており、自己の他者との差異化とは、常に自己が他者の優位 (上位)に配置されるものでなければならなかったのは、断るまでもないことである。

 ともあれ、『空の境界』の「解説」における笠井潔の立論は、「ブランド」への憑依などといった個別 の対応では解消しきれなかった「差異化の欲望」を、タイミングよく捉えたのが『第一に天皇を虚構的に中心化し、第二に山人と偽史の想像力を駆使して脱中心化する物語システムの伝奇小説』であったということである。
 「天皇」という絶対的な「差異」を持ち出すことにより、平準化されきった『無差異性の凡庸な地獄』に「起伏のる物語性」を回復し、その後、固定してしまっては困るその抑圧的な差異性を、「天皇」の対極的な存在である「山人と偽史」の想像力をぶつけることで中和化し脱中心化する、という便利で安全なシステムが「伝奇小説」というものであったから、八〇年代には「伝奇小説」が一大ブームとなったのだ、――というのが笠井潔の立論なのだ。





( 以下は「空虚に巣食う魔(9)」につづく)


空虚に巣食う魔(7) 投稿者:園主  投稿日: 8月10日(火)19時01分47秒


(承前)

 『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』については、前章(空虚に巣食う魔(1)〜(6))までで、十二分に証明できたと思う。この小説はたしかに、読むに堪えない文章と思考力によって書かれた小説である。

 だが、笠井潔は、上下巻にわたる長文「解説」の冒頭部で、この作品を、


『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』を論じる前提として、まず八〇年代伝奇小説の盛衰過程を検証することにしよう。』(上巻P409)


と書いている。

 言うまでもなく、笠井潔によってこの「解説」が書かれた段階では、『空の境界』は「同人小説として、異例に良く売れた」という実績しか持っていない。したがって、笠井の言う『伝奇小説に新地平を拓いた』というのは、「内容的には」拓いたと言ってよい新しさがあると「笠井潔が(個人的に)評価した」ということに過ぎず、現に『伝奇小説に新地平を拓いた』というわけではない。それはまだ、「解説」執筆段階においては、「笠井潔の頭の中だけに存在する、可能性」であるに過ぎない。つまり、まだ『秘められている』に過ぎないのである。それを、あたかも「実現」したものであるかのごとく『伝奇小説に新地平を拓いた』と書いてしまうところに、笠井潔の評論の『偽史』性があると見てもよい。

 この「解説」を読んだ者のなかには、笠井潔のこの断言から、あたかも『空の境界』が『伝奇小説に新地平を拓いた』結果 、それに続く「新伝綺」小説が陸続と生み出されて、『八〇年代伝奇小説』ブームを思わせるような活況をひき起している――かのような「幻想」を、そこに見た者も少なくなかろう。
 私がすでに指摘した、「文章のまずさ」や「非論理性」にまったく気づかない読者が、『空の境界』という作品の人気を支えているのだとすれば、そうした読者が、笠井潔の「解説」が描き出した「解釈」や「仮説」や「幻想」を、そのまま「事実」だと信じ込む可能性も、充分に高いと言わねばならない。それはまた、この「解説」を書いた笠井潔自身にも、あらかじめ推測され、期待されていたことなのであろう。





( 以下は「空虚に巣食う魔(8)」につづく)


『瀕死の王』、昭和の終わりに 投稿者:はらぴょん  投稿日: 8月 9日(月)21時59分37秒

ホランドさま
>「模倣→天啓」という変移でとらえるというのは……無理があると思います。
うーん。どうやらミスリーディングをやらかしたということですね。
時雨さま
>『ファウスト』に収録されたTYPE-MOONとの対談で笠井潔は「創作は模倣だ」という『ヴァンパイヤ(×ア)ー戦争』や『巨人伝説』のあとがきと同内容の自説を展開しています
『ファウストvol.1』は、実家にありますので、お盆休みに原文を確かめてきます。
ところで、笠井さんの趣味は、スキーの前は登山だったと記憶します。
で、『スキー的思考』になると「登山的思考」を批判しています。「スキー的思考」的創作観と、「登山的思考」的創作観の間に差異はないのでしょうか。どうも、そのあたりのところが不鮮明なのです。まぁ、「スキー的思考」などという<とんでも>に、クリアな理解をしようとする私が間違っているのかも知れませんが。
まぁ、それはさておき、ミスリーディングをしないように、文献に基づいてじりじりと進めることにいたしましょう。

「……一九七〇年代以降の伝奇小説は、天皇を最大の敵役に祭りあげることで物語的な力を得てきた。天皇が死んだら、伝奇小説を支えてきた構図が土台から崩れてしまう。」
最近作『瀕死の王』で、笠井潔は自身をモデルとする宗像冬樹にそう言わしめている。(講談社「メフィスト」2004.9月号P213)
天皇に対する自身の書いてきた伝奇小説の位置づけは、マルクス主義に対する観念批判論の位 置づけと相似している。『テロルの現象学〜観念批判論序説』は、当初「「第一部 芸術論」、「第二部 エロティシズム論」、「第三部 革命論」」(『テロルの現象学〜観念批判論序説』あとがき ちくま学芸文庫版P416)と続く評論として構想されたが、東欧の自由化とソ連の崩壊により、中途で執筆放棄されることになったのである。
このような天皇/コムレ・サーガ、マルクス主義/観念批判論の位置づけの仕方を見ていると、ピエール・クロソウスキーの『ロベルトは今夜』IIIの一節が想起される。(引用は『わが隣人サド』豊崎光一訳、晶文社、P5から。ちなみに、河出書房版「人間の文学30」若林真・永井旦訳ならばP144。)
「倒錯者である場合、その人は神を罵倒してその結果神を存在させることになる。つまり神を信じているわけだし、密かに神に親しんでいる証拠であるとくるわけね!」
クロソウスキーは、ここで神を罵倒する者と、神の共犯関係を指摘している。
この観点は、<笠井潔を罵倒し、その結果、笠井潔を存在させることになる>危険性も、同時に示すものである。
大切なことは、笠井潔の作品や振る舞いを通じて、笠井潔の教えを護教的に守るだけとか、笠井潔を罵倒するだけで終わるのではなく、なにがしかを学ぶことであるように考える。


夏の湯治・2 投稿者:アーニャ  投稿日: 8月 8日(日)11時11分29秒

アリョーシャ、皆さま、Keenさまをまたちょっと温泉に連れてくわね。

ホランドくんの「政治とスポーツの混同」に対する抗議は、かのピクシーが常々口にしてたことだって、Keenさまが感動してたわよー。
「サッカーは、国家間の諍いの因縁に影響され易いスポーツ」なんじゃないかしらね。
もともと、サッカー発祥の地・ヨーロッパでは、村と村との争いごとの解決法として、サッカーの元になったゲームを利用してたり、村を上げての狂乱の祭り(ストレス解放)に、やっぱり前サッカー的ゲームを行ってたりしたようだから、現代の「戦争モドキ」や「フーリガン」の起源も、そこらへんに関係あるんでしょうね。

それでは皆さま、ごきげんよう。
にゃあ〜♪


今日はちょっとだけ 投稿者:Keen  投稿日: 8月 7日(土)13時48分4秒

☆ホランドくん

賢ちゃんの「泣き言」のことですが、

>そりゃ病気が重くなって入院までしなくちゃならないんだから、いろいろ心細いだろうし心配にもなるでしょう。でも、その心細さや心配を、人にも共有させることで、少しでも楽になろうなんて、最低です。

他人に対する配慮ができるくらいなら、そもそも入院しないでしょう。自分自身をコントロールしきれなくて、ワラにもすがるような思いで、吐き出した言葉だったんだと思います。
でも、園主さまとの電話のやりとりの様子はいかにも賢ちゃんらしくて、笑えますねー。(^0^*
まあ、ウツが進むと、好きだったものにも興味がわかなくなったり、ちょっとしたことでも面 倒でできなかったりするんで、そういうのもあるんでしょうか。
しかし「ケータイは禁止」っていうから、公衆電話もダメなのかと思ってましたが、そんなはずないですよね〜(笑)。

サッカー関係とか、他にも書きたいことあるけど、今日はこれにて。


信じる勇気(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時39分11秒


 Keenさま
賢ちゃんの入院以来、なんだか、内臓がいくつか抜けて足りなくなっちゃったような気分なのです。サッカーのゲーム見ても、感想書くところがない。それ以前に、賢ちゃんはこのゲーム見てないんだなって。

 じつは今日、賢ちゃんから園主さまのところに電話があって「ほかに何も出来ないので、本ばかり読んでる」って報告があったそうですよ。

 「今、サッカーやってるでしょう。テレビ、観ないの?」
 「共同テレビだから、好きなの見れませんしね」
 「でも、テレビなら持ちこめるんじゃないの?」
 「まあ。可能ですが、そこまでするのも面倒だから」
 「……」

ということで、園主さまは、いかにも賢ちゃんらしいなあー、と呆れたそうです(笑)。
 でも、おかげで本は快調に読めてて、園主さまが薦めた(因縁の/笑)光原百合さんの最新文庫『十八の夏』(双葉文庫)を読んで、早速、光原さんに「良かった」って電話したそうですよ。――どうやら、あちこち電話してるみたいですね(笑)。



 園主さま
舞城王太郎は、こういう当たり前に「リアルな人間観」を持った作家であったからこそ、「本格ミステリ」の世界の「観念的倒錯」性を、本能的に見抜き、それに反発したのでございますね。
> そうした意味で、舞城王太郎の『九十九十九』とは、笠井潔的な「本格ミステリ」を葬送する企て、笠井潔的な「本格ミステリ」の「墓碑銘」たらんとする「アンチ・ミステリ」としての企てだったのでございます。――ただし、その手際は、お世辞にも「鮮やか」だとは、言いかねるものだったのでございますが(笑)。

 やっぱり、ずいぶん舞城王太郎を買っておられますよね(笑)。
 でも、「作品」というのは、もちろん「意図」や『企て』も大切だけど、最終的には「出来(完成度)」だっていうのは、厳しいところですよねー。

 ちなみに、舞城王太郎の新刊『好き好き大好き超愛してる。』(講談社)が、まもなく刊行されるもようです。収録作品は、『群像』に一挙掲載された表題作と、『ファウスト』第一号の巻頭を飾った『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』の2篇。

 表題作は、はらぴょんさまがご紹介なさっていたとおり、『ユリイカ』2004年8月号の「文学賞AtoZ」特集での「Z文学賞」の候補作にもなった作品です。みなさん、要チェック!(かも/笑)





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


信じる勇気(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時37分38秒


 時雨さま(続き)

確かに東さんは個人誌の編集などはなさりますが別に党派活動にいそしんだりはしていませんからね。
> それから少し批判的な書き方になってしまいましたが、決して東さんは嫌いではありませんよ。
> わざわざ評論本を買う為だけにコミックマーケットまで行こうと思っているぐらいですから。サイン入りDVDなんてものまで持ってますし(笑)

 へえー、東浩紀さんって、コミケ展開までしてるんですか、さすがは「おたく」を自負するだけのことはありますね(笑)。

つまり「誠実」さが希薄で「ハッタリがましい」という印象があるんです

> それは確かにそうなんですが、それでもしっかり売れてたりしますからね。しかも若い世代を中心に。

 『ファウスト』の読者に関する、こないだのボクの書き方は、ちょっと感情的すぎたかなって、反省してます。たしかにあの売り方は好きじゃないんですが、それは読者の責任じゃないですからね。――こないだのボクの文章を読んで、気を悪くなさった方がきっとおられたことでしょう。この場でお詫びしたいと思います。ホントにごめんなさい。

 園主さまもおっしゃってたとおり、若者は「擦れて」ないから騙されやすい。だから、そういう若者を守ってあげるのが、ボクたち年長者の仕事なんだと思います。――正直、簡単に騙される人たちには「どうしてそうなんだよ!」って腹の立つこともあるんですが、敵を見誤ってはいけませんよね。

 時雨さまも、ボクが変なことを言ったら、遠慮なく突っ込んで下さいね。気がつかないまま、暢気な顔して過ちを継続させることこそが、最大の恥さらしなんですから。目が醒めるように、びしっと指摘して下さい。よろしくお願いいたします。





( 以下は「信じる勇気(6)」につづく)


信じる勇気(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時36分37秒


 時雨さま
そ、そうなんですか?そこまでいわれると恐縮です。
> でも、僕は清流院が大好きというわけでもないし『ファウスト』や『ゼロの波』に対しても斜めに見ているところがあるので感覚が若い世代としては少しずれていると思います。
> それに笠井潔に対しても園主様やはらぴょん様ほど厳しく批判しているわけでもありませんし。
> だからそこまで期待されていいのか・・・

 もちろん、「若い世代」と言ったって、それは人それぞれで、みんながみんな「清涼院流水」や『ファウスト』や「ゼロの波」を無条件に信奉してるなんて思ってはいませんよ。ただ、どうであれ、時雨さまが「若い世代」に属するという事実は揺らがないし、その代わりはボクらにはできません。だから、「若い世代」の一人としてご参加いただけただけで、なかば期待に応えているってことなんですよ。
 もちろん、これって、ある意味で失礼な言い方だと承知してはいるんですよ。だって、「私」という個性を「世代」に回収されて、うれしい人なんて、あんまりいませんからね。でも、「その世代に属する」という事実の持つ意味は大きい、ということは言っておくべきだと思ったんです。――もちろん、あとは個人的に頑張っていただきたいんですが、頑張るというのは、笠井さんを苛烈に批判しろというようなことではなく、ご自分の意見をしっかりと語っていただきたいということなんです。
 こっちの水は、本音のぶつかりあいで「辛い」。それに対し、あっち(探偵小説研究会)の水は、馴れ合いで「甘い」、かも知れないけど ―― ほー、ほーホタルさん ――、それは「罠」だよってわけです(笑)。

> 言われて見ればそうですね。僕の場合には完全にあたってます。
> 『物書き職人』を自認する京極夏彦や「小説は良くも悪くも仕事です」と公言して憚らない森博嗣などに触れているから自然にこういった認識が生まれてきたのかもしれません。
> 前述しましたと通り僕は園主様やはらぴょん様ほど笠井潔に対して苛烈な批判を浴びせようという気持ちが薄いのも、読者であった年月や思い入れ以外にもこういった認識の違いが原因にあるのかもしれません。

 そうですね。――ただ、ボクは、「文学」が「超越の契機」であることを、完全に「幻想」だと思っているわけでもありません。ごく少数だとは言え、『虚無への供物』のような「恩寵」をうけたとしか思えない作品が実在する、というのも、また事実なんですからね。

 だから、京極夏彦や森博嗣のように、利口に開き直られるのも、残念なんですよね。たしかに、いくら「俺は文学者だ」と力んだところで、「恩寵」が降ることは、ほとんどないでしょう。その場合、その作家の「文学者ぶり」は、結果 として、滑稽で悲惨なだけのもの、となってしまいます。でも、「恩寵」を求める気持ちを持つ者がいなくなれば、「奇跡」というものは起らなくなるんじゃないか。だから、報われないかも知れないけど、それでも信じてみるということは、とても大切なことなんじゃないか。――そんな風に思えるんです。
 たとえばそれは、「愛」というものにも似ているかも知れません。そんなもの、たいがいは「幻想」なんだけど、でもそれを信じる人がいるかぎり、それは世界のどこかで生き続ける。そんなものなんじゃないかと思うんです。

 だからボクは、「創作」を『職人芸』や『仕事』と言い切る作家よりも、

  ――われに新しき光のごとく、小説よ降れ!

と念じ続けた「神の道化師」、中井英夫を愛さずにはいられないんですよ。





( 以下は「信じる勇気(5)」につづく)


信じる勇気(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時34分56秒


 AOIさま
これは「おたく」的なるものが、時代の必然として現れてきたものであり

ここのところ、もう少し説明してくださいません?

 難しいですねー。仮令ば、それを「高度情報化社会」におけるパイパー化された「欲望」充足の一形態ととらえる――なんてことも可能なんでしょうが、それだけでないのは確かです。「おたく」発生の内因というのは、なかなか一筋縄ではいかないと思うんですが、ただ「環境」要因としての、物質的あるいは情報的な「過剰なまでの豊かさ」があった、ということは否定できないと思います。「あるひとつのことへの興味」だけで、人生を埋め尽くせるほどの「豊かさ」があってこそ、「おたく」という極端な存在形式が可能となると思うんです。

>> おずおずと世代論を

> どうして、おずおずなの(笑)?

 ボク自身、「世代論」というのは、大雑把で、時に嘘っぽいものだ、という認識があるからですよ(笑)。

> そういえば、黒孔餡もとい庵という人もいらしたわね(笑)。

 「内側から喰いやぶる」というんなら、ボクのイメージとしては、ブラックホールと言うよりも、小栗虫太郎風に・・・「白蟻」です(ムシャムシャバリバリ)。



 はらぴょんさま
(9)『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです。

 笠井潔の「創作」に関する考え方を、「模倣→天啓」という変移でとらえるというのは、時雨さまも、

これは少し違う気がします。
> 昨年刊行された『ファウスト』に収録されたTYPE-MOONとの対談で笠井潔は「創作は模倣だ」という『ヴァンパイアー戦争』や『巨人伝説』のあとがきと同内容の自説を展開していますし、『天啓の宴』でも模倣する悦びみたいなものにはいくらか触れられています。
> むしろこの二つの創作観は個別のものではなく並存するものである、つまり「原則として創作は模倣と同義だが、時として天啓を受けた作家が超越的な作品を生み出す」というのが笠井潔の一貫した創作観であると考えた方が妥当だと思うのですが・・・

と書かれているとおりで、無理があると思います。

 はらぴょんさま自身、かつての笠井さんに、色濃く「超越指向」のあったことを、指摘なさってたんじゃなかったでしたっけ? ――だから、そういう指向は、当然「文学」や「創作」にも結びつけて考えられていたはずですし、ボクは読んでいないんだけど、笠井さんの初期評論集のタイトルにもなっている『秘儀としての文学』(作品社)なんて認識も、そのあたりから出てきてるんじゃないでしょうか。

 つまり、笠井さんには、あらゆる事象について「観念的理解」と「現実的理解」というのが並列して存在してて、それが時に矛盾を起すんじゃないでしょうか。たとえば「原則として文学賞は、恣意的な権威の配分機構として利用されるべきではないが、場合によっては、不当な扱いをうけてきた弱小ジャンルを盛り上げるための政治装置として、効果 的に利用されて良いものである」みたいな感じで。





( 以下は「信じる勇気(4)」につづく)


信じる勇気(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時33分38秒


 で、サッカーの話題をひとつ。すでに報道のなされていますとおり、現在、中国で行われているサッカー・アジアカップで、中国人観客が露骨な反日感情を示し、ブーイングなどをおこなったことが、ちょっとした政治問題に発展しています。

 サッカーファンの間には、「サッカーは、スポーツのかたちを借りた国家間戦争だ」というような意見があるようですけど、それが正論であるのなら、今の日本は、アメリカの子分として、中国をはじめ世界の各国から憎まれ嫌われて蔑まれているんだから、ブーイングくらいうけるのは当然でしょう。まして、日本はかって、東アジアの平和のためになんて言って、中国に侵攻し、多くの人々を虐殺した歴史があるんですから、またぞろ自衛隊を海外に出し、有事法制を進めるような国になったのなら、中国の人たちが「やっぱり日本は好戦的な国だ。かつての戦争加害を反省なんかしていなかったんだ」と考えるのは当然のことでしょう。もしも、サッカーファンが「サッカーは、スポーツのかたちを借りた国家間戦争だ」なんて認識を持っているんなら、こんな時期に、のこのこと中国まで行く方が間違いなんです。

 でも、「サッカーは、スポーツのかたちを借りた国家間戦争だ」だなんて「平和ボケ」は、やはりごく一部のサッカーファンのものなんだと、ボクは考えたい。実際、国家間が「戦争」を必要とするような関係になってくれば、サッカーなんてやれなくなるのはわかりきったことなんですからね。平和であればこそ国際試合も行え、選手もプレーに専念でき、選手同志も、ファン同志も、おなじサッカーを愛する者として、「国籍」や「言語」や「肌の色」を越えて、心を通 わせることができるんです。

 だから、中国のサッカーファンが、「日本の政治体制」と「サッカー」を混同して、日本の選手やファンにブーイングをしたりするのは、やはり間違いだと思いますし、ボクはそれに抗議もしたい。
 でも、ボクの抗議は、自分が日本人であり、その日本の選手やファンに対してブーイングがなされたからではないんです。「政治」と「スポーツ」を混同し、「一部政治指導者たちの思惑」と「一般 国民の想い」を単純に混同し、同じものを愛する者同志の絆を、簡単に踏みにじって恥じない、その無認識を責めたいんです。

 なぜ、彼ら中国のサッカーファンたちは、日本の選手たちやファンの人たちに対し、ブーイングをする前に、こんな風に話しかけてくれなかったのか。
「君たちなら、話を聞いてくれるだろう? 私たちの国は、かつて日本からの侵略をうけて、多大な被害をうけた。祖父や祖母の首が、日本軍人の軍刀によって斬り落とされた。だから私たちは、日本が二度と戦争国家に逆戻りしないように監視し、隣人として意見もしてきた。しかし、昨今の日本の動向はどうだろう? 君は、サッカーが好きなだけで政治になんか興味がない、と言うのかも知れないけれど、戦争になったら、そんなこと言ってられないんだよ。戦争になったら、ボクたちが戦場で銃を向けあうことになるかも知れないし、あそこでプレーする選手たちだって、銃を取って命のやり取りをしなきゃならなくなる。もちろん、サッカーの試合なんてできないだろう。できたとしても、戦勝国によるヤラセのような試合になるかも知れない。サッカーが純粋にサッカーではなく、政治の道具として利用されるんだ。君は、サッカーファンとして、それでも構わないというのかい? もし、それがおかしいと思うのなら、それが嫌だと言うのなら、自分の国が今どうなっているのか、それに興味を持ってほしい。政治的抑圧の長い歴史をもつわが国とは違い、君たちの国はあまりにも長く国内的な平和に浸りすぎたんじゃないだろうか? 今からでも遅くはない。僕らの子供たちが、銃ではなく、サッカーボールによって戦える、そんな未来を、僕たちがそれぞれの国で築いていこうじゃないか。それに異論はないだろう?」
――そんな風に、同じ「サッカーを愛する者どおし」として、なぜ語りかけてくれなかったのか。それが、僕には残念でならないんです。

 ボクはサッカーファンではないけれど、異国の同好の仲間、例えば彼が中井英夫ファンだったなら、お互いに「それぞれの見知らぬ 旗の下に、憎しみあうなんて愚かなことはやめよう」――そう話し合えるだろうという自信があります。





( 以下は「信じる勇気(3)」につづく)


信じる勇気(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 8月 6日(金)22時32分35秒

 みなさん、こんばんは! ひさしぶりにKeenさまの書き込みがあったと思ったら、――そういうことだったのか・・・。賢ちゃんも、自分が自分の病気で入院するのは仕方ないけど、一ヶ月程度の入院予定ならわざわざサイトを閉める必要もないし、最後の(トップページの)日記(7/30)に、

『最後の悪あがき(w

現在AM5:27です。
今日のAM10:00には、もう立派な精神病患者だ(w
つーわけで、皆の衆さらばじゃ!また、いつか、どこかで出逢えることを願って。』

なんて「泣き言」、書くべきじゃないんですよね。――『(w』なんて書いてるけど、これが内容的には「(泣」と同じなのは誰の目にも見え透いてるし、同情をひきたいというのはわかるけど、人に余計な心配なんてかけるもんじゃない。だいたい「鬱」で入院する人が『もう立派な精神病患者だ』なんて書くことは、賢ちゃん一人の問題に止まらないし、冗談めかして、つまり『(w』をつければ、済むことじゃない。

 園主さまもいろいろ言いたいことはあったようだけど、「まあ、病人に言ってもな……」なんて柄にもなく我慢してたようですけど、Keenさまがあんな風に心配したり気をもんだりするのをわかってて、またそれを期待すらして、あんなことを書くのは、男として最低だと思います。そりゃ病気が重くなって入院までしなくちゃならないんだから、いろいろ心細いだろうし心配にもなるでしょう。でも、その心細さや心配を、人にも共有させることで、少しでも楽になろうなんて、最低です。

 この書き込みがすぐに読まれることはないでしょうが、読まれたってかまわない。それで賢ちゃんが落ち込んで、鬱が悪化したってかまわない。それは賢ちゃんにとって自業自得なんだから、賢ちゃんにはそれを担うべき責任がある。だから、ボクが心配することじゃない。

 賢ちゃんが、サッカーファンで、なっちファンだってこと、自分であれだけ吹聴してるんだから、逆に「その名に恥じない」強さを身につけてほしい。賢ちゃんの弱さは、決して病気のせいじゃないと思う。その弱さが病気を呼び込んだんだとは思わないけど、サッカーから何かを学び、なっちの笑顔に勇気づけられたなんてことを書くんだったら、それ相応の姿をみせてほしい。自分が愛するもののために、無理してでも強くなってほしい。Keenさまが、中井英夫への思いを、自身の生きる力に変えているところを、少しは見習ってほしい。それがホントのファンなんだと思います。





( 以下は「信じる勇気(2)」につづく)


……。 投稿者:Keen  投稿日: 8月 6日(金)16時21分8秒

賢ちゃんの入院以来、なんだか、内臓がいくつか抜けて足りなくなっちゃったような気分なのです。サッカーのゲーム見ても、感想書くところがない。それ以前に、賢ちゃんはこのゲーム見てないんだなって。
加えて、なぜだか2回も投稿に失敗しています。送信途中で何かあったのかもしれませんが、いきなり「×」の画面 になってしまって。リロードすると、ちゃんと出てくるんですけどね。
というわけで、ちょっとご無沙汰してました。でも、賢ちゃんが帰って来た時に、笑顔で「お帰りっ!(^0^*」て出迎えたいので、もう少ししゃんとしたいです。
私にとって賢ちゃんがどれほど大切な友達であるか、実感してるこの頃です。園主さまとホランドくんも同じでしょうけど。

「年寄り」と「若者」の一長一短、懐かしいですねー(笑)。
私18才、中井さん62才の当時、中井さんが若い頃に見たという映画やらシャンソンやらの話題に「ついて行けない」のがもどかしくて、片っ端から古いフランス映画見たりしたものでした(照)。何しろビデオもなかった(※ウチには)ので、名画座とかまわったりして……若かったんだなあ。今思うと、44年のキャリア差をそう簡単に埋められてたまるもんですかってなもんですが、当時は、自分がモノを知らないことが悔しく、恥ずかしかったんじゃないかなあ。それで中井さんとどんな話してたかって、あんまりハッキリとした記憶がない……断片的には覚えてるんだけど。それと、当時の私はまだ笠井さんや竹本さんの作品もたいして読んでおらず、ミステリファンでもなかったため、そっち系の話はしてなかったんじゃないかと。(ああ、惜しいことをした!/笑)
そうだなあ、中井さんが昔の思い出話を聞かせてくれたことが多かったかもしれない。で、私たち(乙女たち)がそれに反応してキャーキャーと(笑)。だから、目の前にいる仲良しのおじいちゃんが「『虚無への供物』の作者である中井英夫」だという認識は、あんまりなかった。幻想文学の別 冊で『中井英夫スペシャル』が出た時、友人と「中井さんって、『中井英夫』やったんやね〜」と、アホな感想もらしてまして☆
んで、そういう私たちを、中井さんは目を細めて見てたんだろうかなって。
八重洲ブックセンターで、地方ではまずお目にかからない中井さんの著書をごっそり買い込んだって話した時も、「アイドルスターに夢中になるのと同じで、すぐ飽きちゃうんじゃないのー?」なんて言われたっけ。この発言、よくよく考えると、自らを「若きアイドルスター」と同格に置いてるわけで、中井さんがなかなかの自信家だったことがうかがえたりして(笑)。

中井さんの思い出話をつらつらと書いてたら、内臓が生えてきた気がします。
ではまた。


夏の影は夕立の彼方に(4) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 5日(木)00時57分48秒

園主様

>永遠の「観念の俘囚」

>「文章」へのこだわりというものは、一般に、加齢にしたがって強くなる傾向があるように存じます。つまり、若い人は「文章」そのものにはあまり拘泥せず(せいぜい「なんとなく読みやすい(読みにくい)」程度の感覚に止まり)、作品の醸し出す雰囲気やキャラクターや物語(プロット)といった部分に直截にアクセスする(できる)ようでございますね。

そうですね、実際僕もあまり文章を気にしませんし。

>例えば、私はごく若い頃に読んだジュブナイルSFを後年読み返して、その印象のあまりの違いに、愕然とした経験がございます。

あ、似た経験は僕にもあります。

>「差し障り」があるから「できれば語りたくない評価」も、必要とあれば、まっすぐに語ることができるか否か、――これが、批評家を「本物」と「偽物」に二分する、高い分水嶺なのでございます。

>私が「およそミステリ評論家と呼ばれる人に、本物の批評家は存在しない」と断言できるのも、「ミステリ評論家」と呼ばれる人たちが、ほぼ例外なく、この嶺を乗り越えられないからでございます。

>私の批判する笠井潔および「探偵小説研究会」の面々は、その私利私欲を優先した「党派性」によって、最初から「公正」さを放棄しているのでございますね。だからこそ私は、この「批評家の面 汚し」たちを断じて許さないのでございます。

>そんなわけで、私は、たとえ、はらぴょんさまや時雨さまに嫌な思いをさせることになったとしても、私の文章を読むであろう見も知らぬ 読者のために、私の正直な評価を、率直に語らなければならなかったのでございます。

わかりました。丁寧な説明痛み入ります。
ですが僕には 『空虚に巣食う魔』に対する不快感はありません。
批判は論理的かつ適切なものでしたし、今回説明してくださったような考えに裏打ちされているのであれば何も言うことはありません。
むしろ信者意見ばっかり聞いて茹だっていた頭がいいかんじに冷えたので感謝したいぐらいです。

>ここ「花園」は、テーマを限定しておりません。もとより『許し』など、必要ないのでございます。ですから、なんなりとお書き下されば結構でございますよ(笑)。

ありがとうございます。それでは完成したら書き込ませていただきますので、忌憚のないご意見をお願いします。

>第一、プロのスキーヤーでも何でもなかった「ただのスキー大好きおじさん」が、還暦でインストラクターデビューして、いったい誰が教わるというのでございますか? いくら笠井潔でも、そんな大ボケをかましたりは、いたしませんでしょう(笑)。

あ、その客を確保する為に「探偵小説研究会」を設立したのでは(笑)?

>ただ「長く生きた」ということを自慢する「年寄りの愚かさ」と好対照を為すのが、ただ「若い」ということを自慢する「若者の愚かさ」なのでございます。利口な年寄りは、つねに自己の「経験の豊かさ」というものに懐疑するものでございますし、いっぽう利口な若者は、つねに自己の「若さ」に懐疑するものなのでございます。

金言ありがとうございます。一長一短というわけですね。

それでは皆様、お話したいことは尽きないのですがまだ作業が残っているのでこの辺で。


夏の影は夕立の彼方に(3) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 5日(木)00時13分54秒

はらぴょん様

>『ヴァンパイヤー戦争』を書いていた頃の笠井潔は、先行するB級エンターテイメント作品に触発されて、自分も面 白いものを書きたいと思って書いたと書いています。つまり、作者はテクストを読み、テクストという織物を組みなおすことで、次なるテクストを産出するわけです。ところが、最近の笠井潔は、創作の天啓は向こうから来ると語ります。この間には、大きな隔たりがあります。最近の笠井潔は、超越的なインスピレーションを重視しているということです

これは少し違う気がします。
昨年刊行された『ファウスト』に収録されたTYPE-MOONとの対談で笠井潔は「創作は模倣だ」という『ヴァンパイアー戦争』や『巨人伝説』のあとがきと同内容の自説を展開していますし、『天啓の宴』でも模倣する悦びみたいなものにはいくらか触れられています。
むしろこの二つの創作観は個別のものではなく並存するものである、つまり「原則として創作は模倣と同義だが、時として天啓を受けた作家が超越的な作品を生み出す」というのが笠井潔の一貫した創作観であると考えた方が妥当だと思うのですが・・・


夏の影は夕立の彼方に(2) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 4日(水)23時29分10秒

ホランド様(続き)

>そうかも知れませんね。ただ、東浩紀さんの場合は、単純に「自分の好きなもの」の持つ「時代的な意味」を語り、きちんと評価してもらいたいという「当たり前の願望」が大きいんじゃないでしょうか。

確かに東さんは個人誌の編集などはなさりますが別に党派活動にいそしんだりはしていませんからね。
それから少し批判的な書き方になってしまいましたが、決して東さんは嫌いではありませんよ。
わざわざ評論本を買う為だけにコミックマーケットまで行こうと思っているぐらいですから。サイン入りDVDなんてものまで持ってますし(笑)

>つまり「誠実」さが希薄で「ハッタリがましい」という印象があるんです

それは確かにそうなんですが、それでもしっかり売れてたりしますからね。しかも若い世代を中心に。
その辺について少し考えがまとまってきたので、いずれ完成したらここに書き込ませていただこうと思います。


夏の影は夕立の彼方に(1) 投稿者:時雨  投稿日: 8月 4日(水)23時09分2秒

ホランド様

>『そういう発言』も何も、すでにはっきりと「笠井潔葬送派」と認知されている二人とはまったく別 のところ、しかも「清涼院流水以後」の世代から、笠井潔(の権威)を否定する声があがるというのは、先の二人よりもむしろ、笠井潔およびその周辺にたいする心理的な影響が絶大だと思いますよ。その意味では、時雨さまのご参加は、アマチュアレベルでの「時代の風向きの変化」を象徴する、というものすごく大きな意義を持ったものなんです。

そ、そうなんですか?そこまでいわれると恐縮です。
でも、僕は清流院が大好きというわけでもないし『ファウスト』や『ゼロの波』に対しても斜めに見ているところがあるので感覚が若い世代としては少しずれていると思います。
それに笠井潔に対しても園主様やはらぴょん様ほど厳しく批判しているわけでもありませんし。
だからそこまで期待されていいのか・・・

>反抗も敵対もしないで、愛想良くニコニコと対応するんだけれど、自分に好ましくないところからは何時の間にか姿を消している、といった形で自己を通 してしまう「柔らかな強かさ」が、今の若者にはあるように思うんですよ。

確かにそういうところはありますね。
僕も嫌いな人でも欠点を指摘されたらへこみますし。

>ボクが思うに、はらぴょんさまは「作家=芸術家」というものに、まだ幾ばくかの「期待」を寄せておられます。だからこそ「失望」も感じる。でも、時雨さまは、そもそも「作家=芸術家」という存在に「人間的な特別 性」を期待していないんじゃないでしょうか

言われて見ればそうですね。僕の場合には完全にあたってます。
『物書き職人』を自認する京極夏彦や「小説は良くも悪くも仕事です」と公言して憚らない森博嗣などに触れているから自然にこういった認識が生まれてきたのかもしれません。
前述しましたと通り僕は園主様やはらぴょん様ほど笠井潔に対して苛烈な批判を浴びせようという気持ちが薄いのも、読者であった年月や思い入れ以外にもこういった認識の違いが原因にあるのかもしれません。



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