●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2004年10月下
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訂正2点 投稿者:楽古堂  投稿日:10月31日(日)13時02分54秒

訂正1:本多様のお名前を、また本田様と誤記しました。謹んで訂正いたします。申し訳ありませんでした。訂正2:「この小説のなかに、まぎれもない戦中派である作者の、戦後へのハースリーベ(憎悪愛)をふくんだ、痛切な嘆きの歌を聞きとらなければ、読者はこれを正しく読んだとは言えないのではないか。」澁澤龍彦『偏愛的作家論』所収「『悪夢の骨牌』書評」より。332ページ(福武文庫・1986年)。「ハースリーベ」という重要な単語を失念。記憶力の衰え。老化現象。少し寂しいです。


ゲーム三部作 投稿者:楽古堂  投稿日:10月29日(金)09時18分18秒

時雨様へ。竹本健治の『トランプ殺人事件』は、「ゲーム三部作」の最後の作品です。『囲碁殺人事件』と『将棋殺人事件』を読んでいた方が、分かりやすいです。江藤蘭世氏の解釈ですが、「物」「物と言葉」「言葉」という順番に、世界が変容していきます。初級、中級、上級。クッパ城にマリオは、いきなり侵入しないでしょう。ゲームでも小説でも、順番は重要だと思います。


良い憑き物・悪い憑き物 投稿者:Keen  投稿日:10月28日(木)12時22分59秒

☆時雨さま

>幸い「トランプ殺人事件」の創元文庫版は近所の本屋にありましたので、これから読ませていただきます。
>竹本健治作品は今回が初めてなので楽しみです。

『トランプ殺人事件』から竹本健治に入られるのですね!それは、なかなかヘビーな入口ではないかと思います。ちなみに、園主さまが解説を書かれた角川文庫版の著者あとがきでは、自ら「ともあれ、僕の著作のなかでも最も求心性の強い作品だと思うので、どうか読者各位 におかれましては、自家中毒など起こしませぬよう。」とおっしゃってます。
もう10年前になりますが、実際、これを読んだ私はクラクラしたものでした(笑)。
それとも、「拘りを持たない」で、サラリと読んでしまわれるのでしょうか?
いずれまた、感想をお聞かせ下さいね(ワクワク)。

☆園主さま

気をつけて行ってらっしゃいませ!
きっと本多さんにもお会いになることと思いますが、「私にも本多さんは天使に見えましたが、同時に、この天使にはもしかしたら尻尾も生えているかも、とも思いました」とお伝え下さい(笑)。

☆ホランドくん

うん、ホランドくんは怖くないね(笑)。
『狂骨の夢』は、初めて読後感が爽やかでした。京極さん、よくも悪くも筆がこなれてきたんでしょうか、クライマックスでも要所要所に緊迫感を削ぐ茶々入れて、わざと落してるなあってところ、私はとても気に入りました。前2作は、クライマックスが長丁場に過ぎて、緊張が持続しないように思えたので。まあ、シリアスな中にギャグが入る、というパターンは全く私好みである、というせいが大きいでしょうが(笑)。

京極堂の「憑き物落とし」は、快いです。読んでる方も一緒に落してもらえるところがある(笑)。んで、気づいたことには、もしかして園主さまが一番デカい憑き物だったりして……って、賢ちゃんには、電話でも直接言われるのよ、「誰かに似てきた」って!
しかし『魍魎の匣』で、京極堂は「憑き物は、なんでも祓えばいいというものではない」というようなことを言ってますよね。仲良くつきあった方がいい憑き物もあるわけです(笑)。
ということで。(^0^*

☆AOIさま

亀レスですが、いつぞやは私の風邪をご心配頂き、ありがとうございました。あれはホントにしつっこかったです☆でも、風邪でウダウダしてる隙に、他の症状が遠くへ去ったみたいなのです。今はもう貧血もいいようだし、体は楽になったと思います。まあ、それだからこそ本棚大移動なんて力仕事ができたんですけど(笑)。
急に寒くなりましたから、皆さまもお気をつけて下さいね。


ディジタル・ディヴァイドの可能性・4 投稿者:楽古堂  投稿日:10月28日(木)09時19分13秒

若者の書く日本語は、英語の訓練を通 過することで、読みやすく分かりやすいものになっています。新聞の文章で、一読して意味が取れないような晦渋なものは、少なくなってきました。日本人の若い世代は、過去の名文への信仰から解放されているように思えます。はらぴょんさんのアニメ論は、扱いやすい素材での、「知」の腕試しではないでしょうか?時雨様にも『空の境界』が難関であれば、周辺から攻めていくことを、お薦めします。ボスキャラは、いきなりは倒せませんよね。


ディジタル・ディヴァイドの可能性・3 投稿者:楽古堂  投稿日:10月28日(木)09時17分16秒

そして、この「こだわりのあるもの」が一つで、他とリンクしていかない場合に、「全体としての教養の低下」が発生するのではないでしょうか?現代は自己充足的に、自己の世界を、どこまでも完結できるのです。それから、勘違いが一つあると思います。僕達は、この議論が、別 に多くの若者たちに読まれるとは思っていないのです。そうではなくて、あなたの論の参考にならないかと思って語っているのです。若者についての、別 の視点を知ってほしいからです。


ディジタル・ディヴァイドの可能性・2 投稿者:楽古堂  投稿日:10月28日(木)08時56分14秒

パソコンを活用できるものとできないものとの間に、情報較差が生じる可能性については、以前から指摘されていました。僕は、それに英語力の有無を追加したいのです。教育の世界では、現代文(国語)ができないものは、英語の長文読解ができないというのは、もちろん常識でした。しかし、もしかすると英語という他国語を習得したことで、日本語に対する理解を増したのではないでしょうか?


ディジタル・ディヴァイドの可能性・1 投稿者:楽古堂  投稿日:10月28日(木)08時47分34秒

皆様へ。僕の具体的に接することのできる学生は、大学の受験生です。現代の「知」の世界に、「関心」を持たざるを得ない情況に置かれています。しかし、情報の検索能力とともに、外国のサイトでの英語での発言を見ていると、それが自発的な知的好奇心によるものであり、受験勉強として強いられたからではないと思えるのです。(勉強で多忙で、そんな時間はないはずですから。)むしろ「こだわりがあること」への追求の徹底性に、現代の若者の特質を見ます。もしかすると、どこかで若者の二極分化が、進行しているのかもしれませんが。


これが・・・若さか by赤い彗星(サングラスver)(3) 投稿者:時雨  投稿日:10月28日(木)01時20分1秒

>楽古堂様

申し訳ありませんが、僕もはらぴょん様の博覧強記を現在の若者の姿に結びつけるのは厳しいと思います。
僕のまわりにもあそこまでの方は数えるほどしかいませんし、むしろ全体としての教養は低下していると思います。
教養そのものへの関心が薄れているというか・・・
こんなことを僕が言うのもなんですが、我々の世代の特質はむしろ「拘りを持たない」ことにあることにあるのではないでしょうか。
例えば以前お話になられたドイツのサイトでのお話はそのことを端的に表しているように思えます。
この花園では園主様と楽古堂がこのことを巡って喧々囂々となる、つまり一つの事件であると捉えられるわけですが、僕にも(そしておそらく当の学生さんにも)特別 なことには思えないのです。
つまり、園主様は

>つまり、なにも無理をしてドイツ語の文献を読まなくても、同じレベル・同じ内容の文献が、日本語で書かれたものとして存在する可能性が極めて高いのでございますね。

として「ドイツ語の文献」と「日本語で書かれた本」を区別なさっていますが、その感覚が若い世代には希薄なのではないでしょうか。
つまり、あらゆる情報が等価であるというか・・・どうも上手くまとまりませんね、すみません。

それから、後になってしまいましたが評論のやり方の教示ありがとうございます。
どうも理論だけでは上手くつかめませんので、実際のものを見てみることにします。
幸い「トランプ殺人事件」の創元文庫版は近所の本屋にありましたので、これから読ませていただきます。
竹本健治作品は今回が初めてなので楽しみです。

それでは皆様、今夜はこの辺で。


これが・・・若さかby赤い彗星(サングラスver)(2) 投稿者:時雨  投稿日:10月28日(木)00時55分1秒

>ホランド様

>園主さまも書かれていましたが、正直、前評判で聞かされたほど酷い(冒涜的な)作品だとは思いませんでした

らしいですね。聞くところによるとこの作品はメイキングDVDが初期と別 物になるほどリテイクを繰り返したそうですから、その買いあったということではないでしょうか。
それにしても・・・概要を聞いたときからずっと引っ掛かっていたのですが、この話にシレーヌを出す意味があるのでしょうか?
たしかにシレーヌ編は原作初期の名エピソードですが、後半の展開とはほとんど関係がないですよね。
二時間余りでの映画化という暴挙を行っていながらこんな枝葉を残すあたり、KONISIKIやらボブサップやら以前の段階で構成に致命的な欠陥があるような気がします。
それにしても、ガンダムSEEDといい監督・脚本が夫妻の作品にはろくなものがない・・・

>読んでないから知らなかったんですが、解説で登場人物の名前を間違ってたんですか?

はい。「織」というキャラクターの名前を「識」と間違えて記述しています。
その後の版でも直っていないのは如何なものかと思いましたが。

>読書の世界では、普通は個人(の作家性)を評価の対象にしますから、あまりこういう言い方をしませんからね。

そうですね。でもゲームの場合、作品は個人ではなく開発者に帰属するものですから、文芸評論のようにはいかないわけです。
作品の個性がシナリオライターによって出される場合もあれば、企画そのものによる場合もありますから。
東浩紀さんもこの問題には手付かずのようですし、難しいところです。


これが・・・若さか by赤い彗星(サングラスver)(1) 投稿者:時雨  投稿日:10月28日(木)00時35分10秒

なんだか世代論で盛り上がっているようですね。
当の若者である僕としては、園主様、楽古堂様、ホランド様それぞれの若者観が見られて実に面 白いです。

>つまり、私も昔は、多少引っ掛かる部分があっても「自分の理解不足(や経験不足)のせいなんだろう」と、好意的に理解していたのでございますね。しかし、笠井潔の行動に、理屈ではフォローしきれない、矛盾が露呈した時、それまでの「疑問」が一気に氷解して、見たくなかった「真実という絵」が見えてしまったのでございます

なるほど・・・ということは、いずれ僕にも「真実という絵」が見えるときがくるのでしょうか。それまで精進しなくてはいけませんね。

>したがいまして、『クリスマス・テロル』は、ほぼ間違いなく『動物化する世界の中で』の話なのでございますよ。

それはあるでしょうけど、それだけが原因でもないでしょう?
実際に終章で書かれている「読者への憎悪」もあるはずですよ。
その後も彼は「読者の存在が信じられない」と発言していますし。
それにしても、この事件に関する記述が全くないのがちょっと引っかかります。
もしかしたら、初期稿では業界内のトラブルに関する記述も存在していて、校正の段階で削除されたのかもしれませんね。
あまりにも陰謀論的に過ぎる見方かもしれませんが。
でも太田克史ならやりかねないなあ・・・

>しかし、意識の根底にそうした反発が伏在しているからこそ、角がたたないように語るという「当たり前の配慮」がなされなかった、ということなのではないでしょうか。

自覚ですか。
確かに穏やかな発言ではないですよね、そのトリックで飯を食っている作家もたくさんいるわけですし、だからこそ以前「金田一少年」がトリックを流用して大騒ぎになったわけですから。

>つまり、佐藤友哉と、「佐藤友哉を評価しないミステリマニア」としての『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』の関係とは、ある意味で「似た者どおし」の近親憎悪だと言えるのではないかと存じます。

つまりどちらも視野狭窄であるというわけですね。
なんだかなあ・・・
ともあれ、今回佐藤友哉を巡って園主様と議論が出来たのは大収穫でした。
これで自分のなかの佐藤友哉観がいっそう確かなものになりました、ありがとうございます!


敗者の栄光(5) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(水)23時51分1秒


 ホランド

> 集英社文庫から戸井十月さんの『チェ・ゲバラの遥かな旅』が出ましたね。この作品の単行本時のタイトルは『ロシナンテの肋』。園主さまが引用しておられた『もう一度わたしは足の下にロシナンテの肋骨を感じています。盾をたずさえて、再びわたしは旅をはじめるのです。』というゲバラの、両親への別 れの手紙の一節には、誰もが胸を締めつけられるような、現実には稀有なカッコよさがあるんでしょうね。

そう。小説の中でなら、ああいうセリフはいくらでも存在するだろう。だけど、そのセリフに見合う生き方と死に方をした、実在の人間はほとんどいない。
そして、チェ・ゲバラの偉大さは、「成功した革命家」としての「勝者」性にはなく、「敵に殺されるまで革命家であった」という「敗者」性において際立つんだと思う。

かつて竹内好は『負けることを考えるのを回避するのは、すでにそこで負けている』と言った。――今の日本(人)は、世界のなかで「勝ち組」になろうと、必死でアメリカに媚びを売って隷属している。それはまさに『負けることを考えるのを回避』して、すでに『負けている』者の姿だと言えるだろう。

『どこで死に襲われようと、われわれの戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、われわれの武器を取るために別 の手が差し出され、他の人たちが立ち上がるのなら、喜んで死を受け入れよう』

ゲバラ自身、こう語っているように、彼は革命家として、その骸を解放闘争の戦野に曝す覚悟をしていた。だから、彼の首をとったCIA工作員はそのことで「勝利」を確信したのだろうが、ゲバラはその死によって「イゲラの聖エルネスト」として、多くの人の胸に生きることになったんだ。つまり、本当の意味で「最後に勝った」のは、弱者の側に立って敗者となることも辞さなかった、彼の「生き方」なんだと私は思う。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


敗者の栄光(4) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(水)23時50分16秒


 楽古堂さま

> 園主様へ。いや、これはドイツびいきというような大層な話ではないのです。順番に説明します。

「経緯」は了解いたしました。しかし、それと私の指摘しました「内面の問題」とは、まさに別 問題なのではないでしょうか?

例えば、ある人が「私、こないだ、大江健三郎さんと個人的に話をしたよ」と言ったとします。それを聞いたある人が、その話しぶりから「有名人好きだからな、君は」と皮肉ったとしましょう。すると、そう皮肉られた方は、事実「有名人好き」であったとしても、それを認めるでしょうか? あるいは、彼が「いや、大江健三郎は親戚 に当たるんで、たまたま話す機会があっただけだよ」と説明した場合、彼は「有名人好き」ではない、ということになるでしょうか?

私の感想は、主として楽古堂さまのご文章からうけた「印象」をもとに語られたものですので、もちろん誤解の可能性はございましょう。しかし、ご自分の文章を「第三者として」再読していただいた場合、あの文章から、そのような印象を受ける人は少ない、とお思いになるでしょうか?

私には、「博識」への憧れも、「外国」崇拝も、「有名人好き(メジャー指向)」の傾向も、人並みにございますが、それを自覚しておりますからこそ、あえてそれを否定をしようとは思いません。私が問題とするのは、たいがい無自覚になされることなのでございますし、だからこそ批評の必要性も感じるのでございます。

> はらぴょんさんの「やり方」

> 僕が彼に清潔な印象を持つのは、思想の「公準」を金科玉条にしないこと。たとえば「リゾーム」の概念を、(それを使えば、より明晰に問題が整理できるだろとうと、無知な僕にも思える場合でさえ)彼が分析に振りかざすのを、ほとんど見た記憶がありません。これは、かつての世代が、マルクスや吉本隆明等々で割り切っていた思想的な営為と比較すると、思い半ばに過ぎるものがあります。

そのあたりの人々と比較して、いったいどれだけの意味があるのでしょうか?

そういう言い方で良いのなら「『機動天使エンジェリックレイヤー』を論じるのに、どうして外国の思想家の名前を持ち出す必要がある」とも申せましょう。

私は、それぞれが自分なりに「これだ!」と思うものを重んじることを批判しようとは思いません(それがマルクスであれ、吉本隆明であれ、ドゥルーズであれ、中井英夫であれ、江戸川乱歩であれ)。問題は、自分が「これだ!」と思っていなくても、世間(や権威者)が「これだ!」と言っているようなものを、時流に乗って崇拝してみせる態度なのでございます。

> シオドア・スタージョンや、ジャック・ヴァンスというSF作家は、現在の日本では、翻訳もほとんどありません。日本のサイトでの議論は、ほとんど不可能でしょう。しかし、アメリカでは、ともに数百のサイトがあります。スタージョンは二年前に全集がでたばかり。今のこととして、議論や感想の交換が可能。そういう体験を学生に話したことの、反応のひとつでした。

ちなみに、昨年から今年にかけてシオドア・スタージョンの翻訳書が2冊刊行されました。その意味では、今はちょっとしたスタージョン・ブームなのかも知れません。しかし、たぶん(古本の値は高騰しても、再評価の議論は盛り上がらず)ブームはブームに終るだろうなと思えるところが、日本の読書界の寂しさかも知れません。が、本場にかなわないのは、致し方のないところでございましょう。





( 以下は「敗者の栄光(5)」につづく)


敗者の栄光(3) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(水)23時49分29秒


つぎは恩田陸の青春小説『夜のピクニック』(新潮社)でございます。私はこの本を『朝日新聞』(2004年09月26日付け)に掲載された評論家 池上冬樹の書評で知りました。池上の書評は、

『とにかくノスタルジックで、リリカルで、いつまでも読み続けていたい小説だ。懐かしくて、切なくて、愉(たの)しくて、もう最初から最後までわくわくしてしまった。生きてあることが嬉(うれ)しくて、誰かに感謝したくなるような幸福感がひしひしとわきあがってくる。『バトル・ロワイアル』は若者の間で読まれているが、本書は世代を超えて読み続けられるだろう。子供からは心の汚れた親へ、親からは純真さを失いそうなわが子へと贈られるにちがいない。新作にしてすでに名作。必読! 』

という大絶賛の言葉で締めくくられているのでございますが、この作品の魅力を伝えて、私に付け加える言葉はございません。
今年読んだ「小説」では、文句なしのベストワン。みなさまにも是非お薦めしたい傑作でございます。

                   ○

さて、私、明日は仕事で、明後日29日から31日までは上京のため、留守にさせていただきます。特に予定はなく、ただいつもの友人たちのご機嫌伺いに参上するだけでございます(笑)。その間、書き込みができませんが、どうかご容赦下さいまし。





 本多正一さま

> ナント園主さまも何度かお訪ねになってくださいました中井英夫旧宅がなくなっており、真新しい別 の家屋が2軒、鎮座しておりました。
> 中井英夫が羽根木から武蔵小金井へ転居したのが1989年8月。その後4年近くを野川のほとりで過ごしたわけですが、往事の悲喜劇を証言してくれていた家屋を眼にしたのも、2002年8月、「彷書月刊」の取材で竹本健治さんらと再訪したのが最後の機会となりました。羽根木の家はすでになく、荻窪のアパートも取り壊され、東京でも中井英夫ゆかりの場所がどんどん少なくなってゆきます。

それは寂しゅうございますね。私にとって中井英夫の家とは、野川沿いの、あの武蔵小金井の家でございますし、中井英夫の最後の家となった荻窪のアパートも「なぜ、中井英夫ほどの作家が、こんなところに住まなくてはいけないのか」というやり場のない憤りにかられた場所として、今もなつかしく私の記憶に残っております。そういえば、荻窪のアパートにお邪魔した際、中井さんの枕元には、私がお送りした奥泉光の『葦と百合』(集英社・単行本)が置かれていましたっけ……。

しかし私は、そうした「思い出」の場所や物が失われていくのを、それほど残念だとは思いません。形あるものはいずれ失われていく。だからこそ、人は人の心のなかに還っていけるような「生き方」をしなければならないのだ、と思うからでございます。その意味で、中井英夫はたしかに私の心のなかに生きる存在なのですから、いずれ『虚無への供物』という作品が失われる時代が来たとしても、それならそれで仕方が無いと思えるのでございます。





( 以下は「敗者の栄光(4)」につづく)


敗者の栄光(2) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(水)23時48分47秒


本作では、長編ということもあり、かつての長編に見られた「謎としての家庭悲劇」の要素が大きく盛り込まれております。ですから、そんな事件にまきこまれる名探偵法月綸太郎が、かつてそうであったように「傍観者としての名探偵」に徹しきれず「悩む」のかと思いきや、今回の法月綸太郎はいたって冷静でございました。それはまるで、かつて大いに悩み抜いてみせた「後期クイーン問題」など存在しなかったかのようでございますし、事実本作は、そうした懊悩の経験など持たずとも書き得る作品となっていたのでございます。
そうした意味で本作は、私にとって期待外れではあったものの、半面、かつての法月綸太郎の懊悩を「ニセモノ」であり「ナルシステックな過剰演技」だと評価した者としては、「やっぱりな」と思える作品でもございました。つまり、私の正直な感想はと申しますと「もう、若い頃のように自己陶酔できない貴方(作家法月綸太郎)には、今の自分の内面 なんて、とても怖くて掘り下げられないだろう」ということだったのでございます。

が、私のこのような「文学的」「思想的」評価とは裏腹に、そのような要素を捨て去った本作は、「本格ミステリマニア」の評価をうけることにはなりましょう。なぜなら、このような「コア」な作品が評価されないとしたら、本格ミステリというジャンルの存在価値自体が疑われかねないと、本格ミステリマニアたちは「保身的」に考えるからなのでございます。

最初にも申しましたとおり、たしかに『生首に聞いてみろ』は、本格ミステリとしては『まずまず良く出来た作品』だと申せましょう。『読者を右に左に揺さぶりながら、ラストの「驚くべき真相」へと引っ張っていく』手際は、並みのミステリ作家にはなしえないことだからでございます。またその意味で、本書に付された2つの推薦文は、ともにいたって正直なものと言えるのでございます。

『お帰り、法月綸太郎! 名探偵の代名詞よ。この事件は、あなたにしか解けない。有栖川有栖』

『伏線をたぐり寄せるマジシャンの手際は、驚愕と納得を保証する。貴志祐介』

ですが、そのような「玄人好み」の作品が、一般 に「面白い」小説となりえているとは限らないし、「本格ミステリ」としては良く出来ていても、「小説」として良く出来ているとは限りません。そうした意味で私は、『生首に聞いてみろ』が「良く出来たミステリ」の域を出ない作品だと評価するのでございます。

じっさい、本作のメイントリックは、この作品の作品世界内においても、リアリティーがあるとは申せません。作中で早々に「ありえない」とされる(捨て)トリックは、たしかに「推理クイズ」的なちゃちなものであり、その意味でリアリティーがございませんが、本作の根幹をなすトリックも、このわりあいリアルに構築された作品世界においては「心理的」に無理のある、つまりリアリティーに欠けるものなのでございます。
もしもこの作品が、かつての長編のように「家庭悲劇に対する自己投影的な懊悩」に満たされたものであったならば、このメイントリックも幾分かはリアリティーを持ちえたかも知れません。しかし、この作品では、そうした内面 描写が排除され、外面的事実を中心とした描写がなされたため、「ふつう、そんなことはしないだろう」という行為(メイントリック)が、そのままそのように感じられるものとなってしまったのでございます。つまりこの作品は、作者の技量 は認めるとしても、やはり「リアリティーの無いメイントリックに支えられた、(単なる)本格ミステリ」になってしまっている、というのが私の評価なのでございます。

したがいまして、本作が『このミステリーがすごい!』で5〜10位、『本格ミステリ・ベスト10』で3〜5位 くらいにランクされるのであれば、まあ(昨今の水準からすれば)納得いくのでございますが、この作品が1位 や2位に来るようでは、いよいよ本格ミステリブームも末期だという印象も免れえないものと存じます。





( 以下は「敗者の栄光(3)」につづく)


敗者の栄光(1) 投稿者:園主  投稿日:10月27日(水)23時34分45秒

みなさま、本日は、私が最近読みました小説をご紹介させていただきます。

まずは、次回2005年度第5回本格ミステリ大賞の最有力候補作と目される、法月綸太郎の新刊『生首に聞いてみろ』(角川書店)でございますが、まずまず良く出来た作品だと評価いたせましょう。しかし「10年ぶりの長編」ということでしたので、正直、私は、もうすこしすごい作品を期待したのでございますが、残念ながら本作は「法月綸太郎の水準作」に止まるものでございました。

法月綸太郎は、E・クイーンとロス・マクドナルドに強い影響をうけた作家で、E・クイーンからは「緻密な論理性」と「名探偵の存在論的難問」を、ロス・マクドナルドからは「謎としての家庭悲劇」を受け継ぎました。この3つの要素は、いずれも(『密閉教室』『雪密室』などデビュー直後作を除く)初期長編以来、法月長編を構成してきた3大要素とも呼べるものなのでございますが、初期の法月作品は「作中探偵である(小文字の)法月綸太郎」も「作者である(大文字の)法月綸太郎」も、ともに後期クイーンばりに「悩む」というのが、その「独自性」でございました。
しかし、笠井潔の勧めもあり、活動の重点を評論に移すとともに法月綸太郎の執筆ペースは目に見えて落ち、小説はもっぱら短編に限られるようになりました。そのため、自ずとその短編作品からは、短編に不向きな「探偵法月綸太郎の懊悩」と「謎としての家庭悲劇」の2大要素が影をひそめ、代わりにクイーン流の「緻密な論理性」だけが前面 に押し出しされた結果、法月綸太郎は「玄人好みの手堅い本格(ミステリ)短編」を書く作家と評価されるようになっていったのでございます。

法月綸太郎は、もともとがマニア出身の作家であり、かつ綾辻行人のような一般 性のある「華」が無かったため、その評価はもっぱらマニアによってなされてきたのでございますが、当初の「悩む探偵(作家)」という個性は、本格ミステリマニアの歓迎するところではございませんでした。一時期「後期クイーン問題」として一部評論好きミステリマニアの間で話題となった「名探偵の存在論的難問」についてさえ、もともと哲学にも思想にも興味のない「生粋の本格ミステリマニア」には「どうでもよい話」でしかございませんでしたから、ましてや作品の内外を問わずになされる法月綸太郎の「懊悩」など、多くの本格ミステリマニアにとっては、ウザったい「哲学趣味」であり「文学趣味」としか映らず、ほとんど評価の対象にはならなかったのでございます。
ところが、作品が短編中心へと移行し、おのずと(本格ミステリマニアが感じるところの)そうした「無駄 」や「贅肉」が削ぎ落された結果、法月綸太郎は次第に「端正な本格ミステリ」を書く「正統派の本格ミステリ作家」と、マニア読者から好意的に評価されるようになっていったのでございます。

今回の新作は「10年ぶりの長編」ということでしたので、私個人は、単なる「端正な本格ミステリ」では終らない、かつてのような作品の「発展形」を期待したのでございますが、その期待は空振りに終りました。つまり、本作『生首に聞いてみろ』では、作中探偵法月綸太郎はまったく悩まず、作品は読者を右に左に揺さぶりながら、ラストの「驚くべき真相」へと引っ張っていく(だけの)「良く出来た、本格ミステリ」となっていたのでございます。





( 以下は「敗者の栄光(2)」につづく)


はらぴょんさんの「やり方」 投稿者:楽古堂  投稿日:10月27日(水)22時18分23秒

僕が彼に清潔な印象を持つのは、思想の「公準」を金科玉 条にしないこと。たとえば「リゾーム」の概念を、(それを使えば、より明晰に問題が整理できるだろとうと、無知な僕にも思える場合でさえ)彼が分析に振りかざすのを、ほとんど見た記憶がありません。これは、かつての世代が、マルクスや吉本隆明等々で割り切っていた思想的な営為と比較すると、思い半ばに過ぎるものがあります。


ネットによる英語の勉強・3 投稿者:楽古堂  投稿日:10月27日(水)19時32分59秒

シオドア・スタージョンや、ジャック・ヴァンスというSF作家は、現在の日本では、翻訳もほとんどありません。日本のサイトでの議論は、ほとんど不可能でしょう。しかし、アメリカでは、ともに数百のサイトがあります。スタージョンは二年前に全集がでたばかり。今のこととして、議論や感想の交換が可能。そういう体験を学生に話したことの、反応のひとつでした。


ネットによる英語の勉強・2 投稿者:楽古堂  投稿日:10月27日(水)19時26分36秒

自分の体験。『指輪物語』のトールキンの遺稿を原書で読んでいます。困るのは英単語で、僕の辞書には乗っていない、中世の古い言葉があること。それをイギリスのサイトに質問に行っていました。日本人の質問に興味を持って頂き、いろいろと教えて頂きました。日本のサイトでは、なかなかできないことなのです。助かっています。トールキン教授に直接に教わった(!)という老婦人と、メル友になれました。


ネットによる英語の勉強・1 投稿者:楽古堂  投稿日:10月27日(水)19時20分23秒

園主様へ。いや、これはドイツびいきというような大層な話ではないのです。順番に説明します。受験生は、みんな英語の勉強の方法に悩んでいます。小生の推奨するのが、自分の好きな話題を海外のネットで検索し、「掲示板」に参加しようというもの。ところが、たとえば宮崎駿のサイトだけでも、欧米には数千。どこに行けばよいか、悩んでいる学生がいました。それでは「アイデンティティ」をキーワードに検索してはどうか。そうアドバイスをした結果 なのです。


嘆きの歌 投稿者:楽古堂  投稿日:10月27日(水)19時12分24秒

本田正一様へ。かつて澁澤龍彦が『悪夢の骨牌』の書評で、この作品の主題は、東京への憎悪と愛情の相反する感情を含んだ、「嘆きの歌」ではないかという発言をしていたのを思い出しました。(何という文章だったかなあ?)過去の東京への、おそらく日記等々の記録にも触発されての、記憶によるタイム・トラベル。その東京の風景の一部もすでになし。往事茫々。


武蔵小金井文学散歩 投稿者:本多正一  投稿日:10月27日(水)09時03分54秒

 ご無沙汰しております。久しぶりに掲示板拝見いたしましたが、不穏な文章が散見されるように思うのは気のせいでしょうか。

 先週の日曜日、人形作家&写真家の石塚公昭さんと武蔵小金井文学散歩を試みました。多磨霊園の江戸川乱歩、三島由紀夫、岡本太郎らの墓に詣で、江戸東京博物館たてもの園にて開催中の石塚さんの写 真展を楽しんできたのですが、ナント園主さまも何度かお訪ねになってくださいました中井英夫旧宅がなくなっており、真新しい別 の家屋が2軒、鎮座しておりました。
 中井英夫が羽根木から武蔵小金井へ転居したのが1989年8月。その後4年近くを野川のほとりで過ごしたわけですが、往事の悲喜劇を証言してくれていた家屋を眼にしたのも、2002年8月、「彷書月刊」の取材で竹本健治さんらと再訪したのが最後の機会となりました。羽根木の家はすでになく、荻窪のアパートも取り壊され、東京でも中井英夫ゆかりの場所がどんどん少なくなってゆきます。


ロシナンテの肋(下) 投稿者:ホランド  投稿日:10月26日(火)22時46分42秒


 はらぴょんさま

> 刊行されたばかりの『夜想』復刊第二号特集Doll(スチュディオ・パラボリカ)は、恋月姫、三浦悦子、秋山まほこ、四谷シモン、吉田良、天野可淡、フローリア・シジスモンディ、やなぎみわ、ルイズ・ブルジョワ、タデウシュ・カントル、土井典、堀佳子、井桁裕子、与偶、清水真理、一央+阿哉、ヤン・シュヴァンクマイエルらの人形を紹介し、この人形の妖しい魅力の世界に誘っている。この雑誌には、斎藤環、森村泰昌、高原英理、鈴木創士らの寄稿もあり、デウス・エクス・マキーナについて考える上で注目される。

 復刊された『夜想』は、装丁家のミルキィ・イソベさんがやってると思うんですが、第1号が『ゴシック』で、第2号が『Doll』というのは、いかにも「流行もの」って印象が否めないですね。また倒産させちゃいけないからと、『夜想』的でありながらも営業的に無難なところを狙っているのかも知れませんが、昔の特集のユニークさ(レパートリーの広さ)を思うと、ちょっと寂しいような気がします。

 ちなみにこないだマンガ専門書店を覗いたら、「ゴスロリ」専門のマンガ雑誌とファッション雑誌が売られていて感心してしまいました(^-^;)。



 アーニャ

>> 新しい海なのか?(<Keenさま)

> なんだか心細いような書き込みだったけど、私が思うに、本や持ち物を大々的に整理したせいなんでしょうね。一時代の区切り。
> で、今は模様替えは一休みして、京極夏彦『狂骨の夢』読んでるようだから、そのうち読了したら、きっと> また感想書きに来ると思うわ。

 『狂骨の夢』は、文庫化に際して、かなり加筆されたはずなんだけど、どこが変わってるんだろう? まあ、大筋では変わっていないから、園主さまのおっしゃっていた「励まされる作品」という点も変わってはいないと思うんだけど。

 アーニャもいろいろと大変だろうけど、Keenさまのことよろしくね。アーニャって、気遣いのできる珍しい(ネコらしくない)ネコだよね(笑)。



 園主さま

> ゲバラ人気も再燃しているみたいだね。
> 約束された地位を捨てて、虐げられた人々のために、あえて再び火中に飛び込んで死んだ革命家 、赤いキリスト、エルネスト・チェ・ゲバラ―― そんな彼に憧れる人がいなくならないというのは、それ自体、一種の希望なんだと思う。

 集英社文庫から戸井十月さんの『チェ・ゲバラの遥かな旅』が出ましたね。この作品の単行本時のタイトルは『ロシナンテの肋』。園主さまが引用しておられた『もう一度わたしは足の下にロシナンテの肋骨を感じています。盾をたずさえて、再びわたしは旅をはじめるのです。』というゲバラの、両親への別 れの手紙の一節には、誰もが胸を締めつけられるような、現実には稀有なカッコよさがあるんでしょうね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


ロシナンテの肋(中) 投稿者:ホランド  投稿日:10月26日(火)22時45分43秒


 時雨さま

 『デビルマン』ですか!
> 永井豪にはあまり興味のない僕ですが、あの作品の噂は以前から耳にしていましたよ。
> 聞いた話では、このデビルマンの企画は元々『「モーニング娘。」主演による「セーラームーン」の実写 映画』として出発したそうです。それが東映TV部のTVシリーズ企画とぶつかり(土曜の朝にやってたあれです)立ち消え、その後適当なタイトルを物色しているうちに「デビルマン」になったとか。

 園主さまも書かれていましたが、正直、前評判で聞かされたほど酷い(冒涜的な)作品だとは思いませんでした。アイドル映画を撮ってきた監督さんだというから、どんなに酷いのかと思ったら、けっこう健闘してたんです。歌手だのモデルだの人気タレントだのを多用したというのは、この映画のスタッフが、もともとアイドル映画を撮ってきたスタッフだから、その人脈のなかで作らざるを得なかったということなんじゃないでしょうか。製作サイドも含めて、これまでのしがらみからして「いきなり渋い人選をして、本格的な映画をマニアックに撮る」なんてことは出来なかったんじゃないかなって思いました。

 ちなみに、シレーヌ役の冨永愛は、有名なモデルさんらしいんですが、顔がスマップの草薙くんに似てるような気がして、妖鳥シレーヌのイメージじゃなかったし、コスチュームも(ポスターとは違って)なんだかカッコ悪かった。それにデビルマンとの格闘シーンは、どっちの声も迫力がなくて、CGの絵にまったく合っていなくて、間抜けだと思いました。じっさい最後のサタンとの戦いでは、デビルマンの声にエフェクトがかけられていて、随分野太い声に変わっていました。
 また、デーモンの隠れ家がデーモン対策隊(だったか)に襲撃されるシーンで、蝶ネクタイを姿のKONISIKIが普通 に撃ちまくられ「デーモン万歳!」と叫んで倒れて死ぬだけ(怪物に変身しない)というのも間抜けだったし、地下鉄のシーンで乗客として一コマだけアップで映る驚いた顔の島田久作や、高級車から降りてきて明とミキちゃんに声をかける金持ちおばさんの小林幸子も、「なにこれ?」って感じでした。牧村夫妻役の宇崎竜童・阿木燿子夫婦の演技もイマイチだし、きたろうや本田博太郎の過剰演技も鼻についた。それに比べれば、不動明を演じた伊崎央登なんて、演技は素人だから下手だけど、一生懸命やってるのがわかるから好感は持てました。

>> つまり、笠井さんに問題があるとすれば、「新世代に「教養主義的権威(=鬼面 )」は、もう通用しない」んだということがわかっていない、という点なんだと思います。

> それです。実際「空の境界」の解説も若い世代にはかなり不評だったようですし。
> まあ、登場人物の名前を延々間違えているんじゃ仕方がないか・・・

 読んでないから知らなかったんですが、解説で登場人物の名前を間違ってたんですか? それは痛いなあー、たぶん笠井さん本人としても・・・(^-^;)。


> ええと、『TYPE−MOON』と言うのは奈須きのこと武内崇(奈須氏の旧友でイラストレータ)が所属するゲーム会社(原型は同人サークル)のことです(http://www.typemoon.com/main.html)。
> 説明不足で申し訳ありません。

 ああ、やっぱり会社の名前だったんですか。そうじゃないかとは思ったんですが、ただ「TYPE−MOONには興味があるけど」云々という言い方が引っ掛かったんです。読書の世界では、普通 は個人(の作家性)を評価の対象にしますから、あまりこういう言い方をしませんからね。



 Keenさま

> このところ、どうもここに書き込みできずにいます。
> なんだか、怖いような気がするのですよ。
> この感触は、楽古堂さまのおっしゃる「新しい海」に対するものなのでしょうか。
> それとも、園主さまがコワイとか?3年も通って、ようやく気づいたんだったりして(笑)。


 園主さまはコワイかもしれないけど、ボクはコワくないでしょ? それとも、ボクもコワイかなあー?
 でも、賢ちゃんに言わせると、Keenさまもだいぶ園主さまに感化されているそうだから、けっこうコワいんじゃないですか?(笑)

 まあ、焦らないでのんびりやってください。書かなきゃなんて思うと、余計に書くのが億劫になりますから。――これ、ボクの経験則ですが(笑)。





( 以下は「ロシナンテの肋(下)」につづく)


ロシナンテの肋(上) 投稿者:ホランド  投稿日:10月26日(火)22時44分30秒

 みなさん、こんばんは! 台風で大きな被害が出たばかりなのに、今度は新潟大きな震災があり、余震もまだ続いていて、多くの人が避難所暮しをしておられます。本当に今年の日本はどうしちゃったのかという感じです。
 園主さまも「昔の宗教家なら、こうした事態を見ればきっと、総罰だと言うだろうな。日本が道を誤っているから、国民全体が天罰を被ることになっている、というような……。でも、こういう言い方は、罰を受けるべき人がうけていないという現実を見れば、間違いだと言わざるをえないだろうな」と、奥歯にものの挟まったような、なんだか歯切れのわるいことを言っておられました。

 戦争のような人災と、台風や地震のような自然災害。どっちも当事者にとっては堪らないことで、単純に比較できるものではありませんが、ただ言えることは、「きれいな水がない」「食糧がない」「居場所がない」「自分の力では状況を打開できない」「救いの手も届かない」という状況にある人の境遇は、国内であろうと国外であろうと同じだということです。





 楽古堂さま

 質問へのご回答、ありがとうございました。

 お示しいただいた『若者の「やり方」を期待する理由』については、園主さまから手厳しいツッコミがなされていましたが、それとは別 にボクが思ったのは「時代や環境に応じた手法の変化といったことではなく、今どきの若者の特質そのものが知りたい」ということなんです。今どきの若者の長所や短所を、若者に接する機会の多い楽古堂さまからお伺いしたいんですよ。



 賢ちゃん

 こうなってくると、賢ちゃん流の『機動天使エンジェリックレイヤー』論が期待されるところですね(笑)。





( 以下は「ロシナンテの肋(中)」につづく)


負け戦の戦い方(9) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時54分13秒


 Keenさま

> このところ、どうもここに書き込みできずにいます。
> なんだか、怖いような気がするのですよ。
> この感触は、楽古堂さまのおっしゃる「新しい海」に対するものなのでしょうか。
> それとも、園主さまがコワイとか?3年も通って、ようやく気づいたんだったりして(笑)。

もちろん、私はコワイ人間でございますよ。書いていることも大抵は『生は暗く、死もまた暗い』みたいな内容ですし(笑)。

でも、急にそのような感情にとらわれたというのは、アーニャも書いておりましたとおり、本の整理や部屋の模様替えなどで、お疲れになったせいでございましょう。

人間というのは、いちめん単純なもので、身体が弱れば精神も弱るし、精神が弱れば身体も弱ってしまうものでございます。たとえば、私が失恋した際、そのショックで内臓が揉まれるような、具体的な不快感を感じました。これは精神状態が身体に影響を及ぼしたせいでございましょう。
精神的な失調を精神的に補おうとしても、どだいそれは無理のあることでございます(壊れた道具で壊れた道具をなおそうとするようなものだ)から、私は精神的に弱っている時は「美味しいものをお腹いっぱい食べて、とにかく寝る」ということを心掛けております。つまり、物理的に体力を蓄えて、あとは時間が物理的に癒してくれるのを待つという戦法で、失恋のショックも乗り越えたのでございます(笑)。



 アーニャ

> なんだか心細いような書き込みだったけど、私が思うに、本や持ち物を大々的に整理したせいなんでしょうね。一時代の区切り。
> で、今は模様替えは一休みして、京極夏彦『狂骨の夢』読んでるようだから、そのうち読了したら、きっとまた感想書きに来ると思うわ。

そうか、『狂骨の夢』を読んでいるのか。それはちょうど良い。あの作品は、けっこう「励まされる作品」だからな(笑)。

> あ、そうそう。昨日のKeen家の晩御飯はクリームシチューだったんだけど、ちゃーんと「ブッコロリ」も入ってたわよ!(^0^*

昭和ひとケタの母の「ブッコロリ」発言があった頃、我が家ではブロッコリーは「珍しい(オシャレな、今風の)野菜」だったけど、最近は朝食のパンに必ず添えられる「染みの野菜」になっている。――ひさしぶりに、名前を確認してみようかな?(笑)



 ホランド

つぎはやっと『モーターサイクル・ダイアリーズ』ということになるかな?(笑) 上映館が小さいとは言え、あんなに人気があるとは思わなかった、いまなら『デビルマン』より入っているんじゃないかな(笑)。

ゲバラ人気も再燃しているみたいだね。
約束された地位を捨てて、虐げられた人々のために、あえて再び火中に飛び込んで死んだ革命家 、赤いキリスト、エルネスト・チェ・ゲバラ―― そんな彼に憧れる人がいなくならないというのは、それ自体、一種の希望なんだと思う。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


負け戦の戦い方(8) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時53分31秒


 時雨さま(つづき)

> ですが、それでも

>> 結局私は、この作品を読むことにより、佐藤友哉の「トリックなどパクればいいんですよ」といった発言は、先行世代である『笠井潔を理論的支柱とする「新本格」ミステリの一派、つまり「本格ミステリの正統的後継者」を自認する、現在の「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』を意識しての、意図的な挑発発言だという見解を採ることになりました。

> とおっしゃられるのには全面的に賛成できないんですよね・・・
> この発言が座談会と言う比較的飾らない場でなされたと言うことが理由なのですが、その背景には佐藤自身が抱える根源的な問題があると考えます。

これはたぶん「自覚」の問題でございましょう。

つまり、その座談会で佐藤友哉が「トリックなどパクればいいんですよ」といった発言をした際、『笠井潔を理論的支柱とする「新本格」ミステリの一派、つまり「本格ミステリの正統的後継者」を自認する、現在の「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』への反発ということ(=意図)は、 明確なかたちで佐藤の意識にのぼったわけではなかった。しかし、意識の根底にそうした反発が伏在しているからこそ、角がたたないように語るという「当たり前の配慮」がなされなかった、ということなのではないでしょうか。

> そもそも、僕には佐藤が『本格ミステリ作家クラブ」の面々』をそれほど意識しているようにはどうしても思えなんですよ。
> 彼自身「ミステリにはさほど興味がない」と発言しているように本格ミステリと言うジャンルそのものの意識が希薄です。それゆえ元々「本格ミステリ作家クラブ」に関心も知識もなかったでしょうし、もっと言ってしまうとデビューした時も「ミステリの世界に飛び込んだ」と言う認識すらなかったのではないのでしょうか。
> だから、この終章を書いた段階でも『本格ミステリ作家クラブ」の面々』に対する敵意や反感はもちろん持っているのでしょうが、それは彼の作品を「本格ミステリでない」と言う以外の理由(例えば「小説として未熟である」、または単に「なんとなく気持ち悪い」など)で批判した人々へ抱いているそれと等価なものなのではないかと思えるのです。
> 逆に言ってしまえば、佐藤は自分を認めてくれるのであれば『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』であろうと誰であろうとそれほど悪い顔をしないのではないのでしょうか。それはおそらく『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』に限らないのでしょうが。
> 彼からはどこかそういった悪い意味での上昇志向というか、自己顕示欲があるように思えます。

それはそのとおりだと存じます。佐藤友哉には、あきらかに「文学指向」がございますから、「ミステリとしては、イマイチ」などと評価されれば、「べつに、そんなものが書きたいわけじゃないよ」と反発いたします。しかし、だからといって「ミステリとして素晴らしい」と評価された場合、何とも(ありがたいとも)思わないのかと言えば、当然そういうことではございませんでしょう。
つまり、おっしゃるとおり『佐藤は自分を認めてくれるのであれば『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』であろうと誰であろうとそれほど悪い顔をしない』というのは、間違いのないところだと存じます。彼が反発するのは、あくまでも「彼を認めようとしなかった『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』」であり、だからこそ法月綸太郎には反発を示さなかったのでございましょう。

佐藤友哉は、ほぼ間違いなく、自分の書いている小説は「単なるミステリ」ではなく、「単なるミステリ」よりも優れた(深い)小説である、と思っていることでございましょう。事実そうなのかも知れませんが、少なくとも佐藤自身は、それを実証的に確信できるほど「ミステリ」を知っているとは申せませんから、彼の自己評価は「独りよがり」の域を出ない、というのも否定できない事実だと申せましょう。一方、「ミステリ」だけに固執して、広く他の文学を考慮しようとはしない「佐藤友哉の裏返しとしての、ミステリマニア」は、当然のことながら「文学かぶれで、ミステリに無知な佐藤友哉 」に反発することでございましょう。つまり、佐藤友哉と、「佐藤友哉を評価しないミステリマニア」としての『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』の関係とは、ある意味で「似た者どおし」の近親憎悪だと言えるのではないかと存じます。





( 以下は「負け戦の戦い方(9)」につづく)


負け戦の戦い方(7) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時52分40秒


 時雨さま

正直な所、僕は不勉強なので園主様が問題とされる「結論の押しつけ」というのがよくわからないんですよ。おそらくこれが笠井潔が媚びているように見えない原因なんだと思います。
> たとえば「空の境界」の解説におけるを読んでも、園主様なら即座にご自身の経験と知識に照らし『空虚に巣食う魔(7)〜(9)』のような検証が出来てしまうんですが、僕にはそれが出来ないのです。だから笠井氏の評論に多少恣意的な部分があっても、「そういうものなのか」で丸め込まれてしまうことがあるんです。
> 時々引き付け方が強引に感じることはありますが。
> そういう意味では、この「花園」がとてもありがたい存在となっています。

『笠井氏の評論に多少恣意的な部分があっても、「そういうものなのか」で丸め込まれてしまうことがある』というのは、大変よくわかります。私自身、長らく笠井潔ファンとして笠井の評論を読んできたからでございます。
つまり、私も昔は、多少引っ掛かる部分があっても「自分の理解不足(や経験不足)のせいなんだろう」と、好意的に理解していたのでございますね。しかし、笠井潔の行動に、理屈ではフォローしきれない、矛盾が露呈した時、それまでの「疑問」が一気に氷解して、見たくなかった「真実という絵」が見えてしまったのでございます。


> 『継承されたもの・法月綸太郎から佐藤友哉』(2004年10月18日)

> 一番面白かったのは『動物化する世界の中で』を繋げて来られた事です。なるほど、東氏は「佐藤友哉後援会長」を自認するほどのユヤタン(ネットでは佐藤のことを親しみを込めこう呼ぶそうです)・ファンで個人的にもお付き合いがあるそうですから、彼が巻き込まれたトラブルが『クリスマス・テロル』の終章執筆の一因となったのはありえる話ですね。

さらに傍証をつけ加えますと、『ミステリ・マンガ・アニメ・ギャルゲーなどの「オタク系サブカルチャー」全般 に詳しい評論家 福井健太』は、「早稲田ミステリクラブ」の出身でございますから、東浩紀はもちろんのこと、笠井潔よりもたくさんミステリを読んでおりますし、年齢的には東浩紀に近いことから、ギャルゲーについても、笠井潔などとは比較にならないくらい知っているのでございます。つまり、福井健太は、両専門世界の境界に位 置し、両者に比肩する知識を持っておりますから、両者の駆け引きを容易に見通 すことができるのでございます(当然、両者に面識もございましょう)。したがいまして、『クリスマス・テロル』は、ほぼ間違いなく『動物化する世界の中で』の話なのでございますよ。





( 以下は「負け戦の戦い方(8)」につづく)


負け戦の戦い方(6) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時51分46秒


 はらぴょんさま

> 『機動天使エンジェリックレイヤー』試論

『機動天使エンジェリックレイヤー』自体、読んでおりませんし、いまから読むほどの興味もないのですが、そもそもこの作品は、論じる価値のある作品なのでございましょうか? どうも、論じるに値する「作品そのものの魅力」というものが、論文からは伝わってこないように思うのでございますが。



 賢ちゃん

> いっちゃんが作中で述べる通り、バトルをすること。即ちエンジェリックレイヤーの行動範囲事態が「遊び」であり、「楽しいからこそバトルを行う」という描写 が、作品のあちらこちらに散りばめられています。
> その伝で云えば、作者の本当の狙いは、みさきちとヒカルの成長物語りとミステリー風味のストーリー展開よりも、寧ろ「エンジェリックレイヤー」を通 して、ゼウス同士の意志の疎通を図るという、極めて人間臭い方向性にあるのではないかと考えます。

はらぴょんさんへのレスにも書いたとおり、まず大切なのは、『機動天使エンジェリックレイヤー』という作品には、語るに値するどのような魅力があるのかを語ることだと思う。図式の説明は、その手段でしかないんじゃないかな。第一、ありきたりな図式に還元されてしまう作品なんて、おおむねつまらないと思うんだが。





( 以下は「負け戦の戦い方(7)」につづく)


負け戦の戦い方(5) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時49分58秒


 AOIさま(つづき)

> 大阪在住の友人は「東京の人は、びっくりするでしょう。展覧会で、見知らぬ となりの人から、話しかけられて。大阪なのよねっ(笑)」と言っていましたよ(笑)。
> それで、『男と女ではちがうとはおもいますが。年齢でも』と言ったのね(笑)。

いわゆる「大阪のおばちゃん」というやつでございますね(笑)。

たしかにそういう人は「大阪のおっちゃん」から見ても、けっこう存在するようでございます。
しかし、この「大阪のおばちゃん」問題の場合、「大阪」という「地域」的側面 に重点をおいて理解するのか、「おばちゃん」という「性別・年齢」的側面 において理解するのかで、その意味合いが大きく変わってくるものと存じます。
つまり、たぶん「非・大阪人」は男女共に、「大阪のおばちゃん」の「大阪」の側面 をおいて「大阪のおばちゃん」の特殊性を理解しようとするのでしょうが、「大阪人」は「大阪のおばちゃん」の「おばちゃん」という側面 に着目して『「大阪のおばちゃん」的なものの本質は「全国のおばちゃん」共通 のものである』と考えることでございましょう。つまり「大阪は地域がら典型的な形であらわれるけど、概しておばちゃん(中年女性)というものは、自他の垣根が低い」というような議論になるのではないかと存じます。もちろん、いずれにしろ私としては、このような議論の仕方が正しいとは思わないのでございますが。

> ダイレクトな気持ちをオープンに語るというか、見知らぬ人に共感を求めようとするのが私には新鮮でした。いつも、そういう中にいるとうざったいということにもなるかもしれませんけれども(笑)。

そうでございますね。「特異性」というものは、いつも「好意的」に評価されるとは限りません。だからこそ、ステグマの問題は難しいのでございましょう。


> 本多さんは、中井英夫に天が遣わした最後の天使だと思っているので、「ただ者でない」のは当然ではないかと思います。
> 『彗星との日々』を見て、読んで感じるのは、 いたいたしい凶鳥を背負おうと格闘する姿。
> あの写真集は、凶鳥の黒影を刻印した作品そのものに思えます。

て、天使でございますか……。
それならばそれは、中井英夫が自身について『神の手が、私を落した』と「失寵」を歌ったのと同様、本多正一は『中井英夫に天が遣わした最後の天使』というよりも「中井英夫のところに、天が落した天使」だったのではないでしょうか。それなら納得がいきます。――矢吹駆が『バイバイ、エンジェル』でマチルドを「ビーナス」だと言ったのと同様の意味で(笑)。


> おとうさんは永遠に報われないのです。
> 「お父さん」&「岩清水くん」を卒業しよう!おーっ!(^0^)/
> おじいさんになるんじゃなくってー・・・。

そこまで言うか……(-_-;)merameramera.konourami,harasadeokubekika([matarogakuru]yori)





( 以下は「負け戦の戦い方(6)」につづく)


負け戦の戦い方(4) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時48分34秒


 AOIさま

>>「彼(※ 宮台真司)は、頭がよすぎるんじゃないか」
>> (※ この)大西巨人の発言は記憶に無いのですが、どこでなされた(載っていた)ものなのでしょうか。ぜひご教示下さいまし。

> 今年の1月から、9月まで断続的に『週間読書人』に連載された『大西巨人氏に聞く』(インタヴュアー鎌田哲哉)8月20日号、第5部〈文学と政治〉44の「福沢諭吉について〜対米従属とアジア主義、民族主義に行き着くもの」の中です。

ご教示、ありがとうございます。その連載については、ノーチェックでございました。

> 大西:今の話に出た、対米従属とアジア主義。結局、それは同じものだと思う。アメリカが言っているのも民族主義であるし、EUのようなアジア共同体にしても、最終的に民族主義に行き着く。おそらく、ひとつの国じゃなく、多数の国でいったら、なんとなく民族主義を乗り越えたような感じがあって、ごまかしが効きやすいんだが、出所は同じであって、それでは駄 目だと思う。こういうことを言うと、大西がまた変なことを言っていると思われるかもしれんが、やはり、本当の意味の社会主義じゃないと駄 目なんだよ。それに立脚したところで、全体のグローバリゼーションを考えたり、今のヨーロッパの共同体を考えたり、大東亜共栄圏ではないアジアの共同体を打ち立てることを考えてゆくべきだろうな。ただ、君が例に挙げた宮台真司そのものは、それほど悪いとは思わんがね。

いかにも大西巨人らしい、根源的な批判でございますね(笑)。

> この号はこれで終わっていて、次号タイトルは『神聖喜劇』の映画化。
> 映画化はシナリオ(1200枚くらい)段階で。劇画化(10年かける予定)も進行中のようですね。
> いったい、誰がシナリオを書いて、監督するのかしら?劇画作家は?
> 興味深々。

私は、それほど興味はございません。もちろん、完成すれば観たり読んだりはいたしますが、それによって何かが付け加わるとも思いませんから。――ただし「あんなもの『神聖喜劇』じゃない!」なんて言われるような、『デビルマン』の二の舞いにだけはならないでくれと願うばかりでございます(笑)。

> 姜尚中も言っているように、宮台真司自身、アンガージュマンの危険性は充分分かっているのだと思う。だからこそ、「社会政策学者、統制経済学者、政治学者、哲学者、ジャーナリストなど、昭和研究会などに参集した綺羅星のような知識人」としてではなく、ミドルマンなのであり、「国家の操舵へのコミット」というより、市民的な動きをつくるということにあるのじゃないかと思います。

基本的にはそうかも知れませんが、宮台真司の活動は、そんな「一般的な(無難な)レベル」には止まっておらず、もっと積極的なもので、政治家への直接的なアプローチも含まれていたはずでございます。それが『国会での説明』とか『ロビー活動』といったことなのではございませんか? 宮台真司の戦術には「あえて敵の懐に飛び込む」といった危険な方法も含まれているように思うのでございますが。





( 以下は「負け戦の戦い方(5)」につづく)

 

負け戦の戦い方(3) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時47分38秒


 楽古堂さま(つづき)

その意味で、はらぴょんさまの「博識」に『公準』があるというのは、重要なことなのでございます。逆にいえば、『公準』を欠いた「カタログ的知識」のひけらかしへの評価は、今後きびしく問われることになるだろう、ということなのでございます。そして、この点は、ホランドくんが笠井潔について評した、

> 笠井さんに問題があるとすれば、「新世代に「教養主義的権威(=鬼面)」は、もう通 用しない」んだということがわかっていない、という点なんだと思います。

という指摘にもかかわってくる問題なのだと存じます。またその視点から申しますと、楽古堂さまの書かれた、

> もう一つが情報検索を、ワールド・ワイドに可能とする語学力の高さです。ある学生が、「先生の宮崎駿論と同じことを言っている」と、英語の論文を持ってきてくれました。たしかに同じアイデンティティ=クライシスの主題でした。ドイツ人の論文です。ドイツ語が出来るのかと質問すると、英独の翻訳プログラムがあるとの答え。宮崎駿のアニメのファンである彼は、ドイツのサイトに飛んで、そこで英語と独語で意見を交換している。私たちの世代には、できなかったことでした。世界という視野で、何ら気負う事なく活動する世代に期待しているのです。

にもひっかかりを覚えます。つまり、一言でいえば、『ドイツ人の論文』であることに、どれだけの意味があるのか、ということでございます。

単純な話、私は「日本語で書かれた本」も満足には読み切れません。読みたいと思っても、その量 が膨大すぎて、すべてを読むことは物理的に不可能なのでございます。そして、そうした本の中には「ドイツの高名な思想家・哲学者などが著した本の翻訳書」も当然ふくまれております。つまり、なにも無理をしてドイツ語の文献を読まなくても、同じレベル・同じ内容の文献が、日本語で書かれたものとして存在する可能性が極めて高いのでございますね。例えば、楽古堂さまの「宮崎駿」論文のように。

つまり、日本では容易に入手できないような文献や、国内だけでは数が限られている資料については、ネットを介するワールドワイドな情報収集も価値がございますが、逆にいえば、国内に溢れているような情報を、わざわざ外国に求めるのは、外国崇拝的な古い教養主義の残滓でしかないのではないか、ということなのでございます。じっさい、宮崎駿ファンは、日本にこそ無数におりましょうから、宮崎駿を論じたいのであれば、わざわざドイツ人と翻訳ソフトのお世話になりながら、意見交換をする必要はございません。つまり、「ドイツ人の宮崎駿ファンとの意見交換」とは、「宮崎駿」に興味の主体があるのではなく「ドイツ人」という部分に興味があるとしか思えないのでございますね。同じような考えを持つ「宮崎駿ファン」なのであれば、日本人よりもドイツ人と意見交換した方が「様になる」という感情が働いているのではないかと、私には斯様に思えるのでございます。もちろん、こうした感情はごく一般 的なものですから、私はそれを責めようとは思いません。しかし、「ドイツ人と意見交換できるのだから、すごい」的な認識しかないのであれば、それは「博識だから、すごい」というのと同じ、悪しき権威(内実に乏しい権威)主義だと思うのでございます。

つまり、私にすると、楽古堂さまが示された『若者の「やり方」を期待する理由』は、あまりにも「古いくさい価値」の実現可能性に対するもののように思えるのでございます。そして私は、若者に期待するのならば、もっと違った、新しい部分であって良いのではないかと思うのでございます。





( 以下は「負け戦の戦い方(4)」につづく)


負け戦の戦い方(2) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時46分37秒


 楽古堂さま

> 若者の「やり方」を期待する理由 

ホランドくんの『ボクは、塾で直接、新世代を指導しておられる楽古堂さまの、新世代についての実感をおうかがいしたいところです。「今の若者」の特徴について、楽古堂さまはどうお感じになっているのでしょうか?』という「問い」に対する楽古堂さまのご説明、大変興味ぶかく拝読いたしました。
しかし、そのご説明に疑問を感じた部分もございましたので、その点について書かせていただきます。

> たとえば、はらぴょんさんの「やり方」があります。彼は問題の分析に、古今のさまざまな西洋哲学者の考え方を、臨機応変に持ち出してきて活用します。しかし、ある哲学者にのみ傾倒はしません。すべてが等価な道具として、存在しています。現在の知の優れた実例だと思います。今の知的な好奇心の旺盛な若者は、道具としての情報を検索する能力が高いと思っています。ネットも、活用されているのだと思います。電子辞書も先端の物は、数十冊近い辞書が一個に入っています。時雨様の『空の境界』の感想が楽しみな理由です。

まず、『はらぴょんさんの「やり方」』についてでございますが、『彼は問題の分析に、古今のさまざまな西洋哲学者の考え方を、臨機応変に持ち出してきて活用します。』というのは事実にしろ、『しかし、ある哲学者にのみ傾倒はしません。すべてが等価な道具として、存在しています。』というのは違うのではないかと存じます。
つまり、確かにはらぴょんさまは博覧強記で、いろんな思想家・哲学者の考えを『臨機応変に持ち出してきて活用』なさってはおられますが、『すべてが等価な道具』というわけではありません。以前に『現代思想の著作の中で、なにか一冊自分の思想の公準となるものを示せ、と問われた場合、ドゥルーズ=ガタリの『リゾーム』を挙げることになります。』(思想の公準について)と書かれているとおり、はらぴょんさまにも傾倒すべき「特別 な思想や思想家」は存在し、そのうえで幅広く知識を持ち活用なさっているのだと存じます。

ですから、そんなはらぴょんさまを『今の知的な好奇心の旺盛な若者は、道具としての情報を検索する能力が高いと思っています。ネットも、活用されているのだと思います。電子辞書も先端の物は、数十冊近い辞書が一個に入っています。』といった今の若者と単純につなげていいのかというと、私には疑問なのでございます。

以前、ある大学教授が「近ごろの大学生は、ネットで関連資料をかき集めてきて、それをコピー&ペーストすることで、簡単に卒論を書いてしまう」と書いているのを読んだことがございます。つまり、昔なら自分の足で苦労して資料を集め、結果 としては「切り貼り」の域を出ないにしろ、限られた資料を自分なりに読み込み・書き写 して、卒論をまとめたのですが、今の学生にはそういう苦労がないから、そうした作業の過程で学ぶことが少なくなっている。さらに、昔なら学生の掻き集める資料など多寡が知れていたので、専門家である教授にはその卒論の下敷き資料が容易に見抜け、おのずと論文のオリジナリティーも簡単に見抜けたのですが、今ではそれも容易なことでもなくなっている、というのでございますね。

つまり、今の若者が「情報の収集」という点で昔よりも恵まれており、それを活用している者が少なくないというのは事実なのでございますが、それが必ずしもプラスにはなっていないということなのでございます。
情報収集が容易ではない時代であれば、その「博識」や「博覧強記」が「死んだ知識」であったとしても、一般 の尊敬をあつめることは十分に可能でございました。しかし、昨今は「情報量 」だけならば誰にも保証されておりますから、その「情報をどう活用するかの手腕」こそが問われるのでございますね。つまり、「情報量 に溺れない、確たる主体の構築」が重要となってくると思うのでございます。





( 以下は「負け戦の戦い方(3)」につづく)


負け戦の戦い方(1) 投稿者:園主  投稿日:10月26日(火)19時45分28秒

みなさま、本日はホランドくんと『デビルマン』(那須博之監督)を観てまいりました。まず率直なところを申しますと、「意外に普通 だった」といったところでしょうか。事前に聞かされていたのがあまりの悪評だったために、どんなトンデモ映画を見せてもらえるのかと期待しておりましたところ、いかにも安手の日本映画という印象は否めないものの、与えられた条件下でそれなりにまじめに作っている、という印象だったのでございます。もちろん、原作に思い入れのあるファンの場合「あの傑作を、こんなもんにしやがって」というような感想になるのかも知れませんが、原作に思い入れのない私は、逆に「こんなものでしょう」という感じだったのでございます。

たしかに、CGはゲームレベルですし、主人公の演技は素人が頑張ったという感じ。また安易な、有名人のワンカット出演も、悪印象しか残しません。さらにプロの「役者」の演技さえ、しばしば迫力に欠けていたり過剰演技だったりで、素人をフォローする(脇を固める)どころではなく、演技に関して申しますと文句を言えば切りがなく、演出も随所で詰めの甘さを感じさせました。

ただ、私が個人的にうれしかったのは、不動明が胸に赤く「A」のイニシャルの入った黄色いTシャツ、つまりテレビアニメ版でお馴染みのコスチュームも見せてくれたことでございます。はっきり申しまして、このTシャツ、今回の実写 版にはいかにも不似合いなのでございますが、それを承知でテレビシリーズファンへのサービスとして、無理押しで挿入したのでございましょう。そういう点、原作ファンならどう感じるのかわかりませんが、私はこれを素直にうれしく感じたのでございます。

結論的に申しますと、―― 作品としては凡庸の域を出ず、原作の魅力を生かしきれなかったという事実は否定できないしろ、誰がやっても多かれ少なかれ批判は免れなかったろう偉大な(重すぎる)原作を、特に恵まれてもいない製作条件(金と暇をかけずに、有名人の名前で売ろうとした)の下で、それなりに懸命に担おうとしたスタッフを、口を極めて責める気にはならない……といったところでございます。





( 以下は「負け戦の戦い方(2)」につづく)


新規まき直し 投稿者:アーニャ  投稿日:10月25日(月)15時33分31秒

>新しい海なのか?(<Keenさま)

なんだか心細いような書き込みだったけど、私が思うに、本や持ち物を大々的に整理したせいなんでしょうね。一時代の区切り。
で、今は模様替えは一休みして、京極夏彦『狂骨の夢』読んでるようだから、そのうち読了したら、きっとまた感想書きに来ると思うわ。

あ、そうそう。昨日のKeen家の晩御飯はクリームシチューだったんだけど、ちゃーんと「ブッコロリ」も入ってたわよ!(^0^*

それでは皆さま、ごきげんよう。
にゃあ〜♪


『機動天使エンジェリックレイヤー』試論(6) 投稿者:はらぴょん  投稿日:10月22日(金)22時25分8秒

(10)『機動天使エンジェリックレイヤー』の「天使(エンジェル)」は、人間に従属する立場であり、デウスと呼ばれる操縦者の意思が働かなくなると、レイヤーの中ですら、ただの死せる人形となり、倒れてしまう。一方、『ちょびっツ』の「ちぃ」は、中のデータが消去されているとはいえ、自律したAI(人工知能)を持ち、人間と対等な立場に近づいている。つまり、「天使(エンジェル)」よりも、「ちぃ」の方が、デウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)に近いものとなっている。しかし、真にデウス・エクス・マキーナと呼ばれるにふさわしいものとなるためには、人間と置き換わるまでのレベルに達する必要がある。奈須きのこの『空の境界』に登場する魔術師・蒼崎橙子は、蒼崎橙子そっくりの精巧な人形を造り、自身のシミュラクラを増殖させる。その精巧さのレベルは、本物との差異が一切見つけられないほどである。こうして、蒼崎橙子は、オリジナルの蒼崎橙子の特権性を抹消させ、コピーの蒼崎橙子に、コピーの蒼崎橙子をつくらせる。オリジナルの蒼崎橙子はすでに死んでいないのか、あるいは生きているのか、それさえも問題にならないほど、オリジナルとコピーの差異が消失している。ここにおいて、魔術師・蒼崎橙子は、エゴを肥大させ、その魔術的な知のもとにすべてを統べらんとする魔術師・荒耶宗蓮の誘惑に屈することなく、対立することができる。この場合、オリジナルとコピーの差異の消失は、自我の執着からの超越と、死の恐怖からの自由が確保されたことを意味する。蒼崎橙子における複数化する自我は、実存主義的な主体を信じる者には、アイデンティティ・クライシスとして映り、現代における人間主体の解体と分裂を疎外態を反映した姿に見えるかもしれない。だが、問題は、それほど単純ではない。人間存在は、異なるレベルを重層的に生きる。蒼崎橙子における複数化する自我は、魔術師・荒耶宗蓮と対立する超越レベルで開示されるだけで、それ以外の人物と接する際の社会的存在としての蒼崎橙子は、むしろ主体をもった自立した女性として描かれる。
(11)『機動天使エンジェリックレイヤー』には、キリスト教的背景はない。デウスは、「エンジェリックレイヤー」で戦う人形の操縦者以上の意味を持つわけではない。しかしながら、「エンジェリックレイヤー」を最終話まで見終わった者にとって、最初のデウス(神)=操縦者が誰で、その神の子が誰か判るはずである。もともと、デウスとは「エンジェリックレイヤー」の開発者が愛するただひとりの人を呼んだ言葉なのである。それが、「エンジェリックレイヤー」で遊ぶ子供たち全員を呼ぶように、言葉の意味が転用されたのである。最初のデウスこそが、神の子にとってすべてを救済するマリアであることは疑い得ない。

http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/


ご質問:デウス・エクス・マキーナ 投稿者:楽古堂  投稿日:10月22日(金)18時05分19秒

はらぴょん様へ。興味深い世界設定。デウスは神。マキーナは、マシン。つまり機械。エクスは、最近のパソコンの用語でもある、エクゼック(実行)の基。機械仕掛けの神。それは、即、まがい物の人間にならない。この辺りは、ディックのシュミラクラの方が、近い概念でしょう。「天使」がいて「神」がいるのであれば、「神の子」も、その世界には存在するのですか?それとも、「まがい物の神の子」というキリスト教の異端のような発想を、取っているのでしょうか?またマリアは何処に?


僕の批評のやり方・2 投稿者:楽古堂  投稿日:10月22日(金)17時55分53秒

これを基本形にします。そして、この平面 から「登場人物」を「作品」から独立して、三次元の空間に位置させます。実例は『トランプ殺人事件』の小生の解説を、お読みください。あそこでは、天野を「登場人物」として抜き出しています。「作品」からも、「作者」からも「私」からも距離を置くことで、批評の自由度を高めたいと思っています。最近のカオスを意図的に内包させる「作品」にも、有効な方法だといいのですが。質問があればどうぞ。


僕の批評のやり方・1 投稿者:楽古堂  投稿日:10月22日(金)17時48分14秒

時雨様へ。参考までに。頭の中に十文字を描いてください。中央に「作品」を置きます。左に「作者」がいます。「作品」を間にして、右に「私(時雨さん)」がいます。「作品」の下に「社会」があります。上には「読者」がいます。これが楽古堂の批評の際の、基本的な考え方の図解です。横軸が「私的な状況」。縦軸が「公的な状況」。ポイントは「読者」の一人である「私」を、そこから抜き出して、独立させるということです。


『機動天使エンジェリックレイヤー』試論(5) 投稿者:はらぴょん  投稿日:10月22日(金)14時03分53秒

(8)デウス・エクス・マキーナとは、人形であり、人造人間(アンドロイド)であり、ロボットであり、要するに贋物の人間、まがいものの人間である。『機動天使エンジェリックレイヤー』のヒカル・鈴鹿らの「天使(エンジェル)」から、『ちょびっツ』の「ちぃ」へと、このデウス・エクス・マキーナは、人間に従属する立場から、人間と対等な立場へと進化を遂げる。それとともに、ほんものの人間よりも、贋物の、まがいものの人間の方を愛してしまう人間の悲劇までも、作中に描かれることになる。
(9)ほんものよりも、まがいものを愛するとは、サルトルの『聖ジュネ』を想起させる。この泥棒作家ジャン・ジュネの評伝の中で、サルトルはジュネは「存在界」に対して「想像界」を対置し、「存在」に対し「無」を突きつけたとする。「無」とは存在しないものを存在させることであり、ジュネは「美」によって現実世界の壮麗化を図る。ジュネは「泥棒」と呼ばれる世界から、「審美家」に変貌を遂げることで自由への脱出口を見出す。
(9)刊行されたばかりの『夜想』復刊第二号特集Doll(スチュディオ・パラボリカ)は、恋月姫、三浦悦子、秋山まほこ、四谷シモン、吉田良、天野可淡、フローリア・シジスモンディ、やなぎみわ、ルイズ・ブルジョワ、タデウシュ・カントル、土井典、堀佳子、井桁裕子、与偶、清水真理、一央+阿哉、ヤン・シュヴァンクマイエルらの人形を紹介し、この人形の妖しい魅力の世界に誘っている。この雑誌には、斎藤環、森村泰昌、高原英理、鈴木創士らの寄稿もあり、デウス・エクス・マキーナについて考える上で注目される。

http://www.2minus.com/y02_n.html


『機動天使エンジェリックレイヤー』試論(4) 投稿者:はらぴょん  投稿日:10月22日(金)14時01分44秒

(7)『ちょびっツ』における「ちぃ」は、浪人生「本須和秀樹」がゴミ捨て場から見つけてきた人型パソコンであるが、「ちぃ」としかしゃべらない。一見、壊れた人型パソコンのように思われるが、「本須和秀樹」による教育によって、高性能パソコンとしての潜在能力を開花させてゆく。これは、「マイ・フェア・レディ」の再話である。言うまでもなく、「本須和秀樹」の教育は、「ちい」への恋愛感情の発露としてある。「ちぃ」は、AIを有したロボットであり、「本須和秀樹」の愛によって、人間と対等な立場にまで高められる。

http://www.tbs.co.jp/chobits/


『機動天使エンジェリックレイヤー』試論(3) 投稿者:はらぴょん  投稿日:10月22日(金)13時58分17秒

(6)「エンジェリックレイヤー」の操縦者は、デウスと呼ばれ、アニメ版Battle 9は、「歌え!みさき デウスはアイドル!?」(DVDでは、Battle4に収録されている)というタイトルがつけられている。デウスとは、デウス・エクス・マキーナ(Deus Ex Machina、機械仕掛けの神を意味するラテン語)のDeus(神)のことである。「天使(エンジェル)」とはデウス・エクス・マキーナであり、みさき・鳩子・王二郎らの操縦者は、レイヤー内という限定された領域での「天使(エンジェル)」を操る神である。ここでは、「エンジェリックレイヤー」を通 して夢を掴む主体が、人間に置かれていることを示している。

http://avexmode.jp/animation/angelic/angelic.html


新しい海なのか? 投稿者:Keen  投稿日:10月22日(金)11時50分45秒

このところ、どうもここに書き込みできずにいます。
なんだか、怖いような気がするのですよ。
この感触は、楽古堂さまのおっしゃる「新しい海」に対するものなのでしょうか。
それとも、園主さまがコワイとか?3年も通って、ようやく気づいたんだったりして(笑)。

ちなみに、本棚6本の移設をようやく完了しまして、旧・書庫の模様替えにかかりました。
真っ黒になった雑巾に、歳月を感じました。
中井・竹本等のコレクション系の本は、一番日光の当たらないところに(日陰者?/笑)保護配置し、辞書、温泉関係、ミステリ等はそれぞれ分類してまとめ、スッキリ並べたら、なんだか学生時代の勉強部屋に戻ったようです。
いざ漕ぎめやも、といけるといいのですが。


ラスニーコフの末裔(2) 投稿者:時雨  投稿日:10月22日(金)02時53分41秒

>楽古堂様

丁寧なご挨拶、ありがとうございます。
最近になってこちらに書き込ませていただいている大学生の時雨です。
期待していただけるのはとても嬉しいのですが、なかなか進まず・・・
とりあえず次の「ファウスト」が出る(12月)までには仕上げるつもりなので、気長にお待ちください。
百戦錬磨の皆様の目に耐えうる物になるかは自信がありませんが、精一杯やらせていたきます。

>ホランド様

『デビルマン』ですか!
永井豪にはあまり興味のない僕ですが、あの作品の噂は以前から耳にしていましたよ。
聞いた話では、このデビルマンの企画は元々『「モーニング娘。」主演による「セーラームーン」の実写 映画』として出発したそうです。それが東映TV部のTVシリーズ企画とぶつかり(土曜の朝にやってたあれです)立ち消え、その後適当なタイトルを物色しているうちに「デビルマン」になったとか。

>つまり、笠井さんに問題があるとすれば、「新世代に「教養主義的権威(=鬼面 )」は、もう通用しない」んだということがわかっていない、という点なんだと思います。

それです。実際「空の境界」の解説も若い世代にはかなり不評だったようですし。
まあ、登場人物の名前を延々間違えているんじゃ仕方がないか・・・

>ところで『TYPE−MOON』というのは、奈須きのこさんのことなんですか? 初歩的な質問でごめんなさい。

ええと、『TYPE−MOON』と言うのは奈須きのこと武内崇(奈須氏の旧友でイラストレータ)が所属するゲーム会社(原型は同人サークル)のことです(http://www.typemoon.com/main.html)。
説明不足で申し訳ありません。



ラスニーコフの末裔(1) 投稿者:時雨  投稿日:10月22日(金)02時24分42秒

>園主様

>なるほど。しかし、時雨さま自身おっしゃられているとおり、笠井潔が従来の「自分の方法」で、新世代の作家の作品を批評することそれ自体は、何ら間違いではないと存じます。

>ですから、笠井潔の(新世代作家評の)問題点は、「方法論の古さ」ではなく、「結論の押しつけ」にあるのではないでしょうか。つまり、新しいものを、自分なりに、真摯に思考しよう(=理解しよう)とするのではなく、お得意の理屈を捏ねる(レトリックを駆使する)ことによって、自己の理論の範疇に回収してしまおうとする「政治性」こそが、笠井潔の批評の本質的問題点だと思うのでございます。

正直な所、僕は不勉強なので園主様が問題とされる「結論の押しつけ」というのがよくわからないんですよ。おそらくこれが笠井潔が媚びているように見えない原因なんだと思います。
たとえば「空の境界」の解説におけるを読んでも、園主様なら即座にご自身の経験と知識に照らし『空虚に巣食う魔(7)〜(9)』のような検証が出来てしまうんですが、僕にはそれが出来ないのです。だから笠井氏の評論に多少恣意的な部分があっても、「そういうものなのか」で丸め込まれてしまうことがあるんです。
時々引き付け方が強引に感じることはありますが。
そういう意味では、この「花園」がとてもありがたい存在となっています。

>それにしても、本日書かせていただきました私の「佐藤友哉」評は、いかがなものでございましょう?

実に興味深いものでした!

一番面白かったのは『動物化する世界の中で』を繋げて来られた事です。なるほど、東氏は「佐藤友哉後援会長」を自認するほどのユヤタン(ネットでは佐藤のことを親しみを込めこう呼ぶそうです)・ファンで個人的にもお付き合いがあるそうですから、彼が巻き込まれたトラブルが『クリスマス・テロル』の終章執筆の一因となったのはありえる話ですね。
ですが、それでも

>結局私は、この作品を読むことにより、佐藤友哉の「トリックなどパクればいいんですよ」といった発言は、先行世代である『笠井潔を理論的支柱とする「新本格」ミステリの一派、つまり「本格ミステリの正統的後継者」を自認する、現在の「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』を意識しての、意図的な挑発発言だという見解を採ることになりました。

とおっしゃられるのには全面的に賛成できないんですよね・・・
この発言が座談会と言う比較的飾らない場でなされたと言うことが理由なのですが、その背景には佐藤自身が抱える根源的な問題があると考えます。
そおもそも、僕には佐藤が『本格ミステリ作家クラブ」の面々』をそれほど意識しているようにはどうしても思えなんですよ。
彼自身「ミステリにはさほど興味がない」と発言しているように本格ミステリと言うジャンルそのものの意識が希薄です。それゆえ元々「本格ミステリ作家クラブ」に関心も知識もなかったでしょうし、もっと言ってしまうとデビューした時も「ミステリの世界に飛び込んだ」と言う認識すらなかったのではないのでしょうか。
だから、この終章を書いた段階でも『本格ミステリ作家クラブ」の面々』に対する敵意や反感はもちろん持っているのでしょうが、それは彼の作品を「本格ミステリでない」と言う以外の理由(例えば「小説として未熟である」、または単に「なんとなく気持ち悪い」など)で批判した人々へ抱いているそれと等価なものなのではないかと思えるのです。
逆に言ってしまえば、佐藤は自分を認めてくれるのであれば『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』であろうと誰であろうとそれほど悪い顔をしないのではないのでしょうか。それはおそらく『「本格ミステリ作家クラブ」の面 々』に限らないのでしょうが。
彼からはどこかそういった悪い意味での上昇志向というか、自己顕示欲があるように思えます。
これがおそらく園主様おっしゃる所の「自身の弱さ」の根源となっている所なのではないか、と思いますが・・・
ああ、また上手くまとまらない・・・
この辺に関してはいずれきちんとした形にまとめます。


新しい海のこわさ 投稿者:楽古堂  投稿日:10月21日(木)23時13分42秒

過日、学生と吉田拓郎の『イメージの詩』を熱唱しました。「古い船をいま 動かせるのは/古い水夫じゃないだろう/なぜなら古い船も 新しい船のように/新しい海に出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海のこわさを」。「古い水夫」として、この古い歌を歌っている自分に気が付きました。「新しい水夫」である彼らへの、応援歌のつもりになっていました。彼らとは、東京のいわゆる「有名私大」を狙っている若者たちのことです。確実に「新しい海」に、僕は恐怖感を覚えています。


『機動天使エンジェリックレイヤー』の魅力とは? 投稿者:賢ちゃん  投稿日:10月21日(木)23時00分37秒

自分の場合は、まずアニメ有きでしたので、
原作、そしてノヴェラゼーションの方には、
残念ながら、あまり関心が向かないのです。
レイヤーという特種空間の中でのみ、ゼウスと意志の疎通が図れるエンジェルという存在は、
いっちゃんが作中で述べる通り、バトルをすること。即ちエンジェリックレイヤーの行動範囲事態が「遊び」であり、「楽しいからこそバトルを行う」という描写 が、作品のあちらこちらに散りばめられています。
その伝で云えば、作者の本当の狙いは、みさきちとヒカルの成長物語りとミステリー風味のストーリー展開よりも、寧ろ「エンジェリックレイヤー」を通 して、ゼウス同士の意志の疎通を図るという、極めて人間臭い方向性にあるのではないかと考えます。

★はらぴょんさま

「『機動天使エンジェリックレイヤー』試論」楽しく、そして興味深く拝読いたしました。
自分の場合、そこまで深く考えてはいなかったので、新鮮な気分になりました。
これからもよろしくお願いしますm(__)m。

★ホランドさま

先日はお疲れさまでしたm(__)m。
楽しい一日が過ごせたと喜んでおります。

>どうです。賢ちゃんも『デビルマン』を看取りに行きたくありませんか?(笑)

あのポスターやフィギヤーを見ただけで、もうお腹いっぱいです(笑)。
『デビルマン』の死に水を汲み取るには、自分では役不足でしょう。
って云うか、ぶっちゃけ観る価値ないでしょうしね。
自分の場合、どちらかと云いますと「怒り」より「しらけ」が沸沸と…


若者の「やり方」を期待する理由・2 投稿者:楽古堂  投稿日:10月21日(木)11時16分31秒

もう一つが情報検索を、ワールド・ワイドに可能とする語学力の高さです。ある学生が、「先生の宮崎駿論と同じことを言っている」と、英語の論文を持ってきてくれました。たしかに同じアイデンティティ=クライシスの主題でした。ドイツ人の論文です。ドイツ語が出来るのかと質問すると、英独の翻訳プログラムがあるとの答え。宮崎駿のアニメのファンである彼は、ドイツのサイトに飛んで、そこで英語と独語で意見を交換している。私たちの世代には、できなかったことでした。世界という視野で、何ら気負う事なく活動する世代に期待しているのです。


若者の「やり方」を期待する理由 投稿者:楽古堂  投稿日:10月21日(木)09時07分51秒

ホランド様へ。たとえば、はらぴょんさんの「やり方」があります。彼は問題の分析に、古今のさまざまな西洋哲学者の考え方を、臨機応変に持ち出してきて活用します。しかし、ある哲学者にのみ傾倒はしません。すべてが等価な道具として、存在しています。現在の知の優れた実例だと思います。今の知的な好奇心の旺盛な若者は、道具としての情報を検索する能力が高いと思っています。ネットも、活用されているのだと思います。電子辞書も先端の物は、数十冊近い辞書が一個に入っています。時雨様の『空の境界』の感想が楽しみな理由です。


堕ちる悪魔(4) 投稿者:ホランド  投稿日:10月21日(木)02時32分15秒


 時雨さま

正直僕には笠井氏が「『新世代に媚びる』ような無理のある理解の示し方をしている」ようには見えないんですよ。
> いえ、もしかしたら本人はそういったオタクジャンルに手をかけることで延命を図っているつもりなのかもしれませんが、それが当の「新世代」に受けているかというと、とてもそうとは思えないのです。
> 実際僕の知り合いのTYPE−MOON信者は「空の境界」の解説には興味がないようでしたし、「ファウスト」誌での対談に至っては「TYPE−MOON自体には興味があるけどインタビュアーが痛すぎてとても読めない」とまで述べていましたから。

 このあたりが世代較差の問題なんでしょうね。

 笠井さんとしては当然、見え透いたかたちで媚びることなんかできないから、「きちんと批評したうえで、適切な評価を与えた」んだという形式を(旧来の読者の目を意識して)採ろうとします。また、そのことで、新世代の読者(や作家)にむけて「私は、君たち若い世代の、良き理解者だよ。(前世代に誤解されがちな)君たちの真価は、私が、前世代にもわかる形式で語って、保証してあげよう」という(保護者的)意図を伝えようとしてるんでしょうね。
 ところが、新世代は、前世代が認める(権威的)形式自体に価値を見いだしえないから、そんなことされても別 段感謝なんてしないんでしょう。むしろ、そういう「やり方」は(自分たちの期待するものを)ハズしている(読み違えてる)と感じるだろうし、そうだとすれば、その「ハズしたやり方」が意義深いものなんだなんてトンチンカンに思い込んでいるらしい笠井さんの態度は「痛い(勘違い)」としか評価しえないんだろうなとも思います。

 つまり、笠井さんに問題があるとすれば、「新世代に「教養主義的権威(=鬼面 )」は、もう通用しない」んだということがわかっていない、という点なんだと思います。


 ところで『TYPE−MOON』というのは、奈須きのこさんのことなんですか? 初歩的な質問でごめんなさい。



 楽古堂さま

> 若い方の「やり方」を拝見したいと、49歳の楽古堂も切に思います。頑張ってください。

 ボクは、塾で直接、新世代を指導しておられる楽古堂さまの、新世代についての実感をおうかがいしたいところです。「今の若者」の特徴について、楽古堂さまはどうお感じになっているのでしょうか?



 はらぴょんさま

> 『機動天使エンジェリックレイヤー』試論

 賢ちゃん向けのご投稿ですね(笑)。――残念ながらボクは、原作もアニメも知らないんですが、賢ちゃんの感想は如何に?



 園主さま

 それにしても『デビルマン』の評判は悪いですね。それでも、観に行きます?





ではでは、みなさん、おやすみなさい。


堕ちる悪魔(3) 投稿者:ホランド  投稿日:10月21日(木)02時31分11秒


 AOIさま(つづき)

 園主さまは「大阪人の類型的イメージ」について『一種の「オリエンタリズム」みたいなもので、(誉められているのでしょうが)そのままでは承服しがたいところある』と書かれていましたが、この言葉の背後には、自身「オタク」でも「ひきこもり」でも「大阪人」でもない人に、安易に「わかったつもりになってほしくない」という気持ちがあったんだと思います。

 例えば、ヨーロッパの文明人が、「東方」の「野蛮人」に人間本来の姿(理想)を見いだす、というのも「オリエンタリズム」のひとつのパターンです。彼らは、そういう意味で、「東方世界」に憧れ、そこに生きる人たちを最大限に賛美するんですが、でも、これは、いちめん「蔑視(優越感)の裏返し」でしかないとも言えるんですね。
 で、このことは、おかしな「理想(偏見)」を押しつけられる側には自明なことなんですが、押しつける方は「善意」でやっているものだから、自身の「負の側面 」になかなか気がつかないんです。実際、パレスチナ人であるエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で、精緻な分析を示して、西欧世界の「東方への憧れ」には、「東方」の文化と人間を「同じ人間のもの」あるいは「同じ人間」として見ようとはしない、文化帝国主義的な傲慢さが隠されていると指摘した時、それはたいへんショッキングな指摘として、西欧文化圏に一大旋風を巻き起こしました。つまり、西欧世界において、東方文化を高く評価する人々は、自身を「東方のよき理解者」だと信じ切っていたということなんですよね。でも、類型化されたイメージを評価するというのは、その対象の本来の姿を軽んずることでもあるんです。

 例えば、日本人が外人さんに「ゲイシャ、フジヤマ、スキヤキ! ニッポン、サイコー!」とか本気で誉められても、うれしくはないでしょう? あるいは「女性は(男性より)優しくて、慎ましい(から素晴らしい)」と誉められても、「ちょっと待ってよ」ってことになるはずです。

 つまり「そういう人も現実にいる(そういう側面も現実にある)」というのと、「だから○○はこうなのだ」という評価の間には大きな隔たりがあるのに、それを無視して「個」と「概念的集合(国・地域・家族・会社あるいは性別 等)」を短絡させてしまうという過ちが、(他人事ゆえにか)けっこう頻繁に見られるんですよね。
 もちろん、ある「概念的集合」のなかに、「ある傾向性をもった個」が、他の「概念的集合」よりも多く存在すれば、その「集合」は「一般 に、そういう傾向性をもっている、可能性が高い」とは言えるでしょう。でも、だからといって「あの集合に属している人は、こういう傾向を持っている」というような言い方をすると、それは間違いになるし、それに当たらない人の「個」を蔑ろにしていることにもなります。つまり、くり返しますが、こうした間違った評価の問題性は、その評価が、好意的評価か否か(主観的にどうなのか)には関係ない、ということなんですね。

 だから、ボクが言いたいのは「類型的イメージ」を追認する場合は、慎重でなければならない、ということなんです。みんなが「なるほど」と思いやすいものの中にこそ、抜きがたい「偏見」や「無自覚な類型化」というものが潜んでおり、それはたいがい「差別 」を助長するものなんです。





( 以下は「堕ちる悪魔(4)」につづく)


堕ちる悪魔(2) 投稿者:ホランド  投稿日:10月21日(木)02時29分32秒


 Keenさま

> 園主さまから頂いた、乙一さんの『失踪HOLIDAY』『きみにしか聞こえない』(角川スニーカー文庫)読みましたよ。文章はうまいし読み易く、内容もなるほど人気があるわけだなあ、という感じ。以前、ここでも紹介されてた「傷―KIZ/KIDS―」のアサトくんの(美)少年ぶりが、いかにも園主さま好みですねー♪引用箇所にしおりがはさんだままになってましたよ(笑)。
> おもしろかったし、充分楽しめたのですが……それで終わっちゃって、後に残らないような気がするのは、これがジュブナイルであり、私がすでにターゲットを越えてしまっているからなのかな〜。でも、想像してたよりは、ずっと良かったです。ありがとうございました!(^0^*

 『「傷―KIZ/KIDS―」のアサトくんの(美)少年ぶりが、いかにも園主さま好み』だから、園主さまが批評を書かれたと思い違いなさったんでしょうね(笑)。

> 昨日から、日テレ系でアニメ版『ブラック・ジャック』が始まりました。最近は実写 版もありましたが、やはり人間では造形に無理がありすぎるので、アニメの方がいいですね。原作より柔らかく、優しい感じのBJです。監督が手塚真でした(笑)。
> BJは好きなので、内容は知ってても、つい見てしまいますねえ。ピノコもカワイイ♪(^0^*
> 以前、ネットアニメで配信されてた時は、ピノコの声が宇多田ヒカルだったんですよ!それがいかにも話題優先、売らんかなでイヤだったんですが、今回は水谷優子さんって、ちゃんとした声優さんのようなので、安心しました。

 賢ちゃんへのレスに書いたとおり、安易なアイドル起用の人気取りが、『デビルマン』では最悪の結果 を招いたようですね。
 ああいう起用の仕方は、たぶん監督の意向ではなく、もっと上の方の(営業的)意向なんでしょうが、この監督さん、これで多くのファンの恨みを買ったようですから、今後浮ばれないかもしれないなあー・・・。

 ちなみに『ハウルの動く城』については、主役のハウルを演じたキムタクの演技に、宮崎駿監督が激怒した、という噂も伝わっています。
 たしかに、人気者の器用は話題づくりにはなりますが、それで映画を観に行く人がどれほど増えるのか、ボクにはとても疑問なんですが、この傾向、どうにかなりませんかねえ?



 AOIさま

> へー!目からウロコ。
> フィギュアファンは、こんなふうに、女性のパーツを組み立てて、自分好み(可愛い顔にグラマラスな肢体をもった)の美少女をつくっているというわけね。
> そりゃあ、楽しい作業でしょうけど・・・(笑)。←エッチ!
> アイドルに憧れるということからもさらに離れて、他者である生身の女から、どんどん遠くなっている。
というより、アイドルに肉体を持たせるために美少女フィギュアがあるのか。
> 別に、責めるわけではないですよ(笑)

 それは偏見ですよ(笑)。いかにも図式的な「オタク」イメージをなぞっているだけ。

 ふつう、男性は誰でも女性が好きだし、ふつう、美人や可愛い女性やグラマーが好きなんですよね。だから、ごく一般 的な男性は、自分ではなかなか(実物を)手に入れられないそういう女性を「雑誌のグラビア」に見いだすんですが、マンガやアニメなどが好きな人は、そうしたジャンルの中にも、そういうタイプの女性(性的イメージ)を見いだそうとするし、プラモや人形などの3次元造形物が好きな人は、そうしたものの中に、そういう女性(性的イメージ)を獲得しようとする。ただそれだけなんですよ。だから、それは、それほど特別 なことじゃありません。

 なんでこんなことを言うのかというと、これは園主さまが引っ掛かっておられた「大阪人の類型的イメージ」の問題とも重なるんですが、たとえAOIさま個人が好意的な評価をなさっているつもりでも、こうした類型的評価は、「差別 と偏見」を助長することに繋がりがちだからなんです。

 例えば、昨日、東大阪で発生した「両親殺し事件」について、テレビのワイドショーなんかでは「ひきこもり男、両親を殺害!」みたいな扇情的な見出しをつけて報道してたんですが、こうした(くり返される)「無神経な表現」の背後には、通 俗的で類型的な(視聴者の)「ひきこもりのイメージ」に媚びようとする意思がほの見えます。つまり「精神障害者は危ない」という(統計学的な裏づけの無い)一般 的イメージに媚びるかたちで「ひきこもり」(も一緒くたに)を扱っていて、その実際について真摯に考えようというスタンスが、まったく感じられないんですよね。





( 以下は「堕ちる悪魔(3)」につづく)


堕ちる悪魔(1) 投稿者:ホランド  投稿日:10月21日(木)02時27分7秒

 みなさん、こんばんは! 台風23号が各地に大きな被害を残しながら、東日本へと北上中です。大阪でもまだ強い風が吹いています。でも、この書き込みをアップする頃には、暴風域から外れているかも知れません。ともあれ、みなさんのご無事を祈っております。





 賢ちゃん

 「WORLD HOBBY FESTIVAL KOBE19」に続いての『エクソシスト・ビギニング』、お疲れさまでした(笑)。
 ボクと園主さまは、近日中に『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観に行く予定ですが、そのあとは「手抜き作」「駄 作」「原作を冒涜する作品」といった評判の高い『デビルマン』を観に行く予定です。そのあとは、口直しに宮崎駿の『ハウルの動く城』という感じかな。

 それにしても『デビルマン』(那須博之監督)の評判は、ものすごいですよ。ひとことで言えば「CGはゲームレベルで、役者はアイドル器用の大根ぞろい。とても見られたものじゃない」という評価。

 YAHOO! MOVIES「ユーザー作品レビュー」には、3543件もの投稿があって、平均点が5点中の2.8点ってことなんですが、その中味を見ていくと、点数自体をつけていない人(つまり、実質0点だけど、平均に入っていない)が大半で、観たうえで得点をつけた人の多くが1点。4点5点をつけている人は、おおむね映画を観ていないんですね。つまり『期待』点をつけてる。しかも、この投稿がどうにも胡散臭いんです。つまり、映画の公開が始まったばかりなのに、ほっといたらトンデモない点数になりそうだ、というんで「映画(配給)関係者が投稿してるんじゃないか?」という疑いが拭い切れないんです。

 映画化に期待していた『デビルマン』ファンは、ほぼ全員、怒っているか、嘆いているか、脱力してしまっているかで、いままで「ハリウッドからのオファーを何度も断ってきた」と公言してきた原作者の永井豪に対しても、これはどういうことなのかという批判の声が挙がっています。
 また、ここの書き込みによると、映画『デビルマン』のオフィシャルサイトの設置されていた掲示板も、その否定的評価の多さに、何の前触れもなく、あっという間に閉鎖されてしまったとか。

 こうした手厳しい評価は、匿名の一般人だけにとどまらず、映画批評家の前田有一さんも、自分のサイト『超映画批評』にアップした、『デビルマン』についての批評文を『ポスターだけはいい映画』と題し、10点中2点を献上したうえで、次のように締めくくっています。

『 まあ、色々と書いてきたが、人間たまには本気で怒ったりするのも健康にはいいらしい。原作ファンにとってはそうしたウェルネス効果 を得られる作品だから、1800円を投資してみるのも悪くはない。アニメ版のファンや、初めて『デビルマン』に触れる人には、せっかく興味を持ったなら永井豪の原作を読んでから出かけた方がよろしいとアドバイスしておく。
 映画『デビルマン』の上映劇場に入ると、もれなくサル芝居と素っ頓狂なストーリー、ボブ・サップらゲスト出演者のみっともない姿が見られる特典がついてくるが、入り口で冨永愛のポスターを見てから帰れば多少は腹の虫も収まるのでたぶん問題はない。さあ、今週末はみんなで『デビルマン』を見に行こうではないか! 』

 どうです。賢ちゃんも『デビルマン』を看取りに行きたくありませんか?(笑)





( 以下は「堕ちる悪魔(2)」につづく)


◆ 『機動天使エンジェリックレイヤー』試論(2) 投稿者:はらぴょん  投稿日:10月20日(水)22時34分3秒

(3)『機動天使エンジェリッ