●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2004年11月下
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思ったこと(下) 投稿者:Keen  投稿日:11月30日(火)23時32分17秒

しかし、しをんさんが指摘するまでもなく、この「五代×一条」のラブラブぶりは、一部(当然×××界)では基本というか常識というか、まあその、大前提となっておりまして、とりわけ、しをんさんも引用している一条さんのセリフ「一生の不覚だ……」(※第2話ラストシーン)などは、全くもってストーリーには無関係であり、「そっちウケ」をねらったエピソードとしか言いようがありません!
従来のパターンであれば、激烈な戦闘シーンを終えてクウガが勝利を収めたところで話が終わってもいいところを、あえてくっつけてあるんですね〜。
朝焼けの屋外。夜中の戦闘中に負傷して失神していた一条さんを、そっと胸に抱いて座っている五代くん。一条さんが意識を取り戻すと、「オハヨ、一条さん」「なぜ、おまえの胸に……」「ま、いいんじゃないスか」「一生の不覚だ……」と言いつつ、五代くんの胸に顔を伏せ、もっと体を預けてもたれかかる一条さんは、次の回の冒頭では、病院のベッドの上で目を覚まし、五代くんが書き残して行ったメモを見るところから始まります。
もうおわかりですね。一条さんのケガは、たとえ一晩だけだったとしても、入院を要するほどのものであり、五代くんは胸に抱きかかえてなどいずに、さっさと救急車を呼ぶべきだったのです。一体何なんでしょう、この設定は!
ちなみに、これはクラウス兄も同意見であり、決して私(&しをんさん)の目に邪なフィルターがかかっていたがゆえの感想ではないことを、お断りしておきます。
なお、この文章は記憶のみで書いていますので、上記の描写やセリフに若干の間違いがあるかもしれませんが、概ねこのようなイメージではあります。

う〜ん、DVD借りて来ようかな……


思ったこと(上) 投稿者:Keen  投稿日:11月30日(火)23時31分49秒

>石ノ森ヒーローの「悲愴」とも言うべき孤独感は、三浦しをんが紹介している『仮面 ライダー クウガ』のそれとは、やはりどこか違うように、私には思えてなりません。三浦しをんは、『クウガ』について、『五代くんが一条さんに、「見ててください、俺の、変身!」』といったシーンを紹介した後、『クウガは愛がない状態で変身すると、憎しみの心にとらわれて邪悪な戦士になっちゃうんだぞ!』と書いております。――たしかに「愛」が無い状態で、過剰な力を手にすれば、人は『邪悪な戦士』になってしまう可能性が高い。しかし、「優しく見守ってくれる存在」を期待できず(時には憎悪すら向ける人々のために)、それでも戦い続けたのが、石ノ森ヒーローではなかったか、と私は斯様に思うのでございます。

>三浦しをんの語る「仮面ライダー」論もあながち間違いだとは言えないでしょうし、私からすれば石ノ森章太郎的ではない側面 を持つ『仮面ライダー クウガ』も、それはそういうものとしてありであり、興味深い作品だとも存じます。
しかし、三浦しをんが紹介していたような側面をだけに着目し、石ノ森章太郎の危険性をも孕んだ「引き裂かれた思い」を看過することになれば、これは大きな誤解ということにもなりましょう。

しをんさんも、『サイボーグ009』等の石ノ森章太郎作品は大好きだそうで、かなりの量 を読んでいるようですね?(←園主さまの方が詳しいはずなので/笑)
その上での「しをんのしおり」だったのでしょうが、さすがに園主さまとはファン歴の長さと深さの違いが出た、というところでしょうか。え?誰も年の功だなんて言ってませんよ(笑)。

>戦いたくはない。けれども戦いは避けられない。その時に、君はどうするのか? また、自分しか戦う者はいないと覚悟して、皆のために武器をとった君を、その皆が非難した時、君はそんな人たちへの「愛」のために、真に命を賭けることなどできるのか。皆が、君の戦いを「愛」をもって優しく見守ってくれれば良し、だがそうではない時、君はいったい何のために戦うと言うのだろう?

実際、クウガも当初は警察内部・マスコミともに「未確認生命体」の仲間として扱われており、人間サイドの味方だとはなかなか認知されませんでした。(これは、『アギト』もそうでした)
平成ライダーたちも、そのあたりはちゃんと「石ノ森魂」を踏まえて製作されていたのでしょうね。なお、シリーズ3作目の『龍騎』から、私はどうも違和感を覚えるようになり、あまりTVを見なくなってしまいました。『クウガ』なら、もう一度じっくり見てもいいな、と思うのですが。

>『邪悪な戦士』にならないための支えとは、本来、他人から与えられる「愛」ではなく、自身に内在して、自身を導いていく「愛」なのではないでしょうか。そうでなければ、人は他人を見ることによって『邪悪な戦士』に堕ちていく――と、私には斯様に思えるのでございます。

しをんさん&園主さま両者の視点から私が思ったこと。
五代くんを「愛の戦士」たらしめたのは、「見守ってくれる一条さんの存在」ではなく、「一条さんに見ててほしい」と願った「五代くん自身の想い」だったのではないでしょうか。あ、もちろん、一条さん「だけ」じゃないでしょうけどね〜(笑)。
つまり、「愛される」ことよりも、「愛する」ことの方がより大きなプラスの力を生むのではないかな、と。


はじめまして 投稿者:凡臣  投稿日:11月30日(火)09時38分45秒

突然すみませんが、ここの文章の何篇かを外国語に訳して、他の所で公開したいですが、よろしいでしょうか。

メールで連絡したほうが礼儀でしょうが、日本語が下手で、ちゃんとした手紙文を書く自信があまりなくて、こちにしました。


セルロイドゴシック(8) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時28分1秒


 時雨さま(つづき)

>> 『ヴァンパイヤー戦争』第5巻

もう何というか、講談社の魂胆もここまで見え透いているとむしろ清清しいですね。
> そんなに角川書店と張り合いたいのか・・・

私としては「まだまだ」でございまして、キキがネコ耳をつけているとか、注射器とカルテを持って看護婦さんコスプレをしてるとかいった表紙でも出れば、素直に「参りました」と言わせていただきましょう(笑)。


 『トランプ殺人事件』は、単行本の後、最初の新潮文庫が笠井潔(探偵小説研究会)、次の角川文庫が田中幸一(園主さま)で、今回の創元推理文庫が大内史夫(楽古堂さま)。

 この組み合わせは呉越同舟というか・・

と申しますか、ここで面白いのは、竹本健治の、――どのような党派にも「属さない」と言うか、「取り込まれない」と言うべきか ―― そういう「捉えどころのなさ」、「ぬらりひょん」性なのでございますよ(笑)。もちろんこの場合、「中立性」などという政治的な言葉も、竹本健治のあり方からは遠いのでございます。

たしか、笠井潔の『天啓の器』でも、天童くんは「わかりましぇーん」とか「とほほ…」とか言っていたように存じますが、竹本健治の捉えどころのなさは、そこに描かれたほどわかりやすいものではございません。また、だからこそ、党派政治のエキスパートである笠井潔は、自己の術中におちない竹本健治を目の敵にして、その存在の特異性を否定したがるのでございますよ(笑)。

> それは実に面白そうですね。以前笠井潔に傾倒していたころ「天啓の器」を読んでそれで「ウロボロス」シリーズの概略は知っていましたが、今ならまた違った楽しみ方が出来そうです。

もちろん『概略』は概略でしかございませんから、ぜひ「ウロボロス」をお読み下さいまし。
笠井潔は「構築」の作家でございますが、竹本健治は基本的に「脱構築」の作家でございますから、きっと何らかの発見があるものと存じます。


なお、投稿名の誤記については、「過去ログ」収録時に訂正させていただきます。



 ホランド

>  でも、今日もいろいろと本を買い込んでおられましたね。ボクが読みたい本もチラホラあって、また読まれて面 白かったら、お貸し下さいね(笑)。

スタージョンの『不思議のひと触れ』(河出書房新社)を読んでから、昨日買った『MVSH』を読むことにするよ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


セルロイドゴシック(7) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時27分3秒


 時雨さま

 それにしても、仮面 ライダークウガの話題をここで聞くとは!
> 以前少し書きましたが僕は平成仮面ライダーシリーズがとにかく好きで、もちろんクウガもリアルタイムで全話見ています。
> つまり、僕にとっては笠井潔や奈須きのこ以上に重要な存在であるといっても過言ではないのです!
> というわけで、皆様から見れば「浅い」かもしれませんが、よろしければ僕にも少しばかりクウガについて語らせていただけますか?

何度も申しておりますとおり、何なりと「お好きなこと」についてお語り下さいまし。
「好きこそ、ものの上手なれ」という言葉もございますし、私自身「需要があろうとなかろうと、俺は書きたいことだけを、書きたいように書く」という方針を貫いてきたという点で、非凡な人間なのでございますから(笑)。
それに私自身、「ミステリの変容」と同じような意味合いで「仮面ライダーの変容」にも興味がございます。京極堂ではございませんが「この世には、時代と無関係なものなど、何もないのだよ」ということで、私の興味は、基本的に無制限なのでございます(笑)。


基本的には、「甘ったれ」の「(幼い)反撥屋」なのではないでしょうか。

> 手厳しいですね。まあ、僕も同感ですが。

特に手厳しく書きたいわけではないのですが、この表現がいちばんぴったり来るから、その表現を避けなかっただけなのでございます。憎くてこういう書き方を選ぶほど、私は佐藤友哉(そのもの)に興味はございませんから(笑)。

> ふむ・・・でも、それは『絶対服従の上下関係」的な雰囲気』というより単に園主様自身がお書きになっている、「先輩と後輩」「年長者と若輩者」というものがプライベートな面 で出ているのではないでしょうか?
> 『ファウスト』の主力作家は大半が太田編集長より年下なわけですし、その程度の礼儀は人間関係であってしかるべきだと思うのですが。

もちろん、若手作家の側からすれば、それは当然なのでございますが、『ある業界人』がこのように感じたのは、たぶん太田編集長の態度に、通 常の編集者以上のものを感じたからではないでしょうか。

例えば私は、太田編集長の元上司にあたる宇山日出臣氏と何度か同席して、彼の綾辻行人らに対する態度を側で見ておりますが、宇山氏は年齢的にもずいぶん上で、すでに編集者として一家をなした人でもあり、なにより綾辻らのデビューを陰で支えた人でもありながらも、綾辻ら(若くともその力量 を認めた作家)に対し(ては)、決して「対等」以上の物言いはせず、機会があれば彼らを持ち上げている、という印象をうけました。そして、私はこれが「普通 の文芸編集者」の態度であり、今で言う「ライトノベル」である「ジュブナイル(ノベル)の世界」では「編集者がずいぶん威張っている(作家を人間扱いしない)」という業界裏話を、以前友人から聞かされた際には、「そういう世界もあるんだなあ」と感心した記憶があるのでございます。

つまり、そういう事例が「業界裏話」として伝えられるということは、そうした事例が、文芸出版業界において一般 性をもたない、特殊例外的なものであるということを示しており、したがって宇山氏のような(作家を立てながら、締めるところは締めるという)態度こそが、「文芸編集者の普通 の姿」だと考えるのでございますね。

そんなわけで、先の『ある業界人』が、太田編集長と『ファウスト』作家の関係に感じた違和感も、作家の側に原因があると言うよりは、むしろ太田編集長の態度に原因があった可能性が高いと、私は斯様に考えるのでございます。





( 以下は「セルロイドゴシック(8)」につづく)


セルロイドゴシック(6) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時24分39秒


 古田さま

> ご指摘、ありがとうございます。
> 投稿して良かった、図星を突かれるっていうのはコレだなあと実感しました。
> 何か、自分のうちにであれ周囲の人のうちにであれ、看過できない矛盾に対して、
> 突っかかっては討ち死にしてきたのは、私に誠実さがないかも知れない以前に、私
> が未熟であったからだと。
> 労働については、自分の「覚悟」がどれほどのものか、もっと省みようと思います。
> 自分の美意識を研ぎ澄ます、ということも。

素直に受け取っていただけ、とてもうれしく存じます。
私は、決して特別なことの語れる人間ではございませんが、ただ普通の人なら心の中では思っても、それを口にして「あえて嫌われる危険をおかすこともあるまい」と口を噤むことについても、批評家としてバカ正直に、直截に語ってしまうところが、……取り柄と言えば取り柄なのでございましょうね(笑)。

私は最近、竹内好の言葉を引用して「負けることを考えないようになった段階で、すでにその人は負けている」ということを強調しました。つまり「勝つことしか考えられない人間。あえて負ける戦いをも選べない人間は、その本質において敗者である」といったことを強調したのでございますが、これは何も「正義のためになら負けても良い」ということではございません。
私はその点で、古田さまの『突っかかっては討ち死』するという「バンザイアタック(=特攻死)」的なやり方に、疑問を呈したのでございます。

たしかにキャプテン・ハーロック(松本零士)も言ったとおり『男なら負けるとわかっていても、死ぬ とわかっていても 戦わなければならいときがある』と、私も考えます。しかし、その一方で「正義は負けてはならない(勝たねばならない)」とも考えるのでございます。なぜなら、正義が負ければこの世は闇だからでございます。
自分一個が自己の正義に殉じて死ぬのは、それはそれで満足でございましょう。しかし、彼はいったい誰を守るために戦ったのか? 彼の正義とは、所詮、彼一個の観念でしかなかったのか?
もし、彼の戦いが「誰かを守りたい」と思っての戦いであったのなら、彼は「その人(々)」のために、簡単には負けられないし、簡単に死ねはしないのでございます。

たしかに、正義を通すためには、負け戦を覚悟しなければならない時もございます。しかし、――むざむざ敵の思いどおりに、良いように殺されはしない。たとえ勝てないまでも、徹底的に敵を苦しめ抜いてやる――という気迫が、力を持たぬ 弱者には是非とも必要なのでございます。

そうした「しぶとさ」「強さ」が、古田さまの『突っかかっては討ち死』という態度には見られません。ですから、これからはそういう自己満足の自己完結に終るのではなく、本当に自分が望むものに一歩でも近づくよう、努力していただきたいのでございます。そして、その望むものを勝ち取るためには、やはりそれ相応の「実力」が必要なのでございます。
つまり、私が「大学院3年間の猶予」に期待したいのは、そうした「戦うための力」としての「知」を磨いていただきたい、ということなのでございます。

今、なんの準備もないまま、その「心意気」や「覚悟」の証明のためだけに、肩を怒らせて現実の戦場に飛び込んだところで、たいがいは百戦錬磨の敵によって、キュッと捻られて終りというのが、おおかた予想される始末でございましょう。ですから、今は敵と戦うための力をつけていただきたい。いずれ強敵の前に立った時には、ニッコリ笑ってからカウンターパンチをかますくらいの芸当を、今のうちに身につけておいて欲しいのでございます。

もちろん、力をつけるということは、自分が敵の側(=強者の側)に近づくことでもございますから、ダークサイドに取り込まれる怖れも増す、ということでございます。強者の側に立って、弱者から搾取するだけの力を持ちながらも、気持ちだけは弱者の側にありつづけるような者こそが、本当に弱者のために戦える人間となるのでございます。
つまり、先日来の「仮面ライダーとチェ・ゲバラ」の話ともつながりますが、私たちが目指すべきは「愛にみちびかれた力量 のある戦士」なのでございます。





( 以下は「セルロイドゴシック(7)」につづく)


セルロイドゴシック(5) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時23分41秒


例えば、不死を熱望する一族の掟に反し、自殺を試みた結果「身体は十全なのに、意識の戻らない状態(=植物状態)」に陥った人物を、作中の浦登一族の者は『死ぬ ことも生きることも許されず、未来永劫、生と死の狭間を彷徨いつづけなければならない』悲惨な『惑い』の状態であり、それは『罰』として与えられたものである、と大仰に評します(下巻P334)。そして、そんな一族の掟に反した結果 の「植物人間」を地下室に放置するのが、彼らの与える罰であり、それは二重に「残酷な行為」だ、ということなのでございますが、――こんなロマンチックな発想は、現実の過酷さを知らないからこそ「ああ残酷だ、悲惨だ」と語りうる程度のものに過ぎないのでございます。

すなわち、現実の「脳死・臓器移植」問題に取り組む小松美彦の『「脳死・臓器移植」の本当の話』(PHP新書)を読み、―― 脳死者がメスを入れられた時に「のたうちまわる」という事例報告や、それを避けるための「麻酔処置の一般 化」といった知られざる事実の存在。「植物人間」は「意識が無い」なのではなく、単に「意思表明不能状態」であるに過ぎないのではないかという疑義の存在。さらには、そうした事実を知りながら「新鮮な移植用臓器の確保」のために、「死の基準」を恣意的に(三徴候死から)「脳死」に変更した人たちの実在や、その基準をさらに「植物状態にある生者」にまで拡大しようと画策する人たちの実在 ―― といった「過酷な現実」を知った者の目には、綾辻行人が『暗黒館の殺人』のなかで、「不死への熱望に憑かれた一族」のものとして語る「死生観」は、あまりにもナイーブで、いっそ『子供っぽいオバケ趣味』の域を出ない、としか映らないのでございます。
ですから、なまじ現代の医者など登場させず、作中人物に「死の哲学」など語らせなければ、古典的な「子供っぽいオバケ趣味」の作品として、この物語は自己完結し得たのかも知れません。ですが、なまじ「現実」を導入しながら「現実を見ない」という半端さのゆえに、ここでも「ゴシック」としての徹底性を欠いて、いかにも「ぬ るい」状態を惹起せしめてしまったのでございます。

つまり、今の綾辻行人の問題点は、自身の書いているものが、所詮は「子供っぽいオバケ趣味」や「子供っぽいパズル趣味」の域を出ないものである、という充分な自覚を欠き、あるいはそうした自覚に徹する覚悟の不充分さにあるのだと存じます。中途半端に何か「意味深いもの」を書いているつもりでいながら、それでいて現実と対峙し、それを乗り越えるほどの覚悟も持たないものだから、結局はどっちつかずの中途半端なものになってしまっているのでございます。

もちろん、その水準に応じた読者は少なくないにしろ、ともあれ私は、綾辻行人に「現実を乗り越える」方向での徹底性を、期待したりはいたしません。それは短編集『フリークス』におけるフリークスの描写 と比べて、本作におけるフリークスの描写が、何ら深化を見せていないことから、作家本人にその意思が無いのであろうと理解したからでございます。したがいまして、綾辻行人には「シンプルに切れの良いミステリの佳品」か「ゴシック趣味の範囲内で、徹底的にそれに淫したゴシックロマン」を書いてほしいと存じます。そうした方向だけが、結果 として、読むに値するものを産むと考えるからでございます。





( 以下は「セルロイドゴシック(6)」につづく)


セルロイドゴシック(4) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時22分52秒


つまり、綾辻行人の『暗黒館の殺人』は、ミステリとして見た場合、「冗漫で自己満足的」に過ぎるのでございます。しかし、本作を「ゴシック小説」と見た場合、「こういうのもありだろうな」とは思えるのでございます。
――ただし、それでも弱点は残るのでございます。

まず、綾辻行人は、本作における独特の「過剰な伏線(=過剰な偶然)」が、「偶然に寄りかからない」というミステリのミステリたるところを「破綻させかねない」要素だと自覚しながらも、そこに「シリーズもののミステリでは、主人公が何度も(=作品毎に)殺人事件に巻き込まれるという過剰な偶然を認めているという前提(段階)からして、すでに過剰な偶然というものを、暗黙のうちに承認しているのだ」という「メタ・レベルの視点」を導入することで、本作『暗黒館の殺人』に「作中における超常的要素」を持ち込むことを正当化するのでございます。しかし、これは「論理階層のレベル」を混乱させた詭弁にすぎず、決して説得的なものではございません。要は、そんな言い方で済むのなら、そもそも「ミステリというお約束の世界」は成り立たない(けじめがつかなくなる)よ、ということになるのでございます。

つまり綾辻は、『暗黒館の殺人』という「ミステリ」であるべき作品に、無理に「ゴシック」の要素(=過剰性)を持ち込むことにより、この作品を「ミステリ」としては「不徹底な作品」にしてしまい、その「不徹底さ」や「ぬ るさ」において、逆に「ゴシック」としても「半端なもの」にしてしまっている、ということなのでございます。
「ゴシックミステリ」とは、本来「ゴシック」の要素を盛り込んだ「ミステリ」であるべきなのですが、『暗黒館の殺人』の場合、「ゴシック」を持ち込むことにより、「ミステリ」の要素を殺し、不完全な「ミステリ」の形式において、「ゴシック」としても中途半端なものになってしまっている、ということなのでございます。

そして、こうした「ゴシックとしての半端さ」は、この点に限った話ではございません。
『暗黒館の殺人』は、不死への熱望に憑かれた一族の悲劇を描いたミステリ形式のゴシックロマンなのでございますが、この「不死への熱望」が、いかにも「ちゃち」なのでございます。高原英理がいくら否定してみたところで、現実にはたいがい「現実逃避」的で『子供っぽいオバケ趣味』の域を出ない「ゴシックハート」――の持ち主の一人である綾辻行人は、「フリークス」の描き方についても「紋切り型」を喜んで受け入れておりますし、「不死の哲学」についても「子供っぽいオバケ趣味」の域を出ておりません。





( 以下は「セルロイドゴシック(5)」につづく)


セルロイドゴシック(3) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時21分10秒


                   ○

さて、綾辻行人の『暗黒館の殺人』でございますが、本作を「ゴシック」の観点から見る前に、まずはごく当たり前に、「ミステリ」の観点から見てみたいと存じます。

         (※ 一部ネタを割りますので、未読の方はご注意下さい

総じて言えば、まずまずの出来で、心配したほどつまらない作品ではございませんでした。――と申しますのも、この作品については、事前にあまり芳しくない評判ばかりを聞かされていたからでございます。

本作には、これまでの「館シリーズ」の「総集編」的な意味合いが、作者によって意識的に付与されており、そうした点で長大化した作品だと申せましょう。もちろん、そうした意味でたいへん手間がかかっており凝っているとも言えるのでございますが、逆に「総集編」らしく、目新しさに欠ける作品だとも言えるのでございます。

メイントリック(最大の仕掛け)は、綾辻行人の「いつものパターン」で、江南が十角塔から転落するシーンで、私はその仕掛けの存在に気づいてしまいました。この作品には、このメイントリックほど大掛かりではないにしろ、同種の欺瞞が大小いくつも仕掛けられており、その意味でたいへん凝ってはおりますものの、しかし、そのいずれもが解明シーンを待たずに「読めてしまう」という弱さもございます。――無論これは、私がそれなりにミステリを読んできた人間であり、さらには綾辻の「館シリーズ」を全作読んでいるせいかも知れず、若い読者やこの作品で初めて綾辻行人を読む読者ならば、素直に欺かれ大いに驚きうるのかも知れません。しかし、前述のとおりこの作品は、「総集編」的な意味合いを与えられた作品でございますから、「館シリーズ」初読の読者を排除しはしないにしろ、これまで同シリーズを読んできた旧来の読者を強く意識した作品であるのは間違いのないところなのでございますから、そうした読者に簡単に仕掛けを見破られてしまうというのは、やはり大きな弱点であるとしか言えないのでございます。

そしてここで問題となってくるのが、作者の『ゴシック者』意識でございます。この作品に感じられる弱点は、作者の「ゴシック」意識と深くつながっているように、私には思えるのでございますね。

もちろん「無気味な館」というのは、それ自体明らかに「ゴシック」趣味なのでございますが、特に本作で問題となるのは、「館」そのものに限らず、その「くどい」さ、「数的な過剰性」なのでございます。
前述のとおり、本作には同種の欺瞞が、大小幾重にも仕掛けられており、またメイントリックにおいては、くどいほどの数の伏線が張られ、もはやそれは「不自然」の域に達しております。その結果 、本書の終盤では、「種明かし」と言うよりは「伏線明かし」とも呼ぶべきものが、数十ページにわたって、蜿蜒とくりひろげられるのでございます。そして、これを読まされた時、たしかに「よく作り込んでるな」とは思うものの、同時にこの身も蓋もない「ひけらかし」めいたやり方を「野暮」だと感じたというのも、また否定できない事実なのでございます。

本来、ミステリでは「くどい説明」はマイナス要因なのでございます。たしかに名探偵たちは、最後の謎解きの場面 で滔々とあるいは長々と、自身の謎解きを語って見せるのでございますが、この際、謎解きのポイントとなるのは、見落とされがちな「ちいさなキーポイント」であるべきなのでございますね。多くの関係者が見過ごした小さな「異物」を、名探偵が独自の視点からひと突きしてやると、そこから隠されていた巨大な機構が音を立てて動きだし、今まで見えていたものとはまったく様相の異なったその本性(本来の姿)が、皆の眼前で明らかにされる。――ミステリにおける「鮮やかな謎解き」とは、斯様なものであるべきなのでございます。

ところが『暗黒館の殺人』の謎解きは「ここが伏線であった、あそこも伏線であった」という説明に終始して、およそ「鮮やかさ」や「切れ」といったものが感じられないのでございます。なるほど「よく作り込まれているね」と関心はできますものの、優れたミステリ特有の魅力には、まったく乏しいのでございます。
では、綾辻行人がこうした「くどさ」において示してみせたものとは何なのか。
――思うにそれこそが、綾辻行人の「ゴシック」性であり、「ゴシック」のくどい、しつこい、ゴテゴテした「過剰趣味」なのでございます。





( 以下は「セルロイドゴシック(4)」につづく)


セルロイドゴシック(2) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時18分18秒


この苛立ちは、なにも高原が『澁澤さん・中井さんは今も私の師です。』(『記憶測定』2004/09/05)などと語る人だからではございません。私自身、大西巨人を『心の師』だと呼んでいるのですから、他人のことを言えた義理ではないし、気持ちの上で他人を師と仰ぐのは、「われ以外、皆わが師なり」の昔から、何ぴとにおいても自由であり、他人がとやかく言うべき筋の話ではないのでございます。

じっさい、私が高原英理に注目した理由は、彼が澁澤龍彦・中井英夫の選考による「第一回幻想文学新人賞」の受賞作家であったからに他なりません。「選評」の手厳しさから、受賞作は読まなかったものの、それでも「何らかの才能はあるのだろう」と思い、高原が評論家としての活動を始めた後に刊行した3冊の評論書『少女纐纈』『無垢の力』そして今回の『ゴシックハート』はすべて購入し、後の2冊は読んだのでございます。

しかし、まあまあそれなりに見るべきところもあった(程度の)『無垢の力』に比べても、今回の『ゴシックハート』はぬ るすぎました。はっきり申しまして、ハードカバーで読まされるようなものではなく、新書の書き下ろしで十分という内容だったのでございます。「3冊目にして、すでにコレか…」というのが私の偽らざる感想で、以後この評論家の書くものを読む必要はない、とまで確信させられたのでございます。

高原英理は、本書のなかで自身を『ゴシック者』であると断じて、今の流行便乗組(仮性ゴシック者)とは一線を画しているつもりのようでございますが、「ゴシック」というものの意味合いを「反世俗」「反現実」意識というものに求めるのであれば、昨今大量 発生したと思しき「ゴシック」ファンも、多かれ少なかれ本物の『ゴシック者』であり、そこに「真性」も「仮性」もありはしないのだと申せましょう。要は、その「ゴシック」性がどこまで骨がらみに徹したものか、その徹底性にしか「真性」と「仮性」の差異など求めようもないのでございます。
たとえばそれは、死の床にあっても自身のスタイルを崩さなかった澁澤龍彦のダンディズムであるとか、自身の生活をも破綻させてしまった中井英夫の「反地上」意識とか、そうした目に見えるほどの徹底性を保持してこそ、「流行りに関係のないゴシック」性だと言えるのでございましょう。その点、所詮は「ちょっとしたポーズ」や「自己申告」の中にしか、その「ゴシック」性を確認しえないような高原であっては、流行りのゴスロリにはまって一時的に「これが私の故郷!」などと思ってはみても、しばらくすれば厭きて去ってしまうような「ゴシック」ファンと、本質的にはなんら選ぶところはないのでございます。

したがいまして、このどうしようもなく「ぬるい」、世俗と決別する覚悟を欠片も持たない「世俗性」を、「ああゴシックですね」と認められるような者は、高原自身の定義にしたがって言えば、とうてい『ゴシック者』とは呼びえないのでございます。そういう人たちよりは、よほど私の方が「ゴシック」的だと申し上げても構いませんが、もとより「私は私である」で十分なのでございます。

『ゴシック者』などと呼び合って、鼻持ちならない選民意識を保証しあっているような「お仲間」には、もとより「孤高」の覚悟を期待するだけ無駄 でございましょうから、せめて『SF者(=SFオタク)』たちが持つ「自嘲の意識」くらいは持っていただきたいものだと存じます。つまり、――「私は、単なるゴシックオタクなのかも知れない」という自己批評性くらいは保持しろと言いたいのでございます。





( 以下は「セルロイドゴシック(3)」につづく)


セルロイドゴシック(1) 投稿者:園主  投稿日:11月29日(月)23時16分34秒

みなさま、私、つい最近、高原英理の長編評論『ゴシックハート』(講談社)綾辻行人の『暗黒館の殺人』(講談社ノベルス)を読んだのでございますが、この両者に共通 するのが、最近流行りの「ゴシック」というスタイルでございました。

ここでことさら『最近流行りの』とつけたのは、もちろんこの2冊がともに「ゴシックと言うよりも、ゴスだよね」と(綾辻行人風に)言いたくなるほど、「ゴシック」としては物足りないものだったからでございます。――いいえ、もともと私は「ゴシック」というスタイル(あるいは観念)については、ほとんどこだわりを持っておりませんでしたから、帯に、

 『 ゴシックでなければ生きられない。

     死と暗黒、耽美と残酷に彩られた
     ゴシックの全貌を、
     澁澤龍彦・中井英夫の後継が描く
     初の本格「ゴシック」評論。      』

とある高原の『ゴシックハート』を読むまでは、そのような不満を持つことも絶えてございませんでした。
私のイメージでは、「ゴシック」とは「子供っぽいオバケ趣味」の域を出ないもの(=深みのない嗜好)でしたので、そのイメージに比して不満に感じるようなことは、理の当然として、ありえなかったのでございます。

ところが、高原の(『本格』かどうかは知らず)「ゴシック」評論『ゴシックハート』は、『ゴシック者』の「自家宣伝」と言うか、ゴシック者の「釣り書(=縁談などの際に取り交わす身上書)」の域を出ない、何とも「ぬ るい」評論であったため、私は「ゴシックが、仮に高原の言うほどのものであったとすれば、この評論書およびその著者は、とてもゴシックの名に値しない」と、読みながら随分イライラさせられたのでございます。
だいたい『ゴシック者』などという「お仲間」言葉を、自嘲も込めずに使ってしまうセンスが、いかにも「流行に流されていることに無自覚な者の軽薄さ」を感じさせ、とても「ゴシック」だなどとは思えなかったのでございます。

たしかに、高原には何がしか「ゴシック」に惹かれるセンスがあるのでございましょう。しかし、「ゴシック」のマイナー性を選民意識にすり替えてなされた、徹底的に「私」的で「言い訳」がましい「ゴシック」論の自己賞讃的定義からすれば、高原程度のゴシックは、ゴシックのなかでも通 俗化した、徹底性に欠ける、「下」の部類に属する「ゴシック」。つまり、私の造語による「セルロイドゴシック」(ちょっと懐かしいが、基本的に安っぽくて、硬質性に欠けるゴシック=ゴシック性のそこなわれたゴシック)だということになるのでございます。

同著で高原自身が書いておりますとおり、ゴシック的感性が、現実的な世俗主義を嫌悪し、自ずとそこから距離をおこうとするようなものなのであれば、この「他者による承認願望」に満ち満ちた著書の存在自体が、そもそもの矛盾だと申せましょう。高原自身もそのことにはなかば自覚的なのでございますが、所詮は「世俗との妥協」のなかでしか自己実現のできない半端な『ゴシック者』には、「こうするしかなかった」ということなのでございましょうか。しかし、そうした「言い訳がましい妥協」の仕方自体が、すでに「俗物」の証でしかないのだという厳しい自覚を、高原はコレっぽちも持ち得ません。「ゴシック」の規定において、他者としての「世俗」に対しては無限に厳しくとも、自己の世俗性は「ゴシック者の仮の姿」としてどこまでも容認してしまうのでございます。

そんな著者の著作でございますから、「12章+エピローグ+あとがき」からなる本書の「第12章」では、いかにも「世俗的おつきあい」の範囲をしめすような『ゴシック者』の名簿が、「巻末広告」のごとく駆け足で示され、「エピローグ」では自殺した『ゴシック者』の思い出話が、神話化を意識して思わせぶりに語られます。――つまり、私からすれば、本書はあまりにも「世俗的なもの欲しさ」に満ちていて、うんざりさせられるのでございます。じっさい、いくら私が毒舌だと言っても、ここまでこき下ろすのは、年に一度あるかないかなのでございますから。





( 以下は「セルロイドゴシック(2)」につづく)


伝説は塗り替えるもの(3) 投稿者:時雨  投稿日:11月29日(月)01時01分12秒

>楽古堂様

ご無沙汰しております。ホランド様へのレスでも書きましたが、解説に目を通 すのはずいぶん先になりそうです。
申し訳ありません。


>古田様

はじめまして。最近こちらに出入りさせていただくようになった、時雨と申します。
大学院への進学ということは、僕の二学年上なのですね。
ここでは初めての同世代として、よろしくお願います。

それでは皆様、今夜はこの辺で。


伝説は塗り替えるもの(2) 投稿者:時雨  投稿日:11月29日(月)00時56分55秒

>ホランド様

>ゲームの世界では、シナリオライターが単なる企画提供者に止まる場合も少なくない

すみません、書き方が悪かったですね。これはゲームの作品性がシナリオライター以外の存在(プロデューサー、プログラマーなど)に負う部分が大きく、シナリオライターは彼らの企画を実際の文章に起こすだけの作業屋に過ぎないケースがあるということです。
つまり漫画での「原作者付き漫画」と同じような事態を指しているわけです。

>TYPE−MOONの場合、奈須きのこさんの占める位置はもう少し大きいから、完成したゲームにおける奈須きのこの「作家性」は、すべてではないにしろ、かなり大きいんだということですね

僕が見た限りでは。とりあえずこの辺も拙論で詳細に説明します。

>ところで、竹本健治さんの『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』の、いわゆる「ゲーム3部作」は読まれましたか?

申し訳ありません、忙しくてまだどれも読んでないんですよ。
最近読んだ本はフランス革命かタロットカードにかかわるものだけで・・・

>「ゲーム3部作」の解説

なんだかどこかで聞いたような名前ばかりですね(笑)それにしても

>『トランプ殺人事件』は、単行本の後、最初の新潮文庫が笠井潔(探偵小説研究会)、次の角川文庫が田中幸一(園主さま)で、今回の創元推理文庫が大内史夫(楽古堂さま)。

この組み合わせは呉越同舟というか・・

>この「ウロボロス3部作」には、上記の解説者などが「実名」で登場してきます。つまり、現実そのままを描いているわけではありませんが、現実を色濃く反映した奇想小説になっているというわけです。

それは実に面白そうですね。以前笠井潔に傾倒していたころ「天啓の器」を読んでそれで「ウロボロス」シリーズの概略は知っていましたが、今ならまた違った楽しみ方が出来そうです。

>しをんさんのエッセイ読みましたよ。あんなラストだなんて知らなかったので、がぜん興味が湧いてきました。最近、評判のかんばしくない「平成仮面 ライダー」だけど、ひとまず『クウガ』『アギト』『龍騎』までは面白いという評判も聞きますから、機会があればぜひ見てみたいと思います。ただ全49話というのは、なかなかきつい数字ですけどね(^-^;)。

是非ご覧になってください!
49話見る時間がなければ、劇場映画版だけでも!劇場版は基本設定さえ抑えておけば楽しめる番外編ですから。
個人的なお勧めは「劇場版仮面ライダーアギト PRIJECT G4」、「仮面ライダー龍騎(TVシリーズ)」、そして「劇場版仮面 ライダー555 パラダイス・ロスト」です。
中でも「パラダイス・ロスト」は以前話題になった劇場版デビルマンと同じテーマをはるかに上手く料理していますから、あの苦行を通 過されたホランド様たちの良い口直しになると思いますよ。


伝説は塗り替えるもの(1) 投稿者:時雨  投稿日:11月29日(月)00時55分57秒

時雨です、ご無沙汰しておりました。
少々大学のほうが立て込んでおりまして、レスが遅れてしまいました。
それにしても、仮面ライダークウガの話題をここで聞くとは!
以前少し書きましたが僕は平成仮面ライダーシリーズがとにかく好きで、もちろんクウガもリアルタイムで全話見ています。
つまり、僕にとっては笠井潔や奈須きのこ以上に重要な存在であるといっても過言ではないのです!
というわけで、皆様から見れば「浅い」かもしれませんが、よろしければ僕にも少しばかりクウガについて語らせていただけますか?

>園主様

>基本的には、「甘ったれ」の「(幼い)反撥屋」なのではないでしょうか。

手厳しいですね。まあ、僕も同感ですが。

>ある業界人が、太田編集長と若手作家の(見掛け上の)関係を「体育会系で気持ち悪い」と言っておりました。「編集者と作家」と言うよりも、「先輩と後輩」「年長者と若輩者」そして「作家にしてやった者と育ててもらった者」といったニュアンスが感じられ、文系人間が嫌う「絶対服従の上下関係」的な雰囲気があったようでございますね。

ふむ・・・でも、それは『絶対服従の上下関係」的な雰囲気』というより単に園主様自身がお書きになっている、「先輩と後輩」「年長者と若輩者」というものがプライベートな面 で出ているのではないでしょうか?
『ファウスト』の主力作家は大半が太田編集長より年下なわけですし、その程度の礼儀は人間関係であってしかるべきだと思うのですが。

>どのように印象が変わったのでしょうか? 忌憚のないところをお聞かせ下さいまし。

いえ、単に一つにまとまって読みやすくなったというだけです。申し訳ありません。

>『ヴァンパイヤー戦争』第5巻

もう何というか、講談社の魂胆もここまで見え透いているとむしろ清清しいですね。
そんなに角川書店と張り合いたいのか・・・


SOS、スカイキャプテン出動せよ! 投稿者:ホランド  投稿日:11月28日(日)23時56分52秒

 みなさん、こんばんは! 今日は園主さまと『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』(ケリー・コンラン監督)を観てきました。とってもよかったですよ!

 『ハウルの動く城』と同じ映画館ビルでやってたんですが、予想どおり『ハウル』を観に来たお客さんが、座席指定のチケット交換をするために、ビルの正面 入り口横にある窓口から前の道路に行列をなしており、『スカイキャプテン』を含むほかの映画は、急遽、チケットの交換をそれぞれの階の上映フロアの入り口に切り替えて対応していました。
 それで、ボクの予想では「そんなに入らないだろうな」と思っていた『スカイキャプテン』は、予想どおりのガラ空きでした。昨日から公開が始まって、最初の日曜だっていうのに、お客さんの入りは3割くらい。明日からの平日の上映が思いやられる状態でした。

 でも、『スカイキャプテン』は、ボクが最近観た中では、文句なしにいちばん楽しめた映画でしたよ。レトロフューチャーを描いたオマージュ色の強い作品だから、自立した個性を主張する傑作というわけじゃないんだけど、監督の撮りたかったものが素直にストレートに表現されていて、とっても好感が持てるし、ビジュアル的にも期待以上の出来でした。スチールなんかを見ると、CGで描いた背景やメカなんかが、人物と溶け合っていないんじゃないかって心配する向きのあるでしょうけど、そんな心配はいりません。動いている映画の中では、最初の10分間ほどで馴れちゃって、ほとんど違和感はないんです。

 『スカイキャプテン』は、『キル・ビル』(クエンティン・タランティーノ監督)と同様、先行作品とそこに残り香する「古き良き時代」への「憧れ」を直截に表現した作品です。でも、『キル・ビル』がふた昔前のB級アクション映画へのオマージュ作品だったのに対し、『スカイキャプテン』の方は半世紀近く前のSF映画・小説・コミックなどへのオマージュを込めた作品で、好みの問題になっちゃいますが、ボクとしては、レトロロマンの香気ただよう『スカイキャプテン』の方に惹かれるものを感じました。
 コンラン監督の次作は、エドガー・ライス・バローズ原作の『火星のプリンセス』だとか。バローズのヒロイックファンタジーにはあまり興味がないんだけど、映画なら楽しめそうに思います。

 ――それにしても、「レトロロボット」や「輪っか光線銃」や「モールス信号」や「マッドサイエンティスト」なんが、とっても良かったなあー。最近、古いSFにはまり気味のボクには、たまらない魅力に満ちた好品でした。みなさんにも、ぜひぜひ観てもらいたい映画です。





 古田さま

> 園主さまの言葉は、余計なお世話どころか、私の中に響きを残すものでした。
> ホランドさまが紹介してくれた本を読むのが楽しみです。
> 読んでみて、感想をまとめましたら、お目汚しになるかも知れませんが、またここに投稿してみようと思います。

 ええ、いろんな本をたくさん読んで、それを血肉にし、来るべき本舞台にそなえてください。「生きるための力としての知」そして「血のかよった知」―― 園主さまが期待したのも、そういうことだと思いますから。

 ボクが紹介した本だけじゃなくて、古田さまのお薦め本とかもご紹介下さいね。うちはジャンルを問いませんから、どうぞご遠慮なく。
 本のご感想、楽しみにしております。また気軽にお立ち寄り下さいね(^-^)。



 園主さま

 今日はありがとうございました。
 でも、今日もいろいろと本を買い込んでおられましたね。ボクが読みたい本もチラホラあって、また読まれて面 白かったら、お貸し下さいね(笑)。

 あっ、それから、さすがに『仮面ライダー』を語らせると熱いですねー(笑)。
 ――そんな園主さまの『仮面ライダー』への想いを、みなさんに知っていただくために、ぜひこちらを、とアシストしておきます(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


蛾は台風を起こしたい 投稿者:古田  投稿日:11月27日(土)22時27分0秒

>園主さま

ご指摘、ありがとうございます。
投稿して良かった、図星を突かれるっていうのはコレだなあと実感しました。
何か、自分のうちにであれ周囲の人のうちにであれ、看過できない矛盾に対して、
突っかかっては討ち死にしてきたのは、私に誠実さがないかも知れない以前に、私
が未熟であったからだと。
労働については、自分の「覚悟」がどれほどのものか、もっと省みようと思います。
自分の美意識を研ぎ澄ます、ということも。

>ホランドさま

園主さまの言葉は、余計なお世話どころか、私の中に響きを残すものでした。
ホランドさまが紹介してくれた本を読むのが楽しみです。
読んでみて、感想をまとめましたら、お目汚しになるかも知れませんが、またここ
に投稿してみようと思います。
ああ、その後は、部屋の床に積んである智恵の塔を片付けにかからなくっちゃ。


されどわが友(6) 投稿者:園主  投稿日:11月26日(金)18時47分11秒


 アーニャ

> アリョーシャったら、せっかく笠井さんの文庫の宣伝(?)するんなら、画像もご紹介すればいいのに。

> あ、それとも、わざとわからないようにして興味を持たせ、書店で確認したならば「ついでに買っとこうかな……」という効果 を期待したんだったりして?
> ごめんあそばせ。

アシスト、ありがとう。
いや、お察しのとおり、売れてくれれば良いと思ったんだよ。読んでもらえば、講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』が「(JAROに通 報しても良い)表紙と中身は関係ない本」だという私の主張を、確認してもらえると思ってね(笑)。



 ホランド

>  デイヴィッド・リンチの『エレファントマン』のニュープリント上映、大阪では20日からじゃなかったんですね。もうすこしで無駄 足を踏むところでした。日程がはっきりしたら、また声をかけてくださいね。

東京では20日からで、大阪での上映も決まってるんだが、日程の方はまだ未確定で、たぶん来年になるだろうという話だったよ。その前に、まだ見ていない『イレイザーヘッド』のDVDを見て、『ロスト・ハイウエイ』ももう一度みておこうか?





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


されどわが友(5) 投稿者:園主  投稿日:11月26日(金)18時46分13秒

 Keenさま(つづき)

たとえば、私が大好きな『サイボーグ009』('80)の主題歌『誰がために 』(作曲/平尾昌晃・歌/成田 賢 )の作詞は、石ノ森章太郎本人によるものでございますが、それは次のようなものとなっております。


   吹きすさぶ風がよく似合う
   9人の戦鬼と人のいう

   だが我々は愛のため
   戦い忘れた人のため
   涙で渡る血の大河
   夢見て走る死の荒野
   サイボーグ戦士 誰がために戦う
   サイボーグ戦士 誰がために戦う

   葬いの鐘がよく似合う
   地獄の使者と人のいう

   だが我々は愛のため
   戦い忘れた人のため
   闇追いはらう時の鐘
   明日の夜明けをつげる鐘
   サイボーグ戦士 誰がために戦う
   サイボーグ戦士 誰がために戦う

   だが我々は愛のため
   戦い忘れた人のため
   涙で渡る血の大河
   夢見て走る死の荒野
   サイボーグ戦士 誰がために戦う
   サイボーグ戦士 誰がために戦う


この歌詞にもあるとおり、彼らを『9人の戦鬼』とか『地獄の使者』などと呼ぶのは、まぎれもなく『反戦と平和への想い』を語る『戦い忘れた人』たちなのでございます。

つまり、石ノ森章太郎のヒーローたちは、いつも戦いを厭い平和を求めながらも、自分に与えられた異形の身体を、悪と戦うために与えられたものとして受け入れ、避けられない戦いに身を挺し、人々の無理解と誹謗の中、『血の大河』を涙で渡り続けたのでございます。


また『仮面ライダー』の(いくつ目かの)エンディング・テーマ『ロンリー仮面 ライダー』(作詞/田中守・作編曲/菊池俊輔・歌/子門真人)は、作詞こそ石ノ森章太郎本人ではないものの、勇ましくあるべき子供向けの主題歌では語れない、石ノ森ヒーローの内面 を歌っております。


   荒野をわたる風 ひょうひょうと
   ひとり行く ひとり行く
   仮面ライダー
   悲しみを 噛みしめて
   ひとり ひとり 斗う

   されどわが友 わがふるさと
   ひとりでも ひとりでも
   護る 護る 俺は 仮面ライダー

   木枯らし吹き荒れる ひょうひょうと
   ひとり行く ひとり行く
   仮面ライダー
   悲しみを 乗り越えて
   ひとり ひとり 斗う

   されどわが友 サイクロン
   爆音あげろ サイクロン
   斗う 斗う 俺は 仮面ライダー


これらの歌詞に現れた石ノ森ヒーローの「悲愴」とも言うべき孤独感は、三浦しをんが紹介している『仮面 ライダー クウガ』のそれとは、やはりどこか違うように、私には思えてなりません。三浦しをんは、『クウガ』について、『五代くんが一条さんに、「見ててください、俺の、変身!」』といったシーンを紹介した後、『クウガは愛がない状態で変身すると、憎しみの心にとらわれて邪悪な戦士になっちゃうんだぞ!』と書いております。――たしかに「愛」が無い状態で、過剰な力を手にすれば、人は『邪悪な戦士』になってしまう可能性が高い。しかし、「優しく見守ってくれる存在」を期待できず(時には憎悪すら向ける人々のために)、それでも戦い続けたのが、石ノ森ヒーローではなかったか、と私は斯様に思うのでございます。

三浦しをんの語る「仮面ライダー」論もあながち間違いだとは言えないでしょうし、私からすれば石ノ森章太郎的ではない側面 を持つ『仮面ライダー クウガ』も、それはそういうものとしてありであり、興味深い作品だとも存じます。
しかし、三浦しをんが紹介していたような側面をだけに着目し、石ノ森章太郎の危険性をも孕んだ「引き裂かれた思い」を看過することになれば、これは大きな誤解ということにもなりましょう。

戦いたくはない。けれども戦いは避けられない。その時に、君はどうするのか? また、自分しか戦う者はいないと覚悟して、皆のために武器をとった君を、その皆が非難した時、君はそんな人たちへの「愛」のために、真に命を賭けることなどできるのか。皆が、君の戦いを「愛」をもって優しく見守ってくれれば良し、だがそうではない時、君はいったい何のために戦うと言うのだろう?

エルネスト・チェ・ゲバラは、

『甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。愛のない革命家なんて、考えられない。』

と申しました。
『邪悪な戦士』にならないための支えとは、本来、他人から与えられる「愛」ではなく、自身に内在して、自身を導いていく「愛」なのではないでしょうか。そうでなければ、人は他人を見ることによって『邪悪な戦士』に堕ちていく――と、私には斯様に思えるのでございます。





( 以下は「されどわが友(6)」につづく)


されどわが友(4) 投稿者:園主  投稿日:11月26日(金)18時38分37秒


 Keenさま

> 小説家&エッセイストの三浦しをんが、ネットで毎週書いてる読書エッセイ「しをんのしおり」で、今週はなんと、『仮面 ライダークウガ』がとりあげられました!(^0^*

> NHKの『新撰組!』でオダギリジョーに入れ込んで、とのことですが、作品の本質に踏み込むなかなか深い内容となっておりますので、特撮ファンの方は、ぜひご覧下さいませ。
> 私も、クウガは今でも大好きですよぉ〜♪(^0^*
> あのエンディングテーマは、もしカラオケに参加する機会があったら歌いたいけど、入ってるんだろうか?

「しをんのしおり」、『時流に反していまさらへんしーん!』読ませていただきました。

『 名ぜりふ、名シーンも目白押し。五代くんが一条さんに、「見ててください、俺の、変身!」って、あんたは狼少女ジェーンを演じる北島マヤか! じゃ、一条さんが速水さん……? ほかにも、五代くんの肩にもたれて朝を迎えた一条さんが、「一生の不覚だ……」とつぶやいたり、二人で仲良く早朝から皇居のお堀沿いをジョギングしたりと、もはやなにかを試されているとしか思えないラブラブぶり。私はツッコミ疲れました。クウガは最後に伝説を塗り替えるのだが、この番組自体がすでにオタクな世界で伝説と化しているのも、深くうなずける。』

というあたりは、いかにも「三浦しをん好み」だなあと納得しましたが、ご指摘のとおり、このエッセイの後半は、かなり真面 目な「仮面ライダー」論でございましたね。しかし、古くからのファンとして言わせていただきますと、三浦しをんの、

『 石森章太郎の作品の根底にあるのは、善と悪に明確な境界などない、ということだ。「正義」とは周囲の状況によって定義されるものであり、正義のためにふるった拳も、やはり暴力には違いないのだ、ということだと思う。石森章太郎の心の底に、常に反戦と平和への思いがあったことは、彼の作品から一貫して伝わってくる。
 仮面ライダーも、最初は悪によって生みだされた存在だった。眼前の敵と自分が、実は同質なものである、という認めがたい現実。それに苦悩しながら戦わなければならないのが、「仮面 ライダー」の宿命なのだ。』

という指摘には、やはり物足りなさを感じざるをえません。

石ノ森章太郎の根底に『善と悪に明確な境界などない』とか『反戦と平和への想い』とかがあったのは間違いのないところでございましょう。しかし、より重要なことは、石ノ森が描き続けてのは「それでも戦わねばならない戦士の孤独」だということでございます。つまり、「理屈」や「理想」だけでは済まされない部分を、彼らはひきうけて戦い続けた、という部分なのでございますね。――そして、この発想は「軍隊必要論(戦争不可避論)」にも接近した「危険な思想」でもあるのでございます。





( 以下は「されどわが友(5)」につづく)


されどわが友(3) 投稿者:園主  投稿日:11月26日(金)18時37分43秒


多くの国民が、保険制度の対象とならず、そのために十分な医療を受けられないという事態は、決して遠い未来の話でもなければ絵空事でもございません。現に今のアメリカがそうで、,以前にご紹介いたしました『窒息するオフィス 仕事に脅迫されるアメリカ人』(ジル・A・フレイザ−、岩波書店)には、国家による保険制度が無いために、多くのアメリカ国民が、まともな医療を受けられないでいる現状が、生々しく報告されておりました。

もともとアメリカは「自由」の国でございますから、国家が強制加入を求めるかたちの保険制度はございませんでした。しかし、それを補うかたちで各企業の社員に対する医療保障制度が充実していたのでございます。しかし、前記『窒息するオフィス』をもとに論じた拙論 お伽話の崩壊 ―― 砕かれた平等社会の夢想でもご紹介いたしましたとおり、アメリカが深刻な不況に見舞われると、各企業は生き残りをかけた、非人間的な経営方針を選ぶところとなり、社員を使い捨て扱いにする過程で、医療保険制度もどんどんと切り詰めていき、その結果 、実質的に医療保障がうけられない層が急増したのでございます。ですから、先の大統領選挙でブッシュの対立候補になったケリーは、医療保険の充実を選挙公約のひとつとして挙げていたのでございます(ちなみにブッシュを支持した「キリスト教保守派」は、そのほとんどがWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)であり、アメリカでは富裕層に属する者が多いということを忘れてはなりません。彼らには医療など問題ではなく、重要なのは堕胎や同性愛などの宗教問題だったのでございます)。

つまり、アメリカとは違い、これまでの日本は、国家による手厚い医療保障制度によって、金持ちも貧乏人もさほど差別 のない医療環境が保証されていたのでございます。しかし、現政府(小泉内閣)は医療保障制度を縮小することで、国家の財源を確保しようとしております。つまり、貧乏人を切り捨てることにより、「強い国」になろうというのでございます。
もちろん、このような政策が実現していけば、アメリカのように、高度な教育や高度な医療をうける特権を得るために「志願兵」になろうとする若者も出てくることでございましょう。生まれたときから、ニ極分化によって地位 を固定された貧乏人が、そこから這い上がるには「それ(国家に命を捧げる)しかない」という今のアメリカのような状況が、この日本でも現出するのでございます。

ともあれ、日本はここでもアメリカの忠実な後追いをしており、そのなかで、金持ちには無用の「医療保険制度」を手放そうとしているのでございます。
無論これまでも、癌の特効薬と呼ばれるようなものは「保険」の対象外であったために、貧乏人には欲しくても手のでないものでございました。しかし、今後はそのような特殊なものにかぎらず、これまで当たり前に享受していた予防接種や診察や検査や投薬なども、驚くような「実費」を請求されるようになるのでございます。当然、稼ぎのない独居老人などが病気になれば「死ぬ しかない」というのが、今の政府の押し進める「混合診療」などの医療政策なのでございます。





( 以下は「されどわが友(4)」につづく)


されどわが友(2) 投稿者:園主  投稿日:11月26日(金)18時36分57秒


前記ポスターと同じデザインのちらしがございましたので、これを見てみると、裏面 には次のような説明がございました。


『      大阪府地域医療推進協議会は、
       「混合診療」を認めません。

      混合診療にはこんな問題点があります。
 ●「混合医療」が解禁されると、自己負担しなければならない医療費が
  増えてしまいます。
 ●自己負担できる範囲内でしか、医療を受けられなくなり、「命の沙汰
  も金しだい」になりかねません。
 ●いつでも、どこでも、だれでも、安心して受診できる国民皆保険制度
  が崩壊します。

         政府は健康保険による診察を縮小し、
     患者の自己負担による自由診療を拡大しようとしています。

 つまり、「混合医療」を認めることは、不公平な医療を受け入れることになります。

      政府が「混合医療」の導入を急ぐ理由。
 なぜ政府は、いろいろ問題の多い「混合医療」を導入しようとしているのでしょうか。
ひとつは、国の経済負担を少しでも軽減したいから。そしてもうひとつは、国民の自己負担で
     医療を受けさせて、国の責務を少なくしようと考えているからです。
         政府は、国民の生命や健康を守る責任を放棄して、
      大幅な医療費負担増の痛みを国民に押しつけようとしています。

        わたしたちは、サイフの中身に関係なく
    すべての国民が平等に医療を受けられる社会を求めています。   』


つまり政府が進めている政策とは、一言でいえば「貧乏人の面倒はみない(=貧乏人は国民ではない)」ということ。言い換えれば「金持ち(=本当の国民)の意にそう政策をおし進める」ということなのでございます。

『国民の生命や健康を守る責任を放棄』するとはどういうことかと言えば、それは「政府は国家にたいして責任を負うのであって、国民ひとり一人に対して責任を負うものではない。したがって、自己責任のとれない国民は、自己責任において苦労すればいい。政府は、国益という国家の全体益しか考慮しない。自分のことは自分で面 倒みてくれ」ということなのでございます。





( 以下は「されどわが友(3)」につづく)


されどわが友(1) 投稿者:園主  投稿日:11月26日(金)18時35分55秒

みなさま、先日、風邪だか花粉症だかのせいで喉の調子がおかしくなりましたので、こじらせる前にとかかりつけの医院へ行きましたところ、待ち合い室の壁に『混合診療反対』と書かれた赤いポスターが貼られておりました。『混合診療』とは何だろうと思い、よく見てみると、そこにはつぎのようなことが書かれておりました。


『    お金がなければ十分な医療が受けられません。
        それが、「混合診療」の解禁です。

   「自由診療」と「保険診療」を併用する混合診療が解禁されると、
     自由診療の医療費は全額負担しなければなりません。
      お金の有無で治療に差が出るのは困ります。

          大阪府地域医療推進協議会           』


私はこれを読んで、すっかり合点がいきました。「ああ、いよいよ日本でも、貧乏人は医療を受けられなくなるのか」と。要するにこれは、先日来ご報告しております、政府・経済界の主導による「新自由主義」政策の一環であり、金持ちと貧乏人のニ極分化を押し進める政策のひとつなのでございます。つまり「金持ちが貧乏人のために、余計に税金を払うのはゴメンだ。教育が、能力のある者と無い者で較差をつけていく方向にあるように、医療においても支払い能力の有無を自己責任において問い、較差をつけるべきだ」という意思の政策的反映なのでございます。

これまで「一億総中流」幻想に酔っていた日本人は、生活保護をうけて生きる人たちを「自分たちの足を引っ張る存在」だとみなしがちでございました。なぜなら、そうした人々の中には、単に自己の怠惰から定職につかず、その結果 として生活保護をうけていたような人もいたからでございます。しかし、社会保障というものは、何もそういう人を助けるために存在したのではございません。本当に困っている人(弱者)を助けるという政策目的実現の過程で、やむを得ずそういう例外も紛れ込まさざるをえなかった、というに過ぎないのでございます。
しかし、これからの時代は、日本をリードする一部特権階級が、その成功者としての自負にまかせて、大半の普通 の国民を「自分たちの足を引っ張る存在」だとみなし、その立場に応じた処遇を与えようとする時代になってきたのでございます。つまり「庶民は、高度な教育など受けなくてもいい。私らの指導の下に、素直に国家に貢献する国民(=働き蜂)であればいいのだ。もちろん、稼ぎも無いくせに高度な医療を受けようなどというのは、思い違いもいいところだ。貧乏人は麦を食っていれば、身にそわぬ 贅沢病にもならないんだ」と斯様な理屈のとおる時代が到来しつつあるのでございます。





( 以下は「されどわが友(2)」につづく)


不思議な少年(下) 投稿者:ホランド  投稿日:11月23日(火)23時12分55秒


 Keenさま

> 小説家&エッセイストの三浦しをんが、ネットで毎週書いてる読書エッセイ「しをんのしおり」で、今週はなんと、『仮面 ライダークウガ』がとりあげられました!(^0^*

> NHKの『新撰組!』でオダギリジョーに入れ込んで、とのことですが、作品の本質に踏み込むなかなか深い内容となっておりますので、特撮ファンの方は、ぜひご覧下さいませ。
> 私も、クウガは今でも大好きですよぉ〜♪(^0^*
> あのエンディングテーマは、もしカラオケに参加する機会があったら歌いたいけど、入ってるんだろうか?

 しをんさんのエッセイ読みましたよ。あんなラストだなんて知らなかったので、がぜん興味が湧いてきました。最近、評判のかんばしくない「平成仮面 ライダー」だけど、ひとまず『クウガ』『アギト』『龍騎』までは面白いという評判も聞きますから、機会があればぜひ見てみたいと思います。ただ全49話というのは、なかなかきつい数字ですけどね(^-^;)。

 ちなみに『クウガ』のエンディングテーマ『青空になる』(作詞・藤林聖子/作・編曲・佐橋俊彦/唄・橋本仁)なら、普通 はカラオケに入っていると思いますよ。園主さまはいつも「平成ウルトラマン」を歌われますけど、エンディングまでありますからね。Keenさまの 『青空になる』、いつかぜひお聞かせ願いたいと思います。

 あっ、そうそう。しをんさんの前記エッセイ「時流に反していまさらへんしーん!」の結びの部分は、

『 いまなら私、クウガの変身ポーズを披露できる。だが問題は、「見ててください、私の、変身!」とやっても、「頼むからいい年してアホな真似はやめて!」と石を投げてくる友だちしかいないことだ。一条さんが常に見守っていてくれた五代くんとは、そこが違う。
 もう〜、だれかクウガごっこにつきあってくれよ! クウガは愛がない状態で変身すると、憎しみの心にとらわれて邪悪な戦士になっちゃうんだぞ!』

となってますが、これに対する園主さまの感想が、

 「私が見守ってやろう。宗方仁(『エースをねらえ!』)のような愛で・・・」

とのことでした。――はたして、しをんさんは正義の戦士に変身できるのでしょうか?(^-^;)


> それにしても、『ヴァンパイヤー戦争』の武内さん描くキキは、「絶世の美女にして人気歌手」というよりも、モー娘。的アイドルのようですねえ〜。(賢ちゃん、ゴメン☆)

 なるほど。わかりやすい比喩ですね。
 ――でも、「笠井潔とモーニング娘。」では、やっぱり食い合わせが悪すぎますよねえー(笑)。



 アーニャ

 笠井潔さんが流行に敏感なのは、「文の商人」として当然のことなのかも知れないけど、このところ、がぜん注目を浴びはじめているのが、ライトノベル。とうとう『このミス』の編集部が『このライトノベルがすごい! 2005』(宝島社)を出してしまった。

 立ち読みでぱらぱらめくっただけでも、いろんな意味で、思わず「おお!」とか「ううむ」などと声を発してしまいそうなイラストがいっぱい。――ちなみにボクが気に入ったのは「こぬ りちゃん」(P37)。

 でも、やっぱり、これらライトノベルの世界と笠井潔の世界は、数億光年も隔てられているという印象は否めなかったなあー。もちろん、ライトノベルの世界も幅広いし、ボクはイラストからうけた印象だけで言ってるんだけど。

 アーニャもいちど見てご覧よ。人間の世界もなかなか多様だよ、ホント。



 園主さま
 デイヴィッド・リンチの『エレファントマン』のニュープリント上映、大阪では20日からじゃなかったんですね。もうすこしで無駄 足を踏むところでした。日程がはっきりしたら、また声をかけてくださいね。

 ところで、お借りした『デイヴィッド・リンチの映像空間 LINCH』(エスクゥアイヤ マガジン ジャパン)を見てて気づいたんですが、園主さまのお好きな『ロスト・ハイウエイ』にはマリリン・マンソンが登場していたんですね。
 以前、園主さまは、リンチの『ツイン・ピークス』とマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』をアメリカの鬼双子だと評しておられましたが、ボクがマンソンの存在を意識したのは『ボウリング・フォー・コロンバイン』が最初でした。やっぱり、この2作には、本質的に似たところがあって、その結節点のひとつがマリリン・マンソンなんでしょうね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


不思議な少年(中) 投稿者:ホランド  投稿日:11月23日(火)23時11分33秒


 古田さま

 はじめまして、ボクたちの「花園」へようこそおいでくださいました!

> 公を二種類に分けると、法によって統治する「上からの公」と、我々がまさに今生きる「下からの公」になります。
> (確か、赤坂憲雄の著作にあったような気がします)

 赤坂憲雄さんと言えば、日本の中央集権的視線から距離をおく、東北的さらには東アジア的な視点の重要性を訴えられている民俗学者ですよね。中央権力に同化したものの見方ではなく、それを相対化する視点をもつことの重要さ。それは「公」というものを「上からの公=中央集権的視点による公」だと思い込みがちな人たちに、「下から公」というもうひとつの視点を示す姿勢と、そのまま重なるものだと思います。

 でも、こうした立場はなかなか孤独なものです。なぜなら、たいていの人は、特に日本人は、支配権力と同化することによって、つまり「寄らば大樹の陰」的な発想で、安心を得ようとする依存性がとても強いからです。その典型的な事例が、イラク人質事件での、日本政府に同化した、人質たちにたいする「自己責任」バッシング事件でした。

 だから、そういう日本にあって、「外部の視線」を保持しようとする者は、「異端者」として排除されがちで、赤坂さんがそのことを、網野善彦の死にあたって、中沢新一と語りあったのが『網野善彦を継ぐ。』(講談社)でした(2004年7月23日「抗う者たち」5〜6)。

 この『網野善彦を継ぐ。』のなかで紹介されている中沢新一の長編エッセイが、加筆されて今月『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)として刊行されました。この本の冒頭には、リルケの次のような詩が引用されています。


   記念の石は建てないほうがいい ただ年毎に
   薔薇の花を彼のために咲かせるがいい
   なぜならそれはオルフォイス あれやこれのなかで
 
   私たちは苦しんで求めることはない 歌うものがあるとき
   それは必ずオルフォイスだ 彼は来て行く
   時たま彼が二三日 薔薇の花より生き永らえるとき
   それはもう大したことではなかろうか?

                『リルケ詩集』富士川英郎・訳/新潮文庫


 園主さまは、古田さまにある種の「焦り」を見、それを危惧するからこそ、余計なお世話と承知で、大学院への進学を進められたんだと思います。そういう園主さま自身、昨今の情勢への焦りやいら立ちは隠せないんですが、でも、そういう時だからこそ、そういう今を突き放す視線をもってみるのも悪くないと思うんです。

 ボクは、このリルケの詩を読んで、今日読んだばかりの『不思議な少年』(山下和美・講談社)を連想せずにはいられませんでした。
 「上からの公」「中央集権の視線」に抗い「アジールの側」に立ち続けた網野善彦を継ぐ者の一人として、古田さまには『僕の叔父さん 網野善彦』や『不思議な少年』を読んでいただきたいと思います。それらはきっと、これからさき生きていく上での励ましにもなれば力にもなる視線を与えてくれると思いますよ。





( 以下は「不思議な少年(下)」につづく)


不思議な少年(上) 投稿者:ホランド  投稿日:11月23日(火)23時10分28秒

 みなさん、こんばんは! 山下和美さんの『不思議な少年』第3巻(講談社)が刊行されました。この巻に収録されているのは、第8話末次家の三人、第9話リチャード・ウイルソン卿とグラハム・ベッカー、第10話二人のレディー・エッシャーの3作です。
 末次家の三人では当たり前の生活の貴重さを、二人のレディー・エッシャーは本当の意味で誇り高い生き方を選び続けた貴族の女性を描いて、いかにも山下和美らしい好編となっていました。でも、ボクがいちばん心揺さぶられたのはリチャード・ウイルソン卿とグラハム・ベッカーでした。
 ネタばれになるといけないので、あまり詳しくは書けないんですが、この話はある種の本格ミステリ似た、長い長い前振りのあとにショッキングなラストが待ち受けている作品です。そして、このラストは一般 的な意味では、すごく残酷なものだと言えるでしょう。でも、そこは山下和美。明暗が鮮やかに反転するこのラストにおいて、もうひとつの構図を反転させます。それは「勝者と敗者」「強者と弱者」という構図です。
 不思議な少年は、最後にこう独白します。

『ウイルソン、僕は見ていたよ。あなたが自分自身を、乗り越えようとしていたところを』





 楽古堂さま

> 腱鞘炎について

 早く良くなるといいんですけど、・・・でも、ホントの強さとは、むしろ得意なものが封じられたとき、逆境におかれたときにこそ、発揮されるのもなのでしょう。だから、書けない今こそ、ご自身を見定め鍛える時なのかも知れません。たいへんだとは思いますけど、「人生に無駄 はない。無駄にするかしないかだけだ」というホランドの箴言(笑)を胸にがんばってくださいね(^-^)。





( 以下は「不思議な少年(中)」につづく)


新たなクウガファン誕生 投稿者:Keen  投稿日:11月22日(月)10時06分42秒

小説家&エッセイストの三浦しをんが、ネットで毎週書いてる読書エッセイ「しをんのしおり」で、今週はなんと、『仮面 ライダークウガ』がとりあげられました!(^0^*

NHKの『新撰組!』でオダギリジョーに入れ込んで、とのことですが、作品の本質に踏み込むなかなか深い内容となっておりますので、特撮ファンの方は、ぜひご覧下さいませ。
私も、クウガは今でも大好きですよぉ〜♪(^0^*
あのエンディングテーマは、もしカラオケに参加する機会があったら歌いたいけど、入ってるんだろうか?

それにしても、『ヴァンパイヤー戦争』の武内さん描くキキは、「絶世の美女にして人気歌手」というよりも、モー娘。的アイドルのようですねえ〜。(賢ちゃん、ゴメン☆)


アーニャ、ナイスアシスト! 投稿者:ホランド  投稿日:11月21日(日)22時34分31秒


 みなさま、レスはまた今度。(^-^)/



アシスト 投稿者:アーニャ  投稿日:11月21日(日)22時06分18秒

アリョーシャったら、せっかく笠井さんの文庫の宣伝(?)するんなら、画像もご紹介すればいいのに。
というわけで、ご存知ない皆さまは、↓をクリックして下さいませ。

『ヴァンパイヤー戦争(5)』

『ヴァンパイヤー戦争(4)』

あ、それとも、わざとわからないようにして興味を持たせ、書店で確認したならば「ついでに買っとこうかな……」という効果 を期待したんだったりして?
ごめんあそばせ。

それと、この間書いた「チェ・ゲバラの旗」のことだけど、昨日リーグ初優勝を決めた浦和レッズのサポーターが振ってたの。それで思ったんだけど、確か、チェ・ゲバラのシンボルカラーは赤(血)だったわよね?レッズもグランパスもチームカラーが赤だから、「色つながり」かもしれないわ。どっちみち、大した理由ではないけれど。

にゃあ〜♪


幾多の戦い(下) 投稿者:園主  投稿日:11月21日(日)18時45分12秒


 古田さま

> 「道化師の祈り」について

今回のご文章を読ませていただいて、前回の『労働の問題』という記述のわかりにくかった理由が、わかったように存じます。端的に申しますと、古田さまの文章は、観念的すぎる、と言うよりも、観念的な言葉に振り回されているのだと存じます。つまり、ご自身、そうした観念をしっかり咀嚼吸収していないため、他人に伝わるように語れていない、ということなのでございましょう。

もちろん、これは古田さまのご年齢からすれば致し方のないことで、特に恥じるべきことではないのでございますが、ただ観念的な言葉にふりまわされる人は、その行動まで観念的になって、地に足のついていない可能性が高いのでございます。じっさい、

> 最近、私が交流をもった人にもそういう面があり、それを指摘するべきか、
> いや私にその資格があるのか、そもそも議論に応じるような人ではない、
> そんなことを考え、結果として私は「道化」の役割を演じることになり、
> 「鏡」となって、その人の権力欲と刺し違えようとしたのですが、成功し
> たかどうかはわかりません。

というご行動が、実効的なものではなく、下手をすると「意味」偏重の独りよがりなものになっているのではないか――そんな危惧を、この御文は抱かせるのでございます。

「労働」の問題についても、たぶん貴方さまのご意見は、観念の域をまったく出ないものと拝察いたします。もちろん、学生の身でございますからこれも当然なのでございますが、問題は「労働」の現場は、決して貴方さまが考えるようなものではない、ということなのでございます。

たとえば、「労働には重要な公共性が存するが、今はそれが失われている」というような議論は、確かに正しいし、議論として必要なものでございましょう。しかし、そうした議論をしているのは、大学の先生か、学生か、私のようなわりあい暇な社会人に限られ、深夜へとへとになるまで働いている労働者は、目の前の仕事をこなすのに精一杯で、自身の労働の公共性など、とても配意している余裕などない、というのが労働の最前線なのでございますよ。

ですから、『大学院に進む予定でしたが、急遽就職先を探すことにし、現在苦戦中です。』とのお話ですが、私としては、大学院へ行く経済的余裕があるのであれば、大学院へ進まれることをお薦めしたいと存じます。若者ゆえの性急さで労働の現場に身を投じたとしても、そこでは、何かをつかむ前に、その濁流に呑み込まれてしまう可能性が、今は特に大きいのでございます。

ですから、むやみに飛び込むのではなく、3年だけでも構いませんから、労働の現場から距離をおいたところで、もっと世間の現実を学び、将来の戦いに備えるべきだと思うのでございます。

私も性急な性格ゆえ、若い頃は漫画家かアニメーターになりたいと思い、それが適わないと判明すると、「大学なんか行っても、遊ぶだけで時間と金の無駄 だから、さっさと働こう」と考えて就職を選びました。しかし、今となってみれば、無駄 のように見える大学4年間のモラトリアム期間も、あながち無駄というわけではないのではないか、すくなくとも後で取り返しはつかないのだから、あの時、無駄 に時間を費やす経験もしておけばよかった、と少し後悔したのでございます。

ですから、まだまだ若さゆえの生硬さや性急さの感じられる貴方さまには、焦らないで、もう少しじっくりと考える時間をとっていただいた方が良いように思えるのでございます。

「花園」を覗いていただいているのであれば、ここが硬軟とり混ぜているというのがお分かりいただけましょう。これは私の「凝り固まらない」「専門バカにならない」「複眼的思考」という基本姿勢を示すものなのでございます。つまり、「真面 目」は必要だが「真面目だけ」ではダメだ。「無知」ではいけないが「博識だけ」でもダメだ。「情熱」は必要だが「情熱だけ」ではダメだ――といったこと。つまり、相反する二つの性格を自分のなかにあわせ持ち、双方がお互いの暴走を牽制することで、バランスの取れた適切な選択をしていくことが大切だ、ということなのでございます。

そうした観点からすると、貴方さまの文章に感じられるのは、そういう「二枚腰」を欠いた、脆い「一本調子」なのでございます。ですから、そう焦らないで、大学院への進学も「負けないための戦略」として再検討されてはいかがでしょうか? 労働の現場に出てからでは「もう引き返せない」ということも、往々にしてあるのでございますよ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


幾多の戦い(上) 投稿者:園主  投稿日:11月21日(日)18時44分29秒

みなさま、ひさしぶりに「笠井潔情報」でございます。今月の講談社文庫には、笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争』第5巻が含まれておりますが、この表紙がまたナカナカノモノなのでございます(笑)。

ご承知のとおり、『月姫』によって同人ゲーム界に一大旋風を巻き起こし、ゲーム会社へと発展した「TYPE−MOON」(奈須きのこ、武内崇)の人気にあやかり、今回の講談社文庫版では「表紙だけは、ライトノベルズ」のノリで売り出している笠井潔の旧作『ヴァンパイヤー戦争』でございますが、今月の第5巻の表紙は、かなりすごい。――はっきり申しまして、この表紙を見て本書を手に取りたくなるのは「伝奇小説ファン」ではなく、「巫女さん萌え」の若者たちでございましょう(笑)。

私は、初版の角川ノベルス版の刊行が終了した後に、この版で『ヴァンパイヤー戦争』を読んだ、相対的に古い読者でございまして、すでに細かなところはほとんど忘れているのでございますが、しかし、たしか――金髪碧眼の外人さんであり絶世の美女にして人気歌手、また不死身のヴァンパイヤーでもある「キキ」ことラミア・ヴィンダウが、巫女さんのコスプレ、もとい、巫女さんの扮装をするシーンなどあったのでございましょうか? いや、たぶんあったのでございましょうね。それにしても、武内の描くキキは「隣の優しいお姉さん」風だし、この表紙で笠井潔の本だなんて、ほとんど……。

もともと私は、子供と中年男性を描くのがうまい絵描き(杉野昭夫・安彦良和など)が好きでしたので、青少年男女が得意らしい武内崇の絵柄にはあまり魅力を感じないのでございますが、最近の若者の好みにマッチしているらしい今風の絵柄だとは言え、『ヴァンパイヤー戦争』第4巻の表紙の、主人公九鬼鴻三郎のアップは、どうにもいただけませんでした。「男性キャラの顔」に厳しい私にとどまらず、可愛らしい(萌えられる)美少女の絵を期待しているのであろう武内ファンにも、九鬼がピンで登場する第4巻の表紙は、お世辞にも魅力的とは感じられなかったのではないでしょうか。そこで、前第4巻のフォローとして、第5巻ではキキの巫女さんコスプレ……というわけでもなかったのでしょうが、そんな風に見えてしまうのでございます(笑)。

また第5巻のキャラクター紹介の口絵では、「鮫島秀一」のキャラクターデザインに、思わず笑ってしまいました。ニヒルな二枚目風の顔なのに、身体は三頭身で、しかもお腹が出ている。どう見ても、わざと三頭身に誇張した、ギャグキャラクターでございます。
しかし、武内が冗談でこんなキャラクターデザインをしたとは思えませんので、(私はまったく「鮫島秀一」を記憶していないのでございますが)たぶん、このような「こびとキャラ」が登場していたのでございましょう。それにしても、なまじ絵柄が可愛いために、ギャグキャラにしか見えないというのは、やはり武内の弱点だとは申せましょうね。

ま、とにかく、講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』第5巻を、ぜひ書店で手にとってお確かめ下さいまし。


なお、ついでに申し上げておきますと、この講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』は、装丁を「TYPE−MOON」が全面 的に請け負っておりますので、絵は武内崇として、明記されていない帯文の方も、奈須きのこが担当している可能性が高うございます。で、九鬼鴻三郎のアップが表紙を飾る、第4巻の帯文はつぎのとおり。

  『 幾多の死、新たな敵。
    不死身の肉体ももった戦士。
    未曾有の破壊力を持つ生物兵器。
    九鬼鴻三郎はもっとも危険な罠に飛び込んだ!
    壮大なる神話、ますます熱く激しく。     』

私には「いかにも奈須きのこらしい文章」だと思えるのですが、いかがでございましょう?
しかし、ここで注目すべきは、『幾多の死』という表現でございます。拙論空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』のなかで、私は、奈須きのこの『幾多もの』という言葉づかいが間違いである旨指摘いたしましたが、もしこの帯文の書き手が奈須きのこであるとすれば、奈須きのこがその間違いに気づいたということを、この帯文は示しているのではないでしょうか。





( 以下は「幾多の戦い(下)」につづく)


「道化師の祈り」について 投稿者:古田  投稿日:11月21日(日)02時25分13秒

>園主さま

芸術を通して平和を訴える人は数多くいます。彼らは横暴な権力を厳しく
批判するのですが、彼らの中に、公的権力の代わりに私的権力を振るう欲
望を見ることが多いのです。
最近、私が交流をもった人にもそういう面があり、それを指摘するべきか、
いや私にその資格があるのか、そもそも議論に応じるような人ではない、
そんなことを考え、結果として私は「道化」の役割を演じることになり、
「鏡」となって、その人の権力欲と刺し違えようとしたのですが、成功し
たかどうかはわかりません。

労働は日々の糧を得るためという意味で日常的なものですが、多くの労働
の実態は公共性を失っているように見えるのです。この労働者の立場から
何らかの行動を起こすことで、新しい「道化」のかたちを見出せるのでは
ないかと思っています。
私は大学院に進む予定でしたが、急遽就職先を探すことにし、現在苦戦中
です。この花園で発言することにしたのは、自分の将来を見定めたいとい
う思いからかも知れません。

どうにも曖昧な物言いになってしまいます。なにか「祈り」になりうるよ
うな、真摯とした思いが私の中にあればよいのですが。
園主さまをはじめ、花園の方々と言葉を交わすことで、そういう「思い」
を育てていきたいと思っています。
これから、よろしくお願いいたします。



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